目次

あ行
か行
さ行
た行
な行
は行
ま行
や行
らわ行
凡例・参考資料


Sheet 1: あ行

秋鹿朝正 天正8年 生。長四郎。長兵衛。一時浅井を称す
あいかともまさ
弥太郎直朝の次男
寛政譜15・233
母は浅井六之助道忠の女


妻は長田喜兵衛吉政の女


浅井六之助道多の養子となる


養父道多に実子が生まれ家に戻る

慶長元年 秀忠に拝謁。秀忠に仕える。小姓

慶長14年 父直朝の遺跡を継ぐ。200石

元和5年 代官(遠江国中泉)。遠江国船明山榑木のことを奉行

(寛永12年1月21日) (遠州御代官) ●「日記」

明暦2年6月8日 死す
青木重兼 慶長11年 生。源五。甲斐守。瑞山
あおきしげかね
民部少輔一重の養子。青木次郎右衛門可直の長男
寛政譜11・107
母は関右京亮の女


室は酒井備後守忠利の養女酒井志摩守忠季の女

慶長15年 はじめて家康に拝謁

元和5年 伯父一重の養子となり封を継ぐ。摂津国麻田1万石

寛永3年8月19日 従五位下・甲斐守

寛文12年12月9日 致仕。瑞山と号す

天和2年9月14日
青木重成 寛永2年 生。内膳。民部。甲斐守。はじめ朝倉を称す
あおきしげなり
甲斐守重兼の養子。徳川忠長家臣朝倉越後守宣親の長男
寛政譜11・107
母は酒井讃岐守忠勝の女
寛政譜11・126
室は甲斐守重兼の女

寛永9年 祖父宣正改易のとき外祖父酒井讃岐守忠勝に養われる

寛永17年3月19日 書院番 ●「日記」共

寛永19年12月10日 300俵 ●「日記」共

承応元年6月25日 重兼の養子となりその女を室とする

承応元年6月28日 はじめて家綱に拝謁

寛文12年12月9日 養父重兼の家を継ぐ。摂津国麻田1万石

寛文12年12月28日 従五位下・甲斐守

元禄3年5月18日 大番頭

元禄5年1月11日 留守居

元禄5年3月1日 御側

元禄6年8月15日
青木高頼 永禄7年 生。五左衛門
あおきたかより
美作守安頼の次男
寛政譜11・120
妻は武島大炊助茂幸の女

天正12年~ 浜松にてはじめて家康に拝謁

天正18~19年 650石


秀忠に仕える

元和元年~ 持弓大押役

寛永19年4月15日 死す
青木太郎兵衛

あおきたろうびょうえ
美濃部権兵衛と喧嘩

寛永13年6月5日 権兵衛依為同類是亦寺ニて打捨可仕之旨被仰出 ●「日記」



青木豊信
生。宇右衛門
あおきとよのぶ
勘右衛門豊勝の男
寛政譜3・244 (寛永11年) 父豊勝の遺跡を継ぐ。500石

寛永20年 死す

寛永20年12月7日 五百石青木宇右衛門右相果之事年之物成被下之是相果跡式相続無之―


―依相果年之物成後家ニ被下是七月已後依為死去如御定之也 ●「日記」
青木直影 元和5年 生。九十郎。縫殿助。興石
あおきなおかげ
兄二郎右衛門直澄の養子。次郎右衛門可直の三男
寛政譜11・110
母は関右京亮の女


妻は酒井下総守忠正の女

寛永10年 小姓組。300俵

寛永11年3月15日 依被召出初て御目見 ●「日記」

寛永14年10月17日 閉門

寛永14年10月17日 閉門戸可令逼塞 ●「日記」


ゆるされる

寛永18年4月16日 小姓組

寛永18年4月16日 内田信濃守元組故彼組御番被仰付 ●「日記」

寛永18年12月13日 三百俵新規ニ被下之 ●「日記」

正保元年12月 兄直澄の養子となる


小姓組を辞す。300俵は収公

寛文7年 病により嗣を廃される。摂津国に閑居

延宝7年2月10日 死す
青木直澄 元和2年 生。次郎助。二郎右衛門
あおきなおずみ
次郎右衛門可直の次男
寛政譜11・109
母は関右京亮の女


妻は古田大膳大夫重治の女

元和8年 父可直の遺跡を継ぐ。5000石。寄合

寛永9年9月9日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」では参勤御礼

寛文7年12月15日 致仕

元禄13年9月9日 死す
青木信生
生。清左衛門
あおきのぶなり
尾張守信時の養子。武田家臣落合常陸守信資の男
寛政譜3・239 慶長2年6月10日 家康に拝謁

慶長5年 上田城攻めにて大久保相模守忠隣に属す

慶長9年3月2日 采地を賜る

慶長19年 大坂の役にて本多佐渡守正信に属す

元和元年 大坂の役にて本多佐渡守正信に属す


徳川忠長に付属される

(寛永9年) 処士

寛永18年11月15日 家光に仕える。170石。紅葉山宮宝蔵を守る

寛永18年11月15日 芦田武川衆十八人駿州ニて之本知并御切米如前々被下之 ●「日記」

寛永20年12月18日 170俵

寛永20年12月18日 知行悪所ニ付御切米ニ替被下之 ●「日記」

正保4年 死す
青木信就 天正18年 生。弥七郎。与兵衛。(七郎兵衛)
あおきのぶなり
与兵衛信安の養子。山寺甚左衛門信昌の三男
寛政譜3・238
妻は永田平兵衛の女

慶長11年 徳川義直に仕える


養父信安老衰により辞して甲斐国に至る。徳川忠長に付属される

元和9年 養父信安の遺跡を継ぐ。380石

寛永9年 処士。武蔵国八王子に住す

寛永19年 家光に拝謁。甲斐国武川380石。大番

寛永19年12月10日 武川衆青木七郎兵衛如前々御知行被下之 ●「日記」


大番を辞す。小普請

明暦3年2月5日 死す
青木信久
生。次郎兵衛。小右衛門
あおきのぶひさ
市兵衛正重の男
寛政譜3・245
母は阿倍四郎兵衛重真の女


妻は本間五郎左衛門季重の女

寛永16年6月23日 はじめて家光に拝謁

寛永16年6月23日 青木市兵衛惣領之子共初て御目見 ●「日記」

寛永17年11月 父正重の遺跡を継ぐ。250石

正保3年 大番

承応3年 祖父正定の遺跡を賜る。250石

寛文3年9月14日 死す
青木正定
生。小右衛門
あおきまささだ
主計頭信定の長男
寛政譜3・244
母は桜井安芸守の女


妻は飯室次郎兵衛昌喜の女

~慶長19年 家康に仕える。大番。200石

寛永2年~ 賄頭


勘気を蒙る。采地没収

慶安元年6月3日 ゆるされる

慶安3年 200俵

慶安4年11月4日 200石

承応3年9月6日 死す
青木正重 慶長12年 生。長九郎。市兵衛
あおきまさしげ
小右衛門正定の長男
寛政譜3・244
母は飯室次郎兵衛昌喜の女


妻は阿倍四郎兵衛重真の女

寛永元年 小十人。200俵

寛永2年 250俵

寛永4年 大番

寛永10年2月7日 450石

(寛永16年6月23日) (松平外記植村出羽守組大番衆) ●「日記」

寛永17年5月12日 死す
青木正頼 天正19年 生。新平。又右衛門
あおきまさより
五左衛門高頼の男
寛政譜11・120
母は武島大炊助茂幸の女


秀忠に仕える。書院番

寛永19年12月10日 父高頼の遺跡を継ぐ。650石

寛永19年12月10日 青木五左衛門跡実子又右衛門ニ被下之 ●「日記」

正保2年2月2日 死す
青木之貞
生。五郎兵衛。五郎右衛門
あおきゆきさだ
三右衛門吉玄の男
寛政譜11・111
妻は内藤甚太郎の女

慶長元年 家康に仕える。200俵

元和2年 秀忠に仕える。小十人


納戸番

寛永10年 大番

寛永10年2月7日 400石

(寛永11年3月29日) (五郎兵衛) ●「日記」

寛永11年9月26日 死す
青木之能
生。彦兵衛
あおきゆきよし
五郎右衛門之貞の長男
寛政譜11・111
妻は山田七右衛門直利の女

元和8年 はじめて秀忠に拝謁

寛永元年 小十人

寛永10年6月7日 小十人組組頭 ●「日記」共

寛永11年 父之貞の遺跡を継ぐ。大番。400石

寛永14年9月18日 幕奉行 ●「日記」共

明暦2年9月22日 死す
青木可一 寛永4年 生。主殿助。はじめ酒井を称す
あおきよしかず
甲斐守重兼の養子。酒井讃岐守忠勝の三男
寛政譜11・107
母は松平金弥親能の女

寛永16年7月23日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共


重兼の養子となる

寛永17年8月15日 酒井讃岐守末子青木甲斐守養子ニ仕度之由申上付て是又心次第之旨―


―被仰出之間高木筑後守へ被申渡之 ●「日記」

寛永18年7月18日 家光に拝謁

寛永18年7月18日 青木甲斐守養子主殿助太刀目録を以初て御礼 ●「日記」

正保元年6月26日
青木吉次
生。志摩守
あおきよしつぐ
鷹司家に仕える
地下家伝中・1242 元和10年1月5日 従五位下・志摩守

寛永9年1月5日 従五位上

慶安4年1月5日 正五位下

明暦2年1月5日 従四位下

寛文2年12月14日 従四位上

寛文7年閏2月17日 正四位下

寛文9年9月24日
青木義継 慶長14年 生。虎之助。新五兵衛。(新五左衛門)。遠江守
あおきよしつぐ
太兵衛吉永の次男
寛政譜11・116
母は森内記家臣奥田勘左衛門の女


妻は雀部新六重良の女

寛永元年 大番


200俵

寛永10年2月7日 400石

(寛永19年12月10日) (新五左衛門) ●「日記」

寛永19年12月10日 父吉永の遺跡を継ぐ。510石

寛永19年12月10日 青木太兵衛跡実子惣領新五左衛門但新五左衛門自分之知行―


―四百石ハ上ル ●「日記」

慶安2年 目付

慶安4年8月16日 布衣

慶安4年12月27日 510石300俵

承応3年11月29日 禁裏付。後西天皇に付属される。1510石300俵

明暦元年4月12日 従五位下・遠江守

寛文10年10月28日 務めを辞す

寛文11年2月18日 作事奉行

天和2年2月27日 作事奉行を辞す。寄合

天和3年12月21日 致仕。300俵

元禄7年12月8日 死す
青木吉永 元亀元年 生。太兵衛
あおきよしなが
伊豆義勝の次男
寛政譜11・115
母は青木筑後守貞景の女


妻は森内記家臣奥田勘左衛門の女

天正6年 家康に仕える


近江国甲賀郡200石。近江国に住す

~寛永2年 大番

寛永10年2月7日 400石


510石

寛永18年2月29日 死す
青木義頼 元和8年 生。牛之助
あおきよしより
又右衛門正頼の男
寛政譜11・120
妻は青木小右衛門正定の女

寛永15年1月15日 書院番 ●「日記」共

正保2年12月19日 父正頼の遺跡を継ぐ。650石

明暦3年11月10日 死す
青沼午之助

あおぬまうまのすけ 寛永13年12月6日 初て御目見 ●「日記」






青沼正成 天正18年 生。友右衛門
あおぬままさなり
左近昌長の男
寛政譜3・145
妻は小沢瀬兵衛忠重の女

慶長11年 秀忠に仕える


大番。350石

寛永10年2月7日 550石

寛永16年9月26日 大番組頭

寛永16年9月26日 保科弾正組之組頭 ●「日記」

承応元年12月22日 550石200俵

万治元年閏12月8日 大番組頭を辞す

寛文8年8月23日 致仕

寛文9年1月29日 死す
青柳信次 慶長9年 生。勘兵衛
あおやぎのぶつぐ
内匠信正の長男
寛政譜18・233
母は志村又左衛門貞盈の女


妻は岩出佐五右衛門一信の女

(寛永3年) 父信正の遺跡を継ぐ。70石。勘定


納戸番

正保元年12月16日 納戸番組頭 ●「日記」共

慶安4年9月29日 徳川綱重に付属される。納戸頭


留守居


70石400俵

天和3年6月18日 死す
青柳道孝
生。卯之助。庄介。勘右衛門
あおやぎみちたか
勘兵衛信次の長男
寛政譜18・233
母は岩出佐五右衛門一信の女

正保元年11月10日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保2年6月25日 書院番

正保4年12月20日 300俵

慶安3年9月3日 西丸に勤仕

慶安4年9月29日 父信次が徳川綱重に付属されて別家となる

慶安4年 小姓組

貞享4年2月14日 死す
青山作之丞
生。作之丞
あおやまさくのじょう
善助正成の三男
寛政譜12・104 正保元年11月6日 初て御目見 ●「日記」






青山重勝 慶長5年 生。源十郎。源右衛門
あおやましげかつ
善四郎重長の養子。小林又六郎重次の長男
寛政譜12・105
妻は青山善左衛門正長の次女

慶長17年3月3日 小姓

元和元年12月 徳川忠長に付属される。小姓組の頭

寛永9年 井上河内守正利に召し預けられる

寛永13年12月10日 赦免 ●「日記」共

寛永15年12月23日 小姓組。300俵

寛永15年12月23日 駿河衆青山源右衛門御小姓組御番可仕之 ●「日記」

承応3年11月22日 死す
青山重長 天正6年 生。善四郎
あおやましげなが
善左衛門正長の男
寛政譜12・104
母は大久保助左衛門忠益の女

天正12年 はじめて家康に拝謁

天正13年 秀忠に付属される

天正16年 小姓

慶長3年 使番

慶長6年 徒頭。使番


500石

慶長12年 父正長の遺跡を継ぐ。2500石

慶長12年 持筒頭。使番

元和元年12月 改易。蟄居

(元和7年) 家光に仕える。2000石

寛永8年2月15日 使番

寛永16年11月4日 死す
青山利政 慶長8年 生。新九郎
あおやまとしまさ
従兄善四郎重長の養子。青山善助正成の次男
寛政譜12・105
妻は青山善左衛門正長の三女

寛永13年3月15日 はじめて家光に拝謁

寛永13年3月15日 青山善四郎子樽代を以御礼 ●「日記」

寛永13年8月9日 小姓組 ●「日記」共

寛永16年12月 父養父重長の遺跡を継ぐ。1000石

寛永18年4月28日 青山善四郎子新九郎太刀目録を以次目之御礼申上之 ●「日記」

慶安3年7月9日 死す
青山八幡
駿河国
あおやまはちまん




青山宗俊 慶長9年 生。伊勢千代。藤五郎。因幡守
あおやまむねとし
伯耆守忠俊の長男
寛政譜12・88
母は大久保治右衛門忠佐の女

慶長13年11月 家光の着袴儀の長袴を賜り登営して御前に出て謝す

元和3年 秀忠・家光に拝謁

元和7年5月27日 従五位下・因幡守

元和9年 父忠俊に連座して相模国溝郷に屏居


父忠俊とともに遠江国小林村に移住

寛永9年 赦免。なお相模国今泉村に住す

寛永11年1月29日 今度御上洛御供望之衆達御耳供奉可仕 ●「日記」

寛永15年12月1日 書院番頭。3000石 ●「日記」共

正保元年5月23日 大番頭

正保元年5月23日 大御番頭大久保右京亮元組 ●「日記」

慶安元年閏1月19日 信濃国小諸城3万石。1万5000石を預かる

寛文2年3月29日 大坂城代。5万石

寛文9年12月26日 従四位下

延宝6年6月17日 大坂城代を辞す

延宝6年8月18日 遠江国浜松城5万石

延宝6年12月25日 営中にて杖をゆるされる

延宝7年2月15日
青山幸高 寛永9年 生。松之助。藤蔵。宗閑
あおやまゆきたか
大蔵少輔幸成の四男
寛政譜12・101
母は福永氏


妻は天方主馬倶通の女

寛永18年8月9日 はじめて家光に拝謁。家綱に付属される。小姓

寛永18年8月9日 若君様為御奉公人今日御目見 ●「日記」

(寛永18年9月2日) (若君様御小姓衆) ●「日記」

寛永20年6月7日 兄大膳亮幸利より分知。1000石

正保元年2月15日 亡父遺跡被下之御礼 ●「日記」

慶安3年9月4日 小姓組

貞享3年8月6日 相模国走水奉行

貞享3年12月26日 布衣

元禄7年7月9日 逼塞

元禄7年12月11日 ゆるされる

元禄9年2月21日 相模国走水奉行が廃止される。寄合

元禄14年7月5日 致仕。300俵。宗閑と号す

宝永3年9月14日 死す
青山幸利 元和2年 生。石之助。大膳亮
あおやまゆきとし
大蔵少輔幸成の長男
寛政譜12・94
母は福永氏


室は加藤式部少輔明成の長女


(はじめ秋田河内守俊季の女を娶るか) ●「日記」

寛永10年4月28日 以御菓子御目見(初見か) ●「日記」

寛永10年7月3日 秋田河内守俊季の女と縁組 ●「日記」

寛永10年12月29日 従五位下・大膳亮

寛永10年12月29日 諸大夫 ●「日記」

(寛永11年1月29日) (大膳亮の初出) ●「日記」

(寛永12年6月16日) (寄合) ●「日記」

寛永12年8月6日 嫁娶被仰付之 ●「日記」

寛永20年3月26日 父幸成の遺領を継ぐ。摂津国尼崎城5万石

寛永20年3月26日 青山大蔵少輔遺跡如前々無相違惣領大膳亮被下之 ●「日記」

寛永20年6月7日 弟3人に分知。摂津国尼崎城4万8000石

寛永20年9月27日 火消 ●「日記」

正保元年5月4日 火消之役人之内就交替御暇被下面々依有之今日改被仰付之二番 ●「日記」

正保元年7月1日 火之番一番 ●「日記」

明暦3年1月22日 交代で府内巡視

万治2年2月21日 奏者番

寛文8年10月21日 奏者番を辞す

貞享元年8月2日
青山幸成 天正14年 生。石之助。藤蔵。雅楽助。大蔵少輔
あおやまゆきなり
播磨守忠成の四男
寛政譜12・93
母は天方山城守通興の女


室は小笠原左衛門佐信之の女

慶長4年 秀忠の御前にて元服

慶長6年 近侍・配膳役

慶長7年 500石

慶長9年5月 勘気を蒙る

慶長9年12月 赦される

慶長10年4月16日 従五位下・雅楽助

慶長10年7月3日 大蔵少輔

慶長17年12月21日 1500石

慶長18年 3000石

慶長19年5月 勘気を蒙る

元和元年3月 赦される


百人組頭

元和5年 1万3000石

元和5年 書院番頭・小姓組番頭・小十人頭。評定に列する

元和9年 1万6000石

寛永5年10月 奉書に加判

寛永10年2月3日 遠江国掛川城2万6000石 ●「日記」共

寛永11年9月 遠江国掛川城3万3000石

寛永12年7月28日 摂津国尼崎城5万石 ●「日記」共

寛永19年9月1日 毎歳八月交替午年在江戸 ●「日記」

寛永20年2月16日 卒 ●「日記」共
青山幸正 元和6年 生。猿松。内記。藤兵衛。藤右衛門。信濃守
あおやまゆきまさ
大蔵少輔幸成の三男
寛政譜12・99
母は福永氏


妻は大炊御門左大臣経孝の女

寛永18年2月7日 書院番 ●「日記」共

寛永18年4月16日 御書院番 ●「日記」

寛永20年6月7日 兄大膳亮幸利より分知。2000石

(正保元年2月15日) (藤右衛門の初出) ●「日記」藤兵衛見られず

正保元年2月15日 亡父遺跡被下之御礼 ●「日記」

慶安3年12月15日 書院番組頭

慶安4年8月16日 布衣

寛文元年4月12日 新番頭

寛文11年1月26日 小姓組番頭

寛文11年12月28日 従五位下・信濃守

延宝7年12月29日 2000石1000俵

天和2年4月21日 3000石1000俵

貞享2年11月16日 小姓組番頭を辞す。寄合

貞享3年2月11日 死す
青山幸通 元和5年 生。左近。喜右衛門。丹後守
あおやまゆきみち
大蔵少輔幸成の次男
寛政譜12・97
母は福永氏


妻は桜井松平淡路守忠直の女


後妻は杉原伯耆守長房の女


また後妻は伊丹播磨守勝長の女

(寛永13年3月15日) (青山左近罷下御目見) ●「日記」

寛永20年6月7日 兄大膳亮幸利より分知。3000石

正保元年2月15日 亡父遺跡被下之御礼 ●「日記」

正保2年 家綱に付属される。小姓


中奥に伺候

慶安4年8月16日 従五位下・丹後守

明暦2年7月9日 小姓組番頭

万治元年6月21日 書院番頭

延宝4年10月2日 死す
赤井公雄 慶長元年 生。清吉。六兵衛
あかいきんお
市郎兵衛忠家の次男
寛政譜4・321
母は成吉新左衛門の女


妻は長谷川讃岐正吉の女

慶長10年 兄兵庫頭忠泰の采地を賜る。1000石

慶長10年 はじめて家康に拝謁

慶長14年 駿府にて家康に仕える

(元和2年) 書院番

寛永10年2月7日 1200石


書院番を辞す。小普請

寛文4年12月27日 致仕

寛文9年7月26日 死す
赤井公久 元和8年 生。庄之助
あかいきんひさ
六兵衛公雄の養子。川勝太郎兵衛重氏の次男
寛政譜4・321
母は赤井市郎兵衛忠家の次女

寛永13年8月25日 はじめて家光に拝謁

寛永13年8月25日 赤井六兵衛子共初て御礼 ●「日記」

寛永18年4月16日 書院番 ●「日記」共

寛永20年12月18日 三百俵 ●「日記」

慶安2年7月11日 死す
赤井忠泰 天正10年 生。清吉。五郎作。豊後守。兵庫頭
あかいただやす
市郎兵衛忠家の長男
寛政譜4・316
母は成吉新左衛門の女


妻は三好丹後守の女

文禄4年 はじめて家康に拝謁

慶長3年 小姓

慶長7年 1000石

慶長8年 従五位下・豊後守

慶長10年 父忠家の遺跡を継ぐ。2000石

元和3年~寛永10年 使番

明暦元年5月12日 死す
赤井恒宅 慶長10年 生。五郎。五郎作
あかいつねいえ
兵庫頭忠泰の長男
寛政譜4・316
母は三好丹後守の女


妻は牧野清兵衛正成の女

慶長15年 はじめて家康に拝謁

元和9年 書院番

寛永2年 300俵

寛永9年11月5日 書院番・進物役

寛永9年11月5日 本番御免。進物番 ●「日記」

寛永10年2月7日 500石

慶安3年9月3日 西丸に勤仕

明暦元年 父忠泰の遺跡を継ぐ。1700石

寛文11年3月14日 死す
赤井時香 元和4年 生。宮松。五平次
あかいときか
太郎左衛門時長の長男
寛政譜4・332
母は山本小左衛門の女


妻は石川弥左衛門繁明の女

寛永7年6月5日 はじめて家光に拝謁

寛永13年11月24日 父時長の遺跡を継ぐ。1200石

寛永13年11月24日 赤井太郎左衛門千弐百石子五平次跡目被仰付之 ●「日記」

寛永13年12月21日 跡目之面々(御目見) ●「日記」


大番

万治2年5月10日 大番組頭

延宝8年2月25日 大番組頭を辞す。小普請

元禄3年6月13日 死す
赤井時重 元和8年 生。三作丸。弥平兵衛
あかいときしげ
祖父弥平兵衛時直の養子。赤井太郎左衛門時長の次男
寛政譜4・338
母は山本小左衛門の女


妻は武藤清助安信の女

寛永13年 養父時直の遺跡を継ぐ。500石

寛永13年2月6日 はじめて家光に拝謁

寛永13年2月6日 跡目之御礼 ●「日記」

寛永17年3月19日 小姓組 ●「日記」共


小姓組を辞す。小普請

延宝3年8月 書院番

延宝4年9月16日 死す
赤井時直 永禄2年 生。弥平兵衛。はじめ蘆田を称す
あかいときなお
越前守時家の六男
寛政譜4・332
妻は足利家臣酒井庄左衛門行吉の女


赤井市郎兵衛忠家に仕える

天正 処士

天正12年 長久手の役にて家康に味方する


家康に拝謁

~慶長5年 家康に仕える。500石

慶長6年 1500石

元和元年~ 養子太郎左衛門時長に分知。1000石


致仕。500石

(寛永9年9月28日) (赤井弥平兵衛) ●「日記」

寛永11年8月15日 死す
赤井時長 天正5年 生。太郎左衛門
あかいときなが
弥平兵衛時直の養子。赤井刑部少輔幸家の六男
寛政譜4・332
母は桐村修理大夫の女


妻は山本小左衛門の女

元和元年~寛永2年 養父時直より分知。500石


養父時直の家を継ぐ。1000石


秀忠に仕える。大番

寛永10年2月7日 1200石

寛永13年8月1日 死す
赤井弥兵衛
生。弥兵衛
あかいやひょうえ
喜四郎時勝の次男
寛政譜4・324 (寛永18年12月29日) (小十人衆) ●「日記」






赤座安右衛門

あかざやすえもん


寛永18年4月14日 火之番御役被仰付之御歩行より新規ニ出之 ●「日記」






県五郎作

あがたごろさく
石工か

寛永18年10月25日 県五郎作石屋又蔵ニ金子弐万両被下之其上又蔵義は御扶持人被仰付之―


―是日光石之御宝塔請取入精之早速令首尾付て御褒美也云々 ●「日記」

寛永19年4月17日 石屋又蔵五郎助ニ御知行弐百宛新規ニ被下之 ●「日記」



明子女王
誕生。明子。妙吉祥院
あきこじょおう
高松宮好仁親王の長女(実は松平新太郎池田光政の女?)
本朝皇胤紹運録
母は秀忠の養女松平三河守忠直の長女亀姫寧子宝珠院
(群書系図部集1・100) (寛永10年10月) (高松殿姫君誕生) ●「日記」11日条
詰所系図
後西天皇の御休所となる
(系図綜覧上・81) 承応3年6月7日 誠子内親王を産む

明暦元年5月14日 長仁親王を産む

(明暦2年) 後西天皇の即位ののち女御となる。明子と称す

延宝8年7月8日 薨去
昭子内親王 寛永2年9月13日 誕生。女二宮。内親王。光明心院宮
あきこないしんのう
後水尾天皇の第三皇女
本朝皇胤紹運録
母は秀忠の五女和子東福門院
(群書系図部集1・102) 寛永13年12月9日 女二宮様御祝言付て今井小兵衛御加恩被下 ●「日記」
詰所系図 寛永13年12月23日 近衛関白尚嗣に嫁ぐ
(系図綜覧上・35) 寛永14年12月8日 内親王

慶安4年5月15日 薨去
顕子内親王 寛永6年8月27日 誕生。女三宮。内親王。岩倉御所。妙荘厳院宮
あきこないしんのう
後水尾天皇の第四皇女
本朝皇胤紹運録
母は秀忠の五女和子東福門院
(群書系図部集1・102) 延宝3年閏4月26日 薨去
詰所系図

(系図綜覧上・35)




秋田季信 慶長11年 生。大蔵。隼人正
あきたすえのぶ
城介実季の三男
寛政譜10・340
母は細川右京大夫信良の女


妻は金森甲斐守の女

慶長17年 家光に仕える


小姓。500石

元和9年7月 従五位下・隼人正

寛永2年8月 書院番

寛永9年11月5日 書院番・進物役

寛永9年11月5日 本番御免。進物番 ●「日記」

正保4年10月14日 小姓組組頭

慶安4年9月4日 死す
秋田俊季 慶長3年 生。安東太郎。伊豆守。河内守
あきたとしすえ
秋田城介実季の長男
寛政譜10・334
母は細川右京大夫信良の女


室は松平伊豆守信吉の女

元和元年4月26日 従五位下・伊豆守

元和5年4月2日 河内守

寛永8年 常陸国宍戸城5万石

正保2年7月10日 陸奥国三春城5万5000石

慶安2年1月3日
秋田俊季娘


秋田河内守俊季の女 ●「日記」

寛永10年7月3日 青山大膳亮幸利と縁組 ●「日記」






秋田盛季 元和6年 生。久松。左近。安房守
あきたもりすえ
河内守俊季の長男
寛政譜10・335
母は松平伊豆守信吉の女


室は安藤右京進重長の次女

寛永15年11月7日 縁辺組安藤右京亮娘秋田左近 ●「日記」

寛永18年12月30日 従五位下・安房守

寛永18年12月30日 諸大夫 ●「日記」

慶安2年5月14日 父俊季の遺領を継ぐ。陸奥国三春城5万石

延宝4年1月13日
秋月種春 慶長15年 生。黒帽子。三郎。長門守
あきづきたねはる
長門守種長の養子。采女種貞の長男
寛政譜18・168
母は長門守種長の女


室は佐久間大膳亮勝之の女


祖父種長の嗣となる

慶長18年12月9日 はじめて家康に拝謁

慶長19年 祖父種長の遺領を継ぐ。日向国財部(高鍋)城3万石

寛永3年8月19日 従五位下・長門守

寛永20年9月27日 火消 ●「日記」

万治2年10月15日
秋元忠朝 元和4年 生。右馬允。隼人。隼人正
あきもとただとも
但馬守泰朝の次男
寛政譜15・194
母は大河内金兵衛秀綱の女


妻は松平伊豆守信綱の女

寛永12年9月3日 御傍に近侍

寛永12年9月3日 於御奥御奉公可仕 ●「日記」

寛永15年12月30日 従五位下・隼人正

寛永15年12月30日 諸大夫 ●「日記」

(寛永17年4月10日) (隼人正の初出か) ●「日記」

寛永17年4月10日 1000石 ●「日記」共

正保元年4月26日 4000石。御側に准ぜられる

正保元年4月26日 四千石 ●「日記」

慶安3年9月28日 死す
秋元富朝 慶長15年 生。長丸。掃部。越中守
あきもととみとも
但馬守泰朝の長男
寛政譜15・190
母は大河内金兵衛秀綱の女


室は有馬左衛門佐直純の女

慶長19年 はじめて家康に拝謁

(寛永10年5月10日) (越中守) ●「日記」

寛永10年7月2日 縁辺組 ●「日記」

寛永11年12月30日 従五位下

寛永19年12月14日 父泰朝の遺領を継ぐ。甲斐国郡内城代。甲斐国谷村城1万8000石

寛永19年12月14日 去頃秋元但馬守依死去嫡男越中守忌明登城跡職無相違被仰付之間―


―可存其旨之由老中被伝之 ●「日記」

明暦3年6月17日
秋元泰朝 天正8年 生。牛坊。孫七郎。茂兵衛。但馬守
あきもとやすとも
越中守長朝の男
寛政譜15・189
室は大河内金兵衛秀綱の女

文禄元年 はじめて家康に拝謁

慶長7年 500石

慶長8年2月13日 従五位下・但馬守


家康の近習出頭人

(慶長19年) 5000石

元和3年 秀忠に仕える。小姓組番頭

元和8年 父長朝の封を継ぐ。上野国惣社1万5000石。小姓組番頭をゆるされる

寛永10年2月3日 甲斐国郡内城代。甲斐国谷村城1万8000石

寛永10年2月3日 甲斐国郡内城代。1万8000石 ●「日記」

寛永10年2月28日 御番外之衆組ニ付御奉公 ●「日記」

寛永11年1月29日 火事之砌至火本罷越万事可申付 ●「日記」

寛永15年11月9日 板倉内膳正元組寄合之衆松平右衛門大夫秋元但馬守組中え―


―分之被為付之 ●「日記」

寛永19年9月1日 毎歳於江戸越年未年在江戸半年替 ●「日記」

寛永19年10月23日
秋山方頼
生。十郎左衛門。残夕
あきやまかたより
修理亮正重の三男
寛政譜4・87
母は福嶋左衛門大夫家臣柴田源左衛門勝成の女


妻は伊勢十大夫貞政の女

寛永12年12月28日 はじめて家光に拝謁

寛永12年12月28日 秋山修理亮末子二人初て御目見 ●「日記」

万治2年 小姓組


300俵


小姓組を辞す。小普請


大番

天和2年7月9日 大番組頭

天和2年12月23日 500俵

元禄2年閏1月23日 大番組頭を辞す

元禄10年7月26日 500石

元禄13年12月5日 致仕。残夕と号す

宝永3年4月5日 死す
秋山源太郎
源太左衛門勝貞か?寛政譜4・96
あきやまげんたろう (寛永13年2月23日) (小十人) ●「日記」

寛永13年2月23日 御納戸衆 ●「日記」



秋山朝正
生。七郎兵衛
あきやまともまさ
伊兵衛正勝の長男
寛政譜4・93 寛永13年9月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永13年12月27日 大番 ●「日記」共


以下不詳
秋山正家 寛永4年 生。大学。源左衛門
あきやままさいえ
修理亮正重の次男
寛政譜4・86
母は福嶋左衛門大夫家臣柴田源左衛門勝成の女

寛永10年12月28日 はじめて家光に拝謁

寛永18年10月18日 小姓。膳番

(寛永19年12月10日) (御小姓衆) ●「日記」

寛永19年12月10日 400俵 ●「日記」共

明暦2年5月4日 中奥に伺候

寛文9年12月27日 小十人頭。700俵

天和元年12月5日 死す
秋山正勝(伊兵衛) 天正12年 生。伊兵衛
あきやままさかつ
内蔵助正重の次男
寛政譜4・93
妻は葉山刑部丞久綱の女

慶長12年9月 秀忠に仕える。大番

元和元年 大坂の役にて高木主水正正次に属す

元和9年 大番組頭


徳川忠長に付属される

寛永9年 家光に仕える

寛永12年 300石

(寛永13年9月28日) (大番か) ●「日記」

寛文9年1月20日 死す
秋山正勝(十兵衛)
生。十兵衛
あきやままさかつ
修理亮正重の四男
寛政譜4・83 寛永12年12月28日 はじめて家光に拝謁

寛永12年12月28日 秋山修理亮末子二人初て御目見 ●「日記」

寛永18年10月3日 家綱に付属される

寛永18年10月3日 (名前のみの記載) ●「日記」


小姓

慶安3年9月4日 書院番。300俵

天和元年5月23日 二丸留守居

天和2年4月21日 600俵


600石

貞享元年11月26日 船手

貞享元年12月28日 布衣

元禄9年7月21日 600俵

元禄10年2月28日 留守居番

元禄11年4月4日 同僚佐々喜三郎成澄と刃傷に及び互いに死す
秋山正重 天正14年 生。十右衛門。修理亮
あきやままさしげ
平左衛門昌秀の次男
寛政譜4・83
妻は福嶋左衛門大夫家臣柴田源左衛門勝成の女

~慶長19年 秀忠に仕える。書院番

元和4年 目付。1000石

元和9年 父昌秀の遺跡を継ぐ。2000石

寛永4年12月 従五位下・修理亮

寛永9年9月2日 五の字の指物 ●「日記」

寛永9年10月3日 4000石

寛永9年10月3日 2000石加増 ●「日記」

寛永9年12月17日 大目付

寛永9年12月17日 惣御目付 ●「日記」

寛永10年6月6日 諸中御用被下無由断可令言上 ●「日記」

寛永17年10月3日 死す
秋山正俊 元和9年 生。十右衛門。修理亮
あきやままさとし
修理亮正重の長男
寛政譜4・83
母は福嶋左衛門大夫家臣柴田源左衛門勝成の女


妻は松浦壱岐守隆信の女


後妻は津田平左衛門正重の女

寛永9年11月1日 はじめて家光に拝謁

寛永17年11月29日 父正重の遺跡を継ぐ。4000石

寛永17年12月15日 秋山十右衛門亡父遺跡被仰付之付以太刀目録御目見 ●「日記」

明暦元年4月11日 甲府城を守衛

万治元年9月8日 定火消

万治元年閏12月28日 布衣

延宝元年1月23日 持弓頭

天和元年10月19日 百人組頭

天和2年4月21日 4700石

天和3年2月2日 大目付

天和3年12月4日 従五位下・修理亮

貞享2年7月23日 閉門。小普請

貞享3年5月8日 ゆるされる

元禄4年12月29日 死す
秋山昌吉
生。弥左衛門
あきやままさよし
平左衛門昌秀の長男
寛政譜4・88
家康・秀忠に仕える。大番


300俵

~(寛永15年) 馬預

(寛永15年9月10日) (奥州え御馬調被遣之) ●「日記」

寛文3年3月 死す
浅井権之介

あさいごんのすけ


寛永13年12月27日 大御番被仰付之 ●「日記」



浅井成正
生。猪右衛門
あさいしげまさ
八右衛門忠政の次男
寛政譜10・75
家光に仕える。小十人。100俵。月俸10口

寛永19年12月16日 200俵

寛永19年12月16日 御加恩百俵被下之日来御切米共ニ弐百俵被仰付 ●「日記」


納戸番

万治3年3月18日 納戸組頭

寛文元年12月12日 300俵

天和2年4月22日 400俵

貞享元年3月14日 納戸組頭を辞す。小普請

貞享3年7月15日 死す
浅井庄三郎
七平元久か
あさいしょうざぶろう


寛永14年11月26日 屋敷被下之 ●「日記」



浅井忠能 寛永6年 生。伝八郎
あさいただのり
次右衛門忠保の男
寛政譜10・73
母は久野氏


妻は稲垣清右衛門正代の女

寛永16年6月23日 はじめて家光に拝謁

寛永16年6月23日 浅井次右衛門惣領之子共初て御目見 ●「日記」

正保元年6月16日 大番

寛文4年12月10日 父忠保の遺跡を継ぐ。450石

寛文10年10月9日 450俵

寛文11年1月27日 大坂鉄炮奉行。550俵

元禄10年7月26日 550石

元禄13年10月12日 大坂鉄炮奉行を辞す。小普請

宝永2年7月30日 致仕

宝永4年5月28日 死す
浅井忠保 慶長7年 生。半四郎。次右衛門
あさいただやす
八右衛門忠政の長男
寛政譜10・73
妻は久野氏

元和2年1月 はじめて秀忠に拝謁

元和3年1月 小姓組

寛永元年1月 大番

寛永元年 父忠政の遺跡を継ぐ。200俵

寛永4年12月 250俵

寛永10年2月7日 450石

(寛永16年6月23日) (松平外記植村出羽守組大番衆) ●「日記」

正保3年2月14日 金奉行

寛文4年7月21日 死す
浅井政尹 寛永2年 生。権十郎。はじめ小堀を称す
あさいまさただ
小堀遠江守政一の三男
寛政譜16・112
妻は蒔田玄蕃頭定正の女

寛永20年8月14日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保2年6月25日 小姓組

正保4年8月21日 父政一の遺領分知。1000石

寛文8年~ 小姓組を辞す。小普請

元禄7年8月4日 死す
浅井元成 永禄9年 生。半兵衛
あさいもとなり
九郎左衛門元近の次男
寛政譜12・159
妻は筧勘右衛門重成の女


家康に仕える。采地を賜る


青山播磨守忠成に属す。百人組与力

~慶長19年 青山伯耆守忠俊に属す

寛永2年2月 青山大蔵大輔幸成の同心100人を付属される。500石

寛永11年1月15日 死す
浅井元久 慶長16年 生。蔵人。(庄三郎)。七平
あさいもとひさ
七平元吉の次男
寛政譜12・158 (元和8年) 父元吉の遺跡分知。540石余

寛永2年 秀忠に仕える

寛永12年6月 小姓組

(寛永14年11月26日) (浅井庄三郎屋敷被下之) ●「日記」

寛文3年9月22日 死す
浅井元正 慶長12年 生。七平。掃部
あさいもとまさ
七平元吉の長男
寛政譜12・158
秀忠に仕える

(元和8年) 父元吉の遺跡を継ぐ。1010石

寛永11年8月13日 死す。断絶

寛永12年11月11日 吉良若狭守浅井七平屋敷被下 ●「日記」
浅井安本 (文禄4年) 生。次右衛門。太郎右衛門
あさいやすもと
平右衛門忠次の養子(もしくはその長男平右衛門元忠の養子)
寛政譜15・217
三嶋清左衛門政次の次男


妻は大久保勘兵衛正忠の女

元和5年 家光に仕える。小十人


200俵

寛永19年8月18日 蔵奉行

寛永19年8月18日 浅草方御蔵奉行 ●「日記」

正保3年11月24日 縄竹奉行

承応元年9月 縄竹奉行を辞す。小普請

寛文2年6月29日 死す
朝夷義春
生。市平。はじめ朝比奈を称す
あさいよしはる
朝比奈市平義次の男
寛政譜9・66
家光に仕える。大番。200俵

寛永10年2月7日 400石

寛永18年12月30日 腰物奉行 ●「日記」共


腰物奉行を辞す。小普請

延宝6年 死す
朝岡勝宗 慶長11年 生。八大夫
あさおかかつむね
久兵衛泰勝の三男
寛政譜12・62
母は北条家臣笠原越前信為の女


妻は大久保右馬允忠拠の女

元和3年 家光に仕える。小姓組

(寛永16年8月12日) (御本丸焼跡火消之為御奉行大御番より浅岡八大夫被仰付) ●「日記」


大番組頭

正保4年10月14日 相模国走水奉行

正保4年12月30日 布衣

慶安元年3月13日 相模国三浦三崎等の代官を兼ねる

明暦元年6月21日 死す
朝岡国孝 元和3年 生。権三郎。出羽守
あさおかくにたか
権左衛門勝国の長男
寛政譜12・57
母は紀伊家臣山田八右衛門の女


妻は阿部対馬守重次の養女阿部家臣三浦左近義勝の女


後妻は阿部対馬守重次の養女堀市正利重の女

寛永5年 はじめて秀忠に拝謁


小姓

寛永7年 祖父久兵衛泰勝の遺跡を継ぐ。(1300石)

寛永9年7月7日 中奥小姓

寛永9年7月7日 中奥にて可被召遣 ●「日記」

寛永11年1月13日 (1300石)200俵

寛永11年1月13日 弐百俵御加恩 ●「日記」

(寛永17年2月10日) (出羽守の初出) ●「日記」

寛永19年8月18日 従五位下・出羽守

慶安3年6月6日 死す
朝岡国政
生。七兵衛
あさおかくにまさ
権左衛門勝国の次男
寛政譜12・59
母は紀伊家臣山田八右衛門の女

寛永17年2月10日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永18年4月16日 小姓組 ●「日記」共

寛永20年12月18日 300俵 ●「日記」共

慶安元年5月21日 小姓組。進物役


小姓組を辞す。小普請

宝永3年5月25日 死す
朝岡三郎左衛門

あさおかさぶろうざえもん


(寛永19年5月22日) (江戸御蔵衆) ●「日記」

寛永19年5月22日 菅沼織部正え御預 ●「日記」

(寛永19年7月8日) (浅草御蔵奉行) ●「日記」

寛永19年7月8日 斬罪 ●「日記」
朝岡山三郎

あさおかさんさぶろう
三郎左衛門の男

寛永19年5月29日 山口但馬守え浅岡三郎右衛門子山三郎御預 ●「日記」

寛永19年7月8日 切腹 ●「日記」
朝岡理左衛門

あさおかりざえもん
三郎左衛門の男

寛永19年5月29日 堀大学え浅岡三郎右衛門子理左衛門御預 ●「日記」

寛永19年7月8日 切腹 ●「日記」
浅尾五之介

あさおごのすけ
丹羽左京大夫光重に仕える

(寛永17年3月15日) (丹羽左京証人) ●「日記」



朝倉在重 天正11年 生。仁左衛門。石見守
あさくらありしげ
六兵衛在重の次男
寛政譜11・129
母は末高石見正長の女


妻は牧野右馬允家臣牧野五郎兵衛の女

元和元年 秀忠に仕える。書院番


膳番

寛永2年7月27日 目付。500石


布衣

寛永7年4月 使番。1000石

寛永10年12月26日 2000石

寛永10年12月26日 御加恩千石 ●「日記」

寛永16年7月18日 町奉行 ●「日記」共

寛永18年1月2日 従五位下・石見守

寛永18年1月2日 諸大夫 ●「日記」

(寛永18年3月15日) (石見守の初出) ●「日記」

慶安3年11月19日 死す
朝倉左門

あさくらさもん


寛永13年8月9日 御小姓組御番被仰付之 ●「日記」



朝倉重興
生。新十郎
あさくらしげおき
石見守在重の次男
寛政譜11・132
母は牧野右馬允家臣牧野五郎兵衛の女


妻は井出甚五左衛門正陳の女


15歳にてはじめて家光に拝謁

寛永10年 小姓組。200俵

慶安3年9月3日 西丸に勤仕

慶安3年12月11日 兄重宣の采地を賜る。200石

慶安4年6月14日 本丸に勤仕

万治3年12月26日 200石100俵

延宝5年9月15日 死す
朝倉重利 寛永11年 生。数馬。八郎右衛門
あさくらしげとし
石見守在重の三男
寛政譜11・133
母は牧野右馬允家臣牧野五郎兵衛の女

寛永18年10月3日 家綱に付属される。小姓

寛永18年10月3日 (名前のみの記載) ●「日記」

慶安3年9月4日 書院番。300俵


書院番を辞す。小普請

万治2年4月26日 死す
朝倉重宣 元和元年 生。三十郎。仁左衛門
あさくらしげのぶ
石見守在重の長男
寛政譜11・130
母は牧野右馬允家臣牧野五郎兵衛の女


妻は八幡の善法寺幸清の女

寛永2年 はじめて秀忠に拝謁

寛永7年 小姓。膳番

寛永9年2月 小姓組

寛永10年2月7日 200石

(寛永18年10月19日) (仁左衛門の初出) ●「日記」

慶安3年12月11日 父在重の遺跡を継ぐ。2000石

明暦元年9月15日 徒頭

明暦元年12月15日 布衣

延宝2年1月15日 留守居番

延宝3年11月21日 留守居番を辞す。小普請

延宝4年10月12日 死す
朝倉新三郎

あさくらしんざぶろう


寛永10年11月30日 朝倉新三郎依死去跡目被仰付 ●「日記」



朝倉新十郎

あさくらしんじゅうろう
徳川頼宣に仕える

(寛永13年12月1日) (紀伊亜相御使者) ●「日記」



朝倉俊勝
生。四郎左衛門
あさくらとしかつ
百人組与力
寛政譜21・6 (寛永20年4月19日) (弐百石) ●「日記」

(寛永20年4月19日) (久世三四郎組) ●「日記」

寛永20年4月19日 只今迠之御番被成御免向後御役可被仰付之間可存其旨之由―


―小十人組御番所之次ニて老中被伝之 ●「日記」


国廻役

(万治元年) 死す
朝倉豊明 慶長14年 生。堅次郎。織部正
あさくらとよあきら
才三郎政明の嗣
寛政譜11・134
松平中納言秀康家臣天方山城守通綱の男


母は朝倉右京進政元の女

慶長18年12月 政明の家を相続。はじめて家康・秀忠・家光に拝謁


家光に仕える

元和6年5月 月俸10口

寛永元年3月3日 小姓組

寛永元年5月3日 近習。手水番

寛永元年6月 300俵

寛永元年11月 1000石

寛永5年12月28日 従五位下・織部正

寛永6年4月 近習。徒頭

寛永15年 近習・徒頭を辞す。小普請

元禄10年9月30日 死す
朝倉宣正 天正元年 生。藤十郎。筑後守
あさくらのぶまさ
六兵衛在重の長男
寛政譜11・125
母は末高石見正長の女


室は土井小左衛門利昌の女

天正18年 秀忠に付属される。200石。大番

慶長5年 軍法違反により処分。上野国吾妻番

~慶長7年 赦免。200石。大番


300石

慶長9年 大番組頭。500石

慶長10年 使番。700石

慶長16年 900石

慶長18年 1900石


和泉国堺政所

~慶長19年 江戸に帰る


2900石

元和3年12月 従五位下・筑後守

元和5年 5900石

元和7年 1万石。徳川忠長に付属される。家老

元和8年 1万6000石

寛永2年 遠江国掛川城2万6000石

寛永8年 酒井阿波守忠行に召し預けられる


ゆるされる

寛永9年 松平下総守忠明に召し預けられる。大和国郡山に蟄居

寛永14年2月6日 死す
朝倉正次
生。孫次郎。八右衛門。越前
あさくらまさつぐ
家光に仕える。徒目付
寛政譜21・5
徒目付組頭


昭子内親王に付属される


以下不詳
朝倉正世 慶長18年 生。主膳。甚十郎
あさくらまさよ
筑後守宣正の次男
寛政譜11・127
母は土井小左衛門利昌の女


妻は多賀左近常長の女

寛永4年 家光に仕える。小姓。500俵

寛永7年 閉門

寛永9年 ゆるされる。書院番

寛永10年2月7日 700石

明暦2年11月5日 書院番組頭

明暦2年11月26日 布衣

明暦2年12月23日 700石300俵

寛文3年2月4日 死す
浅野和泉

あさのいずみ (寛永12年6月14日) (松平安芸守家来) ●「日記」



浅野甲斐守

あさのかいのかみ
松平安芸守浅野光晟の家老



浅野摂津守

あさのせっつのかみ
松平安芸守浅野光晟の家老



浅野綱晟 寛永14年 生。岩松。弾正少弼。弾正大弼。侍従
あさのつなあきら
安芸守光晟の長男
寛政譜5・342
母は家光の養女松平肥前守前田利常の三女自昌院


室は九条左大臣道房の次女


後室は九条左大臣道房の五女

寛永15年1月 うちうちより登営して家光に拝謁

寛永18年1月 営中にて袴着

承応2年12月21日 家綱の御前にて元服。偏諱を賜る。従四位下。弾正少弼

寛文8年12月27日 侍従。弾正大弼

寛文12年4月18日 父光晟の家を継ぐ。安芸国広嶋城37万6500石

延宝元年1月2日
浅野長晟 天正14年 生。岩松。右兵衛佐。但馬守。侍従
あさのながあきら
紀伊守幸長の嗣。弾正少弼長政の次男
寛政譜5・340
母は又右衛門長勝の女


室は家康の息女振姫正清院


幼少より秀吉に近侍

慶長2年 3000石。従五位下・右兵衛佐


家康に仕える

慶長14年 但馬守

慶長15年 備中国2万4000石

慶長18年 兄幸長の遺領を継ぐ。紀伊国和歌山城37万6560石

元和元年7月16日 従四位下

元和2年1月19日 入輿あり

元和3年8月30日 室が逝去

元和5年7月18日 安芸国広嶋城42万6500石

寛永3年8月19日 侍従

寛永9年9月3日 卒 ●「日記」共(11日記事)
浅野長重 天正16年 生。又一郎。長兵衛。采女正
あさのながしげ
弾正少弼長政の三男
寛政譜5・347
母は又右衛門長勝の女


室は松平玄蕃頭家清の女

慶長5年1月 秀忠に近侍

慶長5年 従五位下・采女正

慶長6年 下野国真岡2万石

慶長16年 常陸国真壁5万石

(元和8年) 常陸国笠間城5万3500石

寛永9年9月3日
浅野長直 慶長15年 生。又一郎。内匠頭
あさのながなお
采女正長重の長男
寛政譜5・348
母は松平玄蕃頭家清の女


室は丹羽五郎左衛門長重の女

(寛永8年1月17日) (内匠介) ●「日記」

寛永8年12月3日 従五位下・内匠頭

寛永9年10月29日 父長重の遺領を継ぐ。常陸国笠間城5万3500石

寛永9年11月1日 継目御礼 ●「日記」

(寛永9年11月1日) (内匠頭) ●「日記」

正保2年6月22日 播磨国赤穂城5万3500石

寛文11年3月5日 致仕

寛文12年7月24日
浅野長治 慶長19年 生。又六郎。因幡守
あさのながはる
但馬守長晟の長男
寛政譜5・346
室は采女正長重の女

元和5年 はじめて秀忠に拝謁

寛永7年 従五位下・因幡守

寛永8年6月1日 縁組あり ●「日記」

寛永9年11月1日 継目御礼 ●「日記」

寛永9年11月2日 備後国三次5万石

寛永9年11月2日 5万石 ●「日記」

延宝3年1月19日
浅野隼人

あさのはやと
松平安芸守浅野光晟に仕える

(寛永17年11月9日) (松平安芸守家中証人) ●「日記」



浅野孫左衛門

あさのまござえもん
摂津守の男

(寛永13年9月28日) (松平安芸守家中証人浅野摂津守子孫左衛門御礼申上) ●「日記」



浅野光晟 元和3年 生。岩松。安芸守。侍従。左少将。紀伊守。松平を称す
あさのみつあきら
但馬守長晟の次男
寛政譜5・342
母は家康の息女振姫正清院


室は家光の養女松平肥前守前田利常の三女自昌院

元和3年8月30日 母が逝去

元和9年 はじめて秀忠に拝謁

寛永4年8月26日 家光の御前にて元服。偏諱・松平の称号を賜る。従五位下・安芸守

寛永9年10月29日 父長晟の遺領を継ぐ。安芸国広嶋城42万6500石

寛永9年11月1日 継目御礼 ●「日記」

寛永9年11月2日 安芸国広嶋城37万6500石

寛永9年11月2日 37万石 ●「日記」

寛永11年7月16日 従四位下・侍従

寛永11年7月16日 侍従 ●「日記」

寛永12年7月28日 松平肥前守息女松平安芸守可嫁之旨今日被仰出之 ●「日記」

寛文5年12月27日 少将

寛文12年4月18日 致仕

延宝元年9月18日 紀伊守

元禄6年4月23日
浅羽貞次 慶長11年 生。治大夫
あさばさだつぐ
治大夫貞助の長男
寛政譜4・121
妻は武田家臣鳥居惣右衛門の女


家康・秀忠に仕える。納戸番。200俵

寛永9年6月28日 御目見鳥目百疋進上之 ●「日記」

正保3年9月18日 死す
浅羽貞昌 元和5年 生。次郎九郎。(次郎右衛門)。次大夫。文右衛門。元帰
あさばさだまさ
治大夫貞次の男
寛政譜4・121
母は武田家臣鳥居惣右衛門の女


妻は堀内主水氏久の女

寛永13年12月15日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」

寛永18年6月23日 大番

(寛永19年6月26日) (浅羽次郎右衛門大御番被仰付) ●「日記」

正保元年12月25日 大御番浅羽二郎右衛門新規ニ弐百俵被下之 ●「日記」

(正保3年) 父貞次の遺跡を継ぐ。200俵

寛文2年10月26日 納戸番

寛文6年12月12日 納戸番を辞す。小普請

天和2年12月18日 致仕。元帰と号す

元禄9年6月2日 死す
朝日忠兵衛

あさひちゅうびょうえ


(寛永19年7月8日) (浅草御城米手代) ●「日記」

(寛永19年7月8日) (久保田藤右衛門手代) ●「日記」

寛永19年7月8日 斬罪 ●「日記」
朝比奈宇右衛門

あさひなうえもん


(寛永19年11月14日) (水戸黄門家老) ●「日記」



朝比奈勝行
生。伝九郎。伝右衛門
あさひなかつゆき
助大夫勝政の三男
寛政譜12・260
母は藁科将監の女


妻は松平越前守家臣朝比奈孫右衛門の女

寛永9年9月 家光に仕える。小十人。100俵

寛永19年12月16日 200俵 ●「日記」共

正保2年閏5月2日 家綱に付属される

慶安3年9月4日 小十人組頭

慶安4年11月21日 300俵

延宝元年5月12日 死す
朝比奈九兵衛
生。熊之助。九兵衛
あさひなくひょうえ
源六正重の長男
寛政譜12・277 寛永19年6月20日 小姓組 ●「日記」共

(正保元年12月25日) (九兵衛の初出) ●「日記」

正保元年12月25日 三百俵 ●「日記」

承応2年12月22日 父正重の遺跡を継ぐ。1100石


以下不詳
朝比奈五郎左衛門
寛政譜12・264八右衛門昌清か
あさひなごろうざえもん


寛永19年12月6日 小十人組之内ヨリ御納戸之御役被仰付 ●「日記」






朝比奈真昭 天正15年 生。吉兵衛
あさひなさねあき
彦右衛門真直の次男
寛政譜12・257
母は今川家臣浅井山城守の女


妻は駿河国浅間神職聴守左衛門の女

慶長19年 秀忠に拝謁。秀忠に仕える

元和2年9月15日 徳川忠長に付属される

(寛永9年) 本多因幡守利長に召し預けられる

寛永13年12月10日 赦免。家光に仕える。300石100俵

寛永13年12月10日 御赦免 ●「日記」

寛永16年6月22日 小姓組 ●「日記」共

明暦2年10月21日 死す
朝比奈真辰 元和元年 生。長吉。十兵衛。彦右衛門
あさひなさねとき
彦右衛門真正の長男
寛政譜12・254
母は多門縫殿助信清の女


妻は落合小平次道次の女

寛永7年 家光に仕える。大番


200俵

寛永10年2月7日 400石

寛永20年12月7日 父真正の遺跡を継ぐ。450石 ●「日記」共

万治2年1月7日 仮の石奉行

寛文2年9月5日 石奉行

貞享2年10月10日 死す
朝比奈真正 天正11年 生。伝次郎。彦右衛門
あさひなさねまさ
彦右衛門真直の長男
寛政譜12・254
母は今川家臣浅井山城守の女


妻は多門縫殿助信清の女

慶長5年 家康に仕える

元和元年~ 大番


250石

寛永10年2月7日 450石

寛永19年12月14日 死す
朝比奈資勝 慶長11年 生。加兵衛
あさひなすけかつ
弥左衛門資重の長男
寛政譜12・274
母は加藤茂左衛門正茂の女


妻は大塚氏

寛永13年 はじめて家光に拝謁

寛永13年12月27日 大番 ●「日記」共

慶安元年12月11日 父資重の遺跡を継ぐ。200石


大番を辞す。小普請

寛文7年5月14日 死す
朝比奈正重 天正3年 生。源六
あさひなまさしげ
九兵衛正時の長男
寛政譜12・276 天正10年 はじめて家康に拝謁

天正14年 秀忠に仕える

天正18年 300石


400石

慶長5年 上田城攻めにて使番

慶長6年 800石


1100石

寛永9年7月2日 惣普請奉行 ●「日記」共

寛永9年9月2日 五の字の指物 ●「日記」共

寛永10年12月28日 2100石

寛永10年12月28日 千石御加恩 ●「日記」

寛永16年6月15日 破損之所御城廻可申付奉行被仰付之 ●「日記」

承応2年 死す
朝比奈昌次 元和2年 生。新九郎
あさひなまさつぐ
六左衛門昌行の次男
寛政譜12・264
母は神谷与次右衛門清次の女


妻は小長谷九郎左衛門時苗の女

寛永13年12月27日 大番 ●「日記」共

明暦元年12月20日 父昌行の遺跡を継ぐ。300石

寛文6年8月23日 裏門切手番頭

天和2年10月4日 裏門切手番頭を辞す

天和3年閏5月5日 死す
朝比奈昌久 寛永4年 生。六之助。六右衛門
あさひなまさひさ
八左衛門昌澄の長男
寛政譜12・269
母は塚原次左衛門昌信の女


妻は窪田又六郎正次の女

寛永13年12月6日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永19年6月26日 大番 ●「日記」共

(正保元年12月25日) (六右衛門の初出) ●「日記」

正保元年12月25日 弐百俵 ●「日記」

寛文元年10月12日 新番

寛文2年12月9日 父昌澄の遺跡を継ぐ。500石

寛文10年10月9日 500俵

貞享4年12月 新番を辞す

元禄10年7月26日 500石

元禄12年7月6日 致仕

宝永5年3月21日 死す
朝比奈宗利 永禄6年 生。清三郎。左近
あさひなむねとし
駿河守信置の三男
寛政譜12・250
母は飯尾豊前守乗連の女


妻は岡部次郎右衛門正綱の女


今川家・武田家に属す

天正10年 家康に仕える。400石

~天正12年 大番組頭

寛永10年2月3日 大番組頭を辞す。小普請

寛永10年2月3日 御番御赦免 ●「日記」

正保4年7月7日 死す
朝比奈泰重
生。弥太郎。弥次郎
あさひなやすしげ
紀伊家臣惣左衛門泰勝の養子。青山播磨守忠成の三男
寛政譜9・61
母は天方山城守通興の女


妻は水戸家臣朝比奈兵衛泰雄の女


家康に仕える。1500石


家康上洛のとき家臣を殺害し勘気を蒙る


秀忠にゆるされる。3000石。徒頭


徳川忠長に付属される


死す
朝比奈泰通 元和7年 生。太郎助。弥三郎
あさひなやすみち
弥一郎泰澄の男
寛政譜9・62
母は水戸家臣松平壱岐守正朝の女


妻は曾我丹波守古祐の女

寛永4年 父泰澄の遺跡を継ぐ。1550石

寛永15年1月15日 書院番 ●「日記」共

延宝元年5月7日 死す
朝比奈泰吉 慶長19年 生。久太郎。惣左衛門
あさひなやすよし
惣左衛門泰倫の長男
仮名別諸士系譜7・37 寛永10年 父泰倫の遺跡を継ぐ。3000石。徳川頼宣に仕える。老中

~正保4年 徳川光貞の老中を兼ねる

万治元年5月3日 死す
朝比奈良明 文禄元年 生。勘右衛門。左近。休意
あさひなよしあきら
左近宗利の長男
寛政譜12・251
母は岡部次郎右衛門正綱の女


妻は高室四郎左衛門昌重の女

慶長10年 はじめて家康に拝謁。小姓

寛永2年10月23日 200石の朱印

寛永3年3月11日 小十人頭。500石

寛永5年12月30日 布衣

寛永10年12月27日 1000石

寛永10年12月27日 五百石御加増 ●「日記」

寛永11年5月20日 書院番組頭

寛永11年5月20日 御書院番組頭ニ被仰付之是榊原飛騨守跡也 ●「日記」

(寛永19年4月11日) (本多豊前守組頭) ●「日記」

(正保元年9月1日) (大久保左馬允組頭) ●「日記」

正保4年12月20日 父宗利の遺跡を継ぐ。1400石

慶安元年3月13日 持筒頭

慶安3年9月3日 家綱に付属される。西丸に勤仕


弟三郎兵衛正次に分知。1100石

寛文元年2月26日 持筒頭を辞す

寛文3年11月6日 致仕。300俵

延宝元年5月22日 死す
朝比奈吉続 天正17年 生。久兵衛
あさひなよしつぐ
九兵衛正時の次男
寛政譜12・277
秀忠に仕える。大番。200石

(寛永13年3月25日) (大久保右京亮組) ●「日記」

寛永18年10月19日 死す

(寛永18年12月4日) (保科弾正組) ●「日記」
朝比奈吉豊
生。久蔵。久左衛門。喜助
あさひなよしとよ
久兵衛吉続の長男
寛政譜12・278 寛永13年3月25日 はじめて家光に拝謁

寛永13年3月25日 朝比奈久兵衛子被召出之 ●「日記」

寛永13年3月25日 大久保右京亮組(大番) ●「日記」

寛永13年12月27日 大番 ●「日記」共


(200俵)

(寛永18年12月4日) (久左衛門の初出) ●「日記」

寛永18年12月4日 父吉続の遺跡を継ぐ。200石

寛永18年12月4日 弐百石保科弾正組朝比奈久兵衛跡右惣領久左衛門被下之―


―久左衛門取来御切米弐百俵上ル ●「日記」

慶安元年6月14日 新番

万治2年12月26日 200石50俵

寛文8年 死す
朝日藤松 寛永18年
あさひふじまつ
忠兵衛の男

寛永19年7月8日 朝日忠兵衛子藤松年二(死罪か) ●「日記」



浅山修理

あさやましゅり
細川越中守忠利に仕える

(寛永13年7月17日) (細川越中守使者) ●「日記」



朝山吉信
生。兵部少輔
あさやまよしのぶ
宮内少輔幸綱の男
地下家伝中・1162
「幸綱因参上北面当家相続」

慶長17年8月21日 従五位下。勝部姓を改めて源氏となる

慶長17年8月22日 兵部少輔

元和5年3月1日 従五位上

寛永8年1月6日 正五位下

(寛永9年8月2日) 九条道房に仕える ●「日記」

正保2年2月29日
足利学校
下野国足利。臨済宗五山派
あしかががっこう
(前略)
足利学校200 天正14年 9世閑室元佶

天正19年 10世竜派禅珠

寛永5年 竜派禅珠が退隠。明徹祖徳に譲るも幕府が認めず

明暦元年 11世明徹祖徳

寛文2年 12世沢雲祖兌


(後略)
蘆川公吉
生。甚五兵衛。十休
あしがわきみよし
市兵衛の三男
仮名別諸士系譜7・71 慶長11年2月14日 家康に仕える。200石

~慶長19年 徳川頼宣に付属される

元和5年 1500石。大番頭

寛文8年11月6日 死す
芦川権大夫

あしがわごんだゆう
紀伊家老






蘆名盛俊 寛永8年10月20日 生。千鶴丸。平三郎。主計頭
あしなもりとし
主計頭義勝(盛重)の次男
蘆名家由緒考証
母は安昌院岩世
(会津資料叢書6・38)
室は宇都宮弥三郎友綱の女松寿院

寛永8年 父義勝の遺領を継ぐか。出羽国角館1万6000石。佐竹家臣

寛永20年6月2日 南光坊天海の取り持ちで家光に拝謁


天海の院中にて元服か。平三郎と称す

寛永20年8月14日 進物御礼申上之 ●「日記」

慶安元年4月8日 婚礼

慶安4年6月10日
蘆野資泰
生。藤五郎。民部少輔
あしのすけやす
弥左衛門政泰の男
寛政譜12・136
妻は福原雅楽頭資保の女

慶長16年 父政泰の遺跡を継ぐ。下野国2700石

慶長19年 大坂の役にて本多佐渡守正信に属す

元和元年 大坂の役にて本多佐渡守正信に属す

正保3年8月19日 死す
飛鳥井雅章 慶長16年3月1日 生。侍従。少将。中将。参議。左衛門督。中納言。大納言
あすかいまさあき
兄大納言雅宣の嗣。大納言雅庸の四男
諸家伝上・371
妻は烏丸中納言光賢の女
宮廷公家系図集覧336 慶長17年1月5日 従五位下

元和5年6月10日 元服。従五位上。侍従

元和9年1月5日 正五位下

寛永3年12月19日 左少将

寛永4年1月5日 従四位下

寛永7年1月11日 左中将

寛永8年11月6日 従四位上

寛永12年1月5日 正四位下

寛永16年5月5日 鞠道之儀付て御継目之御判頂戴 ●「日記」

寛永17年1月5日 従三位

寛永20年1月5日 正三位

寛永20年11月7日 参議

正保元年9月27日 左衛門督

正保2年8月11日 参議・左衛門督・左中将を辞す

慶安2年6月28日 権中納言

慶安3年1月5日 従二位

承応元年11月26日 権大納言

承応3年1月5日 正二位

承応3年4月4日 賀茂伝奏

明暦元年1月20日 辞退

明暦元年1月25日 大納言・賀茂伝奏を辞す

寛文元年 武家伝奏

寛文10年9月10日 武家伝奏を免ぜられる

延宝5年閏12月11日 従一位

延宝7年10月12日 薨去
飛鳥井雅宣 天正14年12月6日 生。侍従。少将。中将。参議。左衛門督。中納言。大納言
あすかいまさつら
兄左少将雅賢の嗣。大納言雅庸の次男
諸家伝上・370
断絶していた難波家を相続
諸家伝上・362 慶長5年1月5日 従五位下
宮廷公家系図集覧336 慶長5年12月28日 元服。昇殿。侍従

慶長9年12月27日 従五位上

慶長12年1月11日 左少将

慶長13年1月6日 正五位下

慶長14年7月4日 勅勘

慶長14年11月9日 配流

慶長17年 勅免

慶長18年8月3日 飛鳥井家を相続

慶長19年1月5日 従四位下

元和元年1月11日 左中将

元和4年11月24日 従四位上

元和6年1月5日 正四位下

元和9年1月5日 従三位

寛永3年12月3日 参議

寛永5年1月29日 左衛門督

寛永5年2月10日 正三位

寛永7年1月11日 権中納言

寛永8年11月6日 従二位

寛永15年1月5日 正二位

(寛永15年3月6日) (昵近之衆) ●「日記」

寛永16年閏11月13日 権大納言

寛永17年11月5日 権大納言を辞す

(寛永18年1月28日) (大納言の初出) ●「日記」

寛永18年1月28日 飛鳥井大納言御目見太刀目録縐紗十巻進上之是今度―


―伝奏被仰付之御礼也 ●「日記」

正保元年 武家伝奏

慶安元年2月21日 直衣参内勅許

慶安4年3月16日 従一位

慶安4年3月21日 薨去
按察使 (天正3年以前)
あぜち
土佐国司一条三位中将兼定の女
寛政譜21・72
(高嶋主殿頭兼政に嫁す)


高嶋左近を産むか


女子を産むか。のちの大久保平四郎忠興の妻


崇源院に近侍(大上臈)(500石)


家光に仕える


高嶋又左衛門長親を養子とする。池田備中守長幸の六男


家綱に仕える


高嶋藤大夫兼明を養子とする。大久保平四郎忠興の四男

(寛文9年) 死す
按察使法眼

あぜちほうげん
聖護院門跡道晃法親王の家臣



阿曽沼因幡

あそぬまいなば (寛永12年2月18日) (京極若狭守家老?)松平長門守家老の誤りか ●「日記」



阿曽沼右近

あそぬまうこん
松平長門守毛利秀就の家臣



愛宕山
山城国愛宕山。愛宕大権現
あたごさん




愛宕山威徳院
山城国愛宕山
―いとくいん




愛宕山教学院
山城国愛宕山
―きょうがくいん




愛宕山大善院
山城国愛宕山
―だいぜんいん




愛宕山長床坊
山城国愛宕山。勝地院長床坊か
―ちょうしょうぼう


寛永20年12月28日 後住被仰付御礼 ●「日記」



愛宕山福寿院
山城国愛宕山
―ふくじゅいん




愛宕山明寿院
山城国愛宕山
―みょうじゅいん




足立内蔵介

あだちくらのすけ


(寛永19年8月26日) (酒井讃岐守使者) ●「日記」



足立十三郎

あだちじゅうざぶろう
加藤式部少輔明成に仕える

(寛永17年3月15日) (加藤式部少輔僕従) ●「日記」



渥美源五郎

あつみげんごろう
紀伊家臣



渥美甚太郎

あつみじんたろう 寛永9年8月19日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」



渥美友真 天正元年 生。太郎兵衛
あつみともざね
太郎兵衛友吉の次男
仮名別諸士系譜7・19 慶長2年 父友吉の遺跡を継ぐ。家康に仕える

慶長17年 徳川頼宣に付属される

元和5年~ 1500石。大番頭

寛永17年 隠居

寛永18年2月8日 死す
渥美友重 永禄8年 生。又次郎。久兵衛
あつみともしげ
太郎兵衛友勝の長男
寛政譜15・210
母は鈴木祐念の女


妻は高木筑後広正の女


松平信康に仕える

(天正7年) 家康に仕える

(天正12年) 本願寺新門徒たるにより追放される

天正18年 松平秀康に仕える

(慶長5年) 召し預けられる

慶長12年 処士

慶長19年 松平三河守忠直に仕える

元和9年 松平越後守光長に仕える

寛永9年 越後国高田城代。国務沙汰

正保元年1月18日 渥美九郎兵衛松平越後守へ被下之為御礼登城九郎兵衛親久兵衛―


―越後守家来たるにより為相続之也 ●「日記」

正保2年9月4日 死す
渥美友之
生。太郎八。七郎右衛門。太郎右衛門
あつみともゆき
太郎八友次の男
寛政譜15・213
妻は永井右近大夫直勝の女


後妻は神保五郎兵衛氏長の女

寛永11年 家光に仕える


大番。150俵

寛永20年10月21日 家綱に付属される。三丸に勤仕

寛永20年10月21日 従大御番被召出三丸御番被仰付之 ●「日記」

慶安3年9月4日 大番。西丸に勤仕

(慶安4年) 本丸に勤仕

万治元年6月14日 200俵

万治2年2月11日 蔵奉行

寛文7年2月16日 蔵奉行をゆるされる

寛文9年~ 大番を辞す。小普請

元禄12年9月25日 死す
渥美政勝 天正15年 生。又次郎。九郎兵衛。久兵衛
あつみまさかつ
久兵衛友重の長男
寛政譜15・211
母は高木筑後広正の女


妻は松平越後守光長家臣岡嶋壱岐守の女

慶長 伊達政宗に属す。偏諱を与えられ高木平大夫政勝と称す


安房国の里見家に寓居。高木玄蕃と称す

元和元年 はじめて秀忠に拝謁。大坂の役に供奉


書院番

元和2年9月15日 家光に付属される

寛永3年~ 500石。馬買をうけたまわる


馬預

(寛永9年9月24日) (九郎兵衛) ●「日記」

(寛永12年1月15日) (五郎兵衛) ●「日記」 誤記か

正保元年1月18日 渥美九郎兵衛松平越後守へ被下之為御礼登城九郎兵衛親久兵衛―


―越後守家来たるにより為相続之也 ●「日記」

正保元年3月7日 松平越後守光長に付属される

寛文5年11月26日 死す
跡部重員
生。庄五郎。九郎三郎。茂兵衛
あとべしげかず
茂右衛門正次の長男
寛政譜4・145
母は伊与田由右衛門繁正の女


妻は三浦半左衛門正次の女


後妻は窪田善九郎の女

慶長14年 父正次の食禄を賜る。310石

元和2年 秀忠に仕える。腰物持

寛永9年11月5日 腰物奉行 ●「日記」共

寛文2年10月19日 箪笥奉行

延宝2年7月27日 死す
跡部重保
生。(五郎八)。(三左衛門)。久右衛門
あとべしげやす
三郎兵衛重治の長男
寛政譜4・147
母は山中市郎右衛門元吉の女


妻は速水七兵衛吉忠の女

寛永13年 はじめて家光に拝謁

寛永19年 大番。200俵

寛永19年6月26日 跡部五郎八大御番被仰付 ●「日記」

正保元年12月25日 大御番跡部三左衛門新規ニ弐百俵被下之 ●「日記」

寛文7年2月18日 新番

寛文8年12月25日 250俵

貞享3年12月10日 父重治の遺跡を継ぐ。200石50俵

元禄7年7月 新番を辞す

宝永4年5月8日 死す
跡部利勝 元和元年 生。三右衛門。三郎左衛門
あとべとしかつ
茂右衛門正次の五男
寛政譜4・149
母は伊与田由右衛門繁正の女


妻は青山大蔵少輔家臣伊与田由右衛門一正の女

寛永9年8月17日 小十人

寛永9年8月20日 100俵。月俸10口

寛永19年12月16日 200俵

寛永19年12月16日 御加恩百俵被下之日来御切米共ニ弐百俵被仰付 ●「日記」

寛永20年8月8日 新番

寛永20年8月8日 於土圭之間御番相詰其上方々御成之刻御先え参御殿御番等可相勤之旨―


―被仰付之由伊豆豊後列座有之民部少輔伝之玉虫八左衛門組 ●「日記」

万治2年12月26日 250俵

天和2年12月19日 裏門番頭

天和3年12月21日 450俵

貞享4年9月21日 小普請。閉門

貞享4年12月17日 ゆるされる。なお出仕をとどめられる

元禄2年6月4日 ゆるされる。なお御前をはばかる

元禄3年4月17日 ゆるされる

元禄13年1月22日 死す
跡部昌直
生。平大夫。九郎右衛門
あとべまさなお
九郎右衛門幸次の男
寛政譜4・144
妻は筑紫主水信門の女

寛永13年12月6日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永13年12月27日 大番

寛永13年12月27日 跡部平太兵衛大御番被仰付之 ●「日記」

慶安4年12月14日 父幸次の遺跡を継ぐ。(1000石?)

(寛文5年) 死す
跡部良隆 寛永8年 生。建之助。宮内。民部
あとべよしたか
民部良保の男
寛政譜4・152
母は和田兵衛大夫信業の女


妻は柳生十兵衛三巌の女

寛永17年2月13日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永19年11月12日 父良保の遺跡を継ぐ。2000石

寛永19年11月12日 御旗本衆令死去跡被下之但自分之知行御切米何も上 ●「日記」

慶安元年8月 小姓組

天和元年2月19日 使番

天和2年4月21日 2500石

天和3年12月11日 使番を辞す。小普請

貞享2年7月27日 死す
跡部良保 天正10年 生。刑部。民部。(刑部)。(民部)
あとべよしやす
民部良直の養子。武田家臣朝比奈兵衛大夫信良の長男
寛政譜4・151
母は武田家臣跡部尾張守勝資の女


妻は和田兵衛大夫信業の女

慶長2年11月23日 養父良直の遺跡を継ぐ。700石

(慶長5年) 秀忠に付属される。書院番

元和2年1月9日 1000石

(寛永3年) 使番

寛永11年5月14日 2000石

寛永11年5月14日 御加恩千石 ●「日記」

(寛永17年2月13日) (刑部) ●「日記」

(寛永17年4月12日) (民部) ●「日記」

寛永19年2月18日 死す
姉小路公景 慶長7年9月12日 生。侍従。少将。中将。蔵人頭。参議。中納言。大納言。
あねがこうじきんかげ
はじめ阿野を称すか
諸家伝上・209
中将実康の中絶家を継ぐ。阿野大納言実顕の次男
諸家伝下・954
母は吉田左兵衛佐兼治の長女
宮廷公家系図集覧271
室は西洞院右衛門督時慶の五女

慶長18年7月26日 従五位下

慶長18年8月2日 元服。侍従

元和3年1月5日 従五位上

元和3年1月11日 右少将

元和6年1月5日 正五位下

寛永2年1月5日 従四位下

寛永3年11月6日 左中将

寛永5年1月5日 従四位上

寛永8年1月5日 正四位下

寛永8年12月24日 蔵人頭

寛永8年12月27日 正四位上。禁色

寛永9年4月11日 参議。左中将。姉小路を称す

寛永10年1月5日 従三位

寛永16年12月29日 正三位

寛永18年1月11日 権中納言

寛永19年1月5日 従二位

正保元年1月28日 直衣

慶安2年3月6日 神宮伝奏

慶安4年2月24日 神宮伝奏を辞す

慶安4年12月11日 権大納言

慶安4年12月11日 薨去
姉小路久弘 慶長12年 生。右衛門少尉。志摩守。(右衛門大尉)。吉村宗利
あねがこうじひさひろ
堀川近江守国弘の次男
地下家伝上・437 元和 今出川右大臣晴季により取立
宮廷公家系図集覧611 元和7年8月19日 従五位下

寛永8年2月1日 右衛門少尉。志摩守

寛永9年1月5日 従五位上。(右衛門大尉)


正五位下


落髪。吉村宗利と称す

元禄元年7月8日
穴太出雲

あのういずも
石積師穴太頭の堀金出雲家か



穴太駿河

あのうするが
石積師穴太頭の戸波駿河家か



穴太丹後

あのうたんご
石積師穴太頭の戸波丹後家か



穴太丹波
丹後か
あのうたんば




穴太三河

あのうみかわ
石積師穴太頭の高村三河家か



阿野公業 慶長4年11月3日 生。侍従。少将。中将。参議。中納言。大納言
あのきんなり
兄中将公福の嗣。阿野大納言実顕の三男
諸家伝上・236
母は吉田左兵衛佐兼治の長女
宮廷公家系図集覧284
室は若狭少将木下大蔵勝俊の女

元和5年9月2日 従五位下

元和5年12月30日 元服。侍従

元和7年1月11日 左少将

元和9年1月5日 従五位上

寛永4年1月5日 正五位下

寛永8年1月6日 従四位下

寛永10年1月12日 左中将

寛永12年1月5日 従四位上

寛永17年1月5日 正四位下

寛永19年1月5日 従三位

正保元年12月12日 参議

正保元年12月19日 左中将

正保4年1月5日 正三位

慶安2年6月28日 権中納言

慶安3年1月12日 帯剣

慶安3年11月13日 直衣

慶安3年12月20日 権中納言を辞す

慶安4年1月5日 従二位

万治2年12月22日 権大納言

万治3年12月16日 正二位

万治3年12月24日 権大納言を辞す

天和3年12月6日 薨去
阿野実顕 天正9年3月13日 生。侍従。少将。信濃権介。中将。参議。中納言。大納言
あのさねあき
祖父右少将季時の養子。内山上乗院休庵(阿野実時)の男
諸家伝上・236
母は山名宗意の女
宮廷公家系図集覧284
室は吉田左兵衛佐兼治の長女

天正13年5月14日 元服。従五位下・侍従

天正17年1月6日 従五位上

文禄3年6月28日 正五位下・左少将

慶長5年2月10日 従四位下

慶長6年3月19日 信濃権介

慶長9年8月1日 従四位上

慶長12年1月11日 左中将

慶長16年3月21日 正四位下

慶長17年12月28日 参議・左中将

慶長19年1月5日 従三位

元和3年1月5日 正三位

元和5年1月12日 権中納言

元和6年8月15日 従二位

寛永8年12月11日 正二位

寛永10年12月22日 権大納言

寛永11年3月25日 権大納言を辞す

(寛永11年7月12日) (大納言) ●「日記」

(寛永12年2月) (大納言と中納言が混在) ●「日記」

正保2年11月8日 薨去
油小路隆貞 元和8年 生。侍従。少将。中将。蔵人頭。参議。左衛門督。検非違使別当。
あぶらのこうじたかさだ
中納言。大納言
諸家伝上・418
中納言隆基の長男
宮廷公家系図集覧444 寛永4年1月5日 従五位下

寛永8年3月12日 元服。侍従

寛永10年12月24日 従五位上

寛永14年1月5日 正五位下

寛永14年1月11日 左少将

寛永18年1月5日 従四位下

(正保元年4月11日) (少将の初出) ●「日記」

正保元年4月11日 去頃御方領依拝領太刀目録持参御礼 ●「日記」

正保2年1月6日 従四位上

正保2年1月12日 左中将

慶安元年1月5日 正四位下

慶安2年7月20日 蔵人頭

慶安2年8月2日 正四位上

承応元年11月12日 参議

承応3年12月21日 従三位

明暦元年10月26日 参議。左衛門督。検非違使別当

明暦2年12月7日 権中納言。左衛門督・検非違使別当を去る

明暦3年1月5日 正三位

万治3年1月5日 従二位

万治3年12月24日 権大納言

寛文元年2月20日 神宮伝奏

寛文元年 神宮伝奏を辞す

寛文6年1月5日 正二位

寛文12年12月22日 権大納言を辞す

元禄12年9月3日 薨去
油小路隆基 文禄4年 生。侍従。少将。中将。蔵人頭。参議。中納言
あぶらのこうじたかもと
左中将隆秀の絶家を相続
諸家伝上・417
広橋内大臣兼勝の次男
宮廷公家系図集覧444
母は烏丸准大臣光康の女

元和5年1月6日 従五位下

元和6年閏12月23日 昇殿。侍従

元和9年1月5日 従五位上

寛永3年11月1日 左少将

寛永4年1月5日 正五位下

寛永8年1月6日 従四位下・中将

(寛永10年7月8日) (少将) ●「日記」

(寛永11年2月4日) (少将) ●「日記」

(寛永11年2月4日) (九条殿家来) ●「日記」

(寛永11年7月21日) (左中将の初出) ●「日記」

寛永12年1月5日 従四位上

寛永16年1月5日 正四位下

寛永16年4月1日 去年依属御加恩御礼 ●「日記」

寛永19年2月6日 蔵人頭。神宮奉行。禁色

寛永19年6月10日 正四位上

寛永19年7月8日 蔵人頭を辞す

寛永20年1月5日 従三位

正保元年12月12日 参議

正保元年12月19日 参議を辞す

慶安元年1月5日 正三位

慶安2年1月12日 権中納言

慶安2年1月21日 帯剣

慶安2年2月7日 春日祭上卿

慶安2年2月19日 直衣参内勅許。中納言を辞す

明暦元年1月5日 従二位

明暦元年12月2日 薨去
阿部貞醜
生。(弥右衛門)。弥次兵衛
あべさだあき
弥右衛門の男
寛政譜20・419 寛永18年12月4日 父弥右衛門の遺跡を継ぐ

寛永18年12月4日 七拾俵五人扶持火之番安倍弥右衛門跡右惣領弥右衛門被下之 ●「日記」


表火番


徒目付


広敷添番

(天和3年) 死す
安部貞信 元和3年 生。内蔵允
あべさだのぶ
摂津守信盛の三男
寛政譜6・197
母は保科弾正忠正直の女


妻は横山土佐守興知の女

寛永12年8月11日 はじめて家光に拝謁

寛永12年8月11日 阿部摂津守子始て御目見 ●「日記」

寛永13年12月27日 書院番 ●「日記」共

寛永16年12月13日 300俵 ●「日記」共

承応2年4月26日 死す
阿部重勝 慶長13年 生。新四郎
あべしげかつ
新右衛門重次の長男
寛政譜10・376
母は天野彦右衛門忠詣の女


妻は加藤伊織則勝の女

元和7年 秀忠に仕える

(寛永10年2月21日) (御鷹師) ●「日記」

正保2年 父重次の遺跡を継ぐ。570石。手鷹師頭

明暦元年4月2日 死す
阿倍重次
生。甚五左衛門。はじめ竹本を称すか
あべしげつぐ
竹本平十郎直次の男
寛政譜10・398
おじ四郎兵衛重真に養育され阿倍を称す

寛永3年4月 はじめて家光に拝謁

寛永18年10月26日 小十人組頭

寛永18年10月26日 小十人組之組頭之内年寄之者御番御免被成連々別之御役可被仰付―


―之旨ニ依テ佐々木庄兵衛小佐手左介西山忠左衛門山本又右衛門―


―竹内平右衛門右五人御番御免鳥居三郎右衛門小野忠三郎―


―阿部甚五左衛門服部三郎右衛門坂部孫四郎此五人右之替ニ―


―組頭被仰付之 ●「日記」

正保3年12月4日 加増あり。300俵

寛文3年2月10日 小十人組頭を辞す

寛文9年 死す
阿部重次 慶長3年 生。作十郎。山城守。対馬守。はじめ三浦を称す
あべしげつぐ
備中守正次の次男
寛政譜10・350
母は佐原作右衛門義成の女


室は三浦監物重成の女


継室は松平隠岐守定勝の女


三浦重成の養子となる。その女を室とする


秀忠に仕える。近習

元和元年 3000石

元和元年 小姓組組頭


小姓

元和5年12月28日 従五位下・山城守

寛永5年 三浦を改め阿部に復す

寛永9年12月14日 小姓組番頭。昵近 ●「日記」共

(寛永10年1月11日) (対馬守の初出) ●「日記」

寛永10年3月23日 政事にあずかる(六人衆)。対馬守。小姓組番頭

寛永10年3月23日 六人衆 ●「日記」

寛永10年4月16日 持弓持筒のこともあずかる

寛永10年4月16日 御持弓御持筒之儀万事肝煎 ●「日記」

寛永10年7月3日 継室と縁組 ●「日記」

寛永12年8月9日 1万3000石

寛永12年8月9日 御加恩壱万石 ●「日記」

寛永12年8月14日 下野国板橋領被下之 ●「日記」

寛永15年4月22日 父正次の封地を分け賜る。武蔵国岩槻城5万9000石

寛永15年4月22日 阿部備中守関東五万石之領知内壱万石修理亮息徳千代ニ―


―被下之残て四万石之所并対馬守領知壱万三千石―


―都合五万三千石之都合ニて御奉公可仕之旨被仰出云々 ●「日記」

寛永15年11月7日 老職。大番・寄合を指揮

寛永15年11月7日 伊豆守豊後守並ニ御用可奉之 ●「日記」

寛永15年11月7日 大御番并寄合は伊豆守豊後守対馬守御用可奉 ●「日記」

寛永16年1月1日 従四位下

寛永16年1月1日 四品諸大夫被仰付 ●「日記」

寛永16年8月23日 奥方之御台所迠令参上御用等可相叶 ●「日記」

正保4年7月5日 武蔵国岩槻城6万9000石

慶安元年7月18日 父正次の遺領を賜る。武蔵国9万9000石

慶安4年4月20日 殉死
阿倍重朝 元和元年 生。八之丞
あべしげとも
四郎兵衛重真の次男
寛政譜10・389
母は蒲生飛騨守家臣土佐林甲斐の女


妻は菅谷紀八郎範重の女

寛永2年5月 はじめて家光に拝謁

寛永8年1月 小姓組

寛永8年7月3日 兄重信より分知。500石

寛永10年2月7日 700石

~寛永16年 書院番

慶安3年12月15日 小十人頭

慶安4年8月16日 布衣

慶安4年11月21日 700石300俵

明暦2年閏4月5日 死す
阿倍重信 文禄3年 生。源左衛門。四郎兵衛
あべしげのぶ
四郎兵衛重真の長男
寛政譜10・387
母は蒲生飛騨守家臣土佐林甲斐の女


妻は大草次左衛門公継の女

慶長17年 秀忠に仕える。大番

寛永6年 大番組頭

寛永7年 500石

寛永8年7月3日 父重真の遺跡を継ぐ。1000石。弓頭。(与力10騎同心20人?)

寛永10年12月27日 1500石

寛永10年12月27日 五百石御加増 ●「日記」

慶安2年1月22日 死す
阿部重政
生。半十郎
あべしげまさ
新四郎重吉の次男
寛政譜10・376
母は植村庄右衛門正勝の女


秀忠に仕える

(寛永10年2月21日) (御鷹師) ●「日記」 (子の半十郎か不明)


以下不詳
安倍順貞
生。長徳院。法橋。法印
あべじゅんてい
勘兵衛良長の次男
寛政譜10・399
幼少より京都にあり。黒谷の養南に小児の医を学ぶ


半井通仙院瑞桂に大方脈を学ぶ


法橋

寛永18年12月6日 江戸に来る。家綱に薬を調進

寛永18年12月30日 扶助米を賜る。医師。家綱に付属される。400俵

寛永18年12月30日 御合力米被下之 ●「日記」

寛永19年2月8日 法印

(寛永19年9月5日) (若君様御医師) ●「日記」

正保2年12月26日 600石


勘気を蒙る

慶安元年5月26日 赦免

延宝4年5月10日 死す
阿部忠秋 慶長7年 生。小平次。豊後守。侍従
あべただあき
左馬助忠吉の次男
寛政譜10・361
母は松平五郎左衛門大須賀康高の女


室は稲葉左近蔵人道通の女


継室は松平丹波守戸田康長の女

慶長15年 家光に付属される。小姓

慶長19年 月俸20口

元和3年 膳番。300俵・月俸20口

元和5年 500俵

元和9年 小姓組番頭。1000石

元和9年7月 従五位下・豊後守

寛永元年 父忠吉の遺跡を継ぐ。6000石

寛永3年 1万石

寛永3年 近習の小姓頭

寛永6年 1万5000石。小姓組番頭

寛永10年3月23日 政事を議し小事をはからう(六人衆)

寛永10年3月23日 六人衆 ●「日記」

寛永10年4月19日 腰物のことを沙汰

寛永10年4月19日 御腰物方職人肝煎 ●「日記」

寛永10年5月5日 宿老並

寛永10年5月5日 松平伊豆守並ニ御年寄被仰付 ●「日記」

寛永11年閏7月29日 従四位下

寛永11年閏7月29日 四品 ●「日記」

寛永12年6月20日 下野国壬生城2万5000石 ●「日記」共

寛永12年10月29日 奉書に加判。小姓組番頭をゆるされる

寛永12年10月29日 御番頭御赦免 ●「日記」

寛永12年11月15日 諸大名訴訟并御用之儀大炊頭讃岐守伊豆守豊後守加賀守―


―右五人壱人宛一月番ニ承言上 ●「日記」

寛永12年12月30日 正月之御給仕御免 ●「日記」

寛永15年11月7日 大番および寄合を指揮

寛永15年11月7日 大御番并寄合は伊豆守豊後守対馬守御用可奉 ●「日記」

寛永16年1月5日 武蔵国忍城5万石 ●「日記」共

寛永16年8月23日 大奥のことを沙汰

寛永16年8月23日 奥方之御台所迠令参上御用等可相叶 ●「日記」

正保4年7月5日 武蔵国忍城6万石

慶安3年9月12日 西丸兼務。家綱にも仕える

慶安4年 本丸に勤仕

慶安4年8月16日 侍従

寛文3年2月8日 武蔵国忍城8万石

寛文5年8月5日 病により月番と評定所出座をゆるされる

寛文6年3月29日 老職をゆるされる

寛文11年5月25日 致仕

延宝3年5月3日
阿部忠秋祖母



松平五郎左衛門大須賀康高の妻か(父方の祖母は対馬守重次と同じ)

寛永18年7月14日 阿部豊後守雖為日光在山祖母以外所労付可帰参之旨被仰出依之―


―為代阿部対馬守被遣之御召之御胴服被下之 ●「日記」






安部信孝
生。平三郎
あべのぶたか
摂津守信盛の次男
寛政譜6・190
母は保科弾正忠正直の女


妻は大久保玄蕃頭忠成の女

元和7年 はじめて家光に拝謁

寛永6年12月 書院番

寛永13年9月27日 小姓組組頭 ●「日記」共

寛永13年12月29日 布衣 ●「日記」共

正保2年7月14日 死す
安部信成 寛永5年 生。弥三郎。弥太郎。式部少輔。伊勢守
あべのぶなり
次郎兵衛正成の長男
寛政譜6・201
妻は弓気多摂津守昌吉の女

寛永17年2月25日 はじめて家光に拝謁。小姓

寛永17年2月25日 於御奥御目見是御近習ニ可被召遣之旨也云々 ●「日記」

(寛永19年12月10日) (弥太郎の初出) ●「日記」

(寛永19年12月10日) (御小姓衆) ●「日記」

寛永19年12月10日 200俵。月俸30口

寛永19年12月10日 弐百俵三十人扶持 ●「日記」

慶安元年12月30日 従五位下・式部少輔


命令を老中に執達する事をうけたまわる

慶安4年4月 家光死去により寄合

明暦2年5月4日 中奥に伺候

明暦2年5月28日 小姓

明暦2年11月15日 500俵?

万治3年12月2日 1000俵

寛文4年3月30日 小姓を辞す。小普請

寛文9年7月10日 父正成の遺跡を継ぐ。1000石

元禄5年1月29日 死す
安部信盛 天正12年 生。弥一郎。摂津守。性都
あべのぶもり
弥一郎信勝の長男
寛政譜6・189
母は水野和泉守忠重の女


室は保科弾正忠正直の女

慶長4年 はじめて家康に拝謁

慶長5年 父信勝の遺跡を継ぐ。5250石

慶長5年 上杉景勝征伐にて本多佐渡守正信に属す

慶長10年 秀忠の上洛に従う

慶長10年12月 書院番

慶長19年 在京の板倉周防守重宗の代わりに小姓組の頭をつとめる

元和2年12月 徒頭・書院番組頭

元和5年 従五位下・摂津守

元和9年 大番頭

寛永13年9月10日 9250石

寛永13年9月10日 四千石御加増 ●「日記」

慶安元年3月13日 家綱に付属される

慶安2年10月11日 大坂定番。1万9200石

万治3年 大坂定番を辞す

寛文2年3月6日 致仕。性都と号す

延宝元年11月27日
安部信盛長女
寛政譜6・190
安部摂津守信盛の長女
寛政譜15・22
母は保科弾正忠正直の女

寛永10年7月2日 小出大隅守有棟と縁組 ●「日記」

寛永17年 小出大隅守有重を産む


小出貞右衛門有秀を産む


女子を産む。のちの織田信濃守秀一の室


女子を産む。のちの北条宮内少輔氏清の妻

正保4年 小出和泉守宗礥を産む



安部信之 慶長9年 生。弥一郎。丹波守
あべのぶゆき
摂津守信盛の長男
寛政譜6・189
母は保科弾正忠正直の女


室は植村出羽守家政の女


継室は長谷川縫殿助正尚の女

寛永9年12月6日 従五位下・丹波守

寛永9年12月6日 諸大夫 ●「日記」

(寛永11年7月18日) (丹波守の初出) ●「日記」

寛文2年3月6日 父信盛の家を継ぐ。1万7200石

寛文8年8月18日 大坂定番。2万200石

延宝5年6月23日 大坂定番を辞す

延宝6年4月2日 致仕

天和3年7月28日
阿部半十郎
生。半十郎
あべはんじゅうろう
半十郎重政の男
寛政譜10・376 寛永元年 家光に仕える

(寛永10年2月21日) (御鷹師) ●「日記」 (父重政か不明)


以下不詳
阿倍正重 寛永4年 生。権八郎。四郎五郎。浄英
あべまさしげ
兄四郎五郎政継の養子。四郎右衛門正之の五男
寛政譜10・395
母は山田半右衛門常閑の女


妻は紀伊家臣渡辺若狭の養女

寛永18年6月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永19年6月20日 書院番 ●「日記」共

正保元年12月25日 300俵 ●「日記」共

万治3年12月23日 兄政継の遺跡を継ぐ。2550石

寛文8年9月5日 使番

寛文10年5月16日 普請奉行

寛文10年12月28日 布衣

天和元年3月29日 普請奉行をゆるされる。小普請

元禄9年12月7日 致仕。浄英と号す

元禄10年閏2月3日 死す
阿部政澄 文禄2年 生。徳千代。善九郎。修理亮
あべまさずみ
備中守正次の長男
寛政譜10・349
母は佐原作右衛門義成の女


室は加藤肥後守清正の女

元和元年 大坂の役に父正次とともに従う

元和2年 2000石


7000石

~元和4年 従五位下

寛永3年 父正次に代わり武蔵国岩槻城に住す。7000石は収公

寛永5年8月4日
阿部正次 永禄12年 生。徳千代。善九郎。備中守
あべまさつぐ
伊予守正勝の長男
寛政譜10・346
母は今川家臣江原三右衛門定次の女


室は佐原作右衛門義成の女


幼少より家康に近侍

文禄元年 秀忠に仕える

慶長5年4月 父正勝の遺跡を継ぐ。5000石。書院番頭

慶長5年11月17日 従五位下・備中守


武蔵国鳩谷1万石

慶長15年 武蔵国鳩谷1万5000石

慶長16年8月 大番頭


弓鉄砲歩卒75人を付属される

元和2年 武蔵国鳩谷2万2000石。奏者番

元和3年9月 上総国大多喜城3万石

元和5年 相模国小田原城5万石

元和9年 武蔵国岩槻城5万5000石

寛永2年12月11日 武蔵国岩槻城5万6000石

寛永3年4月6日 摂津国大坂城番。8万6000石。月俸750口

寛永15年4月22日 摂津国大坂城番3万石

寛永15年4月22日 阿部備中守関東五万石之領知内壱万石修理亮息徳千代ニ―


―被下之残て四万石之所并対馬守領知壱万三千石―


―都合五万三千石之都合ニて御奉公可仕之旨被仰出云々 ●「日記」

正保元年10月15日 従四位下

正保元年10月15日 四品 ●「日記」

正保4年11月14日
阿部正次三女
寛政譜10・351
阿部備中守正次の三女
寛政譜17・183
母は佐原作右衛門義成の女

寛永13年10月16日 阿部備中守娘安藤四郎右衛門縁辺被仰付 ●「日記」


安藤伊賀守重元に嫁ぐ


以下不詳
阿部正与 (天正元年) 生。七之助。善兵衛。河内。河内守
あべまさとも
伊予守正勝の三男
寛政譜10・349
母は今川家臣江原三右衛門定次の女
士林泝洄2・1
妻は松平忠吉家臣富永丹波の女

文禄元年2月 松平忠吉に付属される。700石

慶長5年 松平忠吉の家老。3000石

慶長10年4月16日 従五位下・河内守

慶長12年 5000石

慶長12年 徳川義直に付属される

~慶長19年 8000石

寛永17年3月26日 死す
安部正成 天正17年 生。次郎吉。次郎兵衛
あべまさなり
弥一郎信勝の次男
寛政譜6・200
母は水野和泉守忠重の女

慶長6年 家康に仕える


300石

元和2年 秀忠に仕える。大番

寛永2年 400石

寛永6年 大番組頭

寛永10年12月19日 800石

寛永10年12月19日 大番組頭御加増被下之四百石 ●「日記」


使番

寛永19年12月30日 布衣 ●「日記」共

正保2年9月23日 相模国三浦三崎船改

慶安元年3月13日 相模国三浦三崎船改・代官

万治元年6月2日 相模国三浦三崎船改・代官を辞す

寛文9年1月16日 死す
阿部正致
生。五郎作。善右衛門。河内
あべまさむね
河内守正与の長男
士林泝洄2・2 (寛永16年4月2日) (善右衛門の初出) ●「日記」
寛政譜10・349 寛永17年 父正与の遺跡を継ぐ。8000石。同心あり。尾張家に仕える

(寛永18年1月27日) (河内守の初出) ●「日記」

慶安元年 家老

明暦元年4月 死す
阿倍正之 天正12年 生。四郎五郎。四郎右衛門
あべまさゆき
四郎兵衛忠政の三男
寛政譜10・391
母は阿倍四郎兵衛定次の女


妻は山田半右衛門常閑の女

~慶長10年 秀忠に仕える。書院番

慶長17年 使番

元和2年6月 先弓頭

元和9年閏8月4日 1000石加増

寛永2年9月2日 2050石の朱印

寛永10年12月27日 2550石

寛永10年12月27日 五百石御加増 ●「日記」

正保3年2月16日 百人組頭

慶安4年3月12日 死す
阿部正能 寛永4年 生。徳千代。市正。播磨守
あべまさよし
豊後守忠秋の養子。阿部修理亮政澄の男
寛政譜10・364
母は加藤肥後守清正の女
寛政譜10・350
室は牧野内匠頭信成の女

寛永15年4月22日 祖父備中守正次より分知。上総国大多喜1万石

寛永15年4月22日 阿部備中守関東五万石之領知内壱万石―


―修理亮息徳千代ニ被下之 ●「日記」

~正保2年 はじめて家光に拝謁

(寛永19年4月3日) (市正の初出) ●「日記」

(寛永19年5月29日) (徳千代) ●「日記」

(寛永19年7月8日) (市正) ●「日記」

寛永19年9月1日 毎歳於江戸越年未年在江戸半年替 ●「日記」

寛永20年12月26日 縁辺 ●「日記」

慶安4年8月14日 叔父対馬守重次の遺領分知。上総国大多喜1万6000石

承応元年6月25日 豊後守忠秋の養子となる

承応元年7月24日 6000石を宗家備中守定高に返す。上総国大多喜1万石

承応元年12月28日 従五位下・播磨守

寛文11年5月25日 養父忠秋の家を継ぐ。武蔵国忍城9万石

延宝元年12月23日 老職

延宝元年12月28日 従四位下

延宝4年10月6日 老職を辞す

延宝5年7月4日 致仕

貞享2年4月13日
阿倍正義
生。五郎三郎。忠右衛門
あべまさよし
四郎右衛門正之の三男
寛政譜10・397
母は山田半右衛門常閑の女


妻は長崎弥左衛門元政の女

寛永12年8月15日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永12年11月23日 小姓組

寛永13年10月28日 中奥の番士

寛永13年10月28日 中奥之御番 ●「日記」

寛永15年12月1日 400俵

寛永16年12月28日 膳番 ●「日記」共

(寛永19年4月4日) (御小姓衆) ●「日記」

明暦2年5月4日 膳番をゆるされる

寛文元年閏8月13日 小十人頭

寛文元年12月12日 700俵

寛文元年12月28日 布衣

延宝6年 出仕をはばかる

延宝7年1月25日 ゆるされる

天和元年6月19日 小十人頭をゆるされる。小普請

元禄4年4月2日 死す
阿部弥右衛門
生。弥右衛門
あべやえもん
秀忠に仕える。表火番

(寛永18年) 死す

(寛永18年12月4日) (七拾俵五人扶持) ●「日記」
尼崎宗清
生。又右衛門。宗清
あまがさきそうせい
又右衛門浄雪の長男
三町人由緒書
大坂町人
(大阪市史5・145) (慶安4年) 家光他界のとき日光山にて剃髪。宗清と号す


以下不詳
尼崎又次郎
生。又次郎
あまがさきまたじろう
又右衛門浄雪の次男
三町人由緒書
大坂町人
(大阪市史5・148) 承応元年 病により京都に引退


以下不詳
天方倶通 元和4年 生。主馬
あまかたともみち
備前守通直の次男
寛政譜13・319
母は堀東市正利重の女


妻は三枝土佐守守恵の女

寛永3年 はじめて秀忠・家光に拝謁

寛永7年12月 父通直の遺跡を継ぐ。2000石

寛永13年12月27日 書院番 ●「日記」共


書院番を辞す。小普請

慶安2年 書院番

明暦3年10月23日 書院番組頭

明暦3年12月28日 布衣

寛文3年8月25日 駿府定番。3000石

延宝7年11月20日 死す
天川
マカオ






天野牛助

あまのうしのすけ (寛永10年2月21日) (鷹野に供奉) ●「日記」

(寛永13年8月23日) (昨日初て御鷹野ニ当年初て被為成付て(銀子)被下之 ●「日記」



天野雄重 寛永2年 生。権五郎。佐左衛門
あまのかつしげ
兄佐左衛門雄則の嗣。佐左衛門雄得の五男
寛政譜14・193
母は織田家臣山本又十郎の女


妻は岡部大和守与賢の長女


後妻は喜連川右兵衛督尊信の女

(寛永17年) 兄雄則の遺跡を継ぐ。2100石

寛永18年3月3日 はじめて家光に拝謁

寛永18年3月3日 去年跡職被仰付面々或太刀目録或樽代ニて継目之御礼申上之 ●「日記」

寛永18年4月16日 小姓組

寛永18年4月16日 内田信濃守元組故彼組御番被仰付但権五郎ハ父佐左衛門―


―信濃元組付て也 ●「日記」

(寛永20年5月18日) (佐左衛門の初出) ●「日記」

寛永20年5月18日 岡部丹波守娘天野佐左衛門え縁辺之儀被仰付之是連々右之旨―


―依令言上 ●「日記」

万治3年2月1日 徒頭

万治3年12月28日 布衣

天和元年9月29日 閉門。小普請


ゆるされる

貞享2年3月16日 死す
天野雄則 慶長5年 生。権十郎。佐左衛門
あまのかつのり
佐左衛門雄得の長男
寛政譜14・192
母は織田家臣山本又十郎の女


妻は三井左衛門佐吉正の女

慶長19年 はじめて秀忠に拝謁

元和元年 大坂の役に父雄得とともに供奉

元和元年 書院番

元和9年 小姓組

(寛永7年) 父雄得の遺跡を継ぐ。2100石


(内田信濃守組) ●「日記」寛永18年4月16日条

寛永17年8月2日 死す
天野雄政
生。権四郎
あまのかつまさ
兄三丞雄好の養子。佐左衛門雄得の三男
寛政譜14・192
母は織田家臣山本又十郎の女

寛永15年12月25日 養父雄好の遺跡を継ぐ。200石

寛永15年12月25日 天野三丞跡職四百石之内弐百石養子之弟被下之 ●「日記」

寛永16年1月28日 はじめて家光に拝謁

寛永16年1月28日 天野三丞死去ニ付て跡目被仰付面々御礼 ●「日記」

寛永17年3月19日 書院番 ●「日記」共

某年 死す。断絶
天野雄好 慶長14年 生。三丞
あまのかつよし
佐左衛門雄得の次男
寛政譜14・192
母は織田家臣山本又十郎の女

寛永2年 はじめて秀忠に拝謁

寛永6年 小姓組


書院番。400石

寛永14年 死す
天野貞重 元和2年 生。三郎右衛門。又太郎
あまのさだしげ
兄又太郎貞政の嗣。又太郎貞賢の次男
寛政譜14・190
母は山下庄大夫義勝の女


妻は天野彦右衛門忠詣の女

寛永15年12月21日 家光に拝謁。兄貞政の遺跡を賜る。200石

寛永15年12月21日 四百石又太郎跡目内弐百石上ル ●「日記」

寛永16年1月5日 大番


大番。蔵奉行

寛文7年2月16日 蔵奉行をゆるされる

延宝6年 大番を辞す。小普請

元禄5年1月21日 死す
天野貞政 元和元年 生。又太郎
あまのさだまさ
又太郎貞賢の長男
寛政譜14・190
母は山下庄大夫義勝の女

(寛永2年) 父貞賢の遺跡を継ぐ。200俵


大番

寛永10年2月7日 400石

寛永11年7月12日 死す
天野重勝
生。麦右衛門
あまのしげかつ
伯父麦右衛門正景の養子。伊豆重次の次男
寛政譜14・182 (元亀3年~) 伯父正景の名跡を継ぐか

慶長8年 家康・秀忠に仕える

(元和元年)~寛永2年 家光に仕える。90石

万治元年12月17日 死す
天野重時 慶長14年 生。伝左衛門。孫左衛門。勝休
あまのしげとき
孫左衛門重房の長男
寛政譜14・184
母は岡本八郎左衛門の女


妻は新庄右近直綱の女

寛永5年 はじめて家光に拝謁

寛永6年 大番

寛永7年 200俵

寛永10年2月7日 400石

万治元年閏12月18日 父重房の遺跡を継ぐ。610石

万治2年2月26日 道奉行

寛文7年2月14日 船手

寛文7年12月28日 布衣

天和2年3月11日 先鉄炮頭

天和2年4月21日 1110石

貞享3年9月12日 先鉄炮頭を辞す。寄合

貞享3年12月6日 致仕。300俵。勝休と号す

元禄5年4月15日 死す
天野重房 天正18年 生。源蔵。孫左衛門
あまのしげふさ
孫左衛門久次の次男
寛政譜14・184
妻は岡本八郎左衛門の女

慶長10年1月11日 秀忠に仕える。焼火間番

慶長11年 父久次の本領300石を賜る

慶長19年 大坂役にて大番に列し阿部備中守正次に属す

寛永元年 410石

寛永5年 大番組頭

寛永10年2月23日 910石

寛永19年3月19日 船奉行。水主40人

寛永20年12月29日 布衣 ●「日記」共

万治元年7月16日 死す
天野重吉
生。又右衛門。孫太郎
あまのしげよし
麦右衛門重勝の次男
寛政譜14・183 寛永16年7月18日 はじめて家光に拝謁

寛永16年7月18日 天野麦右衛門子初て御目見 ●「日記」

寛永17年3月20日 大番 ●「日記」共

寛永19年12月10日 200俵 ●「日記」共


大番を辞す。小普請

元禄13年7月 死す
天野甚兵衛
寛政譜14・206 清兵衛正信か?
あまのじんびょうえ


(寛永18年12月29日) (御中間頭) ●「日記」






天野忠顕 慶長19年 生。弥左衛門。彦右衛門
あまのただあき
彦右衛門忠詣の長男
寛政譜14・197 寛永5年 秀忠に仕える。父忠詣に副て鷹場支配

正保元年12月25日 父忠詣の食禄を賜る。現米80石

正保元年12月25日 跡目被仰付六百石余天野彦八郎同心廿人御切米廿表弐人扶持―


―惣領彦八郎ニ同心共ニ被仰付之彦八郎御切米八十石子弥左衛門ニ―


―被下之但彦右衛門当八月病死ニ付て弥左衛門御切米扶持方―


―来年より被召上之事 ●「日記」

万治3年12月23日 父忠詣の遺跡を継ぐ。500石。忍・鴻巣鷹場支配

寛文3年4月15日 死す
天野忠重 永禄2年 生。彦八郎。彦右衛門
あまのただしげ
彦右衛門忠次の三男
寛政譜14・197 天正6年 家康に仕える

慶長7年 武蔵国忍城番

慶長9年3月5日 550石

慶長18年11月18日 武蔵国忍近郷の代官


600石。忍・鴻巣鷹場支配。同心10人

正保元年8月22日 死す
天野忠詣 天正18年 生。彦八郎。彦右衛門
あまのただゆき
彦右衛門忠重の男
寛政譜14・197 慶長7年 家康に仕える

~慶長19年 武蔵国忍・鴻巣の鷹場を支配。現米80石

(寛永10年2月21日) (御鷹師) ●「日記」

正保元年12月25日 父忠重の遺跡を継ぐ。600石。同心20人

正保元年12月25日 忍近郷代官。忍・鴻巣の鷹場支配。鴻巣に居住

正保元年12月25日 跡目被仰付六百石余天野彦八郎同心廿人御切米廿表弐人扶持―


―惣領彦八郎ニ同心共ニ被仰付之彦八郎御切米八十石子弥左衛門ニ―


―被下之但彦右衛門当八月病死ニ付て弥左衛門御切米扶持方―


―来年より被召上之事 ●「日記」

万治3年2月27日 死す
天野長重 元和7年 生。長三郎。弥五右衛門。長三郎
あまのながしげ
豊前守長信の長男
寛政譜14・176
母は大河内金兵衛久綱の女


妻は仙石大和守久隆の女

寛永11年閏7月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永15年10月24日 書院番 ●「日記」共

(寛永18年10月19日) (弥五右衛門の初出) ●「日記」

正保2年閏5月26日 父長信の遺跡を継ぐ。2530石

寛文2年9月15日 使役

寛文2年12月27日 布衣

延宝4年5月27日 先鉄炮頭

天和2年4月21日 3030石

元禄2年5月3日 鎗奉行

元禄7年8月28日 旗奉行

元禄14年8月5日 旗奉行を辞す。寄合

元禄14年12月12日 致仕。300俵

宝永2年12月12日 死す
天野長信 天正15年 生。小三郎。豊前守。中宮少進
あまのながのぶ
甚右衛門繁昌の次男
寛政譜14・176
母は榊原五郎右衛門一徳の養女大原左近右衛門信之の女


妻は大河内金兵衛久綱の女

慶長7年 家康に近侍

慶長19年9月15日 300石

元和2年 納戸番頭

元和2年 530石

元和5年 730石

寛永3年9月5日 東福門院に付属される

寛永3年9月5日 従五位下・豊前守・中宮少進。1730石

寛永17年10月16日 与力5騎同心30人を預かる ●「日記」共

寛永20年8月30日 禁裏付。2530石

寛永20年8月30日 当今え天野豊前守与力五騎足軽三十人七百石御加増 ●「日記」

正保2年1月21日 死す
天野正勝 文禄2年 生。勘七。勘兵衛。勘左衛門
あまのまさかつ
甚右衛門繁昌の三男
寛政譜14・179
母は榊原五郎右衛門一徳の養女大原左近右衛門信之の女


妻は天野伝右衛門清宗の女


家康に仕える

慶長19年9月15日 200石

元和2年11月 500石


600石

元和8年10月21日 650石


徳川忠長に付属される

(寛永9年) 処士

寛永13年12月10日 赦免 ●「日記」共

寛永15年12月23日 書院番。450石

寛永15年12月23日 駿河衆天野勘兵衛御書院番可仕之 ●「日記」

承応元年 書院番を辞す

承応3年12月15日 鉄炮玉薬奉行

明暦3年1月11日 死す
天野政利
生。久右衛門
あまのまさとし
孫左衛門信定の長男
士林泝洄1・241
徳川義直に仕える

(寛永15年6月28日) (尾張亜相使者) ●「日記」

(慶安元年) 父信定の遺跡を継ぐ。馬廻


弓役


病により弓役を辞す

延宝3年9月18日 死す
天野正成
生。五郎大夫。図書
あまのまさなり
(京太郎正盛の男)
寛政譜14・209
妻は小嶋孫兵衛の女


家康に仕える。台所頭


秀忠に仕える


家光に仕える

寛永10年5月22日 死す
天野正信 慶長10年 生。清兵衛
あまのまさのぶ
甚七郎正久の男
寛政譜14・206
母は新見彦左衛門正勝の女


妻は近藤与兵衛登正の女

元和5年12月 家光に付属される。小十人


100俵

寛永8年5月 腰物持

寛永11年5月14日 200石100俵

慶安3年8月27日 閉門

慶安3年10月19日 ゆるされる

承応元年9月29日 新番

万治元年9月7日 新番組頭

万治元年閏12月25日 200石300俵

延宝6年10月10日 死す
天野政則
生。兵右衛門
あまのまさのり
彦右衛門政弘の長男
寛政譜14・199
妻は馬場喜八郎の女

元和5年12月 家光に仕える。小十人

寛永5年9月 小十人組頭


加恩あり。300俵

(寛永18年4月12日) (本目権兵衛組) ●「日記」

寛永18年4月12日 改易

寛永18年4月12日 被放御扶持 ●「日記」

寛永18年9月5日 赦免。小十人組頭。300俵

寛永18年9月5日 御赦免仕来御役如前々可相勤 ●「日記」

承応元年 死す
天野正久
生。権七郎
あまのまさひさ
彦三郎正吉の次男
寛政譜14・209
家光に仕える


書院番もしくは小姓組か

(寛永18年10月19日) (要脚運出役人) ●「日記」


以下不詳
天野正世
生。五郎大夫
あまのまさよ
彦三郎正吉の長男
寛政譜14・209
母は天野図書正成の女

(寛永10年) 祖父図書正成の遺跡を継ぐ。台所頭

(寛永13年10月4日) (五郎助大夫) ●「日記」

慶安3年8月23日 家綱に付属される

(慶安4年) 本丸に勤仕

寛文4年4月3日 死す
天野政吉
生。九郎兵衛
あまのまさよし
彦右衛門政弘の三男
寛政譜14・204 寛永3年 家光に仕える。鳥見役

寛永15年12月18日 御切米五拾俵被増下都合百俵 ●「日記」


家綱に付属される

(慶安4年) 本丸に勤仕

某年 死す
天野康勝 天正10年 生。左兵衛
あまのやすかつ
三郎兵衛康景の次男
寛政譜14・168
母は織田家臣牛田庄右衛門行正の女

文禄3年 家康に仕える

慶長2年 秀忠に付属される。火消番頭(焼火間番)


大番組頭

慶長12年3月9日 父康景とともに蟄居

寛永5年9月12日 秀忠に仕える

寛永5年12月 西丸書院番。500石


小姓組

寛永10年2月7日 700石

正保元年9月9日 徳川綱重に付属される。傅

正保元年9月9日 長松殿え被為付之 ●「日記」

慶安元年 1700石

慶安3年10月5日 死す
天野康隆
生。三郎兵衛
あまのやすたか
対馬守康宗の長男
寛政譜14・166
母は安部弥一郎信勝の女


妻は設楽甚三郎貞代の女

寛永6年 はじめて秀忠に拝謁

寛永8年 書院番

寛永10年2月7日 200石


小姓組

寛永20年8月30日 家綱に付属される。三丸番 ●「日記」共

正保2年12月19日 父康宗の遺跡を継ぐ。200石800俵

慶安3年9月4日 小十人頭

慶安4年8月16日 布衣

承応2年3月 新番頭

寛文3年7月6日 死す
天野康利
生。右衛門四郎。彦四郎。甚左衛門
あまのやすとし
六右衛門康世の長男
寛政譜14・173 寛永17年3月9日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永20年6月16日 小姓組

寛文4年12月14日 父康世の家を継ぐ。500石300俵

寛文7年12月27日 徒頭

寛文7年12月28日 布衣

延宝2年7月3日 新番頭

延宝3年12月22日 閉門

延宝4年12月7日 赦免

延宝6年12月27日 500石700俵

天和元年8月 死す。断絶
天野康信
生。源右衛門
あまのやすのぶ
対馬守康宗の次男
寛政譜14・166 寛永13年8月25日 はじめて家光に拝謁

寛永13年8月25日 天野対馬子共初て御礼 ●「日記」

寛永13年12月27日 書院番 ●「日記」共


以下不詳
天野康通 寛永元年 生。七兵衛
あまのやすみち
左兵衛康勝の長男
寛政譜14・168 正保元年6月16日 書院番 ●「日記」共

慶安元年3月25日 徳川綱重に付属される。抱守

慶安3年12月11日 父康勝の遺跡を継ぐ。1700石


小姓組の頭


奏者番

承応元年10月12日 死す
天野康宗 天正2年 生。縫殿助。対馬守
あまのやすむね
三郎兵衛康景の長男
寛政譜14・166
母は織田家臣牛田庄右衛門行正の女


妻は安部弥一郎信勝の女

~天正18年 家康に仕える

慶長5年 秀忠の上田城攻めに従う

慶長10年 従五位下・対馬守

慶長12年 父康景と同じく勘気を蒙る。小田原西念寺に屏居

寛永5年9月12日 赦免

寛永5年12月30日 1000俵

正保2年3月21日 死す
天野康世
生。六右衛門。幽閑
あまのやすよ
三郎兵衛康景の三男
寛政譜14・173
母は織田家臣牛田庄右衛門行正の女

寛永7年 家光に仕える。書院番。300俵

寛永10年2月7日 500石

寛永14年11月25日 膳奉行

寛永14年11月25日 御本丸御膳奉行 ●「日記」

正保4年2月22日 二丸留守居

慶安4年11月26日 西丸裏門番頭

承応元年12月28日 布衣

明暦2年8月1日 留守居番

万治2年12月24日 500石300俵

寛文3年12月26日 留守居番を辞す。寄合

寛文4年12月14日 致仕。300俵。幽閑と号す

延宝3年3月17日 死す
雨宮重次 慶長元年 生。鵜右衛門
あめのみやしげつぐ
平兵衛昌茂の三男
寛政譜4・282
秀忠に仕える。大番

元和2年9月15日 徳川忠長に付属される

寛永9年 処士


家光に仕える。300石。大番

寛永13年5月1日 死す
天宮神社
遠江国周智郡
あめのみやじんじゃ




雨宮忠清
生。長次郎
あめのみやただきよ
次郎右衛門忠俊の長男
寛政譜16・294
母は曲淵清蔵吉次の女


秀忠により徳川忠長に付属される

寛永9年~ 家光に仕える

寛永15年12月18日 食禄を賜る

寛永15年12月18日 百俵御切米被下之 ●「日記」

寛文6年7月11日 父忠俊の遺跡を継ぐ。(350俵?)。小普請

天和2年11月2日 勘定

貞享3年9月23日 死す
雨宮政重 寛永2年 生。牛之助。十助。宇右衛門
あめのみやまさしげ
鵜右衛門重次の男
寛政譜4・282 寛永13年11月24日 父重次の遺跡を継ぐ。300石

寛永13年11月24日 雨宮宇右衛門三百石子牛之介跡目被仰付之 ●「日記」

寛永13年12月21日 はじめて家光に拝謁。大番

寛永13年12月21日 跡目之面々宇右衛門子雨宮十介(御目見) ●「日記」

寛文6年2月18日 大坂鉄炮奉行。300石100俵

元禄元年 死す
雨森半右衛門

あめのもりはんえもん
東本願寺門跡宣如光従に仕える

(寛永15年9月28日) (東本願寺門跡のあとに御目見) ●「日記」

(寛永16年4月13日) (東本願寺使) ●「日記」



綾小路

あやのこうじ
東福門院付女房

(寛永17年5月26日) (国母御方) ●「日記」



綾小路高有 文禄4年3月9日 生。侍従。少将。中将。参議
あやのこうじたかあり
丹後介資能の中絶家を継ぐ。五辻右兵衛督之仲の三男
諸家伝下・794
室は冷泉大納言為満の次女
宮廷公家系図集覧479 慶長18年7月13日 従五位下

慶長18年7月14日 元服。昇殿

慶長18年7月15日 侍従

慶長19年1月11日 権右少将

元和3年1月5日 従五位上

元和6年1月5日 正五位下

寛永2年1月5日 従四位下

寛永4年1月26日 右中将

寛永5年2月10日 従四位上

寛永9年1月5日 正四位下

寛永13年1月5日 従三位

寛永18年1月5日 正三位

寛永20年9月15日 参議

寛永20年10月15日 参議を辞す

正保元年1月25日 薨去
荒尾嵩就 文禄元年 生。主計。志摩。祐心
あらおたかなり
志摩隆重の養子。荒尾但馬成房の次男
因府年表1・4 ~慶長19年 隆重の養子となる
因府年表1・12 ~慶長19年 松平左衛門督池田忠継に仕える
因府年表2・34
8000石
因府年表3・29 寛文2年6月5日 隠居。1500石。祐心と号すか

寛文9年8月19日
荒尾成利 天正17年 生。駒之助。内匠。但馬。劉節
あらおなりとし
但馬守成房の長男
因府年表2・10
妻は池田信輝入道勝入の三女天球院の養女―


―池田河内守長政の長女高妙院

~慶長19年 松平左衛門督池田忠継に仕える

(寛永7年) 父成房の遺跡を継ぐか。1万石


1万3000石

寛永9年 伯耆国米子城を預かる。因幡国鳥取城に詰める

(承応元年) 致仕。劉節と号す

明暦元年10月12日
荒尾成直 元和4年 生。駒之助。大和。但馬。修理
あらおなりなお
但馬守成利の長男
因府年表4・27
妻は津田筑後元匡の女
因府年表5・36
松平宮内少輔池田忠雄に仕える

(承応元年) 父成利の家を継ぐか。1万3000石

延宝7年2月6日
荒尾成政
生。図書
あらおなりまさ
但馬守成房の五男
因府年表1・12 寛永9年 松平相模守池田光仲に仕える。伯耆国米子城番。1500石

(寛永11年7月25日) (松平勝五郎家老) ●「日記」



荒尾宣就 元和6年 生。主計。志摩
あらおのぶなり
志摩嵩就の男
因府年表1・35
妻は池田備中守長幸の四女
因府年表1・46
松平相模守池田光仲に仕える
因府年表2・7 (寛永13年12月1日) (松平庄五郎家老) ●「日記」
因府年表2・34 寛永16年11月24日 縁組あり
因府年表4・49 正保元年7月21日 1500俵

承応3年 1500石

寛文2年6月5日 父嵩就の家を継ぐ。8000石

天和3年5月16日 死す
荒尾久成 慶長7年 生。平八郎
あらおひさなり
但馬守成房の四男
寛政譜10・330
母は織田又六信直の女


妻は太田新六郎重正の女


後妻は蒲生飛騨守家臣木下久兵衛の女

慶長9年 証人として江戸にあり

元和3年 秀忠に仕える

元和4年 書院番。1000石

寛永10年2月7日 1200石

延宝2年5月12日 死す
荒川定安 慶長4年 生。右馬助。山城守。出羽守
あらかわさだやす
吉良上野介義定の次男
寛政譜2・221
母は今川刑部大輔氏真の女

元和5年2月 はじめて秀忠に拝謁

元和9年1月 書院番

元和9年12月 500石

寛永10年2月7日 700石

寛永13年9月27日 書院番組頭 ●「日記」共

寛永13年12月29日 布衣 ●「日記」共

(正保元年10月28日) (酒井壱岐守組頭) ●「日記」

慶安3年11月19日 書院番頭

慶安4年8月16日 従五位下・山城守

慶安4年11月21日 1700石

明暦2年5月26日 死す
荒川重照
生。勝十郎。長右衛門
あらかわしげてる
長兵衛重世の三男
寛政譜2・166
母は中山氏

元和9年11月8日 はじめて家光に拝謁

元和9年11月13日 小十人


100俵

寛永5年9月8日 小十人組頭

寛永5年9月16日 300俵

正保3年3月23日 家綱に付属される。三丸に勤仕

慶安3年9月4日 西丸小十人頭

慶安4年8月16日 布衣

慶安4年11月21日 600俵


本丸に勤仕

明暦3年10月29日 死す
荒川重政
生。七兵衛
あらかわしげまさ
長兵衛重世の次男
寛政譜2・162
母は中山氏

元和4年9月10日 はじめて家光に拝謁。大番。150俵


300俵

寛永10年2月7日 500石

(寛永18年3月1日) (大久保右京亮教隆組もしくは皆川山城守隆庸組) ●「日記」

慶安2年3月7日 葛西御殿奉行

承応2年12月9日 大番組頭

万治元年11月6日 死す
荒川長左衛門
生。太郎八。長左衛門
あらかわちょうざえもん
七兵衛重政の長男
寛政譜2・163 寛永18年3月1日 はじめて家光に拝謁

寛永18年3月1日 樽代前ニ置一同ニ御目見 ●「日記」

慶安2年12月26日 大番

万治元年閏12月18日 父重政の遺跡を継ぐ。500石

延宝7年 死す
荒川長吉 慶長元年 生。四郎兵衛
あらかわながよし
又六郎忠吉の次男
寛政譜2・167
妻は永井勘九郎吉勝の女


はじめて家光に拝謁


小十人。月俸を賜る

寛永19年12月16日 100俵加増

寛永19年12月16日 御加恩百俵被下之日来御切米共ニ弐百俵被仰付 ●「日記」

慶安2年2月25日 納戸番。100俵加増


納戸番を辞す。小普請

延宝2年6月20日 死す
荒川持暇
生。八左衛門。権之助。丹波守
あらかわもちやす
出羽守定安の長男
寛政譜2・221
300石

寛永13年6月4日 手水番 ●「日記」共

(寛永14年7月17日) (権佐の初出) ●「日記」

寛永15年12月30日 従五位下・丹波守

寛永15年12月30日 諸大夫 ●「日記」

(寛永16年1月1日) (丹波守の初出) ●「日記」

寛永16年12月25日 膳番。700石

寛永16年12月25日 七百石知行被下之御膳番被仰付 ●「日記」

寛永16年12月26日 四百石之御加恩 ●「日記」

寛永17年2月8日 父定安に召し預けられる ●「日記」共


以下不詳
荒木
あらき
荒木摂津守村重の四女
寛政譜13・370
崇源院・家光に仕える。荒木と称す


甥左馬助村常の養母となる

正保元年5月10日 土岐山城守頼行に召し預けられる

正保元年5月10日 女中荒木義森川長左衛門尉ト申町人母松山并長左衛門被相頼掠公義―


―御内々ノ上意之様申成長左衛門ヲ銀座成年寄依之荒木事土岐山城守ニ―


―御預息荒木左馬助細川肥後守御預長左衛門并松山男子之分昨夕断罪―


―被仰付也次銀座年寄平野平左衛門尉事荒木被頼取持之故思召不届―


―彼座中除之 ●「日記」



荒木小兵衛

あらきこひょうえ
権左衛門の兄

(正保元年8月9日) (二丸遠侍之御番) ●「日記」

正保元年8月9日 弟権左衛門重科ニ付新庄越前守ニ被召預之 ●「日記」



荒木権左衛門

あらきごんざえもん
小兵衛の弟

(正保元年8月9日) (初鹿野伝右衛門組之御徒) ●「日記」

正保元年8月9日 (同組の山田八左衛門を斬殺し殺害される) ●「日記」
荒木村常
生。十二郎。左馬助
あらきむらつね
新五郎村次の次男
寛政譜13・370
母は碓井因幡守の女


養母は荒木摂津守村重の四女大奥女中荒木


浅野但馬守長晟に扶助される


嶋原の役にて細川肥後守光尚に属す。松平伊豆守信綱顧問

寛永19年11月29日 はじめて家光に拝謁

寛永20年1月18日 以太刀目録今度被召出御礼申上之 ●「日記」

寛永20年1月19日 家光に仕える

寛永20年12月18日 500石

寛永20年12月18日 五百俵 ●「日記」

正保元年5月10日 養母荒木に連座。細川肥後守光尚に召し預けられる


以下不詳
荒木元政 慶長4年 生。四兵衛。十左衛門
あらきもとまさ
十左衛門元満の男
寛政譜13・364
妻は浅井備前守家臣生田右京正澄の女

元和2年12月7日 秀忠に仕える

寛永3年 父元満とともに徳川忠長に付属される

(寛永9年) 松平出羽守直政に召し預けられる

寛永13年12月10日 赦免。家光に仕える

寛永13年12月10日 御赦免 ●「日記」

寛永14年12月23日 書院番


馬を預かる

寛永15年12月6日 1500石 ●「日記」共

(寛永20年9月26日) (十左衛門の初出) ●「日記」

明暦2年7月28日 使役

寛文11年10月11日 使役を辞す

寛文11年10月16日 死す
有泉昌資
生。太郎左衛門
ありいずみまさすけ
大学助信閑の男
寛政譜18・268
家康・秀忠に仕える


父信閑の遺跡を継ぐ。150石

慶長19年 大坂の役にて武川衆とともに本多佐渡守正信に属す

元和元年 大坂の役にて武川衆とともに本多佐渡守正信に属す

元和9年 徳川忠長に付属される

(寛永9年) 処士。月俸を扶助される

寛永16年閏11月7日 家光に仕える。天守番。150石

寛永18年8月28日 死す
有泉政次
生。源之丞。太郎左衛門
ありいずみまさつぐ
太郎左衛門昌資の男
寛政譜18・268 寛永18年12月4日 父昌資の遺跡を継ぐ。150石。天守番

寛永18年12月4日 百五十石御天主番有泉太郎左衛門跡惣領源之丞ニ被下之 ●「日記」

(貞享3年) 死す
有賀種親 慶長12年 生。半左衛門
ありがたねちか
半三郎種次の男
寛政譜6・203
妻は永田弥左衛門重春の女


後妻は依田五兵衛の女

元和2年 はじめて秀忠に拝謁

元和7年 父種次の遺跡を継ぐ。250石

寛永元年 番をつとめる

寛永19年8月18日 台所方賄

(寛永19年8月18日) (大久保藤三郎御台所方御賄有賀半左衛門ニ被召加之) ●「日記」

正保3年12月4日 400石

寛文元年10月6日 死す
有田貞吉
生。藤兵衛。九郎兵衛
ありたさだよし
九郎兵衛吉久の次男
寛政譜8・46
妻は土屋惣三郎の女

寛永9年 小十人

寛永19年12月16日 御加恩百俵被下之日来御切米共ニ弐百俵被仰付 ●「日記」

正保2年閏5月2日 家綱に付属される

慶安3年9月4日 西丸納戸番

(慶安4年) 本丸に勤仕

寛文元年12月10日 父吉久の遺跡を継ぐ。320石


納戸番を辞す。小普請

延宝元年9月26日 死す
有田吉久 天正17年 生。九郎兵衛
ありたよしひさ
九郎兵衛吉貞の男
寛政譜8・46
家康・秀忠に近侍

(慶長13~16年) 父吉貞の遺跡を継ぐ。120石。大番


320石

寛永10年2月7日 520石

寛永16年3月7日 土蔵番頭 ●「日記」共

寛文元年閏8月2日 死す
有馬壱岐

ありまいき


(寛永20年4月9日) (有馬中務家老) ●「日記」



有馬内蔵助

ありまくらのすけ


(寛永20年4月9日) (有馬中務家老) ●「日記」



有馬監物

ありまけんもつ


(寛永20年4月9日) (有馬中務家老) ●「日記」



有馬重良 慶長9年 生。八十郎。主殿。石見守
ありましげよし
内蔵助重泰の長男
寛政譜8・62
母は堀尾帯刀吉晴の女

寛永元年9月 はじめて秀忠に拝謁

寛永2年 小姓組。500俵

寛永7年12月 従五位下・石見守

寛永9年11月5日 小姓組・進物役

寛永9年11月5日 本番御免。進物番 ●「日記」

寛永10年2月7日 700石

寛永17年4月~ 小姓組を辞す

慶安4年7月14日 死す
有馬忠頼 慶長8年 生。吉法師。中務少輔。兵部大輔。中務少輔。中務大輔
ありまただより
玄蕃頭豊氏の長男
寛政譜8・54
母は家康の養女連姫松平源七郎康直の女長寿院


室は酒井雅楽頭忠世の養女

慶長16年 はじめて家康・秀忠に拝謁

慶長18年 営中にて元服。従五位下・中務少輔。偏諱を賜る

元和3年 兵部大輔

寛永15年4月 中務少輔


中務大輔

寛永15年6月10日 有馬兵部少輔事祖父名中務大輔と改名度之旨依申上之―


―中務太輔ニ被仰付之 ●「日記」

寛永19年11月5日 父豊氏の遺領を継ぐ。筑後国久留米城21万石

寛永19年11月5日 家督被仰付之 ●「日記」

寛永20年12月29日 従四位下

寛永20年12月29日 四品 ●「日記」

明暦元年3月20日
有馬豊氏 永禄12年 生。万助。玄蕃頭。侍従
ありまとようじ
中務少輔則頼の次男
寛政譜8・53
母は別所志摩守忠治の女


室は家康の養女連姫松平源七郎康直の女長寿院


秀吉に仕える。3000石

文禄3年6月 従五位下・玄蕃頭

文禄4年8月 遠江国横須賀城3万石

慶長5年6月 輿入れあり

慶長5年12月13日 丹波国福知山城6万石

慶長7年 丹波国福知山城8万石

元和6年閏12月8日 筑後国久留米城21万石

寛永3年8月19日 従四位下

寛永11年7月16日 侍従 ●「日記」共

(寛永12年1月2日) (久留米侍従の初出) ●「日記」

(寛永12年12月21日) (御咄之衆) ●「日記」

寛永19年閏9月30日
有馬豊氏次女
寛政譜8・55
有馬玄蕃頭豊氏の次女
寛政譜15・9 寛永13年1月15日 有馬玄蕃頭小出大和守祝言之御礼申上 ●「日記」


小出修理亮吉重に嫁ぐ

寛永14年 小出備前守英安を産む


女子を産む


女子を産む。のちの大関信濃守増栄の室


女子を産む。のちの土方伊賀守雄隆の室


女子を産む


小出左門を産む


女子を産む。のちの谷出羽守衛広の室

正保3年 有馬伊予守豊祐を産む。有馬中務大輔忠頼の養子


女子を産む。のちの尾張家老成瀬隼人正正親の妻


女子を産む。のちの立花主膳種明の室

慶安4年 小出権之助英直を産む


以下不詳
有馬豊長 慶長6年 生。大学。出雲守
ありまとよなが
中務少輔則頼の四男
寛政譜8・60
妻は水野監物忠元の女


後妻は紀伊家老水野出雲守重央の女

慶長11年 はじめて家康・秀忠に拝謁

元和2年 秀忠に仕える


小姓

元和6年 3000石

元和7年 従五位下・出雲守

寛永10年7月2日 後妻と縁組 ●「日記」

慶安4年4月 日光山へ家光の霊柩に従う


小姓を辞す。寄合

延宝3年4月15日 死す
有馬内記

ありまないき
有馬玄蕃頭豊氏に仕える

(寛永12年12月8日) (有馬玄蕃頭家来) ●「日記」



有馬直純 天正14年 生。大吉。左衛門佐
ありまなおずみ
修理大夫晴信の長男
寛政譜12・191
母は家臣山田兵部純規の女


室は家康の養女本多美濃守忠政の女国姫栄寿院

(慶長5年) 家康に拝謁。家康に近侍

慶長15年 輿入れあり

慶長17年3月18日 父晴信の所領を賜る。肥前国有馬4万石

慶長19年7月 日向国延岡城5万3000石

寛永18年4月25日

寛永18年4月30日 有馬左衛門佐当年為交替参上之道中より所労在留大坂色々雖加療養―


―不相叶去廿五日死去之由彼地定番衆より注進之 ●「日記」
有馬直純四女
寛政譜12・192
有馬左衛門佐直純の四女
寛政譜15・190
母は家康の養女本多美濃守忠政の女国姫栄寿院

寛永10年7月2日 秋元越中守富朝と縁組 ●「日記」


女子を産む。のちの戸田山城守忠昌の室



有馬信堅 慶長12年 生。長門守
ありまのぶかた
玄蕃頭豊氏の次男
寛政譜8・55
母は家康の養女連姫松平源七郎康直の女長寿院


家光に仕える。小姓

~寛永3年 従五位下・長門守

寛永10年3月27日 死す
有馬則頼 天文2年 生。中務少輔。兵部卿法印
ありまのりより
筑後守重則の男
寛政譜8・52
母は細川右京大夫澄元の女


室は別所志摩守忠治の女


播磨国三木淡河城に住す


秀吉に仕える。1万石

慶長6年1月18日 摂津国三田城2万石

慶長7年7月28日
有馬主水

ありまもんど
有馬玄蕃頭豊氏に仕える

(寛永12年12月8日) (有馬玄蕃頭家来) ●「日記」



有馬康純 慶長18年 生。大助。蔵人。左衛門佐。緞宿
ありまやすすみ
左衛門佐直純の長男
寛政譜12・192
母は家康の養女本多美濃守忠政の女国姫栄寿院


室は水野隼人正忠清の女


継室は阿部豊後守忠秋の養女阿部修理亮政澄の女

元和2年 家康より偏諱を賜る。証人として江戸に住す

寛永3年9月1日 従五位下

寛永10年 命により継室と婚姻

寛永18年 父直純の遺領を継ぐ。日向国延岡城5万石

寛永18年8月1日 有馬蔵人御礼綿黄金太刀目録進上之同八兵衛御礼太刀目録進上之―


―是亡父左衛門佐遺跡被仰付之也 ●「日記」

寛永20年9月27日 火消 ●「日記」

寛永19年~ 左衛門佐

(正保元年4月25日) (左衛門佐の初出) ●「日記」

延宝7年11月27日 致仕。緞宿と号す

元禄5年4月12日
有馬頼次 慶長16年 生。加賀守。伯耆守
ありまよりつぐ
玄蕃頭豊氏の三男
寛政譜8・58
母は家康の養女連姫松平源七郎康直の女長寿院

元和3年 はじめて秀忠に拝謁

元和4年 徳川忠長に付属される


1万石

寛永5年1月1日 従五位下・加賀守

寛永9年 勘気を蒙る。父豊氏に召し預けられる

寛永13年12月10日 赦免 ●「日記」共

(寛永16年4月5日) (伯耆守の初出) ●「日記」

寛永17年10月15日 家光に拝謁

寛永17年10月15日 有馬玄蕃頭次男伯耆御礼太刀目録呉服三進上之 ●「日記」

慶安2年3月9日 死す
有吉頼母

ありよしたのも


(寛永18年11月1日) (細川肥後守家老) ●「日記」



粟津右近

あわづうこん
東本願寺門跡宣如光従に仕える

(寛永13年5月6日) (東本願寺内) ●「日記」



粟津清定
生。喜四郎。喜兵衛
あわづきよさだ
又八郎頼清の長男
寛政譜19・193 元和2年


徒組頭


鳥見役

寛永20年9月6日 御徒組頭粟津喜兵衛御鳥見被仰付候間在々所々可有之依為―


―作事料金子被下之 ●「日記」

(寛文9年) 死す
粟津職善
生。宮内大丞。因幡守。御蔵と称すか
あわづもとよし
出納(平田)兵庫頭職久の男
地下家伝上・371
母は多讃岐守忠宗の女
宮廷公家系図集覧577 天正14年12月22日 出納大蔵大輔職忠の弟として御蔵小舎人に取立。宮内大丞

慶長17年1月5日 従五位下

元和元年1月11日 因幡守

元和6年1月5日 従五位上

(寛永11年7月21日) (御蔵因幡守) ●「日記」

某年
安西定之 元和6年 生。(彦六郎)。彦次郎。六郎右衛門
あんざいさだゆき
右馬允正重の養子。大久保藤三郎正栄の次男
寛政譜10・16
母は小笠原氏


妻は右馬允正重の女

寛永15年12月21日 養父正重の遺跡を継ぐ。850石

寛永15年12月21日 八百五十石右馬允跡目安西彦六郎 ●「日記」

寛永16年12月 大番

万治元年6月19日 大番組頭

延宝3年 大番組頭を辞す。小普請

元禄10年1月14日 死す
安西寺
駿河国府中。時宗
あんざいじ




安西正重 天正11年 生。兵部。文右衛門。右馬允。はじめ楠を称す
あんざいまさしげ
楠七郎右衛門正家の男
寛政譜10・16
妻は北条家臣三富甚左衛門の女


松平上総介忠輝に仕える

元和2年7月27日 秀忠に仕える。500石。大番

寛永2年12月11日 850石の朱印

寛永14年 死す
安西元真 天正19年 生。甚兵衛。元真
あんざいもとざね
弥右衛門安勝の男
寛政譜10・13
妻は五味備前守豊直の女


後妻は太田庄兵衛重吉の女

慶長9年 秀忠に仕える

慶長12年 焼火間番


200俵

元和9年 腰物役

寛永9年6月27日 小納戸 ●「日記」共

寛永11年1月13日 400俵

寛永11年1月13日 弐百俵御加恩 ●「日記」

寛永15年4月14日 800石

寛永15年4月14日 四百石御加増被下之甚兵衛四百俵之御切米―


―地方被為直之以上八百石被仰付云々 ●「日記」

寛永16年6月11日 1300石 ●「日記」共

寛永18年 布衣

寛永20年8月7日 新番頭

寛永20年8月7日 奥方新御番所之頭 ●「日記」

承応2年3月28日 先弓頭

万治2年5月11日 先弓頭を辞す

万治2年12月23日 致仕。300俵。元真と号す

寛文11年7月13日 死す
安西元仙
生。猪之助。次郎兵衛。甚兵衛
あんざいもとのり
甚兵衛元真の次男
寛政譜10・14
母は太田庄兵衛重吉の女


妻は松平彦大夫政勝の女

寛永15年1月15日 書院番 ●「日記」共


小姓組


廩米を賜る

慶安3年9月3日 西丸小姓組

(慶安4年) 本丸に勤仕

万治2年12月23日 父元真より分知。300石


小姓組を辞す。小普請

元禄9年 死す
安西元春
生。弥十郎
あんざいもとはる
甚兵衛元真の長男
寛政譜10・13
母は太田庄兵衛重吉の女


妻は中川半左衛門光重の女

寛永11年2月8日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永12年6月 小姓組

万治2年12月23日 父元真の家を継ぐ。1000石

寛文9年~ 小姓組を辞す。小普請

寛文12年9月9日 死す
按田神主
遠江国安田か
あんだかんぬし




安藤蔵人

あんどうくろうど
生駒壱岐守高俊に仕える

(寛永17年7月26日) (生駒壱岐守家中) ●「日記」

寛永17年7月26日 子共迠死罪 ●「日記」



安藤源右衛門

あんどうげんえもん
内藤左馬助政長の家老



安藤源大夫

あんどうげんだゆう
藤堂大学頭高次に仕える

(寛永12年6月1日) (藤堂大学頭家老) ●「日記」



安藤定勝 慶長18年 生。九右衛門
あんどうさだかつ
伝十郎定智の長男
寛政譜17・187
母は松平陸奥守家臣塚田五左衛門の養女


妻は中山勘解由直定の女

寛永4年 はじめて家光に拝謁

寛永10年 書院番

寛永13年11月24日 父定智の遺跡を継ぐ。1000石

寛永13年11月24日 安藤伝十郎千七百之内千石兄九右衛門七百石弟伝右衛門―


―跡目被仰付之 ●「日記」

寛永13年12月21日 跡目之面々(御目見) ●「日記」


書院番を辞す。小普請

延宝8年8月4日 死す
安藤定武
生。忠五郎
あんどうさだたけ
三郎右衛門定正の男
寛政譜17・207 慶長8年 はじめて秀忠に拝謁。秀忠に仕える

(慶長9年) 父定正の遺跡を継ぐか

寛永15年5月8日 土圭間番 ●「日記」共

寛永18年8月25日 殺生方 ●「日記」共

明暦3年 死す
安藤定次 元和6年 生。伝右衛門
あんどうさだつぐ
伝十郎定智の次男
寛政譜17・189
母は松平陸奥守家臣塚田五左衛門の養女


妻は三宅弥次兵衛正勝の女

寛永8年 はじめて家光に拝謁

寛永13年11月24日 父定智の遺跡分知。700石

寛永13年11月24日 安藤伝十郎千七百之内千石兄九右衛門七百石弟伝右衛門―


―跡目被仰付之 ●「日記」

寛永13年12月21日 跡目之面々(御目見) ●「日記」

寛永13年12月27日 書院番 ●「日記」共

慶安3年9月3日 家綱に付属される。西丸に伺候

慶安4年6月14日 本丸に勤仕

万治元年9月1日 徒頭

万治元年閏12月25日 700石300俵

万治元年閏12月28日 布衣

天和2年4月21日 1200石300俵

天和3年7月29日 死す
安藤定智 天正14年 生。伝十郎
あんどうさだとも
九右衛門定正の三男
寛政譜17・187
妻は松平陸奥守家臣塚田五左衛門の養女

慶長14年 はじめて秀忠に拝謁。書院番。300俵

慶長19年 大坂の役にて青山伯耆守忠俊に属す

元和元年 大坂の役にて青山伯耆守忠俊に属す


800石

元和9年 徒頭

寛永元年 持弓頭。足軽55人を預かる。1000石

寛永9年6月25日 馬上同心10人足軽55人を預かる

寛永9年6月25日 馬上同心10騎 ●「日記」

寛永10年12月27日 1700石

寛永10年12月27日 七百石御加恩 ●「日記」

寛永13年9月2日 死す
安藤重長 慶長5年 生。勝蔵。式部。伊勢守。右京進
あんどうしげなが
対馬守重信の養子。本多藤四郎の長男
寛政譜17・176
母は対馬守重信の女


室は尾張家臣志水甲斐守忠宗の女


対馬守重信の養子となる

慶長14年 はじめて家康に拝謁

~慶長19年 秀忠に仕える

元和元年閏6月19日 従五位下・伊勢守


右京進

元和5年 2000石

元和7年 養父重信の遺領を継ぐ。上野国高崎城5万6600石

寛永2年 書院番頭

寛永9年 駿河大納言徳川忠長を預かる

寛永9年9月22日 夜詰 ●「日記」

寛永10年6月27日 上野国高崎城6万6600石

寛永10年6月27日 御加恩被下置之都合六万六千六百石余 ●「日記」

寛永11年1月29日 火事之砌至火本罷越万事可申付 ●「日記」

寛永11年 領知朱印を奉行

寛永12年11月9日 寺社奉行

寛永12年11月9日 諸国寺社方訴訟之儀承届可致言上 ●「日記」

寛永14年 寺社奉行・奏者番

(寛永16年1月1日) (奏者番) ●「日記」

寛永19年閏9月29日 安藤右京進太田備中守松平出雲守水野備後守御座之間へ被召出―


―何ニても存寄之義於有之は老中相談之上可致言上下ニて―


―不可相斗之旨被仰付之云々 ●「日記」

明暦3年9月29日
安藤重長長女
寛政譜17・177
安藤右京進重長の長女
寛政譜11・332
母は尾張家臣志水甲斐守忠宗の女

寛永12年8月6日 安藤右京進娘丹羽左京嫁娶被仰付之 ●「日記」

寛永13年9月28日 丹羽五郎左衛門安藤右京進子共祝言付て御礼 ●「日記」


丹羽左京大夫光重に嫁ぐ

寛永20年 丹羽左京大夫長次を産む


女子を産む。のちの松平伊予守池田綱政の室


安藤重長次女
寛政譜17・177
安藤右京進重長の次女
寛政譜10・335
母は尾張家臣志水甲斐守忠宗の女

寛永15年11月7日 縁辺組安藤右京亮娘秋田左近 ●「日記」


秋田安房守盛季に嫁ぐ


女子を産む。のちの伊東大和守祐実の室


女子を産む。早世か


秋田東太郎を産む。早世

慶安2年 秋田信濃守輝季を産む


以下不詳
安藤重矩
生。九郎左衛門。乾我
あんどうしげのり
対馬守重信の養子。本多藤四郎の三男
寛政譜17・184
妻は蔭山因幡守貞広の女

寛永9年12月15日 はじめて家光に拝謁

寛永9年12月15日 御目見 ●「日記」

慶安2年12月26日 小姓組

慶安3年9月3日 家綱に付属される。西丸に伺候

慶安4年6月14日 本丸に勤仕

承応元年12月18日 1000俵

寛文2年9月15日 使番

寛文4年12月28日 布衣

寛文6年5月10日 先鉄炮頭

延宝6年1月11日 旗奉行

延宝7年12月18日 1000石

天和2年4月21日 1700石

天和3年3月19日 旗奉行を辞す

天和3年12月21日 致仕。300俵。乾我と号す

貞享元年11月11日 死す
安藤重元 慶長8年 生。四郎右衛門。伊賀守
あんどうしげもと
対馬守重信の養子。本多藤四郎の次男
寛政譜17・183
母は対馬守重信の女


妻は阿部備中守正次の三女

寛永3年5月3日 はじめて家光に拝謁

寛永4年 書院番

寛永6年 500俵

寛永9年8月18日 使番。布衣

寛永9年8月18日 使番 ●「日記」

寛永10年4月9日 小姓組組頭 ●「日記」共

寛永12年 1500石

寛永13年10月16日 阿部備中守娘安藤四郎右衛門縁辺被仰付 ●「日記」

寛永13年12月29日 従五位下・伊賀守

寛永13年12月29日 諸大夫ニ被仰付之 ●「日記」

(寛永15年12月5日) (伊賀守の初出) ●「日記」

寛永15年12月5日 小姓組番頭 ●「日記」共

寛永19年12月15日 2000石 ●「日記」共

慶安4年11月21日 2000石1000俵

明暦2年1月15日 書院番頭

万治元年6月21日 大番頭

寛文8年10月1日 死す
安藤重之 元和9年 生。伊勢千代。式部。式部少輔
あんどうしげゆき
右京進重長の長男
寛政譜17・177
母は尾張家臣志水甲斐守忠宗の女


室は藤堂大学頭高次の次女養徳院

寛永12年8月6日 嫁娶被仰付之 ●「日記」

(寛永15年12月30日) (式部の初出) ●「日記」

寛永15年12月30日 従五位下・式部少輔

寛永15年12月30日 諸大夫ニ被仰付之 ●「日記」

(寛永17年6月16日) (式部少輔の初出) ●「日記」

寛永18年11月12日
安藤忠次
生。市郎兵衛。外家の号安藤を称す
あんどうただつぐ
巨海彦八郎忠正の次男
寛政譜3・184
母は安藤次右衛門定次の女

慶長15年 秀忠に仕える。小姓組

~寛永3年 200俵

寛永10年2月7日 400石

寛永16年~ 目付

慶安3年9月3日 西丸に伺候

(慶安4年) 本丸に勤仕

慶安4年8月16日 布衣

慶安4年11月21日 400石300俵

寛文6年5月13日 目付を辞す

寛文6年 死す
安藤忠利
生。太郎兵衛
あんどうただとし
市郎兵衛忠次の長男
寛政譜3・184 寛永15年 はじめて家光に拝謁

寛永15年10月24日 書院番 ●「日記」共

寛永18年4月12日 逼塞 ●「日記」共

寛永18年9月5日 赦免

寛永18年9月5日 御赦免仕来御役如前々可相勤 ●「日記」

万治元年閏12月19日 書院番。進物役

寛文6年12月11日 父忠次の遺跡を継ぐ。400石300俵

元禄2年12月14日 致仕


以下不詳
安藤太郎兵衛娘
寛政譜5・418
安藤太郎兵衛の女


高木玄済に嫁ぐ

寛永18年4月22日 高木玄斎御目見是京都より妻子引越罷下付て也 ●「日記」


以下不詳
安藤忠兵衛
正綱かその子孫か。寛政譜17・191
あんどうちゅうびょうえ
紀伊家老






安藤長太郎

あんどうちょうたろう
蔵人の男か? 生駒壱岐守家来の誤りか

(寛永17年7月26日) (松平石見守家来) ●「日記」

寛永17年7月26日 切腹か ●「日記」



安藤次吉 元亀元年 生。弥兵衛
あんどうつぐよし
太郎左衛門家次の三男
寛政譜17・191
妻は榊原伊豆守の女

天正18年 家康に仕える


佐渡国代官


三河国三嶋代官


伊勢国山田奉行

寛永4年11月3日 450石

(寛永11年6月26日) (駿府御賄人) ●「日記」

承応3年3月8日 死す
安藤直次 天文23年 生。千福丸。彦四郎。彦兵衛。帯刀
あんどうなおつぐ
杢助基能の長男
寛政譜17・169
室は中根助右衛門の女


また本多庄左衛門信俊の女


幼少より家康に近侍

天正19年5月17日 1000石

慶長5年 関ケ原で使番をつとめる

慶長10年1月15日 3030石


家康の近習。国政をあずかりきく


従五位下・帯刀


8030石。与力足軽を付属される

慶長12年 1万3030石

慶長15年 徳川頼宣に付属される。家康近習を兼務

元和3年 遠江国掛川城2万石

元和5年 紀伊国田辺3万8800石

寛永12年5月13日
安藤直治 慶長12年 生。長次郎。彦兵衛。飛騨守
あんどうなおはる
帯刀直次の次男
寛政譜17・171
徳川頼宣に仕える

寛永11年7月 従五位下・飛騨守

寛永12年 父直次の遺跡を継ぐ。紀伊国田辺3万8800石

寛永12年7月12日 継目之御礼 ●「日記」

寛永13年9月2日 死す

寛永13年9月14日 安藤飛騨守死去ニ付紀伊亜相え御内書被遣之 ●「日記」
安藤直政 慶長16年 生。山三郎。彦四郎。江山
あんどうなおまさ
彦四郎重能の養子。井伊兵部少輔家臣椋原壱岐政長の男
寛政譜17・173
母は安藤帯刀直次の長女


妻は彦四郎重能の長女


後妻は稲垣摂津守重綱の女

(元和元年) 養父重能戦死のため秀忠の命によりその女を妻とし家跡を継ぐ。―


―1000石


幼年にして家光に仕える


祖父直次より分知。4030石


小姓組

寛永15年11月7日 縁辺組稲垣摂津守娘安藤彦四郎 ●「日記」

~寛永19年 小姓組を辞す。寄合

承応2年10月16日 先鉄炮頭

承応2年12月28日 布衣

寛文元年3月7日 百人組頭

延宝4年4月10日 百人組頭を辞す

延宝5年3月7日 致仕。江山と号す

貞享4年1月21日 死す
安藤正珍 慶長9年 生。次右衛門
あんどうまさよし
次右衛門正次の長男
寛政譜17・196
妻は井伊兵部少輔家臣椋原壱岐政長の女

元和元年 はじめて秀忠に拝謁。父正次の遺跡を継ぐ。2000石

元和5年 小姓組

寛永7年6月29日 徒頭

寛永9年11月27日 布衣 ●「日記」共

寛永10年2月19日 宇治茶詰

寛永10年4月16日 鎗奉行 ●「日記」共

寛永10年12月28日 2540石

寛永10年12月28日 五百石御加恩 ●「日記」

慶安4年4月 日光山へ家光の霊柩に従う

寛文6年11月12日 死す
安藤正頼
生。与十郎。備後守
あんどうまさより
次右衛門正次の次男
寛政譜17・198
妻は安藤半之丞の女

元和9年 家光に仕える。小姓組。300俵

寛永9年 書院番

寛永10年2月7日 500石

寛永19年10月16日 家綱に付属される ●「日記」共

寛永20年1月10日 布衣 ●「日記」共

正保4年12月5日 800石

慶安3年9月8日 守役

(慶安4年) 本丸に勤仕

慶安4年8月16日 従五位下・備後守

慶安4年11月21日 1300石

万治3年12月1日 2000石

寛文元年7月21日 務を辞す

寛文3年4月26日 死す
安藤義門 寛永13年 生。千福丸。帯刀
あんどうよしかど
飛騨守直治の男
寛政譜17・171
妻は松平右近将監成重の女

寛永13年 父直治の遺跡を継ぐ。紀伊国田辺3万8800石

寛永16年4月29日 紀伊亜相陪臣安藤飛騨守遺跡相続付て息千福太刀目録進上之―


―太田備中守披露次安藤忠兵衛以太刀目録御礼申上―


―是依為千福幼少万事仕置等為可申付亜相ヨリ千福ニ―


―被付置云々 ●「日記」

慶安元年10月1日 はじめて家光に拝謁

承応元年12月29日 従五位下。帯刀

承応3年8月6日 死す
安寧寺
遠江国浜松。臨済宗
あんねいじ




安養寺
駿河国府中。曹洞宗
あんようじ




安養寺佐渡

あんようじさど
松平相模守池田光仲に仕える

(寛永16年3月15日) (松平相模守家中之証人安養寺佐渡子大学) ●「日記」



安養寺大学

あんようじだいがく
佐渡の男

(寛永16年3月15日) (松平相模守家中之証人安養寺佐渡子大学) ●「日記」



安楽寺
下総国稲毛
あんらくじ




飯尾宗兵衛

いいおそうびょうえ
生駒壱岐守高俊に仕える

(寛永17年7月26日) (生駒壱岐守家中) ●「日記」

寛永17年7月26日 子共迠死罪 ●「日記」



飯河方好 文禄4年 生。善左衛門
いいかわかたよし
新右衛門盛之の四男
寛政譜10・42 慶長19年 秀忠に仕える。大番。300石

明暦2年1月27日 死す
飯河直信 元和4年 生。兵十郎。新右衛門
いいかわなおのぶ
新右衛門盛信の養子。遠野勘六郎弘保の次男
寛政譜10・41
母は飯河新右衛門盛之の女


妻は新右衛門盛信の次女


後妻は向井左近将監忠勝の女

寛永8年6月25日 はじめて家光に拝謁

寛永10年6月1日 大番

寛永15年12月6日 養父盛信の遺跡を継ぐ。500石

寛永15年12月6日 伊郷新右衛門跡五百石惣領被下之 ●「日記」

慶安元年6月4日 大番組頭

承応元年12月22日 500石200俵


蟄居

万治元年4月17日 ゆるされる

寛文4年2月4日 大番組頭を辞す。小普請

延宝5年12月15日 死す
飯河盛景 元和7年 生。山三郎。平四郎
いいかわもりかげ
藤次郎盛政の長男
寛政譜10・38 寛永9年8月19日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

(寛永9年8月19日) (伊郷山三郎) ●「日記」

寛永15年10月24日 大番 ●「日記」共


200俵


大番を辞す

明暦2年8月24日 死す
飯河盛信 文禄2年 生。兵十郎。新右衛門
いいかわもりのぶ
新右衛門盛之の三男
寛政譜10・40 慶長15年 秀忠に仕える。大番。300石

寛永10年2月7日 500石

寛永15年6月16日 死す
飯河盛政 天正15年 生。藤次郎
いいかわもりまさ
新右衛門盛之の長男
寛政譜10・38 慶長7年 はじめて秀忠に拝謁


大番

慶長11年 父盛之の遺跡を継ぐ

寛永2年11月12日 220石の朱印


320石

寛永10年2月7日 520石

寛永11年3月26日 大坂弓矢奉行 ●「日記」共

(寛永11年3月26日) (伊郷藤次郎) ●「日記」

万治元年1月16日 死す
飯田在勝
生。三大夫
いいだありかつ
清左衛門在久の長男
寛政譜3・139
母は芝山小兵衛正信の女

寛永16年10月26日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共


大番

寛永20年12月18日 200俵 ●「日記」共

慶安3年12月11日 父在久の遺跡を継ぐ。300石

慶安4年2月4日 死す。断絶
飯田在久 (~慶長4年) 生。清左衛門
いいだありひさ
右馬助昌在の長男
寛政譜3・139
妻は芝山小兵衛正信の女

元和元年 父昌在の遺跡を継ぐ。300石


大番

寛永9年7月2日 小普請奉行 ●「日記」共

(寛永10年6月9日) (破損奉行) ●「日記」

(寛永18年12月29日) (小普請奉行) ●「日記」

慶安3年2月20日 死す
飯高貞勝
生。七兵衛
いいたかさだかつ
弥五兵衛貞次の次男
寛政譜18・117
母は奈良氏

寛永6年8月23日 はじめて家光に拝謁

寛永6年 右筆。200俵

明暦元年12月28日 300俵

寛文3年12月26日 400俵

寛文10年12月25日 500俵

寛文12年5月24日 死す
飯高貞次 天正3年 生。弥五兵衛
いいたかさだつぐ
主水貞政の男
寛政譜18・114
妻は奈良氏

天正15年 はじめて家康に拝謁

~文禄元年 家康に仕える

慶長5年~慶長17年 父貞政の家を継ぐ。170石30俵

元和7年 大坂蔵奉行

寛永15年8月12日 死す
飯高貞成 慶長7年 生。吉兵衛。弥五兵衛
いいたかさだなり
弥五兵衛貞次の長男
寛政譜18・114
母は奈良氏


妻は久留忠兵衛正吉の女

元和4年 はじめて秀忠に拝謁

寛永9年 家光に仕える。廩米を賜る


鳥見役か

(寛永13年8月23日) (昨日初て御鷹野ニ当年初て被為成付て(銀子)被下之 ●「日記」

寛永15年12月16日 父貞次の遺跡を継ぐ。170石30俵

寛永15年12月16日 飯高弥五兵衛跡職吉兵衛ニ被下之大坂ニて被下来候御切米ハ―


―上ル吉兵衛被下来候御切米子三四郎ニ被下之 ●「日記」

明暦3年10月25日 大坂蔵奉行

寛文5年 大坂蔵奉行を辞す。小普請

寛文8年9月2日 死す
飯高貞久 寛永5年 生。三四郎。伝八郎
いいたかさだひさ
弥五兵衛貞次の五男
寛政譜18・122
母は奈良氏

寛永15年12月16日 兄吉兵衛貞成の廩米を賜る

寛永15年12月16日 飯高弥五兵衛跡職吉兵衛ニ被下之大坂ニて被下来候御切米ハ―


―上ル吉兵衛被下来候御切米子三四郎ニ被下之 ●「日記」

正保元年 大番

明暦3年3月8日 200俵

万治元年7月19日 新番

万治2年12月26日 250俵

元禄5年7月18日 新番を辞す。小普請

元禄15年6月28日 死す
飯高正次 元和7年 生。百助
いいたかまさつぐ
弥五兵衛貞次の四男
寛政譜18・121
母は奈良氏

寛永11年閏7月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永15年1月15日 大番。200俵

寛永15年1月15日 大御番 ●「日記」

寛文4年12月 大番を辞す。小普請

寛文6年12月9日 死す
飯田五郎左衛門
生。与九郎。五郎左衛門
いいだごろうざえもん
次郎右衛門昌重の長男
寛政譜3・141
母は佐野伝右衛門正長の女

正保元年6月4日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共


仕える


小普請

寛文4年11月13日 酒井修理大夫忠直に召し預けられる

寛文12年5月25日 牧野佐渡守親成に召し預けられる

延宝3年6月24日 ゆるされる


以下不詳
飯田重次 元亀3年 生。弥兵衛。四郎左衛門
いいだしげつぐ
弥兵衛宅次の長男
寛政譜6・155
織田信雄に仕える


前田利長に属す

天正18年 はじめて家康に拝謁。進物役。700石


大番

~慶長19年 大番組頭

元和元年~ 使番


目付

寛永9年4月19日 死す
飯田重次長女
寛政譜6・155
飯田四郎左衛門重次の長女
寛政譜4・212
平賀三五郎忠勝に嫁ぐ


女子を産むか。のちの玉虫次郎右衛門俊茂の妻


女子を産むか。早世か


女子を産むか。のちの鈴木平兵衛重春の妻


女子を産むか。のちの中根九郎兵衛正連の妻


男子を産むか。早世か


女子を産むか。のちの山田六兵衛勝房の妻

元和9年 平賀七之丞清秀を産む


男子を産むか。早世か

寛永7年 平賀三五郎清面を産む


以下不詳
飯田重成 寛永8年 生。三左衛門
いいだしげなり
四郎左衛門直重の長男
寛政譜6・155
母は森川六左衛門長重の女


妻は駒井次郎左衛門昌信の女

寛永18年3月1日 樽代前ニ置一同ニ御目見飯田四郎左衛門子煩三左衛門 ●「日記」

慶安2年12月26日 書院番

慶安3年9月3日 家綱に付属される。西丸小姓組

(慶安4年) 本丸に伺候

慶安4年12月11日 父直重の遺跡を継ぐ。700石

寛文9年~ 700俵

天和元年7月1日 死す
飯田新右衛門(奥平)

いいだしんえもん
奥平美作守忠昌に仕える

(寛永19年4月20日) (奥平美作守家来下奉行) ●「日記」



飯田新右衛門(水戸)

いいだしんえもん
徳川頼房に仕える

(寛永16年10月28日) (水戸黄門使者) ●「日記」



飯田直重 慶長5年 生。助九郎。四郎左衛門
いいだなおしげ
四郎左衛門重次の長男
寛政譜6・155
妻は森川六左衛門長重の女

元和3年 はじめて秀忠に拝謁


大番

寛永9年8月26日 父重次の遺跡を継ぐ。700石

寛永9年8月26日 跡目 ●「日記」

寛永10年2月7日 900石

(寛永18年3月1日) (四郎左衛門の初出) ●「日記」

(寛永18年3月1日) (大久保右京亮教隆組もしくは皆川山城守隆庸組) ●「日記」

正保2年7月1日 大番組頭

慶安4年3月1日 死す
飯田昌重 慶長4年 生。次郎右衛門
いいだまさしげ
右馬助昌在の次男
寛政譜3・141
母は武田家臣今福丹波守勝信の女


妻は佐野伝右衛門正長の女


後妻は井戸新右衛門直弘の女


また細川豊前守家臣岡田十右衛門の女を娶る

寛永元年 秀忠に仕える。200石。大番


300石

寛永10年2月7日 500石


勘気を蒙る

寛永15年10月17日 ゆるされる ●「日記」共

万治2年2月11日 蔵奉行

天和元年5月18日 死す
飯田正吉
生。又右衛門
いいだまさよし
秀忠に仕える。徒
寛政譜19・290
徒組頭


鳥見役

寛永20年9月6日 御徒組頭飯田又右衛門御鳥見被仰付候間在々所々可有之依為―


―作事料金子被下之 ●「日記」

(寛文11年) 死す
飯塚忠重 (文禄元年) 生。半次郎。兵右衛門
いいづかただしげ
兵部少輔綱重の次男
寛政譜9・370
母は佐野周防守家臣高瀬紀伊豊友の女


妻は大久保喜六郎忠豊の女


後妻は徳川忠長家臣朝比奈図書信豊の女

慶長8年 青山伯耆守忠俊をして秀忠に仕える。小姓


小姓組

慶長19年 大坂の役にて父綱重とともに土井利勝に属す

元和元年 大坂の役にて水野監物忠元に属す

元和2年 徳川忠長に付属される

(寛永7年) 死す
飯塚正重 寛永6年 生。半次郎。半右衛門
いいづかまさしげ
兵右衛門忠重の長男
寛政譜9・370
母は徳川忠長家臣朝比奈図書信豊の女


妻は松平与兵衛清信の女

寛永11年 月俸10口

寛永19年 大番

寛永20年12月7日 200石

寛永20年12月7日 弐百石兵右衛門跡飯塚半次郎是ハ六十騎衆駿河大納言殿付之―


―兵右衛門相果付て半次郎幼少故十人扶持被下之其年より大御番仕―


―松平外記組ニて相勤候ニ付父本高程被下事 ●「日記」

寛文元年12月12日 新番

寛文2年3月7日 小納戸

寛文2年12月8日 200石200俵

寛文10年2月1日 死す
井出十三郎

いいでじゅうさぶろう
勘定?

寛永9年7月26日 国廻 ●「日記」

寛永16年3月8日 和州郡山へ被差遣之 ●「日記」

寛永18年12月15日 上方へ国廻依帰参御目見 ●「日記」



井出正員 慶長5年 生。八十郎。十左衛門。(十左衛門と十三郎を混用か)
いいでまさかず
藤左衛門正信の次男
寛政譜17・102
母は内藤豊前守信成の女


妻は井伊掃部頭家臣小山監物の女

慶長15年 はじめて家康に拝謁

元和9年7月 蒲原の宅にて家光に拝謁

寛永11年7月 上洛に従う

寛永15年12月5日 勘定

寛永15年12月5日 御賄方御勘定 ●「日記」

寛永19年6月9日 改易 ●「日記」共

慶安4年10月17日 ゆるされる。400俵。小普請

~万治3年 勘定

寛文5年12月5日 死す
井出正勝 慶長4年 生。半三郎。半左衛門
いいでまさかつ
藤左衛門正信の長男
寛政譜17・100
妻は富士山別当大鏡坊頼賀の女


家光に仕える。駿河国代官

承応元年5月18日 死す
井出正唯 寛永2年 生。虎之助。三左衛門
いいでまさただ
三右衛門正吉の長男
寛政譜17・98
母は渡辺氏


妻は松野惣右衛門助勝の女


後妻は竹内源右衛門吉勝の女

寛永13年11月24日 父正吉の遺跡を継ぐ。200石

寛永13年11月24日 井出三右衛門弐百石子虎之介跡目被仰付之 ●「日記」

寛永13年12月21日 はじめて家光に拝謁

寛永13年12月21日 跡目之面々(御目見) ●「日記」

寛永17年 大番

慶安元年6月14日 新番

万治2年12月26日 200石50俵

天和元年5月18日 死す
井出正成 慶長元年 生。金丸。甚之介
いいでまさなり
志摩守正次の三男
寛政譜17・94
母は武田家臣遠藤飛騨の女


妻は米津勘兵衛田政の女

慶長13年 はじめて家康に拝謁。秀忠に仕える。小姓

慶長14年 父正次の遺跡を継ぐ。300石

慶長19年 小姓組

寛永2年~ 小姓組を辞す。小普請

寛永18年3月29日 死す

(寛永18年12月4日) (杉浦内蔵組) ●「日記」
井出正陳 元和6年 生。長助。甚五左衛門
いいでまさのぶ
甚之介正成の長男
寛政譜17・94
母は米津勘兵衛田政の女


妻は松平出羽守家臣田口勘兵衛正広の女


後妻は大久保新蔵包教の女

寛永9年 はじめて秀忠に拝謁

寛永13年12月27日 書院番 ●「日記」共

寛永16年12月13日 御切米三百俵 ●「日記」

(寛永18年12月4日) (甚五左衛門の初出) ●「日記」

(寛永18年12月4日) (三枝土佐守組) ●「日記」

寛永18年12月4日 父正成の遺跡を継ぐ。300石

寛永18年12月4日 三百石同人組井出甚之丞跡右惣領三枝土佐守組甚五左衛門ニ被下之―


―甚五左衛門取来之御切米三百俵上ル ●「日記」


書院番を辞す

元禄11年9月10日 死す
井出正吉 慶長4年 生。三右衛門
いいでまさよし
三右衛門正勝の男
寛政譜17・98
妻は渡辺氏

慶長8年 はじめて家康に拝謁

慶長8年 父正勝の遺跡を継ぐ。200石

慶長15年 大番

寛永13年6月19日 死す
井伊直勝 天正18年 生。万千代。右近大夫。兵部少輔。右近大夫
いいなおかつ
兵部少輔直政の長男
寛政譜12・307
母は松井周防守康親の女


室は鳥居左京亮忠政の女

慶長7年3月 父直政の遺領を継ぐ。近江国佐和山城18万石

慶長8年 はじめて家康に拝謁

慶長8年2月 正五位下・右近大夫

慶長9年 近江国彦根城18万石

慶長11年5月13日 従四位下・兵部少輔

元和元年2月 上野国安中3万石。碓氷・牧の関所を預かる

寛永9年12月15日 右近大夫


致仕

寛文2年7月11日
井伊直滋 慶長17年 生。靫負。靫負佐。侍従
いいなおしげ
掃部頭直孝の長男
寛政譜12・296
嫡母蜂須賀阿波守家政の女の養いとなる


室は井伊右近大夫直勝の女

寛永8年12月29日 従四位下・侍従・靫負佐

(寛永13年) 父直孝に代わり彦根の国務を沙汰

万治元年閏12月20日 病により嫡を辞す。近江国百済寺に住す

寛文元年6月9日
井伊直澄 寛永2年 生。亀之介。玄蕃頭。掃部頭。侍従。少将
いいなおすみ
掃部頭直孝の四男
寛政譜12・297
母は石居氏

寛永11年2月29日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保元年12月29日 従五位下・玄蕃頭

正保元年12月29日 諸大夫 ●「日記」

万治2年7月21日 父直孝の遺領を継ぐ。近江国彦根城30万石

万治2年9月7日 侍従。父直孝の席に伺候

万治2年9月30日 従四位下

寛文2年3月3日 父直孝の如く諸事を務める

寛文5年4月11日 少将。掃部頭

寛文8年11月19日 国政の大議にあずかる

寛文10年1月11日 具足祝に着座

延宝4年1月3日
井伊直孝 天正18年 生。弁之介。掃部助。掃部頭。侍従。少将。中将
いいなおたか
兵部少輔直政の次男
寛政譜12・292
母は印具氏。養母は松井周防守康親の女


室は蜂須賀阿波守家政の女

慶長8年 はじめて家康に拝謁。秀忠に仕える

慶長10年4月16日 従五位下・掃部助

慶長13年 書院番頭。5000石

慶長15年 大番頭。1万石。掃部頭

元和元年2月 兄直勝の封を継ぐ。近江国彦根城15万石

元和元年閏6月19日 従四位下・侍従

元和元年11月2日 近江国彦根城20万石

元和5年 近江国彦根城25万石

寛永3年8月19日 少将

寛永9年 政事にあずかる

寛永10年3月20日 近江国彦根城30万石

寛永10年3月20日 5万石加増 ●「日記」

正保2年4月21日 正四位上・中将

万治2年6月28日
井伊直縄 元和8年 生。仙之介。左馬助。内匠頭
いいなおつな
掃部頭直孝の三男
寛政譜12・297 寛永11年2月29日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保元年12月29日 従五位下・左馬助

正保元年12月29日 諸大夫 ●「日記」

承応2年8月 内匠頭

万治元年4月20日
井伊直寛 元和2年 生。弁之介
いいなおひろ
掃部頭直孝の次男
寛政譜12・297 (寛永8年1月4日) (秀忠に拝謁) ●「日記」

寛永11年2月29日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛文4年4月7日 死す
井伊直好 元和4年 生。大膳。万千代。兵部少輔
いいなおよし
右近大夫直勝の長男
寛政譜12・308
室は酒井讃岐守忠勝の七女


継室は松平紀伊守家信の女

寛永元年 はじめて秀忠に拝謁

寛永9年12月15日 従五位下・兵部少輔

寛永9年12月15日 諸大夫 ●「日記」

寛永9年 父直勝の封を継ぐ。上野国安中3万石

(寛永10年1月1日) (兵部大輔の初出か) ●「日記」

寛永13年1月15日 井伊兵部少輔酒井讃岐守祝言之御礼申上 ●「日記」

正保2年6月23日 三河国西尾城3万5000石

万治2年1月28日 遠江国掛川城3万5000石

万治2年2月20日 遠江国相良領にて御料地1万石を預かる

寛文12年1月6日
飯室長昌
生。金五郎。金左衛門
いいむろながまさ
金左衛門昌吉の長男
寛政譜4・208
母は山田権右衛門正次の女


妻は大木喜兵衛忠吉の女

寛永19年11月12日 父昌吉の遺跡を継ぐ。250石。小普請

寛永19年11月12日 御旗本衆令死去跡被下之但自分之知行御切米何も上 ●「日記」

正保4年12月25日 大番


250俵

貞享4年7月23日 死す
飯室昌成 慶長6年 生。三郎兵衛。市郎左衛門
いいむろまさなり
次郎兵衛昌喜の次男
寛政譜4・205
母は桜井安芸守信忠の女


妻は飯室与兵衛昌成の女

元和7年9月 小十人


100俵

寛永9年8月25日 200俵

寛永18年8月9日 西丸納戸番

寛永18年8月9日 若君様為御奉公人御納戸方ニ被付 ●「日記」

(慶安4年) 本丸に勤仕

明暦2年3月2日 死す
飯室昌吉(金左衛門)
生。金左衛門
いいむろまさよし
金左衛門昌恒の養子。大木才兵衛親信の次男
寛政譜4・208
母は金左衛門昌恒の女


妻は山田権右衛門正次の女

元和3年6月7日 はじめて家光に拝謁


昌恒の養子となる

元和5年 養父昌恒の遺跡を継ぐ。250石


小十人

寛永15年5月8日 土圭間番 ●「日記」共

寛永19年7月23日 死す
飯室昌吉(五兵衛) 文禄4年 生。五兵衛
いいむろまさよし
次郎兵衛昌喜の養子。飯室兵部昌幸の男
寛政譜4・207
妻は松平三河守家臣渡辺助左衛門の女

元和9年 小十人


100俵

寛永9年8月25日 200俵

寛永19年12月6日 納戸番 ●「日記」共


納戸番を辞す。小普請

貞享2年4月10日 死す
井内玄蕃

いうちげんば
松平大和守直基に仕える

(寛永16年4月23日) (松平大和守家来) ●「日記」



医王寺
遠江国。真言宗。鎌田山
いおうじ




伊飼次大夫

いかいじだゆう


(寛永18年12月29日) (御中間頭) ●「日記」



猪飼次兵衛
二郎兵衛光重か?
いかいじひょうえ


寛永15年9月12日 御駕籠之頭猪飼次兵衛為御加増御切米七十表被下之 ●「日記」



猪飼半右衛門
生。半右衛門
いかいはんえもん
五郎兵衛正次の長男
寛政譜9・338 寛永20年3月3日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共


以下不詳
猪飼正重
生。(半左衛門)。勘左衛門
いかいまさしげ
二郎兵衛光重の男
寛政譜9・335 寛永16年5月5日 上方御代官衆子共猪飼半左衛門初て御目見 ●「日記」


以下不詳
猪飼正次
生。五郎兵衛
いかいまさつぐ
五郎重正の次男
寛政譜9・338 元和8年 はじめて秀忠に拝謁

寛永2年 大番


250石

寛永10年2月7日 450石


大番組頭

慶安4年11月21日 450石200俵

延宝8年2月8日 西丸留守居

延宝8年8月21日 布衣

天和2年3月7日 死す
猪飼正久 慶長12年 生。半左衛門
いかいまさひさ
五郎助重正の長男
寛政譜9・335 (元和4年) 父重正の遺跡を継ぐ。500石

元和8年 大番

寛永2年 600石

寛永10年2月7日 800石

寛永18年3月4日 大番組頭

寛永18年3月4日 大御番之組頭被仰付之大久保右京亮組也 ●「日記」

慶安元年1月2日 目付

慶安3年9月3日 西丸に勤仕

慶安4年8月16日 布衣

(慶安4年) 本丸に勤仕

慶安4年11月21日 800石300俵

寛文5年7月14日 死す
猪飼光重
生。二郎兵衛
いかいみつしげ
太郎左衛門光治の男
寛政譜9・335 慶長16年 はじめて家康に拝謁

(元和元年)~ 秀忠に仕える


家光に仕える

(寛永15年9月12日) (御駕籠之頭猪飼次兵衛為御加増御切米七十表被下之) ●「日記」

(寛永16年5月5日) (上方御代官) ●「日記」


以下不詳
伊賀八幡
三河国岡崎。松平親忠が創建
いがはちまん




五十嵐宇林

いがらしうりん
蒔絵師か



五十嵐太兵衛

いがらしたひょうえ
蒔絵師か



五十嵐道甫
生。道甫
いがらしどうほ
甫斎の男
工芸鏡2・28
蒔絵師

延宝6年 死す
井狩十助
生。猪之助。十助
いかりじゅうすけ
十助宗重の男

寛永16年5月5日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共


代官

元禄2年4月29日 逼塞


以下不詳
井狩宗重
生。十助
いかりむねしげ
十助宗次の男
寛政譜17・241
家康・秀忠・家光に仕える。代官(近江国永原か)

(寛永16年5月5日) (上方御代官) ●「日記」

某年 死す
伊木伊織

いぎいおり
松平石見守池田輝澄に仕える

(寛永17年7月26日) (松平石見守家老) ●「日記」

寛永17年7月26日 父子共ニ死刑 ●「日記」



伊木三丞

いぎさんのじょう


(寛永16年12月16日) (伊木長門去年差上之証人) ●「日記」



伊木治左衛門

いぎじざえもん
伊織の男か

(寛永17年7月26日) (松平石見守家中) ●「日記」

寛永17年7月26日 切腹 ●「日記」



伊木忠貞 慶長17年 生。三十郎。長門
いぎたださだ
長門忠繁の男
池田光政公伝上・373
母は森寺政右衛門忠勝の女妙仙院


室は荒尾但馬成利の女栄久院

元和元年 人質として備前国に越す

元和2年 父忠繁の遺領を継ぐ。播磨国三木城3万7000石。池田家に仕える

元和3年 主君池田光政が転封。因幡伯耆のうち3万7000石

寛永9年 主君池田光政が転封。備前国虫明3万7000石

寛永19年6月29日 政職

承応元年6月 政職を辞す

寛文12年閏6月28日
生嶋秀成 慶長10年1月24日 生。玄蕃頭
いくしまひでなり
宮内少輔秀盛の男
地下家伝中1285
八条宮に仕える
宮廷公家系図集覧673 (寛永9年8月2日) 玄蕃 ●「日記」

寛永11年3月12日 従五位下

寛永11年4月22日 玄蕃頭

正保4年1月5日 従五位上

慶安4年1月5日 正五位下

明暦2年1月5日 従四位下

寛文元年12月25日 従四位上

寛文2年10月29日
生嶋秀盛 永禄10年 生。宮内少輔。壱岐守
いくしまひでもり
備後守長治の次男
地下家伝中・1285
八条宮に仕える
宮廷公家系図集覧673 寛永3年6月26日 従五位下・宮内少輔

寛永11年4月11日 従五位上・宮内少輔・壱岐守

寛永13年12月23日 正五位下

寛永15年1月26日 従四位下

寛永16年閏11月16日
生玉神社
大坂天王寺。生国魂神社
いくたまじんじゃ




池尻共孝 慶長18年11月14日 生。采女正。宮内大輔。宮内卿。参議。中納言。大納言
いけがみともたか
清閑寺内大臣共房の次男
諸家伝下・1075
母は仏光寺末子光源寺知祐の女
宮廷公家系図集覧408
室は五条中納言為適の女

元和3年1月5日 従五位下

寛永5年10月29日 元服。昇殿。采女正。従五位上

寛永6年7月16日 宮内大輔

寛永10年1月6日 正五位下

(寛永11年7月21日) (院中) ●「日記」

寛永14年1月5日 従四位下

寛永18年1月5日 従四位上

正保2年1月6日 正四位下

慶安2年1月5日 従三位

慶安2年1月27日 宮内卿

明暦元年1月5日 正三位

万治3年12月25日 参議

寛文元年11月24日 参議を辞す

寛文5年9月11日 権中納言

寛文5年12月14日 帯剣

寛文5年12月17日 従二位

寛文6年10月27日 権中納言を辞す

天和2年1月5日 正二位

天和3年9月2日 権大納言

天和3年9月4日 権大納言を辞す

天和3年9月16日 薨去
池田外記

いけだげき
松平相模守池田光仲に仕える

(寛永17年3月15日) (松平相模守証人) ●「日記」



池田貞雄 慶長18年 生。千助。勘兵衛
いけださだお
伊予守秀氏の男
寛政譜19・348
母は寺町氏


妻は松崎権左衛門吉次の女


稲葉丹後守正勝のもとにあり

寛永18年8月6日 家光に仕える。納戸番。廩米を賜る

寛文元年12月12日 加恩あり。200俵

延宝2年12月25日 書物奉行

延宝7年12月19日 300俵

貞享元年2月4日 書物奉行を辞す。小普請

貞享4年6月10日 死す
池田重次 天正13年 生。道陸
いけだしげつぐ
松庵重時の男
寛政譜5・170
母は谷佐助の女

寛永2年 はじめて秀忠に拝謁

寛永15年 200俵。麻布薬園を預かる

寛永15年10月29日 品川牛込両所ニ薬種作り可申旨道陸宗琢ニ被仰付之趣―


―讃岐守被申渡之然は同心弐人小者拾人宛御預ケ―


―其上両人御切米弐百俵宛被下之 ●「日記」

慶安元年4月16日 死す
池田重長
生。久左衛門
いけだしげなが
備後守重信の男
寛政譜5・76
父重信とともに流浪して有馬豊氏のもとにあり


赦免

寛永11年4月28日 家光に仕える

寛永11年4月28日 今度御家人依被仰出太刀目録を以御目見 ●「日記」

寛永12年 小姓組

寛永15年 廩米を賜る


以下不詳
池田重政 慶長8年 生。勝吉。内蔵助
いけだしげまさ
越前守重利の男
寛政譜4・389
母は山口玄蕃允正弘の女


室は小堀遠江守政一の女

元和元年4月 はじめて秀忠に拝謁

(寛永8年) 父重利の遺領を継ぐ。播磨国新宮1万石

慶安4年6月20日
池田忠雄 慶長7年 生。勝五郎。新次郎。宮内少輔。侍従。参議。松平を称す
いけだただお
兄左衛門督忠継の嗣。三左衛門輝政の三男
寛政譜5・56
母は家康の息女督姫良正院


室は蜂須賀阿波守至鎮の女

慶長13年4月18日 秀忠の御前にて元服。松平の称号を許される。従五位下・宮内少輔

慶長15年2月23日 淡路国を賜る

元和元年6月28日 兄忠継の遺領を賜る。備前国岡山城31万5000石

元和2年1月19日 従四位下・侍従

寛永3年8月19日 参議・正四位下

寛永9年4月3日
池田綱政 寛永15年 生。太郎。三左衛門。伊予守。侍従。少将
いけだつなまさ
新太郎光政の長男
寛政譜5・48
母は本多中務大輔忠刻と天樹院との女円盛院


室は丹羽左京大夫光重の女

寛永16年 外祖母天樹院にしたがいはじめて家光に拝謁

(寛永18年6月13日) (松平新太郎子息三左衛門) ●「日記」

(寛永18年12月28日) (松平新太郎御目見是息袴着之時分従公方様御上下拝領之御礼) ●「日記」

承応2年12月23日 家綱の御前にて元服。従四位下。侍従。伊予守。偏諱を賜る

寛文12年6月11日 備前国岡山城27万5000石。大広間に伺候

元禄9年12月5日 少将

正徳4年10月29日
池田恒元 慶長16年 生。三五郎。備後守。松平を称す
いけだつねもと
武蔵守利隆の次男
寛政譜5・55
母は秀忠の養女榊原式部大輔康政の女福正院


室は松平隠岐守定勝の六女

元和元年 はじめて家康・秀忠に拝謁

寛永5年1月28日 従五位下・備後守

寛永12年12月15日 縁辺 ●「日記」

慶安元年3月19日 備前国児島2万石

慶安2年10月5日 播磨国山崎3万石

寛文11年9月4日
池田薫彰 寛永10年 生。新吉。右京。越前守
いけだてるあきら
内蔵助重政の次男
寛政譜4・389
養母は小堀遠江守政一の女


室は戸川土佐守正安の女


継室は加藤式部少輔明成の女

寛永20年5月18日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

承応元年2月8日 父重政の遺領を継ぐ。播磨国新宮1万石

寛文元年12月28日 従五位下・越前守

寛文3年1月30日
池田輝興 慶長16年 生。古七郎。右近大夫。松平を称す
いけだてるおき
三左衛門輝政の六男
寛政譜5・68
母は家康の息女督姫良正院


室は黒田筑前守長政の三女

慶長19年 はじめて秀忠に拝謁

元和元年2月5日 母が逝去

元和元年6月28日 播磨国佐用2万5000石

寛永3年8月19日 従五位下・右近大夫

寛永8年8月 播磨国赤穂3万5000石

(寛永9年1月21日) 従四位下? ●「日記」

寛永11年7月16日 従四位下

寛永11年7月16日 四品 ●「日記」

寛永12年8月6日 嫁娶被仰付之 ●「日記」

正保2年3月20日 領地を没収。池田光政に召し預けられる。

正保4年10月17日 死す
池田輝澄 慶長9年 生。松千代。左近。石見守。侍従。石入。松平を称す
いけだてるずみ
三左衛門輝政の四男
寛政譜5・63
母は家康の息女督姫良正院


室は生駒讃岐守正俊の女

慶長14年4月 はじめて家康に拝謁。松平の称号を賜る

元和元年2月5日 母が逝去

元和元年6月28日 播磨国山崎3万8000石。従五位下・石見守

元和3年 従四位下

寛永3年8月19日 侍従

寛永8年8月 播磨国山崎6万8000石

寛永11年3月7日 松平石見守長之所労付て息虎之助ニ与度旨日来訴訟也―


―達御耳被仰付 ●「日記」

寛永17年7月26日 領地没収。池田光仲に召し預けられ因幡国鹿野に籠居。1万石

寛永17年7月26日 家中仕置無作法付て彼領分被召上松平相模守ニ御預為堪忍分―


―相模守領内ニて壱万石被下之 ●「日記」

寛文2年4月18日
池田虎之助
生。虎之助。松平を称すか
いけだとらのすけ
石見守輝澄の次男


母は生駒讃岐守正俊の女

寛永11年3月7日 松平石見守長之所労付て息虎之助ニ与度旨日来訴訟也―


―達御耳被仰付 ●「日記」


早世
池田長明 慶長11年 生。新吉。河内。伊賀
いけだながあき
河内守長政の男
池田光政公伝上・376
母は加藤左馬助嘉明の女

慶長12年 父長政の遺領を継ぐ。池田家臣。播磨国立野2万2000石


母とともに伊予国松山へ行く

慶長18年 播磨国立野に帰る

元和3年 因幡国八橋2万2000石

寛永9年 備前国周匝2万2000石

寛永19年6月 政職

(寛永20年4月25日) (伊賀の初出) ●「日記」

寛文8年6月 隠居。2000俵

延宝7年3月6日
池田長賢 慶長9年 生。左門。帯刀
いけだながかた
備中守長吉の五男
寛政譜5・73
母は浜嶋氏


妻は内藤志摩守忠重の女

元和3年 はじめて家光に拝謁。近侍


小姓。500俵

元和8年6月1日 小姓組組頭

元和9年 従五位下・帯刀

元和9年 1000石

寛永3年 3000石

寛永10年6月29日 小姓組組頭・弓矢鉄炮役

寛永10年6月29日 弓矢御鉄炮役稲垣若狭なミニ被仰付 ●「日記」

寛永11年6月16日 書院番頭

寛永11年6月16日 大久保右京跡御書院御番頭 ●「日記」

寛永12年12月14日 三千石御加恩 ●「日記」

寛永12年12月24日 6000石

慶安3年11月19日 大番頭

寛文4年2月5日 死す
池田長勝
生。七兵衛
いけだながかつ
図書政長の三男
寛政譜13・339
妻は蒔田玄蕃頭定正の女

寛永7年 家光に仕える。小姓組

寛永9年9月23日 父政長の遺跡分知。300石 ●「日記」共

寛永10年2月7日 500石

寛文2年8月12日 死す
池田長常 慶長14年 生。猿。出雲守
いけだながつね
備中守長幸の長男
寛政譜5・70
母は森美作守忠政の女


室は堀丹後守直寄の女

慶長19年 はじめて秀忠に拝謁

元和元年 従五位下・出雲守

寛永9年8月26日 父長幸の遺領を継ぐ。備中国松山城6万5000石

寛永9年8月26日 跡目 ●「日記」

寛永18年9月6日

寛永18年12月1日 去比令病死依相続無之彼領地被召上也 ●「日記」
池田長信 元和8年 生。左兵衛。修理
いけだながのぶ
備中守長幸の三男
寛政譜5・70 寛永15年12月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永17年3月19日 小姓組 ●「日記」共


書院番

(寛永19年12月10日) (御書院番) ●「日記」

寛永19年12月10日 1000石 ●「日記」共

寛永20年6月9日 書院番。進物役

寛永20年6月9日 進物御番 ●「日記」

寛永20年6月28日 御知行千石被下之 ●「日記」

慶安元年3月30日 書院番組頭

慶安元年12月30日 布衣

明暦2年8月24日 死す
池田仲政 寛永9年 生。勝三郎。美濃守。松平を称す
いけだなかまさ
宮内少輔忠雄の次男
寛政譜5・58
母は松平阿波守蜂須賀至鎮の女

寛永16年5月5日 松平庄三郎御帷子単物十銀百枚并以太刀目録初て御礼 ●「日記」

寛永17年1月28日 はじめて家光に拝謁

寛永17年1月28日 松平相模守舎弟勝三郎太刀目録を以御礼 ●「日記」

正保3年12月30日 従五位下・美濃守

慶安2年10月17日
池田長政 天正17年 生。長門。下総。下総守
いけだながまさ
兄森寺主水長貞の養子。池田備中守長吉の三男
寛政譜5・69
母は宗家の家臣伊木豊後忠次の女
池田光政公伝上・379
兄長貞の養子となる。森寺を称さず池田を称す

慶長12年 養父長貞の遺領を継ぐ。1万4000石。下総

寛永11年6月30日
池田長好
生。権十郎
いけだながよし
図書政長の長男
寛政譜13・337
西丸小姓組


本丸に勤仕

寛永9年9月23日 父政長の遺跡を継ぐ。700石 ●「日記」共

寛永10年2月7日 900石

正保2年閏5月28日 死す
池田長幸 天正15年 生。次兵衛。備中守
いけだながよし
備中守長吉の長男
寛政譜5・69
母は宗家の臣伊木豊後忠次の女


室は森美作守忠政の女

慶長元年 はじめて家康・秀忠に拝謁

慶長19年 父長吉の遺領を継ぐ。因幡国鳥取城6万石

元和元年 従五位下・備中守

元和3年2月 備中国松山城6万5000石

寛永9年4月7日
池田長頼
生。助三郎。豊後守
いけだながより
備中守長吉の四男
寛政譜5・69
母は宗家の臣伊木豊後忠次の女


妻は久留嶋丹波守道春の女

慶長6年 秀忠に仕える。書院番。3000石


西丸に伺候

寛永4年 従五位下・豊後守

寛永9年4月6日 死罪
池田政綱
生。岩松。右京大夫。松平を称す
いけだまさつな
三左衛門輝政の五男
寛政譜5・47
母は家康の息女督姫良正院


はじめて家康に拝謁。松平の称号を許される

元和元年2月5日 母が逝去

元和元年6月28日 播磨国赤穂3万5000石

元和9年7月19日 従五位下・右京大夫

寛永3年8月19日 従四位下

寛永8年7月29日

(寛永9年6月18日) (存命か? 右近の誤りか?) ●「日記」
池田政長
生。図書。はじめ大塚を称す。外家の称号に改める
いけだまさなが
大塚彦次郎元重の男
寛政譜13・337
母は池田平兵衛の女


金森法印素玄に仕える

慶長17年 家康に仕える。1000石

(寛永8年) 使番

寛永9年7月13日 死す
池田光仲 寛永7年 生。勝五郎。相模守。侍従。少将。松平を称す
いけだみつなか
宮内少輔忠雄の長男
寛政譜5・57
母は松平阿波守蜂須賀至鎮の女


室は徳川頼宣の長女芳心院因幡姫

寛永9年6月18日 父忠雄の遺領を継ぐ

寛永9年6月18日 幼稚により国替。伯耆国・因幡国鳥取城32万石

寛永9年6月18日 国替 ●「日記」

寛永9年6月28日 大奥にてはじめて家光に拝謁

(寛永12年6月30日) (勝五郎と相模守を並記) ●「日記」

寛永15年12月29日 御前にて元服。偏諱を賜る。相模守

寛永15年12月29日 松平勝五郎元服被任相模守御字被下之 ●「日記」

寛永17年7月26日 家中仕置無作法付て彼領分被召上松平相模守ニ御預為堪忍分―


―相模守領内ニて壱万石被下之相模守ニハ於播州右之替地―


―被下之 ●「日記」池田輝澄を預かる

寛永19年12月30日 従四位下・侍従

寛永19年12月30日 侍従 ●「日記」

寛永20年2月1日 今度官位被仰付御礼申上之 ●「日記」

寛永20年12月28日 縁辺 ●「日記」

正保元年12月30日 来年元日之御礼御白書院下ノ間可為着座 ●「日記」

正保2年4月18日 命により縁組

承応2年12月28日 少将

貞享2年6月21日 致仕

元禄6年7月7日
池田光政 慶長14年 生。新太郎。侍従。少将。松平を称す
いけだみつまさ
武蔵守利隆の長男
寛政譜5・47
母は秀忠の養女榊原式部大輔康政の女福正院


室は本多中務大輔忠刻と天樹院との女円盛院

慶長16年 はじめて秀忠に拝謁

元和2年 父利隆の遺領を継ぐ。播磨国姫路城32万石

元和3年 伯耆国・因幡国鳥取城32万石

元和9年 従四位下・侍従。偏諱を賜る

寛永3年8月19日 少将

寛永9年6月18日 備前国岡山城31万5000石 

寛永9年6月18日 備前国と因幡伯耆両国と国替 ●「日記」

寛永10年5月16日 御礼是祝言仕初て天寿院様入御見参之故 ●「日記」

(寛永13年1月2日) (因幡少将) ●「日記」 備前少将の誤りか

寛文12年6月11日 致仕

天和2年5月22日
池田光政長女
寛政譜5・49
松平新太郎池田光政の長女
寛政譜11・227
母は本多中務大輔忠刻と天樹院との女円盛院


本多下野守忠平に嫁ぐ


以下不詳
池田光政三女
寛政譜5・49
松平新太郎池田光政の三女


母は本多中務大輔忠刻と天樹院との女円盛院


榊原刑部大輔政房に嫁ぐ


以下不詳
池田由成 慶長10年 生。竹松。主計。出羽
いけだよりなり
出羽由之の男
池田光政公伝上・375
母は蜂須賀阿波守家政の次女則心院


池田家臣

元和元年 人質として家康・秀忠に拝謁

元和4年 父由之の遺領を継ぐ。伯耆国米子城3万2000石。出羽と称す

(寛永9年) 備前国3万2000石

(寛永11年7月25日) (松平新太郎家老) ●「日記」

寛永19年6月 政職

寛文8年7月1日 隠居

延宝4年1月8日 死す
池坊専好 (天正3年) 生。法橋。専好
いけのぼうせんこう
華道。二代目専好

万治元年11月7日 死す
生駒河内

いこまかわち
生駒壱岐守高俊に仕える

(寛永17年7月26日) (生駒壱岐守家中) ●「日記」

寛永17年7月26日 初松下石見守御預追放 ●「日記」



生駒九大夫

いこまくだゆう
松平新太郎池田光政の家臣



生駒九兵衛

いこまくへえ
松平新太郎池田光政の家老



生駒玄蕃

いこまげんば
八条宮家臣

(寛永19年11月15日) (八条殿使者) ●「日記」



生駒左門

いこまさもん
生駒壱岐守高俊に仕える

(寛永17年7月26日) (生駒壱岐守家老) ●「日記」

寛永17年7月26日 初土井大炊頭後森内記御預五十人扶持内記渡之 ●「日記」



生駒高俊 慶長16年 生。国松。小法師。壱岐守
いこまたかとし
讃岐守正俊の長男
寛政譜21・269
母は藤堂和泉守高虎の養女氏家源左衛門の女円智院
宗国史下・453
室は土井大炊頭利勝の女

元和7年7月 父正俊の遺跡を継ぐ。讃岐国高松城17万1800石

寛永3年8月19日 従四位下・壱岐守

寛永17年7月26日 出羽国由利郡に配流。1万石

寛永17年7月26日 家中仕置無作法付て彼領分被召上羽州由利え被遣之―


―於彼地壱万石被下之 ●「日記」

万治2年6月16日
生駒帯刀

いこまたてわき
生駒壱岐守高俊に仕える

(寛永17年7月26日) (生駒壱岐守家老) ●「日記」

寛永17年7月26日 初土井大炊頭後松平出羽守御預五十人扶持出羽守渡之 ●「日記」



生駒主水

いこまもんど


寛永15年10月17日 御国御免 ●「日記」



諫早豊前

いさはやぶぜん
鍋嶋信濃守勝茂に仕える

(寛永17年8月8日) (鍋嶋信濃守(使者)) ●「日記」



伊沢数馬

いざわかずま


寛永18年4月16日 御小姓組 ●「日記」



伊沢正次
生。源之丞。権右衛門
いざわまさつぐ
隼人正政信の次男
寛政譜3・298
母は内藤修理亮清成の女


妻は大久保四郎左衛門忠重の女

寛永12年4月11日 はじめて秀忠に拝謁

寛永12年4月11日 伊沢隼人子初て御礼 ●「日記」

寛永18年5月 小姓組

(寛永20年12月18日) (御小姓組御書院番) ●「日記」

寛永20年12月18日 300俵 ●「日記」共

貞享4年7月4日 書院番組頭

貞享4年12月10日 600俵

貞享4年12月25日 布衣

元禄2年4月3日 死す
伊沢政成 元和7年 生。吉兵衛。主水正
いざわまさなり
隼人正政信の長男
寛政譜3・298
母は内藤修理亮清成の女


妻は三枝土佐守守恵の女

寛永9年 はじめて家光に拝謁

寛永15年1月15日 書院番 ●「日記」共

万治元年閏12月27日 従五位下・主水正

寛文3年9月3日 書院番組頭

寛文9年3月11日 父政信の家を継ぐ。2250石1000俵

寛文10年3月13日 小姓組番頭

延宝2年6月16日 死す
伊沢政信 文禄4年 生。源右衛門。吉兵衛。隼人正。三得
いざわまさのぶ
吉兵衛政重の養子。弓気多摂津守昌吉の次男
寛政譜3・298
母は吉兵衛政重の女


妻は内藤修理亮清成の女


幼少より秀忠に仕える

慶長9年 小姓

慶長11年 外祖父政重の家を継ぐ。1550石

元和6年6月5日 従五位下・隼人正

元和9年6月 徒同心30人を預かる

寛永8年2月12日 書院番組頭

寛永8年2月12日 書院番頭 ●「日記」

寛永10年5月8日 2250石

寛永10年5月8日 700石御加増 ●「日記」

正保元年5月23日 書院番頭

正保元年5月23日 御書院御番頭稲垣若狭守元組 ●「日記」

慶安3年9月3日 西丸に伺候

慶安4年11月21日 2250石1000俵

承応3年7月3日 留守居

寛文9年2月3日 留守居を辞す

寛文9年3月11日 致仕。600俵。三得と号す

寛文10年2月2日 死す
位産 天正15年 生。天蓮社暁誉上人還阿位産大和尚
いさん
信濃国の人。諏訪氏の末流塩尻氏
三縁山志
幡随上人に師事
(浄土宗全書19・482)
下谷寿永寺をひらく
鎌倉光明寺志
還無上人に学ぶ
(浄土宗全書19・627)
川越蓮馨寺7世
小石川伝通院志 寛永17年2月18日 増上寺御目見是河越之蓮馨寺増上寺之番頭位産後住被仰付依也 ●「日記」
(浄土宗全書19・677)
鎌倉光明寺34世
川越蓮馨寺志
小石川伝通院5世
(浄土宗全書20・113) 慶安3年 増上寺22世

承応元年8月20日 遷化
石井滋長
生。弥一。庄左衛門。芳斎。良斎。良芸。了雲
いしいしげなが
樋口石見守の弟子
能楽史話369
大鼓方。京都に住す

(寛永12年1月2日) (小鼓) ●「日記」


70歳にて死す
石尾氏一 元和7年 生。長三郎。勘右衛門。七兵衛。宗雪
いしおうじかず
志摩守治昌の男
寛政譜13・367
母は今大路中務大輔親純の女


妻は戸川平右衛門安利の女

寛永9年8月19日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永17年3月19日 書院番 ●「日記」共


小姓組

(寛永19年12月10日) (御小姓組) ●「日記」

(寛永19年12月10日) (勘右衛門の初出) ●「日記」

寛永19年12月10日 三百俵 ●「日記」

寛文4年12月27日 父治昌の家を継ぐ。2000石

寛文12年6月11日 使役

寛文12年12月28日 布衣

天和2年7月2日 2500石

貞享元年2月26日 先鉄炮頭

元禄3年3月25日 先鉄炮頭を辞す。寄合

元禄6年12月6日 致仕。宗雪と号す

元禄13年1月23日 死す
石尾治昌 慶長元年 生。鶴右衛門。七兵衛。志摩守。宗貫
いしおはるまさ
越後守治一の次男
寛政譜13・366
妻は今大路中務大輔親純の女

元和元年 大坂の役にてはじめて秀忠に拝謁。秀忠に仕える


書院番

寛永2年12月11日 2000石

寛永20年7月14日 朝鮮信使来聘のとき仮の目付

承応2年4月1日 従五位下・志摩守

明暦3年~ 書院番を辞す。寄合

寛文4年12月27日 致仕。宗貫と号す

寛文10年8月17日 死す
石谷清正 天正16年 生。友之助
いしがやきよまさ
五郎大夫清定の次男
寛政譜14・233
母は今川義元家臣久嶋与平の女


妻は尾張家臣松井石見の女

(慶長6年) 父清定の遺跡を継ぐ。250石

慶長7年 家康に仕える。小姓


徒頭

寛永10年12月27日 750石

寛永10年12月27日 五百石御加増 ●「日記」


1100石

寛永16年5月13日 徒頭を辞す

寛永16年5月13日 依為病者御役御免云々 ●「日記」

明暦2年10月13日 死す
石谷清亮 元和2年 生。七之助
いしがやきよみつ
友之助清正の男
寛政譜14・233
母は尾張家臣松井石見の女


妻は中山勘解由直定の女

寛永10年8月15日 小姓組

寛永20年6月9日 小姓組。進物役

寛永20年6月9日 進物御番 ●「日記」

明暦2年12月21日 父清正の遺跡を継ぐ。1100石

寛文3年 進物役をゆるされる

寛文11年2月 屋敷改

延宝元年7月7日 屋敷改をゆるされる

貞享元年11月25日 小姓組を辞す。小普請

元禄7年7月10日 致仕

元禄8年1月27日 死す
石谷貞清 文禄3年 生。十蔵。左近将監。土入
いしがやさだきよ
五郎大夫清定の三男
寛政譜14・235
母は今川義元家臣久嶋与平の女


妻は板倉内膳正重昌の養女牧野駿河守家臣槙小大夫定繁の女

慶長14年 秀忠に仕える。大番

元和元年 大坂の役にて秀忠の左右にあり斥候

元和2年1月9日 300石


腰物持

元和4年5月 500石

寛永9年7月5日 徒頭 ●「日記」共

寛永10年4月16日 目付 ●「日記」共

寛永10年12月26日 1500石

寛永10年12月26日 御加恩御知行千石 ●「日記」

寛永15年3月~ 逼塞

寛永15年12月30日 ゆるされる

寛永15年12月30日 今度有馬表之儀付違御気色雖令逼塞今日被宥其科之 ●「日記」

寛永18年12月15日 与力10騎同心50人を預かる ●「日記」共

慶安4年6月18日 町奉行

慶安4年8月16日 従五位下・左近将監

万治2年1月28日 町奉行を辞す

万治2年7月27日 致仕。600俵。土入と号す

寛文12年9月12日 死す
石谷武清 寛永4年 生。五右衛門。五兵衛。五右衛門。長門守。武清
いしがやたけきよ
左近将監貞清の長男
寛政譜14・236
母は板倉内膳正重昌の養女牧野駿河守家臣槙小大夫定繁の女


妻は喜多見五郎左衛門重恒の女

寛永20年2月20日 はじめて家光に拝謁

寛永20年2月20日 石谷十蔵子初て御目見 ●「日記」

寛永20年6月16日 小姓組

正保2年12月28日 300俵

万治元年3月6日 徒頭

万治元年閏12月25日 600俵

万治元年閏12月28日 布衣

万治2年7月27日 父貞清の家を継ぐ。1500石

寛文11年3月26日 目付

延宝元年3月19日 禁裏付。2500石

延宝元年7月1日 従五位下・長門守

延宝7年12月6日 禁裏付を辞す。寄合

元禄16年7月22日 致仕。武清と号す

宝永7年3月4日 死す
石谷成勝 元和6年 生。兵四郎。市右衛門
いしがやなりかつ
市右衛門政勝の長男
寛政譜14・231
母は青木五左衛門高頼の女

寛永7年6月10日 はじめて家光に拝謁

寛永13年12月27日 大番 ●「日記」共

万治元年7月19日 新番

寛文3年12月11日 父政勝の遺跡を継ぐ。500石

寛文4年9月30日 新番組頭

寛文4年12月25日 500石200俵

延宝元年4月3日 納戸頭

延宝元年12月28日 布衣

天和元年8月7日 納戸頭を辞す。小普請

貞享4年4月28日 死す
石谷政勝 天正12年 生。市右衛門
いしがやまさかつ
十右衛門政信の次男
寛政譜14・231
妻は青木五左衛門高頼の女

慶長6年9月 はじめて秀忠に拝謁。小姓組

慶長7年 200石

慶長11年10月 大番

元和9年~ 200石100俵

寛永10年2月7日 500石

寛永18年3月29日 裏門番頭

寛永18年3月29日 御裏御門御番頭被仰付之梶川四郎次郎元同心十人御預也 ●「日記」

万治元年6月1日 裏門番頭を辞す

寛文3年9月8日 死す
石川

いしかわ


(正保元年6月25日) (琉球中山王使者馬上之従者赤はちまき) ●「日記」



石川家成 天文3年 生。彦五郎。日向守
いしかわいえなり
安芸守清兼の三男
寛政譜3・3
母は水野右衛門大夫忠政の女


室は松平備後守清善の女


家康に仕える

~永禄元年 父清兼死去ののち家康の命により遺跡を継ぐ

永禄3年 酒井左衛門尉忠次とともに諸軍を指揮

永禄6年 三河国一向一揆のとき一向宗から改宗


西三河の旗頭

永禄12年 遠江国掛川城を賜る。与力を附属される。―


―西三河の旗頭は甥伯耆守数正に譲る。一手役の将となる

天正8年 致仕

天正18年 隠棲料として伊豆国梅縄5000石

慶長12年7月 嫡男康通卒し嫡孫幼稚たるにより再び家政を沙汰―


―美濃国大垣城5万石

慶長14年10月29日
石川石見
生。伊左衛門。石見
いしかわいわみ 寛永15年12月23日 御歩行目付之内谷勝兵衛中根新右衛門石川伊左衛門―
寛政譜22・367
―杉浦喜左衛門此四人御鷹野之刻御台所長持以下持之人足―


―相抱御成之砌は頭召列可罷出 ●「日記」

正保3年 女五宮賀子内親王に付属される

正保3年10月10日 300石


以下不詳
石川一次
生。伝次郎。源五左衛門
いしかわかずつぐ
次郎兵衛一長の男
寛政譜3・18
妻は山本新五左衛門重義の女

寛永12年7月 父一長の遺跡を継ぐ。210石

寛永15年 はじめて家光に拝謁

寛永15年10月24日 小十人 ●「日記」共

寛永18年10月26日 小十人組頭

正保3年12月4日 210石80俵

承応元年11月9日 死す
石川一富
生。伝三郎
いしかわかずとみ
市左衛門利賢の男
寛政譜19・206
秀忠に仕える。焼火間番


勘気を蒙る

寛永15年10月17日 御国御免 ●「日記」


以下不詳
石川勝正 元和3年 生。瀬兵衛。与次右衛門
いしかわかつまさ
与次右衛門重正の長男
寛政譜3・41
母は大橋左馬助の女

寛永9年12月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

(寛永9年12月1日) (佐兵衛) ●「日記」


大番

明暦3年12月25日 父重正の遺跡を継ぐ。330石

延宝7年8月29日 死す
石川廉勝 慶長9年 生。千勝。宗十郎。弾正大弼。一時大久保を称すか
いしかわかどかつ
石川主殿頭忠総の長男
寛政譜3・5
母は堀尾帯刀可晴の女


室は堀尾山城守忠晴の女


祖父大久保相模守忠隣の家号を冒して大久保を称す

寛永8年5月28日 縁組あり ●「日記」

(寛永8年5月28日) (石川宗十郎) ●「日記」

(寛永10年2月22日) (大久保宗十郎) ●「日記」

寛永11年12月29日 従五位下・弾正大弼

(寛永12年10月6日) (石川弾正の初出) ●「日記」

(寛永15年10月19日) (石川弾正少弼) ●「日記」

慶安3年7月8日
石川久次 天正16年 生。才阿弥
いしかわきゅうじ
金阿弥吉次の長男
寛政譜3・30 元和5年 秀忠に仕える。同朋。廩米を賜る

寛永9年7月17日 ゆるされる ●「日記」

正保3年4月6日 死す
石川久兵衛

いしかわきゅうびょうえ


(寛永19年7月8日) (石坂金左衛門手代) ●「日記」

寛永19年7月8日 欠所ニて追放 ●「日記」

寛永19年7月14日 今度御蔵衆私曲之与同人也雖然或軽罪或忠信之儀申出ニ付て―


―身命御助家財欠所之上江戸并在所追放 ●「日記」



石川邦総
生。甚十郎
いしかわくにふさ
主殿頭忠総の六男
寛政譜3・6
母は堀尾帯刀可晴の女

寛永11年3月15日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永13年10月28日 中奥の番士

寛永13年10月28日 中奥之御番 ●「日記」

寛永16年12月28日 膳番 ●「日記」共

(寛永19年4月4日) (御小姓衆) ●「日記」

某年 死す
石川三五郎

いしかわさんごろう




石川三五郎子

いしかわさんごろうこ 寛永9年7月17日 ゆるされる ●「日記」



石川重興
生。又十郎。六左衛門
いしかわしげおき
六左衛門重勝の次男
寛政譜3・26 寛永9年 はじめて家光に拝謁

寛永14年11月25日 父重勝の遺跡を継ぐ。2000石

寛永14年11月25日 弐千石石川六左衛門跡実子又十郎 ●「日記」

寛永19年6月20日 書院番 ●「日記」共

慶安元年5月21日 書院番。進物役

明暦元年2月19日 徒頭

明暦元年12月29日 布衣

寛文2年5月12日 徒頭を辞す。小普請

貞享3年3月14日 死す
石川重勝 天正17年 生。六左衛門
いしかわしげかつ
八左衛門重次の次男
寛政譜3・26
母は犬塚氏


家康に仕える。納戸番。400石

寛永3年5月 秀忠の上洛に従う


膳奉行


目付


使番

寛永10年12月26日 1400石

寛永10年12月26日 御加恩千石 ●「日記」

寛永11年1月10日 船手

寛永11年1月10日 船手。同心40人 ●「日記」


2000石

寛永13年12月29日 布衣 ●「日記」共

寛永14年6月8日 死す
石川重俊
生。作十郎。焉之
いしかわしげとし
八左衛門重次の三男
寛政譜3・27
母は犬塚氏

寛永3年 はじめて家光に拝謁

寛永4年 小姓組


250石

寛永10年 書院番

寛永10年2月7日 450石

慶安元年4月 日光社参のとき仮に跡押の役をつとめる

承応元年 書院番を辞す。小普請

延宝5年閏12月12日 致仕。焉之と号す

元禄10年1月16日 死す
石川庄次郎
弥左衛門貴成の長男か? もしくは貴政か
いしかわしょうじろう
書院番か

寛永13年5月8日 滋野井少将の給仕役 ●「日記」



石川宗右衛門

いしかわそうえもん
松平伊予守忠昌家臣



石川貴定
生。左次兵衛
いしかわたかさだ
弥左衛門貴成の次男
寛政譜3・32 寛永15年11月21日 石川弥左衛門二番目子可被召出 ●「日記」

寛永16年7月23日 はじめて家光に拝謁

寛永16年7月23日 石川弥左衛門二番子以樽代初て御目見 ●「日記」

寛永17年 小姓組

寛永17年3月19日 御小姓組御番 ●「日記」

寛永19年12月10日 300俵 ●「日記」共

寛文2年 死す
石川貴成
生。小刑部。弥左衛門。栄入
いしかわたかなり
弥左衛門貴繁の養子。赤井藤右衛門幸長の長男
寛政譜3・31 慶長15年 はじめて家康に拝謁。養父貴繁の家督を賜る。1000石

~慶長19年 小姓

元和元年~ 書院番

寛永9年11月5日 書院番・進物役

寛永9年11月5日 本番御免。進物番 ●「日記」

寛永10年2月7日 1200石

寛永10年6月11日 使番 ●「日記」共

寛永11年5月14日 2000石

寛永11年5月14日 御加恩千石 ●「日記」

(寛永13年12月13日) (布衣) ●「日記」

寛永14年11月26日 弥無油断江戸中可致夜廻 ●「日記」

万治3年4月2日 使番を辞す

寛文2年11月9日 致仕。300俵。栄入と号す


死す
石川貴政
生。庄次郎
いしかわたかまさ
弥左衛門貴成の長男(もしくは次男か)
寛政譜3・32
書院番か

(寛永13年5月8日) (滋野井少将の給仕役) ●「日記」

寛永17年 はじめて家光に拝謁 ※11・13年の誤りかもしくは兄が存在したか


書院番

慶安3年9月3日 家綱に付属される。西丸に伺候

(慶安4年) 本丸に勤仕

寛文2年11月9日 父貴成の家を継ぐ。1700石

延宝3年 死す
石川忠総 天正10年 生。宗十郎。主殿頭
いしかわただふさ
日向守家成の嗣。大久保相模守忠隣の次男
寛政譜3・4
母は日向守家成の女


室は堀尾帯刀可晴の女

慶長元年 秀忠の御前にて元服。偏諱を賜る

慶長3年 家康に仕える

慶長5年 石川を称す

慶長8年 従五位下・主殿頭

慶長8年 5000石

慶長14年 石川家成の遺領を継ぐ。美濃国大垣城5万石

元和2年 豊後国日田6万石

寛永10年6月7日 下総国佐倉城7万石

寛永10年6月7日 下総佐倉得替。御加恩壱万石 ●「日記」

寛永11年7月16日 四品 ●「日記」

寛永11年閏7月6日 近江国膳所7万石

寛永11年閏7月6日 膳所え本高ニて得替 ●「日記」

寛永11年閏7月16日 従四位下

寛永16年10月29日 西丸御番 ●「日記」

慶安3年12月24日
石川忠総娘
寛政譜3・6
石川主殿頭忠総の女
寛政譜5・28
母は堀尾帯刀可晴の女

寛永15年6月21日 縁辺組被仰付面々石川主殿頭娘中川山城守 ●「日記」


中川山城守久清に嫁ぐ

寛永17年7月1日 石川主殿頭中川山城守祝言相済御礼 ●「日記」

寛永18年 中川佐渡守久恒を産む


以下不詳
石川弾正

いしかわだんじょう 寛永12年10月6日 病後之御目見 ●「日記」






石川成次 慶長7年 生。彦五郎。左京。又右衛門
いしかわなりつぐ
日向守家成の四男
寛政譜3・15 慶長14年 父家成卒のとき未だ上聞に達せざるにより処士。三河国に住す

寛永11年 家光の上洛還御のとき三河国大平にて愁訴

寛永12年1月21日 小姓組。300俵

寛永12年1月21日 始て御目見是ハ去年御上洛御下向之刻於路次捧訴状―


―其旨趣被聞召届被召出之 ●「日記」


小姓組を辞す。小普請

某年 死す
石川法次
生。七左衛門
いしかわのりつぐ
九郎兵衛忠久の長男
寛政譜3・34 元和9年 はじめて家光に拝謁


小十人。100俵

寛永9年8月25日 200俵

(寛永18年4月12日) (本目権兵衛組) ●「日記」

寛永18年4月12日 家禄をおさめられる

寛永18年4月12日 被放御扶持 ●「日記」

寛永18年9月5日 ゆるされる。小十人。200俵

寛永18年9月5日 御赦免仕来御役如前々可相勤 ●「日記」

慶安2年2月25日 納戸番

寛文2年10月19日 納戸番組頭

寛文2年12月22日 300俵

延宝8年2月23日 納戸番組頭を辞す。小普請

元禄2年 死す
石川法久 慶長10年 生。兵左衛門
いしかわのりひさ
九郎兵衛忠久の次男
寛政譜3・35 寛永9年8月22日 家光に仕える

寛永9年9月 小十人

寛永11年3月 100俵

寛永19年12月16日 200俵 ●「日記」共

慶安3年9月8日 家綱に付属される。西丸に勤仕

(慶安4年) 本丸に勤仕

寛文11年11月2日 死す
石川憲之 寛永11年 生。千勝。宗十郎。主殿頭。泰恵
いしかわのりゆき
弾正大弼廉勝の男
寛政譜3・6
母は堀尾山城守忠晴の女


室は梅園三位実清の女

寛永20年5月18日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

慶安4年4月4日 祖父主殿頭忠総の遺領を継ぐ。伊勢国亀山城5万石。帝鑑間に伺候

承応元年12月28日 従五位下・主殿頭

寛文9年2月25日 山城国淀城6万石。雁間に伺候

元禄11年12月25日 従四位下

宝永3年2月25日 致仕。泰恵と号す

宝永4年7月11日
石川春清 寛永14年 生。九十郎。与五右衛門
いしかわはるきよ
八右衛門春吉の長男
寛政譜3・21
母は石川長左衛門忠吉の女

正保元年6月4日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

万治2年7月4日 大番

寛文元年5月21日 200俵

寛文元年6月16日 死す
石川春吉 慶長16年 生。八大夫。八右衛門
いしかわはるよし
四郎兵衛重久の男
寛政譜3・20
母は平岩金左衛門正当の女


妻は石川長左衛門忠吉の女

(元和5年) 父重久の遺跡を継ぐ。200石

元和6年3月 はじめて秀忠に拝謁

寛永7年 大番

寛永10年2月7日 400石

(正保元年6月4日) (松平外記組) ●「日記」

慶安4年9月29日 綱吉に付属される


神田館にて鉄炮頭。400石300俵

寛文3年2月8日 死す
石川総氏 寛永3年 生。半太郎。東市正。有閑
いしかわふさうじ
主殿頭忠総の七男
寛政譜3・14
母は堀尾帯刀可晴の女


妻は高木主水正正弘の女

寛永13年3月25日 はじめて家光に拝謁

寛永13年3月25日 石川主殿頭末子以太刀目録御礼 ●「日記」

寛永18年10月3日 家綱に近侍。小姓

寛永18年10月3日 (名前のみの記載) ●「日記」

正保2年4月21日 従五位下・東市正

慶安4年4月4日 父忠総の遺領分知。3000石

~承応2年 中奥に伺候

延宝5年4月14日 小姓組番頭

天和2年4月21日 4000石

貞享4年11月26日 小姓組番頭を辞す。寄合

元禄8年7月9日 致仕。有閑と号す

元禄15年1月2日 死す
石川総長 慶長10年 生。権十郎。播磨守
いしかわふさなが
主殿頭忠総の次男
寛政譜3・8
母は堀尾帯刀可晴の女


室は加々爪民部少輔忠澄の長女

寛永12年8月6日 嫁娶被仰付之 ●「日記」

寛永18年6月20日 小姓組番頭 ●「日記」共

寛永18年12月29日 従五位下・播磨守

寛永18年12月29日 諸大夫 ●「日記」

(寛永19年12月15日) (播磨守の初出) ●「日記」

寛永19年12月15日 2000石 ●「日記」共

慶安元年3月28日 大番頭

慶安4年4月4日 1万石

明暦元年9月10日 大番頭を辞す

万治3年11月22日 大坂定番。伊勢国神戸2万石

寛文元年10月22日
石川正重(石見)
生。勘解由。石見
いしかわまさしげ
藤大夫の長男
士林泝洄2・145
松平忠吉に仕える。小姓

慶長5年 1000石


徳川義直に仕える。鉄炮頭

寛永3年10月 大番頭。1500石

寛永12年 城代

寛永15年 病により辞職。寄合

慶安2年10月20日 卒。断絶
石川正重(半左衛門) 元和5年 生。長五郎。半左衛門
いしかわまさしげ
半左衛門正次の男
寛政譜3・29
母は神谷与右衛門の女

寛永16年7月23日 はじめて家光に拝謁

寛永16年7月23日 石川半左衛門惣領子樽代を以初て御目見 ●「日記」

寛永17年3月20日 大番 ●「日記」共

寛永18年12月4日 父正次の遺跡を継ぐ。300俵

寛永18年12月4日 三百俵同組石川半右衛門跡惣領長五郎ニ被下之 ●「日記」

寛永20年8月8日 新番

寛永20年8月8日 於土圭之間御番相詰其上方々御成之刻御先え参御殿御番等可相勤之旨―


―被仰付之由伊豆豊後列座有之民部少輔伝之安西甚兵衛組 ●「日記」


新番を辞す


大番

寛文5年12月16日 裏門切手番頭

寛文11年8月7日 死す
石川正次 元亀3年 生。半左衛門
いしかわまさつぐ
半三郎正俊の男
寛政譜3・28
妻は神谷与右衛門の女

天正 駿府にて家康に仕える。300俵

慶長12年 大番

元和元年~ 小普請

寛永18年8月1日 死す

(寛永18年12月4日) (酒井和泉守与) ●「日記」
石川政次 天正11年 生。道斎。八左衛門。大隅守
いしかわまさつぐ
八左衛門重次の長男
寛政譜3・23
母は犬塚氏


妻は稲垣平右衛門長茂の女

文禄3年 はじめて家康に拝謁

~慶長5年 秀忠に仕える

慶長18年 父重次の遺跡を継ぐ。2500石。使番

元和3年1月 目付

元和9年2月26日 3500石

寛永2年 船手。4500石

寛永17年6月22日 交代で九州・四国・中国の浦々を巡見

寛永17年6月22日 九州四国中国之浦々為見分船手之面々毎年二人宛可被遣之旨被仰出之―


―所謂辰年小浜久太郎間宮虎之助巳年石川八左衛門向井右衛門―


―午年小浜弥十郎小笠原安芸守右之通代々可相越 ●「日記」

寛永18年8月28日 山田奉行。船手水主70人

寛永18年8月28日 勢州山田之御奉行并船手被仰付之水主七拾人御預―


―彼御役ニ従前々付来之領知三千石可致所務 ●「日記」

正保元年1月2日 従五位下・大隅守

正保元年1月2日 諸大夫 ●「日記」

(正保元年4月5日) (大隅守の初出) ●「日記」

万治2年4月19日 病により山田奉行を辞す。寄合

寛文元年11月21日 致仕

寛文2年10月26日 死す
石川政信 元和8年 生。又四郎。八左衛門
いしかわまさのぶ
大隅守政次の養子。石川六左衛門重勝の長男
寛政譜3・24
妻は稲垣摂津守重綱の女

寛永9年10月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

明暦2年2月24日 死す
石川康長
生。玄蕃頭。従五位下
いしかわやすなが
出雲守数正の長男
寛政譜3・18 天正12年 松平秀康に仕える
松本城の歴史33 文禄2年 父数正の遺領を継ぐ。秀吉に仕える。信濃国松本城8万石

慶長18年10月19日 大久保石見守長安に連座して改易。―


―毛利伊勢守高政に召し預けられる。豊後国佐伯に蟄居

寛永15年10月17日 石川玄蕃頭是ハ娘縁辺何方へも有時可申也 ●「日記」

寛永19年12月11日
石川康長娘





寛永15年10月17日 石川玄蕃頭是ハ娘縁辺何方へも有時可申也 ●「日記」



石川泰総 元和3年 生。権七郎
いしかわやすふさ
主殿頭忠総の五男
寛政譜3・6
母は堀尾帯刀可晴の女

寛永11年3月15日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永13年10月28日 中奥に伺候

寛永13年10月28日 中奥之御番 ●「日記」

寛永17年 書院番

正保元年2月5日 死す
石川猶次
生。観阿弥
いしかわゆうじ
外祖父金阿弥吉次の養子。太田氏の男
寛政譜3・30
母は金阿弥吉次の女

(寛永7年) 養父吉次の遺跡を継ぐ。徳川忠長に仕える。100俵。同朋

(寛永9年) 処士

寛永13年12月10日 御赦免 ●「日記」

寛永14年 家光に仕える。同朋

寛永15年12月1日 如前々御切米百俵五人扶持被下之 ●「日記」


以下不詳。子孫御家人
石河勝政 天正5年 生。甚太郎。三右衛門。土佐守。土斎
いしこかつまさ
杢兵衛光政の次男
寛政譜5・425
母は豊臣秀次家臣益田某の女


妻は府馬左衛門佐の女。後妻は榊原飛騨守職直の女


小早川秀秋に仕える

文禄元年 下総国助崎に潜居

文禄3年 秀忠に付属される

慶長19年 使番

元和3年5月26日 1150石

寛永7年 1650石

寛永10年1月12日 堺政所。2700石

寛永10年1月12日 堺政所。1000石加増 ●「日記」

寛永10年2月4日 同心50人 ●「日記」共

寛永15年12月16日 従五位下・土佐守

寛永15年12月16日 諸大夫 ●「日記」

(寛永15年12月19日) (土佐守の初出) ●「日記」

承応元年4月26日 堺政所を辞す。致仕。600石300俵。土斎と号す

万治2年9月2日 死す
石河貞利 慶長15年 生。太兵衛
いしこさだとし
壱岐守貞政の長男
寛政譜5・422
母は小早川秀秋家臣松井藤四郎の女


妻は石河土佐守勝政の女


後妻は織田刑部大輔信則の女

承応3年4月24日 父貞政の家を継ぐ。5020石。寄合

承応3年5月3日 はじめて家綱に拝謁

万治2年5月16日 死す
石河貞利長女
寛政譜5・423
石河太兵衛貞利の長女
寛政譜14・12 寛永20年12月26日 縁辺 ●「日記」


市橋三四郎長綱に嫁ぐ


市橋五郎左衛門長員を産む


以下不詳
石河貞政 天正3年 生。千。土用之助。又十郎。壱岐守。伊豆守。壱岐守。桂春
いしこさだまさ
木工兵衛光政の長男
寛政譜5・421
母は豊臣秀次家臣益田氏の女


妻は小早川中納言秀秋家臣松井藤四郎の女


秀吉に仕える。2000石


豊臣秀頼に仕える

慶長2年12月 従五位下・壱岐守


(伊豆守・壱岐守)

(慶長5年) 4000石

慶長19年 家康に仕える。4000石

(寛永2年12月11日) 5020石

(寛永13年2月6日) (石川壱岐守の初出) ●「日記」

承応3年4月24日 致仕

明暦3年9月6日 死す
石河利勝
生。権九郎
いしことしかつ
土佐守利政の男
寛政譜5・426 寛永10年6月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永15年10月24日 書院番 ●「日記」共

寛永20年9月7日 死す
石河利政 慶長2年 生。甚太郎。三右衛門。土佐守
いしことしまさ
土佐守勝政の長男
寛政譜5・425
母は府馬左衛門佐の女


妻は上杉播磨守家臣市川土佐の女

慶長17年 秀忠に仕える


小姓組。300俵

慶長19年 大坂の役にて馬廻

元和元年 大坂の役にて馬廻

寛永10年2月2日 大番組頭 ●「日記」共

寛永10年2月27日 600石

(寛永10年6月1日) (皆川志摩守与) ●「日記」

(寛永17年7月26日) (三右衛門の初出) ●「日記」

寛永19年10月26日 目付 ●「日記」共

寛永19年12月30日 布衣 ●「日記」共

慶安4年11月21日 600石300俵

承応元年4月26日 父勝政の家を継ぐ。2700石。堺政所

承応元年5月19日 与力10騎

承応2年12月29日 従五位下・土佐守

寛文4年9月27日 堺政所を辞す

寛文6年11月27日 死す
石坂勘兵衛

いしざかかんびょうえ
忠兵衛の惣領

寛永20年12月7日 四百石忠兵衛跡石坂勘兵衛 ●「日記」



石坂喜三郎

いしざかきさぶろう
金左衛門の男

(寛永19年7月8日) (八王子ニ有之) ●「日記」

寛永19年7月8日 斬罪 ●「日記」
石坂喜三郎子





寛永19年7月8日 喜三郎子男子三人壱人九壱人六壱人二斬罪 ●「日記」



石坂金左衛門

いしざかきんざえもん


(寛永19年5月22日) (江戸御蔵衆) ●「日記」

寛永19年5月22日 鳥居主膳正え御預 ●「日記」

(寛永19年7月8日) (浅草御蔵奉行) ●「日記」

寛永19年7月8日 斬罪 ●「日記」
石坂源五郎

いしざかげんごろう
金左衛門の男

寛永19年5月29日 高林善次郎え石坂金左衛門子源五郎御預 ●「日記」

寛永19年7月8日 切腹 ●「日記」
石坂善二郎

いしざかぜんじろう
金左衛門の男か


寛永19年7月8日時点で存命ではないということか ●「日記」



石坂善二郎子





寛永19年7月8日 石坂善二郎子男子弐人一人四一人三(死罪か) ●「日記」



石坂善太郎

いしざかぜんたろう
金左衛門の男

寛永19年7月8日 町野三休預石坂善太郎切腹金左衛門子 ●「日記」
石坂忠兵衛

いしざかちゅうびょうえ


寛永20年12月7日 四百石忠兵衛跡石坂勘兵衛 ●「日記」



石坂平吉

いしざかへいきち 寛永13年12月6日 初て御目見 ●「日記」

寛永13年12月27日 大御番被仰付之 ●「日記」



石崎一学

いしざきいちがく
若狭か八郎右衛門の男か

(寛永17年7月26日) (生駒壱岐守家来) ●「日記」

寛永17年7月26日 切腹 ●「日記」



石崎八郎右衛門

いしざきはちろうえもん
生駒壱岐守高俊に仕える

(寛永17年7月26日) (生駒壱岐守家中) ●「日記」

寛永17年7月26日 子共迠死罪 ●「日記」



石崎杢助

いしざきもくのすけ
若狭か八郎右衛門の男か

(寛永17年7月26日) (生駒壱岐守家来) ●「日記」

寛永17年7月26日 切腹 ●「日記」



石崎若狭

いしざきわかさ
生駒壱岐守高俊に仕える

(寛永17年7月26日) (生駒壱岐守家老) ●「日記」

寛永17年7月26日 父子共切腹 ●「日記」



伊地知越中

いじちえっちゅう
円満院門跡常尊の家臣



伊地知大蔵卿

いじちおおくらきょう
円満院門跡常尊に仕える

(寛永13年5月6日) (円満院御門跡内) ●「日記」



石野氏照 慶長14年 生。八兵衛。無入
いしのうじてる
八兵衛氏置の長男
寛政譜8・43
母は内藤弥次右衛門家長の女


妻は久世三四郎広当の養女大久保荒之助忠当の女

慶長17年 父氏置の遺跡を継ぐ。上総国2150石

寛永3年5月3日 上総国2510石の朱印

寛永4年 書院番

寛永10年 小姓組

寛永16年7月12日 徒頭

寛永16年7月12日 佐野左京元組御歩行頭 ●「日記」

寛永18年1月6日 布衣 ●「日記」共

承応2年閏6月1日 下田奉行。上総国2810石

寛文元年8月22日 養子則員に分知。上総国2510石

寛文8年6月30日 下田奉行を辞す

寛文8年10月3日 致仕。300俵。無入と号す

寛文10年1月8日 死す
石野氏任
生。鍋之助。又太郎。八左衛門
いしのうじとう
八兵衛氏照の男
寛政譜8・43
母は久世三四郎広当の養女大久保荒之助忠当の女


妻は曾我又左衛門近祐の女

寛永17年2月13日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保3年 小姓組

慶安元年12月11日 300俵

万治2年6月17日 死す
石野広貞
生。彦八郎
いしのひろさだ
六左衛門広吉の長男
寛政譜11・158
母は花井伊賀定清の女


家光に仕える。大番。200俵

寛永10年2月7日 400石

寛永12年6月17日 死す
石野広達
生。弥八郎。十郎左衛門。彦八郎。閑徹
いしのひろたつ
彦八郎広貞の男
寛政譜11・158
妻は山中喜兵衛信時の女

寛永13年11月24日 父広貞の遺跡を継ぐ。200石

寛永13年11月24日 石野彦八郎弐百石子跡目被仰付之 ●「日記」

慶安2年12月26日 大番

寛文2年10月26日 腰物奉行

延宝元年12月21日 新番

延宝2年12月18日 200石50俵

貞享3年~ 新番を辞す。小普請

元禄10年7月6日 致仕。閑徹と号す

宝永5年2月30日 死す
石野広英 元和元年 生。忠右衛門
いしのひろひで
新蔵広次の次男
寛政譜11・165
母は榊原七郎右衛門清政の女


妻は松平主殿頭家臣伊東三右衛門の女

寛永13年12月27日 大番。200俵

寛永13年12月27日 大御番被仰付之 ●「日記」


書院番

万治3年12月26日 300俵


書院番を辞す。小普請

寛文9年4月29日 死す
石野広房 元和9年 生。新五郎
いしのひろふさ
弥五右衛門良継の次男
寛政譜11・167
妻は蒔田氏

寛永13年12月27日 大番 ●「日記」共

正保元年12月25日 父良継の遺跡を継ぐ。400石

正保元年12月25日 跡目被仰付四百石石野弥五右衛門惣領新五郎ニ被下但弥五右衛門四月―


―病死ニ付新五郎御切米当年より被召上之 ●「日記」


大番を辞す。小普請

明暦元年1月29日 死す
石野広之
生。七郎左衛門
いしのひろゆき
三左衛門広長の次男
寛政譜11・161 寛永9年8月22日 はじめて家光に拝謁

寛永9年 小十人。100俵

(寛永18年4月12日) (本目権兵衛組) ●「日記」

寛永18年4月12日 家禄をおさめられる

寛永18年4月12日 被放御扶持 ●「日記」

寛永18年9月5日 赦免。小十人。100俵

寛永18年9月5日 御赦免仕来御役如前々可相勤 ●「日記」

寛永19年12月16日 200俵 ●「日記」共

寛永20年8月8日 新番

寛永20年8月8日 於土圭之間御番相詰其上方々御成之刻御先え参御殿御番等可相勤之旨―


―被仰付之由伊豆豊後列座有之民部少輔伝之遠山十右衛門組 ●「日記」

万治2年12月26日 250俵

延宝2年4月6日 死す
石野広吉 天正10年 生。六左衛門
いしのひろよし
三左衛門広長の長男
寛政譜11・156
妻は花井伊賀定清の女


父広長戦死により榊原式部大輔康政に扶助される


菅沼小大膳定利に仕える

慶長7年3月22日 家康に仕える。武蔵国忍城番

元和6年閏12月8日 秀忠に命により江戸に至る

寛永12年10月 石奉行


240石

万治元年9月5日 死す
石野正数
生。伝八郎
いしのまさかず
新十郎正雄の養子。永井新八郎尚政の次男
寛政譜11・169
妻は伴五兵衛重盛の女


秀忠・家光に仕える。小十人


大番。200石

寛永10年2月7日 400石

寛永20年11月7日 新番 ●「日記」共

寛文4年9月2日 死す
石野弥八郎

いしのやはちろう
松平肥前守前田利常に仕える

(寛永14年9月10日) (松平肥前守家中証人石野弥八郎) ●「日記」



石野良継 文禄元年 生。新五郎。弥五右衛門
いしのよしつぐ
新蔵広光の次男
寛政譜11・167
母は初鹿野伝右衛門昌久の女


家康・秀忠に仕える。納戸番。200俵


大番

寛永10年2月7日 400石

寛永20年9月20日 天守番頭 ●「日記」共

正保元年4月22日 死す
石原正重 元和元年 生。清左衛門
いしはらまさしげ
清左衛門一重の甥で養子
寛政譜15・318 寛永10年8月 養父一重の遺跡を継ぐ。美濃国下笠村代官。200俵

明暦2年6月16日 死す
石原安正
生。小大夫
いしはらやすまさ
小市郎安長の男
寛政譜15・322 慶長8年 秀忠に仕える

(寛永13年3月25日) (大久保右京亮組) ●「日記」 (大番)


以下不詳
石原安吉
生。与右衛門。一郎左衛門
いしはらやすよし
小大夫安正の男
寛政譜15・322 寛永13年3月25日 はじめて家光に拝謁

寛永13年3月25日 石原小大夫子被召出之 ●「日記」

寛永13年3月25日 大久保右京亮組(大番) ●「日記」

寛永13年12月27日 大番 ●「日記」共

寛文5年 死す
石火矢石見

いしびやいわみ







石火矢吉六

いしびやきちろく







石火矢内蔵助

いしびやくらのすけ







石火矢権六

いしびやごんろく







石火矢佐次右衛門

いしびやさじえもん







石火矢主膳

いしびやしゅぜん







石火矢宗覚

いしびやそうかく







石火矢文四郎

いしびやぶんしろう







石火矢茂右衛門

いしびやもえもん







石巻康貞 慶長元年 生。彦太郎。権右衛門。元帰
いしまきやすさだ
下野康敬の次男
寛政譜14・416
母は内田与左衛門の女


妻は倉林五郎右衛門則房の女


後妻は清水藤五郎の女

慶長18年 父康敬の遺跡を継ぐ。110石


納戸番


納戸頭

慶安3年9月3日 家綱に付属される。西丸納戸頭


本丸に勤仕

慶安4年8月16日 布衣

慶安4年11月21日 380石300俵

寛文元年5月23日 納戸頭を辞す

寛文8年10月3日 致仕。300俵。元帰と号す

延宝元年7月13日 死す
石巻康賛
生。彦左衛門
いしまきやすすけ
左馬允敬重の男
寛政譜14・419
秀忠・家光に仕える。大番

寛永16年10月23日 鉄炮薬込役。腰物持

寛永16年10月24日 御鉄炮薬込 ●「日記」

寛永18年4月12日 逼塞 ●「日記」共

寛永18年9月5日 ゆるされる

寛永18年9月5日 御赦免仕来御役如前々可相勤 ●「日記」

慶安3年6月12日 死す
石巻康元 元和3年 生。八郎左衛門。権右衛門
いしまきやすもと
権右衛門康貞の長男
寛政譜14・416
母は倉林五郎右衛門則房の女


妻は村上左衛門信清の女

寛永9年6月19日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永12年 小姓組

寛文8年10月3日 父康貞の家を継ぐ。380石300俵

寛文10年~ 小姓組を辞す。小普請


書院番

延宝2年7月6日 死す
石丸有吉 文禄3年 生。次大夫。権六郎
いしまるありよし
孫次郎有定の養子。日置氏の男
寛政譜6・410
妻は有定の女


後妻は豊臣家臣三井十左衛門の女

慶長17年 家康に仕える。小姓組

~慶長19年 300石

寛永3年~ 書院番

寛永10年2月2日 大番組頭 ●「日記」共

寛永10年2月23日 600石

慶安4年11月21日 600石200俵

承応3年10月20日 死す
石丸定次 慶長10年 生。藤蔵。淡路守。石見守
いしまるさだつぐ
六兵衛定政の長男
寛政譜6・403
母は間宮左衛門信之の女


妻は庄田小左衛門安照の女

寛永2年 はじめて家光に拝謁

寛永2年 小姓

寛永6年12月28日 従五位下・淡路守

(寛永9年7月24日) (駿河守?) ●「日記」


書院番

寛永13年10月28日 書院番・進物役

寛永13年10月28日 御進物番 ●「日記」

(寛永17年1月2日) (石見守の初出) ●「日記」

(寛永17年5月8日) (淡路守) ●「日記」

(寛永18年1月1日) (石見守とも淡路とも記す) ●「日記」

(寛永20年1月2日) (石見守とも淡路守とも記す) ●「日記」

正保2年12月19日 父定政の遺跡を継ぐ。1240石

万治元年6月21日 書院番組頭

寛文3年8月25日 大坂町奉行。2240石

延宝7年5月11日 死す
石丸定政 天正4年 生。六兵衛
いしまるさだまさ
孫次郎有定の次男
寛政譜6・403
妻は間宮左衛門信之の女

慶長2年 はじめて家康に拝謁

慶長3年 父有定の家を継ぐ。500石。秀忠に仕える

慶長5年~慶長19年 大番

元和元年~元和6年 大番組頭


740石

寛永10年2月23日 1240石

(寛永13年3月25日) (大久保右京亮組) ●「日記」

正保2年6月23日 大番組頭を辞す

正保2年10月6日 死す
石丸定盛 元和3年 生。市之丞。五左衛門
いしまるさだもり
六兵衛定政の次男
寛政譜6・405
母は間宮左衛門信之の女


妻は石丸権六郎有吉の長女


後妻は石丸権六郎有吉の次女

寛永13年3月25日 はじめて家光に拝謁

寛永13年3月25日 石丸六兵衛二番子被召出之 ●「日記」

寛永13年3月25日 大久保右京亮組(大番) ●「日記」

寛永13年12月27日 大番 ●「日記」共

寛永20年8月8日 新番

寛永20年8月8日 於土圭之間御番相詰其上方々御成之刻御先え参御殿御番等可相勤之旨―


―被仰付之由伊豆豊後列座有之民部少輔伝之遠山十右衛門組 ●「日記」

正保2年12月19日 300石

慶安元年5月18日 小納戸

明暦2年5月4日 中奥の番士

寛文2年12月22日 300石100俵

延宝4年5月29日 二丸留守居番

天和2年4月22日 600石100俵

天和3年8月29日 駿河国清水奉行

天和3年12月28日 布衣

貞享元年1月29日 死す
石丸六右衛門

いしまるろくえもん
松平石見守池田輝澄に仕える

(寛永17年7月26日) (松平石見守家中) ●「日記」

寛永17年7月26日 丹羽左京亮御預前後共二十人ふち ●「日記」



石屋甚兵衛

いしやじんびょうえ
石問屋か石工か

寛永12年9月30日 喜多七大夫ニ石屋甚兵衛家屋敷被下之 ●「日記」



石屋又蔵

いしやまたぞう
石工か

寛永18年10月25日 県五郎作石屋又蔵ニ金子弐万両被下之其上又蔵義は御扶持人被仰付之―


―是日光石之御宝塔請取入精之早速令首尾付て御褒美也云々 ●「日記」

寛永19年4月17日 石屋又蔵五郎助ニ御知行弐百宛新規ニ被下之 ●「日記」



石山寺
近江国大津。真言宗
いしやまでら




以心崇伝 永禄12年 生。一色紀伊守秀勝の男
いしんそうでん
南禅寺長老
寛政譜2・176
家康・秀忠・家光に近侍


僧録司。金地院に住す


円照本光国師

寛永10年1月20日 遷化 ●「日記」共
いつミ

いずみ
九条道房女房

(寛永17年5月26日) (九条内府御内) ●「日記」



出雲神宮寺

いずもじんぐうじ




伊勢神主
伊勢神宮の神主
いせかんぬし




井関家重
生。河内大掾
いせきいえしげ
備中掾の男
仮面譜
能面打ち。近江国に住す
(能楽盛衰記上・344)
江戸に住す

正保3年 死す
井関次郎左衛門
京都紋屋
いせきじろうざえもん


(寛永15年9月9日) (京文や井関父子) ●「日記」

(寛永19年9月9日) (井関鞍打) ●「日記」



井関太郎次郎
京都紋屋
いせきたろうじろう


(寛永15年9月9日) (京文や井関父子) ●「日記」



井関親信 慶長6年 生。弥右衛門。猪兵衛
いせきちかのぶ
猪兵衛親義の男
寛政譜10・83
妻は内田平右衛門正成の女

元和元年 大坂の役に父親義と同じく従う

元和元年 はじめて秀忠に拝謁

(元和元年) 父親義の遺跡を継ぐ。220石


殺生方


細工頭

延宝8年4月21日 死す
井関兵部少輔

いせきひょうぶのしょう (寛永11年7月21日) (非蔵人) ●「日記」






井関竜哲

いせきりゅうてつ
大覚寺門跡尊性法親王の家臣



伊勢慶光院
伊勢国山田。尼寺
いせけいこういん
開山守悦
宇治山田市史下・1008
2世智珪
宇治山田市史下・1179
3世清順

永禄9年 清順寂


4世周養

慶長16年4月26日 周養寂

慶長16年4月 5世周清

寛永11年 周清退隠

寛永11年 6世周宝


7世周長

正保元年4月5日 伊勢両宮正遷宮之事任先規可執行之旨慶光院周長上人被成下御朱印―


―同為隠居免領知百石余新被寄附之仍周清上人御朱印頂戴之云々―


―但四年以後丁亥歳相当正遷宮依之従当年被催之云々 ●「日記」

慶安元年9月 周清寂


8世周貞


後略
伊勢外宮長官

いせげくうちょうかん




伊勢貞重
生。伝左衛門。因幡守
いせさだしげ
因幡守貞常の男
寛政譜8・271 元和5年6月19日 二条城にて秀忠に拝謁

(寛永4年) 父貞常の遺跡を継ぐか。鞍作

(寛永18年12月28日) (因幡守入道) ●「日記」

寛文5年10月2日 死す
伊勢貞衡 慶長10年 生。清十郎。三郎。兵庫
いせさだひら
兵庫頭貞為の長男
寛政譜8・274
母は岸和泉守章憲の女


幼少より豊臣秀頼に仕える

元和元年 大坂落城ののち天樹院の召しにより二条城にあり

元和元年 はじめて家康に拝謁。京都武者小路に宅地を賜る

寛永13年3月28日 以太刀目録御礼 ●「日記」

寛永14年3月28日 母方のおば春日局の請い申すにより家光に仕える。寄合

寛永16年9月21日 千代姫と徳川光友の婚儀の礼式を選ぶ

寛永16年12月26日 1000俵 ●「日記」共


家伝の書籍を書写して献上

元禄元年12月9日 致仕

元禄2年11月7日 死す
伊勢主殿助

いせとのものすけ
梶井門跡慈胤法親王に仕える

(寛永13年5月6日) (梶井新宮(内)) ●「日記」



伊勢内宮惣中

いせないくうそうちゅう




伊勢内宮長官

いせないくうちょうかん




伊勢兵部
寛政譜8・273参照
いせひょうぶ
嶋津家臣

(寛永16年4月30日) (兵部少輔) ●「日記」



伊勢祐怡

いせゆうい 寛永13年3月28日 伊勢兵庫同祐怡以太刀目録御礼 ●「日記」






五十川内蔵助
内蔵丞とも
いそかわくらのすけ
実相院門跡義尊の家臣

(寛永13年5月6日) (五十嵐内蔵丞) ●「日記」



磯部右近

いそべうこん
毛利伊勢守高直に仕える

(寛永17年9月7日) (毛利市三郎家中証人) ●「日記」



板垣由庵

いたがきゆうあん
好仁親王の家臣



板倉重形 元和9年 生。主馬助。次郎右衛門。伊予守
いたくらしげかた
周防守重宗の次男
寛政譜2・146
母は戸田左門氏鉄の女


室は高木主水正正弘の女

寛永17年3月3日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

(正保元年1月18日) (次郎右衛門の初出) ●「日記」

正保元年6月23日 家光に仕える。1000石

正保元年6月23日 昨日知行千石被下之是当地相詰依御奉公勤也 ●「日記」

寛文元年12月13日 兄重郷より分知。下野国1万石

寛文2年3月1日 山吹間に伺候

寛文3年12月28日 従五位下・伊予守

延宝元年3月29日 大番頭

天和元年5月21日 上野国安中1万5000石。大番頭をゆるされる。詰衆

天和2年1月3日 上野国沼田城の武具等を安中に付せられる

天和3年2月2日 寺社奉行

貞享元年7月26日 寺社奉行を辞す

貞享3年7月26日
板倉重郷 元和5年 生。新十郎。長門守。阿波守
いたくらしげさと
周防守重宗の長男
寛政譜2・142
母は戸田左門氏鉄の女


室は酒井紀伊守忠吉の女

寛永11年7月11日 御目見 ●「日記」

寛永13年11月 はじめて家光に拝謁

寛永13年12月29日 従五位下・長門守

寛永13年12月29日 諸大夫ニ被仰付之 ●「日記」

寛永14年 阿波守

明暦3年3月23日 父重宗の遺領を継ぐ。下総国関宿城5万石。雁間に伺候

万治元年7月4日 奏者番・寺社奉行

寛文元年11月26日 奏者番・寺社奉行を辞す

寛文元年12月13日 弟重形に分知。下総国関宿城4万5000石

寛文元年12月17日
板倉重直 元和3年 生。甚太郎。筑後守。安身
いたくらしげなお
内膳正重昌の次男
寛政譜2・156
母は林源右衛門吉定の女


妻は稲垣摂津守重綱の女

寛永16年6月15日 父重昌の遺領分知。5000石。寄合

寛永16年6月15日 板倉内膳正跡五千石二男甚太郎被下之 ●「日記」

万治2年7月25日 書院番頭

万治2年12月28日 従五位下・筑後守

寛文元年11月9日 御側

寛文4年6月19日 8000石

延宝4年4月10日 御側を辞す

天和元年9月29日 出仕をとどめられる


ゆるされる

天和3年12月21日 致仕。安身と号す

貞享元年5月26日 死す
板倉重矩 元和3年 生。長命。又右衛門。主水佑。内膳正。侍従
いたくらしげのり
内膳正重昌の長男
寛政譜2・150
母は林源右衛門吉定の女


室は小出伊勢守吉親の女

寛永5年 はじめて秀忠・家光に拝謁

寛永10年7月2日 縁辺組 ●「日記」

寛永11年12月29日 従五位下・主水佑

(寛永12年10月10日) (主水の初出) ●「日記」

寛永15年 逼塞

寛永15年12月30日 ゆるされる

寛永15年12月30日 今度有馬表之儀付違御気色雖令逼塞今日被宥其科之 ●「日記」

寛永16年6月15日 父重昌の遺領を継ぐ。三河国中嶋1万石

寛永16年6月15日 板倉内膳正跡壱万石惣領主水ニ被下之 ●「日記」

寛永19年9月1日 毎歳八月交替未年在江戸 ●「日記」

明暦2年 内膳正

万治3年11月22日 大坂定番。三河国中嶋2万石

寛文5年12月23日 老職

寛文5年12月27日 従四位下

寛文6年7月28日 三河国中嶋4万石

寛文8年5月16日 仮の京都所司代

寛文8年12月23日 参内。侍従

寛文10年11月3日 老職

寛文11年2月10日 三河国中嶋5万石

寛文12年閏6月3日 下野国烏山城5万石

延宝元年5月29日
板倉重昌 天正16年 生。宇右衛門。主水。内膳正
いたくらしげまさ
伊賀守勝重の次男
寛政譜2・149
母は粟生筑前守永勝の女


室は山口駿河守直友の女。継室は林源右衛門吉定の女

慶長8年1月 家康に仕える

慶長10年4月16日 従五位下・内膳正

慶長13年 1000俵

慶長14年 1000石


家康の近習出頭人

慶長19年7月 2230石

元和2年 5230石

寛永元年 三河国深溝1万1850石

(寛永9年6月11日) (咄衆) ●「日記」

寛永10年2月28日 御番外之衆組ニ付御奉公 ●「日記」

寛永10年 三河国深溝1万5000石

寛永11年1月29日 火事之砌至火本罷越万事可申付 ●「日記」

寛永15年1月1日 肥前国原城にて討死

寛永15年1月12日 去朔日討死 ●「日記」
板倉重宗 天正14年 生。十三郎。五郎八。又右衛門。周防守。侍従。少将
いたくらしげむね
伊賀守勝重の長男
寛政譜2・140
母は粟生筑前守永勝の女


室は尾張家老成瀬隼人正正成の女。継室は戸田左門氏鉄の女


秀忠に仕える。近侍

慶長10年4月16日 従五位下・周防守

元和元年 近侍・書院番頭。6000石。(与力30騎同心100人を預かる)

元和6年 父勝重の職を継ぐ。京都所司代。2万7000石

元和9年11月19日 従四位下

元和9年12月23日 侍従

寛永元年 父勝重の遺領を賜る。3万8000石

寛永10年4月21日 5万石 ●「日記」共

正保2年5月26日 少将

正保2年6月10日 従四位上

承応3年12月6日 京都所司代を辞す。新所司代に副う

明暦元年11月15日 江戸へ下る

明暦2年8月15日 下総国関宿城5万石

明暦2年12月1日
板倉重宗五女
寛政譜2・143
板倉周防守重宗の五女
寛政譜7・95
母は戸田左門氏鉄の女

寛永10年7月2日 森川伊賀守重政と縁組 ●「日記」

寛永14年 森川長十郎重般を産む

正保2年 森川出羽守重信を産む


女子を産む。のちの山口平兵衛重直の妻






板倉重宗八女
寛政譜2・143
板倉周防守重宗の八女
寛政譜4・408
母は戸田左門氏鉄の女

寛永10年7月2日 松平甲斐守輝綱と縁組 ●「日記」


松平主殿を産む。早世


女子を産む。早世か


松平惣左衛門を産む。早世



板倉重大 元和4年 生。捨之助。十三郎。市正
いたくらしげもと
伊賀守勝重の四男
寛政譜2・158
母は横井氏


妻は尾張家老成瀬隼人正正虎の女


後妻は水戸家臣宇都宮弥三郎義綱の女

寛永12年12月21日 家光に拝謁。小姓。膳番

寛永12年12月21日 奥之御小姓 ●「日記」

寛永13年12月28日 500俵 ●「日記」共

寛永15年12月30日 従五位下・市正

寛永15年12月30日 諸大夫ニ被仰付之 ●「日記」

(寛永16年6月30日) (市正の初出) ●「日記」

寛永19年3月12日 徒頭。1000石

万治元年1月11日 小姓組番頭

万治元年閏12月25日 1000石1000俵

寛文2年4月7日 書院番頭

寛文6年2月16日 大番頭

寛文8年12月25日 1000石3000俵

寛文9年2月18日 留守居

延宝8年閏8月9日 御側

天和元年7月22日 3000石3000俵

天和元年8月16日 6000石

天和3年7月5日 御側を辞す。菊間広縁に伺候

貞享3年閏3月9日 死す
板坂卜高
文禄・慶長期に板坂卜斎が家康の侍医をつとめたという
いたさかぼくこう




板坂卜斎

いたさかぼくさい
徳川頼宣に仕えるか。医師






板橋三郎兵衛

いたばしさぶろうびょうえ
宗兵衛の男

寛永15年10月17日 御赦免 ●「日記」

寛永16年12月26日 如前々御切米被下之 ●「日記」

寛永18年12月16日 御切米被下之 ●「日記」

寛永19年11月12日 御旗本衆令死去跡被下之但自分之知行御切米何も上 ●「日記」



板橋宗兵衛

いたばしそうびょうえ





(寛永19年) 死す
板橋政郡 慶長10年 生。勝三郎。与五左衛門。志摩守
いたばしまさくに
与五右衛門政重の長男
寛政譜9・172
妻は松下善市郎之勝の女

(元和7年) 大番

寛永4年12月10日 父政重の遺跡を継ぐ。300俵

寛永16年4月16日 中奥の番士

寛永16年4月16日 中奥之御番 ●「日記」

寛永16年6月21日 小納戸。500石

寛永16年6月21日 小納戸 ●「日記」


550石

慶安4年11月26日 西丸裏門番頭

承応元年12月28日 布衣

明暦2年8月1日 東福門院に付属される。1250石

明暦3年12月28日 従五位下・志摩守

寛文6年4月30日 死す
伊丹勝長 慶長8年 生。作十郎。蔵人。播磨守
いたみかつなが
播磨守康勝の長男
寛政譜5・122
母は興津内記の女


室は坂崎出羽守正勝の養女

慶長12年 はじめて秀忠に拝謁

慶長19年 秀忠に仕える。小姓

~寛永3年 1000石

寛永10年 父康勝に代わり甲府城を守衛

寛永12年 病により甲府城守衛を辞す

慶安3年7月11日 勘定奉行。佐渡国支配

慶安4年8月16日 布衣

承応2年閏6月28日 父康勝の遺領を継ぐ。1万石

~承応3年 佐渡国支配を辞す

万治3年12月28日 従五位下・播磨守

寛文2年3月27日 代官一色内蔵助直正に殺害される
伊丹勝長長女
寛政譜5・123
伊丹播磨守勝長の長女


母は坂崎出羽守正勝の養女

寛永10年7月2日 大村丹後守純信と縁組 ●「日記」



伊丹勝信
生。彦左衛門
いたみかつのぶ
理右衛門之信の長男
寛政譜5・129
勘定

~寛永17年 蔵役

寛永19年6月25日 菅沼織部正定芳に召し預けられる ●「日記」共

寛永19年8月21日 死罪。子も斬罪

寛永19年8月21日 切腹 ●「日記」
伊丹勝信子





寛永19年8月21日 斬罪 ●「日記」



伊丹武勝 元和3年 生。内蔵助。弥五之丞。浮仙
いたみたけかつ
播磨守康勝の次男
寛政譜5・125
妻は武曾孫右衛門の女

寛永13年5月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永13年8月9日 小姓組 ●「日記」共


300俵


小姓組を辞す。小普請

延宝8年12月25日 致仕。浮仙と号す

元禄9年5月17日 死す
伊丹永教 慶長16年 生。八兵衛。宗兵衛
いたみながのり
因幡守永親の長男
寛政譜5・136
母は小出播磨守吉政の姪女

元和元年 大坂落城ののち母に従い外家小出大和守吉英の所領但馬国出石にあり


父永親とともに江戸に来る。秀忠・家光に仕える

(寛永5年) 父永親の遺跡を継ぐ。1000俵

寛文3年11月19日 書院番

寛文4年2月23日 死す
伊丹康勝 天正3年 生。喜之助。播磨守。順斎
いたみやすかつ
大隅守康直の三男
寛政譜5・121
母は岡部美濃守常慶の女


室は興津内記の女

天正14年 秀忠に近侍


近侍・納戸頭


500石

(慶長5年) 近侍・納戸頭・代官

(慶長5年) 勘定奉行

寛永元年2月 家光に付属される。従五位下・播磨守

寛永5年 9000石

寛永10年2月3日 甲斐国徳美1万2000石。甲府城を預かる

寛永10年2月3日 甲府城は長男勝長に守らせる

寛永10年2月3日 甲州仕置。1万2000石 ●「日記」

寛永10年6月6日 諸中御用被下無由断可令言上 ●「日記」

寛永10年11月3日 勘定奉行を兼ねる


閉門

寛永11年5月29日 ゆるされる

寛永11年5月29日 御赦免 ●「日記」

寛永12年5月22日 佐渡国支配・金山奉行・勘定奉行

寛永12年5月22日 〇〇佐渡〇金山仕置等可申付 ●「日記」判読困難箇所

寛永12年 甲府城守衛を辞す

寛永16年3月10日 剃髪。順斎と号す

寛永16年3月10日 伊丹播磨守法体之儀望ニ依テ被仰出之趣老中伝之 ●「日記」

(寛永16年8月1日) (順斎の初出) ●「日記」

(寛永16年12月26日) (伊丹播磨入道順斎) ●「日記」

寛永16年12月26日 諸役人御道具其外御賄方入用等直段近年高直之故下々至迠―


―猥之様被為聞召向後用倹約万事牧野内匠頭伊丹播磨入道順斎―


―杉浦内蔵允曽根源左衛門此四人得差図可申付 ●「日記」

(寛永16年) 留守居・佐渡国支配・金山奉行・勘定奉行

寛永19年8月16日 曽根源左衛門事和泉守順斎内蔵允相加御代官方其外諸色御勘定之儀―


―右四人致吟味可仕之旨被仰出之 ●「日記」


武蔵国豊嶋郡等1万2600石

慶安3年7月11日 佐渡国支配・金山奉行

承応2年6月3日
伊丹之信
生。理右衛門
いたみゆきのぶ
権大夫虎康の長男
寛政譜5・129 文禄3年 はじめて家康に拝謁。家康に仕える


阿部備中守正次、石川小隼人の組に属す。小番

~慶長5年 大番


代官

寛永2年10月23日 300石の朱印

(寛永19年8月21日) (上方御代官) ●「日記」

寛永19年8月21日 男彦左衛門勝信に連座して青山大蔵少輔幸成に召し預けられる ●「日記」共

慶安元年6月3日 赦免

慶安3年 300俵。小普請

慶安4年11月4日 300石

寛文2年10月21日 致仕

寛文3年1月5日 死す
一雲斎
遠江国。曹洞宗
いちうんさい




市右衛門
鞘師
いちえもん




市岡定次
生。多左衛門
いちおかさだつぐ
理右衛門忠次の長男
寛政譜7・23
妻は宮崎半兵衛重次の女

慶長13年 家康に拝謁

慶長13年 秀忠に仕える。書院番

元和元年 大坂の役にて松平越中守定綱に属す

元和2年 家光に付属される


300石


500石

寛永10年2月7日 700石

寛永14年8月 書院番を辞す。小普請

寛文元年12月14日 死す
市岡忠次 永禄7年 生。理右衛門
いちおかただつぐ
五左衛門忠吉の男
寛政譜7・23 天正16年 父忠吉とともに家康に拝謁

天正18年 小田原の役にて菅沼小大膳定利麾下井伊兵部少輔直政に属す

天正18年 300石。大番

慶長5年 上田城攻めにて秀忠に従う


信濃国下伊那300石。下伊那材木奉行

元和元年~ 信濃国代官

寛永16年12月24日 死す
市岡正次
生。佐大夫
いちおかまさつぐ
理右衛門忠次の次男
寛政譜7・26
妻は小栗忠左衛門久次の女

元和元年 大坂の役にて小笠原兵部大輔秀政に属す

元和元年 300石

元和9年 家光に拝謁。書院番

~寛永5年 大番

寛永9年11月19日 大番組頭

寛永10年2月23日 600石

正保2年6月28日 先鉄炮頭

正保2年12月30日 布衣

慶安4年11月21日 600石300俵

万治3年12月10日 先鉄炮頭を辞す

寛文2年12月12日 致仕。300俵

寛文4年10月23日 死す
一尾通命 寛永4年 生。小兵衛
いちおみちのり
伯父伊織通尚の養子。長兵衛通利の男
寛政譜8・4
妻は伊織通尚の次女

寛永18年6月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保2年6月25日 書院番

正保4年12月20日 300俵

慶安4年7月24日 死す
一尾通春 天正6年 生。小兵衛。淡路守。はじめ久我、のち一尾と称す
いちおみちはる
久我三休の男
寛政譜8・4
母は大友左衛門督義鎮の女


妻は大友左兵衛督吉統の女


後妻は尾張家臣玉置小平太高直の女

慶長8年9月 はじめて家康に拝謁。給仕番

慶長16年12月25日 1000石

慶長18年6月19日 従五位下・淡路守


西丸書院番

寛永10年2月7日 1200石

寛永10年8月7日
一尾通尚 慶長4年 生。伊織。徹斎
いちおみちひさ
淡路守通春の長男
寛政譜8・4
母は大友左兵衛督吉統の女


細川家に仕えるか

(寛永11年1月28日) (細川越中守被召出是ハ一尾伊織被召出候御礼也) ●「日記」

寛永11年1月28日 はじめて家光に拝謁。父通春の遺跡を継ぐ。1000石

寛永11年1月28日 太刀目録以御礼 ●「日記」


書院番


勘気を蒙る

寛永15年10月17日 ゆるされる ●「日記」共

慶安2年~ 書院番を辞す。小普請

貞享元年7月19日 致仕。徹斎と号す

元禄2年3月13日 死す
市川喜蔵

いちかわきぞう
代官か

(寛永17年6月11日) (日光又ハ道中御賄仕候公家衆御馳走申) ●「日記」



市川定吉
生。孫右衛門
いちかわさだよし
帯刀定勝の男
寛政譜4・199 元亀3年~ 父定勝戦死により北条氏輝に仕える

慶長元年 大久保長安に属す。代官

慶長18年 代官。秀忠に仕える


家光に仕える

某年 死す
市川三太郎

いちかわさんたろう


寛永15年10月17日 御赦免 ●「日記」

寛永19年6月26日 大御番 ●「日記」



市川庄右衛門

いちかわしょうえもん


寛永19年5月23日 去比日光御社参之節彼地御賄依被仰付市川庄右衛門助左衛門―


―御帷子道服被下之 ●「日記」



市川甚右衛門

いちかわじんえもん


(寛永18年4月5日) (紀伊亜相家来) ●「日記」



市川助左衛門

いちかわすけざえもん


寛永19年5月23日 去比日光御社参之節彼地御賄依被仰付市川庄右衛門助左衛門―


―御帷子道服被下之 ●「日記」



市川友昌
生。茂左衛門。久兵衛。太左衛門
いちかわともまさ
茂左衛門満友の男
寛政譜4・196
母は駒井次郎右衛門昌長の女


妻は松平勝左衛門昌吉の女

寛永10年 大番

寛永14年11月25日 父満友の遺跡を継ぐ。430石

寛永14年11月25日 四百石市川茂左衛門跡実子久兵衛 ●「日記」

明暦元年 大番を辞す。小普請

元禄7年2月16日 死す
市川孫右衛門
生。孫右衛門
いちかわまごえもん
孫右衛門定吉の男
寛政譜4・199
家光に仕える。代官

慶安4年12月30日 200俵

元禄8年 死す
市川満友 元亀3年 生。茂左衛門
いちかわみつとも
内膳正の男
寛政譜4・196
妻は駒井次郎右衛門昌長の女

天正14年 家康に拝謁。家康に仕える

慶長5年~慶長19年 大番

寛永4年11月3日 430石の朱印

寛永14年1月20日 死す
一残

いちざん




市十郎
能勢市十郎頼永か?
いちじゅうろう


寛永14年8月22日 能三井寺のワキをつとめる ●「日記」



一条昭良 慶長10年4月26日 生。九宮。少将。中将。中納言。大納言。大将。内大臣。右大臣。
いちじょうあきよし
関白。左大臣。摂政。関白。智徳院。恵観
諸家伝上・109
関白内基の養子。後陽成天皇の第九皇子
本朝皇胤紹運録
母は近衛前関白前久の息女中和門院
(群書系図部集1・101)
妻は西洞院参議時直の女

慶長14年12月17日 正五位下・左少将。元服。昇殿

慶長14年12月19日 右中将

慶長17年7月27日 従三位

慶長18年12月21日 権中納言・右中将

慶長19年1月11日 権大納言

元和2年11月21日 正三位

元和3年1月5日 従二位

元和3年1月10日 右大将

元和5年1月6日 正二位

元和5年12月28日 内大臣・右大将

元和6年8月17日 左大将

元和7年1月12日 右大臣・左大将

元和9年1月5日 左大将を辞す

寛永6年8月28日 関白・右大臣。氏長者

寛永6年9月28日 従一位・関白・左大臣

寛永6年11月8日 摂政・左大臣

寛永9年12月24日 左大臣を辞す

寛永11年9月26日 摂政を辞す

正保4年3月28日 摂政。氏長者

正保4年7月27日 関白

慶安4年9月27日 関白を辞す

承応元年8月4日 出家。恵観と号す

寛文12年2月12日 薨去
一乗寺
駿河国。曹洞宗。庵原山
いちじょうじ




市野実利
生。惣大夫
いちのさねとし
惣大夫実次の男
寛政譜15・354
秀忠に仕える。代官。(遠江国市野17石100俵)

(寛永12年1月21日) (遠州御代官) ●「日記」

延宝4年6月18日 死す
いちのへ





(寛永18年6月13日) (天樹院の侍女か) ●「日記」



市橋長綱 寛永4年 生。兵四郎。三四郎
いちはしながつな
三四郎長吉の長男
寛政譜14・11
母は市橋下総守長政の女


妻は石河太兵衛貞利の女

寛永11年2月15日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

(寛永11年2月15日) (兵三郎) ●「日記」

寛永20年12月26日 縁辺 ●「日記」

正保2年6月 小姓組

慶安元年6月10日 父長吉の遺跡を継ぐ。2500石

元禄11年4月28日 死す
市橋長政 天正3年 生。左京。伊豆守。下総守
いちはしながまさ
下総守長勝の養子。豊臣家臣林右衛門左衛門の三男
寛政譜14・387
母は市橋壱岐守長利の女


室は真田安房守家臣小山田壱岐茂誠の女


叔父長勝の養子となる

慶長9年 秀忠に仕える

元和元年 1000石

元和2年 4000石

元和6年 養父長勝の家を相続。近江国仁正寺2万石

元和8年1月2日 近江国仁正寺1万8000石

(寛永11年) 下総守

(寛永12年6月30日) (下総守の初出) ●「日記」

寛永12年11月27日 上方御料所の郡奉行

寛永12年11月27日 上方国郡之奉行 ●「日記」

寛永16年 職を辞す

慶安元年2月11日
市橋長政次女
寛政譜14・388
市橋下総守長政の次女
寛政譜2・378
母は真田安房守家臣小山田壱岐茂誠の女

寛永16年5月27日 立花民部所へ市橋下総守娘縁辺 ●「日記」


立花和泉守種長に嫁ぐ

正保元年 立花主膳種明を産む

慶安元年 立花左兵衛種澄を産む


三原権之助種義を産む


立花式部種久を産む


立花宇右衛門種要を産む


秋山兵助正明を産む

某年
市橋長宗
生。石松。吉兵衛。半左衛門
いちはしながむね
母は市橋下総守長政の女
寛政譜14・11
妻は近藤勘右衛門用清の女

寛永18年10月3日 家綱に付属される。小姓

寛永18年10月3日 (名前のみの記載) ●「日記」

慶安元年6月10日 父長吉の遺跡分知。500石

(慶安4年) 本丸に勤仕

寛文10年12月22日 死す
市橋長吉
生。源八郎。三四郎
いちはしながよし
武藤金左衛門重成の男
寛政譜14・11
妻は市橋下総守長政の女


幼少のとき父重成を失い母方の市橋下総守長勝に養われる


武藤を改め市橋と称す

元和7年9月13日 秀忠に拝謁

元和8年1月2日 書院番

元和8年1月2日 市橋下総守長政より分知。2000石

寛永9年5月8日 作事奉行

寛永9年8月18日 使番 ●「日記」共

寛永10年8月22日 目付 ●「日記」共

寛永10年12月26日 3000石

寛永10年12月26日 御加恩御知行千石 ●「日記」

正保4年12月19日 死す
市橋政信 元和9年 生。兵吉。下総守
いちはしまさのぶ
下総守長政の長男
寛政譜14・388
母は真田安房守家臣小山田壱岐茂誠の女


室は板倉周防守重宗の女


継室は溝口出雲守宣直の女

寛永6年12月 はじめて秀忠に拝謁

慶安元年6月14日 父長政の遺領を継ぐ。近江国仁正寺1万7000石

慶安元年12月30日 従五位下・下総守

宝永元年1月1日
市原宗左衛門

いちはらそうざえもん
生駒壱岐守高俊に仕える

(寛永17年7月26日) (生駒壱岐守家中) ●「日記」

寛永17年7月26日 子共迠死罪 ●「日記」



市原太右衛門

いちはらたえもん
宗左衛門の男か? 生駒壱岐守家来の誤りか?

(寛永17年7月26日) (松平石見守家来) ●「日記」

寛永17年7月26日 切腹 ●「日記」



一蓮寺
甲斐国。時宗
いちれんじ


寛永19年7月6日 御朱印被下之 ●「日記」



一華堂長善寺
駿河国府中。時宗
いっかどうちょうぜんじ




一色定堅 慶長17年 生。内匠
いっしきさだかた
吉良上野介義定の三男
寛政譜2・223
母は今川刑部大輔氏真の女


妻は小野若狭の女


徳川忠長に仕える

(寛永9年) 処士

寛永13年12月10日 赦免 ●「日記」共


はじめて家光に拝謁

寛永19年12月23日 書院番

寛永19年12月23日 御番被仰付之 ●「日記」

寛永20年12月18日 500俵 ●「日記」共

寛文6年4月10日 死す
一色重政 天正15年 生。次郎兵衛
いっしきしげまさ
弥次郎貞重の男
寛政譜2・178
母は一色帯刀詮勝の女


妻は阿部与五右衛門の女

天正19年 父貞重が死去。三河国に住す

文禄2年 はじめて家康に拝謁


母とともに松平隠岐守定勝のもとにあり

寛永16年11月10日 右筆 ●「日記」共

寛永17年 月俸を賜る

明暦元年1月14日 死す
一色直氏
生。吉十郎。内記。宮内
いっしきなおうじ
宮内義直の養子。一色忠次郎直為の長男
寛政譜2・180
母は宮内義直の女


妻は植村帯刀泰勝の女

寛永16年11月10日 はじめて家光に拝謁

寛永16年11月10日 一色宮内子内記始て御目見 ●「日記」

(寛永20年)~慶安3年 養父義直の遺跡を継ぐ。下総国木野崎村5160石。―


―幼年により実父直為が諸事を沙汰。采地に住す

承応元年7月24日 死す
一色直為
生。忠次郎。はじめ杉浦を称す
いっしきなおため
徳川忠長家臣杉浦五郎右衛門の男
寛政譜2・183
妻は一色宮内義直の女


一色宮内義直の女と婚姻。一色を称す

(寛永17年5月28日) (御代官) ●「日記」

(寛永20年) 一色宮内義直の養子となった長男宮内直氏を後見


家光に仕える。代官。300俵

(万治元年) 死す
一色直正
生。長十郎。内蔵助
いっしきなおまさ
忠次郎直為の次男
寛政譜2・183
母は一色宮内義直の女

正保元年6月30日 大番 ●「日記」共

慶安元年6月14日 新番

明暦2年11月3日 命により父直為の職を見習う

万治元年閏12月18日 父直為の遺跡を継ぐ。300俵。代官

寛文2年3月27日 勘定奉行伊丹播磨守勝長を斬り同席の者に斬殺される
一色範勝 天正9年 生。七郎。左兵衛。式部少輔
いっしきのりかつ
式部少輔藤長の男
寛政譜2・176 慶長16年 はじめて家康に拝謁。家康に仕える(2000石?)

元和2年 無位無官にして勅使饗応の配膳をつとめる

~寛永3年 書院番

寛永9年8月18日 使番 ●「日記」共

寛永9年11月27日 従五位下・式部少輔

寛永9年11月27日 諸大夫 ●「日記」

寛永10年6月19日 死す

(寛永10年12月18日) (式部少輔の初出) ●「日記」
一色範親 慶長14年 生。右馬助
いっしきのりちか
式部少輔範勝の長男
寛政譜2・176
妻は榊原大内記照久の女


後妻は片桐主膳正貞隆の女

元和8年 はじめて家光に拝謁


書院番

寛永10年12月18日 父範勝の遺跡を継ぐ。2000石

寛永10年12月18日 一色式部少跡式弐千石右馬助へ被仰付之 ●「日記」

慶安3年 死す
一色松千代
「実紀」は内膳昭種とする。寛政譜22・247
いっしきまつちよ


寛永14年11月26日 200俵



一色義直
生。宮内
いっしきよしなお
宮内大輔直朝の男
寛政譜2・179
母は梁田河内守高助の女


父直朝とともに武蔵国幸手庄に住す

天正18年 はじめて家康に拝謁。武蔵国幸手庄5160石


下総国木野崎村5160石

慶長初年 致仕

慶長5年 下総国和歌領1000石

慶長11年 長男照直死去ののち下総国木野崎村5160石

寛永20年10月11日 死す
一心院
京都東山。浄土宗。知恩院に隣接
いっしんいん




以酊庵
瞎驢山以酊禅庵。輪番で朝鮮との外交を担当
いていあん 慶長2年 開創。景轍玄蘇
驢山住籍 慶長16年10月22日 景轍玄蘇寂
(通航一覧1・367)
2世規伯玄方

寛永12年3月12日 規伯玄方が南部へ流罪 ●「日記」

寛永12年11月 3世東福寺宝勝院玉峰光璘

寛永13年8月 4世東福寺南昌院棠陰玄召

寛永15年4月 5世天龍寺慈済院洞叔毒仙

寛永16年4月 玉峰光璘

寛永17年4月 棠陰玄召

寛永18年4月 洞叔毒仙

寛永19年3月 棠陰玄召

寛永20年3月 6世建仁寺十如院鈞天永洪

正保元年4月 7世東福寺艮岳院周南円旦

正保2年4月 8世建仁寺清住院茂源紹柏

正保3年5月 鈞天永洪

正保4年5月 周南円旦

正保4年11月 茂源紹柏

慶安3年10月 鈞天永洪

承応2年4月 9世天龍寺鹿王院覧渓玄倫

承応3年5月 10世建仁寺大統院九岩中達

明暦元年6月 茂源紹柏

明暦3年4月 11世相国寺慈照院覚雲顕吉


後略



以伝
生。法蓮社住誉
いでん
虎角に師事
浄土伝燈総系譜 寛永14年10月27日 増上寺之以伝御前え被召出御咄之衆ニ可被相加之旨―
(浄土宗全書19・59)
―被仰出云々 ●「日記」
飯沼弘経寺志
館林善導寺8世
(浄土宗全書19・817) 慶安3年 飯沼弘経寺13世
舘林善導寺志 承応元年2月17日
(浄土宗全書20・197)




伊東景俊
生。喜太郎。喜左衛門
いとうかげとし
喜左衛門春景の男
寛政譜13・331 慶長11年 はじめて秀忠に拝謁

元和5年1月26日 父春景の遺跡を継ぐ。50石

~寛永2年 鷹師


50石50俵

寛文8年7月25日 死す
伊東景久
生。太郎左衛門
いとうかげひさ
喜左衛門景俊の長男
寛政譜13・331
妻は水野平六郎信俊の女

寛永15年12月2日 はじめて家光に拝謁

寛永15年12月2日 伊東喜左衛門子初て御目見 ●「日記」


鷹師

寛永19年12月10日 50俵月俸3口

寛永19年12月10日 五十俵三人扶持 ●「日記」

寛文3年10月13日 死す
伊藤玄蕃

いとうげんば



徳川頼房に仕える



伊藤実重 寛永10年 生。三之丞
いとうさねしげ
小左衛門実以の男
寛政譜13・335
母は藤懸美作守永勝の女

寛永20年 はじめて家光に拝謁

正保元年12月25日 父実以の遺跡を継ぐ。500石。小普請

正保元年12月25日 跡目被仰付五百石伊東小左衛門惣領三之丞 ●「日記」

貞享4年7月10日 致仕

元禄6年8月7日 死す
伊藤実以 天正12年 生。小左衛門
いとうさねゆき
三之丞実信の男
寛政譜13・335
妻は藤懸美作守永勝の女

慶長19年1月19日 秀忠に仕える。書院番。300俵

寛永10年2月7日 500石

正保元年1月2日 死す
伊藤式部

いとうしきぶ (寛永12年3月13日) (一乗院之坊官) ●「日記」






伊藤重利
生。九郎左衛門。外家の家号の伊藤を称す
いとうしげとし
蘆屋八郎右衛門忠元の四男
寛政譜21・318
母は伊藤氏

寛永4年


徒目付

(寛永19年5月22日) (御歩行目付) ●「日記」


貝役

寛永20年9月24日 御貝吹之役 ●「日記」

(万治元年) 死す
伊藤重昌 天正10年 生。新五郎。新五左衛門
いとうしげまさ
三右衛門重次の長男
寛政譜13・328
母は折井市左衛門次昌の女


妻は折井仁右衛門次吉の女


後妻は落合次左衛門の女


家康の命により徳川義直に仕える

慶長15年 秀忠に仕える

慶長17年 父重次の遺跡を継ぐ

元和9年 徳川忠長に付属される

(寛永9年) 処士

寛永10年 家光に仕える。月俸を賜る

寛永17年 宝蔵番

寛永18年11月15日 230石

寛永18年11月15日 芦田武川衆十八人駿州ニて之本知并御切米如前々被下之 ●「日記」

寛永20年8月30日 家綱に付属される。三丸番 ●「日記」共


広敷番頭

慶安3年8月23日 西丸に勤仕

(慶安4年) 本丸に勤仕

万治2年12月24日 230石200俵

寛文元年11月21日 務めを辞す

寛文2年8月22日 死す
伊藤七兵衛
新五左衛門重昌か。寛政譜13・328
いとうしちびょうえ


寛永13年12月10日 駿河大納言殿衆伊藤七兵衛御赦免 ●「日記」

寛永15年12月23日 駿河衆伊東七兵衛御小姓組御番可仕之 ●「日記」



伊東甚大夫

いとうじんだゆう
奥平美作守忠昌に仕える

(寛永19年4月20日) (奥平美作守家来下奉行) ●「日記」



伊東祐次 寛永8年 生。藤松丸。左京。左京亮
いとうすけつぐ
大和守祐久の長男
寛政譜14・246
母は滝川左兵衛法直の女


室は姉小路大納言公景の女

寛永16年6月1日 はじめて家光に拝謁

寛永16年6月1日 伊東大和守子二人以太刀目録御目見 ●「日記」

承応2年12月28日 従五位下・左京亮

明暦3年12月27日 父祐久の遺領を継ぐ。日向国飫肥城5万1000石

寛文元年6月13日
伊東祐友
生。甚五兵衛
いとうすけとも
源右衛門祐吉の次男
寛政譜14・262
妻は津金又十郎胤次の女

寛永13年 家光に仕える。大番。200俵

寛永13年3月25日 伊藤孫兵衛子被召出之 ●「日記」

寛永13年3月25日 皆川山城守組(大番) ●「日記」

慶安元年6月14日 新番


新番を辞す。小普請

明暦3年4月21日 死す
伊東祐豊 慶長17年 生。熊太郎。主膳正
いとうすけとよ
修理大夫祐慶の次男
寛政譜14・251
母は森本氏


妻は内藤左馬助政長の九女


後妻は朝倉筑後守宣正の女


また後妻は三宅大膳亮康盛の女

元和9年10月8日 はじめて秀忠に拝謁

寛永3年 家光に仕える

寛永6年 小姓。2000俵

寛永6年12月 従五位下・主膳正

寛永12年12月15日 内藤帯刀伊東修理縁辺依被仰付以進物御礼申上 ●「日記」

寛永13年5月29日 父祐慶の遺領分知。3000石。(2000俵)

寛永13年6月28日 跡目之御礼所謂亡父修理亮五万七千石之内ニて―


―大和守五万四千石三千石弟主膳正相続被仰付 ●「日記」

寛永13年10月8日 書院番 ●「日記」共

~慶安元年 中奥に伺候

慶安4年9月10日 務めを辞す。小普請

寛文8年8月22日 死す
伊東祐信
生。七左衛門
いとうすけのぶ
長兵衛弘祐の三男
寛政譜14・258 寛永9年 家光に仕える。小十人

寛永11年2月21日 100俵

寛永19年12月16日 200俵 ●「日記」共

慶安2年2月25日 納戸番

某年 死す
伊東祐慶 天正17年 生。熊太郎。左京亮。修理大夫
いとうすけのり
豊後守祐兵の長男
寛政譜14・245
母は伊東左京大夫義益の女

慶長4年 はじめて家康に拝謁


左京亮

慶長5年 父祐兵の旧領を賜る。日向国飫肥城5万7000石

慶長7年4月10日 従五位下・修理大夫

寛永13年4月4日
伊東祐久(九郎左衛門) 天正18年 生。九郎左衛門
いとうすけひさ
長兵衛弘祐の長男
寛政譜14・258 慶長10年8月 はじめて秀忠に拝謁

慶長11年 大番

元和元年 大坂の役にて高木主水正正次に属す

(寛永4年) 父弘祐の遺跡を継ぐ。300俵

寛永10年2月7日 500石

正保3年8月12日 死す
伊東祐久(大和) 慶長14年 生。鶴千代。藤松。大和守
いとうすけひさ
修理大夫祐慶の長男
寛政譜14・246
母は大田原氏


室は滝川左兵衛法直の女

元和6年 はじめて秀忠に拝謁

寛永元年 大和守

寛永2年12月29日 従五位下

寛永13年5月29日 父祐慶の遺領を継ぐ。日向国飫肥城5万4000石

寛永13年6月28日 跡目之御礼所謂亡父修理亮五万七千石之内ニて―


―大和守五万四千石三千石弟主膳正相続被仰付 ●「日記」

寛永20年9月27日 火消 ●「日記」

明暦3年10月27日
伊東祐吉
生。源右衛門
いとうすけよし
長兵衛弘祐の次男
寛政譜14・261 慶長15年 秀忠に仕える。大番。200石

(寛永13年3月25日) (皆川山城守組) ●「日記」


大番を辞す。小普請

万治元年 死す
伊藤宗看 元和4年
いとうそうかん
妻は大橋宗古の女


大橋宗古に師事

(寛永12年9月18日) (囲碁象戯)(宗閑) ●「日記」

元禄7年11月6日 死す
伊東長五郎(1)
生。長五郎
いとうちょうごろう
長兵衛弘祐の四男
寛政譜14・258
家光に仕える。小姓組。300石

寛永10年6月14日 小姓組・進物役

寛永10年6月14日 進物番 ●「日記」

寛永13年 死す

寛永13年11月24日 伊東長五郎三百石子虎之介跡目被仰付之 ●「日記」
伊東長五郎(2)
生。権助(虎之介か)。長五郎
いとうちょうごろう
長五郎の男
寛政譜14.258
家光に仕える

寛永13年11月24日 父長五郎の遺跡を継ぐ。300石

寛永13年11月24日 伊東長五郎三百石子虎之介跡目被仰付之 ●「日記」

正保4年12月25日 書院番


書院番を辞す

元禄3年9月14日 狂気して采地を収められる。終身月俸5口


以下不詳
伊東鶴千代 寛永10年 生。鶴千代
いとうつるちよ
大和守祐久の次男
寛政譜14・246
母は滝川左兵衛法直の女

寛永16年6月1日 はじめて家光に拝謁

寛永16年6月1日 伊東大和守子二人以太刀目録御目見 ●「日記」

寛永17年10月15日 死す
伊東伝七郎
生。伝七郎
いとうでんしちろう
右馬允祐衡の次男もしくは五男
寛政譜14・264
秀忠に仕える。大番。300俵

~寛永11年 大坂材木奉行

寛永16年6月 死す
伊東時吉 文禄3年 生。五郎左衛門
いとうときよし
右馬允政世の長男
寛政譜14・254
母は小笠原播磨守康広の女


妻は六角中務大輔義定の女


秀忠に仕える。小姓組。300石

寛永12年7月16日 死す
伊東長治 寛永5年 生。幸松。甚太郎
いとうながはる
若狭守長昌の男
寛政譜14・266
母は板倉伊賀守勝重の養女中嶋与五郎重次の女


室は松平出雲守勝隆の養女松平大隅守重則の三女

寛永11年3月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永17年11月 父長昌の遺領を継ぐ。備中国岡田1万300石

寛永17年12月11日 継目之御礼 ●「日記」

寛永18年7月3日 伊東甚太郎ニ松平出雲守娘縁辺之儀被仰付 ●「日記」

万治元年10月8日
伊東長昌 文禄2年 生。若狭守
いとうながまさ
丹後守長次の次男
寛政譜14・265
母は神子田半左衛門の女


室は板倉伊賀守勝重の養女中嶋与五郎重次の女

慶長13年 家康に仕える

元和元年 秀頼に属す

元和元年 家康に仕える

(寛永6年) 父長次の遺領を継ぐか。備中国岡田1万300石

寛永17年9月18日
伊藤孫兵衛
伊東源右衛門祐吉か?
いとうまごびょうえ (寛永13年3月25日) (皆川山城守組) ●「日記」 (大番)






伊藤孫兵衛子
伊東甚五兵衛祐友か?

寛永13年3月25日 伊藤孫兵衛子被召出之 ●「日記」

寛永13年3月25日 皆川山城守組(大番) ●「日記」



伊藤正重 元和6年 生。伝次郎。安之丞。安兵衛
いとうまさしげ
安兵衛正次の長男
寛政譜13・333
母は山口修理亮家臣山口勘兵衛の女


妻は高室金兵衛昌成の女

寛永11年 はじめて家光に拝謁

寛永13年12月27日 書院番 ●「日記」共

寛永16年12月13日 井東伝次郎御切米三百俵被下之 ●「日記」

延宝元年10月21日 父正次の家を継ぐ。700石300俵

元禄元年6月11日 書院番を辞す。小普請

元禄7年7月10日 死す
伊東政次
生。虎之助(権之介か)
いとうまさつぐ
五郎左衛門時吉の長男
寛政譜14・254 寛永13年11月24日 父時吉の遺跡を継ぐ。300石(200石か)

寛永13年11月24日 伊東五郎左衛門弐百石子権之介跡目被仰付之 ●「日記」

承応3年2月27日 小姓組


以下不詳
伊藤正次 慶長8年 生。伝十郎。安兵衛。宗本
いとうまさつぐ
安兵衛助次の男
寛政譜13・333
母は山口平兵衛の女


妻は山口修理亮家臣山口勘兵衛の女

慶長16年 はじめて秀忠に拝謁


小姓組

元和8年 父助次の遺跡を継ぐ。500俵


書院番

寛永10年2月7日 700石

寛永16年4月15日 中奥に伺候

寛永16年4月15日 中奥之御番 ●「日記」

寛永16年6月 小納戸奉行

慶安4年11月26日 二丸留守居

明暦3年7月19日 西丸留守居

明暦3年12月28日 布衣

寛文2年10月15日 留守居番

寛文2年12月22日 700石300俵

延宝元年1月27日 留守居番を辞す。寄合

延宝元年10月21日 致仕。300俵。宗本と号す

延宝5年11月15日 死す
井戸覚弘(三十郎) 慶長9年 生。三十郎。残昌
いどさとひろ
左馬助良弘の長男
寛政譜17・66
母は片岡弥太郎俊宣の女


妻は長谷川讃岐正吉の女

元和5年 秀忠に拝謁

寛永8年 西丸書院番

(寛永9年) 本丸に勤仕

正保2年12月19日 父良弘の遺跡を継ぐ。3540石

慶安元年10月27日 先鉄炮頭

慶安元年12月30日 布衣

寛文3年1月21日 同心を増員される。同心30人

延宝2年3月18日 先鉄炮頭を辞す

延宝2年12月3日 致仕。300俵。残昌と号す

元禄8年2月29日 死す
井戸覚弘(若狭) 弘治2年 生。十郎。若狭守。覚斎
いどさとひろ
里夕斎良弘の長男
寛政譜17・65
母は筒井順慶の姉


妻は土岐氏


大和国井戸城2万石。筒井順慶と伊賀守定次に属す


処士。大和国柳生谷に籠居

慶長14年 家康・秀忠に拝謁

慶長14年7月 秀忠に仕える。3000俵

慶長15年9月 3040石

慶長19年 大坂の役にて安藤対馬守重信に属す

寛永10年2月26日 致仕。養老料500石。覚斎と号す

寛永10年2月26日 息良弘に相続あり。500石 ●「日記」

(寛永10年2月26日) (覚斎) ●「日記」

寛永15年10月17日 死す
井戸重弘 慶長10年 生。主馬之助。忠兵衛
いどしげひろ
若狭守覚弘の養子。山崎勘兵衛勝家の長男
寛政譜17・70
母は若狭守覚弘の長女


妻は比企次左衛門義久の女

寛永元年 はじめて家光に拝謁。小姓組


300俵

寛永9年 大番

寛永10年2月7日 500石

寛永19年12月2日 弓矢鎗奉行

寛永19年12月2日 御弓矢之奉行 ●「日記」

寛文12年5月1日 死す
井戸直弘 天正10年 生。新右衛門
いどなおひろ
若狭守良弘の三男
寛政譜17・76
母は太田氏


妻は高力摂津守家臣野原左京の女

~慶長5年 細川越中守忠興のもとに寓居

慶長15年9月 秀忠に拝謁

慶長17年 書院番。300俵

元和元年~寛永9年 400俵

寛永10年2月7日 600石

寛永15年12月16日 先弓頭

寛永15年12月16日 御弓頭被仰付久永源兵衛元組渡ル ●「日記」

寛永16年12月1日 布衣

寛永16年12月30日 布衣 ●「日記」

正保元年9月10日 紅葉山御蔵新規之御番被仰付之旨紅葉山下御門番ヨリ与力一人歩同心―


―二人宛ニて御番可仕之旨井戸新右衛門ニ松平伊豆守被申渡之 ●「日記」

慶安2年10月13日 駿府城定番。1600石

寛文元年12月24日 死す
糸原重正
生。甚左衛門
いとはらしげまさ
甚兵衛正安の男
寛政譜19・253 元和3年 父正安の遺跡を継ぐ

寛永9年7月26日 国廻 ●「日記」

寛永15年12月5日 勘定

寛永15年12月5日 関東方御勘定 ●「日記」


勘定組頭

寛永19年 賄頭

正保元年5月10日 毛利伊勢守高直に召し預けられる


以下不詳
糸原甚十郎

いとはらじんじゅうろう


寛永12年9月12日 関東中当年作毛之様子可相改之由宅間伊織伊奈半十郎―


―坪井金大夫糸原甚十郎被仰付之 ●「日記」

寛永15年12月5日 御作事方御勘定 ●「日記」



糸原甚兵衛

いとはらじんびょうえ


寛永19年6月13日 今度御蔵米出入之儀ニ付て糸原甚兵衛令私曲之由申出族依有之―


―為御穿鑿従評定所戸田左門え被召預之 ●「日記」

寛永19年7月8日 切腹 ●「日記」
井戸治秀 永禄8年 生。才蔵。忠右衛門
いどはるひで
若狭守良弘の次男
寛政譜17・72
母は筒井順慶の姉


妻は明智日向守光秀の女


筒井順慶に属す父良弘の城大和国井戸にあり


織田信長に属した父良弘に従い山城国槙嶋城に移る

天正10年 槙嶋城を逃れて大和国奈良に住す


筒井定次に属す


筒井定次配流ののち大和国柳生谷に寓居

慶長15年9月 秀忠に仕える

慶長17年 書院番。300俵

寛永10年 書院番を辞す。小普請

寛永12年11月4日 死す
井戸秀長 天正18年 生。忠右衛門
いどひでなが
忠右衛門治秀の次男
寛政譜17・72
母は明智日向守光秀の女

寛永13年11月24日 父治秀の遺跡を継ぐ。300俵

寛永13年11月24日 井戸忠右衛門三百俵子跡目被仰付之 ●「日記」

寛永13年12月21日 はじめて家光に拝謁

寛永13年12月21日 跡目之面々忠右衛門子井戸忠右衛門(御目見) ●「日記」

寛永13年12月27日 大番 ●「日記」共

承応3年 大番を辞す

万治元年12月17日 死す
いとま
糸満か




(正保元年6月25日) (琉球中山王使者馬上之従者赤はちまき) ●「日記」



糸屋五郎右衛門
京都糸屋
いとやごろうえもん







井戸良弘(左馬) 天正6年 生。左馬助
いどよしひろ
若狭守覚弘の長男
寛政譜17・66
母は土岐氏


妻は片岡弥太郎俊宣の女

慶長15年9月 秀忠に拝謁

慶長17年 書院番

元和元年 500石

寛永10年2月26日 父覚弘の家を継ぐ。3040石

寛永10年2月26日 父覚弘知行を相続。3000石

寛永15年12月16日 3540石

寛永15年12月16日 井戸角斎知行三千石并自分之知行五百石―


―息左馬助ニ被下之 ●「日記」

寛永19年3月9日 鉄炮頭

寛永19年12月30日 布衣 ●「日記」共

正保2年5月22日 死す
井戸良弘(志摩) 寛永12年 生。十右衛門。三十郎。志摩守。対馬守。志摩守。春雪
いどよしひろ
三十郎覚弘の長男
寛政譜17・67
母は長谷川讃岐正吉の女

寛永20年9月9日 はじめて家光に拝謁

寛永20年9月9日 井戸三十郎惣領子御目見 ●「日記」

承応3年2月27日 書院番

寛文3年12月14日 書院番。進物役

延宝2年12月3日 父覚弘の家を継ぐ。3040石

天和元年4月25日 本所奉行

天和3年3月2日 先弓頭

天和3年12月15日 布衣

元禄7年2月19日 勘定奉行

元禄7年12月18日 従五位下・志摩守

元禄15年11月28日 留守居

宝永5年閏1月14日 留守居を辞す。寄合

宝永5年8月6日 致仕。300俵。春雪と号す

享保2年11月21日 死す
稲垣茂門 元和4年 生。平三郎
いながきしげかど
摂津守重綱の次男
寛政譜6・394
妻は井上主計頭正就の女

寛永9年9月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永17年8月6日 井上河内守稲垣平三郎縁辺被仰出付て以進物御礼申上 ●「日記」

慶安2年8月11日 死す
稲垣重綱 天正11年 生。藤助。平右衛門。摂津守
いながきしげつな
平右衛門長茂の長男
寛政譜6・390
室は森川金右衛門氏俊の女

慶長5年 秀忠の上田城攻めに牧野康成に属す

慶長17年 父長茂の遺領を継ぐ。上野国伊勢崎1万石

元和2年 越後国藤井2万石

元和6年 越後国三条城2万3000石

元和9年 大坂定番

寛永3年8月19日 従五位下・摂津守

慶安元年9月 大坂城代

慶安2年10月25日 大坂城代を辞す

慶安4年9月19日 三河国刈屋城2万3000石

承応3年1月8日
稲垣重綱三女
寛政譜6・391
稲垣摂津守重綱の三女
寛政譜11・298
母は森川金右衛門氏俊の女

寛永10年7月2日 本多伯耆守正直と縁組 ●「日記」

正保2年 本多伯耆守正永を産む

正保4年 本多三左衛門正方を産む


以下不詳



稲垣重綱四女
寛政譜6・298
稲垣摂津守重綱の四女
寛政譜17・173
母は森川金右衛門氏俊の女

寛永15年11月7日 縁辺組稲垣摂津守娘安藤彦四郎 ●「日記」


安藤彦四郎直政に嫁ぐ


以下不詳
稲垣重大 文禄3年 生。藤七郎。若狭守
いながきしげとも
平右衛門長茂の三男
寛政譜6・397 慶長12年 秀忠に仕える。小姓組

~慶長19年 300俵

元和元年12月27日 400石

元和2年9月 家光に付属される


番士筆頭役

元和9年11月 小十人頭

寛永3年3月11日 小姓組組頭

寛永3年8月19日 従五位下・若狭守


弓矢鉄炮の事をうけたまわる

(寛永10年6月29日) (弓矢御鉄炮役) ●「日記」

寛永10年7月24日 書院番頭 ●「日記」共

寛永12年12月14日 6000石

寛永12年12月14日 三千石御加恩 ●「日記」

正保元年5月23日 大番頭

正保元年5月23日 大御番頭松平縫殿助元組 ●「日記」

慶安3年9月3日 家綱に付属される。西丸に勤仕

慶安4年7月22日 留守居

万治元年3月18日 留守居を辞す

万治元年4月23日 死す
稲垣重昌 慶長19年 生。藤助
いながきしげまさ
摂津守重綱の長男
寛政譜6・391
母は森川金右衛門氏俊の女


室は西尾丹後守忠永の女

寛永10年7月2日 縁辺組 ●「日記」

寛永12年10月4日
稲垣豊重 慶長13年 生。藤五郎。藤左衛門
いながきとよしげ
杢左衛門忠豊の男
寛政譜6・401 (元和7年) 父忠豊の遺跡を継ぐ。100俵

元和8年11月 はじめて家光に拝謁

元和9年1月 小十人

寛永9年8月25日 200俵

寛永20年8月8日 新番

寛永20年8月8日 於土圭之間御番相詰其上方々御成之刻御先え参御殿御番等可相勤之旨―


―被仰付之由伊豆豊後列座有之民部少輔伝之遠山十右衛門組 ●「日記」

万治2年12月26日 250俵


新番を辞す。小普請

寛文7年3月14日 死す
稲垣政重
生。善右衛門
いながきまさしげ
善右衛門政次の男
寛政譜6・399
妻は服部金之丞の女

天正13年 家康に仕える。大番

元和元年~ 父政次の遺跡を継ぐ。400石。馬預

寛永20年12月2日 400俵

寛永20年12月2日 知行悪所ニて御切米ニ替被下之 ●「日記」

慶安2年6月3日 死す
稲川神主
駿河国府中。伊河麻神社か
いながわ




伊奈小左衛門
五左衛門忠雪か?
いなこざえもん
池田帯刀長賢組の書院番か

寛永19年閏9月1日 伊奈小左衛門惣領初て御礼 ●「日記」



伊奈小左衛門惣領





寛永19年閏9月1日 伊奈小左衛門惣領初て御礼 ●「日記」



稲田右京

いなだうきょう
修理の男

(寛永17年10月6日) (松平阿波守家中証人) ●「日記」






稲田修理

いなだしゅり


(寛永17年10月6日) (松平阿波守家中) ●「日記」






伊奈忠勝
生。半左衛門
いなただかつ
半十郎忠治の長男
寛政譜15・43 寛永9年10月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保2年8月10日 代官

承応2年12月22日 父忠治の遺跡を継ぐ。3960石

承応2年12月22日 代官衆の処置の善悪を糺す

承応2年12月22日 堤川除等の事に意を用いる

承応2年12月22日 駿河・遠江・三河三国の租税の事を司る

承応2年12月30日 布衣

寛文5年8月14日 死す
伊奈忠公 慶長2年 生。兵蔵
いなただきみ
備前守忠次の四男
寛政譜15・49
妻は船木甚左衛門の女


後妻は松平図書の女

慶長9年12月 家光に付属される。小姓


小納戸頭


勘気を蒙る。兄半十郎忠治に召し預けられる


赦免。小姓組

寛永10年7月26日 代官。650石

寛永10年7月26日 (中野)吉兵衛跡御代官所被仰付 ●「日記」

(寛永11年6月21日) (神奈川あたりの代官か) ●「日記」

(寛永19年10月1日) (御代官所三嶋ヨリ帰参) ●「日記」

寛文5年2月17日 死す
伊奈忠重
生。半三郎。五兵衛
いなただしげ
半十郎忠治の三男
寛政譜15・47
妻は柴田筑後守康久の女

寛永16年2月5日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保3年11月 家綱に付属される。小姓。三丸に勤仕

慶安3年9月4日 書院番。300俵

承応2年12月22日 父忠治の遺跡分知。1640石

延宝2年5月23日 死す
伊奈忠次 天文19年 生。熊蔵。備前守
いなただつぐ
五兵衛忠家の男
寛政譜15・40
室は深津氏


父忠家と共に松平信康に属す

(天正7年) 堺に寓居

天正10年6月 家康に仕える。小栗大六の与力

天正14年12月 近習

天正18年2月 駿遠三三国の道路および富士川舟梁の普請奉行。兵粮等の事をうけたまわる

天正18年 落城後の小田原の蔵の会計を掌る

天正18年 武蔵国小室鴻巣1万石。関東の郡代。市川・松戸・房川の関を守る

~文禄元年 甲斐国の代官を兼ねる

慶長5年9月 関ケ原の役にて小荷駄奉行

(慶長5年) 従五位下・備前守

慶長15年6月13日
伊奈忠治 文禄元年 生。半十郎
いなただはる
備前守忠次の次男
寛政譜15・43
家康に仕える。勘定方

寛永19年5月22日 御城米浅草御蔵当座之奉行差図当夏借ヨリ可進退 ●「日記」

寛永19年8月16日 勘定方をゆるされる

寛永19年8月16日 代官衆の処置の善悪を糺す

寛永19年8月16日 堤川除等の事に意を用いる

寛永19年8月16日 駿河・遠江・三河三国の租税の事を司る

寛永19年8月16日 7000石

寛永19年8月16日 昨今迠御勘定方承之事御免関東御代官衆善悪之儀并―


―堤川除普請可入念之旨被仰出之 ●「日記」

寛永20年12月29日 布衣 ●「日記」共

承応2年6月27日 死す
伊奈忠雪
生。午之助。五左衛門
いなただゆき
備前守忠次の五男
寛政譜15・52
妻は加々爪甲斐守家臣斎藤十左衛門の女

慶長14年 幼少より徳川忠長に仕える

(寛永9年) 処士

寛永13年12月10日 赦免。家光に拝謁

寛永13年12月10日 御赦免 ●「日記」

寛永15年12月23日 書院番。500石

寛永15年12月23日 駿河衆伊奈牛之助御書院番可仕之 ●「日記」

慶安元年12月17日 死す
稲田正勝 天正15年 生。喜蔵
いなだまさかつ
喜左衛門正時の男
寛政譜15・111
母は朽木河内守元綱の養女菅沼織部正家臣横山十兵衛の女


妻は松平肥前守家臣金森掃部助一吉の女


豊臣秀頼に仕える

元和元年5月25日 はじめて家康に拝謁。手鷹役。現米80石月俸。京都御幸町に住す

寛永11年6月16日 死す
稲田正信 寛永2年 生。通称不明
いなだまさのぶ
喜蔵正勝の三男
寛政譜15・111
母は松平肥前守家臣金森掃部助一吉の女


妻は河原崎氏

寛永11年 父正勝の遺跡を継ぐ。現米40石

寛永13年11月8日 はじめて家光に拝謁

寛永13年11月8日 稲田喜蔵子御鷹場とねりにおいて初て御目見 ●「日記」

寛永16年 手鷹役。京都に住す

万治2年 江戸に移住

天和2年3月21日 手鷹役をゆるされる。小普請

貞享3年10月29日 宝蔵番

元禄11年8月10日 死す
稲田弥左衛門

いなだやざえもん
修理の男

(寛永17年10月6日) (松平阿波守家中証人) ●「日記」






稲富重次 天正15年 生。宮内。はじめ井岡を称す
いなとみしげつぐ
妻は太田新左衛門信盛の女
寛政譜9・381
幼少より稲富伊賀守直家に師事。火術を学ぶ


稲富を称す

慶長16年 はじめて家康に拝謁。家康に仕える

慶長16年 廩米を賜る

元和2年10月 550石

元和9年 鉄炮の事をうけたまわる。同心10人

寛永4年 750石

寛永10年12月22日 死す
稲富重吉
生。市十郎。宮内
いなとみしげよし
宮内重次の男
寛政譜9・381
母は太田新左衛門信盛の女

寛永11年 父重次の遺跡を継ぐ。750石

寛永11年4月22日 はじめて家光に拝謁

寛永11年4月22日 跡目之御礼 ●「日記」

正保2年7月28日 父重次献上の炮術書を賜る

正保3年9月28日 勘気を蒙る

慶安4年10月17日 赦免


小姓組。鉄炮の事をうけたまわる


務を辞す。小普請

万治2年3月20日 死す
稲富直賢 慶長9年 生。喜大夫
いなとみなおかた
喜大夫正直の男
寛政譜9・378
母は鈴木長吉郎の女


妻は服部惣左衛門直次の女

元和6年 秀忠に仕える

元和9年 父正直の遺跡を継ぐ。650石。鉄炮のことをうけたまわる。同心10人

(寛永12年6月16日) (稲留喜大夫) ●「日記」

正保元年5月 命により大筒の鉄炮10挺を作る

正保2年7月28日 同心30人

正保3年9月13日 井上外記正継に殺害される。家禄没収
稲富直之 寛永8年 生。喜太郎。喜三郎
いなとみなおゆき
喜大夫直賢の長男
寛政譜9・379
母は服部惣左衛門直次の女


妻は倉知氏

正保元年11月10日 稲富喜大夫惣領喜三郎初て御目見 ●「日記」

正保2年 はじめて家光に拝謁

正保3年9月26日 父直賢に連座して改易

寛文3年7月20日 ゆるされる

寛文3年8月3日 家綱に仕える

寛文3年12月25日 200俵

寛文4年8月11日 小姓組

寛文5年2月5日 大坂鉄炮奉行。400石

元禄12年3月21日 小普請。出仕をはばかる


ゆるされる

元禄15年6月23日 致仕

正徳3年9月14日 死す
稲葉出雲

いなばいずも
松平伊予守忠昌の家臣






稲葉一通 天正15年 生。亀。彦四郎。民部少輔
いなばかずみち
彦六典通の長男
寛政譜10・176
母は丹羽越前守長秀の女


室は細川越中守忠興の女


継室は青山伯耆守忠俊の女

元和元年 家康・秀忠に拝謁

元和元年11月15日 従五位下・民部少輔

寛永4年3月 父典通の遺領を継ぐ。豊後国臼杵城5万60石

寛永18年8月16日
稲葉一通次女
寛政譜10・177
稲葉民部少輔一通の次女


母は青山伯耆守忠俊の女

寛永12年8月6日 稲葉民部少娘日根野長吉嫁娶被仰付之 ●「日記」


日根野次右衛門吉雄に嫁ぐ


以下不詳
稲葉権三郎
生。権三郎
いなばごんざぶろう
修理亮通孝の次男か
寛政譜10・181
紀伊家臣



稲葉三右衛門

いなばさんえもん
稲葉丹後守正勝の家老



稲葉七郎兵衛

いなばしちろうひょうえ
稲葉丹後守正勝の家老



稲葉忠右衛門

いなばちゅうえもん


寛永14年8月10日 能東北のシテをつとめる ●「日記」



稲葉長三郎

いなばちょうざぶろう 寛永14年7月21日 能清経のシテをつとめる ●「日記」






稲葉信通 慶長13年 生。虎。彦四郎。能登守
いなばのぶみち
民部少輔一通の長男
寛政譜10・177
母は細川越中守忠興の女


室は織田兵部大輔信良の次女


継室は織田兵部大輔信良の三女

元和9年7月 はじめて家光に拝謁

寛永11年12月18日 従五位下・能登守

(寛永12年6月30日) (能登守の初出) ●「日記」

寛永12年12月21日 織田百介稲葉能登守祝言被仰付御礼 ●「日記」

寛永18年11月22日 父一通の遺領を継ぐ。豊後国臼杵城5万60石

寛永18年11月22日 稲葉民部少輔跡職五万石能登守被下之 ●「日記」

寛永20年9月27日 火消 ●「日記」

延宝元年6月24日
稲葉紀通 慶長8年 生。大夫。淡路守
いなばのりみち
蔵人道通の次男
寛政譜10・185
母は日根野常陸介重之の女

慶長12年 父道通の遺領を継ぐ。伊勢国田丸城4万5700石

元和2年 摂津国中島4万5700石

寛永元年9月 丹波国福智山城4万5700石

寛永元年 従五位下・淡路守

寛永20年9月27日 火消 ●「日記」

慶安元年8月20日 自殺
因幡法眼

いなばほうげん
大乗院塔頭花巌院か?


大乗院門跡信尊の家臣



稲葉正勝 慶長2年 生。千熊。宇右衛門。丹後守
いなばまさかつ
佐渡守正成の次男
寛政譜10・188
母は稲葉兵庫頭重通の養女斎藤内蔵助利三の女春日局麟祥院


室は山田十大夫重利の女

慶長9年 500石。月俸20口。家光に仕える


小納戸


徒頭


小姓組番頭

元和7年 書院番頭

元和7年12月 2000石

元和9年8月2日 従五位下・丹後守

元和9年 5000石。奉行職

寛永元年 1万石

寛永2年 2万石

寛永5年 父正成の遺領を継ぐ。下野国真岡4万石

寛永9年11月18日 乗物御赦免 ●「日記」

寛永9年11月23日 相模国小田原城8万5000石。箱根の関を守る

寛永9年11月23日 小田原拝領。加増4万石 ●「日記」

寛永10年4月19日 唐物方および碁・将棋・座頭・舞々・猿楽の者を支配

寛永10年4月19日 猿楽舞々万事肝煎 ●「日記」

寛永11年1月25日

寛永11年1月25日 今戌刻死去是日来依病気也 ●「日記」
稲葉正利
生。内記
いなばまさとし
佐渡守正成の五男
寛政譜10・189
母は稲葉兵庫頭重通の養女斎藤内蔵助利三の女春日局麟祥院


駿河大納言徳川忠長に仕える

寛永9年 細川越中守忠利に召し預けられる


以下不詳
稲葉正則 元和9年 生。鶴千代。美濃守。侍従。泰応
いなばまさのり
丹後守正勝の次男
寛政譜10・189
母は山田十大夫重利の女


室は毛利甲斐守秀元の女


継室は堤縫殿頭長貞の女

寛永3年12月20日 母の死後に祖母春日局麟祥院のもとで養育される

寛永6年 はじめて秀忠に拝謁

寛永11年2月3日 父正勝の遺領を継ぐ。相模国小田原城8万5000石

寛永11年3月19日 継目之御礼 ●「日記」

寛永11年12月29日 従五位下・美濃守

(寛永12年6月2日) (美濃守の初出) ●「日記」

寛永12年12月1日 室と縁組

寛永12年12月1日 縁辺之御礼 ●「日記」

寛永15年 斎藤佐渡守利宗による後見を離れる

寛永19年9月1日 毎歳於江戸越年午年在江戸半年替 ●「日記」

寛永20年9月10日 妹と娘の縁組あり

明暦3年9月28日 御側

明暦3年12月27日 従四位下

万治元年7月11日 評定所に出座

万治元年閏12月29日 奉書に連判

寛文元年4月10日 嫡子正往の縁組あり

寛文元年12月30日 侍従

寛文3年2月8日 相模国小田原城9万5000石

延宝元年12月14日 娘の縁組あり

延宝6年6月7日 参内

延宝7年6月21日 孫娘の縁組あり

延宝8年1月12日 月番加判の列をゆるされる。相模国小田原城11万石

延宝8年12月23日 酒井雅楽頭忠清の例の如く御内書の事を沙汰

天和元年12月8日 職を辞す

天和3年閏5月27日 致仕。泰応と号す

元禄9年9月6日
稲葉正吉 元和4年 生。権佐。伊勢守
いなばまさよし
佐渡守正成の九男
寛政譜10・206
母は山内修理亮康豊の女


妻は太田備中守資宗の女

寛永5年5月 兄八左衛門正次の遺跡を賜る。美濃国青野5000石。寄合

慶安3年11月19日 書院番頭

慶安4年8月16日 従五位下・伊勢守

明暦2年7月3日 家臣安藤甚五左衛門と松永喜内に殺害される
稲葉通綱 慶長16年 生。左京進
いなばみちつな
民部少輔一通の次男
寛政譜10・177
母は細川越中守忠興の女

寛永12年11月15日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永12年12月18日 死す
稲葉通広 慶長17年 生。織部佑
いなばみちひろ
民部少輔一通の三男
寛政譜10・177
母は細川越中守忠興の女

寛永12年11月15日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

延宝3年12月3日 死す
伊奈治詣
生。半弥
いなはるゆき
半十郎忠治の次男
寛政譜15・44 寛永16年2月5日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

承応2年12月22日 父忠治の遺跡分知。1500石。代官

万治2年5月3日 死す。断絶
乾四郎兵衛

いぬいしろうびょうえ
津軽土佐守信義に仕える

(寛永13年11月21日) (津軽土佐守家老) ●「日記」

寛永13年11月21日 松平隠岐守ニ被為預之 ●「日記」



乾忠元 天正4年 生。次左衛門
いぬいただもと
長大夫忠清の男
寛政譜17・54
秀吉に仕える


秀頼に仕える

元和元年5月25日 家康に拝謁


鷹師。現米80石。河内国に住す

(寛永15年12月2日) (御鷹師) ●「日記」

明暦元年7月2日 死す
乾直幾
生。兵部。甲斐
いぬいなおちか
平右衛門の男
因府年表1・53
池田忠雄に仕える。家老
因府年表1・11
2500石。鉄炮50挺


3500石

(寛永17年1月28日) (甲斐の初出) ●「日記」

慶安元年4月9日 死す
乾兵介

いぬいひょうすけ
甲斐直幾の男

(寛永16年3月15日) (松平相模守家中証人兵部子乾兵介) ●「日記」



乾元長 元和3年 生。次郎左衛門
いぬいもとなが
次左衛門忠元の長男
寛政譜17・54
妻は紀伊家臣中村新右衛門の女

寛永15年12月2日 はじめて家光に拝謁

寛永15年12月2日 乾次左衛門子初て御目見 ●「日記」

(明暦元年) 父忠元の遺跡を継ぐ。現米80石

延宝5年11月3日 鳥見役

天和2年12月5日 小十人

元禄2年11月20日 死す
犬塚重世 天正18年 生。小善次。平右衛門
いぬづかしげよ
平右衛門忠次の長男
寛政譜16・388
母は松井周防守康親の養女石川右馬允康正の女


妻は蒲生飛騨守家臣梅原弥左衛門の女

慶長7年 秀忠に仕える。小姓

寛永2年7月27日 500石

寛永8年4月10日 小納戸。家光に仕える

寛永8年4月10日 奥にて召し使われる ●「日記」

寛永10年4月10日 膳奉行 ●「日記」共

寛永10年6月3日 700石

寛永19年11月1日 二丸に勤仕

寛永19年11月1日 二丸御膳奉行 ●「日記」


勘気を蒙る

慶安4年10月17日 赦免

明暦元年9月28日 死す
犬塚忠世 元和3年 生。小善次。平右衛門。遊斎
いぬづかただよ
平右衛門重世の養子。青木小右衛門正定の三男
寛政譜16・389
母は飯室次郎兵衛昌喜の女


妻は平右衛門重世の養女松井半吾元真の女

寛永16年10月18日 犬塚平右衛門養子小善次御奉公ニ出可申旨也 ●「日記」

寛永16年11月6日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永17年3月19日 小姓組 ●「日記」共


勘気を蒙る

慶安4年10月17日 ゆるされる

明暦元年11月25日 養父重世の遺跡を継ぐ。700石


小姓組を辞す。小普請

延宝5年閏12月12日 致仕。遊斎と号す

元禄9年1月6日 死す
井家豊次
生。左衛門大尉
いのいえとよつぐ
摂津守豊家の男
地下家伝中・979 寛永3年2月24日 従五位下
宮廷公家系図集覧655 寛永4年11月3日 左衛門大尉


以下不詳。断絶
井上安大夫

いのうえあんだゆう
有馬玄蕃頭豊氏に仕える

(寛永12年12月8日) (有馬玄蕃頭家来) ●「日記」



井上因碩 慶長10年 生。因碩
いのうえいんせき
中村道碩の後継。京都出身
坐隠談叢2・16 寛永12年12月1日 碁打将棋さし依為無足於大津御切米被下之所謂―


―因碩廿五石 ●「日記」

延宝元年1月14日 死す
井上宇右衛門

いのうえうえもん


寛永15年12月5日 関東方御勘定 ●「日記」

寛永15年12月18日 百五十俵御切米被下之 ●「日記」



井上権七郎

いのうえごんしちろう 寛永13年12月27日 大御番被仰付之 ●「日記」






井上重次 寛永7年 生。宗三郎。太左衛門。丹波守。志摩守
いのうえしげつぐ
太左衛門重成の養子。松平越後守家臣中根長左衛門の男
寛政譜4・303
母は太左衛門重成の女


妻は松平庄右衛門清直の女


後妻は野々山丹後守兼綱の女

寛永16年10月18日 井上多左衛門養子儀如望被仰付之 ●「日記」

寛永18年5月13日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保3年12月9日 養父重成の遺跡を継ぐ。3000石

正保4年12月25日 小姓組

寛文8年9月5日 使番

寛文8年12月28日 布衣

延宝2年3月29日 先鉄炮頭

延宝4年2月10日 盗賊追捕の事をつとめる

延宝6年11月30日 盗賊追捕をゆるされる

延宝7年3月4日 京都町奉行。4000石

延宝7年7月21日 従五位下・丹波守

元禄2年11月22日 死す
井上重成
生。半三郎。太左衛門
いのうえしげなり
半右衛門清秀の長男
寛政譜4・303
母は服部氏


妻は福岡太郎八の女


幼少のとき家康に拝謁


越前中納言松平秀康に付属される。先手物頭


病により遠江国横須賀に籠居

寛永2年 家光に仕える。3000石

寛永2年 先鉄炮頭。与力10騎同心30人を預かる

寛永3年 布衣

正保3年5月9日 死す
井上主馬

いのうえしゅめ
黒田家臣



井上新左衛門

いのうえしんざえもん


寛永9年7月26日 国廻 ●「日記」

寛永15年12月5日 関東方御勘定 ●「日記」

寛永18年6月22日 井上新左衛門屋敷秋山十右衛門ニ被下之 ●「日記」



井上利景 寛永5年 生。忠五郎。忠右衛門
いのうえとしかげ
次兵衛利義の長男
寛政譜14・398
母は稲葉彦六郎家臣後藤十右衛門利久の女


妻は大久保平左衛門忠職の女

正保元年11月10日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保2年6月25日 小姓組

慶安3年9月3日 西丸に勤仕

(慶安4年) 本丸に勤仕

明暦3年5月19日 父利義の遺跡を継ぐ。500石


小姓組を辞す。小普請

寛文元年7月10日 死す
井上利義 慶長9年 生。小作。次兵衛
いのうえとしよし
小左衛門定利の長男
寛政譜14・398
母は織田家臣赤座七郎右衛門の女


妻は稲葉彦六郎家臣後藤十右衛門利久の女


人質として大坂城にあり

元和元年5月7日 八幡岩本坊のもとに潜居

元和元年 はじめて家康に拝謁

元和元年 秀忠に仕える

元和5年 西丸小姓組


300俵

寛永3年~ 書院番

寛永10年2月7日 500石

寛永19年8月5日 浅草蔵の会計にあずかる

寛永19年8月5日 浅草御蔵御兵粮之御勘定有之席え相越無油断様可相斗 ●「日記」

明暦3年4月10日 死す
井上秀久 元和元年 生。右衛門志。(右兵衛)。和泉守
いのうえひでひさ
兵庫大允行忠の長男
地下家伝上・675
右衛門志
宮廷公家系図集覧625 寛永3年 正六位下

(寛永11年7月21日) (左衛門) ●「日記」 弟行宣の可能性もあるか


和泉守。従五位下 →寛永19年以後のことか

寛永 江戸紅葉山楽人

寛永19年8月27日 御切米五十石十人扶持井上右兵衛従当年被下之 ●「日記」

明暦2年12月26日 従五位上

寛文2年2月11日 正五位下

某年
井上憲勝
生。次郎兵衛
いのうえのりかつ
但馬守憲安の男
寛政譜4・312
松田左馬介に属す

文禄3年2月 家康に仕える。納戸番

~寛永3年 400石


大番

寛永10年2月7日 600石

(寛永16年6月23日) (松平外記植村出羽守組大番衆) ●「日記」

(寛永20年~寛文12年) 死す
井上憲行
生。源太左衛門
いのうえのりゆき
次郎兵衛憲勝の長男
寛政譜4・312 寛永16年6月23日 はじめて家光に拝謁

寛永16年6月23日 井上二郎兵衛惣領之子共初て御目見 ●「日記」

寛永17年3月20日 大番 ●「日記」共

寛永19年12月10日 弐百俵井上源左衛門 ●「日記」

寛永20年~ 父憲勝の遺跡を継ぐ。600石

寛文12年 死す
井上正景 元和4年 生。半十郎。半入。半十郎。左大夫
いのうえまさかげ
外記正継の養子。酒井雅楽頭家臣村田九兵衛の男
寛政譜4・288
母は井上外記正俊の女


妻は外記正継の長女

寛永13年5月1日 はじめて家光に拝謁

寛永13年5月1日 井上外記子半十郎 ●「日記」後部欠落。初見の礼か

正保3年7月6日 小姓組

正保3年9月26日 父正継の罪に連座して改易

寛文3年7月20日 赦免。召し返される

寛文3年10月9日 家綱に拝謁

寛文3年12月25日 300俵

寛文4年8月11日 小姓組

寛文5年7月23日 父正継献上の鉄炮・諸具を預かる

寛文5年12月2日 小姓組をゆるされる。大箪笥方の鉄炮・諸具を糺し改める

寛文6年9月8日 鉄炮役。与力5騎同心20人

寛文6年11月7日 鉄炮や攻城の諸具を修補

寛文6年12月23日 600俵

寛文6年12月28日 布衣

延宝7年12月18日 600石

延宝8年9月21日 火事場見廻役。病により嗣子正朝が代役をつとめる

天和2年4月21日 900石

天和3年10月22日 死す
井上政重 天正13年 生。清兵衛。筑後守。幽山
いのうえまさしげ
半右衛門清秀の四男
寛政譜4・305
母は永田氏


室は太田新六郎重正の女

慶長13年 秀忠に仕える。書院番。200俵

元和2年9月15日 家光に付属される

元和4年 500石

元和9年 1000石

寛永2年 目付。2000石

寛永4年12月29日 従五位下・筑後守

寛永9年9月2日 五の字の指物 ●「日記」

寛永9年10月3日 4000石

寛永9年10月3日 2000石加増 ●「日記」

寛永9年12月17日 大目付

寛永9年12月17日 惣御目付 ●「日記」

寛永15年12月4日 与力5騎同心20人を預かる

寛永17年6月12日 1万石

寛永17年6月12日 浴御加恩六千石都合壱万石是為長崎御仕置毎年依被遣之也 ●「日記」

寛永17年 長崎に赴き異国商船・耶蘇禁制の事を裁許


しばしば長崎に赴く

寛永19年 海道の諸民愁苦の事を沙汰

寛永20年5月23日 1万3000石 ●「日記」共

万治元年閏12月8日 大目付を辞す

万治3年7月9日 致仕。幽山と号す

寛文元年2月27日
井上政次 慶長7年 生。清兵衛
いのうえまさつぐ
筑後守政重の男
寛政譜4・305
室は井上権左衛門正友の女

元和4年 はじめて家光に拝謁


番をつとめる

寛永15年1月3日 父政重に従い嶋原におもむく

寛永18年12月13日 番をゆるされる

寛永18年12月13日 依日来病者御番御赦免 ●「日記」

慶安3年8月22日
井上正継
生。九十郎。外記
いのうえまさつぐ
外記正俊の男
寛政譜4・287
母は三木惣兵衛の女


妻は池田三左衛門輝政家臣難波一甫の女

慶長19年 秀忠に仕える

慶長19年11月 大坂役にて酒井雅楽頭忠世に属す

元和元年 大坂役にて酒井安房守忠行に属す

元和元年12月 500石

寛永10年 歩卒10人

寛永12年 命により大筒の鉄炮100余挺を製す

寛永14年 天草一揆のとき大小の鉄炮や諸具を製して献上

寛永15年11月14日 鉄炮役。与力5騎同心20人

寛永15年12月4日 1000石

寛永15年12月4日 御加増五百石被下之其上与力五騎徒同心廿五人被仰付 ●「日記」

寛永17年 命により大筒鉄炮や兵器をつくり献上

(寛永18年1月6日) (御鉄炮頭) ●「日記」

寛永18年1月6日 布衣 ●「日記」共

正保3年9月13日 長坂丹波守信次と稲富喜大夫直賢を殺害し刀傷にて死す
井上正任 寛永7年 生。大学。大学助。相模守。中務少輔
いのうえまさとう
河内守正利の長男
寛政譜4・294
母は徳川忠長家臣鳥居土佐守成次の女


室は本多能登守忠義の女

寛永16年閏11月1日 はじめて家光に拝謁

寛永16年閏11月1日 井上河内守子始御礼 ●「日記」

慶安4年12月28日 従五位下・相模守

寛文9年6月15日 父正利の家を継ぐ。常陸国笠間城5万石

寛文9年9月7日 奏者番


蟄居


ゆるされる

延宝2年6月5日 奏者番をゆるされる。閉門

延宝3年4月22日 ゆるされる

貞享4年9月18日 表より出仕


中務少輔

元禄5年11月12日 美濃国郡上城5万石

元禄6年9月2日 致仕

元禄13年12月16日
井上正利 慶長11年 生。大学助。河内守
いのうえまさとし
主計頭正就の長男
寛政譜4・293
母は市川孫左衛門の女


室は徳川忠長家老鳥居土佐守成次の女

元和3年 はじめて秀忠に拝謁

元和9年8月6日 従五位下・河内守

寛永5年10月 父正就の遺領を継ぐ。遠江国横須賀城4万7500石

寛永19年9月1日 毎歳八月交替未年在江戸 ●「日記」

寛永20年9月27日 火消 ●「日記」

正保2年6月27日 奏者番。常陸国笠間城5万石

慶安3年9月3日 家綱に付属される

明暦3年1月22日 交代で府内巡見

万治元年7月4日 寺社奉行・奏者番

寛文7年12月18日 寺社奉行を辞す。奏者番

寛文9年6月15日 致仕

延宝3年11月8日
井上正義 元和8年 生。帯刀
いのうえまさよし
主計頭正就の次男
寛政譜4・301
母は市川孫左衛門の女


妻は小出伊勢守吉親の六女


後妻は小出伊勢守吉親の八女

寛永5年 はじめて秀忠に拝謁

寛永5年10月 父正就の遺領分知。5000石。寄合

寛永20年12月2日 縁組被仰付之小出対馬守娘井上帯刀 ●「日記」六女か八女か不明

貞享3年1月11日 百人組頭

貞享3年5月22日 死す
井上庸尾
生。頼母助
いのうえもちお
淡路守庸名の男
寛政譜4・292
母は黒田筑前守長政の女

寛永17年2月 はじめて家光に拝謁

寛永17年2月10日 初て御目見 ●「日記」

(寛永19年) 父庸名の遺跡を継ぐ

寛永19年11月15日 捧太刀目録御礼是亡父遺跡被仰付依也 ●「日記」

慶安2年7月2日 死す
井上庸名 文禄2年 生。淡路守
いのうえもちな
周防守之房の男
寛政譜4・292
妻は黒田筑前守長政の女


黒田長政に属す

慶長11年 はじめて秀忠に拝謁。近習

慶長15年3月22日 従五位下・淡路守

寛永19年9月22日 死す
井上庸名長女
寛政譜4・292
井上淡路守庸名の長女
寛政譜3・132 寛永10年7月2日 溝口内記宣俊と縁組 ●「日記」


溝口長吉を産むか。早世か

寛永15年 溝口内記宣鎮を産む






井上弥兵衛

いのうえやひょうえ
松平相模守池田光仲に仕える

(寛永19年5月22日) (松平相模守家来) ●「日記」



稲生正倫 寛永3年 生。七郎右衛門
いのうまさとも
次郎左衛門正信の長男
寛政譜16・390
母は土屋忠左衛門利清の女


妻は河村善右衛門重勝の女

寛永10年6月15日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永18年4月16日 小姓組 ●「日記」共

寛永20年12月18日 三百俵 ●「日記」

正保2年12月19日 父正信の遺跡を継ぐ。700石

寛文3年11月25日 目付

寛文3年12月26日 700石300俵

寛文3年12月28日 布衣

寛文5年3月13日 長崎奉行

寛文6年2月17日 死す
稲生正信
生。次郎左衛門
いのうまさのぶ
次郎左衛門光正の男
寛政譜16・390
妻は土屋忠左衛門利清の女

(慶長17年) 父光正の遺跡を継ぐ。500石。秀忠に仕える

元和元年~ 小姓組

~元和3年 書院番

寛永10年2月7日 700石

正保2年1月17日 死す
猪子一吉 慶長14年 生。左大夫
いのこかずよし
次左衛門一日の次男
寛政譜15・55
母は前田肥前守家臣岡嶋備中の女


妻は石尾志摩守治昌の女

寛永2年 はじめて家光に拝謁

寛永4年 小姓組

寛永6年 300俵

寛永10年2月7日 500石

正保2年6月28日 徒頭

正保2年12月30日 布衣

慶安4年11月21日 500石300俵

万治元年6月3日 駿府町奉行。500石600俵

寛文9年1月10日 死す
猪子正元
生。久左衛門
いのこまさもと
久左衛門正次の男
寛政譜15・54 慶長18年1月19日 はじめて秀忠に拝謁。父正次の遺跡を継ぐ。1000石。小姓組

寛永18年10月8日 如前々江戸中昼夜見舞之役被仰付 ●「日記」

寛永19年~ 死す。断絶
猪俣則種
生。三平六
いのまたのりたね
秀忠に仕える
寛政譜10・111
家光に仕える

(寛永10年2月21日) (御鷹師) ●「日記」

寛永10年 死す
猪俣則綱
生。小平太。助右衛門
いのまたのりつな
小平六則綱の男
寛政譜10・111
父則綱死去ののち13歳にて家康に拝謁。御側に近侍


小十人。200俵

寛永19年8月18日 蔵奉行

寛永19年8月18日 御城米方御蔵奉行 ●「日記」

慶安3年~ 務を辞す。小普請

寛文7年 死す
意伯
法橋
いはく
一条昭良に仕える

(寛永16年4月1日) (一条殿家来法橋意伯) ●「日記」



井原加賀守

いはらかがのかみ
松平長門守毛利秀就の家臣



庵原忠国
生。九左衛門
いはらただくに
九左衛門吉勝の長男
寛政譜10・228
母は杉浦彦左衛門の女

(寛永4年) 父吉勝の遺跡を継ぐか

~寛永9年 大番。300石

寛永13年 死す
井原弾正

いはらだんじょう
松平長門守毛利秀就の家老



庵原正成
生。八兵衛
いはらまさなり
丹波正盛の長男
寛政譜21・20 元和9年


貝役

(寛永18年12月29日) (御かいの役) ●「日記」

(寛永20年4月19日) (弐百石) ●「日記」

寛永20年4月19日 只今迠之御番被成御免向後御役可被仰付之間可存其旨之由―


―小十人組御番所之次ニて老中被伝之 ●「日記」

寛永20年9月11日 弐百五十石被下之 ●「日記」


国廻役。中根壱岐守正盛に属す

(正保元年8月24日) (中根壱岐守与力) ●「日記」


徒目付組頭

某年 死す
庵原吉政
生。権八郎
いはらよしまさ
九左衛門忠国の長男
寛政譜10・228 寛永10年 はじめて家光に拝謁

寛永13年11月24日 父忠国の遺跡を継ぐ。300石

寛永13年11月24日 庵原九左衛門三百石子跡目被仰付之 ●「日記」


以下不詳
揖斐政景
生。半四郎。与右衛門
いびまさかげ
与右衛門政雄の長男
寛政譜5・210
母は渥美刑部の女


妻は内藤右京進正成の女


堀尾帯刀吉晴のもとにあり

慶長7年 はじめて家康に拝謁


500石。秀忠に付属される。(代官)


大坂の役にて伏見城番


700石

元和7年7月 小田原町奉行・代官。900石

(寛永9年11月23日) (小田原が稲葉正勝領となる)

寛永10年1月18日 駿河大納言徳川忠長の別邸を守る

寛永10年1月18日 忠長公下屋敷御番 ●「日記」

寛永11年4月15日 駿府町奉行 ●「日記」共

寛永17年 駿府町奉行を辞す

寛永18年1月28日 死す
揖斐政綱
生。半十郎。彦右衛門。与右衛門。純適
いびまさつな
与右衛門政景の長男
寛政譜5・210
母は内藤右京進正成の女


妻は戸田久助貞吉の女


後妻は揖斐伊兵衛の女

寛永9年 はじめて家光に拝謁

寛永13年8月9日 小姓組 ●「日記」共

寛永18年12月 父政景の遺跡を継ぐ。900石

(正保元年11月13日) (与右衛門の初出) ●「日記」

正保元年11月13日 継目之御礼 ●「日記」

寛文4年~ 小姓組を辞す。小普請

貞享3年7月9日 致仕。純適と号す

元禄5年2月11日 死す
揖斐政軌 慶長15年 生。直太郎。七之助。半右衛門
いびまさのり
半右衛門政吉の長男
寛政譜5・215
妻は青沼友右衛門正成の女


家光に仕える。大番

(寛永元年) 父政吉の遺跡を継ぐか。200石

寛永10年2月7日 400石


馬揃のあと加増。450石

寛永20年~ 大番組頭

万治元年閏12月25日 450石200俵

万治2年4月13日 納戸番頭

万治2年12月28日 布衣

万治3年1月11日 死す
伊吹重次 寛永元年 生。又三郎。市右衛門
いぶきしげつぐ
又三郎宗唯の男
寛政譜7・193
妻は服部氏

寛永7年 父宗唯の遺跡を継ぐ。200石


大番

万治3年 幕奉行

天和2年7月21日 死す
今井兼続 元和3年 生。彦右衛門。喜右衛門
いまいかねつぐ
宗呑兼隆の男
寛政譜4・192
家光に拝謁

寛永10年 父兼隆の遺跡を継ぐ。摂津国住吉郡1300石。堺御料所の代官

寛永13年5月28日 名屋宗薫孫今井彦右衛門御目見仕捧進物 ●「日記」

寛文6年9月11日 死す
今井兼久 天文21年 生。彦八郎。帯刀。宗薫。納屋とも称す
いまいかねひさ
大蔵卿法印宗久兼員の男
寛政譜4・191
母は武野紹鷗の女


剃髪して堺に住す。秀吉に仕える。1000石

慶長4年1月 家康の命により松平上総介忠輝と伊達政宗の女との縁辺を調える

慶長4年1月 家康に仕える

慶長5年 関ケ原の役に従う


摂津国住吉郡1300石。和泉河内両国の代官

慶長19年 大坂方に男宗呑とともに捕らえられ高野山に蟄居

慶長19年 大坂の役に供奉

~元和3年 堺に住す。近辺の御料所を支配

寛永4年4月11日 死す
今井縫殿助

いまいぬいどのすけ


(寛永20年3月19日) (寺沢兵庫頭家来) ●「日記」



今井信氏 寛永2年 生。友之助。刑部左衛門。刑部斎
いまいのぶうじ
小兵衛信盛の長男
寛政譜19・30
母は青柳内匠助信正の女


妻は筧六郎右衛門の女


140俵

寛永17年12月10日 弱年のため父信盛の遺跡を収められる。140俵

寛永17年12月10日 女二宮様へ被為付之今井小兵衛跡目之事小兵衛今迠於上方被下置―


―三百石之所被召上之此以前之百四拾俵之御切米実子惣領―


―友之助ニ被下之 ●「日記」

寛永18年10月 はじめて家光に拝謁


納戸番

寛文元年12月12日 200俵


納戸番を辞す。小普請

貞享元年7月19日 致仕。刑部斎と号す

元禄13年3月20日 死す
今井信盛 天正15年 生。小兵衛
いまいのぶもり
妻は板坂法印の女
寛政譜19・30
後妻は青柳内匠助信正の女


家康に仕える


徒目付


昭子内親王に付属される。140俵

寛永13年12月9日 300石

寛永13年12月9日 女二宮様御祝言付て今井小兵衛御加恩被下―


―都合三百石ニて被差遣之 ●「日記」

寛永13年12月18日 女二宮様依被為付差遣 ●「日記」

寛永16年12月14日 死す
今井昌安
生。四郎右衛門。九右衛門
いまいまさやす
庄左衛門(九右衛門)昌吉の男
寛政譜4・189 慶長19年7月1日 父昌吉の遺跡を継ぐ

元和元年7月1日 代官

慶安元年2月14日 死す
今枝直恒
生。民部
いまえだなおつね
弥八直重の養子。日置伊右衛門忠勝の五男
諸士系譜
母は加賀国今枝氏慶授院か
(加賀藩史料3・345)
室は前田対馬守長種の女
錦里文集 (寛永4年) 養父直重の遺跡を継ぐか。加賀前田家臣
(加賀藩史料3・346)
1万2500石


松平筑前守前田光高の傅役

(寛永12年9月16日) (松平筑前守家老) ●「日記」

(寛永13年3月24日) (加賀中納言家老) ●「日記」

寛永14年 家老

正保2年 松平加賀守前田綱紀の傅役

慶安4年12月27日
今大路親俊 寛永13年 生。大力之助。典薬頭。兵部大輔。道三。延寿院
いまおおじちかとし
道三親昌の男
寛政譜10・90
母は加々爪民部少輔忠澄の女


妻は津軽土佐守信義の女


後妻は都筑三四郎政次の女

寛永16年6月25日 父親昌の遺跡を継ぐ。1200石

寛永16年6月25日 道三法印依死去跡職実子ニ被仰付之 ●「日記」

寛永17年 大奥にてはじめて家光に拝謁

正保元年2月 京都相国寺にて勤学

正保3年 江戸に帰る

慶安4年12月29日 従五位下・典薬頭。兵部大輔


剃髪。道三と号す

承応元年2月21日 参内

貞享3年5月22日 死す
今大路親昌 慶長13年 生。藤三。典薬頭。民部大輔。玄鎮。安室。道三
いまおおじちかまさ
道三親清の次男
寛政譜10・90
母は渡辺宮内少輔の女


妻は加々爪民部少輔忠澄の女


幼少より秀忠に仕える

元和8年10月8日 家光に付属される。小姓

元和9年8月23日 従五位下・典薬頭・民部大輔

寛永3年 父親清の遺跡を継ぐ。700石


剃髪。玄鎮と号す

寛永6年3月 京都に交代することをゆるされ江戸にとどまる

寛永8年 祖父曲直瀬正紹の遺跡を賜る。1200石

(寛永10年1月11日) (道三法印) ●「日記」

(寛永14年) 勘気を蒙る

寛永14年7月4日 尾紀両亜相水戸黄門登営是驢庵道三累日所献御薬御相応之間―


―被宥御勘発彼両輩調合之良薬被召上様ニト御訴訟云々 ●「日記」

寛永15年9月17日 ゆるされる

寛永15年9月17日 被赦御勘気被召出之 ●「日記」

寛永16年4月23日 死す
今川貞国 天正4年 生。左衛門。平右衛門。はじめ瀬名を称す
いまがわさだくに
瀬名伊予守氏明の次男
寛政譜2・237
養母は北条氏康の六女武田勝頼の室


母は今川氏真家臣葛山備中守氏元の女


母懐妊のときより武田勝頼室の養子となる

慶長8年 はじめて家康に拝謁。200石

元和元年~ 大番

(寛永13年3月25日) (瀬名平右衛門)(皆川山城守組) ●「日記」


大番を辞す。小普請

寛文4年2月15日 死す
今川直房 文禄3年 生。五郎。主膳。主膳正。刑部大輔。侍従。少将
いまがわなおふさ
左馬助範以の長男
寛政譜2・227
母は吉良上野介義安の女


妻は立花飛騨守宗茂の養女立花家臣矢嶋石見重成の女

慶長16年12月 はじめて秀忠に拝謁


祖父氏真の遺跡を継ぐ。500石

寛永13年12月29日 奥高家。従五位下・侍従・刑部大輔

寛永13年12月29日 侍従ニ被仰付也 ●「日記」

(寛永14年9月15日) (刑部大輔の初出) ●「日記」

正保2年10月17日 1000石

正保3年8月1日 従四位下

承応2年10月28日 少将

寛文元年11月24日
今城為尚 慶長9年2月20日 生。侍従。少将。中将。参議。中納言。はじめ冷泉を称すか
いまきためひさ
中山冷泉少将為親の長男
諸家伝下・977
母は五条中納言為経の女
宮廷公家系図集覧328 慶長16年12月29日 従五位下

慶長18年11月8日 元服。昇殿。侍従

元和元年1月5日 従五位上

元和4年1月5日 正五位下

元和5年12月15日 右少将

元和9年1月5日 従四位下

寛永3年12月1日 右中将

寛永5年1月7日 従四位上

寛永8年1月5日 正四位下

(寛永11年7月21日) (冷泉中将) ●「日記」

寛永12年1月5日 従三位

寛永18年1月5日 正三位

寛永18年12月28日 参議

寛永18年12月29日 参議を辞す

慶安2年2月30日 権中納言。帯剣

慶安2年4月1日 従二位

慶安2年4月24日 権中納言を辞す

寛文2年7月5日 薨去
今小路右近

いまこうじうこん


(寛永17年5月9日) (妙法院御門跡之内) ●「日記」



今小路宗賀 寛永9年 生。法橋
いまこうじそうが
法印宗光の男
地下家伝中・1539
妙法院門跡坊官
宮廷公家系図集覧683 (寛永17年5月9日) (妙法院御門跡之内今小路右近) ●「日記」

(寛永17年5月9日) (妙法院御門跡之内今小路民部) ●「日記」


得度

慶安4年3月2日 法橋

寛文2年7月2日 死す
今小路宗光
生。法橋。法眼。法印
いまこうじそうこう
法印行康の男
地下家伝中・1539
妙法院門跡坊官
宮廷公家系図集覧683
得度

元和8年3月19日 法橋

寛永5年1月11日 法眼

寛永7年2月4日 法印

寛永12年11月20日

(寛永13年5月6日) (妙法院御門跡内今小路大進法印) ●「日記」

(寛永13年11月20日) 卒か?
今小路大進法印

いまこうじだいじょうほういん
妙法院門跡堯然法親王の坊官

(寛永13年5月6日) (妙法院御門跡内) ●「日記」



今小路民部

いまこうじみんぶ


(寛永17年5月9日) (妙法院御門跡之内) ●「日記」



今田源太郎

いまだげんたろう 寛永13年6月6日 吉利支丹之宿仕候付て其身切腹子三人は斬罪被仰付 ●「日記」



今田源太郎子三人


寛永13年6月6日 吉利支丹之宿仕候付て其身切腹子三人は斬罪被仰付 ●「日記」



今出川経季 文禄3年11月20日 生。侍従。少将。中将。中納言。大納言。大将。右大臣。菊亭とも称す
いまでがわつねすえ
中納言季持の男
諸家伝上・298
母は中山大納言親綱の次女
宮廷公家系図集覧294 慶長3年12月24日 従五位下

慶長9年4月23日 侍従

慶長9年4月27日 元服。昇殿。禁色。従五位上

慶長12年5月13日 正五位下

慶長13年5月20日 従四位下

慶長16年4月21日 従四位上。左少将

慶長17年1月5日 正四位下

慶長17年12月7日 左中将

慶長18年1月6日 従三位

慶長19年1月11日 権中納言

元和2年1月5日 正三位

元和5年3月20日 権大納言

元和6年1月5日 従二位

寛永3年 高仁親王勅別当

寛永4年6月2日 所労により勅別当を辞す

寛永5年1月6日 正二位。権大納言を辞す

(寛永11年7月21日) (菊亭大納言) ●「日記」

寛永15年12月23日 還任。権大納言。右大将

寛永16年1月14日 権大納言・右大将を辞す

寛永16年8月7日 菊亭大納言儀可被相加伝奏 ●「日記」

寛永19年6月29日 院別当

承応元年2月9日 右大臣

承応元年2月9日 薨去
今中兵庫

いまなかひょうご (寛永12年6月14日) (松平安芸守家来) ●「日記」






今福勝正
生。治大夫。はじめ岩間を称す
いまふくかつまさ
岩間(今福)善九郎正明の男
寛政譜19・43
家光に仕える。先手与力

(寛永19年4月19日) (御切米八拾石) ●「日記」

(寛永19年4月19日) (河野権右衛門組) ●「日記」

寛永20年4月19日 只今迠之御番被成御免向後御役可被仰付之間可存其旨之由―


―小十人組御番所之次ニて老中被伝之 ●「日記」


国廻役

(万治元年) 死す
今村貞長
生。伝助。一時高木を称す
いまむらさだなが
伝四郎正長の次男
寛政譜13・380
妻は高木藤兵衛貞友の長女
寛政譜5・412 元和6年 はじめて秀忠に拝謁

寛永6年 家光に仕える。小姓組


書院番

寛永9年12月3日 廩米を賜る

寛永16年 高木藤兵衛貞友の養子となりその女を妻とする

寛永16年9月26日 高木藤兵衛養子仕度之由連々望之趣達御耳―


―心次第可仕 ●「日記」


実父正長のもとに帰る


以下不詳
今村正長 天正16年 生。伝四郎
いまむらまさなが
彦兵衛重長の長男
寛政譜13・380
母は平岩左馬介の女


妻は石川八左衛門重次の女


秀忠に仕える。書院番。(350石)

元和元年 大坂の役にて青山伯耆守忠俊に属す

元和元年 1350石

元和9年4月 使番

寛永3年 目付

寛永4年 父重長の遺跡を継ぐ。3600石。下田奉行

寛永9年12月3日 豆州下田之町被下置 ●「日記」

寛永10年2月14日 仮の長崎奉行

寛永10年2月14日 長崎之奉行 ●「日記」

(寛永12年12月15日) (伊豆国より参上) ●「日記」

承応2年2月25日 死す
今村正信
生。伝右衛門
いまむらまさのぶ
彦兵衛勝長の次男
寛政譜13・381
妻は松平庄右衛門昌利の女

~元和元年 家康に仕える

寛永2年9月2日 350石の朱印

~(寛永11年) 大坂鉄炮奉行。大坂金奉行

正保2年4月11日 死す
今村吉重
生。次郎四郎。半右衛門。九郎兵衛
いまむらよししげ
九郎兵衛吉正の養子。壺井金大夫永重の長男
寛政譜13・382
妻は布施孫兵衛重直の女

寛永16年9月26日 養父吉正の遺跡を継ぐ。1200石 ●「日記」共

寛永16年10月18日 はじめて家光に拝謁

寛永16年10月18日 今村九郎兵衛跡職養子半右衛門依被仰付今日御礼 ●「日記」

寛永17年3月19日 書院番 ●「日記」共

承応元年1月3日 同隊の牛込権兵衛重相に殺害される。断絶
今村吉正 永禄8年 生。九郎兵衛
いまむらよしまさ
次郎四郎吉久の男
寛政譜13・382 ~天正12年 家康に仕える


秀忠・家光に仕える。鎗奉行

寛永9年7月1日 足軽同心10人 ●「日記」

寛永9年11月20日 布衣 ●「日記」

寛永10年12月28日 五百石御加恩 ●「日記」

寛永16年8月4日 死す
入江則量
生。民部権少輔。民部権大輔
いりえのりかず
摂津守則昌の男(長男か)
地下家伝中・1230 慶長6年1月7日 従五位下。一条家諸大夫
宮廷公家系図集覧671
民部権少輔

元和元年1月5日 従五位上


正五位下

(寛永10年7月27日) (入江権之少輔) ●「日記」

(寛永10年7月27日) (知恩院の従者か?)

(寛永13年4月2日) (先摂政殿(一条昭良)御使者) ●「日記」


従四位下


民部権大輔


従四位上


正四位下

慶安4年10月27日
入江則具 慶長元年 生。三河権守。三河守
いりえのりとも
摂津守則昌の男(次男か)。もしくは民部権大輔則量の男
地下家伝中・1230 慶長18年12月15日 従五位下。三河権守。一条家諸大夫
宮廷公家系図集覧671
従五位上


正五位下


三河守

(寛永16年4月1日) (三河守) ●「日記」

寛永20年9月25日 従四位下

正保2年4月22日
入江春興
生。金左衛門。源兵衛
いりえはるおき
源蔵春正の養子。萩原市左衛門無重の八男
寛政譜14・222
妻は榊原式部大輔家臣来海助左衛門直昌の女

寛永15年12月2日 はじめて家光に拝謁

寛永15年12月2日 入江源蔵子初て御目見 ●「日記」


手鷹師

正保3年2月28日 養父春正の遺跡を継ぐ。現米80石

天和2年3月21日 手鷹師をゆるされる

(元禄8年) 死す
入江春正 慶長2年 生。源蔵
いりえはるまさ
源蔵春重の男
寛政譜14・222
母は藤沢氏


妻は河野新七郎通則の女


秀忠に仕える。手鷹師。現米80石

正保2年8月11日 死す
入来院重高
生。弥一郎。石見守。伯耆守
いりきいんしげたか
又六重時の養子。嶋津薩摩守義虎の五男
鹿児島県史別巻・88
妻は又六重時の女

(寛永17年3月15日) (松平薩摩守使者) ●「日記」

正保4年8月18日 死す
岩井与左衛門
具足師
いわいよざえもん (寛永16年4月30日) (御具足師奈良之岩井与左衛門) ●「日記」



岩城重隆 寛永5年 生。庄次郎。左京。伊予守。月峯
いわきしげたか
但馬守宣隆の長男
寛政譜8・348
母は真田左衛門佐幸村の女


室は佐竹左京大夫家臣佐竹源六郎義直の女


継室は本多淡路守重能の女

寛永11年3月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永17年8月15日 岩城但馬守息と佐竹修理家来但馬守弟之娘と縁辺望之義―


―心次第之由被仰出之 ●「日記」

明暦2年7月25日 父宣隆の家を継ぐ。出羽国由利亀田2万石

明暦2年12月26日 従五位下・伊予守

宝永元年2月18日 致仕。月峯と号す

宝永4年12月11日
岩城宣隆 天正12年 生。左兵衛。但馬守。観心
いわきのぶたか
修理大夫吉隆の養子。佐竹常陸介義重の四男
寛政譜3・74
母は伊達左京大夫晴宗の女
寛政譜8・348
室は多賀谷修理大夫重経の女


継室は真田左衛門佐幸村の女


多賀谷修理大夫重経の養子となり家を継ぐ

慶長7年 所領を没収される。佐竹家臣となる

寛永5年 長男重隆の陣代として岩城家を相続。出羽国由利亀田2万石

寛永5年9月19日 はじめて家光に拝謁

寛永11年12月29日 従五位下・但馬守

(寛永12年1月2日) (左兵衛) ●「日記」

(寛永12年6月30日) (但馬守の初出) ●「日記」

明暦2年7月25日 致仕。観心と号す

寛文12年8月27日
岩倉具起 慶長6年6月14日 生。侍従。少将。中将。参議。中納言
いわくらともおき
木工頭具尭入道寂菴の長男
諸家伝下・1024
母は園中将基継の女
宮廷公家系図集覧493
室は小倉少将季藤の女

元和5年10月2日 従五位下

元和6年閏12月22日 昇殿。侍従

元和8年1月11日 右少将

元和9年1月5日 従五位上

寛永4年1月5日 正五位下

寛永8年1月6日 従四位下

寛永9年1月11日 右中将

寛永12年1月5日 従四位上

寛永17年1月5日 正四位下

寛永19年1月5日 従三位

正保元年12月27日 参議

正保元年12月29日 右中将

正保2年4月17日 参議・右中将を辞す

正保4年12月7日 正三位

承応元年10月12日 従二位

承応元年11月30日 権中納言

明暦2年12月2日 権中納言を辞す

万治3年2月6日 薨去
岩下之房
生。市大夫
いわしたこれふさ 寛永9年
寛政譜20・377
鳥見役

(正保元年3月24日) (御鳥見) ●「日記」

某年 死す
石清水八幡宮
山城国
いわしみずはちまんぐう
単に「八幡」とある場合は石清水八幡宮を指すか



石清水八幡宮閼伽井坊
石清水八幡宮の社僧か?
―あかいぼう




石清水八幡宮一位坊

―いちいぼう


(寛永20年4月1日) (八幡宝蔵坊弟子) ●「日記」



石清水八幡宮河本坊
八幡宮か不明
―かわもとぼう




石清水八幡宮郷中惣代
八幡山下か?
―ごうちゅうそうだい




石清水八幡宮山上惣代

―さんじょうそうだい




石清水八幡宮山上惣中

―さんじょうそうちゅう




石清水八幡宮新善法寺
石清水八幡宮の別当か
―しんぜんぽうじ

古代豪族系図集覧213




石清水八幡宮善法寺
石清水八幡宮の法務・別当・検校。善法律寺
―ぜんぽうじ

古代豪族系図集覧214




石清水八幡宮瀧本坊

―たきもとぼう


寛永18年2月15日 次目ノ御礼 ●「日記」



石清水八幡宮田中坊

―たなかぼう
石清水八幡宮の社僧か?



石清水八幡宮豊蔵坊
宝蔵坊。豊倉坊
―ほうぞうぼう
石清水八幡宮の社僧か?



岩瀬氏勝 寛永2年 生。清助。吉左衛門
いわせうじかつ
吉左衛門氏次の長男
寛政譜15・221
母は植村帯刀泰勝の女


妻は片桐勝七郎貞晴の女

寛永13年11月24日 父氏次の遺跡を継ぐ。1500石

寛永13年11月24日 岩瀬吉左衛門千五百石子跡目被仰付之 ●「日記」

寛永13年12月21日 はじめて家光に拝謁

寛永13年12月21日 跡目之面々吉右衛門子岩瀬清介(御目見) ●「日記」

寛永19年6月20日 小姓組 ●「日記」共

明暦2年12月26日 1500俵

寛文8年12月15日 養子氏房に分知。1200俵

天和元年4月6日 使番

天和元年12月27日 布衣

天和2年7月2日 500石1200俵

貞享3年8月6日 留守居番

元禄8年6月28日 留守居番を辞す。寄合

元禄8年7月1日 死す
岩瀬氏忠 慶長7年 生。市兵衛。宗休
いわせうじただ
吉左衛門氏与の三男
寛政譜15・223
母は松平大隅守重勝の女


妻は数原清庵宗和の女


秀忠に仕える

元和9年1月3日 小姓組

元和9年12月25日 300俵

~寛永3年 書院番

寛永10年2月7日 500石

寛永20年8月30日 家綱に付属される。三丸に勤仕 ●「日記」共

慶安元年3月27日 小十人頭。三丸に伺候

慶安3年9月3日 西丸に勤仕

慶安4年6月14日 本丸に勤仕

慶安4年8月16日 布衣

慶安4年11月21日 500石300俵

万治2年6月23日 留守居番

延宝5年9月13日 留守居番を辞す。寄合

延宝7年11月27日 致仕。300俵。宗休と号す

貞享元年11月18日 死す
岩瀬氏次 文禄3年 生。清助。吉左衛門
いわせうじつぐ
吉左衛門氏与の長男
寛政譜15・221
母は松平大隅守重勝の女


妻は植村帯刀泰勝の女

慶長18年 父氏与の遺跡を継ぐ。1500石

元和4年4月 小姓組

寛永10年 大番


大番を辞す。小普請

寛永13年3月6日 死す
岩瀬権三郎
生。権三郎
いわせごんざぶろう
吉左衛門氏次の次男
寛政譜15・221 正保元年5月15日 御扶持方被下之 ●「日記」

某年 死す
岩田昌成
生。長右衛門。不人
いわたまさなり
仁左衛門正次の長男
士林泝洄3・79
菅沼家に仕える。朝比奈与右衛門の養子となる


養父与右衛門死去ののちその家を継がず退去


大坂の役にて菅沼織部に属す


28歳にて実父正次のもとに帰る。徳川義直に仕える。馬廻。250石


使番

寛永4年11月15日 城付。500石

寛永15年7月6日 徳川光友に仕える。傅役。1000石

慶安4年3月15日 1500石


致仕。不人と号す。月俸20口

寛文4年2月10日 長男昌風死去のため1500石

延宝2年10月2日 死す
岩手佐五右衛門
生。佐五右衛門
いわてさごえもん
佐五右衛門一信の長男か
寛政譜3・162
父一信の家を継ぐ。(200俵)


家光に仕える

正保3年2月10日 賄頭

慶安3年8月23日 西丸に勤仕

明暦3年12月25日 400俵

寛文3年12月26日 賄頭を辞す

延宝2年7月5日 遠流


以下不詳
岩出友忠 慶長7年 生。神祇大副。伊勢祭主。休岸
いわでともただ
祭主種忠の男
古代豪族系図集覧155 寛永元年1月6日 父種忠の職を継ぐ。伊勢祭主
神宮典略別・101 承応2年 勅勘を蒙る。流罪


出家。休岸と号す

寛文8年1月3日 死す
岩手信次
生。平左衛門
いわてのぶつぐ
佐五右衛門一信の次男か
寛政譜3・162
家光に仕える


大番か

(万治3年) 死す
岩手信久
生。平三郎。平十郎
いわてのぶひさ
平左衛門信次の長男
寛政譜3・162 正保元年11月10日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共


早世か
岩波道秀
生。七郎右衛門
いわなみみちひで
七郎右衛門道能の長男
寛政譜18・316
家光に仕える。関東の代官


綱吉に付属される。代官

延宝8年 徳松に付属される。西丸に勤仕。250俵

天和3年 徳松逝去ののち小普請

元禄6年12月6日 致仕


以下不詳
岩波道能
生。七郎右衛門
いわなみみちよし
七郎右衛門道定の男
寛政譜18・316
大久保石見守長安に属す

慶長18年 はじめて家康に拝謁


秀忠・家光に仕える。代官

某年 死す
岩坊法印

いわのぼうほういん
聖護院門跡道晃法親王の坊官



岩間勝直
生。清大夫
いわまかつなお 寛永7年
寛政譜19・316
表火番

寛永18年4月14日 火之番御役被仰付之是ハ此以前不念之儀有之て御役改之雖召上之―


―久々御奉公仕候者之儀ニ故元之ことく火之番ニ被召加之 ●「日記」

(慶安4年) 死す
岩間源太郎
八郎左衛門正成か
いわまげんたろう


寛永13年12月27日 大御番被仰付之 ●「日記」



岩間正次 文禄3年 生。九郎左衛門
いわままさつぐ
勘兵衛正時の長男
寛政譜15・225 慶長11年 家康に仕える


大番

慶長19年 大坂の役にて高木主水正正次に属す

元和元年 大坂の役にて高木主水正正次に属す

元和9年 駿府城番


徳川忠長に付属される

(寛永9年) 処士か

寛永11年 大番

(寛永13年3月25日) (大久保右京亮組) ●「日記」

寛永17年8月13日 死す
岩間正成 元和元年 生。八郎左衛門
いわままさなり
九郎左衛門正次の長男
寛政譜15・225
妻は牛込三右衛門俊重の女

寛永3年 はじめて家光に拝謁

寛永13年3月25日 岩間九郎左衛門子被召出之 ●「日記」

寛永13年3月25日 大久保右京亮組(大番) ●「日記」

寛永13年12月 大番

(寛永17年) 父正次の遺跡を継ぐ。(100俵)

延宝元年2月26日 天守番頭

天和2年4月22日 200俵


200石

元禄2年閏1月23日 天守番頭を辞す。小普請

正徳元年5月23日 死す
岩間吉次
生。勘兵衛
いわまよしつぐ
勘兵衛正時の次男
寛政譜15・225 慶長19年11月18日 はじめて秀忠に拝謁


小十人。廩米を賜る

寛永9年8月25日 100俵加増


采地に改められる

寛永20年12月18日 采地を改めて廩米を賜る ●「日記」共

正保2年閏5月2日 家綱に付属される

慶安3年9月 納戸番


小普請

承応元年10月 召し預けられる


以下不詳
石見守

いわみのかみ


(寛永17年5月9日) (近衛左大将殿内) ●「日記」



寅外

いんがい
臨済僧か?



犬童半兵衛

いんどうはんびょうえ
相良家臣相良清兵衛の継子

(寛永17年9月5日) (私宅焼払自殺) ●「日記」



上杉定勝 慶長9年 生。玉丸。千徳。喜平次。弾正少弼。侍従。少将
うえすぎさだかつ
中納言景勝の男
寛政譜12・221
母は四辻大納言公遠の女


室は鍋嶋信濃守勝茂の長女

慶長15年 はじめて秀忠に拝謁

元和9年2月13日 従四位下・侍従・弾正少弼

元和9年5月16日 父景勝の遺領を継ぐ。出羽国米沢城30万石

寛永3年8月19日 少将

正保2年9月10日
上杉鶴松
生。国松。鶴松
うえすぎつるまつ
弾正少弼定勝の三男
寛政譜12・222
母は斎藤氏

寛永19年8月16日 上杉弾正少弼幼少子死去ニ付て愁傷可仕之旨上使―


―斎藤左源太被遣之 ●「日記」
上杉徳松
生。徳松
うえすぎとくまつ
弾正少弼定勝の長男
寛政譜12・222
母は鍋嶋信濃守勝茂の長女


早世

寛永16年2月15日 上杉弾正少弼息依死去為上使田中主殿頭被遣之 ●「日記」
上田玄蕃

うえだげんば
水野日向守勝成に仕える


水野美作守勝俊に仕える

(寛永16年12月1日) (水野美作守家老) ●「日記」



上田左太郎

うえださたろう
主水の男

(寛永13年9月28日) (松平安芸守家中証人上田主水子左太郎御礼申上) ●「日記」



上田重秀 文禄元年 生。六兵衛。主殿助
うえだしげひで
主水正重安の長男
寛政譜4・137
母は杉原伯耆守長房の女


浅野但馬守長晟に仕える

寛永9年3月 家光に拝謁。家光に仕える

寛永12年12月5日 5000石 ●「日記」共


致仕

寛文元年8月18日 死す
上田甚右衛門

うえだじんえもん
内藤左馬助政長の家老



上田善次郎

うえだぜんじろう 寛永9年8月23日 諸道具役人 ●「日記」






上田忠左衛門
生。忠三郎。忠左衛門。以心
うえだちゅうざえもん
惣左衛門の長男
士林泝洄4・585
徳川義直乳母の甥の故駿府にて召し出される


大坂の役にて五十人頭


小姓頭。大番頭。1500石

寛永15年 徳川光友に付属される。傅役。2500石

慶安3年 3000石


免職。寄合


致仕。以心と号す

(万治3年) 息正勝死去ののち3000石

寛文2年5月 死す
植田長四郎

うえだちょうしろう
能役者



上田備前守
主水正重安の次男重政か。寛政譜4・137
うえだびぜんのかみ
松平安芸守浅野光晟に仕える

(寛永12年6月14日) (松平安芸守家来) ●「日記」



上田元勝 慶長13年 生。万五郎
うえだもとかつ
万五郎元政の男
寛政譜4・140
母は花井勘三郎の女


妻は大岡忠右衛門忠世の女

寛永元年4月12日 大番

寛永2年9月2日 采地の朱印。(210石)


(310石)

寛永10年2月7日 (510石)

寛永19年10月8日 大番組頭

寛永19年10月8日 本多豊前守組大御番組頭 ●「日記」

慶安4年11月21日 (510石200俵)

寛文11年4月28日 死す
上田主水
甚右衛門重元の男重安か? 寛政譜4・137
うえだもんど
松平安芸守浅野光晟の家老



上近康
生。(左兵衛)。(将監)。越中守
うえちかやす
越後守近直の長男
地下家伝上・545
南都方楽人
宮廷公家系図集覧633 寛永 紅葉山楽人
うえの? (寛永17年8月7日) (左兵衛) ●「日記」

寛永19年8月27日 御切米八十石十五人扶持上将監従当年被下之 ●「日記」

寛永20年9月13日 従京都妻子引越付て小判三十両被下之 ●「日記」


越中守


従四位下


以下不詳
上野貞当 慶長18年 生。宗八郎。八郎左衛門。阿波守
うえのさだまさ
石川主殿頭忠総の四男
寛政譜3・12
母は堀尾帯刀可晴の女


妻は鷲尾大納言隆量の女


外祖母の家号上野を称す

寛永9年 書院番

寛永10年2月7日 200石

寛永13年10月28日 書院番。進物役

寛永13年10月28日 御進物番 ●「日記」

寛永15年5月8日 書院番組頭 ●「日記」共

寛永16年12月30日 布衣 ●「日記」共

寛永17年10月16日 書院番頭

寛永17年10月16日 御書院番之番頭被仰付之中根大隅守元組也 ●「日記」

寛永18年1月2日 従五位下・阿波守

寛永18年1月2日 諸大夫 ●「日記」

(寛永18年4月17日) (阿波守の初出) ●「日記」

寛永19年12月15日 2000石 ●「日記」共

慶安元年10月27日 家綱に付属される。大番頭。西丸に伺候

慶安4年4月4日 父忠総の遺領分知。7000石

承応2年6月29日 死す
植村家貞 元和4年 生。右衛門。右衛門佐
うえむらいえさだ
出羽守家政の三男
寛政譜5・175
母は植村土佐守泰忠の女


室は織田刑部大輔信則の女


継室は井上河内守正利の女

寛永9年8月15日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永10年7月2日 縁辺組 ●「日記」

寛永13年12月29日 従五位下・右衛門佐

寛永13年12月29日 諸大夫ニ被仰付之 ●「日記」

慶安3年11月11日 父家政の遺領を継ぐ。大和国高取城2万5000石

万治元年7月7日 弟大膳政春に分知。大和国高取城2万2000石

貞享4年8月25日 致仕

元禄3年4月14日
植村家政 天正17年 生。幸千代。新六郎。志摩守。出羽守
うえむらいえまさ
新六郎家次の長男
寛政譜5・174
母は蘆田右衛門佐信蕃の女


室は植村土佐守泰忠の女

慶長4年 家康に拝謁。父家次の遺跡を継ぐ。500石


秀忠に付属される。小姓

慶長13年 徒頭。従五位下・志摩守

元和元年 1500石


出羽守

寛永2年 家光に付属される。大番頭。5000石

寛永10年4月23日 9000石

寛永10年4月23日 4000石御加恩 ●「日記」

寛永17年10月19日 大和国高取城2万5000石。大番頭をゆるされる ●「日記」共

慶安3年閏10月23日
植村直宗
生。権兵衛。備前守
うえむらなおむね
新六郎家次の次男
寛政譜5・175 元和元年 大坂の役に従う

元和2年9月15日 家光に付属される


勘気を蒙る。松平丹波守康長に召し預けられる。信濃国松本に蟄居

寛永18年4月10日 松本ニ御預之植村備前死去之由堀田加賀守依言上―


―為検使土屋忠兵衛被遣之 ●「日記」
植村則泰 寛永8年 生。数馬。権右衛門。半助
うえむらのりやす
平右衛門政泰の男
寛政譜5・184
妻は菅谷紀八郎範重の女

寛永13年11月24日 父政泰の遺跡を継ぐ。300石

寛永13年11月24日 植村平右衛門三百石は子跡目被仰付之 ●「日記」

正保4年4月 大番

慶安元年6月14日 新番

延宝3年9月6日 新番組頭

延宝3年12月21日 300石100俵

天和2年4月21日 600石100俵

天和2年9月14日 桐間番

天和3年4月4日 二丸留守居

元禄5年12月15日 二丸留守居をゆるされる。寄合

元禄9年4月10日 死す
植村正景 元和7年 生。五郎八
うえむらまさかげ
五郎右衛門正次の三男
寛政譜5・191
母は天野麦右衛門の女

寛永19年6月26日 御書院御番 ●「日記」

寛永20年6月16日 書院番

正保2年12月28日 300俵

慶安元年3月25日 綱吉に付属される。抱守

慶安元年9月25日 三丸徒頭


神田館用人


1000石


1700石

延宝8年 徳松に従う。西丸に伺候

天和元年3月20日 2000石

天和3年 徳松逝去ののち小普請

貞享元年7月19日 致仕。200俵

貞享4年6月2日 死す
植村正相 慶長4年 生。庄次郎。庄右衛門。三郎右衛門
うえむらまさすけ
叔父庄之助正朝の嗣。庄蔵正元の男
寛政譜5・187
妻は永井与次郎吉次の女

慶長14年 はじめて秀忠に拝謁

(慶長16年) 叔父正朝の遺跡を継ぐ。330石

元和3年 大番

寛永10年2月7日 530石

寛文元年10月12日 新番


新番を辞す。小普請

寛文10年3月25日 死す
植村正次 天正18年 生。五郎右衛門
うえむらまさつぐ
庄右衛門正勝の三男
寛政譜5・190
母は小林平左衛門重次の女


妻は天野麦右衛門の女

~慶長19年 秀忠に仕える


家光に仕える。大番。250石


大番組頭

寛永10年12月19日 550石

寛永10年12月19日 大番組頭御加増被下之三百石 ●「日記」

慶安元年4月4日 先鉄炮頭

慶安元年12月30日 布衣

慶安4年11月21日 550石300俵

寛文元年11月21日 先鉄炮頭を辞す。寄合

寛文12年12月27日 死す
植村正信
生。三四郎
うえむらまさのぶ
五郎右衛門正次の次男
寛政譜5・190
母は天野麦右衛門の女


妻は鈴木清左衛門の女

寛永13年9月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永13年12月21日 初て御目見 ●「日記」

寛永13年12月27日 大番。200俵

寛永13年12月27日 植村三九郎大御番被仰付之 ●「日記」三四郎の誤読か

寛文12年6月20日 死す。断絶
植村政春 元和7年 生。(右馬介)。市丞。大膳。志摩守
うえむらまさはる
出羽守家政の四男
寛政譜5・179 寛永12年12月15日 はじめて家光に拝謁

寛永12年12月15日 植村出羽守二番目子太刀目録を以御目見 ●「日記」

寛永13年12月27日 植村右馬介御書院御番被仰付之 ●「日記」

寛永14年1月 書院番

(寛永16年12月13日) (市丞の初出) ●「日記」

寛永16年12月13日 300俵 ●「日記」共

慶安3年9月3日 西丸に勤仕


本丸に勤仕

承応元年6月26日 書院番。進物役

万治元年7月7日 兄右衛門佐家貞より分知。3000石

万治2年2月23日 書院番組頭

万治2年12月28日 布衣

寛文元年11月11日 小姓組番頭

寛文元年12月28日 従五位下・志摩守

寛文9年9月11日 書院番頭

寛文10年7月9日 しばらく拝謁をはばかる

寛文11年5月3日 病により書院番頭を辞す

寛文11年5月15日 死す
植村正寿 元和9年 生。才蔵。庄右衛門
うえむらまさひさ
三郎右衛門正相の長男
寛政譜5・187
妻は越智弥三右衛門吉次の女

寛永9年 はじめて家光に拝謁

寛永18年 大番

寛永20年12月18日 大御番無足当年より御切米弐百俵被下之 ●「日記」


新番

寛文10年7月8日 父正相の遺跡を継ぐ。530石


新番を辞す

天和3年5月11日 死す
植村政泰 慶長5年 生。主水。平右衛門
うえむらまさやす
土佐守泰忠の次男
寛政譜5・184
母は本多出雲守の女

元和6年 はじめて秀忠に拝謁

元和6年 家光に付属される。小姓

元和9年 300俵


書院番


大番

寛永9年 500石

寛永13年2月28日 死す
植村泰勝
生。帯刀。主膳正。(帯刀)
うえむらやすかつ
二位法印泰忠の長男
寛政譜5・181
妻は本多内記の女

慶長元年 はじめて家康に拝謁

慶長5年 岐阜城攻めにて本多忠勝に属す

慶長7年 秀忠に付属される。父泰忠と同じく上総国勝浦に住す


父泰忠の遺跡を継ぐ。5000石

元和5年 大番頭

元和5年12月 従五位下・帯刀

寛永10年4月23日 9000石

寛永10年4月23日 4000石御加恩 ●「日記」

寛永11年12月20日 死す
植村泰朝 慶長8年 生。左京。土佐守。長門守。帯刀
うえむらやすとも
帯刀泰勝の長男
寛政譜5・181
母は本多内記の女


妻は内藤紀伊守信正の女

慶長18年 はじめて秀忠に拝謁

寛永9年12月6日 従五位下・土佐守

寛永9年12月6日 諸大夫 ●「日記」

(寛永11年7月18日) (長門守の初出) ●「日記」

寛永12年 父泰勝の遺跡を継ぐ。9000石。寄合

寛永12年2月15日 継目之御礼 ●「日記」

(寛永19年4月23日) (帯刀) ●「日記」

正保2年6月28日 大番頭

寛文3年6月3日 大番頭を辞す

寛文3年8月14日 死す
右京大夫

うきょうのかみ
八条宮智忠親王の殿上人






右近(神田)

うこん (寛永15年12月28日) (神田神主右近) ●「日記」






右近(日御碕)

うこん (寛永11年4月28日) (日御碕社家) ●「日記」



宇佐美長次 寛永9年 生。権之助。五左衛門。助右衛門
うさみながつぐ
助右衛門長歳の養子。西川清左衛門正栄の長男
寛政譜14・271
妻は落合久太郎安吉の女

寛永15年12月21日 養父長歳の遺跡を継ぐ。現米80石

寛永15年12月21日 米八十石助右衛門跡目 ●「日記」

慶安元年12月2日 大番

元禄11年6月18日 大番を辞す。小普請

正徳4年6月7日 死す
宇佐美長歳 慶長14年 生。助右衛門
うさみながとし
助右衛門長元の男
寛政譜14・270
母は綾井卜意の女

元和元年12月7日 はじめて家康に拝謁


家光に付属される。大番。現米80石

寛永12年 死す
うち
くじ?
うじ


(寛永18年6月13日) (天樹院の侍女か) ●「日記」



牛奥昌茂
生。甚之丞
うしおくまさしげ
織部昌次の長男
寛政譜3・334
母は北条家臣禰津美濃守の女


妻は長尾藤四郎景継の女


家康に仕える。200石。大番

元和元年~ 徳川忠長に付属される

寛永9年~ 家光に仕える。大番。200石

寛永13年7月6日 死す
牛奥昌次
生。斧熊。太郎右衛門
うしおくまさつぐ
太郎右衛門昌成の男
寛政譜3・331
母は牛奥与三左衛門昌茂の女


秀忠に仕える

(元和6年) 父昌成の遺跡を継ぐ。350石


大番


大番を辞す。小普請

寛永19年2月23日 死す
牛奥昌時
生。長吉。新五左衛門
うしおくまさとき
太郎右衛門昌次の長男
寛政譜3・331
妻は揖斐半右衛門政軌の女

寛永19年11月12日 父昌次の遺跡を継ぐ。350石

寛永19年11月12日 御旗本衆令死去跡被下之但自分之知行御切米何も上 ●「日記」

承応元年12月 大番

延宝3年8月14日 金奉行

延宝5年2月10日 死す
牛奥昌久
生。九郎兵衛。甚左衛門
うしおくまさひさ
甚之丞昌茂の長男
寛政譜3・334
母は長尾藤四郎景継の女

寛永13年11月24日 父昌茂の遺跡を継ぐ。200石

寛永13年11月24日 牛奥甚丞弐百石子跡目被仰付之 ●「日記」

寛永13年12月21日 はじめて家光に拝謁

寛永13年12月21日 跡目之面々(御目見) ●「日記」


大番

寛永20年10月21日 家綱に付属される。三丸番

寛永20年10月21日 従大御番被召出三丸御番被仰付之 ●「日記」

慶安元年閏1月9日 死す
牛尾四郎左衛門

うしおしろうざえもん
松平石見守池田輝澄に仕える

(寛永17年7月26日) (松平石見守家来) ●「日記」

寛永17年7月26日 初仙石越前守御預追放 ●「日記」



牛込重相 元和4年 生。権兵衛
うしごみしげすけ
三右衛門俊重の長男
寛政譜14・46
母は田付兵庫景治の女

正保元年6月16日 書院番 ●「日記」共

承応元年1月3日 同隊の今村九郎兵衛吉重を殺害して死す
牛込俊重 文禄4年 生。伝左衛門。三右衛門
うしごみとししげ
三右衛門勝重の男
寛政譜14・46
母は遠山丹波守の女


妻は田付兵庫景治の女


後妻は大河内善左衛門正澄の女

慶長15年 はじめて秀忠に拝謁

~元和元年 大番

元和2年9月15日 徳川忠長に付属される。目付

(寛永9年) 処士

寛永13年12月10日 赦免 ●「日記」共

寛永15年12月23日 小姓組。500石

寛永15年12月23日 駿河衆牛込伝左衛門御小姓組御番可仕之 ●「日記」

寛文4年7月1日 死す
牛込天神
江戸牛込
うしごめてんじん




牛田友氏
生。甚五兵衛
うしだともうじ
甚右衛門茂氏の男
寛政譜19・230
家光に仕える。徒目付

(寛永17年5月6日) (御歩行目付) ●「日記」

(寛文2年) 死す
臼杵正次 慶長17年 生。弥左衛門。はじめ寺尾を称す
うすきまさつぐ
与兵衛正俊の次男
士林泝洄2・236
徳川義直に仕える。小姓


長囲炉裏頭。小姓頭。400石

(寛永17年10月9日) (寺尾弥左衛門) ●「日記」


病により辞職。寄合


月俸30口

延宝6年6月16日 死す
宇多内蔵丞

うだくらのじょう


(寛永17年5月9日) (実相院御門跡之内) ●「日記」



内田宗春 元亀3年 生。元庵。元安
うちだそうしゅん
左京亮の養子。もしくは黙庵寿恩の男
寛政譜16・80
翠竹院道三に師事


延寿院道三に医書を学ぶ


小早川秀秋に仕える


処士


家光に仕える

寛永15年12月1日 100俵月俸10口

寛永15年12月1日 先年被召出医師元安御切米百俵拾人扶持被下之 ●「日記」


300俵

明暦3年1月29日 死す
内田千里 文禄元年 生。玄勝。大蔵卿。薬樹院。法眼。法印
うちだちさと
元安宗春の男
寛政譜16・80 寛永元年12月 徳川忠長に付属される。医師。法眼

(寛永9年) 勘気を蒙る。蟄居

~慶安4年 赦免

寛文3年12月26日 500俵

寛文5年12月28日 法印


禁裏より薬樹院の号を賜る

延宝5年11月7日 致仕

天和元年9月29日 死す
内田弘綱
生。六之丞。助之丞。勘右衛門
うちだひろつな
勘右衛門正弘の長男
寛政譜16・78
母は森川助左衛門長次の女

寛永12年3月 家光に拝謁

寛永13年 大番

寛永14年11月25日 父正弘の遺跡を継ぐ。160俵余

寛永14年11月25日 百六拾四俵内田勘右衛門跡実子六之丞 ●「日記」

慶安元年9月25日 綱吉に付属される。三丸に伺候


神田館に勤仕

寛文元年6月28日 死す
内田正友 元和4年 生。勝之助。勘兵衛
うちだまさとも
平左衛門正世の三男
寛政譜16・75
母は小川三益の女

寛永10年2月15日 はじめて家光に拝謁

寛永11年2月15日 内田平左衛門子初て御目見 ●「日記」

寛永14年 父正世の采地を賜る。500石。小普請

寛永14年12月14日 平左衛門遺跡五百石之知行二番子勘兵衛ニ被下之 ●「日記」

寛文3年9月27日 死す
内田正信 慶長18年 生。権九郎。信濃守
うちだまさのぶ
平左衛門正世の次男
寛政譜16・71
母は小川三益の女


室は酒井右近大夫直次の養女酒井家臣高力但馬一成の女

元和7年 はじめて家光に拝謁

寛永7年 家光に仕える

寛永9年12月3日 300俵 ●「日記」共

寛永12年12月21日 奥小姓 ●「日記」共

寛永12年12月30日 父正世の采地を賜る。800石

寛永12年12月30日 内田平左衛門八百石之知行世忰権九郎ニ被仰付 ●「日記」

寛永13年6月4日 手水番 ●「日記」共


仰せにより婚姻あり

寛永14年12月14日 1800石 ●「日記」共

寛永15年6月29日 従五位下・信濃守

寛永15年6月29日 諸大夫 ●「日記」

(寛永16年11月10日) (信濃守の初出) ●「日記」

寛永16年11月10日 1万石 ●「日記」共

寛永16年11月11日 小姓組番頭

寛永16年11月11日 御小姓組之頭 ●「日記」

慶安2年8月11日 1万5000石。御側出頭を兼ねる


下野国鹿沼1万5000石

慶安4年4月20日 殉死
内田正弘
生。八兵衛。勘右衛門
うちだまさひろ
蔵人の男
寛政譜16・78
妻は森川助左衛門長次の女

~元和2年 家康に仕える。小十人。100俵

寛永3年~ 鉄炮薬込役


納戸番


160俵余

寛永14年6月19日 死す
内田正世 天正7年 生。新五郎。平左衛門
うちだまさよ
平右衛門正成の男
寛政譜16・71
妻は小川三益の女

文禄2年 秀忠に拝謁。小姓


納戸頭


800石


品川御殿を預かる


務めをゆるされる。夜話の席に伺候


営中での頭巾着用をゆるされる

(寛永9年6月11日) (咄衆) ●「日記」

(寛永12年9月6日) (筒井内蔵御前ニ出是累年雖為御納戸頭内田平左衛門―


―依別役被仰付之内蔵一人可為進退之旨去比被仰出之付て―


―今日御礼申上) ●「日記」

寛永12年12月30日 長男正信に800石を相続。500石

寛永12年12月30日 八百石之知行世忰権九郎ニ被仰付―


―自分品川御茶屋之近所ニて五百石被下之 ●「日記」

寛永14年10月1日 死す
内山氏利
生。三之丞
うちやまうじとし
彦右衛門光氏の男
寛政譜22・171
鳥見役

寛永15年12月18日 御扶持方五人扶持被下之 ●「日記」


以下不詳
内山七郎兵衛

うちやましちろうびょうえ


(寛永19年12月10日) (御台所衆) ●「日記」

寛永19年12月10日 三十俵弐人扶持 ●「日記」



内山永明
生。七兵衛
うちやまながあきら
左京吉明の養子。安間三右衛門国重の男
寛政譜4・184
母は左京吉明の長女


妻は安藤対馬守家臣湯浅与左衛門の女


養父吉明とともに徳川忠長に仕える

(寛永9年) 処士。上野国藤岡に住す。月俸を賜る

寛永16年 家光に仕える。天守番

寛永18年11月15日 100石50俵

寛永18年11月15日 芦田武川衆十八人駿州ニて之本知并御切米如前々被下之 ●「日記」

正保3年5月2日 死す
宇都野正氏
生。金十郎。作之丞
うつのまさうじ
作右衛門正信の長男
寛政譜12・54
母は大井庄兵衛昌次の女

元和7年 秀忠に仕える。大番。150俵

寛永10年2月7日 350石

寛永20年6月8日 死す
宇都野政忠
生。宇右衛門。作之丞
うつのまさただ
作之丞正氏の男
寛政譜12・54
妻は恒岡新左衛門資久の女

寛永20年12月7日 父正氏の遺跡を継ぐ。350石。小普請

寛永20年12月7日 三百五十石作之丞跡 ●「日記」

慶安元年11月 大番

延宝5年4月21日 広敷番頭

天和2年4月22日 350石200俵

元禄7年5月7日 広敷番頭を辞す

元禄10年7月26日 550石

宝永4年12月20日 死す
宇都宮
下野国宇都宮。宇都宮二荒山神社か
うつのみや




宇津孫右衛門

うづまごえもん
松平石見守池田輝澄に仕える

(寛永17年7月26日) (松平石見守家中) ●「日記」

寛永17年7月26日 父子共死罪 ●「日記」



打越清二郎
次右衛門光種か? 寛政譜4・80
うていちせいじろう (寛永11年5月14日) (御膳奉行) ●「日記」

寛永11年5月14日 御加恩弐百石 ●「日記」



打越主殿

うていちとのも
津軽土佐守信義に仕える

(寛永13年11月21日) (津軽土佐守家老) ●「日記」

寛永13年11月21日 追放 ●「日記」
打越光久
生。左近
うていちみつひさ
左近光隆の長男
寛政譜4・80 (慶長14年) 父光隆の遺跡を継ぐ。出羽国矢嶋3000石

寛永11年8月7日 死す
鵜殿氏次
生。三郎兵衛
うどのうじつぐ
惣右衛門氏信の次男
寛政譜18・164 寛永19年6月26日 大番 ●「日記」共

正保元年12月25日 200俵 ●「日記」共

慶安2年 死す
鵜殿氏信
生。新七郎。惣右衛門
うどのうじのぶ
石見氏長の養子。小笠原藤右衛門の男
寛政譜18・163
妻は大久保権右衛門忠為の女


家光に仕える

(寛永元年) 養父氏長の采地を賜る。書院番

慶安元年4月1日 大番組頭


大番組頭を辞す。小普請

寛文11年 死す
鵜殿大学
生。大学
うどのだいがく
惣右衛門氏信の長男
寛政譜18・163 寛永13年9月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共


以下不詳
鵜殿長興 元和2年 生。大学。又三郎。十郎左衛門
うどのながおき
新三郎長直の次男
寛政譜12・176
母は酒井佐大夫吉勝の女

寛永4年 はじめて家光に拝謁

寛永9年 小姓組。200石

寛永10年 書院番

寛永20年8月30日 家綱に付属される。三丸に伺候 ●「日記」共

慶安元年3月27日 三丸膳奉行

慶安3年8月30日 小納戸。200石200俵。西丸に勤仕

(慶安4年) 本丸に勤仕

万治3年12月1日 200石400俵

万治3年12月28日 布衣

寛文7年12月26日 200石600俵

延宝5年9月26日 留守居番

天和2年4月21日 700石600俵

貞享3年9月12日 留守居番を辞す。寄合

元禄4年12月2日 致仕。300俵

元禄8年2月3日 死す
鵜殿長定
生。亀之助。民部。大隅。藤馬
うどのながさだ
大隅長之の男
因府年表2・23
松平相模守池田光仲に仕える
因府年表4・59 (寛永17年3月15日) (民部の初出) ●「日記」
因府年表6・25 万治元年9月24日 父長之の遺跡を継ぐ
因府年表6・45 貞享2年2月30日 大隅と改名か
因府年表7・44 元禄10年2月27日 隠居。藤馬と号す
因府年表10・48 宝永2年8月30日 薙髪。長静と号す

享保5年6月10日 死す
鵜殿長堯 天正17年 生。藤右衛門もしくは藤助
うどのながたか
大隅長次の長男
寛政譜12・173 慶長18年 父長次の采地を賜る。500石。家康・秀忠に仕える。大番

寛永18年6月 死す
鵜殿長次 天文22年 生。藤助。藤右衛門。大隅
うどのながつぐ
藤助長忠の三男
寛政譜12・173
母は奥平監物貞勝の女


妻は鵜殿又三郎玄長の女


家康に仕える

天正11年 家康の次女督姫良正院の北条氏直への入輿に供奉

天正18年 北条氏直没落ののち秀忠に仕える。采地を賜る。大番組頭

文禄3年 督姫良正院の池田輝政への入輿に供奉

慶長18年 池田輝政死去ののち松平左衛門督池田忠継に付属される

(元和元年) 松平宮内少輔池田忠雄に仕えるか

(寛永9年) 松平相模守池田光仲に仕えるか

寛永13年2月27日 死す
鵜殿長富
生。惣十郎
うどのながとみ
新三郎長直の五男
寛政譜12・175
母は酒井佐大夫吉勝の女


家綱に仕える。伽

正保元年5月15日 月俸を賜る

正保元年5月15日 御扶持方被下之 ●「日記」

正保4年12月20日 300俵

明暦2年5月4日 中奥に伺候

明暦2年12月18日 死す
鵜殿長直
生。新三郎
うどのながなお
大隅長次の次男
寛政譜12・174
母は鵜殿又三郎玄長の女


妻は酒井佐大夫吉勝の女


秀忠に仕える。小姓組。500石

元和2年9月15日 家光に付属される。番士筆頭役

元和9年6月12日 小十人組の番頭。700石


小姓組組頭

寛永3年3月11日 目付


1000石

寛永10年2月22日 死す
鵜殿長正
生。八郎右衛門
うどのながまさ
大隅長次の三男
寛政譜12・179
母は鵜殿又三郎玄長の女

~元和元年 秀忠に仕える


勘気を蒙る


赦免


大番

寛永11年2月26日 此以前御勘当御赦免日来大御番勤仕 ●「日記」

寛永11年2月26日 200俵 ●「日記」共

正保元年3月2日 死す
鵜殿長之
生。虎之助。民部。大隅
うどのながゆき
大隅長次の四男
寛政譜12・173 寛永11年7月 家光に拝謁
因府年表2・22 寛永11年7月25日 御目見 ●「日記」

(寛永11年7月25日) (松平勝五郎家老) ●「日記」


松平相模守池田光仲に付属される

寛永13年12月21日 跡目之面々藤右衛門子鵜殿虎之介(御目見) ●「日記」

(寛永16年3月15日) (大隅の初出) ●「日記」

万治元年7月30日 死す
鵜殿長好 慶長18年 生。新左衛門。新三郎
うどのながよし
新三郎長直の長男
寛政譜12・175
母は酒井佐大夫吉勝の女


妻は坂上池院宗説の女


後妻は谷内蔵助衛行の女

寛永9年 小姓組

寛永10年11月30日 父長直の遺跡を継ぐ。1000石

寛永11年2月22日 鵜殿新三郎子継目之御礼 ●「日記」

(寛永18年10月19日) (新三郎の初出) ●「日記」

寛文6年8月24日 死す
鵜野吉右衛門

うのきちえもん


(寛永17年9月18日) (御台所人) ●「日記」

寛永17年9月18日 神谷又五郎鈴木喜左衛門ニ御預 ●「日記」



宇野主馬

うのしゅめ
随心院門跡増孝の家臣



右兵衛権之助

うひょうえごんのすけ
近衛信尋の殿上人






右兵衛佐

うひょうえのすけ
宝珠院(寧子)に仕える

(寛永17年5月26日) (高松殿御後室) ●「日記」



梅小路定矩 元和5年11月6日 生。左兵衛佐。左兵衛督。参議。中納言。大納言。常道
うめこうじさだのり
清閑寺内大臣共房の三男
諸家伝下・1077
母は摂津国平野庄光源寺智祐の女
宮廷公家系図集覧408 元和9年2月28日 従五位下

寛永10年12月24日 元服。昇殿。左兵衛佐。従五位上

(寛永11年7月21日) (院中) ●「日記」

寛永14年1月5日 正五位下

寛永18年1月5日 従四位下

正保2年10月18日 従四位上

慶安3年1月5日 正四位下

明暦元年10月26日 従三位。左兵衛督

万治3年12月24日 正三位

寛文9年12月27日 参議。左兵衛督

寛文10年7月22日 参議・左兵衛督を辞す

寛文12年1月14日 権中納言

寛文12年1月16日 帯剣

寛文12年5月26日 権中納言を辞す

寛文12年12月22日 従二位

天和2年1月5日 正二位

元禄元年5月17日 権大納言

元禄元年5月18日 権大納言を辞す

元禄元年5月19日 落飾。常道と号す

元禄8年11月28日 薨去
梅園実清 慶長14年9月16日 生。侍従。少将。中将。右兵衛督
うめぞのさねきよ
橋本左中将実勝の男
諸家伝下・947 元和9年2月13日 従五位下。元服
宮廷公家系図集覧295 寛永3年9月3日 侍従

寛永5年2月10日 従五位上

寛永8年1月12日 左少将

寛永11年1月6日 正五位下

寛永15年1月5日 従四位下

寛永17年1月11日 左中将

(寛永17年4月19日) (少将) ●「日記」

(寛永17年5月8日) (中将の初出) ●「日記」

寛永19年1月5日 従四位上

正保元年4月11日 去頃昵近被仰付御礼 ●「日記」

正保3年1月5日 正四位下

慶安4年1月5日 従三位

明暦元年10月26日 右兵衛督

明暦3年1月5日 正三位

寛文2年6月25日 薨去
埋忠彦次郎
明真入道彦左衛門家隆もしくはその男彦右衛門重長か
うめただひこじろう
刀工



梅渓季通 元和元年3月29日 生。勘解由次官。少将。中将。参議
うめだにすえみち
久我少将通世の次男
諸家伝下・1035 寛永元年4月16日 従五位下
宮廷公家系図集覧486 寛永6年1月14日 元服。勘解由次官。従五位上

寛永11年1月6日 正五位下

(寛永11年7月21日) (院中) ●「日記」

寛永15年1月5日 従四位下

寛永18年1月5日 従四位上

寛永20年11月4日 左権少将

正保2年1月6日 正四位下

正保2年1月12日 左権中将

承応元年11月12日 参議。左中将

承応3年1月5日 従三位

明暦元年5月18日 参議を辞す

万治元年2月2日 薨去
梅津外記

うめづげき
佐竹修理大夫義隆に仕える

(寛永17年3月15日) (佐竹修理大夫僕従) ●「日記」



梅原及可

うめはらきゅうか
商人か? 職人か?






梅若氏久
生。六郎。九郎右衛門
うめわかうじひさ
梅若大夫九郎右衛門氏盛の長男
能楽史話413
母は梅若喜兵衛景維の妹(梅津彦右衛門景直の女)


妻は山科四郎兵衛の妹

延宝8年8月22日 死す
梅若氏盛
生。九郎右衛門。梅若大夫
うめわかうじもり
梅若大夫広長の長男
能楽史話412
妻は梅若喜兵衛景維の妹(梅津彦右衛門景直の女)


観世座ツレ方


100石

寛文3年7月13日 死す
浦田蔵人

うらたくろうど


(寛永18年6月1日) (伊勢御師浦田蔵人慶光院甥也) ●「日記」



裏辻季福 慶長10年7月26日 生。侍従。少将。中将。参議
うらつじすえとみ
正親町少将季康の男
諸家伝下・945 元和5年1月6日 従五位下
宮廷公家系図集覧304 元和6年閏12月27日 元服。昇殿。侍従

元和9年1月5日 従五位上

寛永3年10月15日 左少将

寛永4年1月5日 正五位下

寛永8年1月6日 従四位下

寛永9年1月11日 中将

(寛永11年7月21日) (右中将) ●「日記」

寛永12年1月5日 従四位上

寛永16年4月1日 去年依属御加恩御礼 ●「日記」

寛永17年1月5日 正四位下

寛永19年12月23日 参議

寛永20年1月14日 参議。中将

寛永20年10月22日 従三位

正保元年9月2日 薨去
漆戸勘兵衛
勘左衛門正茂とも
うるしどかんびょうえ


(寛永20年8月26日) (南部山城守家来) ●「日記」






雲裔聖興
うんえいせいこう
東福寺勝林庵
宗派目子 (寛永8年4月17日) (万寿寺興西堂) ●「日記」
(金地院公文帳213)




雲光院 弘治元年2月13日 生。阿茶局。従一位。雲光院
うんこういん
武田家臣飯田筑後直政の女
幕府祚胤伝
神尾孫左衛門忠重に嫁ぐ
(徳川諸家系譜2・24) 天正2年 神尾刑部少輔守世を産む
寛政譜16・218 (天正5年7月15日) 夫忠重が死去

天正7年5月 家康に仕える。阿茶局と称す。以後所々の戦場に従う

天正12年 懐胎するも戦場にて流産

天正18年 隠密御用を奥より表へ伝達

慶長19年 大坂の役にて和議の使者をつとめる

元和2年~ 竹橋門内に屋敷を賜る。命により剃髪せず

元和7年6月18日 東福門院の入内に母代として従う。従一位

寛永9年1月 秀忠薨去により剃髪。雲光院と号す

寛永14年1月22日 逝去
運修寺
遠江国
うんしゅうじ







雲松院
うんしょういん
奥平大膳大夫家昌の女
幕府祚胤伝
母は本多中務大輔忠勝の次女
(徳川諸家系譜2・67) 慶長15年 秀忠の養女として堀尾山城守忠晴に嫁ぐ
寛政譜9・213 寛永10年 夫忠晴と死別。弟奥平美作守忠昌のもとに戻る

慶安3年10月26日
雲松院(小机)
武蔵国小机。曹洞宗
うんしょういん




雲祥寺
武蔵国騎西。曹洞宗
うんしょうじ


寛永19年7月6日 御朱印被下之 ●「日記」



うんてん
運天か




(正保元年6月25日) (琉球中山王使者馬上之従者黄はちまき) ●「日記」



海野小平次
五郎右衛門政次か?寛政譜11・68
うんのこへいじ
鳥見役か

(寛永13年8月23日) (御成之場役人) ●「日記」



海野昌重 慶長7年 生。藤兵衛
うんのまさしげ
新左衛門昌雪の三男
寛政譜11・66
母は馬場美濃守氏勝の女


妻は稲垣善右衛門政重の女

元和7年 はじめて家光に拝謁


小十人。100俵

寛永9年8月25日 200俵

寛永19年12月6日 納戸番 ●「日記」共

慶安2年1月27日 死す
海野政次
生。源十郎。五郎右衛門
うんのまさつぐ
新左衛門昌雪の次男
寛政譜11・68 元和3年


鳥見役

寛永15年12月18日 御切米五拾俵被増下都合百俵 ●「日記」


広敷添番

(寛文10年) 致仕か


以下不詳
海野幸和
生。久五郎。六左衛門
うんのゆきかず
藤兵衛昌重の男
寛政譜11・66
母は稲垣善右衛門政重の女


妻は小林十大夫重勝の女

正保元年5月27日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保元年6月30日 大番 ●「日記」共

慶安2年12月14日 父昌重の遺跡を継ぐ。200俵

寛文2年10月26日 納戸番

貞享元年8月18日 新番

貞享元年12月21日 250俵

宝永元年2月29日 死す
海野幸信
生。三右衛門
うんのゆきのぶ
三右衛門幸広の男
寛政譜11・67
父幸広の遺跡を継ぐ。鳥見役

寛永15年12月18日 海野三右衛門御切米三拾俵被増下都合八拾俵 ●「日記」

(延宝4年) 死す
海野幸広
生。新次郎。三右衛門
うんのゆきひろ
新左衛門昌雪の長男
寛政譜11・67 元和2年


鳥見役

寛永15年12月18日 海野三右衛門御切米三拾俵被増下都合八拾俵 ●「日記」


以下不詳
雲峰寺
甲斐国。臨済宗
うんぽうじ


(寛永19年7月6日) (恵林寺兼帯) ●「日記」

寛永19年7月6日 御朱印被下之 ●「日記」



雲林寺
遠江国。曹洞宗
うんりんじ




永岳寺
甲斐国。臨済宗
えいがくじ


寛永19年7月6日 御朱印被下之 ●「日記」



栄久院
生。栄久院
えいきゅういん
奥平美作守信昌の女
寛政譜9・213
母は家康の長女亀姫盛徳院
寛政譜11・382
大久保加賀守忠常に嫁ぐ


女子を産む。のちの里見安房守忠義の室


女子を産む。のちの本多淡路守重能の室


女子を産む。のちの片桐石見守貞昌の室

慶長9年 大久保加賀守忠職を産む

慶長16年10月10日 夫忠常が死去

寛永20年

寛永20年4月28日 大久保加賀守え右母義栄久院死去ニ付て為上使―


―佐々権兵衛被遣之 ●「日記」
栄厳 元和8年 生。随心院門跡。大僧正。東大寺別当
えいげん
九条関白幸家の四男
諸門跡譜
母は羽柴少将秀勝と崇源院の女天真院
(群書系図部集1・149) (寛永11年7月14日) (随心院殿御弟子九条前関白之息) ●「日記」
宮廷公家系図集覧253 (寛永11年7月21日) (随心院殿児) ●「日記」


随心院門跡


大僧正


東大寺別当

寛文4年閏5月10日 遷化
栄寿院 慶長3年 生。国姫
えいじゅいん
家康の養女本多美濃守忠政の長女
幕府祚胤伝
母は岡崎三郎松平信康の次女国姫妙光院
(徳川諸家系譜2・50) 慶長10年11月 家康の養女となり松平越後守堀忠俊に嫁ぐ
寛政譜11・218 慶長15年閏2月5日 夫忠俊が改易される。駿府に居住
寛政譜12・192 慶長15年11月1日 有馬左衛門佐直純に嫁ぐ


美濃国北方1000石

慶長18年 有馬左衛門佐康純を産む


女子を産む。のちの本多内記政勝の室


女子を産む。のちの本多内記政勝の養妹


女子を産む。のちの秋元越中守富朝の室


本多八兵衛純政を産む

寛永17年9月14日 有馬蔵人母儀え為仮粧田美濃ニて雖被下之於和州被替下之 ●「日記」

慶安2年2月29日 逝去
英勝院 天正6年 生。於八。於勝。於梶。英勝院
えいしょういん
太田新六郎康資の次女
幕府祚胤伝
母は北条左京大夫氏康の養女遠山丹波守直景の長女
(徳川諸家系譜2・23) 天正18年 家康に仕える。老女安西に属す。梶と称す
寛政譜4・373 慶長5年 関ケ原の役に従う。命により勝と称す
寛政譜13・95 慶長12年1月1日 市姫を産む。松平陸奥守伊達忠宗と縁組

慶長15年2月12日 市姫が早世

慶長15年7月 徳川頼房の准母となる

慶長15年8月 太田備中守資宗を養子とする

慶長16年4月 孝勝院を養女とする。松平陸奥守伊達忠宗と縁組

慶長19年 大坂の役に従う

元和元年 大坂の役に従う

元和2年4月 尼となる。英勝院と号す。江戸代官町に住す

寛永8年11月16日 清泰院を養女とする

寛永11年4月 玉峰院を養女とする。比丘尼として沙弥と称す

寛永11年6月 鎌倉に菩提寺の用地を賜る

寛永12年 養子太田資宗の千駄木の別邸に移る

寛永13年11月 鎌倉英勝寺が成り養女沙弥を住持とする。清因と称す

寛永19年8月23日 逝去

寛永19年8月23日 水戸黄門え為上使松平伊豆守被遣之是永正院依死去也 ●「日記」
英勝寺
鎌倉。浄土宗
えいしょうじ


寛永19年9月20日 鎌倉英勝寺之寺領先年三百石被下之畢今度為新加百弐十石―


―都合四百弐十石之御朱印被成下之 ●「日記」



頴娃長左衛門

えいちょうざえもん
松平大隅守嶋津光久に仕える

(寛永15年5月13日) (松平薩摩守家老) ●「日記」



栄伝

えいでん


正保元年3月9日 宇治被遣 ●「日記」



永平寺
越前国。曹洞宗
えいへいじ 寛永13年2月1日 後住之御礼去々年於京都雖被申上御当地へハ初て也 ●「日記」

寛永18年12月1日 継目之御礼 ●「日記」



栄与

えいよ


正保元年1月20日 御連歌連衆 ●「日記」



恵海
生。中将。恵海
えかい
日光東照宮別所大楽院2世

正保元年5月17日 大楽院弟子中将大僧正へ日来奉公仕ヨリテ大楽院後住被仰付之 ●「日記」









江川英利 寛永2年 生。孫左衛門。太郎左衛門
えがわひでとし
太郎左衛門英政の男
寛政譜5・380
母は榊原大内記照久の女


妻は大久保右京亮教隆の女

寛永10年 父英政の遺跡を継ぐ


伊豆国韮山代官

寛文6年8月21日 死す
江川英政 文禄4年 生。長蔵。太郎左衛門
えがわひでまさ
太郎左衛門英長の男
寛政譜5・380
妻は榊原大内記照久の女

(元和元年) 父英長の家を継ぐ。伊豆国韮山代官

寛永10年3月22日 死す
越渓義格
生。越渓義格。格長老。曹源院
えっけいぎかく
東福寺233世
五山伝 (寛永10年4月1日) (格長老) ●「日記」
(史籍集覧26・579) 慶安4年4月23日 遷化



榎並九兵衛

えなみくへえ
堺鉄砲鍛冶榎並九兵衛家
芝辻文書

(堺市史6・229)

(堺市史6・254)




榎並屋勘左衛門

えなみやかんざえもん
堺鉄砲鍛冶榎並勘左衛門家
芝辻文書

(堺市史6・229)

(堺市史6・254)




榎並屋勘兵衛

えなみやかんべえ
堺鉄砲屋



榎並屋次右衛門

えなみやじえもん
堺鉄砲屋



榎本勘助

えのもとかんすけ
鷹師

(寛永18年) 死す
榎本千助

えのもとせんすけ
勘助の男

寛永18年12月4日 弐百拾五石御鷹師榎本勘助跡右惣領千助ニ被下之 ●「日記」



江原宣全 元和元年 生。与右衛門
えはらのぶたけ
玄蕃金全の男
寛政譜15・293
妻は加々爪民部少輔忠澄の女

(元和3年) 父金全の遺跡を継ぐ。2020石

寛永2年~寛永16年 小姓組

慶安元年5月21日 小姓組。進物役

万治2年8月21日 使役

万治2年12月28日 布衣

寛文7年8月25日 死す
江原政全
生。孫六。孫兵衛
えはらまさたけ
孫大夫利全の三男
寛政譜15・299 ~慶長5年 秀忠に仕える。大番

慶長7年1月25日 300石

寛永10年2月7日 500石


(裏門切手番頭)

寛永14年9月18日 (御裏切手ノ)御番可致遠慮 ●「日記」

正保4年 死す
江原盛全 慶長12年 生。勘助。孫兵衛
えはらもりたけ
孫兵衛政全の男
寛政譜15・299
妻は大岡七右衛門義次の女


大番

寛永20年11月7日 新番 ●「日記」共

正保4年12月20日 父政全の遺跡を継ぐ。500石

延宝6年 死す
江原栄次
生。九郎右衛門
えはらよしつぐ
九郎右衛門生次の長男
寛政譜15・296 (寛永6年) 父生次の遺跡を継ぐ。200石

寛永16年4月16日 中奥の番士

寛永16年4月16日 中奥之御番 ●「日記」

正保3年5月3日 死す
江藤瑞哲
生。良元。良菴
えふじずいてつ
良菴宗元の男
寛政譜17・235 寛永12年11月15日 はじめて家光に拝謁

寛永15年12月6日 100俵月俸10口

寛永15年12月6日 先年被召出医師良安ニ百俵十人扶持被下之 ●「日記」

(寛永19年4月4日) ((良甫)右之小児医師并外科之輩妻子等引越ニ付て御暇被下之) ●「日記」

延宝6年 死す
江藤瑞哲子





(寛永19年4月4日) ((良甫)右之小児医師并外科之輩妻子等引越ニ付て御暇被下之) ●「日記」



江藤瑞哲妻





(寛永19年4月4日) ((良甫)右之小児医師并外科之輩妻子等引越ニ付て御暇被下之) ●「日記」



恵林寺
甲斐国。臨済宗
えりんじ


寛永19年7月6日 御朱印被下之 ●「日記」



円阿弥

えんあみ
塗師か






円覚寺
鎌倉。臨済宗
えんがくじ




円光院
甲斐国。臨済宗
えんこういん


寛永19年7月6日 御朱印被下之 ●「日記」



円光寺
京都伏見のち相国寺山内。臨済宗
えんこうじ 慶長6年 開山閑室元佶。開基徳川家康




寛永16年2月1日 寺領御判形頂戴之 ●「日記」

寛文7年 京都一乗寺に移転






円成寺
大和国忍辱山。真言宗
えんじょうじ




円盛院
生。勝
えんせいいん
本多中務大輔忠刻の女
寛政譜5・48
母は秀忠と崇源院との長女千姫天樹院
幕府祚胤伝 寛永5年1月 秀忠の養女として松平新太郎池田光政に嫁ぐ
(徳川諸家系譜2・69) 寛永15年 松平伊予守池田綱政を産む


女子を産む。のちの本多下野守忠平の室


女子を産む。のちに家光の養女として一条右大臣教輔に嫁ぐ


女子を産む。のちの榊原刑部大輔政房の室


女子を産む。のちの中川佐渡守久恒の室

延宝6年10月7日
円蔵院
甲斐国。臨済宗
えんぞういん


寛永19年7月6日 御朱印被下之 ●「日記」



円智院
えんちいん
藤堂和泉守高虎の養女。氏家源左衛門の女
宗国史下・453
生駒讃岐守正俊に嫁ぐ
寛政譜21・269 慶長16年 生駒壱岐守高俊を産む

慶安2年6月29日
遠藤重則 元和2年 生。善五郎。善九郎
えんどうしげのり
善九郎重次の養子。井上次郎兵衛憲勝の男。もしくは荒瀬権七の男
寛政譜15・247
母は某氏。もしくは遠藤八右衛門重直の女

(寛永3年) 養父重次の遺跡を継ぐ。230石

寛永10年5月 大番

寛永18年3月4日 死す

(寛永18年12月4日) (堀越中組) ●「日記」
遠藤常昭 寛永6年 生。大助
えんどうつねてる
但馬守慶利の次男
寛政譜9・129
母は板倉周防守重宗の女

寛永18年11月14日 家綱に付属される。小姓

寛永18年11月14日 遠藤但馬守二番子竹千代様え御小姓ニ被召出之 ●「日記」


廩米を賜る


小姓を辞す。小普請

正保3年11月12日 父慶利の遺領分知。2000石

延宝元年10月21日 致仕


兄備前守常友の所領美濃国郡上八幡に住す

元禄5年5月25日 死す
遠藤常友 寛永5年 生。岩松。内蔵助。備前守
えんどうつねとも
但馬守慶利の長男
寛政譜9・127
母は板倉周防守重宗の女


室は戸田采女正氏信の女

寛永12年3月28日 はじめて家光に拝謁

寛永12年3月28日 太刀目録を以御礼 ●「日記」

正保3年11月12日 父慶利の遺領を継ぐ。美濃国郡上八幡城2万4000石

正保3年12月30日 従五位下・備前守

延宝4年5月4日
遠藤憲政 寛永16年 生。善五郎
えんどうのりまさ
善九郎重則の男
寛政譜15・247 寛永18年12月4日 父重則の遺跡を継ぐ。230石。小普請

寛永18年12月4日 弐百丗石堀越中組遠藤善九郎跡右惣領善五郎ニ被下之 ●「日記」

万治3年5月 大番

寛文4年12月 大番を辞す

元禄14年5月14日 死す
遠藤泰信 慶長元年 生。与三郎。角左衛門
えんどうやすのぶ
与三郎宗泰の長男
寛政譜15・248
母は北条家臣石川惣左衛門の女


秀忠に仕える

(慶長7年) 父宗泰の遺跡を継ぐ。160石

(慶長19年) 手鷹師

(寛永10年2月21日) (御鷹師) ●「日記」

天和2年3月22日 手鷹師をゆるされる。小普請

天和3年12月21日 致仕

元禄元年4月21日 死す
遠藤慶隆 天文19年 生。三郎四郎。新六郎。六郎左衛門。左馬助。但馬守。旦斎
えんどうよしたか
六郎左衛門盛数の長男
寛政譜9・124
母は東下野守常慶の女


室は伊賀伊賀守範俊の女


継室は三木右兵衛督良頼の女


また継室は姉小路大納言自綱の女

永禄5年 父盛数の遺領を継ぐ。美濃国郡上八幡城。斎藤竜興に属す

永禄7年8月 織田右大臣信長に属す

天正11年 織田信孝に味方する

天正11年 秀吉に属す

天正15年 美濃国小原1万5000石


朝鮮の役にて織田中納言秀信に属す

慶長5年 家康に味方する

慶長5年11月 美濃国郡上八幡城2万7000石

慶長7年 美濃国郡上郡長尾村の銀山を領す

慶長9年 従五位下・但馬守

慶長18年 妻子を郡上より江戸に移す

寛永 恩許により参勤の往来に鉄炮5挺を備える

寛永9年1月 秀忠の薨去により剃髪。旦斎と号す

寛永9年3月21日
遠藤慶利 慶長14年 生。三郎四郎。内蔵助。伊勢守。但馬守。(伊勢守)
えんどうよしとし
但馬守慶隆の養子。三木右近大夫直綱の次男
寛政譜9・127
母は但馬守慶隆の女


室は板倉周防守重宗の女


慶隆の養子となる

慶長18年 はじめて家康に拝謁

寛永2年9月22日 従五位下・伊勢守

寛永9年8月26日 養父慶隆の遺領を継ぐ。美濃国郡上八幡城2万7000石

寛永9年8月26日 跡目 ●「日記」


但馬守

(寛永13年2月29日) (但馬守の初出) ●「日記」

(寛永13年12月8日) (伊勢守) ●「日記」

(正保元年5月4日) (弐万六千石) ●「日記」

正保元年5月4日 火消之役人之内就交替御暇被下面々依有之今日改被仰付之一番 ●「日記」

正保3年6月28日
円福寺
江戸愛宕山別当。真言宗
えんぷくじ
円満寺の誤りか?


京都。浄土宗か?


武蔵国。浄土宗か?

寛永15年12月28日 江戸円福寺後住依被仰付進物を以御礼 ●「日記」



円満院
真言宗。円満院門跡とは別か?
えんまんいん
江戸の東照社の社僧か



円満寺
播磨国。高野山真言宗か?
えんまんじ
円満院か? 近江国。天台宗



延命院(江戸浅草)
天台宗か
えんみょういん
浅草寺塔頭か

正保元年8月9日 浅草延命院家老大和内記不届之子細有之由今度延命院訴之趣重畳―


―被遂御穿鑿之訖両人事先師知楽院為蒙重恩族之間延命院可守立之処―


―不応彼進退就万端軽延命院儀曲事也且延命院私曲有之儀両人亦―


―可言上之段被仰付再三雖為御僉議無其儀也依之佐州へ被処流罪―


― ●「日記」

正保元年12月30日 院家 ●「日記」



延命院(江戸沼田)
江戸王子筋沼田。日蓮宗
えんみょういん


(正保元年3月13日) (王子筋沼田遠妙院) ●「日記」



延暦寺
近江国。比叡山。山門。天台宗
えんりゃくじ







延暦寺正善院

―しょうぜんいん







応昌
生。高野山文珠院
おうしょう
紀伊国那賀郡の人
高野山千百年史243
高野山文珠院勢誉に師事

慶長11年 勢誉に従い駿府に下向。家康の帰依を受ける


家康の命により本多佐渡守正信の猶子となる

慶長17年 勢誉入滅により高野山に帰る。高野山文珠院。興山寺3世

正保2年5月24日 遷化
近江局
生。近江局
おうみのつぼね
浅井備前守勝政の四女
寛政譜12・163
崇源院に仕える。近江局と称す


家綱に仕えるか






大井政景 文禄2年 生。新右衛門
おおいまさかげ
民部少輔政吉の長男
寛政譜4・69
母は柴田七九郎康忠の女


妻は中野七蔵重吉の女

慶長12年 火の番

~慶長19年 大番

寛永元年 小姓組

寛永3年 家光の上洛に供奉

寛永4年 父政吉の遺跡を継ぐ。1000石。徳川忠長に付属される

寛永9年 柴田筑後守康長に召し預けられる


池田出雲守長常に召し預けられる。備中国松山に赴く

寛永13年12月10日 ゆるされる ●「日記」共

寛永15年12月1日 1000石

寛永16年7月 小姓組

慶安3年12月15日 先鉄炮頭

慶安4年8月16日 布衣

承応元年9月28日 死す
大井昌輝 慶長10年 生。理兵衛
おおいまさてる
長右衛門昌義の養子。青木小右衛門正定の次男
寛政譜3・187
母は飯室次郎兵衛昌喜の女


妻は長右衛門昌義の次女

寛永13年12月27日 大番。200俵

寛永13年12月27日 大御番被仰付之 ●「日記」

承応2年閏6月19日 死す
大炊御門経孝 慶長18年12月14日 生。侍従。少将。中将。大納言。大将。内大臣。右大臣。左大臣
おおいみかどつねたか
左中将頼国の嗣。大納言経頼の次男
諸家伝上・354
母は吉良上野介義安の女
宮廷公家系図集覧333 慶長19年1月5日 従五位下

慶長20年1月5日 従五位上

元和2年1月5日 正五位下

元和3年7月3日 元服。禁色。昇殿。侍従

元和6年1月5日 従四位下

元和9年1月5日 従四位上

元和9年1月11日 左少将

寛永3年12月29日 正四位下・左中将

寛永8年1月6日 従三位・左中将

寛永10年10月10日 権中納言・左中将

寛永12年1月5日 正三位。白馬外弁

寛永13年 春日祭上卿参向

寛永16年 踏歌外弁

寛永17年1月5日 従二位

寛永17年12月25日 権大納言・左中将

(寛永18年10月3日) (大納言の初出) ●「日記」

寛永20年8月23日 権大納言・右大将

寛永20年9月7日 権大納言・右大将を辞す

正保4年1月5日 正二位

明暦2年6月1日 内大臣

明暦2年12月1日 辞退(内大臣?)

寛文3年2月6日 右大臣

寛文4年1月6日 従一位

寛文4年2月22日 右大臣を辞す

寛文10年4月7日 左大臣

寛文11年5月1日 左大臣を辞す

天和2年6月26日 薨去
大岩盛政
生。庄兵衛
おおいわもりまさ 元和9年
寛政譜20・318
徒組頭


鳥見役

寛永20年9月6日 御徒組頭大岩庄兵衛御鳥見被仰付候間在々所々可有之依為―


―作事料金子被下之 ●「日記」

(延宝5年) 死す
大岡清政 慶長3年 生。伝蔵。伝左衛門
おおおかきよまさ
伝右衛門清勝の長男
寛政譜2・102 慶長19年 はじめて秀忠に拝謁

元和元年 采地を賜る

(寛永元年) 父清勝の遺跡を継ぐ。1000石

寛永11年5月20日 大岡伝蔵次目之御礼 ●「日記」

~寛永16年 大番

(寛永16年2月15日) (伝左衛門の初出) ●「日記」

正保3年2月11日 大番組頭

明暦元年12月20日 死す
大岡金三郎

おおおかきんざぶろう


(正保元年10月15日) (御中間頭) ●「日記」



大岡忠章 慶長15年 生。兵蔵
おおおかただあき
美濃守忠吉の長男
寛政譜16・309
母は紀伊家臣加納平右衛門久利の女


妻は神尾備前守元勝の女

元和7年 はじめて秀忠に拝謁。御傍に勤仕

寛永6年 中奥に伺候

寛永7年 手水番

寛永7年 500俵

寛永10年 500石

明暦2年11月5日 父忠吉の遺跡を継ぐ。2000石

明暦3年11月10日 死す
大岡忠真 寛永14年 生。権四郎。忠右衛門
おおおかただざね
忠右衛門忠世の次男
寛政譜16・307
妻は伏見勘七郎為則の女


また大岡兵蔵忠章の女を娶る


また小沢次郎右衛門重長の女を娶る

寛永19年11月12日 父忠世の遺跡を継ぐ。920石

寛永19年11月12日 御旗本衆令死去跡被下之但自分之知行御切米何も上 ●「日記」

万治2年7月11日 書院番

延宝7年1月19日 徒頭

延宝7年12月28日 布衣

天和2年4月21日 1420石

元禄3年8月27日 先鉄炮頭

元禄7年8月28日 駿府定番。1920石

元禄9年2月5日 甥五左衛門忠英に連座して閉門

元禄9年12月9日 ゆるされる。なお拝謁をはばかる

元禄10年4月20日 ゆるされる

元禄13年4月10日 死す
大岡忠種 慶長16年 生。忠四郎。佐渡守
おおおかただたね
忠四郎忠行の養子。忠右衛門忠世の長男
寛政譜16・304
妻は浅井七平元吉の女

慶長19年 はじめて家康に拝謁

元和元年 養父忠行の遺跡を継ぐ。380石


大番

~寛永2年 430石

寛永10年2月7日 630石

寛永16年4月16日 中奥の番士

寛永16年4月16日 中奥之御番 ●「日記」

寛永16年6月21日 小納戸 ●「日記」共

慶安4年11月26日 二丸留守居

承応2年10月21日 徒頭

承応2年12月28日 布衣

明暦2年12月23日 630石300俵

万治元年9月1日 目付

万治3年5月1日 新番頭

寛文10年5月16日 大目付

寛文10年12月25日 630石1300俵

寛文10年12月28日 従五位下・佐渡守

天和元年4月13日 大目付を辞す

天和2年12月18日 致仕。300俵

貞享元年5月30日 死す
大岡忠房 寛永元年 生。三郎兵衛。七郎兵衛。はじめ三浦を称す
おおおかただふさ
美濃守忠吉の四男
寛政譜16・318
母は紀伊家臣加納平右衛門久利の女

寛永11年閏7月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共


小姓組


300俵

明暦2年11月5日 父忠吉の遺跡分知。300石


三浦を改めて大岡を称す

元禄元年11月26日 死す
大岡忠世 天正4年 生。忠右衛門
おおおかただよ
忠右衛門忠政の三男
寛政譜16・307
母は松平周防守松井康親の養女石川右馬允康正の女

慶長2年3月15日 はじめて家康に拝謁

~寛永2年 父忠政より分知。220石


大番


420石


大番組頭

寛永10年2月23日 920石

寛永17年12月28日 死す
大岡忠吉 天正15年 生。兵蔵。美濃守
おおおかただよし
忠右衛門忠政の四男
寛政譜16・309
妻は紀伊家臣加納平右衛門久利の女

慶長7年 はじめて家康に拝謁。近侍

慶長8年 160石


520石

(元和2年) 寄合

(寛永3年) 1500石

寛永8年4月10日 昵近

寛永8年4月10日 奥にて召し使われる ●「日記」

寛永10年2月19日 東福門院に付属される ●「日記」共

寛永10年2月19日 従五位下・美濃守。1800石

(寛永11年閏7月1日) (美濃守の初出) ●「日記」

寛永17年10月16日 与力5騎同心30人を預かる ●「日記」共

寛永20年8月30日 与力10騎同心60人を預かる

寛永20年8月30日 国母様え大岡美濃守与力五騎足軽三十人 ●「日記」


2300石

明暦2年4月16日 死す
大岡忠次郎
生。忠次郎
おおおかちゅうじろう 寛永8年4月10日 奥の小姓 ●「日記」

寛永10年12月20日 中奥御番 ●「日記」



大岡直次 元和8年 生。長十郎。宇右衛門
おおおかなおつぐ
金右衛門政直の養子。大岡二郎兵衛直政の四男
寛政譜16・321
母は矢部掃部定清の女


妻は金右衛門政直の女

寛永15年1月15日 大番 ●「日記」共

慶安4年12月11日 養父政直の遺跡を継ぐ。400石

万治2年2月11日 大番。蔵奉行


蔵奉行をゆるされる

延宝元年2月25日 大番組頭

延宝2年12月18日 400石200俵

天和2年4月22日 400石400俵

元禄5年6月25日 大番組頭を辞す。小普請

元禄10年7月26日 800石

正徳元年3月19日 死す
大岡義正
生。長十郎。吉兵衛
おおおかよしまさ
作左衛門義重の長男
寛政譜16・328
母は稲垣善右衛門政重の女


妻は多門平次郎正勝の女

寛永14年 大番


200俵

明暦2年2月27日 死す
大河仁兵衛

おおかわにひょうえ


寛永20年9月6日 御徒組頭大河仁兵衛御鳥見被仰付候間在々所々可有之依為―


―作事料金子被下之 ●「日記」






大河原正良 天正15年 生。権兵衛。源五左衛門。はじめ柴田を称す
おおかわらまさよし
外記正勝の長男
寛政譜15・289
母は永井惣四郎の女


妻は大久保相模守家臣杉浦平大夫久成の女

慶長6年 家康に仕える。小十人


納戸番

慶長19年 家康に命により大河原を称す

元和元年 家康に命により源五左衛門を称す

元和2年 腰物奉行。300石100俵

寛永11年5月14日 300石200俵

寛永14年3月16日 近侍

承応2年5月12日 死す
大木親精 元和2年 生。伊兵衛
おおきちかきよ
才兵衛親信の四男
寛政譜4・254
母は飯室金左衛門昌恒の女

寛永9年9月22日 家光に仕える。小十人。月俸10口


100俵。月俸10口

寛永19年12月16日 200俵。月俸10口

寛永19年12月16日 御加恩百俵被下之日来御切米共ニ弐百俵被仰付 ●「日記」

承応2年9月9日 死す
大木親茂
生。伝三郎。茂兵衛。才兵衛
おおきちかしげ
才兵衛親信の長男
寛政譜4・252
母は飯室金左衛門昌恒の女

元和9年 家光に仕える。小十人

寛永9年8月25日 加増あり。200俵

寛永15年9月23日 小十人組頭

寛永15年9月23日 小十人組之組頭 ●「日記」

正保3年12月4日 300俵

慶安4年12月11日 父親信の遺跡を継ぐ。100石200俵

万治元年4月2日 川船奉行

万治元年9月13日 死す
正親町実豊 元和5年12月8日 生。侍従。少将。中将。蔵人頭。参議。中納言。大納言。伝奏
おおぎまちさねとよ
兄侍従実興の嗣。正親町参議季俊の次男
諸家伝上・283
母は越前守源勝守の女
宮廷公家系図集覧304
室は藤谷中納言為賢の長女

元和7年1月5日 従五位下

寛永10年5月14日 元服。従五位上。侍従

寛永11年1月11日 右少将

寛永13年1月5日 正五位下

寛永16年1月5日 従四位下

寛永16年4月1日 継目之御礼 ●「日記」

寛永18年1月11日 右中将

寛永19年1月5日 従四位上

寛永20年1月5日 正四位下

寛永20年10月16日 蔵人頭。禁色

寛永20年12月28日 正四位上

正保元年12月19日 参議。右中将

正保3年1月5日 従三位

慶安2年1月5日 正三位

慶安2年7月28日 院司

承応元年11月12日 権中納言

明暦元年1月13日 直衣

明暦元年1月25日 従二位

明暦2年11月19日 権大納言

万治元年閏12月22日 権大納言を辞す

万治2年12月22日 正二位

寛文元年10月6日 武家伝奏

寛文10年9月12日 武家伝奏を辞す

元禄16年2月3日 薨去
正親町三条公高 元和5年8月27日 生。侍従。少将。中将。参議
おおぎまちさんじょう―
大納言太宰権帥実有の長男
―きんあきら
母は源実康の女
諸家伝上・222 元和6年1月5日 従五位下
宮廷公家系図集覧275 元和8年1月11日 侍従

元和9年1月5日 従五位上

寛永元年2月5日 元服。禁色

寛永4年1月5日 正五位下

寛永9年1月8日 従四位下。右少将

寛永11年7月14日 継目之御礼 ●「日記」

寛永12年1月5日 従四位上

寛永13年11月5日 右中将

寛永16年1月5日 正四位下

寛永16年閏11月17日 参議

寛永16年閏11月18日 参議。右中将

寛永16年閏11月24日 参議・右中将を辞す

寛永17年1月5日 従三位

正保元年8月12日 正三位

慶安元年9月28日 薨去
大草公継
生。次左衛門
おおくさきんつぐ
三河守公政の養子。大舘伊予守晴忠の次男
寛政譜16・334
母は大草三河守入道三入公重の次女


妻は大久保甚右衛門忠長の女


秀忠に拝謁


家光の抱守

元和2年12月 600石


膳奉行

寛永15年7月24日 死す
大草公利 慶長15年 生。大学。弥右衛門
おおくさきんとし
与六郎の長男
寛政譜16・337
妻は能勢小十郎頼隆の女

元和3年 家光に近侍

元和4年 月俸10口

元和6年 秀忠に仕える

元和9年12月 家光に仕える。手水番。200俵

寛永元年 小姓。中奥に伺候。300俵

寛永5年 500俵

寛永9年 小姓組

寛永10年2月7日 700石

寛永10年12月20日 中奥に伺候

寛永10年12月20日 中奥御番 ●「日記」

寛永11年 小納戸

慶安元年 小姓組


小姓組を辞す。小普請

延宝7年6月23日 死す
大草高盛 寛永元年 生。千松。主膳。主膳正
おおくさたかもり
七兵衛高正の男
寛政譜16・338
母は堀田勘左衛門正吉の女


妻は鳥居久大夫成勝の女

寛永元年 父高正の遺跡を継ぐ。700石

寛永5年 はじめて家光に拝謁

寛永7年 小姓

寛永16年12月26日 御膳番 ●「日記」

寛永20年12月29日 従五位下・主膳正

寛永20年12月29日 諸大夫 ●「日記」

(正保元年12月8日) (主膳正) ●「日記」

正保4年10月3日 徒頭

~慶安2年 1500石

慶安4年4月 日光山へ家光の霊柩に従う

万治元年3月27日 小姓組番頭

万治元年閏12月25日 1500石1000俵

天和2年4月21日 2500石1000俵

貞享4年6月6日 小姓組番頭を辞す

貞享4年6月7日 死す
大草正信 慶長12年 生。太郎馬。太郎左衛門
おおくさまさのぶ
太郎馬正家の男
寛政譜16・345
母は諸井氏


妻は大草次郎右衛門正重の女

元和元年 はじめて家康・秀忠に拝謁

元和5年 父正家の遺跡を継ぐ。遠江国新貝村20石。―


―徳川頼宣に仕える。代官

元和5年 秀忠に仕える。代官

(寛永12年1月21日) (遠州御代官) ●「日記」

慶安2年 遠江国新貝村八幡宮神領17石の朱印


遠江国新貝村20石100俵

(明暦2年) 太郎左衛門に改称

元禄3年12月1日 死す
大久保包教 元和8年 生。平七。新蔵
おおくぼかねのり
彦左衛門忠教の三男
寛政譜12・26
母は小野沢氏


妻は溝口五左衛門重朝の女

寛永9年6月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永13年8月9日 小姓組 ●「日記」共

寛永15年12月 300俵

寛永16年5月1日 兄平助忠名より分知。300石 ●「日記」共

慶安元年9月25日 綱吉に付属される。三丸に伺候


書院番組頭。300石150俵


神田館にて書院番頭。300石350俵


書院番頭を辞す

延宝8年 徳松に従い西丸に勤仕

天和3年 徳松逝去により小普請

元禄10年7月26日 650石

元禄15年5月4日 死す
大久保勘九郎
生。勘九郎
おおくぼかんくろう
120石100俵
寛政譜22・359 寛永16年3月7日 大坂弓矢奉行 ●「日記」共

寛永16年7月19日 200石100俵

寛永16年7月19日 大坂御弓奉行被仰付依之於彼地為御加恩御米八拾石被下之 ●「日記」

寛文8年 死す
大久保四郎右衛門

おおくぼしろうえもん
徳川頼宣に仕える

(寛永15年4月22日) (紀伊亜相使節) ●「日記」



大久保忠興 慶長13年 生。平四郎
おおくぼただおき
甚左衛門忠直の四男
寛政譜11・367
母は坂部次郎左衛門の女


妻は土岐美濃守家臣加藤勘右衛門の女


後妻は高嶋主殿頭兼政の女

元和9年12月19日 家光に仕える。小姓組


小姓。300俵


500俵

寛永2年 800俵

寛永7年 書院番

寛永9年11月5日 書院番・進物役

寛永9年11月5日 本番御免。進物番 ●「日記」

寛永10年2月7日 1000石

寛文元年5月23日 死す
大久保忠貞 慶長4年 生。彦十郎。豊前守
おおくぼたださだ
権右衛門忠為の五男
寛政譜12・9
母は今川家臣深沢備後守正長の女


妻は鳥田佐大夫の女


後妻は池田水右衛門の女

慶長19年10月 はじめて家康に拝謁。近習


300俵

元和2年 小姓組

寛永10年2月7日 500石

寛永10年12月20日 中奥の番士

寛永10年12月20日 中奥御番 ●「日記」

寛永12年9月16日 膳奉行 ●「日記」共

寛永12年12月21日 御膳奉行被仰付依て御目見 ●「日記」

寛永14年11月25日 二丸に勤仕

寛永14年11月25日 御本丸御膳奉行之内大久保彦十郎被相加之―


―二之丸御膳奉行被仰付之 ●「日記」

寛永15年5月8日 徒頭

寛永16年12月30日 布衣 ●「日記」共

寛永18年8月12日 家綱に付属される。傅

寛永18年8月12日 若君様え御奉公可仕 ●「日記」

寛永20年1月10日 従五位下・豊前守

寛永20年1月10日 諸大夫 ●「日記」

(寛永20年1月11日) (豊前守の初出) ●「日記」

寛永20年9月24日 三丸番頭

寛永20年9月25日 三丸御番頭 ●「日記」

正保4年12月5日 1000石

慶安3年9月9日 腰物方を支配


本丸に勤仕

慶安4年11月11日 1500石

万治元年閏12月9日 当直をゆるされる。2500石

寛文4年6月28日 5000石

寛文6年3月14日 死す
大久保忠重(久六郎)
生。新右衛門。久六郎
おおくぼただしげ
久六郎忠守の長男
寛政譜12・31 ~慶長19年 家康に仕える。大番

寛永2年10月23日 150石の朱印

寛永10年2月7日 500石

慶安2年4月 家綱の日光社参のとき諸道具奉行


大番を辞す。小普請

寛文9年8月7日 死す
大久保忠重(助左衛門)
生。右衛門八。助大夫。助左衛門
おおくぼただしげ
兄助左衛門忠隆の養子。助左衛門忠政の四男
寛政譜11・359 寛永13年3月15日 はじめて家光に拝謁

寛永13年3月15日 大久保助左衛門子樽代を以御礼 ●「日記」

寛永17年3月19日 書院番 ●「日記」共

寛永19年12月10日 三百俵 ●「日記」

寛文7年7月5日 養父忠隆の遺跡を継ぐ。500石

延宝元年4月16日 西丸留守居

天和2年4月21日 900石

貞享3年6月14日 西丸留守居を辞す

元禄3年4月27日 死す
大久保忠重(豊前) 寛永元年 生。半左衛門。彦兵衛。豊前守
おおくぼただしげ
豊前守忠貞の長男
寛政譜12・10
母は鳥田佐大夫の女


妻は大久保左馬允忠知の女


後妻は大久保彦左衛門忠名の次女


また大久保彦左衛門忠名の三女を娶る

寛永15年11月21日 大久保彦十郎実子惣領可被召出 ●「日記」

寛永16年2月5日 はじめて家光に拝謁

寛永16年2月5日 大久保彦十郎惣領樽代を以初て御目見 ●「日記」

寛永18年4月16日 書院番 ●「日記」共

(寛永20年12月18日) (彦兵衛の初出) ●「日記」

寛永20年12月18日 三百俵 ●「日記」

万治3年2月1日 徒頭

万治3年12月28日 布衣

寛文6年5月23日 父忠貞の遺跡を継ぐ。5000石

寛文7年10月18日 新番頭

延宝2年7月3日 小姓組番頭

延宝2年12月27日 従五位下・豊前守

天和2年4月21日 6000石

貞享元年8月20日 死す
大久保忠高 元和5年 生。市十郎。山城守。佐渡守。伊豆守。道無
おおくぼただたか
左馬允忠知の長男
寛政譜12・1
母は稲垣平右衛門長茂の女


室は今川刑部大輔直房の女


継室は大炊御門左大臣経孝の女

寛永9年8月15日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永10年8月 書院番

寛永13年10月28日 中奥の番士

寛永13年10月28日 中奥之御番 ●「日記」

正保元年12月25日 父忠知の遺跡を継ぐ。1500石 ●「日記」共

慶安3年9月3日 家綱に付属される。小姓組組頭。西丸に勤仕

慶安4年8月16日 布衣


本丸に勤仕

明暦3年10月23日 新番頭

寛文2年10月10日 小姓組番頭

寛文2年12月22日 1500石1000俵

寛文2年12月27日 従五位下・山城守

寛文9年8月15日 書院番頭

延宝4年2月12日 留守居

延宝7年12月29日 1500石3000俵

天和元年11月22日 佐渡守

天和2年4月21日 3500石3000俵

天和3年7月6日 御側

貞享元年10月12日 5500石3000俵

貞享3年11月22日 7000石3000俵

元禄2年7月4日 寄合。閉門

元禄3年4月19日 赦免。なお拝謁をはばかる

元禄3年8月13日 ゆるされる

元禄3年11月6日 伊豆守

元禄10年7月26日 1万石

元禄11年12月28日 菊間に伺候

元禄12年9月26日 致仕。道無と号す

元禄15年4月25日
大久保忠教 永禄3年 生。平助。彦左衛門
おおくぼただたか
平右衛門忠員の八男
寛政譜12・22
母は小坂氏。妻は馬場右衛門信成の養女


妻は馬場右衛門信成の養女武田逍遥軒信綱の女

天正3年 家康に仕える

(天正18年)~ 2000石

慶長19年 1000石

慶長19年 大坂の役にて鎗奉行

寛永9年6月25日 旗奉行 ●「日記」共

寛永9年7月1日 馬上同心1騎足軽同心15人を付属される ●「日記」共

寛永9年11月20日 布衣 ●「日記」共

寛永10年5月3日 時々可罷出 ●「日記」

寛永10年7月26日 2000石

寛永10年7月26日 御加増千石於三州被下之 ●「日記」

寛永16年2月1日 死す
大久保忠隆(助左衛門)
生。八兵衛。助左衛門
おおくぼただたか
助左衛門忠政の長男
寛政譜11・359 寛永11年2月8日 はじめて家光に拝謁。小姓組

寛永11年2月8日 初て御目見 ●「日記」

(寛永15年12月1日) (助左衛門の初出) ●「日記」

寛永15年12月1日 父忠政の遺跡を継ぐ。(500石?)

寛永15年12月1日 跡目無相違被仰付之 ●「日記」

寛永16年1月28日 大久保助左衛門死去ニ付て跡目被仰付面々御礼 ●「日記」


小姓組を辞す。小普請

寛文7年4月8日 死す
大久保忠隆(八郎左衛門)
生。(庄八郎)。七之助。八郎左衛門。はじめ近藤を称す
おおくぼただたか
和泉守正朝の養子。阿倍四郎右衛門正之の四男
寛政譜11・371
母は山田半右衛門常閑の女
寛政譜13・390
妻は近藤五左衛門用行の養女由良市兵衛貞長の女


近藤五左衛門用行の養子となる

寛永13年12月6日 近藤庄八郎初て御目見 ●「日記」

(正保2年) 故ありて阿倍家へ帰る(用行に実子用高誕生のためか)


実兄正朝の養子となる

慶安元年8月3日 書院番

寛文元年閏8月11日 養父正朝の采地を賜る。700石300俵

寛文3年3月27日 先弓頭

寛文3年12月28日 布衣

延宝6年10月16日 養父正朝に連座。小普請。閉門

延宝8年2月10日 ゆるされる

天和元年9月15日 死す
大久保忠次(喜六郎) 寛永6年 生。亀之助。喜六郎
おおくぼただつぐ
丹波守忠正の長男
寛政譜11・353
母は菅沼藤十郎定俊の女


妻は安藤九郎右衛門重矩の女

寛永17年3月9日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保2年6月25日 小姓組

万治3年12月23日 父忠正の遺跡を継ぐ。1500石

延宝4年10月23日 先弓頭

延宝4年12月26日 布衣

天和2年4月21日 2000石

元禄5年4月14日 鎗奉行

元禄8年7月1日 旗奉行

元禄12年5月2日 旗奉行を辞す。寄合

元禄15年6月5日 死す
大久保忠次(藤右衛門) 慶長17年 生。藤右衛門
おおくぼただつぐ
九郎兵衛忠元の長男
寛政譜12・39
母は寺田右京の女


妻は天野彦右衛門忠詣の女

寛永4年 はじめて家光に拝謁


大番。200俵

寛永10年2月7日 400石

寛永20年8月8日 新番

寛永20年8月8日 於土圭之間御番相詰其上方々御成之刻御先え参御殿御番等可相勤之旨―


―被仰付之由伊豆豊後列座有之民部少輔伝之玉虫八左衛門組 ●「日記」

慶安4年9月29日 徳川綱重に付属される


桜田館にて先弓頭。持筒頭。400石300俵

天和3年3月26日 死す
大久保忠辰 元和2年 生。荒之助。越中守
おおくぼただとき
荒之助忠当の長男
寛政譜11・361
母は久世三左衛門広宣の女


妻は大久保勘三郎忠良の女

寛永元年 はじめて秀忠に拝謁。父忠当の遺跡を継ぐ。1000石

寛永9年 書院番

寛永10年 小姓組

寛永10年2月7日 1200石

寛永14年10月17日 閉門

寛永14年10月17日 閉門戸可令逼塞 ●「日記」


ゆるされる

寛永18年4月16日 内田信濃守元組故彼組御番被仰付 ●「日記」

慶安元年閏1月27日 徒頭

慶安元年12月30日 布衣

承応元年10月8日 先弓頭

寛文3年8月25日 綱吉に付属される。上野国館林城代。3000石

寛文3年12月28日 従五位下・越中守

寛文5年10月22日 松平讃岐守頼重に召し預けられる

寛文10年2月7日 赦免。なお江戸に住することをとどめられる


ゆるされて江戸に住す

延宝8年6月6日 死す
大久保忠時 寛永5年 生。宗四郎
おおくぼただとき
主膳正幸信の次男
寛政譜11・396
妻は本多美作守忠相の女

寛永13年3月25日 はじめて家光に拝謁

寛永13年3月25日 大久保主膳子以太刀目録御礼 ●「日記」

寛永19年閏9月4日 父幸信の遺跡を継ぐ。5000石。寄合

寛永19年閏9月4日 大久保主膳正遺跡惣領宗四郎被仰付之 ●「日記」

慶安3年9月16日 死す
大久保忠利 慶長17年 生。金弥。与右衛門
おおくぼただとし
右馬允忠拠の次男
寛政譜11・355
母は牧助右衛門長勝の女


妻は太田次郎左衛門康茂の女

寛永4年 はじめて家光に拝謁

寛永5年 小姓組

寛永7年 150俵

寛永10年2月7日 350石

寛永10年12月20日 中奥の番士

寛永10年12月20日 中奥御番 ●「日記」

寛永15年5月8日 小納戸 ●「日記」共

承応3年12月23日 二丸留守居

寛文4年9月14日 死す
大久保忠知(左馬) 文禄2年 生。源三郎。源左衛門。左馬允
おおくぼただとも
権右衛門忠為の三男
寛政譜12・1
母は今川家臣深沢備後守正長の女


妻は稲垣平右衛門長茂の女

慶長13年 はじめて秀忠に拝謁。近侍

慶長14年 300石

慶長19年 大久保相模守忠隣のことにより蟄居

慶長19年 ゆるされる

元和元年 大坂の役にて青山伯耆守忠俊に属す。書院番

元和元年 800石

寛永3年 使番。布衣

寛永9年4月8日 目付

(寛永10年6月7日) (源左衛門の初出) ●「日記」

寛永10年8月6日 書院番組頭

寛永10年8月6日 御書院組頭 ●「日記」

寛永10年12月28日 1500石

寛永13年4月10日 小姓組番頭

寛永13年4月10日 御小姓組之大頭 ●「日記」

寛永13年12月29日 従五位下・左馬允

寛永13年12月29日 諸大夫ニ被仰付之 ●「日記」

(寛永16年7月12日) (左馬允の初出) ●「日記」

寛永19年閏9月5日 書院番頭

寛永19年閏9月5日 御書院番本多豊前守元組大久保左馬允被仰付 ●「日記」

寛永19年12月15日 2000石 ●「日記」共

正保元年11月24日 死す

正保元年11月26日 於駿府去比令中風今廿四日卒去之由注進有之云々 ●「日記」
大久保忠知(兵部) 寛永3年 生。平六郎。兵部少輔
おおくぼただとも
新八郎康村の三男
寛政譜11・346
母は高林与五右衛門昌重の女

寛永16年 家光に仕える。小姓。300俵

(寛永19年4月4日) (御小姓衆) ●「日記」


小姓をゆるされる

正保元年 小姓

慶安元年12月30日 従五位下・兵部少輔

明暦2年5月4日 中奥に伺候

明暦2年11月15日 500俵

万治3年12月1日 1000俵

寛文4年6月10日 死す
大久保忠朝 寛永9年 生。木工。杢之助。出羽守。加賀守。侍従。木工頭。木工入
おおくぼただとも
加賀守忠職の養子。大久保右京亮教隆の次男
寛政譜11・382
母は松平和泉守家乗の女
寛政譜11・393 寛永15年8月1日 はじめて家光に拝謁

寛永15年8月1日 大久保右京亮二番子以太刀目録初て御目見 ●「日記」

寛永18年10月3日 家綱に付属される。伽

寛永18年10月3日 (名前のみの記載) ●「日記」

寛永20年12月7日 兄教勝の廩米を賜る。300俵 ●「日記」共


西丸に伺候。小姓

慶安4年8月16日 従五位下・出羽守

(慶安4年) 本丸に伺候

承応元年11月7日 1000俵

万治3年11月25日 小姓組番頭。2000俵

寛文6年12月25日 3000石

寛文10年3月8日 加賀守忠職の養子となる。小姓組番頭をゆるされる。詰衆並

寛文10年6月13日 養父忠職の遺領を継ぐ。肥前国唐津城8万3000石。帝鑑間に伺候

延宝5年7月25日 老職。加賀守

延宝5年閏12月26日 従四位下

延宝6年1月23日 下総国佐倉城8万3000石

延宝8年1月12日 下総国佐倉城9万3000石

延宝8年8月18日 侍従

貞享3年1月21日 相模国小田原城10万3000石

元禄7年4月21日 相模国小田原城11万3100石

元禄9年9月27日 直月および評定の席にのぞむことをゆるされる

元禄10年6月25日 奉書の加判をゆるされる

元禄11年2月15日 老職をゆるされる

元禄11年10月16日 致仕

元禄15年11月21日 平川門より台所前までの乗輿をゆるされる

宝永2年 西丸登城のとき坂下門より台所口までの乗輿をゆるされる

宝永2年9月22日 木工頭

正徳2年9月25日
大久保忠名 慶長13年 生。平助。彦左衛門
おおくぼただな
彦左衛門忠教の長男
寛政譜12・23
母は馬場右衛門信成の養女武田逍遥軒信綱の女


妻は駒井右京親直の女


後妻は筒井内蔵忠重の女


また新見彦左衛門正勝の女をむかえる

元和8年 はじめて秀忠に拝謁。書院番


400石

寛永10年2月7日 600石

寛永16年5月1日 父忠教の遺跡を継ぐ。2000石 ●「日記」共


小普請

万治2年3月9日 死す
大久保忠尚 慶長3年 生。刑部。平右衛門。白玄
おおくぼただなお
相模守忠隣の六男
寛政譜11・398
母は石川日向守家成の女


妻は石川安芸守忠義の女


幼少のとき家康に拝謁

慶長19年 父忠隣に連座して相模国小田原に蟄居

寛永10年6月7日 石川主殿頭弟両人御家人被召出 ●「日記」

寛永10年6月19日 はじめて家光に拝謁

寛永10年 小姓組

寛永11年 500石

承応3年12月5日 小姓組を辞す。小普請

寛文10年10月14日 致仕。白玄と号す

寛文11年9月23日 死す
大久保忠直 寛永7年 生。半十郎。兵九郎。伊予守。伊予入道。はじめ若林を称す
おおくぼただなお
豊前守忠貞の次男
寛政譜15・241
母は鳥田佐大夫の女
寛政譜12・13
妻は若林与惣右衛門包盛の次女


若林与惣右衛門包盛の養子となる

寛永16年11月10日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永19年6月20日 書院番 ●「日記」共

正保元年12月25日 300俵 ●「日記」共

慶安3年9月3日 家綱に付属される。西丸小姓組


実家の本氏に復し大久保を称す

(慶安4年) 本丸に勤仕

寛文元年7月21日 小納戸

寛文元年12月4日 500俵

寛文元年12月28日 布衣

寛文5年12月 700俵

延宝2年9月5日 900俵

延宝8年7月29日 500石900俵


小納戸をゆるされる。寄合

天和元年4月16日 従五位下・伊予守

天和元年8月21日 先鉄炮頭

天和2年4月21日 1000石900俵

天和2年6月27日 新番頭

元禄7年2月19日 新番頭を辞す

元禄10年7月6日 致仕。300俵。伊予入道と号す

正徳元年11月3日 死す
大久保忠永 天正16年 生。長十郎。半右衛門
おおくぼただなが
七郎右衛門忠世の六南
寛政譜11・404
母は小山田氏


妻は杉浦平大夫久成の女


後妻は小林長左衛門重成の女

慶長19年 兄相模忠隣に連座して叔父彦左衛門忠教の采地三河国額田郡―


―坂崎村に蟄居

元和元年1月 岡崎にて家康に拝謁。近侍


300俵

元和3年 書院番

寛永10年2月7日 500石

寛永20年8月30日 家綱に付属される。三丸に伺候 ●「日記」共

正保3年3月25日 死す
大久保忠成 (天正6年) 生。虎丸。兵吉。四郎左衛門。玄蕃頭。道喝
おおくぼただなり
七郎右衛門忠世の四男
寛政譜11・399
妻は福嶋五郎兵衛の女

天正 駿府にてはじめて家康に拝謁。御側に近侍

慶長5年 秀忠の上田城攻めに従う


書院番

慶長19年 大坂の役にて青山伯耆守忠俊に属す

元和元年 大坂の役にて青山伯耆守忠俊に属す

元和元年 1000石加増。3000石

元和2年 書院番組頭

寛永3年8月19日 従五位下・玄蕃頭

寛永10年2月26日 駿府城番。徒同心50人。5000石

寛永10年2月26日 駿府御城在番。歩行同心50人。2000石加増 ●「日記」

(寛永11年6月26日) (駿府御定番) ●「日記」

明暦2年6月5日 駿府城番を辞す

寛文10年10月23日 致仕。600俵。道喝と号す

寛文12年1月18日 死す
大久保忠信 寛永6年 生。源四郎。泰休
おおくぼただのぶ
左馬允忠知の次男
寛政譜12・5
母は稲垣平右衛門長茂の女


妻は稲垣摂津守重綱の女


後妻は大津助十郎勝重の女

寛永20年 家綱に付属される。小姓

正保元年12月25日 父忠知の遺跡分知。500石 ●「日記」共

慶安3年9月4日 小姓組

寛文2年9月 小姓組を辞す。小普請

貞享3年7月9日 致仕。泰休と号す

享保元年7月24日 死す
大久保忠正 慶長11年 生。亀之助。喜六郎。丹波守
おおくぼただまさ
右馬允忠拠の長男
寛政譜11・352
母は牧助右衛門長勝の女


妻は菅沼藤十郎定俊の女

元和3年 家光に付属される。小姓


小姓組。300俵

寛永10年2月7日 500石

寛永14年11月25日 膳奉行

寛永14年11月25日 御本丸御膳奉行 ●「日記」

寛永18年8月12日 家綱に付属される。傅役

寛永18年8月12日 若君様え御奉公可仕 ●「日記」

寛永19年2月6日 布衣

寛永20年1月10日 従五位下・丹波守

寛永20年1月10日 大久保彦六郎諸大夫被仰付之 ●「日記」

(寛永20年1月11日) (丹波守の初出) ●「日記」

寛永20年9月24日 三丸番頭

寛永20年9月25日 三丸御番頭 ●「日記」

正保4年12月5日 1000石

(慶安4年) 本丸に勤仕

慶安4年11月21日 1500石

万治元年閏12月14日 交代で昼夜の当番をつとめる

万治2年7月27日 閉門

万治2年9月25日 ゆるされる

万治3年7月22日 死す
大久保忠政(助左衛門) 天正11年 生。右衛門八。助左衛門
おおくぼただまさ
助左衛門忠益の次男
寛政譜11・358 ~慶長5年 幼少より秀忠に仕える

慶長19年 大久保忠隣に連座して勘気を蒙る

慶長19年 大坂の役に在陣

元和元年 大坂の役に在陣

元和元年 恩許あり。番士

元和2年9月15日 家光に付属される

寛永3年3月11日 徒頭

寛永4年 布衣

寛永10年2月2日 使番 ●「日記」共

寛永15年10月6日 死す
大久保忠政(虎之助) 慶長16年 生。虎之助
おおくぼただまさ
次郎左衛門正信の男
寛政譜12・44
妻は小栗仁右衛門信由の女

寛永13年3月25日 大久保二郎左衛門子被召出之 ●「日記」

寛永13年3月25日 皆川山城守組(大番) ●「日記」

寛永19年6月26日 大番 ●「日記」共

寛永20年12月7日 父正信の遺跡を継ぐ。200石 ●「日記」共

慶安元年6月14日 新番


新番を辞す。小普請

元禄13年7月28日 死す
大久保忠昌 元和6年 生。甚四郎。甚兵衛。泰嶺
おおくぼただまさ
荒之助忠当の次男
寛政譜11・363
母は久世三左衛門広宣の女


妻は久貝頼母正偏の女

寛永元年 父忠当の遺跡分知。500石

寛永11年5月 はじめて家光に拝謁

寛永12年7月 小姓組

寛永13年10月28日 中奥の番士

寛永13年10月28日 中奥之御番 ●「日記」

慶安4年6月13日 小納戸

万治3年12月1日 500石300俵

万治3年12月28日 布衣

寛文元年7月21日 小納戸を辞す

寛文元年閏8月13日 小十人頭

延宝元年2月12日 駿府町奉行。500石600俵

延宝7年3月18日 与力5騎

元禄2年6月5日 駿府町奉行を辞す。寄合

元禄4年12月2日 致仕。300俵。泰嶺と号す

元禄8年10月23日 死す
大久保忠村(三之助)
生。三左衛門。三之助
おおくぼただむら
新八郎康村の次男
寛政譜11・346
母は高林与五右衛門昌重の女

寛永9年6月13日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

(寛永19年12月10日) (御小姓組) ●「日記」

寛永19年12月10日 三百俵 ●「日記」

寛永20年6月16日 小姓組

正保2年2月28日 300俵

寛文7年6月29日 死す
大久保忠村(清左衛門)
生。主計。清左衛門
おおくぼただむら
相模守忠隣の七男
寛政譜11・382
母は石川日向守家成の女

寛永10年6月7日 石川主殿頭弟両人御家人被召出 ●「日記」

寛永10年6月19日 はじめて家光に拝謁

寛永10年 小姓組

寛永10年12月28日 七百石御加恩 ●「日記」

寛永11年 500石

寛永13年6月13日 死す
大久保忠以 寛永6年 生。権之助。六右衛門
おおくぼただもち
六右衛門忠尚の養子。松平五左衛門正吉の長男
寛政譜11・356
母は六右衛門忠尚の女


妻は彦坂平六郎重定の女

寛永7年 はじめて秀忠に拝謁

寛永7年12月 養父忠尚の遺跡を継ぐ。680石余

寛永19年6月20日 書院番 ●「日記」共

慶安3年9月3日 家綱に付属される。西丸に伺候

(慶安4年) 本丸に勤仕

延宝7年11月23日 死す
大久保忠職(加賀守) 慶長9年 生。仙丸。新十郎。加賀守
おおくぼただもと
加賀守忠常の長男
寛政譜11・382
母は奥平美作守信昌の女栄久院


室は松平下総守忠明の女

慶長16年12月 はじめて家康・秀忠に拝謁。父忠常の遺領を継ぐ。武蔵国奇西2万石

慶長16年12月 家光に付属される

慶長19年2月 封地に蟄居

寛永2年 赦免

寛永3年12月5日 従五位下・加賀守

寛永9年1月11日 美濃国加納城5万石

寛永10年7月28日 縁辺之御礼 ●「日記」

寛永16年3月3日 播磨国明石7万石 ●「日記」共

慶安2年7月4日 肥前国唐津8万3000石

寛文7年12月28日 従四位下

寛文8年4月11日 九州鎮護

寛文10年4月19日
大久保忠良 天正6年 生。勘三郎
おおくぼただよし
五郎右衛門忠勝の五男
寛政譜11・349 慶長2年 はじめて秀忠に拝謁。小姓。200石

寛永2年 弓の者を預かる。大坂城の定番

寛永11年2月12日 弓頭

寛永11年2月12日 御弓頭被仰付与力五騎徒同心廿人 ●「日記」


布衣

寛永12年8月12日 1200石

寛永12年8月12日 御加恩千石 ●「日記」

慶安3年6月8日 死す
大久保忠職(平左衛門) 慶長13年 生。勘七郎。平左衛門
おおくぼただより
彦左衛門忠教の次男
寛政譜12・24
母は光田氏


妻は水野勘八郎重家の女


後妻は荒木十左衛門元政の女

元和8年 家光に仕える。小姓組


550石


書院番

寛永10年2月7日 750石

寛永10年12月20日 中奥の番士

寛永10年12月20日 中奥御番 ●「日記」

正保4年12月26日 膳奉行

明暦2年3月7日 二丸留守居

明暦2年8月1日 西丸留守居(西丸裏門番頭)

明暦2年12月26日 布衣

延宝元年4月3日 留守居番

延宝7年1月8日 死す
大久保忠於
生。作十郎。新右衛門
おおくぼただより
久六郎忠重の長男
寛政譜12・32
妻は曲直瀬養安院玄理の女

寛永13年9月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共


大番

寛永20年12月18日 大御番無足当年より御切米弐百俵被下之 ●「日記」

寛文9年12月12日 父忠重の遺跡を継ぐ。500石

延宝4年6月25日 死す
大久保長十郎

おおくぼちょうじゅうろう
寛政譜11・408


―権右衛門忠為の長男常辰か? 


―元和2年以前に死すとあり

寛永9年8月19日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」
大久保長重 天正17年 生。牛之助。甚右衛門。甚斎
おおくぼながしげ
甚右衛門忠長の四男
寛政譜12・17
母は長谷川源右衛門安久の女


妻は諏訪因幡守頼水の女

慶長8年 秀忠に仕える。書院番

慶長14年12月29日 300石

慶長19年 大久保忠隣に連座して蟄居

慶長19年 赦免

元和元年12月27日 840石


860石

寛永8年2月12日 使番 ●「日記」共

寛永9年12月29日 布衣 ●「日記」共

寛永10年12月26日 1860石

寛永10年12月26日 御加恩千石 ●「日記」

寛永17年10月16日 先鉄炮頭

寛永17年10月16日 御鉄炮頭被仰付三枝勘解由元同心与力十騎徒同心五十人―


―此内与力五騎徒同心廿五人御預也 ●「日記」

寛永19年3月9日 持弓頭

寛文元年2月26日 持弓頭を辞す

寛文2年9月25日 致仕。300俵。甚斎と号す

延宝5年3月19日 死す
大久保長昌 元和9年 生。牛之助。甚右衛門。甚入
おおくぼながまさ
甚右衛門長重の長男
寛政譜12・18
母は諏訪因幡守頼水の女


妻は諏訪左門頼長の女

寛永9年10月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」

寛永9年12月28日 はじめて家光に拝謁

寛永15年12月15日 書院番 ●「日記」共

寛永18年12月13日 三百俵新規ニ被下之 ●「日記」

寛文2年9月25日 父長重の家を継ぐ。1860石

寛文3年11月25日 使番

寛文4年12月28日 布衣

寛文12年3月30日 普請奉行

天和2年4月21日 2360石

貞享元年11月25日 普請奉行をゆるされる。小普請

元禄4年12月2日 致仕。甚入と号す

元禄15年1月15日 死す
大久保教勝 慶長18年 生。宗三郎。右京亮
おおくぼのりかつ
右京亮教隆の長男
寛政譜11・393
母は松平和泉守家乗の女


妻は岡部内膳正長盛の女


後妻は山岡左兵衛景晴の女


また後妻は山田左兵衛重安の女

寛永8年 はじめて家光に拝謁

寛永9年6月4日 中奥小姓

寛永9年6月4日 中奥にて召し使われる ●「日記」

寛永9年12月3日 300俵 ●「日記」共

寛永10年7月2日 妻と縁組 ●「日記」

寛永20年12月7日 父教隆の遺跡を継ぐ。6000石 ●「日記」共

正保元年12月29日 従五位下・右京亮

正保元年12月29日 諸大夫 ●「日記」

慶安元年3月28日 小姓組番頭

慶安3年9月3日 家綱に付属される。西丸書院番頭


本丸に勤仕

明暦2年1月15日 大番頭

寛文10年9月11日 留守居

天和元年8月21日 留守居を辞す。寄合

天和2年7月12日 死す
大久保教隆 天正14年 生。宗三郎。右京亮
おおくぼのりたか
相模守忠隣の三男
寛政譜11・392
母は石川日向守家成の女


妻は松平和泉守家乗の女

~慶長5年 秀忠に近侍

慶長10年4月 従五位下・右京亮


3000石

慶長17年 小姓組番頭

慶長19年2月 父忠隣の罪に坐す。南光坊天海に召し預けられ武蔵国川越に蟄居

元和3年 南部信濃守利直に召し預けられる

寛永5年 赦免。3000石

寛永5年 はじめて家光に拝謁

寛永9年4月8日 書院番頭

寛永10年4月23日 6000石

寛永10年4月23日 3000石御加恩 ●「日記」

(寛永11年6月16日) (池田帯刀ニ大久保右京跡御書院御番頭被仰付) ●「日記」

寛永12年11月10日 大番頭 ●「日記」共

寛永20年10月15日 死す
大久保教隆長女
寛政譜11・393
大久保右京亮教隆の長女
寛政譜3・130 寛永10年7月2日 溝口又十郎宣秋と縁組 ●「日記」

寛永16年 溝口摂津守宣就を産む



大久保八左衛門
生。八左衛門
おおくぼはちざえもん
勘兵衛正忠の長男
寛政譜12・42
大番

寛永15年4月17日 同僚春田長兵衛を討ち自殺

(寛永15年4月28日) (保科弾正忠組) ●「日記」

寛永15年4月28日 大坂御番衆保科弾正忠組大久保八左衛門春田長兵衛―


―去十七日喧嘩ニて双方相果之由番頭并彼地御目付より―


―注進之 ●「日記」
大久保半十郎
生。半十郎
おおくぼはんじゅうろう
主膳正幸信の三男
寛政譜11・396 寛永18年7月1日 大久保主膳正二男以太刀目録初て御目見 ●「日記」弟幸治か不明


早世か
大久保正重(七兵衛) 慶長10年 生。七兵衛
おおくぼまさしげ
勘兵衛正忠の次男
寛政譜12・42 (寛永8年) 父正忠の遺跡を継ぐ。300石


大番

寛永10年2月7日 500石

寛永19年5月22日 仮の蔵奉行

寛永19年5月22日 御城米浅草御蔵当座之奉行 ●「日記」

寛永19年12月16日 大番組頭

寛永19年12月16日 大御番組頭被仰付之保科弾正忠組也 ●「日記」


700石


700俵

延宝2年9月13日 大番組頭を辞す。小普請

天和3年5月4日 死す
大久保正重(次郎右衛門) 慶長9年 生。次郎右衛門
おおくぼまさしげ
三助正次の男
寛政譜11・351 寛永4年2月 はじめて家光に拝謁


小十人


100俵

寛永9年8月25日 200俵

寛永19年12月6日 納戸番 ●「日記」共

慶安元年9月26日 綱吉に付属される。三丸に勤仕


神田館に勤仕

延宝4年4月30日 死す
大久保正朝
生。主馬。宮内少輔。和泉守
おおくぼまさとも
阿倍四郎右衛門正之の次男
寛政譜11・371
母は山田半右衛門当閑の女


妻は大久保甚右衛門長重の女


祖父阿倍四郎兵衛忠政の本氏大久保を称す

元和5年 はじめて秀忠に拝謁

寛永5年11月 小姓組

寛永7年 中奥に伺候

寛永11年11月 700石

寛永12年12月30日 従五位下・宮内少輔

寛永12年12月30日 諸大夫 ●「日記」

(寛永13年9月21日) (宮内の初出) ●「日記」

寛永15年4月 書院番

寛永20年6月9日 書院番・進物役

寛永20年6月9日 進物御番 ●「日記」

慶安3年9月3日 西丸小姓組組頭

慶安4年11月21日 700石300俵

(慶安4年) 本丸に勤仕

寛文元年閏8月11日 綱吉に附属される。家老。3000石

延宝6年10月16日 改易。松平相模守池田光仲に召し預けられる


以下不詳
大久保正信(権右衛門) 文禄2年 生。弥五郎。権右衛門
おおくぼまさのぶ
権右衛門忠為の次男
寛政譜11・408
母は今川家臣深沢備後守正長の女


妻は石川小隼人の女


はじめ大久保加賀守忠常のもとにあり

寛永10年6月7日 大久保源左衛門兄御家人被召出 ●「日記」

寛永10年 はじめて家光に拝謁

寛永10年8月 小姓組。1000石

寛永19年10月26日 使番

寛永19年10月26日 唯今迠之御役御免折々御使なと可被仰付 ●「日記」

寛永19年11月1日 能勢小十郎唯今之御番御赦免自今以後御使等可被仰付間―


―最前被仰付五輩と申合一人宛殿中え可相詰之旨也 ●「日記」

寛永19年12月30日 布衣 ●「日記」共

正保2年6月28日 先鉄炮頭

正保4年5月6日 閉門。同心等25人を追放

慶安元年6月3日 ゆるされる

慶安2年8月26日 西丸に勤仕


本丸に勤仕

万治3年12月10日 先鉄炮頭を辞す。寄合

寛文2年5月7日 死す
大久保正信(次郎左衛門) 永禄3年 生。次郎左衛門
おおくぼまさのぶ
九郎右衛門正吉の次男
寛政譜12・44
家康に仕える


秀忠に仕える


徳川忠長に付属される

(寛永9年) 処士


大番。200石

(寛永13年3月25日) (皆川山城守組) ●「日記」

寛永19年11月26日 死す
大久保正栄 天正18年 生。藤三郎
おおくぼまさよし
彦右衛門正次の男
寛政譜12・51
妻は牧野内匠頭信成の養妹重野氏の女


秀忠に仕える

寛永3年 蔵書替役

寛永19年8月18日 台所方賄

寛永19年8月18日 御台所方御賄有賀半左衛門ニ被召加之 ●「日記」

正保2年9月19日 死す
大久保康任 元和8年 生。百大夫。新八郎
おおくぼやすとう
新八郎康村の長男
寛政譜11・345
母は高林与五右衛門昌重の女


妻は大久保玄蕃頭忠成の女

寛永9年6月13日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永9年7月13日 (新八郎名義にて)徒同心被仰付 ●「日記」

寛永9年8月26日 父康村の遺跡を継ぐ。1030石

寛永9年8月26日 跡目 ●「日記」

寛永9年9月1日 (新八郎) ●「日記」

寛永15年1月15日 書院番 ●「日記」共

慶安3年9月3日 家綱に付属される。西丸小姓組


本丸に勤仕

寛文元年4月12日 書院番組頭

寛文元年12月28日 布衣

延宝4年1月11日 鎗奉行

延宝8年5月10日 死す
大久保康村 天正12年 生。新八郎
おおくぼやすむら
五郎右衛門康忠の次男
寛政譜11・345
母は松平伊豆守信一の女


妻は高林与五右衛門昌重の女

慶長5年 秀忠に拝謁。大番

慶長16年 大番組頭

寛永2年9月2日 830石

寛永3年3月11日 弓頭。布衣


1030石

寛永9年6月18日 死す

寛永9年7月13日 徒同心被仰付 ●「日記」
大久保幸信 天正15年 生。宗四郎。主膳正
おおくぼゆきのぶ
相模守忠隣の四男
寛政譜11・396
母は石川日向守家成の女

~慶長5年 秀忠に近侍

慶長10年4月 従五位下・主膳正


2000石

慶長17年 小姓組番頭

慶長19年2月 父忠隣の事により南光坊天海に召し預けられる。武蔵国川越に蟄居

元和3年 津軽越中守信牧に召し預けられる

寛永5年 赦免。2000石

寛永9年4月8日 書院番頭

寛永10年4月23日 5000石

寛永10年4月23日 3000石御加恩 ●「日記」

寛永12年11月10日 大番頭 ●「日記」共

寛永19年6月30日 死す
大久保幸治 寛永11年 生。小吉。頼母助。主膳
おおくぼゆきはる
兄宗四郎忠時の養子。主膳正幸信の四男
寛政譜11・396
妻は大久保玄蕃頭忠成の女

寛永18年7月1日 大久保主膳正二男以太刀目録初て御目見 ●「日記」兄半十郎か不明

寛永18年10月3日 家綱に仕える

寛永18年10月3日 (名前のみの記載) ●「日記」


小姓

慶安3年9月4日 書院番。300俵


兄忠時の養子となる

慶安4年12月11日 養父忠時の遺跡を継ぐ。5000石

承応2年閏6月10日 書院番をゆるされる

貞享元年5月6日 死す
大蔵氏紀 天正18年 生。庄左衛門。大蔵大夫
おおくらうじたみ
金春大夫八郎安照の三男
能楽史話273
大久保石見守長安(大蔵十兵衛)の養子となる
慶長9年 大蔵大夫の名跡を再興

寛文5年2月24日 死す
大蔵清虎 元和6年 生。八右衛門
おおくらきよとら
弥右衛門虎清の次男
能楽史話380
母は春日市右衛門(景道)の妹


狂言方

寛文12年8月5日 死す
大蔵源右衛門 天正13年 生。鬼松。助三。源右衛門
おおくらげんえもん
平蔵の男
能楽史話345
筒井に仕える
四座役者目録 (慶長10年) 父平蔵死去により親類青山図書の取次により家康に仕える
(能楽史話351)
大鼓方

慶安元年 家光により調緒御免


以下不詳
大蔵寺
大和国? 真言宗?
おおくらじ




大蔵十兵衛
生。重兵衛
おおくらじゅうべえ
長右衛門宗悦の次男
能楽史話346




大蔵主馬
生。主馬
おおくらしゅめ
庄左衛門氏紀の男か
能楽史話273 寛永14年8月17日 能天鼓のシテをつとめる ●「日記」






大蔵助三
生。助三。源右衛門
おおくらすけぞう
源右衛門の男
能楽史話345




大蔵宗悦 天正4年 生。六蔵。長右衛門。宗悦
おおくらそうえつ
二介道智の養子。大蔵権右衛門道意の弟子
能楽史話346
小鼓方

正保元年 死す
大蔵武則 寛永6年~ 生。長蔵。長大夫
おおくらたけのり
弥右衛門虎明の次男
能楽史話377
狂言方


江戸居住


41歳で死す
大蔵虎明
生。弥太郎。弥右衛門
おおくらとらあき
弥右衛門虎清の長男
能楽史話376
母は幸五郎次郎正能の女


狂言方


家光の命により東叡山に3年詰める

寛文2年1月13日 死す
大蔵虎清 永禄9年 生。弥太郎。弥右衛門
おおくらとらきよ
弥右衛門虎政の長男
能楽史話376
母は山城国稲荷神社神職の女


狂言方


秀吉に仕える


家康に仕える

正保3年7月24日 死す
大蔵宣吉 慶長5年 生。六蔵。長右衛門。宗及
おおくらのぶよし
長右衛門宗悦の長男
能楽史話346 正保3年~ 死す
四座役者目録

(能楽史話354)




大河内忠次 慶長元年 生。長四郎。兵左衛門
おおこうちただつぐ
又次郎正勝の男
寛政譜5・19
母は小林平左衛門重正の女

(慶長10年) 父正勝の遺跡を継ぐ。250石

慶長18年 大番

寛永10年2月7日 450石

寛永10年8月3日 550石

(寛永18年3月1日) (大久保右京亮教隆組もしくは皆川山城守隆庸組) ●「日記」

寛永19年11月 大番組頭

承応元年12月22日 550石200俵

寛文元年11月28日 納戸頭

寛文元年12月28日 布衣

寛文2年12月26日 死す
大河内長四郎
生。長四郎
おおこうちちょうしろう
兵左衛門忠次の長男
寛政譜5・19 寛永18年3月1日 はじめて家光に拝謁

寛永18年3月1日 樽代前ニ置一同ニ御目見 ●「日記」


以下不詳。早世か
大河内利綱 元和6年 生。左門。佐渡守。松平を称す
おおこうちとしつな
右衛門大夫正綱の長男
寛政譜4・396
室は松平周防守松井康重の女


(継室は宗対馬守義成の次女か)


幼少のときはじめて秀忠に拝謁

寛永10年7月1日 縁辺 ●「日記」

寛永13年12月29日 従五位下・佐渡守

寛永13年12月29日 諸大夫ニ被仰付之 ●「日記」

(寛永17年6月16日) (左門) ●「日記」

寛永17年11月19日 宗対馬守娘松平左門ニ縁辺被仰付之 ●「日記」

(寛永18年8月28日) (佐渡守の初出) ●「日記」

寛永18年8月28日 宗対馬守以進物御目見次松平佐渡守捧進物御目見―


―是縁辺之御礼也 ●「日記」

正保元年6月17日
大河内久綱 元亀元年 生。孫太郎。金兵衛
おおこうちひさつな
金兵衛秀綱の長男
寛政譜4・392
母は鳥居掃部介の女


妻は深井藤右衛門好秀の女

慶長15年 家康に仕える


地方奉行

(~元和4年) 父秀綱の家を継ぐ。710石

寛永15年12月5日 地方奉行をゆるされる

寛永15年12月5日 御役御赦免 ●「日記」

正保3年4月3日 死す
大河内政雄 寛永元年 生。大八郎。善兵衛。はじめ大久保を称す
おおこうちまさお
善兵衛正勝の養子。大久保彦左衛門忠教の四男
寛政譜5・14
母は馬場右衛門信成の養女武田逍遥軒信綱の女


妻は養父正勝の養女柘植平右衛門正直の女


後妻は鳥居左京亮忠政の女

寛永9年6月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永15年1月15日 書院番 ●「日記」共

寛永16年5月1日 兄平助忠名より分知。300石 ●「日記」共


正勝の養子となりその養女を妻とする。300石は収公

(寛永17年9月14日) (大河内の初出) ●「日記」

寛永17年9月14日 養父正勝の遺跡を継ぐ。2000石

寛永17年9月14日 大河内善兵衛遺跡養子大八郎ニ被下之 ●「日記」

寛文5年12月15日 先鉄炮頭

寛文5年12月28日 布衣

延宝2年8月7日 死す
大河内正勝 天正7年 生。平十郎。善兵衛
おおこうちまさかつ
善兵衛正綱の次男
寛政譜5・13
母は大久保平右衛門忠員の女


妻は石川八左衛門重次の女

文禄3年 家康に仕える。御傍に近侍


200俵


目付

寛永2年12月11日 250石。200俵


使番


450石

寛永11年5月14日 1450石

寛永11年5月14日 八百石之御加増 ●「日記」

(寛永14年12月9日) (善兵衛の初出) ●「日記」


2000石

寛永15年11月10日 長崎奉行

寛永15年11月10日 馬場三郎左衛門大河内善兵衛長崎之奉行被仰付け―


―隔年ニ一人宛可相越之旨也 ●「日記」

寛永16年2月3日 馬場三郎左衛門大河内善兵衛御座之間へ被為召近日長崎へ―


―可相越之旨被仰出之然は於彼地両人米弐千俵被下之従来年は―


―壱人宛雖被差遣之其侭弐千俵被下置之旨上意也云々 ●「日記」

寛永17年6月13日 辞職。寄合

寛永17年6月24日 死す
大河内正綱 天正4年 生。長四郎。右衛門佐。右衛門大夫。松平を称す
おおこうちまさつな
長沢松平甚右衛門正次の養子。大河内金兵衛秀綱の次男
寛政譜4・394
母は鳥居掃部介の女


室は豊臣家臣山口左馬助弘定の女

天正15年 松平正次の養子となる

文禄元年 家康に近侍

慶長元年6月3日 380石

慶長7年10月2日 880石

慶長8年3月25日 従五位下・右衛門佐


右衛門大夫

慶長15年10月14日 3880石


家康の近習出頭人・勘定奉行

元和2年3月21日 4660石

寛永2年7月25日 相模国玉縄2万2100石

~寛永3年 書院番頭・小姓組番頭

寛永10年2月28日 御番外之衆組ニ付御奉公 ●「日記」

寛永10年6月6日 諸中御用被下無由断可令言上 ●「日記」


勘気をこうむる

寛永11年5月29日 ゆるされる

寛永11年5月29日 御赦免 ●「日記」

寛永15年11月9日 板倉内膳正元組寄合之衆松平右衛門大夫秋元但馬守組中え―


―分之被為付之 ●「日記」

慶安元年6月22日
大河内正信 元和7年 生。主膳。(左門)。備前守。松平を称す
おおこうちまさのぶ
右衛門大夫正綱の次男
寛政譜4・396
母は饗庭氏


室は宗対馬守義成の次女


幼少のときはじめて秀忠に拝謁

慶安元年7月20日 父正綱の遺跡を継ぐ。相模国玉縄2万石

慶安元年12月30日 従五位下・備前守

万治2年2月21日 奏者番

貞享3年10月9日 奏者番をゆるされる。雁間に伺候

元禄3年4月27日 致仕

元禄5年11月26日
大河内政憲 慶長8年 生。善六郎。善左衛門
おおこうちまさのり
善左衛門正澄の男
寛政譜5・17
母は佐藤杢丞の女


妻は水野織部守重の女


後妻は梶川四郎次郎忠助の女

慶長18年9月19日 はじめて秀忠に拝謁

元和6年 大番

寛永2年10月23日 200石の朱印

寛永3年 漆奉行

寛永4年11月3日 210石


210石100俵

寛永20年 漆奉行を辞す。小普請

慶安2年12月26日 大番


大番を辞す

寛文11年3月11日 死す
大河内正光
生。造酒。松平を称す
おおこうちまさみつ
右衛門大夫正綱の三男
寛政譜4・396
母は饗庭氏

(寛永10年6月22日) (松平三木助) ●「日記」


以下不詳
大崎与三左衛門
大森か不明
おおさきよそうざえもん


(寛永17年5月14日) (紀伊亜相家老大森与三左衛門) ●「日記」



大沢牛之助

おおさわうしのすけ


寛永18年1月30日 屋鋪焼失 ●「日記」



大沢重好
生。内匠頭。摂津守
おおさわしげよし

地下家伝中・982 (寛永11年7月21日) (地下)(内匠頭) ●「日記」

承応2年 逐電



大沢尚親 寛永元年 生。靫負。主水。壱岐。右近。右近将監
おおさわなおちか
右京亮基重の次男
寛政譜12・116
母は近藤登助季用の女


妻は松平下総守忠明の女


後妻は津田氏

寛永9年9月20日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」

寛永10年2月19日 はじめて家光に拝謁

(寛永10年2月19日) (以御菓子御目見 ●「日記」)

(寛永17年5月8日) (壱岐の初出) ●「日記」

寛永18年2月5日 小姓 ●「日記」共

寛永19年12月4日 400俵

(寛永19年12月10日) (右近の初出) ●「日記」

寛永19年12月10日 四百俵従当年新規被下之 ●「日記」

寛永20年12月29日 従五位下・右近将監

寛永20年12月29日 諸大夫 ●「日記」

慶安4年 中奥に伺候。2000石

天和元年4月19日 死す
大沢文左衛門

おおさわぶんざえもん


(寛永13年8月1日) (紀伊殿名代) ●「日記」



大沢基宿 永禄8年 生。民部。兵部大輔。侍従。少将。中将。真休斎
おおさわもといえ
左衛門佐基胤の長男
寛政譜12・113
母は木寺の宮の女


妻は武田家臣一条右衛門大夫信達の女


家康に仕える

天正16年4月 従五位下・侍従・兵部大輔

慶長5年 1550石

慶長6年 従四位下

慶長8年 高家

慶長14年9月23日 少将

慶長17年1月21日 正四位下

元和9年12月8日 中将

寛永9年9月12日 致仕。真休斎

(寛永9年11月13日) (真休斎初出) ●「日記」

寛永17年1月25日
大沢基雄
生。忠次郎
おおさわもとかつ
左衛門佐基胤の次男
寛政譜12・123
母は木寺の宮の女


妻は伊東右馬允政世の女

天正18年 秀忠に仕える。忠次郎と称す

慶長5年 大番組頭。加増あり

寛永17年10月15日 死す
大沢基重 慶長7年 生。虎松。右京亮。侍従
おおさわもとしげ
兵部大輔基宿の長男
寛政譜12・114
母は武田家臣一条右衛門大夫信達の女


妻は近藤登助季用の女

慶長15年 従五位下・侍従・右京亮

慶長15年 秀忠に近侍


1000石

寛永17年 父基宿の遺跡を継ぐ。2550石

寛永17年6月21日 太刀目録を以御礼是去比亡父跡職相続之儀依被仰出也 ●「日記」

正保2年6月10日 従四位下

慶安3年5月26日
大沢基成 慶長18年 生。(求馬之助)。十蔵。三郎左衛門
おおさわもとなり
兵部大輔基宿の三男
寛政譜12・120
母は武田家臣一条右衛門大夫信達の女

寛永15年10月17日 (大沢求馬之助)御赦免 ●「日記」

寛永17年2月 家光に仕える。書院番

寛永17年3月19日 (大沢求之助)御書院番 ●「日記」


300俵

延宝6年7月 書院番を辞す。小普請

元禄3年4月15日 死す
大沢基洪 慶長12年 生。左近
おおさわもとひろ
忠次郎基雄の長男
寛政譜12・123
母は伊東右馬允政世の女


妻は岡部庄左衛門永綱の女

元和7年 秀忠に仕える

元和9年 小姓


書院番。500俵

寛永10年2月7日 700石


小姓組

慶安3年~ 小姓組を辞す。小普請

万治元年7月2日 死す
大沢基将 元和5年 生。木工助。宮内。兵部大輔。侍従。少将
おおさわもとまさ
右京亮基重の長男
寛政譜12・114
母は近藤登助季用の女


妻は大嶋弥三郎吉久の女

寛永9年9月20日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」

寛永10年2月19日 はじめて家光に拝謁

(寛永10年2月19日) (以御菓子御目見 ●「日記」)

(寛永18年10月19日) (宮内の初出) ●「日記」

正保元年12月29日 奥高家。従四位下・兵部大輔

正保元年12月29日 四品諸大夫 ●「日記」

正保3年12月30日 侍従

慶安3年8月10日 父基重の遺跡を継ぐ。2550石

寛文3年6月3日 従四位上・少将

延宝6年7月20日
大沢求馬之助
大沢三郎左衛門基成か?
おおさわもとめのすけ


寛永15年10月17日 御赦免 ●「日記」

寛永17年3月19日 御書院番 ●「日記」



大沢基之 元和3年 生。六兵衛
おおさわもとゆき
忠次郎基雄の次男
寛政譜12・125
母は伊東右馬允政世の女

寛永16年7月18日 はじめて家光に拝謁

寛永16年7月18日 大沢忠次郎子初て御目見 ●「日記」

寛永17年3月30日 大番

(寛永19年12月10日) (大御番) ●「日記」

寛永19年12月10日 200俵 ●「日記」共


大番を辞す。小普請

承応元年12月15日 死す
大柴直能 慶長6年 生。喜右衛門。六兵衛。はじめ稲山を称す
おおしばなおよし
稲山清兵衛昌能の男
寛政譜18・295
母は武田家臣大柴市兵衛直行の女


妻は九鬼大隅守家臣豊田五郎左衛門の女


外祖父直行に養われる。大柴を称す


徳川忠長に仕える

寛永10年 家光に仕える。勘定

承応3年1月14日 死す
大嶋春政 慶長17年 生。久五郎
おおしまはるまさ
左大夫光盛の男
寛政譜2・96
母は佐久間大膳亮勝之の女

元和元年 父光盛戦死のため月俸30口を賜る。祖父茂兵衛光政に養育される

元和2年12月25日 はじめて秀忠に拝謁。月俸50口

寛永12年 小姓組

寛永15年12月16日 300俵

寛永15年12月16日 三百俵御切米被下今迠被下来御扶持方上ル云々 ●「日記」


小姓組を辞す。小普請

寛文8年8月6日 死す
大嶋義雄 元和元年 生。喜八郎。久左衛門
おおしまよしお
久左衛門義治の男
寛政譜2・99
母は花房志摩守正成の女


妻は大嶋茂兵衛義唯の女

寛永9年10月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永18年12月4日 父義治の遺跡を継ぐ。2750石。寄合

寛永18年12月4日 三千弐百五拾石秋元但馬組大嶋久左衛門跡右一円惣領―


―喜八郎ニ被下之 ●「日記」

万治2年12月13日 死す
大嶋義唯 慶長5年 生。茂兵衛
おおしまよしただ
茂兵衛光政の次男
寛政譜2・91
母は三沢氏


妻は丹羽五郎左衛門長重の女


後妻は朽木兵部少輔宣綱の女

慶長18年 はじめて家康に拝謁

元和8年 父光政の遺跡を継ぐ。4710石

(寛永14年) 大嶋宗家久吉義豊死去によりその領地7500石を預かる

寛永17年 預かり地7500石を返上。5070石

慶安3年8月25日 死す
大嶋義近 寛永元年 生。兵吉。雲八。出羽守
おおしまよしちか
茂兵衛義唯の次男
寛政譜2・92
母は朽木兵部少輔宣綱の女


妻は建部丹波守政長の女

寛永16年10月26日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永18年7月1日 大嶋茂兵衛惣領兵吉以太刀目録初て御目見 ●「日記」

慶安3年12月11日 父義唯の遺跡を継ぐ。4480石


5000石

寛文9年5月14日 関東盗賊追捕

寛文10年7月3日 関東盗賊追捕をゆるされる

天和3年2月12日 従五位下・出羽守

元禄3年5月29日 死す
大嶋義治 天正15年 生。雲四郎。久左衛門
おおしまよしはる
久左衛門光俊の長男
寛政譜2・98
母は大井田氏


妻は花房志摩守正成の女

~慶長19年 秀忠に仕える

元和4年 父光俊の遺跡を継ぐ。美濃国2750石

(寛永11年閏7月29日) (久左衛門の初出) ●「日記」

寛永18年4月13日 死す

(寛永18年12月4日) (秋元但馬組) ●「日記」
大嶋義当
生。平八郎
おおしまよしまさ
茂兵衛光政の三男
寛政譜2・97
母は三沢氏


妻は最上源五郎義俊の女

寛永3年 家光に仕える。書院番


300俵

寛永10年2月7日 500石

寛永19年~ 書院番を辞す。小普請

寛文11年6月2日 死す
大関高増 慶長16年 生。右衛門。右衛門佐。土佐守
おおぜきたかます
弥平次政増の長男
寛政譜11・84
母は紀伊家老水野出雲守重仲の女


室は分部左京亮光信の女

元和2年 父政増の遺領を継ぐ。下野国黒羽2万石

元和2年 はじめて秀忠に拝謁

寛永7年12月30日 従五位下・土佐守

(寛永9年7月14日) (土佐守初出) ●「日記」

正保3年8月21日
大関増親 寛永12年 生。亀松。右衛門。土佐守
おおぜきますちか
土佐守高増の長男
寛政譜11・84
母は分部左京亮光信の女


室は紀伊家老水野淡路守重良の女

寛永20年7月7日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保3年11月12日 父高増の遺領を継ぐ。下野国黒羽1万8000石

承応元年12月28日 従五位下・土佐守

寛文2年4月1日
大関主水

おおぜきもんど
求馬助増広か? 寛政譜11・84



太田

おおた
天崇院に仕える。局

寛永15年2月26日 高田御方之局太田ヘ町屋敷被下之 ●「日記」



大竹郷左衛門

おおたけごうざえもん
徳川頼房に仕える

(寛永16年10月26日) (水戸殿使者) ●「日記」



大竹正成
生。権之助。源太郎
おおたけまさなり
源太郎正吉の養子。内藤主馬重次の四男
寛政譜9・353 寛永15年12月21日 養父正吉の遺跡を継ぐ。220石。現米40石。小普請

寛永15年12月21日 三百廿石源太郎跡目 ●「日記」


大番

寛文元年12月28日 大番組頭

寛文2年12月22日 200俵加増。320石200俵

延宝2年4月28日 大番組頭を辞す

天和3年閏5月16日 死す
大竹正吉
生。源太郎
おおたけまさよし
源太郎正治の男
寛政譜9・353 慶長11年 家康に仕える。大番。現米40石

寛永2年12月11日 220石。現米40石


材木奉行

(寛永12年)5月4日 死す
太田権之助
生。権之助
おおたごんのすけ
仁左衛門重元の長男
寛政譜14・76 寛永18年3月1日 樽代前ニ置一同ニ御目見 ●「日記」

寛永18年3月3日 はじめて家光に拝謁

正保元年 大番

慶安元年6月14日 新番


以下不詳。寛文5年までに早世か
太田重元
生。庄兵衛。仁左衛門
おおたしげもと
庄兵衛重吉の長男
寛政譜14・76
父重吉の遺跡を継ぐ。200石


秀忠に仕える。大番


家光に仕える

(寛永13年3月25日) (皆川山城守組) ●「日記」

~寛文元年 大番を辞す。小普請

寛文5年10月22日 死す
太田重元子


寛永13年3月25日 太田庄兵衛子被召出之 ●「日記」

寛永13年3月25日 皆川山城守組 ●「日記」



太田助重 天正17年 生。次郎右衛門
おおたすけしげ
彦左衛門清政の長男
寛政譜14・65
母は太田彦左衛門正勝の女


妻は成瀬喜右衛門の女

慶長13年 家康に仕える。大番

元和5年 父清政の遺跡を継ぐ。200石200俵

寛永2年12月11日 210石200俵の朱印

寛永11年10月13日 改易

慶安4年10月17日 赦免

承応元年12月18日 210石200俵。小普請

承応2年2月4日 大番


大番を辞す

寛文10年3月16日 死す
太田資次 寛永6年 生。左馬助。摂津守
おおたすけつぐ
備中守資宗の次男
寛政譜4・377
母は板倉周防守重宗の女


室は本多伊勢守忠利の女


継室は宗対馬守義成の女


また継室は能勢摂津守頼次の養女松平五郎兵衛昌重の女

寛永16年7月9日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

慶安4年12月28日 従五位下・摂津守

寛文11年12月19日 父資宗の家を継ぐ。遠江国浜松城3万2000石

寛文11年12月28日 雁間に伺候

延宝元年6月12日 奏者番

延宝4年7月26日 奏者番。寺社奉行

延宝6年6月19日 大坂城代。5万2000石

天和元年11月6日 従四位下

貞享元年4月6日
太田資政 寛永元年 生。志摩介
おおたすけまさ
備中守資宗の長男
寛政譜4・377
母は板倉周防守重宗の女

寛永16年7月9日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共


故あって嫡を除かれる

寛文10年5月19日 死す
太田資宗 慶長5年 生。新六郎。摂津守。采女正。備中守。道顕
おおたすけむね
新六郎重正の次男
寛政譜4・375
母は都筑惣左衛門秀綱の女


室は板倉周防守重宗の女

慶長11年 はじめて家康に拝謁

慶長15年9月 父重正の遺跡を継ぐ。500石。家康に近侍


英勝院の養子となる

慶長17年4月10日 秀忠に付属される。800石。近侍

元和元年1月27日 従五位下・摂津守


采女正

元和元年3月 1000石

元和9年11月20日 2000石

寛永5年11月21日 4000石

寛永6年12月29日 5500石

寛永8年12月 小姓組組頭

寛永9年4月7日 書院番頭

寛永9年12月14日 小姓組番頭。昵近 ●「日記」共


備中守

(寛永10年1月1日) (備中守の初出) ●「日記」

寛永10年3月23日 政事にあずかる(六人衆)

寛永10年3月23日 六人衆 ●「日記」

寛永10年4月16日 持弓持筒のことをあずかりはからう

寛永10年4月16日 御持弓御持筒之儀万事肝煎 ●「日記」

寛永10年4月19日 猿楽舞々を支配

寛永10年4月19日 猿楽舞々万事肝煎 ●「日記」

寛永12年8月9日 下野国山川1万5500石

寛永12年8月9日 御加恩壱万石 ●「日記」

寛永12年8月14日 下野国山川領被下之 ●「日記」

寛永12年12月30日 正月之御給仕被仰付之 ●「日記」

寛永15年4月24日 これまでの職を恩免される

寛永15年4月24日 奏者番。猿楽舞々支配。三河国西尾城3万5000石

寛永15年4月24日 参州西尾城并領地被下之蒙御加恩剰唯今迠之御役御赦免―


―御奏者番被仰付云々 ●「日記」

寛永19年9月1日 毎歳八月交替午年在江戸 ●「日記」

寛永19年閏9月29日 安藤右京進太田備中守松平出雲守水野備後守御座之間へ被召出―


―何ニても存寄之義於有之は老中相談之上可致言上下ニて―


―不可相斗之旨被仰付之云々 ●「日記」

正保元年2月28日 遠江国浜松城3万5000石

正保元年2月28日 以本知高浜松え得替 ●「日記」

寛文7年12月18日 奏者番を辞す

寛文11年12月19日 致仕。道顕と号す

延宝8年1月22日
大田次勝
生。小三郎。宗兵衛
おおたつぐかつ
善兵衛吉胤の長男
寛政譜14・59 元和6年 はじめて秀忠に拝謁

元和8年 小姓組


300俵


大番

寛永10年2月7日 500石

寛永19年8月5日 浅草蔵の会計にあずかる

寛永19年8月5日 浅草御蔵御兵粮之御勘定有之席え相越無油断様可相斗 ●「日記」

正保3年9月18日 死す
大谷一郎兵衛

おおたにいちろうびょうえ


(寛永19年7月8日) (浅草御城米手代) ●「日記」

(寛永19年7月8日) (久保田藤右衛門手代) ●「日記」

寛永19年7月8日 斬罪 ●「日記」
大谷久米助 寛永12年
おおたにくめのすけ
一郎兵衛の男

寛永19年7月8日 死罪か ●「日記」



大谷定利
生。清兵衛
おおたにさだとし
清兵衛定次の男
寛政譜18・294 寛永2年 父定次の遺跡を継ぐ。200俵

寛永4年 代官

慶安4年 銅奉行


銅奉行を辞す。小普請

万治元年5月3日 死す
大谷泰重 天正15年 生。法眼。法印
おおたにたいじゅう
法印泰増の男
地下家伝中・1504
青蓮院門跡坊官
宮廷公家系図集覧681 寛永元年 法眼

寛永8年4月9日 法印

(寛永13年5月6日) (青蓮院御門跡内大谷治部卿法印) ●「日記」

寛文2年9月6日
太田宣重
生。半四郎
おおたのぶしげ
彦左衛門清政の三男
寛政譜14・65
母は曾祖父彦左衛門正勝の女

元和9年 家光に仕える。小十人。100俵

寛永9年8月25日 200俵

寛永10年6月7日 小十人組組頭 ●「日記」共

(寛永18年4月12日) (本目権兵衛組) ●「日記」

寛永18年4月12日 改易

寛永18年4月12日 被放御扶持 ●「日記」

寛永18年9月5日 赦免。小十人組組頭。200俵

寛永18年9月5日 御赦免仕来御役如前々可相勤 ●「日記」

正保3年12月4日 300俵

万治2年5月9日 具足奉行

寛文5年12月19日 死す
太田信盛
生。新左衛門。内匠。監物
おおたのぶもり
家康に仕える
寛政譜14・42 (慶長19年) 大坂の役に供奉


勘気を蒙る

寛永9年7月17日 赦免。家光に仕える。500石

寛永9年7月17日 ゆるされる ●「日記」

(寛永10年2月21日) (御鷹師) ●「日記」

(寛永10年2月21日) (内匠の初出) ●「日記」

寛永13年8月21日 死す
太田文右衛門

おおたぶんえもん


(寛永19年12月16日) (小十人組) ●「日記」

寛永19年12月16日 御加恩百俵被下之日来御切米共ニ弐百俵被仰付 ●「日記」



大田正成
生。丑之助。又三郎。又右衛門
おおたまさしげ
加兵衛正直の次男
寛政譜14・64
妻は遠山久四郎安次の女

元和2年 はじめて秀忠に拝謁

寛永4年 大番。100石


100石100俵

寛永10年2月7日 400石

承応3年6月5日 死す
大田正房
生。甚九郎。又右衛門
おおたまさふさ
善大夫吉勝の七男(もしくは養子)
寛政譜14・56 天正10年 家康に仕える
寛政譜14・61
広敷伊賀者


以下不詳
太田正盛
生。市兵衛。一入
おおたまさもり
彦左衛門清政の四男
寛政譜14・67
母は服部弥兵衛正胤の女


妻は屋代越中守の女

寛永9年 家光に仕える。小十人


100俵

寛永19年12月16日 200俵 ●「日記」共

寛永20年8月8日 新番

寛永20年8月8日 於土圭之間御番相詰其上方々御成之刻御先え参御殿御番等可相勤之旨―


―被仰付之由伊豆豊後列座有之民部少輔伝之安西甚兵衛組 ●「日記」

慶安4年9月29日 綱吉に付属される。三丸に勤仕。小十人頭


神田館にて留守居役


650俵


務めを辞す


致仕。一入と号す

延宝8年9月5日 死す
太田宗勝 天正17年 生。次兵衛
おおたむねかつ
茂右衛門宗久の男
寛政譜17・336
弱年より別所豊後守吉治に仕える


別所吉治の男大蔵守治に属す

寛永4年 別所守治に従い流浪


小児科医。別所守治を養育。

寛永14年7月 千代姫霊仙院に付属される

寛永16年 廩米月俸を賜る

寛永16年12月26日 御切米御扶持方被下之 ●「日記」

寛永17年4月3日 小児薬師次兵衛捧進物始て御目見 ●「日記」

寛永18年9月6日 300石 ●「日記」共

慶安元年2月20日 死す
太田盛次
生。新左衛門
おおたもりつぐ
新左衛門信盛の養子。間宮左衛門信之の長男
寛政譜14・42
妻は新左衛門信盛の長女

寛永12年4月11日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永13年11月24日 養父信盛の遺跡を継ぐ。500石

寛永13年11月24日 太田新左衛門五百石子跡目被仰付之 ●「日記」


鷹匠頭


700石

正保2年5月8日 死す
太田主水

おおたもんど


(寛永19年11月14日) (水戸黄門家老) ●「日記」



太田康茂
生。兵五郎。次郎左衛門
おおたやすしげ
次郎左衛門康直の男
寛政譜14・73
妻は柴山九右衛門吉次の女


秀忠に仕える。大番。350石

(寛永10年6月1日) (皆川志摩守与) ●「日記」

寛永11年11月13日 改易

慶安4年10月11日 赦免

承応元年12月18日 350石。大番


350俵

万治元年4月20日 死す
太田康重
生。太郎助。太郎左衛門。是休
おおたやすしげ
次郎左衛門康茂の長男
寛政譜14・73
母は柴山九右衛門吉次の女


妻は最上源五郎義俊の女

寛永10年6月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永13年 家光に仕える


外祖母で柴山九右衛門吉次の妻正春院に養われる


正春院の采地を継ぐ。200石。大番


300石

万治元年閏12月18日 父康茂の遺跡を継ぐ。300石50俵


大番を辞す。小普請

延宝8年12月25日 致仕。是休と号す

元禄12年10月15日 死す
太田安正 天正7年 生。又右衛門
おおたやすまさ
宮内信昌の男
寛政譜14・68
母は牛奥兵部左衛門の女

(慶長6年) 父信昌の遺跡を継ぐ。400石

慶長19年 秀忠に仕える。代官

寛永18年 死す
太田吉家 寛永5年 生。小兵衛。七右衛門
おおたよしいえ
七右衛門吉次の長男
寛政譜14・69
母は梶川四郎次郎忠助の女

寛永15年12月16日 父吉次の遺跡を継ぐ。200俵

寛永15年12月16日 大坂役人太田七右衛門跡職三百俵之内江戸ニて被下来候―


―御切米弐百俵惣領被下之 ●「日記」


大番

慶安元年6月14日 新番

万治2年12月26日 250俵

延宝5年12月1日 死す
太田吉竹 寛永7年 生。三次郎。長七郎
おおたよしたけ
九右衛門吉宗の男
寛政譜14・71
母は山岡伝右衛門景重の女

寛永13年12月6日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永17年 父吉宗の遺跡を継ぐ。200石

正保2年6月 大番

慶安元年6月14日 新番

万治2年12月26日 200石50俵

延宝8年9月6日 小普請奉行

天和3年5月13日 死す
大田吉近
生。平左衛門
おおたよしちか
善兵衛吉胤の次男
寛政譜14・60 寛永9年 家光に拝謁

寛永9年10月9日 小十人

寛永11年 100俵。月俸10口

寛永19年12月16日 200俵

寛永19年12月16日 御加恩百俵被下之日来御切米共ニ弐百俵被仰付 ●「日記」


納戸番

寛文6年7月12日 死す
大田吉次 慶長18年 生。十左衛門。善大夫
おおたよしつぐ
善大夫吉正の長男
寛政譜14・56
母は石巻下野康敬の女


妻は安藤治右衛門正珍の女


後妻は川村弥左衛門勝興の女

寛永12年 はじめて家光に拝謁

寛永13年3月 小姓組

寛永15年7月2日 父吉正の遺跡を継ぐ。2060石

寛永15年7月2日 太田善大夫弐千石十左衛門跡職被仰付之 ●「日記」

寛永15年9月9日 父遺跡被下之付て御礼申上候 ●「日記」

慶安3年12月15日 先弓頭

慶安4年8月16日 布衣

寛文3年3月27日 鎗奉行

延宝8年10月15日 死す
太田吉次 文禄3年 生。七右衛門
おおたよしつぐ
勘左衛門吉重の長男
寛政譜14・69
妻は梶川四郎次郎忠助の女


秀忠に仕える。大番


200俵

~寛永11年 大坂具足奉行。300俵

寛永15年5月8日 死す
大田吉成
生。八十郎。伝右衛門。十左衛門。壱岐守
おおたよしなり
善大夫吉正の次男
寛政譜14・56 寛永3年 はじめて家光に拝謁

寛永4年 小姓組

寛永5年 200石

寛永10年2月7日 400石

正保元年5月27日 徒頭 ●「日記」共

(正保元年12月29日) (十左衛門の初出) ●「日記」

正保元年12月29日 布衣 ●「日記」共

慶安4年11月21日 400石300俵


700石

寛文元年閏8月11日 徳川綱重に付属される。家老。3000石

寛文元年12月28日 従五位下・壱岐守

寛文10年5月15日 立花左近将監鑑虎に召し預けられる


以下不詳
太田吉久 慶長11年 生。勘九郎。勘左衛門
おおたよしひさ
勘左衛門吉重の次男
寛政譜14・69 元和9年 家光に仕える。小十人

(寛永4年) 父吉重の遺跡を継ぐ。40石

寛永9年8月25日 40石100俵(200俵か)

寛永13年2月3日 死す
大田吉正 永禄6年 生。甚四郎。善大夫
おおたよしまさ
善大夫吉勝の次男
寛政譜14・54
母は大竹善左衛門の女


妻は石巻下野康敬の女


岡崎三郎松平信康に仕える

天正8年 石川数正に属す

(天正8年) 家康に拝謁

天正19年5月3日 200石

慶長5年 秀忠の上田城攻めに従う

慶長5年 軍令違反により真田伊豆守信之に召し預けられる。上野国吾妻に籠居

慶長6年9月 召し返される。400石


大番組頭

慶長19年 大坂の役にて目付

元和元年 大坂の役にて使番

元和元年 1060石

元和2年 布衣

元和3年 弓頭。与力10騎同心20人

寛永10年5月3日 時々可罷出 ●「日記」

寛永10年8月12日 2060石

寛永10年8月12日 御知行千石御加増 ●「日記」

寛永11年2月12日 旗奉行 ●「日記」共

寛永15年3月2日 死す
太田吉正 寛永9年 生。助九郎。勘九郎。甚兵衛
おおたよしまさ
勘左衛門吉久の男
寛政譜14・69 寛永13年11月24日 父吉久の遺跡を継ぐ。40石100俵(200俵)

寛永13年11月24日 太田勘左衛門弐百俵子助九郎跡目被仰付之 ●「日記」

明暦元年8月11日 小堀大膳正之家臣永井源兵衛と口論し彼を討ち自殺。家断
大田原晴清 永禄10年 生。左兵衛。右兵衛尉。備前守
おおたわらはるきよ
山城守縄清の長男
寛政譜11・75
母は角田源左衛門の女


室は那須顕高入道資貞の女

天正18年 秀吉に拝謁。備前守

(天正18年) 父縄清の遺跡を継ぐ。下野国大田原城7100石

慶長5年 下野国大田原城7900石

慶長7年12月25日 下野国大田原城1万2400石

寛永2年 従五位下

寛永8年2月5日
大田原晴清四女
寛政譜11・76
大田原備前守晴清の四女
寛政譜12・70 寛永16年11月4日 岡本宮内子内蔵助と太田原左兵衛妹縁辺 ●「日記」


岡本内蔵助義政に嫁ぐ

正保元年9月22日 夫義政が召預

正保元年9月22日 内蔵助子二人之内女四歳男三歳幼少故母ともニ在江戸也 ●「日記」


以下不詳
大田原政清 慶長17年 生。左兵衛。備前守
おおたわらまさきよ
備前守晴清の長男
寛政譜11・76
母は那須顕高入道資貞の女


室は織田左衛門佐長政の女

寛永8年 父晴清の遺領を継ぐ。下野国大田原城1万2400石

寛永8年4月11日 父晴清の遺領を継ぐ ●「日記」

寛永10年7月2日 縁辺組 ●「日記」

慶安元年12月30日 従五位下・備前守

寛文元年3月5日
大田原政継 慶長18年 生。掃部。出雲
おおたわらまさつぐ
出雲守増清の男
寛政譜11・80
妻は大田原備前守晴清の女

元和7年5月5日 はじめて秀忠に拝謁

寛永8年 父増清の遺跡を継ぐ。下野国森田1500石

寛永8年5月20日 遺領相続 ●「日記」

(寛永19年4月17日) (出雲守) ●「日記」

延宝3年5月16日 致仕

天和3年3月13日 死す
大田原増清 元亀元年 生。出雲守
おおたわらますきよ
山城守縄清の次男
寛政譜11・79
母は角田源左衛門の女


妻は福原安芸守資孝の女

天正16年 秀吉に拝謁。従五位下・出雲守

天正19年 はじめて家康に拝謁。小姓。月俸30口

慶長5年 下野国森田1000石

慶長7年12月28日 下野国森田1500石

寛永8年3月16日 死す
大塚市左衛門

おおつかいちざえもん


(正保元年1月5日) (御徒衆) ●「日記」



大津勝重
生。助十郎
おおつかつしげ
助左衛門勝正の男
寛政譜18・288
妻は原亀蔵重久の女


秀忠に仕える。納戸。230俵


家光に仕える

寛永13年3月11日 納戸組頭 ●「日記」共

寛永20年3月13日 死す
大津重利
生。又七郎
おおつしげのり
助十郎勝重の長男
寛政譜18・289
母は原亀蔵重久の女


妻は大奥の侍女浅井の女

寛永13年12月15日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永19年6月20日 書院番

寛永19年6月20日 大津又四郎御書院番 ●「日記」

寛永20年12月7日 父勝重の遺跡を継ぐ。230俵 ●「日記」共

万治2年8月13日 300俵


書院番を辞す。小普請

延宝3年2月11日 死す
多忠朝
生。(内記)。佐渡守
おおのただとも
摂津守忠秀の次男
地下家伝上・637 寛永19年 紅葉山楽人
宮廷公家系図集覧617 寛永19年8月27日 御切米五十石十人扶持多内記従当年被下之 ●「日記」


従五位上。佐渡守

寛文7年2月25日
多忠秀
生。左衛門少志。左兵衛少尉。左近将監。摂津守
おおのただひで
備前守忠季の三男
地下家伝上・481
京都方楽人
宮廷公家系図集覧617
従六位下

天正7年9月10日 左衛門少志

文禄元年5月28日 左兵衛少尉


従六位上

慶長2年12月27日 左近将監

慶長11年1月6日 従五位下・摂津守

正保2年9月14日
大野仁兵衛

おおのにへえ
土井大炊頭利勝の家臣

(寛永9年7月25日) 増上寺普請下奉行 ●「日記」



大橋重政 元和4年 生。小三郎。長左衛門
おおはししげまさ
式部卿法印龍慶長左衛門重保の長男
寛政譜8・159
妻は一色式部少輔範勝の女

寛永4年 はじめて家光に拝謁

寛永8年 右筆

寛永11年 父重保の采地を賜る。500石

寛文12年閏6月30日 死す
大橋重保 天正10年 生。勝千代。長左衛門。龍慶。式部卿法印
おおはししげやす
左兵衛重慶の男
寛政譜8・158 天正12年 父重慶討死により伯母のもとに養われる

天正18年 南禅寺にて以心崇伝に師事

文禄2年 豊臣秀次に仕えるか

文禄4年 西国に流浪


大坂にて片桐市正且元に属す


豊臣秀頼に仕える。右筆

慶長19年 片桐且元とともに大坂を去る

慶長19年 大坂の役にて負傷し蟄居

元和3年3月17日 秀忠に仕える。右筆。500石

寛永10年 病により右筆を辞す。なお御傍に勤仕。―


―家光の命により剃髪。龍慶と号す

寛永11年 500石を長男重政に譲る。300俵

寛永11年秋 法印。式部卿

寛永12年12月30日 廩米を改め牛込郷30町余を賜る

寛永12年12月30日 三百俵之御切米地方被仰付高田近所にて被下之 ●「日記」

正保2年2月4日 死す
大橋庄六

おおはししょうろく
与左衛門の男

正保元年12月25日 跡目被仰付百五拾俵大橋与左衛門惣領庄六 ●「日記」



大橋宗桂
生。宗金。宗慶。宗桂
おおはしそうけい
宗也の男


将棋

寛永11年3月9日 死す
大橋宗古 天正4年 生。宗古
おおはしそうこ
宗桂の長男


将棋

承応3年7月15日 死す
大橋宗与
生。宗与。宗有
おおはしそうよ
宗桂の次男


囲碁将棋

(寛永12年9月18日) (宗有) ●「日記」

寛永12年12月1日 碁打将棋さし依為無足於大津御切米被下之所謂―


―宗与弐拾石 ●「日記」 別人か?

慶安元年11月15日 死す
大橋宗与(2)

おおはしそうよ
宗与宗有の子か? 道仙か?

寛永12年12月1日 碁打将棋さし依為無足於大津御切米被下之所謂―


―宗与弐拾石 ●「日記」



大橋親勝 永禄9年 生。兵右衛門。越後守
おおはしちかかつ
海老丞親俊の男
寛政譜16・169 ~天正19年 家康に仕える

慶長5年 秀忠に仕える。大番

元和元年 大坂の役にて阿部備中守正次に属す

元和9年 東福門院に付属される

寛永3年12月18日 従五位下・越後守

寛永8年9月19日 死す

(寛永10年2月19日) (東福門院付替の派遣とあり) ●「日記」
大橋親善 慶長5年 生。金弥。兵右衛門。五左衛門。残男
おおはしちかよし
越後守親勝の長男
寛政譜16・169
母は権田織部佑泰長の女

~元和元年 秀忠に仕える

元和9年 家光に仕える

~寛永9年 大番組頭

(寛永8年) (父親勝の遺跡を継ぐ? 1120石?)

寛永16年6月26日 千代姫君の用人

寛永16年6月26日 千代姫君御方へ被為付之 ●「日記」

(寛永16年9月18日) (五左衛門の初出) ●「日記」

寛永16年9月18日 2120石

寛永16年9月18日 御加恩千石 ●「日記」

寛文5年12月21日 剃髪。残男と号す

寛文7年 死す
大橋道仙

おおはしどうせん
囲碁将棋






大橋与左衛門

おおはしよざえもん


(正保元年) 死す

(正保元年12月25日) (民部少支配方) ●「日記」朽木民部少輔支配
大原久右衛門

おおはらきゅうえもん
松平石見守池田輝澄に仕える

(寛永17年7月26日) (松平石見守家中) ●「日記」

寛永17年7月26日 父子共死罪 ●「日記」



大原源右衛門

おおはらげんえもん
久右衛門の男か

(寛永17年7月26日) (松平石見守家来) ●「日記」

寛永17年7月26日 切腹 ●「日記」



大平俊堅 (永禄8年) 生。角助。角右衛門
おおひらとしかた
但馬守家次の男
寛政譜10・79
妻は北条家臣増田治右衛門の女


父家次とおなじく織田三七信孝に仕える

(天正11年) 主君信孝死去ののち近江国甲賀に居住


九鬼大隅守嘉隆のもとに寓居


池田伊予守秀雄のもとに寓居


江戸に至る。青山播磨守忠成のもとにあり

文禄元年 はじめて秀忠に拝謁。御傍に近侍

(元和元年) 200石

元和9年 上洛のとき奥方番

寛永11年 番を辞す

寛永19年2月2日 死す
大平俊宗 慶長11年 生。勘七郎。角助
おおひらとしむね
角右衛門俊堅の養子。服部八郎左衛門の男
寛政譜10・80
妻は角右衛門俊堅の長女

元和8年 はじめて秀忠に拝謁

元和9年~寛永11年 鳥見役

寛永15年12月18日 御扶持方五人扶持被下之 ●「日記」

寛永19年12月20日 父俊堅の遺跡を継ぐ。200石

寛永19年12月20日 日来抽御奉公之間養父角右衛門跡職不残被下之 ●「日記」

承応2年10月28日 鳥見役組頭

延宝6年2月17日 死す
大峯当山
大和国大峯山。醍醐寺三宝院末。修験当山派
おおみねとうざん




大峯当山二ノ宿
大和国大峯山。葛城二ノ宿か
―にのしゅく (寛永12年9月28日) (大峯当山二ノ宿御目見) ●「日記」



太宮大蔵

おおみやおおくら


(寛永17年5月9日) (二条殿使者) ●「日記」

(寛永20年4月4日) (地下大宮大蔵少) ●「日記」



大村久五郎 寛永14年
おおむらきゅうごろう
久左衛門の男

寛永19年7月8日 死罪か ●「日記」



大村久左衛門

おおむらきゅうざえもん


(寛永19年7月8日) (浅草御城米手代) ●「日記」

(寛永19年7月8日) (北見長七郎手代) ●「日記」

寛永19年7月8日 斬罪 ●「日記」
大村純信 元和4年 生。松千代。丹後守
おおむらすみのぶ
民部大輔純頼の長男
寛政譜12・201
(丹後守嘉前の男か) ●「日記」


母は家臣大村右近頼直の女


室は伊丹播磨守勝長の女

元和6年5月15日 父純頼の遺領を継ぐ。肥前国大村2万7900石

元和7年5月4日 はじめて秀忠に拝謁

寛永10年7月2日 縁辺組 ●「日記」

(寛永10年7月2日) (丹後子大村松千代) ●「日記」

(寛永12年6月30日) (松千代と丹後守を並記) ●「日記」

(寛永13年2月29日) (松千世) ●「日記」

(寛永16年8月10日) (丹後守) ●「日記」

寛永20年12月29日 従五位下・丹後守

寛永20年12月29日 諸大夫 ●「日記」

正保元年6月23日 肥前国久嶋城2万7900石

慶安3年5月26日
大村信高
生。助兵衛。藤右衛門
おおむらのぶたか
藤兵衛高光の男
寛政譜21・396
家光に仕える。先手与力

(寛永20年4月19日) (御切米八拾石) ●「日記」

(寛永20年4月19日) (屋代越中守与力) ●「日記」

寛永20年4月19日 只今迠之御番被成御免向後御役可被仰付之間可存其旨之由―


―小十人組御番所之次ニて老中被伝之 ●「日記」


中根壱岐守正盛に属す。国廻役

某年 死す
大村嘉前 永禄12年 生。新八郎。丹後守
おおむらよしさき
民部大輔純忠の長男
寛政譜12・199
母は西郷二郎三郎純久の女


室は有馬修理大夫義純の女

天正15年 秀吉に拝謁。肥前国大村2万7900石

慶長3年11月 家康に拝謁

慶長4年1月11日 従五位下・丹後守

元和元年春 致仕

元和2年8月8日
大村理介

おおむらりすけ


(寛永17年5月15日) (大村丹後守家中証人) ●「日記」



大村六郎次郎

おおむらろくろうじろう


(正保元年5月19日) (大村丹後守証人) ●「日記」



大森彦左衛門

おおもりひこざえもん
職人か。奈良墨屋か?






大森好輝 元和8年 生。猪之助。半七郎
おおもりよしてる
半七郎好長の長男
寛政譜5・365
母は加藤勘助重正の女


妻は甲斐庄喜右衛門正述の女

寛永11年2月8日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永15年 書院番

正保元年12月25日 父好長の遺跡を継ぐ。1470石

正保元年12月25日 跡目被仰付千四百石大森半七惣領猪之助 ●「日記」

寛文元年閏8月13日 徒頭

寛文元年12月28日 布衣

延宝3年12月23日 留守居番

延宝5年 留守居番を辞す。小普請

貞享元年3月20日 死す
大森好長
生。半七郎
おおもりよしなが
半七郎好治の長男
寛政譜5・365
妻は加藤勘助重正の女

慶長9年 はじめて家康に拝謁

慶長19年 300石

元和2年3月15日 500石

元和3年 井上主計頭正就の組に属す

元和5年 700石

寛永2年7月25日 770石

寛永6年 膳番奉行

寛永9年8月18日 使番 ●「日記」共

寛永10年4月16日 目付 ●「日記」共

寛永10年8月10日 持筒頭 ●「日記」共

寛永10年 布衣

寛永10年12月27日 1470石

寛永10年12月27日 七百石御加恩 ●「日記」

正保元年10月3日 死す
大森頼直 慶長12年 生。久七郎。信濃守。はじめ佐久間を称す
おおもりよりなお
佐久間六左衛門頼照の長男
寛政譜11・321
母は鵜殿三郎九郎勝成の女


妻は小幡氏

元和7年 はじめて秀忠に拝謁

寛永2年 小姓組

~寛永3年 200石

寛永10年2月7日 400石


勘気を蒙るか

寛永13年8月24日 御勘気御赦免 ●「日記」

寛永19年10月16日 家綱に付属される ●「日記」共

寛永20年1月10日 布衣 ●「日記」共

正保4年12月5日 700石

慶安3年9月8日 守役

慶安4年8月16日 従五位下・信濃守。大森に復す

慶安4年11月21日 1200石

万治元年閏12月14日 交代で昼夜の番をつとめる

万治3年12月12日 2000石

寛文4年6月28日 4000石

寛文10年12月26日 5000石

天和元年10月6日 死す
大屋小十郎
大屋小右衛門正利のことか?寛政譜14・48
おおやこじゅうろう (寛永10年2月21日) (御鷹師) ●「日記」

寛永13年11月9日 銀子十枚被下之是昨日御拳之鷹居候ニヨリテナリ ●「日記」



大山
相模国。阿夫利神社
おおやま




大山寺
相模国。真言宗
―でら




大山宮内卿
土山か
おおやまくないきょう
知恩院門跡良純法親王に仕える

(寛永16年4月13日) (八宮使僧) ●「日記」



大山三吉右兵衛

おおやまさんきちうひょうえ


(寛永17年5月9日) (知恩院御門跡之内) ●「日記」



大山主水

おおやまもんど


(寛永17年5月9日) (知恩院御門跡之内) ●「日記」



大屋之政
生。孫左衛門
おおやゆきまさ
小左衛門吉正の五男
寛政譜14・51
妻は松平甲斐守家臣鈴木弥右衛門の女

~慶長19年 秀忠に仕える

元和元年~ 250俵。手鷹匠

(寛永15年10月14日) (御鷹師) ●「日記」

明暦2年10月20日 死す
岡家重
生。弥伝次。道和。元春
おかいえしげ
九郎右衛門家俊の次男
寛政譜17・222
宇喜多中納言秀家に仕える

慶長5年 宇喜多家を去る。京に住す。小児医



岡谷重信
生。与五兵衛。(佐左衛門)
おかがやしげのぶ
佐左衛門泰重の男
寛政譜17・234
妻は牧野助兵衛正照の女

寛永13年3月25日 はじめて家光に拝謁

寛永13年3月25日 岡谷佐左衛門尉子被召出之 ●「日記」

寛永13年3月25日 大久保右京亮組(大番) ●「日記」

寛永13年12月27日 大番 ●「日記」共

(明暦3年~) 死す
岡谷泰重
生。佐左衛門
おかがややすしげ
勘解由左衛門泰信の男
寛政譜17・234 天正19年12月 家康に仕える

文禄元年 小田原にて采地を賜る

慶長5年 秀忠に仕える。大番

寛永元年 徳川忠長に付属される

寛永10年 家光に仕える

寛永11年 もとのごとく采地を賜る

(寛永13年3月25日) (大久保右京亮組) ●「日記」


以下不詳
岡崎宣持 元和2年9月12日 生。内匠頭。了功琢翁
おかざきのぶもち
中御門大納言尚良の次男
諸家伝下・1039 寛永8年4月24日 従五位下。元服。内匠頭
宮廷公家系図集覧429 (寛永11年7月21日) (院中) ●「日記」

寛永12年1月5日 従五位上

寛永16年1月5日 正五位下

寛永20年1月5日 従四位下

正保4年1月5日 従四位上

慶安4年1月5日 正四位下

承応2年8月21日 従三位


出家。了功琢翁と号すか

寛文12年12月24日 薨去
小笠原久兵衛
良政か政朋か
おがさわらきゅうびょうえ
紀伊家臣。1000石
寛政譜19・60




小笠原清政
生。采女。与左衛門
おがさわらきよまさ
与左衛門清有の長男
仮名別諸士系譜2・72
妻は加納五郎右衛門直恒の四女
寛政譜19・55 慶長17年 父清有の遺跡を継ぐ。1830石。徳川頼宣に仕える

元和5年 大番頭

明暦2年6月3日 死す
小笠原貞利
生。与左衛門。市左衛門。五左衛門
おがさわらさだとし
彦三郎長行の養子。河野勝左衛門盛政の三男
寛政譜4・118
母は彦三郎長行の女


妻は横山弥七郎一吉の女

慶長10年 秀忠に仕える


300石


大番

元和2年 徳川忠長に付属される

(寛永9年) 処士

寛永11年 家光に拝謁。大番


300石


400石

万治3年4月17日 死す
小笠原貞信(源四郎) 慶長7年 生。源四郎
おがさわらさだのぶ
丹斎経治の次男
寛政譜4・19
妻は稲富喜大夫直賢の女

元和2年 はじめて秀忠に拝謁


大番

元和5年 200俵

寛永10年2月7日 400石

~寛永16年 500石


大番を辞す。小普請

寛文12年11月13日 死す
小笠原貞信(土佐) 寛永8年 生。伊勢松。新五郎。主膳。土佐守。一玄
おがさわらさだのぶ
左衛門佐政信の養子。高木権右衛門貞勝の長男
寛政譜4・25
母は小笠原左衛門佐信之の次女


室は左衛門佐政信の次女


継室は遠藤但馬守慶利の女

寛永16年9月 政信の養子となりその女を室とする

寛永16年9月26日 小笠原左衛門佐養子仕度之由連々望之趣達御耳―


―心次第可仕 ●「日記」

寛永17年2月10日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永17年9月14日 養父政信の遺領を継ぐ。下総国関宿城2万2700石。のち帝鑑間に伺候

寛永17年9月14日 小笠原左衛門佐跡職養子主膳ニ相続被仰付之 ●「日記」

寛永17年9月15日 小笠原主膳御小袖并太刀目録黄金等献之始て御目見―


―是養父小笠原左衛門佐跡職被仰付御礼右過て酒井宮内大輔―


―戸田左門牧野右馬允御目見是左衛門佐跡目養子主膳被仰付御礼也―


―右三輩は左衛門佐ト由緒有之付て也 ●「日記」

寛永17年9月28日 美濃国高須2万2700石

寛永17年9月28日 本知之積を以於濃州之内被下之 ●「日記」

明暦2年12月26日 従五位下・土佐守

元禄4年7月26日 越前国勝山2万2700石

元禄15年7月28日 致仕。一玄と号す

正徳4年6月17日
小笠原貞正
生。弥左衛門
おがさわらさだまさ
家光に仕える。町奉行与力
寛政譜19・68 (寛永20年4月19日) (弐百弐拾石) ●「日記」

(寛永20年4月19日) (朝倉石見守組与力) ●「日記」

寛永20年4月19日 只今迠之御番被成御免向後御役可被仰付之間可存其旨之由―


―小十人組御番所之次ニて老中被伝之 ●「日記」

寛永20年9月11日 三百石被下之 ●「日記」


国廻役

(寛文元年) 死す
小笠原茂久 慶長10年 生。兵右衛門
おがさわらしげひさ
長左衛門義信の養子。大村弥兵衛高重の次男
仮名別諸士系譜2・96
養父義信の隠居地の内1000石を賜る。家康に仕える

元和2年 徳川頼宣に付属される

寛文2年 物頭。武藤小十郎元組

寛文10年7月19日 死す
小笠原忠真 慶長元年 生。春松丸。大学頭。右近大夫。右近将監。侍従
おがさわらただざね
兵部大輔秀政の次男
寛政譜3・393
母は岡崎三郎松平信康の長女峰高寺殿
幕府祚胤伝
室は本多美濃守忠政の次女
(徳川諸家系譜2・28) 慶長11年2月2日 秀忠の御前にて元服。偏諱を賜る。大学頭

慶長16年3月11日 従五位下

元和元年7月17日 父秀政の遺領を継ぐ。信濃国松本城8万石

元和元年11月24日 右近大夫

元和2年 兄信濃守忠脩の後家を室とする

元和3年7月28日 播磨国10万石

元和5年8月 播磨国明石城10万石

寛永元年1月2日 父秀政の例により謡初に着座

寛永9年10月11日 豊前国小倉城15万石

寛永9年10月11日 豊前国の内15万石 ●「日記」

寛永11年7月16日 従四位下

寛永11年7月16日 四品 ●「日記」

寛文2年5月19日 長崎異国船諸事指揮

寛文3年12月29日 侍従。右近将監

寛文7年10月18日
小笠原忠知 慶長4年 生。虎松丸。壱岐守
おがさわらただとも
兵部大輔秀政の三男
寛政譜3・404
母は岡崎三郎松平信康の息女


室は小笠原家臣多賀長兵衛光定の女

慶長12年 はじめて秀忠に拝謁

慶長19年12月 従五位下・壱岐守

慶長19年 5000石

寛永2年 書院番頭

寛永3年12月30日 大番頭

寛永9年4月24日 奏者番・大番頭

寛永9年10月11日 豊後国杵築城4万石。与力10人を家臣とする

寛永9年10月11日 豊前国の内4万石 ●「日記」

寛永9年11月 奏者番・大番頭をゆるされる

寛永9年11月12日 大番の組衆を松平外記忠実に引き継ぐ ●「日記」

正保2年7月14日 三河国吉田城4万5000石

正保4年5月4日 詰衆

慶安4年5月 日光山へ家光の霊柩に従う

慶安4年6月13日 奏者番

明暦3年1月22日 交代で府内巡視

寛文元年5月22日 奏者番を辞す。雁間に伺候

寛文3年7月29日
小笠原太郎兵衛

おがさわらたろうびょうえ
小笠原右近将監忠真に仕える

(寛永14年7月6日) (小笠原右近大夫下奉行) ●「日記」



小笠原経治 天正4年 生。源次郎。寧倹斎。丹斎
おがさわらつねはる
治部入道丹斎玄通貞経の長男
寛政譜4・16
母は相馬大膳大夫家臣黒木修理進の女


妻は伊藤九左衛門の女

慶長10年 はじめて秀忠に拝謁

慶長19年 父貞経の遺跡を継ぐ。500俵。命により薙髪

寛永12年8月7日 死す
小笠原直経 元和4年 生。権六郎。丹斎
おがさわらなおつね
丹斎経治の三男
寛政譜4・17
母は伊藤九左衛門の女


妻は榊原源兵衛正重の女

寛永13年11月24日 父経治の遺跡を継ぐ。500俵。剃髪

寛永13年11月24日 小笠原丹斎五百俵二番め権六郎跡目被仰付之 ●「日記」

寛永13年12月28日 はじめて家光に拝謁

寛永13年12月28日 小笠原丹斎跡職依被仰付御目見 ●「日記」


命により修身論の序文および目録を台覧に備える

寛文11年12月8日 式正の弓矢を献上し賞される

延宝6年11月3日 家伝の書を献上

延宝6年11月21日 死す
小笠原長敦 寛永4年 生。出羽守
おがさわらながあつ
壱岐守忠知の次男
寛政譜3・406
母は小笠原家臣多賀長兵衛光定の女

寛永12年12月28日 はじめて家光に拝謁

寛永12年12月28日 小笠原壱岐守二男初て御目見 ●「日記」

慶安4年5月11日 死す
小笠原長真
生。源六郎
おがさわらながざね
縫殿助長房の長男
寛政譜4・11
母は北条家臣山角左近大夫の女


妻は山岡新太郎景本の女

元和元年 はじめて秀忠に拝謁

元和9年 秀忠に仕える。大番

寛永9年7月5日 小普請奉行

寛永9年7月5日 定普請奉行 ●「日記」

寛永9年10月7日 同心3人 ●「日記」共

(寛永10年6月9日) (破損奉行) ●「日記」

(寛永18年12月29日) (小普請奉行) ●「日記」

寛永20年12月7日 父長房の家を継ぐ。550石

寛永20年12月7日 五百八十石縫殿助跡 ●「日記」

寛文2年6月6日 死す
小笠原長住 寛永6年 生。万千代。彦大夫。空信
おがさわらながずみ
安芸信盛の長男
寛政譜4・2
妻は向井将監忠勝の女


後妻は佐藤駿河守吉次の女

寛永17年2月10日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保3年7月6日 小姓組

慶安3年9月3日 西丸に勤仕

(慶安4年) 本丸に勤仕

万治元年閏12月19日 小姓組。進物役

寛文10年4月18日 船手頭

寛文10年12月28日 布衣

寛文11年12月12日 父信盛の遺跡を継ぐ。2200石

天和2年4月21日 2600石

宝永3年6月13日 船手頭を辞す。寄合

宝永4年7月21日 致仕。空信と号す

宝永5年6月14日 死す
小笠原長次 元和元年 生。幸松丸。信濃守
おがさわらながつぐ
信濃守忠脩の男
寛政譜3・400
母は本多美濃守忠政の女


室は松平周防守松井康重の女

寛永元年 はじめて秀忠に拝謁

寛永3年9月16日 播磨国竜野6万石

寛永6年10月18日 従五位下・信濃守

寛永8年2月28日 縁組 ●「日記」

寛永9年10月11日 豊前国中津8万石

寛永9年10月11日 豊前国の内8万石 ●「日記」

寛文6年5月29日
小笠原長利
生。彦十郎。五左衛門
おがさわらながとし
五左衛門貞利の長男
寛政譜4・118
妻は大久保七兵衛正重の女

寛永20年3月3日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

慶安2年12月26日 大番

万治3年12月23日 父貞利の遺跡を継ぐ。400石

延宝8年3月23日 死す
小笠原長矩 寛永元年 生。千勝丸。民部。山城守
おがさわらながのり
壱岐守忠知の長男
寛政譜3・405
母は家臣多賀長兵衛光定の女


室は菅沼織部正定芳の女

寛永9年8月15日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保元年12月29日 従五位下・山城守

正保元年12月29日 諸大夫 ●「日記」

寛文3年10月9日 父忠知の遺領を継ぐ。三河国吉田城4万石

寛文3年10月26日 奏者番

寛文6年7月19日 奏者番・寺社奉行

延宝6年2月6日 奏者番・寺社奉行を辞す

延宝6年2月8日
小笠原長房
生。六郎。市左衛門。縫殿助
おがさわらながふさ
播磨守康広の男
寛政譜4・11
母は北条左京大夫氏康の女


妻は北条家臣山角左近大夫の女


北条氏直に仕える

天正18年 役所廻の奉行


氏直に従い高野山に赴く

文禄元年 京都にて父康広とともに家康に拝謁。家康に仕える

慶長元年5月 350石

慶長5年 上田城攻めにて秀忠に従う

元和9年 大番組頭

寛永5年~ 550石

寛永20年12月7日 致仕

明暦元年6月6日 死す
小笠原長泰 文禄4年 久松丸。(孫右衛門)。靭負
おがさわらながやす
靭負長臣の次男
寛政譜4・30
母は武田兵庫頭信実の女


妻は知久伊左衛門則直の女

慶長19年 大坂の役にて父長臣とともに箱根の関を守る

元和元年 大坂の役にて父長臣とともに河内国枚方の関を守る

~寛永11年 父長臣の家を継ぐ。信濃国伊那郡松尾庄の事を沙汰。―


―信濃国伊那郡松尾庄伊豆木1000石

(寛永12年12月28日) (知久伊左衛門尉小笠原孫右衛門座光寺喜兵衛参府御目見)●「日記」

(寛永16年6月1日) (靫負の初出) ●「日記」

延宝4年8月19日 死す
小笠原長安 元和4年 生。千松。平十郎。兵部大輔
おがさわらながやす
右近将監忠真の長男
寛政譜3・395
母は本多美濃守忠政の女

寛永15年12月30日 従五位下・兵部大輔

寛永15年12月30日 諸大夫 ●「日記」

寛文7年閏2月5日
小笠原信盛 慶長10年 生。安芸
おがさわらのぶもり
孫三信重の長男
寛政譜4・2
母は駿河国富士浅間神職の富士能登信通の女

慶長11年12月26日 父信重が死す

慶長16年6月 はじめて秀忠に拝謁

慶長17年9月 祖父安芸守信元の遺跡を継ぐ。2500石

慶長19年 大坂の役にて相模国三崎・走水の番


上洛のとき走水の番

寛永9年6月25日 船手

寛永9年6月25日 御船之義可申付 ●「日記」

寛永9年8月14日 水主同心30人を預かる ●「日記」共

寛永13年12月29日 布衣 ●「日記」共

寛永17年6月22日 (安芸守) ●「日記」

寛永17年6月22日 九州四国中国之浦々為見分船手之面々毎年二人宛可被遣之旨被仰出之―


―所謂辰年小浜久太郎間宮虎之助巳年石川八左衛門向井右衛門―


―午年小浜弥十郎小笠原安芸守右之通代々可相越 ●「日記」

寛文10年4月14日 船手を辞す

寛文11年7月23日 死す
小笠原信吉 慶長10年 生。七左衛門。丹波守。残休
おがさわらのぶよし
孫三郎信重の次男
寛政譜4・5
母は駿河国富士浅間神職の富士能登信通の女


妻は布施孫兵衛重直の女

元和5年 はじめて家光に拝謁


小姓

元和6年 200俵

元和8年 小姓組

寛永10年 書院番

寛永10年2月7日 400石

寛文3年1月15日 新院(後西天皇)に付属される。900石

寛文3年1月18日 与力2騎同心15人

寛文3年4月17日 従五位下・丹波守

延宝5年9月13日 務めを辞す

延宝5年閏12月12日 致仕。300俵。残休と号す

元禄8年8月10日 死す
小笠原備前

おがさわらびぜん


(寛永18年5月6日) (細川肥後守陪臣) ●「日記」



小笠原広正 慶長6年 生。内記。十右衛門
おがさわらひろまさ
新九郎広勝の養子。小笠原七郎右衛門安勝の男
寛政譜4・63
妻は小笠原太郎左衛門安勝の女


家光に仕える。小姓組


300俵

寛永10年2月7日 500石

(寛永18年10月19日) (十右衛門の初出) ●「日記」

寛永20年8月30日 家綱に付属される。三丸に祗候 ●「日記」共

慶安3年9月4日 書院番。西丸に勤仕


本丸に勤仕

万治元年閏12月3日 死す
小笠原広安 慶長11年 生。孫六郎。八右衛門
おがさわらひろやす
孫左衛門広信の長男
寛政譜4・7
母は大久保右馬允の女


妻は布施孫兵衛重直の女

元和5年11月 はじめて家光に拝謁

元和6年4月 小姓組


200俵


400俵

寛永10年2月7日 600石

寛永20年8月30日 家綱に付属される。三丸に勤仕 ●「日記」共

慶安3年9月4日 西丸書院番

(慶安4年) 本丸に勤仕

延宝6年5月5日 死す
小笠原政信 慶長12年 生。伊勢次郎。若狭。左衛門佐
おがさわらまさのぶ
左衛門佐信之の長男
寛政譜4・25
母は祖父掃部信嶺の女


室は板倉内膳正重昌の女

慶長19年 父信之の遺領を継ぐ。下総国古河城2万石

慶長19年7月28日 はじめて家康に拝謁

元和5年10月20日 下総国関宿2万2700石

寛永4年9月14日 従五位下・左衛門佐

寛永17年7月2日
小笠原政信祖母
寛政譜4・24
武田逍遥軒入道信綱の女


小笠原掃部信嶺に嫁ぐ


女子を産む。のちの信嶺養子左衛門佐信之の室

(寛永10年5月12日) (このころ逝去か) ●「日記」
小笠原元定
生。左門
おがさわらもとさだ
縫殿助長房の次男
寛政譜4・13
母は北条家臣山角左近大夫の女


妻は青山作十郎成次の女

元和5年 家光に仕える。350石


腰物持

寛永18年4月12日 逼塞 ●「日記」共

寛永18年9月5日 ゆるされる

寛永18年9月5日 御赦免仕来御役如前々可相勤 ●「日記」

慶安3年8月27日 閉門

慶安3年10月19日 ゆるされる

承応元年9月29日 新番

万治元年4月26日 死す
小笠原義治
生。主馬。長左衛門
おがさわらよしはる
兄左門茂治の養子。長左衛門義信の次男
寛政譜19・58
紀伊家臣

(寛永13年12月21日) (紀伊亜相使者小笠原主馬) ●「日記」


以下不詳
小笠原義寛
生。弥太郎。伊右衛門
おがさわらよしひろ
久兵衛良忠の三男
寛政譜19・63
紀伊家臣

(慶長9年) 父良忠の遺跡分知。200石


250石


以下不詳
小笠原良政
生。久兵衛
おがさわらよしまさ
久兵衛良忠の次男
寛政譜19・60
紀伊家臣

(慶長9年) 父良忠の遺跡を継ぐ。1000石


以下不詳
小笠原六之助

おがさわらろくのすけ 寛永13年12月6日 初て御目見 ●「日記」






岡嶋壱岐守

おかじまいきのかみ
松平越後守光長の家臣



岡嶋右馬允
生。壱岐守の男
おかじまうまのじょう
松平越後守光長の家臣

寛永9年9月20日 父壱岐守の跡目 ●「日記」



岡嶋二郎兵衛

おかじまじろうひょうえ
寺沢兵庫頭堅高の家老



岡寿元 慶長3年 生。甫菴。法眼。静隠
おかじゅげん
伯父道和家重の養子。市助家成の男
寛政譜17・222
妻は吉田意安吉皓の女


京都にて小児医師

寛永18年 江戸に至る

寛永18年12月6日 はじめて家光に拝謁。家綱に付属される。200俵

(寛永19年9月5日) (若君様御医師) ●「日記」

寛永20年2月13日 小児医師甫庵外科宗印黄金被下之是従上方或母或妻子等―


―依引下之也 ●「日記」

正保3年1月23日 300俵

慶安4年9月15日 番医。大奥に伺候

承応元年12月18日 法眼

万治元年閏12月9日 番医を辞す

延宝8年12月25日 致仕

元禄4年9月28日 長男寿益追放されその家禄を賜る。300俵

元禄7年7月18日 死す
岡勝左衛門

おかしょうざえもん
商人か? 職人か?



岡宗亭

おかそうてい
商人か? 職人か?



岡孝賀
生。道琢。宮内卿。法印
おかたかよし
三河守孝興の男
寛政譜10・125 文禄4年 水戸にて今大路延寿院玄朔に医術を学ぶ

慶長18年5月12日 はじめて秀忠に拝謁。医師

元和5年9月21日 家光に付属される

寛永5年5月9日 法印。宮内卿

承応元年3月8日 死す
岡田九兵衛

おかだくへえ
松平下総守忠明家臣



岡田重治
生。左近。淡路守
おかだしげはる
佐右衛門利治の男
寛政譜4・217 慶長15年 秀忠に拝謁


家光に仕える。書院番

寛永9年11月5日 書院番・進物役

寛永9年11月5日 本番御免。進物番 ●「日記」

寛永10年1月17日 膳番。奥に伺候

寛永10年1月17日 御奥にて被召仕。御膳番 ●「日記」

寛永10年8月9日 徒頭 ●「日記」共

寛永11年閏7月29日 従五位下・淡路守

寛永11年閏7月29日 諸大夫 ●「日記」

(寛永12年1月1日) (淡路守の初出) ●「日記」

慶安3年5月3日 妻子ともに保科肥後守正之に召し預けられる

寛文3年7月20日 ゆるされる


以下不詳
岡田主馬
生。主馬
おかだしゅめ
新三郎の長男
寛政譜4・215 寛永9年12月1日 継目御礼 ●「日記」


家光に仕える。1200石


以下不詳
岡田新太郎

おかだしんたろう


寛永15年10月17日 御国御免 ●「日記」



岡田利永 慶長10年 生。内記。太郎右衛門。宗寿
おかだとしなが
隼人利次の次男
寛政譜4・215 慶長19年 秀忠に拝謁

元和元年 中奥に伺候

元和6年 650石

元和9年 小姓組

寛永3年7月 家光の上洛に従う

寛永9年 書院番

寛永10年2月7日 850石

寛永10年6月14日 書院番・進物役

寛永10年6月14日 進物番 ●「日記」

寛永16年~ 書院番を辞す。小普請

寛文10年10月14日 致仕。宗寿と号す

延宝4年2月22日 死す
岡田善同 永禄元年 生。右近。勝五郎。善右衛門。庄五郎。将監。伊勢守
おかだよしあつ
助左衛門重善の次男
寛政譜6・18
母は水野孫次郎重安の女


妻は織田河内守長孝の女


幼少より織田信長に仕える

天正12年 加賀国にて前田利家のもとに寓居


加藤清正に属す。加藤を称す


秀吉に仕える。岡田に復す

慶長6年6月9日 美濃国姫の郷5000石


美濃国奉行。近江・伊勢・筑後国郡代

(元和元年) 山田奉行を兼ねる

寛永6年9月13日 従五位下・伊勢守

寛永8年1月24日 美濃国大野郡のうち5080石

寛永8年5月29日 死す
岡田善房 寛永2年 生。源五郎
おかだよしふさ
豊前守義政の長男
寛政譜6・19 寛永10年2月19日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

慶安4年1月27日 死す
岡田義政 慶長10年 生。左京。将監。豊前守
おかだよしまさ
伊勢守善同の次男
寛政譜6・19
妻は佐久間大膳亮勝之の女

慶長14年 はじめて家康に拝謁

寛永8年1月24日 1000石 ●「日記」共

寛永8年8月 父善同の遺跡を継ぐ。美濃国大野郡5080石。―


―山田奉行。美濃国奉行。近江・伊勢・筑後国郡代

(寛永11年2月28日) (将監の初出) ●「日記」

(正保元年2月5日) (御代官) ●「日記」

承応2年12月28日 布衣

万治2年11月14日 従五位下・豊前守

万治3年5月30日 勘定頭。7200石

寛文10年2月13日 勘定頭を辞す

寛文10年12月3日 致仕

延宝5年6月2日 死す
岡道琢
生。(仙竹)。道琢
おかどうたく
宮内卿法印道琢孝賀の長男
寛政譜10・125 正保元年1月10日 銀弐拾枚道琢子仙竹今度諸家系図被仰付依令首尾被下之 ●「日記」

(承応元年) 父孝賀の遺跡を継ぐ。300俵。医師

延宝7年 死す
多門重仲
生。権九郎
おかどしげなか
縫殿助信清の次男
寛政譜8・151
徳川忠長に仕える

(寛永9年) 処士

寛永13年12月10日 赦免 ●「日記」共


以下不詳
多門伝五郎
伝八郎信利か
おかどでんごろう


寛永13年12月27日 大御番被仰付之 ●「日記」



多門信利 慶長12年 生。平次郎。(伝五郎)。伝八郎
おかどのぶとし
縫殿助信清の長男
寛政譜8・151
母は羽太半蔵正次の女


妻は大奥の侍女某氏の養女

寛永元年 はじめて家光に拝謁


大番。200俵

寛永10年2月2日 400石


大番を辞す

寛永13年12月27日 大番

寛永13年12月27日 多門伝五郎大御番被仰付之 ●「日記」

寛永14年9月18日 小普請奉行 ●「日記」共

寛永19年4月11日 徒頭 ●「日記」共

寛永19年12月30日 布衣 ●「日記」共

慶安4年11月21日 400石300俵

万治3年1月29日 徒頭を辞す。寄合

延宝4年4月15日 死す
多門信正
生。平兵衛
おかどのぶまさ
縫殿助信清の養弟。某氏の男
寛政譜8・156
母は多門縫殿助重信の長女


妻は水野伝兵衛近信の女

慶長13年 秀忠に仕える

元和5年 駿府城の守衛


徳川忠長に付属される

(寛永9年) 勘気を蒙る。処士

寛永10年 家光に仕える。大番。200俵


200石

(寛永13年3月25日) (大久保右京亮組) ●「日記」


大番を辞す。小普請

寛永13年 死す
多門正勝 慶長元年 生。平次郎
おかどまさかつ
平左衛門成正の長男
寛政譜8・153
母は遠藤氏


妻は石丸与五左衛門正次の女

~慶長19年 家康に仕える。小姓。200石


秀忠に仕える。400石

寛永6年 道奉行

寛永13年~ 400石250俵

万治2年2月28日 道奉行を辞す。寄合

寛文8年10月6日 死す
多門正友 慶長9年 生。甚右衛門
おかどまさとも
平左衛門成正の次男
寛政譜8・155
母は遠藤氏


家光に仕える。小十人


100俵


200俵

寛永19年8月18日 蔵奉行

寛永19年8月18日 御城米方御蔵奉行 ●「日記」


納戸番

寛文9年4月9日 死す
多門正吉
生。勘左衛門。平兵衛
おかどまさよし
平兵衛信正の男
寛政譜8・157
母は水野伝兵衛近信の女

寛永13年3月25日 大番

寛永13年3月25日 多門平兵衛子被召出之 ●「日記」

寛永13年3月25日 大久保右京亮組(大番) ●「日記」

(寛永13年) 父信正の遺跡を継ぐ。200石

寛文3年 死す
岡野貞明 元和8年 生。孫九郎
おかのさだあきら
権左衛門英明の次男
寛政譜8・324
母は岡野平兵衛房恒の女


妻は岡野内蔵允成明の女

寛永9年9月28日 はじめて家光に拝謁

寛永15年1月15日 書院番 ●「日記」共

万治元年閏12月19日 書院番。進物役

寛文3年10月9日 父英明の遺跡を継ぐ。1000石

寛文6年6月8日 使役

寛文6年12月23日 布衣

寛文12年3月30日 長崎奉行。1500石

延宝8年3月12日 長崎奉行を辞す。寄合

元禄2年7月5日 致仕。300俵

元禄3年1月12日 死す
岡野孝明 元和6年 生。大学。主税助。平左衛門
おかのたかあきら
権左衛門英明の長男
寛政譜8・324
母は岡野平兵衛房恒の女

寛永9年9月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永13年12月27日 書院番 ●「日記」共

(寛永16年12月13日) (主膳介(主税介)の初出) ●「日記」

寛永16年12月13日 岡野主膳介御切米三百俵被下之 ●「日記」

慶安3年閏10月21日 死す
岡野成明 慶長13年 生。内蔵允。閑入
おかのなりあきら
平兵衛房恒の長男
寛政譜8・318
母は北条家臣糟谷豊後守の女


妻は加藤喜助正重の女

元和5年 はじめて秀忠に拝謁

寛永元年11月 書院番。300俵

寛永10年2月7日 500石

寛永13年10月28日 書院番。進物役

寛永13年10月28日 御進物番 ●「日記」

明暦元年 父房恒の家を継ぐ。1500石

明暦元年9月10日 鉄炮頭

明暦元年12月29日 布衣

(寛文7年) 盗賊追捕

延宝8年2月23日 鉄炮頭を辞す。寄合

天和2年12月18日 致仕。600俵。閑入と号す

元禄7年10月10日 死す
岡野成恒 慶長元年 生。長十郎。美作守。肥前守。宗弓
おかのなりつね
平兵衛房恒の次男
寛政譜8・319
母は北条家臣糟谷豊後守の女


妻は金田八左衛門房能の女

寛永4年11月 はじめて家光に拝謁

寛永5年12月 書院番。150俵


小姓組

寛永10年2月7日 350石

寛永10年12月20日 中奥の番士

寛永10年12月20日 中奥御番 ●「日記」

寛永12年9月3日 奥に勤仕

寛永12年9月3日 於御奥御奉公可仕 ●「日記」

寛永16年12月28日 進物役

寛永16年12月28日 進物番 ●「日記」

万治元年9月1日 徒頭

万治元年閏12月25日 350石300俵

万治元年閏12月28日 布衣

寛文7年2月14日 駿府町奉行。350石600俵

寛文10年6月10日 綱重に付属される。家老。3000石

寛文10年12月28日 従五位下・美作守


致仕。宗弓と号す

延宝5年11月23日 死す
岡野英明 慶長5年 生。権左衛門
おかのひであきら
三右衛門房次の男
寛政譜8・323
母は大友氏


妻は岡野平兵衛房恒の女

慶長9年 はじめて家康に拝謁


徳川頼宣に仕える

元和2年1月 家康に仕える


秀忠に仕える

元和9年 510石

寛永3年3月11日 小十人組の番頭

寛永3年 710石

寛永5年 布衣

寛永10年8月6日 書院番組頭

寛永10年8月6日 御書院組頭 ●「日記」

寛永10年12月28日 1410石

寛永10年12月28日 七百石御加恩 ●「日記」

(寛永16年9月9日) (青山因幡守岡野権左衛門御目見是駿府御番依被遣之也) ●「日記」

慶安3年9月3日 西丸に勤仕

慶安4年6月18日 先鉄炮頭

寛文3年8月25日 死す
岡野房恒 元亀元年 生。平兵衛。平入
おかのふさつね
江雪融成の長男
寛政譜8・317
母は富田氏


妻は北条家臣糟谷豊後守の女


岩槻城主北条十郎氏房に仕える。偏諱を受ける

天正19年 家康に拝謁

天正19年 500石

寛永元年 鉄炮同心30人を預かる。1000石。布衣

(寛永元年) (先鉄炮頭か?)

寛永9年6月25日 馬上同心5騎同心30人を預かる

寛永9年6月25日 馬上同心5騎 ●「日記」

寛永10年12月27日 1500石

寛永10年12月27日 五百石御加増 ●「日記」


務めを辞す。寄合


家光に小田原の役当時のことを言上

明暦元年 致仕。500石。平入と号す

万治元年6月2日 死す
岡上景親
生。甚右衛門
おかのぼりかげちか
甚右衛門景親道鏡の男
寛政譜17・240 寛永8年 家光に仕える。代官。(父景親の遺跡を継ぐか)

明暦3年~貞享4年 死す
岡部伊折

おかべいおり 寛永12年3月21日 病後之御目見 ●「日記」

寛永15年1月15日 御書院番 ●「日記」



岡部牛之助
寛政譜10・122 庄兵衛吉澄か?
おかべうしのすけ 寛永9年8月19日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」






岡部興貞 寛永10年 生。左近。監物。対馬守
おかべおきさだ
丹波守与賢の次男
寛政譜14・141
母は三宅越後守康信の女


妻は鍋嶋紀伊守元茂の養女鍋嶋宗家の家臣多久美作茂辰の女

寛永20年3月3日 はじめて家光に拝謁

寛永20年3月3日 岡部丹波守惣領太刀目録を以初て御礼 ●「日記」

万治2年12月27日 従五位下・対馬守

寛文9年11月7日 死す
岡部景貞 文禄4年 生。八郎右衛門
おかべかげさだ
九郎左衛門宣貞の男
寛政譜21・283
母は岡部内膳正正綱の女


家光に仕える。書院番。400石


大番

寛永11年10月13日 改易

慶安4年10月17日 赦免

承応元年12月19日 400俵。大番


大番を辞す。小普請

寛文10年4月27日 死す
岡部一綱 文禄元年 生。庄九郎
おかべかずつな
庄左衛門長綱の次男
寛政譜14・148
妻は細井五左衛門正成の女


秀忠に仕える


父長綱より分知。500石


父長綱の勘気を蒙る。舅細井正成の許に退身

慶長19年 大坂の役にて召し返される。小姓組

元和元年 500石

寛永10年2月7日 700石

寛永10年12月1日 死す
岡部勝重 寛永14年 生。長吉。左近。覚左衛門。駿河守。はじめ伊丹を称す。外家の号を称す
おかべかつしげ
伊丹康勝入道順斎の三男
寛政譜5・126
妻は内田信濃守正信の養女酒井左衛門尉家臣高力喜兵衛一方の女

寛永18年10月3日 家綱に付属される。小姓

寛永18年10月3日 (名前のみの記載) ●「日記」

慶安3年9月4日 西丸の番士。300俵

(慶安4年) 本丸に勤仕

承応2年閏6月28日 父康勝の遺領分知。2620石

寛文8年2月21日 徒頭

寛文8年12月28日 布衣

寛文11年3月26日 目付

延宝3年5月13日 勘定頭。3000石

延宝6年8月16日 勘定頭を辞す。寄合

貞享元年2月26日 山田奉行

貞享元年12月25日 従五位下・駿河守

元禄9年2月12日 山田奉行を辞す

宝永元年6月27日 致仕

享保2年7月15日 死す
岡部忠勝 寛永7年 生。庄右衛門
おかべただかつ
庄九郎一綱の三男
寛政譜14・151
母は細井五左衛門正成の女

正保元年 徳川綱重生誕のとき付属される。小姓

正保元年9月9日 長松殿へ岡部庄九郎末子被召出之 ●「日記」


桜田館にて小姓組番頭

寛文5年6月4日 死す
岡部正次 文禄3年 生。喜兵衛
おかべただつぐ
外記忠吉の三男
寛政譜10・122
母は北条家臣藤橋越前守の女


妻は神尾藤左衛門の女

元和9年6月 はじめて家光に拝謁。小十人


100俵

寛永9年8月25日 200俵

寛永15年5月8日 土圭間番 ●「日記」共

慶安元年6月14日 新番

万治2年12月26日 250俵

寛文7年6月21日 死す
岡部忠豊 寛永9年 生。外記。左兵衛。小右衛門
おかべただとよ
小右衛門吉次の男
寛政譜10・120
母は土屋市之丞勝正の女


妻は松平豊前守勝義の女

寛永20年3月3日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

慶安元年8月3日 書院番

万治元年閏12月19日 進物役

寛文10年10月14日 父吉次の家を継ぐ。2000石

延宝3年1月24日 死す
岡部与賢 慶長10年 生。右衛門。大和守。丹波守。外山
おかべともかた
内膳正長盛の次男
寛政譜14・141
母は松平因幡守康元の女


妻は三宅越後守康信の女

元和2年 はじめて秀忠に拝謁。御傍に仕える

元和7年12月28日 従五位下・大和守

元和7年 中奥の小姓。1000石


西丸書院番

寛永9年 小姓組

寛永10年2月7日 1200石

寛永13年10月28日 小姓組・進物役

寛永13年10月28日 御進物番 ●「日記」

寛永15年4月25日 小姓組組頭 ●「日記」共

(寛永17年1月2日) (丹波守の初出) ●「日記」

寛永18年6月20日 小姓組番頭 ●「日記」共

寛永19年12月15日 2000石 ●「日記」共

慶安元年10月27日 大番頭

慶安4年11月21日 2000石2000俵

延宝2年8月23日 大番頭を辞す

延宝3年5月16日 致仕。1000俵。外山と号す

貞享3年1月8日 死す
岡部与賢長女
寛政譜14・141
丹波守与賢の長女
寛政譜14・193



天野佐左衛門雄重に嫁ぐ


天野佐左衛門雄正を産む

寛永14年 岡部弥右衛門雄救を産む


女子を産むか

寛永20年5月18日 岡部丹波守娘天野佐左衛門え縁辺之儀被仰付之是連々右之旨―


―依令言上 ●「日記」


以下不詳
岡部豊明 寛永10年 生。左京。阿波守。市正
おかべとよあきら
美濃守宣勝の三男
寛政譜14・138
母は桑山伊賀守元晴の女


妻は松平左近将監忠昭の女

寛永18年10月3日 家綱に付属される。1000俵

寛永18年10月3日 (名前のみの記載) ●「日記」


小姓


中奥に伺候

慶安4年6月13日 小姓

慶安4年8月16日 従五位下・阿波守

万治元年閏12月8日 病により近侍をゆるされる。中奥に伺候

寛文元年10月27日 父宣勝より分知。2000石

貞享2年2月9日 務をゆるされる。小普請

元禄3年1月9日 死す
岡部長盛 永禄11年 生。半弥。弥次郎。内膳正
おかべながもり
次郎右衛門正綱の男
寛政譜14・132
母は三浦上野介範時の女


室は松平備後守清宗の女


継室は松平因幡守康元の女(家康の妹に准ずる)

天正12年2月10日 父正綱の遺領を継ぐ。家康に仕える

天正16年4月2日 従五位下・内膳正。家康より源氏・偏諱を賜る

天正18年8月 下総国山崎1万2000石

~慶長5年 継室と婚姻

慶長14年8月 丹波国亀山城3万2000石

~慶長19年 丹波国亀山城3万4000石

元和7年8月 丹波国福智山城5万石

寛永元年9月 美濃国大垣城5万石

寛永9年11月2日
岡部長盛五女
寛政譜14・133
岡部内膳正長盛の五女


母は松平因幡守康元の女

寛永10年7月2日 大久保右京亮教勝と縁組 ●「日記」



岡部宣勝 慶長2年 生。左京。美濃守。可堅
おかべのぶかつ
内膳正長盛の長男
寛政譜14・133
母は松平因幡守康元の女


室は桑山伊賀守元晴の女

慶長14年12月28日 従五位下・美濃守

寛永9年 父長盛の遺領を継ぐ。美濃国大垣城5万石

寛永9年12月23日 継目御礼 ●「日記」

寛永10年3月19日 播磨国竜野城5万石

寛永10年3月19日 播州館野得替 ●「日記」

寛永13年6月23日 摂津国高槻城5万石

寛永13年6月23日 高槻え所替 ●「日記」

寛永17年9月11日 和泉国岸和田城6万石 ●「日記」共

寛文元年10月27日 致仕。可堅と号す

寛文8年10月19日
岡部宣勝長女
寛政譜14・134
岡部美濃守宣勝の長女
寛政譜6・326
母は桑山伊賀守元晴の女

寛永12年8月6日 岡部美濃守娘松平淡路守嫁娶被仰付之 ●「日記」


松平周防守松井康英に嫁ぐ

寛永13年1月15日 松平淡路守岡部美濃守祝言之御礼申上 ●「日記」


松平万千代丸松井某を産む。早世


女子を産む。のちの脇坂中務少輔安政の室。のち離婚

明暦3年~ 松平周防守松井康官の養母となる


以下不詳
岡部正綱 元和6年 生。庄左衛門。土佐守
おかべまさつな
庄左衛門永綱の男
寛政譜14・146
妻は松平越前守家臣伊丹庄左衛門の女

(元和8年) 父永綱の遺跡を継ぐか。1000石

元和9年3月 はじめて家光に拝謁

寛永14年1月 書院番

慶安3年9月3日 家綱に付属される。西丸小姓組

(慶安4年) 本丸に勤仕

寛文11年2月5日 本院(明正天皇)に付属される。1500石


従五位下・土佐守

貞享4年8月7日 務めを辞す。寄合

元禄5年12月5日 致仕。300俵

元禄13年6月15日 死す
岡部宗綱 慶長6年 生。宗六郎
おかべむねつな
太郎兵衛昌綱の長男
寛政譜21・281
父昌綱の旧知を賜る。350石。秀忠に仕える。小姓組

寛永2年7月25日 380石の朱印

寛永9年 大番

寛永11年10月13日 改易

慶安4年10月17日 赦免

承応元年12月18日 380俵。大番

寛文2年10月5日 広敷番頭

寛文6年2月3日 死す
岡部元重
生。玄蕃
おかべもとしげ
主水元清の男
寛政譜14・153
祖母は岡部与惣兵衛貞綱の女大姥局(秀忠の乳人)


秀忠に仕える

(~寛永9年) 父元清の遺跡を継ぐ。2000石

正保元年 死す
岡部元直
生。外記
おかべもとなお
玄蕃元重の男
寛政譜14・153 正保元年12月25日 父元重の遺跡を継ぐ。2000石 ●「日記」共

正保2年6月25日 小姓組

延宝4年5月10日 死す
岡部行隆 元和3年 生。竜千代。帯刀。内膳正。紹慶
おかべゆきたか
美濃守宣勝の長男
寛政譜14・134
母は乗山伊賀守元晴の女


室は堀丹後守直寄の次女

寛永9年8月15日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永12年8月6日 嫁娶被仰付之 ●「日記」

寛永17年12月29日 従五位下・内膳正

寛永17年12月29日 諸大夫 ●「日記」

(寛永18年1月11日) (帯刀) ●「日記」

(寛永18年7月7日) (内膳正の初出) ●「日記」

寛文元年10月27日 父宣勝の家を継ぐ。和泉国岸和田城5万3000石

天和3年12月4日 従四位下

貞享3年8月25日 致仕。紹慶と号す

貞享4年12月25日
岡部吉澄 元和4年 生。久兵衛。庄兵衛
おかべよしずみ
喜兵衛正次の長男
寛政譜10・122
母は神尾藤左衛門の女


妻は伊丹弥五右衛門勝忠の女

寛永9年 はじめて家光に拝謁

寛永13年 小十人


100俵

寛永19年12月16日 200俵 ●「日記」共

寛文2年11月7日 小十人組頭

寛文2年12月22日 300俵

寛文11年9月28日 死す
岡部吉次 慶長14年 生。小次郎。小右衛門
おかべよしつぐ
小右衛門吉正の養子。酒依長兵衛昌吉の三男
寛政譜10・119
母は岡部外記忠吉の三女


妻は土屋市之丞勝正の女

元和3年 はじめて秀忠に拝謁

寛永元年 大番。200俵

(寛永11年) 500石

正保4年 養父吉正の遺跡を継ぐ。2000石

慶安元年閏1月27日 徒頭

慶安元年12月30日 布衣

寛文2年9月25日 徒頭を辞す。小普請

寛文10年10月14日 致仕。300俵

天和元年12月18日 死す
岡部佳深
生。(平六郎)。外記。太郎左衛門
おかべよしふか
内膳正長盛の四男
寛政譜14・133
妻は長谷川縫殿助正尚の女

寛永11年3月15日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共


書院番

寛永13年12月27日 岡部平六郎御書院御番被仰付之 ●「日記」


300俵

慶安3年9月3日 家綱に付属される。西丸に勤仕


本丸に勤仕

寛文8年8月23日 死す
岡部吉房
生。六之助
おかべよしふさ
彦右衛門忠房の男
寛政譜10・121
妻は多門平次郎正勝の女

元和7年 父忠房の遺跡を継ぐ。400石

寛永3年 家光に仕える。大番

寛永20年8月8日 新番

寛永20年8月8日 於土圭之間御番相詰其上方々御成之刻御先え参御殿御番等可相勤之旨―


―被仰付之由伊豆豊後列座有之民部少輔伝之玉虫八左衛門組 ●「日記」

慶安元年2月13日 死す
岡部吉正 天正元年 生。小次郎。小右衛門
おかべよしまさ
外記忠吉の長男
寛政譜10・119
母は北条家臣藤橋越前守の女


妻は土屋三郎右衛門昌吉の女


松田康秀に仕える

天正18年 松田康秀の自殺を介錯し高野山に登る

文禄2年2月 高野山を出る。家康に拝謁。家康に仕える

~慶長5年 200石

寛永2年 与力・鉄砲の者を預かる。布衣

(寛永2年) (先鉄炮頭か?)


1000石

寛永9年6月25日 新たに与力5騎を預かる

寛永9年6月25日 馬上同心5騎 ●「日記」

寛永10年12月27日 1500石

寛永10年12月27日 五百石御加増 ●「日記」

正保4年8月25日 死す
岡見十郎左衛門

おかみじゅうろうざえもん



能見松平出雲守勝隆に仕える

正保元年8月24日 上総介殿家来近藤十郎左衛門令自殺之由従諏訪出雲守注進之依之―


―為検使中根壱岐守与力庵原八兵衛并松平出雲守家来岡見十郎左衛門―


―彼地被遣之岡見十郎左衛門は右之十郎左衛門ヲ見知付て也 ●「日記」



岡村又兵衛

おかむらまたびょうえ
生駒壱岐守高俊に仕える

(寛永17年7月26日) (生駒壱岐守家中) ●「日記」

寛永17年7月26日 子共迠死罪 ●「日記」



岡村与左衛門

おかむらよざえもん


(寛永19年7月8日) (葛谷藤兵衛手代) ●「日記」

寛永19年7月8日 死罪か ●「日記」
岡本氏顕 天正7年11月4日 生。美作掾
おかもとうじあき
(安曇川)出雲氏毎の男
地下家伝中・946
妻は羽倉左京大夫政信の長女新上東門院女房播磨
宮廷公家系図集覧656 慶長9年11月1日 美作掾
古代豪族系図集覧164 元和4年4月3日 従五位下

寛永8年1月6日 従五位上

(寛永11年7月21日) (美作守) ●「日記」

寛永12年11月9日
岡本氏親 寛永元年10月1日 生。隠岐守
おかもとうじちか
美作掾氏顕の長男
地下家伝中・946
母は羽倉左京大夫政信の長女新上東門院女房播磨
宮廷公家系図集覧656 寛永11年6月6日 隠岐守
古代豪族系図集覧164 寛永11年7月21日 初て御礼 ●「日記」

寛永12年1月5日 正六位上

正保元年1月7日 死す
岡本采女
岡本宮内か
おかもとうねめ


(寛永20年4月1日) (下賀茂) ●「日記」



岡本織部

おかもとおりべ
実相院門跡義尊に仕える

(寛永13年5月6日) (実相院御門跡内) ●「日記」



岡本介球 元和3年 生。主膳。玄琳。啓迪院。法眼。肖軒
おかもとかいきゅう
啓迪院玄冶諸品の長男
寛政譜10・95
母は曲直瀬延寿院正紹の女


妻は朽木兵部少輔宣綱の女

寛永15年 はじめて家光に拝謁


家光の脈を診る

寛永16年12月30日 法眼 ●「日記」共

寛永17年 奥番医

寛永17年4月25日 玄璘三竹御城替々可相詰 ●「日記」

寛永20年12月18日 300俵月俸30口

寛永20年12月18日 三百俵 ●「日記」

正保2年7月23日 父諸品の遺跡を継ぐ。1000石

慶安4年9月15日 番医

延宝3年5月16日 致仕。肖軒と号す。月俸50口


病により京都に赴く

貞享元年9月22日 死す
岡本清生 慶長17年 生。丹波守
おかもときよなり
丹波守清田の長男
地下家伝中・949
妻は貴船御師西池氏見の女か
宮廷公家系図集覧656 元和7年12月24日 従五位下

寛永7年1月11日 丹波守

(寛永11年7月21日) (但馬守) ●「日記」

万治元年1月6日 従五位上

寛文3年1月12日 正五位下

寛文12年8月17日
岡本宮内

おかもとくない


(寛永11年3月28日) (賀茂之神主) ●「日記」



岡本修理
岡本か岡山か不明
おかもとしゅり
岡山式部と同一人物か



岡本諸品 天正15年 生。宗什。玄冶。啓迪庵。啓迪院。法眼。法印
おかもとしょひん
左門重信の男
寛政譜10・95
母は薄左衛門佐諸光の女


妻は曲直瀬延寿院正紹の女

(慶長15年) 啓迪庵と号す


はじめて家康に拝謁

元和4年 法眼

元和9年 家光に仕える


月俸50口

寛永4年 隔年で番をつとめる

寛永5年 法印

寛永5年 啓迪院と号す

寛永15年2月26日 1000石 ●「日記」共

寛永15年2月26日 千石御知行被下之是今度御違例中昼夜相詰其上御気色大形―


―依御快然属御加恩云々 ●「日記」

正保2年4月20日 死す
岡本但馬守
岡本清生か
おかもとたじまのかみ (寛永11年7月21日) (地下) ●「日記」






岡本内膳

おかもとないぜん
曼殊院門跡良尚法親王に仕える

(寛永13年5月6日) (竹内新宮内) ●「日記」

(寛永17年5月9日) (竹内御門跡之内) ●「日記」



岡本万吉

おかもとまんきち
伊兵衛保真の養子。宮内義保の男
寛政譜12・70
母は岡本内蔵助義政の継母

正保元年9月22日 御改易 ●「日記」



岡本保真
生。惣十郎。伊兵衛
おかもとやすざね
讃岐守正親の三男
寛政譜12・70 正保元年9月22日 岡本内蔵助事同名猪兵衛義雖為家来粗致御目見其上為伯父之間―


―私曲有之て於令死罪は奉行所ニ相達か亦従前廉於難述其旨趣―


―及其子細已後右之旨可相届之処不及其儀依喧嘩令刃傷之由申之―


―重々御穿鑿之上内蔵助以差図致死罪之由令演言之 ●「日記」



岡本祐品 寛永元年 生。猪之助。寿仙。啓迪院。法眼
おかもとゆうひん
兄玄琳介球の養子。玄冶諸品の次男
寛政譜10・96
母は曲直瀬延寿院正紹の女


妻は久世宇右衛門重利の女

寛永20年3月3日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保2年7月23日 兄介球の廩米を賜る。300俵。月俸30口

寛文元年閏8月6日 番医


兄介球の嗣となる。廩米月俸は収公

延宝3年5月16日 養父介球の家を継ぐ。1000石

延宝5年閏12月26日 法眼

元禄6年3月27日 番医を辞す

元禄6年12月6日 致仕

元禄14年1月9日 死す
岡本義政
生。内蔵助
おかもとよしまさ
宮内義保の長男
寛政譜12・70
妻は大田原備前守晴清の女

寛永8年1月11日 はじめて家光に拝謁

寛永16年11月4日 岡本宮内子内蔵助と太田原左兵衛妹縁辺 ●「日記」

(寛永19年4月17日) (内蔵允) ●「日記」

寛永19年5月9日 父義保の遺跡を継ぐ。下野国塩谷庄3860石

寛永19年5月9日 岡本宮内跡式惣領内蔵助被下之 ●「日記」

正保元年9月22日 改易。本多飛騨守成重に召し預けられる

正保元年9月22日 本多飛騨守へ被召預 ●「日記」


ゆるされる。江戸に住す

元禄9年5月6日 死す
岡本義政子


正保元年9月22日 内蔵助子二人之内女四歳男三歳幼少故母ともニ在江戸也 ●「日記」






岡本義政継母



岡本宮内義保に嫁ぐ


岡本万吉を産む

正保元年9月22日 御改易 ●「日記」



岡本義保 天正4年 生。久太郎。宮内
おかもとよしやす
讃岐守正親の養子。塩谷日向守義通の長男
寛政譜12・70
母は讃岐守正親の女

天正18年12月13日 養父正親の家を継ぐ。下野国塩谷庄3360石

天正18年 秀吉に拝謁

慶長3年 家康に拝謁

慶長4年 秀忠に拝謁

慶長5年 男子1人を人質として江戸に置く

慶長5年 下野国塩谷庄3860石

慶長19年 里見安房守忠義改易のとき内藤左馬助政長に属す

慶長19年 大坂の役にて本多佐渡守正信に属す

元和元年 大坂の役にて本多佐渡守正信に属す

(寛永15年5月8日) (岡本宮内并弟戸田藤五郎) ●「日記」

寛永18年12月29日 死す
岡本義保末子



宮内義保の末子


母は岡本義政継母か






岡山式部
岡山か岡本か不明
おかやましきぶ
鷹司教平に仕える


岡本修理と同一人物か
岡山弥清
生。八兵衛。はじめ吉良を称す
おかやまみつきよ
吉良上野介義弥の次男
寛政譜2・219
母は今川左馬助範以の女


妻は品川新六郎高久の女

寛永9年9月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永13年12月27日 書院番 ●「日記」共

(寛永16年12月13日) (岡山の初出) ●「日記」

寛永16年12月13日 300俵 ●「日記」共

寛文10年4月12日 死す
小川三郎兵衛

おがわさぶろうびょうえ
松平石見守池田輝澄に仕える

(寛永17年7月26日) (松平石見守家中) ●「日記」

寛永17年7月26日 真田伊豆守御預前後共二十人ふち遣之 ●「日記」



小川四郎右衛門

おがわしろうえもん
松平石見守池田輝澄に仕える

(寛永17年7月26日) (松平石見守家老) ●「日記」

寛永17年7月26日 初松平相模守後相馬大膳亮御預三十人扶持大膳亮遣之 ●「日記」



小川忠保
生。猪右衛門
おがわただやす
祖父新九郎長保の養子。左太郎安吉の次男
寛政譜14・90 寛永5年 家光に仕える

~寛永17年 大番。400石

慶安4年9月29日 徳川綱重に付属される。鉄炮頭


持筒頭


鎗奉行


700石

寛文5年4月30日 妻に殺される。家禄収公
小川長保 弘治3年 生。新九郎
おがわながやす
久兵衛長正の養子。伯耆守正吉の次男
寛政譜14・89
織田信雄に仕える


京に蟄居


秀吉に仕える。350石


小早川中納言秀秋に付属される

文禄元年~ 小早川秀秋のもとを去る


家康に拝謁。500石

慶長5年 秀忠に仕える

慶長5年 上田城攻めにて寄合


大番

慶長19年 大坂の役にて土井大炊頭利勝に属す

元和元年 大坂の役にて高木主水正正次に属す


(1000石)

寛永元年1月20日 先鉄炮頭。足軽30人を預かる

寛永9年7月13日 与力5騎足軽30人を預かる

寛永9年7月13日 与力馬上5騎 ●「日記」

寛永10年4月19日 梅林坂御門定番 ●「日記」

寛永10年12月27日 1500石

寛永10年12月27日 五百石御加増 ●「日記」

寛永20年7月17日 死す
小川正長
生。藤左衛門
おがわまさなが
甚右衛門正信の男
寛政譜14・92 寛永10年 家光に仕える。代官。200俵

明暦元年 死す
小河政吉 慶長11年 生。百助。はじめ宇野を称す
おがわまさよし
宇野茂兵衛政勝の男
寛政譜14・215
母は家光の老女小川修理亮頼重の女寿盛

慶長19年12月2日 英勝院の取り持ちにてはじめて秀忠に拝謁

元和元年 家光に付属される。小姓。秀忠の命により外家の称小川に改める

元和6年 勘気を蒙る

元和8年6月 召し返される


小姓組

元和9年5月 勘気を蒙る

寛永5年8月 恩免あり。小姓組

寛永8年 200俵

寛永10年2月7日 400石

寛永20年8月30日 家綱に付属される。三丸番 ●「日記」共

慶安元年4月13日 死す
小川安則 慶長17年 生。亀之助。新九郎
おがわやすのり
左太郎安吉の長男
寛政譜14・90
母は大久保甚兵衛忠弘の女


妻は徳山五兵衛直政の女


後妻は蔭山因幡守貞広の女

寛永元年 はじめて家光に拝謁

寛永6年 大番

寛永9年 父安吉の遺跡を賜る。700石

寛永20年12月27日 祖父新九郎長保の遺跡を継ぐ。1500石

正保元年11月10日 小川新九郎跡目亀之介遺跡相続被仰付ニヨリテ以太刀目録御礼 ●「日記」

慶安4年11月23日 大番組頭

延宝元年6月8日 大番組頭を辞す。小普請

天和3年6月17日 死す
小川頼勝 文禄4年 生。九郎右衛門。惣左衛門
おがわよりかつ
三益の男
寛政譜7・9
妻は伊丹播磨守康勝の女

(慶長11年) 父三益の遺跡を継ぐか。500石

慶長15年 家光に仕える。書院番

寛永4年 金奉行

(正保元年2月5日) (御代官) ●「日記」


金奉行を辞す。小普請

明暦2年3月28日 死す
隠岐重世
生。五郎右衛門
おきしげよ
奥右衛門の男
寛政譜19・372
家光に仕える。先手与力

(寛永20年4月19日) (御切米八拾石) ●「日記」

(寛永20年4月19日) (小栗又市郎組) ●「日記」

寛永20年4月19日 只今迠之御番被成御免向後御役可被仰付之間可存其旨之由―


―小十人組御番所之次ニて老中被伝之 ●「日記」


中根壱岐守正盛に属す。国廻役

某年 死す
荻田隼人

おぎたはやと
松平越後守光長に仕える

寛永15年6月21日 縁辺組被仰付面々神尾宮内少輔娘荻田隼人 ●「日記」



興津直政 寛永6年 生。三十郎
おきつなおまさ
彦八郎直重の男
寛政譜21・284
母は戸田半平光正の女


妻は渡辺半兵衛勝綱の女


家光に仕える。書院番

(寛永6年) 父直重の遺跡を継ぐ。1040石

寛永20年5月12日 改易。籠居

寛永20年5月12日 御書院番上野阿波守組興津三十郎右去頃於殿中茶湯席不形儀有之処―


―水汲之六尺見出断之已及雑言然処三十郎刀祓之因玆三十郎儀不届―


―被思召知行被召上之其身押込被為置之水汲之儀ハ非其役義差出―


―御事依曲事被斬罪之 ●「日記」

慶安4年10月17日 赦免

承応元年12月18日 1040石

承応3年12月5日 水野左門重上の従者と口論のうえ刃傷におよびうたれて死す
興津彦八
三十郎直政か?寛政譜21・284
おきつひこはち 寛永9年8月19日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」






興津兵四郎

おきつひょうしろう
書院番か?

(寛永9年8月6日) 御小広間給仕 ●「日記」

寛永11年4月13日 興津兵四郎屋敷牧野佐渡守拝領之 ●「日記」



興津宗能 慶長18年 生。左近助。兵左衛門
おきつむねよし
内記忠能の次男
寛政譜14・160
母は河村善右衛門重忠の女


妻は横田甚右衛門尹松の女

元和9年12月 父忠能の遺領分知。530石

寛永2年~ 小姓組


書院番

寛永10年2月7日 730石

万治元年9月1日 小十人頭

万治元年閏12月25日 730石300俵

万治元年閏12月28日 布衣

寛文9年3月5日 小十人頭を辞す。小普請

延宝2年12月29日 死す
興津能玄 寛永8年 生。八兵衛。五郎兵衛。休意
おきつよしはる
兵左衛門宗能の長男
寛政譜14・160
母は横田甚右衛門尹松の女


妻は本庄宮内少輔道芳の女

寛永20年9月9日 はじめて家光に拝謁

寛永20年9月9日 興津兵左衛門惣領子御目見 ●「日記」

承応3年2月23日 小姓組

寛文9年~ 小姓組を辞す

延宝2年12月 多病により家督たらず

享保3年5月23日 死す
隠岐広実
生。河内守
おきひろざね
中絶家相続。元広の三男?
地下家伝下・1191
二条家諸大夫
宮廷公家系図集覧667
従四位下


河内守

某年
荻原昌重 永禄6年 生。文五郎。五左衛門。吉右衛門。一時岡屋を称す
おぎわらまさしげ
弥右衛門正明の四男
寛政譜10・141
母は太田弥助の女


妻は武田家臣大久保清左衛門の女


武田信玄に仕える

天正10年7月21日 家康に拝謁。家康に仕える


170石


伏見城を守衛

寛永2年~ 蔵奉行

寛永18年6月30日 死す
荻原昌行
生。源太郎。太郎左衛門。弥右衛門
おぎわらまさつら
平兵衛昌世の男
寛政譜10・145
妻は野田治大夫正忠の女

正保元年11月10日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保2年8月5日 大番


200俵

万治元年7月15日 新番

万治2年12月26日 250俵

天和2年11月27日 死す
荻原昌満
生。伝左衛門
おぎわらまさみつ
吉右衛門昌重の次男
寛政譜10・141 寛永19年12月10日 荻原吉右衛門跡実子伝左衛門 ●「日記」


以下不詳
荻原昌世 慶長2年 生。平兵衛
おぎわらまさよ
吉右衛門昌重の三男
寛政譜10・145
母は武田家臣大久保清左衛門の女


家光に仕える。小十人。100俵

寛永9年8月25日 200俵


納戸番

承応2年4月22日 死す
奥家綱
生。民部少輔
おくいえつな
春日神主家の左京亮家種の男
古代豪族系図集覧227




奥平右近

おくだいらうこん
奥平美作守忠昌に仕える

(寛永19年4月19日) (美作守家来) ●「日記」



奥平織部

おくだいらおりべ
奥平美作守忠昌に仕える

(寛永19年4月19日) (美作守家来) ●「日記」



奥平金弥

おくだいらきんや
松平下総守忠明に仕える


松平刑部大輔忠弘に仕える

(正保元年6月1日) (松平鶴松家老) ●「日記」



奥平左兵衛

おくだいらさひょうえ
奥平美作守忠昌に仕える

(寛永19年4月19日) (美作守家来) ●「日記」



奥平図書

おくだいらずしょ
奥平美作守忠昌に仕える

(寛永19年4月19日) (美作守家来) ●「日記」



奥平大学

おくだいらだいがく
奥平美作守忠昌に仕える

(寛永19年4月19日) (美作守家来) ●「日記」



奥平忠昌 慶長13年 生。千福。九八郎。美作守
おくだいらただまさ
大膳大夫家昌の男
寛政譜9・214
母は本多中務大輔忠勝の女


室は鳥居左京亮忠政の女

慶長19年11月18日 父家昌の遺領を継ぐ。下野国宇都宮城10万石

元和元年 はじめて秀忠に拝謁

元和5年10月 下総国古河城11万石

元和7年1月11日 御前にて元服。偏諱を賜る。従五位下・美作守

元和8年8月 下野国宇都宮城11万石

寛永11年9月15日 従四位下

寛永17年2月20日 牧野右馬允富士見御番被仰付右番所此以前奥平美作守雖令勤仕―


―今度日光御社参付て美作守依被下御暇為其替と云々 ●「日記」

寛永19年9月1日 毎歳於江戸越年午年在江戸半年替 ●「日記」

正保4年12月12日 家綱に付属される

寛文8年2月19日
奥平土佐

おくだいらとさ
松平下総守忠明に仕える


松平刑部大輔忠弘に仕える

(正保元年6月1日) (松平鶴松家老) ●「日記」



奥平隼人

おくだいらはやと
奥平美作守忠昌に仕える

(寛永19年4月19日) (美作守家来) ●「日記」



奥平武兵衛

おくだいらぶひょうえ
奥平美作守忠昌に仕える

(寛永19年4月19日) (美作守家来) ●「日記」



奥平昌能 寛永10年 生。千福。九八郎。大膳亮
おくだいらまさよし
美作守忠昌の男
寛政譜9・214
母は鳥居左京亮忠政の女

寛永17年10月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保3年12月30日 従五位下・大膳亮

寛文8年8月3日 家臣杉浦右衛門兵衛殉死の罪により減封。出羽国山形9万石

寛文12年7月2日
奥田忠一 慶長8年 生。主税助。半兵衛
おくだただかず
三郎右衛門忠次の男
寛政譜15・119
母は土橋右近の女


妻は伊藤掃部の女

元和元年 父忠次の遺跡を継ぐ。大和国2800石。采地に住す

寛永13年12月24日 死す
奥田忠虎 寛永2年 生。半兵衛。主税助。三郎右衛門
おくだただとら
半兵衛忠一の長男
寛政譜15・119
母は伊東掃部の女


妻は堀式部少輔直之の養女三浦志摩守正次の女

寛永9年9月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永14年11月25日 父忠一の遺跡を継ぐ。大和国2800石。寄合

寛永14年11月25日 弐千八百石奥田半兵衛跡実子主税介 ●「日記」

(寛永18年1月30日) (半兵衛) ●「日記」

寛文7年4月27日 死す
小国神主
遠江国一宮
おくにかんぬし




奥野主馬
生。主馬
おくのしゅめ
紀伊の長男
諸士系譜4・21
妻は前田能登守利政の四女


加賀前田家臣


5000石

正保元年 死す
奥山重治 寛永2年 生。虎介。治右衛門
おくのやましげはる
治右衛門重次の男
寛政譜9・339
母は柴田三左衛門勝重の女


妻は徳永式部少輔昌成の女

寛永7年 父重次の遺跡を継ぐ。1000石

寛永7年 はじめて秀忠に拝謁

寛永9年8月19日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」

寛永19年6月20日 書院番 ●「日記」共


書院番を辞す。小普請

万治3年5月12日 死す
奥山重正 寛永3年 生。藤十郎
おくのやましげまさ
茂左衛門安重の男
寛政譜14・269
母は朝夷市平義次の女

正保元年11月10日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保2年6月25日 小姓組

正保4年12月20日 300俵

延宝8年2月8日 二丸留守居

天和元年4月9日 留守居番

天和元年12月27日 布衣

天和2年4月21日 500石300俵

貞享4年2月26日 桐間番頭

元禄4年12月6日 桐間番頭を辞す。寄合

元禄10年4月28日 死す
奥山縫殿助

おくのやまぬいどのすけ


寛永15年10月17日 御国御免 ●「日記」



奥山安重
生。茂左衛門
おくのやまやすしげ
茂左衛門重次の男
寛政譜14・269
母は朝比奈左近の女


妻は朝夷市平義次の女

元和5年 はじめて秀忠に拝謁。小十人

寛永10年6月7日 小十人組組頭 ●「日記」共

正保元年12月16日 小十人頭 ●「日記」共

正保元年12月29日 布衣 ●「日記」共

正保3年12月 閉門


ゆるされる

慶安4年4月21日 殉死
おくま
奥間か




(正保元年6月25日) (琉球中山王使者馬上之従者黄はちまき) ●「日記」



奥村七左衛門

おくむらしちざえもん


(寛永19年7月8日) (浅草御蔵方手代) ●「日記」

(寛永19年7月8日) (朝岡三郎右衛門手代) ●「日記」

寛永19年7月8日 斬罪 ●「日記」
奥村栄政 天正18年 生。勝兵衛。玄蕃。河内
おくむらはるまさ
河内守栄明の男
奥村家譜
母は山崎閑斎長鏡の女
(加賀藩史料3・379)
妻は富田越後重政の女
諸士系譜4・8 慶長8年 前田利常に仕える。1000石

慶長11年 富田重政の女を娶る

元和6年 父栄明の遺領を継ぐ。1万3650石

(寛永16年12月1日) (河内守の初出) ●「日記」

慶安2年 加賀国金沢城代

承応元年8月14日
奥村弥平次

おくむらやへいじ
七左衛門の男もしくは養子

寛永19年7月8日 七左衛門子奥村弥平次年七是ハ養実間被遂僉儀―


―重て可被仰付事 ●「日記」



奥盛良
生。儀兵衛。宗印。はじめ関あるいは鹿伏兎を称す
おくもりよし
関勝右衛門盛時の次男
寛政譜8・243
関一政に仕える

慶長15年 関一政転封のとき伊勢国にとどまる


紀伊国に至る


浅野幸長家臣奥弥兵衛に従い炮術を学ぶ


奥弥兵衛の家名を継ぎ鹿伏兎を改め奥と称す

元和2年 紀伊国を去る。和泉国堺に至る。庄田宗心に従い南蛮流外科医術を学ぶ


剃髪。宗印と号す

寛永18年 江戸に来る。家綱に薬を調進

寛永19年1月19日 月俸を賜る

寛永19年2月8日 法橋

寛永19年4月1日 小児医数輩と同じく隔日に営中に伺候

(寛永19年9月5日) (若君様御医師) ●「日記」

寛永20年2月13日 小児医師甫庵外科宗印黄金被下之是従上方或母或妻子等―


―依引下之也 ●「日記」


200俵

正保3年1月23日 300俵

慶安4年9月15日 番医

明暦3年 死す
奥山大学

おくやまだいがく
松平陸奥守伊達政宗の家臣

(寛永13年12月1日) (松平越前守家老) ●「日記」



小倉公根 天正12年 生。侍従。少将。中将。参議
おぐらきんね
少将季藤の嗣。正親町三条中将実教の次男
諸家伝上・255 元和5年1月6日 従五位下
宮廷公家系図集覧299 元和6年閏12月23日 昇殿。侍従

元和8年1月11日 右少将

元和9年1月5日 従五位上

寛永4年1月5日 正五位下

寛永7年1月5日 従四位下

寛永8年11月27日 右中将

寛永10年5月6日 従四位上

寛永12年1月5日 正四位下

寛永16年4月1日 去年依属御加恩御礼 ●「日記」

寛永17年1月5日 従三位

寛永18年3月12日 参議

寛永18年11月14日 参議を辞す

正保元年3月1日 薨去
小倉実為
生。侍従。少将
おぐらさねため
参議公根の長男
諸家伝上・255 元和7年1月5日 従五位下
宮廷公家系図集覧299 寛永3年11月1日 侍従

寛永4年1月5日 従五位上

寛永10年1月12日 右少将

寛永11年1月6日 正五位下

寛永14年6月29日
小倉正守 慶長9年 生。十兵衛。忠右衛門
おぐらまさもり
忠右衛門正次の養子。小堀次左衛門正行の次男
寛政譜7・341
妻は忠右衛門正次の女


後妻は京極若狭守家臣山田八左衛門の女

寛永2年 はじめて秀忠に拝謁。西丸書院番

寛永8年 養父正次の遺跡を継ぐ。500石

寛永9年5月 小姓組

寛永10年2月7日 700石

慶安元年1月2日 目付

慶安4年8月16日 布衣

慶安4年11月21日 700石300俵

万治3年8月22日 逼塞

寛文元年12月24日 ゆるされる

寛文12年1月2日 死す
小栗市郎左衛門

おぐりいちろうざえもん


(正保元年8月9日) (初鹿野伝右衛門組之御徒) ●「日記」

正保元年8月9日 被放御扶持 ●「日記」



小栗五右衛門

おぐりごえもん
松平越後守光長の家臣



小栗五郎左衛門

おぐりごろうざえもん
松平越後守光長の家臣



小栗三五郎
(小野木? 小栗?)
おぐりさんごろう 寛永9年8月19日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」






小栗信勝 慶長12年 生。庄次郎。又六。庄二郎
おぐりのぶかつ
又市政信の長男
寛政譜1・241
母は渡辺監物の女

正保元年6月16日 小姓組 ●「日記」共

慶安2年12月14日 父政信に連座して閉門

慶安4年10月17日 ゆるされる

承応元年12月22日 小姓組

承応3年4月7日 死す
小栗信親 寛永4年 生。市右衛門
おぐりのぶちか
又兵衛信友の長男
寛政譜1・245
母は駒井右京親直の女


妻は前田左助正信の女


後妻は細井金兵衛勝武の女

寛永16年6月23日 はじめて家光に拝謁

寛永16年6月23日 小栗又兵衛惣領之子共初て御目見 ●「日記」

寛永20年6月16日 小姓組

慶安3年9月3日 西丸に伺候

(慶安4年) 本丸に勤仕

寛文6年4月21日 父信友の家を継ぐ。530石

延宝7年10月12日 死す
小栗信友 文禄4年 生。又兵衛。夢成
おぐりのぶとも
又市忠政の三男
寛政譜1・244
母は天野三郎兵衛康景の女


妻は駒井右京親直の女

~慶長19年 秀忠に仕える。小姓組

元和元年 330石

寛永10年2月7日 530石

(寛永16年6月23日) (松平外記植村出羽守組大番衆) ●「日記」

寛永20年12月4日 大番組頭 ●「日記」共

(正保元年6月4日) (松平外記組之組頭) ●「日記」

慶安4年11月21日 530石200俵

万治2年5月15日 先弓頭

万治2年12月28日 布衣

寛文5年5月16日 先弓頭を辞す

寛文6年4月21日 致仕。300俵。夢成と号す

天和元年6月8日 死す
小栗信政 寛永3年 生。猪兵衛。弥右衛門。仁右衛門
おぐりのぶまさ
仁右衛門信由の長男
寛政譜1・243
妻は小長谷伊兵衛政平の女

寛永13年8月9日 小姓組 ●「日記」共


書院番

寛文元年12月10日 父信由の遺跡を継ぐ。750石

寛文11年5月20日 死す
小栗久俊
生。忠左衛門
おぐりひさとし
忠左衛門久次の次男
寛政譜8・363 元和7年 秀忠に仕える

寛永5年 父久次の遺跡分知。580石。鷹匠頭に准ぜられる

寛文12年1月 務めを辞す。小普請

延宝元年10月21日 致仕

延宝5年1月5日 死す
小栗久成
生。半左衛門
おぐりひさなり
忠左衛門久次の三男
寛政譜8・364 寛永3年 家光に仕える

~慶安2年 鷹師。200俵

延宝2年6月7日 死す
小栗久玄
生。平吉。九郎右衛門
おぐりひさはる
九郎右衛門久勝の男
寛政譜8・368 慶長3年 家康に仕える。小十人。100俵


200俵


200石

寛永6年 父久勝の遺跡を継ぐ。700石

寛永8年4月10日 近侍

寛永8年4月10日 奥にて召し使われる ●「日記」

寛永9年5月10日 小十人組番頭

寛永9年12月 布衣

寛永10年12月27日 1200石

寛永10年12月27日 五百石御加増 ●「日記」

(寛永15年4月2日) (小十人組之頭) ●「日記」

正保4年9月26日 小十人組番頭を辞す。小普請

明暦3年10月8日 死す
小栗平蔵

おぐりへいぞう 寛永9年12月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」



小栗政次
生。長右衛門
おぐりまさつぐ
忠左衛門久次の長男
寛政譜8・362
妻は戸田又久直次の女

慶長5年 家康に仕える

寛永5年 父久次の遺跡を継ぐ。1300石。鷹匠頭

正保3年9月26日 勘気を蒙る

慶安4年10月17日 ゆるされる

万治3年3月29日 致仕。廩米を賜る

寛文6年7月26日 死す
小栗政俊
生。五左衛門
おぐりまさとし
長右衛門政次の男
寛政譜8・362
母は戸田又久直次の女


妻は新庄美作守直房の女

寛永7年 秀忠に仕える

(正保元年10月14日) (御鷹師) ●「日記」

正保3年9月26日 父政次の事により勘気を蒙る

慶安4年10月17日 ゆるされる

万治3年3月29日 父政次の家を継ぐ。1300石


鷹匠頭

寛文6年7月4日 死す
小栗政信 天正10年 生。庄二郎。又市
おぐりまさのぶ
又市忠政の長男
寛政譜1・240
母は天野三郎兵衛康景の女


妻は渡辺監物の女

文禄4年 はじめて秀忠に拝謁

(慶長5年) 秀忠に仕える

元和元年 大坂の役にて五文字の指物をする

元和2年 父忠政の遺跡を継ぐ。2000石

寛永2年 徒頭

寛永9年7月11日 先弓頭

寛永9年7月13日 徒同心被仰付 ●「日記」

寛永9年9月20日 与力5騎 ●「日記」

寛永10年12月27日 2500石

寛永10年12月27日 五百石御加増 ●「日記」

慶安2年12月14日 勘気を蒙る。閉門

慶安4年10月17日 ゆるされる

承応元年9月28日 先弓頭

明暦元年12月26日 先弓頭を辞す

万治元年1月19日 死す
小河伝右衛門

おごうでんえもん


(寛永16年12月16日) (松平右衛門佐家中小河縫殿助証人) ●「日記」



小河縫殿助

おごうぬいどのすけ
松平筑前守黒田忠之に仕える

(寛永16年12月16日) (松平右衛門佐家中) ●「日記」



小坂雄忠
生。八郎兵衛。助六郎
おさかおただ
孫九郎雄長の長男
寛政譜6・358 寛永11年5月26日 はじめて家光に拝謁

寛永11年5月26日 御目見 ●「日記」

(寛永11年5月26日) (大坂助六郎) ●「日記」

寛永13年11月24日 父雄長の遺跡を継ぐ。1000石

寛永13年11月24日 小坂孫九郎千石子跡目被仰付之 ●「日記」

寛永13年12月21日 跡目之面々(御目見) ●「日記」

~正保2年 小姓組

延宝8年 死す
小坂雄長 天正4年 生。助六郎。孫九郎
おさかおなが
孫九郎雄吉の長男
寛政譜6・357
母は三輪兵部大夫の女


織田信雄に仕える

~文禄元年 秀吉の求めにより秀吉に仕える

慶長3年 秀頼に仕える

慶長5年 関ケ原の役にて福嶋左衛門大夫正則に属す

(慶長5年) 家康の求めにより松平薩摩守忠吉に仕える

慶長12年 主君忠吉薨去により処士となる。福嶋正則のもとに寓居


流浪

寛永10年6月7日 家光に仕える。1000石

寛永10年6月7日 御家人被召出 ●「日記」

(寛永10年6月7日) (大坂孫九郎) ●「日記」

寛永13年8月29日 死す
小坂平兵衛
おさかへいびょうえ


寛永18年4月14日 火之番御役被仰付之此以前之親之役被仰付之 ●「日記」

(寛永19年) 死す
小坂平兵衛親


火之番 ●「日記」


死す
小坂平兵衛子





寛永19年11月12日 御旗本衆令死去跡被下之但自分之知行御切米何も上 ●「日記」



小坂許之 元和8年 生。市丞。庄兵衛。壱岐守。内蔵允。はじめ山口を称す
おさかもとゆき
山口(小坂)三右衛門吉長の男
寛政譜6・359
母は阿倍四郎兵衛重真の女


妻は松波平右衛門勝重の女


後妻は伊藤安兵衛正次の女

寛永9年 父吉長の遺跡を継ぐ。300俵。小普請

寛永18年1月 大番

寛永20年8月8日 新番

寛永20年8月8日 於土圭之間御番相詰其上方々御成之刻御先え参御殿御番等可相勤之旨―


―被仰付之由伊豆豊後列座有之民部少輔伝之中根次郎左衛門組 ●「日記」

寛文8年3月13日 新番組頭

寛文8年12月25日 500俵

延宝元年3月19日 新院(後西天皇)に付属される。500石500俵

延宝元年7月10日 従五位下・壱岐守

貞享2年 新院崩御により務をゆるされる。寄合

元禄9年 山口を改め小坂に復す

元禄10年7月26日 1000石

宝永3年5月14日 死す
尾崎勘解由

おざきかげゆ
大給松平左近将監忠昭に仕える

(寛永16年8月10日) (松平主税助家老) ●「日記」



尾崎新六郎

おざきしんろくろう


寛永15年10月17日 御赦免 ●「日記」

寛永16年12月26日 如前々御切米被下之 ●「日記」



尾崎太郎兵衛

おざきたろうびょうえ


寛永20年9月6日 御徒組頭尾崎太郎兵衛御鳥見被仰付候間在々所々可有之依為―


―作事料金子被下之 ●「日記」



尾崎縫殿

おざきぬいどの


寛永15年1月15日 大御番 ●「日記」



尾崎信重 天正元年 生。助大夫
おざきのぶしげ
中務の次男
寛政譜6・386
家康・秀忠に仕える。小姓

寛永2年12月11日 220石の朱印


大番

寛永9年8月15日 死す
尾崎信正
生。七之助
おざきのぶまさ
助大夫信重の男
寛政譜6・387 寛永9年 父信重の遺跡を継ぐ。220石。小普請

寛永11年3月26日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

~寛永20年 大番

慶安4年9月29日 綱吉に付属される


神田館にて徒頭。220石150俵

明暦元年6月26日 死す
尾崎正友
生。勘兵衛
おざきまさとも
勘兵衛成吉の男
寛政譜6・386 (慶長8年) 父成吉の遺跡を継ぐか


家光に仕える。350石。大番

寛永19年 死す
尾崎正友子 寛永19年
寛政譜6・386
勘兵衛正友の男

寛永19年12月10日 父正友の遺跡を継ぐ。350石

寛永19年12月10日 尾崎勘兵衛跡当歳実子 ●「日記」


以下不詳
尾崎又右衛門

おざきまたえもん







尾崎又次郎

おざきまたじろう







小篠平右衛門
こしの? こざさ?
おざさへいえもん


寛永18年4月14日 火之番御役被仰付之御歩行より新規ニ出之 ●「日記」






長田白久 慶長8年 生。平四郎
おさだあきひさ
金平白茂の三男
寛政譜9・28 元和5年11月5日 秀忠に仕える。鷹匠。100俵

寛永19年11月21日 200俵 ●「日記」共

明暦3年7月21日 死す
長田白政 永禄12年 生。清右衛門
おさだあきまさ
八右衛門白吉の四男
寛政譜9・29
母は水越主計の女


家康に仕える。鷹場を預かる

寛永2年7月27日 220石

慶安3年9月9日 死す
長田勝重
生。権三郎
おさだかつしげ
喜六郎忠勝の長男
寛政譜9・19
母は内藤氏


家光に仕える

(寛永3年) 父忠勝の遺跡を継ぐ。300石


(御納戸) ●「日記」寛永11年3月21日

寛永8年9月4日 死す
長田勝綱 慶長18年 生。伝六郎。助大夫
おさだかつつな
伝六郎勝吉の男
寛政譜9・21
母は荒川長兵衛重世の女


妻は筧新太郎正成の女

(元和6年) 父勝吉の遺跡を継ぐ。200俵


幼少のとき家光に拝謁

寛永5年11月16日 大番

寛永10年2月7日 400石

万治元年8月5日 死す
長田重忠
生。猪兵衛。喜左衛門
おさだしげただ
権三郎勝重の男。(権三郎勝重の養子 ●「日記」)
寛政譜9・19 (寛永8年) 父勝重の遺跡を継ぐ。300石

寛永11年3月21日 長田権三郎跡式之事養子ニ被下置 ●「日記」

寛永11年 はじめて家光に拝謁

寛永11年3月26日 初て御目見 ●「日記」

(寛永11年3月26日) (八十郎) ●「日記」

寛永13年 大番

寛文2年3月17日 死す
長田重則 寛永3年 生。(権之介)。清兵衛。与右衛門。九郎兵衛
おさだしげのり
次郎大夫宗安の長男
寛政譜9・31
妻は朝比奈六左衛門昌行の女

寛永13年3月25日 はじめて家光に拝謁

寛永13年3月25日 長田次郎右衛門子被召出之 ●「日記」

寛永13年3月25日 皆川山城守組(大番) ●「日記」


大番。200俵

寛永19年6月26日 長田権之介大御番被仰付 ●「日記」

正保元年12月25日 大御番長田権之助新規ニ弐百俵被下之 ●「日記」

慶安元年6月14日 新番

万治2年12月26日 250俵

延宝8年8月28日 死す
長田重政 天正13年 生。喜平。十大夫
おさだしげまさ
叔父喜兵衛吉正の養子。長田喜六郎忠勝の三男
寛政譜9・26
母は内藤氏


妻は浅井六之助道多の女

慶長8年 秀忠に仕える。納戸番

元和6年 徳川忠長に付属される

(寛永9年) 永井信濃守尚政に召し預けられる

寛永13年12月10日 家光に仕える。500石

寛永13年12月10日 御赦免 ●「日記」

寛永16年閏11月7日 天樹院に付属される ●「日記」共

(寛永18年6月13日) (十大夫の初出) ●「日記」

寛永18年6月13日 1000石 ●「日記」共

寛文7年6月2日 死す
長田永政
生。清兵衛。七郎左衛門。清右衛門
おさだながまさ
清右衛門白政の六男
寛政譜9・29
妻は水野九右衛門正行の女


鷹匠

正保元年12月25日 五十俵五人扶持長田七左衛門新規ニ被下之 ●「日記」

慶安3年12月11日 父白政の遺跡を継ぐ。220石

天和2年12月5日 小普請

天和3年12月21日 致仕

元禄5年1月22日 死す
長田政次
生。久兵衛。善左衛門
おさだまさつぐ
清右衛門白政の三男
寛政譜9・32 元和3年10月15日 家光に仕える。小十人。100俵

寛永9年8月25日 200俵

寛永19年12月6日 納戸番 ●「日記」共

慶安2年10月19日 徳川綱重に付属される

貞享2年5月17日 死す
長田正久 慶長9年 生。平十郎
おさだまさひさ
清右衛門白政の五男
寛政譜9・33
家光に仕える。小十人。廩米を賜る

寛永9年8月25日 加増あり。200俵

寛永10年6月7日 小十人組組頭 ●「日記」共

正保3年12月4日 300俵

万治3年12月26日 裏門切手番頭

延宝4年2月7日 裏門切手番頭を辞す。小普請

延宝4年12月11日 死す
長田宗安 慶長3年 生。次郎右衛門。次郎大夫
おさだむねやす
清右衛門白政の次男
寛政譜9・31 元和2年 秀忠に仕える

(寛永13年3月25日) (皆川山城守組) ●「日記」 (大番)

慶安4年5月28日 死す
長田吉次 元和8年 生。勘十郎。七郎兵衛。平右衛門。理兵衛
おさだよしつぐ
理兵衛吉広の男
寛政譜9・35
母は蜂屋七兵衛定頼の女


妻は中村弥右衛門の女

寛永9年 はじめて家光に拝謁

寛永13年12月27日 大番 ●「日記」共

正保2年6月28日 家綱に付属される。腰物奉行


腰物奉行を辞す

寛文9年5月 大番

寛文11年7月8日 父吉広の遺跡を継ぐ。650石

延宝2年~ 大番を辞す

元禄9年5月18日 死す
長田吉広(喜兵衛)
生。兵吉。喜兵衛
おさだよしひろ
喜兵衛吉正の長男
寛政譜9・22
母は内藤氏


妻は小栗長右衛門政次の女


秀忠に仕える。小姓組

寛永2年7月27日 500石の朱印

寛永10年2月7日 700石

寛永16年11月13日 死す
長田吉広(理兵衛) 文禄4年 生。理助。理兵衛
おさだよしひろ
理助吉久の男
寛政譜9・34
母は岩間兵庫頭守之の女


妻は蜂屋七兵衛定頼の女

慶長12年 父吉久の遺跡を継ぐ。200石

慶長12年 駿府にて家康に仕える。御側に伺候

慶長19年 大番

寛永3年 300石


450石

寛永10年2月7日 650石

正保3年1月22日 奥方番

寛文元年3月5日 奥方番を辞す。小普請

寛文11年1月18日 死す
長田吉正
生。大学。金左衛門
おさだよしまさ
喜兵衛吉広の長男
寛政譜9・23
母は小栗長右衛門政次の女


妻は石川弥左衛門貴成の女

寛永13年8月25日 はじめて家光に拝謁

寛永13年8月25日 長田喜兵衛子共初て御礼 ●「日記」

正保2年12月19日 父吉広の遺跡を継ぐ。700石

正保3年7月6日 小姓組

慶安3年9月3日 家綱に付属される。西丸書院番

(慶安4年) 本丸に勤仕

万治3年4月30日 死す
小佐手信家
生。左源太
おさてのぶいえ
新八郎信房の次男
寛政譜3・168
母は武田家臣青沼助兵衛昌平の女


妻は本多佐渡守家臣本間彦十郎の女


秀忠に拝謁

寛永5年 父信房の遺跡を継ぐ。200俵


納戸

寛永16年2月2日 死す
小佐手信忠
生。左源太。五左衛門
おさてのぶただ
左源太信家の男
寛政譜3・168
母は本多佐渡守家臣本間彦十郎の女


妻は山木伝次郎の女

寛永16年 父信家の遺跡を継ぐ。200俵


大番

寛文2年10月3日 綱吉に付属される。神田館にて使役


500俵

延宝2年8月24日 死す
小佐手信次
生。左助
おさてのぶつぐ
新八郎信房の三男
寛政譜3・169
母は武田家臣青沼助兵衛昌平の女


妻は芝山権左衛門正次の女

元和3年5月 秀忠に仕える。(200俵)

寛永6年8月 小十人組頭

寛永9年8月25日 300俵

寛永18年10月26日 老年により小十人組頭をゆるされる

寛永18年10月26日 小十人組之組頭之内年寄之者御番御免被成連々別之御役可被仰付―


―之旨ニ依テ佐々木庄兵衛小佐手左介西山忠左衛門山本又右衛門―


―竹内平右衛門右五人御番御免鳥居三郎右衛門小野忠三郎―


―阿部甚五左衛門服部三郎右衛門坂部孫四郎此五人右之替ニ―


―組頭被仰付之 ●「日記」

明暦2年4月15日 死す
小沢重秋
生。次郎九郎。小刑部。彦大夫
おざわしげあき
牛右衛門忠秋の男
寛政譜1・190
妻は進藤三左衛門正成の女

寛永9年8月19日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共


書院番

慶安3年12月11日 父忠秋の遺跡を継ぐ。700石

寛文9年~ 書院番を辞す。小普請

元禄7年4月8日 死す
小沢重長
生。瀬兵衛。次郎右衛門
おざわしげなが
瀬兵衛忠重の次男
寛政譜1・189
母は長田平右衛門重元の女

寛永8年 父忠重の遺跡を継ぐ。1000石

寛永9年7月22日 伊豆大嶋に遠流

慶安元年6月3日 ゆるされる

寛文9年1月27日 死す
小沢忠秋 天正17年 生。次郎九郎。権之丞。牛右衛門
おざわただあき
瀬兵衛忠重の長男
寛政譜1・190
母は長田平右衛門重元の女

慶長10年 秀忠に仕える。書院番

元和2年9月15日 家光に付属される


西丸に勤仕

寛永8年 父忠重の遺跡分知。500石

寛永10年2月7日 700石

慶安3年6月24日 死す
押小路師生 天正9年 生。掃部頭。大外記。造酒正。助教。河内権守
おしこうじもろなり
大外記但馬権守師廉の男
地下家伝上・60 天正13年11月24日 従五位下
宮廷公家系図集覧574 天正19年12月1日 掃部頭

文禄元年8月16日 大外記

慶長2年12月28日 従五位上

慶長4年12月29日 大外記。造酒正。助教

慶長6年3月19日 河内権守

慶長13年1月6日 正五位下

慶長17年1月5日 正五位上

元和元年1月6日 従四位下

元和5年12月25日 従四位上

元和7年1月5日 正四位下

寛永8年1月6日 正四位上

正保3年1月25日 死す
押田直勝 寛永6年 生。百介。三左衛門
おしだなおかつ
三次郎豊勝の長男
寛政譜3・56
母は河田助兵衛政親の女


妻は松平中務大輔家臣押田市郎右衛門の女

寛永19年6月26日 大番 ●「日記」共

(正保元年12月25日) (三左衛門の初出) ●「日記」

正保元年12月25日 200俵 ●「日記」共

慶安元年3月25日 綱吉に付属される。抱守

慶安3年12月11日 父豊勝の采地を賜る。400石


小姓組頭


用人


神田館にて1900石

延宝8年 徳松に従う。西丸に伺候

天和元年3月21日 2200石

天和3年7月2日 死す
押田六兵衛

おしだろくびょうえ


寛永17年9月23日 奥筋へ御馬調被遣之 ●「日記」






尾関正次
生。安左衛門
おぜきまさつぐ
甚右衛門の男
士林泝洄4・274
京極若狭守に仕える

(寛永14年) 徳川義直に仕える。書院番

(寛永15年8月21日) (尾張大納言殿使者小関弥左衛門) ●「日記」


納戸

寛文11年1月29日 死す
小関弥左衛門
尾関正次か?
おぜきやざえもん
徳川義直に仕える

(寛永15年8月21日) (尾張大納言殿使者) ●「日記」



小田切勘右衛門

おだぎりかんえもん


(寛永19年7月8日) (山下弥五左衛門手代) ●「日記」

寛永19年7月8日 欠所ニて追放 ●「日記」

寛永19年7月14日 今度御蔵衆私曲之与同人也雖然或軽罪或忠信之儀申出ニ付て―


―身命御助家財欠所之上江戸并在所追放 ●「日記」



小田切知義 寛永19年 生。庄三郎。太郎左衛門
おだぎりともよし
庄七郎昌勝の男
寛政譜7・18
母は石原四郎右衛門安昌の女


妻は高林与五右衛門昌近の女

正保元年12月25日 父昌勝の遺跡を継ぐ。100俵。先祖昌吉の居宅地70石を賜る

正保元年12月25日 跡目被仰付百俵小田切庄七郎惣領庄三郎 ●「日記」

明暦2年9月22日 大番

万治元年6月14日 200俵

延宝3年11月20日 居宅地を食禄に加えられる。70石200俵

天和2年4月3日 金奉行

元禄2年閏1月3日 逼塞

元禄2年4月9日 小普請

元禄2年8月13日 ゆるされる。なお出仕をはばかる

元禄4年4月24日 ゆるされる

元禄12年1月22日 死す
小田切昌勝 元和4年 生。庄七郎
おだぎりまさかつ
庄兵衛昌直の男
寛政譜7・18
母は武田家臣野村清次郎の女


妻は石原四郎右衛門安昌の女

元和5年12月 父昌直の遺跡を継ぐ。100俵。小普請

寛永12年 大番

正保元年10月13日 死す
小田切須猶 慶長12年 生。喜兵衛。美作守
おだぎりもちなお
喜兵衛光猶の男
寛政譜7・19
母は宇野氏


妻は榊原隼之助忠勝の女

慶長19年 はじめて家康に拝謁


大番


150石

寛永2年12月11日 330石

寛永11年 630石

慶安3年 目付

慶安4年8月16日 布衣

慶安4年11月21日 630石300俵

万治元年5月6日 後西天皇に付属される。1630石300俵

万治元年閏12月25日 従五位下・美作守

寛文2年7月18日 死す
織田貞置 元和3年 生。出来丸。左京亮。五郎左衛門。主計頭。侍従。貞置
おださだおき
左京亮信貞の次男
寛政譜8・182
妻は佐久間駿河守正勝の女


後妻は織田左衛門佐長政の女


また水戸家臣鳥居左近忠勝の女を娶る

(寛永元年) 父信貞の遺跡を継ぐ。1000石

寛永7年 はじめて秀忠に拝謁


小姓組

寛永13年10月28日 小姓組。進物役

寛永13年10月28日 御進物番 ●「日記」

寛文3年12月19日 高家

寛文3年12月25日 従五位下。侍従。主計頭

延宝7年3月15日 高家を辞す

天和2年6月2日 致仕。300俵。貞置と号す

宝永2年6月2日
織田高重 慶長7年 生。長十郎。美作守
おだたかしげ
左衛門佐信高の男
寛政譜8・180
母は佐々陸奥守成政の女


妻は能勢摂津守頼次の女

慶長7年 父信高の遺跡を継ぐ。近江国2000石

元和2年 はじめて家康に拝謁。従五位下・美作守

元和3年5月26日 近江国神崎郡のうち2010石


寄合

寛文元年3月24日 死す
織田高長 天正18年 生。乱麻呂。出雲守。侍従。一岩
おだたかなが
信雄入道常真の五男
寛政譜8・175
前田利常のもとに寄食

寛永4年 甥信昌の後見役

寛永6年4月5日 従四位下・侍従

寛永7年 大和国松山3万1200石

万治2年12月23日 致仕。一岩と号す

延宝2年8月18日
織田高長長女
寛政譜8・176
織田出雲守高長の長女
寛政譜8・282
母は富田氏

寛永15年11月7日 縁辺組織田出雲守娘杉原吉兵衛 ●「日記」


杉原伯耆守重長に嫁ぐ


以下不詳
織田尚長 慶長元年 生。従五位下・武蔵守。越後守。大和守
おだなおなが
長益入道有楽の五男
寛政譜8・195 元和元年8月12日 1万石


大和国柳本1万石

(寛永11年2月15日) (大和守の初出) ●「日記」

(寛永11年4月1日) (越後守) ●「日記」

寛永14年11月3日
織田長定 元和3年 生。左近。豊前守
おだながさだ
左衛門佐長政の長男
寛政譜8・193
室は金森出雲守重頼の四女

寛永15年11月7日 縁辺組金森出雲守娘織田左近 ●「日記」

万治2年12月23日 父長政の家を継ぐ。大和国戒重1万石

万治3年12月28日 従五位下・豊前守

寛文12年閏6月4日
織田長種 元和3年 生。修理亮
おだながたね
大和守尚長の男
寛政譜8・195
室は小出大隅守三尹の次女

寛永15年3月7日 父尚長の遺領を継ぐ。大和国柳本1万石

寛永15年3月7日 織田大和守遺跡壱万石被下之 ●「日記」

寛永15年6月21日 縁辺組被仰付面々小出大隅守娘織田修理亮 ●「日記」

寛永15年6月28日 はじめて家光に拝謁

寛永15年6月28日 跡目御礼 ●「日記」

寛永20年9月8日
織田長則
生。河内守・従五位下
おだながのり
河内守長孝の長男
寛政譜8・192 (慶長11年) (父長孝の遺領を継ぐ。美濃国大野郡のうち1万石)

寛永8年7月4日
織田長政 天正16年 生。荘蔵。丹後守。左衛門佐。卜斎
おだながまさ
長益入道有楽の四男
寛政譜8・192
家康に仕える。小姓。3000石


3000俵

慶長10年4月16日 従五位下・丹後守

元和元年 1万石

元和8年 大和国戒重1万石

寛永3年~寛永17年 左衛門佐

(寛永10年7月2日) (左衛門佐の初出) ●「日記」

万治2年12月23日 致仕。卜斎と号す

寛文10年2月18日
織田長政娘


織田左衛門佐長政の娘(次女か?)

寛永15年11月7日 縁辺組織田左衛門佐娘内藤四郎左衛門 ●「日記」


内藤四郎左衛門正次に嫁ぐか


(正次に一男一女あり。いずれも早世か)



織田長政長女
寛政譜8・193
織田左衛門佐長政の長女
寛政譜11・76 寛永10年7月2日 大田原備前守政清と縁組 ●「日記」

寛永14年 大田原山城守高清を産む


大田原長次郎為清を産む


織田武左衛門吉清を産む



織田長好
生。三五郎
おだながよし
左門頼長の男
寛政譜8・192 寛永11年3月3日 呉服太刀目録ニて御目見 ●「日記」


不詳



織田長頼 元和6年 生。右近。伊豆守。山城守。侍従
おだながより
出雲守高長の次男
寛政譜8・175
母は富田氏


室は金森出雲守重頼の女

寛永12年8月6日 嫁娶被仰付之 ●「日記」

慶安元年12月30日 従四位下

万治2年12月23日 父高長の家を継ぐ。大和国松山3万1200石

万治3年9月10日 弟式部長政に分知。大和国松山2万8200石

万治3年12月28日 侍従

元禄2年4月3日
織田信勝 元和9年 生。辰之助。上野介
おだのぶかつ
刑部大輔信則の男
寛政譜8・189
母は岡部内膳正長盛の女


室は松平大膳大夫忠重の女

寛永7年 父信則の遺領を継ぐ。丹波国柏原3万6000石

寛永15年11月7日 縁辺組松平大膳亮娘織田辰之助 ●「日記」

寛永16年12月30日 従五位下・上野介

寛永16年12月30日 諸大夫 ●「日記」

(寛永17年1月28日) (上野介の初出) ●「日記」

慶安3年5月17日
織田信高
生。三左衛門。主水
おだのぶたか
主水昌澄の次男
寛政譜8・186
母は安西氏


妻は佐々木氏

寛永18年12月4日 父昌澄の遺跡を継ぐ。2000石

寛永18年12月4日 弐千石杉浦内蔵組織田主水跡右一円惣領三左衛門ニ被下之 ●「日記」

寛永19年10月1日 はじめて家光に拝謁

寛永19年10月1日 継目之御礼 ●「日記」

延宝4年9月26日 死す
織田順高 慶長14年 生。金左衛門
おだのぶたか
対馬守順元の男
寛政譜8・197
溝口出雲守に仕える


処士

寛永16年12月28日 家光に拝謁。家光に仕える。寄合

寛永16年12月28日 始て以太刀目録御目見 ●「日記」


奥方に奉仕

寛永17年6月26日 500石

寛永17年6月26日 千代姫君御方御乳母之父織田金左衛門去比被召出今日五百石之―


―御知行御書出伊豆豊後守対馬守渡之金左衛門儀奥方御奉公仕ニ―


―よりて也 ●「日記」

万治元年8月7日 死す
織田順高娘

寛政譜8・198
織田金左衛門順高の女


千代姫君霊仙院に仕える

(寛永17年6月26日) (千代姫君御方御乳母) ●「日記」



織田信則長女
寛政譜8・189
織田刑部大輔信則の長女

寛永10年7月2日 植村右衛門佐家貞と縁組 ●「日記」






織田信昌 寛永2年 生。百介。因幡守。兵部大輔
おだのぶまさ
兵部少輔信良の次男
寛政譜8・172
母は久我大納言通興の三男下津捧庵の女
寛政譜4・25
室は小笠原左衛門佐政信の長女。のち離婚

寛永3年7月 父信良の遺領を継ぐ。上野国小幡2万石

寛永8年2月15日 はじめて家光に拝謁

寛永16年12月30日 従五位下・因幡守

寛永16年12月30日 諸大夫 ●「日記」

(寛永17年1月28日) (因幡守の初出) ●「日記」

寛永18年2月25日 織田因幡守小笠原主膳正両輩以進物御礼是縁辺之儀被仰付―


―今度相調付て也 ●「日記」

慶安元年12月30日 従四位下・兵部大輔

慶安3年7月9日
織田信良次女
寛政譜8・172
織田兵部少輔信良の次女
寛政譜10・177 寛永12年8月6日 織田百介姉稲葉能登守嫁娶被仰付之 ●「日記」


稲葉能登守信通に嫁ぐ

寛永12年12月21日 織田百介稲葉能登守祝言被仰付御礼 ●「日記」


女子を産む。のちの花山院内大臣定誠の室

寛永16年 稲葉右京亮景通を産む


女子を産む。のちの織田越前守信久の室

(慶安か)
織田秀一 寛永16年 生。源十郎。信濃守
おだひでかず
修理亮長種の男
寛政譜8・195
母は小出大隅守三尹の女


室は小出大隅守重棟の女

寛永20年12月7日 父長種の遺領を継ぐ。大和国柳本1万石

寛永20年12月7日 壱万石修理跡 ●「日記」

寛文元年12月28日 従五位下・信濃守

貞享4年8月3日
小田孫四郎

おだまごしろう


寛永18年12月13日 弐百表拾人扶持或駿河衆或御勘気御赦免之依為無足人―


―本高を以被下之 ●「日記」



織田昌澄 天正7年 生。庄九郎。三左衛門。道半斎。主水。はじめ津田を称す
おだまさずみ
津田七兵衛信澄の長男
寛政譜8・186
母は明智日向守光秀の女


妻は安西氏

文禄元年3月 藤堂佐渡守高虎に従って朝鮮に至る


京都に閑居


豊臣秀頼に仕える

元和元年 家康にゆるされて諸国を徘徊。剃髪。道半斎と号す

元和4年11月 秀忠に仕える。2000石。束髪して主水と称す。寄合


小普請

寛永18年3月26日 死す

(寛永18年12月4日) (杉浦内蔵組) ●「日記」
落合左平次

おちあいさへいじ
徳川頼宣に仕える

(寛永17年6月18日) (紀伊大納言殿使者) ●「日記」



落合左平太
生。左平太
おちあいさへいた
小平次道次の次男
寛政譜16・407 寛永13年9月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共


以下不詳
落合三五郎
生。三五郎
おちあいさんごろう
小平次道次の三男
寛政譜16・407 寛永15年11月21日 落合小平次二番目子可被召出 ●「日記」

寛永16年2月5日 はじめて家光に拝謁

寛永16年2月5日 落合小平次二番子樽代を以初て御目見 ●「日記」

寛永20年6月16日 書院番


以下不詳
落合通秋
生。三郎左衛門
おちあいみちあき
先手与力
寛政譜21・91 (寛永20年4月19日) (御切米八拾石) ●「日記」

(寛永20年4月19日) (長坂権七郎組) ●「日記」

寛永20年4月19日 只今迠之御番被成御免向後御役可被仰付之間可存其旨之由―


―小十人組御番所之次ニて老中被伝之 ●「日記」


国廻役

(天和2年) 死す
落合道勝
生。源右衛門
おちあいみちかつ
小平次道次の長男
寛政譜16・407
母は池田氏


妻は大久保豊前守忠貞の女

寛永6年 家光に仕える

寛永18年4月16日 小姓組 ●「日記」共

寛永20年12月18日 三百俵 ●「日記」

承応元年12月27日 父道次の遺跡を継ぐ。720石

寛文2年4月18日 徒頭

寛文2年12月22日 720石300俵

寛文2年12月27日 布衣

寛文11年10月8日 先鉄炮頭

延宝5年4月14日 持筒頭

天和2年4月21日 1220石300俵

貞享元年11月26日 持筒頭を辞す。寄合

貞享3年3月2日 死す
落合道次
生。小平次
おちあいみちつぐ
左平次道久の養子。神谷与次右衛門清次の次男
寛政譜16・406
母は榊原伊豆守の女


妻は池田氏

慶長4年6月 大番

慶長4年9月14日 家康が大阪城西丸に入ったとき進物番

慶長18年12月 220石。給米80石

慶長19年10月 大坂の役にて宿割・陣割・伝令

元和元年 大坂の役にて陣割・伝令

元和2年 秀忠に仕える。納戸番

寛永8年 膳奉行

寛永9年8月18日 小十人頭 ●「日記」共

寛永10年12月27日 720石

寛永10年12月27日 五百石御加増 ●「日記」

(寛永13年12月13日) (布衣) ●「日記」

寛永17年11月15日 駿府町奉行 ●「日記」共

承応元年8月9日 死す
越智吉次 天正18年 生。右馬允。長大夫。弥三右衛門
おちよしつぐ
弥三右衛門吉広の男
寛政譜7・46
妻は宅間伊織忠次の女

元和3年8月1日 父吉広の勤に代わる。120石

寛永2年12月11日 父吉広の采地に新墾田を加えられる。390石の朱印


上総国東金の鳥見

(寛永19年10月27日) (すでに弥三右衛門を称すか) ●「日記」

慶安3年12月11日 父吉広の遺跡を継ぐ

万治2年12月7日 死す
越智吉広 元亀2年 生。弥三右衛門
おちよしひろ
右馬允吉長の男
寛政譜7・46 慶長10年9月15日 家康に仕える

(慶長19年) 大坂の役にて荒坂越の間道を造る


父吉長の勤に代わり五畿内諸鳥の法度を沙汰

元和元年7月21日 采地の黒印。(380石)

(元和3年8月1日) 息吉次に勤を代わる

慶安3年9月27日 死す
乙骨太郎左衛門

おっこつたろうざえもん
60俵 ●「日記」寛永13年11月24日条

(寛永13年) 死すか



乙骨太郎左衛門二番子



太郎左衛門の二番子

寛永13年11月24日 乙骨太郎左衛門六十俵子仁左衛門被下仁左衛門ニ―


―唯今迠被下候御切米四十表ハ二番ニ被下 ●「日記」



乙骨仁左衛門

おっこつにざえもん
太郎左衛門の惣領子

寛永13年11月24日 乙骨太郎左衛門六十俵子仁左衛門被下仁左衛門ニ―


―唯今迠被下候御切米四十表ハ二番ニ被下 ●「日記」



乙部勘左衛門

おとべかんざえもん
松平但馬守直良に仕える

(寛永16年4月23日) (松平土佐守家来) ●「日記」



おとめ





(正保元年11月14日) 家綱の女中か



小野木十左衛門

おのぎじゅうざえもん
生駒壱岐守高俊に仕える

(寛永17年7月26日) (生駒壱岐守家中) ●「日記」

寛永17年7月26日 子共迠死罪 ●「日記」



小野木潦之丞

おのぎりょうのじょう
十左衛門の男か

(寛永17年7月26日) (生駒壱岐守家来) ●「日記」

寛永17年7月26日 切腹 ●「日記」



小野左近
小野季興か(地下家伝中・982)
おのさこん
好仁親王の家臣






小野貞則 天正2年 生。宗三郎。宗左衛門
おのさだのり
立慶の養子。赤松民部左衛門則直の男
寛政譜10・115
妻は立慶の女

天正17年 はじめて家康に拝謁

天正18年 小田原の役に供奉


500石

慶長5年 大津城にて郡事を沙汰。騎馬35騎。指物を賜る

~慶長19年 大津代官。市中の事を沙汰

寛永14年12月22日 彼地(大和国高取)御代官被仰付之 ●「日記」

寛永17年8月26日 死す
小野貞久 元和5年 生。喜左衛門。宗左衛門
おのさだひさ
喜左衛門貞勝の長男
寛政譜10・116
妻は松平淡路守家臣賀嶋主水の女

寛永11年閏7月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

(寛永16年5月5日) (御代官) ●「日記」

寛永18年7月18日 祖父宗左衛門貞則の遺跡を継ぐ。大津代官

寛永18年7月18日 小野喜左衛門同長左衛門御目見宗左衛門跡職被仰付也 ●「日記」

延宝8年12月25日 致仕

元禄元年5月28日 死す
小野貞正
生。長左衛門
おのさだまさ
宗左衛門貞則の三男
寛政譜10・117
母は小野立慶の女


妻は松平阿波守家臣賀嶋主水の女

寛永11年閏7月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永12年 代官

寛永15年 200俵

(寛永16年5月8日) (上方御代官) ●「日記」

寛永18年7月18日 小野喜左衛門同長左衛門御目見宗左衛門跡職被仰付也 ●「日記」

寛永18年 400俵

寛文11年 致仕

寛文11年12月25日 死す
小野沢吉清
生。又七郎。五郎兵衛。又五郎
おのざわよしきよ
五郎兵衛吉秀の男
士林泝洄2・377 (慶長2年) 父吉秀の遺跡を継ぐ


徳川義直に仕える。馬廻


使番


目付

寛永10年 徳川光友に付属される。傅役。1200石

正保2年 致仕。又五郎に改める

万治元年 次男七郎兵衛吉行改易により退去


以下不詳
小野主馬

おのしゅめ
南部山城守重直に仕える

(寛永17年3月15日) (南部山城守証人) ●「日記」



小野高勝 慶長13年 生。忠三郎。忠左衛門
おのたかかつ
左馬助高政の三男
寛政譜9・170
母は金井越前守の女


妻は横地市郎右衛門元尭の女

元和元年12月 はじめて秀忠に拝謁

寛永2年3月4日 小十人。100俵月俸10口

寛永9年8月25日 200俵

寛永18年10月26日 小十人組組頭

寛永18年10月26日 小十人組之組頭之内年寄之者御番御免被成連々別之御役可被仰付―


―之旨ニ依テ佐々木庄兵衛小佐手左介西山忠左衛門山本又右衛門―


―竹内平右衛門右五人御番御免鳥居三郎右衛門小野忠三郎―


―阿部甚五左衛門服部三郎右衛門坂部孫四郎此五人右之替ニ―


―組頭被仰付之 ●「日記」

正保3年12月4日 300俵

寛文2年10月19日 箪笥奉行

延宝8年4月11日 死す
小野高雲
生。金三郎。源五左衛門。朝右衛門
おのたかくも
麻右衛門高光の次男
寛政譜10・113
母は嶋田出雲守利木の養女加藤彦右衛門正之の女

寛永20年3月3日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

承応3年2月23日 書院番

寛文12年12月10日 父高光の遺跡を継ぐ。300石300俵


書院番を辞す。小普請

元禄10年7月26日 600石

宝永4年12月19日 死す
小野高重 慶長19年 生。十三郎。甚兵衛。甚右衛門
おのたかしげ
源右衛門(左馬助)高盛の次男
寛政譜9・167
母は大久保甚左衛門忠直の女

寛永20年3月3日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保元年6月16日 小姓組 ●「日記」共

正保3年12月10日 300俵

慶安元年3月25日 鶴松に付属される

慶安3年閏10月18日 小姓組


小姓組を辞す。小普請

寛文11年5月20日 死す
小野高政 慶長5年 生。三助。太兵衛
おのたかまさ
祖父太兵衛親光の養子。麻右衛門高光の長男
寛政譜10・112
母は嶋田出雲守利木の養女加藤彦右衛門正之の女

寛永元年 養父親光の遺跡を継ぐ

寛永2年9月2日 210石の朱印

寛永11年4月 大番

寛永20年10月21日 三丸番 ●「日記」共

正保元年3月24日 死す
小野高増 寛永元年 生。(七之助)。七兵衛。五右衛門
おのたかます
源右衛門(左馬助)高盛の四男
寛政譜9・168
母は大久保甚左衛門忠直の女


妻は沼間兵右衛門清許の女

正保元年2月20日 はじめて家光に拝謁

正保元年2月20日 小野左馬助四番子七之助初て御目見 ●「日記」

正保元年6月28日 大番

正保3年12月22日 200俵

元禄5年9月 大番を辞す。小普請

元禄7年8月24日 死す
小野高光 天正15年 生。麻右衛門
おのたかみつ
太兵衛親光の長男
寛政譜10・113
妻は嶋田出雲守利木の養女加藤彦右衛門正之の女

慶長7年 秀忠に仕える。大番

元和5年 大番組頭

寛永2年 徳川忠長に付属される

寛永2年12月 300石

(寛永9年) 処士

寛永10年冬 家光に仕える

寛永11年10月11日 大番。300石


大番組頭

慶安元年4月4日 先弓頭

慶安元年12月30日 布衣

慶安4年11月21日 300石300俵

寛文3年1月21日 同心30人

寛文7年閏2月16日 鎗奉行

寛文11年4月1日 鎗奉行を辞す。寄合

寛文12年8月16日 死す
小野高盛 天正18年 生。源十郎。左馬助。(源右衛門?)
おのたかもり
左馬助高政の長男
寛政譜9・165
母は金井越前守の女


妻は大久保甚左衛門忠直の女

慶長7年1月16日 はじめて秀忠に拝謁。大番

寛永2年12月11日 500石の朱印

寛永19年10月8日 大番組頭

寛永19年10月8日 本多豊前守組大御番組頭 ●「日記」

慶安元年3月13日 留守居番。700石

慶安4年8月16日 布衣


留守居番を辞す。小普請

寛文3年12月12日 死す
小野高保 正保元年 生。朝之丞
おのたかやす
太兵衛高政の男
寛政譜10・112 正保元年 父高政の遺跡を継ぐ。210石。小普請

正保元年12月25日 跡目被仰付弐百石水野太兵衛惣領ニ被下之 ●「日記」小野の誤記か

万治3年 大番

貞享4年8月11日 代官


代官を辞す

宝永6年4月21日 死す
小野高行 慶長10年 生。伝三郎
おのたかゆき
左馬助高政の次男
寛政譜9・169
母は金井越前守の女

元和元年12月 はじめて秀忠に拝謁

元和3年9月 大番。200俵

寛永3年1月 鉄炮薬込役

慶安3年8月27日 閉門

慶安3年10月19日 ゆるされる

慶安4年6月22日 日光定番。火消同心50人小頭2人。200石200俵

承応元年2月13日 松平下総守忠弘に召し預けられる

寛文3年7月20日 赦免

寛文3年12月25日 400俵

寛文4年8月11日 大番


大番を辞す。小普請

貞享2年5月26日 死す
小野次隆
生。左門。吉兵衛
おのつぐたか
久内吉次の男
寛政譜20・355
妻は坂部三大夫正盛の女


鷹匠

寛永15年11月3日 五拾俵被下之 ●「日記」

慶安3年2月3日 父吉次の遺跡を継ぐ。400石。鷹匠頭

寛文6年12月19日 放鷹のとき近侍

元禄4年12月8日 死す
小野寺桂之介

おのでらけいのすけ


寛永19年閏9月29日 細井金大夫小野寺桂之介此両人先年堀丹後守雖召預之―


―丹後守就死去佐竹修理大夫被召預之 ●「日記」



小野俊辰
生。弾正少弼。非蔵人。三河。旦杷
おのとしとき
上御霊社本宮社務出雲寺別当小栗栖法印祐純の次男
古代豪族系図集覧195 (寛永11年7月21日) (非蔵人)(少弼) ●「日記」


出家。旦杷と号す

延宝8年
小野吉次
生。久内
おのよしつぐ
右馬助吉元の男
寛政譜20・355
武蔵国多摩郡落合村に住す


家康に拝謁


秀忠に仕える。廩米を賜る。鷹匠頭

寛永15年11月3日 100俵加増 ●「日記」共

寛永18年2月14日 300石

寛永18年2月14日 小野久内本地武州栗原村ニ有之由被及聞召彼村ニテ弐百石其近辺ニテ―


―百石都合三百石被下之其上連々御奉公之儀無懈怠相勤年罷寄間―


―向後遠御鷹野之時分ハ馬ニテ御先え可参之旨御城廻之節は両度ニ―


―一度可罷出之由上意之趣朽木民部少輔被申渡之久内只今迠被下来―


―御切米上ル ●「日記」

正保3年12月4日 400石

慶安3年1月24日 死す
小幡景憲 元亀3年 生。熊千代。孫七郎。勘兵衛
おばたかげのり
豊後守昌盛の三男
寛政譜9・195
母は武田家臣原美濃守虎胤の女

天正10年12月 家康に仕える


秀忠に付属される。小姓

文禄元年5月13日 200石

文禄4年 逐電。流浪

慶長5年 関ケ原の役にて井伊直政に属す

慶長19年 大坂の役にて松平筑前守前田利常の家臣冨田越後守に属す

元和元年2月22日 板倉勝重等と謀り豊臣秀頼の招きに応じる

元和元年6月 秀忠に仕える

元和2年8月 500石

寛永9年8月18日 使番 ●「日記」共

寛永9年11月27日 布衣 ●「日記」共

寛永10年12月26日 1500石

寛永10年12月26日 御加恩千石 ●「日記」

寛文3年2月25日 死す
小幡三郎兵衛

おばたさぶろうびょうえ
加賀前田家臣

(寛永20年10月7日) (松平筑前守(使者)) ●「日記」



小幡重昌 慶長11年 生。三郎左衛門
おばたしげまさ
孫市郎直之の長男
寛政譜9・189
妻は赤井兵庫頭忠泰の女

元和2年7月24日 秀忠に拝謁

寛永17年2月6日 大番組頭

寛永17年2月6日 大番之組頭ニ被仰付内藤石見守組頭也 ●「日記」

慶安元年1月2日 目付

慶安元年12月11日 父直之の遺跡を継ぐ。1100石

慶安4年8月16日 布衣

承応2年9月14日 死す
小幡二郎太郎
生。二郎太郎
おばたじろうたろう
孫四郎高昌の男
寛政譜9・192 寛永19年11月12日 父高昌の遺跡を継ぐ

寛永19年11月12日 御旗本衆令死去跡被下之小幡孫四郎子三歳 ●「日記」

明暦元年3月13日 小姓組

某年 死す
小幡高昌
生。孫四郎
おばたたかまさ
孫市郎直之の次男
寛政譜9・192 寛永18年4月16日 小姓組 ●「日記」共

寛永19年 死す
小幡直之 天正5年 生。孫市郎
おばたなおゆき
忠甫斎信真の養子。小幡左衛門尉信秀の長男
寛政譜9・189
北条家に仕える

天正19年 はじめて家康に拝謁。小姓

~文禄元年 1000石

元和元年~ 大番組頭

(寛永2年7月27日) (1100石)

寛永10年2月3日 御番御赦免 ●「日記」

寛永10年~ 大番組頭を辞す。なお咄衆に連なる

慶安元年7月15日 死す
小幡長次
生。大炊。宮内。不入
おばたながつぐ
九兵衛の次男
加賀藩史稿12・1
室は松平伯耆の女
諸士系譜4・17 慶長末年 前田利常に仕える。300石

寛永初年 7950石

(寛永17年2月25日) (松平筑前守使者) ●「日記」


1万950石


家老。加賀国金沢城代

寛文4年 退隠。1000石。不入と号す

寛文8年
小畑隼人

おばたはやと
勧修寺門跡寛海の家臣



小浜利隆 慶長12年 生。熊之助。半左衛門。佐右衛門
おはまとしたか
民部少輔光隆の三男
寛政譜16・401
母は内藤修理亮清成の女


妻は石津氏

元和2年 はじめて家光に拝謁。家光に仕える。月俸を賜る

元和9年 書院番。水野摂津守光綱組。200俵

寛永4年 250俵

寛永10年2月7日 450石

正保元年12月16日 船手

正保元年12月16日 舟手頭小浜久太郎元水手 ●「日記」

正保元年12月29日 布衣 ●「日記」共

寛文4年4月22日 兄小浜民部丞嘉隆死去により仮の大坂船手

寛文5年6月 大坂から戻る

寛文6年9月8日 死す
小浜直隆 寛永11年 生。辰之助。孫十郎。久太郎
おはまなおたか
民部丞嘉隆の長男
寛政譜16・399 寛永17年7月22日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

承応3年 死す
小浜光隆 天正8年 生。辰千代。久太郎。民部丞。民部少輔
おはまみつたか
伊勢守景隆の長男
寛政譜16・399
母は鳥羽監物成忠の女


妻は内藤修理亮清成の女

慶長2年 父景隆の遺跡を継ぐ。相模国三崎3000石

慶長5年 水主50人を賜る。その月俸を賜る

~慶長19年 淡路国洲本城番

元和6年 大坂船手番。5000石

寛永19年7月2日 死す

寛永19年7月6日 従大坂次飛脚状箱到来小浜民部死去之由注進之 ●「日記」
小浜安隆 慶長19年 生。弥十郎
おはまやすたか
右京守隆の男
寛政譜16・404
母は九鬼長門守家臣九鬼図書成隆の女

(寛永6年) 父守隆の遺跡を継ぐ。1500石


船手

寛永13年12月29日 布衣 ●「日記」共

寛永17年6月22日 九州四国中国之浦々為見分船手之面々毎年二人宛可被遣之旨被仰出之―


―所謂辰年小浜久太郎間宮虎之助巳年石川八左衛門向井右衛門―


―午年小浜弥十郎小笠原安芸守右之通代々可相越 ●「日記」

寛永19年5月6日 拝謁をとどめられる ●「日記」共


ゆるされる

慶安4年12月16日 死す
小浜嘉隆 慶長5年 生。辰千代。久太郎。民部丞
おはまよしたか
民部少輔光隆の長男
寛政譜16・399
母は内藤修理亮清成の女


妻は牧野豊前守信成の女

慶長19年 はじめて秀忠に拝謁

寛永9年7月4日 五十丁立之御舩壱艘被仰付 ●「日記」

寛永9年8月14日 船手

寛永9年8月14日 水主同心30人 ●「日記」

寛永13年12月29日 布衣 ●「日記」共

寛永15年12月1日 500俵 ●「日記」共

寛永16年2月5日 父光隆参府により大坂船手番を代理

寛永16年2月5日 父民部罷下候付大坂え可被差遣 ●「日記」

寛永17年6月22日 九州四国中国之浦々為見分船手之面々毎年二人宛可被遣之旨被仰出之―


―所謂辰年小浜久太郎間宮虎之助巳年石川八左衛門向井右衛門―


―午年小浜弥十郎小笠原安芸守右之通代々可相越 ●「日記」

寛永19年7月19日 父光隆の遺跡を継ぐ。5000石。大坂船手

寛永19年12月20日 以太刀目録進物御礼亡父民部少輔跡職依被仰付之 ●「日記」

寛文4年3月23日 死す
於彦

おひこ
不明

(寛永18年3月30日) (玄冶、半井三位、幸若と屋敷が並びか) ●「日記」



小尾正直 寛永4年 生。主殿。彦左衛門
おびまさなお
彦左衛門重正の長男
寛政譜3・301
母は屋代越中守勝永の女


徳川忠長に仕える

(寛永9年) 流浪

(寛永19年12月10日) (武川衆) ●「日記」

寛永19年12月10日 家光に仕える。360石

寛永19年12月10日 如前々御知行被下之 ●「日記」

正保4年3月11日 死す
小尾光重 元亀3年 生。仁左衛門
おびみつしげ
監物祐光の次男
寛政譜3・304
母は小尾周防の女


妻は折井淡路守次昌の女

天正18年 はじめて家康に拝謁

天正19年 九戸一揆のとき小姓

文禄元年 名護屋陣にて小納戸

慶長5年 秀忠の上杉征伐のとき渡辺山城守茂に属す


大番

慶長14年 勘気を蒙る。流浪。籠居

寛永9年7月17日 赦免。家光に仕える。大番

寛永9年7月17日 ゆるされる ●「日記」

寛永11年2月26日 此以前御勘当御赦免日来大御番勤仕 ●「日記」

寛永11年2月26日 250俵 ●「日記」共


残物奉行


残物奉行を辞す。小普請

寛文3年8月18日 死す
小俣三郎右衛門

おまたさぶろうえもん


(寛永19年12月10日) (御書院番) ●「日記」

寛永19年12月10日 三百俵 ●「日記」



小俣伝左衛門
生。牛太郎。伝左衛門
おまたでんざえもん
平右衛門政貞の男
寛政譜18・195
妻は松平清左衛門親正の女

正保元年2月20日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

慶安2年12月14日 父政貞の遺跡を継ぐ。530石


大番


大番を辞す。小普請

延宝6年12月10日 致仕

某年 死す
小俣政貞
生。平右衛門
おまたまささだ
平右衛門政勝の男
寛政譜18・194 (慶長12年) 父政勝の遺跡を継ぐか

~寛永16年 家光に仕える。大番

慶安2年3月25日 死す
おもひ五郎

おもいごろう


(正保元年6月25日) (琉球中山王使者馬上之従者楽人) ●「日記」



おもひ次郎

おもいじろう


(正保元年6月25日) (琉球中山王使者馬上之従者楽人) ●「日記」



おもひとく





(正保元年6月25日) (琉球中山王使者馬上之従者楽人) ●「日記」



小山行次
生。九郎左衛門
おやまゆきつぐ
九郎左衛門行直の男
寛政譜14・79
徳川忠長に仕える

(寛永9年) 処士


家光に仕える。140石

寛永20年12月18日 140俵

寛永20年12月18日 知行悪所ニ付御切米ニ替被下之 ●「日記」


以下不詳
折井次吉 元亀3年 生。九郎三郎。仁左衛門
おりいつぐよし
市左衛門次昌の次男
寛政譜3・267
母は武田家臣青木尾張守信立の女


妻は柳沢兵部丞信俊の養女曾根内膳の女

天正18年8月23日 兄市左衛門次忠の采地を賜る。武蔵国鉢形領140石。采地に住す

天正19年 九戸一揆のとき大久保七郎右衛門忠世に属す

慶長5年 上田城攻めにて秀忠に従う

慶長9年3月2日 武蔵国鉢形領200石

元和元年 大坂の役にて本多佐渡守正信に属す

元和9年 徳川忠長に付属される。大番

(寛永9年) 処士

寛永10年 家光に仕える。月俸を賜る

寛永17年8月 宝蔵番

寛永18年11月15日 200石

寛永18年11月15日 芦田武川衆十八人駿州ニて之本知并御切米如前々被下之 ●「日記」

寛永19年2月4日 死す
折井政次 慶長6年 生。九郎次郎。市左衛門
おりいまさつぐ
市左衛門次忠の養子。曾根孫右衛門の男
寛政譜3・265
母は市左衛門次忠の女


妻は折井仁左衛門次吉の女


後妻は秋山平左衛門昌秀の女


家康に拝謁

慶長19年 大坂の役にて養父次忠に代わり武川の士を率い本多佐渡守正信に属す

(慶長19年) 養父次忠の遺跡を継ぐ。1000石

元和元年 大坂の役にて本多佐渡守正信に属す

元和2年 預かっていた御料地を杉浦一十郎正友に下される


徳川忠長に付属される

(寛永9年) 処士


家光に仕える。1000石


1200石

寛永14年閏3月8日 死す
折井正利 元和8年 生。百助。左京。市左衛門。正利
おりいまさとし
市左衛門政次の男
寛政譜3・265
母は秋山平左衛門昌秀の女


妻は服部杢助政重の女


後妻は堀越中守利長の女

寛永5年4月15日 はじめて家光に拝謁

寛永13年10月28日 中奥の小姓

寛永13年10月28日 中奥之御番 ●「日記」

寛永14年11月25日 父政次の遺跡を継ぐ。1200石

寛永14年11月25日 千弐百石折井市左衛門跡実子左京 ●「日記」

寛永16年12月28日 膳番 ●「日記」共


勘気を蒙る

慶安元年6月3日 赦免

慶安4年4月 寄合

承応3年7月18日 小姓組

延宝2年 小姓組を辞す。小普請

元禄4年12月2日 致仕。正利と号す

宝永4年12月22日 死す
折井吉長 慶長10年 生。九郎三郎。七郎兵衛。仁左衛門
おりいよしなが
仁左衛門次吉の男
寛政譜3・267
母は柳沢兵部丞信俊の養女曾根内膳の女

寛永19年12月 父次吉の遺跡を継ぐ。200石。宝蔵番

寛永20年8月30日 家綱に付属される。三丸に勤仕 ●「日記」共

寛永20年12月18日 200俵

寛永20年12月18日 知行悪所ニ付御切米ニ替被下之 ●「日記」

慶安3年9月4日 大番


大番を辞す。小普請

延宝4年11月2日 死す
織物屋甚八
京都織物屋
おりものやじんぱち


Sheet 2: か行

海禅寺(江戸)
江戸。臨済宗
かいぜんじ







海禅寺(上州)
信濃国上田か?
かいぜんじ







甲斐庄正述
生。伝八郎。喜右衛門
かいのしょうまさのぶ
喜右衛門正房の長男
寛政譜10・52
母は松平加賀守家臣中黒弥兵衛の女


妻は徳川忠長家臣大河内金七郎の女

~寛永3年 西丸小姓組

(寛永7年) 父正房の遺跡を継ぐ。2000石


書院番


勘気を蒙る

寛永15年10月17日 御赦免 ●「日記」

寛永15年12月17日 ゆるされる

承応元年1月28日 長崎奉行

承応2年12月28日 布衣

万治3年6月5日 死す
甲斐庄正述長女
寛政譜10・54
甲斐庄喜右衛門正述の長女
寛政譜16・266 寛永20年12月26日 縁辺 ●「日記」


宮崎織部重政に嫁ぐ


以下不詳
加々爪定澄
生。杢之助。内記。弥左衛門。平八郎
かがつめさだすみ
民部少輔忠澄の三男
寛政譜12・234
母は紀伊家老安藤帯刀直次の女

寛永11年 はじめて家光に拝謁

寛永15年10月24日 書院番 ●「日記」共

寛永18年 父忠澄の遺領分知。500石

寛永18年4月7日 継目之御礼 ●「日記」

寛永18年4月12日 逼塞 ●「日記」共

寛永18年9月5日 ゆるされる

寛永18年9月5日 御赦免仕来御役如前々可相勤 ●「日記」

万治3年4月8日 死す
加々爪忠澄 天正14年 生。甚十郎。民部少輔
かがつめただすみ
備後守政尚の男
寛政譜12・233
妻は紀伊家老安藤帯刀直次の女

慶長4年 秀忠の御前にて元服。偏諱を賜る

慶長5年 家康に近侍

慶長19年 使番

元和元年12月21日 従五位下・民部少輔

元和5年1月11日 目付

寛永2年7月27日 4500石


5500石

寛永8年 町奉行

寛永9年11月18日 乗物御赦免 ●「日記」

寛永10年4月23日 9500石

寛永10年4月23日 4000石御加恩 ●「日記」

寛永10年6月6日 諸中御用被下無由断可令言上 ●「日記」

寛永14年12月22日 出仕をとどめられる ●「日記」共

寛永15年1月19日 赦免 ●「日記」共

寛永15年5月16日 町奉行をゆるされる ●「日記」共

寛永17年1月23日 大目付 ●「日記」共

寛永18年1月30日 死す
加々爪忠澄長女
寛政譜12・234
加々爪民部少輔忠澄の長女
寛政譜3・9
母は紀伊家老安藤帯刀直次の女

寛永12年8月6日 加々爪民部娘石川権十郎嫁娶被仰付之 ●「日記」


石川播磨守総長に嫁ぐ

寛永19年 石川若狭守総良を産む


石川土佐守直清を産む


女子を産む。のちの斎藤美作守三賢の妻―


―三賢死後に菅谷八郎兵衛政照の妻


以下不詳
加々爪直澄 慶長15年 生。藤八郎。次郎右衛門。甚十郎。甲斐守
かがつめなおすみ
民部少輔忠澄の長男
寛政譜12・233
母は紀伊家老安藤帯刀直次の女


室は伊奈筑後守忠政の女


家光に仕える。小姓


2000俵

寛永8年 従五位下・甲斐守

寛永10年8月5日 小姓組の頭

寛永10年8月5日 御小姓組頭 ●「日記」

寛永11年7月2日 勘気を蒙る ●「日記」共


ゆるされる

寛永12年8月27日 2000石

寛永12年8月27日 御切米弐千俵地方ニ被直下之 ●「日記」

(寛永13年12月20日) (御膳番) ●「日記」

寛永15年12月5日 小姓組番頭 ●「日記」共

寛永18年 父忠澄の遺跡を継ぐ。1万石

寛永18年4月7日 継目之御礼 ●「日記」

慶安3年12月19日 書院番頭

明暦元年9月15日 大番頭

寛文元年11月11日 寺社奉行

寛文8年12月25日 1万3000石

寛文10年12月11日 閉門

寛文11年12月20日 ゆるされる

延宝7年6月18日 致仕

天和元年2月9日 松平土佐守山内豊昌に召し預けられる


以下不詳
加々爪直久
生。十兵衛
かがつめなおひさ
民部少輔忠澄の四男
寛政譜12・234
母は紀伊家老安藤帯刀直次の女


不詳
加々爪信澄 慶長15年 生。主馬。宇右衛門。十右衛門
かがつめのぶすみ
民部少輔忠澄の次男
寛政譜12・235
妻は朽木与五郎友綱の女

寛永8年 はじめて家光に拝謁

寛永15年10月24日 書院番 ●「日記」共

(寛永17年5月8日) (宇右衛門の初出) ●「日記」

寛永18年 父忠澄の遺領分知。1000石

寛永18年4月7日 継目之御礼 ●「日記」

寛永18年4月12日 逼塞 ●「日記」共

寛永18年9月5日 ゆるされる

寛永18年9月5日 御赦免仕来御役如前々可相勤 ●「日記」

慶安元年5月25日 中奥に伺候

明暦3年10月23日 徒頭

明暦3年12月28日 布衣

万治2年7月25日 書院番組頭

寛文4年7月24日 死す
加々爪保忠 文禄2年 生。半之丞
かがつめやすただ
備前守政豊の養子。服部源兵衛保次の次男
寛政譜12・236
母は備前守政豊の女


妻は足立善一郎の女


家康の命により外祖父政豊の養子となる


養父政豊の家を継ぐ。80石


納戸番。80石50俵


納戸番組頭。80石250俵

寛永18年8月9日 家綱に付属される

寛永18年8月9日 若君様為御奉公人御納戸方ニ被付 ●「日記」

慶安3年9月3日 納戸頭

(慶安4年) 本丸に勤仕

慶安4年8月16日 布衣

慶安4年11月21日 80石550俵

寛文元年5月23日 納戸頭を辞す。寄合

寛文12年5月14日 致仕。300俵

延宝3年12月6日 死す
加々美源十郎

かがみげんじゅうろう
寛政譜4・165


―金右衛門正吉の長男正次か?

寛永9年8月19日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」






加賀美正次 元和5年 生。才兵衛
かがみまさつぐ
金右衛門正吉の長男
寛政譜4・165
母は勝部甚五左衛門尚正の女


妻は横山半左衛門一政の女

寛永13年 家光に仕える。大番。200俵

寛永16年10月23日 腰物持役

寛永16年10月24日 御腰物持 ●「日記」

慶安3年8月27日 閉門

慶安3年10月19日 ゆるされる

慶安4年 新番

万治2年12月26日 250俵

寛文2年10月3日 綱吉に付属される。神田館にて使役。550俵


先手弓頭

延宝8年 徳松に付属される。西丸に勤仕

天和3年 徳松逝去ののち小普請

元禄8年4月21日 死す
加賀美正吉 慶長2年 生。金右衛門
かがみまさよし
才兵衛正光の長男
寛政譜4・164
母は北条氏直家臣梶原一伯の女


妻は勝部甚五左衛門尚正の女

慶長16年 大番

寛永2年12月10日 170石の朱印


300石

寛永10年2月7日 500石

正保3年1月22日 金奉行

寛文4年4月12日 金奉行を辞す。小普請

寛文7年4月11日 死す
垣見権兵衛

かきみごんびょうえ


(寛永16年12月16日) (松平新太郎家中池田出羽伊木長門去年差上之証人) ●「日記」



覚雲顕吉

かくうんけんきつ

通航一覧368

相国寺小史79 正保元年1月10日 銀五拾枚南禅寺吉首座今度諸家系図被仰付依令首尾被下之 ●「日記」
相国寺小史82
相国寺96世


相国寺慈照院東堂

明暦3年4月 以酊庵輪番

万治2年5月 以酊庵輪番を終える

寛文7年5月29日 示寂
廓円
生。心蓮社直誉上人急水廓円
かくえん
相模国の人
浄土伝燈総系譜
相模国名瀬西蓮寺三誉に師事
(浄土宗全書19・80)
廓山に師事
小石川伝通院志
瓜連常福寺17世
(浄土宗全書19・677)
小石川伝通院6世
瓜連常福寺志 慶安4年4月25日
(浄土宗全書19・768)




覚音坊

かくおんぼう
南光坊天海の弟子か



廓源
生。円誉廓源
かくげん

華頂誌要
川越蓮馨寺5世
(浄土宗全書19・188)
鎌倉光明寺32世
鎌倉光明寺志 寛永19年2月 知恩院33世
(浄土宗全書19・627) 寛永19年8月15日 入院之御礼 ●「日記」
川越蓮馨寺志 寛永20年12月28日 入院之御礼 ●「日記」
(浄土宗全書20・113) 慶安元年7月4日 遷化



覚定 慶長12年3月23日 生。覚定。大僧都。三宝院門跡。僧正。大僧正
かくじょう
鷹司関白信房の四男
諸門跡譜 元和6年12月6日 大僧都
(群書系図部集1・166)
醍醐寺三宝院門跡
宮廷公家系図集覧245 寛永6年7月21日 権僧正

寛永12年12月21日 大僧正

寛文元年5月13日 遷化
覚勝院
京都。真言宗。大覚寺塔頭
かくしょういん







覚深法親王 天正16年5月5日 生。若宮。良仁。親王。仁和寺門跡
かくしんほっしんのう
後陽成天皇の第一皇子
本朝皇胤紹運録
母は中山大納言親綱の息女大典侍親子
(群書系図部集1・99) 文禄3年4月29日 親王

慶長6年3月5日 入室。仁和寺(御室)

慶長6年3月28日 得度

慶長19年7月7日 一品

正保5年閏1月21日 薨去
筧五郎右衛門
生。権九郎。五郎右衛門
かけいごろうえもん
三郎左衛門正重の次男
寛政譜17・38 寛永20年3月3日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共


大番

正保3年12月22日 200俵

承応2年9月24日 松平遠江守忠倶に召し預けられる

寛文3年7月20日 赦免


以下不詳
筧重章
生。六郎右衛門
かけいしげあき
源左衛門重勝の次男
寛政譜17・44 寛永9年10月7日 はじめて家光に拝謁

寛永9年10月7日 家光に拝謁 ●「日記」


小十人。100俵

寛永19年12月16日 200俵 ●「日記」共

寛永20年8月8日 新番

寛永20年8月8日 於土圭之間御番相詰其上方々御成之刻御先え参御殿御番等可相勤之旨―


―被仰付之由伊豆豊後列座有之民部少輔伝之中根次郎左衛門組 ●「日記」

正保3年2月28日 200石

万治2年12月26日 200石50俵

延宝6年 死す
筧重勝
生。源左衛門
かけいしげかつ
勘右衛門重成の三男
寛政譜17・42 ~慶長5年 家康に仕える

元和元年~ 奥方番


武蔵国において采地を賜る

寛永20年8月7日 死す
筧重次 寛永5年 生。九郎次郎。七郎左衛門。三郎左衛門
かけいしげつぐ
三郎左衛門正重の長男
寛政譜17・38 寛永13年12月6日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共


大番

(寛永20年12月18日) (七郎左衛門の初出) ●「日記」

寛永20年12月18日 200俵 ●「日記」共

寛文2年11月7日 大番組頭

寛文2年12月22日 400俵

寛文8年7月10日 父正重の遺跡を継ぐ。500石300俵

延宝8年3月28日 大番組頭を辞す。小普請

元禄4年3月25日 死す
筧為春
生。平十郎。助兵衛
かけいためはる
勘右衛門重成の次男
寛政譜17・40
母は石川式部大輔の女


妻は筒井与右衛門の女

~天正10年 家康に仕える

天正14年 勘気を蒙る。菅沼小大膳定利に属す

天正18年 ゆるされる

天正18年 190石

慶長5年 上田城攻めにて秀忠に従う


240石


大番組頭

元和元年 大坂の役にて高木主水正正次に属す

元和元年12月27日 570石

寛永9年6月25日 鎗奉行

寛永9年7月1日 同心10人を預かる ●「日記」共

寛永9年11月20日 布衣 ●「日記」共

寛永10年12月28日 1080石

寛永10年12月28日 五百石御加恩 ●「日記」

寛永16年11月17日 旗奉行 ●「日記」共

慶安2年3月7日 死す
筧正興 寛永4年 生。新五左衛門
かけいまさおき
新太郎正成の四男
寛政譜17・34
母は林氏


妻は相馬小次郎貞胤の女

寛永16年9月18日 はじめて家光に拝謁

寛永16年9月18日 筧新太郎子共両人以樽代初て御礼 ●「日記」

寛永20年12月18日 大番

正保4年12月20日 200俵

寛文2年10月3日 綱吉に付属される。神田館にて鎗奉行。500俵

延宝8年 徳松に仕える。西丸に勤仕

天和3年 徳松逝去ののち小普請

元禄10年7月26日 500石

宝永7年5月13日 死す
筧正重 慶長2年 生。三郎左衛門
かけいまさしげ
勘右衛門元成の三男
寛政譜17・37
母は松平五左衛門近正の女


秀忠に仕える。大番。300俵

寛永10年2月7日 500石

寛永16年~ 大番組頭

正保2年6月28日 先弓頭

正保2年12月30日 布衣

慶安4年11月21日 500石300俵

寛文7年閏2月16日 鎗奉行

寛文8年2月17日 死す
筧正近 元和2年 生。(源太兵衛)。新次郎。源大夫。五郎大夫。以卜
かけいまさちか
新太郎正成の次男
寛政譜17・30
母は林氏


妻は向井右衛門直宗の女

寛永13年9月28日 はじめて家光に拝謁

寛永13年9月28日 筧新太郎二番子樽代を以初て御目見 ●「日記」

寛永13年12月27日 大番

寛永13年12月27日 筧源太兵衛大御番被仰付之 ●「日記」

寛永15年11月 200俵

承応2年3月16日 浅草蔵奉行

万治2年5月18日 大坂金奉行

寛文5年10月19日 300俵

延宝8年3月25日 先鉄炮頭。600俵

延宝8年8月21日 布衣

天和2年4月21日 500石600俵

元禄2年閏1月23日 先鉄炮頭を辞す。寄合

元禄2年7月5日 致仕。以卜と号す。200俵

宝永2年8月25日 死す
筧政次 天正12年 生。平十郎。勘右衛門
かけいまさつぐ
勘右衛門元成の長男
寛政譜17・25
母は松平五左衛門近正の女


妻は菅沼越後守定吉の女

~寛永2年 秀忠に仕える。大番。210石

寛永5年 大番組頭

寛永10年12月19日 610石

寛永10年12月19日 大番組頭御加増被下之四百石 ●「日記」

寛永19年3月9日 先鉄炮頭

寛永19年12月30日 布衣 ●「日記」共


810石

慶安元年5月28日 死す
筧正時 元和9年 生。主馬助。新左衛門
かけいまさとき
新太郎正成の三男
寛政譜17・32
母は林氏


妻は三浦五郎左衛門義武の女

寛永16年9月18日 はじめて家光に拝謁

寛永16年9月18日 筧新太郎子共両人以樽代初て御礼 ●「日記」

寛永17年3月20日 大番 ●「日記」共

寛永19年12月10日 200俵 ●「日記」共

延宝3年2月14日 大番組頭

延宝4年12月26日 400俵

延宝8年10月15日 死す
筧正成 天正13年 生。新太郎
かけいまさなり
勘右衛門元成の次男
寛政譜17・27
母は松平五左衛門近正の女


妻は林氏

~慶長19年 秀忠に仕える。大番。200俵


300俵

寛永4年12月29日 大番組頭

寛永5年 500石

寛永10年2月23日 1000石

寛永16年7月12日 二条城番

寛永16年7月12日 二条春日左衛門跡之御役 ●「日記」

万治元年7月13日 死す
蔭山土佐守

かげやまとさのかみ
徳川頼宣の家臣






蔭山持広 元和5年 生。左衛門。六左衛門
かげやまもちひろ
因幡守貞広の長男
寛政譜2・125
母は平山弾正政光の女

寛永14年 父貞広の遺跡を継ぐ。1200石。小普請


小姓組


小姓組を辞す

寛文11年11月2日 死す
笠原信定 慶長14年 生。郷右衛門。宗一
かさはらのぶさだ
弥次兵衛重政の次男
寛政譜15・302
母は山本平九郎の女

元和9年8月19日 はじめて家光に拝謁

寛永9年8月2日 小十人


100俵

寛永19年12月16日 200俵 ●「日記」共

慶安2年3月26日 小十人組頭

慶安4年11月21日 300俵

寛文2年10月3日 綱吉に付属される


神田館にて持弓頭


致仕。宗一と号す

貞享元年7月18日 死す
笠原万太郎

かさはらまんたろう 寛永13年12月27日 大御番被仰付之 ●「日記」






笠原養泉 天正15年
かさはらようせん
宗団重吉の男


妻は小倉助右衛門の女

寛永2年6月 家光に拝謁

寛永2年6月16日 家光に仕える。100俵月俸10口。奥医(眼科)

寛永15年12月1日 元御切米之上十人之御扶持被増下之 ●「日記」

慶安3年8月16日 死す
餝屋源三郎
飾屋。金工。細工人
かざりやげんざぶろう







餝屋源十郎
飾屋。金工。細工人
かざりやげんじゅうろう







花山院定熈 永禄元年11月12日 生。侍従。少将。中将。参議。中納言。大納言。大将。内大臣。
かざんいんさだひろ
右大臣。左大臣。霜松院
諸家伝上・321
右大臣家輔の養子。西園寺左大臣公朝の次男
宮廷公家系図集覧324 天正4年10月23日 従五位下。侍従。元服

天正5年11月4日 従五位上

天正6年1月6日 従四位下

天正6年6月 左少将

天正7年10月28日 左中将

天正7年11月10日 参議。左中将

天正8年2月10日 正四位下

天正13年7月12日 従三位

天正16年1月16日 正三位

天正17年1月12日 権中納言

慶長2年12月28日 従二位

慶長3年11月14日 春日祭上卿参向

慶長4年1月11日 権大納言

慶長6年 清子内親王勅別当

慶長7年 女叙位入眼上卿

慶長7年1月6日 正二位

慶長9年11月8日 春日祭上卿参向

慶長18年2月7日 春日祭上卿参向

元和元年 白馬内弁

元和元年 神宮伝奏

元和元年6月4日 右大将

元和2年 白馬外弁

元和3年 白馬外弁

元和3年1月8日 右大将を辞す

元和4年 元日平座上卿

元和5年1月1日 内弁

元和5年2月17日 内大臣

元和5年12月28日 内大臣を辞す

元和6年閏12月13日 従一位

元和7年1月2日 右大臣

元和7年 白馬内弁

元和7年1月12日 右大臣を辞す

寛永9年12月24日 左大臣

寛永9年12月28日 左大臣を辞す

寛永11年10月12日 薨去
花山院定好 慶長4年2月12日 生。侍従。中将。参議。中納言。大納言。大将。内大臣。右大臣。左大臣
かざんいんさだよし
左大臣定熈の五男
諸家伝上・322
母は家女房。(越前国朝倉氏の女とも)
宮廷公家系図集覧325 慶長16年4月28日 元服。昇殿。禁色。従五位下。侍従

慶長17年1月5日 従五位上

慶長17年12月28日 正五位下

慶長18年11月1日 従四位下

慶長19年1月11日 左中将

元和元年1月6日 従四位上

元和2年1月5日 正四位下

元和5年7月13日 参議・左中将

元和6年1月5日 従三位

元和7年1月14日 権中納言

寛永元年1月5日 正三位

寛永5年2月10日 従二位

寛永7年 踏歌外弁

寛永8年12月16日 権大納言

寛永11年1月6日 正二位

寛永12年 踏歌外弁

寛永12年11月19日 春日祭上卿参向

寛永14年11月5日 右大将

寛永14年12月17日 右大将を辞す

寛永16年 白馬外弁

寛永18年 白馬外弁

寛永19年11月19日 紹仁親王(後光明天皇)家勅別当

寛永20年1月1日 外弁

寛永20年12月28日 権大納言を辞退

慶安2年2月25日 内大臣

慶安2年9月30日 内大臣を辞退

承応2年11月4日 右大臣

承応3年6月12日 右大臣を辞す

万治3年12月24日 従一位

寛文元年5月24日 左大臣

寛文3年1月12日 左大臣を辞す

延宝元年7月4日 薨去
花山院忠長 天正16年9月5日 生。侍従。少将
かざんいんただなが
左大臣定熈の次男
諸家伝上・322
母は朝倉義景の女
宮廷公家系図集覧324 天正17年4月5日 従五位下

文禄2年12月28日 侍従

文禄4年11月4日 従五位上

慶長元年4月15日 元服。禁色。昇殿

慶長4年1月5日 正五位下

慶長5年1月11日 左少将

慶長7年1月6日 従四位下

慶長9年8月1日 従四位上

慶長14年7月 勅勘

慶長14年11月8日 蝦夷嶋に流罪

寛永13年 勅免。武蔵国に住す。落飾。浄屋と号す

承応元年閏6月18日 上洛

寛文2年9月26日
鹿塩

かしお
鹿塩(林)利玄と称される人物の末か

(寛永17年10月15日) (碁打) ●「日記」



柏尾宗勺

かしおそうしゃく


寛永19年9月9日 於御勝手落縁狩野探幽柏尾宗勺従京都参上ニ付て御目見 ●「日記」






梶川三之助
生。三之助
かじかわさんのすけ
平七郎重良の男
寛政譜8・220 寛永19年11月12日 父重良の遺跡を継ぐ。500石

寛永19年11月12日 御旗本衆令死去跡被下之但自分之知行御切米何も上 ●「日記」

某年 死す
梶川重昌 慶長8年 生。金弥。庄左衛門
かじかわしげまさ
平七郎分勝の三男
寛政譜8・220
母は松平三河守家臣村瀬佐渡の女

元和2年 はじめて秀忠に拝謁

元和2年 家光に仕える


勘気を蒙る

寛永13年8月24日 赦免 ●「日記」共

寛永15年10月24日 書院番 ●「日記」共

寛永15年12月16日 300俵

寛永15年12月16日 御切米被下之 ●「日記」

(寛永18年10月19日) (庄左衛門の初出) ●「日記」

寛永20年8月30日 家綱に付属される。三丸に伺候 ●「日記」共

慶安元年3月27日 三丸膳奉行

慶安3年8月30日 三丸小納戸

(慶安3年) 西丸に勤仕

(慶安4年) 本丸に勤仕

承応元年12月13日 400俵

万治3年9月4日 死す
梶川重良
生。平七郎
かじかわしげよし
兄平七郎勝重の養子。平七郎分勝の四男
寛政譜8・220
母は松平三河守家臣村瀬佐渡の女

寛永2年 養父勝重の遺跡を継ぐ。500石

寛永4年 秀忠に仕える。小姓組

寛永19年6月23日 死す
梶川忠助
生。四郎次郎
かじかわただすけ
魚兵衛の男
寛政譜8・221 文禄元年 はじめて家康に拝謁。家康に仕える。220石

寛永9年7月2日 小普請奉行 ●「日記」共

(寛永10年6月9日) (破損奉行) ●「日記」

寛永14年9月18日 裏門切手番頭

寛永14年9月18日 御裏切手ノ御番ニ被相加并同心十人被付之 ●「日記」

寛永18年3月29日 石谷市右衛門御裏御門御番頭被仰付之―


―梶川四郎次郎元同心十人御預也 ●「日記」

寛永19年1月18日 死す (寛永18年の誤りか)
梶川忠久
生。七之丞
かじかわただひさ
四郎次郎忠助の長男
寛政譜8・222
妻は米倉平大夫重種の女

元和4年 秀忠に仕える。大番

~寛永16年 400石

寛永19年 父忠助の遺跡を継ぐ。400石

正保3年1月22日 金奉行

正保3年2月16日 同心を預かる

寛文6年2月8日 死す
梶川忠正
生。太兵衛。三左衛門
かじかわただまさ
四郎次郎忠助の四男
寛政譜8・222 寛永16年6月23日 はじめて家光に拝謁

寛永16年6月23日 梶川四郎二郎二番目之子共初て御目見 ●「日記」

寛永17年3月20日 大番 ●「日記」共

寛永19年12月10日 200俵 ●「日記」共

正保2年6月28日 西丸納戸番

正保2年9月9日 本丸に勤仕

寛文6年10月23日 松平伊賀守忠晴に召し預けられる

寛文6年11月27日 大嶋に遠流

延宝元年2月2日 赦免


以下不詳
梶川正次
生。甚五兵衛
かじかわまさつぐ
四郎次郎忠助の次男
寛政譜8・222
家光に仕える


勘気を蒙る

寛永13年8月24日 赦免 ●「日記」共

寛永15年4月27日 死す
梶川正俊
生。虎蔵。甚五兵衛。甚五左衛門
かじかわまさとし
甚五兵衛正次の男
寛政譜8・222 寛永15年12月1日 父正次の遺跡を継ぐ

寛永15年12月1日 跡目無相違被仰付之 ●「日記」

明暦元年3月13日 小姓組

万治元年閏12月19日 小姓組。進物役

寛文6年11月27日 大嶋に遠流

延宝元年2月2日 赦免


以下不詳
梶川分重 元和7年 生。作十郎。半左衛門
かじかわわけしげ
半左衛門分好の男
寛政譜8・218
母は内藤甚五左衛門の女


妻は土岐縫殿助頼泰の女

寛永18年6月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永19年6月20日 小姓組 ●「日記」共

寛永19年11月12日 父分好の遺跡を継ぐ。700石

寛永19年11月12日 御旗本衆令死去跡被下之但自分之知行御切米何も上 ●「日記」

寛文4年8月11日 死す
梶川分好
生。半左衛門
かじかわわけよし
平七郎分勝の長男
寛政譜8・218
母は松平三河守家臣村瀬佐渡の女


妻は内藤甚五左衛門の女

慶長14年 秀忠に仕える。小姓組

慶長18年 父分勝の遺跡を継ぐ。500石

元和2年9月15日 家光に付属される。西丸に伺候

寛永10年2月7日 700石

寛永19年1月16日 死す
梶才兵衛

かじさいびょうえ


寛永15年10月17日 御赦免 ●「日記」



梶定良 慶長17年 生。金平。左兵衛佐。左入
かじさだよし
次郎兵衛正勝の養子。菅沼織部正家臣菅沼権右衛門定栄の男
寛政譜9・317
母は梶次郎兵衛正道の四女

寛永4年2月 はじめて秀忠に拝謁

寛永6年 小十人


100俵

寛永9年 家光に仕える

寛永9年8月25日 200俵

寛永16年10月23日 腰物持 ●「日記」共

寛永20年7月5日 小納戸 ●「日記」共

正保2年12月26日 400俵

正保4年12月30日 布衣

承応元年7月21日 大猷院廟守護。600俵

承応2年4月3日 従五位下・左兵衛佐

寛文9年10月26日 1000俵

天和3年5月2日 2000俵。従四位下

元禄11年5月4日 剃髪。左入と号すか

元禄11年5月14日 死す。断絶
梶重正 寛永11年 生。長吉。四郎兵衛。和泉守
かじしげまさ
三郎兵衛宣総の男
寛政譜9・319
母は間宮忠左衛門重信の女


妻は永井与次郎正次の女

寛永13年11月24日 父宣総の遺跡を継ぐ。300俵

寛永13年11月24日 梶三郎兵衛三百俵子長吉跡目被仰付之 ●「日記」

正保元年11月13日 はじめて家光に拝謁

正保元年11月13日 継目之御礼 ●「日記」

慶安2年12月26日 大番

天和2年10月4日 小普請奉行

貞享元年12月25日 500俵

元禄2年2月3日 小普請奉行組頭。1000石

元禄2年12月27日 布衣

元禄3年5月18日 先鉄炮頭

元禄7年1月11日 西丸留守居。1300石

元禄7年12月18日 従五位下・和泉守

元禄12年9月16日 死す
加治直胤 文禄3年 生。喜平
かじなおたね
左衛門次郎正胤の長男
寛政譜21・1
妻は近藤氏

慶長17年 父正胤の遺跡を継ぐ。200俵。代官

寛永18年10月5日 死す
梶宣総 慶長11年 生。三郎兵衛
かじのぶふさ
次郎兵衛正勝の養子。本多美作守家臣渡辺善兵衛勝綱の男
寛政譜9・319
妻は間宮忠左衛門重信の女

寛永5年9月11日 はじめて家光に拝謁

寛永6年 右筆。300俵

寛永13年11月4日 死す
加治則胤 寛永11年 生。喜八郎。弥兵衛。藤兵衛
かじのりたね
喜平直胤の男
寛政譜21・1
母は近藤氏


妻は林嘉兵衛の女

寛永18年12月4日 父直胤の遺跡を継ぐ。200俵。小普請

寛永18年12月4日 弐百俵御代官加治喜平次跡右惣領喜八郎ニ被下之 ●「日記」


大番

寛文6年3月 大番を辞す

貞享3年1月1日 死す
梶正直
生。太郎右衛門。新右衛門
かじまさなお
次郎兵衛正道の養子。本多美作守家臣渡辺善兵衛勝綱の男
寛政譜9・321
母は次郎兵衛正道の三女


妻は久野弥七郎宗次の女

寛永9年8月13日 はじめて家光に拝謁。小十人。100俵

寛永19年12月16日 200俵 ●「日記」共

寛永20年8月8日 新番

寛永20年8月8日 於土圭之間御番相詰其上方々御成之刻御先え参御殿御番等可相勤之旨―


―被仰付之由伊豆豊後列座有之民部少輔伝之安西甚兵衛組 ●「日記」

慶安4年9月29日 綱吉に付属される


神田館にて目付


持筒頭。留守居


600俵

延宝8年 徳松の西丸入りに従う

天和元年12月18日 死す
鹿嶋神宮
常陸国
かしまじんぐう




鹿嶋神宮寺
常陸国。真言宗。鹿島神宮の別当
かしまじんぐうじ




加嶋長門

かしまながと
主水の男

(寛永17年10月6日) (松平阿波守家中証人) ●「日記」






加嶋隼之丞

かしまはやぶさのじょう
主水の男

(寛永17年10月6日) (松平阿波守家中証人) ●「日記」






加嶋主水

かしまもんど


(寛永17年10月6日) (松平阿波守家中) ●「日記」






勧修寺経広 慶長11年11月27日 生。左兵衛権佐。蔵人。少弁。中宮大進。中弁。蔵人頭。大弁。
かじゅうじつねひろ
参議。中納言。大納言。執事。紹光
諸家伝上・523
右兵衛佐教豊の養子。坊城参議俊昌の長男
宮廷公家系図集覧412 慶長16年4月29日 従五位下

慶長18年11月21日 元服。昇殿。左兵衛権佐

慶長19年1月5日 従五位上

元和5年1月6日 正五位下

元和5年7月13日 蔵人・左兵衛権佐

元和5年8月14日 権左少弁

元和6年1月5日 正五位上

寛永元年11月28日 中宮大進

寛永4年6月21日 従四位下

寛永4年9月7日 左中弁

寛永4年9月20日 従四位上

寛永5年2月10日 正四位下

寛永6年9月21日 正四位上

寛永6年10月11日 蔵人頭

寛永6年11月6日 右大弁

寛永8年1月12日 参議・右大弁

寛永8年12月18日 参議・左大弁

寛永9年1月5日 従三位

寛永12年1月11日 権中納言

寛永13年1月5日 正三位

(寛永14年9月2日) (中納言の初出) ●「日記」

(寛永15年3月6日) (昵近之衆) ●「日記」

寛永18年1月5日 従二位

寛永18年1月11日 権大納言

寛永20年10月16日 (直衣参内勅許?)

正保5年閏1月7日 権大納言を辞す

慶安2年7月28日 執事

慶安3年1月5日 正二位

寛文12年閏6月8日 出家。紹光と号す

元禄元年9月13日 薨去
可睡斎
遠江国。曹洞宗
かすいさい




春日家定 元和6年 生。次郎八。佐次右衛門
かすがいえさだ
弥吉家春の男
寛政譜17・138
妻は石谷市右衛門政勝の女


また妻は小俣吉左衛門政利の女

元和8年 父家春の遺跡を継ぐ。550石

寛永11年2月8日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永11年 大番

(寛永19年12月10日) (佐次右衛門の初出) ●「日記」

寛永19年12月10日 550俵

寛永19年12月10日 知行悪故訴訟申上之仍御切米ニ替被下之 ●「日記」

寛文元年5月9日 死す
春日家次 慶長10年 生。八十郎。与市。左衛門
かすがいえつぐ
左衛門家吉の次男
寛政譜17・135
妻は水野佐渡守忠直の女

慶長16年 はじめて家康に拝謁


秀忠に仕える。小姓組

寛永7年 家光に仕える

寛永17年 父家吉の遺跡を継ぐ。1500石

寛永18年3月3日 去年跡職被仰付面々或太刀目録或樽代ニて継目之御礼申上之 ●「日記」


小姓組を辞す。小普請

延宝5年閏12月12日 致仕

元禄3年6月9日 死す
春日家吉 永禄8年 生。八郎。左衛門
かすがいえよし
下総守入道景定の男
寛政譜17・135
妻は足利晴氏家臣相馬藤右衛門の女


父景定とともに武蔵国岩槻城主太田三楽のもとにあり


北条氏政・氏房に仕える

天正18年 北条氏房に従い高野山へ赴く


北条氏房の死去ののち蟄居


父景定とおなじく家康に拝謁。550石。秀忠に仕える。寄合


大番

元和元年 父景定の遺跡を継ぐ。1500石


父景定に代わり伏見城大手門番


二条城大手門番

寛永16年4月2日 死す
春日正預
奈良春日大社の社家
かすがしょうのあずかり




春日惣祢宜
奈良春日大社の祢宜か
かすがそうねぎ




春日西社中
奈良春日大社に西社があったか
かすがにししゃちゅう
春日神主の西刑部家の者か



春日若宮
奈良春日大社の摂社
かすがわかみや




糟屋吉勝
生。弥兵衛。次郎左衛門
かすやよしかつ
与兵衛吉成の長男
寛政譜12・206
妻は石巻下野康敬の女

寛永12年 家光に仕える

寛永13年12月27日 大番 ●「日記」共

明暦2年4月25日 死す
糟屋吉成
生。与兵衛
かすやよしなり
与兵衛政忠の長男
寛政譜12・205
16歳のときより秀忠に仕える


徳川忠長に付属される。2000石

(寛永9年) 処士。相模国に蟄居


徳川家光に仕える。大番。200石

寛永16年3月7日 大坂具足奉行 ●「日記」共

寛永16年7月19日 200石100俵

寛永16年7月19日 大坂御具足奉行被仰付依之於彼地為御加恩御米八拾石被下之 ●「日記」

寛文8年5月2日 死す
糟屋義行
生。弥左衛門。与兵衛
かすやよしゆき
与兵衛吉成の次男
寛政譜12・205
妻は青柳勘兵衛信次の女

寛永16年7月23日 はじめて家光に拝謁

寛永16年7月23日 糟屋与兵衛二番目子樽代を以初て御目見 ●「日記」


大番

慶安元年6月14日 新番

寛文8年7月10日 父吉成の遺跡を継ぐ。200石100俵

寛文9年~ 新番を辞す。小普請

天和元年9月12日 新番

貞享3年3月16日 死す
片岡信光
生。兵右衛門
かたおかのぶみつ
秀忠に仕える。徒
寛政譜21・275
徒組頭


広敷添番


火之番 ●「日記」


死す
片岡信行
生。権兵衛
かたおかのぶゆき
兵右衛門信光の次男
寛政譜21・276
秀忠に仕える。徒


徒組頭


徒目付

(寛永19年7月8日) (御歩行目付) ●「日記」


奥方広敷添番

(寛文4年) 死す
片岡信由
生。兵右衛門
かたおかのぶよし
兵右衛門信光の長男
寛政譜21・275


表火番

寛永18年4月14日 火之番御役被仰付之此以前之親之役被仰付之 ●「日記」

(寛文3年) 死す
片桐貞昌 慶長10年 生。鶴千代。長三郎。石見守
かたぎりさだまさ
主膳正貞隆の長男
寛政譜6・234
母は天野氏


室は大久保加賀守忠常の女

元和3年 はじめて秀忠に拝謁

寛永元年12月28日 従五位下・石見守

寛永4年 父貞隆の遺領を継ぐ。大和国小泉1万3400石

寛永19年7月28日 関東郡奉行

寛永19年7月28日 小出大隅守只今迠相勤役儀被仰付之 ●「日記」(関東国郡之奉行)

寛永19年10月1日 小出対馬守片桐石見守上方関東郡奉行依被仰付御前え被召出 ●「日記」

寛文8年7月18日 関東郡奉行を辞す

延宝元年11月20日
片桐孝利 慶長6年 生。次郎助。出雲守
かたぎりたかとし
市正且元の次男
寛政譜6・233
室は伊奈筑後守忠政の女

慶長15年5月 はじめて家康に拝謁

慶長19年12月 従五位下・出雲守

元和元年 父且元の遺領を継ぐ。大和国竜田4万石

寛永15年8月1日

寛永15年8月2日 昨日病死 ●「日記」
片桐為元 慶長16年 生。半之丞
かたぎりためもと
兄出雲守孝利の養子。市正且元の四男
寛政譜6・233
室は酒井壱岐守忠重の女


幼少のとき駿府にて家康に拝謁

寛永15年 兄孝利の遺領を継ぐ。大和国竜田1万石

寛永15年11月10日 片桐出雲守遺跡四万石之内壱万石弟半丞ニ被下之 ●「日記」

寛永15年12月1日 御礼太刀馬代黄金呉服等進上之是兄出雲守知行之内―


―壱万石依令拝領也 ●「日記」

承応3年5月11日
片倉重長 天正12年12月25日 生。弥左衛門。左衛門小十郎。伊豆小十郎。備中
かたくらしげなが
備中景綱の男
刈田郡誌64
母は矢内和泉重定の女

天正19年 元服


伊達政宗に仕える

元和元年11月1日 父景綱の遺領を継ぐ。陸奥国白石城

万治2年3月25日
片山国久
生。清十郎。源右衛門
かたやまくにひさ
三七郎国家の嗣。中西氏の男
寛政譜20・267
国家の父源右衛門国次の願いにより国家の名跡を継ぐ。被官


作事方小奉行

寛永19年4月17日 百石御加増 ●「日記」

(万治2年) 死す
片山式部

かたやましきぶ
松平越後守光長に仕える

(寛永17年6月18日) (松平越後守使者) ●「日記」



片山日有
生。宗琢。与庵。法眼
かたやまにちゆう
法印与庵寿源の長男
寛政譜5・369 元和9年2月 はじめて秀忠に拝謁。父寿源の遺跡を継ぐ。300石200俵。侍医

(寛永11年4月14日) (与庵) ●「日記」


法眼

寛永20年12月29日 法眼 ●「日記」

寛文元年4月18日 死す
形山豊前

かたやまぶぜん


(寛永18年4月27日) (北面) ●「日記」



月山寺
常陸国。天台宗
がっさんじ (寛永10年1月3日) (月山寺双厳院か?) ●「日記」

(寛永12年1月3日) (月山寺僧正) ●「日記」



勝野未之介

かつのみのすけ
小笠原右近将監忠真に仕える

(寛永14年7月6日) (小笠原右近大夫下奉行) ●「日記」



勝屋熊之介

かつやくまのすけ


寛永15年1月15日 大御番 ●「日記」



勝矢利元
生。長七郎
かつやとしもと
長七郎利通の男
寛政譜6・421 寛永3年8月28日 家光に仕える

寛永12年12月6日 番をつとめる

(寛永20年6月12日) (大番か) ●「日記」

寛永20年6月12日 宅地を収公される ●「日記」共

慶安元年9月25日 綱吉に付属される

慶安3年5月4日 松野宗右衛門助久と高木孫兵衛と刃傷におよび殺害される
勝山五左衛門

かつやまござえもん


寛永18年4月14日 火之番御役被仰付之是ハ此以前不念之儀有之て御役改之雖召上之―


―久々御奉公仕候者之儀ニ故元之ことく火之番ニ被召加之 ●「日記」



勝屋正茂
生。(勘左衛門)。吉兵衛
かつやまさしげ
勘左衛門正次の長男
寛政譜6・421 寛永13年12月6日 勝谷勘左衛門初て御目見 ●「日記」


家光に仕える

正保元年10月3日 死す
勝屋政重 寛永7年 生。勘五郎。六郎兵衛
かつやまさしげ
次右衛門正成の長男
寛政譜6・424
母は河野勝左衛門盛政の女

寛永20年3月3日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保元年6月16日 大番

寛文元年3月 蔵奉行

寛文3年 蔵奉行をゆるされる

寛文5年 蔵奉行

延宝3年12月15日 蔵奉行をゆるされる

元禄3年5月15日 死す
勝屋正次 天正17年 生。庄五郎。勘左衛門。(長吉)
かつやまさつぐ
長七郎政次の次男
寛政譜6・421
妻は稲生次郎左衛門光正の女


秀忠に仕える

慶長19年 大番

元和2年 徳川忠長に付属される

(寛永9年) 処士

寛永9年7月17日 ゆるされる ●「日記」

(寛永9年7月17日) (長吉) ●「日記」

寛永11年2月26日 家光に仕える。200俵。大番

寛永11年2月26日 此以前御勘当御赦免日来大御番勤仕 ●「日記」

寛永11年2月26日 200俵 ●「日記」


200石

承応3年2月27日 死す
勝屋正成 慶長6年 生。三五郎。次右衛門
かつやまさなり
長七郎政次の四男
寛政譜6・424
妻は河野勝左衛門盛政の女


秀忠に仕える

寛永3年 大番


100俵

寛永20年6月12日 宅地を収公される ●「日記」共

明暦3年3月8日 200俵

万治2年2月11日 蔵奉行


蔵奉行をゆるされる

寛文3年 大番を辞す。小普請

延宝7年5月3日 死す
葛巻蔵人

かつらまきくろうど
松平肥前守前田利常に仕える

(寛永19年10月11日) (松平肥前守使者) ●「日記」



葛巻隼人正
蔵人と同人か
かつらまきはやとのかみ


正保元年5月21日 松平筑前守家老津田玄蕃桂巻隼人正以太刀目録御礼是今度父従肥前守―


―筑前守へ依相付之也 ●「日記」






葛巻弥五兵衛

かつらまきやごひょうえ


(正保元年8月9日) (初鹿野伝右衛門組之御徒) ●「日記」

正保元年8月9日 被放御扶持 ●「日記」



珂天 慶長12年 生。生蓮社乗誉上人涼風珂天大和尚
かてん
相模国の人。渡辺内蔵助の男
三縁山志
13歳にて滝山大善寺に入り修学
(浄土宗全書19・485)
増上寺に移る

慶安3年 結城弘経寺16世

寛文2年 飯沼弘経寺17世


光明寺41世

延宝元年12月 増上寺27世

延宝3年4月24日 麻生に隠退

延宝4年6月13日 遷化
加藤明勝 寛永10年 生。弥三郎
かとうあきかつ
民部大輔明利の長男
寛政譜13・8
母は徳川忠長家臣朝倉筑後守宣正の女

寛永20年5月3日 父明利の名跡とされる。3000石

寛永20年5月3日 関東之内ニて三千石被下之 ●「日記」

正保2年2月4日 死す
加藤明利 慶長4年 生。民部。民部少輔。民部大輔
かとうあきとし
左馬助嘉明の三男
寛政譜13・8
母は家臣堀部市右衛門の女


室は徳川忠長家臣朝倉筑後守宣正の女


秀忠に仕える。1000俵

元和2年1月19日 従五位下・民部少輔

寛永4年3月14日 陸奥国三春城3万石。民部大輔

寛永5年10月5日 陸奥国二本松3万石

寛永18年3月25日
加藤明友 元和7年 生。孫三郎。内蔵助
かとうあきとも
式部少輔明成の男
寛政譜13・8 寛永11年 はじめて家光に拝謁

寛永16年12月30日 従五位下。内蔵助

寛永16年12月30日 諸大夫 ●「日記」

(寛永17年1月28日) (内蔵助の初出) ●「日記」

寛永20年5月3日 父明成の名跡を継ぐ。石見国吉永1万石

寛永20年5月3日 於石見之国壱万石被下之御目見御奉公も可仕 ●「日記」

天和2年6月19日 近江国水口城2万石

天和3年9月11日 詰衆

天和3年12月7日
加藤明成 文禄元年 生。孫次郎。式部少輔。侍従。休意
かとうあきなり
左馬助嘉明の長男
寛政譜13・7
母は家臣堀部市右衛門の女


室は保科弾正忠正直の女

慶長8年3月25日 従五位下・式部少輔

寛永8年10月 父嘉明の遺領を継ぐ。陸奥国会津若松城40万石

寛永11年7月16日 従四位下・侍従

寛永11年7月16日 侍従 ●「日記」

(寛永12年1月2日) (会津侍従の初出) ●「日記」

寛永20年5月3日 病により領地を返上。致仕号は休意

寛永20年5月3日 彼(嫡男内蔵助)知行所令在住病気可致養生 ●「日記」

寛文元年1月21日
加藤明成長女
寛政譜13・9
式部少輔明成の長女
寛政譜12・95 寛永12年8月6日 加藤式部娘青山大膳嫁娶被仰付之 ●「日記」


青山大膳亮幸利に嫁ぐ

寛永15年 青山大蔵少輔幸実を産む


女子を産む。のちの松平因幡守信興の室


以下不詳
加藤景重
生。久大夫
かとうかげしげ
久大夫景親の男
寛政譜13・57 寛永5年 父景親の遺跡を継ぐ。150石

寛永13年12月27日 大番 ●「日記」共

正保元年2月24日 明廿五日ヨリ御幕仕立之付て御服御上下被下之 ●「日記」

正保4年6月6日 死す
加藤景平
生。三左衛門
かとうかげひら
長大夫景吉の男
寛政譜13・56 寛永13年3月25日 大番

寛永13年3月25日 加藤長大夫子被召出之 ●「日記」

寛永13年3月25日 皆川山城守組(大番) ●「日記」

明暦3年5月19日 父景吉の遺跡を継ぐ。200石


大番を辞す。小普請

貞享2年12月12日 致仕

貞享3年10月27日 死す
加藤景吉
生。長大夫
かとうかげよし
助左衛門景治の男
寛政譜13・56 (慶長11年) 父景治の遺跡を継ぐか? 200石

慶長16年 秀忠に仕える。大番

(寛永13年3月25日) (皆川山城守組) ●「日記」

明暦3年2月12日 死す
加藤一重
生。平右衛門
かとうかずしげ
平右衛門一義の長男
寛政譜13・64
母は成田下総守家臣堀口対馬の女


妻は中山猪右衛門重時の女


秀忠・家光に仕える。大番。460石

寛永10年2月7日 660石

延宝元年2月4日 死す
加藤勘十郎

かとうかんじゅうろう (寛永11年5月15日) (松平伊予守家中証人) ●「日記」






加藤重勝 慶長19年 生。権左衛門
かとうしげかつ
小左衛門重常の三男
寛政譜13・29 寛永3年 はじめて秀忠に拝謁

寛永9年 家光に仕える。土蔵番

寛永20年10月8日 土蔵番をゆるされる。兄勘助重正に従い馬術を修行

寛永20年10月8日 加藤勘介弟御土蔵御番御赦免勘助ニ馬芸等稽古可仕 ●「日記」

正保元年12月25日 150俵 ●「日記」共


馬預

万治3年12月26日 200俵

延宝7年6月28日 死す
加藤重長 寛永4年 生。牛之助。勘左衛門。勘助
かとうしげなが
勘助重正の養子。大森半七郎好長の次男
寛政譜13・26
母は勘助重正の女

寛永11年 はじめて家光に拝謁

(寛永17年11月5日) (午之助) ●「日記」

(正保2年) 養父重正の遺跡を継ぐ。900石。書院番

寛文8年7月30日 死す
加藤重正 天正3年(永禄7年) 生。勘助
かとうしげまさ
小左衛門重常の長男
寛政譜13・25 天正5年 家康に仕える

元和2年 秀忠に仕える。400石

~元和9年 馬術を秀忠に言上。馬を預かる

寛永10年8月11日 鉄炮同心30人

寛永10年8月11日 鉄砲之者三十人 ●「日記」

寛永10年 布衣

寛永11年2月5日 900石

寛永11年2月5日 五百石御加増 ●「日記」

(寛永11年2月5日) (御弓御鉄炮衆) ●「日記」

正保2年6月22日 死す

(寛文元年11月18日) 死す
加藤七内
作内利景か?寛政譜13・24
かとうしちない 寛永9年8月19日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」






加藤七兵衛
加兵衛則次か?寛政譜13・41
かとうしちびょうえ 寛永12年8月25日 加藤助右衛門弟七兵衛御目見亡父跡職被下之御礼 ●「日記」






加藤甚右衛門 寛永11年 生。数馬。清兵衛。甚右衛門
かとうじんえもん
左内正直の男
寛政譜13・74
母は加藤肥後守清正の女

寛永20年12月7日 父正直の遺跡を継ぐ。700石。小普請

寛永20年12月7日 七百石左内跡加藤数馬 ●「日記」

寛文11年9月13日 書院番


書院番を辞す

貞享3年5月9日 死す
加藤新太郎
生。新太郎
かとうしんたろう
与兵衛の男
寛政譜13・56
妻は千本大和守義定の女

(慶長5年) 祖父播磨景元の遺跡を継ぐ。1000石


駿河大納言徳川忠長に仕える

寛永9年 改易
加藤清太兵衛
孫左衛門正綱か。三左衛門景平か
かとうせいたびょうえ


寛永13年12月27日 大御番被仰付之 ●「日記」



加藤忠広 慶長6年 生。虎之助。肥後守。侍従
かとうただひろ
主計頭清正の男
断家譜1・241
母は水野和泉守忠重の女
幕府祚胤伝
室は秀忠の養女松平飛騨守蒲生秀行の女
(徳川諸家系譜2・67) 慶長16年 父清正の遺領を継ぐ。肥後国熊本城73万石

慶長18年2月25日 縁組あり

慶長19年4月11日 入輿あり

寛永3年8月19日 従四位下。侍従

寛永9年5月 酒井忠勝に預けられ出羽国荘内に配流。1万石 ●「日記」6月1日

承応2年閏6月8日
加藤直泰 元和元年 生。大蔵。織部。織部正
かとうなおやす
左近大夫貞泰の次男
寛政譜13・22
母は小出播磨守吉政の女


室は小出伊勢守吉親の女

元和9年7月13日 父貞泰より分知。伊予国新谷1万石

寛永2年 はじめて秀忠に拝謁

(寛永19年4月12日) (織部正) ●「日記」

万治3年12月28日 従五位下・織部正

天和2年1月5日
加藤成勝 元和8年 生。源太郎。太郎左衛門
かとうなりかつ
太郎左衛門良勝の長男
寛政譜13・47
母は北条陸奥守家臣二宮道品の女


妻は馬場三郎左衛門利重の女


後妻は宮城越前守和甫の女

寛永9年12月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永13年12月27日 書院番 ●「日記」共

寛永16年12月13日 御切米三百俵 ●「日記」

寛永17年12月10日 父良勝の遺跡を継ぐ。1180石

寛永17年12月10日 加藤太郎左衛門跡目実子惣領加藤源太郎被仰付之―


―先年御加増之分ハ被召上之 ●「日記」

寛永18年4月28日 次目之御礼 ●「日記」

元禄元年4月14日 死す
加藤成次
生。四郎兵衛
かとうなりつぐ
善蔵成吉の男
寛政譜13・60
妻は佐竹右京大夫家臣木村孫右衛門の女

慶長12年 秀忠に仕える


父成吉の遺跡を継ぐ。手鷹匠

(寛永15年12月2日) (御鷹師) ●「日記」

承応3年7月9日 死す
加藤成房 寛永7年 生。善次郎
かとうなりふさ
四郎兵衛成次の次男
寛政譜13・61
母は佐竹右京大夫家臣木村孫右衛門の女


妻は三橋藤七郎の女

寛永15年12月2日 加藤四郎兵衛子初て御目見 ●「日記」

慶安4年9月29日 綱吉に付属される


神田館にて小十人


納戸番

延宝8年 徳松に仕える。130俵。西丸に伺候

天和3年 徳松逝去ののち小普請

元禄7年7月10日 致仕

元禄13年6月9日 死す
加藤成正
生。助十郎。助三郎
かとうなりまさ
助三郎正光の男
寛政譜13・28 (寛永17年) 父正光の遺跡を継ぐ。300俵

慶安2年12月26日 大番


大番を辞す。小普請

元禄9年3月26日 死す
加藤則勝 元亀元年 生。伊織
かとうのりかつ
助右衛門氏次の男
寛政譜13・38 天正9年 秀忠に仕える

慶長19年 大坂の役のとき横目

寛永2年9月2日 1580石

(寛永3年) 鉄炮・鷹を預かる


鷹惣支配

寛永12年3月11日 死す
加藤則次
生。加兵衛
かとうのりつぐ
兄久太郎則之の養子。加藤伊織則勝の四男
寛政譜13・41
妻は安藤伝十郎定智の女


13歳の時はじめて秀忠に拝謁

元和6年 兄則之の遺跡を賜る。500石。鷹師

(寛永12年8月25日) (加藤助右衛門弟七兵衛御目見亡父跡職被下之御礼) ●「日記」


―(七兵衛は加兵衛の誤りか不明)

延宝2年12月3日 致仕

延宝8年閏8月22日 死す
加藤則吉
生。掃部。助右衛門
かとうのりよし
伊織則勝の次男
寛政譜13・38
妻は一色忠次郎直為の女


15歳より秀忠に仕える

元和6年 家光に仕える

(寛永10年2月21日) (御鷹師) ●「日記」

(寛永12年) 父則勝の遺跡を継ぐ。鷹師頭。1580石

(寛永12年8月25日) (助右衛門の初出) ●「日記」

寛永12年8月25日 加藤助右衛門弟七兵衛御目見亡父跡職被下之御礼 ●「日記」

正保3年12月4日 家綱に付属される

正保3年12月5日 1880石


西丸に伺候

(慶安4年) 本丸に伺候

明暦3年10月1日 死す
加藤治次 文禄4年 生。甚之助
かとうはるつぐ
善十郎光治の長男
寛政譜13・69
妻は大岡忠四郎忠行の女

元和4年 家光に仕える

寛永10年 150石。腰物持

寛永16年10月20日 蟄居 ●「日記」共


ゆるされるか

寛永18年4月12日 逼塞

寛永18年9月5日 ゆるされる

寛永18年9月5日 御赦免仕来御役如前々可相勤 ●「日記」

慶安4年6月22日 日光定番。火消同心50人小頭2人。350石

承応元年2月13日 本多能登守忠義に召し預けられる

寛文3年7月20日 召し返される

寛文3年12月25日 350俵

寛文4年8月11日 大番

寛文7年11月29日 死す
加藤彦十郎
三左衛門景平か? 金左衛門正継か?
かとうひこじゅうろう


寛永19年6月26日 大御番 ●「日記」

正保元年12月25日 弐百俵 ●「日記」



加藤彦六郎

かとうひころくろう
加藤式部少輔明成に仕える

(寛永17年3月15日) (加藤式部少輔証人) ●「日記」



加藤正方(右馬允)
生。右馬允。風庵
かとうまさかた
加藤清正・忠広に仕える。肥後国八代城代
広島市史社寺誌・398 (寛永9年) 処士

正保元年8月18日 牢人加藤風庵ハ松平安芸守領中可置之 ●「日記」

慶安元年9月23日 死す
加藤正方(庄兵衛) 天正14年 生。庄兵衛
かとうまさかた
祖父平大夫光成の養子。太郎左衛門成之の長男
寛政譜13・50
妻は木下備中守重堅の女


豊臣秀頼に仕える

元和元年6月 家康に仕える。400石


西丸書院番


小姓組

寛永10年2月7日 600石

明暦2年閏4月23日 死す
加藤正勝(市左衛門)
生。市六郎。市左衛門
かとうまさかつ
与大夫正直の男
寛政譜13・58
妻は松平但馬守知乗の女


家康・秀忠に仕える。小十人

元和2年2月13日 200石


200石100俵

寛永3年~ 納戸番

某年 死す
加藤正勝(市左衛門)次男

寛政譜13・59
市左衛門正勝の次男

正保元年9月9日 徳川綱重に付属される

正保元年9月9日 長松殿へ加藤市左衛門末子被召出之 ●「日記」


以下不詳
加藤正勝(源四郎) 永禄7年 生。源四郎
かとうまさかつ
兄源四郎景継の嗣。九郎右衛門利正の三男
寛政譜13・34
妻は北条氏政家臣山川備後の女

天正2年 家康に仕える。兄景継の遺跡を賜る

天正17年11月 170石

天正18年2月 190石

天正18年 290石

慶長7年1月25日 600石


秀忠に仕える。大番


大番組頭

慶長19年 鉄炮玉薬奉行。同心25人

寛永14年9月6日 死す
加藤正貞
生。権九郎
かとうまささだ
清兵衛正重の男
寛政譜13・72
妻は黒沢杢之助定幸の養女某氏の女

正保元年12月25日 父正重の遺跡を継ぐ。300俵 ●「日記」共

正保2年8月5日 大番

寛文元年8月4日 死す
加藤正重(喜助) 天正11年 生。喜助
かとうまさしげ
喜左衛門正次の男
寛政譜13・32
母は加藤九郎右衛門利正の女

慶長3年 はじめて家康に拝謁。御傍に勤仕

慶長5年 関ケ原の役にて膳番

慶長5年 1000石

(慶長6年) 1500石

慶長18年 父正次の遺跡を継ぐ。2000石

慶長18年 鉄炮の歩卒を預かる(50人)

(慶長18年) (先鉄炮頭か?)

寛永9年6月25日 与力5騎同心50人を預かる

寛永9年6月25日 馬上同心5騎 ●「日記」

寛永9年 減封。1000石

寛永10年春 於増上寺依為欠番蒙御勘気 ●「日記」寛永10年7月24日条

寛永10年7月24日 御赦免 ●「日記」

寛永10年9月11日 死す
加藤正重(三九郎)
生。三九郎
かとうまさしげ
三九郎の男
寛政譜13・76
秀忠に仕える。大番。200石


大番を辞す

寛永13年 死す
加藤正重(清兵衛)
生。清兵衛
かとうまさしげ
権右衛門景正の長男
寛政譜13・71 慶長19年 はじめて秀忠に拝謁


大番。300俵


破損奉行

(寛永9年7月5日) (清三郎) ●「日記」

寛永9年7月5日 定普請奉行 ●「日記」

(寛永9年10月7日) (清左衛門) ●「日記」

寛永9年10月7日 同心3人 ●「日記」

(寛永10年6月9日) (清兵衛) ●「日記」

(寛永10年6月9日) (破損奉行) ●「日記」


勘気を蒙る

寛永15年10月17日 ゆるされる ●「日記」共

寛永16年12月26日 300俵

寛永16年12月26日 如前々御切米被下之 ●「日記」

(寛永18年12月29日) (小普請奉行) ●「日記」

正保元年10月6日 死す
加藤正継
生。金左衛門
かとうまさつぐ
源四郎正勝の次男
寛政譜13・36 寛永13年3月25日 加藤源四郎子初て御目見 ●「日記」


以下不詳
加藤正綱
生。孫左衛門
かとうまさつな
伝兵衛正信の男
寛政譜13・43
母は加藤茂左衛門正茂の長女

寛永13年3月25日 大番

寛永13年3月25日 加藤伝兵衛子被召出之 ●「日記」

寛永13年3月25日 大久保右京亮組 ●「日記」

万治2年2月11日 蔵奉行

延宝元年12月11日 父正信の遺跡を継ぐ。400石

延宝3年8月22日 広敷番頭

天和2年4月22日 400石200俵

貞享元年6月17日 死す
加藤正利
生。勘四郎。新右衛門
かとうまさとし
勘助重正の養子。某氏の男
寛政譜13・27 寛永11年 家光に仕える。馬方

(寛永15年9月14日) (銀子被下之対馬守申渡之是方々御成之刻―


―無懈怠依御供相勤也) ●「日記」

寛永15年12月1日 200俵 ●「日記」共


馬預

延宝4年8月22日 死す
加藤正直
生。左内
かとうまさなお
右馬允正方の男
寛政譜13・74
妻は加藤肥後守清正の女


加藤清正の証人として江戸にあり


秀忠に仕える。500石


書院番


小姓組

寛永10年2月7日 700石

寛永19年8月5日 浅草蔵会計の席に伺候

寛永19年8月5日 浅草御蔵御兵粮之御勘定有之席え相越無油断様可相斗 ●「日記」

寛永20年7月29日 死す
加藤正長
生。伝三郎。市左衛門
かとうまさなが
市左衛門正勝の長男
寛政譜13・58
妻は天野甚右衛門繁昌の女

寛永11年 はじめて家光に拝謁

寛永13年 大番

寛永19年12月2日 弓矢鎗奉行

寛永19年12月2日 御弓矢之奉行 ●「日記」

寛文元年11月21日 務を辞す

寛文5年 死す
加藤正成 元和3年 生。源四郎
かとうまさなり
金内正吉の男
寛政譜13・34
母は安藤治右衛門正次の女


妻は朝比奈助大夫勝政の女

寛永9年 大番。200俵

寛永10年2月7日 400石

寛永14年 祖父源四郎正勝の遺跡を継ぐ。600石

明暦3年11月 大番を辞す。小普請

寛文4年3月25日 宝蔵番頭

寛文9年5月12日 死す
加藤正信(勘右衛門) 天正11年 生。伝吉。勘右衛門
かとうまさのぶ
勘右衛門正次の長男
寛政譜13・53
妻は鈴木七兵衛の女


はじめて秀忠に拝謁

(慶長14年) 父正次の遺跡を継ぐ。1000石

~寛永3年 書院番

寛永10年2月7日 1200石

寛永14年9月18日 裏門切手番頭

寛永14年9月18日 御裏切手ノ御番ニ被相加并同心十人被付之 ●「日記」


裏門切手番頭を辞す。小普請

万治元年2月6日 死す
加藤正信(伝兵衛) 天正13年 生。伝兵衛
かとうまさのぶ
茂左衛門正茂の養子。牛奥織部昌次の三男
寛政譜13・42
妻は茂左衛門正茂の長女

慶長4年 はじめて家康に拝謁

慶長5年 秀忠に仕える。小姓

慶長5年~元和元年 大番

(慶長9年) 養父正茂の遺跡を継ぐか。200石

元和元年 大番組頭

元和5年 徳川忠長に付属される

(寛永9年) 勘気を蒙る

寛永11年 赦免。家光に仕える


(400石)

(寛永13年3月25日) (大久保右京亮組) ●「日記」 (大番)

寛永20年9月20日 箪笥奉行

寛永20年9月20日 御鉄炮玉薬之奉行 ●「日記」

万治3年12月25日 留守居方箪笥役

寛文7年6月4日 留守居方箪笥役を辞す。小普請

延宝元年8月24日 死す
加藤正則
生。金五郎
かとうまさのり
三九郎正重の男
寛政譜13・76
家光に仕える。大番

寛永13年11月24日 父正重の遺跡を継ぐ。200石(100石か)

寛永13年11月24日 加藤三九郎百石子金五郎跡目被仰付之 ●「日記」


以下不詳
加藤正光
生。助三郎
かとうまさみつ
小左衛門重常の次男
寛政譜13・27
秀忠に仕える。大番。300俵

(寛永15年9月14日) (銀子被下之対馬守申渡之是方々御成之刻―


―無懈怠依御供相勤也) ●「日記」

寛永17年5月3日 死す
加藤正之 慶長18年 生。彦右衛門。喜左衛門。彦右衛門
かとうまさゆき
喜助正重の男
寛政譜13・33
妻は嶋田幽也利正の女

元和8年 はじめて秀忠に拝謁

寛永9年10月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」

寛永10年11月1日 父正重の遺跡を継ぐ。1000石

寛永10年11月30日 (跡目) ●「日記」

寛永11年2月22日 加藤喜助子継目之御礼 ●「日記」

寛永12年 小姓組

承応元年12月15日 死す
加藤光定 元和2年 生。(内記)。平内
かとうみつさだ
遠江守光直の次男
寛政譜13・23
母は本多因幡守の女

寛永元年 はじめて家光に拝謁

寛永10年 父光直の遺跡を継ぐ。3640石

寛永10年2月25日 相続御礼 ●「日記」

(寛永10年2月25日) (内記) ●「日記」

寛永10年 書院番

(寛永18年10月8日) (平内の初出) ●「日記」

寛永18年10月8日 如前々江戸中昼夜見舞之役被仰付 ●「日記」

明暦2年7月28日 使役

明暦2年12月26日 布衣

延宝3年9月7日 死す
加藤光直 天正12年 生。作内。平内。遠江守
かとうみつなお
遠江守光泰の三男
寛政譜13・23
母は一柳藤兵衛の女


妻は本多因幡守の女


秀吉に仕える

慶長4年1月 はじめて家康に拝謁

慶長5年 兄左近大夫貞泰の質として江戸におもむく

慶長7年 3640石

寛永3年12月5日 使番

寛永4年1月5日 従五位下・遠江守

寛永10年1月8日 死す
加藤光久 元和2年 生。八兵衛
かとうみつひさ
善十郎光治の四男
寛政譜13・68 (寛永2年) 父光治の遺跡を継ぐ。100俵

寛永9年10月7日 家光に拝謁 ●「日記」

寛永15年10月24日 小十人 ●「日記」共

寛永17年8月17日 死す
加藤光広
生。虎之助。豊後守。松平を称す
かとうみつひろ
肥後守忠広の男
断家譜1・241
母は秀忠の養女松平飛騨守蒲生秀行の女

寛永7年 はじめて拝謁。偏諱を賜る。豊後守

寛永9年5月 飛騨国に配流。100人扶持 ●「日記」6月1日


以下不詳
加藤泰興 慶長16年 生。五郎八。出羽守。月窓
かとうやすおき
左近大夫貞泰の長男
寛政譜13・16
母は小出播磨守吉政の女


室は岡部内膳正長盛の女


継室は戸沢右京亮政盛の女

元和8年 はじめて秀忠に拝謁

元和9年7月13日 父貞泰の遺領を継ぐ。伊予国大洲城5万石

寛永元年 従五位下・出羽守

寛永12年8月6日 戸沢右京娘加藤出羽守嫁娶被仰付之 ●「日記」

寛永20年9月27日 火消 ●「日記」

延宝2年2月25日 致仕。月窓と号す

延宝5年閏12月16日
加藤康寛 天正2年 生。福千代丸。新六郎。右衛門大夫。四郎兵衛。宗月。
かとうやすひろ
はじめ蘆田、依田、松平を称す
越前人物志上・376
兄松平修理大夫依田康国の嗣。依田右衛門佐信蕃の次男
寛政譜6・213
母は跡部大炊助の女


室は大久保相模守忠隣の女


兄康国とともに武田家の質となる


織田家に捕らわれる

天正10年 木曾義昌の質となる


家康に引渡され遠江国二俣城にあり

天正14年4月15日 家康の御前にて元服。偏諱・松平の称号を賜る。松平新六郎康真


家康に近侍

天正18年5月3日 兄康国の遺領を継ぐ。信濃国小諸城

天正18年7月 仮に上野国松井田城に移る

天正18年8月 上野国藤岡3万石

文禄3年10月 従五位下。右衛門大夫

慶長5年1月23日 小栗三助を殺害し出奔

慶長5年 松平秀康に仕える。5000石。加藤四郎兵衛康寛と称す


宗月と号す


松平伊予守忠昌に仕える

(寛永16年5月1日) (越前宰相家中証人加藤宗月娘) ●「日記」

承応2年8月18日 死す
加藤康寛娘





(寛永16年5月1日) (越前宰相家中証人加藤宗月娘) ●「日記」



加藤泰義 寛永6年 生。亀之助。右馬助。美作守
かとうやすよし
出羽守泰興の長男
寛政譜13・16
母は岡部内膳正長盛の女


妻は太田備中守資宗の女

寛永17年5月22日 はじめて家光に拝謁

寛永17年5月22日 以太刀目録并進物御目見 ●「日記」

承応元年12月28日 従五位下・美作守

寛文8年3月8日
加藤嘉明 永禄6年 生。孫六。左馬助。侍従
かとうよしあき
三之丞教明の長男
寛政譜13・5
母は川村氏


室は家臣堀部市右衛門の女


秀吉に仕える


豊臣秀勝に近侍

天正4年 300石。(秀吉に仕える)

天正6年10月18日 500石

天正11年6月5日 3500石

天正13年7月 従五位下・左馬助

天正14年11月2日 1万8500石

文禄3年2月20日 6万2000石

慶長3年5月3日 伊予国真崎城10万石

慶長5年 伊予国松山城20万石

元和9年閏8月23日 従四位下

寛永3年8月19日 侍従

寛永4年3月14日 陸奥国会津若松城40万石

寛永8年9月12日
加藤良勝 文禄3年 生。源太郎。太郎左衛門
かとうよしかつ
太郎左衛門成之の次男
寛政譜13・46
妻は北条陸奥守家臣二宮道品の女

慶長8年 父成之の遺跡を継ぐ。1000石

慶長15年 秀忠に仕える。小姓組

寛永2年7月27日 1180石

寛永10年2月2日 大番組頭 ●「日記」共

寛永10年2月23日 1480石

(寛永17年1月23日) (番頭水野備後守) ●「日記」

寛永17年1月23日 家作の豪奢をとがめられ分限に応じて改作する ●「日記」共

寛永17年10月12日 死す
加藤吉延 慶長10年 生。八右衛門。四郎右衛門
かとうよしのぶ
喜兵衛吉正の長男
寛政譜13・54 寛永2年 小十人。100俵

寛永9年8月25日 200俵

寛永20年8月8日 新番

寛永20年8月8日 於土圭之間御番相詰其上方々御成之刻御先え参御殿御番等可相勤之旨―


―被仰付之由伊豆豊後列座有之民部少輔伝之玉虫八左衛門組 ●「日記」

万治2年12月26日 250俵

寛文4年5月12日 死す
加藤義休 慶長18年 生。九吉。権十郎。新五右衛門。甚右衛門
かとうよしやす
平右衛門一義の次男
寛政譜13・65
母は成田下総守家臣堀口対馬の女


妻は中嶋五郎右衛門盛利の女

寛永9年6月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永9年11月4日 小十人


100俵

(寛永19年12月16日) (権十郎の初出) ●「日記」

寛永19年12月16日 200俵 ●「日記」共

~寛文9年 納戸番

寛文11年8月10日 死す
葛野定春
生。勝九郎。九郎兵衛
かどのさだはる
九郎兵衛定之の養子
能楽史話365
大鼓方

明暦3年 禁裏にて能を勤める



葛野定之
生。小十郎。勝九郎。九郎兵衛尉
かどのさだゆき
久右衛門尉の男
能楽史話365
秀吉に仕える。大蔵源右衛門に師事。大鼓方


18歳にて駿府の家康に仕える


秀忠の代に70石10人扶持。観世の与力



香取神宮
下総国
かとりじんぐう




金鑽寺
武蔵国。金鑽山一乗院大光普照寺。天台宗檀林
かなさなでら




金鑽寺一乗院

―いちじょういん (寛永13年1月15日) (金讃山一乗院権僧正) ●「日記」



金森外記

かなもりげき
細川越中守忠利の家臣



金森重勝 慶長5年 生。小四郎。左京
かなもりしげかつ
出雲守可重の五男
寛政譜6・259
妻は成瀬豊後守正武の女

慶長19年 はじめて家康に拝謁

元和元年7月 兄出雲守重頼より分知。飛騨国3000石

(寛永12年8月25日) (左京亮) ●「日記」

慶安2年4月1日 死す
金森重利 寛永7年 生。左京。鍋八。右近
かなもりしげとし
出雲守重頼の九男
寛政譜6・255 寛永13年6月28日 はじめて家光に拝謁

寛永13年6月28日 金森出雲守子初て御礼 ●「日記」

(寛永18年11月14日) (右近の初出) ●「日記」

寛永18年11月14日 家綱に付属される。小姓 ●「日記」共


3000石

正保4年8月7日 死す
金森重直(市兵衛) 元和8年 生。市兵衛
かなもりしげなお
甲斐守重次の男
寛政譜6・254 寛永2年12月 父重次の遺跡を継ぐ

寛永18年6月8日 死す。断絶
金森重直(頼母) 寛永4年 生。頼母
かなもりしげなお
左京重勝の養子。金森出雲守重頼の六男
寛政譜6・259 寛永13年6月28日 金森左京子初て御礼 ●「日記」

慶安3年11月11日 養父重勝の遺跡を継ぐ。飛騨国3000石

慶安3年12月28日 はじめて家光に拝謁

明暦元年5月15日 死す
金森重義 慶長9年 生。権大夫。左兵衛。雲雪
かなもりしげよし
出雲守可重の六男
寛政譜6・260
母は名護屋因幡守高久の女


妻は渡辺筑後守正の女

元和8年 はじめて秀忠に拝謁

元和8年 兄重頼より分知。飛騨国2000石。寄合

~寛永3年 西丸書院番。飛騨国2000石500俵

寛永9年 小姓組

寛永10年2月7日 飛騨国2700石


小姓組を辞す。小普請

寛文10年10月14日 致仕。雲雪と号す

寛文12年11月22日 死す
金森重頼 文禄3年 生。左兵衛。長門守。出雲守
かなもりしげより
出雲守可重の三男
寛政譜6・254
母は名護屋因幡守高久の女


室は内藤若狭守清次の女

慶長13年 家康に仕える。小姓

慶長18年 従五位下・長門守

慶長19年 3000石

元和元年7月 父可重の遺領を継ぐ。飛騨国高山城3万2700石

元和5年 出雲守

元和8年 弟重義に分知。飛騨国高山城3万700石

慶安3年閏10月7日
金森重頼次女
寛政譜6・255
金森出雲守重頼の次女
寛政譜8・176 寛永12年8月6日 金森出雲守娘織田伊豆守嫁娶被仰付之 ●「日記」


織田山城守長頼に嫁ぐ


以下不詳
金森重頼三女
寛政譜6・255
金森出雲守重頼の三女
寛政譜7・223 寛永10年7月2日 亀井豊前守玆政と縁組 ●「日記」

正保2年 亀井伊予守政直を産む


亀井式部玆次を産む



金森重頼四女
寛政譜6・255
金森出雲守重頼の四女
寛政譜8・193 寛永15年11月7日 縁辺組金森出雲守娘織田左近 ●「日記」


織田豊前守長定に嫁ぐ

寛文元年~ 女子を産む。早世か


以下不詳
金森内記

かなもりないき 寛永12年2月1日 於黒書院当地参勤ニ付て御目見 ●「日記」



金森頼直 元和7年 生。五郎八。長門守。立軒
かなもりよりなお
出雲守重頼の長男
寛政譜6・254
室は本多能登守忠義の長女

寛永4年7月7日 はじめて秀忠・家光に拝謁

寛永11年12月20日 従五位下・長門守

(寛永12年8月6日) (長門の初出) ●「日記」

寛永12年8月6日 嫁娶被仰付之 ●「日記」

慶安3年11月11日 父重頼の遺領を継ぐ。飛騨国高山城3万700石

寛文3年春 病により剃髪。立軒と号す

寛文5年7月18日
金田正末
生。惣三郎
かねだまさすえ
惣八郎正勝の長男
寛政譜9・134
秀忠に仕える


勘気を蒙る

寛永11年4月29日 直訴

寛永11年5月3日 死刑

寛永11年5月4日 昨日被殺戮之 ●「日記」
金田正親 元和6年 生。左平次郎。惣八郎
かねだまさちか
惣八郎正辰の長男
寛政譜9・135
母は長谷川讃岐正吉の女

寛永7年 はじめて家光に拝謁

寛永13年12月27日 大番 ●「日記」共

寛文元年閏8月11日 父正辰の采地を賜る。700石300俵

延宝2年2月18日 大番組頭

延宝4年1月11日 先鉄炮頭

延宝4年12月26日 布衣

天和2年4月21日 1200石300俵

貞享4年3月9日 先鉄炮頭を辞す。寄合

元禄9年12月7日 致仕

元禄10年閏2月28日 死す
兼松正尾 慶長10年 生。千熊。又四郎
かねまつまさお
源兵衛正成の長男
寛政譜14・392
母は桑原伝右衛門の女


妻は朝倉石見守在重の女

元和元年 はじめて秀忠に拝謁

元和2年 父正成の采地を賜る。700石

(元和8年) 書院番

(寛永8年) 書院番

寛永9年11月5日 書院番・進物役

寛永9年11月5日 本番御免。進物番 ●「日記」

寛永10年2月7日 900石

寛永15年5月8日 徒頭 ●「日記」共

寛永16年12月30日 布衣 ●「日記」共

正保元年2月20日 先弓頭

正保元年2月20日 御弓頭渡辺半兵衛元組 ●「日記」

正保4年1月12日 持弓頭

慶安3年9月3日 家綱に付属される。西丸に勤仕

慶安4年 本丸に勤仕

慶安4年11月21日 900石300俵

延宝元年1月23日 鎗奉行

延宝2年4月28日 鎗奉行を辞す。寄合

延宝2年6月3日 死す
兼松正直 天正17年 生。又作。弥五左衛門。下総守
かねまつまさなお
藤右衛門正勝の養子。佐高平十郎の男
寛政譜14・394
母は兼松修理亮正吉の女


妻は兼松源兵衛正成の女

慶長13年 はじめて秀忠に拝謁

慶長15年 大番。200俵

元和元年 大坂の役にて高木主水正次に属す

元和元年12月27日 500石

元和5年5月8日 大番組頭

寛永5年12月5日 徒頭

寛永5年12月30日 布衣

(寛永9年8月6日) (弥五左衛門) ●「日記」

寛永10年4月16日 目付。五の字の指物をゆるされる

寛永10年4月16日 目付 ●「日記」

寛永12年12月14日 1500石

寛永12年12月14日 千石御加恩 ●「日記」

寛永18年4月12日 蟄居 ●「日記」共

寛永18年9月5日 ゆるされる

寛永18年9月5日 御赦免仕来御役如前々可相勤 ●「日記」

正保4年7月3日 大目付。3500石

慶安3年9月3日 西丸に勤仕

慶安4年8月16日 従五位下・下総守

(慶安4年) 本丸に勤仕

寛文6年6月25日 大目付を辞す

寛文6年7月13日 死す
兼松正成 永禄6年 生。又八郎。源兵衛
かねまつまさなり
修理亮正吉の次男
寛政譜14・392
母は佐分利弥右衛門清家の女
士林泝洄3・141
妻は佐分利左京進忠直の女


後妻は桑原伝右衛門の女

天正8年 父正吉と同じく織田信長に仕える

(天正10年) 織田三七信孝に仕える。200貫文

~天正12年 織田信雄に仕える。400石

文禄3年 牧野半右衛門康成について家康に拝謁

慶長2年 500石

慶長5年 秀忠に仕える


大番組頭

慶長7年 700石

慶長19年 大坂の役にて使番。赤幌を着す

元和2年 命により徳川義直に仕える

(寛永4年) 父正吉の遺跡を継ぐ。2000石

寛永17年9月23日 死す
兼松正春 寛永8年 生。弥三郎
かねまつまさはる
又四郎正尾の男
寛政譜14・393
母は朝倉石見守在重の女


妻は岡部土佐守正岡の女

寛永17年2月13日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保4年12月25日 小姓組

延宝2年7月12日 父正尾の遺跡を継ぐ。900石300俵

延宝7年5月3日 死す
金保元泰 天正14年 生。玄泰。安斎。はじめ兼康と称す
かねやすもとやす
兼康典薬頭頼元の養子。賀茂氏の男
寛政譜18・180
京都にて口科医


家康の諱をさけて金保に改称

慶長18年 はじめて秀忠に拝謁

寛永元年7月1日 乗輿をゆるされる

寛永13年12月23日 100俵 ●「日記」共

寛永15年12月1日 100俵月俸10口

寛永15年12月1日 元御切米之上十人之御扶持被増下之 ●「日記」

慶安元年12月12日 死す
叶院
相模国浦賀。叶明神か?
かのういん
叶明神(叶神社)別当の感応院か?






狩野氏信
生。大学助。友益
かのうじのぶ
宗知重信の男
日本絵画名家詳伝上・39
狩野松栄直信に師事

寛永18年2月20日 狩野大学落縁ニて初て御目見 ●「日記」


加賀前田家に仕える


以下不詳
加納直恒 慶長5年 生。五郎三郎。数馬。九十郎。五郎右衛門
かのうなおつね
平右衛門久利の猶子。鈴木五郎兵衛直儀の次男
仮名別諸士系譜4・9
母は加納数馬直政(孫大夫久直)の長女
寛政譜22・137
妻は朝岡助大夫の女
幕府祚胤伝
幼少より奥平美作守信昌の室家康の長女亀姫加納殿盛徳院に養育される
(徳川諸家系譜2・28)
叔母で家康の侍女佐阿加納数馬の三女のもと駿府城長局にあり


大奥にて勤仕

~慶長16年 家康に命により久利の猶子となる。家康に仕える。小姓。200石


徳川頼宣に付属される

元和5年 300石

元和9年 900石

寛永元~13年 2000石。与力鉄炮同心60人。御側御用

寛永19年 五郎左衛門と改名

寛永20年 大番頭

承応2年 大番頭を辞す

万治2年 年寄

寛文7年7月15日 隠居。200石。なお勤仕か

寛文7年10月 不快遊と改名

貞享元年10月4日 死す
叶坊
遠江国浜松
かのうぼう
秋葉神社の神職か? 修験者






狩野興以
生。弥左衛門。弥兵衛。号興以。名定信
かのこうい
下野国足利の人。または伊豆国の人
日本絵画名家詳伝上・41
法橋


狩野光信に画を学ぶ


狩野孝信の三子守信、尚信、安信を養い画を教える


三子より狩野の家号を贈られる

(寛永13年5月5日) (狩野高意) ●「日記」

寛永13年 死す
狩野左門
狩野吉信か? 絵師か
かのさもん







狩野内匠
築地小田原町狩野種信か
かのたくみ


寛永19年6月26日 絵師狩野内匠御暇銀十枚被下之 ●「日記」



狩野尚信 慶長12年 生。主馬。自適斎
かのなおのぶ
右近将監孝信の次男
日本絵画名家詳伝上・31 元和9年 京都において家光より画のことをうけたまわる
寛政譜21・294 寛永7年 家光に仕える。絵師

慶安3年4月7日 死す
狩野長信 天正5年 生。源七郎。左衛門。休伯。法橋
かのながのぶ
松栄直信(幹信)の五男
日本絵画名家詳伝上・38
父直信に画法を学ぶ


薙髪


法橋

承応3年11月18日 死す
狩野昌信 文禄4年 生。左衛門。休伯。法橋
かのまさのぶ
休伯長信の男
日本絵画名家詳伝上・38
父長信に画法を学ぶ

寛永18年2月20日 狩野休白子落縁ニて初て御目見 ●「日記」


法橋

寛文2年1月8日 死す
狩野益信 寛永2年 生。(三山郎)。采女。洞雲。法眼
かのますのぶ
探幽守信の養子。後藤立乗光頼の三男
日本絵画名家詳伝上・33
狩野探幽守信に師事

寛永12年 狩野探幽守信の養子となる

寛永18年2月20日 狩野探幽子落縁ニて初て御目見 ●「日記」

(寛永18年12月28日) (探幽子三山郎) ●「日記」


法眼

万治2年 養父守信に実子誕生のため別家を興す

元禄7年1月8日 死す
狩野守信 慶長7年 生。四郎次郎。采女。探幽斎。白蓮子。宮内卿。法眼。法印
かのもりのぶ
右近将監孝信の長男
日本絵画名家詳伝上・30
母は佐々木氏
寛政譜21・294 慶長17年 家康に拝謁

元和3年 秀忠に仕える。絵師

元和7年 鍛冶橋に屋敷を賜る

寛永15年12月29日 狩野采女法眼被仰付之 ●「日記」

(寛永16年1月1日) (探幽法眼の初出) ●「日記」

寛文2年 法印。筆峰大居士

延宝2年10月7日 死す
狩野安信 慶長18年 生。四郎次郎。右京。永真。牧心斎。静閑子。子浮斎。法眼
かのやすのぶ
右京進貞信の養子。右近将監孝信の三男
日本絵画名家詳伝上・29
画法を実兄守信・尚信に学ぶ
寛政譜21・294 貞享2年9月4日 死す



樺山左京

かばやまさきょう
嶋津但馬守久雄に仕える

(寛永17年3月15日) (嶋津万寿僕従) ●「日記」



鎌田出雲

かまたいずも
松平大隅守嶋津光久に仕える

(寛永15年5月13日) (松平薩摩守家老) ●「日記」



鎌田神主
遠江国鎌田神明宮
かまだかんぬし




鎌田神領神主
遠江国鎌田神明宮
かまだしんりょうかんぬし




鎌田正綱 慶長17年 生。藤兵衛
かまたまさつな
忠左衛門正用の男
寛政譜13・322
妻は横地木工右衛門安信の女

寛永4年 大番


200俵

寛永10年2月7日 400石

寛永20年12月7日 父正用の遺跡を継ぐ。600石 ●「日記」共

寛文9年6月1日 広敷番頭

延宝2年9月22日 死す
鎌田正用 天正10年 生。源五郎。忠左衛門
かまたまさもち
孫左衛門正久の養子。平林藤助正広の長男
寛政譜13・322
家康に仕える。大番

(慶長5年) 養父正久の遺跡を継ぐか。400石

寛永10年2月7日 600石

寛永20年3月3日 死す
神沼美勝
生。金右衛門
かみぬまよしかつ
秀忠に仕える。鳥見役
寛政譜22・215 寛永15年12月18日 鹿沼金右衛門御扶持方五人扶持被下之 ●「日記」


広敷添番


以下不詳
神谷清正 永禄9年 生。与七郎
かみやきよまさ
与次右衛門清次の長男
寛政譜16・232
母は榊原伊豆守の女


妻は大久保四郎右衛門忠吉の女

天正13年 はじめて家康に拝謁

天正19年5月17日 200石

慶長5年 秀忠に付属される

元和元年 大坂の役にて弓奉行

元和元年 閉門


ゆるされる

寛永3年 家光に仕える。鉄炮の者30人を預かる

(寛永3年) (先鉄炮頭か?)

寛永6年7月17日 500石

寛永9年6月25日 先鉄炮頭。馬上同心5騎同心30人を預かる

寛永9年6月25日 馬上同心5騎 ●「日記」

寛永10年12月27日 1000石

寛永10年12月27日 五百石御加増 ●「日記」


1500石

正保2年4月16日 死す
神谷斎

かみやさい

しんこくさい? (寛永18年6月30日) (松平出羽守証人) ●「日記」



神谷忠栄
生。助左衛門
かみやただよし 元和8年
寛政譜19・191
徒目付


貝役

(寛永18年12月29日) (御かいの役) ●「日記」

(寛永20年4月19日) (弐百石) ●「日記」

寛永20年4月19日 只今迠之御番被成御免向後御役可被仰付之間可存其旨之由―


―小十人組御番所之次ニて老中被伝之 ●「日記」

寛永20年9月11日 弐百五十石被下之 ●「日記」


国廻役


徒目付組頭

(明暦2年) 死す
神谷次重 慶長12年 生。八右衛門
かみやつぐしげ
縫殿助正次の次男
寛政譜16・239
母は朝岡伊予泰国の女

元和7年 はじめて秀忠に拝謁

寛永元年 小姓組。200俵

寛永10年2月 400石

(寛永16年4月15日) (神谷弥五介中奥之御番被仰付之) ●「日記」


土圭間番


新番

延宝6年3月7日 死す
神谷富次
生。源五郎。備後。(昌次?)
かみやとみつぐ
松平出羽守直政の家臣



神谷直次 慶長5年 生。小作。助兵衛
かみやなおつぐ
助兵衛直清の男
寛政譜16・235 慶長15年 はじめて家康に拝謁

元和3年 父直清の遺跡を継ぐ。160石。手鷹匠

寛永2年12月11日 210石の朱印

(寛永15年10月14日) (御鷹師) ●「日記」

寛文元年10月2日 鳥屋飼

延宝7年2月28日 死す
神谷直好
生。左助。七郎兵衛。金七郎
かみやなおよし
小左衛門三盛の男
寛政譜16・234
妻は酒井八左衛門の女

寛永20年3月3日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保4年12月25日 大番


200俵

寛文元年10月12日 新番

寛文2年12月22日 250俵

延宝4年4月4日 死す
上柳甫斎 天正19年 生。彦兵衛。梅園堂。独月庵
かみやなぎほさい
京都の呉服商。家康に仕える


小堀遠州に茶道を学ぶ

(寛永13年12月21日) (御服所) ●「日記」

延宝3年7月26日 死去
神谷正重 慶長5年 生。又五郎
かみやまさしげ
縫殿助正次の長男
寛政譜16・237
母は朝岡伊予泰国の女


妻は弓気多忠右衛門昌勝の女

~寛永3年 秀忠に近侍。台所の務を兼ねる

寛永6年 父正次の遺跡を継ぐ。770石

寛永16年10月18日 台所頭

寛永16年10月18日 召出御台所組頭之儀内々如訴訟可申付之旨也 ●「日記」


勘気を蒙る


ゆるされる。770石。小普請

寛文元年4月26日 死す
神谷正次
生。左太郎
かみやまさつぐ
左馬助三正の次男
寛政譜16・234 寛永8年6月26日 はじめて家光に拝謁

寛永13年12月27日 大番 ●「日記」共


以下不詳
神谷政成
生。伝十郎。八郎左衛門
かみやまさなり
伝十郎政直の男
寛政譜16・241
妻は日向半兵衛政成の女

(慶長6年) 父政直の遺跡を継ぐ。300石

慶長18年 家康に仕える

慶長19年~ 大番

寛永2年 320石

寛永10年2月7日 520石

(寛永16年8月12日) (八郎左衛門の初出) ●「日記」

寛文元年8月22日 死す
神谷政久
生。左門。伝十郎
かみやまさひさ
八郎左衛門政成の長男
寛政譜16・241
母は日向半兵衛政成の女

寛永13年9月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永18年5月 大番

(寛永20年12月18日) (伝十郎の初出) ●「日記」

寛永20年12月18日 弐百俵 ●「日記」

正保3年1月12日 死す
神谷三正
生。左馬助
かみやみつまさ
金七郎長直の男
寛政譜16・234 ~天正12年 水野和泉守忠重に仕える

慶長14年1月27日 秀忠に仕える。大番

元和9年~ 小普請

慶安2年10月25日 死す
神谷三盛
生。小左衛門
かみやみつもり
左馬助三正の長男
寛政譜16・234 寛永16年7月23日 はじめて家光に拝謁

寛永16年7月23日 神谷左馬助惣領子樽代を以初て御目見 ●「日記」

寛永17年3月20日 大番 ●「日記」共

寛永19年12月10日 200俵 ●「日記」共

正保2年6月28日 納戸番。二丸に勤仕

正保2年9月9日 本丸に勤仕


納戸番を辞す

寛文元年12月13日 死す
神谷弥五介

かみややごすけ


寛永16年4月15日 中奥之御番 ●「日記」

寛永17年8月26日 神谷弥五介上屋敷冨永主膳ニ被下之 ●「日記」



亀井玆政 元和3年 生。大力。能登守。豊前守
かめいこれまさ
豊前守政矩の次男
寛政譜7・222
母は松平周防守松井康重の女


室は金森出雲守重頼の女

元和5年冬 父政矩の遺領を継ぐ。石見国津和野三本松城4万3000石

元和7年 暇を賜り津和野に行く

寛永3年 はじめて秀忠・家光に拝謁

寛永10年 婚姻あり

寛永10年7月2日 縁辺組 ●「日記」

(寛永12年6月30日) (大力と能登守を並記) ●「日記」

寛永12年12月30日 従五位下・能登守

寛永13年1月15日 (能登守)諸大夫被仰付御礼申上 ●「日記」

寛永20年9月27日 火消 ●「日記」

寛文5年5月1日 庶兄経矩に分知。石見国津和野三本松城4万石

延宝7年9月2日 豊前守

延宝8年12月18日
亀井政矩 天正18年 生。新十郎。右兵衛佐。豊前守
かめいまさのり
武蔵守玆矩の次男
寛政譜7・222
母は尼子家臣多胡宗次右衛門重盛の女


室は松平周防守松井康重の女


家康に仕える

慶長9年 従五位下・右兵衛佐

慶長10年 豊前守

慶長14年4月 命により婚姻

慶長14年 5000石

慶長17年9月7日 父玆矩の遺領を継ぐ。因幡国鹿野4万3000石

元和3年9月 石見国津和野三本松城4万3000石

元和5年8月15日
亀屋庄兵衛

かめやしょうべえ
酒造か

(正保元年5月19日) (呉服所之者) ●「日記」



賀茂
山城国。上賀茂神社
かも




蒲生賢秀長女
断家譜1・250
蒲生左兵衛大夫賢秀の長女


関長門守一政に嫁ぐ

(寛永17年10月16日) (竹中左京駿州久野東照大権現御宮修復之御奉行被仰付之由―


―老中被申渡之是先御奉行関兵部少母之服ニ付て也) ●「日記」


(上記、森本飛騨守娘か不明)
蒲生源左衛門

がもうげんざえもん
松平中務大輔蒲生忠知の家老

寛永9年7月11日 蒲生忠知に召し預けられる ●「日記」
蒲生忠知 慶長10年 生。中務大輔。侍従。松平を称す
がもうただとも
飛騨守秀行の次男
断家譜1・250
母は家康の息女振姫正清院


室は内藤左馬助政長の女

慶長18年 従五位下・中務大輔

元和3年8月29日 母が逝去

元和9年 従四位下

寛永3年8月19日 侍従

寛永4年2月10日 伊予国松山城20万石

寛永4年7月5日 縁組

寛永11年8月18日
鴨田九郎右衛門

かもだくろうえもん


寛永18年4月14日 火之番御役被仰付之是ハ此以前不念之儀有之て御役改之雖召上之―


―久々御奉公仕候者之儀ニ故元之ことく火之番ニ被召加之 ●「日記」



賀茂宮直定 寛永4年 生。太郎八。太郎左衛門
かものみやなおさだ
治兵衛直能の長男
寛政譜16・290
母は山角牛太郎定吉の女


妻は長井五右衛門吉次の女

寛永18年3月1日 はじめて家光に拝謁

寛永18年3月1日 樽代前ニ置一同ニ御目見 ●「日記」

寛永18年7月 大番

(寛永20年12月18日) (太郎左衛門の初出) ●「日記」

寛永20年12月18日 弐百俵 ●「日記」


家綱に付属される

寛文3年2月11日 腰物持役。新番。昼のみ勤仕

天和2年6月3日 新番

元禄2年7月10日 父直能の遺跡を継ぐ。300石

元禄3年3月25日 宝蔵番頭

元禄5年10月9日 宝蔵番頭を辞す

宝永3年11月24日 死す
賀茂宮直重 天正2年 生。治兵衛
かものみやなおしげ
式部少輔直勝の次男
寛政譜16・289
妻は北条家臣遠山隼人の女


北条陸奥守氏輝に属す

天正19年 家康に拝謁

~文禄元年 家康に仕える


300石。大番

寛永2年11月 徳川忠長に付属される

寛永10年 家光に仕える。大番。300石


(大番を辞す? 小普請?)

寛永18年7月9日 死す

(寛永18年12月4日) (杉浦内蔵組) ●「日記」
賀茂宮直能 慶長12年 生。金左衛門。治兵衛
かものみやなおよし
治兵衛直重の男
寛政譜16・290
母は北条家臣遠山隼人の女


妻は山角牛太郎定吉の女

寛永13年12月6日 はじめて家光に拝謁

寛永13年12月27日 大番 ●「日記」共

(寛永18年3月1日) (大久保右京亮教隆組もしくは皆川山城守隆庸組) ●「日記」

(寛永18年12月4日) (水野備後守与) ●「日記」

寛永18年12月4日 父直重の遺跡を継ぐ。300石

寛永18年12月4日 三百石同組加茂宮次兵衛跡右惣領水野備後守与金左衛門ニ被下之―


―金左衛門取来之御切米弐百俵ハ上ル ●「日記」

寛永18年12月30日 腰物奉行 ●「日記」共

正保2年6月28日 家綱に付属される

慶安3年9月 西丸に勤仕

(慶安4年) 本丸に伺候

延宝4年10月4日 腰物奉行を辞す。小普請

元禄2年3月21日 死す
烏丸資慶 元和8年5月11日 生。侍従。左衛門佐。蔵人。弁。蔵人頭。参議。中納言。大納言
からすまるすけよし
中納言光賢の長男
諸家伝上・485
母は細川越中守忠興の四女
宮廷公家系図集覧378
室は清閑寺内大臣共房の長女

寛永元年1月5日 従五位下

寛永3年2月14日 元服。侍従

寛永5年2月10日 従五位上

寛永9年1月5日 正五位下

寛永16年1月11日 左衛門佐

寛永16年4月18日 烏丸侍従継目之御礼 ●「日記」

寛永17年12月26日 蔵人。正五位上。禁色

寛永18年8月23日 権右少弁。左衛門佐を辞す

(寛永18年10月3日) (左衛門佐の初出) ●「日記」

(寛永18年10月19日) (殿上人) ●「日記」

(寛永18年10月19日) (右少弁の初出) ●「日記」

寛永19年1月21日 右少弁

寛永20年10月16日 左少弁

正保元年8月11日 従四位下。蔵人を辞す

正保元年12月12日 従四位上

正保元年12月26日 右中弁

正保2年1月6日 正四位下

正保2年10月18日 蔵人頭

正保2年10月25日 正四位上

正保2年12月28日 左中弁

正保4年12月28日 参議

正保4年12月30日 右大弁

慶安元年1月5日 従三位

慶安2年1月12日 左大弁

承応元年1月5日 正三位

承応3年12月13日 左大弁を辞す

承応3年12月21日 権中納言

明暦元年2月18日 直衣

明暦2年12月14日 従二位

万治元年11月19日 権大納言

寛文元年1月5日 正二位

寛文元年2月4日 神宮伝奏

寛文元年2月30日 神宮伝奏を辞す

寛文2年10月10日 権大納言を辞す

寛文9年11月28日 薨去
烏丸光賢 慶長5年5月14日 生。侍従。少弁。蔵人。中弁。蔵人頭。参議。大弁。中納言
からすまるみつかた
大納言光広の長男
諸家伝上484
母は村上周防守頼勝の女
宮廷公家系図集覧378
妻は細川越中守忠興の四女

慶長7年1月6日 従五位下

慶長13年1月12日 元服。昇殿。侍従。従五位上

慶長16年12月29日 禁色

慶長17年1月5日 正五位下

慶長17年1月19日 右少弁

慶長18年6月4日 蔵人

慶長18年11月27日 正五位上

慶長19年7月27日 左少弁

元和元年12月28日 右中弁

元和5年3月20日 従四位下

元和5年7月10日 左中弁

元和5年12月25日 従四位上

元和6年1月5日 正四位下

元和6年6月17日 蔵人頭

元和6年閏12月27日 正四位上

寛永3年8月23日 参議。左中弁を辞す

寛永3年12月13日 参議・左大弁

寛永4年1月5日 従三位

寛永5年1月28日 造東大寺長官

寛永7年1月11日 権中納言

寛永8年1月6日 正三位


従二位

(寛永15年3月6日) (昵近之衆) ●「日記」

寛永15年9月9日 薨去
烏丸光賢娘
寛政譜2・311
烏丸中納言光賢の女


細川肥後守光尚に嫁ぐ

寛永13年

寛永13年11月6日 細川肥後守妻女忌明候付て御目見 ●「日記」
烏丸光広 天正7年 生。侍従。少弁。蔵人。中弁。蔵人頭。大弁。参議。中納言。大納言
からすまるみつひろ
准大臣光宣の男
諸家伝上484
妻は村上周防守頼勝の女
宮廷公家系図集覧378 天正9年1月5日 従五位下

天正11年11月13日 元服。侍従。従五位上

天正14年1月5日 正五位下

天正17年3月30日 右少弁

文禄3年8月19日 左少弁

文禄4年11月10日 蔵人・正五位上

慶長4年11月16日 左中弁

慶長4年12月11日 従四位下・蔵人頭

慶長4年12月26日 従四位上

慶長5年1月5日 正四位下

慶長5年2月10日 正四位上

慶長6年3月19日 左京宮城使を兼ねる

慶長9年8月1日 右大弁

慶長11年1月11日 参議・右大弁

慶長13年1月6日 従三位

慶長14年1月9日 参議・左大弁

慶長14年7月4日 勅勘

慶長16年4月1日 勅免。参議・左大弁

慶長17年1月11日 権中納言

慶長18年1月6日 正三位

元和2年2月13日 権大納言

元和3年1月6日 従二位

元和6年1月5日 正二位

寛永4年 賀茂伝奏

寛永13年12月28日 為御合力弐百俵被下御礼申上 ●「日記」

寛永15年7月13日 薨去

寛永15年7月21日 烏丸大納言連々依病気去十一日逝去 ●「日記」
唐橋在村 文禄元年11月11日 生。文章得業生。民部少輔。参議
からはしありむら
民部少輔在通の長男
諸家伝下・905 慶長14年7月12日 元服
宮廷公家系図集覧527 慶長16年7月1日 正六位上。文章得業生

元和6年1月5日 従五位下

元和6年閏12月20日 民部少輔

寛永5年1月5日 従五位上

寛永9年1月5日 正五位下

寛永13年1月5日 従四位下

寛永17年1月5日 従四位上

正保元年1月5日 正四位下

慶安元年12月22日 従三位

明暦元年1月26日 正三位

寛文5年1月5日 従二位

寛文9年12月18日 参議

寛文9年12月24日 参議を辞す

延宝3年7月21日 薨去
唐物屋新右衛門

からものやしんえもん




唐物屋甚入

からものやじんにゅう




唐物屋遊酵

からものやゆうこう




唐物屋遊水

からものやゆうすい




河井刑部

かわいぎょうぶ (寛永13年4月25日) (紀伊殿家来) ●「日記」






川井昌等
生。五兵衛
かわいまさとも
出羽守昌俊の男
寛政譜18・266
父昌俊と同じく西丸留守居番

元和3年12月 家光に付属される。小十人。100俵

寛永9年8月25日 200俵

寛永15年5月8日 土圭間番 ●「日記」共

慶安元年6月14日 新番


以下不詳
川井政信
生。喜左衛門。善兵衛
かわいまさのぶ
善兵衛政吉の男
寛政譜15・327
秀忠に仕える

元和2年9月15日 父政吉とともに徳川忠長に付属される

(寛永9年) 松平山城守忠国に召し預けられる。丹波国笹山に蟄居

寛永13年12月10日 赦免。家光に仕える

寛永13年12月10日 御赦免 ●「日記」父善兵衛政吉の没年不明

寛永15年12月1日 210石100俵

寛永18年4月16日 書院番 ●「日記」共

慶安3年9月3日 家綱に付属される。西丸に伺候

(慶安4年) 本丸に勤仕

寛文元年11月28日 弓矢鎗奉行

天和2年10月4日 弓矢鎗奉行を辞す。小普請

元禄4年7月30日 死す
川勝広有 寛永8年 生。七九郎。内記。孫四郎
かわかつひろあり
左京広尚の長男
寛政譜18・152
母は長谷川式部少輔守知の女

(正保元年5月27日) (川勝丹波守惣領内記) ●「日記」

正保元年5月27日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保3年7月6日 小姓組

慶安3年9月3日 西丸書院番


小姓組

寛文元年12月10日 祖父丹波守広綱の遺跡を継ぐ。2570石

寛文10年6月19日 本庄奉行(本所奉行?)

延宝元年9月3日 死す
川勝広氏
生。又兵衛。主水
かわかつひろうじ
丹波守広綱の次男
寛政譜18・153
母は藤懸美作守永勝の女


妻は織田兵部少輔信昌の養女

寛永15年11月21日 川勝丹波守二番目子可被召出 ●「日記」

寛永16年2月5日 はじめて家光に拝謁

寛永16年2月5日 川勝丹波守二番子樽代を以初て御目見 ●「日記」

寛永17年3月19日 書院番 ●「日記」共

寛永19年12月10日 300俵 ●「日記」共

慶安3年9月3日 西丸に伺候

(慶安4年) 本丸に勤仕

寛文元年12月10日 父広綱の遺跡分知。700石


書院番を辞す。小普請

貞享4年7月16日 死す
川勝広綱 天正7年 生。七九郎。新蔵。信濃守。丹波守
かわかつひろつな
主水正秀氏の男
寛政譜18・151
母は綾小路中納言(俊量?)の女


妻は藤懸美作守永勝の女


秀吉に仕える。200石


540石


従五位下・信濃守

慶長6年 家康に仕える。540石

慶長12年7月 父秀氏の遺跡を継ぐ。3570石

寛永8年 使番

(寛永9年7月24日) (丹波守) ●「日記」

慶安3年~ 使番を辞す。寄合

寛文元年9月12日 死す
川勝将氏 元和2年 生。市郎右衛門。(一郎兵衛)
かわかつまさうじ
太郎兵衛重氏の長男
寛政譜18・155
母は赤井市郎兵衛忠家の女

寛永9年 家光に仕える。小姓組

(寛永17年5月8日) (一郎兵衛) ●「日記」

慶安3年9月3日 西丸書院番

(慶安4年) 本丸に伺候

承応2年12月23日 父重氏の遺跡を継ぐ。700石


書院番を辞す

寛文10年1月6日 死す
川口正武 慶長元年 生。左門。長三郎
かわぐちまさたけ
長三郎近次の男
寛政譜9・391
母は青山播磨守忠成の女


妻は成毛清右衛門の女


秀忠に仕える。小姓

元和元年 500石


改易


赦免

元和5年 父近次の遺跡を継ぐ。1000石


書院番

寛永9年11月5日 書院番・進物役

寛永9年11月5日 本番御免。進物番 ●「日記」

寛永17年3月19日 死す
川口正信 元和3年 生。源兵衛。明隙
かわぐちまさのぶ
長三郎正武の長男
寛政譜9・391
母は成毛清右衛門の女


妻は青山伯耆守忠俊の女

寛永9年 はじめて家光に拝謁

寛永18年 父正武の遺跡を継ぐ。1000石

寛永18年3月1日 去年跡目被仰付之面々今日御礼申上之 ●「日記」

~正保4年 小姓組

(正保元年10月7日) (川口源兵衛番頭安藤伊賀守) ●「日記」

明暦2年7月28日 使役

明暦2年12月26日 布衣

延宝2年8月23日 使役を辞す。小普請

延宝4年12月6日 致仕。200俵。明隙と号す

貞享元年1月23日 死す
川口宗重 天正15年 生。久太郎。茂兵衛。茂右衛門
かわぐちむねしげ
久助宗勝の三男
寛政譜9・388
母は織田家臣福冨平左衛門直貞の女


妻は毛利摂津守高成の女

慶長5年 流浪。京に住す

慶長11年 秀忠に仕える。書院番

慶長17年3月 父宗勝の遺領分知。500石

元和元年 1000石

寛永9年8月18日 使番 ●「日記」共

寛永12年12月14日 2000石

寛永12年12月14日 千石御加恩 ●「日記」

寛永20年6月17日 出仕をとどめられる ●「日記」共

正保元年1月27日 ゆるされる ●「日記」共

正保4年1月12日 先鉄炮頭

慶安2年5月 先鉄炮頭を辞す

承応3年6月17日 死す
川口宗次 文禄元年 生。久助
かわぐちむねつぐ
孫作宗信の長男
寛政譜9・384
母は橋本伊賀守の女


妻は朽木兵部少輔宣綱の女

慶長19年10月 父宗信の遺跡を継ぐ。2000石。はじめて秀忠に拝謁

元和7年5月 書院番

~寛永3年 西丸に勤仕

寛永9年1月 小姓組

寛永16年7月12日 小姓組組頭

寛永16年7月12日 大久保左馬允組御小姓与組頭 ●「日記」

寛永18年1月6日 布衣 ●「日記」共

承応元年8月13日 死す
川口宗恒 寛永7年 生。辰千代。伊織。源左衛門。摂津守。摂山
かわぐちむねつね
久助宗次の長男
寛政譜9・384
母は朽木兵部少輔宣綱の女


妻は菅谷紀八郎範重の女

寛永17年2月13日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

慶安元年8月3日 書院番

承応元年12月27日 父宗次の遺跡を継ぐ。1700石

寛文3年9月3日 徒頭

寛文3年12月28日 布衣

寛文11年3月26日 目付

延宝8年3月25日 長崎奉行。2200石

貞享3年7月10日 2700石

元禄3年12月26日 従五位下・摂津守

元禄6年12月15日 町奉行

元禄11年12月1日 町奉行を辞す。寄合

元禄12年12月5日 致仕。300俵。摂山と号す

宝永元年5月8日 死す
川口宗憲 寛永5年 生。友之助。作右衛門。茂右衛門
かわぐちむねのり
茂右衛門宗重の養子。堀丹波守家臣川口権左衛門宗之の男
寛政譜9・388
母は益田大膳の女


妻は茂右衛門宗重の長女


後妻は伊丹播磨守勝長の女

寛永16年10月18日 川口茂右衛門養子如望被仰出之 ●「日記」

寛永16年11月6日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

慶安元年8月3日 小姓組

承応3年12月27日 養父宗重の遺跡を継ぐ。2000石

元禄11年12月19日 小姓組を辞す。小普請

元禄13年7月5日 致仕

元禄13年9月11日 死す
川窪信雄 慶長6年 生。主膳。左馬。越前守
かわくぼのぶお
与左衛門信俊の長男
寛政譜3・152
母は正親町中納言公仲の女


妻は高木主水正正次の養女山田十大夫重利の女

慶長17年 家康に仕える。御傍に勤仕

寛永3年 父信俊の家を継ぐ。1610石

寛永8年 使番

寛永8年 書院番組頭

寛永9年12月14日 従五位下・越前守

寛永9年12月14日 諸大夫 ●「日記」

寛永10年4月23日 2700石

寛永10年4月23日 700石御加恩 ●「日記」

寛永10年4月23日 (越前守の初出) ●「日記」

寛永15年4月25日 小姓組番頭 ●「日記」共

寛永16年3月25日 死す
川窪信次 寛永元年 生。三左衛門
かわくぼのぶつぐ
与左衛門信俊の五男
寛政譜3・158
母は正親町中納言公仲の女


妻は座光寺勘左衛門為重の女

寛永12年4月11日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永12年 小姓組。300俵


小姓組を辞す。小普請


大番

寛文12年11月22日 死す
川島茂継
生。了後。周菴。法橋
かわしましげつぐ
了後重勝の男
寛政譜17・228
妻は酒井氏

寛永7年 父重勝の遺跡を継ぐ。100俵月俸10口。奥医

寛永15年12月1日 先年被召出医師了後御切米百俵拾人扶持被下之 ●「日記」

寛永18年 300俵月俸10口

(寛永18年12月28日) (外科) ●「日記」

寛永18年12月30日 御合力米被下之 ●「日記」

寛永19年2月9日 法橋

(寛永19年4月4日) ((良甫)右之小児医師并外科之輩妻子等引越ニ付て御暇被下之) ●「日記」

(寛永19年9月5日) (若君様御医師) ●「日記」

承応2年6月4日 死す
川島茂継子





(寛永19年4月4日) ((良甫)右之小児医師并外科之輩妻子等引越ニ付て御暇被下之) ●「日記」



川島茂継妻





(寛永19年4月4日) ((良甫)右之小児医師并外科之輩妻子等引越ニ付て御暇被下之) ●「日記」



河尻鎮員
生。八郎右衛門
かわじりしげかず
惣兵衛鎮宗の長男
寛政譜20・64
母は河尻治右衛門鎮政の女


妻は斎藤金七郎政吉の女

正保元年11月13日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保2年8月5日 大番

慶安元年12月11日 父鎮宗の遺跡を継ぐ。200俵

万治2年2月11日 蔵奉行


蔵奉行を辞す。小普請

元禄7年8月24日 死す
河尻鎮宗
生。惣兵衛
かわじりしげむね
治右衛門鎮政の養子。井出権大夫の男
寛政譜20・64
妻は治右衛門鎮政の女

寛永15年5月8日 土圭間番。200俵

寛永15年5月8日 土圭之間御番 ●「日記」

慶安元年6月14日 新番

慶安元年8月29日 死す
川田貞恒 寛永7年 生。猪之助。甚兵衛。吉兵衛
かわたさだつね
吉兵衛貞則の次男
寛政譜15・92
母は村井権右衛門重友の女


妻は戸田九郎兵衛の女

正保元年11月10日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

慶安元年6月16日 家綱に付属される。三丸に勤仕

慶安3年9月4日 大番

万治2年12月25日 父貞則の遺跡を継ぐ。500俵

延宝4年3月21日 大番組頭

延宝5年閏12月25日 700俵

天和2年4月22日 900俵

貞享元年10月11日 次男貞増と三男為貞とともに松平伊予守池田綱政に召し預けられる

貞享元年11月14日 ゆるされる。大番組頭

貞享3年7月12日 西丸裏門番頭

貞享3年12月26日 布衣

元禄5年9月29日 死す
川田貞則 慶長6年 生。吉兵衛
かわたさだのり
六郎左衛門貞次の男
寛政譜15・91
母は松平十右衛門の女


妻は村井権右衛門重友の女


後妻は菅沼藤十郎定政の女

元和3年11月15日 小十人

元和4年 50俵

元和9年 100俵

寛永6年9月8日 小十人組頭

寛永6年10月23日 300俵

正保3年3月23日 三丸に勤仕

慶安3年9月4日 西丸小十人頭

(慶安4年) 本丸に勤仕

慶安4年8月16日 布衣

慶安4年11月21日 600俵

万治2年9月6日 死す
河田親重 慶長8年 生。半助
かわたちかしげ
助兵衛政親の男
寛政譜15・90 元和3年 家光に仕える。小姓

寛永10年2月2日 大番組頭。600石

寛永10年2月2日 大番組頭 ●「日記」

寛永14年11月25日 父政親の遺跡を継ぐ。1200石

寛永14年11月25日 千弐百石川田助兵衛跡実子半介自分之六百石ハ被召上之 ●「日記」

承応元年8月6日 死す
河田政親 天正9年 生。九郎次郎。助兵衛
かわたまさちか
伯耆守泰親の男
寛政譜15・90 文禄元年 家康に仕える

(文禄2年) 父泰親の遺跡を継ぐか

元和元年~ 1000石


書院番

寛永10年2月7日 1200石

寛永14年 死す
河内検校

かわちけんぎょう 寛永11年2月4日 不座 ●「日記」



川手十郎兵衛

かわてじゅうろうびょうえ


(寛永16年1月20日) (尾張亜相公使者) ●「日記」



川那部主馬
川野部とも
かわなべしゅめ
西本願寺門跡良如光円の家臣



河西親秀
生。兵九郎
かわにしちかひで
孫右衛門慶秀の男
寛政譜18・315
家康に仕える


秀忠に仕える


勘気を蒙る

(寛永15年10月17日) (葛西兵九郎) ●「日記」

寛永15年10月17日 赦免 ●「日記」共

寛永16年12月26日 300石

寛永16年12月26日 如前々御切米被下之 ●「日記」

寛永17年2月26日 如前々御知行被下之 ●「日記」

慶安2年 死す
川西房長
生。伊之助
かわにしふさなが
水野美作守に仕える
寛政譜22・281 寛永 家光に仕える。犬牽

寛永20年4月29日 御犬引川西猪之助右備後鞆より妻子引越付て銀弐十枚被下之―


―伊豆守申渡之 ●「日記」

(慶安3年) 死す
川野辺十左衛門
川那辺とも
かわのべじゅうざえもん
東本願寺門跡宣如光従に仕える

(寛永15年9月28日) (東本願寺門跡のあとに御目見) ●「日記」



川場左衛門
河端通春か
かわばさえもん (寛永11年7月21日) (地下) ●「日記」






河端直益 文禄4年 生。右近衛将監。泰菴。順菴。はじめ速水を称す
かわばたなおます
右兵衛大尉通久の嗣。速水安芸守良益の男
地下家伝中・923 慶長11年4月22日 従五位下
宮廷公家系図集覧608 慶長18年10月19日 右近衛将監

元和2年1月5日 従五位上

寛永4年11月3日 正五位下

(寛永16年4月1日) (北面之内速水右近) ●「日記」

寛永20年 院宣により河端家を相続

承応2年12月18日 落飾。泰菴と号す


順菴と号す

寛文7年12月12日
河端通春 慶長12年 生。右衛門志
かわばたみちはる
隼人正通氏の男
地下家伝中・980 慶長19年1月5日 従五位下。右衛門志
宮廷公家系図集覧608 (寛永11年7月21日) (川場左衛門) ●「日記」

寛永20年1月25日
河鰭基秀 慶長11年 生。侍従。少将。中将。寿観
かわばたもとひで
右兵衛佐公虎の嗣。持明院左中将基久の次男
諸家伝上・231 慶長16年12月30日 従五位下
宮廷公家系図集覧282 慶長19年2月16日 元服。昇殿。侍従

元和2年1月5日 従五位上

元和6年1月5日 正五位下

元和7年1月11日 右少将

寛永2年1月5日 従四位下

寛永5年2月10日 右中将

寛永6年1月5日 従四位上

寛永10年1月6日 正四位下

寛永15年1月5日 従三位

寛永16年4月1日 去年依属御加恩御礼 ●「日記」

寛永19年1月5日 正三位

寛文3年11月10日 出家。寿観と号す

寛文4年2月11日 薨去
河平豊後

かわひらぶんご
商人か? 職人か?






河村久兵衛

かわむらきゅうびょうえ
書院番与力

寛永20年5月30日 今日御書院番之当番水野石見守今度御暇被下知行所え相越付て―


―新庄美作守添番勤仕之然処ニ石見守与力河村久兵衛丹羽弥右衛門―


―御玄関之前於御番所次間弁当ヲ給之時久兵衛狂気ニて弥右衛門ヲ―


―討之三ヶ所疵付相番三人未タ表ニ相詰有之騒動ヲ聞テ打合右両人ヲ―


―引分之節久兵衛自殺相番之輩ニ時之口又日来意趣有之哉之由―


―御目付之面々被尋之聊無意恨云々 ●「日記」



河村重勝
生。善右衛門
かわむらしげかつ
善七郎重信の男
寛政譜13・371
妻は三宅源右衛門是親の女

~慶長19年 秀忠に仕える

元和3年 家光に仕える。大番


500石


大番組頭

(寛永10年6月1日) (皆川志摩守与) ●「日記」

明暦3年6月28日 死す
河村重次
生。善七郎
かわむらしげつぐ
善右衛門重勝の長男
寛政譜13・371
母は三宅源右衛門是親の女


妻は石丸六兵衛定政の女

寛永10年6月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永13年12月27日 大番 ●「日記」共

寛永15年10月24日 書院番 ●「日記」共

慶安元年5月21日 書院番・進物役

(明暦3年) 父重勝の遺跡を継ぐ。500石


書院番を辞す。小普請

宝永3年8月16日 死す
川村重久 (天正4年) 生。善次郎
かわむらしげひさ
善右衛門重忠の名跡を継ぐ。大石豊後長次の男
寛政譜13・376
母は善右衛門重忠の女岡部局


妻は板倉伊賀守勝重の女

天正16年8月3日 秀忠に付属される

天正17年2月5日 200石

文禄2年7月11日 300石

文禄2年 500石

文禄4年 小姓。外祖父重忠の名跡を継ぐ。河村を称す


徒頭

慶長10年 布衣

慶長10年 1000石

慶長13年 家光の守役

元和2年 1300石

寛永9年12月27日 節分にて奥方年男 ●「日記」

寛永12年8月25日 死す
河村主馬

かわむらしゅめ
一条昭良に仕える

(寛永16年4月1日) (一条殿家来) ●「日記」



河村甚右衛門
生。善五郎。甚右衛門
かわむらじんえもん
善右衛門重勝の三男
寛政譜13・371
母は三宅源右衛門是親の女

正保元年6月4日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共


家光に仕える

某年 死す
河村与惣右衛門
寛政譜7・294木村家譜中に記載あり
かわむらよそえもん
元和元年頃まで入木山及び淀過書船を支配か






河村六右衛門

かわむらろくえもん


(寛永19年5月22日) (御歩行目付) ●「日記」



河原弾正

かわらだんじょう
東福門院に仕えるか

(寛永13年6月28日) (従国母様為御使河原弾正参候付以進物御目見) ●「日記」



河原半右衛門

かわらはんえもん
東福門院に仕える

(寛永18年8月19日) (国母様御使) ●「日記」



河原半之允

かわらはんのじょう


寛永20年5月27日 国母様え被為付之 ●「日記」



瓦屋三郎兵衛
瓦屋
かわらやさぶろうびょうえ







寛永寺
江戸上野。東叡山
かんえいじ 寛永2年 開山南光坊天海
寛永寺の成り立ちと歩み (寛永20年) 2世毘沙門堂門跡公海
(寛永寺冊子) 承応3年 3世守澄法親王






神尾高久 寛永2年 生。小左衛門
かんおたかひさ
勝左衛門保重の男
寛政譜16・230 寛永13年12月15日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永16年 右筆

寛永16年12月13日 御切米被下之 ●「日記」

寛文11年12月12日 父保重の遺跡を継ぐ。400石

延宝4年8月28日 右筆を辞す

貞享元年12月18日 致仕

貞享2年3月3日 死す
神尾長次 慶長4年 生。権十郎
かんおながつぐ
助六郎長定の次男
寛政譜16・229
妻は松平上総介家臣松平善兵衛の女

元和3年2月 秀忠に仕える。納戸番。100俵

寛永18年8月9日 家綱に付属される

寛永18年8月9日 若君様為御奉公人御納戸方ニ被付 ●「日記」

(慶安4年) 本丸に勤仕

明暦3年12月25日 100俵月俸10口

寛文元年12月12日 200俵

寛文7年5月 納戸番を辞す。小普請

貞享元年9月28日 死す
神尾元勝 天正17年 生。内記。備前守。宗休
かんおもとかつ
家康の侍女阿茶局神尾孫左衛門忠重の妻の養子
寛政譜16・218
松平周防守家臣岡田竹右衛門元次の男
柳営婦女伝系
母は岡部丹波守の女
(徳川諸家系譜1・184)
妻は阿茶局の養女飯田又左衛門の女

慶長11年 はじめて秀忠に拝謁

~元和元年 書院番

元和2年9月15日 家光に付属される


小姓組

寛永7年1月14日 使番


800石

寛永9年10月3日 作事奉行 ●「日記」共

寛永10年12月28日 1800石

寛永10年12月28日 千石御加恩 ●「日記」

寛永11年5月18日 長崎奉行

寛永11年5月18日 長崎町奉行 ●「日記」

寛永15年5月16日 町奉行 ●「日記」共

寛永15年12月21日 従五位下・備前守

寛永15年12月21日 諸大夫 ●「日記」

(寛永15年12月28日) (備前守の初出) ●「日記」

寛文元年3月8日 町奉行を辞す

寛文2年12月12日 致仕。800俵。宗休と号す

寛文7年4月25日 死す
神尾元清 寛永4年 生。権十郎。内膳。市左衛門。備前守。宗円
かんおもときよ
備前守元勝の次男
寛政譜16・221
母は阿茶局の養女飯田又左衛門の女


妻は松平豊前守勝義の次女

寛永12年8月15日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

(寛永17年5月8日) (内膳の初出) ●「日記」

寛永20年11月15日 家綱に付属される。小姓

寛永20年11月15日 備前守二番子神尾内記若公様御奉公可令仕 ●「日記」

慶安3年9月4日 徒頭。500俵


西丸に伺候

慶安4年 本丸に勤仕

慶安4年8月16日 布衣

慶安4年11月21日 800俵

寛文2年12月12日 兄若狭守元珍の旧領分知。1000石

寛文11年1月26日 新番頭

天和2年4月21日 1700石

元禄7年4月14日 大目付

元禄7年12月18日 従五位下・備前守

元禄12年4月5日 大目付を辞す。寄合

元禄14年12月12日 致仕。500石。宗円と号す

宝永4年9月6日 死す
神尾元珍 元和2年 生。内匠。主水。若狭守。紹元
かんおもとはる
備前守元勝の長男
寛政譜16・219
母は阿茶局の養女飯田又左衛門の女


妻は織田大和守尚長の女

寛永元年8月 はじめて家光に拝謁

寛永9年4月 小姓組

寛永9年6月4日 中奥に伺候 ●「日記」共

寛永9年6月6日 小姓

寛永9年12月3日 300俵 ●「日記」共

(寛永9年12月3日) (主水初出) ●「日記」

寛永11年1月13日 600俵

寛永11年1月13日 三百表御加恩 ●「日記」

寛永15年12月30日 中奥に伺候。1000石

寛永15年12月30日 御知行千石被下之於御表向御奉公可仕 ●「日記」

承応元年4月19日 従五位下・若狭守

寛文2年12月12日 父元勝の家を継ぐ。1800石

寛文3年11月25日 使番

延宝5年12月19日 作事奉行

天和2年4月21日 2500石

貞享2年2月6日 作事奉行を辞す。寄合

貞享3年7月9日 致仕。1000俵。紹元と号す

貞享4年11月20日 死す
神尾守勝 慶長4年 生。猪之助。宮内少輔
かんおもりかつ
刑部少輔守世の長男
寛政譜16・214
母は松平紀伊守家臣尾関権右衛門定綱の女


妻は本多藤四郎の女


後妻は星合采女正具泰の女


また後妻は徳山五兵衛直政の女

慶長17年 秀忠に仕える。小姓

元和元年6月19日 従五位下・宮内少輔。1000石

寛永10年2月19日 宇治茶詰 ●「日記」

寛永10年11月30日 父守世の遺跡を継ぐ。3010石

寛永10年11月30日 (跡目) ●「日記」

寛永11年2月22日 継目之御礼 ●「日記」


徒頭

(寛永13年5月9日) (徒頭坪内半三郎定次と同役) ●「日記」

寛永16年5月13日 徒頭を辞す

寛永16年5月13日 依為病者御役御免云々 ●「日記」

明暦元年2月19日 死す
神尾守勝長女
寛政譜16・215
神尾宮内少輔守勝の長女

寛永15年6月21日 縁辺組被仰付面々神尾宮内少輔娘荻田隼人 ●「日記」


松平越後守家臣萩田隼人に嫁ぐ


以下不詳
神尾守重 慶長15年 生。豊前守
かんおもりしげ
刑部少輔守世の次男
寛政譜16・216
母は松平紀伊守家臣尾関権右衛門定綱の女


妻は藤堂将監嘉以の女


家光に仕える。小姓。膳番

寛永8年11月3日 従五位下・豊前守


書院番

寛永10年11月30日 1000石

寛永11年2月22日 継目之御礼 ●「日記」

寛永14年4月9日 死す
神尾守正
生。大膳。弥五兵衛
かんおもりまさ
豊前守守重の養子。神尾宮内少輔守勝の五男
寛政譜16・216
母は星合采女正具泰の女


妻は菅沼藤十郎定政の女

寛永15年12月25日 命により豊前守守重の遺跡を継ぐ。500石

寛永15年12月25日 神尾豊前跡千石之内五百石養子ニ被下之 ●「日記」

寛永16年1月28日 はじめて家光に拝謁

寛永16年1月28日 神尾豊前守死去ニ付て跡目被仰付面々御礼 ●「日記」


書院番

寛文10年8月27日 死す
神尾守政 元和8年 生。甚三郎。大学。弥右衛門。下総守。伊予守。円止
かんおもりまさ
刑部少輔守世の三男
寛政譜16・217
母は松平紀伊守家臣尾関権右衛門定綱の女


妻は森次郎兵衛重継の女


後妻は松倉長門守家臣松倉五兵衛道久の女

寛永5年 はじめて秀忠に拝謁

寛永10年11月30日 500石

寛永11年2月22日 継目之御礼 ●「日記」

(寛永16年6月22日) (弥右衛門の初出) ●「日記」

寛永16年6月22日 小姓組

延宝元年9月18日 明正院に付属される。1000石

延宝元年12月16日 従五位下・下総守

元禄元年6月25日 務をゆるされる。小普請

元禄10年7月6日 致仕。円止と号す

元禄11年6月7日 死す
神尾守世 天正2年 生。五兵衛。刑部少輔
かんおもりよ
孫左衛門忠重の長男
寛政譜16・214
母は飯田筑後の女阿茶局


妻は松平紀伊守家臣尾関権右衛門定綱の女

天正11年 秀忠に仕える。小姓

元和元年1月27日 焼火間番頭。従五位下・刑部少輔。3010石

寛永2年 焼火間番頭を辞す。寄合。夜話に伺候

寛永10年8月24日 死す
神尾守好 寛永4年 生。猪之助。主馬。五郎大夫
かんおもりよし
宮内少輔守勝の長男
寛政譜16・215
母は本多藤四郎の女


妻は大関土佐守高増の女


後妻は戸田相模守氏好の女

正保元年6月16日 書院番 ●「日記」共

(明暦元年) 父守勝の遺跡を継ぐ。2710石

寛文9年~ 書院番を辞す。小普請

元禄15年6月23日 致仕

元禄16年4月14日 死す
神尾保重
生。勝左衛門
かんおやすしげ
勝左衛門房成の男
寛政譜16・230 (慶長13年) 父房成の遺跡を継ぐか。300俵

慶長14年 はじめて秀忠に拝謁

元和4年 家光に仕える。右筆


400石

寛文6年8月21日 右筆を辞す。小普請

寛文11年8月29日 死す
神尾幸綱 慶長19年 生。勘兵衛
かんおゆきつな
猪兵衛幸政の次男
寛政譜11・20
母は豊臣家臣平塚山城守の女


妻は八木次郎右衛門重朋の女

寛永13年11月24日 父幸政の遺跡を継ぐ。400俵

寛永13年11月24日 神尾伊兵衛四百俵子勘兵衛跡目被仰付之 ●「日記」

寛永13年12月21日 はじめて家光に拝謁

寛永13年12月21日 跡目之面々(御目見) ●「日記」

寛永13年12月27日 大番 ●「日記」共

寛永20年8月8日 新番

寛永20年8月8日 於土圭之間御番相詰其上方々御成之刻御先え参御殿御番等可相勤之旨―


―被仰付之由伊豆豊後列座有之民部少輔伝之玉虫八左衛門組 ●「日記」

慶安元年3月30日 新番組頭

慶安4年11月21日 600俵

寛文8年2月13日 新番組頭を辞す。小普請

寛文8年5月15日 死す
神尾幸政 (天正17年) 生。猪兵衛。はじめ堀田を称す
かんおゆきまさ
堀田立菴の養子。堀田庄九郎の次男。
寛政譜11・19
母は今川家臣神尾長五郎久吉の女


妻は豊臣家臣平塚山城守の女

文禄・慶長 朝鮮の役にて父庄九郎が討死

慶長15年 大番

(慶長16年) 兄立菴の遺跡を継ぐ。(140石)

寛永2年12月11日 140石


200俵

(寛永9年7月5日) (神尾猪太夫) ●「日記」

寛永9年7月5日 定普請奉行。400俵

寛永9年7月5日 定普請奉行 ●「日記」

(寛永9年10月7日) (神尾伊兵衛) ●「日記」

寛永9年10月7日 同心3人 ●「日記」

(寛永10年6月9日) (破損奉行) ●「日記」

(寛永13年3月27日) 死す
寛海 天正19年 生。勧修寺門跡。大僧正
かんかい
花山院左大臣定熈の三男
諸門跡譜
一条関白内基の養子となる
(群書系図部集1・168)
勧修寺門跡
宮廷公家系図集覧325
大僧正

慶安4年8月2日 東寺長者

万治2年12月13日 遷化
歓喜院
生。乾殿。於尉
かんきいん
吉田甚兵衛の姉
御系譜 寛永2年7月29日 徳川光友を産む
(徳川諸家系譜2・200) 寛永11年2月12日 逝去



韓作

かんさく
功雲寺住持

寛永8年3月25日 大中寺住持 ●「日記」



間周

かんしゅう


(寛永17年3月9日) (知足院弟子) ●「日記」



岸順

がんじゅん


正保元年3月9日 宇治被遣 ●「日記」



寒松院

かんしょういん
東叡山東照社別当



観世重次 慶長4年 生。万吉。左吉。与左衛門。はじめ金春を称す
かんぜしげつぐ
金春(観世)又右衛門重家の長男
能楽史話371
太鼓方観世家7代目

慶長12年 家康に仕える

慶長19年 家康の命により観世に改称


将軍の命により与左衛門と称す

(正保元年1月28日) (与左衛門の初出) ●「日記」

万治元年9月4日 死す
観世重照
生。三郎兵衛
かんぜしげてる
与左衛門重次の男
能楽史話372 寛永13年2月1日 観世左吉子御目見 ●「日記」



観世重成 天正19年 生。三十郎。左近。観世大夫。似閑斎安休
かんぜしげなり
観世大夫左近身愛の次男
能楽史話258 万治元年6月9日 死す



観世重広 寛永3年 生。権八郎。左吉
かんぜしげひろ
与左衛門重次の養子。観世大夫左近重成の次男
能楽史話258
太鼓方か

寛永13年2月1日 観世左吉子御目見 ●「日記」

延宝7年11月30日 死す
観世重行 寛永元年 生。三十郎
かんぜしげゆき
観世大夫左近重成の長男
能楽史話258 慶安3年7月16日 死す



観世元興
生。彦三郎
かんぜもとおき
庄二郎重政の嗣
能楽史話356 (寛永13年1月2日) (大鼓) ●「日記」



神田正重 天正17年 生。平四郎。孫兵衛
かんだまさしげ
与兵衛正俊の男
寛政譜9・327
妻は青木久左衛門義精の女

寛永2年 秀忠に仕える。200石。花畑の番士

寛永10年2月7日 400石。大番

寛永14年9月18日 弓矢鎗奉行 ●「日記」共


弓矢鎗奉行を辞す。小普請

寛文3年1月5日 死す
神田正次 慶長11年 生。三右衛門
かんだまさつぐ
孫六郎正胤の男
寛政譜9・329 元和9年 家光に仕える。小十人


100俵

寛永9年8月25日 200俵

寛永19年12月6日 納戸番 ●「日記」共

承応元年2月13日 納戸番組頭

寛文元年12月12日 300俵

天和2年4月22日 400俵

天和3年8月10日 納戸番組頭を辞す。小普請

元禄4年7月11日 死す
神田明神
江戸
かんだみょうじん




甘棠院
武蔵国久喜。臨済宗
かんとういん




関東之談義所
関東の浄土宗僧の学問所18ヵ寺
かんとうのだんぎしょ




神門寺
出雲国。浄土宗
かんどじ




菅式部

かんのしきぶ
後水尾天皇付女房

(寛永17年5月26日) (仙洞) ●「日記」



観音寺(近江)
近江国
かんのんじ (寛永12年1月21日) (江州永原御代官) ●「日記」

寛永12年1月21日 跡式相続之御礼 ●「日記」



観音寺(甲斐)
甲斐国。臨済宗
かんのんじ


寛永19年7月6日 御朱印被下之 ●「日記」



観音寺式部卿

かんのんじしきぶきょう
近江国永原代官観音寺の弟子

寛永16年5月5日 観音寺弟子式部卿初て御目見 ●「日記」



上林勝盛 文禄3年 生。又二郎。掃部丞。峯順
かんばやしかつもり
徳順勝永の長男
寛政譜19・138
母は千利休宗易の養女


妻は摂津国常蓮寺氏

元和2年 父勝永の遺跡を継ぐ。山城国宇治郷490石。代官。製茶を務める

元和3年8月28日 夫役免許

寛永10年3月 宅地にて茶壷庫を経営

(寛永18年1月6日) (宇治茶師) ●「日記」

明暦2年4月7日 死す
上林政次 元和7年 生。又五郎。又兵衛。竹庵
かんばやしまさつぐ
竹庵政信の長男
寛政譜19・140
母は杉田新兵衛友政の女


妻は武田道安信重の女

寛永19年11月5日 父政信の遺跡を継ぐ。代官。製茶。300石

寛永19年11月5日 上林竹庵跡是又子竹庵被仰付之 ●「日記」

寛永19年11月15日 はじめて家光に拝謁

明暦2年7月28日 死す
上林政信
生。又市。又兵衛。竹庵
かんばやしまさのぶ
竹庵政重の次男
寛政譜19・139
母は杉田新兵衛忠政の女


妻は杉田新兵衛友政の女

慶長5年 父政重が伏見城にて戦死。高野山に隠れる

慶長5年 家康に拝謁


代官。製茶のことをうけたまわる。(100石)

慶長19年 大坂の役にて賄をつとめる

元和元年 大坂の役にて賄をつとめる

元和元年 300石

寛永19年7月22日 死す
上林味卜(3)
生。味卜
かんばやしみぼく
二代目味卜の男。初代は寛政譜19・138の味卜紹喜
上林味卜家文書6 正保元年 父味卜(2)の遺跡を継ぐか。宇治茶師

元禄3年11月 死す
咸甫

かんほ
小田原石垣普請の検地不正を訴える ●「日記」

寛永12年12月5日 搆私欲三郎右衛門迠引出之致申事曲事被思召付―


―江戸中被為払也 ●「日記」



還無 天正7年 生。弁蓮社業誉上人空脱還無大和尚
かんむ
江戸の人
三縁山志
禅宗に入る
(浄土宗全書19・481)
幡随上人に学ぶ
鎌倉光明寺志 元和7年 結城弘経寺13世
(浄土宗全書19・627) 寛永15年 鎌倉光明寺33世
結城弘経寺志 寛永17年12月 増上寺21世
(浄土宗全書20・133) 寛永17年12月2日 鎌倉光明寺還無増上寺住持職被仰付之 ●「日記」

慶安3年6月20日 遷化
観竜
生。登蓮社覚誉
かんりゅう

舘林善導寺志
館林善導寺7世
(浄土宗全書20・197)




甘露寺
遠江国浜松。臨済宗
かんろじ
駿河国。曹洞宗






甘露寺嗣長 慶長16年8月2日 生。左衛門権佐。弁。蔵人。蔵人頭。参議
かんろじつぐなが
兄頭弁時長(中川貞秀の次男)の嗣
諸家伝上・573
正親町三条中納言公仲の長男中川貞秀の三男
宮廷公家系図集覧403 元和9年2月13日 従五位下

寛永6年9月23日 元服

寛永10年12月26日 従五位上。左衛門権佐

寛永11年7月14日 継目之御礼 ●「日記」

寛永13年1月5日 正五位下

寛永19年1月21日 権右少弁。左衛門権佐を去る

寛永19年7月16日 蔵人

寛永19年7月25日 正五位上。禁色

寛永20年10月16日 右少弁

正保元年12月26日 左少弁

正保2年12月28日 右中弁

正保3年12月21日 従四位下

正保4年2月9日 従四位上

正保4年10月22日 正四位下

正保4年12月28日 蔵人頭

正保4年12月30日 左中弁

慶安元年1月5日 正四位上

慶安2年1月3日 右大弁

慶安2年7月17日 参議。右大弁

慶安2年10月4日 病により参議・右大弁を辞す

慶安3年2月9日 薨去
喜入休右衛門

きいれきゅうえもん
松平大隅守嶋津光久に仕える

(寛永15年5月13日) (松平薩摩守家老) ●「日記」



木嬰
父嬰?
きえい
加賀・能登国の漁師



生織
生織物職人か
きおり
有識の誤りか



輝岳宗暾

きがくそうとん
妙心寺131世
禅宗辞典17 寛永18年4月7日 長老なりの御礼 ●「日記」



菊岡検校

きくおかけんぎょう 寛永11年2月4日 不座 ●「日記」



菊間八幡
上総国市原菊間
きくまはちまん




喜見院
江戸湯島天神別当。天台宗
きけんいん


(寛永15年1月20日) (油島天神別当喜見院) ●「日記」



きさ



九条道房女房

(寛永17年5月26日) (九条内府御内) ●「日記」



岸五郎八

きしごろはち


寛永15年10月24日 大御番 ●「日記」



貴志忠秋 寛永3年 生。五郎。庄之助。甚右衛門。孫大夫。快山
きしただあき
弥兵衛正勝の長男
寛政譜10・401
母は山本佐大夫の女


妻は山田市兵衛直勝の女

寛永19年6月26日 大番 ●「日記」共

正保元年12月25日 弐百俵 ●「日記」

慶安元年6月14日 新番

貞享2年12月15日 父正勝の遺跡を継ぐ。300石200俵

貞享3年7月12日 広敷番頭

元禄7年8月12日 西丸裏門番頭

元禄7年12月18日 布衣

元禄10年7月26日 500石

元禄15年4月30日 務を辞す。寄合

元禄15年12月18日 致仕。快山と号す

宝永元年12月6日 死す
貴志正勝 慶長9年 生。三郎五郎。弥兵衛
きしまさかつ
弥兵衛正吉の次男
寛政譜10・401
妻は山本佐大夫の女

元和9年 家光に仕える。小十人。100俵10口

寛永9年11月5日 鉄炮薬込役 ●「日記」共


300石

慶安3年8月27日 閉門

慶安3年10月19日 ゆるされる

慶安4年 日光山へ家光の霊柩に供奉

承応元年9月29日 新番

寛文2年3月10日 新番組頭

寛文2年12月22日 300石200俵

延宝7年4月27日 新番組頭を辞す。小普請

貞享2年12月3日 死す
木嶋新五郎

きじましんごろう


(寛永19年7月8日) (浅草御城米手代) ●「日記」

(寛永19年7月8日) (黒田二郎左衛門手代) ●「日記」

寛永19年7月8日 斬罪 ●「日記」
木嶋新五郎子





寛永19年7月8日 木嶋新五郎男子三人壱人十一壱人七壱人五是ハ堀田加賀守領分―


―上野国いたはなノ町ニ有之付て於彼地可為死罪由―


―老中直加賀守相返之 ●「日記」
喜春

きしゅん


(正保元年) 死す

(正保元年12月25日) (民部少支配方) ●「日記」朽木民部少輔支配
喜春惣領



喜春の男

正保元年12月25日 跡目被仰付五拾俵喜春惣領ニ被下之 ●「日記」



木瀬勘解由

きせかげゆ
近衛信尋に仕える



義尊 慶長6年 生。実相院門跡。
ぎそん
足利義尋高山の男
群書系図部集2・309
母は古市播磨守胤栄の女三位局
群書系図部集1・183
実相院門跡

正保元年9月1日 実相院門跡寺務職勅許之為御礼以使者進物被献之 ●「日記」

寛文元年1月14日 遷化
喜多院
武蔵国仙波喜多院か? 天台宗
きたいん
興福寺喜多院か?






喜多長能 天正14年 生。亀丸。八之丞。六平太。左京。七大夫
きたおさよし
和泉国堺の目医者内堀道春の三男
能楽史話288
妻は金春大夫八郎安照の女


大坂の役にて豊臣方


筑前国にて黒田長政の保護を受ける

元和4年 秀忠に仕える

承応2年1月7日 死す
北川三左衛門

きたがわさんざえもん


寛永16年9月19日 千代姫君様へ被為付之御台所衆弐人六十俵宛之御加恩合百俵―


―同弐人十三俵宛之御加増都合四十俵右御台所衆之内―


―北川三左衛門唯今迠取来御切米御扶持方実子ニ被下之 ●「日記」



北川三左衛門子





寛永16年9月19日 千代姫君様へ被為付之御台所衆弐人六十俵宛之御加恩合百俵―


―同弐人十三俵宛之御加増都合四十俵右御台所衆之内―


―北川三左衛門唯今迠取来御切米御扶持方実子ニ被下之 ●「日記」



木滝主殿

きたきとのも
能見松平丹後守重直に仕える

(寛永16年8月10日) (松平丹後守家老) ●「日記」



北小路宮内

きたこうじくない


(寛永18年4月27日) (二条殿使者) ●「日記」



北主馬助

きたしゅめのすけ


(寛永18年3月27日) (南部山城守家中証人) ●「日記」



喜多大八郎

きただいはちろう
能役者












喜多直能
生。右近。左京。寿硯
きたなおよし
七大夫長能の長男
能楽史話288
退身して京都に居住

天和2年7月22日 死す
北野天満宮
京都北野
きたのてんまんぐう




北野松梅院
京都北野。天台宗
―しょうばいいん
北野天満宮の社僧(神官)を務めた三院の一つ

寛永19年8月15日 入院之御礼 ●「日記」



北野徳勝院
京都北野。天台宗
―とくしょういん
北野天満宮の社僧(神官)を務めた三院の一つ



北之坊

きたのぼう
天台僧か

(寛永17年4月19日) (日光山法会に着座) ●「日記」



喜多当能
生。十大夫。乗本
きたまさよし
七大夫長能の四男
能楽史話289 承応2年 父長能の遺跡を継ぐ

寛文5年5月3日 演能のとき頓死
喜多見重勝 慶長9年 生。久大夫
きたみしげかつ
若狭守勝忠の三男
寛政譜9・164
妻は堀田勘左衛門正吉の女

元和4年 はじめて秀忠に拝謁

元和6年 手水番

寛永元年 小姓組

(寛永4年) 父勝忠の遺跡分知。1000石

寛永8年4月10日 小納戸

寛永8年4月10日 奥にて召し使われる ●「日記」

寛永8年4月10日 (北見) ●「日記」

寛永9年 書院番

寛永9年7月5日 徒頭 ●「日記」共

(寛永9年8月6日) (喜多見) ●「日記」

寛永10年 布衣

寛永10年12月27日 1500石

寛永10年12月27日 五百石御加増 ●「日記」

(寛永13年12月13日) (布衣) ●「日記」

寛永15年5月8日 目付 ●「日記」共

万治元年8月28日 目付をゆるされる。寄合

天和3年12月21日 致仕

某年 死す
喜多見重恒
生。半三郎。五郎左衛門
きたみしげつね
若狭守勝忠の次男
寛政譜9・163
妻は本多太郎左衛門信勝の女

慶長13年 はじめて秀忠に拝謁

慶長19年 大坂の役に供奉

元和元年 大坂の役に供奉


手水番

元和9年9月18日 勘気を蒙る

寛永2年6月17日 赦免

寛永2年7月1日 書院番

(寛永4年) 父勝忠の遺跡を継ぐ。1000石

万治2年7月25日 普請奉行

万治2年12月28日 布衣

寛文10年4月21日 普請奉行をゆるされる

寛文12年5月14日 致仕

延宝7年6月21日 死す
北見長七郎
または長十郎か
きたみちょうしちろう
孫右衛門(2)のことか? もしくはその兄弟子供か

寛永19年7月8日 長七郎手代の子二人が死罪か ●「日記」



北見孫右衛門(1)
生。孫右衛門
きたみまごえもん
家光に仕える。蔵奉行
寛政譜22・361 寛永18年 死す



北見孫右衛門(2)
生。長五郎。孫右衛門
きたみまごえもん
孫右衛門(1)の男
寛政譜22・361 寛永18年12月4日 父孫右衛門の遺跡を継ぐ。100俵。月俸2口

寛永18年12月4日 百俵ニ二人扶持御蔵奉行北見孫右衛門跡右惣領長五郎ニ被下之 ●「日記」


蔵奉行

寛永19年5月22日 松平万助忠倶に召し預けられる

寛永19年5月22日 水野監物え御預 ●「日記」


以下不詳
北村筑後
宗円か? 地下家伝中・1611
きたむらちくご
三宝院門跡覚定の家臣



北村主殿頭

きたむらとのものかみ


(寛永17年5月9日) (鷹司太閤内) ●「日記」



吉祥寺
江戸。曹洞宗
きちじょうじ


寛永16年12月5日 酉下刻吉祥寺江湖部屋焼失云々 ●「日記」



吉川広正 慶長6年2月17日 生。又二郎。佐介。美濃守。内蔵助
きっかわひろまさ
蔵人頭広家の長男
吉川広家講演集巻末
母は若林氏


室は羽柴中納言毛利輝元の女

元和2年 父広家の遺領を継ぐ。周防国岩国城3万石

元和2年7月 婚姻あり

寛文6年5月
喜連川尊信 元和5年 生。竜千代丸。右兵衛督
きつれがわたかのぶ
河内守義親の男
寛政譜2・121
母は榊原式部大輔康政の養女康政の妾花房氏の姪


室は那須左京大夫資景の女

寛永7年 祖父左馬頭頼氏の遺領を継ぐ。4500石

寛永15年6月21日 縁辺組被仰付面々那須美濃守妹喜連川右兵衛 ●「日記」

慶安元年12月22日 厳命により致仕

承応2年3月17日
城戸坊

きどぼう
大乗院門跡の坊官か



木内蕃久
生。忠左衛門
きのうちしげひさ
忠左衛門蕃正の男
寛政譜15・230 寛永16年 家光に仕える

寛永18年11月15日 父蕃正の本知の如く80石50俵を賜る。天守番

寛永18年11月15日 芦田武川衆十八人駿州ニて之本知并御切米如前々被下之 ●「日記」

延宝2年2月27日 致仕

貞享2年4月26日 死す
木下主馬

きのしたしゅめ
紀伊家臣



木下利貞 寛永4年 生。熊之助。兵部。淡路守
きのしたとしさだ
淡路守利当の長男
寛政譜18・139
母は木下右衛門大夫延俊の女


室は金森出雲守重頼の女

寛永19年9月1日 はじめて家光に拝謁

寛永19年9月1日 捧進物御礼 ●「日記」

寛文2年2月24日 父利当の遺領を継ぐ。備中国足守2万5000石

寛文3年12月28日 従五位下・淡路守

延宝7年4月16日
木下利次 慶長12年 生。長橘丸。左近。民部
きのしたとしつぐ
宮内少輔利房の次男
寛政譜18・142
母は進藤三右衛門正次の女


妻は向井将監忠勝の養女水野佐渡守忠直の女


幼少より秀吉の政所高台院に養われる

元和9年7月 はじめて秀忠・家光に拝謁。高台院の養子となる

寛永3年 近江国3000石

寛永11年~ 寄合

貞享4年7月10日 致仕

元禄2年1月13日 死す
木下俊治 慶長19年 生。文蔵。左兵衛。伊賀守
きのしたとしはる
右衛門大夫延俊の三男
寛政譜18・144
室は松平主殿頭忠利の女


継室は西尾丹後守忠永の女

寛永10年7月2日 室と縁組 ●「日記」

寛永19年5月9日 父延俊の遺領を継ぐ。豊後国日出城2万5000石

寛永19年5月9日 木下右衛門大夫跡三万石之内弐万五千石惣領左兵衛―


―五千石二男縫殿助被下之 ●「日記」

寛永19年6月1日 はじめて家光に拝謁

寛永19年6月1日 継目之御礼 ●「日記」

寛永20年9月27日 火消 ●「日記」

寛永20年12月29日 従五位下・伊賀守

寛永20年12月29日 諸大夫 ●「日記」

(正保元年2月15日) (伊賀守の初出) ●「日記」

寛文元年4月3日
木下利房 天正元年 生。宮内少輔
きのしたとしふさ
肥後守家定の次男
寛政譜18・138
母は杉原七郎左衛門家次の女


室は織田上野介信包の女


継室は進藤三右衛門正次の女


秀吉に仕える


若狭国高浜城2万石


従五位下・宮内少輔

慶長5年 改易

慶長13年 兄勝俊とともに父家定の遺領を継ぐ。備中国2万5000石

慶長14年9月27日 改易

元和元年 備中国足守2万5000石

寛永14年6月21日
木下利当 慶長8年 生。熊之助。淡路守
きのしたとしまさ
宮内少輔利房の長男
寛政譜18・139
室は木下右衛門大夫延俊の女

慶長18年 はじめて家康に拝謁

元和3年 秀忠に仕える

寛永3年8月19日 従五位下・淡路守

(寛永12年6月30日) (父利房名代か既に当主か) ●「日記」

寛永14年9月8日 父利房の遺領を継ぐ。備中国足守2万5000石

寛永14年9月8日 遺跡被仰付木下宮内大輔惣領淡路守 ●「日記」

寛永14年12月26日 去比亡父之遺跡雖被仰付御不例ニ付継目之御礼未申上依之―


―今日太刀目録并亡父之遺物献之各対謁老中て退去 ●「日記」

寛文元年12月28日
木下利当母


寛永13年5月1日 袷三ツ 母義引越ニ付て 木下淡路守(御礼) ●「日記」






木下延次 慶長15年 生。八蔵。縫殿助
きのしたのぶつぐ
右衛門大夫延俊の四男
寛政譜18・147
妻は大久保加賀守忠常の養女(加賀守忠職養女里見安房守忠義女か)


後妻は小浜民部丞嘉隆の女

寛永11年7月28日 御目見 ●「日記」

寛永19年5月9日 父延俊の遺領分知。豊後国鳥越5000石。寄合

寛永19年5月9日 木下右衛門大夫跡三万石之内弐万五千石惣領左兵衛―


―五千石二男縫殿助被下之 ●「日記」

寛永19年6月1日 はじめて家光に拝謁

寛永19年6月1日 継目之御礼 ●「日記」

万治元年7月6日 死す
木下延俊 天正5年 生。長助。右衛門大夫
きのしたのぶとし
肥後守家定の三男
寛政譜18・144
母は杉原七郎左衛門家次の女


室は細川兵部大輔藤孝の女


秀吉に仕える。500石


播磨国姫路城

文禄元年 従五位下・右衛門大夫

慶長6年 豊後国日出城3万石

寛永19年1月7日
木下守清 慶長4年 生。玄陶。道円
きのしたもりきよ
道円栄以の男
寛政譜17・215
母は織田家臣入江氏の女


妻は秋野氏


幼少のとき父栄以が死す。延寿院玄朔に医業を学ぶ

寛永16年10月28日 江戸に至る

寛永16年12月1日 はじめて家光に拝謁。家光に仕える

寛永16年12月1日 医師道円一束一巻を以御目見 ●「日記」

寛永17年7月27日 番医 ●「日記」共

寛永17年10月28日 300俵。月俸20口

寛永17年11月28日 御切米并屋敷被下之 ●「日記」

寛永18年4月30日 医師道円大坂ヨリ妻子可引越之旨ニて御暇依之人馬之御朱印并―


―黄金御袷等被下之 ●「日記」

寛永18年11月1日 医師道円進物前ニ置御目見従大坂妻子引越参上ニ付て也 ●「日記」

正保4年8月6日 死す
規伯玄方
生。方長老
きはくげんぼう

驢山住籍 寛永12年3月12日 南部へ流罪 ●「日記」
(通航一覧1・367) 寛文元年10月23日 遷化



木原神主
遠江国木原。許禰神社
きはらかんぬし




木原義久
生。千千代。七郎三郎。木工允
きはらよしひさ
兵三郎重義の男
寛政譜22・314
父重義に継いで大工頭

寛永2年11月11日 450石

寛永12年8月25日 (鈴木)近江同心以下御預 ●「日記」

寛永19年4月17日 三百石御加増 ●「日記」


750石

(明暦元年) 死す
木部直方 元亀2年 生。文次郎。藤左衛門
きべなおかた
幼少のとき父が死す。遠江国浜松に住し秋葉山の先達叶坊に養育される
寛政譜10・133 天正9年 叶坊の願いにより秀忠に拝謁。伽に伺候して番をつとめる


200石


代官

寛永10年6月5日 死す
木部直春 慶長18年 生。藤吉。藤太郎。藤兵衛。藤左衛門
きべなおはる
藤左衛門直方の長男
寛政譜10・133
妻は甲府(綱重か)家臣日下勘四郎宗忠の女

寛永14年12月8日 父直方の遺跡を継ぐ。200石

寛永14年12月8日 弐百石藤左衛門跡木部藤兵衛 ●「日記」

寛永16年6月10日 銅瓦奉行

(寛永17年5月21日) (藤左衛門の初出) ●「日記」

寛文元年11月11日 漆奉行

延宝4年11月15日 漆奉行を辞す。なお勘定奉行の支配

貞享4年12月13日 小普請

元禄元年6月2日 死す
木村壱岐守

きむらいきのかみ (寛永11年7月21日) (地下) ●「日記」

寛永11年7月21日 初て御礼 ●「日記」



木村石見

きむらいわみ (寛永12年6月14日) (松平安芸守家来) ●「日記」



木村越前守
左衛門尉と同人か
きむらえちぜんのかみ (寛永11年7月21日) (地下) ●「日記」


三条西実条に仕える

(寛永16年4月1日) (三条内府内) ●「日記」



木村勝清 天正14年 生。孫次郎。惣右衛門
きむらかつきよ
惣右衛門勝正の男
寛政譜7・295
妻は別所孫次郎の女


家康に仕える

(慶長13年) 父勝正の職に代わり入木山及び過書船を支配

(元和元年) 代官。入木山及び過書船を支配

(元和3年8月28日) 180石の朱印

万治元年3月29日 死す
木村勝吉 慶長14年 生。孫次郎
きむらかつよし
惣右衛門勝清の長男
寛政譜7・295
秀忠・家光に拝謁

(寛永10年3月28日) (木村宗右衛門子)(御目見) ●「日記」

正保元年1月7日 死す
木村左衛門尉
越前守と同人か
きむらさえもんのじょう
北面



木村三郎左衛門

きむらさぶろうざえもん
徳川忠長に仕える

寛永9年 召し預けられる

寛永13年9月18日 被召出 ●「日記」



木村式部少輔

きむらしきぶのしょう


(寛永18年4月27日) (北面) ●「日記」



木村二郎右衛門

きむらじろうえもん (寛永13年2月23日) (小十人) ●「日記」

寛永13年2月23日 御納戸衆 ●「日記」



木村新九郎

きむらしんくろう
北面。冠師






木村新蔵人

きむらしんくろうど
寛永11年7月21日の「新蔵人」も木村の事か不明

(寛永13年4月2日) (地下) ●「日記」



木村筑後守

きむらちくごのかみ
北面。冠師

寛永11年7月21日 初て御礼 ●「日記」 代替わりか

(寛永13年4月2日) (地下) ●「日記」

(寛永19年4月30日) (北面) ●「日記」



木村友重
生。助九郎。柳生を称すか
きむらともしげ
柳生宗矩の弟子

寛永16年2月14日 晩日御数寄屋え被為成池田帯刀加々爪甲斐守岡野権左衛門―


―坪内半三郎内藤庄兵衛柳生十兵衛同助九郎右之面々ニ―


―兵法被仰付御覧云々 ●「日記」



木村元宣 元和4年 生。長八郎。甚右衛門
きむらもとのぶ
甚九郎勝元の養子。青木小右衛門正定の四男
寛政譜7・287
母は飯室次郎兵衛昌喜の女


妻は大久保藤三郎正栄の女

(寛永6年) 養父勝元の遺跡を継ぐか。750石

寛永7年 秀忠に仕える


鷹を預かる


勘気を蒙る

慶安元年 赦免

寛文4年2月8日 大番

天和3年10月10日 裏門切手番頭

元禄3年12月18日 裏門切手番頭を辞す。小普請

元禄5年3月27日 死す
木村弥右衛門

きむらやえもん


寛永15年10月17日 御国御免 ●「日記」



木村安高
生。孫右衛門。猪右衛門
きむらやすたか
猪右衛門保元の長男
寛政譜7・289 正保元年12月25日 父保元の遺跡を継ぐ。400石 ●「日記」共

慶安元年8月3日 書院番

慶安3年9月3日 家綱に付属される。西丸に伺候

(慶安4年) 本丸に勤仕

延宝6年9月5日 死す
木村保元
生。権八郎。猪右衛門
きむらやすもと
源太郎元正の次男
寛政譜7・289
母は松平秀康家臣大石四郎右衛門の女

慶長18年 家光に仕える。小姓

元和3年 兄甚九郎勝元の采地を賜る。200石


小姓組


大番

寛永10年2月7日 400石

正保元年5月21日 死す
木村吉重 慶長15年 生。弥五兵衛。永休
きむらよししげ
三右衛門吉正の養子。竹尾伝九郎清正の三男
寛政譜7・294
妻は岡部喜兵衛正次の女

寛永9年9月 家光に仕える。小十人


100俵

寛永19年12月16日 200俵 ●「日記」共

正保2年閏5月2日 家綱に付属される

慶安3年9月4日 納戸番


納戸番を辞す。小普請

元禄4年12月2日 致仕。永休と号す

元禄11年6月28日 死す
木村了琢
狩野を称すか
きむらりょうたく
絵仏師

(寛永17年5月9日) (絵所了琢) ●「日記」



木屋庄九郎

きやしょうくろう


寛永19年12月11日 御切米被下之 ●「日記」



木屋庄左衛門
木屋
きやしょうざえもん


寛永19年12月11日 御切米被下之 ●「日記」

寛永20年3月16日 旧冬御切米并御扶持方被下之添状今日遣之 ●「日記」



木屋庄兵衛

きやしょうびょうえ




木屋宗斎
堺。商人か
きやそうさい




木屋之与吉

きやのよきち 寛永11年閏7月21日 御赦免 ●「日記」






休庵

きゅうあん
奥坊主 ●『徳川実紀』(家譜か?人見私記か?)

寛永11年5月1日 休庵親子三人被処遠流八丈嶋 ●「日記」



休庵子



休庵が子は庖所賤吏。次子は坊主 ●『徳川実紀』(君臣言行録)

寛永11年5月1日 休庵親子三人被処遠流八丈嶋 ●「日記」



休意

きゅうい


正保元年7月25日 今度二丸御広間坊主頭休意依重科之斬罪故彼実施大学寺庄五郎―


―同其子弐人於甲州在所斬戮之 ●「日記」
旧応
生。超蓮社勝誉上人信阿旧応
きゅうおう

華頂誌要 (寛永16年) 江戸崎大念寺5世
(浄土宗全書19・188) (寛永17年2月18日) (増上寺二老) ●「日記」
鎌倉光明寺志 寛永17年2月18日 増上寺御目見是江戸崎之大念寺増上寺二老旧応後住被仰付依也 ●「日記」
(浄土宗全書19・627)
鎌倉光明寺35世
江戸崎大念寺志 慶安3年1月 知恩院35世
(浄土宗全書20・297) 明暦3年3月1日 遷化



究巌 天正5年 生。本蓮社誓誉
きゅうがん
高崎大信寺不残上人に師事
百万遍知恩寺誌要
高崎大信寺の住持
(浄土宗全書20・318)
三河国源空寺の住持

正保2年 百万遍知恩寺38世

慶安元年4月24日
休立

きゅうりゅう


(寛永18年6月6日) (知恩院方丈伴僧) ●「日記」



行栄坊

ぎょうえいぼう
南光坊天海の弟子か






慶悦

きょうえつ
医師






教覚寺
駿河国府中。浄土真宗
きょうがくじ




教興寺
遠江国浜松
きょうこうじ




京極

きょうごく
後水尾天皇付女房

(寛永17年5月26日) (仙洞) ●「日記」



京極高和 元和5年 生。小法師。刑部。刑部少輔
きょうごくたかかず
伯父若狭守忠高の養子。安毛主馬高政の男
寛政譜7・171
母は本庄氏


室は藤堂大学頭高次の長女養性院

(寛永12年2月18日) (京極若狭守家老か) ●「日記」

寛永14年12月22日 若狭守甥京極刑部少輔祖父宰相江州大津ニて之知行高六万石―


―於播州舘野被下之 ●「日記」

寛永14年12月23日 末期養子のため養父忠高の領地は収公。播磨国舘野6万石

寛永14年12月23日 於播州舘野六万石被下之於酒井讃岐守宅―


―掃部頭大炊頭讃岐守伝仰之旨 ●「日記」

寛永15年2月20日 はじめて家光に拝謁

寛永15年2月20日 於播州舘野六万石拝知之御礼 ●「日記」

寛永16年10月25日 藤堂大学頭娘京極刑部少輔え縁辺 ●「日記」

寛永16年12月30日 従五位下・刑部少輔

寛永16年12月30日 諸大夫 ●「日記」

寛永20年9月27日 火消 ●「日記」

万治元年2月26日 讃岐国円亀6万石

寛文2年9月13日
京極高勝 元和6年 生。左近。信濃。信濃守
きょうごくたかかつ
丹後守高広の三男
寛政譜7・180
母は池田三左衛門輝政の女

寛永13年2月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

明暦元年12月29日 従五位下・信濃守

寛文6年5月3日 兄高国に連座して逼塞

寛文7年4月20日 ゆるされる

寛文7年12月26日 5000俵。寄合

天和3年2月3日 死す
京極高国 元和2年 生。仙千代。山城守。丹後守。侍従
きょうごくたかくに
丹後守高広の長男
寛政譜7・177
母は池田三左衛門輝政の長女


室は松平陸奥守伊達政宗の女

寛永11年 はじめて家光に拝謁

寛永11年12月 従五位下

寛永20年12月29日 従四位下

寛永20年12月29日 四品 ●「日記」

承応3年4月23日 父高広の家を継ぐ。丹後国宮津城7万8200石

承応3年12月26日 侍従。丹後守

寛文6年5月3日 改易。南部大膳大夫重信に召し預けられる。3000俵

延宝3年12月24日 死す
京極高次 永禄6年 生。小法師。小兵衛。若狭守。侍従。少将。参議
きょうごくたかつぐ
長門守高吉の長男
寛政譜7・167
母は浅井下野守祐政の女


室は浅井備前守長政の次女常高院

元亀元年 父高吉の人質として岐阜に至る。織田信長より采地を賜る

天正元年 近江国奥嶋5000石

天正10年 明智光秀に味方し逃れる。越前国柴田勝家のもとに寓居

天正11年4月 柴田勝家戦死ののち若狭国武田孫八郎元明のもとに寓居


秀吉にゆるされる

天正12年 2500石

天正13年7月11日 従五位上・侍従

天正14年 5000石

天正15年7月14日 近江国大溝1万石

天正16年4月14日 従四位下

天正18年 近江国八幡山2万8000石

文禄4年 近江国大津城6万石

文禄4年 少将

慶長元年 従三位。参議

慶長5年7月 家臣山田大炊良利(多賀越中)を人質として江戸に送る

慶長5年9月15日 近江国大津城を明け渡す。法体し高野山へ赴く

慶長5年 若狭国小浜城8万5000石

慶長6年 若狭国小浜城9万2100石

慶長14年5月3日
京極高供 元和9年 生。右近。主膳正
きょうごくたかとも
主膳正高通の長男
寛政譜7・185
母は京極丹後守高知の女


室は松平下総守忠明の女

寛永11年 父高通とともに家光の上洛に従う

寛文6年6月14日 父高通の遺領を継ぐ。丹後国峯山1万1600石

寛文7年12月28日 従五位下。主膳正

延宝2年2月28日
京極高直 寛永9年 生。六丸。飛騨守
きょうごくたかなお
修理大夫高三の長男
寛政譜7・181
母は水野隼人正忠清の女


室は水野監物忠善の女

(寛永12年6月30日) (京極修理大夫と並記して六とあり) ●「日記」

寛永13年 父高三の遺領を継ぐ。丹後国田辺3万5000石

寛永13年11月1日 はじめて家光に拝謁

寛永13年11月1日 太刀目録并捧進物御目見是亡父修理亮跡職依被仰付也 ●「日記」

正保2年12月30日 従五位下・飛騨守

寛文3年1月7日
京極高治 元和5年 生。左京。下総。下総守
きょうごくたかはる
丹後守高広の次男
寛政譜7・177
母は池田三左衛門輝政の長女

寛永9年 はじめて家光に拝謁

(寛永16年10月8日) (下総守) ●「日記」

寛永18年12月30日 従五位下・下総守

寛永18年12月30日 諸大夫 ●「日記」

承応元年7月29日 死す
京極高広 慶長4年 生。采女。采女正。丹後守。侍従。安智軒道愚
きょうごくたかひろ
丹後守高知の次男
寛政譜7・176
母は毛利河内守秀政の女


室は池田三左衛門輝政の長女

慶長16年 はじめて家康に拝謁

元和2年12月26日 従五位下・侍従

元和8年 父高知の遺領を継ぐ。丹後国宮津城7万8200石

寛永2年 丹後守

寛永3年8月19日 従四位下

承応3年4月23日 致仕。安智軒道愚と号す

寛文6年 流浪


京都東山に閑居

延宝5年4月22日
京極高通 慶長8年 生。主膳。主膳正
きょうごくたかみち
丹後守高知の養子。朽木兵部少輔宣綱の次男
寛政譜7・185
母は京極長門守高吉の女


室は丹後守高知の女

慶長17年9月28日 はじめて秀忠に拝謁。1000俵

元和元年12月 従五位下・主膳正

元和2年 3000石

元和3年 小姓

元和8年 丹後国峯山1万3000石

寛文5年12月14日
京極高三 慶長12年 生。六丸。修理大夫。従五位下
きょうごくたかみつ
丹後守高知の三男
寛政譜7・181
母は竹原氏


室は水野隼人正忠清の女

慶長16年3月 はじめて家康・秀忠に拝謁

元和8年 丹後国田辺3万5000石

(寛永8年4月22日) (修理大夫) ●「日記」

寛永13年9月13日
京極忠高 文禄2年 生。熊麿。若狭守。侍従。少将
きょうごくただたか
若狭守高次の長男
寛政譜7・170
母は山田氏


室は秀忠の息女初姫興安院

慶長8年 嫡母常高院が初姫を養い、家康により忠高の室と定められる

慶長8年2月10日 秀忠の御前にて元服。偏諱を賜る。

慶長11年3月3日 従五位下・侍従・若狭守

慶長11年5月7日 従四位下

慶長14年 父高次の遺領を継ぐ。若狭国小浜城9万2100石

寛永元年 若狭国小浜城11万3600石

寛永3年8月19日 少将

寛永7年3月4日 室が逝去

寛永11年閏7月6日 隠岐国・出雲国松江城26万4200石

寛永11年閏7月6日 雲州并隠岐国拝領 ●「日記」

(寛永13年1月8日) (若狭少将) ●「日記」 誤記か

寛永13年3月27日 石見銀山・4万石の地を預かる

寛永13年3月27日 石州銀山并銀山付候御料四万石之所被為預置之 ●「日記」

寛永14年6月12日
行事官

ぎょうじかん
神祇官か






尭秀 天正10年 生。法印。大僧正。一身田専修寺門跡
ぎょうしゅう
尭真の長男。近衛関白信尹の猶子
宮廷公家系図集覧566
(妻は古田織部正重然の女?)
(元和5年) 伊勢国一身田専修寺住職


法印

寛永13年 (僧正?)

寛永13年3月15日 御朱印被下御礼 ●「日記」

寛永18年 大僧正

寛永18年 男尭朝に職を譲る

(寛永18年10月3日) (一身田) ●「日記」 男尭朝か不明

正保元年10月15日 一身田御礼先住大僧正成之為御礼進物捧之 ●「日記」

正保3年 再住

寛文6年12月19日 遷化
敬台院 文禄元年 生。氏姫。万姫
きょうだいいん
家康の養女。小笠原兵部大輔秀政の長女
寛政譜6・243
母は岡崎三郎松平信康の長女峰高寺殿

慶長5年1月 家康に養女として蜂須賀阿波守至鎮に嫁ぐ。3000石


女子を産む。のちの松平宮内少輔池田忠雄の室

慶長16年 松平阿波守蜂須賀忠英を産む


女子を産む。のちの水野出雲守成貞の妻

元和6年2月26日 夫至鎮が死去

寛永18年11月22日 松平新太郎登営是母儀へ八木被下之御礼也―


―松平阿波守は令煩付て使者被差上云々 ●「日記」

寛文6年1月4日 逝去
尭朝 元和元年 生。法印。権僧正。一身田専修寺門跡
ぎょうちょう
尭秀の男。近衛関白信尋の猶子
宮廷公家系図集覧566
母は古田織部の女

(寛永11年7月28日) (一身田号専修寺新門跡) ●「日記」


一身田専修寺門跡

(寛永18年10月3日) (一身田) ●「日記」 父尭秀か不明

正保3年8月22日 遷化
堯然法親王 慶長7年 誕生。二品。妙法院門跡。天台座主。俗名常喜
ぎょうねんほっしんのう
常胤法親王の嗣。後陽成天皇の第六皇子
本朝皇胤紹運録
母は持明院中納言基孝の女勾当内侍基子
(群書系図部集1・100) 慶長10年8月22日 親王 ●「本朝皇胤紹運録」
詰所系図 慶長18年3月22日 親王 ●「詰所系図」
(系図綜覧上・33) (元和7年) 妙法院門跡

寛永17年7月11日 天台座主

寛永17年8月20日 妙法院御門跡今度比叡山座主職拝任之為御礼使僧被差遣―


―彼使僧依帰洛御帷子単物被下之 ●「日記」

正保2年12月24日 再任

承応2年6月14日 重任

寛文元年閏8月23日 薨去
刑部卿

ぎょうぶきょう
天樹院の乳母か

(寛永18年6月13日) (天樹院の侍女か) ●「日記」



玉室宗珀 元亀3年 生。玉室宗珀。直指心源禅師
ぎょくしつそうはく
斎藤隼人佐道利の四男。(京都出身。園部氏)
寛政譜14・398
兄忠右衛門道勝たちが井上を称す
大徳寺世譜21 慶長12年2月19日 大徳寺147世


直指心源禅師


大徳寺芳春院の院主

寛永6年7月27日 紫衣事件にて奥州赤館に配流

寛永9年7月17日 赦免

寛永9年7月17日 国安堵 ●「日記」

寛永11年5月29日 御赦免 ●「日記」

寛永11年8月4日 家光に拝謁

寛永18年5月14日 遷化
玉泉院
天台宗
ぎょくせんいん




玉蔵院
武蔵国。真言宗。延命寺
ぎょくぞういん




玉田寺
甲斐国
ぎょくでんじ


寛永19年7月6日 御朱印被下之 ●「日記」



玉峰光璘

ぎょくほうこうりん
東福寺宝勝院
驢山住籍 寛永12年11月 対馬国以酊庵3世
(通航一覧1・367) 寛永13年6月28日 璘西堂壱束一巻を以御礼申上是対州芳長老跡え被遣―


―今度初て依参府也 ●「日記」

寛永13年8月 以酊庵輪番を終える

寛永16年4月 再び以酊庵輪番

寛永17年3月 以酊庵輪番を終える


以下不詳
清水寺
京都。音羽山。法相宗
きよみずでら




清水寺成就院
清水寺本坊塔頭。本願職。本願院のち成就院
―じょうじゅいん




吉良義冬 慶長12年 生。左京大夫。若狭守。侍従。少将
きらよしふゆ
上野介義弥の長男
寛政譜2・218
母は今川左馬助範以の女


妻は酒井紀伊守忠吉の女

元和3年 はじめて秀忠に拝謁

寛永3年8月18日 従五位下・侍従・若狭守

寛永20年12月7日 父義弥の遺跡を継ぐ。4000石

寛永20年12月7日 四千石亡父知行三千石自分千石上野介跡 ●「日記」

正保2年6月10日 従四位下

慶安4年10月15日 少将

明暦2年2月15日 従四位上

寛文8年3月25日
吉良義弥 天正14年 生。民部。左兵衛督。上野介。侍従。少将
きらよしみつ
上野介義定の長男
寛政譜2・218
母は今川刑部大輔氏真の女


妻は今川左馬助範以の女

慶長2年 はじめて秀忠に拝謁

(慶長5年) 3000石

慶長13年12月24日 従五位下・侍従・左兵衛督

慶長16年1月23日 正五位下。従四位下


(高家)

元和9年12月28日 少将

(寛永4年) (上野介)

(寛永9年6月12日) (上野介) ●「日記」

寛永20年10月24日
金七郎

きんしちろう


(寛永18年12月29日) (御膳奉行) ●「日記」






昕叔顕晫 天正8年 生。昕斎。昕叔中晫。本源国師
きんしゅくけんたく
日野大納言輝資の次男
宮廷公家系図集覧373 慶長16年4月23日 京都相国寺94世
五山伝
相国寺慈照院
(史籍集覧26・570)
相国寺鹿苑院
鹿苑院公文帳200 (寛永10年4月1日) (晫長老) ●「日記」

万治元年1月20日 遷化
金武朝貞
生。尚盛
きんちょうてい
尚久王の第五王子
沖縄一千年史付録4
母は寵氏。金武大按司志良礼。童名思戸金。号一鏡
中山世譜中・41 (元和7年) (尚氏久米中城王子朝貞) ●「中山世譜」
中山世譜下・14 (寛永4年) (尚氏金武王子朝貞) ●「中山世譜」

寛永6年 摂政

承応3年 摂政を辞す


以下不詳
鈞天永洪
建仁寺十如院東堂。鈎天(こうてん)か不明
きんてんえいこう
建仁寺302世
通航一覧367 寛永16年8月1日 建仁寺洪長老一束一巻献之御礼是公帖頂戴之御礼 ●「日記」
読史備要1007 寛永19年8月27日 東福寺丹長老建仁寺仁長老同寺白西堂右三人為書簡役従当年―


―対馬国え可被差遣 ●「日記」

承応2年2月10日 遷化
金竜寺
江戸。臨済宗
きんりゅうじ




金輪寺
武蔵国王子。王子別当。真言宗
きんりんじ




久遠寺
甲斐国身延山。日蓮宗
くおんじ
(前略)
日蓮宗高僧伝155 慶長4年 19世日道

慶長6年閏12月 日道寂

慶長7年 20世日重。辞して弟子日朝を遣わす

慶長7年 21世日朝

慶長8年8月 日朝が本国寺に退く

慶長9年 22世日遠

慶長13年 日遠が本遠寺に退く

慶長13年 23世日祝

慶長14年 日祝が病により退く

慶長14年 日朝が再住。日乾と号すか

慶長17年 日朝が隠棲

元和元年 日遠が再住

元和元年 日遠が隠棲

元和元年 24世日要

元和9年7月5日 日要寂

元和9年秋 25世日深

寛永4年12月28日 日深寂

寛永4年 26世日暹

慶安元年5月29日 日暹寂

慶安元年 27世日鏡

万治2年10月28日 日鏡寂


(後略)
久貝正俊 天正元年 生。忠三郎。忠左衛門。因幡守
くがいまさとし
市右衛門正勝の長男
寛政譜16・174
母は堀越氏


妻は宇佐美助右衛門長元の女

天正9年 はじめて家康に拝謁。秀忠に近侍


小姓。(1500石)

慶長5年 上田城攻めにて勘気を蒙る

慶長5年 関ケ原の役にて戦功を励ましゆるされる

慶長10年 徒頭

慶長18年10月13日 勘気を蒙る


ゆるされる

慶長19年 大坂の役にて使番

元和元年 大坂の役にて使番

元和2年1月11日 目付

元和5年 大坂町奉行。3000石。与力同心を預かる

元和9年 与力10騎を増し預かる

寛永2年1月1日 従五位下・因幡守

寛永10年12月16日 5000石

寛永10年12月16日 知行弐千石之御加恩 ●「日記」

慶安元年2月2日 死す
久貝正偏 慶長12年 生。頼母
くがいまさとも
因幡守正俊の四男
寛政譜16・175
母は宇佐美助右衛門長元の女

元和8年 はじめて家光に拝謁


番をつとめる。300俵

正保2年6月28日 徒頭

正保2年12月30日 布衣

慶安元年6月4日 兄正世の采地を賜る。400石

慶安4年11月21日 400石300俵

明暦3年5月6日 死す
久貝正信 慶長12年 生。権三郎。惣左衛門。安休
くがいまさのぶ
因幡守正俊の三男
寛政譜16・178
母は宇佐美助右衛門長元の女


妻は大久保甚右衛門長重の女


後妻は宇佐美助右衛門長歳の女

元和3年 はじめて家光に拝謁


小姓。400石

寛永2年 小姓組

寛永10年2月7日 600石

万治元年5月6日 留守居番

万治元年閏12月28日 布衣

万治2年12月24日 600石300俵

延宝元年3月21日 留守居番を辞す

延宝2年12月3日 致仕。300俵。安休と号す

延宝6年8月2日 死す
陸田甚丞

くがたじんのじょう
有馬玄蕃頭豊氏に仕える

(寛永12年12月8日) (有馬玄蕃頭家来) ●「日記」



弘願寺
下総国。浄土宗
ぐがんじ




九鬼貞隆 慶長13年 生。長助
くきさだたか
長門守守隆の次男
寛政譜15・152
母は原監物宗忠の女


妻は京極丹後守高広の女

慶長17年6月17日 はじめて家康に拝謁

寛永8年6月1日 縁組あり ●「日記」

寛永8年11月26日 死す
九鬼隆季 慶長13年 生。式部。式部少輔
くきたかすえ
長門守守隆の三男
寛政譜15・155
室は土方掃部頭雄重の女


継室は井上主計頭正就の女

寛永9年8月17日 はじめて家光に拝謁

寛永9年8月27日 はじめて家光に拝謁。九鬼守隆次男 ●「日記」

寛永10年3月5日 父守隆の遺領分知。丹波国綾部2万石

寛永10年3月5日 2万石。丹波・摂津国へ得替 ●「日記」

(寛永11年4月1日) (式部少輔) ●「日記」

寛永19年12月30日 従五位下・式部少輔

寛永19年12月30日 諸大夫 ●「日記」

正保元年5月4日 火消之役人之内就交替御暇被下面々依有之今日改被仰付之二番 ●「日記」

正保元年7月1日 火之番三番 ●「日記」

寛文元年3月28日 弟十郎左衛門隆重に分知。丹波国綾部1万9500石

延宝2年11月16日 致仕

延宝6年5月30日
九鬼久隆 元和4年 生。長作。大和守
くきひさたか
志摩守良隆の養子。九鬼長門守守隆の五男
寛政譜15・152
室は本多因幡守(政武)の女

寛永9年8月3日 兄良隆の養子となる

寛永9年8月27日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永9年8月27日 (九鬼守隆惣領。大和守) ●「日記」

寛永10年3月5日 実父守隆の遺領を継ぐ。摂津国三田3万6000石

寛永10年3月5日 3万6000石。丹波・摂津国へ得替 ●「日記」

寛永10年7月3日 縁辺組 ●「日記」

寛永20年9月27日 火消 ●「日記」

寛永20年12月29日 従五位下

寛永20年12月29日 諸大夫 ●「日記」

慶安2年1月20日
九鬼守隆 天正元年 生。孫次郎。長門守
くきもりたか
大隅守嘉隆の次男
寛政譜15・150
母は原監物宗忠の妹


室は原監物宗忠の女


秀吉に仕える

慶長2年 父嘉隆の封を継ぐ。志摩国鳥羽城3万石

慶長4年 従五位下

慶長5年 志摩国鳥羽城5万5000石


志摩国鳥羽城5万6000石

寛永9年9月15日
弘経寺(飯沼)
下総国飯沼。浄土宗
ぐぎょうじ
(前略)
飯沼弘経寺志
10世照誉了学
(浄土宗全書19・816) 寛永5年 11世南誉雪念

寛永16年2月15日 下総飯沼之弘経寺摂念増上寺後住被仰付之 ●「日記」

寛永17年 12世心誉文宗

寛永17年2月18日 増上寺御目見是飯沼之弘経寺文宗後住被仰付依也 ●「日記」

寛永19年11月15日 以一束一巻御目見是今度紫衣成候参内相済依下向也 ●「日記」

慶安元年 13世住誉以伝

慶安3年 14世弁誉利山

万治2年 15世玄誉智鑑
弘経寺(結城)
下総国結城。浄土宗
ぐぎょうじ
(前略)
結城弘経寺志 元和7年 13世業誉還無
(浄土宗全書20・133) 寛永15年 14世実誉旧典

正保4年2月2日 旧典寂

正保4年 15世成誉廓呑

慶安3年 16世乗誉珂天


(後略)
九鬼嘉隆 天文11年 生。右馬允。大隅守
くきよしたか
甥弥五郎澄隆の嗣。宮内大輔定隆の次男
寛政譜15・148
室は原監物宗忠の妹

~天正2年 織田信長に属す

天正6年 7000石加増

~天正8年 志摩国鳥羽城3万5000石


秀吉に仕える

(天正12年) 甥澄隆死去により家を継ぐ

~文禄元年 従五位下・大隅守

慶長2年 致仕。5000石

慶長5年 石田三成に味方し志摩国和具に潜居

慶長5年10月2日 切腹
日下部定勝 文禄2年 生。権九郎。左馬允
くさかべさだかつ
兵右衛門定好の次男
寛政譜11・146
母は井伊兵部少輔家臣西村権兵衛久吉の女


秀忠に仕える。書院番。500石

寛永10年2月7日 700石


書院番を辞す。小普請

寛永18年10月21日 死す
日下部定久 慶長19年 生。牛助。権大夫
くさかべさだひさ
左馬允定勝の養子。井伊掃部頭家臣西村権兵衛久次の男
寛政譜11・147
妻は松平越前守家臣日下部善大夫令国の女

寛永11年 はじめて家光に拝謁。書院番


(300俵) ●「日記」

寛永19年12月10日 養父定勝の遺跡を継ぐ。700石

寛永19年12月10日 日下部左馬允跡養子午之助但午之助三百俵御切米は上ル ●「日記」

寛文12年6月11日 使番

寛文12年12月28日 布衣

延宝7年11月27日 使番を辞す

貞享4年2月28日 死す
日下部正定 慶長12年 生。作十郎
くさかべまささだ
河内守正冬の長男
寛政譜11・149
母は村越茂助直吉の女

寛永4年 秀忠に仕える。西丸小納戸。500石

寛永10年12月20日 中奥の番士

寛永10年12月20日 中奥御番 ●「日記」

寛永15年5月8日 小納戸 ●「日記」共

寛永19年10月25日 700石

寛永19年10月25日 二百石御加増 ●「日記」

寛永20年8月7日 小納戸頭 ●「日記」共

寛永20年12月29日 布衣 ●「日記」共

正保3年12月4日 1000石

承応3年5月23日 留守居番。1300石

万治2年6月6日 死す
日下部宗正
生。五郎八。兵右衛門
くさかべむねまさ
大隅守宗好の男
寛政譜11・146
母は成瀬吉右衛門正一の女


秀忠に仕える。西丸小姓組。200俵

寛永10年2月7日 400石

寛永10年2月26日 父宗好の家を継ぐ。3000石

寛永10年2月26日 父宗好知行を相続。3000石 ●「日記」

慶安4年 死す
日下部宗好 天正2年 生。五郎八。大隅守
くさかべむねよし
兵右衛門定好の長男
寛政譜11・146
母は井伊兵部少輔家臣西村権兵衛久吉の女


妻は成瀬吉右衛門正一の女


家康に仕える

(慶長19年) 大坂の役にて目付


普請奉行


3000石


留守居番

寛永10年2月26日 致仕。養老料400石

寛永10年2月26日 息宗正に相続あり。400石 ●「日記」

寛永10年7月 死す
日下宗勝
生。藤九郎。(十郎右衛門)
くさかむねかつ
十兵衛宗則の次男
寛政譜11・151
家康・秀忠に仕える

~寛永11年 大坂具足奉行


以下不詳
日下宗忠 慶長3年 生。勘四郎
くさかむねただ
藤九郎宗勝の男
寛政譜11・151
妻は神尾猪兵衛幸政の女

元和4年 秀忠に仕える。大番。300俵

寛永10年2月7日 500石

(寛永18年3月1日) (大久保右京亮教隆組もしくは皆川山城守隆庸組) ●「日記」

正保2年9月9日 徳川綱重に付属される。守役。500石300俵


桜田館にて加増あり。500石700俵


留守居役


留守居役を辞す

延宝7年2月1日 死す
日下宗春 寛永8年 生。長八郎。半之丞
くさかむねはる
勘四郎宗忠の長男
寛政譜11・151
母は神尾猪兵衛幸政の女


妻は須田伝左衛門盛森の女

寛永18年3月1日 はじめて家光に拝謁

寛永18年3月1日 樽代前ニ置一同ニ御目見 ●「日記」


新番


新番を辞す。小普請

寛文3年 父宗忠の家を継ぐ。500石

元禄13年7月5日 致仕

宝永4年4月27日 死す
草薙神社
駿河国府中
くさなぎじんじゃ







櫛笥隆朝 慶長12年1月12日 生。侍従。少将。中将。参議。中納言。はじめ四条を称すか
くしげたかとも
四条中将隆致の長男
諸家伝下・995 慶長18年2月7日 従五位下
宮廷公家系図集覧441 慶長19年1月17日 元服。昇殿。侍従

元和3年1月5日 従五位上

元和6年1月5日 正五位下

元和8年1月11日 左少将

寛永2年1月5日 従四位下

寛永5年1月5日 従四位上

寛永5年2月10日 左中将

寛永9年1月5日 正四位下

(寛永11年7月21日) (櫛司中将) ●「日記」

寛永13年1月5日 従三位

寛永18年1月5日 正三位

寛永19年8月19日 参議

寛永20年11月7日 参議を辞す

正保2年5月15日 権中納言

正保2年5月18日 権中納言を辞す。直衣

慶安元年1月7日 帯剣

慶安元年10月1日 薨去
くしけん
具志堅か




(正保元年6月25日) (琉球中山王使者馬上之従者黄はちまき) ●「日記」



久志本常諄
生。右馬之助
くしもとつねあつ
左京亮常範の三男
寛政譜18・112 元和8年4月 はじめて秀忠に拝謁

寛永3年 秀忠の上洛に従う


家光が痘のとき調薬

寛永15年12月1日 200俵 ●「日記」共

寛永20年9月5日 死す
久志本常尹 慶長2年 生。式部。式部少輔
くしもとつねただ
周防守常興の養子。式部少輔常孝の男
寛政譜18・109
母は神宮松木内蔵允国通の女


妻は伊勢神宮豊田主殿の女

元和元年 はじめて家康に拝謁

寛永13年 侍医

(寛永13年10月8日) (式部少) ●「日記」

寛永15年10月27日 300石 ●「日記」共

寛永16年6月9日 驢庵被為召久志本式部替々可相詰之旨被仰出之云々 ●「日記」

寛永20年12月29日 従五位下・式部少輔

寛永20年12月29日 諸大夫 ●「日記」

正保3年2月3日 死す
久志本常倫
生。与四郎。左京
くしもとつねとも
右馬之助常諄の長男
寛政譜18・112
妻は川口久助宗次の女


はじめ伯父久志本左京亮常衡の名跡を継ぐ

寛永12年4月11日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永20年12月7日 父常諄の遺跡を継ぐ。200俵。寄合(医師)

寛永20年12月7日 弐百俵右馬助跡 ●「日記」


侍医

万治3年3月 死す
久志本常元 慶長17年 生。内蔵允
くしもとつねもと
内蔵允常亮の男
寛政譜18・111
母は久志本式部少輔常孝の女


妻は伊勢神宮檜垣長官常晨の女


後妻は武藤氏

元和9年 はじめて秀忠に拝謁

寛永2年 父常亮の遺跡を継ぐ。300石。寄合医師

慶安4年9月15日 番医

天和3年8月16日 死す
久志本常良 元和5年 生。図書。弥四郎。式部
くしもとつねよし
式部少輔常尹の長男
寛政譜18・109
母は伊勢神宮豊田主殿の女


妻は伊勢神宮豊田主殿の女

寛永13年3月15日 はじめて家光に拝謁

寛永13年3月15日 久志本式部子両人ハ御薬進上之御礼 ●「日記」

正保3年4月9日 父常尹の遺跡を継ぐ。医師。寄合

慶安4年9月15日 番医

元禄2年11月1日 死す
久志本常依
生。与十郎
くしもとつねより
式部少輔常孝の養子。久志本式部少輔常尹の次男
寛政譜18・109 寛永13年3月15日 はじめて家光に拝謁

寛永13年3月15日 久志本式部子両人ハ御薬進上之御礼 ●「日記」


式部少輔常孝の養子となる


以下不詳
九条道房 慶長14年8月13日 生。少将。中将。中納言。大納言。大将。内大臣。右大臣。左大臣。摂政
くじょうみちふさ
関白左大臣幸家の次男
諸家伝上・62
母は羽柴少将秀勝と崇源院の女従二位完子天真院
宮廷公家系図集覧253
妻は松平三河守忠直と秀忠の息女高田殿勝姫の女従三位廉貞院

慶長18年12月21日 正五位下。元服。昇殿

慶長18年12月22日 左少将

慶長19年6月28日 従四位下・左少将

元和元年12月18日 従三位・左少将

元和元年12月23日 左中将

元和3年8月6日 権中納言・左中将

元和5年12月27日 正三位

元和7年1月14日 権大納言

寛永3年8月27日 右大将

寛永5年2月10日 従二位

寛永6年9月23日 橘氏是定

寛永8年12月11日 正二位

寛永9年12月28日 内大臣・右大将

寛永12年1月24日 内大臣・左大将

寛永14年11月5日 左大将を辞す

(寛永17年5月26日) (内府の初出) ●「日記」

寛永17年11月3日 右大臣

寛永17年12月25日 九条右大臣今度為拝任之御礼被献使者并御太刀目録進上之 ●「日記」

寛永18年12月2日 左大臣

正保4年1月5日 摂政。氏長者内覧牛車随身兵仗

正保4年1月10日 薨去
九条幸家 天正14年2月19日 生。入道前関白左大臣兼孝の長男
くじょうゆきいえ
入道前関白左大臣兼孝の長男
諸家伝上・61
母は高倉権大納言永家の女
宮廷公家系図集覧253
室は羽柴少将秀勝と崇源院の女従二位完子天真院 ●「幕府祚胤伝」

天正18年2月21日 元服。正五位下・左少将

天正19年1月5日 従四位下

天正19年1月11日 左中将

文禄2年11月11日 従四位上

慶長4年12月25日 従三位・権中納言・左中将

慶長6年1月6日 正三位

慶長7年1月6日 従二位

慶長9年8月1日 権大納言・左中将

慶長9年11月28日 正二位

慶長11年9月22日 権大納言・左大将

慶長12年1月11日 右大臣・左大将

慶長13年1月7日 左大将を辞す

慶長13年12月26日 関白・右大臣。氏長者

慶長17年3月13日 関白・左大臣

慶長17年7月25日 関白を辞す

慶長19年1月5日 従一位

慶長19年1月14日 左大臣を辞す

元和5年9月14日 関白

元和9年閏8月16日 関白を辞す

寛永19年6月1日 九条殿使者御目見是移徙之御礼依之太刀目録被献之―


―自同政所殿巻物進上之 ●「日記」

慶安2年8月14日 橘氏是定

寛文5年8月21日 薨去
葛谷藤左衛門

くずやとうざえもん
藤兵衛の弟

(寛永19年7月5日) (徒之押) ●「日記」

寛永19年7月5日 九鬼式部少輔へ葛谷藤左衛門徒之押浅草御城米御蔵衆之弟―


―たるに依て御預 ●「日記」



葛谷藤兵衛

くずやとうびょうえ


(寛永19年5月22日) (江戸御蔵衆) ●「日記」

寛永19年5月22日 岡部美濃守え御預 ●「日記」

(寛永19年7月8日) (浅草御蔵奉行) ●「日記」

寛永19年7月8日 斬罪 ●「日記」
葛谷虎之助

くずやとらのすけ
藤兵衛の男

寛永19年5月29日 西江孫六郎へ葛谷藤兵衛子虎之助御預 ●「日記」



弘誓寺
伊豆国
ぐぜいじ







久世重利 元和元年 生。権之助。宇右衛門
くぜしげとし
三左衛門広宣の養子。松平安芸守家臣大久保民部忠郷の男
寛政譜8・18 寛永12年12月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共


書院番

寛永14年 300俵

寛永20年6月9日 書院番・進物役

寛永20年6月9日 進物御番 ●「日記」

正保元年12月16日 書院番組頭

正保元年12月16日 御書院番組頭酒井壱岐守組 ●「日記」

正保元年12月29日 布衣 ●「日記」共

正保3年12月4日 400石

慶安4年11月21日 400石300俵

延宝3年2月3日 書院番組頭を辞す。小普請

貞享3年11月23日 死す
久世広当 慶長3年 生。山三郎。三四郎
くぜひろまさ
三左衛門広宣の長男
寛政譜8・9
母は今川家臣奥原日向経重の女


妻は井上主計頭正就の女

慶長19年 父広宣とともに大坂の役に供奉

慶長19年12月 秀忠に仕える

元和元年 500石。小姓組

元和4年 小姓組をゆるされる。父広宣の見習い(先手?)

寛永3年4月 父広宣の遺跡を継ぐ。7000石。与力10騎同心50人を預かる

寛永8年3月4日 7110石

(寛永9年8月4日) (三四郎) ●「日記」

寛永12年11月10日 百人組頭

寛永12年11月10日 本多豊前守与力同心久世三四郎御預 ●「日記」


―(与力25騎鉄炮同心100人)

(正保元年5月23日) (坂部三十郎被召出山岡主計頭元与力十騎歩行同心百人被為預之於大手―


―御門番所渡辺図書森川金右衛門久世三四郎並ニ可致勤仕) ●「日記」

万治3年1月24日 死す
久世広之 慶長14年 生。三之丞。大和守。侍従
くぜひろゆき
三左衛門広宣の三男
寛政譜8・11
母は今川家臣奥原日向経重の女


室は戸田因幡守忠能の養女戸田三郎左衛門忠次の女

元和3年 はじめて秀忠に拝謁

元和8年 小姓

寛永元年8月 小姓組

寛永3年4月 兄三四郎広当より分知。500石

寛永3年 家光の上洛に従う

寛永4年1月 膳番

寛永9年12月 書院番

寛永10年12月20日 中奥の番士

寛永10年12月20日 中奥御番 ●「日記」

寛永11年6月 小納戸

寛永12年11月17日 徒頭

寛永12年11月17日 御歩行之頭ニ被仰付服部中元組 ●「日記」

寛永13年12月29日 従五位下・大和守

寛永13年12月29日 諸大夫ニ被仰付之 ●「日記」

(寛永14年9月27日) (大和守の初出) ●「日記」

寛永15年11月11日 小姓組番頭

寛永15年11月11日 水野石見守久世大和守御小姓組番頭被仰付之―


―遠江守元組大和守対馬守元組石見守 ●「日記」

寛永17年6月16日 御側に勤仕

寛永18年8月12日 5000石 ●「日記」共

慶安元年9月8日 1万石

慶安4年4月 日光山へ家光の霊柩に従う

承応元年1月11日 小姓組番頭をゆるされる。馬の事を支配

承応2年9月18日 交代で宿直

万治2年10月11日 1万5000石

寛文2年2月22日 若年寄。2万石

寛文3年8月15日 老職

寛文3年9月22日 従四位下

寛文4年4月8日 4万石

寛文6年4月5日 馬支配をゆるされる

寛文9年6月25日 下総国関宿城5万石

寛文10年12月29日 侍従

延宝7年6月25日
久世通俊 寛永3年2月23日 生。侍従。少将。中将。宗元
くぜみちとし
少将通式の男
諸家伝下・1011
母は武家の女
宮廷公家系図集覧487 寛永6年1月5日 従五位下

寛永9年12月27日 元服。侍従

寛永11年1月5日 従五位上

寛永11年7月14日 継目之御礼 ●「日記」

寛永15年1月5日 正五位下

寛永18年1月11日 右少将

寛永19年12月22日 従四位下

正保元年1月11日 右中将

正保3年1月5日 従四位上

慶安4年1月5日 正四位下

承応3年1月26日 出家。宗元と号す

寛文9年8月8日
朽木左衛門

くつきさえもん
嶋津但馬守久雄に仕える

(寛永17年3月15日) (嶋津万寿証人) ●「日記」



朽木稙綱 慶長10年 生。弥五郎。民部少輔
くつきたねつな
河内守元綱の三男
寛政譜7・149
母は田中氏


室は稲葉佐渡守正成の女


継室は安藤右京進重長の養女尾張家臣志水甲斐守忠宗の女

元和4年9月11日 家光に仕える

元和9年8月4日 従五位下・民部少輔

元和9年11月 1000石

寛永2年2月28日 2000石

寛永2年11月 3000石

寛永8年5月21日 小姓組組頭

寛永9年12月6日 父元綱の遺領分知。4110石

寛永9年12月6日 父元綱の遺跡分知。相続分1000石 ●「日記」

寛永10年6月29日 弓矢鉄炮の役

寛永10年6月29日 弓矢御鉄炮役稲垣若狭なミニ被仰付 ●「日記」

寛永10年7月24日 書院番頭 ●「日記」共

寛永12年3月21日 与力同心を預かる

寛永12年11月20日 小姓組番頭。六人衆

寛永12年11月20日 御小姓与御番頭被仰付之堀田加賀守元組也―


―剰志摩守備中守対馬守備後守遠江守並ニ御奉公可仕 ●「日記」

寛永12年12月30日 正月之御給仕被仰付之 ●「日記」

寛永13年8月10日 1万石

寛永13年8月10日 六千石御加恩以上壱万石 ●「日記」

寛永15年11月7日 当番諸士支配

寛永15年11月7日 御旗本於殿中御番仕面々は三浦志摩守朽木民部少輔―


―万事御用可奉之 ●「日記」

寛永15年12月5日 小姓組番頭をゆるされる ●「日記」共

寛永16年9月4日 2万石

寛永16年9月4日 御加恩壱万石 ●「日記」

正保4年12月14日 下野国鹿沼2万5000石

慶安2年2月19日 常陸国土浦城3万石。職をゆるされる

慶安4年 日光山へ家光の霊柩に従う

承応元年11月1日 奏者番

承応3年12月4日 鷹の者支配

万治3年12月13日
朽木友綱 慶長4年 生。与五郎
くつきともつな
河内守元綱の次男
寛政譜7・148
母は田中氏


妻は加藤伊織則勝の女

~元和元年 細川忠興に仕える

元和4年3月13日 秀忠に仕える。書院番。500俵

~寛永2年 1000石

寛永9年8月11日 徒頭 ●「日記」共

寛永9年冬 布衣

寛永9年12月6日 父元綱の遺領分知。3010石

寛永9年12月6日 父元綱の遺跡分知。相続分2000石 ●「日記」

寛永10年2月19日 宇治茶詰 ●「日記」

(寛永13年12月13日) (布衣) ●「日記」

正保4年9月26日 書院番組頭

承応2年9月27日 書院番組頭を辞す

寛文2年8月8日 死す
朽木智綱 慶長3年 生。竹松丸。権佐。好斎
くつきともつな
兵部少輔宣綱の長男
寛政譜7・144
母は京極長門守高吉の女


妻は竹中丹後守重門の女

寛永11年3月26日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

万治2年12月23日 父宣綱の家を継ぐ。近江国朽木庄4770石

寛文8年12月14日 致仕。好斎と号す

寛文11年6月6日 死す
朽木宣綱 天正10年 生。弥五郎。兵部少輔。立斎
くつきのぶつな
河内守元綱の長男
寛政譜7・143
母は伊勢国一身田専修寺堯恵の女


妻は京極長門守高吉の女


秀吉に仕える

慶長2年6月 従五位下・兵部少輔

(元和2年) 父元綱の家を継ぐ。寄合。近江国朽木庄6350石

寛永9年12月6日 近江国朽木庄6470石

寛永9年12月6日 父元綱の遺跡分知。相続分240石 ●「日記」

万治2年12月23日 致仕。立斎と号す

寛文2年5月1日 死す
朽木正綱 寛永6年 生。弥五兵衛
くつきまさつな
与五郎友綱の男
寛政譜7・148
母は加藤伊織則勝の女


妻は石川八左衛門正信の女

寛永20年1月3日 はじめて家光に拝謁

寛永20年3月3日 朽木与五郎惣領太刀目録を以初て御礼 ●「日記」

万治2年7月11日 書院番

寛文2年12月9日 父友綱の遺跡を継ぐ。3010石


書院番を辞す。小普請

天和元年6月5日 死す
朽木元綱 天文18年 生。竹松丸。弥五郎。信濃守。河内守。牧斎
くつきもとつな
宮内大輔晴綱の男
寛政譜7・142
母は飛鳥井大納言雅綱の女


妻は伊勢国一身田専修寺堯恵の女

永禄11年 将軍足利義昭に味方する

元亀元年4月 金ヶ崎の役にて織田右大臣信長に味方する


秀吉に仕える。信濃守

天正18年 従五位下・河内守

慶長5年 関ケ原の陣中にて家康に拝謁

慶長5年 近江国朽木庄9590石

慶長7年~ 駿府にて常に家康の御前に伺候

慶長10年 伏見にて秀忠に拝謁

慶長19年 大坂の役にて永井右近大夫直勝に属す

元和元年 近江国高嶋郡山中の関を預かる

元和2年 家康の死により剃髪。牧斎と号す

元和2年冬 江戸にて秀忠に近侍

~寛永2年 致仕。3240石

寛永9年8月29日 死す
宮内(賀茂)

くない (正保元年4月1日) (賀茂神人宮内) ●「日記」



宮内(駿河浅間惣社)

くない (寛永13年1月15日) (駿河浅間惣社神主) ●「日記」



宮内(浜松諏訪)

くない (寛永15年10月17日) (浜松諏訪神主) ●「日記」

寛永15年10月17日 嶋より赦帰神主ハ無用可仕事 ●「日記」



宮内卿

くないきょう
照高院門跡道周法親王の家臣






宮内卿(女房)

くないきょう
後水尾天皇付女房

(寛永17年5月26日) (仙洞) ●「日記」



国枝又兵衛

くにえだまたびょうえ
松平伊予守忠昌に仕える

(寛永18年12月1日) (松平伊予守使者) ●「日記」



国頭正則
生。馬国隆
くにかみしょうそく

琉球国使節渡来377










国政勝介

くにまさかつのすけ


寛永14年11月26日 父就死去遺跡相続之儀被仰付 ●「日記」



国政勝介父





(寛永14年) 死す
久能寺
駿河国
くのうじ




久野三郎左衛門

くのさぶろうざえもん
紀伊家臣






久能宗辰
生。左門。五郎左衛門
くのむねたつ
弥七郎宗次の男
寛政譜21・279 寛永9年7月7日 小姓

寛永9年7月7日 奥之御小姓 ●「日記」


300俵

寛永11年1月13日 600俵

寛永11年1月13日 三百表御加恩 ●「日記」


勘気を蒙る。阿部豊後守忠秋に召し預けられる

寛文3年7月20日 赦免

寛文3年12月25日 600俵

寛文4年8月11日 書院番

寛文7年閏2月10日 死す
久野宗信
生。杢大夫。七郎右衛門
くのむねのぶ
与五右衛門吉政の長男
士林泝洄2・241
松平忠吉に仕える。150石。馬廻


徳川義直に仕える。使番


父吉政の家を継ぐ。400石。目付


550石

寛永10年 1000石。城代

慶安2年~ 1500石

寛文3年5月19日 死す
弘法寺
下総国真間。日蓮宗
ぐほうじ




久保勝氏 天正19年 生。五郎兵衛
くぼかつうじ
平左衛門勝正の四男(三男)
寛政譜16・197
母は織田家臣沢井修理亮の妹

慶長11年 秀忠に仕える。大番


300石

(寛永13年3月25日) (皆川山城守組) ●「日記」

寛永20年10月21日 家綱に付属される。三丸番

寛永20年10月21日 従大御番被召出三丸御番被仰付之 ●「日記」


広敷番頭

慶安3年8月23日 西丸に勤仕

(慶安4年) 本丸に勤仕


切手門番頭

寛文3年2月1日 切手門番頭を辞す。寄合

寛文9年2月17日 死す
久保勝重 文禄2年 生。木工右衛門
くぼかつしげ
平左衛門勝正の三男
寛政譜16・192
母は織田家臣沢井修理亮の妹


妻は佐原氏

慶長17年 秀忠に仕える。大番

~慶長19年 200俵

寛永10年2月7日 400石

寛永18年 大番組頭

承応元年12月22日 400石200俵

万治2年10月14日 大番組頭を辞す。小普請

寛文2年7月13日 死す
久保勝隆 元和7年 生。伝介。五左衛門
くぼかつたか
五郎兵衛勝氏の長男
寛政譜16・197 寛永13年3月25日 はじめて家光に拝謁

寛永13年3月25日 久保五郎兵衛子被召出之 ●「日記」

寛永13年3月25日 皆川山城守組(大番) ●「日記」

寛永13年12月27日 大番 ●「日記」共

慶安元年6月14日 新番

寛文9年7月10日 父勝氏の遺跡を継ぐ。300石

延宝元年12月27日 死す
久保勝親
生。喜三郎。伝兵衛
くぼかつちか
木工右衛門勝重の三男
寛政譜16・195
母は佐原氏

寛永20年3月3日 樽代を以御目見久保杢右衛門二番子喜三郎 ●「日記」

寛永20年3月6日 はじめて家光に拝謁

寛永20年3月15日 大番

正保2年12月28日 200俵

慶安元年6月14日 新番

万治2年12月26日 250俵

元禄元年6月26日 死す
久保勝次
生。伝八郎。七左衛門
くぼかつつぐ
平左衛門勝房の次男
寛政譜16・190
母は岩瀬吉左衛門氏与の女

寛永7年 父勝房の遺跡分知。200石。小普請

寛永13年12月21日 はじめて家光に拝謁

寛永13年12月21日 跡目之面々(御目見) ●「日記」

正保元年 大番

承応2年10月8日 死す
久保勝房 天正14年 生。平左衛門
くぼかつふさ
平左衛門勝正の次男
寛政譜16・187
母は織田家臣沢井修理亮の妹


妻は岩瀬吉左衛門氏与の女


秀忠に仕える。大番

~慶長19年 大番組頭

元和元年~ 父勝正の家を継ぐ。700石


徒頭


布衣

寛永7年6月8日 死す
久保左衛門

くぼさえもん


(寛永17年8月7日) (楽人) ●「日記」



久保重俊
生。(三左衛門)。六左衛門
くぼしげとし
木工右衛門勝重の次男
寛政譜16・192
母は佐原氏


妻は中山茂左衛門忠勝の女

寛永19年3月1日 はじめて家光に拝謁

寛永19年6月26日 大番

寛永19年6月26日 久保三左衛門大御番被仰付 ●「日記」

(正保元年12月25日) (六左衛門の初出) ●「日記」

正保元年12月25日 弐百俵 ●「日記」

寛文2年12月9日 父勝重の遺跡を継ぐ。400石200俵

延宝4年7月 大番を辞す

天和2年12月18日 致仕

貞享元年9月2日 死す
久保七郎右衛門

くぼしちろうえもん


(寛永20年4月19日) (弐百石) ●「日記」

(寛永20年4月19日) (井戸新右衛門組) ●「日記」

寛永20年4月19日 只今迠之御番被成御免向後御役可被仰付之間可存其旨之由―


―小十人組御番所之次ニて老中被伝之 ●「日記」



久保田惟政
生。佐次右衛門
くぼたこれまさ
秀忠に仕える。夜居間番
寛政譜19・115
東福門院に付属される。火番

寛永16年6月5日 国母様え火番之内窪田左次右衛門可被遣之旨伊豆豊後対馬守―


―被申渡之是最前被遣古川庄介替云々 ●「日記」


使役

某年 死す
窪田繁隆
生。甚左衛門
くぼたしげたか 寛永元年
寛政譜20・161
表火番

(寛永18年) 死す

(寛永18年12月4日) (七拾俵ニ五人扶持火之番久保田甚左衛門跡右惣領ニ被下之) ●「日記」
窪田繁豊
生。甚兵衛
くぼたしげとよ
甚左衛門繁隆の男
寛政譜20・161 寛永18年12月4日 七拾俵ニ五人扶持火之番久保田甚左衛門跡右惣領ニ被下之 ●「日記」


二丸火番


二丸添番


西丸門添番


広敷添番

某年 死す
窪田太郎兵衛
生。太郎兵衛
くぼたたろうびょうえ
五右衛門正綱の長男
寛政譜4・364 正保元年6月4日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共


早世か
窪田藤右衛門
生。藤右衛門
くぼたとうえもん
藤左衛門行重の長男
寛政譜4・361
父行重の遺跡を継ぐ。蔵奉行

寛永19年5月22日 松平若狭守康信に召し預けられる ●「日記」共

(寛永19年7月8日) (御城米蔵奉行) ●「日記」

寛永19年7月8日 斬罪 ●「日記」共
窪田直盛
生。茂左衛門
くぼたなおもり
小兵衛正重の次男
寛政譜4・367
母は武田家臣太田佐渡の女


家光に仕える。小十人

寛永19年12月6日 納戸番 ●「日記」共

慶安4年6月22日 死す
窪田平十郎
生。平十郎
くぼたへいじゅうろう
藤右衛門の男
寛政譜4・361 寛永19年7月5日 父藤右衛門に連座して本多八郎兵衛勝行に召し預けられる

寛永19年7月5日 本多八郎兵衛へ窪田平十郎浅草御城米御蔵衆之弟―


―たるに依て御預 ●「日記」

寛永19年7月8日 死罪

寛永19年7月8日 切腹 ●「日記」
窪田正次
生。勘次郎。喜左衛門
くぼたまさつぐ
忠兵衛正成の養子。横屋次郎左衛門吉次の長男
寛政譜4・187
母は高屋豊前久家の女


妻は忠兵衛正成の女


秀忠に仕える

寛永4年11月3日 150石の朱印


勘定

~寛永10年 代官

承応2年6月5日 死す
窪田正綱 元和5年 生。文左衛門。五右衛門
くぼたまさつな
小兵衛通正の長男
寛政譜4・364
母は荻原吉右衛門昌重の女


妻は諸星清左衛門盛政の女

寛永13年12月27日 大番 ●「日記」共


廩米を賜る

(正保元年6月4日) (松平外記組) ●「日記」

正保3年12月3日 父通正の遺跡を継ぐ。200俵

延宝5年7月 大番を辞す。小普請

元禄7年11月16日 死す
窪田正吉
生。(助六郎)。六左衛門
くぼたまさよし
半兵衛久重の三男
寛政譜4・248
母は西山十右衛門昌勝の女


妻は朝比奈六右衛門昌久の女


家光に仕える。小十人。100俵。月俸10口

寛永19年12月16日 窪田助六郎御加恩百俵被下之日来御切米共ニ弐百俵被仰付 ●「日記」

万治2年6月9日 小十人組頭

万治2年12月23日 300俵

寛文5年11月20日 死す
窪田又右衛門

くぼたまたえもん


寛永18年4月14日 火之番御役被仰付之是ハ此以前不念之儀有之て御役改之雖召上之―


―久々御奉公仕候者之儀ニ故元之ことく火之番ニ被召加之 ●「日記」



窪田通正
生。小兵衛
くぼたみちまさ
小兵衛正重の長男
寛政譜4・363
母は武田家臣太田佐渡の女


妻は荻原吉右衛門昌重の女


家康に仕える

(元和7年) 父正重の遺跡を継ぐか

寛永2年12月15日 160石の朱印

寛永19年5月22日 浅草蔵当座奉行

寛永19年5月22日 御城米浅草御蔵当座之奉行 ●「日記」

(正保3年) 死す
窪田百介
寛政譜4・367 助左衛門盛勝か?
くぼたももすけ 寛永9年8月19日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」






窪田盛勝
生。助左衛門
くぼたもりかつ
茂左衛門直盛の長男
寛政譜4・367
家光に仕える。小十人。100俵。月俸10口

寛永16年12月26日 小十人組窪田助左衛門御切米被下之 ●「日記」

寛永19年12月16日 200俵

寛永19年12月16日 御加恩百俵被下之日来御切米共ニ弐百俵被仰付 ●「日記」

慶安元年6月14日 新番

万治2年12月26日 250俵

延宝元年 新番を辞す。小普請

貞享元年7月19日 致仕

貞享4年10月22日 死す
久保田吉長
生。太左衛門
くぼたよしなが
惣右衛門吉政の男
寛政譜4・250 (慶長2年) 父吉政の遺跡を継ぐか

元和9年 家光に仕える


小十人

寛永19年12月6日 納戸番 ●「日記」共


以下不詳
窪寺小左衛門
生。四郎左衛門。小左衛門
くぼでらこざえもん
先手与力
寛政譜22・384 (寛永20年4月19日) (弐百石) ●「日記」

(寛永20年4月19日) (田中一郎右衛門組寺窪四郎左衛門) ●「日記」

寛永20年4月19日 只今迠之御番被成御免向後御役可被仰付之間可存其旨之由―


―小十人組御番所之次ニて老中被伝之 ●「日記」


国廻役

(寛文9年) 死す
久保正貞
生。金左衛門
くぼまささだ
吉右衛門正元の次男
寛政譜16・200
母は矢部掃部定清の女

寛永20年12月29日 右筆

寛永20年12月29日 久保吉右衛門二番子被召出之 ●「日記」

正保元年2月20日 はじめて家光に拝謁

正保元年2月20日 今度御右筆御役被召出付て御礼 ●「日記」

正保元年12月25日 150俵 ●「日記」共

明暦2年12月23日 200俵

延宝5年 死す
久保正信 元和8年 生。求之助。五兵衛。吉右衛門
くぼまさのぶ
吉右衛門正元の長男
寛政譜16・200
母は矢部掃部定清の女

寛永13年12月15日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永16年 右筆

(寛永16年12月13日) (五兵衛の初出) ●「日記」

寛永16年12月13日 150俵

寛永16年12月13日 御切米被下之 ●「日記」

万治元年閏12月25日 200俵

延宝3年12月21日 300俵

延宝5年9月25日 父正元の家を継ぐ。1000石

延宝7年12月19日 右筆支配

天和2年4月10日 命により蜷川彦左衛門親熈に書札のことを伝える

天和2年6月21日 改易。牧野駿河守忠辰に召し預けられる


以下不詳
久保正元 慶長7年 生。吉右衛門
くぼまさもと
貞順松雲軒正俊の男
寛政譜16・199
妻は矢部掃部定清の女

元和元年3月28日 はじめて秀忠に拝謁

元和6年 右筆

寛永6年 父正俊の遺跡を継ぐ。500石


家光の命により曾我丹波守古祐伝の書札法式を受ける

正保3年8月17日 800石

~慶安4年 右筆支配

寛文2年12月22日 1000石

寛文12年12月28日 布衣

延宝5年3月25日 右筆支配を辞す。なお事あるとき登営

延宝5年9月25日 致仕。300俵

延宝6年6月23日 死す
久保光成 慶長9年 生。左兵衛尉。丹後守
くぼみつなり
但馬守近只の男
地下家伝上・564
南都方楽人
宮廷公家系図集覧638
正六位上

寛永10年12月23日 従五位下


左兵衛尉

寛永13年2月25日 丹後守

寛永13年 紅葉山楽人


従五位上

寛永19年8月27日 御切米八十石十五人扶持従当年被下之 ●「日記」

寛永20年9月13日 従京都妻子引越付て小判三十両被下之 ●「日記」

正保4年12月7日 正五位下

慶安4年5月5日 従四位下

明暦2年12月26日 従四位上

寛文2年2月20日
熊谷長左衛門

くまがいちょうざえもん


正保元年8月9日 御徒権左衛門と閻魔堂へ夜中ニ相越無作法之為体其上京極六丸僕従―


―半左衛門女房ヲ相具参候処戯懸及喧嘩事重畳為曲事之間―


―死罪被仰付之 ●「日記」
熊沢久米助

くまざわくめのすけ


(正保元年6月1日) (寺沢兵庫頭証人) ●「日記」



熊沢主馬

くまざわしゅめ


(寛永18年3月27日) (寺沢兵庫頭家中証人) ●「日記」



熊沢忠勝
生。三郎左衛門
くまざわただかつ
丹後吉勝の男
寛政譜17・239
北条十郎氏房に仕える


中村弥右衛門のもとにあり

寛永8年 秀忠に仕える。代官

寛永19年12月10日 200俵 ●「日記」共

(正保3年) 死す
熊野
紀伊国
くまの







熊野竹坊

―たけのぼう







久米清兵衛

くめせいびょうえ 寛永11年3月29日 神明御建立奉行 ●「日記」

寛永11年5月16日 昨日久米清兵衛近藤七右衛門喧嘩則双方相果訖 ●「日記」



倉橋喜兵衛

くらはしきひょうえ
書院番か?

(寛永9年8月6日) 御小広間給仕 ●「日記」

寛永13年10月28日 御進物番 ●「日記」



倉橋忠堯 慶長9年 生。新三郎。宗三郎
くらはしただたか
内匠助政勝の養子。安藤孫四郎政家の男
寛政譜16・183
妻は早川八十郎雪成の女


秀忠・家光に仕える。小姓組。300俵

寛永4年11月10日 死す
倉橋忠政 元和8年 生。善四郎。宗三郎
くらはしただまさ
宗三郎忠堯の男
寛政譜16・184
母は早川八十郎雪成の女


妻は戸田藤右衛門政次の女

(寛永4年) 父忠堯の遺跡を継ぐ。300俵

寛永9年6月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

(寛永17年3月19日) (宗三郎の初出) ●「日記」

寛永17年3月19日 書院番 ●「日記」共

慶安3年9月3日 西丸書院番


本丸に勤仕

延宝7年5月14日 死す
倉橋尚政
生。三五郎。長右衛門
くらはしなおまさ
長右衛門政厚の養子。倉橋勝兵衛政長の男
寛政譜21・315
妻は長右衛門政厚の長女

寛永10年12月3日 養父政厚の遺跡を継ぐ。(1000石)

寛永10年12月3日 倉橋長右衛門遺跡実子三五郎被下之 ●「日記」


小姓組

寛永12年4月15日 中奥の番士

寛永16年4月15日 中奥之御番 ●「日記」


小納戸


勘気を蒙る

寛文3年7月20日 ゆるされて出仕

寛文4年8月11日 小姓組

延宝4年8月17日 死す
倉橋政厚
生。吉次。長右衛門
くらはしまさあつ
長右衛門政範の長男
寛政譜21・315
母は松平次郎右衛門重吉の女


妻は大久保右馬允忠拠の女

(慶長18年) 父政範に継いで秀忠に仕える。小姓組。(1000石)


膳奉行


小納戸

寛永10年10月7日 死す
倉橋政長 天正2年 生。勝兵衛。はじめ羽田を称す
くらはしまさなが
羽田与右衛門政重の次男
寛政譜21・315
母は倉橋宗三郎の女

慶長8年 納戸番

慶長18年 賄頭

正保2年1月23日 死す
倉橋泰吉 慶長4年2月26日 生。蔵人。左近将監。左馬助。民部卿
くらはしやすよし
土御門左衛門佐久脩の三男
諸家伝下・1008
室は冷泉中将為景の次女
宮廷公家系図集覧543 慶長17年12月13日 元服。蔵人。禁色。昇殿。左近将監。正六位上

寛永5年1月5日 従五位下

寛永5年1月11日 左馬助

寛永6年1月5日 従五位上

寛永9年1月5日 正五位下

寛永13年1月5日 従四位下

寛永17年1月5日 従四位上

正保元年1月5日 正四位下

慶安2年1月5日 従三位

慶安2年2月4日 民部卿

明暦元年1月5日 正三位

明暦3年11月22日 民部卿をとどめられる

寛文5年12月23日 従二位

寛文10年9月17日 薨去
鞍馬寺
山城国
くらまでら




鞍馬寺妙寿院
山城国鞍馬寺
―みょうじゅいん




栗原三郎左衛門

くりはらさぶろうざえもん


寛永20年12月18日 三十俵弐人扶持新規御切米被下之 ●「日記」



栗原利実
生。仁右衛門
くりはらとしざね
七郎兵衛利智の養子。諏訪部元入定矩の三男
寛政譜18・408 寛永19年12月10日 養父利智の遺跡を継ぐ。230俵。小普請

寛永19年12月10日 栗原七郎兵衛跡養子仁右衛門 ●「日記」

承応3年7月18日 大番


大番を辞す

貞享元年10月6日 死す
栗原利智
生。七郎兵衛
くりはらとしとも
甲斐国に住す
寛政譜18・408
京都にあり


家康に仕える


小十人。100俵


230俵

~寛永3年 納戸番

寛永18年3月29日 死す
栗山大吉

くりやまだいきち
松平右衛門佐黒田忠之の家臣か

寛永10年3月15日 南部山城守重直に召し預けられる ●「日記」
栗山大膳

くりやまだいぜん
松平右衛門佐黒田忠之に仕える。家老

寛永9年 主君黒田忠之の反逆を幕府に訴える

寛永10年3月15日 南部山城守重直に召し預けられる ●「日記」
久留勝正 寛永8年 生。三十郎。半右衛門。二閑
くるかつまさ
善兵衛正次の三男
寛政譜9・360
母は蒲生飛騨守家臣大津与三郎の女


妻は阿部久五郎貞俊の女


後妻は安藤対馬守家臣小鹿嘉兵衛の女

寛永13年 はじめて家光に拝謁

寛永15年12月6日 父正次の遺跡を賜る。200俵。小普請

寛永15年12月6日 久留善兵衛跡三百石は被召上御切米弐百俵二男三十郎ニ被下之―


―右同断(惣領は各々ニ知行令拝領付)也 ●「日記」

慶安2年6月20日 大番

延宝4年12月8日 蔵奉行

延宝7年4月10日 蔵奉行を辞す。(大番)

宝永4年2月9日 大番を辞す

宝永4年12月14日 致仕。二閑と号す

正徳2年2月20日 死す
久留嶋通清 寛永6年 生。吉松。市兵衛。信濃守
くるしまみちきよ
丹波守通春の長男
寛政譜10・165
母は佐久間備前守安政の女


室は中川内膳正久盛の養女松平信濃守定実の三女


継室は松平土佐守山内忠義の女

寛永13年5月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

(正保元年5月18日) (市兵衛の初出) ●「日記」

明暦元年7月13日 父通春の遺領を継ぐ。豊後国森1万2500石

寛文元年12月28日 従五位下・信濃守

元禄13年9月29日
久留嶋通春 慶長12年 生。右衛門市。越後守。丹波守
くるしまみちはる
右衛門一長親の男
寛政譜10・165
母は福嶋左衛門大夫正則の養女水野久右衛門忠正の女


室は佐久間備前守安政の女

慶長17年 父長親の遺領を継ぐ。豊後国森1万4000石

慶長17年 はじめて家康・秀忠に拝謁

元和2年 来嶋の文字を久留嶋に改める

寛永3年10月3日 従五位下・越後守

(寛永12年6月30日) (丹波守の初出) ●「日記」後世の注記か

(寛永13年2月29日) (丹波守) ●「日記」

(寛永13年5月9日) (越後守) ●「日記」

(寛永13年5月12日) (丹波守) ●「日記」


丹波守

明暦元年2月11日
久留次正 慶長11年 生。善四郎。善兵衛
くるつぐまさ
善兵衛正次の長男
寛政譜9・357
母は蒲生飛騨守家臣大津与三郎の女


妻は石野六左衛門広吉の女

元和5年 はじめて秀忠に拝謁。大番


200俵

寛永10年2月7日 400石

(寛永16年6月23日) (松平外記植村出羽守組大番衆) ●「日記」

(寛永20年10月21日) (善兵衛の初出) ●「日記」

寛永20年10月21日 三丸に勤仕

寛永20年10月21日 従大御番被召出三丸御番被仰付之 ●「日記」

慶安元年3月27日 三丸膳奉行

慶安3年9月20日 西丸に伺候

(慶安4年) 本丸に勤仕

万治2年2月15日 二丸留守居

延宝7年11月27日 二丸留守居を辞す

天和2年4月2日 死す
久留正親 慶長11年 生。七之助。七郎左衛門
くるまさちか
忠兵衛正吉の長男
寛政譜9・361
母は神谷伝十郎政直の女


妻は高木忠右衛門為信の女

寛永元年 はじめて秀忠に拝謁

寛永2年 家光に仕える。大番。250石

寛永10年2月7日 450石

寛永19年5月22日 仮の蔵奉行

寛永19年5月22日 御城米浅草御蔵当座之奉行 ●「日記」

寛永19年11月12日 父正吉の遺跡を継ぐ。500石

寛永19年11月12日 御旗本衆令死去跡被下之但自分之知行御切米何も上 ●「日記」

正保3年2月11日 大番組頭

慶安4年11月21日 500石200俵

万治3年2月9日 目付

万治3年11月23日 死す
久留正次 天正3年 生。善三郎。善四郎。善兵衛
くるまさつぐ
善右衛門正勝の養子。久留総大夫正久の次男
寛政譜9・357
妻は蒲生飛騨守家臣大津与三郎の女

慶長3年 はじめて家康に拝謁。腰物番

元和2年 大番


300石

寛永10年 大番を辞す。小普請

寛永13年1月10日 死す
久留正綱 寛永4年 生。七之丞。忠兵衛
くるまさつな
七郎左衛門正親の長男
寛政譜9・361
母は高木忠右衛門為信の女


妻は飯高弥五兵衛貞次の女

寛永20年3月3日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

承応3年2月27日 小姓組

万治3年12月23日 父正親の遺跡を継ぐ。500石


小姓組を辞す。小普請

寛文元年6月24日 死す
久留正村
生。善四郎
くるまさむら
善兵衛次正の長男
寛政譜9・357
母は石野六左衛門広吉の女

寛永16年6月23日 はじめて家光に拝謁

寛永16年6月23日 久留善四郎惣領之子共初て御目見 ●「日記」


家綱に付属される。守衆。三丸に伺候

慶安3年9月4日 大番。西丸に勤仕

(慶安4年) 本丸に勤仕

天和2年7月12日 父次正の遺跡を継ぐ。400石


大番を辞す

宝永元年8月23日 死す
久留正吉 天正8年 生。忠兵衛
くるまさよし
善右衛門正勝の四男
寛政譜9・361
母は松平次大夫正成の女


妻は神谷伝十郎政直の女

慶長3年5月 家康に拝謁

慶長5年~ 300俵


大番

寛永10年2月7日 500石

寛永18年10月3日 死す
来本半四郎
来本? 成本?
くるもとはんしろう
宇治茶師か

寛永13年11月1日 永井亭保来本半四郎御礼申上是宇治中毎年定納之年貢―


―今度半分依御赦免也 ●「日記」



紅林吉直 天正7年 生。助六郎
くればやしよしなお
助六郎吉治の男
寛政譜10・62
妻は宇佐美勘右衛門長元の女

(天正8年) 父吉治戦死のため大須賀康高に扶助される

天正18年 はじめて家康に拝謁


家康に仕える


徳川忠長に付属される

(寛永9年) 処士

寛永12年 家光に仕える。大番

(寛永13年3月25日) (皆川山城守組) ●「日記」

寛永13年12月13日 300石

慶安元年6月19日 死す
紅林吉永
生。甚左衛門
くればやしよしなが
助六郎吉直の長男
寛政譜10・62
母は宇佐美勘右衛門長元の女


妻は高井市右衛門貞清の女

寛永13年3月25日 はじめて家光に拝謁

寛永13年3月25日 紅林助六郎(子)被召出之 ●「日記」

寛永13年3月25日 皆川山城守組(大番) ●「日記」

寛永13年12月27日 大番 ●「日記」共

慶安元年12月11日 父吉直の遺跡を継ぐ。300石

寛文元年5月28日 大番組頭

寛文2年12月12日 300石200俵

延宝6年5月19日 死す
九郎三郎

くろうざぶろう (寛永13年1月15日) (駿河浅間新宮神主) ●「日記」



黒川善四郎
生。善四郎
くろかわぜんしろう
丹波守正直の長男
寛政譜10・126 寛永13年12月6日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保4年12月25日 大番

承応2年10月23日 死す
黒川徳左衛門

くろかわとくざえもん
松平石見守池田輝澄に仕える

(寛永17年7月26日) (松平石見守家中) ●「日記」

寛永17年7月26日 父子共死罪 ●「日記」



黒川盛至 天正11年 生。与四郎。八左衛門
くろかわもりよし
玄蕃助盛治の男
寛政譜21・244
母は頓宮氏

(元和3年) 父盛治の采地を賜る。800石

寛永9年7月2日 普請奉行

寛永9年7月2日 惣普請奉行 ●「日記」

寛永9年9月2日 幌の指物 ●「日記」

寛永9年12月29日 布衣 ●「日記」共

(寛永9年12月29日) (御普請奉行) ●「日記」

寛永10年12月28日 1800石

寛永10年12月28日 千石御加恩 ●「日記」

寛永12年12月5日 改易 ●「日記」共

慶安元年6月3日 赦免

慶安3年 廩米を賜る

慶安4年11月4日 1800石

明暦3年7月9日 死す
黒沢定幸
生。長六郎。杢助
くろさわさだゆき
次郎右衛門重久の養子。諏訪部宗右衛門定吉の次男
寛政譜10・343 元和元年 はじめて家康に拝謁


大坂の役にて松平右衛門大夫大河内正綱に属す

元和2年 大番

(元和4年) 養父重久の遺跡を継ぐ

寛永2年 加増あり。290石現米40石

寛永4年 馬を預かる

寛文11年 死す
黒沢重治
生。十兵衛。主馬
くろさわしげはる
杢助定幸の長男
寛政譜10・343 寛永11年 はじめて家光に拝謁

寛永15年1月15日 大番 ●「日記」共

~寛文11年 死す
黒田二郎左衛門
寛政譜21・349黒田次郎左衛門吉治のことか。もしくはその男由利の兄か
くろだじろうざえもん


(寛永19年5月22日) (江戸御蔵衆) ●「日記」

寛永19年5月22日 本多八郎兵衛え御預 ●「日記」

(寛永19年7月8日) (御城米蔵奉行) ●「日記」

寛永19年7月8日 斬罪 ●「日記」
黒田高政 慶長17年 生。万吉。官兵衛。市正
くろだたかまさ
筑前守長政の四男
寛政譜7・217
母は家康の養女栄姫保科弾正忠正直の女大凉院


室は本多内記政勝の養妹有馬左衛門直純の女

元和元年5月1日 はじめて家康に拝謁

元和9年10月 筑前国東蓮寺4万石

寛永3年8月19日 従五位下・東市正

寛永10年7月2日 小出大和守吉英の女と縁組 ●「日記」

寛永12年8月6日 本多甲斐守政朝の女と縁組 ●「日記」(内記政勝養妹と同人か)

寛永12年12月21日 本多甲斐守黒田市正祝言被仰付御礼 ●「日記」

寛永16年11月13日
黒田忠之 慶長7年 生。万徳。右衛門佐。筑前守。侍従。松平を称す
くろだただゆき
筑前守長政の長男
寛政譜7・208
母は家康の養女栄姫保科弾正忠正直の長女大凉院


室は秀忠の養女松平甲斐守忠良の女梅渓院


継室は家臣坪坂十右衛門の女

慶長17年12月15日 はじめて家康に拝謁

慶長17年12月18日 御前にて元服。右衛門佐

慶長18年1月21日 秀忠に拝謁。偏諱を賜る。松平の称号を許される

慶長18年2月1日 従五位下

元和8年1月26日 秀忠の養女が入輿

元和9年10月 筑前国福岡城43万3100石

寛永3年8月19日 従四位下・侍従

寛永5年7月26日 室が逝去

寛永10年3月15日 (去年以来寺え入蟄居)御厚免 ●「日記」

寛永10年3月16日 蟄居

寛永10年3月16日 御国被下置 ●「日記」

寛永10年 本領を安堵される

寛永12年1月12日 母が逝去

寛永20年 長崎番衛

正保4年3月28日 筑前守

承応3年2月12日
黒田長興 慶長15年 生。犬万。勘解由。甲斐守
くろだながおき
筑前守長政の三男
寛政譜7・215
母は家康の養女保科弾正忠正直の女栄姫大凉院


室は佐竹修理大夫義隆の女

元和元年5月1日 はじめて家康に拝謁

元和9年10月 筑前国秋月5万石

寛永3年8月19日 従五位下・甲斐守

寛永10年7月28日 縁辺之御礼 ●「日記」

寛永12年1月12日 母が逝去

寛文5年3月20日
黒田長政 永禄11年 生。松寿。吉兵衛。甲斐守。筑前守
くろだながまさ
如水入道孝高の長男
寛政譜7・204
母は櫛橋豊後守伊定の女


室は蜂須賀修理大夫正勝の女


継室は家康の養女保科弾正忠正直の女栄姫大凉院


幼少のとき人質として織田信長のもとに至り秀吉に預けられ長浜に住す

天正9年 秀吉に仕える

天正11年8月1日 450石

天正14年 2450石

天正17年 父孝高の家を継ぐ。豊前国中津川城(1万1500石?)

天正17年6月17日 従五位下・甲斐守

慶長5年6月6日 継室と婚姻あり

慶長5年10月 筑前国福岡城52万3100石

慶長8年3月25日 従四位下・筑前守

元和9年8月4日
黒田長政三女
寛政譜7・209
筑前守長政の三女
寛政譜5・68
母は家康の養女栄姫保科弾正忠正直の女大凉院

寛永12年8月6日 松平右衛門佐妹松平右近大夫嫁娶被仰付之 ●「日記」


松平右近大夫池田輝興に嫁ぐ

寛永14年 松平求馬池田政種を産む


女子を産むか。のちの松平筑前守黒田忠之の養女―


―黒田市正之勝の室


松平万千代池田政成を産むか


以下不詳
黒田半左衛門

くろだはんざえもん
松平筑前守黒田忠之に仕える

(寛永16年12月16日) (松平右衛門佐家中) ●「日記」



黒田孫左衛門

くろだまござえもん
次郎左衛門の男か


寛永19年7月8日時点で存命ではないということか ●「日記」



黒田孫左衛門子





寛永19年7月8日 黒田孫左衛門子男子弐人壱人九壱人二(死罪か) ●「日記」



黒田光之 寛永5年 生。搥万。吉兵衛。左京大夫。右衛門佐。侍従。松平を称す
くろだみつゆき
筑前守忠之の長男
寛政譜7・210
母は家臣坪坂十右衛門の女


室は小笠原右近将監忠真の女

寛永12年1月5日 祖母大凉院に従い大奥にてはじめて家光に拝謁

(寛永13年2月1日) (黒田吉兵衛) ●「日記」

(寛永15年7月22日) (松平吉兵衛) ●「日記」

(寛永17年1月7日) (黒田吉兵衛) ●「日記」

寛永20年12月29日 従四位下・左京大夫

寛永20年12月29日 四品 ●「日記」

(正保元年4月23日) (黒田吉兵衛) ●「日記」

(正保元年9月28日) (黒田左京大夫の初出) ●「日記」

正保4年3月28日 右衛門佐

慶安元年12月28日 偏諱を賜る。松平の称号を賜る

承応3年4月22日 父忠之の遺領を継ぐ。筑前国福岡城43万3100石

承応3年5月23日 父忠之の代の如く長崎番衛

承応3年12月26日 侍従

延宝5年2月28日 次男綱政を嫡子としてその領地を賜る。筑前国福岡城47万3100石

元禄元年12月9日 致仕

元禄15年8月29日 登営のとき杖をゆるされる

宝永4年5月20日
黒田用綱 元和2年 生。三十郎。左京。源右衛門。信濃守
くろだもちつな
信濃守直綱の嗣。近藤平右衛門用勝の六男
寛政譜10・76
母は富田左近将監知信の女


妻は都筑弥左衛門為次の養女本多中務大輔家臣都筑惣左衛門為成の女

寛永元年 直綱の遺跡を賜る。1020石

寛永元年9月11日 はじめて秀忠に拝謁

寛永9年5月27日 書院番

寛永10年2月7日 1220石

慶安3年9月3日 西丸に勤仕

(慶安4年) 本丸に伺候

明暦元年9月10日 徒頭

明暦元年12月29日 布衣

万治3年1月29日 先鉄炮頭

寛文元年閏8月11日 綱吉に付属される。家老。3000石

寛文元年12月28日 従五位下・信濃守

寛文12年11月7日 死す
黒田百大夫

くろだももだゆう
松平筑前守黒田忠之に仕える

(寛永15年7月28日) (松平右衛門佐家中証人) ●「日記」



黒田之勝 寛永11年 生。万吉。官兵衛。右馬頭。市正
くろだゆきかつ
市正高政の養子。松平筑前守黒田忠之の次男
寛政譜7・217
母は黒田忠之家臣坪坂十右衛門の女


室は松平筑前守黒田忠之の養女松平右近大夫池田輝興の女

(寛永12年6月30日) (黒田市正と並記して万吉とあり) ●「日記」

寛永17年3月7日 養父高政の遺領を継ぐ。筑前国東蓮寺4万石

寛永17年3月7日 黒田市正跡目養子万吉ニ被仰付之 ●「日記」

寛永17年3月15日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

慶安4年12月28日 従五位下・右馬頭

承応2年8月 市正に改称

寛文3年7月25日
黒野又右衛門

くろのまたえもん


(寛永18年) 死す

(寛永18年12月4日) (七拾俵ニ五人扶持火之番黒野又右衛門跡右惣領ニ被下之) ●「日記」



黒野又右衛門惣領





寛永18年12月4日 七拾俵ニ五人扶持火之番黒野又右衛門跡右惣領ニ被下之 ●「日記」



黒野主水

くろのもんど
九条幸家に仕える

(寛永17年5月9日) (主水正) ●「日記」



黒屋采女

くろやうねめ
奥平美作守忠昌に仕える

(寛永19年4月19日) (美作守家来) ●「日記」



黒屋数馬

くろやかずま
松平下総守忠明に仕える


松平刑部大輔忠弘に仕える

(正保元年6月1日) (松平鶴松家老) ●「日記」



桑嶋吉宗 文禄元年 生。孫六郎
くわしまよしむね
助左衛門親義の養子。駒井左近勝正の次男
寛政譜17・1
妻は助左衛門親義の長女

慶長11年 秀忠に仕える

元和元年 養父親義の遺跡を継ぐ。300石

~(寛永12年) 馬方

寛文12年6月 死す
桑名二左右衛門

くわなじざえもん
奥平美作守忠昌に仕える

(寛永19年4月19日) (美作守家来) ●「日記」



桑名主馬

くわなしゅめ
奥平美作守忠昌に仕える

(寛永19年4月19日) (美作守家来) ●「日記」



桑山一直 天正6年 生。久八。左衛門佐
くわやまかずなお
修理大夫一晴の養子。九郎五郎一重の次男
寛政譜15・370
室は佐久間備前守安政の女


継室は同養女

慶長元年 はじめて家康に拝謁。家康に仕える

慶長9年 兄一晴の遺領を継ぐ。大和国布施1万6000石

慶長9年8月12日 従五位下・左衛門佐

(慶長11年) 大和国布施新庄1万6000石

元和2年 秀忠に付属される

(寛永10年) 大和国布施新庄1万6000石

寛永13年8月22日
桑山一玄 慶長16年 生。左内。修理亮
くわやまかずはる
左衛門佐一直の男
寛政譜15・371
母は佐久間備前守安政の女


室は仙石兵部大輔忠政の女

寛永2年 はじめて秀忠に拝謁

寛永3年8月19日 従五位下・修理亮

寛永10年7月2日 縁辺組 ●「日記」

寛永13年8月22日 父一直の遺領を継ぐ。大和国布施新庄1万6000石

寛永13年11月1日 亡父左衛門佐跡職依被仰付御礼申上太刀目録并進物献之 ●「日記」

延宝5年8月23日 致仕

貞享元年2月1日
桑山貞利 文禄4年 生。内匠
くわやまさだとし
左近大夫貞晴の次男
寛政譜15・377
妻は桑山修理大夫一晴の女

慶長13年 はじめて家康に拝謁

慶長13年 家康の命により秀忠に仕える。書院番


義兄左衛門佐一直より分知。3000石

寛永9年 父貞晴の遺跡を継ぐ。5500石

寛永9年11月5日 書院番・進物役

寛永9年11月5日 本番御免。進物番 ●「日記」

寛永13年11月23日 死す
桑山貞寄 慶長18年 生。猪兵衛。丹後守。下野守。可斎
くわやまさだより
兄内匠貞利の養子。左近大夫貞晴の四男
寛政譜15・377
妻は屋代越中守忠正の女

寛永15年12月25日 養父貞利の名跡。2000石

寛永15年12月25日 桑山内匠跡職五千五百石之内弐千石養子之弟ニ被下之 ●「日記」

寛永16年1月28日 はじめて家光に拝謁

寛永16年1月28日 桑山内匠死去ニ付て跡目被仰付面々御礼 ●「日記」

寛永16年6月 書院番

明暦2年7月28日 使役

明暦2年12月26日 布衣

寛文6年3月1日 山田奉行

寛文6年12月28日 従五位下・丹後守

貞享元年2月4日 山田奉行を辞す。寄合

貞享元年7月19日 致仕。300俵。可斎と号す

元禄13年9月25日 死す
慶安

けいあん
銀針立


人見慶安か。寛政譜17・218



桂雲院
けいうんいん
相馬長門守義胤の女
寛政譜9・5
母は三分一所左衛門大夫義景の女
寛政譜8・348
岩城忠次郎貞隆に嫁ぐ
羽陰史略
女子を産む。のちの佐竹家臣佐竹源六郎義直の妻
(秋田叢書1・104) 慶長14年 佐竹修理大夫義隆を産む


女子を産む。のちの黒田甲斐守長興の室

万治3年7月8日
鶏足寺
下野国足利小俣。真言宗
けいそくじ




花巌院

けごんいん
大乗院の塔頭か



花蔵院

けぞういん




花徳院

けとくいん


(寛永17年5月9日) (竹内御門跡之内) ●「日記」



玄阿弥

げんあみ


寛永16年9月19日 千代姫君様へ被為付之五十俵ニ五人扶持新規ニ被下之 ●「日記」



玄英玄洪
生。玄英寿洪。真乗院
げんえいげんこう 元和7年 天龍寺198世
読史備要1023

宗派目子

(金地院公文帳81)




源右衛門尉

げんえもんのじょう (寛永13年1月2日) (大工源右衛門尉) ●「日記」



玄海
寂光院
げんかい
天海の弟子か






源空寺
三河国岡崎。浄土宗
げんくうじ


正保元年7月16日 百万遍知恩寺依無主三州源空寺彼住職被仰付之 ●「日記」






源察

げんさつ


(寛永16年4月13日) (知恩院方丈使僧) ●「日記」



玄純
げんじゅん
肥前国背振山中宮霊仙寺五戒坊に住す
背振山修学院HP 寛永2年 東照宮を建立。比叡山より東福院の院号を賜る






玄勝

げんしょう


寛永17年10月8日 井伊掃部頭医師玄勝初て御目見 ●「日記」






元証院宮 寛永10年8月23日 誕生。菊宮
げんしょういんぐう
後水尾天皇の第七皇女
本朝皇胤紹運録
母は秀忠の女東福門院
(群書系図部集1・103) 寛永10年8月29日 御降誕 ●「日記」9月4日条

寛永11年7月15日 薨去
見性寺
京都。浄土宗か
けんしょうじ




玄碩

げんせき


(寛永17年5月9日) (竹内御門跡之内) ●「日記」



建忠寺
甲斐国。臨済宗
けんちゅうじ


寛永19年7月6日 御朱印被下之 ●「日記」



建長寺
鎌倉。臨済宗
けんちょうじ




建仁寺
京都。臨済宗。五山
けんにんじ




現龍院
江戸。東叡山寛永寺。天台宗
げんりゅういん




小池

こいけ
座頭



小池義勝
生。半左衛門。(はじめ宇都宮を称すか)
こいけよしかつ
秀忠に仕える。徒
寛政譜21・63
徒目付


広敷番

(寛文9年) 死す
小泉源右衛門

こいずみげんえもん


(寛永19年5月22日) (御歩行目付) ●「日記」






小泉五郎左衛門

こいずみごろうざえもん


(正保元年8月9日) (初鹿野伝右衛門組之御徒) ●「日記」

正保元年8月9日 被放御扶持 ●「日記」



小泉三河

こいずみみかわ
陰陽寮官人か

(寛永17年7月4日) (土御門三位使者) ●「日記」



小泉吉綱
生。平三郎。次大夫
こいずみよしつな
おじ次大夫吉勝の養子。某氏の男
寛政譜15・67
妻は次大夫吉勝の女

寛永6年 末期養子のため養父吉勝の采地は没収

寛永8年 代官大河内金兵衛久綱に属す

寛永16年 大河内久綱に代わり武蔵国羽生・忍の代官

寛永19年12月10日 200俵 ●「日記」共

慶安3年 死す
小泉吉辰 慶長16年 生。満千代。久弥助
こいずみよしとき
久弥助吉明の男
寛政譜7・1
母は相馬氏


妻は本多中務大輔家臣梶金平勝成の女

元和2年 はじめて秀忠に拝謁


祖父次大夫吉次の采地のうち300石を賜る。小普請

寛永4年11月3日 采地の朱印

寛永20年9月27日 大坂鉄炮玉薬奉行 ●「日記」共

寛文4年8月11日 死す
小出有棟 慶長13年 生。万吉。与平次。大隅守
こいでありむね
大隅守三尹の長男
寛政譜15・21
母は生田宇庵の女


室は安部摂津守信盛の女


継室は金森出雲守重頼の女

元和6年 はじめて秀忠に拝謁

(寛永10年3月1日) (与兵衛) ●「日記」

(寛永10年7月2日) (与平次) ●「日記」

寛永10年7月2日 室と縁組 ●「日記」

寛永19年6月24日 父三尹の遺領を継ぐ。1万石

寛永19年6月24日 小出大隅守死去付跡式息与平次ニ被仰付之 ●「日記」共

万治3年12月28日 従五位下・大隅守

寛文8年9月4日
小出重堅 文禄2年 生。甚太郎
こいでしげかた
遠江守秀家の養子。播磨守秀政の五男
寛政譜15・29
母は安宅氏


妻は秋田安房守盛季の養女佐治与九郎一成の女

慶長14年 兄三尹の人質として江戸に来る。はじめて秀忠に拝謁。月俸50口

元和5年1月 小姓組

寛永元年12月 500俵

寛永10年3月7日 700石

(正保元年1月24日) (甚二郎) ●「日記」

寛文元年 700俵

寛文7年 小姓組を辞す。小普請

寛文8年8月23日 致仕

寛文9年11月7日 死す
小出重政 寛永2年 生。小右衛門。牛右衛門。甚太郎
こいでしげまさ
甚太郎重堅の長男
寛政譜15・29
母は秋田安房守盛季の養女佐治与九郎一成の女


妻は関孫左衛門勝吉の女

正保元年6月16日 書院番 ●「日記」共

正保3年9月3日 家綱に付属される

慶安3年9月3日 西丸に勤仕

(慶安4年) 本丸に勤仕

寛文8年8月23日 父重堅の家を継ぐ。700俵

貞享4年1月3日 死す
小出英知 元和4年 生。宇兵衛。勘兵衛。信濃守。常慶
こいでふさとも
伊勢守吉親の長男
寛政譜15・15
母は本多三弥左衛門正重の女


室は尾張家老成瀬隼人正正虎の養女成瀬伊豆守之成の次女

寛永12年8月6日 成瀬伊豆娘小出対馬子嫁娶被仰付之 ●「日記」

(寛永13年2月29日) (勘兵衛の初出) ●「日記」

寛文7年6月9日 父吉親の家を継ぐ。丹波国園部2万5000石

寛文7年12月28日 従五位下・信濃守

寛文8年7月10日 父吉親の隠栖料分知。丹波国園部2万8000石

延宝元年10月27日 致仕。常慶と号す

元禄8年1月13日
小出尹明 元和2年 生。左兵衛。甚左衛門。宗薫
こいでまさあきら
大隅守三尹の四男
寛政譜15・27
母は金森出雲守可重の女

寛永9年 はじめて家光に拝謁

寛永9年 小姓組。200俵

万治3年12月26日 300俵

寛文3年11月25日 目付

寛文3年12月26日 600俵

寛文3年12月28日 布衣

延宝8年2月6日 先鉄炮頭

天和2年4月21日 500石600俵

天和3年8月10日 先鉄炮頭を辞す。小普請

天和3年12月21日 致仕。300俵。宗薫と号す

元禄元年9月19日 死す
小出尹貞 慶長15年 生。瀬兵衛。右馬助。越中守
こいでまささだ
大隅守三尹の次男
寛政譜15・24
母は生田宇庵の女


妻は宮崎備前守時重の女

元和6年 はじめて秀忠に拝謁

寛永2年 小姓組。300俵

寛永3年 家光の上洛に供奉

寛永8年 小姓

寛永9年9月15日 500石 ●「日記」共

寛永11年1月13日 900石

寛永11年1月13日 四百石御加恩 ●「日記」

寛永12年4月3日 1900石

寛永12年4月3日 御加増千石 ●「日記」

寛永12年12月30日 従五位下・越中守

寛永12年12月30日 諸大夫 ●「日記」

(寛永13年4月11日) (越中守の初出) ●「日記」

寛永13年4月11日 徒頭 ●「日記」共

寛永16年6月11日 2600石 ●「日記」共

寛永18年4月8日 3600石

寛永18年4月8日 御加増千石 ●「日記」

明暦元年2月19日 小姓組番頭

万治3年11月22日 伏見町奉行。禁中の事をうけたまわる

万治3年11月22日 与力10騎同心50人。5000石

寛文5年6月25日 死す
小出三尹 天正17年 生。万助。五郎助。大隅守
こいでみつまさ
遠江守秀家の養子。播磨守秀政の四男
寛政譜15・21
母は豊臣秀吉の姑


室は生田宇庵の女


継室は金森出雲守可重の女


兄秀家の養子となる


豊臣秀頼に仕える

慶長8年 従五位下。(大隅守)

慶長8年 養父秀家の遺跡を継ぐ。2000石


1万石

慶長14年 秀忠に仕える

寛永12年11月27日 遠江国以東の郡奉行

寛永12年11月27日 関東国郡之奉行 ●「日記」

寛永19年4月29日
小出三尹次女
寛政譜15・22
小出大隅守三尹の次女
寛政譜8・195
母は金森出雲守可重の女

寛永15年6月21日 縁辺組被仰付面々小出大隅守娘織田修理亮 ●「日記」


織田修理亮長種に嫁ぐ

寛永16年 織田信濃守秀一を産む


以下不詳
小出吉明
生。小才次
こいでよしあき
木工助吉成の長男
寛政譜15・19
母は能勢次左衛門頼重の女


妻は小出伊勢守吉親の女


後妻は石尾志摩守治昌の女

寛永19年10月11日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保2年6月25日 書院番

慶安3年9月3日 西丸に勤仕

万治元年閏12月18日 父吉成の遺跡を継ぐ。500石


狂気して小出修理亮吉重に召し預けられる


以下不詳
小出吉重 慶長12年 生。万作。伊豆。修理。修理亮
こいでよししげ
大和守吉英の次男
寛政譜15・8
母は保科弾正忠正直の女


室は有馬玄蕃頭豊氏の次女

寛永13年1月15日 有馬玄蕃頭小出大和守祝言之御礼申上 ●「日記」

(寛永17年1月28日) (小出修理太刀目録ニて年頭之御礼申上是従旧冬相煩ヨツテ也) ●「日記」

寛永18年2月25日 はじめて家光に拝謁

寛永18年2月25日 小出大和守子修理御目見 ●「日記」

寛永18年12月30日 従五位下・修理亮

寛永18年12月30日 諸大夫 ●「日記」

寛文6年5月14日 父吉英の遺領を継ぐ。但馬国出石城4万5000石

延宝元年12月12日 致仕

延宝2年1月18日
小出吉親 天正18年 生。助九郎。加賀守。信濃守。対馬守。伊勢守。意閑
こいでよしちか
播磨守吉政の次男
寛政譜15・14
母は伊東掃部助治明の女


室は本多三弥左衛門正重の女

慶長3年 従五位下・加賀守

慶長8年 信濃守


家康・秀忠に拝謁

慶長15年 2000石

慶長18年3月 但馬国出石城2万9700石

元和5年 丹波国園部2万9700石

寛永3年9月 対馬守

寛永19年10月1日 上方郡奉行

寛永19年10月1日 小出対馬守片桐石見守上方関東郡奉行依被仰付御前え被召出 ●「日記」


伊勢守

万治2年7月13日 上方郡奉行を辞す

寛文2年9月30日 養子権之助吉直に分知。丹波国園部2万6700石

寛文7年6月9日 致仕。5000石。意閑と号す

寛文8年3月11日
小出吉親長女
寛政譜15・15
小出伊勢守吉親の長女
寛政譜10・160
母は本多三弥左衛門正重の女

寛永10年7月3日 一柳蔵人直頼と縁組 ●「日記」

寛永19年 一柳兵部少輔直治を産む

正保元年 小出十郎右衛門吉直を産む。小出伊勢守吉親の養子


以下不詳
小出吉親次女
寛政譜15・15
小出伊勢守吉親の次女
寛政譜8・282
母は本多三弥左衛門正重の女

寛永10年7月2日 杉原伯耆守重長と縁組 ●「日記」

~寛永13年
小出吉親四女
寛政譜15・15
小出伊勢守吉親の四女
寛政譜2・151
母は本多三弥左衛門正重の女

寛永10年7月2日 板倉内膳正重矩と縁組 ●「日記」

寛永15年 板倉伯耆守重良を産む

寛永16年 板倉新右衛門重澄を産む

寛永18年 板倉内膳正重種を産む


女子を産む。のちの高木主水正正盛の室


女子を産む。のちの松平対馬守近陣の室


加藤辰之助を産む。加藤織部正直泰の養子。早世か


以下不詳
小出吉親六女
寛政譜15・15
小出伊勢守吉親の六女
寛政譜4・302
母は本多三弥左衛門正重の女

寛永20年12月2日 縁組被仰付之小出対馬守娘井上帯刀 ●「日記」八女か不明


井上帯刀正義に嫁ぐ

寛文4年 井上越中守正晴を産む(八女か不明)


以下不詳
小出吉親八女
寛政譜15・15
小出伊勢守吉親の八女
寛政譜4・302
母は本多三弥左衛門正重の女

寛永20年12月2日 縁組被仰付之小出対馬守娘井上帯刀 ●「日記」六女か不明


井上帯刀正義に嫁ぐ

寛文4年 井上越中守正晴を産む(六女か不明)


以下不詳
小出吉成 慶長9年 生。加賀。木工助
こいでよしなり
播磨守吉政の四男
寛政譜15・19
母は伊東掃部助治明の女


妻は能勢次左衛門頼重の女

元和元年 はじめて秀忠に拝謁

寛永元年 家光に仕える。書院番。500俵

寛永9年11月5日 書院番・進物役

寛永9年11月5日 本番御免。進物番 ●「日記」

寛永10年2月7日 700石

慶安3年9月3日 西丸に伺候


書院番を辞す。小普請

万治元年1月23日 死す
小出吉英 天正15年 生。右京。右京大夫。大和守
こいでよしひで
播磨守吉政の長男
寛政譜15・7
母は伊東掃部助治明の女


室は保科弾正忠正直の女

文禄2年 従五位下・右京大夫

慶長9年 但馬国出石城6万石


但馬国出石城5万石

慶長17年 大和守

慶長18年3月 和泉国岸和田城5万石

元和5年 但馬国出石城5万石

寛文3年8月15日 但馬国出石の銀山を賜る

寛文6年3月9日
小出吉英娘


小出大和守吉英の女 ●「日記」

寛永10年7月2日 黒田市正高政と縁組 ●「日記」



小出吉英長女
寛政譜15・8
小出大和守吉英の長女
寛政譜13・312
母は保科弾正忠正直の女


三浦監物重勝に嫁ぐ

寛永8年 夫重勝が卒

寛永12年8月6日 小出大和守娘山内豊前嫁娶被仰付之 ●「日記」


山内豊前守一唯に嫁ぐ

寛永15年 山内次郎右衛門一輝を産む


女子を産むか。早世か

慶安2年 山内次郎大夫一俊を産む


以下不詳
小岩井五左衛門

こいわいござえもん







小岩井五左衛門子





寛永15年10月17日 御国御免 ●「日記」



幸阿弥長重 慶長4年 生。新次郎。与兵衛
こうあみながしげ
兄長法の嗣。入道法橋久次郎長晏の三男
工芸鏡2・28 (元和4年) 兄長法の遺跡を継ぐか。蒔絵師。200石?

慶安4年2月20日 死す
高運院
こううんいん
保科弾正忠正直の四女
保科略系
母は家康の異父妹久松佐渡守俊勝の女多劫君長元院
(蕗原拾葉12・6)
加藤式部少輔明成に嫁ぐ
寛政譜4・356 寛永12年2月17日 逝去



功雲寺
相模国。曹洞宗
こううんじ




公海 慶長12年 生。毘沙門堂門跡。僧正。阿闍梨。大僧正。准后。久遠寿院
こうかい
花山院少将忠長の長男
宮廷公家系図集覧324
母は東本願寺教如光寿の次女
触頭制度の研究61 元和6年 南光坊天海の嗣となる。剃髪。毘沙門堂門跡
寛永3年 法眼。権僧正

寛永17年4月 阿闍梨

正保元年5月17日 日光山門主宮門跡雖為御賢物依為幼少尓今無下向之間其内は―


―毘沙門堂為後見日光東叡両山之儀如大僧正在世之時可申付之旨―


―被仰出之并大僧正支配之旧知是又毘沙門堂可為進退之旨―


―被仰出 ●「日記」

正保4年10月 僧正

慶安元年3月 大僧正

承応3年 毘沙門堂門跡を尊敬親王に譲る


熊野三山管領


准后

元禄8年10月15日 遷化
晃海 慶長8年9月1日 生。最教院。僧正。金剛寿院
こうかい
出納(平田)大蔵大輔職忠の次男
触頭制度の研究59 慶長16年 比叡山に登る。南光坊天海に師事

慶長19年9月 南谷桜本坊に住す

元和2年 天海に従い関東に下る

寛永7年 江戸城山王城林寺別当

寛永9年 最教院

寛永9年11月28日 院家に准ず ●「日記」

寛永14年 東叡山に日吉社を創建。本覚院を構える

寛永20年 天台宗長吏

正保元年5月17日 門跡為幼少之間日光東叡両山之儀為後見毘沙門堂被仰付候間―


―毘沙門堂亦若僧之条万事無怠懈之様如大僧正時可申付之旨被仰付之―


―次竹林坊権僧正被召出右之旨被仰含之 ●「日記」

慶安4年 江戸崎不動院を兼帯

承応元年9月 鎌倉宝戒寺を兼帯

承応2年 権僧正

承応3年8月 黒子千妙寺を兼帯

明暦2年2月 僧正

万治元年 城林寺と本覚院を妙解院尭海に譲る。本覚院辺に閑居。金剛寿院と号す

寛文3年11月2日 遷化
向嶽寺
甲斐国。臨済宗
こうがくじ


寛永19年7月6日 御朱印被下之 ●「日記」



高岩寺
天台宗
こうがんじ







洪喜男
朝鮮人
こうきなん




郷外記

ごうげき
好仁親王の家臣






高月院
三河国松平郷。松平氏の菩提寺
こうげついん




耕月寺
伊豆国三嶋。曹洞宗
こうげつじ




江月宗玩 天正2年8月18日 生。江月宗玩。大粱興宗禅師
こうげつそうがん
和泉国堺出身。茶人津田宗及の男
大徳寺世譜24 慶長15年11月15日 大徳寺156世

慶長17年10月6日 大粱興宗禅師

寛永18年4月7日 長老なりの御礼 ●「日記」

寛永20年10月1日 遷化
豪俔 (天正15年) 生。双厳院。大僧都。雲蓋院。僧正
ごうけん
出雲国出身
触頭制度の研究75
出雲国鰐淵寺豪村に従い出家


比叡山日光院円空について修学


比叡山延暦寺双厳院。南光坊天海に従う

寛永3年 紀伊徳川家菩提所の東叡山寛永寺真如院に住す


最教院晃海とともに天台宗を管理

寛永18年 紀伊国天曜寺

寛永20年4月17日 権大僧都

正保元年5月17日 門跡為幼少之間日光東叡両山之儀為後見毘沙門堂被仰付候間―


―毘沙門堂亦若僧之条万事無怠懈之様如大僧正時可申付之旨被仰付之―


―次竹林坊権僧正被召出右之旨被仰含之 ●「日記」

慶安3年 守澄親王より雲蓋院の称を賜る

慶安4年11月4日 大僧都

承応2年2月23日 権僧正

承応3年春 真如院と天曜寺を憲海に譲る

承応3年3月11日
光源院
生。市場姫
こうげんいん
松平二郎三郎広忠の女
寛政譜17・81
母は平原助之丞正次の女もしくは戸田弾正少弼康光の女真喜姫
士林泝洄2・229
荒川甲斐守頼持に嫁ぐ
柳営婦女伝系
荒川(穴山)次郎九郎弘綱を産む
(徳川諸家系譜1・137)
荒川平右衛門家儀を産む


女子を産む。のちの松平金弥親能の妻


夫荒川甲斐守頼持が死す


筒井紀伊守順斎政行に嫁ぐ


化粧料700石

文禄元年 化粧料1000石

慶長15年8月3日 夫筒井紀伊守政行が死す

寛永10年2月23日 逝去 ●「日記」

(寛永10年2月23日) (いちは殿権現様御妹分) ●「日記」
高原院 慶長8年 生。春姫
こうげんいん
浅野紀伊守幸長の次女
御系譜
母は池田紀伊守信輝入道勝入の女
(徳川諸家系譜2・199) 慶長14年11月 徳川義直と縁組
幕府祚胤伝 元和元年4月12日 婚姻
(徳川諸家系譜2・42) 寛永10年5月13日 徳川光友と普峰院と同道して江戸に下向
寛政譜5・341 寛永14年4月23日 逝去



高源院
こうげんいん
家康の養女。岡部内膳正長盛の長女
幕府祚胤伝
母は竹谷松平備後守清宗の三女
(徳川諸家系譜2・50) 慶長10年 家康の養女として鍋嶋信濃守勝茂に嫁ぐ。1000石
寛政譜13・288
女子を産む。のちの上杉弾正少弼定勝の室


女子を産む。のちの鍋嶋家臣多久美佐茂辰の妻


満千代を産む。早世

慶長18年 松平肥前守鍋嶋忠直を産む

元和元年 鍋嶋甲斐守直澄を産む


女子を産む。のちの鍋嶋家臣諫早豊前茂敬の妻


鍋嶋山城直弘を産む


女子を産む。のちの鍋嶋家臣神代岡之助常利の妻

元和8年 鍋嶋和泉守直朝を産む


女子を産む。のちの松平主殿頭忠房の室


僧卿公を産む


女子を産む。のち鍋嶋紀伊守元茂の養女。鍋嶋家臣鍋嶋市正直広に嫁ぐ


神代左京直長を産む。鍋嶋家臣神代長門常宣の養子

寛文元年9月6日 逝去
江湖

ごうこ


寛永16年12月5日 酉下刻吉祥寺江湖部屋焼失云々 ●「日記」



郷公
卿公?
ごうこう
南光坊天海の弟子か






光厳院

こうごんいん
三宝院門跡の坊官



上坂勘解由

こうさかかげゆ
生駒壱岐守高俊に仕える

(寛永17年7月26日) (生駒壱岐守家中) ●「日記」

寛永17年7月26日 子共迠死刑 ●「日記」

寛永17年7月29日 今日切腹 ●「日記」
香坂勘右衛門

こうさかかんえもん
蜂須賀阿波守家政の家臣

(寛永13年2月1日) (蜂須賀蓬庵使者) ●「日記」



上坂九左衛門

こうさかくざえもん
勘解由の惣領

(寛永17年7月26日) (生駒壱岐守家来) ●「日記」

寛永17年7月26日 切腹 ●「日記」



上坂丹後

こうさかたんご
勘解由の次男

(寛永17年7月26日) (生駒壱岐守家来) ●「日記」

寛永17年7月26日 切腹 ●「日記」



甲山寺
三河国岡崎。天台宗
こうざんじ




光寿院
こうじゅいん
久松松平隠岐守定勝の四女
久松系図
母は奥平久兵衛貞友の次女
(知多郡史中・1001)
酒井阿波守忠行に嫁ぐ
寛政譜1・293 寛永元年 酒井雅楽頭忠清を産む
寛政譜2・6 寛永5年 酒井日向守忠能を産む

寛永13年11月17日 夫忠行が卒

延宝5年8月9日
光照院 文禄4年 生。名阿姫
こうしょういん
家康の養女。松平隠岐守定勝の次女
幕府祚胤伝
母は奥平久兵衛貞友の次女
(徳川諸家系譜2・50) 慶長10年 家康の養女として松平土佐守山内忠義に嫁ぐ。1000石
寛政譜13・305 慶長14年 松平対馬守山内忠豊を産む


女子を産む。のちの松下石見守長綱の室

慶長18年 山内修理大夫忠直を産む

寛永9年2月23日 逝去

(寛永9年7月29日) 存命? ●「日記」
孝勝院 慶長12年4月21日 生。振姫。利久姫
こうしょういん
秀忠の養女。池田三左衛門輝政の次女
幕府祚胤伝
(母は家康の息女督姫良正院)
(徳川諸家系譜2・67) 慶長16年4月 英勝院の養女として松平越前守伊達忠宗と縁組
寛政譜12・333 元和3年 秀忠の養女として松平越前守伊達忠宗に嫁ぐ


女子を産む。のちの立花飛騨守忠茂の室

寛永元年 虎千代を産む。早世

寛永4年 松平越前守伊達光宗を産む

万治2年2月5日 逝去
光浄院
高常院
こうじょういん
照高院門跡道周法親王の家臣



上野

こうずけ
宝珠院(寧子)に仕える

(寛永17年5月26日) (高松殿御後室) ●「日記」



興善寺
降善寺。浄土宗
こうぜんじ
知恩院伴僧






皓台寺
肥前国長崎。曹洞宗
こうたいじ 慶長13年 開山亀翁良鶴
海雲山皓台寺HP 慶長18年 2世一庭融頓


3世月舟宗林






幸田清治
生。与宗。半左衛門
こうだきよはる
五左衛門継治の養子。松波市右衛門政俊の長男
寛政譜5・377
母は五左衛門継治の女


妻は跡部三郎兵衛重治の女

寛永15年11月6日 はじめて家光に拝謁

寛永15年12月6日 養父継治の遺跡を賜る。200俵

寛永15年12月6日 幸田五左衛門跡三百五十俵之内弐百俵二男与宗ニ被下之―


―右同断(惣領は各々ニ知行令拝領付) ●「日記」

寛永16年4月5日 大番

寛文9年5月12日 大坂弓奉行。300俵

天和2年7月 大坂弓奉行を辞す。小普請

元禄6年12月6日 死す
幸田継治 永禄10年 生。五左衛門
こうだつぐはる
大蔵丞政治の男
寛政譜5・376
妻は北条家臣中村又右衛門の女

文禄元年 家康に仕える。350俵

~慶長5年 大番

(元和2年)~ 徳川忠長に付属される

(寛永9年) 処士。相模国に住す

寛永11年 家光に仕える

寛永12年12月13日 350俵

寛永15年5月18日 死す
幸田友治
生。七兵衛
こうだともはる
五左衛門継治の男
寛政譜5・376
母は北条家臣中村又右衛門の女

慶長10年 秀忠に仕える。大番。200俵

寛永10年2月7日 400石

(寛永18年3月1日) (大久保右京亮教隆組もしくは皆川山城守隆庸組) ●「日記」

慶安元年4月26日 死す
幸田孫助
生。孫助
こうだまごすけ
孫助の次男
寛政譜19・196
鳥見役

寛永8年2月12日 父孫助の采地を賜る。150石 ●「日記」共


鳥見役組頭

(万治3年) 死す
幸田正治
生。右馬助。七左衛門
こうだまさはる
七兵衛友治の男
寛政譜5・376 寛永18年3月1日 はじめて家光に拝謁

寛永18年3月1日 樽代前ニ置一同ニ御目見 ●「日記」

正保元年7月4日 大番

慶安元年12月11日 父友治の遺跡を継ぐ。400石

~寛文9年 400俵

元禄7年2月24日 死す
河内胤正
生。伝七郎。伝右衛門
こうちたねまさ
与兵衛胤盛の四男
寛政譜10・33 寛永8年6月 はじめて家光に拝謁

寛永9年5月 大番。200石

寛永16年10月24日 御鉄炮薬込 ●「日記」

寛永16年10月26日 鉄炮薬込役

寛永18年4月12日 逼塞 ●「日記」共

寛永18年9月5日 ゆるされる

寛永18年9月5日 御赦免仕来御役如前々可相勤 ●「日記」

承応元年9月29日 新番

万治2年12月26日 200石50俵

寛文6年 新番を辞す。小普請

元禄13年10月4日 死す
河内久重
生。太郎兵衛。新右衛門
こうちひさしげ
長左衛門久次の長男
寛政譜10・30 寛永17年3月9日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永19年6月26日 大番 ●「日記」共

正保元年12月25日 200俵 ●「日記」共

慶安元年6月14日 新番

万治2年12月26日 250俵

万治3年12月23日 父久次の遺跡を継ぐ。200石50俵


新番を辞す

天和元年10月24日 新番

元禄9年~ 新番を辞す

元禄16年6月17日 死す
河内久次
生。長三郎。長左衛門
こうちひさつぐ
与兵衛胤盛の次男
寛政譜10・30
秀忠に仕える


徳川忠長に付属される

(寛永9年) 処士か

寛永13年12月10日 家光に仕える

寛永13年12月10日 御赦免 ●「日記」


大番。200石

(寛永17年3月9日) (大御番) ●「日記」


大番を辞す。小普請

万治3年6月14日 死す
河内正次 慶長15年 生。長助
こうちまさつぐ
外祖父勘四郎正明の養子。石川甚兵衛の男
寛政譜10・35
母は勘四郎正明の女


妻は井口長右衛門の女


秀忠に仕える。納戸番。200俵

寛永13年3月11日 納戸組頭 ●「日記」共

慶安4年11月21日 300俵

寛文9年2月22日 死す
勾当内侍
長橋局とも称す
こうとうのないし
女官。奏請や伝宣を担当。長橋に詰める



幸徳井主馬首
友景か? 友種か?
こうとくいしゅめのかみ


寛永17年12月8日 京都ヨリ次飛脚到来幸徳井主馬首如例年御暦辛巳献上之 ●「日記」






幸徳井友景 天正11年 生。陰陽頭
こうとくいともかげ
宮内大輔友豊の嗣。柳生一族安井氏の男
地下家伝中・994
妻は春日社司大中臣家栄(春日神主正真院大膳亮経栄か)の女
宮廷公家系図集覧658 慶長16年12月12日 従五位下


陰陽頭

寛永7年12月16日 従五位上

正保2年3月9日 正五位下

正保2年3月10日
幸了能 慶長4年 生。三郎。清次郎
こうのあきよし
久次郎友能の男
能楽史話344
小鼓方

寛文元年1月15日 死す
河野一郎右衛門

こうのいちろうえもん


(寛永18年10月19日) (公卿殿上人御給仕) ●「日記」



河野氏利 元和4年 生。藤三郎。藤左衛門
こうのうじとし
権兵衛氏勝の長男
寛政譜10・220
母は別所主水信治の女


妻は駒井次郎左衛門昌保の女

寛永4年 父氏勝の遺跡を継ぐ。1200石

慶安3年9月3日 書院番


1200俵


書院番を辞す。小普請

天和3年5月10日 死す
河野氏朝 元和6年 生。権六郎。権兵衛
こうのうじとも
権兵衛氏勝の次男
寛政譜10・222
母は別所主水信治の女

寛永4年 父氏勝の遺跡分知。300石

寛永12年8月15日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永12年11月 小姓組


小姓組を辞す。小普請

寛文元年6月16日 死す
幸氏能 慶長16年 生。五郎左衛門。五郎次郎
こうのうじよし
小左衛門一宗の長男
能楽史話336
小鼓方

慶安2年2月2日 死す(能楽史話では慶長2年に39歳で没すという)
幸一宗 天正15年 生。清五郎。小左衛門
こうのかずむね
五郎次郎正能の次男
能楽史話336 (寛永13年1月2日) (小鼓) ●「日記」

慶安2年1月3日 死す (能楽史話では慶長2年に63歳で没すという)
河野正円
生。正円
こうのしょうえん
松庵通幸の次男
寛政譜10・224 正保元年11月13日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共


以下不詳
河野照辰
生。庄右衛門
こうのてるとき
庄右衛門照盛の次男
寛政譜10・214
徳川忠長に仕える

(寛永9年) 父照盛とともに播磨国に住す

寛永12年 家光に仕える

寛永13年12月10日 御赦免 ●「日記」父庄右衛門照盛か不明

寛永15年12月26日 父照盛の遺跡を継ぐ。500石

寛永15年12月26日 駿河衆河野庄右衛門親跡式五百石被下 ●「日記」

寛永16年6月22日 小姓組 ●「日記」共

元禄14年11月23日 死す。断絶
河野照盛 天正11年 生。庄右衛門
こうのてるもり
新太郎照長の男
寛政譜10・214 ~慶長19年 秀忠に仕える。大番

元和元年~ 徳川忠長に付属される

(寛永9年) 松平石見守池田輝澄に召し預けられる。播磨国に住す

寛永13年12月10日 赦免。500石

寛永13年12月10日 御赦免 ●「日記」次男庄右衛門照辰か不明

寛永15年 死す
河野照良
生。庄大夫
こうのてるよし
庄右衛門照盛の長男
寛政譜10・215
秀忠に仕える。大番。200俵


300俵

寛永10年2月7日 500石

寛永19年~ 大番を辞す。小普請

延宝6年10月23日 死す
河野通重 天正12年 生。勝六郎。権右衛門
こうのみちしげ
勝左衛門盛政の次男
寛政譜10・211
母は小笠原彦三郎長行の女


妻は加賀美才兵衛正光の女


家康に仕える。小姓

慶長 勘気を蒙る。蟄居

元和元年 大坂の役にて井伊掃部頭直孝に属す

元和元年5月7日 ゆるされる

元和元年 大番。300俵

寛永2年9月2日 400石

寛永3年11月 鉄炮頭。徒同心30人を預かる

寛永6年5月 1000石

寛永9年7月13日 与力5騎同心30人を預かる

寛永9年7月13日 与力馬上5騎 ●「日記」

寛永10年12月27日 1500石

寛永10年12月27日 五百石御加増 ●「日記」

正保4年5月6日 勘気を蒙る。閉門

慶安元年6月3日 ゆるされる

慶安2年8月26日 鉄炮頭

慶安3年9月3日 家綱に付属される

慶安4年5月13日 死す
河野通親 寛永3年 生。庄蔵。庄八郎。八左衛門
こうのみちちか
庄右衛門照盛の三男
寛政譜10・216
妻は里見安房守家臣渡辺十右衛門の女

寛永17年2月25日 はじめて家光に拝謁

寛永17年2月25日 於御奥御目見是御近習ニ可被召遣之旨也云々 ●「日記」


近習。月俸を賜る

寛永18年 小姓組

正保元年12月25日 300俵 ●「日記」共

元禄9年2月27日 死す
河野通長
生。熊之介。庄十郎。弥右衛門
こうのみちなが
庄大夫照良の長男
寛政譜10・215 寛永13年9月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保元年7月3日 大番

延宝6年12月6日 父照良の遺跡を継ぐ。500石

貞享元年11月22日 大番組頭

元禄3年9月25日 大番組頭を辞す

元禄4年7月21日 致仕

元禄5年11月25日 死す
河野通成 元和6年 生。左門。伊右衛門。権右衛門
こうのみちなり
権右衛門通重の次男
寛政譜10・212
母は加賀美才兵衛正光の女


妻は小笠原安芸信盛の女

寛永6年2月 はじめて家光に拝謁

寛永12年12月 書院番

慶安4年12月11日 父通重の遺跡を継ぐ。1200石

寛文3年11月25日 使番

寛文3年12月28日 布衣

寛文6年3月19日 長崎奉行。1700石

寛文12年3月17日 長崎奉行を辞す。寄合

延宝8年1月11日 鎗奉行

天和2年4月21日 2200石

貞享4年8月11日 大目付

貞享4年12月9日 出仕をとどめられる

元禄元年4月17日 小普請

元禄元年12月18日 ゆるされる。なお拝謁をはばかる

元禄3年4月17日 ゆるされる

元禄4年11月29日 死す
河野通幸 天正10年 生。五郎左衛門。松庵。大蔵卿。法印
こうのみちゆき
五郎左衛門通縄治伝の男
寛政譜10・223
小早川隆景に仕える


朝鮮の役に従う


長崎に住す。医を学ぶ

元和6年12月4日 家光に仕える。奥医。400俵


御匙

寛永5年5月9日 法印

慶安元年4月8日 死す
河野通幸子





(寛永19年4月4日) ((松庵)右之小児医師并外科之輩妻子等引越ニ付て御暇被下之) ●「日記」



河野通幸妻





(寛永19年4月4日) ((松庵)右之小児医師并外科之輩妻子等引越ニ付て御暇被下之) ●「日記」



幸宗能
生。清六。小左衛門
こうのむねよし
小左衛門一宗の次男
能楽史話337
小鼓方






興福寺
奈良
こうふくじ




興福寺喜多院

―きたいん




興福寺常光院

―じょうこういん




興福寺正法院

―しょうぼういん




興福寺大蔵院

―だいぞういん




興福寺東北院

―とうほくいん




興福寺福園院

―ふくおんいん




興福寺宝蔵院
鎌宝蔵院
―ほうぞういん




興福寺摩尼珠院

―まにじゅいん




興福寺蓮成院

―れんじょういん




光明寺(鎌倉)
相模国鎌倉。浄土宗
こうみょうじ
(前略)
鎌倉光明寺志
30世玄誉随流
(浄土宗全書19・627)
31世深誉伝察


32世円誉廓源


33世業誉還無


34世暁誉位産


35世勝誉旧応


36世日誉源底


(後略)
光明寺(駿河)
駿河国駿東郡。曹洞宗
こうみょうじ




光明寺(西山)
山城国長岡京西山。西山浄土宗
こうみょうじ




光明寺(山形)
出羽国山形。時宗
こうみょうじ (寛永13年2月1日) (最上光明寺) ●「日記」



高野山
紀伊国。真言宗。金剛峯寺
こうやさん




高野山安室

―あんしつ


寛永15年10月17日 御赦免高野山へ参候事無用 ●「日記」



高野山生野坊

―いくのぼう




高野山大坂坊

―おおさかぼう




高野山学侶惣代
高野山学侶方
―がくりょそうだい




高野山観照院

―かんしょういん







高野山北室院
紀伊国高野山
―きたむろいん


寛永19年6月17日 高野山碩学 ●「日記」



高野山尭寿院

―ぎょうじゅいん


寛永15年10月17日 御赦免高野山へ参候事無用 ●「日記」



高野山行人中惣代
高野山行人方
―ぎょうにんちゅうそうだい




高野山桂香院

―けいこういん


寛永15年10月17日 御赦免高野山へ参候事無用 ●「日記」



高野山見寿院

―けんじゅいん


(正保元年1月10日) (文珠院弟子見樹院立詮) ●「日記」






高野山金剛三昧院
紀伊国。高野山塔頭
―こんごうさんまいいん




高野山金勝院

―こんしょういん


寛永15年10月17日 御赦免高野山へ参候事無用 ●「日記」



高野山西南院
紀伊国高野山
―さいなんいん


寛永19年6月17日 高野山碩学 ●「日記」



高野山三十六院
三十六ヶ院の総称か
―さんじゅうろくいん




高野山室性院
紀伊国高野山
―しつしょういん




高野山悉地院

―しっちいん




高野山釈迦文院
紀伊国高野山
―しゃかもんいん




高野山寂静院
紀伊国高野山
―じゃくじょういん




高野山大徳院
紀伊国高野山
―だいとくいん


寛永17年3月3日 高野山宝性院大徳院御目見是今度住職之御礼也 ●「日記」



高野山谷上院
紀伊国高野山谷上院谷地域か
―たにがみいん




高野山中台院

―ちゅうだいいん


寛永15年10月17日 御赦免高野山へ参候事無用 ●「日記」



高野山如意輪寺
紀伊国高野山塔頭
―にょいりんじ




高野山平等院
紀伊国高野山
―びょうどういん




高野山補陀落院
紀伊国高野山
―ふだらくいん


寛永19年6月17日 高野山碩学 ●「日記」



高野山遍照院
遍照光院か?
―へんじょういん




高野山遍照光院
紀伊国高野山
―へんじょうこういん




高野山遍明院
紀伊国高野山
―へんみょういん


寛永19年6月17日 高野山碩学 ●「日記」



高野山宝亀院

―ほうきいん







高野山宝光院

―ほうこういん







高野山宝性院
紀伊国。高野山塔頭
―ほうしょういん


寛永17年3月3日 高野山宝性院大徳院御目見是今度住職之御礼也 ●「日記」



高野山万寿院

―まんじゅいん


寛永15年10月17日 御赦免高野山へ参候事無用 ●「日記」



高野山明王院

―みょうおういん







高野山妙寿院

―みょうじゅいん







高野山無量興院
高野山
―むりょうこういん


寛永19年6月17日 (無量寿院)高野山碩学 ●「日記」



高野山無量寿院
高野山行人中
―むりょうじゅいん




高野山文珠院
高野山
―もんじゅいん

高野山千百年史206 (~天正9年) 勢誉

慶長17年 応昌

正保2年 立詮

寛文4年8月12日 立詮寂



高野山理性院
紀伊国高野山
―りしょういん


寛永19年6月17日 高野山碩学 ●「日記」



高麗寺
相模国大磯。天台宗
こうらいじ







高力高長 慶長10年 生。左近。左近大夫
こうりきたかなが
摂津守忠房の長男
寛政譜8・341
母は真田伊豆守信之の女


室は永井信濃守尚政の女

慶長17年12月8日 はじめて家康に拝謁

元和9年8月6日 従五位下・左近大夫

明暦2年 父忠房の遺領を継ぐ。肥前国嶋原城4万石

寛文8年2月27日 松平亀千代伊達綱村に召し預けられる。仙台に蟄居

寛文8年3月4日 1000俵

延宝4年12月25日 死す
高力高長子
こうりきたかながこ
左近大夫高長の長男
寛政譜8・342 寛永10年2月18日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共



高力忠房 天正12年 生。左近。左近大夫。摂津守
こうりきただふさ
土佐守正長の長男
寛政譜8・340
母は本多助大夫忠俊の女


室は真田伊豆守信之の女

慶長4年6月 はじめて秀忠に拝謁。御前にて元服。偏諱を賜る

慶長4年6月 父正長の遺領を継ぐ。武蔵国岩槻城2万石

慶長10年7月 従五位下・左近大夫

元和3年 奏者番

元和5年9月 遠江国浜松城3万石

(元和9年8月6日) 摂津守

寛永2年7月25日 遠江国浜松城3万1500石

寛永11年8月 遠江国浜松城3万6500石

寛永15年4月13日 肥前国嶋原城4万石

寛永15年4月13日 肥州嶋原え所替被仰付之蒙御加恩 ●「日記」

明暦元年12月11日
高力長房
生。兵部少輔
こうりきながふさ
摂津守忠房の次男
寛政譜8・342
母は真田伊豆守信之の女

寛永7年3月 はじめて家光に拝謁。中奥小姓

寛永8・9年2月15日 死す

寛永10年2月2日 (御目見とあり) ●「日記」
高力政房
生。左京
こうりきまさふさ
摂津守忠房の三男
寛政譜8・343
母は真田伊豆守信之の女。


妻は山崎甲斐守家治の女 ●「日記」

寛永7年5月 はじめて秀忠に拝謁


小姓組

寛永10年7月2日 縁辺組 ●「日記」

明暦2年2月18日 父忠房の遺領分知。3000石。寄合

元禄2年12月14日 致仕

元禄6年3月11日 死す
幸龍寺
江戸。日蓮宗。秀忠の乳母大姥局の開基か
こうりゅうじ 寛永8年5月5日 相続あり ●「日記」



幸若伊右衛門
生。(猪之助)。伊右衛門
こうわかいえもん
以右衛門教信の男
幸若八郎九郎家系図 寛永14年11月25日 幸若猪右衛門跡弐百石実子猪之助ニ被下之 ●「日記」
(幸若舞曲集序説246) (寛永16年4月7日) (猪右衛門の初出) ●「日記」






幸若重信 慶長17年 生。次郎九郎。八郎九郎。柳也
こうわかしげのぶ
八郎九郎義正の長男
幸若八郎九郎家系図
母は浅井備前守家臣坂田吉右衛門の女
(幸若舞曲集序説235)
妻は幸若小八郎安信の六女


秀忠に仕える


家光に仕える


家綱に仕える

寛文11年8月4日 死す
幸若七九郎

こうわかしちくろう
小八郎安林の男か? 小八郎直林か?






幸若忠八郎

こうわかちゅうはちろう
不明。小八郎か






幸若忠八郎子










幸若直林
生。小八郎
こうわかなおしげ
小八郎安林の長男
幸若八郎九郎家系図 (寛永17年12月25日) (七九郎?) ●「日記」
(幸若舞曲集序説248) 元禄9年3月27日 死す



幸若長氏 慶長12年 生。桃井荘左衛門
こうわかながうじ
幸若少兵衛正信の長男
橋本家系図
徳川頼宣に仕える
(幸若舞曲集序説188) 慶安2年3月29日 死す



幸若教信
生。桃井以右衛門
こうわかのりのぶ
幸若忠兵衛茂勝の次男
橋本家系図
母は幸若善右衛門の長女
(幸若舞曲集序説187) 慶長6年5月 豊臣秀頼に仕える。200石
幸若八郎九郎家系図 元和元年 松平忠直に仕える。200石
(幸若舞曲集序説246) (寛永14年) 死す

寛永14年11月25日 幸若猪右衛門跡弐百石実子猪之助ニ被下之 ●「日記」



幸若安清
生。次郎兵衛
こうわかやすきよ
小八郎安信の次男
幸若八郎九郎家系図 寛永10年4月4日 親小八郎跡職 ●「日記」
(幸若舞曲集序説247)




幸若安林
生。七九郎。小八郎。虚白
こうわかやすしげ
小八郎安信の長男
幸若八郎九郎家系図 寛永10年4月4日 親小八郎跡職 ●「日記」
(幸若舞曲集序説247) (寛永13年11月28日) (幸若小八郎の初出) ●「日記」

寛文6年12月20日 死す
幸若安信
生。久八郎。小八郎
こうわかやすのぶ
小八郎呉竹の養子。越前国敦賀斎藤助十郎の召使
幸若八郎九郎家系図
秀忠に気に入られる
(幸若舞曲集序説246) 寛永9年6月18日 死す



幸若良親 慶長2年 生。弥次郎
こうわかよしちか
弥次郎誠重の養子。幸若家脇の(喜田)道内徳左衛門の男
幸若弥次郎家系譜
妻は養父誠重の女
(幸若舞曲集序説275)
13歳にて養父誠重の家を継ぐ
幸若八郎九郎家系図 明暦3年1月19日 江戸大火にて死す
(幸若舞曲集序説241)




幸若義知
生。(伊八郎)。弥次郎
こうわかよしとも
弥次郎良親の長男
幸若弥次郎家系譜
妻は幸若治兵衛の次女
(幸若舞曲集序説275)
17歳のとき弟次郎右衛門資親とともに家光に拝謁
幸若八郎九郎家系図 寛永16年10月21日 幸若猪八郎御扶持方被下之 ●「日記」
(幸若舞曲集序説242) (明暦3年) 父良親の遺跡を継ぐか

寛文12年~ 死す



幸若義正 天正16年 生。清八。八郎九郎。内蔵允
こうわかよしまさ
八郎九郎義門の長男
幸若八郎九郎家系図
母は朝倉義景家臣斎藤氏の女
(幸若舞曲集序説235) 慶長 父義門とともに駿府の家康に伺候

慶安元年11月6日 死す
幸若六左衛門

こうわかろくざえもん
次郎兵衛安清の長男
幸若八郎九郎家系図

(幸若舞曲集序説248)




幸若六之助

こうわかろくのすけ
小八郎安林の縁者か



幸若六之助服之者










五ヶ所之年寄
町年寄か


江戸、京都、大坂、堺、奈良?



久我尭通 慶長13年10月12日 生。勘解由次官。侍従。少将
こがたかみち
中納言通前の長男
諸家伝下・826 元和5年1月5日 従五位下
宮廷公家系図集覧488 元和8年5月11日 元服。勘解由次官

寛永元年12月10日 従五位上

寛永5年2月10日 正五位下

寛永5年2月21日 侍従

寛永8年1月12日 左少将

(寛永18年10月3日) (中将) ●「日記」 弟で養子の広通か不明

寛永19年2月18日
久我広通 寛永3年4月5日 生。侍従。少将。中将。中納言。大将。右馬寮御監。大納言。内大臣。右大臣
こがひろみち
兄少将尭通の養子。中納言通前の次男
諸家伝下・826
母は堀右衛門督秀治の女
宮廷公家系図集覧488 寛永4年1月5日 従五位下

寛永7年1月5日 従五位上

寛永16年5月15日 正五位下。侍従

寛永17年11月23日 元服。禁色。昇殿。従四位下

寛永17年12月20日 左近衛権少将

寛永18年1月5日 従四位上

(寛永18年10月3日) (中将) ●「日記」 兄で養父の尭通か不明

寛永18年12月5日 右近衛権中将。正四位下

寛永19年1月5日 従三位

寛永19年1月11日 右近衛権中将

正保2年 踏歌外弁

正保3年 踏歌外弁

正保3年3月13日 権中納言

正保3年5月26日 帯剣

正保3年7月26日 直衣

正保4年 白馬外弁

正保4年12月7日 正三位

慶安元年1月1日 外弁

慶安2年1月1日 外弁

慶安3年 踏歌外弁

慶安3年2月5日 定敏親王家別当

慶安4年1月1日 外弁

承応元年1月1日 踏歌外弁

承応2年1月1日 踏歌外弁

承応3年12月21日 従二位

承応3年12月28日 正二位

明暦元年1月25日 権大納言

明暦2年 踏歌外弁

明暦2年12月17日 嘉遐親王勅別当

明暦3年 踏歌内弁

明暦3年3月27日 右近衛大将

明暦3年5月3日 右馬寮御監

明暦3年6月26日 神宮伝奏

万治元年 白馬内弁

万治元年1月28日 識仁親王勅別当

万治元年2月2日 神宮伝奏を辞退

万治2年 白馬内弁

万治3年1月1日 内弁

寛文元年9月23日 内大臣。右近衛大将

寛文元年12月21日 右近衛大将をとどめられる。随身。兵仗

寛文3年2月17日 内大臣を辞す

寛文5年1月11日 右大臣

寛文5年1月15日 兵仗

寛文5年3月5日 右大臣を辞す

延宝2年4月12日 薨去
久我通前 天正19年10月14日 生。侍従。少将。中将。中宮権亮。中納言
こがみちさき
兄中将通世の嗣。大納言枝通の次男
諸家伝下・825
室は堀左衛門督秀治の女
宮廷公家系図集覧486 元和元年7月19日 従五位下。元服。昇殿。侍従

元和2年1月5日 従五位上

元和2年1月11日 右少将

元和3年1月5日 正五位下

元和5年12月25日 従四位下

元和6年1月11日 左中将

元和6年閏12月22日 従四位上

寛永元年11月28日 左中将。中宮権亮

寛永3年1月5日 正四位下

寛永4年1月5日 従三位

寛永6年11月9日 中宮権亮をとどめられる

寛永7年1月11日 権中納言

寛永8年1月6日 正三位

寛永11年10月24日 薨去
こくうとうる
オランダ人

寛永 勾留

寛永9年10月1日 オランダへ送還 ●「日記」
国領重次 元和6年 生。万弥。半兵衛
こくりょうしげつぐ
七郎右衛門吉次の長男
寛政譜15・63
母は紀伊家臣嶋崎五兵衛忠祐の女


妻は松平備中守正成の女

寛永13年12月6日 はじめて家光に拝謁

寛永13年12月6日 国領万吉初て御目見 ●「日記」

寛永19年6月26日 大番 ●「日記」共

寛文5年1月5日 蔵奉行

寛文7年12月10日 父吉次の遺跡を継ぐ。580石

寛文10年5月1日 代官

延宝5年閏12月25日 580石200俵

天和2年6月14日 勘定頭に副う。780石200俵

天和2年12月1日 野村彦大夫為政の代官所を支配

天和2年12月27日 布衣

貞享4年8月10日 代官所の支配を辞す

貞享4年9月10日 務をゆるされる

元禄10年7月26日 980石

元禄14年3月10日 死す
小督

こごう
東福門院付女房

(寛永17年5月26日) (国母御方) ●「日記」



御香宮神社
伏見
ごこうのみやじんじゃ




後光明天皇 寛永10年3月12日 生。素鵞宮。紹仁
ごこうみょうてんのう
後水尾天皇の第三皇子
本朝皇胤紹運録
母は秀忠の五女和子東福門院。実母は園贈左大臣基任の女京極局壬生院
(群書系図部集1・103) 寛永19年11月15日 親王
詰所系図 寛永19年12月21日 当月十五日素鵝宮親王宣下有之板倉周防守并権大納言局―
(系図綜覧上・36)
―大岡美濃守注進之 ●「日記」

(寛永20年8月30日) (当今) ●「日記」

寛永20年9月27日 元服

寛永20年10月3日 受禅

寛永20年10月7日 去三日菅宮え就御譲位禁裏新院え行幸之儀式等首尾好相調 ●「日記」

寛永20年11月21日 即位

承応3年9月20日 崩御
小嶋賢広 天正14年 生。忠兵衛
こじまかたひろ
次郎左衛門貞延の男
寛政譜6・139
妻は原田宗馭の女

元和6年11月22日 家光に拝謁。右筆

~寛永11年 200俵

寛文6年8月21日 右筆を辞す。小普請

寛文7年1月30日 死す
小嶋源左衛門
生。源左衛門
こじまげんざえもん
源左衛門正利の男
寛政譜6・133
妻は山田七右衛門直利の女

寛永19年11月12日 父正利の遺跡を継ぐ。230石

寛永19年11月12日 御旗本衆令死去跡被下之但自分之知行御切米何も上 ●「日記」

正保元年11月13日 はじめて家光に拝謁

正保元年11月13日 継目之御礼 ●「日記」

承応3年7月18日 大番

寛文12年 死す
小嶋重俊 元和元年 生。久左衛門
こじましげとし
忠兵衛賢広の養子。蘆屋八郎右衛門忠元の次男
寛政譜6・139
妻は忠兵衛賢広の女

寛永12年12月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共


右筆

寛永14年11月26日 200俵 ●「日記」共

寛文12年12月26日 300俵

延宝7年12月19日 400俵

天和2年11月7日 右筆を辞す

貞享2年12月23日 死す
小嶋忠余
生。助左衛門
こじまただよ
源左衛門正重の長男
寛政譜6・134
母は紀伊家臣上野三郎右衛門忠久の女


妻は鳥居久兵衛忠朝の女


駿府にて幼少より家康に仕える。采地を賜る

~慶長19年 大番


150石50俵

寛永元年9月2日 大番組頭。450石50俵

寛永9年 大番組頭を辞す

正保2年5月3日 死す
児島隼人

こじまはやと
堀尾山城守忠晴の家老



小嶋正朗 元和5年 生。源太郎。金右衛門。孫右衛門。祖休
こじままさあきら
孫右衛門正吉の長男
寛政譜6・135
母は中山猪右衛門勝政の女


妻は酒井与左衛門豊治の女

寛永12年 大番

寛永16年10月23日 腰物持

寛永16年10月24日 御腰物持 ●「日記」

正保4年12月20日 父正吉の遺跡を継ぐ。500石

寛文6年4月7日 仮の伊予国西条代官

寛文10年3月1日 代官をゆるされる。大番

貞享3年6月13日 大番を辞す。小普請

元禄9年7月5日 致仕。祖休と号す

宝永元年3月26日 死す
小嶋正利
生。源左衛門
こじままさとし
源左衛門正重の四男
寛政譜6・133 元和2年 父正重の遺跡を継ぐ。230石。家光に仕える。腰物奉行

寛永19年 死す
小嶋正朝
生。伝兵衛。助左衛門
こじままさとも
助左衛門忠余の男
寛政譜6・134
母は鳥居久兵衛忠朝の女


妻は山角市左衛門勝重の女

寛永16年7月23日 はじめて家光に拝謁

寛永16年7月23日 小嶋助左衛門惣領子樽代を以初て御目見 ●「日記」

正保2年12月19日 父忠余の遺跡を継ぐ。450石50俵

正保4年12月25日 大番

寛文10年5月9日 大番組頭

寛文10年12月25日 450石250俵

延宝7年8月15日 船手

延宝7年12月28日 布衣

貞享元年10月11日 佐竹右京大夫義処に召し預けられる

貞享元年11月14日 八丈嶋に遠流


以下不詳
五条為適 慶長2年4月22日 生。文章得業生。侍従。少納言。文章博士。大内記。大蔵卿。
ごじょうためあつ
参議。中納言。贈大納言
諸家伝下・923
中納言為経の長男
宮廷公家系図集覧523
母は伊勢一身田専修寺門跡大僧正堯恵の女


室は福嶋掃部頭高晴の次女

慶長10年11月7日 穀倉院学問料を給わる

慶長16年11月21日 元服。文章得業生

慶長16年12月30日 従五位下

慶長18年1月12日 侍従

慶長18年7月19日 従五位上

慶長19年1月11日 少納言

慶長19年1月16日 文章博士

元和2年1月5日 正五位下

元和6年1月5日 従四位下

寛永2年1月5日 従四位上

寛永5年1月7日 正四位下

寛永5年4月13日 大内記

寛永9年1月5日 従三位

寛永10年11月12日 大蔵卿。文章博士

寛永16年2月23日 参議。大蔵卿。文章博士

寛永16年12月11日 大蔵卿を辞す

寛永16年12月29日 正三位

(寛永17年4月16日) (宰相の初出) ●「日記」

寛永17年12月9日 文章博士を辞す

寛永20年10月26日 参議を辞す

寛永20年11月28日 直衣

正保4年12月7日 従二位

慶安元年12月22日 権中納言

慶安2年1月12日 帯剣

承応元年2月24日 薨去
五条為庸 元和5年6月23日 生。文章得業生。侍従。文章博士。少納言。大内記。式部権大輔。
ごじょうためのぶ
大学頭。参議。中納言。式部大輔。大納言
諸家伝下・924
中納言為適の長男
宮廷公家系図集覧523
母は福嶋掃部頭高晴の次女


室は南部右衛門尉宣行の女

寛永4年12月13日 穀倉院学問料を給わる

寛永8年11月28日 元服。文章得業生

寛永8年12月18日 従五位下。侍従

寛永10年1月5日 従五位上

寛永14年1月5日 正五位下

寛永17年12月9日 文章博士

寛永18年1月5日 従四位下

寛永18年1月11日 少納言。侍従

寛永19年2月20日 大内記。文章博士を辞す

正保元年1月5日 従四位上

慶安元年1月5日 正四位下

承応3年4月28日 式部権大輔

承応3年12月22日 従三位

明暦元年1月25日 大学頭

万治元年1月6日 正三位

万治2年1月11日 参議。式部権大輔。大学頭

寛文3年6月11日 式部権大輔を辞す

寛文6年12月23日 権中納言

寛文7年1月13日 帯剣

寛文8年1月5日 従二位

延宝元年10月8日 直衣

延宝元年12月27日 正二位

延宝元年12月29日 権中納言を辞す

延宝2年12月28日 式部大輔

延宝5年7月24日 権大納言

延宝5年8月9日 権大納言を辞す

延宝5年8月13日 薨去
小上臈(九条家)

こじょうろう
九条道房女房

(寛永17年5月26日) (九条内府御内) ●「日記」



小上臈(高松宮家)

こじょうろう
宝珠院(寧子)に仕える

(寛永17年5月26日) (高松殿御後室) ●「日記」



五介

ごすけ
江戸日本橋一丁目に住む

(寛永15年11月26日) (日本橋一町目ハ片頬焼但五介家残) ●「日記」



小菅正昭 寛永7年 生。内蔵助
こすげまさあき
八左衛門正重の次男
寛政譜4・241
母は三枝彦兵衛守吉の女


妻は土井大炊頭家臣土井内蔵允政之の女

寛永20年 家光に仕える。小姓

正保元年5月15日 月俸を賜る

正保元年5月15日 御扶持方被下之 ●「日記」

正保4年12月20日 300俵

承応3年4月6日 小納戸

明暦元年12月26日 500俵

万治3年12月1日 700俵

万治3年12月28日 布衣

寛文元年8月16日 閉門

寛文元年12月16日 ゆるされる


小普請

元禄9年1月2日 死す
小菅正重 天正16年 生。猪右衛門。(又八郎)。(次郎八)。八左衛門
こすげまさしげ
小宮山囚獄正成の男
寛政譜4・238
母は小菅遠江守信景の女


妻は三枝彦兵衛守吉の女


母方のおじ小菅摂津守信久に養われ小菅を称す

慶長15年 はじめて秀忠に拝謁


家光に仕える


徳川忠長に付属される。大番組頭

寛永9年 流浪

(寛永10年4月18日) (小菅又八郎) ●「日記」


大番。300石

(寛永13年3月25日) (小菅次郎八)(皆川山城守組) ●「日記」


大番を辞す。小普請

明暦元年8月7日 死す
小菅正武 元和2年 生。伊右衛門。遠江守
こすげまさたけ
八左衛門正重の長男
寛政譜4・238
母は三枝彦兵衛守吉の女


妻は杉浦八郎五郎勝次の女

寛永13年3月25日 小菅次郎八子被召出之 ●「日記」

寛永13年3月25日 皆川山城守組(大番) ●「日記」

寛永13年12月27日 大番 ●「日記」共

慶安元年6月14日 新番

明暦元年12月21日 父正重の遺跡を継ぐ。300石

寛文11年8月14日 小普請奉行

延宝2年 300俵

延宝6年12月27日 500俵

貞享元年12月9日 700俵

貞享2年9月14日 小普請奉行組頭。1000石

貞享2年12月28日 布衣

貞享4年9月10日 勘定奉行。2000石

貞享4年12月25日 従五位下・遠江守

元禄元年11月2日 死す
小菅又八郎

こすげまたはちろう
八左衛門正重のことか



児玉淡路守

こだまあわじのかみ
松平長門守毛利秀就の家臣



小塚右衛門

こづかうえもん
駿河大納言徳川忠長の家臣か?



小塚藤右衛門

こづかとうえもん 寛永11年4月28日 松平肥前守帰国付て為使者小塚藤右衛門差遣付て御礼也 ●「日記」



小塚半弥

こづかはんや
駿河大納言徳川忠長の家臣か?



木造俊宣 天正5年 生。七左衛門
こづくりとしのぶ
市兵衛具次の男
寛政譜8・32
妻は曽我主計頭尚祐の女

慶長17年6月26日 秀忠に拝謁。書院番。200石

寛永10年2月2日 大番組頭 ●「日記」共

寛永10年2月23日 500石

承応元年5月14日 死す
木造俊雅
生。藤左衛門。七左衛門
こづくりとしまさ
清左衛門俊次の長男
寛政譜8・32
母は溝口信濃守家臣坂井修理の女


妻は小笠原源六郎持真の女

寛永19年3月16日 はじめて家光に拝謁

寛永19年6月20日 書院番 ●「日記」共

正保元年12月25日 三百俵 ●「日記」

承応2年3月25日 祖父七左衛門俊宣の遺跡を継ぐ。500石


書院番を辞す。小普請

延宝6年5月20日 死す
小寺八郎兵衛

こでらはちろうびょうえ
松平石見守池田輝澄に仕える

(寛永17年7月26日) (松平石見守家中) ●「日記」

寛永17年7月26日 父子共被行死罪 ●「日記」



後藤源左衛門
生。源左衛門
ごとうげんざえもん
縫殿助益勝の男か? 長崎の人か?

寛永17年1月28日 後藤源左衛門進物前置継目之御礼申上 ●「日記」

(正保元年5月19日) (呉服所之者) ●「日記」



後藤貞朝
生。総左衛門。庄左衛門
ごとうさだとも
宗印入道庄左衛門貞之の長男
長崎畧史上・596 寛永3年 父貞之の家を継ぐ。長崎町年寄

万治元年4月16日 死す
後藤三郎右衛門
三郎右衛門運乗か
ごとうさぶろうえもん
金工






五嶋主膳
生。主膳
ごとうしゅぜん
淡路守盛利の次男
寛政譜3・377 寛永19年 質として江戸に来る

寛永20年7月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保3年 質たる事をゆるされる

正保4年5月19日 死す
後藤虎之助
生。虎之助
ごとうとらのすけ
弥右衛門正冬の長男
寛政譜13・110 正保元年6月4日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共


早世か
後藤広世 慶長11年6月24日 生。庄三郎。少輔三郎。少斎
ごとうひろよ
庄三郎光次の長男
東京市史外編5・259
母は家康の侍女大橋局後藤(嶋津)源左衛門忠正の女

元和元年11月 家康に拝謁

元和2年 酒井雅楽頭忠世の烏帽子子となる。広世と号す

寛永2年9月 父光次の遺跡を継ぐ

寛永9年 秀忠薨去により落髪

正保元年5月 致仕。剃髪して少斎と号す。近江国大津に住す

慶安4年4月 再び江戸に住す

延宝8年3月14日 死す
後藤正次 天正11年 生。九兵衛。六右衛門
ごとうまさつぐ
久印正勝の男
寛政譜13・109
妻は匹五郎兵衛の女

慶長11年 秀忠に仕える。100俵。納戸番

正保2年9月9日 家綱に付属される

明暦3年12月22日 100俵。月俸10口

寛文7年4月22日 死す
後藤正継 天正14年 生。富三郎。源一郎。理兵衛。顕乗。法橋
ごとうまさつぐ
徳乗光基の次男
装剣金工史161 寛永 加賀国前田家に仕える。150石


兄栄乗正光と父光基死去により家督を継ぎ幕府に仕える。250石

寛文3年1月22日 死す
後藤正俊 元和7年 生。猪之助。清九郎。清左衛門
ごとうまさとし
六右衛門正次の男
寛政譜13・109
母は匹五郎兵衛の女


妻は酒井雅楽頭家臣塩沢喜左衛門の女

寛永13年12月15日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永15年1月15日 大番。200俵

寛永15年1月15日 後藤清九郎大御番 ●「日記」

(寛永15年1月15日) (清九郎の初見) ●「日記」

延宝8年7月13日 死す
後藤正冬
生。弥右衛門
ごとうまさふゆ
与右衛門正成の男
寛政譜13・110
妻は神田六兵衛の女


秀忠に仕える。大番

(寛永7年) 父正成の遺跡を継ぐ。200石

寛永10年2月7日 400石

(正保元年6月4日) (皆川山城守組) ●「日記」

寛文5年12月16日 金奉行

寛文8年2月20日 死す
後藤益勝 天正13年 生。生蔵。縫殿允
ごとうますかつ
源左衛門忠正の次男
寛政譜13・112 慶長元年 家康に仕える


家光に付属される。御側に勤仕

(慶長19年) 父忠正の家督を継ぐ

慶長19年 大坂の役にて家康に従う

元和元年 大坂の役にて家光の使者

寛永4年 致仕

寛永4年9月 縫殿寮の口宣を賜る。呉服司


子孫はその業を相続する

(寛永16・17年) 死す

寛永17年1月28日 後藤源左衛門進物前置継目之御礼申上 ●「日記」
後藤光友 永禄6年 生。理右衛門尉。宗恩
ごとうみつとも
長井藤左衛門尉利徳の三男
東京市史外編5・243
弟庄三郎光次について家康に拝謁

寛永17年5月6日 死す
後藤光昌 慶長8年 生。寅市。源一郎。理兵衛。程乗
ごとうみつまさ
顕乗正継の長男
装剣金工史169 元和 後藤九代目理兵衛光昌と改名


加賀国前田家に仕える。30人扶持

明暦2年 後藤覚乗光信死去によりその男演乗光英を後見。300俵

寛文7年 家綱に仕える。100俵。20人扶持

延宝元年9月17日 死す
五嶋盛次 元和4年 生。孫平太。(孫三郎)。孫次郎。(孫平太)
ごとうもりつぐ
淡路守盛利の長男
寛政譜3・376
母は七里氏


室は櫛笥中納言隆朝の女

(寛永9年10月28日) (孫三郎) ●「日記」 既に御目見済か

(寛永17年4月1日) (孫二郎の初出) ●「日記」

(寛永19年閏9月1日) (孫平太の初出) ●「日記」

寛永19年閏9月1日 父盛利の遺領を継ぐ。肥前国福江1万5500石

寛永19年閏9月1日 五嶋淡路守遺跡惣領孫平太被仰付之 ●「日記」

(寛永19年10月1日) (孫次郎) ●「日記」

寛永19年10月1日 はじめて家光に拝謁

寛永19年10月1日 継目之御礼 ●「日記」

明暦元年10月9日
五嶋盛利 天正19年 生。兵部。孫次郎。淡路守
ごとうもりとし
淡路守玄雅の男
寛政譜3・376
母は富永氏

慶長8年 はじめて家康に拝謁

慶長17年 父玄雅の遺領を継ぐ。肥前国福江1万5500石

慶長19年 従五位下・淡路守

寛永19年7月19日
後藤吉勝 文禄2年 生。清三郎。市左衛門
ごとうよしかつ
兄長八郎忠直の嗣。源左衛門忠正の三男
寛政譜13・112
母は武田家臣舘三郎左衛門の女


妻は大岡二郎兵衛直政の女

慶長10年 兄忠直の遺跡を継ぐ。300石

~慶長19年 小姓

元和3年~ 小姓組

寛永10年2月7日 500石


大番

(寛永18年3月1日) (大久保右京亮教隆組もしくは皆川山城守隆庸組) ●「日記」

寛永20年9月12日 死す
後藤良重 元和8年 生。(庄兵衛)。庄三郎
ごとうよししげ
庄三郎広世の養子。後藤程乗光昌の男
東京市史外編5・262
妻は後藤重次の女

寛永18年 養父広世の家を継ぐ。家光に拝謁。金銀改役

正保元年10月28日 後藤庄兵衛御礼申上之黄金二十両献之是後藤庄三郎名代也庄三郎―


―累年依病気令隠居如此也云々 ●「日記」

慶安4年 家光薨去のとき落髪。良清と号す

延宝5年 致仕。京都に住す

宝永4年12月1日 死す
小長谷時住 元和7年 生。七之助。七郎兵衛
こながやときずみ
七郎兵衛時連の養子。大岡次郎兵衛直政の次男
寛政譜6・366 寛永15年12月21日 養父時連の遺跡を継ぐ。300石

寛永15年12月21日 五百石七郎兵衛跡目内弐百石上ル ●「日記」

寛永16年 大番

正保2年6月28日 腰物奉行

天和2年12月19日 弓矢鎗奉行

元禄2年1月5日 死す
小長谷時連 天正19年 生。七郎兵衛
こながやときつら
弥右衛門時重の次男
寛政譜6・366 慶長9年 はじめて秀忠に拝謁

慶長12年 大番

~慶長19年 300石

寛永10年2月7日 500石

寛永11年8月26日 死す
小長谷時尚 慶長13年 生。伊左衛門
こながやときひさ
弥右衛門時重の四男
寛政譜6・368
妻は永田孫次郎正次の女


後妻は小林氏

寛永9年8月19日 はじめて家光に拝謁

寛永9年9月24日 小十人

寛永11年3月22日 100俵

寛永19年12月16日 200俵 ●「日記」共

正保4年9月26日 小十人組頭

慶安4年11月21日 300俵

万治3年12月25日 箪笥奉行

寛文2年10月3日 徳川綱重に付属される。鎗奉行


600俵


甲府副城代

貞享2年12月9日 死す
小長谷与満
生。与左衛門
こながやともみつ
弥右衛門時重の五男
寛政譜6・370
妻は内藤半十郎相次の女


後妻は花井勘左衛門定安の女

寛永9年8月19日 はじめて家光に拝謁

寛永9年9月24日 小十人


100俵

寛永19年12月16日 200俵 ●「日記」共

正保2年閏5月2日 家綱に付属される

慶安3年9月4日 西丸小十人組頭

慶安4年11月21日 300俵

(慶安4年) 本丸に勤仕

万治2年12月19日 小十人組頭を辞す。小普請


大番

延宝3年5月14日 具足奉行

元禄2年4月9日 具足奉行を辞す

元禄3年4月3日 死す
小長谷正次 慶長13年 生。伊右衛門
こながやまさつぐ
五兵衛正栄の長男
寛政譜6・374 元和9年 はじめて秀忠に拝謁。大番。200石

寛永10年2月7日 400石

寛永14年4月5日 死す
小長谷正則
生。伝十郎
こながやまさのり
兄伊右衛門正次の養子。五兵衛正栄の次男
寛政譜6・374 寛永9年 はじめて家光に拝謁

寛永15年12月21日 養父正次の遺跡を継ぐ。200石

寛永15年12月21日 四百石伊右衛門跡目内弐百石上ル ●「日記」


大番

明暦元年9月26日 死す
小長谷政平
生。伊兵衛
こながやまさひら
四郎右衛門時元の男
寛政譜6・371 寛永3年 はじめて家光に拝謁


大番

寛永20年8月8日 新番

寛永20年8月8日 於土圭之間御番相詰其上方々御成之刻御先え参御殿御番等可相勤之旨―


―被仰付之由伊豆豊後列座有之民部少輔伝之中根次郎左衛門組 ●「日記」

正保2年12月19日 父時元の遺跡を継ぐ。1000石

慶安元年3月30日 新番組頭

寛文4年9月10日 新番組頭を辞す。小普請

寛文4年9月24日 死す
小西正法寺
上総国。日蓮宗檀林
こにししょうぼうじ







小西正次 慶長2年 生。助十郎。助右衛門
こにしまさつぐ
助兵衛正重の長男
寛政譜7・346
母は佐々木家臣坪田五郎右衛門の女


妻は吉田弥右衛門正直の女

慶長19年 家康に仕える

慶長19年 秀忠に仕える

元和元年~ 西丸小十人。150俵

寛永3年 200俵


大番

寛永10年2月7日 400石

(寛永13年3月25日) (皆川山城守組) ●「日記」


大番を辞す。小普請

延宝4年4月11日 死す
小西正治
生。彦助。平左衛門。助十郎。正吟
こにしまさはる
助右衛門正次の長男
寛政譜7・346
母は吉田弥右衛門正直の女


妻は須田久左衛門盛正の女

寛永12年 はじめて家光に拝謁

寛永13年3月25日 小西助右衛門子被召出之 ●「日記」

寛永13年3月25日 皆川山城守組(大番) ●「日記」

正保元年7月16日 大番

延宝元年12月21日 納戸番

延宝4年7月12日 父正次の遺跡を継ぐ。400石

元禄3年6月13日 納戸番を辞す

元禄5年7月9日 致仕。正吟と号す

元禄6年6月11日 死す
小西正盛 慶長8年 生。九左衛門
こにしまさもり
助兵衛正重の次男
寛政譜7・347
母は佐々木家臣坪田五郎右衛門の女


妻は隠岐氏

寛永4年11月23日 はじめて秀忠に拝謁


家光に仕える。小十人。100俵

寛永9年8月25日 200俵

寛永19年8月18日 蔵奉行

寛永19年8月18日 浅草方御蔵奉行 ●「日記」

明暦2年 銅瓦釘奉行

寛文9年 務を辞す。小普請

延宝8年7月11日 死す
近衛信尋 慶長4年5月2日 生。少将。中将。播磨権守。中納言。大納言。大将。内大臣。右大臣。
このえのぶひろ
左大臣。関白。応山
諸家伝上・38
関白左大臣信尹の養子。後陽成天皇の第四皇子
宮廷公家系図集覧241
母は近衛関白前久の三女中和門院前子

慶長10年8月27日 元服。昇殿

慶長10年8月30日 左少将

慶長10年12月13日 従四位上

慶長10年12月14日 左中将

慶長11年5月28日 従三位・左中将

慶長12年5月17日 播磨権守・左中将

慶長12年11月11日 権中納言・左中将

慶長16年5月11日 権大納言

慶長16年12月15日 正三位

慶長17年1月17日 権大納言・左大将

慶長17年3月2日 従二位

慶長17年4月26日 内大臣・左大将

慶長19年1月14日 右大臣・左大将

慶長19年6月10日 正二位

元和6年1月7日 従一位

元和6年1月13日 左大臣・左大将

元和6年2月16日 左大将を辞す

元和9年閏8月16日 関白・左大臣。氏長者内覧兵仗牛車

寛永6年8月1日 関白・左大臣を辞す

正保2年3月11日 出家。応山と号す

慶安2年10月11日 薨去
近衛尚嗣 元和8年3月10日 生。少将。中将。中納言。大納言。大将。内大臣。右大臣。左大臣。
このえひさつぐ
関白。妙有真空院
諸家伝上・39
関白信尋の長男
宮廷公家系図集覧241 寛永9年12月12日 元服。正五位下。禁色。雑袍。昇殿

寛永9年12月14日 左少将

寛永10年1月5日 従四位上

寛永10年1月16日 左中将

寛永10年8月5日 従三位

寛永10年11月11日 権中納言

寛永11年1月5日 正三位

寛永11年3月26日 権大納言

寛永12年1月5日 従二位

寛永12年9月4日 右大将

寛永14年11月5日 左大将

寛永14年12月9日 正二位

(寛永15年2月29日) (左大将の初出) ●「日記」

寛永17年11月3日 内大臣・左大将

寛永17年12月25日 近衛内大臣今度為拝任之御礼被献使者并御太刀目録進上之 ●「日記」

寛永18年6月1日 従近衛内大臣殿太刀目録并薫袋五被献之使者御目見是彼本領知―


―悪所ニ付今度被替遣之御礼也 ●「日記」

寛永18年12月2日 右大臣・左大将

寛永20年7月6日 左大将を辞す

正保4年7月3日 左大臣

慶安元年2月14日 従一位

慶安4年12月8日 関白。氏長者。内覧。牛車。随身。兵仗

承応元年8月3日 左大臣を辞す

承応2年7月17日 関白を辞す

承応2年7月19日 薨去
小林一豊
生。理右衛門
こばやしかずとよ
理右衛門重次の男
寛政譜16・166 (寛永元年) 父重次に継いで徳川忠長に仕える。小十人

(寛永9年) 処士

寛永17年10月 家光に仕える。宝蔵番

寛永18年11月15日 芦田武川衆十八人駿州ニて之本知并御切米如前々被下之 ●「日記」

(元禄3年) 致仕か


以下不詳
小林権平二

こばやしごんへいじ


(寛永19年12月10日) (御台所衆) ●「日記」

寛永19年12月10日 三十俵弐人扶持 ●「日記」



小林重氏
生。八兵衛
こばやししげうじ
権平重宣の長男
寛政譜16・162 寛永13年12月27日 大番 ●「日記」共

正保元年6月18日 死す
小林重堅 慶長12年 生。清左衛門。清兵衛。不見
こばやししげかた
兵左衛門重正の男
寛政譜16・156
母は中嶋氏


妻は朝比奈六左衛門昌行の女


持弓与力

(寛永20年4月19日) (御切米八拾石) ●「日記」

(寛永20年4月19日) (松平新五左衛門組) ●「日記」

寛永20年4月19日 只今迠之御番被成御免向後御役可被仰付之間可存其旨之由―


―小十人組御番所之次ニて老中被伝之 ●「日記」


国廻役。中根壱岐守正盛に属す

天和2年4月10日 小十人。250石

貞享3年10月2日 小十人を辞す。小普請

貞享4年7月10日 致仕。不見と号す

元禄3年1月11日 死す
小林重勝(左次兵衛) 天正12年 生。左次兵衛
こばやししげかつ
伝四郎吉勝の五男
寛政譜16・159
妻は小林勝之助正次の女

慶長11年 はじめて家康に拝謁

慶長12年6月 秀忠に仕える。大番

元和2年9月15日 徳川忠長に付属される。留守居役。同心30人。400石

寛永9年 井上河内守正利に召し預けられる

寛永13年9月18日 赦免

寛永13年9月18日 被召出 ●「日記」

寛永15年12月1日 400石

(寛永18年3月1日) (大番の大久保右京亮教隆組もしくは皆川山城守隆庸組) ●「日記」

正保2年 大番

正保2年11月29日 死す
小林重勝(十大夫)
生。右衛門太郎。十大夫
こばやししげかつ
十大夫正吉の次男
寛政譜16・149
妻は高田庄右衛門安政の女


後妻は青沼友右衛門正成の女

寛永7年 はじめて家光に拝謁

寛永12年6月22日 小姓組

寛永15年12月6日 父正吉の遺跡を継ぐ。200石200俵

寛永15年12月6日 小林十大夫跡四百石二男右衛門太郎ニ被下之惣領三郎右衛門は―


―病者ニ付弟ニ可被下之旨依令訴訟也云々 ●「日記」

寛永16年11月10日 継目之御礼 ●「日記」

慶安3年9月3日 西丸書院番

(慶安4年) 本丸に勤仕

寛文5年4月18日 死す
小林重定
生。彦五郎
こばやししげさだ
十郎左衛門時喬の長男
寛政譜18・391
妻は三浦五郎左衛門義武の女

寛永13年7月27日 代官(下野国足利)

寛永13年7月27日 小林十郎左衛門只今迠之御代官所三嶋被仰付之 ●「日記」

寛永13年8月3日 300俵

寛永13年8月3日 小林十郎左衛門於最上山形御切米千俵被下之日来之御切米三百俵―


―子彦五郎ニ被下之 ●「日記」

寛永19年6月22日 私曲により大久保加賀守忠職に召し預け ●「日記」共

寛永19年閏9月29日 中川内膳正久盛に召し預けられる

寛永19年閏9月29日 被処配流中川内膳正へ御預 ●「日記」

慶安4年10月17日 赦免

承応元年12月18日 300俵

(明暦元年) 父時喬の遺跡を継ぐ。1000俵

万治元年10月2日 死す
小林重忠
生。十兵衛
こばやししげただ
伝四郎吉勝の三男
寛政譜16・157 慶長10年 家康に仕える。大番。200俵

寛永12年3月8日 死す
小林重信 寛永8年 生。半弥。次右衛門。左次兵衛
こばやししげのぶ
左次兵衛重勝の長男
寛政譜16・159
母は小林勝之助正次の女


妻は雨宮対馬守正種の女

寛永18年3月 はじめて家光に拝謁

寛永18年3月1日 樽代前ニ置一同ニ御目見 ●「日記」

正保3年2月28日 父重勝の遺跡を継ぐ。400石

慶安元年2月5日 大番

延宝元年9月10日 金奉行

天和元年6月19日 金奉行をゆるされる。小普請

元禄4年5月7日 死す
小林重宣
生。権平
こばやししげのぶ
忠右衛門重正の長男
寛政譜16・162
家康に仕える

慶長19年4月20日 250石の黒印


420石

~寛永3年 秀忠に仕える。小十人

寛永13年10月7日 箪笥奉行

寛永13年10月7日 中根喜蔵元同心小林権平被仰付 ●「日記」

万治2年2月14日 死す
小林勝三郎

こばやししょうざぶろう


寛永17年3月20日 大御番 ●「日記」



小林新七郎
生。新七郎
こばやししんしちろう
新平正重の次男
寛政譜16・162 寛永15年1月15日 御書院番 ●「日記」

寛永16年5月11日 父正重に連座し太田備中守資宗に召し預けられる ●「日記」共

寛永16年5月18日 死罪

寛永16年5月18日 切腹 ●「日記」
小林甚太郎

こばやしじんたろう 寛永13年8月6日 大坂御蔵奉行之小林甚太郎御目見是ハ継目之御礼申上也 ●「日記」






小林千代菊

こばやしちよきく
小林勝之助正直の男(次男正忠か)

寛永16年10月26日 小林勝之助子千代菊初て御目見 ●「日記」



小林時喬
生。十郎左衛門
こばやしときたか
十郎兵衛重勝の男
寛政譜18・391
秀忠に仕える。代官。300俵

(寛永13年7月27日) (十郎左衛門只今迠之御代官所三嶋) ●「日記」

寛永13年7月27日 最上之内五万五千石之御料并延沢銀山御代官 ●「日記」

寛永13年8月3日 1000俵

寛永13年8月3日 於最上山形御切米千俵被下之日来之御切米三百俵―


―子彦五郎ニ被下之 ●「日記」

寛永15年3月7日 酒井長門守最上知行所八千石之地御代官被仰付 ●「日記」


勘気を蒙る

慶安元年6月3日 赦免。1000俵

明暦元年1月20日 死す
小林直次 慶長元年 生。長五郎。次郎大夫
こばやしなおつぐ
長左衛門重成の次男
寛政譜16・151
母は跡部因幡守の女


妻は小林十大夫正吉の女

慶長14年 はじめて秀忠に拝謁


西丸書院番。200石

寛永8年4月10日 小納戸

寛永8年4月10日 奥にて召し使われる ●「日記」


膳奉行

寛永14年11月25日 二丸に伺候。膳奉行

寛永14年11月25日 御本丸御膳奉行之内小林長五郎被相加之―


―二之丸御膳奉行被仰付之 ●「日記」


400石

正保4年2月26日 膳奉行をゆるされる。二丸番

明暦2年1月25日 死す
小林信勝
生。金右衛門
こばやしのぶかつ
藤左衛門宗次の次男
寛政譜16・132 寛永9年8月 家光に仕える。小十人


100俵。月俸3口

寛永16年10月23日 腰物持 ●「日記」共

(寛永18年12月4日) (内田信濃守組) ●「日記」 小姓組か

寛永18年12月4日 父宗次の遺跡を賜る。300俵

寛永18年12月4日 三百俵松平大隅守組小林藤右衛門跡右内田信濃守組二男金右衛門―


―被下之金右衛門取来之百俵ニ三人扶持上ル是惣領太郎助各別ニ―


―御知行依被下之也 ●「日記」

(寛永18年12月29日) (御腰物持衆并御鉄炮薬込之衆) ●「日記」

承応元年9月29日 新番

寛文7年12月8日 金奉行

延宝3年8月5日 死す
小林信吉
生。三郎右衛門
こばやしのぶよし
十大夫正吉の長男
寛政譜16・150
母は松平加賀右衛門康次の女


妻は松平加賀右衛門正次の女


家光に仕える。大番。150俵

寛永15年12月6日 小林十大夫跡四百石二男右衛門太郎ニ被下之惣領三郎右衛門は―


―病者ニ付弟ニ可被下之旨依令訴訟也云々 ●「日記」

延宝2年 死す
小林正勝 慶長元年 生。宗兵衛。権十郎
こばやしまさかつ
角右衛門正重の長男
寛政譜16・135
母は小林五左衛門正時の女


妻は戸田又久直次の女


大番

寛永17年 父正重の遺跡を継ぐ。350石

寛永20年10月21日 家綱に付属される。三丸に伺候

寛永20年10月21日 従大御番被召出三丸御番被仰付之 ●「日記」

慶安3年9月4日 大番。西丸に勤仕

(慶安4年) 本丸に勤仕

寛文5年10月13日 天守番頭

寛文7年2月19日 死す
小林正重(角右衛門) 天正7年 生。角十郎。角右衛門
こばやしまさしげ
勝之助正次の三男
寛政譜16・135
母は紀伊家臣山田但馬の女


妻は小林五左衛門正時の女

文禄4年 家康に仕える。350石

~慶長19年 大番


具足奉行

寛永17年10月7日 死す
小林正重(新平)
生。忠右衛門。新平
こばやしまさしげ
伯父忠右衛門重正の養子。小林又三郎正次の男
寛政譜16・162
家康に仕える。采地を賜る

~寛永3年 秀忠に仕える。小十人


小姓組

寛永10年8月12日 小十人組の頭

寛永10年8月12日 小十人組頭 ●「日記」

寛永10年12月27日 500石加増

寛永10年12月27日 五百石御加増 ●「日記」

(寛永13年12月13日) (布衣) ●「日記」

(寛永15年4月2日) (小十人組之頭) ●「日記」

寛永16年5月11日 酒井因幡守勝久と争論し井上河内守正利に召し預けられる ●「日記」共

寛永16年5月18日 切腹 ●「日記」共
小林正忠 寛永元年 生。(千代菊)。儀右衛門。儀左衛門。惣兵衛
こばやしまさただ
勝之助正直の次男
寛政譜16・128
母は北条家臣上原宗薫の女


妻は小野伝三郎高行の女

(寛永16年10月26日) (小林勝之助子千代菊初て御目見) ●「日記」

寛永18年 はじめて家光に拝謁

寛永18年6月11日 大番

(寛永20年12月18日) (茂右衛門) ●「日記」儀右衛門の誤写か

寛永20年12月18日 200俵

寛永20年12月18日 小林茂右衛門大御番無足当年より御切米弐百俵被下之 ●「日記」

慶安元年6月14日 新番

承応元年12月27日 兄正玄より分知。200石

万治2年12月26日 200石50俵

元禄4年10月28日 新番を辞す。小普請

元禄8年6月10日 死す
小林正綱 慶長15年 生。平十郎
こばやしまさつな
権大夫正吉の長男
寛政譜16・138 元和9年 はじめて家光に拝謁

寛永4年 大番。250俵

寛永10年2月7日 450石

寛永20年12月10日 幕奉行 ●「日記」

寛文元年12月10日 父正吉の遺跡を継ぐ。400石

寛文2年7月27日 450石


幕奉行を辞す

延宝2年4月17日 死す
小林正直 天正4年 生。勝之助
こばやしまさなお
勝之助正次の長男
寛政譜16・124
母は紀伊家臣山田但馬の女


妻は北条家臣上原宗薫の女

天正16年 駿府にて秀忠に仕える。小姓

元和元年~ 大番

元和6年 父正次の遺跡を継ぐ。500石

寛永6年 裏門番頭

承応元年5月29日 死す
小林正生
生。吉大夫。遯也
こばやしまさなり
吉大夫正村の長男
寛政譜16・143
母は加藤久大夫景親の女


妻は小林十大夫正吉の女

(寛永3年) 父正村に継いで徳川忠長に仕える

(寛永9年) 処士

寛永11年 大番。200石

寛永16年10月23日 鉄炮薬込役

寛永16年10月24日 御鉄炮薬込 ●「日記」

承応元年9月29日 新番

万治2年12月26日 200石50俵

延宝4年2月21日 広敷番頭

天和2年4月22日 200石250俵

貞享3年6月14日 広敷番頭を辞す。小普請

元禄5年12月5日 致仕。遯也と号す

元禄11年10月22日 死す
小林正成
生。太郎右衛門
こばやしまさなり
藤左衛門宗次の三男
寛政譜16・133 寛永11年 家光に仕える。小十人


100俵

寛永19年12月16日 200俵 ●「日記」共

正保2年閏5月2日 家綱に付属される

慶安3年9月4日 西丸小十人組頭

慶安4年11月21日 300俵

(慶安4年) 本丸に勤仕

寛文2年 死す
小林政成
生。庄右衛門。吉左衛門
こばやしまさなり
加右衛門政次の男
寛政譜16・164
家光に仕える。小十人。100俵

寛永9年8月25日 200俵


二丸宮番

寛永16年閏11月13日 納戸番 ●「日記」共

正保2年9月9日 家綱に付属される

慶安3年9月4日 納戸番組頭。西丸に勤仕

慶安4年11月21日 300俵

(慶安4年) 本丸に勤仕

寛文元年11月21日 納戸番組頭を辞す

寛文12年1月19日 死す
小林正信
生。文右衛門
こばやしまさのぶ
勝之助正次の七男
寛政譜16・144
妻は阿倍四郎兵衛重真の女


秀忠に仕える。大番。200石

寛永13年 死す
小林正玄 慶長9年 生。平三郎
こばやしまさはる
勝之助正直の長男
寛政譜16・124
母は北条家臣上原宗薫の女


妻は紀伊家臣中根太郎右衛門直信の女

元和8年 大番


腰物持


300俵

寛永11年5月14日 400石

寛永15年5月8日 土圭間番 ●「日記」共


新番

承応元年12月27日 父正直の遺跡を継ぐ。500石

明暦2年4月14日 死す
小林正英 寛永元年 生。長七郎。清兵衛。長左衛門
こばやしまさひで
次郎大夫直次の長男
寛政譜16・152
母は小林十大夫正吉の女


妻は小林三郎右衛門信吉の女

寛永11年 はじめて家光に拝謁

寛永17年3月19日 書院番 ●「日記」共

(寛永19年12月10日) (清兵衛の初出) ●「日記」

寛永19年12月10日 三百俵 ●「日記」

明暦2年4月7日 死す
小林正弘
生。半十郎。加兵衛。又左衛門
こばやしまさひろ
吉左衛門政成の長男
寛政譜16・164 寛永9年8月19日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永13年1月8日 小十人

(寛永19年12月16日) (加兵衛の初出) ●「日記」

寛永19年12月16日 御加恩百俵被下之日来御切米共ニ弐百俵被仰付 ●「日記」

慶安2年2月25日 納戸番

寛文12年7月12日 父政成の遺跡を継ぐ。300俵

天和2年10月29日 死す
小林正吉(権大夫) 天正15年 生。権大夫
こばやしまさよし
勝之助正次の五男
寛政譜16・138 慶長5年 家康に仕える

慶長10年 秀忠に仕える

慶長14年 大番。200俵


350俵

寛永9年 幕奉行

寛永14年9月18日 裏門切手番頭

寛永14年9月18日 御裏切手ノ御番ニ被相加并同心十人被付之 ●「日記」

寛永19年12月15日 400石 ●「日記」共

万治3年12月26日 裏門切手番頭を辞す。小普請

寛文元年閏8月23日 死す
小林正吉(十大夫) (永禄4年) 生。十大夫
こばやしまさよし
平左衛門重正の五男
寛政譜16・149
妻は松平加賀右衛門康次の女

~天正4年 家康に仕える

天正12年~ 大番

文禄元年 200石

寛永元年 弓矢奉行


大番組頭。200石200俵

寛永14年1月12日 死す
小林宗重 慶長9年 生。太郎助
こばやしむねしげ
藤左衛門宗次の長男
寛政譜16・131
秀忠に仕える。大番


腰物持。300俵

寛永11年5月14日 400石

寛永19年6月26日 大番 ●「日記」共

寛文10年11月25日 死す
小林宗親
生。兵吉。文右衛門
こばやしむねちか
文右衛門正信の長男
寛政譜16・144 寛永13年11月24日 父正信の遺跡を継ぐ。200石

寛永13年11月24日 小林文右衛門弐百石子跡目被仰付之 ●「日記」


大番

明暦3年 死す
小林宗次 天正5年 生。藤左衛門
こばやしむねつぐ
勝之助正次の次男
寛政譜16・131
母は紀伊家臣山田但馬の女

文禄4年 家康に仕える

~慶長19年 300俵

元和元年~ 大番


大番を辞す。小普請

寛永18年8月1日 死す

(寛永18年12月4日) (松平大隅守組) ●「日記」
小林宗信 元和8年 生。太郎八郎。六郎左衛門
こばやしむねのぶ
藤左衛門宗次の四男
寛政譜16・134
妻は山高孫兵衛信保の女

寛永11年 はじめて家光に拝謁

寛永15年1月15日 大番 ●「日記」共


200俵

寛文5年12月16日 材木奉行

寛文8年12月25日 300俵

延宝7年3月22日 死す
小林義次
生。善兵衛
こばやしよしつぐ
若狭正忠の次男
寛政譜16・147
母は神応又右衛門の女


妻は岡部喜兵衛正次の女


秀忠に仕える。小十人。100俵

寛永9年8月25日 200俵

寛永15年5月8日 土圭間番 ●「日記」共

慶安元年6月14日 新番

寛文元年2月17日 死す
小堀政一 天正7年 生。作助。遠江守
こぼりまさかず
新助正次の長男
寛政譜16・107
母は礒野丹波守員正の女


室は藤堂和泉守高虎の養女藤堂玄蕃頭嘉清の女

慶長9年 父正次の遺領を継ぐ。1万2460石


備中国松山城を預かる。備中国務を司る

慶長13年 従五位下・遠江守

元和3年 河内国奉行

元和5年 近江国1万2460石

元和8年 近江国奉行

元和9年 伏見奉行

寛永11年 畿内の訴訟をあずかりきく

(寛永17年7月29日) (大坂定番) ●「日記」

正保4年2月6日
小堀政孝
生。熊之助。三郎兵衛
こぼりまさたか
九郎兵衛正十の長男
寛政譜16・116
母は竹中丹後守重門の女

寛永11年 はじめて家光に拝謁

寛永13年8月9日 小姓組 ●「日記」共

(寛永18年10月19日) (三郎兵衛の初出) ●「日記」

正保元年12月25日 父正十の遺跡を継ぐ。3000石 ●「日記」共

延宝元年10月21日 致仕

貞享元年8月9日 死す
小堀正十
生。九郎兵衛
こぼりまさとお
次左衛門正行の長男
寛政譜16・116
妻は神尾備前守元勝の女


後妻は竹中丹後守重門の女

元和2年8月 はじめて秀忠に拝謁。父正行の遺跡を継ぐ。3000石

元和5年4月 書院番。西丸に勤仕


本丸に勤仕

寛永10年6月14日 書院番・進物役

寛永10年6月14日 進物番 ●「日記」

正保元年4月4日 死す
小堀正憲 寛永4年 生。左吉。源兵衛。仁右衛門
こぼりまさのり
仁右衛門正春の長男
寛政譜16・118
母は藤堂将監嘉以の養女小川坊城宰相俊昌の女


妻は小堀遠江守政一の女

正保元年11月10日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

慶安元年8月3日 書院番

寛文5年9月5日 父正春の職を見習う

寛文12年7月12日 父正春の遺跡を継ぐ。600石。近江国八幡代官

元禄5年3月29日 死す
小堀正春 文禄4年 生。左馬助。仁右衛門
こぼりまさはる
新助正次の四男
寛政譜16・118
母は横浜氏


妻は藤堂将監嘉以の養女小川坊城宰相俊昌の女

慶長16年 はじめて秀忠に拝謁

~慶長19年 書院番


西丸に勤仕


400石

寛永9年 本丸に勤仕

寛永10年12月19日 600石

寛永10年12月19日 御加増被下之弐百石 ●「日記」

正保4年3月20日 代官(近江国八幡?)

寛文12年閏6月17日 死す
小堀正之 元和6年 生。雅楽。大膳。備中守
こぼりまさゆき
遠江守政一の次男
寛政譜16・109
母は藤堂和泉守高虎の養女藤堂玄蕃頭嘉清の女


室は建部丹波守政長の女


継室は森川庄九郎氏之の長女

寛永6年 はじめて秀忠・家光に拝謁

寛永20年12月2日 縁組被仰付之森川孫九郎娘小堀大膳 ●「日記」

正保4年8月21日 父政一の遺領を継ぐ。1万1460石

正保4年 近江国小室1万1460石

万治3年12月28日 従五位下・備中守

延宝2年8月24日
小堀政代
生。権三郎。新右衛門
こぼりまさよ
次右衛門正行の三男
寛政譜16・117 寛永7年 はじめて秀忠に拝謁

寛永8年 西丸小姓組

寛永9年 本丸に勤仕


200石

慶安3年9月3日 家綱に付属される

承応元年12月15日 死す
駒井勝定
生。孫助。太郎左衛門。六郎左衛門。孫四郎
こまいかつさだ
孫四郎勝重の長男
寛政譜3・224
妻は向井兵庫頭正綱の女

寛永7年 はじめて家光に拝謁


大番

寛永20年8月8日 新番

寛永20年8月8日 於土圭之間御番相詰其上方々御成之刻御先え参御殿御番等可相勤之旨―


―被仰付之由伊豆豊後列座有之民部少輔伝之玉虫八左衛門組 ●「日記」

明暦2年12月21日 父勝重の遺跡を継ぐ。530石

万治3年3月17日 死す
駒井勝重
生。孫四郎
こまいかつしげ
左近勝正の長男
寛政譜3・224 慶長4年 はじめて家康に拝謁

慶長5年 秀忠に仕える

~慶長19年 小姓組

元和元年~ 勘気を蒙る。処士

元和8年 大番

~寛永2年 330石

寛永10年2月7日 530石

明暦2年11月8日 死す
駒井親昌 慶長18年 生。孫三郎。右京
こまいちかまさ
右京親直の男
寛政譜3・227
妻は内藤石見守信広の女

元和6年3月3日 はじめて秀忠に拝謁

寛永5年 中奥に伺候

寛永7年10月28日 小姓

寛永8年 父親直の遺跡を継ぐ。1800石。寄合

寛永9年1月2日 書院番

~寛永16年 小姓組

寛永19年10月2日 小姓組組頭

寛永19年10月2日 御小姓組久世大和守隊之組頭 ●「日記」

寛永19年12月30日 布衣 ●「日記」共

慶安元年6月13日 新番頭

延宝4年10月13日 新番頭を辞す

延宝5年10月23日 死す
狛市正

こまいちのかみ (寛永11年5月15日) (松平伊予守家中証人) ●「日記」






駒井長成 文禄4年 生。清兵衛。清左衛門
こまいながなり
次郎右衛門昌長の次男
寛政譜3・220
母は高坂弾正忠昌忠の女


妻は松波五郎右衛門勝安の女


秀忠に仕える。300石。大番

(寛永19年10月2日) (清左衛門の初出) ●「日記」

寛永20年5月15日 大坂金奉行 ●「日記」共

慶安3年9月29日 死す
駒井長治
生。孫七郎。孫左衛門。清左衛門
こまいながはる
清左衛門長成の長男
寛政譜3・220
母は松波五郎右衛門勝安の女

寛永13年9月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永15年1月15日 大番 ●「日記」共

慶安3年12月11日 父長成の遺跡を継ぐ。300石


大番を辞す。小普請

寛文9年4月29日 死す
駒井昌信 慶長12年 生。長五郎。次郎左衛門
こまいまさのぶ
次郎左衛門昌保の長男
寛政譜3・216
母は市川宮内助の女


妻は竹尾四郎兵衛俊勝の女

寛永2年 家光に仕える

寛永4年 小姓組

寛永9年 書院番

寛永19年 父昌保の遺跡を継ぐ。2170石

(寛永19年6月1日) (次郎左衛門) ●「日記」

寛永19年6月1日 継目之御礼 ●「日記」

承応3年8月12日 死す
駒井昌保 天正16年 生。長五郎。次郎左衛門
こまいまさやす
次郎右衛門昌長の長男
寛政譜3・215
母は高坂弾正忠昌忠の女


妻は市川宮内助の女

慶長8年 はじめて秀忠に拝謁

慶長10年~ 父昌長の家を継ぐ。870石

慶長17年 書院番

元和元年 大坂の役にて松平越中守定綱隊にあり

元和2年 1170石


(秀忠・家光の上洛のとき宿割役)

(寛永5年) (家光の日光社参に従う)

寛永9年7月2日 普請奉行

寛永9年7月2日 惣普請奉行 ●「日記」

寛永9年9月2日 幌の指物 ●「日記」

寛永9年12月29日 布衣 ●「日記」共

(寛永9年12月29日) (御普請奉行) ●「日記」

寛永10年12月28日 2170石

寛永10年12月28日 千石御加恩 ●「日記」

寛永19年1月6日 死す
駒井吉成 元和元年 生。勘作。助左衛門。はじめ桑嶋を称す
こまいよしなり
桑嶋孫六郎吉宗の長男
寛政譜3・228
母は桑嶋万機親義の女


妻は安藤佐大夫の女

寛永16年10月18日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共


馬預

万治3年12月26日 150俵

延宝7年 駒井に改める

天和2年6月13日 死す
高麗喜右衛門(1)
生。喜右衛門
こまきえもん
網すき

(寛永13年) 死す
高麗喜右衛門(2)
生。喜右衛門
こまきえもん
喜右衛門の男

寛永13年12月28日 網すき高麗喜右衛門跡目被仰付之 ●「日記」



駒木根政次 天正18年 生。長次郎
こまきねまさつぐ
右近利政の養子。駒木根源右衛門利久の男
寛政譜15・58
妻は戸田半平光正の女

慶長13年 はじめて家康に拝謁。小姓

元和5年 700石

寛永9年8月18日 使番 ●「日記」共

寛永9年11月27日 布衣 ●「日記」共

寛永11年5月14日 御加恩千石 ●「日記」

寛永11年5月15日 1700石

正保2年~ 使番を辞す

寛文元年11月21日 致仕

寛文12年5月29日 死す
後水尾天皇 慶長元年6月4日 生。三宮。政仁
ごみずのおてんのう
後陽成天皇の第三皇子
本朝皇胤紹運録
母は近衛前関白前久の息女中和門院
(群書系図部集1・99) 慶長5年12月28日 親王
詰所系図 慶長15年12月23日 元服
(系図綜覧上・33) 慶長16年3月27日 受禅

慶長16年4月12日 即位

寛永6年11月8日 譲位。太上天皇

慶安4年5月6日 落飾。円浄と号す

延宝8年8月19日 崩御
五味政長
生。金次郎。金右衛門
ごみまさなが
備前守豊直の長男
寛政譜13・316
母は塚原次左衛門昌重の女


妻は岡部内記吉次の女

元和8年 家光に仕える。書院番

寛永9年12月27日 200俵 ●「日記」共

(寛永11年7月21日) (金右衛門の初出) ●「日記」

万治2年11月24日 死す
小宮山右衛門

こみやまうえもん 寛永9年8月19日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」






小宮山勝親
生。伝九郎。少庵
こみやまかつちか
喜左衛門宣重の三男
寛政譜4・233
妻は河野権右衛門通重の女

慶長16年 はじめて秀忠に拝謁

寛永4年 兄喜左衛門宣勝より分知。300石


大番

寛永10年2月7日 500石

万治3年2月23日 大番組頭

寛文元年12月12日 500石200俵

延宝3年2月10日 大番組頭を辞す。小普請

天和2年12月18日 致仕。少庵と号す

元禄9年7月12日 死す
小宮山安次
生。清四郎
こみやまやすつぐ
清右衛門安重の男
寛政譜4・233
妻は長田理助吉久の女


秀忠に仕える

寛永19年5月22日 浅草蔵当座奉行

寛永19年5月22日 御城米浅草御蔵当座之奉行 ●「日記」

(承応2年) 死す
小宮山吉重 元和7年 生。長左衛門
こみやまよししげ
長兵衛吉成の男
寛政譜4・229 寛永元年 父吉成の遺跡を継ぐ。300石

寛永4年 はじめて家光に拝謁

寛永13年12月27日 書院番 ●「日記」共

寛永18年4月12日 逼塞 ●「日記」共

寛永18年9月5日 ゆるされる

寛永18年9月5日 御赦免仕来御役如前々可相勤 ●「日記」

寛文5年5月7日 死す
小宮山吉広
生。十右衛門。十左衛門
こみやまよしひろ
長兵衛吉次の次男
寛政譜4・229 元和6年 家光に仕える。大番


200石

寛永10年2月7日 400石

寛永20年11月7日 新番 ●「日記」共

寛文3年 死す
こめす
米須か




(正保元年6月25日) (琉球中山王使者馬上之従者黄はちまき) ●「日記」



米屋弥右衛門

こめややえもん
小田原石垣普請の棟梁 ●「日記」

寛永12年12月5日 日編棟梁米屋弥右衛門尉死罪 ●「日記」
後陽成天皇 元亀2年12月15日 生。和仁。周仁
ごようぜいてんのう
贈太上天皇陽光院誠仁親王の第一皇子
本朝皇胤紹運録
母は新上東門院准三后晴子勧修寺贈内大臣晴右の女
(群書系図部集1・98) 天正12年1月15日 親王
詰所系図 天正14年9月20日 元服
(系図綜覧上・32) 天正14年11月7日 受禅

天正14年11月25日 即位

慶長16年3月27日 譲位

元和3年8月26日 崩御
五郎兵衛(大工)

ごろうびょうえ
中井正純配下か

(寛永14年11月1日) (大工)



五郎兵衛(能)

ごろうびょうえ
能役者か






こは
強か
こわ
大奥女中か


緋子と強と寿林で三老女とされたか



権右衛門

ごんえもん
中井正純配下か

(寛永14年11月1日) (大工)



金戒光明寺
京都黒谷。浄土宗
こんかいこうみょうじ
(前略)
黒谷誌要 慶長15年6月 26世琴誉盛林
(浄土宗全書20・379) 元和2年 盛林退隠

元和2年8月 27世桑誉了的

寛永2年11月 了的が増上寺へ転住

寛永3年4月 28世往誉潮呑

寛永12年 潮呑退隠

寛永12年11月 29世忍誉源授

正保元年11月2日 源授寂

正保3年4月 30世眼誉呑屋

承応元年 呑屋退隠


(後略)
金慶院

こんきょういん
天台僧か

(寛永17年4月19日) (日光山法会に着座) ●「日記」



金剛王院
相模国。箱根神社別当。真言宗
こんごうおういん




金剛寺
武蔵国岩槻
こんごうじ




金剛證寺
伊勢国朝熊。真言宗のち臨済宗
こんごうしょうじ




金剛定寺
下野国宇都宮。真言宗
こんごうじょうじ




金剛頼勝 慶長4年 生。二郎四郎。孫次郎。右京。金剛大夫
こんごうよりかつ
兄金剛大夫三郎勝久の嗣。金剛大夫右京勝吉の次男
能楽史話284
喜多七大夫長能の後見を受ける

正保4年 死す
権三郎
進藤信成か?
ごんざぶろう


(寛永17年5月8日) 観世座ワキ方か ●「日記」



権十郎

ごんじゅうろう
能役者か






金生寺

こんしょうじ




金蔵院
伊勢国鈴鹿。天台宗
こんぞういん




権田伊左衛門

ごんだいざえもん
奥平美作守忠昌に仕える

(寛永19年4月20日) (奥平美作守家来下奉行) ●「日記」



権大納言局

ごんだいなごんのつぼね
橋本中将実勝の女
宮廷公家系図集覧295
東福門院の上臈



権田二郎兵衛

ごんだじろうびょうえ


(寛永15年12月9日) (御鳥見権田二郎兵衛百俵ニ弐人扶持) ●「日記」

(寛永15年) 死す
権田二郎兵衛惣領





寛永15年12月9日 御鳥見権田二郎兵衛跡百俵ニ弐人扶持惣領被下之 ●「日記」



権太泰重
生。九郎七郎。平右衛門。市右衛門。無徳
ごんたやすしげ
小十郎泰朝の長男
寛政譜15・105
妻は山角市左衛門勝重の女

寛永20年3月3日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

慶安2年12月26日 大番

寛文6年12月11日 父泰朝の遺跡を継ぐ。800石

元禄4年8月22日 大番を辞す。小普請

元禄5年7月9日 致仕。無徳と号す

元禄7年1月17日 死す
権太泰朝
生。小十郎
ごんたやすとも
平大夫泰成の長男
寛政譜15・105
妻は小野源右衛門高盛の女

寛永5年 はじめて家光に拝謁

(寛永7年) 父泰成の遺跡を継ぐ。600石


大番

寛永10年2月7日 800石

寛文6年 死す
金地院
京都南禅寺。臨済宗。僧録
こんちいん 慶長15年 1世本光国師以心崇伝。駿府城下に建立
金地院由緒書
京都南禅寺旧地に建立
(金地院公文帳231) 元和5年 江戸に建立。両院体制

寛永10年1月20日 以心崇伝寂

寛永10年6月18日 2世最岳元良

明暦3年4月15日 最岳元良寂



近藤市正
生。金弥。太郎兵衛
こんどうかずまさ 寛永10年3月
寛政譜19・127
徒目付


押太鼓役

寛永18年6月25日 御歩行目付近藤太郎兵衛太鼓役被仰付之 ●「日記」

(延宝7年) 死す
近藤貞用 慶長11年 生。勘助。登助。語石
こんどうさだもち
登助季用の男
寛政譜13・386
母は加々爪甲斐守直澄の養女某氏の女


妻は尾張家臣小笠原三郎右衛門政吉の女

慶長17年 父季用の遺跡を継ぐ。遠江国井伊谷3050石

慶長17年 家康に拝謁。徳川頼宣に付属される

元和6年 秀忠に仕える。祖父石見守秀用より分知。遠江国井伊谷3140石

元和8年 書院番

寛永2年7月27日 遠江国井伊谷3230石

寛永8年 祖父秀用の遺跡分知。遠江国井伊谷5450石

寛永8年 鉄炮頭。祖父秀用の同心50人を預かる

寛永9年7月13日 与力5騎同心50人を預かる

寛永9年7月13日 与力馬上5騎 ●「日記」

寛永9年12月19日 布衣 ●「日記」共

寛永19年7月27日 坂部三十郎屋代越中守近藤登之助右之面々従当年壱人宛相替―


―水口御番可相勤之旨上意趣朽木民部少輔被伝之所謂―


―一番坂部三十郎二番屋代越中三番近藤登之助 ●「日記」

承応3年12月19日 百人組頭

延宝3年2月27日 百人組頭を辞す。寄合

天和2年5月29日 致仕。語石と号す

元禄9年2月2日 死す
近藤重直 慶長17年 生。百千代。織部。道休
こんどうしげなお
信濃守政成の男
寛政譜13・407
母は柘植氏


妻は井上新左衛門の女

元和4年12月13日 はじめて秀忠に拝謁

元和4年12月16日 父政成の遺領を継ぐ。信濃国川中嶋5000石。寄合


信濃国伊那郡5000石

天和2年5月29日 致仕。道休と号す

貞享2年4月13日 死す
近藤七右衛門

こんどうしちえもん 寛永11年5月16日 昨日久米清兵衛近藤七右衛門喧嘩則双方相果訖 ●「日記」






近藤十郎左衛門

こんどうじゅうろうざえもん
松平上総介忠輝に仕える

正保元年8月23日 上総介之家来近藤十郎左衛門去比令自殺之由従諏訪出雲注進之 ●「日記」
近藤登正
生。与兵衛
こんどうのりまさ
半兵衛秀正の長男
寛政譜14・2
母は彦坂八兵衛成光の女


妻は新見彦左衛門正勝の女


秀忠に仕える。小姓


大番


(240石)

元和元年 大坂の役にて高木主水正正弘に属す

元和元年 下総国340石


代官

(寛永13年5月28日) (近江御代官) ●「日記」

承応元年1月11日 先手弓頭

承応元年12月28日 布衣

承応2年閏6月29日 死す
近藤秀用 天文16年 生。勘助。登助。平右衛門。石見守
こんどうひでもち
石見守康用の長男
寛政譜13・384
母は鈴木六郎三郎の女


妻は本多庄左衛門信俊の女

~永禄12年 家康に仕える

天正10年 大久保忠世に属す

天正12年 井伊直政に属す

天正19年~ 井伊直政のもとを退去

慶長7年 秀忠に仕える。5000石。鉄炮足軽50人

慶長10年 上洛のとき鎗奉行

慶長19年 相模国小田原城番。三丸に住す。1万5000石

元和元年 小田原城番をゆるされる

元和元年 次男用可に5000石と足軽50人を分知。1万石

(元和5年) 遠江国井伊谷1万石

元和6年 嫡孫貞用に分知。遠江国井伊谷6860石

元和7年 遠江国井伊谷8860石

寛永2年2月10日 従五位下・石見守

寛永2年9月2日 遠江国井伊谷8940石の朱印

寛永8年2月6日 死す
近藤平右衛門

こんどうへいえもん
紀伊家臣

(寛永17年9月9日) (紀伊亜相使者) ●「日記」



近藤正勝
生。五左衛門。八兵衛
こんどうまさかつ
五左衛門正次の男
寛政譜13・400
母は中根次郎左衛門の女


妻は蜂屋九郎左衛門善成の女


徳川忠長に仕える

寛永9年~ 家光に仕える

(寛永20年8月30日) (芦田武川衆) ●「日記」

寛永20年8月30日 家綱に付属される。三丸に近侍。200石

寛永20年8月30日 若公様え被為附之三丸御殿御番被仰付之 ●「日記」

慶安3年9月4日 大番

天和元年10月3日 死す
近藤政勝
生。助右衛門。平左衛門
こんどうまさかつ
助右衛門正玄の男
寛政譜13・412
母は加藤左馬助家臣奥山増右衛門の女


妻は鈴木杢之助重利の女


また土屋勘左衛門正次の女を娶る

正保元年 父正玄の遺跡を継ぐ。300俵

正保元年11月13日 はじめて家光に拝謁

正保元年11月13日 継目之御礼 ●「日記」

~寛文元年 大番

寛文9年3月7日 代官


大番


大番を辞す。小普請

元禄8年8月12日 死す
近藤正次
生。五左衛門
こんどうまさつぐ
八兵衛正忠の長男
寛政譜13・400
妻は中根次郎左衛門の女


家康に仕える

天正18年 300石。18騎の頭

元和2年~ 徳川忠長に付属される

(寛永9年) 処士

寛永15年10月5日 死す
近藤正利
生。二郎八。源左衛門。宗済
こんどうまさとし
権左衛門正成の男
寛政譜13・410
母は喜連川左馬頭家臣逸見駿河の女


妻は清水平左衛門恒豊の女

寛永13年11月24日 父正成の遺跡を継ぐ。200石

寛永13年11月24日 近藤権左衛門弐百石子跡目被仰付之 ●「日記」

寛永13年12月21日 はじめて家光に拝謁

寛永13年12月21日 跡目之面々権右衛門子近藤二郎八(御目見) ●「日記」

正保元年6月30日 大番 ●「日記」共

慶安元年9月25日 綱吉に付属される


神田館にて使番


致仕。宗済と号す

宝永2年3月8日 死す
近藤正成
生。権左衛門
こんどうまさなり
源蔵乗正の男
寛政譜13・410
妻は稲垣善右衛門政重の女


後妻は喜連川左馬頭家臣逸見駿河の女


秀忠・家光に仕える。200石。納戸番

寛永13年 死す
近藤正則
生。市左衛門
こんどうまさのり
市左衛門正直の男
寛政譜14・311
家康に仕える

永禄7年 針崎合戦にて負傷。歩行かなわず

某年 死す
近藤正玄
生。助右衛門
こんどうまさはる
助右衛門正勝の男
寛政譜13・412
妻は加藤左馬助家臣奥山増右衛門の女


家光に仕える。小十人


小十人組頭。300俵

正保元年5月24日 死す
近藤用清 慶長13年 生。勘七郎。勘右衛門
こんどうもちきよ
勘右衛門用政の男
寛政譜13・395
母は中川市助忠保の女


妻は紀伊家臣近藤平右衛門用勝の女


後妻は奥田半兵衛忠一の女

寛永2年 父用政の遺跡を継ぐ。1000石

~寛永3年 書院番

寛永10年2月7日 1200石

寛永10年6月14日 書院番・進物役

寛永10年6月14日 進物番 ●「日記」

寛永16年5月1日 徒頭

寛永16年5月1日 御歩行頭被仰付之斎藤摂津守元組也 ●「日記」

寛永18年12月29日 布衣 ●「日記」共

正保4年1月12日 持筒頭

慶安4年4月 日光山へ家光の霊柩に従う

延宝4年5月20日 死す
近藤用治 慶長19年 生。縫殿助
こんどうもちはる
縫殿助用可の次男
寛政譜13・389
母は松平越後守家臣小栗美作の女


妻は天方備前守通直の女

(元和8年) 父用可の遺跡を継ぐ。遠江国気賀5000石

寛永元年 庶兄用行に分知。遠江国気賀3000石

寛永2年7月27日 遠江国気賀3350石の朱印

寛永8年 祖父秀用の遺跡分知。遠江国気賀3900石。本坂越の関を守る

延宝6年10月25日 死す
近藤用弘 寛永5年 生。勘七郎。伝九郎。作左衛門
こんどうもちひろ
勘右衛門用清の長男
寛政譜13・396
母は紀伊家臣近藤平右衛門用勝の女


妻は能勢惣右衛門頼之の女

寛永17年2月13日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保2年6月25日 小姓組

慶安3年9月3日 西丸に勤仕

(慶安4年) 本丸に勤仕

延宝4年7月12日 父用清の遺跡を継ぐ。900石

延宝7年2月5日 屋敷改

延宝8年11月3日 目付

延宝8年12月28日 布衣

天和2年4月21日 1400石

天和3年1月11日 先鉄炮頭

元禄元年1月11日 持筒頭

元禄3年8月27日 持筒頭を辞す。寄合

元禄4年7月21日 致仕

宝永6年8月1日 死す
近藤用将 元和8年 生。数馬。彦九郎。入山
こんどうもちまさ
彦九郎用義の男
寛政譜13・392
母は井上主計頭正就の養女竹田十左衛門の女


妻は本多美作守忠相の女

寛永8年 祖父秀用の遺跡分知。5450石

寛永10年7月2日 縁辺組 ●「日記」

万治元年9月8日 定火消

万治元年閏12月28日 布衣

寛文3年11月18日 持筒頭

延宝元年4月14日 百人組頭

天和2年2月27日 百人組頭を辞す。寄合

貞享元年7月19日 致仕。300俵。入山と号す

元禄7年1月5日 死す
近藤用行 慶長9年 生。八兵衛。五左衛門
こんどうもちゆき
縫殿助用可の長男
寛政譜13・390
妻は阿倍四郎右衛門正之の女


後妻は渡辺図書助宗綱の女

寛永元年 弟縫殿助用治より分知。2000石。寄合

寛永8年 祖父石見守秀用の遺領分知。2400石

寛永9年7月5日 徒頭 ●「日記」共

寛永10年2月19日 宇治茶詰 ●「日記」

寛永9年12月 布衣

寛永10年12月27日 3000石

寛永10年12月27日 五百石御加増 ●「日記」

(寛永13年12月13日) (布衣) ●「日記」

寛永16年5月13日 徒頭を辞す

寛永16年5月13日 依為病者御役御免云々 ●「日記」

慶安4年6月18日 鉄炮頭

寛文4年11月4日 死す
権八郎

ごんぱちろう


寛永14年8月22日 能竜田の太鼓をつとめる ●「日記」



金春氏慶
生。彦九郎。惣右衛門
こんぱるうじよし
惣右衛門一峰の嗣
能楽史話373
太鼓方



金春一峰 天正11年 生。音松。彦九郎。惣右衛門
こんぱるかずみね
彦三郎長詰の男
能楽史話373
妻は金春安照の女


太鼓方

正保元年1月8日 死す
金春三助

こんぱるさんすけ
能役者



金春重勝
生。七郎。宗竹。金春大夫
こんぱるしげかつ
金春大夫氏勝の長男
能楽史話267 (慶長15年) 金春大夫

寛永11年9月4日 死す
金春次郎右衛門

こんぱるじろうえもん
能役者



金春新介

こんぱるしんすけ
能役者



金春太郎右衛門

こんぱるたろうえもん
能役者



金春彦九郎

こんぱるひこくろう
能役者



金春平兵衛
生。平兵衛。はじめ大蔵を称すか
こんぱるへいびょうえ
八左衛門安喜の養子。大蔵庄左衛門の男
能楽史話271 寛永14年8月17日 能鵺のシテをつとめる ●「日記」


養父安喜が本家元信と義絶のとき安喜より勘当される



金春元信 寛永3年 生。八郎。金春大夫
こんぱるもとのぶ
金春大夫重勝の男
能楽史話267 (寛永11年) 父重勝死去により金春八左衛門安喜の後見を受ける

(寛永12年1月2日) (今春大夫) ●「日記」

(寛永14年8月17日) (八郎) ●「日記」


金春八左衛門安喜と義絶

元禄16年4月29日 死す
金春安喜 天正16年 生。新五郎。八左衛門。浄元
こんぱるやすよし
金春大夫八郎安照の次男
能楽史話267
金春源左衛門の養子となる
能楽史話270 (慶長15年) 実兄七郎氏勝死去により家伝の相伝を受ける

寛文元年6月15日 死す
権兵衛

ごんびょうえ


寛永16年1月28日 内かし町火事出来家屋焼失云々 ●「日記」



興福院
大和国。浄土宗。尼寺
こんぶいん


寛永15年11月1日 興福院比丘尼捧進物御目見是年来取来寺領中給之処―


―去年被寄附之御礼也 ●「日記」



根孫左衛門

こんまござえもん


寛永18年4月14日 火之番御役被仰付之是ハ此以前不念之儀有之て御役改之雖召上之―


―久々御奉公仕候者之儀ニ故元之ことく火之番ニ被召加之 ●「日記」



紺屋五郎右衛門
京都紺屋。江戸紺屋頭土屋五郎右衛門か?
こんやごろうえもん


(寛永15年12月28日) (京混屋五郎右衛門) ●「日記」



言誉
駿河三河遠江。浄土宗か
ごんよ




金立院

こんりゅういん
天台僧か

(寛永17年4月19日) (日光山法会に着座) ●「日記」

Sheet 3: さ行

最胤法親王 永禄6年 誕生。二品。梶井門跡。天台座主
さいいんほっしんのう
応胤法親王の嗣。伏見宮邦輔親王の第七王子
古代豪族系図集覧51
正親町天皇の猶子となる

(天正末年か) 梶井門跡


天台座主

寛永16年1月13日 薨去
西王院

さいおういん
青蓮院門跡坊官

(寛永14年10月1日) (青蓮院御門跡坊官) ●「日記」



西園寺公益 天正10年4月20日 生。侍従。中将。中納言。大納言。内大臣。真空院
さいおんじきんます
右大臣実益の男
諸家伝上・171 天正11年11月26日 従五位下。侍従
宮廷公家系図集覧291 天正16年9月19日 従五位上

天正17年1月13日 元服。禁色。左中将

慶長元年6月28日 正五位下

慶長2年1月5日 従四位下

慶長16年4月21日 従四位上

慶長17年1月5日 正四位下

慶長18年1月6日 従三位

慶長19年7月24日 権中納言

元和2年1月5日 正三位

元和3年1月11日 権大納言

元和5年3月25日 従二位

元和6年1月5日 正二位

寛永8年12月15日 内大臣

寛永9年1月 内大臣を辞す

(寛永11年7月21日) (内府) ●「日記」

寛永12年1月5日 従一位

寛永17年2月17日 薨去
西園寺公満 元和9年 生。侍従。中将。中納言
さいおんじきんみつ
左大臣実晴の長男
諸家伝上・172
室は松平周防守松井康重の四女
宮廷公家系図集覧292 寛永元年1月5日 従五位下

寛永4年1月5日 従五位上

寛永5年1月7日 正五位下

寛永8年12月9日 侍従

寛永9年1月7日 禁色。左中将。元服。昇殿

寛永9年1月11日 従四位下

寛永12年1月5日 従四位上

寛永13年1月5日 正四位下

寛永15年1月5日 従三位。左中将

寛永18年1月11日 正三位。権中納言

(寛永18年4月10日) (中納言の初出) ●「日記」

慶安2年2月4日 権中納言を辞す

慶安2年4月3日 従二位

慶安4年7月20日 薨去
西園寺実晴 慶長6年 生。侍従。中将。参議。中納言。大納言。大将。内大臣。
さいおんじさねはる
右大臣。左大臣。性永
諸家伝上・171
内大臣公益の長男
宮廷公家系図集覧291 慶長16年11月23日 従五位下

慶長18年1月5日 従五位上

慶長18年11月28日 侍従

慶長19年1月5日 正五位下

元和元年1月13日 元服。禁色。昇殿。左中将

元和元年8月25日 従四位下

元和2年1月5日 従四位上

元和5年1月5日 正四位下

元和5年7月13日 参議。左中将

元和7年1月5日 従三位

寛永4年6月22日 権中納言

寛永5年2月10日 正三位

寛永7年1月5日 従二位

寛永9年1月11日 権大納言

寛永11年1月6日 正二位

寛永12年 神宮伝奏

寛永14年12月17日 右大将

寛永15年1月6日 右大将を辞す

寛永17年2月17日 神宮伝奏を辞す

寛永17年9月20日 権大納言を辞す

慶安2年7月28日 厩別当

慶安2年12月2日 内大臣

慶安3年閏10月23日 内大臣を辞す

承応3年6月17日 右大臣

承応3年12月28日 右大臣を辞す

万治3年12月28日 従一位

寛文7年4月8日 左大臣

寛文7年11月5日 随身。兵仗

寛文8年5月27日 左大臣を辞す

寛文12年10月4日 入道。性永と号す

延宝元年1月11日 薨去
最岳元良
生。大寧。良長老
さいがくげんりょう
南禅寺黄金院
金地院由緒書 (寛永8年4月17日) (良長老) ●「日記」
(金地院公文帳274) (寛永10年6月18日) (金地院) ●「日記」

寛永10年6月18日 御礼是は国師跡目 ●「日記」

寛永10年6月26日 国師跡五百石 ●「日記」

(寛永13年12月27日) (金地院最長老) ●「日記」

明暦3年4月15日 遷化
雑賀孫一郎

さいかまごいちろう (寛永12年9月6日) 水戸家臣 ●「日記」






崔義吉
朝鮮人
さいぎきち




三枝守全 慶長15年 生。源八郎。内匠。能登守。隠岐守。全心
さいぐさもりあきら
勘解由守昌の長男
寛政譜17・384
母は諏訪因幡守頼水の女


妻は小出大隅守三尹の女

元和6年12月27日 はじめて秀忠に拝謁

寛永16年7月23日 以太刀目録御目見是最前雖致御目見―


―今度父勘解由被召出已後初て也 ●「日記」

寛永17年9月14日 父守昌の遺領を継ぐ。7000石

寛永17年9月14日 三枝勘解由遺跡壱万石之内七千石惣領内匠―


―三千石弟勘兵衛被下之 ●「日記」

慶安3年11月19日 書院番頭

慶安4年8月16日 従五位下・能登守

明暦元年9月10日 7000俵

延宝4年5月21日 書院番頭を辞す。寄合

延宝4年12月6日 致仕。全心と号す

延宝8年5月26日 死す
三枝守恵 文禄4年 生。宗四郎。土佐守
さいぐさもりしげ
彦兵衛守吉の長男
寛政譜17・394
母は三枝土佐守昌吉の女


妻は内田平左衛門正世の女

慶長10年 はじめて秀忠に拝謁

元和2年9月15日 家光に付属される

元和4年 小姓。200石

元和9年11月 小十人頭。400石。布衣


しばしば転役するも昵近のまま

寛永2年 1000石

寛永3年3月11日 小姓組組頭

寛永3年12月24日 従五位下・土佐守

寛永5年 3000石

寛永10年4月3日 書院番頭 ●「日記」共

寛永10年4月23日 6000石

寛永10年4月23日 3000石御加恩 ●「日記」

寛永12年 与力10騎同心20人を預かる

寛永19年3月19日 書院番頭を辞す

慶安4年4月20日 殉死
三枝守俊 寛永8年 生。宗四郎。摂津守。松音
さいぐさもりとし
土佐守守恵の長男
寛政譜17・395
母は内田平左衛門正世の女


妻は丹羽式部少輔氏信の女

寛永18年4月22日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

慶安4年8月14日 父守恵の遺跡を継ぐ。5000石。寄合

明暦2年11月5日 小姓組番頭

明暦2年12月26日 従五位下・摂津守

万治3年11月25日 書院番頭

寛文10年9月14日 大番頭

延宝7年8月12日 近習

延宝8年8月12日 駿府城代。8000石

元禄8年12月25日 駿府城代を辞す

元禄9年7月5日 致仕。300俵。松音と号す

宝永5年10月9日 死す
三枝守知
生。平六。善右衛門
さいぐさもりとも
彦兵衛守吉の次男
寛政譜17・400
母は三枝土佐守昌吉の女


妻は川井小左衛門正元の女

慶長19年 はじめて家康に拝謁。家康に仕える

元和元年~ 御傍に勤仕。200石

元和3年 400石。徳川忠長に付属される

(寛永9年) 勘気を蒙る

寛永13年12月10日 赦免 ●「日記」共

寛永14年 家光に拝謁

寛永15年12月23日 書院番。400石

寛永15年12月23日 駿河衆三枝平六郎御書院番可仕之 ●「日記」


書院番を辞す。小普請

寛文9年12月1日 死す
三枝守信
生。八兵衛。八郎左衛門
さいぐさもりのぶ
源蔵守英の男
寛政譜17・404
妻は本間権三郎範安の女

寛永12年4月11日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永15年12月6日 父守英の遺跡を継ぐ。300俵

寛永15年12月6日 三枝源蔵跡三百俵惣領八兵衛ニ被下之 ●「日記」


大番

寛文2年5月29日 大番組頭

寛文3年12月26日 500俵

寛文5年 死す
三枝守英 永禄8年 生。源蔵
さいぐさもりひで
天川平三郎の男
寛政譜17・404
母は三枝右衛門尉虎吉の女


三枝右衛門尉虎吉に養われる

天正10年 外祖父虎吉の証人として浜松に至る


家康に仕える。400石


大番


寄合組。所々の使者をつとめる

慶長5年~ 大和国芳野郡の代官


石見国の代官。銀山のことをうけたまわる

慶長6年6月 1400石

慶長6年 大久保石見守長安の讒訴にあう。400石


病により勤仕にたえず

元和元年~ 改易

寛永9年7月17日 召し返される ●「日記」共

寛永11年2月26日 300俵 ●「日記」共

寛永15年7月 死す
三枝守昌 天正13年 生。源八郎。勘解由。伊豆守。勘解由
さいぐさもりまさ
土佐守昌吉の長男
寛政譜17・384
母は酒依清三郎昌光の女


室は諏訪因幡守頼水の女

文禄2年 はじめて家康に拝謁

~慶長5年 秀忠に仕える。小姓。膳番

慶長9年8月18日 500石

元和元年 4500石

元和2年 従五位下・伊豆守

元和8年 父昌吉とともに駿河大納言徳川忠長に付属される

(寛永元年) 父昌吉の遺跡を継ぐ。1万石。足軽50人


1万5000石

寛永9年 内藤豊前守信照に召し預けられる。陸奥国棚倉に蟄居


(勘解由に戻るか)

寛永13年9月18日 家光に拝謁

寛永13年9月18日 被召出 ●「日記」

寛永15年2月8日 1万石。鉄炮頭。与力10騎同心50人

寛永15年2月8日 本領壱万石被下之并馬上拾騎徒同心五十人被為付之 ●「日記」

(寛永15年2月8日) (勘解由の初出) ●「日記」

寛永16年閏11月29日
三枝守盛 慶長10年 生。喜之助。平右衛門
さいぐさもりもり
土佐守昌吉の四男
寛政譜17・391
母は酒依清三郎昌光の女


妻は長谷川藤右衛門長重の女


後妻は伊東九郎左衛門祐久の女

慶長18年 はじめて秀忠に拝謁


徳川忠長に仕える

寛永9年 召し預けられる

寛永13年9月18日 家光に仕える。500石

寛永13年9月18日 被召出 ●「日記」

寛永15年12月23日 小姓組 ●「日記」共

万治2年12月12日 先鉄炮頭

万治2年12月23日 500石300俵

万治2年12月28日 布衣

延宝2年1月11日 鎗奉行

延宝3年12月13日 死す
三枝吉勝
生。清右衛門。はじめ中村を称す
さいぐさよしかつ
駿河国浅間新宮神職中村左近将監昌貞の男
寛政譜17・405
母は三枝善右衛門守友の女


妻は矢部掃部定清の女


三枝彦兵衛守吉に養育される。三枝と称す

慶長19年 秀忠に仕える。大番

元和2年9月15日 徳川忠長に付属される

(寛永9年) 勘気を蒙る

寛永13年12月10日 赦免 ●「日記」共

寛永14年 500石

寛永15年12月23日 小姓組 ●「日記」共

承応元年5月18日 死す
西光寺
遠江国。時宗
さいこうじ




西郷末員
生。主膳
さいごうすえかず
若狭守正員の次男
寛政譜6・298 寛永15年11月1日 はじめて家光に拝謁

寛永15年11月1日 西江若狭守子兄弟以太刀目録始て御目見 ●「日記」

寛永17年7月10日 死す
西郷延員 慶長19年 生。孫六郎。(若狭)。若狭守。退休
さいごうのぶかず
若狭守正員の長男
寛政譜6・298
母は阿部氏


室は能見松平大隅守重則の長女


継室は相馬大膳亮義胤の養妹神尾備前守元勝の女

寛永元年 はじめて秀忠・家光に拝謁

寛永15年6月21日 縁辺組被仰付面々松平大隅守娘西江孫六郎 ●「日記」

寛永15年12月22日 父正員の遺領を継ぐ。安房国東条1万石

寛永15年12月22日 西郷若狭守遺跡息孫六郎被仰付之 ●「日記」

寛永16年1月28日 亡父若狭守跡職被仰付御礼 ●「日記」

(寛永19年4月23日) (若狭) ●「日記」

(寛永19年5月29日) (孫六郎) ●「日記」

寛永19年9月1日 毎歳於江戸越年未年在江戸半年替 ●「日記」

万治3年12月28日 従五位下・若狭守

元禄3年12月25日 致仕。退休と号す

元禄5年5月29日 勘気を蒙る。養子市正寿員の領知下野国上田に蟄居

元禄10年4月25日
西郷正員 文禄2年 生。孫六郎。若狭守
さいごうまさかず
出羽守康員の嗣。弾正左衛門家員の四男
寛政譜6・298
母は右京進義勝の女

慶長18年 兄康員の遺跡を継ぐ。5000石

元和6年9月 安房国東条1万石

元和6年閏12月28日 従五位下・若狭守

寛永15年11月14日
西郷用員 寛永元年 生。主馬。主馬助。八郎左衛門
さいごうもちかず
若狭守正員の三男
寛政譜6・300
母は阿部氏


妻は木原杢允義久の女

寛永15年11月1日 はじめて家光に拝謁

寛永15年11月1日 西江若狭守子兄弟以太刀目録始て御目見 ●「日記」

寛永18年4月16日 書院番 ●「日記」共

寛永20年12月18日 300俵 ●「日記」共

元禄4年11月19日 書院番を辞す。小普請

元禄14年6月18日 死す
西性院

さいしょういん
三宝院門跡覚定の坊官



西大寺
大和国奈良。真言律宗
さいだいじ


寛永16年2月1日 寺領御判形頂戴之 ●「日記」









斎田加右衛門

さいたかえもん
鷹匠

(寛永15年12月2日) (御鷹師) ●「日記」



斎田加右衛門子





寛永15年12月2日 初て御目見 ●「日記」



斎田元勝
生。角左衛門
さいたもとかつ
九左衛門元次の長男
寛政譜7・50
松平三河守忠直に仕える

寛永元年 処士

寛永12年12月28日 土井利隆と太田資宗のとり申しにより家光に拝謁。右筆

寛永12年12月28日 初て御目見 ●「日記」

寛永14年11月26日 200俵 ●「日記」共

明暦3年9月19日 死す
斎田元信 寛永5年 生。喜兵衛
さいたもととし
角左衛門元勝の男
寛政譜7・50
妻は織田主水昌澄の女

寛永20年12月29日 斎田角左衛門惣領被召出之 ●「日記」

正保元年 右筆

正保元年2月20日 はじめて家光に拝謁

正保元年2月20日 今度御右筆御役被召出付て御礼 ●「日記」

正保元年12月25日 百五拾俵 ●「日記」

明暦3年12月25日 父元勝の遺跡を継ぐ。200俵

万治3年11月13日 死す
斎藤勝直
生。勘右衛門。勘助
さいとうかつなお
勘右衛門勝久の長男
寛政譜21・335
父勝久の遺跡を継ぐ。150石。大番 (火番のあやまりか)

寛永18年4月14日 火之番御役被仰付之此以前之親之役被仰付之 ●「日記」

正保4年12月25日 小十人

慶安4年3月12日 死す
斎藤勝久
生。勘右衛門
さいとうかつひさ
文蔵勝行の養子。大沢太郎左衛門の男
寛政譜21・335 ~慶長19年 家康に仕える

元和元年 150石

~寛永2年 徒目付組頭


火之番 ●「日記」


死す
斎藤貞春
生。五郎八。八左衛門
さいとうさだはる
忠右衛門忠勝の長男
寛政譜13・163 正保元年11月10日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保4年12月25日 新番

寛文2年2月 新番を辞す。小普請

貞享元年7月12日 父忠勝の遺跡を継ぐ。300俵

元禄12年1月30日 死す
斎藤重成
生。惣左衛門
さいとうしげなり
惣左衛門重吉の男
寛政譜13・157 慶長15年 はじめて家康に拝謁

寛永2年11月11日 200石


手鷹師

(寛永15年12月2日) (御鷹師) ●「日記」

延宝3年11月26日 死す
斎藤次左衛門

さいとうじざえもん


(正保元年8月9日) (初鹿野伝右衛門組之御徒) ●「日記」

正保元年8月9日 被放御扶持 ●「日記」



斎藤次兵衛(1)
生。次兵衛
さいとうじひょうえ
徒目付組頭
寛政譜22・365
火之番 ●「日記」


死す
斎藤次兵衛(2)
生。次兵衛
さいとうじひょうえ
次兵衛(1)の男
寛政譜22・365
父次兵衛の遺跡を継ぐ


火番

寛永18年4月14日 火之番御役被仰付之此以前之親之役被仰付之 ●「日記」

正保4年12月25日 小十人

寛文2年 死す
斎藤忠勝 慶長17年 生。忠次郎。忠右衛門
さいとうただかつ
金蔵政忠の次男
寛政譜13・163
妻は溝口半左衛門重長の女

元和6年 はじめて秀忠に拝謁

元和6年11月 家光に仕える。小十人。100俵

寛永9年8月25日 200俵

寛永10年6月7日 小十人組組頭 ●「日記」共

正保3年12月4日 300俵

万治2年4月18日 川船奉行

延宝6年 川船奉行を辞す。勘定奉行の支配となる

貞享元年2月16日 死す
斎藤利意 寛永2年 生。頼母
さいとうとしおき
佐渡守利宗の養子。家臣斎藤主計利明の男
寛政譜13・151
母は佐渡守利宗の次女


妻は内藤庄兵衛の女

寛永20年2月20日 斎藤佐渡子初て御目見 ●「日記」

正保4年8月21日 養父利宗の遺跡を継ぐ。5000石

正保4年9月6日 はじめて家光に拝謁

寛文12年5月14日 定火消

貞享元年6月21日 定火消を辞す

貞享元年6月25日 死す
斎藤利実
生。友之介。猪左衛門
さいとうとしざね
久右衛門信正の次男
寛政譜13・149
妻は矢橋五郎左衛門重頼の女


後妻は小里彦五郎政衆の女


また武田旧臣鹿倉四郎左衛門の女を娶る

寛永13年9月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永13年12月27日 大番 ●「日記」共


200俵

万治元年7月19日 新番

万治2年12月26日 250俵


新番を辞す。小普請

延宝2年4月20日 死す
斎藤利則 寛永6年 生。主殿。太郎兵衛。喜右衛門。左源太
さいとうとしのり
左源太利政の長男
寛政譜13・142
母は今井氏


妻は加茂宮治兵衛直重の女

寛永15年12月1日 はじめて家光に拝謁

寛永15年12月1日 斎藤左源太子共始て御目見 ●「日記」

正保2年6月25日 小姓組

万治元年閏12月18日 父利政の遺跡を継ぐ。2300石

万治2年 小姓組を辞す。小普請

延宝7年5月9日 死す
斎藤利政 天正16年 生。左源太
さいとうとしまさ
次郎右衛門信利の三男
寛政譜13・141
母は三木右兵衛督良頼の女


妻は今井氏

慶長9年 秀忠に仕える。書院番

慶長10年 兄新五郎利次の遺跡を賜る。1000石

元和2年1月5日 1300石


使番

寛永10年12月26日 2300石

寛永10年12月26日 御加恩千石 ●「日記」

万治元年6月7日 死す
斎藤利宗 永禄10年 生。出来丸。平十郎。立本。伊豆。伊豆守。佐渡守
さいとうとしむね
内蔵助利三の三男
寛政譜13・150
母は稲葉右京進の女


妻は加藤肥後守家臣松下飛騨意綱の女


父利三とともに明智光秀に仕える

天正10年 畿内に漂泊。剃髪。立本と号す


捕らえられ細川越中守忠興に召し預けられる

文禄元年 朝鮮の役に加藤主計頭清正に属す


加藤清正に仕える。還俗。伊豆と名乗る


5000石


加藤清正の死後処士となり近江美濃に住す

寛永6年4月25日 家光に仕える

寛永6年 5000石

寛永7年3月 持筒頭。同心50人を預かる

寛永7年3月 従五位下・伊豆守

寛永9年6月25日 与力10騎同心50人を預かる

寛永9年6月25日 馬上同心10騎 ●「日記」

(寛永11年7月21日) (平十郎) ●「日記」

寛永16年1月11日 斎藤伊豆守御殿守之下引橋御門之定番被仰付之 ●「日記」


佐渡守

(寛永16年8月11日) (佐渡守の初出) ●「日記」

正保4年5月4日 死す
斎藤利安 元和9年 生。万九郎。次郎右衛門
さいとうとしやす
次郎右衛門利治の男
寛政譜13・144
妻は安西甚兵衛元真の女

寛永2年 父利治の遺跡を継ぐ。500石。小普請

寛永15年1月15日 大番 ●「日記」共

慶安元年3月13日 家綱に付属される

(慶安4年) 本丸に勤仕

寛文3年6月5日 大番組頭

寛文3年12月26日 500石200俵

寛文6年3月1日 千代姫霊仙院に付属される。1500石200俵

寛文12年12月27日 死す
斎藤信秋 元和5年 生。八十郎。八郎兵衛。久右衛門
さいとうのぶあき
久右衛門信正の長男
寛政譜13・147
妻は牧野讃岐守康成の女

寛永9年8月19日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永11年 大番

寛永13年11月24日 父信正の遺跡を継ぐ。800石(600石)

寛永13年11月24日 斎藤久右衛門六百石子跡目被仰付之 ●「日記」

寛永13年12月21日 跡目之面々(御目見) ●「日記」

延宝3年閏4月29日 大番組頭

天和2年4月22日 800石200俵(600石200俵)

天和2年11月16日 死す
斎藤信正 天正17年 生。久右衛門
さいとうのぶまさ
久右衛門信吉の男
寛政譜13・147 (慶長15年) 父信吉の遺跡を継ぐ。400石


大番


大番組頭

寛永10年2月23日 800石

寛永13年11月7日 死す
斎藤平三郎

さいとうへいざぶろう
徳川家光に仕える。書院番か小姓組か

(寛永16年4月12日) (土御門中務少輔の給仕役) ●「日記」



斎藤正利
生。助十郎。源右衛門
さいとうまさとし
金七郎政吉の男
寛政譜13・162 寛永16年11月6日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永20年6月16日 小姓組

正保2年12月28日 300俵

慶安3年9月3日 家綱に付属される。西丸に勤仕

(慶安4年) 本丸に勤仕

貞享元年7月20日 死す
斎藤正元
生。惣右衛門。惣内
さいとうまさもと
惣左衛門重成の長男
寛政譜13・157 寛永15年12月2日 はじめて家光に拝謁

寛永15年12月2日 斎藤宗左衛門子初て御目見 ●「日記」


鷹師

(寛永19年12月10日) (御鷹師) ●「日記」

寛永19年12月10日 五十俵三人扶持 ●「日記」

正保2年閏5月13日 切腹
斎藤昌盛
生。主水正
さいとうまさもり
伯耆守重隆の男
地下家伝中・1113
近衛家に仕える
宮廷公家系図集覧665
主水正


正四位下


(以下不詳)
斎藤政吉
生。金七郎
さいとうまさよし
金蔵政忠の長男
寛政譜13・162 慶長12年12月15日 はじめて家康に拝謁


秀忠・家光に仕える


二丸に勤仕

延宝5年12月10日 死す
斎藤三友 慶長19年 生。右近。摂津守
さいとうみつとも
与三右衛門三存の男
寛政譜13・153
妻は藤堂大学頭家臣斎藤茂左衛門の女

元和8年 はじめて秀忠に拝謁

寛永2年 父三存の遺跡を継ぐ。2000石

寛永7年 中奥の番士

寛永8年 手水番

寛永11年1月13日 2400石

寛永11年1月13日 四百石御加恩 ●「日記」

寛永12年12月30日 従五位下・摂津守

寛永12年12月30日 諸大夫 ●「日記」

(寛永13年4月11日) (摂津守の初出) ●「日記」

寛永13年4月11日 徒頭 ●「日記」共

寛永15年4月14日 3400石

寛永15年4月14日 千石御加増 ●「日記」

寛永15年11月9日 小姓組番頭

寛永15年11月9日 御小姓組御番頭被仰付之酒井備後守元組也 ●「日記」

寛永16年6月11日 5000石 ●「日記」共

承応3年11月23日 死す
斎藤幸恭 慶長6年 生。善右衛門
さいとうゆきやす
桜井安芸守信忠の養子。斎藤法眼の次男
寛政譜3・373
母は安芸守信忠の長女

元和9年 家光に仕える。小十人


200俵

寛永12年 納戸番

正保元年12月16日 納戸番組頭 ●「日記」共

慶安4年11月21日 300俵

寛文2年 死す
斎藤吉之 慶長14年 生。忠三郎。長左衛門
さいとうよしゆき
長左衛門吉勝の長男
寛政譜13・160 寛永3年 秀忠に仕える

(寛永13年10月12日) (斎藤忠三郎居候御鷹昨日御拳ニて白鶴捕候付て―


―銀子十枚忠三郎被下之) ●「日記」

慶安元年12月11日 父吉勝の遺跡を継ぐ。220石。伊豆国三嶋の鳥屋を預かる

万治2年5月8日 死す
西徳院

さいとくいん
妙法院門跡堯然法親王の坊官

(寛永13年5月6日) (妙法院御門跡内) ●「日記」



西福寺(江戸)
江戸。浄土宗
さいふくじ


寛永10年7月24日 当住入院ニ付て一束一巻を以御目見 ●「日記」



西福寺(遠江)
遠江国
さいふくじ




西楽寺
遠江国。真言宗
さいらくじ




左衛門尉

さえもんのじょう


(寛永18年9月25日) (上州柴崎天王神主) ●「日記」



酒井加右衛門
徳川実紀では満井とする
さかいかえもん 寛永13年12月23日 去比子細有之て御役不相勤之処ニ被召出―


―如前々御切米被下最前之御役被仰付之 ●「日記」



酒井勝治 元和9年 生。万之助。一郎兵衛
さかいかつはる
一郎兵衛種治の男
寛政譜15・174 寛永4年 父種治の遺跡を継ぐ。200俵

寛永13年12月27日 大番 ●「日記」共

慶安元年9月25日 綱吉に付属される


神田館にて書院番組頭。350俵

万治2年6月6日 死す
酒井勝吉
生。大膳。主膳正。大膳亮
さかいかつよし
左衛門尉家次の四男
寛政譜2・59
妻は松平式部大輔家臣諸井金助正広の女

元和2年 はじめて秀忠に拝謁

元和2年 小姓

元和7年6月2日 従五位下・主膳正


700石。書院番


小姓組

(寛永11年7月18日) (大膳亮) ●「日記」

延宝8年12月25日 致仕

貞享元年7月11日 死す
左海久円

さかいきゅうえん
囲碁将棋



坂以策
生。少弐。法眼
さかいさく
千介重勝の長男
寛政譜5・267
鍼治医か

寛永16年11月6日 以策一束一本ヲ以御礼是今度初て依罷下也 ●「日記」



酒井貞治 寛永18年 生。小太郎。兵九郎。市郎右衛門
さかいさだはる
与左衛門豊治の男
寛政譜15・173
母は久保平左衛門勝房の女


妻は岩瀬市兵衛氏忠の女

寛永20年12月7日 父豊治の遺跡を継ぐ。850石 ●「日記」共

万治元年6月20日 大番

貞享3年閏3月26日 大番組頭

元禄15年5月1日 西丸裏門番頭

元禄15年12月18日 布衣

宝永元年2月12日 死す
酒井実直
生。八左衛門
さかいさねなお
極介実明の四男
寛政譜9・224
家光に仕える。小十人。100俵

寛永19年12月16日 200俵 ●「日記」共

慶安2年2月25日 納戸番

承応元年11月3日 納戸組頭

寛文元年12月12日 300俵

延宝3年4月24日 死す
酒井重澄 慶長12年 生。右衛門八。山城守。はじめ金森を称す
さかいしげずみ
金森出雲守可重の七男
寛政譜6・264
母は名護屋因幡守高久の女


室は井上主計頭正就の女

元和8年 はじめて秀忠に拝謁


家光に近侍。小姓


酒井讃岐守忠勝の家号を冒す


従五位下・山城守


下総国生実2万5000石

寛永10年5月13日 改易。備後国の水野日向守勝成に召し預けられる ●「日記」共

寛永19年閏9月9日 去九月廿九日之夜酒井山城守狂乱付て令自殺日来依御勘発―


―被召預水野美作守於彼領内有此事之由羽書令到来 ●「日記」
酒井重成
生。小隼人。与三左衛門。外記
さかいしげなり
重元の男
越前人物志上・545
母は北条家臣久島伊賀守道随女阿対


松平秀康に仕える


母が松平伊予守忠昌の傅母となる


7550石。与力同心15人


家老

(寛永19年4月23日) (松平伊与守家老) ●「日記」

寛文4年8月22日 死す
酒井重道
生。半左衛門。平左衛門
さかいしげみち
作兵衛重行の男
寛政譜2・68
母は酒井作右衛門重勝の女

寛永15年10月24日 書院番 ●「日記」共

慶安3年9月3日 西丸小姓組

慶安4年6月14日 本丸に伺候

寛文10年7月8日 父重行の遺跡を継ぐ。500石

延宝8年4月27日 死す
酒井重之 慶長8年 生。与九郎。作右衛門。飛騨守
さかいしげゆき
与九郎重正の男
寛政譜2・64
母は菅沼織部正定盈の女


妻は久世三左衛門広宣の女

(慶長8年) 父重正死去により祖父作右衛門重勝に養われる

慶長15年 はじめて家康に拝謁

慶長18年 祖父重勝の遺跡を継ぐ。2000石

元和2年 小姓組


書院番

寛永15年12月16日 書院番組頭 ●「日記」共

寛永16年12月30日 布衣 ●「日記」共

(寛永17年9月13日) (本多美作守酒井作右衛門今度駿河御番ニ被遣之) ●「日記」

(寛永19年4月11日) (本多豊前守組頭朝比奈勘右衛門煩付て酒井作右衛門―


―今度日光御供俄被仰付依て黄金被下之) ●「日記」

慶安3年11月19日 小姓組番頭

慶安4年8月16日 従五位下・飛騨守

慶安4年11月21日 2000石1000俵

明暦2年7月9日 書院番頭

万治3年11月8日 死す
酒井重行
生。作兵衛
さかいしげゆき
佐大夫吉勝の男
寛政譜2・68
妻は酒井作右衛門重勝の女


秀忠に仕える。書院番

元和2年 父吉勝の遺跡を継ぐ。500石


勘気を蒙る

寛永13年8月24日 赦免 ●「日記」共

寛永14年11月25日 膳奉行

寛永14年11月25日 御本丸御膳奉行 ●「日記」

慶安元年5月27日 二丸留守居

明暦2年8月1日 西丸留守居

明暦2年12月26日 布衣

寛文10年3月20日 死す
酒井重良 元和8年 生。与九郎。作右衛門
さかいしげよし
飛騨守重之の長男
寛政譜2・65
母は久世三左衛門広宣の女


妻は長谷川左馬之介の女

寛永10年5月 はじめて家光に拝謁

寛永15年12月15日 書院番 ●「日記」共

慶安元年5月21日 書院番。進物役

明暦2年12月11日 死す
酒井忠勝(宮内) 文禄3年 生。小五郎。宮内大輔
さかいただかつ
左衛門尉家次の長男
寛政譜2・48
母は榊原九右衛門政吉の女


室は鳥居左京亮忠政の女

慶長12年 はじめて家康に拝謁


偏諱を賜る

慶長14年1月23日 従五位下・宮内大輔

元和4年4月 父家次の遺領を継ぐ。越後国高田城10万石

元和5年3月 信濃国松代城10万石

元和8年8月 出羽国荘内鶴岡城13万8000石

寛永3年9月 従四位下


1万2000石を預かる

寛永9年6月 出羽国荘内鶴岡城14万石

正保4年10月17日
酒井忠勝(讃岐) 天正15年 生。鍋之助。与七郎。讃岐守。侍従。少将。空印
さかいただかつ
備後守忠利の長男
寛政譜2・21
母は鈴木伊賀守重直の女


室は松平金弥親能の女

慶長14年11月 従五位下・讃岐守

慶長19年11月 3000石。与力25騎同心100人を預かる

元和6年4月24日 家光に付属される

元和8年 武蔵国深谷城1万石。父忠利の職務を助ける(家光の輔佐)

寛永元年8月 武蔵国深谷城3万石

寛永元年11月 老職

寛永3年3月11日 武蔵国深谷城5万石

寛永4年11月 父忠利の遺領を継ぐ。武蔵国川越城8万石

寛永9年9月19日 武蔵国川越城10万石

寛永9年9月19日 2万石加増 ●「日記」

寛永9年12月1日 従四位下・侍従 ●「日記」共

寛永11年閏7月6日 若狭国小浜城11万3500石

寛永11年閏7月6日 若狭国被下之 ●「日記」

寛永12年11月15日 諸大名訴訟并御用之儀大炊頭讃岐守伊豆守豊後守加賀守―


―右五人壱人宛一月番ニ承言上 ●「日記」

寛永13年1月25日 若狭国小浜城12万3500石

寛永13年1月25日 為御加増壱万石於佐野領之内拝領之 ●「日記」

寛永15年11月7日 細務をゆるされる

寛永15年11月7日 昨今迠被仰付細成御役御赦免朔日十五日可致出仕―


―其間ニも御用等之時分罷出何も致相談油断仕間敷 ●「日記」

寛永20年11月4日 従四位上・少将

寛永20年11月13日 使者を以御樽肴進上之是今度官位被仰付忝之旨也 ●「日記」

寛永20年12月16日 今度於京都少将任官之御礼 ●「日記」

慶安4年4月20日 家綱の輔佐

慶安4年4月 日光山へ家光の霊柩を守護

明暦2年3月19日 職を辞す

明暦2年5月26日 致仕。空印と号す

明暦3年1月18日 本丸火災のときより日々御傍に伺候

万治3年4月17日 日光山にて剃髪

寛文元年3月 営中にて杖をゆるされる

寛文元年10月 城内の乗輿をゆるされる

寛文2年7月12日
酒井忠勝(讃岐)五女
寛政譜2・23
酒井讃岐守忠勝の五女
寛政譜10・413
母は松平金弥親能の女


堀田加賀守正盛に嫁ぐ

寛永8年 堀田上野介正信を産む

寛永10年 脇坂中務少輔安政を産む

寛永11年 堀田筑前守正俊を産む

寛永15年 堀田対馬守正英を産む

寛永19年 南部内蔵助勝直を産む


以下不詳
酒井忠勝(讃岐)七女
寛政譜2・24
酒井讃岐守忠勝の七女
寛政譜12・308
母は松平金弥親能の女


井伊兵部少輔直好に嫁ぐ

寛永13年1月15日 井伊兵部少輔酒井讃岐守祝言之御礼申上 ●「日記」

~慶安2年
酒井忠清 寛永元年 生。熊之助。与四郎。河内守。雅楽頭。侍従。少将
さかいただきよ
阿波守忠行の長男
寛政譜2・6
母は松平隠岐守定勝の女


室は松平越中守定綱の女


継室は姉小路大納言公景の女

寛永7年1月26日 祖父雅楽頭忠世邸にてはじめて秀忠・家光に拝謁

寛永9年12月1日 はじめて登営。家光に拝謁

寛永9年12月1日 家光に拝謁 ●「日記」

寛永14年1月4日 父忠行の遺領を継ぐ。上野国厩橋城10万石

寛永14年12月26日 去比亡父之遺跡雖被仰付御不例ニ付継目之御礼未申上依之―


―今日太刀目録并亡父之遺物献之各対謁老中て退去 ●「日記」

寛永15年11月7日 奏者。年男役

寛永15年11月7日 当暮ヨリ如父阿波守可被召仕之幼少之内ハ備後守差加可申 ●「日記」

寛永15年12月16日 従五位下・河内守

寛永15年12月16日 諸大夫 ●「日記」

(寛永16年7月9日) (河内守の初出) ●「日記」

寛永18年9月1日 従四位下

寛永18年9月1日 四品 ●「日記」

寛永20年7月15日 若公様え朝鮮国王より之書翰并捧進物信使御礼之時酒井河内守―


―牧野内匠頭可叙四品之旨上意也 ●「日記」

寛永20年7月16日 侍従 ●「日記」共

寛永20年8月4日 万一三丸近辺ニ火事有之時彼御殿え罷越火之用心可申付 ●「日記」

寛永20年12月28日 酒井河内守え松平越中守娘縁辺被仰付 ●「日記」

正保元年3月3日 酒井河内守松平越中守進物并太刀目録献之御礼是去頃越中守娘―


―河内守へ縁辺被仰付嫁婚依相済也 ●「日記」

慶安4年9月25日 参内。天盃を賜る

慶安4年10月15日 少将。雅楽頭

承応2年閏6月5日 禁中・異国の事と政事の要務をうけたまわる。連署加判の上首

寛文2年6月4日 弟日向守忠能の旧領2万2500石を預かる

寛文3年2月8日 預けられた弟忠能の旧領等を加増。上野国厩橋城13万石

寛文6年3月29日 奉書の加判をゆるされる。大老職

延宝8年1月12日 上野国厩橋城15万石

延宝8年12月9日 大老職を辞す

天和元年2月27日 致仕

天和元年5月19日
酒井忠定 慶長15年 生。加賀守。石見守
さかいたださだ
志摩守忠季の長男
寛政譜2・5
母は有馬左衛門佐直純の女


妻は松平大隅守の女

~寛永3年 秀忠に仕える


従五位下・加賀守


石見守

(寛永9年7月24日) (石見守) ●「日記」

寛永10年7月1日 縁辺 ●「日記」

寛永11年11月17日 死す
酒井忠重(壱岐) 天正19年 生。内記。壱岐守
さかいただしげ
備後守忠利の三男
寛政譜2・38
母は鈴木伊賀守重直の女


妻は後藤庄右衛門光次の女

~寛永2年 秀忠に仕える。500石

~寛永3年 西丸小姓組

寛永4年12月2日 父忠利の遺領分知。2000石

寛永5年3月1日 徒頭

寛永7年7月28日 書院番組頭

寛永9年4月8日 書院番頭

寛永9年11月18日 従五位下・壱岐守

寛永9年11月18日 諸大夫 ●「日記」

(寛永10年2月19日) (壱岐守の初出) ●「日記」

寛永10年4月23日 5500石

寛永10年4月23日 3000石御加恩 ●「日記」

寛永12年4月 与力同心を預かる

正保2年9月23日 大番頭

慶安元年3月13日 家綱に付属される

慶安元年6月20日 死す
酒井忠重(長門) 慶長6年 生。右京。長門守
さかいただしげ
左衛門尉家次の三男
寛政譜2・58 元和元年 大坂の役にてはじめて家康・秀忠に拝謁

元和3年12月 従五位下・長門守


家光に仕える。4000石。小姓

寛永2年2月 8000石

寛永15年3月7日 8000俵 ●「日記」共

寛文5年11月4日 改易
酒井忠末
生。内匠助
さかいただすえ
備後守忠利の五男
寛政譜2・23
酒井家臣
若狭郡県志 (寛永19年閏9月16日) (酒井讃岐守使者) ●「日記」
(大日本地誌大系13・74) 延宝2年10月28日 死す



酒井忠次 慶長19年 生。蔵人
さかいただつぐ
備後守忠利の六男
寛政譜2・41
母は鈴木伊賀守重直の女


妻は大嶋茂兵衛義唯の女


家光に仕える。小姓。300石

寛永4年11月 父忠利の遺領分知。1300石

寛永8年12月28日 従五位下

(寛永9年7月24日) (蔵人頭) ●「日記」


書院番

慶安3年9月3日 書院番組頭。西丸に伺候


本丸に勤仕

明暦2年1月15日 小姓組番頭

明暦2年12月23日 1300石1000俵

万治2年8月21日 書院番頭

寛文2年3月26日 死す
酒井忠綱 寛永元年 生。杢之助。内記。伊予守。竹巌
さかいただつな
壱岐守忠重の長男
寛政譜2・39
母は後藤庄右衛門光次の女


妻は松平山城守忠国の女

寛永10年2月19日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

(寛永10年2月19日) (内記) ●「日記」

慶安元年10月25日 父忠重の遺跡を継ぐ。5000石。寄合

寛文3年6月7日 書院番頭

寛文4年12月28日 従五位下・伊予守

寛文8年8月21日 大番頭

天和元年5月23日 大番頭を辞す

元禄5年7月9日 致仕。竹巌と号す

元禄7年10月25日 死す
酒井忠経(兵部) 寛永2年 生。牛之助。兵部。悠遠
さかいただつね
紀伊守忠吉の三男
寛政譜2・36
母は土屋権右衛門重成の女


妻は杉浦内蔵允正友の女

(寛永16年11月6日) (酒井和泉守二番目子初て御目見) ●「日記」

寛永17年 はじめて家光に拝謁

寛永20年10月 家綱に付属される。小姓

慶安3年9月4日 徒頭。500俵

慶安4年8月16日 布衣

慶安4年11月21日 800俵

万治元年3月5日 徒頭を辞す。小普請

寛文2年11月25日 父忠吉の家を継ぐ。7000石

元禄11年12月5日 致仕。悠遠と号す

元禄12年8月8日 死す
酒井忠経(民部) 元和8年 生。民部
さかいただつね
讃岐守忠勝の次男
寛政譜2・23
母は松平金弥親能の女

寛永16年6月1日 はじめて家光に拝謁

寛永16年6月1日 酒井讃岐守子以太刀目録御目見 ●「日記」

寛永17年8月17日 死す

寛永17年8月18日 酒井讃岐守息民部少死去付為上使宮崎備前守被遣之 ●「日記」
酒井忠時 元和9年 生。長次郎。弾正。和泉守。正円
さかいただとき
紀伊守忠吉の次男
寛政譜2・36
母は土屋権右衛門重成の女


妻は北条出羽守氏重の女

寛永12年 はじめて家光に拝謁

(正保元年9月23日) (弾正の初出) ●「日記」

万治元年閏12月27日 従五位下・和泉守


家督を辞す。酒井伊予守忠興の采地武蔵国新倉村に閑居

延宝6年1月26日 死す
酒井忠俊 元和7年 生。左近
さかいただとし
宮内大輔忠勝の次男
寛政譜2・53 寛永11年4月28日 はじめて家光に拝謁

寛永11年4月28日 蝋燭五百挺太刀目録ニて御礼 ●「日記」

寛文元年1月5日 死す
酒井忠知 文禄2年 生。五郎助。因幡守。自楽
さかいただとも
左衛門督忠次の五男
寛政譜2・60 慶長10年9月25日 秀忠に仕える。小姓。500俵

元和2年9月15日 家光に付属される

元和6年 500石

寛永7年12月29日 従五位下・因幡守


書院番

寛永9年10月3日 作事奉行 ●「日記」共

寛永10年12月28日 1500石

寛永10年12月28日 千石御加恩 ●「日記」

寛永15年5月16日 町奉行 ●「日記」共

寛永16年5月11日 追放

寛永16年5月11日 安藤右京進ニ御預 ●「日記」

寛永16年5月18日 父子共追却追放之所々江戸関東中伊豆駿河尾張大津京伏見大坂境―


―奈良紀伊水戸江戸より大坂迠之道筋也云々 ●「日記」

慶安元年6月3日 勘気をゆるされる

慶安3年12月27日 1500俵

慶安4年11月4日 1500石

寛文10年8月22日 致仕。300俵。自楽と号す

延宝4年11月10日 死す
酒井忠知子
四人のうち一人は小平次忠村。他三人は不明。


十郎兵衛忠方。左兵衛忠良。三郎四郎忠久。玄竹。高木新兵衛貞則。


周防守忠治の六人のうち三人

寛永16年5月11日 酒井因幡守子共四人は井伊兵部少ニ御預 ●「日記」

寛永16年5月18日 父子共追却追放之所々江戸関東中伊豆駿河尾張大津京伏見大坂境―


―奈良紀伊水戸江戸より大坂迠之道筋也云々 ●「日記」



酒井忠朝 元和5年 生。隼人。備後守
さかいただとも
讃岐守忠勝の長男
寛政譜2・23
母は松平金弥親能の女


室は松平隠岐守定行の長女

寛永8年12月28日 従五位下・備後守

(寛永10年6月11日) (備後守の初出) ●「日記」

寛永12年8月6日 嫁娶被仰付之 ●「日記」

寛永12年10月29日 小姓組番頭。政事にあずかる

寛永12年10月29日 御小姓組御番頭 ●「日記」

寛永13年12月28日 松平隠岐守酒井讃岐守同備後祝言ニ付て御礼 ●「日記」

寛永15年11月7日 職をゆるされる

寛永15年11月7日 御役御免 ●「日記」

慶安2年9月 廃嫡される。父忠勝の勘気を受けて蟄居

寛文2年3月24日
酒井忠朝子



いずれも早世の長男鍋、次男隼人、三男与十郎があり

寛永16年6月1日 酒井讃岐守孫以太刀目録御目見 ●「日記」



酒井忠直 寛永7年 生。靫負。修理大夫。侍従
さかいただなお
讃岐守忠勝の四男
寛政譜2・24
母は松平金弥親能の女


室は松平隠岐守定頼の女

寛永18年8月9日 はじめて家光に拝謁。家綱に仕える。小姓

寛永18年8月9日 若君様為御奉公人今日御目見 ●「日記」

(寛永18年9月2日) (若君様御小姓衆) ●「日記」

正保元年2月5日 本丸に勤仕

正保元年2月5日 唯今迠若君様へ御奉公たりといへとも公方様へ御奉公可仕 ●「日記」

正保元年12月30日 従五位下・修理大夫

正保元年12月30日 諸大夫 ●「日記」

慶安2年 嫡子となる

明暦2年5月26日 父忠勝の家を継ぐ。若狭国小浜城12万3500石。雁間詰

明暦2年12月26日 従四位下

寛文8年6月13日 甥勝之助忠国に分知。若狭国小浜城11万3500石

延宝元年12月28日 侍従

延宝5年6月15日 閉門

延宝5年閏12月17日 ゆるされる

天和2年7月10日
酒井忠久 慶長14年 生。左京。左京亮
さかいただひさ
備後守忠利の四男
寛政譜2・23
妻は堀丹後守直寄の女 ●「日記」

寛永4年11月 父忠利の遺領分知。1000石

寛永7年12月28日 従五位下・左京亮

寛永10年7月2日 縁辺組 ●「日記」

寛永13年8月15日 死す
酒井忠古
生。三五郎。内膳
さかいただふる
下総守忠正の次男
寛政譜2・17
母は丹羽五郎左衛門長重の女

寛永17年3月19日 書院番 ●「日記」共

寛永17年5月5日 小姓

(寛永19年12月10日) (御書院番) ●「日記」

寛永19年12月10日 三百俵 ●「日記」


病により小姓を辞す。丹羽左京大夫光重の所領陸奥国二本松に住す

延宝7年10月11日 死す
酒井忠正(甲斐) 寛永9年 生。藤松。主膳。壱岐守。能登守。甲斐守
さかいただまさ
壱岐守忠重の次男
寛政譜2・40
母は後藤庄右衛門光次の女


妻は松平越中守定綱の女

寛永16年10月26日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永18年11月14日 家綱に付属される。小姓

寛永18年11月14日 酒井壱岐守二番子竹千代様え御小姓ニ被召出之 ●「日記」

慶安元年10月25日 父忠重の遺跡分知。500石

慶安3年9月4日 小姓組

寛文4年10月13日 小姓

寛文4年12月28日 従五位下・壱岐守


500石500俵

寛文10年9月14日 小姓組番頭。なお近侍

寛文10年12月26日 500石1500俵

延宝元年2月4日 閉門

延宝元年7月20日 ゆるされる

延宝7年12月29日 500石2500俵

天和2年4月21日 1500石2500俵

天和3年11月7日 書院番頭

貞享元年12月26日 留守居

元禄2年12月21日 御側

元禄4年12月9日 死す
酒井忠正(下総) 文禄4年 生。与七郎。采女。下総守
さかいただまさ
河内守重忠の四男
寛政譜2・17
母は松平上総介忠輝家臣山田長門守重辰の女


妻は丹羽五郎左衛門長重の女

慶長12年 秀忠に仕える。小姓

慶長16年1月16日 従五位下・下総守

元和3年5月3日 1500石


西丸に勤仕。小姓組与頭を兼ねる

寛永6年1月11日 4500石

寛永8年~寛永15年 寄合

明暦元年3月14日 死す
酒井忠正(下総)長女
寛政譜2・18
酒井下総守忠正の長女
寛政譜1・83 寛永10年7月2日 松平左近将監忠昭と縁組 ●「日記」

寛永15年 松平対馬守近陣を産む


女子を産む。のちの中根大隅守正延の妻


女子を産む。のちの岡部市正豊明の妻

正保2年 松平主計頭近鎮を産む

正保3年 松平市正近良を産む


女子を産む



酒井忠当 元和3年 生。小五郎。摂津守
さかいただまさ
宮内大輔忠勝の長男
寛政譜2・49
母は鳥居左京亮忠政の女


室は松平伊豆守信綱の女

寛永4年11月13日 はじめて家光に拝謁

寛永4年12月29日 従五位下・摂津守

正保4年12月11日 父忠勝の遺領を継ぐ。出羽国荘内鶴岡城14万石

明暦2年12月26日 従四位下

万治3年2月9日
酒井忠当養女
寛政譜2・50
酒井摂津守忠当の養女。松平右衛門大夫大河内正綱の六女
寛政譜4・396 寛永20年12月26日 堀大学え松平右衛門大夫娘縁辺 ●「日記」
寛政譜12・370
忠当の養女となる


堀肥前守直輝に嫁ぐ


堀長門守直佑の養母となる


以下不詳
酒井忠方 元和2年 生。杢之助。十郎兵衛
さかいただみち
因幡守忠知の長男
寛政譜2・61 寛永9年 はじめて家光に拝謁

寛永13年6月 小姓組

寛永13年8月9日 御小姓組御番被仰付之 ●「日記」

寛永15年 小姓組を辞す

寛文3年6月16日 死す
酒井忠村 元和5年 生。宇右衛門。小平次
さかいただむら
因幡守忠知の次男
寛政譜2・61 寛永12年8月15日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永13年8月9日 小姓組 ●「日記」共

寛永16年5月11日 酒井因幡守子共四人は井伊兵部少ニ御預 ●「日記」

寛永16年5月18日 父忠知の罪により追却

寛永16年5月18日 父子共追却追放之所々江戸関東中伊豆駿河尾張大津京伏見大坂境―


―奈良紀伊水戸江戸より大坂迠之道筋也云々 ●「日記」

慶安元年6月3日 赦免あり

承応3年7月18日 小姓組

寛文10年8月22日 父忠知の家を継ぐ。1500石

寛文11年12月28日 持弓頭。布衣

延宝4年3月4日 持筒頭

天和元年5月22日 鎗奉行

天和2年5月21日 2000石

貞享2年6月4日 旗奉行

元禄7年8月15日 旗奉行を辞す。寄合

元禄7年11月9日 死す
酒井忠行 慶長4年 生。万千代。阿波守
さかいただゆき
雅楽頭忠世の男
寛政譜2・6
母は榊原式部大輔康政の女


室は松平隠岐守定勝の女


幼少より秀忠に仕える

元和元年1月27日 従五位下・阿波守

元和9年 西丸奏者

寛永2年9月2日 上野国板鼻2万石

(寛永10年1月1日) (四品) ●「日記」

寛永10年4月14日 上野国板鼻3万石

寛永10年4月14日 御加恩壱万石 ●「日記」

寛永11年7月16日 従四位下

寛永11年7月16日 四品 ●「日記」

寛永11年7月17日 四品 ●「日記」

寛永11年閏7月23日 出仕をはばかる

寛永12年6月1日 奏者

寛永12年6月1日 如此以前御奉公可仕之旨出御之刻依被仰付―


―則今日右之奏者役之 ●「日記」

寛永13年5月13日 父忠世の遺跡を継ぐ。上野国厩橋城15万2500石

寛永13年5月13日 雅楽頭跡職無相違被仰付 ●「日記」

寛永13年5月18日 継目之御礼 ●「日記」

寛永13年11月17日
酒井忠世 元亀3年 生。万千代。与四郎。右兵衛大夫。雅楽頭。侍従
さかいただよ
河内守重忠の長男
寛政譜2・3
母は松平上総守忠輝家臣山田長門守重辰の女


室は榊原式部大輔康政の長女


家康に仕える


3000石

天正16年4月2日 従五位下・右兵衛大夫

天正18年8月16日 5000石

天正18年 秀忠に付属される。家老職

慶長6年 1万石

慶長10年4月24日 1万5000石

慶長12年7月 雅楽頭

慶長14年2月12日 2万石

元和2年8月 5万2000石

元和3年7月 父重忠の遺領を継ぐ。上野国厩橋城8万5000石


国政をあずかり聴く

元和5年10月20日 上野国厩橋城9万5000石

元和8年 上野国厩橋城12万2500石

元和9年2月 家光に仕える

寛永3年8月19日 従四位下

寛永3年9月19日 侍従

寛永9年5月 西丸守衛

寛永11年閏7月23日 出仕をはばかる

寛永11年12月 赦免。職務を止められる

寛永12年5月22日 家老職。西丸守衛

寛永12年5月22日 如前々御奉公可仕之旨被仰出之則西之丸御番等も可仕 ●「日記」

寛永13年3月19日

寛永13年3月20日 昨戌刻病死(卒去) ●「日記」
酒井忠吉 天正17年 生。小鍋。和泉守。紀伊守。宗山
さかいただよし
備後守忠利の次男
寛政譜2・36
母は鈴木伊賀守重直の女


妻は土屋権右衛門重成の女

慶長6年 秀忠に仕える


500石。書院番

~元和元年 1000石

寛永元年 父忠利衰老により大留守居見習い

寛永4年11月 父忠利の遺領分知。4000石

寛永6年1月5日 従五位下・和泉守

寛永10年2月27日 裏門番。馬上同心6人徒同心40人 ●「日記」共

寛永10年4月23日 7000石

寛永10年4月23日 3000石御加恩 ●「日記」

寛永11年2月25日 留守役。関所及び人質を奉行。旗本80騎与力10騎同心50人

寛永11年2月25日 松平大隅守牧野内匠頭並ニ女手形致連判諸事両人同前ニ御奉公 ●「日記」

(寛永12年11月9日) (御留守居和泉) ●「日記」

寛永16年冬 居宅失火により出仕をはばかる

寛永17年1月15日 ゆるされる

寛永17年1月15日 旧冬屋鋪就火事令蟄居今日登城也 ●「日記」

寛永17年7月16日 御留守居衆預之与力歩行同心於御裏御門両所御番仕其上今度火事番―


―被仰付之然は方々ニて御番難勤仕之由連々訴之因玆与力五人―


―歩行同心弐十人宛松平大隅守牧野内匠頭酒井和泉守杉浦内蔵允へ―


―重て御預也以来頭被仰付義モ可有之間其迠ハ先右四人可相拘 ●「日記」

寛永17年12月20日 御奥之煤納之従当年初て被仰付云々 ●「日記」

寛永19年8月16日 奥方番をゆるされる。財用出入の事を兼務

寛永19年8月16日 昨今迠奥方御番之事被成御許兼日被仰付諸色御入用之儀―


―可致吟味 ●「日記」

寛永19年8月16日 曽根源左衛門事和泉守順斎内蔵允相加御代官方其外諸色御勘定之儀―


―右四人致吟味可仕之旨被仰出之 ●「日記」

慶安4年7月22日 財用出入をゆるされる。元の如く大奥の事を沙汰

万治2年7月23日 職を辞す

寛文2年11月25日 致仕。800俵。宗山と号す

寛文3年5月6日 死す
酒井忠吉次女
寛政譜2・36
酒井紀伊守忠吉の次女
寛政譜2・143 寛永12年8月6日 酒井和泉守娘板倉新十郎嫁娶被仰付之 ●「日記」


板倉阿波守重郷に嫁ぐ


女子を産む。のち松平伊予守池田綱政と婚約し嫁ぐ前に卒

寛永20年 板倉隠岐守重常を産む


女子を産む。のちの堀田豊前守正休の室


以下不詳
酒井忠能 寛永5年 生。万千代。日向守
さかいただよし
阿波守忠行の次男
寛政譜2・15
母は松平隠岐守定勝の女


室は稲葉丹後守正勝の女

寛永9年12月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永14年1月4日 父忠行の遺領分知。2万2500石

寛永14年12月26日 去比亡父之遺跡雖被仰付御不例ニ付継目之御礼未申上依之―


―今日太刀目録并亡父之遺物献之各対謁老中て退去 ●「日記」

寛永18年12月30日 従五位下・日向守

寛永18年12月30日 諸大夫 ●「日記」

(寛永19年9月1日) (日向守の初出) ●「日記」

寛永19年9月1日 毎歳於江戸越年未年在江戸半年替 ●「日記」

寛永20年7月23日 家綱に付属される。三丸に伺候。奏者

寛永20年7月23日 若君様附御奏者 ●「日記」

慶安3年9月19日 西丸宿直

慶安4年6月13日 奏者番

寛文2年6月4日 信濃国小諸城3万石

延宝7年9月6日 奏者番をゆるされる。駿河国田中城4万石

天和元年12月10日 井伊掃部頭直該に召し預けられる

元禄3年4月19日 恩赦

元禄3年8月15日 2000俵。寄合

元禄10年7月26日 2000石

元禄15年12月22日 5000石

宝永元年6月27日 致仕

宝永2年5月22日 死す
酒井豊治 慶長6年 生。与左衛門
さかいとよはる
与左衛門重治の次男
寛政譜15・172
母は横左内三郎左衛門の女


妻は久保平左衛門勝房の女

寛永2年 はじめて家光に拝謁

寛永7年 父重治の遺跡を継ぐ。650石

寛永7年 大番

寛永10年2月7日 850石

寛永19年12月1日 死す
酒井直次 慶長元年 生。右近。右近大夫
さかいなおつぐ
左衛門尉家次の次男
寛政譜2・48
母は榊原九右衛門政吉の女

元和元年6月19日 従五位下・右近大夫


出羽国左沢1万2000石

寛永7(8)年3月10日
坂井成将 寛永9年 生。左近。権兵衛。八郎兵衛
さかいなりまさ
八郎兵衛成令の長男
寛政譜10・10
母は松平外記忠実の女


妻は嶋田数馬直好の女

寛永18年3月1日 はじめて家光に拝謁

寛永18年3月1日 樽代前ニ置一同ニ御目見 ●「日記」

承応3年2月23日 小姓組

延宝7年7月9日 父成令の遺跡を継ぐ。500石300俵

元禄10年7月26日 800石

宝永元年6月29日 小姓組を辞す。小普請

正徳4年6月10日 死す
坂井成令
生。五郎三郎。半左衛門。八郎兵衛
さかいなりよし
半左衛門成政の男
寛政譜10・9
母は新庄刑部左衛門直忠の女


妻は松平外記忠実の女

元和9年 はじめて家光に拝謁

(寛永2年) 父成政の遺跡を継ぐ。500石

寛永2年12月 大番

寛永10年2月7日 700石

(寛永18年3月1日) (大久保右京亮教隆組もしくは皆川山城守隆庸組) ●「日記」

正保元年~ 大番組頭

慶安元年1月2日 目付

慶安4年8月16日 布衣

慶安4年11月21日 700石300俵

万治元年8月13日 船手頭

延宝7年5月25日 死す
坂井政朝 元和9年 生。伯元
さかいまさとも
妻は吉田成方院の女
寛政譜21・339
医師

正保元年1月10日 諸家系図編集にあずかり白銀50枚を賜る

正保元年1月10日 銀五拾枚町医師伯元今度諸家系図被仰付依令首尾被下之 ●「日記」

慶安3年6月19日 はじめて家光に拝謁

慶安3年8月4日 評定所目安読。200俵


しばしば書写のことをうけたまわる

寛文12年12月26日 300俵

貞享元年12月18日 致仕

貞享4年6月20日 死す
酒井吉昌 慶長2年 生。七兵衛。源左衛門
さかいよしはる
作之右衛門吉次の男
寛政譜2・74
母は千葉氏


妻は堀田氏


はじめて秀忠に拝謁

寛永2年12月 父吉次の遺跡を継ぐ

寛永10年 小十人

寛永19年12月16日 150俵加増 ●「日記」共

慶安2年2月25日 納戸番


納戸番を辞す。小普請

寛文11年11月14日 死す
榊原勝政 慶長18年 生。平十郎。香庵
さかきばらかつまさ
遠江守康勝の次男
寛政譜2・269 (元和元年) 加藤忠広のもとに寓居

寛永9年 1000俵


遁世して高野山にのぼる

(寛永15年10月8日) (榊原平十郎屋敷上野八郎左衛門被下之) ●「日記」


剃髪して和泉国堺に閑居。(香庵と号すか?)


大坂に閑居


備前国岡山の松平新太郎池田光政のもとに住す

寛文7年5月23日 死す
榊原清次 元和元年 生。伝十郎。右京。七郎右衛門
さかきばらきよつぐ
若狭清定の次男
寛政譜2・277
妻は河野氏

寛永7年12月 はじめて秀忠・家光に拝謁

寛永9年7月7日 中奥番

寛永9年7月7日 中奥にて可被召遣 ●「日記」

寛永9年12月3日 300俵 ●「日記」共

寛永13年10月8日 書院番 ●「日記」共

承応元年8月10日 死す
榊原小平太 寛永5年 生。小平太
さかきばらこへいた
式部大輔忠次の長男
寛政譜2・265
母は寺沢志摩守広高の女

寛永12年8月15日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永12年9月6日
榊原定正
生。三十郎。四郎右衛門
さかきばらさだまさ
又兵衛定吉の長男
寛政譜16・382
母は広戸備後守重久の女

寛永13年3月25日 はじめて家光に拝謁

寛永13年3月25日 榊原又兵衛子被召出之 ●「日記」

寛永13年3月25日 皆川山城守組(大番) ●「日記」

寛永13年12月27日 大番 ●「日記」共

寛永16年 父定吉の遺跡を継ぐ。200石

承応元年4月27日 死す
榊原定吉
生。又兵衛
さかきばらさだよし
又蔵定次の男
寛政譜16・382
妻は広戸備後守重久の女


家康に仕える

~慶長19年 大番

元和元年~ 200石

(寛永13年3月25日) (皆川山城守組) ●「日記」

寛永16年2月25日 死す
榊原主膳

さかきばらしゅぜん


(寛永18年3月16日) (紀伊亜相使者) ●「日記」



榊原忠真 天正10年 生。熊之助。兵三郎。兵左衛門
さかきばらただざね
摂津守忠政の次男
寛政譜16・363
母は小浦喜右衛門正高の女


妻は天野三郎兵衛康景の女

天正17年 秀忠に仕える。小姓

天正18年~ 330石

~寛永3年 小姓組

寛永3年 膳奉行

寛永9年 鉄炮箪笥奉行

万治3年12月25日 鉄炮箪笥奉行を辞す

寛文2年3月9日 死す
榊原忠次 慶長10年 生。国千代。五郎左衛門。式部大輔。侍従。松平を称す
さかきばらただつぐ
遠江守康勝の嗣。松平出羽守大須賀忠政の長男
寛政譜2・264
母は松平因幡守康元の女


室は黒田筑前守長政の女


継室は寺沢志摩守広高の女

慶長12年 実父大須賀忠政の遺領を継ぐ。遠江国横須賀城

慶長13年 はじめて家康に拝謁

元和元年12月 榊原康勝の遺領を継ぐ。上野国館林城10万石

元和2年1月1日 従五位下・式部大輔。松平の称号を用いる

元和9年 家光に付属される

寛永2年12月11日 上野国館林城11万石

寛永3年8月19日 従四位下

寛永19年9月1日 毎歳於江戸越年未年在江戸半年替 ●「日記」

寛永20年7月4日 陸奥国白川城14万石 ●「日記」共

正保4年12月12日 家綱に付属される

慶安2年6月9日 播磨国姫路城15万石

寛文3年2月5日 時々御側に伺候。老臣と政務を議す

寛文3年3月12日 侍従

寛文5年3月29日
榊原忠義 寛永6年 生。五郎八。平兵衛。一郎右衛門
さかきばらただよし
淡路守元義の次男
寛政譜2・279
母は犬塚新助の女


妻は長谷川淡路守正信の女

正保元年2月8日 はじめて家光に拝謁

正保元年2月8日 榊原淡路守二番子初て御目見 ●「日記」

正保元年6月16日 小姓組 ●「日記」共

明暦2年3月6日 父元義の遺跡を継ぐ。530石

延宝元年4月1日 小姓組を辞す。小普請

延宝6年8月14日 死す
榊原照清 元和8年 生。三十郎。越中守。浄雄
さかきばらてるきよ
内記照久の長男
寛政譜2・272
母は間宮左衛門信繁の女


妻は松平右衛門大夫大河内正綱の女


後妻は松平下総守忠明の女

元和9年 久能山にてはじめて秀忠・家光に拝謁

(寛永10年2月1日) (越中) ●「日記」

寛永11年6月26日 従五位下・越中守

寛永11年6月26日 為無官依仰付御加之役当座被補諸大夫 ●「日記」

(寛永12年3月28日) (越中守の初見) ●「日記」

正保3年11月28日 父照久の遺跡を継ぐ。久能山祭祀。1800石

承応3年3月15日 与力6騎同心30人

寛文4年5月10日 祭祀をゆるされる。久能山警衛。帝鑑間に伺候

元禄14年7月5日 致仕。浄雄と号す

元禄16年3月5日 死す
榊原照久
生。内記
さかきばらてるひさ
七郎右衛門清政の次男
寛政譜2・272
母は大原左近右衛門の女


妻は間宮左衛門信繁の女

慶長5年 家康に拝謁。近侍

(慶長12年) 駿河国久能城守衛


1800石

元和2年4月 久能山祭祀

元和4年5月13日 従五位下・内記

元和4年6月24日 従四位下

元和8年6月20日 従二位

正保3年8月7日
榊原直政 慶長18年 生。作大夫
さかきばらなおまさ
篠瀬作右衛門吉次の次男
寛政譜16・62
母は榊原氏

寛永9年 家光に仕える。小十人


100俵

寛永19年12月16日 200俵 ●「日記」共

寛永20年8月8日 新番

寛永20年8月8日 於土圭之間御番相詰其上方々御成之刻御先え参御殿御番等可相勤之旨―


―被仰付之由伊豆豊後列座有之民部少輔伝之安西甚兵衛組 ●「日記」

慶安3年閏10月25日 死す
榊原長勝
生。小兵衛
さかきばらながかつ
九郎兵衛長貞の養子。三橋左吉長成の男
寛政譜16・386
母は榊原小兵衛長利の女


妻は相馬弾正少弼家臣熊川五郎左衛門長重の女

慶長15年 秀忠に仕える

元和8年 勘気を蒙る。相馬大膳亮利胤に召し預けられる


赦免。大番。300石

正保3年3月15日 天守番頭

寛文元年4月26日 死す
榊原宣経
生。小右衛門。道本
さかきばらのぶつね
左八郎信之の男
寛政譜16・384
妻は矢部弥太左衛門の女


秀忠に仕える。納戸番


300俵

寛永12年7月10日 二丸膳番 ●「日記」共


気色を蒙る

寛永15年10月17日 赦免 ●「日記」共

寛永16年12月13日 300俵。納戸番

寛永16年12月13日 三百八十俵如先規被下之 ●「日記」

寛永19年10月16日 納戸番組頭

寛永19年10月16日 本方御納戸組頭 ●「日記」

慶安元年10月27日 納戸頭

慶安元年12月30日 布衣

慶安4年11月21日 600俵

寛文元年11月21日 納戸頭を辞す

寛文7年12月15日 致仕。300俵。道本と号す

延宝元年6月11日 死す
榊原久重 寛永4年 生。左馬助。七郎左衛門
さかきばらひさしげ
内記照久の次男
寛政譜2・273
母は間宮左衛門信繁の女

寛永11年 はじめて家光に拝謁

寛永11年6月26日 御帷単三拝領 ●「日記」

寛永16年4月8日 初て御礼 ●「日記」

寛永19年6月20日 小姓組 ●「日記」共

正保元年6月16日 書院番 ●「日記」共


300俵

慶安3年9月3日 家綱に付属される


本丸に勤仕

明暦元年 病により書院番を辞す。小普請。久能山に住す

貞享2年6月15日 死す
榊原久政 寛永6年 生。大膳
さかきばらひさまさ
内記照久の三男
寛政譜2・275
母は間宮左衛門信繁の女


妻は本多伯耆守正直の女

寛永11年6月26日 はじめて家光に拝謁

寛永11年6月26日 御帷単三拝領 ●「日記」

(寛永11年6月26日) (越後) ●「日記」

(寛永16年4月8日) (大膳の初出) ●「日記」

寛永16年4月8日 初て御礼 ●「日記」

(寛永18年12月28日) (榊原越中守御目見是若若君様越中弟被召出御礼也) ●「日記」

寛永19年1月3日 家綱に付属される

慶安3年9月4日 西丸徒頭。500俵。なお御側ちかく奉仕


本丸に勤仕

慶安4年8月16日 布衣

慶安4年11月21日 800俵

天和2年4月21日 500石800俵

貞享2年8月18日 先弓頭

元禄2年5月4日 死す
榊原正勝(源左衛門)
生。源左衛門
さかきばらまさかつ
庄右衛門正吉の次男
寛政譜16・381
母は朝比奈彦右衛門真直の女

寛永13年3月25日 大番

寛永13年3月25日 榊原庄右衛門二番子被召出之 ●「日記」

寛永13年3月25日 皆川山城守組(大番) ●「日記」


200俵

寛永20年8月8日 新番

寛永20年8月8日 於土圭之間御番相詰其上方々御成之刻御先え参御殿御番等可相勤之旨―


―被仰付之由伊豆豊後列座有之民部少輔伝之安西甚兵衛組 ●「日記」

万治2年12月26日 250俵

延宝元年 新番を辞す。小普請

延宝6年5月14日 死す
榊原正勝(七右衛門)
生。七右衛門
さかきばらまさかつ
源兵衛正朝の五男
寛政譜16・378
母は江原玄蕃金全の女


妻は小笠原丹斎経康の女

寛永7年 家光に仕える。大番

寛永9年 兄九右衛門正次の廩米を賜る。200俵

寛永10年2月7日 400石


気色を蒙る

寛永15年10月17日 赦免 ●「日記」共

慶安4年9月29日 綱吉に付属される


目付役


持筒頭


400石300俵

寛文5年2月25日 死す
榊原正重
生。喜兵衛。八兵衛
さかきばらまさしげ
八兵衛正成の長男
寛政譜16・367
母は加藤惣左衛門正成の女


妻は多門縫殿助信清の女

慶長3年 秀忠に仕える。大番

慶長6年12月 300俵

寛永10年2月7日 500石

寛永13年12月27日 大御番被仰付之 ●「日記」これ以前免職されていたか別人か不明


弓矢奉行

寛永18年 弓矢奉行を辞す

正保元年 父正成の遺跡を継ぐ。1500石

正保元年11月10日 榊原八兵衛跡目喜兵衛遺跡相続被仰付ニヨリテ以太刀目録御礼 ●「日記」

正保4年10月4日 裏門番頭

慶安3年6月29日 死す
榊原尹忠
生。善兵衛
さかきばらまさただ
次郎右衛門の男
士林泝洄4・341
徳川義直に仕える。馬廻。300石


供番。城付

寛永17年4月 死す
榊原正次 慶長15年 生。五郎兵衛。伝十郎。九右衛門
さかきばらまさつぐ
源兵衛正朝の四男
寛政譜16・376
母は江原玄蕃金全の女


妻は榊原庄右衛門正吉の女

寛永2年 家光に仕える。大番


200俵

寛永9年 兄源兵衛正重の廩米を賜る。250俵

寛永10年2月7日 450石

寛永20年8月8日 於土圭之間御番相詰其上方々御成之刻御先え参御殿御番等可相勤之旨―


―被仰付之由伊豆豊後列座有之民部少輔伝之遠山十右衛門組 ●「日記」


番を辞す。小普請

天和2年5月29日 致仕

貞享3年10月28日 死す
榊原政友
生。八右衛門。弥左衛門
さかきばらまさとも
三大夫正信の長男
寛政譜16・372 寛永20年3月3日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保2年12月19日 父正信の遺跡を継ぐ。500石

~寛文9年 大番

~延宝2年 大番を辞す

貞享元年12月21日 死す
榊原正成 永禄9年 生。喜平次。八兵衛
さかきばらまさなり
九右衛門正吉の長男
寛政譜16・366
母は竹尾但馬守親正の女


妻は加藤惣左衛門正成の女

天正7年 家康に仕える。小姓

天正19年5月17日 200石

慶長5年 上田城攻めにて秀忠に従う


大番組頭

慶長6年 400石

元和元年 大坂の役にて高木主水正正成に属す


裏門番頭

寛永元年 500石

寛永3年12月15日 先鉄炮頭。足軽同心30人を預かる。1000石

寛永4年12月28日 布衣

寛永9年7月13日 与力5騎同心30人を預かる

寛永9年7月13日 与力馬上5騎 ●「日記」

寛永10年4月19日 梅林坂御門定番 ●「日記」

寛永10年12月27日 1500石

寛永10年12月27日 五百石御加増 ●「日記」

寛永19年1月18日 死す
榊原正信
生。三大夫
さかきばらまさのぶ
八兵衛正成の次男
寛政譜16・372
母は加藤惣左衛門正成の女


秀忠に仕える。大番。300俵

寛永10年2月7日 500石

(寛永20年3月3日) (大御番) ●「日記」


大番を辞す。小普請

正保2年11月21日 死す
榊原正則
生。四兵衛
さかきばらまさのり
庄右衛門正吉の長男
寛政譜16・380
母は朝比奈彦右衛門真直の女

寛永4年 家光に仕える。大番。200俵

寛永10年2月7日 400石

寛永20年12月7日 父正吉の遺跡を継ぐ。700石 ●「日記」共


大番を辞す。小普請

天和3年11月10日 死す
榊原正晴
生。善右衛門
さかきばらまさはる
八兵衛正成の三男
寛政譜16・373
母は加藤惣左衛門正成の女


妻は加藤喜兵衛吉次の女


また金田惣八郎正勝の女を娶る

寛永3年7月 はじめて秀忠に拝謁

寛永18年4月16日 書院番。300石

寛永18年4月16日 御書院番 ●「日記」

正保2年9月9日 亀松に付属される。抱守

慶安元年9月8日 亀松逝去ののち書院番

万治3年12月25日 鉄炮箪笥奉行

寛文7年3月13日 死す
榊原正之
生。喜平次
さかきばらまさゆき
八兵衛正重の三男
寛政譜16・367
母は多門縫殿助信清の女

寛永9年 はじめて家光に拝謁

寛永13年12月27日 大番 ●「日記」共


廩米を賜る

正保4年 父正重の采地を賜る。500石

慶安3年7月15日 死す
榊原正吉
生。庄右衛門
さかきばらまさよし
九右衛門正吉の四男
寛政譜16・380
母は竹尾但馬守親正の女


妻は朝比奈彦右衛門真直の女


秀忠に仕える。大番。300石

寛永5年 大番組頭

寛永10年2月23日 700石

(寛永13年3月25日) (皆川山城守組組頭) ●「日記」

寛永19年11月20日 死す
榊原宗俊
生。孫助。勘解由。はじめ鋤柄を称す
さかきばらむねとし
鋤柄八郎左衛門の長男
士林泝洄1・508
平岩親吉に仕える。小姓


家康に命により榊原を称す

慶長7年 徳川義直に仕える。左右にて奉仕


長囲炉裏番頭。小姓頭用人


徳川光友に付属される。長囲炉裏番頭。小姓頭用人

万治2年6月21日 大番頭。1300石

寛文12年11月15日 致仕。月俸50口


以下不詳
榊原職員 寛永元年 生。左馬助。八左衛門
さかきばらもとかず
飛騨守職直の次男
寛政譜2・204
母は難波氏


妻は嶋田庄五郎重利の女


後妻は菅沼三五郎次勝の女

寛永13年3月15日 はじめて家光に拝謁

寛永13年3月15日 榊原飛騨守子樽代を以御礼 ●「日記」

寛永19年12月1日 榊原左馬介太刀目録を以初て御礼 ●「日記」


小姓組

(正保元年12月25日) (八左衛門の初出) ●「日記」

正保元年12月25日 300俵

正保元年12月25日 御小姓組榊原八左衛門新規ニ三百俵被下之 ●「日記」

慶安元年10月25日 父職直の遺跡分知。500石

慶安3年9月3日 西丸に勤仕

(慶安4年) 本丸に勤仕

承応元年6月26日 小姓組。進物役

延宝2年4月7日 死す
榊原元重 慶長19年 生。六郎右衛門。(市郎右衛門)
さかきばらもとしげ
淡路守元義の長男
寛政譜2・279
母は犬塚新助の女

寛永9年11月24日 家光に仕える

(正保元年6月12日) (榊原淡路守煩ニ付て惣領市郎右衛門御暇被下之京都え被差遣之) ●「日記」

慶安2年5月13日 死す
榊原職直 天正14年 生。太郎八。小源太。左衛門佐。飛騨守
さかきばらもとなお
花房助兵衛職之の次男
寛政譜2・202
母は宇喜多直家家臣額田三河守の女


妻は難波氏

文禄3年 家康の命により池上本門寺にとどまる

慶長元年 榊原康政によりはじめて家康に拝謁


命により榊原に改める

慶長3年1月 秀忠に付属される。小姓

元和元年 500石


800石

元和3年 父花房職之の遺跡分知。1800石

寛永2年~寛永3年 徒頭

寛永9年4月8日 書院番組頭

寛永9年12月15日 従五位下・飛騨守

寛永9年12月15日 諸大夫 ●「日記」

寛永10年4月23日 2500石

寛永10年4月23日 700石御加恩 ●「日記」

寛永10年4月23日 (飛騨守の初出) ●「日記」

寛永11年5月18日 長崎町奉行 ●「日記」共

寛永15年6月29日 閉門

寛永15年6月29日 押籠 ●「日記」

寛永17年5月11日 ゆるされる ●「日記」共

寛永18年12月15日 先鉄炮頭

寛永18年12月15日 与力十騎足軽五十人 ●「日記」

正保2年7月20日 市中巡察の命あり

慶安元年9月1日 死す
榊原職信 元和7年 生。小源太。左衛門
さかきばらもとのぶ
飛騨守職直の長男
寛政譜2・202
母は難波氏


妻は安藤彦四郎直政の女

寛永4年 はじめて秀忠に拝謁

寛永14年11月5日 父職直とともに長崎・嶋原に赴く

寛永15年6月29日 父職直とともに閉門

寛永15年6月29日 押籠 ●「日記」

(寛永17年5月11日) (左衛門佐) ●「日記」

寛永17年5月11日 ゆるされる ●「日記」共

正保元年6月16日 小姓組 ●「日記」共

慶安元年10月25日 父職直の遺跡を継ぐ。2000石

慶安2年8月26日 先弓頭

慶安4年8月16日 布衣

万治3年3月25日 持弓頭

寛文11年4月9日 鎗奉行

寛文12年11月13日 死す
榊原元義 天正10年 生。左大夫。一郎右衛門。淡路守
さかきばらもとよし
六郎右衛門元次の男
寛政譜2・278
母は河村権右衛門の女


妻は犬塚新助の女

慶長4年9月13日 はじめて家康に拝謁。小姓


200石

~寛永元年 父元次の遺跡を継ぐ。230石

寛永2年7月28日 330石


大番組頭

寛永20年8月30日 明正院に付属される。830石

寛永20年8月30日 新院え榊原一郎右衛門与力弐騎徒十五人五百石御加恩 ●「日記」

寛永20年10月10日 従五位下・淡路守

(正保元年2月8日) (淡路守の初出) ●「日記」

正保3年10月23日 禁裏の事をもうけたまわる

明暦元年2月28日 務を辞す

明暦元年12月13日 死す
榊原康政長女
寛政譜2・263
榊原式部大輔康政の長女
寛政譜2・6
母は松平五郎左衛門大須賀康高の女


酒井雅楽頭忠世に嫁ぐ

慶長4年 酒井阿波守忠行を産む



坂宗説 慶長13年 生。民部卿。上池院。法印
さかそうせつ
民部卿法印洞菴の次男
寛政譜5・265
母は近藤源五左衛門正之の女


妻は細川紹高全隆の女

寛永元年11月 はじめて秀忠・家光に拝謁。仕える。300俵

寛永11年12月 法印

慶安4年9月15日 奥医

寛文元年8月14日 死す
坂田甚兵衛

さかたじんびょうえ


寛永15年10月17日 御赦免 ●「日記」



坂長寿 慶長14年 生。松碩。法橋
さかちょうじゅ
寿三法印幽玄の長男
寛政譜5・267 寛永11年3月18日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永11年8月7日 法橋

寛永16年8月12日 死す
坂部勘兵衛

さかべかんびょうえ


寛永18年4月14日 火之番御役被仰付之御歩行より新規ニ出之 ●「日記」



坂部広利 慶長16年 生。十郎兵衛。三十郎。竜山
さかべひろとし
三郎兵衛広勝の養子。紀伊家臣渥美源五郎正勝の長男
寛政譜9・397
妻は森川出羽守重俊の女

元和3年 はじめて秀忠に拝謁

元和8年12月20日 養父広勝の遺跡を継ぐ。寄合。5000石

寛永2年12月11日 5010石の朱印

寛永12年11月10日 先鉄炮頭

寛永12年11月10日 久世三四郎元同心坂部三十郎被仰付 ●「日記」


―(与力10騎同心50人)(先手)

寛永13年12月29日 布衣 ●「日記」共

寛永19年7月27日 坂部三十郎屋代越中守近藤登之助右之面々従当年壱人宛相替―


―水口御番可相勤之旨上意趣朽木民部少輔被伝之所謂―


―一番坂部三十郎二番屋代越中三番近藤登之助 ●「日記」

正保元年5月23日 百人組頭

正保元年5月23日 山岡主計頭元与力十騎歩行同心百人被為預之於大手御門番所渡辺図書―


―森川金右衛門久世三四郎並ニ可致勤仕 ●「日記」

延宝5年3月7日 百人組頭を辞す

延宝7年11月27日 致仕。竜山と号す

元禄4年8月28日 死す
坂部正勝(市平) 寛永15年 生。市平
さかべまさかつ
三大夫正盛の長男
寛政譜9・402
母は戸田三左衛門政重の女


妻は館林家臣間宮三右衛門元政の女

正保元年2月20日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共


大番

延宝2年3月25日 幕奉行

延宝7年12月11日 父正盛の遺跡を継ぐ。400石

元禄6年11月21日 小普請。出仕をとどめられる

元禄7年8月14日 ゆるされる

享保2年1月6日 死す
坂部正勝(次兵衛) 文禄2年 生。又十郎。次兵衛
さかべまさかつ
次兵衛正忠の男
寛政譜9・394
母は中根喜蔵利重の女


妻は戸田又久直次の女

元和8年 大番

寛永2年 加増あり

寛永2年9月2日 加増あり。260石50俵

(正保元年2月20日) (大御番) ●「日記」


大番を辞す。小普請

寛文9年閏10月17日 死す
坂部正勝(甚左衛門)
生。甚左衛門
さかべまさかつ
左五右衛門正重の四男
寛政譜9・400
小十人。100俵

寛永19年12月16日 200俵 ●「日記」共


以下不詳
坂部正重 永禄6年 生。左五右衛門
さかべまさしげ
造酒丞正家の三男
寛政譜9・400
妻は北条家臣師岡山城守秀門の女


家康に仕える。200石


腰物奉行

慶長9年 家光誕生のとき命により抱上をつとめる。200石100俵

元和元年~ 勘気を蒙る

寛永13年8月24日 赦免 ●「日記」共

寛永18年 家綱誕生のとき命により抱上をつとめる

慶安2年10月3日 死す
坂部正武 寛永3年 生。次郎。次郎大夫。次兵衛
さかべまさたけ
次兵衛正勝の男
寛政譜9・394
母は戸田又久直次の女


妻は関根氏

正保元年2月20日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

万治2年7月4日 大番

寛文9年12月12日 父正勝の遺跡を継ぐ。260石50俵


310俵

延宝元年5月2日 死す
坂部正直
生。孫四郎
さかべまさなお
左五右衛門正重の三男
寛政譜9・400
家光に仕える

寛永18年10月26日 小十人組組頭

寛永18年10月26日 小十人組之組頭之内年寄之者御番御免被成連々別之御役可被仰付―


―之旨ニ依テ佐々木庄兵衛小佐手左介西山忠左衛門山本又右衛門―


―竹内平右衛門右五人御番御免鳥居三郎右衛門小野忠三郎―


―阿部甚五左衛門服部三郎右衛門坂部孫四郎此五人右之替ニ―


―組頭被仰付之 ●「日記」


以下不詳
坂部正盛 慶長2年 生。三大夫
さかべまさもり
左五右衛門正重の次男
寛政譜9・402
母は北条家臣師岡山城守秀門の女


妻は駒井孫四郎勝重の女


また戸田三左衛門政重の女を娶る


家光に仕える。大番。食禄を賜る

寛永10年2月7日 200石加増。400石

(正保元年2月20日) (大御番) ●「日記」


大番を辞す。小普請

延宝7年10月24日 死す
坂部又十郎

さかべまたじゅうろう
次兵衛正勝の男か。寛政譜9・394

寛永13年12月6日 坂部又十郎初て御目見 ●「日記」



坂部宗勝 元和9年 生。左平次。四郎右衛門
さかべむねかつ
九郎右衛門宗次の長男
寛政譜9・405
母は内藤弥次右衛門家臣細井八郎左衛門の女


妻は河尻惣兵衛鎮宗の女

寛永19年11月12日 父宗次の遺跡を継ぐ

寛永19年11月12日 御旗本衆令死去跡被下之但自分之知行御切米何も上 ●「日記」


納戸番

慶安2年10月19日 徳川綱重に付属される。納戸番

延宝3年2月22日 死す
坂部宗次
生。九郎右衛門
さかべむねつぐ
四郎左衛門重宗の長男
寛政譜9・405
母は竹尾弥右衛門の女


妻は内藤弥次右衛門家臣細井八郎左衛門の女

慶長19年 はじめて秀忠に拝謁

(慶長19年~元和2年) 父重宗の遺跡を継ぐ


小十人


納戸

寛永19年5月19日 死す
坂本正尤
生。茂左衛門
さかもとまさもと
家光に仕える。徒
寛政譜20・311 (正保元年7月25日) (徒御目付) ●「日記」

正保元年7月25日 今度二丸御広間坊主頭休意依重科之斬罪故彼実施大学寺庄五郎―


―同其子弐人於甲州在所斬戮之仍為検使徒御目付佐山源左衛門―


―坂本茂左衛門差遣之処帰参之砌此間霖雨依テ小仏関所山崩源左衛門―


―相果并口添之者弐人馬同死之由注進之也 ●「日記」


紅葉山宮番

(寛文10年) 致仕か

某年 死す
坂幽玄 天正11年 生。寿三。大蔵卿。法印。蒼松
さかゆうげん
千介重勝の次男
寛政譜5・267
京都に住す。鍼治医

寛永5年 家光の瘧をみる

寛永7年 秀忠をみる

寛永7年 家光に仕える

寛永9年11月7日 300俵 ●「日記」共

寛永14年 常に御前に伺候

寛永15年2月26日 500石

寛永15年2月26日 五百石御知行被下之是今度御違例中昼夜相詰其上御気色大形―


―依御快然属御加恩云々 ●「日記」

寛永15年12月30日 法印 ●「日記」共

正保元年8月22日 死す
坂友世 慶長18年 生。春也。寿三。法眼
さかゆうせい
大蔵卿法印寿三幽玄の次男
寛政譜5・267 寛永17年3月3日 法眼

寛永17年4月3日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共


御側に伺候

寛永17年8月3日 300俵 ●「日記」共

正保元年9月1日 父幽玄の遺跡を継ぐ。500石300俵

正保元年9月2日 寿三法印此頃死去達上聴彼遺跡五百石并春也取来之三百俵共春也以―


―被下之 ●「日記」

正保2年12月26日 800石

正保4年8月22日 死す
嵯峨頼兼 ~慶長14年 生。刑部大輔
さがよりかね
大炊御門三位中将頼国の男
諸家伝下・1111 元和9年6月5日 従五位下
宮廷公家系図集覧333 寛永7年 元服。刑部大輔

(寛永11年7月21日) (院中) ●「日記」

寛永12年12月2日
酒依昌重 元和9年 生。喜内。長兵衛
さかよりまさしげ
喜右衛門昌次の長男
寛政譜3・313
母は岡部彦右衛門忠房の女


妻は武蔵国幸手不動院饗庭の女

寛永13年3月25日 酒依喜左衛門子被召出之 ●「日記」

寛永13年3月25日 大久保右京亮組(大番) ●「日記」

寛永13年12月27日 大番 ●「日記」共

寛文5年12月11日 父昌次の遺跡を継ぐ。400石

寛文6年8月23日 金奉行

元禄11年7月4日 死す
酒依昌次 文禄3年 生。清三郎。喜右衛門
さかよりまさつぐ
長兵衛昌吉の長男
寛政譜3・313
母は岡部外記忠吉の女


妻は岡部彦右衛門忠房の女

慶長12年 家康に拝謁

~慶長19年 大番

元和2年 200石

寛永10年2月7日 400石

(寛永13年3月25日) (大久保右京亮組) ●「日記」

寛文5年2月27日 死す
相良喜平次

さがらきへいじ
相良家臣相良清兵衛の嫡孫


相良壱岐守頼寛に仕える

寛永17年9月5日 相良喜平次義如先々召遣候共又可令追放共壱岐守可為心次第―


―是清兵衛雖為嫡孫祖父と依不一味也 ●「日記」



相良庄兵衛

さがらしょうびょうえ 寛永13年8月15日 相良内蔵助同庄兵衛御目見 ●「日記」






相良清兵衛

さがらせいびょうえ
相良壱岐守頼寛に仕える

寛永17年9月5日 津軽え被召預之 ●「日記」



相良長毎 天正2年 生。四郎次郎。左兵衛佐
さがらながつね
四郎太郎忠房の嗣。修理大夫義陽の次男
寛政譜14・275
母は家臣豊永下総の女


室は秋月筑前守種実の女

天正13年 兄忠房の遺領を継ぐ。肥後国人吉城(2万2100石)


秀吉に仕える

慶長8年3月 従五位下

寛永13年6月13日
相良長秀
生。庄次郎。主殿助
さがらながひで
左兵衛佐長毎の次男
寛政譜14・277
母は秋月筑前守種実の女

寛永8年5月24日 はじめて家光に拝謁

寛永8年5月24日 はじめて秀忠に拝謁 ●「日記」

(寛永12年3月21日) (内蔵助) ●「日記」


相良家臣


以下不詳
相良能登守

さがらのとのかみ 寛永13年8月15日 相良紀伊守同能登守御目見御樽肴巻物進献之 ●「日記」






相良杢介

さがらもくのすけ
松平大隅守嶋津光久に仕える

(寛永15年5月13日) (松平薩摩守家老) ●「日記」



相良頼寛 慶長5年 生。長次郎。壱岐守
さがらよりひろ
左兵衛佐長毎の長男
寛政譜14・276
母は秋月筑前守種実の女


室は家臣片岡八郎兵衛正秀の女


継室は家臣相良清兵衛頼兄の女。また鷲尾宰相隆尚の女

元和2年 はじめて家康に拝謁

元和6年8月 従五位下・壱岐守

(寛永13年8月15日) (紀伊守) ●「日記」

寛永13年 父長毎の遺領を継ぐ。肥後国人吉城2万2100石

明暦2年閏4月18日 椎葉山を支配

寛文4年閏5月7日 致仕

寛文7年6月29日
鷺権之丞

さぎごんのじょう
狂言役者。仁右衛門宗玄の男か弟子か宗玄当人か?

寛永10年6月22日 今日御赦免被仰付 ●「日記」



鷺権之丞子



権之丞の男か養子

寛永13年2月1日 鷺権丞子御目見 ●「日記」



向坂政定 慶長8年 生。権十郎。清左衛門
さきさかまささだ
庄次郎政勝の男
寛政譜6・335
妻は近藤平右衛門の女

元和元年 小姓組。100俵

寛永8年 家光に仕える。大番

寛永10年2月7日 300石

寛永16年4月16日 中奥番 ●「日記」共

寛永19年11月1日 膳奉行 ●「日記」共

正保3年8月7日 綱吉に付属される。守役。布衣。300石300俵

慶安元年9月25日 三丸番組頭

慶安3年 300石600俵

慶安4年10月3日 三丸番頭


神田館にて用人


1800石

延宝8年 徳松に付属される


西丸に伺候

天和元年3月21日 2300石

天和3年 徳松逝去ののち寄合

天和3年11月23日 致仕。400俵

天和3年11月30日 死す
向坂吉次 慶長16年 生。六郎五郎
さきさかよしつぐ
六右衛門吉長の男
寛政譜6・340
秀忠に仕える。大番。300石

寛永12年4月12日 死す
向坂吉久
生。与八郎。六郎五郎
さきさかよしひさ
六郎五郎吉次の男
寛政譜6・340
妻は中山勘右衛門重良の女

寛永13年11月24日 父吉次の遺跡を継ぐ。300石(200石)

寛永13年11月24日 匂坂六郎五郎弐百石子跡目被仰付之 ●「日記」

~寛文9年 大番

寛文10年4月29日 大番組頭

寛文10年12月25日 300石200俵(200石200俵)

天和元年4月21日 300石400俵(200石400俵)

貞享元年10月27日 先鉄炮頭

貞享元年12月28日 布衣

(元禄4年) 死す
鷺宗玄
生。伊右衛門。仁右衛門
さぎそうげん
叔父三之丞の養子
能楽史話398
三河時代より徳川家に仕える


狂言方

慶安3年4月24日 死す
鷺伝右衛門
生。伝右衛門
さぎでんえもん
長命又之丞宗圃の男
能楽史話398
狂言方



左京

さきょう
東福門院付女房

(寛永17年5月26日) (国母御方) ●「日記」



左京大夫

さきょうのかみ
九条道房女房

(寛永17年5月26日) (九条内府御内) ●「日記」



佐久間勝興 寛永13年 生。長助
さくまかつおき
蔵人勝友の次男
寛政譜9・119
母は松平甲斐守忠良の女

寛永19年閏9月1日 父勝友の遺領分知。3000石。小普請

寛永19年10月1日 はじめて家光に拝謁

寛永19年10月1日 継目之御礼 ●「日記」

寛文4年5月15日 死す
佐久間勝友 元和2年 生。蔵人
さくまかつとも
大膳亮勝之の次男
寛政譜9・118
母は佐々陸奥守成政の女


室は松平甲斐守忠良の女

寛永4年 はじめて家光に拝謁

寛永10年7月3日 縁辺組 ●「日記」

寛永12年 父勝之の遺領を継ぐ。1万3000石

寛永12年7月7日 亡父相続之御礼 ●「日記」

寛永19年7月1日
佐久間勝豊 寛永12年 生。権之助。備中守。安房守
さくまかつとよ
蔵人勝友の長男
寛政譜9・118
母は松平甲斐守忠良の女


室は本多美作守忠相の女

寛永16年6月1日 はじめて家光に拝謁

寛永16年6月1日 佐久間蔵人子以太刀目録御目見 ●「日記」

寛永19年閏9月1日 父勝友の遺領を継ぐ。1万石

寛永19年閏9月1日 佐久間蔵人遺跡惣領権之介被仰付之 ●「日記」

寛文元年12月28日 従五位下・備中守


安房守

貞享2年8月21日
佐久間勝盛 寛永元年 生。辰千代。源六郎
さくまかつもり
因幡守勝年の男
寛政譜9・118
妻は北条美濃守氏信の女

寛永9年11月19日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永9年11月19日 (佐久間大膳亮勝之の子として) ●「日記」

寛永12年 祖父大膳亮勝之の遺跡分知。5000石

寛永12年7月7日 亡父相続之御礼 ●「日記」

(寛永15年11月7日) (源六郎の初出) ●「日記」

寛永15年11月7日 縁辺組北条久太郎妹佐久間源六郎 ●「日記」

正保3年9月29日 死す
佐久間勝之 永禄11年 生。源六郎。大膳亮。はじめ佐々を称す
さくまかつゆき
久右衛門盛次の四男
寛政譜9・117
母は柴田修理亮勝家の姉


室は佐々陸奥守成政の女


佐々成政の養子となる。佐々を称す

天正13年 北条氏政に仕える

天正18年 蒲生氏郷に属す。佐久間に復す

文禄4年 秀吉に仕える。信濃国長沼城

慶長3年 秀吉に近侍

慶長3年8月 近江国3000石

慶長15年 6000石。従五位下・大膳亮

元和元年 1万8000石

寛永11年11月12日
佐久間喜左衛門

さくまきざえもん


正保元年6月7日 当町ニ在住之浪人佐久間喜左衛門去比日本橋ニ立落書其後奉行所え―


―其身之方ヨリ申出之付て為穿鑿彼者之宿え預置之数度召出被遂僉議候処―


―気違之同体也雖然対公儀不届之仕合依無之津軽え被行流罪 ●「日記」



佐久間九郎右衛門

さくまくろうえもん (寛永12年6月1日) (藤堂大学頭家老) ●「日記」






佐久間小三郎

さくまこさぶろう


寛永13年10月28日 御進物番 ●「日記」



佐久間実勝
生。伊予守。河内守。将監
さくまさねかつ
河内守政実の男
寛政譜9・106
妻は堀田勘左衛門正吉の女


幼少より家康に仕える

慶長9年6月22日 従五位下・伊予守

(元和2年~) 河内守


将監


使番

(寛永9年7月24日) (将監) ●「日記」

寛永9年9月2日 五の字の指物 ●「日記」

寛永9年10月3日 作事奉行 ●「日記」共

寛永10年12月24日 2000石を加増

寛永10年12月24日 弐千石御加恩被下之 ●「日記」

(寛永17年~) (死す)
佐久間信重 天正15年 生。左京亮。五郎兵衛
さくまのぶしげ
三浦不干斎正勝の養子。佐久間左京亮信辰の次男
寛政譜9・111 (慶長5年) 榊原式部大輔康政に属す

寛永7年3月15日 はじめて家光に拝謁


1000石

~寛永15年 書院番

(寛永15年8月21日) (五郎兵衛の初出) ●「日記」

寛永18年10月8日 如前々江戸中昼夜見舞之役被仰付 ●「日記」

承応3年2月23日 死す
佐久間盛郎 慶長9年 生。総太郎。外記。宇右衛門
さくまもりよし
新十郎信実の次男
寛政譜9・108
妻は多賀外記常勝の女

元和6年 はじめて秀忠に拝謁。父信実の遺跡を継ぐ。1000石

元和7年 書院番

寛永10年2月7日 1200石

~寛永16年 1200俵

(寛永16年2月15日) (宇右衛門の初出) ●「日記」

慶安3年9月3日 西丸小姓組

(慶安4年) 本丸に勤仕

寛文5年12月12日 死す
佐久間安次 寛永7年 生。三五郎
さくまやすつぐ
日向守安長の男
寛政譜9・117 寛永9年8月26日 父安長の遺領を継ぐ。信濃国飯山城3万石

寛永9年8月26日 跡目 ●「日記」

寛永12年4月11日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永15年11月20日 卒。断絶
佐久間安長 慶長16年 生。日向守
さくまやすなが
備前守安政の次男
寛政譜9・117
室は井上主計頭正就の女

寛永2年 従五位下・日向守

寛永5年 父安政の遺領を継ぐ。信濃国飯山城3万石

寛永9年4月12日
桜井勝成 天正3年 生。庄之助
さくらいかつなり
庄之助勝次の男
寛政譜15・159
妻は菅沼三五郎政次の女

天正18年 家康の命により本多忠勝に属す


本多美濃守忠政に仕える

慶長7年 名を渥美左大夫と改め田中筑後守吉政に仕える

元和元年12月22日 家康に拝謁

元和2年 秀忠に拝謁。書院番

元和9年12月30日 300石

寛永9年8月18日 使番 ●「日記」共

寛永10年6月11日 使番 ●「日記」

(寛永10年7月7日) (桜井甚左衛門) ●「日記」(使番で桜井姓だと勝成のことか)

(寛永10年8月11日) (桜井庄之助) ●「日記」

寛永10年12月26日 1300石

寛永10年12月26日 御加恩千石 ●「日記」

寛永18年1月6日 布衣 ●「日記」共

寛永20年6月17日 可止出仕 ●「日記」

正保元年1月27日 御赦免 ●「日記」

万治元年6月14日 致仕。300俵

万治2年7月8日 死す
桜井勝政 元和8年 生。庄五郎。庄之助。庄休
さくらいかつまさ
庄之助勝成の養子。紀伊家臣渡辺主膳重の次男
寛政譜15・160
母は桜井庄之助勝次の女


妻は本多大膳重看の女

寛永16年10月18日 桜井庄之助養子如望被仰出之 ●「日記」

寛永16年11月6日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永17年3月19日 書院番 ●「日記」共

寛永19年12月10日 三百俵 ●「日記」

寛永20年6月17日 出仕をとどめられる ●「日記」養父庄之助勝成のことか

正保元年1月27日 ゆるされる ●「日記」養父庄之助勝成のことか

万治元年6月14日 養父勝成の家を継ぐ。1300石

寛文6年6月8日 使役

寛文6年12月28日 布衣

天和2年4月21日 1800石

貞享4年3月9日 使役を辞す。寄合

元禄2年12月14日 致仕。300俵。庄休と号す

宝永元年9月15日 死す
桜井信利 天正8年 生。市右衛門
さくらいのぶとし
祖父安芸守信忠の嗣。清蔵信正の男
寛政譜3・369
妻は武田家臣原与左衛門の女

慶長13年 秀忠に仕える。大番。300石

(慶長16年) 祖父信忠の遺跡を継ぐ。300石

元和2年 徳川忠長に付属される

(寛永9年) 処士

寛永11年 家光に仕える。大番。300石

(寛永13年3月25日) (大久保右京亮組) ●「日記」

寛永19年11月8日 死す
桜井信義 慶長初年か 生。市十郎。清右衛門
さくらいのぶよし
市右衛門信利の長男
寛政譜3・370
母は武田家臣原与左衛門の女


妻は酒依長兵衛昌重の女

寛永12年 はじめて家光に拝謁

寛永13年3月25日 桜井市右衛門子被召出之 ●「日記」

寛永13年3月25日 大久保右京亮組(大番) ●「日記」

寛永13年12月27日 大番 ●「日記」共

寛永20年12月7日 父信利の遺跡を継ぐ。300石

寛永20年12月7日 三百石市右衛門跡桜井清右衛門清右衛門自分弐百俵差上之 ●「日記」

寛文元年11月28日 弓矢鎗奉行

天和2年10月4日 弓矢鎗奉行を辞す。小普請

元禄8年4月17日 死す
桜井正勝
生。権左衛門。八右衛門
さくらいまさかつ
八右衛門正松の男
寛政譜3・372 寛永13年12月6日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共


父正松の遺跡を継ぐ。300石

寛永19年9月9日 大番


大番を辞す。小普請

明暦3年 死す
桜井正善
生。小太郎。宗伝。はじめ桜井のち堀また桜井を称す
さくらいまさよし
宗念の男
寛政譜1・254
母は本多佐渡守正信の姪


妻は鳴海円斎寿世の女


本多正信を烏帽子親として元服。伯父堀小太郎正信の名字を継ぐ。―


―堀小太郎と称す

慶長12年 家康に拝謁。御側に勤仕。現米100石月俸5口

慶長13年11月 秀忠に付属される。剃髪。宗伝と称す。御側に伺候。茶道頭

(寛永18年3月1日) (御茶湯頭) ●「日記」

明暦3年5月24日 死す
桜井政良 元和元年 生。伊兵衛。忠左衛門
さくらいまさよし
忠左衛門政茂の長男
寛政譜15・165
妻は石野六左衛門広吉の女

寛永13年~ 家光に仕える

寛永18年11月15日 200俵。勘定

寛永18年11月15日 芦田武川衆十八人駿州ニて之本知并御切米如前々被下之 ●「日記」

慶安4年9月29日 徳川綱重に付属される。勘定頭


600俵


致仕

元禄2年4月10日 死す
桜井吉久 天正19年 生。惣助。徳右衛門
さくらいよしひさ
助右衛門正吉の男
寛政譜15・164
母は依田家臣蘆田川清左衛門の女


妻は塩入金兵衛重信の女


父正吉の家を継ぐ。上野国藤岡に采地。秀忠に仕える

慶長19年 大坂の役にて本多佐渡守正信に属す

元和元年 大坂の役にて本多佐渡守正信に属す

元和9年2月 徳川忠長に付属される。小十人

(寛永9年) 処士


家光に仕える。宝蔵番

寛永18年11月15日 元の如く采地・廩米・月俸を賜る

寛永18年11月15日 芦田武川衆十八人駿州ニて之本知并御切米如前々被下之 ●「日記」


致仕

寛文9年4月16日 死す
桜井六兵衛

さくらいろくびょうえ (寛永13年2月23日) (小十人) ●「日記」

寛永13年2月23日 御納戸 ●「日記」



桜沢外記

さくらざわげき


(正保元年4月1日) (佐竹修理家中証人) ●「日記」



桜田孫介

さくらだまごすけ
伊達遠江守秀宗に仕える

(寛永17年3月15日) (伊達遠江守僕従) ●「日記」



桜本坊
日光山修験
さくらもとぼう




さ五

さご
九条道房女房

(寛永17年5月26日) (九条内府御内) ●「日記」



さ五

さご


(寛永18年6月13日) (天樹院の侍女か) ●「日記」



座光寺為真 慶長18年 生。千松。喜兵衛。勘左衛門
ざこうじためざね
勘左衛門為重の長男
寛政譜16・356
母は小笠原兵部大輔家臣犬甘半左衛門久知の女


妻は石尾志摩守治昌の女

元和9年 はじめて秀忠に拝謁

正保元年12月25日 父為重の遺跡を継ぐ。信濃国山吹村1410石

正保元年12月25日 跡目被仰付千四百五拾石座光寺勘左衛門惣領喜兵衛 ●「日記」

天和元年3月18日 死す
座光寺為重 天正15年 生。千松。勘左衛門
ざこうじためしげ
丹後為時の長男
寛政譜16・356
母は荻原氏


妻は宮崎筑後泰景の女


後妻は小笠原兵部大輔家臣犬甘半左衛門久知の女

~慶長19年 家康に仕える

元和元年~寛永8年 父為時の家を継ぐ。信濃国山吹村1410石

正保元年9月4日 死す
座光寺為正 元和5年 生。九八郎。伊兵衛。清左衛門
ざこうじためまさ
勘左衛門為重の次男
寛政譜16・359
母は小笠原兵部大輔家臣犬甘半左衛門久知の女

寛永17年2月10日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永18年4月16日 小姓組 ●「日記」共

寛永20年12月18日 300俵 ●「日記」共


小姓組を辞す。小普請

貞享2年8月25日 死す
迫地半左衛門

さこちはんざえもん


(寛永17年5月9日) (一身田内) ●「日記」



佐々木一勝 慶長14年 生。加兵衛。庄兵衛
ささきかずかつ
新左衛門一正の次男
寛政譜7・66
妻は松平出羽守家臣放土権之丞為昭の女

寛永3年6月 家光に仕える。小十人


100俵

寛永9年8月25日 200俵

寛永10年6月7日 小十人組組頭 ●「日記」共

(寛永18年10月26日) (庄兵衛の初出) ●「日記」

寛永18年10月26日 小十人組組頭をゆるされる。小普請

寛永18年10月26日 小十人組之組頭之内年寄之者御番御免被成連々別之御役可被仰付―


―之旨ニ依テ佐々木庄兵衛小佐手左介西山忠左衛門山本又右衛門―


―竹内平右衛門右五人御番御免鳥居三郎右衛門小野忠三郎―


―阿部甚五左衛門服部三郎右衛門坂部孫四郎此五人右之替ニ―


―組頭被仰付之 ●「日記」

慶安3年6月22日 死す
佐々木神主
近江国佐々木神社
ささきかんぬし




佐々木高和 天正14年 生。藤九郎。民部少輔。大膳亮
ささきたかかず
中務大輔高定の次男
寛政譜7・60
母は馬淵兵部大輔の女


妻は生駒讃岐守一正の女

慶長2年 はじめて家康に拝謁

慶長8年 従五位下・民部少輔


書院番

(元和6年) 父高定の遺跡を継ぐか。2000石か


大膳亮

慶安3年7月28日 死す
佐々木高重
生。外記。二郎右衛門。源兵衛
ささきたかしげ
大膳亮高和の次男
寛政譜7・60
妻は加藤民部大輔明利の女


家光に仕える。小姓組

(寛永16年4月12日) (佐々木内記) ●「日記」

慶安3年12月11日 父高和の遺跡を継ぐ。2000石か


小姓組を辞す。小普請

延宝8年8月 死す
佐々木野資教 元和4年1月2日 生。木工頭。治部卿
ささきのすけのり
庭田中納言重定の次男
諸家伝下・1115 寛永2年10月5日 従五位下
宮廷公家系図集覧476 寛永9年3月28日 元服。木工頭

寛永10年1月5日 従五位上

(寛永11年7月21日) (院中) ●「日記」

寛永13年1月5日 正五位下

寛永17年1月5日 従四位下

正保元年1月5日 従四位上

慶安元年1月5日 正四位下

承応元年12月7日 従三位

明暦元年1月24日 治部卿

明暦3年1月21日 正三位

寛文2年 薨去
佐々木正信
生。理助。伝右衛門
ささきまさのぶ
庄左衛門正次の次男
寛政譜7・64
母は京都祇園社人山本大蔵の女

寛永9年8月19日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永13年12月3日 大番

寛永15年12月28日 200俵


大番を辞す。小普請

寛文9年12月5日 死す
笹治左兵衛

ささじさひょうえ


(正保元年4月1日) (松平伊与守家中証人) ●「日記」



雀部重矩 寛永2年 生。権三郎
ささべしげのり
新六重良の長男
寛政譜7・39
母は甲斐庄喜右衛門正房の女

寛永7年 はじめて家光に拝謁

寛永19年6月20日 書院番 ●「日記」共

正保元年12月25日 三百俵 ●「日記」

慶安2年8月8日 死す
篠山助正
生。竹之助。八郎兵衛
ささやますけまさ
八郎兵衛資正の長男
寛政譜17・375
妻は藁科孫九郎為虎の女


父資正の遺跡を継ぐ。200石。秀忠・家光に仕える。大番

寛永15年12月9日 佐々山八郎兵衛跡弐百石惣領竹之介ニ被下之 ●「日記」

寛文3年 大番を辞す。小普請

天和2年12月18日 致仕

天和3年8月27日 死す
篠山資正
生。八郎兵衛
ささやますけまさ
金右衛門資音の長男
寛政譜17・374
家康に仕える


徳川忠長に付属される

(寛永9年) 処士


家光に仕える。200石。大番

寛永15年10月23日 死す
指田延久
生。九十郎。九左衛門。源右衛門
さしだのぶひさ
源兵衛久次の男
寛政譜17・233 寛永6年12月15日 秀忠に仕える。小十人

寛永8年1月 家光に仕える。230石


改易

寛永15年10月17日 赦免 ●「日記」共

寛永16年12月13日 200俵。小十人

寛永16年12月13日 如此以前御切米弐百俵指田九郎左衛門被下之 ●「日記」

(寛永19年12月6日) (源右衛門の初出) ●「日記」

寛永19年12月6日 納戸番 ●「日記」共

正保3年 死す
佐地与惣右衛門

さじよそえもん
小笠原信濃守長次に仕える

(寛永16年8月10日) (小笠原信濃守家老) ●「日記」



佐瀬助左衛門

させすけざえもん


(寛永18年7月5日) (稲葉美濃守家来) ●「日記」



貞清親王 慶長元年 生。伏見宮。親王。二品。兵部卿
さだきよしんのう
邦房親王の第一王子
古代豪族系図集覧50
母は家女房
詰所系図
后は秀吉の養女羽柴中納言宇喜多秀家の女
(系図綜覧上・72)
後陽成天皇の猶子となる

慶長10年12月24日 元服。二品。兵部卿

元和7年 父邦房親王が薨去

承応3年7月4日 薨去
佐竹左衛門尉

さたけさえもんのじょう
佐竹修理大夫義隆の家老



佐竹三郎

さたけさぶろう
佐竹修理大夫義隆に仕える

(寛永17年3月15日) (佐竹修理大夫僕従) ●「日記」



佐竹式部

さたけしきぶ
佐竹修理大夫義隆の家老



佐竹義隆 慶長14年 生。能化丸。平次郎。四郎次郎。修理大夫。侍従。少将
さたけよしたか
右京大夫義宣の養子。岩城忠次郎貞隆の嫡男
寛政譜3・74
母は相馬長門守義胤の女桂雲院
羽陰史略
室は家臣佐竹淡路義章の女光聚院
(秋田叢書1・61) 元和6年 父岩城貞隆の遺領を継ぐ。

寛永元年12月29日 従五位下・修理大夫

寛永3年4月25日 義宣の養子となる

寛永3年4月27日 秀忠・家光に拝謁

寛永3年8月29日 従四位下・侍従

寛永10年2月26日 養父義宣の遺領を継ぐ。出羽国秋田郡久保田城20万5810石

寛永10年3月28日 継目御礼 ●「日記」

寛永10年7月28日 婚礼

寛文6年12月28日 少将

寛文11年12月5日
佐竹義直 慶長17年 生。申若丸。彦次郎。芳楊軒阿証。(源六郎)
さたけよしなお
兄右京大夫義宣の養子。常陸介義重の五男
寛政譜3・74
母は細谷氏


佐竹又七郎義廉の養子となる

元和7年7月 兄義宣の嗣となる

元和7年11月14日 はじめて秀忠に拝謁

寛永3年3月21日 故あって嫡を辞す


出家。京都仁和寺塔頭尊寿院を再建

(寛永17年8月15日) (岩城但馬守息と佐竹修理家来但馬守弟之娘と縁辺望之義―


―心次第之由被仰出之) ●「日記」


以下不詳
佐竹義直娘
寛政譜8・349
佐竹家臣佐竹源六郎義直の女

寛永17年8月15日 岩城但馬守息と佐竹修理家来但馬守弟之娘と縁辺望之義―


―心次第之由被仰出之 ●「日記」


岩城伊予守重隆に嫁ぐ

某年
佐竹義宣 元亀元年 生。徳寿丸。次郎。右京大夫。侍従。中将
さたけよしのぶ
常陸介義重の長男
寛政譜3・69
母は伊達左京大夫晴宗の女芳樹院


室は那須修理大夫資胤の女


継室は多賀谷修理大夫重経の女大寿院

天正14年 父義重の封を継ぐ。常陸国太田城

天正18年12月23日 従四位下・侍従・右京大夫

文禄3年10月 常陸国水戸城54万5760石

慶長7年7月27日 出羽国秋田土崎湊城20万5810石

慶長9年8月28日 出羽国秋田久保田城20万5810石

寛永3年8月29日 従四位上・中将

寛永10年1月25日

寛永10年1月26日 今暁逝去 ●「日記」
佐竹六郎

さたけろくろう
佐竹修理大夫義隆に仕える

(寛永17年3月15日) (佐竹修理大夫証人) ●「日記」



左田平三郎

さたへいざぶろう


寛永13年5月8日 しやく(酌) ●「日記」



佐々九郎兵衛

さっさくろうびょうえ
京極刑部少輔高和に仕える

(寛永15年2月20日) (京極刑部家来) ●「日記」



佐々長次 天正19年 生。権兵衛
さっさながつぐ
信濃守長成の次男
寛政譜7・310
母は尾張家臣石黒善九郎重成の女


妻は佐々氏。後妻は土屋忠左衛門利重の女

慶長19年12月 家康に拝謁。兄左平太長重の遺跡を賜る。500石

元和元年 大坂の役にて永井直勝に属す


秀忠に仕える。書院番

寛永2年 父長成の遺跡を継ぐ。1050石

寛永10年2月7日 1250石

寛永19年12月15日 使番

寛永19年12月15日 只今迠之御番御免御用之節御使可被仰付之間最前被仰付同役者面々―


―申合御城可相詰 ●「日記」

寛永19年12月30日 布衣 ●「日記」共

承応3年6月3日 死す
佐々長盛
生。権四郎
さっさながもり
四郎三郎正成の長男
寛政譜7・316
母は竹尾四郎兵衛俊勝の女


妻は石野八兵衛氏照の女

寛永19年10月11日 始て御目見 ●「日記」

寛永19年11月11日 はじめて家光に拝謁

寛永20年12月7日 父正成の遺跡を継ぐ。700石

寛永20年12月7日 七百石四郎三郎跡佐々権兵衛 ●「日記」権四郎の誤りか

慶安3年 書院番

寛文3年7月20日 死す
佐々正成
生。四郎三郎
さっさまさなり
信濃守長成の五男
寛政譜7・316
母は尾張家臣石黒善九郎重成の女


妻は竹尾四郎兵衛俊勝の女

元和4年 はじめて秀忠に拝謁

元和9年 書院番

寛永2年 父長成の遺跡分知。500石

寛永10年2月7日 700石

寛永20年5月27日 死す
雑務法印

ざつむほういん
聖護院門跡道晃法親王の家臣



佐藤継成 元亀元年 生。与兵衛。勘右衛門
さとうつぐなり
駿河守堅忠の男
寛政譜13・343
母は武藤弥平兵衛の女


妻は佐藤紀伊守の女


後妻は遠山筑前守の女。また一柳五郎四郎の女

慶長5年 家康に仕える

慶長15年9月25日 1000石

(元和元年) 秀忠に仕える

元和3年5月26日 3190石

寛永9年6月 五の字の指物をゆるされる

寛永9年7月2日 普請奉行

寛永9年7月2日 惣普請奉行 ●「日記」

寛永9年10月23日 駿府町奉行 ●「日記」共

寛永9年10月28日 同心之者被仰付 ●「日記」

寛永10年3月18日 500石加増 ●「日記」

寛永11年4月3日 死す
佐藤成次 慶長4年 生。与兵衛。勘右衛門。駿河守
さとうなりつぐ
勘右衛門継成の長男
寛政譜13・343
母は佐藤紀伊守の女


妻は大嶋弥三郎光親の女


後妻は内藤肥前守の女

慶長19年 家康に拝謁。家康に仕える


小姓

~寛永9年 書院番

寛永11年11月4日 父継成の遺跡を継ぐ。3190石

(寛永16年6月20日) (勘右衛門の初出) ●「日記」

寛文10年10月28日 従五位下・駿河守


書院番を辞す。寄合

延宝3年3月28日 死す
佐藤延重
生。伝助
さとうのぶしげ
伝左衛門延吉の男
寛政譜13・347
妻は原田弥之助正重の女

寛永19年2月 家光に仕える。小十人

正保元年12月25日 小十人組百俵拾人扶持佐藤伝助新規ニ被下之 ●「日記」

慶安2年12月14日 父延吉の遺跡を継ぐ。320石

慶安3年9月8日 西丸に勤仕

(慶安4年) 本丸に勤仕

寛文9年~ 小十人を辞す。小普請

元禄3年 死す
佐藤信成
生。外記
さとうのぶなり
勘右衛門継成の次男
寛政譜13・345
母は遠山筑前守の女

寛永元年 はじめて秀忠に拝謁

寛永4年 家光に仕える。小姓

寛永5年 小姓組

寛永7年 手水番

寛永7年 300俵

寛永13年 小姓組


小姓組を辞す。小普請

寛文6年1月8日 死す
佐藤信峯
生。小右衛門
さとうのぶみね 慶長5年
寛政譜21・174
火番

寛永18年4月14日 火之番御役被仰付之是ハ此以前不念之儀有之て御役改之雖召上之―


―久々御奉公仕候者之儀ニ故元之ことく火之番ニ被召加之 ●「日記」

(明暦2年) 死す
佐藤延吉
生。伝助。伝左衛門
さとうのぶよし
図書助吉久の男
寛政譜13・346
妻は小幡太郎左衛門正俊の女

慶長5年 はじめて秀忠に拝謁

元和元年 320石

寛永8年2月12日 奥方番 ●「日記」共

慶安2年 死す
里見忠義 (文禄4年) 生。安房守
さとみただよし
左馬頭義康の男
断家譜3・30
妻は大久保加賀守忠常の長女
寛政譜11・382 慶長8年 父義康の遺領を継ぐ。安房国館山城12万3000石
千葉県誌下・376 慶長11年11月15日 秀忠の御前にて元服。偏諱を賜る。安房守


従四位下。侍従

元和元年9月 大久保相模守忠隣に連座して伯耆国に配流

元和8年6月19日
里見忠義娘


里見安房守忠義の女


母は大久保加賀守忠常の長女

寛永20年3月15日 里見安房守娘大久保加賀守右可為養子由被仰出之云々 ●「日記」



里村景敏 (天正3年) 生。昌琢。懐恵庵。拝北庵。竹庵。法橋。法眼
さとむらかげとし
昌叱仍景の長男
寛政譜18・303
母は里村紹巴の女

妻は里村氏


連歌師。京に住す


家康に拝謁


100石

慶長13年5月15日 法橋

寛永3年 後水尾天皇より古今伝授

寛永9年11月15日 法眼

寛永13年2月5日
里村景益 慶長17年 生。昌程。非有庵。法橋
さとむらかげます
昌琢景敏の長男
寛政譜18・303
母は里村氏

妻は里村氏


連歌師

寛永13年 父景敏の遺跡を継ぐ。100石

寛永15年12月5日 亡父昌琢知行百石被下之 ●「日記」

寛永15年12月28日 連歌師昌裎京都ヨリ罷下其上親跡知行拝領之御礼 ●「日記」


宗匠


法橋

寛文7年2月7日 月俸20口

寛文10年11月 致仕

元禄元年10月28日 死す
里村玄仲 天正6年 生。玄仲。臨江斎。焦翁。直衆庵。法橋。法眼
さとむらげんちゅう
紹巴の次男


連歌師


法橋


法眼

寛永15年2月3日
里村玄仲子
玄祥か?


弥七郎と同人か






里村弥七郎
生。弥七郎
さとむらやしちろう
玄仲の男

(寛永13年1月2日) (玄仲子) ●「日記」

(寛永13年3月20日) (玄仲子弥七郎) ●「日記」



真田熊之助 寛永9年 生。熊之助
さなだくまのすけ
河内守信吉の長男
寛政譜11・61
母は酒井雅楽頭忠世の女

(寛永11年) 父信吉の遺領を継ぐ。上野国沼田城3万石

寛永12年12月6日 はじめて家光に拝謁

寛永12年12月6日 継目之御礼 ●「日記」

寛永15年12月6日
真田小源太

さなだこげんた 寛永9年10月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」



真田信勝
生。内蔵助
さなだのぶかつ
隠岐守信昌の次男
寛政譜11・64
母は武田家臣馬場美濃守氏勝の女


妻は立花左膳直次の女


秀忠に仕える

寛永2年 近習

寛永9年8月28日 父信昌の遺跡分知。1000石 ●「日記」共


番士

寛永10年2月7日 1200石

慶安3年9月3日 西丸小姓組組頭

慶安4年8月16日 布衣


本丸に勤仕

寛文5年12月15日 鉄炮頭

寛文12年10月19日 鉄炮頭を辞す。小普請

延宝5年12月19日 死す
真田信重 慶長4年 生。隼人。隼人正
さなだのぶしげ
伊豆守信之の三男
寛政譜11・58
母は本多中務大輔忠勝の女


室は鳥居左京亮忠政の女

寛永9年12月26日 御目見 ●「日記」(これ以前に初見あったか)

(寛永10年5月18日) (隼人正の初見) ●「日記」

寛永16年6月20日 1万7000石

寛永16年6月20日 真田熊之助遺跡三万石之内弐万五千石は内記五千石は熊之介弟―


―内記唯今迠之拝知壱万七千石は弟隼人 ●「日記」


従五位下・隼人正

正保4年2月23日
真田信利 寛永12年 生。兵吉。伊賀守
さなだのぶとし
河内守信吉の次男
寛政譜11・61
室は松平対馬守山内忠豊の女

寛永16年6月20日 兄熊之助の遺領分知。5000石

寛永16年6月20日 真田熊之助遺跡三万石之内弐万五千石は内記五千石は熊之介弟―


―内記唯今迠之拝知壱万七千石は弟隼人 ●「日記」

寛永20年9月9日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

明暦2年10月30日 叔父内記信政の領知を賜る。上野国沼田城3万石

明暦2年12月26日 従五位下・伊賀守

天和元年11月22日 改易。奥平小次郎昌章に召し預けられる


以下不詳
真田信昌
生。源次郎。市右衛門。隠岐守。はじめ加津野を称す
さなだのぶまさ
弾正忠幸隆の四男
寛政譜11・63
妻は武田家臣馬場美濃守氏勝の女


武田家に仕える。加津野某の養子となる

(天正10年) 北条家に仕える。(真田に復す?)

天正12年 はじめて家康に拝謁。家康に仕える。3000石


蒲生飛騨守氏郷に仕える

~慶長5年 家康に仕える。3000石。使番

元和元年~ 旗奉行。4000石

寛永9年5月4日 死す
真田信政 慶長元年 生。仙千代。内記
さなだのぶまさ
伊豆守信之の次男
寛政譜11・58
母は本多中務大輔忠勝の女


室は稲垣摂津守重綱の女

(慶長5年) 父信之より分知。1万7000石

元和3年6月 従五位下

寛永16年6月20日 甥熊之助の遺領分知。上野国沼田城2万5000石

寛永16年6月20日 真田熊之助遺跡三万石之内弐万五千石は内記五千石は熊之介弟―


―内記唯今迠之拝知壱万七千石は弟隼人 ●「日記」

明暦2年10月30日 父信之の家を継ぐ。信濃国松代城10万石

万治元年2月5日
真田信之 永禄9年 生。源三郎。伊豆守。一当斎
さなだのぶゆき
安房守昌幸の長男
寛政譜11・56
母は菊亭右大臣晴季の女


室は本多中務大輔忠勝の女

天正17年2月13日 家康に拝謁

文禄2年9月1日 従五位下・伊豆守

慶長5年 信濃国上田城9万5000石

元和8年 信濃国松代城8万8000石

寛永16年4月20日 真田熊之助死去ニ付て祖父真田伊豆守子共之内心次第ニ―


―沼田城ニ可差置 ●「日記」

慶安元年10月25日 信濃国松代城10万石

明暦2年10月30日 致仕。一当斎と号す

万治元年10月17日
真田信吉 慶長2年 生。孫六郎。蔵人。河内守
さなだのぶよし
伊豆守信之の長男
寛政譜11・61
室は酒井雅楽頭忠世の女


父信之より分知。上野国沼田城3万石

(元和元年) 従五位下・河内守

寛永11年11月28日
真田又八郎
生。又八郎
さなだまたはちろう
内記信政の次男
寛政譜11・58 (寛永13年7月13日) (御目見単物帷子等献之) ●「日記」

正保元年6月23日 弟大学を殺害して自殺
真田幸政
生。長兵衛
さなだゆきまさ
隠岐守信昌の長男
寛政譜11・63
母は武田家臣馬場美濃守氏勝の女


妻は真田安房守昌幸の女

慶長5年 はじめて家康に拝謁


西丸書院番。1000石

寛永8年2月12日 使番 ●「日記」共

寛永9年8月26日 父信昌の遺跡を継ぐ。3000石

寛永9年8月26日 跡目 ●「日記」

寛永9年8月28日 3000石 ●「日記」

寛永13年12月29日 布衣 ●「日記」共

寛永14年11月26日 弥無油断江戸中可致夜廻 ●「日記」

承応元年1月11日 鉄炮頭

承応2年1月5日 死す
真田幸吉
生。長吉。市右衛門
さなだゆきよし
長兵衛幸政の次男
寛政譜11・63
母は真田安房守昌幸の女

寛永15年11月21日 真田長兵衛二番目子可被召出 ●「日記」

寛永16年7月23日 はじめて家光に拝謁

寛永16年7月23日 真田長兵衛二番子以樽代初て御目見 ●「日記」

寛永17年3月19日 小姓組 ●「日記」共

承応2年12月21日 父幸政の遺跡分知。500石


小姓組を辞す。小普請

寛文3年3月27日 死す
真方正信
生。専太郎。五平次。五兵衛
さねかたまさのぶ
五平次正義の男
寛政譜21・89
父正義の遺跡を継ぐ。150石


火番

寛永18年4月14日 火之番御役被仰付之此以前之親之役被仰付之 ●「日記」

正保4年12月25日 小十人

慶安3年9月8日 家綱に付属される。西丸に勤仕

(慶安4年) 本丸に勤仕


150俵

寛文元年1月4日 死す
真方正義
生。五平次
さねかたまさよし
家康に仕える。御家人
寛政譜21・88 寛永2年12月11日 150石の朱印


徒目付組頭


火之番 ●「日記」


死す
佐野公当 慶長12年 生。喜三郎。喜兵衛
さのきんまさ
修理大夫信吉の三男
寛政譜14・18
母は新井氏


妻は本庄宮内少輔道芳の妹

寛永13年12月15日 家光に拝謁

寛永13年12月15日 初て御目見 ●「日記」

寛永15年12月16日 月俸50口。書院番

寛永15年12月16日 五十人扶持 ●「日記」

寛永17年11月 1000俵


書院番を辞す。小普請

天和2年12月15日 死す
佐野重孝 慶長15年 生。灰屋紹益
さのしげたか
京都の人

元禄4年11月12日 死す
佐野信吉 永禄9年 生。小吉郎。修理大夫
さののぶよし
天徳寺法印房綱の養子。富田左近将監知信の五男
寛政譜14・14
母は黒田監物久綱の女


室は天徳寺法印房綱の養女佐野修理亮宗綱の女

天正7年 秀吉に仕える

~文禄元年 房綱の養子となりその養女を室とし家を継ぐ。―


―下総国佐野城3万9000石。従五位下・修理大夫

慶長7年 命により佐野城を廃す。下総国天明春日岡3万9000石

慶長19年7月28日 実兄富田信濃守信高に連座し勘気を蒙る。改易。―


―小笠原兵部大輔秀政に召し預けられる。信濃国松本に蟄居

元和8年2月19日 ゆるされる。江戸に至る

元和8年7月15日 死す
佐野久綱 慶長5年 生。小吉。吉兵衛。雲峰
さのひさつな
修理大夫信吉の長男
寛政譜14・15
母は天徳寺法印房綱の養女佐野修理亮宗綱の女


妻は北条家臣大森左近の女


幼少より人質となり江戸にあり

慶長19年7月28日 父信吉と同じく信濃国松本に蟄居

元和8年2月19日 赦免。江戸に帰る

寛永13年12月15日 家光に拝謁

寛永13年12月15日 初て御目見 ●「日記」

(寛永15年12月16日) (吉兵衛の初出) ●「日記」

寛永15年12月16日 月俸50口。書院番

寛永15年12月16日 五十人扶持 ●「日記」

寛永17年11月 2000俵

寛永18年10月8日 如前々江戸中昼夜見舞之役被仰付 ●「日記」

(寛永19年閏9月1日) (池田帯刀組か) ●「日記」

寛文3年~ 書院番を辞す。小普請

寛文8年8月23日 致仕。雲峰と号す

延宝7年6月25日 死す
佐野正勝
生。平十郎。平兵衛
さのまさかつ
平兵衛正重の男
寛政譜14・38 寛永18年12月4日 父正重の遺跡を継ぐ。200俵。代官

寛永18年12月4日 弐百俵御代官佐野平平兵衛跡右惣領平十郎ニ被下之 ●「日記」

延宝5年4月4日 遠藤外記常春に召し預けられる

延宝5年7月26日 遠流


以下不詳
佐野政定
生。久右衛門。四郎右衛門
さのまささだ
四郎右衛門政重の男
寛政譜14・32
家光に仕える。小十人。300俵

寛永18年5月18日 死す

(寛永18年12月4日) (高田庄右衛門組) ●「日記」
佐野正重(九右衛門) 元亀3年 生。九右衛門
さのまさしげ
彦大夫正吉の次男
寛政譜14・31
家康に仕える。大番


250石

寛永15年 死す
佐野正重(平兵衛)
生。平兵衛
さのまさしげ
左近正世の男
寛政譜14・38
家康に仕える

慶長14年 伊豆国代官。200俵

(寛永13年6月4日) (勢州御代官) ●「日記」

寛永18年 死す
佐野正周 元和4年 生。竹松。主馬。六右衛門。長門守
さのまさちか
主馬吉綱の長男
寛政譜14・35
母は松平長門守家臣中山因幡の女


妻は武藤清助安信の女


後妻は河原氏

寛永14年 勘定方見習

寛永15年12月16日 父吉綱の遺跡を賜る。500石。父在職中の会計が未済だったため

寛永15年12月16日 佐野主馬跡職五百石主馬ニ被下之 ●「日記」

正保2年2月 勘定組頭

寛文6年12月10日 勘定組頭をゆるされる。時々勘定所に出仕

寛文10年12月27日 500石200俵

天和2年4月22日 500石400俵

天和2年6月14日 勘定頭に添い勤仕

天和2年12月27日 布衣

貞享4年9月10日 勘定奉行。1900石

貞享4年12月25日 従五位下・長門守

元禄元年8月23日 出仕をとどめられる

元禄2年6月4日 ゆるされる。900石。小普請

元禄2年12月26日 死す
佐野政次
生。七兵衛。九右衛門
さのまさつぐ
九右衛門正重の養子。大須賀与大夫元成の男
寛政譜14・31
妻は佐野福阿弥正長の女

寛永15年12月21日 養父正重の遺跡を継ぐ。250石

寛永15年12月21日 弐百五十石九右衛門跡目 ●「日記」


大番

(寛永20年10月21日) (九右衛門の初出) ●「日記」

寛永20年10月21日 家綱に付属される。三丸に勤仕

寛永20年10月21日 従大御番被召出三丸御番被仰付之 ●「日記」

慶安3年9月4日 大番

寛文9年9月13日 宝蔵番頭

寛文10年7月18日 死す
佐野政時
生。二郎助。次郎兵衛。気徳
さのまさとき
次郎兵衛政成の養子。中根仁左衛門正次の次男
寛政譜14・33
妻は大岡助左衛門義昌の女


後妻は大嶋平八郎義当の女

寛永19年12月10日 養父政成の遺跡を継ぐ。500石。小普請

寛永19年12月10日 佐野二郎兵衛跡養子二郎助 ●「日記」

寛文2年11月27日 大番

延宝2年7月21日 大番を辞す

元禄16年7月22日 致仕。気徳と号す

享保元年10月19日 死す
佐野正直
生。左京亮
さのまさなお
半四郎政秀の四男
寛政譜14・24
母は仙石越前守秀久の女


秀忠に仕える


徒頭。1000石

元和9年 従五位下・左京亮

寛永16年5月13日 徒頭を辞す

寛永16年5月13日 依為病者御役御免云々 ●「日記」

慶安元年10月17日 死す
佐野正長 慶長16年 生。犬松。八郎。福阿弥
さのまさなが
福阿弥正重の男
寛政譜14・21
妻は林丹波守の女

元和5年 はじめて秀忠に拝謁

(寛永2年) 父正重の遺跡を継ぐ。540石。同朋。福阿弥


同朋頭

寛文10年1月26日 死す
佐野政成
生。次郎兵衛。はじめ大須賀を称す
さのまさなり
大須賀与助政次の男
寛政譜14・33
妻は佐野伝右衛門正長の女

元和8年6月3日 秀忠に拝謁。大番。200俵。妻の父の家号を称す


300俵

寛永10年2月7日 500石

寛永19年9月10日 死す
佐野政宣(四郎右衛門)
生。四郎右衛門。土入
さのまさのぶ
四郎右衛門政定の男
寛政譜14・32
妻は斎藤斎宮の女

寛永18年12月4日 父政定の遺跡を継ぐ。300俵。小普請

寛永18年12月4日 三百俵高田庄右衛門組佐野四郎右衛門跡右惣領ニ被下之 ●「日記」

元禄15年12月18日 致仕。土入と号す

元禄16年9月24日 死す
佐野政宣(与八郎) 慶長5年 生。与八郎
さのまさのぶ
伝右衛門正長の長男
寛政譜14・25
妻は八木庄左衛門光政の女


秀忠に仕える。大番。500石

寛永10年2月7日 700石

寛永11年 大番組頭

明暦2年3月7日 相模国走水奉行

明暦2年12月26日 布衣

寛文3年4月9日 死す
佐野政一 慶長8年 生。半左衛門。与右衛門
さのまさもと
半四郎政秀の三男
寛政譜14・22
母は仙石越前守秀久の女


妻は徳川忠長家臣大石四郎右衛門の女

慶長15年 徳川忠長に仕える

寛永9年 処士

寛永13年12月10日 赦免 ●「日記」共

寛永15年12月23日 書院番。600石

寛永15年12月23日 駿河衆佐野半左衛門御書院番可仕之 ●「日記」

慶安3年9月3日 家綱に付属される。西丸に勤仕

(慶安4年) 本丸に伺候

寛文3年4月 日光社参のとき諸道具奉行

延宝4年3月11日 死す
佐野盛綱 寛永3年 生。寅千代。吉之丞。修理大夫
さのもりつな
吉兵衛久綱の三男
寛政譜14・15
母は北条家臣大森左近の女


妻は小川百助政吉の女

寛永19年閏9月1日 はじめて家光に拝謁

寛永19年閏9月1日 佐野吉兵衛惣領初て御礼 ●「日記」

正保元年6月16日 書院番 ●「日記」共

寛文8年8月23日 父久綱の家を継ぐ。2000俵

寛文10年6月6日 書院番組頭

寛文11年12月28日 布衣

延宝7年3月4日 先鉄炮頭

延宝8年3月4日 盗賊追捕役

天和元年7月26日 禁裏付。1000石2000俵

天和元年11月21日 従五位下・修理大夫

貞享4年10月13日 鎗奉行

元禄元年5月19日 死す
佐野吉綱 天正15年 生。新太郎。主馬
さのよしつな
肥後守綱正の男
寛政譜14・34
母は北面竹内帥の女


妻は松平長門守家臣中山因幡の女

(慶長5年) 父綱正の遺跡を継ぐ。800石。(家康に仕える)。小姓


改易

慶長19年 赦免。500石。伊豆国銀山奉行


伊豆国銀山奉行。勘定組頭

元和7年12月29日 死す
佐橋三郎兵衛

さはしさぶろうひょうえ
松平相模守池田光仲に仕える

(寛永19年5月22日) (松平相模守家来) ●「日記」



佐橋吉景 元和9年 生。三左衛門。儀兵衛
さはせよしかげ
義左衛門吉堅の次男
寛政譜15・205
母は小林十大夫忠吉の女


妻は田中氏

寛永18年7月1日 はじめて家光に拝謁。大番

寛永20年12月18日 200俵 ●「日記」共

万治2年2月11日 蔵奉行

延宝元年2月26日 大坂金奉行。300俵

元禄2年5月8日 死す
佐橋吉堅 天正13年 生。銕之助。左衛門。義左衛門
さはせよしかた
甚兵衛吉久の次男
寛政譜15・201
母は水戸家臣筧善兵衛正康の女


妻は小林十大夫忠吉の女

慶長3年9月 秀忠に近侍。焼火間番


大番

元和元年 大坂の役にて牧野内匠頭信成に属す

元和5年 大番組頭


徳川忠長に付属される

(寛永9年) 処士

寛永11年 家光に仕える。300石。大番

(寛永13年3月25日) (皆川山城守組) ●「日記」

寛永16年10月25日 大番組頭

寛永16年10月25日 大久保主膳正組之与頭 ●「日記」

慶安4年11月21日 300石200俵

万治元年6月14日 大番組頭を辞す

万治3年3月15日 死す
佐橋佳勝
生。五左衛門。又左衛門
さはせよしかつ
義左衛門吉堅の四男
寛政譜15・206
母は小林十大夫忠吉の女


妻は服部太左衛門の女

正保元年2月20日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

慶安2年12月26日 大番


200俵

承応3年7月1日 大番を辞す。小普請

元禄2年2月21日 死す
佐橋吉金 文禄2年 生。兵次郎。源大夫
さはせよしかね
甚兵衛吉久の三男
寛政譜15・207
母は水戸家臣筧善兵衛正康の女


妻は仙波七郎左衛門吉種の女

慶長14年 秀忠に近侍。焼火間番

~慶長19年 大番

元和元年 200俵


300俵

寛永9年 大番組頭

寛永10年12月19日 600石

寛永10年12月19日 大番組頭御加増被下之三百石 ●「日記」

慶安4年11月21日 600石200俵

承応2年11月7日 死す
佐橋吉次 天正12年 生。藤平。次郎左衛門。甚兵衛
さはせよしつぐ
甚兵衛吉久の長男
寛政譜15・198
母は水戸家臣筧善兵衛正康の女


妻は多田所右衛門の女

慶長3年 秀忠に仕える。近習。焼火間番


大番

慶長10年 父吉久の遺跡を継ぐ。(470石?)


家光に水泳を教える

元和元年 大坂の役にて牧野内匠頭信成に属す

元和4年 大番組頭

寛永2年9月2日 470石の朱印

寛永10年12月19日 970石

寛永10年12月19日 大番組頭御加増被下之五百石 ●「日記」

正保4年10月14日 遠江国荒井奉行

慶安元年3月13日 与力6騎同心20人

承応元年12月28日 布衣

承応2年3月 1270石

明暦3年3月13日 死す
佐橋佳照
生。六左衛門。八左衛門
さはせよしてる
義左衛門吉堅の三男
寛政譜15・202
母は小林十大夫忠吉の女

正保元年2月20日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共


大番

正保3年12月22日 200俵

承応元年2月22日 死す
佐橋吉命 元和7年 生。甚三郎
さはせよしのぶ
甚兵衛吉次の次男
寛政譜15・200
母は多田所右衛門の女


妻は嶋田五郎兵衛直次の女

寛永13年9月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永13年12月27日 大番 ●「日記」共


200俵

寛永19年6月26日 御書院御番 ●「日記」

正保2年閏5月8日 死す
佐橋吉道 慶長17年 生。甚十郎。七左衛門。儀左衛門
さはせよしみち
義左衛門吉堅の長男
寛政譜15・202
母は小林十大夫忠吉の女


妻は本多氏

寛永13年3月25日 はじめて家光に拝謁

寛永13年3月25日 佐橋儀左衛門子被召出之 ●「日記」

寛永13年3月25日 皆川山城守組(大番) ●「日記」

寛永13年12月27日 大番 ●「日記」共

万治3年12月23日 父吉堅の遺跡を継ぐ。300石200俵

寛文5年2月3日 大番組頭

寛文6年12月23日 300石400俵

天和2年5月21日 300石600俵

貞享3年閏3月5日 大番組頭を辞す。小普請

元禄元年9月1日 死す
佐原常猶
生。万五郎
さはらつねなお
寛政譜18・389に関口万五郎常幸が佐原万五郎常猶の養子となるとあり

寛永20年9月3日 御賄方佐原万五郎百俵十人扶持御加増当今え被遣之 ●「日記」


(上記、御光明天皇への付属)



佐原延影
生。三郎兵衛
さはらのぶかげ
三右衛門延次の男
寛政譜20・225
持組与力

(寛永20年4月19日) (御切米八拾石) ●「日記」

(寛永20年4月19日) (渡辺弥之助組) ●「日記」

寛永20年4月19日 只今迠之御番被成御免向後御役可被仰付之間可存其旨之由―


―小十人組御番所之次ニて老中被伝之 ●「日記」


国廻役

(明暦3年) 死す
佐原良之 文禄3年 生。七蔵。流船
さはらよしゆき
勘右衛門吉久の男
寛政譜9・103
母は尾崎忠兵衛道当の女


秀忠に仕える。納戸番

寛永19年10月16日 納戸番組頭

寛永19年10月16日 本方御納戸組頭 ●「日記」

慶安4年11月21日 100俵加増

寛文2年9月25日 納戸番組頭を辞す

寛文12年8月5日 致仕。流船と号す

延宝8年閏8月28日 死す
さや市右衛門

さやいちえもん
茶屋市右衛門か? 呉服商?



佐山房野
生。角左衛門
さやまふさやす
角左衛門長正の長男
寛政譜21・227
鳥見役か

(寛永13年8月23日) (昨日初て御鷹野ニ当年初て被為成付て(銀子)被下之 ●「日記」


鳥見役組頭

(貞享4年) 死す
佐山正親 寛永19年 生。九十郎。庄左衛門
さやままさちか
源左衛門正之の長男
寛政譜21・225
母は松平肥前守家臣桜井外記の女


妻は境野六右衛門宗重の女

正保元年12月25日 父正之の遺跡を継ぐ

正保元年12月25日 跡目被仰付七拾俵佐山源左衛門惣領九十郎 ●「日記」


徒目付


火番組頭

貞享4年9月25日 畳奉行

元禄10年閏2月22日 小普請奉行

元禄10年12月22日 100俵加増。300俵

元禄11年12月9日 瑞春院方広敷番頭

正徳2年8月16日 務を辞す。小普請

享保2年12月11日 死す
佐山正之
生。源左衛門
さやままさゆき
内蔵助正清の男
寛政譜21・225
家光に仕える。徒


徒目付

正保元年7月25日 今度二丸御広間坊主頭休意依重科之斬罪故彼実子大学寺庄五郎―


―同其子弐人於甲州在所斬戮之仍為検使徒御目付佐山源左衛門―


―坂本茂左衛門差遣之処帰参之砌此間霖雨依テ小仏関所山崩源左衛門―


―相果并口添之者弐人馬同死之由注進之也 ●「日記」
沢井元慶
生。斎宮。丹後。刑部。惣左衛門
さわいもとよし
左衛門督雄重の長男
士林泝洄3・192 (慶長13年) 父雄重死去ののち駿府にて相応院家司設楽平左衛門に仕える


家康の命により父雄重の遺領を継ぐ。3000石。徳川義直に仕える。寄合

正保2年10月10日 死す
沢木七郎兵衛

さわきしちろうびょうえ



寺沢家臣か



沢木七郎兵衛娘





(正保元年6月1日) (寺沢兵庫頭証人) ●「日記」



佐脇安重
生。権九郎。四郎左衛門。伝右衛門
さわきやすしげ
伝右衛門安雅の長男
寛政譜6・383 寛永5年 はじめて家光に拝謁

寛永10年 家光に仕える


大番

正保元年12月25日 弐百俵佐脇四郎右衛門知行所悪ニ付て御切米ニ替被下之 ●「日記」

万治2年3月21日 父安雅の遺跡を継ぐ。700石

貞享元年 死す
佐脇安雅
生。伝右衛門
さわきやすまさ
次郎右衛門安信の長男
寛政譜6・383
妻は大久保彦左衛門忠教の女

慶長5年 はじめて秀忠に拝謁

慶長15年 大番

元和9年 新恩を賜る。700石

寛永13年 奥方番

万治2年1月11日 死す
沢真次
生。小左衛門
さわさねつぐ
武右衛門実春の養子。某氏の男
寛政譜7・45
豊臣秀頼に仕える


家康に仕える。手鷹師。現米40石

万治2年 死す
沢真久
生。三右衛門
さわさねひさ
小左衛門真次の長男
寛政譜7・45 寛永15年12月2日 はじめて家光に拝謁

寛永15年12月2日 沢小左衛門子初て御目見 ●「日記」


鷹師

(寛永19年12月10日) (御鷹師) ●「日記」

寛永19年12月10日 五十俵三人扶持 ●「日記」

~万治2年 死す
沢重成
生。三四郎
さわしげなり
惣十郎重次の男
寛政譜17・61
母は北条家臣秋山惣右衛門の女


妻は根本又兵衛成次の女

元和5年 秀忠に仕える。手鷹師

寛永3年 父重次の遺跡を継ぐ

寛文8年2月8日 死す
沢田九郎兵衛

さわだくろうびょうえ


(寛永19年7月8日) (浅草御城米手代) ●「日記」

(寛永19年7月8日) (新里彦左衛門手代) ●「日記」

寛永19年7月8日 斬罪 ●「日記」
沢田九郎兵衛子





寛永19年7月8日 九郎兵衛子男子三人一人十四一人十一人八(死罪か) ●「日記」



沢田庄之助

さわだしょうのすけ
九郎兵衛の男もしくは養子

寛永19年7月8日 九郎兵衛子沢田庄之助年十七是ハ養実間被遂僉儀―


―重て可被仰付事 ●「日記」



沢長左衛門
生。長左衛門
さわちょうざえもん
九郎兵衛宗久の長男
寛政譜17・329
鳥見役

(寛永13年8月23日) (御成之場役人) ●「日記」

寛永19年11月12日 父宗久の遺跡を継ぐ。270石

寛永19年11月12日 御旗本衆令死去跡被下之但自分之知行御切米何も上 ●「日記」

某年 死す
沢久吉 慶長9年 生。清兵衛
さわひさよし
九郎兵衛宗久の次男
寛政譜17・329
妻は家康侍女法光院の養女市岡理右衛門忠次三男権兵衛忠重の女

寛永19年2月5日 家光に仕える。小十人

正保元年12月25日 100俵。月俸10口

正保元年12月25日 小十人組百俵拾人扶持沢清兵衛新規ニ被下之 ●「日記」

慶安3年9月8日 家綱に付属される

(慶安4年) 本丸に勤仕

寛文5年 小十人を辞す。小普請

延宝元年10月21日 致仕

延宝2年2月12日 死す
沢宗久 永禄10年 生。九郎次郎。九郎兵衛
さわむねひさ
左衛門の養子。余語三郎右衛門宗重の男
寛政譜17・329
豊臣秀次に仕える

慶長元年12月23日 はじめて秀忠に拝謁

元和2年12月11日 160石。鳥見役

寛永8年2月12日 奥方番 ●「日記」共

寛永19年2月5日 270石

寛永19年5月8日 死す
三条西実条 天正3年1月26日 生。侍従。少将。中将。参議。中納言。大納言。伝奏。中宮大夫。
さんじょうにしさねえだ
内大臣。右大臣
諸家伝上・305
内大臣公国の長男
宮廷公家系図集覧274
母は西園寺左大臣公朝の女

天正4年1月5日 従五位下

天正7年11月18日 侍従

天正8年2月5日 従五位上

天正12年1月26日 正五位下

天正16年2月28日 従四位下・右少将

天正17年1月6日 従四位上

天正19年1月10日 右中将

文禄4年12月4日 正四位下

慶長2年2月2日 参議・右中将

慶長5年1月5日 従三位

慶長11年1月11日 権中納言

慶長14年1月6日 正三位

慶長18年1月12日 権大納言

慶長19年1月5日 従二位

慶長19年 武家伝奏

元和3年1月5日 正二位

寛永元年11月28日 中宮大夫

寛永6年11月6日 内大臣

寛永6年11月8日 院執事別当

寛永8年11月6日 内大臣を辞す

(寛永10年3月21日) (前内府の初出) ●「日記」

(寛永10年4月11日) (三条内大臣) ●「日記」

寛永12年1月5日 従一位

寛永17年6月24日 右大臣

寛永17年10月4日 右大臣を辞す

寛永17年10月9日 薨去

(寛永17年10月13日) (右府の初出) ●「日記」

寛永17年10月13日 三条右府逝去之由従板倉周防守注進之 ●「日記」
三条西実教 元和5年7月5日 生。侍従。少将。中将。参議。中納言。大納言
さんじょうにしさねのり
侍従公勝の長男
諸家伝上・306 元和8年12月28日 従五位下
宮廷公家系図集覧276 寛永2年1月5日 従五位上

寛永6年9月16日 侍従

寛永7年1月5日 正五位下

寛永12年12月14日 従四位下。元服。禁色。左少将

寛永13年1月5日 従四位上

寛永14年11月11日 左中将

寛永16年1月5日 正四位下

寛永16年閏11月17日 参議。左中将

寛永17年1月5日 従三位

寛永17年1月11日 参議を辞す。左中将

寛永18年4月27日 昵近被召加之旨御直被仰聞云々 ●「日記」

寛永20年1月5日 正三位

慶安元年12月22日 権中納言

慶安2年1月14日 帯剣

慶安2年1月15日 賀茂伝奏

承応元年10月12日 従二位

承応2年 賀茂伝奏を辞す

明暦元年1月14日 正二位

明暦元年1月25日 権大納言

明暦元年10月14日 八条宮穏仁親王勅別当

明暦3年11月24日 権大納言を辞す

元禄14年12月19日 薨去
三四郎
笛方寺井家か?
さんしろう (寛永12年1月2日) (太鼓方もしくは笛方) ●「日記」

(寛永13年1月2日) (笛) ●「日記」



三途台
上総国長福寿寺か。天台宗
さんずだい




山王社
江戸。日枝神社。山王権現
さんのうしゃ


寛永12年6月17日 600石 ●「日記」



三仏寺
武蔵国? 浄土宗?
さんぶつじ




三宝院(高野山)
紀伊国高野山。真言宗
さんぼういん




三宝院(醍醐寺)
京都伏見醍醐寺。真言宗
さんぼういん




三宝院先師(高野山)

さんぼういんせんし
高野山三宝院住職

(寛永9年)
慈胤法親王 元和3年3月24日 誕生。清宮。梶井門跡(梨本門跡)。天台座主
じいんほっしんのう
承快法親王の嗣。後陽成天皇の第十三皇子
本朝皇胤紹運録
母は春日神主中東民部大輔時広の女土佐局
(群書系図部集1・102) 寛永6年10月9日 親王
詰所系図 寛永7年11月7日 得度
(系図綜覧上・35) (寛永11年7月21日) (梶井新宮) ●「日記」

寛永16年4月24日 梶井御門跡ヨリ献使者是先門主依他界続目之御礼也云々 ●「日記」

寛永17年5月9日 継目御礼 ●「日記」

寛永19年12月28日 天台座主

正保元年7月13日 天台座主を辞す

慶安3年1月29日 再任

明暦元年12月25日 重任

元禄12年12月2日 薨去
塩川少弼

しおかわしょうひつ
曼殊院門跡良尚法親王に仕える

(寛永13年5月6日) (竹内新宮内) ●「日記」



塩川兵部卿
良暁か?
しおかわひょうぶきょう
竹内門跡良恕法親王に仕える

(寛永13年5月6日) (竹内御門跡内) ●「日記」



塩川良暁 天正18年 生。法橋。法眼。法印
しおかわりょうぎょう
曼殊院(竹内)門跡坊官
地下家伝中・1553
得度

元和3年6月11日 法橋

寛永6年7月23日 法眼

(寛永13年5月6日) (竹内御門跡内塩川兵部卿) ●「日記」良暁か不明

寛永14年2月5日 法印

某年
塩小路通規 慶長14年10月3日 生。蔵人。左近将監。右馬頭
しおのこうじみちのり
唐橋民部少輔在通の四男
諸家伝下・1117 元和2年9月14日 正六位上
宮廷公家系図集覧528 元和2年9月21日 元服。昇殿。蔵人。禁色。左近将監

寛永11年1月5日 従五位下

寛永11年1月16日 右馬頭

寛永12年1月5日 従五位上

寛永13年1月5日 正五位下

寛永16年4月1日 去年依属御加恩御礼 ●「日記」

寛永17年1月5日 従四位下

(寛永17年4月19日) (新蔵人) ●「日記」

寛永17年11月12日 卒。断絶
塩野孫兵衛

しおのまごびょうえ
代官か

(寛永17年6月11日) (日光又ハ道中御賄仕候公家衆御馳走申) ●「日記」



塩屋又二郎

しおやまたじろう 寛永11年6月14日 昨日於阿波守亭佐渡銀山之様子御穿鑿彼地御奉行―


―花房勘右衛門訴人内藤勘兵衛対決今日達上聞勘兵衛―


―被行死罪与党塩屋又二郎其外三人籠舎 ●「日記」



慈恩寺(岩槻)
武蔵国岩槻。天台宗
じおんじ




慈恩寺(山形)
出羽国山形寒河江。法相宗・真言宗・天台宗・時宗・禅宗等
じおんじ




志賀定継
生。半兵衛。はじめ南条、渡辺を称す
しがさだつぐ
南条源介政継の男
寛政譜2・87
母は渡辺周防守の女

慶長15年 秀忠に仕える

慶長15年 父政継の家を継ぐ

元和元年~寛永3年 右筆


勘気を蒙る

慶安4年10月17日 ゆるされる

万治3年 死す
式部卿

しきぶきょう
勧修寺門跡寛海の家臣



式部少輔

しきぶのしょう


(寛永15年1月20日) (牛込天神神主式部少) ●「日記」



竺隠崇五

じくいんそうご

読史備要1017


正保元年1月10日 銀五拾枚南禅寺五首座今度諸家系図被仰付依令首尾被下之 ●「日記」


(上記、天英宗五か不明)


南禅寺278世

元禄10年6月23日 示寂
重田守定
生。作兵衛
しげたもりさだ
左近守信の男
寛政譜15・108
徳川忠長に付属される

(寛永9年) 処士

寛永16年 家光に仕える

寛永18年11月15日 本知・廩米を賜る

寛永18年11月15日 芦田武川衆十八人駿州ニて之本知并御切米如前々被下之 ●「日記」

万治2年 死す
重田守久 天正18年 生。喜兵衛
しげたもりひさ
助之丞守光の男
寛政譜15・110
妻は松平修理大夫家臣武井五左衛門の女


秀忠に仕える

慶長19年 大坂の役にて本多佐渡守正信に属す

元和元年 大坂の役にて本多佐渡守正信に属す

元和9年2月 徳川忠長に付属される。小十人

(寛永9年) 処士

寛永16年10月 家光に仕える。宝蔵番

寛永18年11月15日 本知・廩米を賜る

寛永18年11月15日 芦田武川衆十八人駿州ニて之本知并御切米如前々被下之 ●「日記」


宝蔵番を辞す。小普請

寛文4年1月21日 死す
滋野井季吉 天正14年9月24日 生。侍従。越中権介。少将。中将。参議。中納言。大納言
しげのいすえよし
実藤の中絶家を継ぐ。五辻右兵衛督之仲の次男
諸家伝上・203 慶長5年1月11日 従五位下
宮廷公家系図集覧280 慶長5年4月 元服。昇殿

慶長5年7月6日 侍従

慶長6年3月19日 越中権介

慶長9年8月1日 従五位上

慶長12年1月17日 右少将

慶長13年1月6日 正五位下

慶長17年1月5日 従四位下

慶長18年1月6日 従四位上

慶長18年11月1日 右中将

元和8年1月5日 正四位下

寛永4年2月2日 参議。右中将

寛永4年4月22日 従三位

寛永8年1月6日 正三位

寛永9年1月15日 権中納言

寛永12年1月5日 従二位

(寛永15年3月7日) ((摂関家の)家来之公家殿上人) ●「日記」

寛永19年1月5日 正二位

寛永20年1月11日 権中納言を辞す

寛永20年10月8日 権大納言

正保4年12月28日 権大納言を辞す

明暦元年12月5日 薨去
滋野井教広 元和6年8月27日 生。侍従。少将。中将
しげのいのりひろ
大納言季吉の次男
諸家伝上・203 寛永8年12月12日 従五位下
宮廷公家系図集覧280 寛永14年2月6日 元服

寛永15年1月5日 従五位上

寛永15年10月6日 侍従

(寛永18年4月25日) (少将) ●「日記」

寛永19年1月5日 正五位下

寛永20年1月11日 左少将

正保2年1月6日 従四位下

正保3年1月11日 右中将

正保3年3月13日 左中将

慶安元年1月5日 従四位上

承応元年1月5日 正四位下

明暦3年1月5日 従三位

寛文4年4月29日 安芸国に配流

元禄2年6月21日 薨去
滋野井冬晴 元和3年5月8日 生。侍従。少将
しげのいふゆはる
大納言季吉の長男
諸家伝上・203 寛永4年2月2日 従五位下
宮廷公家系図集覧280 寛永6年7月13日 侍従

寛永9年1月5日 従五位上

寛永11年1月11日 右少将

寛永13年6月11日
宍倉与右衛門
生。与兵衛。藤兵衛。与右衛門
ししくらよえもん
徒目付
寛政譜22・379 (寛永19年11月27日) (御歩行目付) ●「日記」


広敷添番

(寛文10年) 死す
侍従法眼

じじゅうほうげん
三宝院門跡覚定の坊官



四条

しじょう
後水尾天皇付女房

(寛永17年5月26日) (仙洞) ●「日記」



慈性 文禄2年 生。尊勝院。不動院。横川検校。法眼。僧都。法印。僧正。大僧正
じしょう
日野大納言資勝の次男
お多賀さま88
母は烏丸大納言光宣の女
宮廷公家系図集覧373 慶長5年 京都青蓮院の尊勝院22世
慈性日記2・309 慶長11年 出家

慶長12年 家康の命により近江国多賀大社別当不動院を兼帯

慶長17年12月7日 法眼

元和元年12月27日 少僧都

元和2年9月14日 大僧都

元和4年3月24日 法印

元和6年閏12月10日 権僧正

寛永6年2月4日 僧正

寛永19年6月20日 大僧正

正保4年 対馬国厳原万松院を開く

承応3年12月19日 比叡山横川検校

寛文3年9月25日 遷化
自昌院 元和5年12月15日 生。満姫。自昌院
じしょういん
家光の養准子。松平肥前守前田利常の三女
江の生涯137
母は秀忠の女珠姫天徳院
寛政譜5・342 寛永12年7月28日 松平肥前守息女松平安芸守可嫁之旨今日被仰出之 ●「日記」
前田家譜 寛永12年9月20日 松平安芸守浅野光晟に嫁ぐ
(加賀藩史料5・489) 寛永12年9月20日 松平肥前守息女松平安芸守所嫁縁有之―


―右之息女雖為御姪子御養准子被成 ●「日記」

寛永14年 松平弾正大弼浅野綱晟を産む


女子を産む。のち松平摂津守定良と婚約。戸沢上総介正誠の室


女子を産む。のちの仙石兵部少輔忠俊の室

正保元年 浅野和泉守長尚を産む。浅野因幡守長治の養子

承応元年 浅野式部少輔長照を産む。浅野因幡守長治の養子


女子を産む。のちの小笠原右近将監忠雄の室

元禄13年7月27日 逝去
自証院
生。振
じしょういん
蒲生氏郷家臣岡田吉右衛門の次女
幕府祚胤伝
母は町野長門守幸和と祖心との女
(徳川諸家系譜2・76) 寛永3年3月 大奥に勤仕
柳営婦女伝系
家光に仕える
(徳川諸家系譜1・201) 寛永14年閏3月5日 霊仙院を産む

寛永17年8月28日 逝去

寛永17年8月29日 千代姫君御方御母儀昨朝遠行ニ付て諸大名登城 ●「日記」
四条隆術 慶長16年5月25日 生。侍従。少将。中将。参議
しじょうたかみち
左中将隆昌の男
諸家伝上・388 慶長18年9月3日 従五位下
宮廷公家系図集覧440 元和4年3月7日 元服。昇殿。従五位上。侍従

元和7年1月5日 正五位下

寛永元年1月11日 左少将

寛永4年1月5日 従四位下

寛永5年2月10日 左中将

寛永8年1月6日 従四位上

寛永12年1月5日 正四位下

(寛永15年3月6日) (昵近之衆) ●「日記」

寛永17年1月5日 従三位

寛永20年1月5日 正三位

寛永20年10月13日 参議

寛永20年10月14日 参議を辞す

正保4年11月28日 薨去
鎮目惟清 元和3年 生。長太郎。長四郎。市左衛門
しずめこれきよ
長四郎惟吉の男
寛政譜4・226 元和4年 父惟吉の遺跡を継ぐ。200石

(寛永4年) 祖父市左衛門惟明の遺跡分知。500石

寛永9年12月1日 はじめて家光に拝謁

寛永9年12月1日 継目御礼 ●「日記」

(寛永9年12月1日) (長四郎) ●「日記」


大番

明暦2年 大番を辞す。小普請

貞享元年12月18日 致仕

貞享3年5月12日 死す
鎮目惟貞 寛永元年 生。猪之助。金左衛門。五郎大夫
しずめこれさだ
藤兵衛惟忠の男
寛政譜4・227
妻は山中七左衛門吉正の女

寛永5年 父惟忠の遺跡を継ぐ。200俵。小普請

寛永6年4月 はじめて秀忠に拝謁

寛永13年12月27日 大番 ●「日記」共

万治2年9月20日 大番を辞す

寛文7年2月21日 大番

寛文10年6月28日 死す
鎮目惟重 慶長3年 生。半右衛門
しずめこれしげ
市左衛門惟明の三男
寛政譜4・226
母は内田全阿弥正次の女


家光に仕える。小姓組

(寛永4年) 父惟明の遺跡を継ぐ。1650石

寛永9年12月1日 継目御礼 ●「日記」


書院番

寛永10年2月2日 大番組頭 ●「日記」共

寛永18年7月23日 死す
鎮目惟正 慶長8年 生。忠次郎
しずめこれまさ
市左衛門惟明の四男
寛政譜4・226
母は内田全阿弥正次の女

寛永9年12月1日 はじめて家光に拝謁

寛永9年12月1日 継目御礼 ●「日記」

寛永12年12月 大番。200俵

寛永19年7月6日 死す
鎮目惟正次男 寛永19年
寛政譜4・226
忠次郎惟正の次男

寛永19年12月10日 父惟正の遺跡を継ぐ。200俵

寛永19年12月10日 鎮目忠二郎跡実子当歳 ●「日記」


以下不詳
次大夫

じだゆう (寛永11年7月2日) (加々爪甲斐守歩行侍) ●「日記」



設楽貞利 寛永8年 生。内記。三右衛門
しだらさだとし
三右衛門貞時の男
寛政譜17・304
妻は山本新五左衛門重吉の女

寛永15年12月6日 父貞時の遺跡を継ぐ。300石

寛永15年12月6日 設楽三右衛門跡五百石之内旧領三百石実子ニ被下之―


―右同断(幼少ニ付御加増之分は被召上之) ●「日記」

正保4年12月25日 小姓組

~寛文9年 小姓組を辞す

元禄13年8月24日 死す
設楽貞辰 慶長19年 生。主馬。甚三郎。貞辰
しだらさだとき
甚三郎貞代の次男
寛政譜17・302
母は石川日向守家成の女


妻は高木主水正正成の女

寛永7年 はじめて家光に拝謁

寛永7年 小姓組

寛永15年12月6日 父貞代の遺跡を継ぐ。2150石

寛永15年12月6日 設楽甚三郎遺蹟弐千百五拾石実子求馬ニ被下―


―自分之四百石ハ被召上之 ●「日記」

寛永16年1月28日 設楽甚三郎死去ニ付て跡目被仰付面々 ●「日記」

寛永16年5月11日 高木善二郎妹と設楽主馬と縁辺之儀善二郎望之趣―


―立御耳心次第ニ可仕之旨上意 ●「日記」

寛文3年1月21日 先鉄炮頭

寛文3年12月28日 布衣

延宝4年1月11日 鎗奉行

天和元年2月25日 鎗奉行を辞す

天和2年5月29日 致仕。300俵。貞辰と号す

天和3年3月25日 死す
設楽貞時 慶長3年 生。三右衛門
しだらさだとき
兵庫頭貞清の次男
寛政譜17・304
母は大久保七郎右衛門忠世の女

元和元年 家康に仕える。200石


秀忠に仕える。書院番

寛永10年2月7日 500石。小姓組

寛永11年~ 小姓組を辞す。小普請

寛永15年 死す
設楽貞信 永禄11年 生。市左衛門
しだらさだのぶ
越中守貞道の次男
寛政譜17・305
母は菅沼織部正定則の女

~天正12年 家康に仕える

慶長19年 大坂の役にて酒井家次に属す

元和元年 大坂の役にて伏見城番

(元和2年) 秀忠に仕える。700石。諸道具奉行

寛永3年~ 寄合

正保2年6月22日 死す
設楽貞政 寛永元年 生。甚之助。市左衛門。肥前守
しだらさだまさ
市左衛門貞信の次男
寛政譜17・305
妻は三好備前守長富の女


後妻は安倍長徳院瑞屯の女

寛永13年8月25日 はじめて家光に拝謁

寛永13年8月25日 設楽市左衛門子共初て御礼 ●「日記」

寛永15年10月24日 書院番 ●「日記」共

寛永18年6月28日 小姓組

正保2年12月19日 父貞信の遺跡を継ぐ。700石

寛文12年6月11日 使番

寛文12年12月28日 布衣

延宝7年6月14日 大坂町奉行。1700石

延宝7年10月3日 従五位下・肥前守

貞享2年12月22日 次男助右衛門貞親に連座して逼塞

貞享3年5月8日 赦免。寄合

元禄4年2月20日 死す
設楽貞通 慶長17年 生。隼人
しだらさだみち
甚三郎貞代の長男
寛政譜17・301
妻は大久保玄蕃頭忠成の女

寛永9年9月20日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永15年6月17日 死す
設楽貞代 天正16年 生。甚三郎
しだらさだよ
兵庫頭貞清の長男
寛政譜17・301
母は大久保七郎右衛門忠世の女


妻は石川日向守家成の女

~慶長5年 秀忠に仕える

慶長19年 大坂の役にて酒井家次に属す

元和元年 大坂の役にて伏見城番

元和2年1月2日 謡初に列座


寄合

(寛永2年12月11日) 2150石

寛永9年10月23日 甲斐国郡内城番

寛永11年 上総国佐貫城番

寛永13年2月1日 甲府城番

寛永15年6月23日 死す
設楽能業 永禄3年 生。長兵衛
しだらよしなり
惣右衛門能重の男
寛政譜17・307
妻は武田家臣橋本玄蕃の女


また妻は萩原吉右衛門昌重の女


家康に仕える。八王子代官。150俵

寛永9年8月27日 佐渡之地被仰付 ●「日記」

(寛永10年7月30日) (佐州御代官) ●「日記」

寛永10年10月26日 佐州へ被遣 ●「日記」

正保4年3月14日 死す
設楽能政
生。源助。源右衛門
しだらよしまさ
長兵衛能業の長男
寛政譜17・307
母は武田家臣橋本玄蕃の女


秀忠に仕える。代官。100俵

(寛永19年4月4日) (源左衛門の初出) ●「日記」

寛文5年6月26日 200俵

延宝6年8月16日 代官を辞す

延宝6年9月18日 死す
七条隆脩 慶長17年12月20日 生。侍従。少将。中将。不覚生終
しちじょうたかなが
水無瀬中納言氏成の次男
諸家伝下・1026 元和6年閏12月20日 従五位下
宮廷公家系図集覧458 元和6年閏12月24日 元服。昇殿。侍従

寛永2年1月5日 従五位上

寛永5年2月10日 左権少将

寛永10年1月6日 正五位下

寛永14年1月5日 従四位下

寛永14年1月11日 左権中将

(寛永17年4月19日) (少将) ●「日記」

(寛永17年5月8日) (中将の初出) ●「日記」

寛永18年1月5日 従四位上

寛文 出家。(不覚生終と号すか)

寛文9年10月
七戸直時
生。隼人正
しちのへなおとき
南右馬允直勝の男か
七戸郷土史稿
妻は浪岡彦次郎政信の女光伝院
(青森県史5・722)
南部利直に仕える。2000石


七戸を称す。家老

寛永20年10月28日 2300石

正保4年2月16日 死す
十翰智哲

じっかんちてつ
妙心寺142世
禅宗辞典17 寛永18年4月7日 長老なりの御礼 ●「日記」



実成院
本実成院か
じつじょういん




実相院(日光山)
日光山
じっそういん




四天王寺
摂津国大坂。天台宗と関係が深い
してんのうじ




四天王寺秋野坊

―あきのぼう
代々四天王寺の寺務をつとめる。勘定方



四天王寺惣中

―そうちゅう
四天王寺の法要をつとめる



品川高久 天正4年 生。新六郎
しながわたかひさ
今川刑部大輔氏真入道宗誾の次男
寛政譜2・229
母は北条左京大夫氏康の女


妻は鷲尾筑後の女

慶長3年 はじめて秀忠に拝謁

慶長6年 1000石

寛永16年8月4日 死す
品川高寛 元和2年 生。主馬。権大夫
しながわたかひろ
新六郎高久の次男
寛政譜2・230
母は鷲尾筑後の女

寛永7年 はじめて家光に拝謁

寛永7年 200石

寛永14年 小姓組

万治3年12月26日 200石100俵

延宝6年6月 小姓組を辞す。小普請

元禄7年12月7日 致仕

元禄10年閏2月8日 死す
品川高如 慶長17年 生。新太郎。内膳。内膳正。式部大輔。侍従
しながわたかゆき
新六郎高久の長男
寛政譜2・229
母は鷲尾筑後の女


妻は松平出雲守勝隆の養女松平淡路守重長の女


後妻は増山弾正少弼正利の姉

寛永元年 はじめて家光に拝謁

寛永16年閏11月7日 父高久の遺跡を継ぐ。1000石。表高家

寛永16年閏11月7日 品川新六郎跡実子内膳ニ被仰付之 ●「日記」

(寛永17年6月21日) (内膳正) ●「日記」

正保元年4月10日 奥高家

正保元年4月10日 自今以後営中え相詰吉良若狭守今川刑部大輔同前ニ可致御奉公 ●「日記」

正保元年12月29日 従四位下・内膳正

正保元年12月29日 四品諸大夫 ●「日記」

正保3年12月30日 侍従

慶安3年9月3日 西丸に勤仕

慶安4年 本丸に勤仕

寛文9年12月23日 従四位上

寛文11年4月25日
信濃小路権佐
淡路守宗増の男内蔵権頭宗道か?
しなのこうじごんのすけ







信濃小路宗増 天正6年 生。淡路守
しなのこうじむねます
右馬頭周可の男
地下家伝中・1145
九条幸家に仕える
宮廷公家系図集覧211 元和6年6月1日 従五位下
宮廷公家系図集覧87
従五位上・淡路守

正保3年5月14日
柴田勝興 慶長17年 生。山三郎。三左衛門
しばたかつおき
三左衛門勝重の長男
寛政譜6・317
母は織田左衛門佐長政の女


妻は神尾備前守元勝の女

元和6年 家光に拝謁

寛永9年8月26日 父勝重の遺跡を継ぐ。2520石

寛永9年8月26日 跡目 ●「日記」

寛永9年8月28日 (善三郎) ●「日記」

~寛文3年 書院番

寛文5年2月28日 先鉄炮頭

寛文5年12月28日 布衣

延宝8年1月21日 先鉄炮頭を辞す

延宝8年12月25日 致仕。300俵

天和2年10月29日 死す
柴田勝重 天正7年 生。権六郎。三左衛門
しばたかつしげ
三左衛門勝政の長男
寛政譜6・316
母は日根野織部正高吉の女


妻は日根野筑後守吉時の女


後妻は織田左衛門佐長政の女


また後妻は佐久間大膳亮勝之の女

(天正11年) 柴田修理亮勝家没落のときから外祖父日根野高吉に養育される

慶長4年 家康に仕える。2000石

元和元年 2520石

寛永9年4月25日 死す
柴田忠勝
生。金右衛門
しばたただかつ
秀忠に仕える。徒目付
寛政譜21・233
紅葉山宮番

(延宝2年) 死す
柴田中務

しばたなかつかさ


(正保元年2月8日) (松平陸奥守使者) ●「日記」



柴田某

しばた
家康により忠輝に付属される


忠輝改易ののち処士

寛永11年6月25日 道中にて直訴し江戸追放 ●「日記」



柴田正信 慶長14年 生。四郎左衛門
しばたまさのぶ
伝右衛門正吉の男
寛政譜15・103
妻は小沢牛右衛門忠秋の女

寛永6年 はじめて家光に拝謁

寛永7年 大番

(寛永17年) 父正吉の遺跡を継ぐ。300石

寛永19年8月18日 蔵奉行

寛永19年8月18日 浅草方御蔵奉行 ●「日記」


350石


蔵奉行をゆるされる

延宝8年8月5日 死す
柴田正吉 天正9年 生。伝右衛門
しばたまさよし
主膳正重の男
寛政譜15・103
家康・秀忠・家光に仕える。大番。300石

寛永17年10月 死す
柴田康明 慶長19年 生。新兵衛
しばたやすあきら
筑後守康長の次男
寛政譜6・313
母は永井右近大夫直勝の女

寛永8年12月26日 はじめて家光に拝謁

寛永9年5月 小姓組

寛永10年5月 200石

寛永11年 書院番

寛永13年9月27日 父康長の遺跡分知。700石 ●「日記」共

寛永18年7月5日 小姓組組頭

寛永18年7月5日 石川権十郎組頭 ●「日記」

寛永18年12月29日 布衣 ●「日記」共

慶安3年9月3日 西丸書院番組頭

慶安4年11月21日 700石300俵

慶安4年 本丸に勤仕

万治2年7月24日 書院番組頭を辞す

延宝7年11月27日 致仕。300俵

延宝8年11月28日 死す
柴田康長 天正15年 生。亀千世。亀丸。七九郎。筑後守
しばたやすなが
七九郎康忠の長男
寛政譜6・310
母は石河十郎右衛門の女


妻は永井右近大夫直勝の女

文禄2年 はじめて家康に拝謁

文禄2年 父康忠の遺跡を継ぐ。5000石


秀忠に仕える

慶長9年 火番組頭

慶長10年4月26日 従五位下・筑後守

慶長18年 改易。下野国足利に住す

元和9年 ゆるされる

寛永元年 3000石

寛永2年 徒頭

寛永3年 書院番組頭

寛永10年4月23日 3700石

寛永10年4月23日 700石御加恩 ●「日記」

寛永10年7月26日 小姓組番頭 ●「日記」共

寛永13年3月27日 書院番頭。与力同心を預かる

寛永13年3月27日 御書院番之頭 ●「日記」

寛永13年6月22日 死す
柴田康長長女
寛政譜6・310
柴田筑後守康長の長女
寛政譜15・279 寛永12年12月1日 柴田筑後守娘縁辺之儀戸川主水ニ可嫁 ●「日記」


戸川主水正安平に嫁ぐ


以下不詳
柴田康久 慶長12年 生。七九郎。筑後守
しばたやすひさ
筑後守康長の長男
寛政譜6・310
母は永井右近大夫直勝の女

元和8年 はじめて秀忠に拝謁

寛永元年 小姓組

寛永13年9月27日 父康長の遺跡を継ぐ。3000石 ●「日記」共

寛永15年4月25日 小姓組組頭 ●「日記」共

寛永16年12月30日 布衣 ●「日記」共

正保2年6月28日 小姓組番頭

正保2年12月30日 従五位下・筑後守

慶安3年4月12日 死す
芝直葛 天正13年3月16日 生。左衛門少志。左兵衛少尉。左近将監。丹波守
しばなおかず
左衛門少志則葛の男
地下家伝上・539
南都方楽人
宮廷公家系図集覧634
正六位下


左衛門少志

慶長2年11月12日 左兵衛少尉


左近将監


従五位下

慶長18年1月12日 丹波守

寛永10年12月23日 従五位上

正保4年12月7日 正五位下

慶安4年1月5日 従四位下

明暦2年1月15日
芝之坊法眼

しばのぼうほうげん
実相院門跡の坊官



柴村正重 慶長17年 生。左源太
しばむらまさしげ
一郎右衛門正次の男
寛政譜9・65
母は山下平右衛門の女

寛永9年5月 はじめて家光に拝謁

寛永9年10月8日 畳奉行 ●「日記」共

寛永11年8月 父正次の遺跡を継ぐ。200石

寛文6年12月 畳奉行を辞す。致仕

元禄5年8月13日 死す
柴山権兵衛
生。権兵衛
しばやまごんひょうえ
九右衛門正信の長男
寛政譜5・261 寛永9年8月19日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」


早世
柴山永澄
生。十助
しばやまながずみ 天正9年 鳥見役
寛政譜20・15 慶長5年 関ケ原に従う

慶長19年 大坂の役に従う

元和元年 大坂の役に従う

元和9年 改易

寛永9年7月17日 赦免。鳥見役

寛永9年7月17日 ゆるされる ●「日記」

寛永11年2月26日 150俵 ●「日記」


以下不詳
芝山宣豊 慶長17年3月25日 生。大膳大夫。大蔵卿。参議。中納言。大納言
しばやまのぶとよ
勧修寺准大臣晴豊の四男阿部右京致康の男
諸家伝下・1069
室は藤堂将監嘉以の長女
宮廷公家系図集覧412 元和5年1月6日 従五位下

寛永3年6月15日 元服。昇殿。大膳大夫。従五位上

寛永9年1月5日 正五位下

(寛永11年7月21日) (院中) ●「日記」

寛永13年1月5日 従四位下

寛永17年1月5日 従四位上

正保元年4月5日 正四位下

慶安元年12月16日 従三位。大蔵卿

承応元年12月7日 正三位

承応3年12月24日 参議

明暦元年1月11日 参議を辞す

明暦2年12月11日 権中納言

明暦3年8月9日 権中納言を辞す

明暦3年12月12日 従二位

天和2年1月5日 正二位

元禄元年5月17日 権大納言

元禄元年5月29日 権大納言を辞す

元禄3年2月13日 薨去
芝山正親 弘治元年 生。小兵衛
しばやままさちか
小兵衛正員の次男
寛政譜7・383
母は小出大和守の女


妻は野辺伝十郎正久の女

~天正3年 家康に仕える

慶長7年 伏見町奉行

慶長7年10月2日 500石

(慶長10年) 父正員の遺跡を継ぐ。800石

慶長19年 堺政所

慶長19年~ 堺政所を辞す

寛永14年9月16日 死す
芝山正信 寛永5年 生。彦十郎。小兵衛
しばやままさのぶ
小兵衛正親の養子。横地杢右衛門安信の次男
寛政譜7・383
母は小兵衛正親の女


妻は小野源右衛門高盛の女

寛永14年12月8日 養父正親の遺跡を継ぐ。800石

寛永14年12月8日 八百石小兵衛跡芝山彦十郎 ●「日記」

慶安2年12月26日 書院番

延宝5年2月2日 死す
柴山正信 文禄2年 生。七郎左衛門。甚太郎。九右衛門
しばやままさのぶ
九右衛門吉次の男
寛政譜5・261
母は土井次郎右衛門昌勝の女


妻は松平新太郎池田光政家臣小笠原縫殿の女


秀忠に仕える。小姓

元和元年 大坂の役にて青山伯耆守忠俊に属す

元和元年 300俵


大番

寛永10年2月7日 500石

承応元年4月23日 死す
渋江氏胤 元亀元年 生。弥十郎。長喜。徹斎。法橋
しぶえうじたね
紀伊守好胤の次男
寛政譜10・46
母は岩崎氏


北条家に仕えるか

(天正18年) 父好胤戦死ののち処士。剃髪し名を長喜と改め徹斎と号す。医術を学ぶ

寛永11年 家光に仕える。医師

寛永15年12月1日 100俵月俸10口

寛永15年12月1日 先年被召出医師徹斎御切米百俵拾人扶持被下之 ●「日記」

寛永16年 法橋

寛永16年12月30日 法橋 ●「日記」

正保元年2月20日 死す
渋谷伊豆

しぶやいず
紀伊家臣



渋谷助右衛門

しぶやすけえもん
戸沢右京亮政盛と公事

寛永12年2月5日 斬罪 ●「日記」
渋谷頼母助

しぶやたのものすけ
紀伊家臣



渋谷伯耆

しぶやほうき (寛永12年10月15日) (紀伊亜相使者) ●「日記」



嶋川藤右衛門

しまかわとうえもん
黒田甲斐守長興に仕える

(寛永16年8月10日) (黒田甲斐守家老) ●「日記」



嶋喜三郎
生。喜三郎
しまきさぶろう
藤左衛門正直の三男
寛政譜8・200 正保元年9月9日 徳川綱重に付属される

正保元年9月9日 長松殿へ嶋弥左衛門弟被召出之 ●「日記」

慶安元年12月11日 月俸20口


以下不詳
嶋権左衛門

しまごんざえもん
美濃部権兵衛と喧嘩

寛永13年6月5日 切腹被仰付是非右之同類兼日不形儀ハ不仕之由雖為証拠分明―


―彼喧嘩之節其場え馳参依令荷担也云々 ●「日記」



嶋田久太郎

しまだきゅうたろう 寛永9年7月6日 書院番か



嶋田重利 慶長5年 生。庄五郎
しまだしげとし
庄五郎利氏の男
寛政譜5・208
妻は酒井左衛門尉家次の女


また妻は嶋田幽也利正の女

慶長17年 父利氏の遺跡を継ぐ。500石

~寛永2年 手水番


小姓組

寛永13年10月28日 小姓組。進物番

寛永13年10月28日 御進物番 ●「日記」

慶安3年12月4日 死す
嶋田重頼 寛永2年 生。藤十郎。越中守。常也
しまだしげより
庄五郎重利の長男
寛政譜5・208
母は嶋田幽也利正の女


妻は嶋田次兵衛利香の女

寛永13年3月15日 はじめて家光に拝謁

寛永13年3月15日 嶋田庄五郎子樽代を以御礼 ●「日記」

正保3年7月6日 書院番

慶安4年12月11日 父重利の遺跡を継ぐ。500石

寛文3年11月25日 目付

寛文3年12月26日 500石300俵

寛文3年12月28日 布衣

延宝5年9月26日 大坂町奉行

延宝5年11月24日 1500石300俵

延宝5年閏12月26日 従五位下・越中守

天和元年6月19日 大坂町奉行をゆるされる。小普請

元禄8年12月6日 致仕。常也と号す

元禄8年12月23日 死す
嶋田時郷
生。弥右衛門。淡路守
しまだときさと
越前守直時の次男
寛政譜5・207
妻は能勢日向守頼宗の養女福嶋正鎮の女

寛永12年8月15日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永12年11月 小姓組


300俵

明暦3年10月23日 小十人頭

明暦3年12月28日 布衣

万治元年閏12月25日 600俵


600石

寛文元年閏8月11日 徳川綱重に付属される。家老。3000石

寛文元年12月28日 従五位下・淡路守

寛文10年5月15日 松平大膳大夫毛利綱広に召し預けられる


以下不詳
嶋田利香
生。次兵衛。一玄
しまだとしか
幽也利正の三男
寛政譜5・198
幼年のときあやまって左のあしを傷つける

某年 家光に拝謁。のち年ごとに1月6日年頭御礼

寛文12年7月26日 死す
嶋田利木 寛永元年 生。助之進。久太郎。出雲守。幽山
しまだとしき
幽也利正の四男
寛政譜5・199
妻は喜連川左馬頭頼氏の女

寛永7年 はじめて家光に拝謁

(寛永9年7月6日) (久太郎?)(宿割役?) ●「日記」

寛永17年3月19日 小姓組 ●「日記」共

寛永19年10月16日 父利正の遺領分知。1000石

寛永19年10月16日 嶋田幽也跡職従此以前訴訟之通弥被分下之由伊豆守対馬守伝仰之旨―


―所謂千石高林河内守弐千五百石嶋田八郎左衛門―


―五百石嶋田兵四郎千石嶋田久太郎 ●「日記」

明暦2年3月2日 徒頭

明暦2年12月26日 布衣

万治元年9月1日 目付

寛文2年5月1日 長崎奉行

寛文6年1月30日 長崎奉行を辞す

寛文7年閏2月21日 町奉行。1000石1000俵

寛文7年12月28日 従五位下・出雲守

天和元年3月27日 小普請。閉門

天和2年12月17日 赦免。なお拝謁をはばかる

天和3年5月15日 ゆるされる

元禄8年12月12日 致仕。幽山と号す

元禄12年7月12日 死す
嶋田利直
生。右近。権三郎
しまだとしなお
幽也利正の五男
寛政譜5・202 寛永18年10月3日 家綱に仕える。小姓

寛永18年10月3日 (左近) (名前のみの記載) ●「日記」

寛永20年3月 番士

慶安3年9月4日 小姓組。300俵

延宝元年2月12日 小十人頭。600俵

延宝7年4月6日 死す
嶋田利宣 寛永2年 生。八郎左衛門
しまだとしのぶ
兵四郎利世の長男
寛政譜5・194 寛永11年2月15日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永19年10月16日 祖父弾正忠利正の遺跡を継ぐ。2500石。寄合

寛永19年10月16日 嶋田幽也跡職従此以前訴訟之通弥被分下之由伊豆守対馬守伝仰之旨―


―所謂千石高林河内守弐千五百石嶋田八郎左衛門―


―五百石嶋田兵四郎千石嶋田久太郎 ●「日記」


小普請

承応3年12月23日 死す
嶋田利正 天正4年 生。兵四郎。長四郎。次兵衛。弾正忠。幽也
しまだとしまさ
次兵衛重次の五男
寛政譜5・194
母は多田慶忠の女


秀忠に仕える

慶長9年 使番

慶長13年 歩行士を預かる

慶長18年 町奉行

寛永2年1月1日 従五位下・弾正忠


5000石

寛永8年 (町奉行をゆるされるか)

寛永12年 剃髪。幽也と号す

(寛永14年12月19日) (幽也の初出) ●「日記」

寛永19年9月15日 死す
嶋田利喜 寛永5年 生。兵四郎
しまだとしよし
兵四郎利世の次男
寛政譜5・197 寛永17年 はじめて家光に拝謁

寛永19年10月16日 祖父弾正忠利正の遺跡分知。500石

寛永19年10月16日 嶋田幽也跡職従此以前訴訟之通弥被分下之由伊豆守対馬守伝仰之旨―


―所謂千石高林河内守弐千五百石嶋田八郎左衛門―


―五百石嶋田兵四郎千石嶋田久太郎 ●「日記」

慶安2年12月26日 小姓組

元禄4年 死す
嶋田直次(刑部) 慶長14年 生。清左衛門。刑部少輔
しまだなおつぐ
越前守直時の長男
寛政譜5・206 元和7年 家光に仕える。近習の小姓。500俵

寛永元年12月30日 従五位下・刑部少輔

寛永9年 書院番

寛永9年11月5日 書院番・進物役

寛永9年11月5日 本番御免。進物番 ●「日記」

寛永10年2月7日 700石

寛文6年11月2日 死す
嶋田直次(五郎兵衛) 文禄4年 生。五郎兵衛。如雪
しまだなおつぐ
右京亮成重の男
寛政譜5・203
父成重と同じく松平三河守忠直に仕える


処士

寛永4年 秀忠に仕える。小姓組。(2000石)

寛永13年9月27日 小姓組組頭 ●「日記」共

寛永13年12月29日 布衣 ●「日記」共

正保4年1月12日 先弓頭

慶安3年9月3日 家綱に付属される。西丸に伺候

寛文3年1月11日 旗奉行

寛文12年7月6日 旗奉行を辞す

寛文12年8月5日 致仕。300俵。采地三河国設楽郡野田邑に閑居。如雪と号す

天和元年7月25日 死す
嶋田直時 元亀元年 生。清左衛門。越前守
しまだなおとき
次兵衛重次の三男
寛政譜5・206
母は多田慶忠の女

~天正18年 家康に仕える

慶長7年 鉄炮足軽30人

慶長18年 甲斐国中のことを沙汰

元和2年 父重次の鉄炮足軽50人を預かる。(計80人?)

元和5年 大坂町奉行

寛永2年1月1日 従五位下・越前守

寛永4年 大坂町奉行・堺奉行

寛永5年10月7日 死す
嶋田直正 元和9年 生。(一位彦)。新三郎
しまだなおまさ
五郎兵衛直次の長男
寛政譜5・204 寛永9年 家光に拝謁

寛永10年2月19日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」

(寛永10年2月19日) (嶋田五郎兵衛子一位彦) ●「日記」

寛永15年10月24日 書院番 ●「日記」共

慶安3年9月3日 西丸に勤仕

寛文12年8月5日 父直次の家を継ぐ。2000石

延宝2年7月3日 先鉄炮頭

延宝2年12月27日 布衣

延宝3年4月20日 死す
嶋田春世
生。十右衛門
しまだはるよ
次兵衛重次の長男
寛政譜5・193
母は多田慶忠の女


西丸書院番。830石

寛永9年8月18日 使番 ●「日記」共

寛永9年11月27日 布衣 ●「日記」共

寛永11年11月11日 死す
嶋津安芸守

しまづあきのかみ
松平大隅守嶋津家久に仕える

(寛永15年2月1日) (上使の御礼に登城) ●「日記」



嶋津家久 天正4年 生。米菊丸。又八郎。陸奥守。薩摩守。大隅守。少将。参議。
しまづいえひさ
中将。中納言。松平を称す
寛政譜2・339
惟新斎義弘の三男


母は広瀬吉左衛門助宗の女


室は龍伯義久の女


継室は家臣嶋津備前忠清の女

文禄3年3月20日 はじめて秀吉に拝謁

慶長4年1月9日 正四位下・少将

慶長7年4月11日 伯父義久とともに薩摩国・大隅国・日向国諸県郡を安堵される

慶長7年 薩摩国鹿児島城(60万5000石)

慶長9年6月 陸奥守

慶長11年6月17日 偏諱を賜る

慶長14年7月7日 琉球国を賜る。(12万3700石)

元和3年7月18日 参議・中将

元和3年9月1日 松平の称号を賜る。薩摩守

寛永3年8月19日 従三位・中納言

寛永8年4月1日 大隅守 ●「日記」共

寛永11年8月4日 薩摩国鹿児島城72万8700石

寛永15年2月23日

寛永15年3月8日 去月廿三日死去日来依病気也 ●「日記」
嶋津下野
嶋津家臣
しまづしもつけ




嶋津図書

しまづずしょ
松平大隅守嶋津家久に仕える

(寛永14年9月10日) (就御不例松平大隅守ヨリ嶋津図書差越) ●「日記」



嶋津忠朗
生。又八郎。兵庫
しまづただあきら
大隅守家久の三男
寛政譜2・346
母は鎌田氏


兄松平大隅守嶋津光久に仕える



嶋津忠興 慶長4年 生。堯秀坊。右馬允。右馬頭
しまづただおき
右馬頭以久の三男
寛政譜2・354
母は松木氏

慶長15年5月2日 父以久の遺領を継ぐ。日向国佐土原3万石


家康・秀忠に拝謁

元和4年12月28日 従五位下・右馬頭

寛永14年6月11日
嶋津忠紀
生。越後。玄蕃頭
しまづただのり
大隅守家久の七男
寛政譜2・346
母は嶋津家臣嶋津備前忠清の女

寛永8年4月1日 従五位下・玄蕃頭 ●「日記」共


嶋津家臣嶋津又四郎久敏の養子となる
嶋津弾正

しまづだんじょう
松平大隅守嶋津光久に仕える

(寛永15年5月13日) (松平薩摩守家老) ●「日記」



嶋津綱久 寛永9年 生。虎寿丸。(六兵衛)。又三郎。薩摩守。侍従。松平を称す
しまづつなひさ
大隅守光久の長男
寛政譜2・347
母は嶋津家臣伊勢大隅貞豊の女


室は松平隠岐守定頼の女

寛永18年1月11日 はじめて家光に拝謁

寛永18年1月11日 松平薩摩守嫡男虎寿丸初て御目見 ●「日記」

(寛永18年11月28日) (松平薩摩守息松平六兵衛御鷹雁二羽宛被下之) ●「日記」

(寛永20年1月3日) (又三郎の初出) ●「日記」

慶安4年12月26日 御前にて元服。偏諱を賜る。従四位下。侍従。薩摩守

延宝元年2月19日
嶋津久雄 寛永10年 生。万寿丸。堯仁坊。右馬頭。但馬守
しまづひさお
右馬頭忠興の長男
寛政譜2・355
母は丹生氏


室は松平大隅守嶋津光久の長女

寛永14年9月8日 父忠興の遺領を継ぐ。日向国佐土原3万石

寛永14年9月8日 遺跡被仰付嶋津右馬頭惣領万寿 ●「日記」

寛永14年12月26日 はじめて家光に拝謁

寛永14年12月26日 去比亡父之遺跡雖被仰付御不例ニ付継目之御礼未申上依之―


―今日太刀目録并亡父之遺物献之各対謁老中て退去 ●「日記」

慶安元年12月30日 従五位下・右馬頭

慶安2年~ 但馬守

寛文3年12月2日
島津久利 寛永9年 生。主馬。主馬助。八郎右衛門。はじめ後藤を称す
しまづひさとし
後藤市左衛門吉勝の男
寛政譜13・112
母は大岡二郎兵衛直政の女


妻は小出杢之助吉成の女

寛永18年3月1日 はじめて家光に拝謁

寛永18年3月1日 樽代前ニ置一同ニ御目見 ●「日記」

寛永20年12月7日 父吉勝の遺跡を継ぐ。500石。小普請

寛永20年12月7日 五百石市左衛門跡後藤主馬助 ●「日記」

慶安元年8月3日 小姓組

寛文7年 島津を称す

元禄9年~ 小姓組を辞す

享保11年1月9日 死す
嶋津兵庫助

しまづひょうごのすけ


(寛永20年2月15日) (松平薩摩守証人) ●「日記」



嶋津光久 元和2年 生。虎寿丸。又三郎。薩摩守。大隅守。侍従。少将。中将。松平を称す
しまづみつひさ
大隅守家久の次男
寛政譜2・344
母は家臣嶋津備前忠清の女


室は家臣伊勢大隅貞豊の女


継室は平松中納言時庸の女

寛永2年4月23日 はじめて秀忠・家光に拝謁

寛永8年4月1日 御前にて元服。偏諱を賜る。従四位下・侍従

寛永8年4月1日 薩摩守。松平の称号を賜る ●「日記」共

(寛永9年1月22日) (少将) ●「日記」

(寛永13年1月2日) (薩摩侍従の初出) ●「日記」

寛永15年4月27日 父家久の遺領を継ぐ。薩摩国鹿児島城72万8700石

寛永15年5月13日 亡父中納言就逝去彼遺跡相続之儀被仰付 ●「日記」

寛永19年7月13日 薩摩ニ有之金山依被下為御礼登営云々 ●「日記」

慶安4年12月25日 少将

慶安4年12月26日 大隅守

延宝元年12月28日 従四位上・中将

貞享4年7月27日 致仕

元禄7年11月29日
嶋津大和

しまづやまと
松平大隅守嶋津光久に仕える

(寛永17年1月28日) (松平薩摩守使者) ●「日記」



嶋正利
生。弥左衛門
しままさとし
藤左衛門正直の長男
寛政譜8・199
母は万里小路大納言光房の女


妻は大野壱岐守治純の女

元和7年 小姓組

寛永3年 祖父弥左衛門一正の遺跡を継ぐ。1560石

延宝元年7月3日 死す
嶋正直
生。藤左衛門。専甫
しままさなお
弥左衛門一正の長男
寛政譜8・199
母は織田家臣簗田出羽守政長の女


妻は万里小路大納言光房の女

慶長11年 家康に仕える


病により仕を辞す

寛永20年8月18日 死す
嶋正成 天正13年 生。忠三郎。弥次右衛門
しままさなり
弥次右衛門正治の次男
寛政譜17・47
母は北畠家臣宇野七郎右衛門の女


妻は織田家臣前田河内守の女

慶長6年 家康に拝謁

元和元年 200石

正保4年12月27日 大坂鉄炮頭。500石

寛文3年 大坂鉄炮頭をゆるされる


大坂材木奉行

寛文6年5月24日 死す
嶋三安
生。四郎左衛門
しまみつやす
弥左衛門一正の次男
寛政譜8・201 慶長17年 家康に拝謁

慶長17年10月30日 1000石

元和元年~ 書院番

寛永10年2月7日 1200石

~寛永16年 使番

正保元年11月23日 死す
嶋村右近
左近とも
しまむらうこん
随心院門跡増孝の家臣



島元利
生。長兵衛。治左衛門
しまもととし
治左衛門元政の男
寛政譜17・52 寛永3年 大番


150俵

寛永4年 200俵

寛永10年2月7日 400石

寛永13年9月29日 大番組頭

寛永13年9月29日 阿部摂津守組頭ニ被仰付之 ●「日記」

寛永13年11月24日 父元政の遺跡を継ぐ。900石

寛永13年11月24日 嶋次左衛門五百石子長兵衛跡目被仰付之 ●「日記」

寛永13年12月21日 跡目之面々(御目見) ●「日記」

(寛永20年3月3日) (次左衛門の初出) ●「日記」

承応2年7月11日 死す
島元栄
生。三郎右衛門。彦大夫。治左衛門
しまもとなが
治左衛門元利の長男
寛政譜17・52 寛永20年3月3日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

承応2年12月22日 父元利の遺跡を継ぐ。700石

承応3年 大番

延宝6年6月11日 大番組頭

天和3年12月19日 700石200俵

貞享3年10月27日 小普請。閉門

貞享4年7月13日 ゆるされる

元禄8年8月4日 死す
島元政 天正10年 生。治左衛門
しまもとまさ
左平次元成の男
寛政譜17・52 慶長2年 家康に仕える。大番

慶長5年~元和5年 500石

寛永4年 大番組頭

寛永13年8月10日 死す
嶋屋
能役者か。商人か
しまや 寛永13年11月12日 祝言能をつとめる ●「日記」



志水左兵衛
生。左兵衛
しみずさひょうえ
甲斐忠政の長男
士林泝洄3・325
母は福冨平左衛門の女

(寛永11年3月28日) (志水甲斐守子) ●「日記」


早世
志水山三郎
左兵衛か? 甲斐守忠継か?
しみずさんさぶろう
甲斐守忠政の男

(寛永13年9月28日) (尾張殿家中証人清水甲斐守子山三郎御礼申上) ●「日記」



清水瑞室
生。亀菴。法橋
しみずずいしつ
春月宗巴の男
寛政譜7・53
半井通仙院成信に医術を学ぶ

寛永9年12月28日 家光に拝謁。家光に仕える。医師

寛永15年12月1日 先年被召出医師亀庵御切米百俵拾人扶持被下之 ●「日記」

寛永16年12月29日 法橋

寛永16年12月30日 法橋 ●「日記」

寛永20年12月26日 法印 ●「日記」

万治元年 死す
志水忠継
生。半左衛門。甲斐守
しみずただつぐ
甲斐忠政の次男
士林泝洄3・325
母は福冨平左衛門の女


妻は成瀬隼人正正虎の女

(寛永11年3月28日) (志水甲斐守子) ●「日記」


尾張家に仕える

慶安元年9月 2000石。大寄合。稲葉右近次席

承応2年 父忠政の家を継ぐ。1万石。同心頭

万治2年3月27日 老中

万治2年12月28日 従五位下・甲斐守

寛文元年 同心12騎増加

寛文4年8月 1万3000石

寛文5年4月18日
志水忠知
生。監物
しみずただとも
甲斐忠宗の三男
士林泝洄3・322 (寛永3年) 1000石。徳川義直に仕える

寛永10年 大番頭

承応元年8月 徳川綱誠に付属される。傅役。2000石

延宝元年3月19日 死す
志水忠政
生。蔵人。甲斐
しみずただまさ
甲斐忠宗の長男
士林泝洄3・322
母は東条紀伊守行長の女


妻は福冨平左衛門の女


徳川義直に仕える

(慶長19年) 大坂の役にて父忠宗に代わり出陣

(元和元年) 大坂の役にて父忠宗に代わり出陣

元和3年 2000石

寛永3年 父忠宗の遺領を継ぐ。1万石

慶安元年 家老

承応2年 致仕

万治元年
清水谷公栄 元和6年8月27日 生。侍従。少将。中将
しみずだにきんはる
大納言実任の養子。三条西侍従公勝の次男
しみずだにきんひで 寛永15年1月5日 従五位下
諸家伝上・248 寛永17年6月1日 元服。侍従
宮廷公家系図集覧298 正保元年1月5日 従五位上

正保元年4月11日 去頃御方領依拝領太刀目録持参御礼 ●「日記」

正保4年1月5日 正五位下

明暦元年12月15日 従四位下。左近少将

万治2年1月5日 従四位上

万治2年1月11日 左中将

寛文3年12月14日 正四位下

元禄4年9月18日
清水谷実任 天正15年6月30日 生。侍従。弾正大弼。少将。中将。参議。中納言。大納言。素快
しみずだにさねとう
侍従公松の嗣。内山上乗院休庵阿野実時の次男
諸家伝上・247
母は阿野家女房山名宗意の女
宮廷公家系図集覧298
断絶していた清水谷家を継ぐ

慶長6年1月6日 従五位下

元和6年閏12月23日 元服。昇殿。侍従。弾正大弼。従五位上

元和9年1月5日 正五位下

寛永3年11月13日 左少将

寛永4年1月5日 従四位下

寛永5年1月5日 左中将

寛永5年2月10日 従四位上

寛永9年1月5日 正四位下

寛永13年1月5日 従三位

寛永18年1月5日 正三位

寛永18年3月12日 参議

寛永19年2月8日 参議を辞す

寛永19年12月22日 権中納言

寛永19年12月28日 帯剣

寛永20年 踏歌外弁

寛永21年2月1日 春日祭上卿

正保2年2月7日 中納言を辞す

正保2年12月13日 除服

正保4年12月7日 権大納言

慶安2年3月3日 権大納言を辞す

慶安2年4月3日 従二位

承応元年 正二位

寛文元年 出家。素快と号す

寛文4年6月7日 薨去
清水恒豊 慶長13年 生。徳松。平三郎。平左衛門
しみずつねとよ
平左衛門正親の養子。豊臣家臣山名与五郎堯政の長男
寛政譜5・90
母は豊臣家臣垣屋駿河守豊実の女


妻は前田五左衛門定良の女

元和元年 大坂にて実父堯政戦死ののち祖父山名右衛門佐堯熈とともに京都に閑居


平左衛門正親の養子となる

元和3年 はじめて秀忠に拝謁

元和3年10月4日 養父正親の遺跡を継ぐ。280俵

元和8年5月3日 大番

寛永10年2月7日 480石

寛文元年5月30日 大番組頭

寛文2年12月22日 480石200俵

延宝元年3月21日 大番組頭を辞す。小普請

延宝7年5月16日 死す
清水熈豊 寛永3年 生。牛之助。正大夫
しみずひろとよ
平左衛門恒豊の長男
寛政譜5・93
母は前田五左衛門定良の女


妻は長井庄右衛門正成の女

寛永13年9月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永19年9月27日 大番

(寛永20年12月18日) (庄大夫の初出) ●「日記」

寛永20年12月18日 200俵 ●「日記」共

寛文6年6月7日 死す
清水政利 慶長17年 生。権之助
しみずまさとし
権之助政吉の養子。戸田久助貞吉の長男
寛政譜15・219
母は権之助政吉の女

寛永元年4月 はじめて秀忠に拝謁

(寛永3年) 養父政吉の家を継ぐ。2100石

寛永8年4月10日 小姓

寛永8年4月10日 奥の小姓 ●「日記」


奥の小姓を辞す


書院番

寛永16年8月3日 死す
清水政吉
生。権之助
しみずまさよし
権之助家次の養子。戸田三郎右衛門忠次の三男
寛政譜15・218
家康に仕える

慶長19年 大坂の役にて使番

寛永2年9月3日 2100石の朱印

寛永3年~ 致仕

寛永5年5月18日 死す
清水美作守

しみずみまさかのかみ
松平長門守毛利秀就の家臣



清水宗見
生。大膳。瑞徳。亀菴
しみずむねみ
亀菴瑞室の長男
寛政譜7・53 万治元年閏12月18日 父瑞室の遺跡を継ぐ。700石

延宝8年 死す
清水吉春 寛永6年 生。権之助。はじめ戸田を称す
しみずよしはる
実兄権之助政利の嗣。戸田久助貞吉の三男
寛政譜15・219
母は清水権之助政吉の次女


妻は笠原平左衛門信重の女

寛永13年11月8日 はじめて家光に拝謁

寛永13年11月8日 戸田久助子二人御鷹場とねりにおいて初て御目見 ●「日記」

寛永17年9月12日 実兄政利の名跡を継ぐ。1000石

寛永17年9月12日 王子ニテ戸田久助被召出久助二番目之子御知行千石被下之間―


―清水権之助跡目ニ可仕之旨御直ニ被仰出是ハ久助儀親権之助聟名ニ―


―依テ久助惣領ヲ養子ニ仕置子権之助今度実子無之相果跡職断絶之由―


―被聞召日頃久助御奉公能仕ニ付て如此被仰付之 ●「日記」

(寛永17年9月15日) (権之介の初出) ●「日記」

~慶安2年 鷹匠頭

慶安3年9月3日 家綱に付属される

万治2年4月13日 実父貞吉組の手鷹匠および同心を支配

貞享4年6月13日 鷹匠頭を辞す。小普請

元禄5年7月9日 致仕

元禄10年9月13日 死す
持明院基定 慶長12年4月10日 生。侍従。少将。中将。参議。中納言。大納言
じみょういんもとさだ
侍従基征の嗣。持明院基宥の男
諸家伝下・696
室は持明院中将基久の女
宮廷公家系図集覧345 元和元年7月23日 従五位下

元和元年7月25日 元服。侍従

元和6年1月5日 従五位上

元和6年1月11日 左少将

元和9年1月5日 正五位下

寛永4年1月5日 従四位下

寛永4年1月11日 左中将

寛永8年11月6日 従四位上

寛永12年1月5日 正四位下

寛永17年1月5日 従三位

正保元年8月12日 正三位

正保2年5月17日 参議

承応元年10月12日 従二位

承応元年11月30日 権中納言

承応3年7月12日 中納言を辞す

寛文元年1月5日 正二位

寛文2年12月1日 権大納言

寛文3年1月12日 権大納言を辞す

寛文7年10月17日 薨去
志村資長 元和6年 生。加兵衛
しむらすけなが
加兵衛資只の長男
寛政譜11・187
母は山岡半兵衛景俊の女


妻は松平兵庫頭忠隆の女

(寛永元年) 父資只の遺跡を継ぐ。500石

寛永2年 はじめて家光に拝謁

寛永12年 小姓組

寛永20年6月9日 小姓組。進物役

寛永20年6月9日 進物御番 ●「日記」


小姓組を辞す。小普請

貞享元年7月6日 死す
志村長左衛門

しむらちょうざえもん


(寛永19年7月8日) (浅草御蔵方手代) ●「日記」

(寛永19年7月8日) (山下弥五左衛門手代) ●「日記」

寛永19年7月8日 斬罪 ●「日記」
志村長左衛門子





寛永19年7月8日 志村長左衛門子男子三人壱人廿一壱人十三壱人五―


―是ハ甲州府中ニ有之付て彼地御在番藤掛監物溝口金十郎へ―


―御奉書於彼地可為死罪由ノ事 ●「日記」
志村政勝
生。新五左衛門
しむらまさかつ
与兵衛政高の長男
寛政譜19・80 寛永15年12月2日 志村与兵衛子弐人初て御目見 ●「日記」


多病


以下不詳
志村政高
生。与兵衛
しむらまさたか
八兵衛政常の男
寛政譜19・79 寛永4年 父政常の家を継ぐ。200俵。留川奉行

(寛永15年12月2日) 御留奉行 ●「日記」

(慶安4年) 死す
志村政親
生。七郎兵衛
しむらまさちか
与兵衛政高の次男
寛政譜19・80 寛永4年 祖父政常の遺跡分知。100俵

寛永15年12月2日 志村与兵衛子弐人初て御目見 ●「日記」

慶安4年 父政高の遺跡を継ぐ。200俵


留川奉行

(貞享3年) 殺生方廃止により留川奉行をゆるされる

(元禄3年) 死す
下枝正忠
生。忠兵衛
しもえだまさただ
家光に仕える。先手与力
寛政譜21・367 (寛永20年4月19日) (御切米八拾石) ●「日記」

(寛永20年4月19日) (渡部図書組) ●「日記」

寛永20年4月19日 只今迠之御番被成御免向後御役可被仰付之間可存其旨之由―


―小十人組御番所之次ニて老中被伝之 ●「日記」


国廻役

(延宝3年) 死す
下嶋与政 慶長2年 生。庄五郎。市兵衛
しもしまともまさ
市兵衛政真の養子。荻原弥右衛門正明の五男
寛政譜18・252
母は望月安房守の女


妻は市兵衛政真の養女福村長右衛門の女


後妻は山本四兵衛正茂の女

寛永15年12月5日 勘定

寛永15年12月5日 御賄方御勘定 ●「日記」

寛永15年12月18日 百俵御切米被下之 ●「日記」

明暦元年7月 養父政真の遺跡を継ぐ


加増あり。500俵


勘定組頭

寛文5年11月16日 死す
下嶋政真 慶長2年 生。市兵衛
しもしままさざね
与右衛門政茂の男
寛政譜18・251
妻は内藤案右衛門の女


後妻は近山久弥の女


父正茂と同じく大久保長安の許にて武田信玄の女に属す


家康に仕える。安房国の代官

寛永15年12月5日 勘定

寛永15年12月5日 上方御勘定 ●「日記」

明暦元年1月15日 死す
下条信隆 寛永2年 生。鶴千代。長兵衛。はじめ片桐を称すか
しもじょうのぶたか
片桐石見守貞昌の長男。庶子たるにより次男に准ずる
寛政譜6・236
母は青木氏

正保元年11月10日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保元年11月10日 片桐石見守二男長兵衛初て御目見 ●「日記」

慶安3年9月3日 家綱に付属される。書院番。西丸に勤仕

(慶安4年) 本丸に勤仕

承応元年12月18日 300俵

万治元年閏12月19日 書院番。進物役

延宝2年1月19日 父貞昌の遺領分知。1000石

元禄2年5月15日 使番

元禄2年12月27日 布衣

元禄4年閏8月11日 先鉄炮頭

宝永3年1月11日 鎗奉行


老年に及ぶまで勤仕せるにより紅裏の服をゆるされる

享保元年2月18日 鎗奉行を辞す。寄合

享保元年4月1日 死す
下曾禰信定 元和5年 生。熊之助。小十郎
しもそねのぶさだ
三十郎信由の長男
寛政譜3・171
母は戸田備後守重元の女


妻は岡部玄蕃佐元重の女

寛永15年10月24日 書院番 ●「日記」共

寛永17年12月 300俵


書院番を辞す。小普請

延宝6年10月17日 死す
下曾禰信由 慶長4年 生。長宮。三十郎
しもそねのぶよし
三右衛門信正の男
寛政譜3・170
母は城和泉守景茂の女


妻は戸田備後守重元の女

慶長13年 父信正の遺跡を継ぐ。1000石

~慶長19年 秀忠に仕える。書院番

寛永9年11月5日 書院番・進物役

寛永9年11月5日 本番御免。進物番 ●「日記」

寛永10年2月7日 1200石

寛永19年10月26日 使番

寛永19年10月26日 唯今迠之御役御免折々御使なと可被仰付 ●「日記」

寛永19年11月1日 能勢小十郎唯今之御番御赦免自今以後御使等可被仰付間―


―最前被仰付五輩と申合一人宛殿中え可相詰之旨也 ●「日記」

寛永19年12月30日 布衣 ●「日記」共

寛文8年7月11日 先鉄炮頭

寛文11年3月7日 先鉄炮頭を辞す

延宝8年12月25日 致仕。300俵

天和3年7月12日 死す
下間治部卿

しもつまじぶきょう
東本願寺門跡坊官

(寛永13年5月6日) (東本願寺内) ●「日記」

(寛永15年9月28日) (治部卿法眼) ●「日記」



下間仲此 慶長9年 生。少進。法橋。法眼。法印
しもつまちゅうし
少進法印仲孝の長男
地下家伝中・1682
西本願寺門跡に仕える
宮廷公家系図集覧691 (元和2年) 少進

(寛永9年8月3日) (少進) ●「日記」

寛永12年12月24日 法橋

正保2年10月18日 法眼

明暦2年5月4日 法印

寛文11年7月19日
下間仲友 慶長17年 生。大進。法橋。法眼
しもつまちゅうゆう
宮内卿法印頼芸の嗣。下間民部卿頼承の男
地下家伝中・1678
西本願寺門跡に仕える
宮廷公家系図集覧689 寛永13年11月21日 法橋

(寛永16年4月12日) (本願寺家来) ●「日記」

正保3年3月21日 法眼

寛文2年5月30日 死す
下山勝盛 慶長19年 生。五郎助
しもやまかつもり
平右衛門重次の長男
寛政譜4・98 元和8年 はじめて家光に拝謁

寛永6年 大番


200俵

寛永10年2月7日 400石

明暦元年12月15日 死す
下山重次 天正10年 生。平右衛門
しもやましげつぐ
弥八郎正次の長男
寛政譜4・97 慶長7年 はじめて秀忠に拝謁。納戸番。200石


大番

寛永11年10月13日 改易

慶安4年10月17日 赦免

承応元年12月18日 200俵。大番

承応3年8月13日 死す
下山朝光 慶長9年 生。四郎左衛門
しもやまともみつ
平右衛門重次の次男
寛政譜4・99
妻は辻五兵衛尚利の女


はじめて家康に拝謁


秀忠に仕える。納戸番。100俵

寛永18年8月9日 家綱に付属される

寛永18年8月9日 若君様為御奉公人御納戸方ニ被付 ●「日記」

(慶安4年) 本丸に勤仕

明暦3年12月25日 100俵月俸10口

万治2年5月4日 納戸番組頭

万治3年12月26日 200俵月俸10口

寛文12年7月21日 死す
下山直次
生。甚兵衛。甚左衛門。甚兵衛
しもやまなおつぐ
甚兵衛光直の男
寛政譜4・100
妻は三浦十右衛門正文の女


家光に仕える


小十人

寛永15年12月1日 父光直の遺跡を継ぐ。150俵

寛永15年12月1日 小十人組下山甚兵衛跡目無相違被仰付之 ●「日記」

明暦2年12月23日 150俵月俸7口

寛文3年2月11日 鉄炮薬込役。新番。昼のみ勤仕

寛文4年12月25日 250俵

天和2年6月3日 新番

元禄6年10月10日 鉄炮箪笥奉行

宝永5年11月29日 鉄炮箪笥奉行を辞す。小普請

正徳2年3月3日 死す
錫杖寺
武蔵国平柳。真言宗智山派
しゃくじょうじ







寂光院
京都大原。天台宗。尼寺
じゃっこういん
玄海の院号か



周斎
数寄屋坊主か?
しゅうさい (寛永9年8月12日) 松平伊豆守信綱と屋敷替。町屋敷へ移る ●「日記」



従晶 元和8年 生。法眼。権少僧都。寿量院。宣慧。本統寺
じゅうしょう
東本願寺門跡宣如光従の長男
宮廷公家系図集覧558 (寛永11年7月26日) (東本願寺御児) ●「日記」


伊勢国桑名本統寺

寛永20年7月26日 遷化
周清

しゅうせい

宇治山田市史下・1008 慶長16年4月 伊勢慶光院5世
宇治山田市史下・1179 寛永11年 退隠

正保元年4月5日 伊勢両宮正遷宮之事任先規可執行之旨慶光院周長上人被成下御朱印―


―同為隠居免領知百石余新被寄附之仍周清上人御朱印頂戴之云々―


―但四年以後丁亥歳相当正遷宮依之従当年被催之云々 ●「日記」

慶安元年9月
修禅寺
遠江国
しゅうぜんじ







周長

しゅうちょう



伊勢慶光院7世

正保元年4月5日 伊勢両宮正遷宮之事任先規可執行之旨慶光院周長上人被成下御朱印―


―同為隠居免領知百石余新被寄附之仍周清上人御朱印頂戴之云々―


―但四年以後丁亥歳相当正遷宮依之従当年被催之云々 ●「日記」



秀哲
秀哲。秀徹
しゅうてつ



増上寺伴僧



周南円旦

しゅうなんえんたん

五山伝
東福寺238世
(史籍集覧26・580) 寛永19年8月27日 東福寺丹長老建仁寺仁長老同寺白西堂右三人為書簡役従当年―
通航一覧367
―対馬国え可被差遣 ●「日記」

正保4年9月23日
秋葉寺
遠江国浜松。修験
しゅうようじ




十老

じゅうろう
座頭の支配機関



守源寺
駿河国もしくは遠江国か
しゅげんじ




寿光院 慶長元年 生。ちね
じゅこういん
池田三左衛門輝政の長女
寛政譜5・47
母は家康の次女督姫良正院か
寛政譜7・177
京極丹後守高広に嫁ぐ
因府年表2・25
女子を産む。のちの松平隠岐守定頼の室

元和2年 京極丹後守高国を産む


女子を産む。のちの九鬼長助貞隆の妻

元和5年 京極下総守高治を産む

元和6年 京極信濃守高勝を産む

万治2年6月4日 逝去
守澄法親王 寛永11年閏7月11日 生。今宮。一品。尊敬。俗名幸教。日光山輪王寺滋賀院門跡。天台座主
しゅちょうほっしんのう
後水尾天皇の第四皇子
本朝皇胤紹運録
母は園贈左大臣基任の長女基子京極局壬生院
(群書系図部集1・103) (正保元年5月17日) (日光山門主宮門跡) ●「日記」
詰所系図 正保元年10月2日 親王
(系図綜覧上・36) 正保元年10月16日 得度。戒師は青蓮院尊純法親王

正保元年10月23日 今度今宮御方青蓮院え御学文有御入室御得度被遊之其上親王宣下―


―日光御門跡幸教親王と奉号云々 ●「日記」

正保4年9月14日 関東下向

慶安元年3月4日 二品

慶安元年9月14日 東叡山に入る

慶安2年8月23日 一品

承応3年11月12日 受禅

明暦元年10月8日 天台座主

延宝元年 守澄に改号

延宝8年5月16日 薨去
寿徳庵
相模国鎌倉円覚寺塔頭か?
じゅとくあん




執筆
連歌師と同義か?
しゅひつ




寿福院(前田利常母) 元亀元年 生。千世。千代保。小幡氏。東丸殿
じゅふくいん
上木新兵衛の女
寛政譜17・274
父新兵衛死去ののち母が小幡九兵衛と再婚
前田家譜
羽柴筑前守前田利家の側室となる
(加賀藩史料編外・40) 文禄2年 松平肥前守前田利常を産む

(慶長4年) 利家死去ののち寿福院と号すか

寛永8年3月6日 死す

寛永8年3月6日 遠行 ●「日記」
寿福院(越前神明別当)
越前国福井。神明神社の別当
じゅふくいん




寿林
生。阿寿。桐壺。珠林。寿林
じゅりん
河野治伝の三女。もしくは小早川家臣河村宗右衛門の女
寛政譜10・223
本多佐渡守正信の後室とも
近江国坂田郡志5・390
大奥の侍女。桐壺と称す


崇源院に仕える

慶長8年 天樹院の大坂輿入れに侍女頭として従う

元和元年 天樹院に従い江戸に帰る


本願寺宣如について落髪。珠林と号す


家光に仕える。老女


家綱より月俸100口を賜る



春香院 天正8年5月7日 生。千世。長
しゅんこういん
羽柴筑前守前田利家の七女
前田家譜
母は高畠左京大夫直吉の養女篠原氏の女松芳春院
(加賀藩史料編外・42)
細川忠興の長男長岡忠隆に嫁ぐ
寛政譜17・274
夫忠隆と離別


前田家臣村井出雲長次に嫁ぐ

寛永18年11月20日 死す
准秀昭超 慶長12年 生。興正寺。法印。僧正
じゅんしゅうしょうちょう
興正寺僧正准尊昭玄の長男
宮廷公家系図集覧568 (元和8年) 興正寺住職


法印


僧正

明暦元年7月 越後国に配流

万治元年 帰洛

万治3年10月12日 示寂
順性院 (元和8年) 生。藤。夏。順性院
じゅんしょういん
岡部八左衛門重家の三女
幕府祚胤伝
鷹司家に仕える(または二条家に仕える)
(徳川諸家系譜2・77)
(本理院に従い江戸に下向)
寛政譜22・68 寛永14年 本丸大奥に勤仕

正保元年5月24日 徳川綱重を産む

慶安4年4月 家光薨去により落飾。順性院と号す

天和3年7月29日 逝去
順長 慶長5年 生。闡蓮社広誉順長上人
じゅんちょう
常陸国水戸の人
黒谷誌要
増上寺随波のもとで得度
(浄土宗全書20・392)
小金東漸寺12世
小金東漸寺志 寛文4年1月 黒谷金戒光明寺33世
(浄土宗全書20・62) 延宝4年10月23日 遷化



春道

しゅんどう
青松寺住持 ●「日記」

寛永8年3月25日 龍穏寺住持 ●「日記」



春藤勘右衛門
生。京の春藤
しゅんどうかんえもん
六右衛門遊巽の次男
能楽史話306
ワキ方






春藤寿朴
生。六右衛門
しゅんどうじゅぼく
六右衛門道覚の長男
能楽史話307
大鼓方か


金春座ワキ方か



春道道誓
生。熊之助。勘右衛門
しゅんどうどうせい
勘右衛門の男
能楽史話306
ワキ方



春藤道定
生。彦次郎。六右衛門
しゅんどうどうてい
六右衛門寿朴の長男
能楽史話308
金春座ワキ方か



春藤日性
生。六郎次郎
しゅんどうにっしょう
六右衛門道覚の次男
能楽史話307
金春座ワキ方か



春藤彦二郎
生。彦次郎
しゅんどうひこじろう
六右衛門寿朴の三男
能楽史話308
金春座ワキ方か


早世
春藤祐水
生。佐太郎。太郎右衛門
しゅんどうゆうすい
六右衛門道覚の四男
能楽史話307
水戸藩笛方






春日景道 天正6年 生。藤松。又三郎。市右衛門。はじめ浅沢を称す
しゅんにちかげみち 天正19年 秀吉の催能に応じる
能楽史話318 慶長19年 大坂役にて石川主殿頭忠総に属す


家光の代に笛方。150俵。現米70石。13人扶持

寛永15年7月24日 死す
春日四郎右衛門

しゅんにちしろうえもん
能役者



春日俊道 元和元年 生。五郎。又三郎。市右衛門。斗扇。渡扇
しゅんにちとしみち
市右衛門景道の男
能楽史話319
妻は観世与左衛門重次の女


後妻は江戸出雲町名主市良兵衛の娘菊


笛方

寛永15年 父景道の遺跡を継ぐ。(150俵。現米70石。13人扶持)

寛文3年 隠居

寛文10年11月6日 死す
准如光昭
生。理光院。法眼。西本願寺門跡。法印。大僧正
じゅんにょこうしょう
顕如光佐の三男
宮廷公家系図集覧561
母は細川右京大夫晴元の女
本願寺系図
九条関白兼孝の猶子となる
(群書系図部集5・373) 天正18年3月 得度。理光院と号す。法眼。西本願寺門跡


法印


大僧正

寛永7年11月30日 入滅
春甫

しゅんほ
井上河内守正利に仕える

正保元年1月10日 銀弐拾枚井上河内守内春甫今度諸家系図被仰付依令首尾被下之 ●「日記」



俊甫光勝

しゅんほこうしょう
東福寺
宗派目子 (寛永10年4月1日) (勝西堂) ●「日記」
(金地院公文帳207)




春良

しゅんりょう
土井大炊頭利勝に仕える

正保元年1月10日 銀三拾枚小袖二大炊頭内春良今度諸家系図被仰付依令首尾被下之 ●「日記」



春寮

しゅんりょう
太田備中守資宗に仕える

正保元年1月10日 銀弐拾枚太田備中守内春寮今度諸家系図被仰付依令首尾被下之 ●「日記」



順良

じゅんりょう
高野山三宝院の弟子

寛永9年10月13日 高野山三宝院住職 ●「日記」



如庵

じょあん
八条宮智忠親王の家臣



浄安寺
武蔵国岩槻。浄土宗
じょうあんじ




笑意

しょうい


寛永15年12月9日 御数寄屋坊主組頭少二跡御切米五十石ニ五人扶持―


―惣領笑意ニ被下之 ●「日記」



浄因寺
下野国足利。臨済宗。行道山
じょういんじ




乗雲
宗雲と同一人物か?
じょううん
囲碁将棋

寛永12年12月1日 碁打将棋さし依為無足於大津御切米被下之所謂―


―乗雲弐拾石 ●「日記」



正円

しょうえん


(正保元年11月2日) (囲碁) ●「日記」



松応院
江戸神田。称往院?
しょうおういん


寛永17年12月6日 午刻神田松応院焼失 ●「日記」






松応寺
三河国岡崎。浄土宗
しょうおうじ
松平広忠廟所




正保元年6月24日 無主ニ付て後住被仰付之 ●「日記」



聖応寺
甲斐国。臨済宗
しょうおうじ


寛永19年7月6日 御朱印被下之 ●「日記」



昌穏

しょうおん


寛永16年1月20日 連衆 ●「日記」



松岳院
甲斐国
しょうがくいん


寛永19年7月6日 御朱印被下之 ●「日記」



正勘院

しょうかんいん
天台僧か

(寛永17年4月19日) (日光法会に着座) ●「日記」



勝願寺
武蔵国鴻巣。浄土宗
しょうがんじ
(前略)
鴻巣勝願寺志
中興1世円蓮社総誉清巌
(浄土宗全書20・35)
2世総蓮社円誉法華不残


3世悲智蓮社定誉恵天穀竜

(元和3年) 4世入蓮社真誉安長

(元和4年) 5世廓蓮社大誉檀栄

(寛永7年) 6世玉蓮社日誉源底

(承応元年) 7世源蓮社本誉玄故単信


(後略)
正言

しょうげん


寛永16年1月28日 内かし町火事出来家屋焼失云々 ●「日記」



尚賢王 寛永2年 生。童名思松金
しょうけんおう
尚豊王の第三王子
中山世譜中・44
母は松氏西之按司加那志。童名真鍋樽金。号凉月


妃は向氏玉寄按司加那志。童名真加戸樽金。号花囿


妻は毛氏真壁阿護母志良礼。童名真加戸樽金


久米中城500石

寛永18年 即位

正保4年9月22日 薨去
松源寺
江戸牛込。臨済宗
しょうげんじ




正護院
相模国鎌倉
しょうごいん




聖護院
京都。修験
しょうごいん




昌幸

しょうこう


(寛永18年7月15日) (増上寺伴僧か) ●「日記」



浄光

じょうこう
医師か

寛永11年4月14日 御暇 ●「日記」



勝光院
武蔵国世田谷。曹洞宗
しょうこういん




常光院
天台宗。常光坊か
じょうこういん







常高院
じょうこういん
浅井備前守長政の次女
寛政譜7・170
母は織田備後守信秀の長女
寛政譜12・163
京極若狭守高次に嫁ぐ
柳営婦女伝系 慶長3年8月8日 秀吉より采地を賜る。2040石
(徳川諸家系譜1・182) 慶長14年 夫高次死去により常高院と号す

慶長19年 大坂の役にて家康の命により和議の使者をつとめる


夫高次の養女氏家内膳正行広の女に分知。1740石


若狭国常高寺に寄付。1440石

寛永10年8月27日

寛永10年8月28日 常高院昨日逝去 ●「日記」
常光坊

じょうこうぼう
南光坊天海の弟子か



相国寺
京都。臨済宗。五山
しょうこくじ




浄国寺
武蔵国岩槻。浄土宗
じょうこくじ 天正15年 開山円蓮社総誉清巌
岩付浄国寺志
2世乗蓮社教誉法林無月
(浄土宗全書20・176) 慶長7年6月10日 無月寂


3世心蓮社信誉誠阿伝察


4世深蓮社心誉慈曄文宗


5世暁蓮社光誉自心満霊

寛永17年2月18日 増上寺御目見是岩付之浄国寺弘経寺之番頭万霊後住被仰付依也 ●「日記」


6世乗蓮社大誉直弁檀説

(承応2年) 7世直蓮社玄誉森阿万無


後略
荘厳院
鎌倉。真言宗
しょうごんいん




松寿院
快倫か
しょうじゅいん


正保元年6月10日 播州書写山松寿院依召参上武州仙波之住持職被仰付依之一束一巻―


―献之御礼 ●「日記」






松寿院(長氏) 永禄8年 生。熊
しょうじゅいん
但馬国長越前守連久の女
寛政譜14・293
母は但馬国水尾城主垣屋宗時の女
宗国史下・472
宮部氏(因幡国鳥取城主宮部善祥坊継潤か)に嫁ぐ
宗国史下・476 (慶長4年) 宮部氏死後に父連久のもとに戻る

慶長4年9月 藤堂和泉守高虎に嫁ぐ

慶長6年閏11月11日 藤堂大学頭高次を産む

慶長8年 大坂に住す

慶長10年5月 藤堂左兵衛佐高重を産む

慶長10年 質として江戸に住す。しばしば家康・秀忠に拝謁


女子を産む。のち松平下野守蒲生忠郷の室。また専修寺堯朝の室

慶安元年9月2日 逝去
松寿院(徳川氏)
松姫。松寿院
しょうじゅいん
紀伊大納言徳川頼宣の次女
紀州水戸御系譜写
母は山田氏
(徳川諸家系譜2・238) 寛永8年9月23日 生 ●「紀州水戸御系譜写」
幕府祚胤伝 寛永15年 生 ●「幕府祚胤伝」
(徳川諸家系譜2・44) 承応2年12月8日 松平左兵衛督鷹司信平と縁組
寛政譜21・68 承応3年4月4日 婚姻

寛文元年 松平左兵衛督鷹司信正を産む


女子を産む。のち松平薩摩守嶋津綱貴の室

延宝6年9月16日
成就院
出羽国戸沢村か?
じょうじゅいん (寛永13年2月1日) (最上成就院) ●「日記」



上州一宮
上野国。貫前神社
じょうしゅういちのみや




正宗寺
三河国。臨済宗
しょうじゅうじ







昌祝

しょうしゅく
連歌師か

寛永18年1月20日 連衆 ●「日記」



松寿寺
遠江国。曹洞宗
しょうじゅじ







常照院
じょうしょういん
京極丹後守高知の長女
陵墓要覧60
母は毛利河内守秀政の女
寛政譜7・176
八条宮智仁親王に嫁ぐ
詰所系図 元和5年11月1日 八条宮智忠親王を産む
(系図綜覧上・78) 元和7年 女王を産む。のち西本願寺良如光円に嫁ぐ
皇族明鑑増補71 元和8年 曼殊院門跡良尚法親王を産む

寛永元年 広幡大納言忠幸を産む

寛文9年12月4日 薨去
常照院(山手)
寛永寺子院か
じょうしょういん
江戸山手天神別当

(寛永15年1月20日) (山手天神別当常照院) ●「日記」



清浄華院
京都。浄土宗
しょうじょうけいん
(前略)
清浄華院誌要 元和3年10月3日 37世善誉良随
(浄土宗全書20・357) 元和4年11月9日 38世性誉良覚

元和9年10月7日 39世原誉良道

寛永3年12月2日 40世信誉良阿

寛永6年 良阿隠退

寛永7年9月3日 41世法誉良聖

寛永13年10月20日 良聖寂

寛永14年3月11日 42世永誉良存

正保3年6月3日 43世単誉良故

承応3年3月25日 良故隠退

承応3年10月23日 43世単誉良故再住


(後略)
清浄光寺
相模国藤沢。時宗。遊行寺とも称す
しょうじょうこうじ (寛永12年1月6日) (時宗藤沢道場) ●「日記」



成身院
大和国興福寺
じょうしんいん
京醍醐寺三宝院門跡の坊官か



常泉寺
武蔵国染谷。曹洞宗
じょうせんじ




松禅坊

しょうぜんぼう
天台僧か

(寛永17年4月19日) (日光山法会に着座) ●「日記」



常尊
生。円満院門跡。大僧正
じょうそん
足利義尋高山の男
諸門跡譜
母は古市播磨守胤栄の女三位局
(群書系図部集1・171)
円満院門跡
足利系図 寛文11年7月2日 遷化
(群書系図部集2・309)




生田内匠

しょうだたくみ
奥平美作守忠昌に仕える

(寛永19年4月19日) (美作守家来) ●「日記」



庄田隼人

しょうだはやと
上野国徳川郷の頭役



庄田安勝 元和2年 生。千代松。三大夫
しょうだやすかつ
小左衛門安照の男
寛政譜9・261
母は永井右近大夫直勝の養女長田理助吉久の女


妻は小幡勘兵衛景憲の養女中村氏の女

寛永9年9月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永11年11月 書院番

明暦2年11月5日 父安照の遺跡を継ぐ。3000石


書院番を辞す。小普請

寛文9年3月26日 死す
庄田安照 天正18年 生。外記。小左衛門
しょうだやすてる
市九郎安村の男
寛政譜9・261
母は福嶋左衛門大夫家臣水間弥一右衛門の女


妻は永井右近大夫直勝の養女長田理助吉久の女

慶長10年9月 はじめて家康に拝謁


書院番

元和元年 祖父三大夫安信の家を継ぐ。2000石

元和8年~寛永3年 使番

寛永9年7月2日 惣普請奉行 ●「日記」共

寛永9年9月2日 幌の指物 ●「日記」共

寛永9年12月29日 布衣 ●「日記」共

(寛永9年12月29日) (御普請奉行) ●「日記」

寛永10年12月28日 3000石

寛永10年12月28日 千石御加恩 ●「日記」

明暦2年3月27日 死す
正的
士林泝洄4・614新開宗的か
しょうてき
徳川義直に仕える

正保元年1月10日 銀三拾枚尾張殿正的今度諸家系図被仰付依令首尾被下之 ●「日記」



正伝寺
京都賀茂。臨済宗
しょうでんじ
南禅寺金地院末寺



浄土院
日光東照宮別所か
じょうどいん




城時茂
生。友之助
じょうときもち
織部佑信茂の次男
寛政譜8・352 寛永4年 家光に仕える。小姓組。采地を賜る

寛永16年4月15日 中奥の番士

寛永16年4月15日 中奥之御番 ●「日記」

寛永18年4月28日 城七之助樽代以御目見是友之助知行之内を分被下付て也 ●「日記」


書院番

慶安3年9月3日 西丸に勤仕


以下不詳
浄篤院
京都。浄土宗
じょうとくいん


寛永15年9月28日 後住之御礼 ●「日記」



正徳寺
尾張国
しょうとくじ







城朝茂 慶長11年 生。与五郎。半左衛門
じょうとももち
織部佑信茂の長男
寛政譜8・351
母は下曾禰刑部大輔の女


妻は松田善右衛門勝政の女

寛永3年8月15日 はじめて秀忠に拝謁

寛永4年 西丸書院番


300俵

寛永9年 本丸に勤仕

寛永10年2月7日 500石

寛永13年10月28日 書院番。進物役

寛永13年10月28日 御進物番 ●「日記」

寛永16年7月23日 父信茂の遺跡を継ぐ。2000石 ●「日記」共

承応元年1月28日 普請奉行

承応元年12月28日 布衣

寛文10年4月21日 普請奉行を辞す

延宝4年12月6日 致仕。300俵

貞享2年12月22日 死す
庄直正 元和6年 生。主馬。源五右衛門。与左衛門。孫兵衛。
しょうなおまさ
与左衛門直重の長男
寛政譜21・200
母は内藤平右衛門の女


妻は有田九郎兵衛貞吉の女

寛永9年8月19日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」

寛永11年10月13日 父直重の改易に連座?

慶安4年10月17日 召し返される

承応元年12月18日 200俵


大番

寛文3年2月11日 腰物持役。新番に列し昼のみ勤仕

寛文4年12月25日 250俵

天和2年6月3日 腰物持役をゆるされる。新番

貞享2年8月23日 死す
少二
しょうに? しょうじ?
しょうに


(寛永15年12月9日) (御数寄屋坊主組頭御切米五十石ニ五人扶持) ●「日記」

(寛永15年) 死す
城信茂 天正6年 生。甚太郎。織部佑
じょうのぶもち
半俗庵和泉守昌茂の男
寛政譜8・351
母は長尾是言義景の女


妻は下曾禰刑部大輔の女

慶長5年 関ケ原の役にて父昌茂とともに大垣城の押さえ


書院番

慶長19年 大坂の役にて秀忠に供奉

元和元年12月27日 勘気を蒙る

~元和9年 ゆるされる。書院番

寛永5年11月23日 1000石

~寛永10年 使番

寛永11年5月14日 2000石

寛永11年5月14日 八百石之御加増 ●「日記」

寛永16年4月14日 死す
聖福寺
武蔵国幸手。浄土宗
しょうふくじ







常福寺
常陸国瓜連。浄土宗
じょうふくじ
(前略)
瓜連常福寺志
13世宣蓮社檀誉存把
(浄土宗全書19・768) 慶長9年 14世廓蓮社大誉檀栄


15世正蓮社鏡誉春潮


16世乗蓮社伝誉台山


17世心蓮社直誉廓円

寛永18年


18世源蓮社真誉相閑

慶安2年


19世心蓮社白誉而通


(後略)



成福寺
鎌倉。浄土真宗
じょうふくじ




尚文 慶長19年6月20日 生。童名真牛金。号徳馨。佐敷王子朝益
しょうぶん
尚豊王の第二王子
中山世譜下・59
母は尚氏。我謝上森按司加那志。童名真銭金。号梅岩
中山世譜下・15
妃は馬氏。大城按司加那志。童名真鍋樽金。号亮真

元和7年 佐敷・中城を兼領

~寛永4年 1300石

(寛永11年閏7月9日) (佐鋪) ●「日記」

延宝元年1月2日 薨去
尚豊王 天正18年11月13日 生。童名思五郎金。神名天喜也末按司添加那志。朝昌
しょうほうおう
尚寧王の嗣。尚久王の第四王子
中山世譜中・42
母は寵氏。金武大按司志良礼。童名思戸金。号一鏡
沖縄一千年史付録4
妃は尚氏。我謝上森按司加那志。童名真銭金。号梅岩


次の妃は馬氏。君豊見按司加那志。童名真牛金。号蘭閨


夫人は松氏。西之按司加那志。童名真鍋樽金。号凉月


夫人は呉氏。真南風按司。童名乙美金。号蘭室


夫人は楽氏。真南風按司。童名真鍋樽金。号南岳


妻は与那原阿護母志良礼。号苑叢


佐敷を領す

元和2年 摂政

元和2年 1000石

元和5年 中城を領す

元和7年 即位

寛永10年 明国より中山王に封じられる

寛永17年5月4日 薨去
正法寺
駿河国由比。日蓮宗
しょうぼうじ
駿河国富士郡。日蓮宗


遠江国掛川。曹洞宗



正法寺(上総)
上総国小西。日蓮宗
しょうぼうじ




浄法寺
上野国。天台宗
じょうぼうじ




浄明院
じょうみょういん
家康の養女(秀忠の養女とも)。松平因幡守康元の六女
幕府祚胤伝
家康(秀忠)の養女となる
(徳川諸家系譜2・49) 慶長9年 松平伯耆守中村忠一に嫁ぐ
寛政譜1・280 慶長14年 夫忠一が死去。断絶
断家譜2・60 慶長17年3月28日 毛利甲斐守秀元に嫁ぐ
寛政譜10・255
毛利宮松丸を産む。早世

元和2年~ 毛利和泉守光広の養母となる

承応2年6月1日 逝去
正冶

しょうや


正保元年1月10日 銀弐拾枚町医師正冶今度諸家系図被仰付依令首尾被下之 ●「日記」



秋葉寺
遠江国。修験
しょうようじ


寛永19年7月6日 御朱印被下之 ●「日記」



昌龍院
天台宗か。南光坊天海の弟子か
しょうりゅういん
青龍院



定輪寺
駿河国裾野。曹洞宗
じょうりんじ




浄林寺
信濃国松本。浄土宗
じょうりんじ
江戸駿河台。浄土真宗



松林坊

しょうりんぼう
天台僧か

(寛永17年4月19日) (日光山法会に着座) ●「日記」



青蓮院
京都。天台宗
しょうれんいん




青蓮院尊勝院

―そんしょういん
青蓮院の院家



上臈(九条家)

じょうろう
九条道房女房

(寛永17年5月26日) (九条内府御内) ●「日記」



上臈(高松宮家)

じょうろう
宝珠院(寧子)に仕える

(寛永17年5月26日) (高松殿御後室) ●「日記」



諸鶴長二郎

しょかくちょうじろう
舞の者か



ジョセフ・アダムス
生。三浦按針。ウィリアム・アダムスの男

(元和6年) (三浦按針の通称を継ぐか?)



白井勝久
生。平兵衛
しらいかつひさ
豊嶋作右衛門忠次の四男
寛政譜9・179
母は白井志摩守の女


妻は河野新右衛門の女

寛永9年11月 家光に仕える。小十人


100俵

寛永19年12月16日 200俵

寛永19年12月16日 白江平兵衛御加恩百俵被下之日来御切米共ニ弐百俵被仰付 ●「日記」

正保2年6月28日 小十人組頭

正保3年12月4日 300俵

寛文5年9月10日 本理院に付属される。200石300俵

寛文12年7月23日 死す
白井内蔵助

しらいくらのすけ
水戸家臣



白井左馬助
元内蔵助か
しらいさまのすけ
水戸家臣



白川雅喬王 元和6年12月26日 生。侍従。少将。中将。神祇伯
しらかわまさたかおう
神祇伯中将雅陳王の長男
諸家伝下・871
室は四辻大納言公理の女
宮廷公家系図集覧511 寛永元年1月5日 従五位下

寛永8年5月9日 元服。侍従

寛永8年11月6日 従五位上

寛永13年1月5日 正五位下

寛永17年1月5日 従四位下

寛永17年1月11日 左少将

寛永19年1月11日 左中将

寛永19年3月17日 神祇伯

寛永20年1月5日 従四位上

正保3年1月5日 正四位下

承応3年12月21日 従三位

明暦3年1月 直衣

万治元年1月6日 正三位

寛文7年12月7日 従二位

延宝2年12月26日 正二位

延宝7年1月21日 神祇伯を辞す

元禄元年10月15日 薨去
白川雅陳王 文禄元年3月20日 生。侍従。神祇伯。少将。中将
しらかわまさのぶおう
神祇伯中将顕成王の嗣。白川神祇伯参議雅朝の養子
諸家伝下・871
高倉中納言永孝の次男
宮廷公家系図集覧511
母は三条西内大臣実枝の女

元和5年9月26日 従五位下。侍従。昇殿

元和7年1月5日 従五位上

元和8年12月28日 神祇伯

寛永3年11月23日 正五位下

寛永5年1月5日 従四位下

寛永6年1月11日 左少将

寛永8年11月6日 従四位上

寛永10年12月12日 左中将

寛永11年1月6日 正四位下

寛永14年1月5日 従三位

寛永19年1月5日 正三位

寛永19年3月17日 神祇伯をとどめられる

承応元年10月12日 従二位

寛文3年2月16日 病死
白崎八左衛門

しらさきはちざえもん
持弓組

(寛永17年1月7日) (松平新五左衛門徒同心) ●「日記」

寛永17年1月7日 松平新五左衛門ニ被召預云々 ●「日記」

寛永17年1月8日 雖可為斬罪此度は被免之追布被仰付之 ●「日記」



白戸正隆
生。彦左衛門
しらとまさたか
六右衛門隆宗の男
寛政譜20・214
父隆宗に継いで鳥見役

寛永20年9月6日 御鳥見 ●「日記」

(万治3年) 死す
白山
加賀・越前・美濃の境。修験
しらやま




白山加納坊
白山修験
―かのうぼう




白羽神社
遠江国御前崎
しろわじんじゃ




神宮寺(信濃)
戸隠山神宮寺か。天台宗
じんぐうじ
更級八幡神宮寺か。天台宗






神宮寺(信濃八幡)
信濃国八幡。天台宗
じんぐうじ




新蔵人

しんくろうど
新任の六位の蔵人

(寛永13年4月2日) (木村新蔵人) ●「日記」



真光院
真光寺か?
しんこういん (寛永13年1月15日) (上野真光院) ●「日記」



真光寺
上野国。天台宗
しんこうじ




神光坊
三河国
しんこうぼう




信光明寺
三河国岡崎。浄土宗
しんこうみょうじ




真珠院
駿河国清水
しんじゅいん




信州八幡

しんしゅうはちまん




真照院 元和7年1月2日 生。富姫。真照院
しんしょういん
松平肥前守前田利常の四女
江の生涯137
母は秀忠の女珠姫天徳院
三壷聞書262 寛永19年8月18日 松平肥前守息女へ銀子三百枚巻物五拾被下之―
政隣記
―是八条殿え縁辺之儀ニ付て也 ●「日記」
(加賀藩史料3・1006) 寛永19年9月 八条宮智忠親王に嫁ぐ

寛文2年8月22日 逝去
新庄直氏 文禄元年 生。豊丸。吉兵衛
しんしょうなおうじ
刑部左衛門直忠の三男
寛政譜13・281
母は堀太郎左衛門秀重の女


妻は筒井伊賀守定次の女

慶長19年 大坂の役にて新庄越前守直定に属す

元和元年 大坂の役にて新庄越前守直定に属す

元和元年7月1日 はじめて秀忠に拝謁。秀忠に仕える。500俵

元和6年 父直忠に代わり近江国柏原の御殿と御料所を支配

寛永9年9月17日 死す
新庄直興 元和7年 生。右馬助。与五右衛門
しんしょうなおおき
吉兵衛直氏の男
寛政譜13・281
母は筒井伊賀守定次の女

寛永13年11月24日 父直氏の遺跡を継ぐ。500俵

寛永13年11月24日 新庄吉兵衛五百俵子跡目被仰付之 ●「日記」

寛永13年12月21日 はじめて家光に拝謁

寛永13年12月21日 跡目之面々吉兵衛子新庄右馬介(御目見) ●「日記」

寛永15年1月15日 大番 ●「日記」共

(寛永20年11月7日) (与五右衛門の初出) ●「日記」

寛永20年11月7日 新番 ●「日記」共

慶安元年3月30日 新番組頭

慶安4年11月21日 700俵

万治元年9月1日 小十人頭

万治元年閏12月28日 布衣

寛文9年11月18日 死す
新庄直方 慶長16年 生。帯刀。与三右衛門。元帰
しんしょうなおかた
右近直綱の長男
寛政譜13・275
母は松平下野守家臣外池信濃の女


妻は進藤三左衛門正成の女

寛永11年4月22日 はじめて家光に拝謁

寛永12年6月26日 小姓組

寛永19年11月12日 父直綱の遺跡を継ぐ。1000石

寛永19年11月12日 御旗本衆令死去跡被下之但自分之知行御切米何も上 ●「日記」

寛文6年6月8日 使役

寛文6年12月28日 布衣

天和2年2月27日 使役を辞す。寄合

元禄8年12月6日 致仕。300俵。元帰と号す

元禄12年6月11日 死す
新庄直綱 天正13年 生。右近
しんしょうなおつな
駿河守直頼の次男
寛政譜13・275
母は佐久間大学介盛重の女


妻は松平下野守蒲生忠郷家臣外池信濃の女

慶長3年 はじめて家康に拝謁


秀忠に拝謁

慶長5年 命により父直頼兄直定とともに陸奥国会津の蒲生飛騨守秀行に属す

寛永10年6月7日 新庄美作守兄御家人被召出 ●「日記」

寛永10年6月19日 家光に拝謁

寛永10年8月17日 書院番

寛永11年12月4日 1000石

寛永19年4月28日 死す
新庄直常
生。新三郎
しんしょうなおつね
越前守直好の長男
寛政譜13・270
室は酒井紀伊守忠吉の女

寛永6年11月 はじめて家光に拝謁


病者たるにより常陸国麻生に閑居

承応3年2月26日 死す
新庄直長 元和9年 生。宮内。長門守
しんしょうなおなが
美作守直房の長男
寛政譜13・277
母は川口長三郎近次の女


妻は秋田河内守俊季の女

寛永9年8月15日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

慶安2年12月14日 父直房の遺跡を継ぐ。3000石

承応3年2月23日 書院番

寛文7年2月14日 小姓組組頭

寛文7年12月28日 布衣

寛文11年10月8日 小姓組番頭

寛文11年12月28日 従五位下・長門守

延宝2年1月10日 小姓組番頭を辞す。寄合

延宝5年4月6日 死す
新庄直治 元和2年 生。左門。内蔵助
しんしょうなおはる
越前守直定の三男
寛政譜13・274
母は日野中納言資友の女

寛永11年3月26日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永12年6月26日 小姓組


300俵

慶安3年9月3日 家綱に付属される。西丸書院番


本丸に勤仕

延宝4年8月15日 死す
新庄直房 文禄4年 生。甚助。宮内。美作守
しんしょうなおふさ
駿河守直頼の四男
寛政譜13・277
母は佐久間大学介盛重の女


妻は川口長三郎近次の女

慶長3年 はじめて家康に拝謁

慶長18年9月27日 父直頼の遺領分知。3000石。秀忠に仕える

寛永7年12月29日 従五位下・美作守

寛永9年5月 使番

(寛永9年8月6日) (目付) ●「日記」

寛永9年9月2日 五の字の指物 ●「日記」

寛永9年11月 目付

寛永10年12月26日 4000石

寛永10年12月26日 御加恩御知行千石 ●「日記」

寛永12年11月1日 小姓組組頭

寛永12年11月1日 御小姓組之組頭 ●「日記」

寛永13年9月10日 書院番頭

寛永13年9月10日 御書院番頭柴田筑後元組被仰付 ●「日記」

寛永13年9月26日 与力同心被仰付御礼申上之 ●「日記」

慶安2年10月22日 死す
新庄直之 慶長8年 生。内匠。宗兵衛
しんしょうなおゆき
越前守直定の次男
寛政譜13・273
母は日野中納言資友の女


妻は宮城越前守和甫の女

元和2年3月 はじめて秀忠に拝謁。1000石

寛永3年4月 西丸書院番

寛永13年10月28日 書院番。進物役

寛永13年10月28日 御進物番 ●「日記」

寛永16年7月12日 小姓組組頭

寛永16年7月12日 加々爪甲斐守組御小姓与組頭 ●「日記」

寛永18年1月6日 布衣 ●「日記」共


1400石

寛文2年2月8日 先鉄炮頭

延宝7年12月27日 死す
新庄直好 慶長4年 生。新三郎。駿河守。越前守
しんしょうなおよし
越前守直定の長男
寛政譜13・269
母は日野中納言資友の女


室は佐久間備前守安政の女

慶長12年 はじめて秀忠に拝謁

元和元年12月 従五位下・駿河守

元和4年6月 父直定の遺領を継ぐ。常陸国麻生2万7300石。越前守

寛永20年9月15日 半年替被仰付之 ●「日記」

正保元年7月1日 火之番二番 ●「日記」

寛文2年7月22日
信尊 慶長4年 生。大乗院門跡。大僧正。興福寺別当
しんそん
鷹司関白左大臣信房の次男
宮廷公家系図集覧244
大乗院門跡


大僧正

元和5年3月10日 興福寺別当

延宝4年4月3日 遷化
深大寺
武蔵国。天台宗
じんだいじ


寛永19年7月6日 御朱印被下之 ●「日記」



新大納言

しんだいなごん
東福門院付女房

(寛永17年5月26日) (国母御方) ●「日記」



神忠政
生。長左衛門
しんただまさ
長左衛門忠次の長男
寛政譜17・46
母は平野九左衛門長重の女


妻は青木久左衛門義精の女

寛永4年 はじめて家光に拝謁

(寛永7年) 父忠次の遺跡を継ぐ。500石

寛永9年 小姓組

寛永10年2月7日 700石


小姓組を辞す。小普請

慶安元年2月7日 死す
新知恩寺
江戸。浄土宗
しんちおんじ 慶長15年 開山。1世智誉幡随意
下谷幡随院志
2世阿誉随巌
(浄土宗全書20・209)
3世白誉了門


(後略)
進藤金十郎
生。金十郎
しんどうきんじゅうろう
豊後守忠次の男
四座役者目録
ワキ方
(能楽史話301)
早世



進藤五郎左衛門

しんどうごろうざえもん
阿部対馬守重次に仕える

(寛永19年4月14日) (阿部対馬守家来) ●「日記」



進藤忠次 天文21年8月15日 生。観世堂丸。久右衛門尉。豊後守
しんどうただつぐ
京都山科出身
能楽史話303
母は近衛家妾腹の女

慶長19年5月19日 従五位下・豊後守


ワキ方。200石。20人扶持

寛永12年12月2日
進藤長定 慶長13年 生。采女正。筑後守
しんどうながさだ
修理大夫長滋の男
地下家伝中・1106
近衛家に仕える
宮廷公家系図集覧664 元和6年1月15日 従五位下

元和9年1月5日 采女正


従五位上

寛永9年1月11日 筑後守

寛永9年12月24日 正五位下

(寛永17年5月9日) (近衛殿家老進藤筑後守) ●「日記」

寛永20年9月25日 従四位下

慶安4年1月5日 従四位上

明暦2年1月5日 正四位下

延宝3年1月4日
進藤長滋 天正8年 生。修理大夫
しんどうながしげ
筑後守長治の男
地下家伝中・1106
近衛家に仕える
宮廷公家系図集覧664 慶長17年1月5日 従五位上

慶長19年1月5日 正五位下

元和6年1月15日 従四位下

寛永8年12月7日 修理大夫・従四位上

(寛永17年5月9日) (近衛殿家老進藤修理進) ●「日記」

明暦3年12月27日
進藤信成
生。権右衛門
しんどうのぶなり
権右衛門信吉の男
能楽史話303 寛永13年2月1日 進藤権右衛門子御目見 ●「日記」

貞享元年10月18日 死す
進藤信吉
生。権右衛門
しんどうのぶよし
兄久右衛門忠次の養子
能楽史話303
ワキ方。現米80石。10人扶持

寛永20年6月17日 今日脇能高砂礼服ニ不仕ニ付て遠嶋雖可被仰付相輪橖御祝儀御能―


―被仰付之間不被及其儀可令蟄居之由太田備中守伝之 ●「日記」

明暦2年9月8日 死す
進藤正忠 慶長6年 生。九左衛門
しんどうまさただ
三右衛門正次の養子。織田上野介信包家臣進藤惣左衛門の男
寛政譜5・25
妻は大草次左衛門公継の女

慶長18年 はじめて秀忠に拝謁

寛永2年 書院番


300俵

寛永9年 小姓組

寛永10年2月7日 500石


小姓組を辞す。小普請

寛文4年1月13日 死す
進藤正成 天正15年 生。三左衛門
しんどうまさなり
三右衛門正次の次男
寛政譜5・24
妻は豊臣秀次家臣布毛源左衛門の女


駿府にてはじめて家康に拝謁。家康に仕える


秀忠に仕える。書院番

元和9年 徳川忠長に付属される


(500石)

寛永2年~ (700石)

(寛永9年) 処士

寛永13年12月10日 家光に仕える。700石

寛永13年12月10日 御赦免 ●「日記」

寛永15年12月23日 書院番 ●「日記」共


書院番を辞す。小普請

明暦3年8月15日 死す
進成之 寛永2年 生。太郎吉。三十郎。喜太郎
しんなりゆき
三十郎成政の長男
寛政譜8・50
母は橋本左中将実勝の女


妻は天野三郎兵衛康隆の女

寛永11年 おば権大納言局の願いにより江戸にてはじめて家光に拝謁

寛永11年 命により松平伊豆守信綱に養育される

寛永14年11月26日 300俵 ●「日記」共

寛永18年2月5日 小姓 ●「日記」共

明暦2年5月4日 中奥に伺候

寛文2年12月22日 400俵

寛文12年7月9日 納戸頭

寛文12年12月26日 600俵

寛文12年12月28日 布衣

天和2年4月21日 400石600俵

元禄元年8月25日 小普請。出仕をとどめられる

元禄2年6月4日 恩免。なお御前をはばかる

元禄3年4月17日 ゆるされる

元禄10年4月19日 死す
真如寺
上総国木更津。曹洞宗
しんにょじ




真如堂
京都。天台宗
しんにょどう
斎藤利三の墓がある






真福寺(江戸)
江戸。真言宗
しんぷくじ




真福寺(三河)
三河国岡崎。天台宗
しんぷくじ




真福寺(三河)金蔵院

―こんぞういん




真豊院
遠江国浜松。曹洞宗
しんぽういん
遠江国見附。曹洞宗






神保氏信
生。五郎助。市右衛門
じんぼううじのぶ
兄市右衛門氏勝の嗣。五郎兵衛氏長の三男
寛政譜18・135
母は川口茂右衛門宗重の女


妻は美濃部権之助茂正の女

寛永17年11月15日 兄氏勝の遺跡を継ぐ。1500石

寛永18年3月1日 はじめて家光に拝謁

寛永18年3月1日 去年跡目被仰付之面々今日御礼申上之 ●「日記」

~万治元年 書院番


小普請

元禄9年12月7日 致仕

元禄10年7月2日 死す
神保氏房
生。市之丞
じんぼううじふさ
五郎兵衛氏長の次男
寛政譜18・135
母は川口茂右衛門宗重の女

寛永2年 父氏長の遺跡分知。500石


番士

寛永13年10月28日 番士。進物役

寛永13年10月28日 御進物番 ●「日記」


中奥番

寛永18年1月21日 死す
神保定好
生。織部。吉右衛門
じんぼうさだよし
織部定宗の養子。神保勘太郎の次男
寛政譜18・126
妻は織部定宗の養女神保甲斐定家の女

(寛永4年) 養父定宗の遺跡を継ぐ。200石。鷹方犬牽同心10人

承応元年1月21日 死す
神保茂明 慶長16年 生。大学。左京。一洞
じんぼうしげあきら
長三郎相茂の男
寛政譜18・124
母は杉若越後守の女


妻は松平右衛門大夫大河内正綱の女


後妻は松平大隅守重則の次女

元和元年 はじめて家康に拝謁。父相茂の遺跡を継ぐ。大和国高市郡7000石

元和2年~寛永2年 秀忠に仕える

寛永13年11月23日 松平大隅守娘神保左京え縁辺之儀被仰付之 ●「日記」

天和2年12月18日 致仕。一洞と号す

元禄4年7月21日 死す
神保重利 文禄4年 生。三郎兵衛
じんぼうしげとし
八郎長利の長男
寛政譜18・128 慶長19年 はじめて家康に拝謁


家康に仕える

(元和2年) 秀忠に仕える。大番

(元和4年) 父長利の遺跡を継ぐ。200石

寛永元年12月 200石100俵

寛永2年10月23日 300石

寛永3年3月 小十人頭。500石

寛永6年12月 布衣

寛永10年12月27日 1100石

寛永10年12月27日 五百石御加増 ●「日記」

(寛永15年4月2日) (小十人組之頭) ●「日記」

正保元年12月16日 駿府町奉行 ●「日記」共

承応元年5月 1100石300俵

万治元年5月6日 死す
神保長賢
生。(喜内)。源五左衛門。(孫長澄より数代喜内を称す)
じんぼうながかた
三郎兵衛重利の次男
寛政譜18・130 寛永6年12月27日 はじめて家光に拝謁

寛永10年 小姓組

万治元年閏12月18日 父重利の遺跡分知。300俵

延宝3年3月 小姓組を辞す。小普請

延宝4年4月26日 書院番

天和元年4月10日 書院番を辞す

元禄15年4月14日 死す
新見才兵衛
生。才兵衛
しんみさいびょうえ
彦右衛門の次男
士林泝洄4・561
松平忠吉に仕える。350石


徳川義直に仕える。使番


城付。500石

寛永11年 改易


帰参

(寛永15年12月1日) (尾張大納言殿使者) ●「日記」


以下不詳
新見孫兵衛
生。彦右衛門。孫兵衛
しんみまごびょうえ
才兵衛の次男
士林泝洄4・562
徳川義直に仕える。進物番


父才兵衛の家を継ぐ。進物番小頭。目付


馬廻

寛文元年9月8日 鉄炮頭

寛文12年7月26日 致仕

某年 死す
新見正冶 寛永7年 生。午之助。忠右衛門。平助
しんみまさかた
平助正成の男
寛政譜3・323 寛永13年12月6日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保4年12月25日 大番

承応2年12月23日 父正成の遺跡を継ぐ。520石

寛文5年2月3日 大番組頭

寛文5年12月25日 520石200俵

寛文9年6月5日 死す
新見正勝 弘治3年 生。勘三郎。彦左衛門
しんみまさかつ
彦左衛門正吉の長男
寛政譜3・317
母は大久保彦左衛門の女


妻は松井助大夫宗次の女

天正2年 家康に仕える

天正9年 相模国鎌倉郡品濃村に籠居

天正12年 長久手の役にて弓鉄炮各100挺を預かり本多豊後守広孝に属す


相模国鎌倉郡品濃村に帰住

天正18年 相模国鎌倉郡品濃村250石


秀忠の御傍に勤仕

慶長19年 大坂の役にて膳奉行

元和元年11月 加増あり

元和3年8月 相模国鎌倉郡品濃村810石


大坂金奉行

寛永17年2月25日 大坂金奉行を辞す

寛永17年2月25日 大坂御金奉行新見彦左衛門御目見是御役被成御赦免依罷下也 ●「日記」


致仕。相模国鎌倉郡品濃村に住す

寛永19年12月20日 死す
新見正信 慶長9年 生。藤四郎。七右衛門。但馬守。備中守。不知斎
しんみまさのぶ
七右衛門義清の男
寛政譜3・325
母は安藤次右衛門正次の女


妻は入江宗休の女

(慶長13年) 父義清の遺跡を継ぐ。260石

元和4年 はじめて秀忠に拝謁

元和7年 大番

寛永2年 360石

寛永10年2月2日 大番組頭 ●「日記」共

寛永10年2月23日 660石

寛永19年10月26日 目付 ●「日記」共

寛永19年12月30日 布衣 ●「日記」共

慶安2年10月13日 綱重に付属される。家老。3000石

承応2年8月14日 従五位下・但馬守

寛文元年閏8月11日 6000石

寛文3年8月27日 これより8年間正信宅に家宣が移る

(延宝6年) (綱重逝去により不知斎と号すか?)

延宝6年11月7日 甲府に閑居。月俸300口


養子信義の采地武蔵国新座郡に移住

元禄5年11月15日 死す
新見正道 寛永11年 生。彦四郎。彦左衛門。静閑
しんみまさみち
弥三郎正盛の長男
寛政譜3・318
母は天野伝右衛門清宗の女


妻は木下民部利次の女

寛永20年12月7日 祖父正勝の遺跡を継ぐ。810石。小普請。父正盛の采地は収公

寛永20年12月7日 八百十三石余弥三郎跡新見彦四郎祖父彦左衛門跡被下之―


―父弥三郎四百五十石上ル ●「日記」

(正保元年11月13日) (彦左衛門の初出) ●「日記」

正保元年11月13日 はじめて家光に拝謁

正保元年11月13日 継目之御礼 ●「日記」

承応元年3月 大番

万治元年 大番を辞す

寛文7年 大番


大番を辞す

元禄元年12月9日 致仕。静閑と号す

元禄15年12月29日 死す
新見正盛 天正15年 生。弥三郎
しんみまさもり
彦左衛門正勝の長男
寛政譜3・318
母は松井助大夫宗次の女


妻は天野伝右衛門清宗の女

慶長10年 はじめて家康に拝謁


家康に仕える。十人組。御側に伺候。160石


秀忠に仕える

寛永2~3年 納戸番


450石


焼火間番


土圭間番

寛永20年 死す
新見義正 元和5年 生。半七郎。伝左衛門
しんみよしまさ
彦左衛門正勝の三男
寛政譜3・321
母は松井助大夫宗次の女

寛永11年閏7月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永13年 大番


200俵

慶安4年9月29日 綱吉に付属される


神田館にて小十人頭


先手弓頭


500俵


持筒頭

延宝7年5月26日 死す
信誉
駿河三河遠江。浄土宗か
しんよ




心蓮院

しんれんいん
仁和寺の塔頭



瑞生寺
遠江国浜松。曹洞宗
ずいしょうじ




出納職在 慶長6年7月5日 生。左近将監。兵庫頭。式部大丞。中宮大属。豊後守。明法博士。伴拙
すいとうもとあり
(平田)大蔵大輔職忠の男
地下家伝上・354
母は河越宗也の女
宮廷公家系図集覧576
妻は桑原氏

慶長13年12月21日 従五位下・左近衛将監

慶長16年4月12日 兵庫頭

元和元年1月5日 従五位上

元和3年1月23日 式部大丞

元和6年閏12月9日 正五位下

寛永元年11月28日 中宮大属

寛永2年12月14日 豊後守

寛永4年11月2日 明法博士

寛永17年1月5日 従四位下

(寛永17年5月9日) (三条内) ●「日記」

(寛永19年4月30日) (北面) ●「日記」

明暦3年12月16日 従四位上


致仕。伴拙と号す

貞享3年7月27日
出納職忠 天正8年 生。左近将監。豊後守。左衛門大尉。大蔵大輔。華菴
すいとうもとただ
(平田)職清の養子。(平田)職久の三男
地下家伝上・354
母は多讃岐守忠宗の女
宮廷公家系図集覧576 天正14年9月26日 従五位下・左近衛将監

慶長3年1月6日 従五位上

慶長9年12月14日 豊後守

慶長17年1月5日 正五位下

元和元年1月11日 豊後守・左衛門大尉

元和元年4月7日 上北面

元和3年3月11日 従四位下

元和6年閏12月9日 大蔵大輔

元和7年1月6日 従四位上

寛永元年 正四位下

寛永5年2月8日 正四位上

寛永13年 致仕。華菴と号す

(寛永16年5月1日) (出納大蔵) ●「日記」

(寛永17年5月9日) (三条内) ●「日記」

万治3年6月16日
出納職央 元和6年5月20日 生。左近衛将監。東市正。豊後守。明法博士。大蔵少輔。大蔵大輔
すいとうもとなか
(平田)豊後守職在の男
地下家伝上・355
母は桑原氏
宮廷公家系図集覧576
妻は速水長門守将益の女

寛永2年12月14日 従五位下

寛永3年1月11日 左近衛将監

寛永4年11月2日 東市正

寛永7年閏11月10日 従五位上

(寛永11年7月21日) (出納将監) ●「日記」

寛永11年7月21日 初て御礼 ●「日記」

寛永12年12月16日 正五位下

正保2年1月12日 豊後守

明暦3年12月16日 明法博士

万治2年12月24日 従四位下

寛文元年12月24日 大蔵少輔

寛文3年1月12日 従四位上

寛文7年12月13日 大蔵大輔

元禄11年6月14日
随波 永禄6年 生。随波。定誉
ずいは
筑前国糟屋の人。父は端山氏
三縁山志
(または江戸の人。父は蜂屋氏則の家臣)
(浄土宗全書19・478)
母は吉田氏

慶長3年 筑前国長徳寺にて出家


伊豆国に至る


幡随に師事


随流に学ぶ


観智国師存応に学ぶ


上野国館林善導寺の住持


上野国館林善導寺の住持を辞す


武蔵国小塚原誓願寺を中興


駒込常泉寺をひらく


小石川玄覚寺を創建

寛永2年 伝通院の住持


神田龍閑寺をひらく

寛永11年2月24日 増上寺継目之御礼 ●「日記」

寛永11年3月 増上寺18世

(寛永11年5月15日) (増上寺定誉上人) ●「日記」

寛永12年1月 北谷瑞花院を中興

寛永12年9月10日 遷化
瑞輪寺
江戸馬喰町。神田。谷中。日蓮宗
ずいりんじ 天正19年 開山慈雲院日新上人。開基は徳川家康
瑞輪寺HP 慶長元年 焼失

慶長6年 神田に移転


焼失

寛永16年10月3日 子刻東門跡寺中より火事出来近隣之町屋少々并―


―日蓮宗之随林寺不残焼失 ●「日記」

慶安2年 谷中に移転






随流 永禄元年 生。山城国山科出身。源誉。一法。随龍
ずいる
江戸増上寺貞把に師事
生実大巌寺志
下総国生実大巌寺虎角に師事
(浄土宗全書20・85) 文禄元年 上総国検見川善勝寺を開創
結城弘経寺志 慶長5年 下総国生実大巌寺4世
(浄土宗全書20・132) 慶長19年 下総国結城弘経寺10世


鎌倉光明寺の住持


越前国福井運正寺浄光院の住持


江戸赤坂龍泉寺を開基

寛永9年 下総国生実大巌寺に再住

寛永13年10月20日 遷化
末次左平次
平蔵政直の男平蔵茂貞か?
すえつぐさへいじ
政直は寛永7年5月25日没。長崎代官



末次茂貞
生。平左衛門。平蔵
すえつぐしげさだ
平蔵政直の男
朱印船貿易史560 寛永7年 父政直の跡を継ぐ。長崎代官

(寛永8年5月1日) (左平次?) ●「日記」

(寛永8年6月20日) (平蔵) ●「日記」

寛永17年4月12日 御代官被仰付其上御奉公無油断相勤ニ付御切米弐百俵被下之 ●「日記」

正保4年9月12日 死す
末次茂房
生。(権十郎)。平蔵。不干
すえつぐしげふさ
平蔵茂貞の男
朱印船貿易史561 (正保4年) 父茂貞の跡を継ぐ。長崎代官

明暦元年 長崎代官を辞すか

万治3年~ 死す
末吉長明 慶長14年 生。庄太郎。孫左衛門
すえよしながあきら
孫左衛門長方の長男
寛政譜15・366
妻は綾小路三位高有の女

寛永16年7月18日 はじめて家光に拝謁。父長方の遺跡を継ぐ。摂津国平野庄。代官

寛永16年7月18日 以進物御目見是今度罷下ニ付て也 ●「日記」

(正保元年2月5日) (御代官末吉勝左衛門) ●「日記」

承応2年9月28日 死す
菅権助

すがごんのすけ
松平相模守池田光仲に仕える

(寛永16年3月15日) (松平相模守家中之証人菅権助子長門) ●「日記」



菅三大夫

すがさんだゆう
友拍の男か

(寛永17年7月26日) (松平石見守家来) ●「日記」

寛永17年7月26日 切腹 ●「日記」



菅長門

すがながと


(寛永16年3月15日) (松平相模守家中之証人菅権助子長門) ●「日記」



菅沼宮内
定堅か。寛政譜5・306
すがぬまくない
紀伊家臣



菅沼定昭 寛永2年 生。左近。左近将監(左近大夫)
すがぬまさだあきら
織部正定芳の長男
寛政譜5・301 寛永11年7月9日 はじめて家光に拝謁

寛永17年12月29日 従五位下・左近将監

寛永17年12月29日 諸大夫 ●「日記」

(寛永18年4月17日) (左近大夫の初出か) ●「日記」

寛永20年3月26日 父定芳の遺領を継ぐ。丹波国亀山城3万8000石

寛永20年3月26日 菅沼織部少遺跡四万千百石之内三万八千石嫡子左近二千石二男主水―


―千百石三男主税 ●「日記」

正保元年7月1日 火之番一番 ●「日記」

正保4年9月21日 卒。断絶
菅沼定賢
生。勘解由。はじめ坪内を称すか
すがぬまさだかた
坪内惣兵衛定仍の四男
寛政譜16・89
母は菅沼織部正定盈の女


妻は向井右衛門忠宗の女

正保元年11月10日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保2年6月25日 小姓組

正保4年12月20日 300俵

万治3年7月9日 父定仍より分知。500石

延宝2年9月20日 死す
菅沼定実 寛永3年 生。主水。摂津守
すがぬまさだざね
織部正定芳の次男
寛政譜5・301
母は三好因幡守一任の養女三好越後守可正の女


妻は水野隼人正忠清の女

寛永19年3月7日 はじめて家光に拝謁

寛永20年3月26日 父定芳の遺領分知。丹波国亀山2000石

寛永20年3月26日 菅沼織部少遺跡四万千百石之内三万八千石嫡子左近二千石二男主水―


―千百石三男主税 ●「日記」

慶安元年閏1月20日 三河国新城7000石。寄合

寛文8年12月27日 譜代万石以上の末に列す。帝鑑間に伺候

元禄元年6月9日 大番頭

元禄2年12月27日 従五位下・摂津守

元禄4年11月4日 死す
菅沼定信
生。十兵衛。作十郎。忠左衛門
すがぬまさだのぶ
忠左衛門定則の男
寛政譜5・294
妻は太田七右衛門吉次の女

寛永18年4月16日 書院番 ●「日記」共

寛永20年12月7日 父定則の遺跡を継ぐ。200石 ●「日記」共

万治3年9月15日 200石100俵

寛文7年 書院番を辞す。小普請

天和3年12月21日 致仕

元禄元年6月15日 死す
菅沼定則 天正18年 生。作十郎。忠左衛門
すがぬまさだのり
越後守定吉の次男
寛政譜5・294
母は小栗又市忠政の女


秀忠に仕える


書院番


200石

寛永20年10月13日 死す
菅沼定政 慶長15年 生。藤十郎
すがぬまさだまさ
藤十郎定俊の長男
寛政譜5・291
母は大久保玄蕃頭忠成の女


妻は神尾刑部少輔守世の女

(元和5年) 父定俊の遺跡を継ぐ。2020石

寛永2年~ 小姓組

寛永18年10月8日 如前々江戸中昼夜見舞之役被仰付 ●「日記」

寛文元年11月28日 先鉄炮頭

寛文元年12月28日 布衣

延宝4年10月3日 先鉄炮頭を辞す

延宝5年1月23日 死す
菅沼定芳 天正15年 生。向丸。左近。織部正
すがぬまさだよし
織部正定盈の六男
寛政譜5・300
母は松平監物家次の女


室は松平因幡守康元の女


継室は三好因幡守一任の養女三好越後守可正の女

慶長9年 はじめて家康に拝謁


秀忠に仕える。手水番

慶長11年 兄志摩守定仍の遺領を継ぐ。伊勢国長嶋城2万石

慶長19年2月27日 従五位下・織部正

元和7年8月18日 近江国膳所城3万1100石

寛永11年閏7月6日 丹波国亀山城4万1100石

寛永11年閏7月6日 丹波国亀山へ得替壱万石之御加恩都合四万石 ●「日記」

寛永20年1月17日
菅沼定賞 寛永10年 生。新五郎。主税。越中守。伊賀守
すがぬまさだよし
織部正定芳の五男
寛政譜5・303
妻は内藤飛騨守忠政の女

寛永18年10月3日 家綱に付属される。小姓

寛永18年10月3日 (名前のみの記載) ●「日記」

寛永20年3月26日 父定芳の遺領分知。1000石

寛永20年3月26日 菅沼織部少遺跡四万千百石之内三万八千石嫡子左近二千石二男主水―


―千百石三男主税 ●「日記」

慶安元年閏1月20日 兄定昭の名跡を賜る。3000石


中奥に伺候

慶安4年8月16日 従五位下・越中守

~明暦2年 務を辞す。寄合

元禄13年1月12日 死す
菅沼忠隆 慶長13年 生。千松。飛騨守。松平を称す
すがぬまただたか
摂津守忠政の男
寛政譜5・290
母は里見安房守義頼の女


室は酒井左衛門尉家次の女

慶長17年 父忠政の封を継ぐ。美濃国加納城10万石

元和7年 秀忠の御前にて元服。偏諱を賜る。従五位下・松平飛騨守

寛永9年1月5日
菅沼次勝 慶長15年 生。勘兵衛。三五郎
すがぬまつぐかつ
三五郎政次の長男
寛政譜5・312
母は余語源三郎伊成の女


妻は土岐土佐守頼勝の女


西丸書院番。200俵

寛永10年2月7日 400石

寛永10年 父政次の遺跡を継ぐ。530石

寛永19年11月1日 膳奉行 ●「日記」共

明暦2年7月23日 西丸留守居

明暦2年12月26日 布衣

万治元年閏12月16日 死す
菅沼半兵衛
半兵衛正勝の家系か?寛政譜5・308
すがぬまはんひょうえ
紀伊家臣



菅八郎右衛門

すがはちろうえもん
友拍の男か

(寛永17年7月26日) (松平石見守家来) ●「日記」

寛永17年7月26日 切腹 ●「日記」



菅友拍

すがゆうはく
松平石見守池田輝澄に仕える

(寛永17年7月26日) (松平石見守家中) ●「日記」

寛永17年7月26日 子共迠斬罪 ●「日記」



杉浦勝吉
生。三左衛門。十右衛門
すぎうらかつよし
吉右衛門吉成の三男
寛政譜9・77 元和9年11月5日 家光に仕える。小十人。100俵

寛永9年8月25日 200俵

寛永19年12月6日 納戸番 ●「日記」共

寛文8年8月1日 死す
杉浦喜左衛門

すぎうらきざえもん 寛永15年12月23日 御歩行目付之内谷勝兵衛中根新右衛門石川伊左衛門―


―杉浦喜左衛門此四人御鷹野之刻御台所長持以下持之人足―


―相抱御成之砌は頭召列可罷出 ●「日記」



杉浦為勝 慶長18年 生。半左衛門
すぎうらためかつ
藤次郎則勝の次男
寛政譜9・71 寛永16年11月10日 はじめて家光に拝謁。右筆

寛永16年11月10日 御右筆ニ依被召出以樽代御礼 ●「日記」

寛永17年11月29日 200俵

万治元年閏12月25日 200俵。月俸10口

寛文3年12月26日 300俵

延宝7年12月19日 400俵

貞享元年11月3日 右筆を辞す。小普請

元禄6年4月1日 死す
杉浦親勝 文禄3年 生。弥一郎。彦左衛門
すぎうらちかかつ
弥一郎親正の男
寛政譜9・80
母は中根仁左衛門正勝の女


妻は筧助兵衛為春の女

慶長14年 大番

寛永2年9月2日 220石の朱印

寛永2年10月21日 320石

寛永10年2月7日 520石

正保4年9月27日 死す
杉浦久真 天正7年 生。十兵衛
すぎうらひさざね
惣左衛門久勝の次男
寛政譜9・87
妻は戸田左門家臣川澄平左衛門正次の女

慶長5年 父久勝自殺ののち小田原にあり

慶長19年 大坂の役にて家康に拝謁。家康に近侍

元和2年 江戸に移住。秀忠に仕える。納戸役


200俵

寛永9年 大番

寛永10年2月7日 400石

寛永18年3月8日 具足奉行

寛永18年3月8日 御具足奉行ニ被仰付之旨老中被申渡之小林角右衛門元同心―


―則御預也 ●「日記」

承応2年11月19日 死す
杉浦平右衛門

すぎうらへいえもん (寛永13年2月5日) (使番か?) ●「日記」






杉浦正勝 寛永7年 生。伝之丞。平右衛門
すぎうらまさかつ
長左衛門吉正の次男
寛政譜9・75
妻は小林権十郎正勝の女

寛永20年12月7日 父吉正の遺跡分知。200石

寛永20年12月7日 六百石長左衛門跡杉浦与十郎右亡父長左衛門八百石之内―


―御加増弐百石二番子伝兵衛被下之 ●「日記」

慶安2年12月26日 大番

寛文元年10月12日 新番

寛文2年12月22日 200石50俵

寛文10年11月16日 小納戸

寛文10年12月25日 200石250俵

寛文10年12月28日 布衣

延宝8年 家綱薨去により小納戸をゆるされる。寄合

元禄3年5月29日 死す
杉浦政清 元和2年 生。市兵衛。武兵衛。大隅守。安休
すぎうらまさきよ
十兵衛久真の長男
寛政譜9・87
母は戸田左門家臣川澄平左衛門正次の女


妻は安藤伝右衛門定次の女


後妻は朝比奈助大夫勝政の女

寛永8年9月15日 はじめて秀忠に拝謁

寛永9年5月 大番

寛永13年12月6日 杉浦市兵衛初て御目見 ●「日記」松波市平政治の誤りか

(寛永20年8月8日) (武兵衛の初出) ●「日記」

寛永20年8月8日 新番

寛永20年8月8日 於土圭之間御番相詰其上方々御成之刻御先え参御殿御番等可相勤之旨―


―被仰付之由伊豆豊後列座有之民部少輔伝之中根次郎左衛門組 ●「日記」

慶安元年5月18日 小納戸

慶安4年4月 日光山へ家光に霊柩に供奉

承応2年12月25日 父久真の遺跡を継ぐ。400石

明暦2年5月4日 中奥に伺候

万治元年3月6日 小十人頭

万治元年閏12月25日 400石300俵

万治元年閏12月28日 布衣

寛文元年閏8月11日 綱吉に付属される。神田館の家老。3000石

寛文元年12月28日 従五位下・大隅守

延宝8年 本丸に伺候

天和元年3月5日 徳松に付属される。御側。4000石

天和2年7月7日 務を辞す

貞享2年12月12日 致仕。500俵。安休と号す

元禄10年9月16日 死す
杉浦正友 天正5年 生。一十郎。市右衛門。越後守。内蔵允
すぎうらまさとも
彦左衛門親次の三男
寛政譜9・83
妻は岡部太郎兵衛定綱の女

文禄3年 はじめて家康に拝謁

慶長3年 家康に仕える

元和元年 大坂の役にて弓同心50人を預かる


納戸頭


600石


3400石

寛永3年8月19日 従五位下・越後守

寛永12年11月9日 留守居

寛永12年11月9日 御留守居内匠和泉並被仰付之 ●「日記」

寛永16年12月12日 留守居。諸賄穿鑿

寛永16年12月26日 諸役人御道具其外御賄方入用等直段近年高直之故下々至迠―


―猥之様被為聞召向後用倹約万事牧野内匠頭伊丹播磨入道順斎―


―杉浦内蔵允曽根源左衛門此四人得差図可申付 ●「日記」

寛永17年7月16日 御留守居衆預之与力歩行同心於御裏御門両所御番仕其上今度火事番―


―被仰付之然は方々ニて御番難勤仕之由連々訴之因玆与力五人―


―歩行同心弐十人宛松平大隅守牧野内匠頭酒井和泉守杉浦内蔵允へ―


―重て御預也以来頭被仰付義モ可有之間其迠ハ先右四人可相拘 ●「日記」

寛永19年2月4日 6000石

寛永19年3月3日 留守居。諸賄穿鑿。勘定頭

寛永19年8月16日 諸賄穿鑿。勘定頭

寛永19年8月16日 昨今迠奥方御番之事被成御許兼日被仰付諸色御入用之儀―


―可致吟味 ●「日記」

寛永19年8月16日 曽根源左衛門事和泉守順斎内蔵允相加御代官方其外諸色御勘定之儀―


―右四人致吟味可仕之旨被仰出之 ●「日記」

慶安4年7月22日 勘定頭をゆるされる。留守居

明暦2年1月12日 留守居を辞す

万治元年6月14日 致仕。400石

寛文2年9月9日 死す
杉浦正成
生。弥左衛門
すぎうらまさなり
吉右衛門吉成の次男
寛政譜9・76
妻は水野善兵衛の女


家光に仕える。小十人

寛永13年2月23日 納戸番

寛永13年2月23日 御納戸衆 ●「日記」

慶安2年10月19日 徳川綱重に付属される。納戸組頭

寛文6年1月19日 死す
杉浦吉勝
生。吉十郎。与十郎
すぎうらよしかつ
長左衛門吉正の長男
寛政譜9・73
妻は山本平九郎正直の女

寛永20年6月16日 書院番

寛永20年12月7日 父吉正の遺跡を継ぐ。620石

寛永20年12月7日 六百石長左衛門跡杉浦与十郎右亡父長左衛門八百石之内―


―御加増弐百石二番子伝兵衛被下之 ●「日記」


書院番を辞す。小普請

寛文12年12月25日 死す
杉浦吉正 文禄3年 生。長蔵。長左衛門
すぎうらよしまさ
吉右衛門吉成の長男
寛政譜9・73 ~慶長19年 家康・秀忠に仕える。御傍に近侍

寛永12年 父吉成の遺跡を継ぐ。620石。大番

寛永17年6月10日 奥方番頭 ●「日記」共

寛永19年2月6日 820石

寛永20年9月29日 死す
杉江宗誉
生。藤松。又四郎。藤左衛門。勘解由
すぎえむねたか
嘉右衛門宗満の男
寛政譜20・21
賄方


賄方組頭


新院に付属される。賄頭

寛永20年9月3日 御賄方杉江藤左衛門百俵十人扶持御加増新院え被遣之 ●「日記」


以下不詳
杉田采女

すぎたうねめ


(寛永18年3月29日) (松平伊予守証人) ●「日記」



杉田勝政 元和8年 生。又兵衛
すぎたかつまさ
九郎兵衛忠次の次男
寛政譜15・113 寛永18年9月 勘定

(正保元年2月5日) (御代官) ●「日記」

正保元年12月25日 父忠次の遺跡を賜る。300俵。父の会計終わらざるにより今に至る

正保元年12月25日 跡目被仰付三百俵杉田九郎兵衛二男又兵衛 ●「日記」

正保2年4月1日 石見国銀山代官。京都に住す

万治3年6月16日 死す
杉田重政
生。九兵衛。(九郎兵衛)
すぎたしげまさ
新兵衛吉政の養子。上林又兵衛政信の次男
寛政譜15・116
少年のとき松平薩摩守忠吉に仕える


吉政の養子となる

寛永5年11月15日 はじめて秀忠に拝謁

(寛永20年8月30日) (九郎兵衛) ●「日記」

寛永20年8月30日 家綱に付属される。三丸に勤仕 ●「日記」共

慶安3年9月4日 小姓組。400石


小姓組を辞す。小普請

寛文10年 死す
杉田忠次 天正4年 生。九郎兵衛
すぎたただつぐ
加兵衛忠重の男
寛政譜15・112
豊臣秀次に仕える


大久保石見守長安のもとにあり


家康に仕える。300俵。大久保長安に属す

~寛永9年 勘定組頭

寛永13年4月12日 石州銀山へ被差遣 ●「日記」

寛永14年12月25日 出雲隠岐両国御仕置之儀被仰付其より石見之国え参―


―銀山仕置等可仕之旨被仰付 ●「日記」

寛永15年 石見国銀山代官

寛永18年6月16日 死す
杉田内膳

すぎたないぜん (寛永11年5月15日) (松平伊予守家中証人) ●「日記」






杉田直昌 慶長18年 生。六之助。九郎兵衛
すぎたなおまさ
九郎兵衛忠次の長男
寛政譜15・114 寛永4年7月 はじめて家光に拝謁。作事方

寛永15年12月5日 勘定

寛永15年12月5日 御作事方御勘定 ●「日記」

寛永15年12月18日 150俵 ●「日記」共


勘定組頭。350俵

万治3年7月15日 但馬国代官

寛文8年3月16日 美濃国代官。650俵

寛文11年12月28日 布衣

天和3年7月8日 死す
杉原五右衛門

すぎはらごえもん
稲葉丹後守正勝の家老



杉原重長 元和2年 生。吉兵衛。伯耆守
すぎはらしげなが
伯耆守長房の長男
寛政譜8・282
母は浅野弾正少弼長政の女


室は小出伊勢守吉親の女


継室は織田出雲守高長の女

寛永6年 父長房の遺領を継ぐ。但馬国豊岡2万5000石

寛永10年7月2日 室と縁組 ●「日記」

(寛永12年6月30日) (伯耆守) ●「日記」

(寛永12年8月25日) (吉兵衛) ●「日記」

寛永15年11月7日 縁辺組織田出雲守娘杉原吉兵衛 ●「日記」

寛永17年12月29日 従五位下・伯耆守

寛永17年12月29日 諸大夫 ●「日記」

(寛永18年1月11日) (伯耆守の初出か) ●「日記」

(正保元年5月4日) (二万七千石) ●「日記」

正保元年5月4日 火消之役人之内就交替御暇被下面々依有之今日改被仰付之三番 ●「日記」

正保元年7月1日 火之番三番 ●「日記」

正保元年10月28日
杉原長房 天正2年 生。弥兵治。伯耆守
すぎはらながふさ
七郎左衛門家次の男
寛政譜8・282
室は浅野弾正少弼長政の女


幼少より父母に離れ浅野長政に養われる

天正14年 秀吉に仕える。摂津国にて采地を賜る

天正17年 従五位下・伯耆守。豊後国杵築城を賜る


但馬国豊岡2万石。播磨国三木城代

慶長16年 浅野長政の遺領分知。但馬国豊岡2万5000石

慶長19年 大坂の役にて酒井雅楽頭忠世に属す

元和元年 大坂の役にて酒井雅楽頭忠世に属す

寛永6年2月4日
杉原長可
生。山三郎。甚三郎。市左衛門
すぎはらながよし
四郎兵衛正永の養子。松平越前守家臣高橋左門義重の男
寛政譜8・286 寛永4年2月15日 はじめて秀忠に拝謁

寛永9年1月 書院番

寛永10年 200石

万治3年9月15日 200石100俵

寛文7年3月9日 死す
杉原兵右衛門

すぎはらひょうえもん


寛永20年12月18日 大御番無足当年より御切米弐百俵被下之 ●「日記」



杉原兵部卿

すぎはらひょうぶきょう
一乗院門跡尊覚法親王の家臣



杉原正永 慶長元年 生。四郎兵衛
すぎはらまさなが
四郎兵衛長氏の次男
寛政譜8・283
母は織田家臣根村壱岐守光次の女


妻は栗本氏

慶長8年 はじめて家康に拝謁

慶長11年 父長氏の遺跡を継ぐ。1000石

慶長14年 家康に仕える

慶長19年 大坂の役にて永井右近大夫直勝に属す

元和元年 大坂の役にて永井右近大夫直勝に属す

元和4年 書院番

寛永10年2月7日 1200石

承応元年~ 書院番を辞す。小普請

寛文10年5月14日 死す
杉村帯刀

すぎむらたてわき


(正保元年4月1日) (宗対馬守(家中証人)) ●「日記」



杉本右兵衛
右兵衛か右衛門か不明
すぎもとうひょうえ
鷹司教平に仕える



杉屋太左衛門

すぎやたざえもん
松平石見守池田輝澄に仕える

(寛永17年7月26日) (松平石見守家中) ●「日記」

寛永17年7月26日 父子共死罪 ●「日記」



杉山八兵衛

すぎやまはちびょうえ


(寛永20年3月19日) (津軽土佐守家来) ●「日記」



助右衛門

すけえもん (寛永13年1月2日) (笛) ●「日記」



菅谷寛慶 天正13年 生。法橋。法眼。法印
すげのやかんけい
法印寛乗の男
地下家伝中・1534
妙法院門跡坊官
宮廷公家系図集覧683
得度


法橋


法眼

寛永11年6月20日 法印

(寛永13年5月6日) (妙法院御門跡内菅谷刑部卿) ●「日記」

明暦3年9月21日
菅谷寛乗
生。法印
すげのやかんじょう
妙法院門跡坊官
地下家伝中・1534
法印
宮廷公家系図集覧683 (寛永13年5月6日) (妙法院御門跡内菅谷左京) ●「日記」


以下不詳
菅谷左京
寛乗か
すげのやさきょう
妙法院門跡堯然法親王に仕える

(寛永13年5月6日) (妙法院御門跡内) ●「日記」



菅谷範重 元和元年 生。紀八郎
すげのやのりしげ
左衛門範貞の男
寛政譜11・35
母は菅原大和守直信の女


妻は植村主膳正泰勝の女

元和4年 父範貞の遺跡を継ぐ。5000石。小普請

承応元年9月29日 死す
鈴木市右衛門

すずきいちえもん
100俵5人扶持 ●「日記」寛永13年11月24日条

(寛永13年) 死すか
鈴木一之 慶長8年 生。瀬兵衛。弥次右衛門
すずきかずゆき
久右衛門伊直の三男
寛政譜18・6
母は内藤右京進正成の女


妻は朝比奈左近宗利の女

元和9年11月 はじめて家光に拝謁

寛永元年 小姓組。200俵


250俵

寛永10年2月7日 450石

寛永19年8月5日 浅草蔵会計の席に列す

寛永19年8月5日 浅草御蔵御兵粮之御勘定有之席え相越無油断様可相斗 ●「日記」

寛文6年~ 小姓組を辞す。小普請

延宝3年5月23日 死す
鈴木喜左衛門

すずききざえもん


(寛永19年10月17日) (火之御番) ●「日記」



鈴木金右衛門
生。藤右衛門。金右衛門
すずききんえもん
藤右衛門の男
寛政譜22・360 寛永13年12月28日 父藤右衛門の遺跡を継ぐ。徒目付

寛永13年12月28日 挑燈奉行鈴木藤右衛門跡目被仰付之 ●「日記」


広敷添番

(貞享4年) 死す
鈴木五兵衛

すずきごひょうえ


(寛永19年7月8日) (浅草御城米手代) ●「日記」

(寛永19年7月8日) (北見長七郎手代) ●「日記」

寛永19年7月8日 斬罪 ●「日記」
鈴木五兵衛子 寛永17年


五兵衛の男

寛永19年7月8日 鈴木五兵衛子男子壱人年三(死罪か) ●「日記」



鈴木権兵衛
生。権兵衛
すずきごんびょうえ
権兵衛重弘の長男
寛政譜1・205 寛永13年3月25日 鈴木権兵衛子被召出之 ●「日記」 三郎右衛門信照か不明

寛永13年3月25日 皆川山城守組(大番) ●「日記」


父重弘に継いで家光に仕える。右筆。(250俵)

正保3年8月17日 300石

慶安3年8月23日 家綱に付属される。西丸に勤仕

(慶安4年) 本丸に勤仕

寛文3年2月28日 死す
鈴木式部

すずきしきぶ
徳川頼房に仕える

(寛永13年11月12日) (水戸殿家来) ●「日記」



鈴木重氏 慶長6年 生。友之助
すずきしげうじ
友之助信光の三男
寛政譜17・424 (慶長13年) 父信光の遺跡を継ぐか

元和元年 はじめて秀忠に拝謁

元和元年 小姓

元和3年 西丸小姓組(秀忠付か)

寛永2年12月11日 920石の朱印

(寛永9年) 本丸に勤仕

寛永10年2月7日 1120石


勘気を蒙るか

寛永13年8月24日 御勘気御赦免 ●「日記」

万治3年11月7日 死す
鈴木重員
生。清兵衛。はじめ近藤を称すか
すずきしげかず
近藤某の男
寛政譜21・208
母は鈴木氏

元和8年


徒目付

(寛永19年7月8日) (御検使) ●「日記」

(慶安2年) 死す
鈴木重次
生。市郎兵衛
すずきしげつぐ
与九郎重勝の四男
寛政譜18・30
妻は河野小右衛門通次の女


家光に仕える。小十人


200俵

寛永13年2月23日 納戸番

寛永13年2月23日 御納戸衆 ●「日記」

延宝7年8月9日 死す
鈴木重恒 文禄3年 生。杢助
すずきしげつね
杢之助重利の長男
寛政譜18・11
妻は鈴木忠兵衛重次の女

慶長19年 父重利とともに大坂の役に従う

元和元年 父重利とともに大坂の役に従う


徳川忠長に付属される

(寛永9年) 処士

(寛永20年8月30日) (芦田武川衆) ●「日記」

寛永20年8月30日 家綱に付属される。三丸に伺候 ●「日記」共

寛永20年12月 200石


広敷番頭

慶安3年8月23日 西丸に勤仕

(慶安4年) 本丸に勤仕

万治2年12月24日 200石200俵

寛文9年4月24日 広敷番頭を辞す

寛文12年2月27日 死す
鈴木重長 慶長15年 生。九大夫
すずきしげなが
九大夫重三の養子。三宅庄兵衛の四男
寛政譜17・419
母は梶氏


妻は鈴木三郎九郎重成の女

元和8年 はじめて家光に拝謁

元和9年 重三の養子となり家を継ぐ。200石

寛永元年9月 大番

寛永6年 250石

寛永10年2月7日 450石

寛永20年12月10日 幕奉行 ●「日記」共

万治元年1月4日 死す
鈴木重成(喜左衛門) 寛永2年 生。喜左衛門。安休
すずきしげなり
喜右衛門重次の男
寛政譜18・40
妻は松崎善兵衛の女

(寛永7年) 父重次の遺跡を継ぐか。250俵

寛永16年10月18日 台所頭

寛永16年10月18日 召出御台所組頭之儀内々如訴訟可申付之旨也 ●「日記」

(寛永18年12月29日) (御台所頭) ●「日記」

正保3年12月4日 400石

貞享3年9月12日 台所頭を辞す。小普請

貞享3年12月6日 致仕。安休と号す

元禄15年7月7日 死す
鈴木重成(三郎九郎) 天正16年 生。三郎九郎
すずきしげなり
忠兵衛重次の三男
寛政譜17・415
母は今川家臣粟生筑前守永旨の女


妻は本多中務大輔家臣梶次郎右衛門盛重の女

慶長19年 家康に仕える

元和元年3月27日 200石


小十人

(元和2年) 江戸に伺候

元和6年 父重次の家を継ぐ。700石

(寛永16年5月5日) (御代官) ●「日記」

寛永18年9月19日 肥後国天草代官 ●「日記」共

寛永18年9月23日 天草為御代官鈴木三郎九郎被遣之依之―


―於彼地御合力米千俵被下之 ●「日記」

承応2年10月15日 死す
鈴木重宣 寛永3年 生。甚九郎。三右衛門。兵左衛門
すずきしげのぶ
兵左衛門重之の男
寛政譜17・422
母は三宅金兵衛の女


妻は山岡伝右衛門景信の女


後妻は鈴木三郎九郎重成の女

寛永13年12月15日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

慶安元年6月22日 大番

万治元年閏12月18日 父重之の遺跡を継ぐ。200石100俵

天和元年7月4日 宝蔵番頭

天和2年4月22日 200石200俵

元禄2年12月22日 宝蔵番頭を辞す。小普請

元禄5年9月6日 死す
鈴木重則
生。助大夫
すずきしげのり
久七郎重信の長男
寛政譜18・27 寛永19年12月6日 小十人組之内ヨリ御納戸之御役被仰付 ●「日記」


不詳
鈴木重春 慶長16年 生。喜兵衛。平兵衛。三休
すずきしげはる
清右衛門重友の四男
寛政譜18・17
母は榊原式部大輔家臣松平七右衛門親吉の女


妻は平賀三九郎忠勝の女

寛永6年 秀忠に仕える


200俵

寛永16年10月23日 鉄炮薬込役 ●「日記」共

慶安3年8月27日 閉門

慶安3年10月19日 ゆるされる

承応元年9月29日 新番

万治2年12月26日 250俵

寛文2年10月3日 徳川綱重に付属される。先手頭


550俵


先手頭を辞す


致仕。三休と号す

元禄16年3月23日 死す
鈴木重弘
生。権兵衛。はじめ松平を称す
すずきしげひろ
能見松平清右衛門親次の次男
寛政譜1・205
母は鈴木忠兵衛重次の女


松平を称することをはばかり外家の号鈴木を称す

元和9年 秀忠に仕える。右筆。(250俵)

(寛永13年3月25日) (皆川山城守組) ●「日記」 (大番) 八兵衛信吉か


以下不詳
鈴木重正 慶長16年 生。久三郎。久兵衛
すずきしげまさ
久七郎重信の次男
寛政譜18・27 元和7年 父重信の遺跡を継ぐ。250俵


大番

寛永10年2月7日 450石

(寛永18年3月1日) (大久保右京亮教隆組もしくは皆川山城守隆庸組) ●「日記」

寛永19年8月18日 蔵奉行

寛永19年8月18日 御城米方御蔵奉行 ●「日記」

万治3年5月17日 死す
鈴木重政
生。久大夫。六郎左衛門。新五兵衛
すずきしげまさ
久兵衛重正の男
寛政譜18・27 寛永18年3月1日 はじめて家光に拝謁

寛永18年3月1日 樽代前ニ置一同ニ御目見 ●「日記」

万治3年12月23日 父重正の遺跡を継ぐ。450石

寛文4年11月18日 大番

延宝5年11月30日 石奉行

貞享2年11月26日 逼塞。小普請

貞享3年5月8日 赦免。なお拝謁をとどめられる

元禄3年4月17日 ゆるされる

宝永3年11月19日 死す
鈴木重泰 元和元年 生。佐兵衛。治左衛門。淡路守
すずきしげやす
権之助重勝の長男
寛政譜18・35
母は増田右衛門尉家臣湯川半左衛門の女


妻は佐藤駿河守成次の女


秀忠に仕える。書院番。300俵


小姓組

寛永10年2月7日 500石


勘気を蒙る

寛永13年8月24日 赦免。500石。小姓組

寛永13年8月24日 御勘気御赦免 ●「日記」

寛文3年1月15日 新院(後西天皇)に付属される。1000石

寛文3年4月17日 従五位下・淡路守

延宝元年2月7日 務を辞す。寄合

延宝4年12月24日 死す
鈴木重之 文禄元年 生。兵左衛門
すずきしげゆき
忠兵衛重次の四男
寛政譜17・422
母は今川家臣粟生筑前守永旨の女


妻は三宅金兵衛の女

慶長19年 家康に仕える

元和元年 200石

(元和2年) 秀忠に仕える。小十人

寛永3年~ 納戸番

正保2年9月9日 家綱に付属される

慶安3年9月4日 納戸番組頭

慶安4年11月21日 200石100俵

万治元年12月4日 死す
鈴木重幸
生。三郎左衛門
すずきしげゆき
鈴木七郎右衛門重比の支族
寛政譜22・304 元和5年


鳥見役

寛永15年12月18日 御扶持方五人扶持被下之 ●「日記」

(寛文9年) 死す
鈴木重頼 元和9年 生。長九郎。次郎左衛門
すずきしげより
三郎九郎重成の次男
寛政譜17・418
母は本多中務大輔家臣梶次郎右衛門盛重の女


妻は松平但馬守知乗の女

正保元年6月16日 小姓組 ●「日記」共


300俵

承応2年2月12日 死す
鈴木十三郎

すずきじゅうざぶろう
市右衛門の男か

寛永13年11月24日 鈴木市右衛門百俵五人ふち子跡目被仰付之 ●「日記」

寛永13年12月21日 跡目之面々市右衛門子鈴木十三郎(御目見) ●「日記」






鈴木隆次
生。八右衛門
すずきたかつぐ
八右衛門重直の三男
寛政譜18・21
妻は神谷金七郎長直の女


家康に仕える

慶長14年 代官。三河国幡豆郡120石(前後村)

寛永13年1月27日 死す
鈴木高経
生。武右衛門。仁右衛門。藤堂を称す
すずきたかつね
仁右衛門高刑の男
宗国史下・481
母は藤堂和泉守高虎の養女松永伊勢守の女
宗国史下・645
妻は藤堂源助虎高の三女阿国貞正院
寛政譜14・293
藤堂高虎家臣。500石
寛政譜14・295 元和元年 父高刑の遺跡を継ぐ。5000石。藤堂仁右衛門を称す

寛永7年 7000石

(寛永12年6月1日) (藤堂大学頭家老) ●「日記」

寛永17年 伊勢国津城主城(城代か)

寛文6年 死す
鈴木隆政
生。権三郎。八右衛門
すずきたかまさ
八右衛門隆次の男
寛政譜18・21
母は神谷金七郎長直の女


妻は尾張家臣平岩掃部安次の女

寛永13年5月1日 はじめて家光に拝謁

寛永13年5月1日 三州御代官鈴木八右衛門子権三郎 ●「日記」後部欠落。初見の礼か


父隆次の遺跡を継ぐか。三河国幡豆郡120石。代官

寛永15年 三河国幡豆郡120石200俵

(寛永16年5月8日) (八右衛門の初出) ●「日記」

承応元年7月19日 死す
鈴木太兵衛
太郎兵衛と同一人物か
すずきたひょうえ


(寛永20年4月19日) (百七十俵) ●「日記」

(寛永20年4月19日) (御徒目付) ●「日記」

寛永20年4月19日 只今迠之御番被成御免向後御役可被仰付之間可存其旨之由―


―小十人組御番所之次ニて老中被伝之 ●「日記」

寛永20年5月20日 上総安房右之国在々所々耕作為見分被遣之 ●「日記」

寛永20年9月11日 弐百石被下之 ●「日記」



鈴木多宮

すずきたみや
松平伊予守忠昌の家老






鈴木太郎兵衛
太兵衛と同一人物か
すずきたろうびょうえ


(寛永19年5月22日) (御歩行目付) ●「日記」



鈴木伝左衛門
生。伝次郎。伝左衛門
すずきでんざえもん
台所組頭
寛政譜22・359 (寛永15年10月17日) (鈴木伝右衛門御国御免) ●「日記」

(寛永16年6月1日) (伝次郎) ●「日記」

寛永16年6月1日 千代姫霊仙院に付属される ●「日記」共

寛永16年7月16日 はじめて家光に拝謁

寛永16年9月18日 300石

寛永16年9月18日 三百石被下之伝二郎只今迠被下来御切米御扶持方子ニ被下之 ●「日記」

(寛永16年9月20日) (伝左衛門の初出) ●「日記」

(寛文2年) 死す
鈴木伝次郎
生。伝次郎
すずきでんじろう
伝左衛門の男
寛政譜22・359 寛永16年9月18日 父伝左衛門の食禄を賜る

寛永16年9月18日 三百石被下之伝二郎只今迠被下来御切米御扶持方子ニ被下之 ●「日記」

寛文2年8月14日 千代姫霊仙院に付属される。父伝左衛門の務に代わる。300石


(以下不詳)
鈴木藤右衛門
生。藤右衛門
すずきとうえもん
提燈奉行
寛政譜22・359 (寛永13年) 死す



鈴木長次
生。近江
すずきながつぐ
与八郎の男
寛政譜19・226
父与八郎に継いで作事方奉行


作事奉行設置のときその支配となる。大工頭

(寛永12年) 死す
鈴木長常
生。(兵九郎)。修理
すずきながつね
近江長次の男
寛政譜19・226 (寛永12年8月25日) (大工鈴木兵九郎) ●「日記」

寛永12年8月25日 大工鈴木兵九郎ニ父近江跡職被下之 ●「日記」

寛永12年8月25日 木原杢允被召出近江同心以下御預 ●「日記」

(寛永20年1月2日) (修理の初出) ●「日記」

(貞享3年) 致仕か

某年 死す
鈴木仁兵衛

すずきにひょうえ


寛永20年9月6日 御鳥見 ●「日記」






鈴木信照
生。三郎右衛門
すずきのぶてる
八兵衛信吉の長男
寛政譜18・3 寛永13年 家光に仕える。大番

寛永13年3月25日 鈴木権兵衛子被召出之 ●「日記」 権兵衛重弘の子か不明

寛永13年3月25日 皆川山城守組(大番) ●「日記」

寛永13年12月6日 鈴木虎之介初て御目見 ●「日記」信照か不明

寛永19年6月17日 高尾吉兵衛良幸に殺害される

寛永19年6月17日 麹町於御門舛形之内高尾吉兵衛誅鈴木三郎右衛門則逐電―


―相共皆川山城守組之大御番之輩也是去年二条在番中―


―意趣依有之也云々 ●「日記」
鈴木信吉 天正2年 生。平助。八兵衛
すずきのぶよし
久四郎信村の男
寛政譜18・3
妻は小林角右衛門正重の女

慶長15年 秀忠に仕える。大番

元和元年 家康に仕える。駿府に伺候


徳川忠長に付属される。小十人頭

(寛永9年) 勘気を蒙る。処士


大番。300石

(寛永13年3月25日) (鈴木権兵衛)(皆川山城守組) ●「日記」

(正保元年6月4日) (皆川山城守組鈴木八兵衛) ●「日記」


大番を辞す。小普請

万治元年11月18日 死す
鈴木兵大夫

すずきひょうだゆう
松平伊予守忠昌に仕える

(寛永16年4月23日) (松平伊予守家老) ●「日記」



鈴木平右衛門

すずきへいえもん
松平石見守池田輝澄に仕える

(寛永17年7月26日) (松平石見守家中) ●「日記」

寛永17年7月26日 父子共死罪 ●「日記」



鈴木民部

すずきみんぶ


(寛永19年12月11日) (水戸黄門使者) ●「日記」



鈴木吉次
生。万福。喜蔵。喜兵衛
すずきよしつぐ 元和元年 表台所人
寛政譜22・312
膳所組頭

(寛永18年7月6日) (御台所) ●「日記」

(寛文5年) 死す
鈴木吉言 寛永4年 生。平助。半兵衛。次右衛門
すずきよしとう
八兵衛信吉の次男
寛政譜18・3
母は小林角右衛門正重の女


妻は荒川四郎兵衛長吉の女

正保元年6月4日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保4年12月25日 大番

万治元年閏12月18日 父信吉の遺跡を継ぐ。300石

延宝7年9月8日 宝蔵番頭

天和元年5月26日 宝蔵番頭を辞す

元禄5年7月9日 致仕

元禄7年6月26日 閉門

元禄7年12月11日 ゆるされる。なお拝謁をはばかる

元禄8年4月20日 ゆるされる

正徳2年2月16日 死す
凉順左衛門

すずじゅんざえもん


(寛永20年5月10日) (大津町人) ●「日記」



須田内記

すだないき


(寛永18年3月27日) (伊達遠江守家中証人) ●「日記」



須田正時 慶長13年 生。儀左衛門
すだまさとき
次郎大夫広庄の長男
寛政譜4・351
秀忠・家光に仕える。大番。200石

寛永10年2月7日 400石

寛永12年7月17日 死す
須田盛森 慶長11年 生。五郎八。伝左衛門
すだもりしげ
平左衛門盛満の三男
寛政譜4・346
母は巨海三四郎の女


妻は伊丹理右衛門之信の女

元和9年 はじめて秀忠に拝謁


大番

寛永15年12月16日 200俵

寛永15年12月16日 須田平左衛門跡職三百石被召上三男五郎八ニ―


―御切米弐百俵被下之 ●「日記」

(寛永17年5月21日) (伝左衛門の初出) ●「日記」

正保3年1月22日 金奉行

延宝元年1月14日 金奉行を辞す

延宝8年1月5日 死す
須田盛常
生。平左衛門
すだもりつね
平左衛門盛満の四男
寛政譜4・348
母は巨海三四郎の女

寛永16年 はじめて家光に拝謁


大番。200俵

寛永20年8月8日 新番。250俵

寛永20年8月8日 於土圭之間御番相詰其上方々御成之刻御先え参御殿御番等可相勤之旨―


―被仰付之由伊豆豊後列座有之民部少輔伝之遠山十右衛門組 ●「日記」

慶安4年9月29日 徳川綱重に付属される


桜田館にて小十人頭


書院番頭


500俵


書院番頭を辞す

元禄7年6月2日 死す
須田盛広
生。三大夫。儀左衛門
すだもりひろ
儀左衛門正時の養子。本目権十郎正重の三男
寛政譜4・351
母は須田次郎大夫広庄の女


家光に拝謁

寛永15年12月6日 養父正時の遺跡を継ぐ。200石。小普請

寛永15年12月6日 須田儀左衛門跡四百石之内旧領弐百石惣領三大夫被下之―


―但幼少ニ付御加増之分は被召上之 ●「日記」


大番

承応3年4月26日 大番を辞す

元禄2年11月27日 死す
須田盛正 慶長12年 生。久左衛門
すだもりまさ
平左衛門盛満の次男
寛政譜4・342
母は巨海三四郎の女


妻は市川茂左衛門満友の女

元和4年 はじめて秀忠に拝謁

元和9年 家光に仕える。大番。300俵

寛永10年2月7日 500石

正保元年12月16日 大番組頭

正保元年12月16日 大番組頭田中主殿頭組 ●「日記」

承応元年12月22日 500石200俵

万治2年1月29日 死す
須田盛満 (永禄6年) 生。平左衛門
すだもりみつ
右近盛永の長男
寛政譜4・340
妻は巨海三四郎の女

天正10年 はじめて家康に拝謁

~天正18年 家康に仕える

慶長5年~ 秀忠に仕える。大番


材木奉行


代官

寛永2年10月23日 310石の朱印

寛永15年9月7日 死す
須藤盛政 慶長9年 生。治兵衛。太郎左衛門
すどうもりまさ
惣左衛門盛勝の次男
寛政譜12・147
母は加々爪隼人正政尚の女


妻は江原孫兵衛盛全の女

寛永元年11月8日 小十人

寛永19年12月6日 納戸番 ●「日記」共

正保2年12月19日 父盛勝の遺跡を継ぐ。240石100俵

承応元年2月13日 納戸番組頭

寛文元年12月12日 240石210俵

寛文2年9月7日 死す
須藤盛吉 元和8年 生。孫四郎
すどうもりよし
孫四郎盛広の男
寛政譜12・149 (寛永5年) (父盛広の遺跡を継ぐ。100俵)

寛永9年8月19日 はじめて秀忠に拝謁

寛永9年8月19日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」

寛永10年 父盛広の遺跡を継ぐ。100俵


小十人

正保3年12月13日 100俵月俸10口

正保4年1月21日 死す
角南重国 慶長19年 生。主馬
すなみしげくに
主馬助重勝の長男
寛政譜16・48
母は長田喜兵衛吉正の女


妻は蒔田数馬助長広の女

寛永6年 父重勝の遺跡を継ぐ。1000石

寛永8年 書院番

寛永10年2月7日 1200石

寛永18年4月12日 逼塞 ●「日記」共

寛永18年9月5日 ゆるされる

寛永18年9月5日 御赦免仕来御役如前々可相勤 ●「日記」

寛文3年9月4日 死す
数原宗和 天正17年 生。清菴。法眼。法印
すはらむねとも
徳川頼房に仕える。医師
寛政譜20・357 寛永19年12月20日 家光に拝謁

寛永19年12月20日 始て御目見 ●「日記」

正保4年2月28日 家綱に付属される

正保4年3月19日 500石月俸20口

正保4年12月30日 法眼

慶安4年9月15日 奥に伺候

万治元年閏12月9日 番をゆるされる

万治2年1月28日 法印


営中にて杖をゆるされる

寛文2年7月17日 死す
須摩

すま


(寛永18年6月13日) (天樹院の侍女か) ●「日記」



角倉玄紀 文禄3年 生。庄七。与右衛門。与一
すみのくらはるのり
与一玄之の長男
寛政譜7・232
母は吉田氏


妻は前田能登守利政の女

(寛永9年) 父玄之に継いで代官。淀川過書船を支配

寛永10年3月28日 はじめて家光に拝謁

寛永10年3月28日 (角倉与市子)(御目見) ●「日記」

(正保元年5月1日) (与一の初出) ●「日記」

~寛文2年 代官等を辞す

天和元年2月12日 死す
角倉玄通 元和2年 生。長八。庄左衛門。与一
すみのくらはるみち
与一玄紀の長男
寛政譜7・232
母は前田能登守利政の女


妻は太田備中守家臣橋本十左衛門資信の女


父玄紀の務に代わる


代官

寛文2年 200俵

寛文4年4月26日 死す
角倉玄之 元亀2年 生。与一。貞順。素庵
すみのくらはるゆき
与七(了以)光好の長男
寛政譜7・231
母は吉田氏


妻は吉田氏


幼少より藤原惺窩に従い儒道を学ぶ

慶長8年 家康に拝謁

慶長19年 父光好に代わり通船や運送をつとめる

元和元年 近江国代官。京都河原町と淀川過書船を支配

元和元年 賀茂川嵯峨川通船の運上金をもって食禄にかえられる

寛永9年6月22日 死す
住吉神主

すみよしかんぬし
摂津国住吉大社か?



駿河浅間
駿河国府中。富士新宮
するがせんげん




諏訪
信濃国諏訪。諏訪大明神
すわ







諏訪忠恒 文禄4年 生。松千代麿。小太郎。出雲守
すわただつね
因幡守頼水の長男
寛政譜6・175
母は本多豊後守康重の長女


室は稲葉彦六郎典通の女

慶長12年12月28日 秀忠の御前にて元服。偏諱を賜る。小太郎と称す

慶長13年 はじめて家康に拝謁

~慶長19年 命により婚姻

寛永3年7月20日 従五位下・出雲守

寛永17年9月28日 父頼水の封を継ぐ。信濃国諏訪高嶋城3万2000石

寛永17年9月28日 諏訪因幡守義累日煩ニ付て隠居仕息出雲守与奪仕度之旨―


―連々依申上心次第之由被仰出 ●「日記」

明暦3年1月5日
諏訪忠恒長女
寛政譜6・175
諏訪出雲守忠恒の長女
寛政譜18・191
母は伴氏

寛永10年7月1日 山口修理亮弘隆と縁組 ●「日記」

寛永18年 山口修理亮重定を産む

正保2年 山口小治郎政信を産む






諏訪部定矩
生。源二郎。元入
すわべさだのり
宗右衛門定吉の長男
寛政譜6・149 慶長14年 はじめて秀忠に拝謁

慶長19年 大坂の役にて井上主計頭正就に属す

元和元年 大坂の役にて井上主計頭正就に属す

元和7年 馬のことをうけたまわる

承応2年12月22日 父定吉の遺跡を継ぐ。830石。馬預。元入と号す

万治2年7月13日 致仕。200俵

寛文元年4月23日 死す
諏訪部定久
生。源太郎
すわべさだひさ
宗右衛門定吉の五男
寛政譜6・149
兄定矩に殺害される

寛永11年3月28日 於桜田口下馬諏訪部源太郎兄源次郎ニ対シ―


―不義之働ニ付テ即時令誅戮畢 ●「日記」
諏訪部定之
生。源六郎。郷左衛門
すわべさだゆき
宗右衛門定吉の四男
寛政譜6・149
徳川忠長に仕える

(寛永9年) 処士

寛永13年12月10日 家光に仕える。大番

寛永13年12月10日 御赦免 ●「日記」

寛永16年11月17日 大坂城守衛のとき林半四郎を切害して自殺
諏訪部定吉 永禄11年 生。源二郎。宗右衛門
すわべさだよし
伯父出羽守定次の養子。遠江守定勝の男
寛政譜6・149
母は遠山丹波守直景の女


北条氏政・氏直に仕える。武蔵国秩父日尾城に住す

天正18年7月 紀伊国高野山へ北条氏直に従う

(天正18年11月) 河内国天野へ北条氏直に従う

(天正19年11月) 北条氏直卒。これまで従う

文禄元年7月5日 家康に拝謁

慶長元年 330石

慶長5年 関ケ原の役に従う

慶長12年7月3日 馬の事をうけたまわる

慶長14年 830石

元和元年~ 夜話の席に伺候

元和2年 駿府より江戸に至る。秀忠に拝謁

~寛永2年 夜話の席に近侍

承応2年5月1日 死す
諏訪頼郷 慶長2年 生。蔵千代。小源太。隼人。土佐守。若狭守
すわよりさと
因幡守頼水の次男
寛政譜6・181
母は本多豊後守康重の長女


妻は内藤左馬介政長の養女

慶長17年 はじめて秀忠に拝謁

慶長19年 大坂の役にて土岐山城守定義に属す

元和元年 大坂の役にて兄出雲守忠恒とともに供奉

元和6年 小姓組。500俵

寛永7年 小姓組組頭

慶安元年3月28日 書院番頭

慶安元年12月30日 従五位下・土佐守

慶安2年10月13日 徳川綱重に付属される。家老。3000石

寛文元年閏8月11日 6000石

寛文9年12月1日 致仕

寛文9年12月3日 死す
諏訪頼長 慶長8年 生。十丸。左門。仁巌
すわよりなが
因幡守頼水の三男
寛政譜6・186
母は本多豊後守康重の長女


妻は諏訪因幡守家臣矢崎兵大夫の女

元和6年1月 はじめて秀忠に拝謁。徳川忠長に付属される

(寛永9年) 父頼水のもとに籠居

寛永13年12月10日 赦免 ●「日記」共

寛永19年12月23日 御番被仰付之 ●「日記」

寛永20年6月16日 書院番

寛永20年12月18日 1000俵 ●「日記」共

明暦元年9月15日 小姓組組頭

明暦元年12月29日 布衣

寛文3年11月18日 先鉄炮頭

延宝3年2月16日 先鉄炮頭を辞す

延宝4年12月6日 致仕。300俵。仁巌と号す

天和3年12月27日 死す
諏訪頼増 慶長18年 生。源十郎。主殿。勘兵衛。外家の号諏訪を称す
すわよります
三枝勘解由守昌の次男
寛政譜17・389
母は諏訪因幡守頼水の女

元和6年 はじめて秀忠に拝謁

寛永16年7月23日 以太刀目録御目見是最前雖致御目見―


―今度父勘解由被召出已後初て也 ●「日記」

寛永17年3月19日 小姓組 ●「日記」共

(寛永17年9月14日) (勘兵衛の初出) ●「日記」

寛永17年9月14日 父守昌の遺領分知。3000石

寛永17年9月14日 三枝勘解由遺跡壱万石之内七千石惣領内匠―


―三千石弟勘兵衛被下之 ●「日記」

慶安2年9月22日 小姓組組頭

慶安4年8月16日 布衣

寛文7年2月14日 先鉄炮頭

延宝2年2月1日 死す
諏訪頼水 元亀元年 生。小太郎。因幡守
すわよりみず
安芸守頼忠の長男
寛政譜6・174
母は向山氏


室は本多豊後守康重の長女

天正10年 家康に拝謁

天正18年6月10日 父頼忠の封を継ぐ

天正18年 1万2000石

文禄元年 上野国惣社1万2000石

慶長6年 信濃国諏訪高嶋城2万7000石

慶長10年 従五位下・因幡守

元和4年 信濃国諏訪高嶋城3万2000石

寛永12年7月7日 帷子五諏訪因幡守内儀進上之(祝言被仰付御礼?) ●「日記」

寛永17年9月28日 致仕

寛永17年9月28日 諏訪因幡守義累日煩ニ付て隠居仕息出雲守与奪仕度之旨―


―連々依申上心次第之由被仰出 ●「日記」

寛永18年1月14日
清雲院 天正9年 生。於奈津。清雲院
せいうんいん
北畠家臣長谷川三郎左衛門藤直の女
幕府祚胤伝 慶長 家康に仕える
(徳川諸家系譜2・25) (元和2年) 尼となる。清雲院と号す。500石。三丸脇に屋敷を賜る
寛政譜13・124
100石月俸10口

元和 小石川門内の屋敷に移る


おい長谷川左馬助広直を養子とする。紀伊家臣


養子広直の孫長谷川三郎左衛門藤該を養子とする。家綱に仕える

万治3年9月20日 逝去
清音寺
常陸国。臨済宗
せいおんじ


寛永19年7月6日 御朱印被下之 ●「日記」



靖巌院 寛永13年 生。通。輝
せいがんいん
家光の養女。松平新太郎池田光政の次女
寛政譜5・49
母は本多中務大輔忠刻と天樹院との女円盛院
幕府祚胤伝 正保4年10月19日 縁組
(徳川諸家系譜2・88) 慶安2年6月22日 家光の養女となる
諸家伝上・111 慶安2年11月20日 粉装料2000石
宮廷公家系図集覧262 慶安2年11月21日 一条右大臣教輔に嫁ぐ

承応元年4月13日 一条関白兼輝を産む

享保2年4月15日 逝去
誓願寺
江戸神田。浄土宗
せいがんじ
増上寺伴僧



誓願寺(駿府)
駿河国府中。臨済宗
せいがんじ




清閑寺共綱 慶長17年10月21日 生。左衛門権佐。中宮権大進。蔵人。弁。蔵人頭。参議。
せいかんじともつな
中納言。大納言
諸家伝上・609
内大臣共房の長男
宮廷公家系図集覧407
母は仏光寺末子光源寺知祐の女


室は中院内大臣通村の女

慶長18年7月22日 従五位下

元和2年12月17日 元服。左衛門権佐。昇殿

元和3年1月5日 従五位上

元和6年1月5日 正五位下

寛永元年11月28日 中宮権大進。左衛門権佐

寛永4年7月27日 蔵人

寛永4年9月7日 左少弁。中宮権大進

寛永4年11月17日 正五位上

寛永6年11月6日 右中弁

寛永6年11月9日 中宮権大進を辞す

寛永8年12月18日 左中弁

寛永9年5月2日 従四位下。蔵人頭

寛永9年9月8日 従四位上

寛永9年12月11日 正四位下

寛永10年1月6日 正四位上

寛永12年1月11日 右大弁

寛永14年12月20日 左大弁

寛永16年9月15日 参議。左大弁

寛永16年閏11月28日 従三位

(寛永17年4月16日) (宰相の初出) ●「日記」

寛永18年8月23日 左大弁を辞す

寛永19年1月5日 正三位

寛永20年9月12日 権中納言

寛永20年9月15日 帯剣

正保元年1月28日 直衣

慶安2年4月1日 従二位

承応3年1月5日 正二位

明暦元年1月25日 権大納言

万治元年閏12月22日 権大納言を辞す

延宝3年8月13日 従一位

延宝3年8月25日 薨去
清閑寺共房 天正17年5月27日 生。左衛門権佐。少弁。蔵人。中弁。参議。大弁。中納言。
せいかんじともふさ
大納言。伝奏。内大臣
諸家伝上・608
刑部卿家幸の中絶家を相続。中御門大納言資胤の次男
宮廷公家系図集覧407 慶長7年1月6日 従五位下

慶長7年1月12日 元服。昇殿

慶長9年8月1日 左衛門権佐

慶長11年1月6日 従五位上

慶長11年1月11日 権右少弁

慶長13年2月17日 蔵人

慶長14年1月6日 正五位下

慶長14年1月9日 右少弁

慶長14年10月3日 左少弁

慶長16年3月21日 正五位上

慶長17年1月5日 従四位下

慶長17年1月19日 左中弁

慶長17年8月1日 従四位上

慶長17年12月11日 正四位下

慶長18年1月6日 正四位上

慶長18年1月23日 蔵人頭

慶長18年12月21日 右大弁

慶長19年1月11日 参議。右大弁

慶長19年7月27日 左大弁

慶長20年1月5日 従三位

元和元年12月28日 左大弁を辞す

元和3年1月5日 正三位

元和5年1月12日 権中納言

元和6年8月15日 従二位

寛永8年12月11日 正二位

寛永9年12月29日 権大納言

(寛永11年7月21日) (中納言) ●「日記」

寛永14年10月16日 権大納言を辞す

(寛永15年3月6日) (大納言の初出) ●「日記」

承応元年 武家伝奏

承応3年12月28日 従一位

寛文元年5月23日 内大臣

寛文元年7月24日 内大臣を辞退

寛文元年7月28日 薨去
盛憲
生。竹林坊
せいけん
南光坊天海の弟子

寛永16年閏11月13日 去比知楽院権僧正就遷化彼寺宗相続之儀弟子延命院―


―雖被仰付若年付て竹林坊差添二丸御宮行事等可勤仕之旨―


―被仰出之仍竹林坊御扶持方五十人分被下之 ●「日記」

(寛永18年1月6日) (竹林坊権僧正) ●「日記」

正保元年5月17日 門跡為幼少之間日光東叡両山之儀為後見毘沙門堂被仰付候間―


―毘沙門堂亦若僧之条万事無怠懈之様如大僧正時可申付之旨被仰付之―


―次竹林坊権僧正被召出右之旨被仰含之 ●「日記」



清見寺
駿河国興津。臨済宗
せいけんじ




静三郎

せいざぶろう
観世座大鼓方か






清浄院 天正10年
せいじょういん
水野和泉守忠重の長女
寛政譜6・43
家康の養女となり加藤肥後守清正に嫁す

(慶長16年) 清浄院と号す

(寛永9年) 兄水野日向守勝成の領地備後国福山に住す

明暦2年9月17日 逝去
青松寺
江戸。曹洞宗
せいしょうじ




清勝寺
清勝寺か?
せいしょうじ




青水寺
天台宗
せいすいじ




清拙正澄
鎌倉末期の渡来臨済僧
せいせつしょうちょう







栖足寺
伊豆国。臨済宗
せいそくじ







清泰院 寛永4年5月23日 生。亀姫。鶴姫。大姫。糸姫。阿智姫。(加賀姫)。清泰院
せいたいいん
家光の養女。水戸中納言徳川頼房の四女
幕府祚胤伝 寛永8年12月 家光の養女となる
(徳川諸家系譜2・87) 寛永9年5月10日 営中に入る。大姫君と称す

寛永9年12月5日 松平筑前守前田光高と縁組

(寛永9年12月13日) (水戸黄門息女日来御養子被成) ●「日記」

寛永9年12月13日 縁辺 ●「日記」

(寛永10年7月4日) (姫君様) ●「日記」

寛永10年12月5日 入輿

寛永10年12月5日 姫君様松平筑前守へ御祝言 ●「日記」

(寛永15年1月19日) (大姫君之御方の初出) ●「日記」

寛永20年10月8日 医師大膳大夫大姫君様御懐妊ニ付て為御養生被為付之 ●「日記」

寛永20年 松平肥前守前田綱紀を産む

寛永20年11月16日 今暁大姫君御方加賀少将内室平産男子御誕生 ●「日記」

正保2年 前田満菊丸を産む

正保2年夏 夫光高死去により落飾。清泰院と号す

明暦2年9月23日 逝去
清澄

せいちょう
清澄寺か?



清澄寺
安房国。真言宗
せいちょうじ
はじめ天台宗。のち真言宗、日蓮宗



西伝寺
遠江国浜松。浄土宗
せいでんじ




清任

せいにん


(寛永17年6月1日) (王子別当弟子) ●「日記」



清白寺
甲斐国。臨済宗
せいはくじ


寛永19年7月6日 御朱印被下之 ●「日記」



盛甫
清甫とも
せいほ
囲碁将棋



清法院
盛前? 盛岡? 地名判読不能
せいほういん




清隆寺
房州
せいりゅうじ
清龍院か?






静慮院
比叡山延暦寺静慮院。天台宗
せいりょいん




清涼院
生。岡山。清涼院
せいりょういん
越前松平家臣中川出雲守の女
西巌公年譜
豊臣家に仕える
(徳川諸家系譜4・98)
松平中納言秀康に侍す

文禄4年6月10日 松平一伯越前守忠直を産む

慶長2年12月14日 松平伊予守忠昌を産む


松平中納言秀康の側室となる

(慶長12年) 薙髪。清涼院と号す


将軍の内命を奉じ東西奔走する

(寛永9年7月29日) (越前屋敷) ●「日記」

寛永17年7月21日

寛永17年7月21日 松平伊予守母儀清涼院依死去松平出雲守為上使被遣之 ●「日記」
清林寺
遠江国藤枝。曹洞宗
せいりんじ




瀬川昌佐

せがわしょうさ


寛永16年1月20日 連衆新加 ●「日記」



関氏盛
生。兵助。安芸守。兵部少輔。自閑
せきうじもり
長門守一政の養子。関主馬首盛吉の長男
寛政譜8・240
母は森本飛騨守の女


妻は本多上野介正純の養女

慶長15年 はじめて家康・秀忠に拝謁

元和2年 従五位下・安芸守

元和4年7月 5000石。寄合

寛文8年12月14日 致仕。自閑と号す

延宝2年4月12日 死す
石雲院
遠江国。曹洞宗
せきうんいん







積雲院
遠江国。曹洞宗
せきうんいん







関勝吉
生。孫左衛門
せきかつよし 寛永5年
寛政譜22・183
表火番

寛永18年4月14日 火之番御役被仰付之御歩行より新規ニ出之 ●「日記」

(寛文8年) 死す
関口作兵衛

せきぐちさくびょうえ
代官か

(寛永17年6月11日) (日光又ハ道中御賄仕候公家衆御馳走申) ●「日記」



関口正明
生。長九郎
せきぐちまさあきら
治郎左衛門正長の男
寛政譜18・389
鳥見役か

(寛永13年8月23日) (昨日初て御鷹野ニ当年初て被為成付て(銀子)被下之) ●「日記」

寛永15年12月18日 父正長の遺跡を継ぐ。鳥見役

寛永15年12月18日 御切米三拾俵被増下合七拾俵也 ●「日記」

(寛文11年) 死す
関十兵衛

せきじゅうべえ
松平中務大輔蒲生忠知の家老

寛永9年7月11日 追放 ●「日記」



関長政 慶長17年 生。次郎八。式部。但馬守。備前守
せきながまさ
民部少輔成次の次男
寛政譜21・240
母は森美作守忠政の女


室は真田河内守信吉の女

寛永11年7月 二条城にてはじめて家光に拝謁


兄森内記長継の証人として江戸に至る

寛永13年12月21日 森内記弟関式部呉服三以太刀目録御目見是為証人参上之故 ●「日記」

寛永14年 朔望の出仕をゆるされる


兄森長継の代わりにその領地に行く

承応元年12月28日 従五位下・但馬守


兄森長継より分知。美作国1万8700石。柳間に伺候

寛文6年 備前守

元禄2年6月6日 致仕

元禄11年7月16日
関信久
生。孫兵衛
せきのぶひさ
次大夫信正の男
寛政譜14・116 ~慶長19年 秀忠に仕える

元和9年 徳川忠長に付属される。小十人

(寛永9年) 処士

寛永16年閏11月7日 家光に仕える。宝蔵番

寛永18年11月15日 采地・廩米を賜る

寛永18年11月15日 芦田武川衆十八人駿州ニて之本知并御切米如前々被下之 ●「日記」

寛文5年 死す
関正重 元和6年 生。百助。平三郎。五左衛門
せきまさしげ
兵左衛門正成の長男
寛政譜14・113
母は岡部喜兵衛正次の女

寛永15年1月15日 大番 ●「日記」共

慶安元年7月19日 死す
関正成
生。百助。兵三郎。兵左衛門
せきまさなり
弥右衛門吉政の次男
寛政譜14・113
妻は岡部喜兵衛正次の女


秀忠に仕える

寛永8年4月10日 奥にて召し使われる ●「日記」共

寛永10年12月20日 書物奉行 ●「日記」共

寛文6年6月21日 書物奉行を辞す。寄合

寛文10年1月28日 死す
関山宝蔵院
関山権現別当。天台宗
せきやまほうぞういん







関六左衛門

せきろくざえもん


寛永19年10月21日 昨夜四番町関六左衛門家焼失 ●「日記」



勢多治郷 天正18年2月8日 生。左衛門大志。左衛門大尉。豊前守。大判事。明法博士
せたはるさと
豊前守治房の長男
地下家伝上・414 慶長2年1月5日 従五位下
宮廷公家系図集覧579 慶長2年1月13日 左衛門大志

慶長10年 従五位上

慶長17年3月12日 左衛門大尉

慶長17年5月15日 豊前守。左衛門大尉

慶長18年10月19日 正五位下

元和2年1月6日 従四位下

寛永8年12月24日 従四位上。大判事。左衛門大尉。豊前守を辞す

(寛永11年7月21日) (豊前) ●「日記」

慶安3年12月20日 正四位下

明暦2年1月11日 明法博士。大判事。左衛門大尉

万治3年12月24日 正四位上

寛文10年5月22日 大判事を辞す

寛文10年6月2日
勢多治直 慶長18年 生。左衛門大志。左衛門大尉
せたはるなお
豊前守治郷の養子。治郷の甥
地下家伝上・414 元和5年3月11日 従五位下。左衛門大志
宮廷公家系図集覧579 寛永8年12月24日 左衛門大尉

寛永10年1月6日 従五位上

寛永11年7月21日 初て御礼 ●「日記」

寛永19年4月27日
雪念 天正2年 生。良蓮社南誉上人慈眼雪念大和尚
せつねん
はじめ曹洞宗の甲斐国巨摩郡竜王村慈昌寺に住す
三縁山志
観智国師存応に師事
(浄土宗全書19・481)
柳営の講会に列す
飯沼弘経寺志 寛永5年 命により飯沼弘経寺11世
(浄土宗全書19・816)
紫衣

寛永16年2月 増上寺20世

寛永16年2月15日 下総飯沼之弘経寺摂念増上寺後住被仰付之 ●「日記」

寛永16年3月15日 雪念和尚増上寺入院依被仰付今日御目見 ●「日記」

寛永17年9月18日 遷化 ●「日記」共
瀬奈勘之丞
小左衛門貞利か
せなかんのじょう


寛永13年12月27日 大御番被仰付之 ●「日記」



瀬名清貞
生。源五郎。十右衛門。市左衛門。市郎左衛門
せなきよさだ
十右衛門政勝の長男
寛政譜2・233
母は小出氏


妻は松田六郎左衛門貞平の女

~慶長5年 はじめて家康に拝謁

(元和2年) 父政勝の遺跡を継ぐ。300石


大番

寛永10年2月7日 500石

(寛永18年3月1日) (大久保右京亮教隆組もしくは皆川山城守隆庸組) ●「日記」


500俵

寛文11年9月8日 切手門番頭

延宝2年5月26日 死す
瀬名貞利
生。小左衛門。一時今川を称す
せなさだとし
今川平右衛門貞国の長男
寛政譜2・238 寛永13年3月25日 はじめて家光に拝謁

寛永13年3月25日 瀬名平右衛門子被召出之 ●「日記」

寛永13年3月25日 皆川山城守組(大番) ●「日記」


大番

寛文4年12月10日 父貞国の遺跡を継ぐ。200石

寛文6年6月19日 今川から瀬名に復す

延宝4年11月19日 死す
瀬名貞正 寛永元年 生。藤三郎。伝右衛門
せなさだまさ
市郎左衛門清貞の長男
寛政譜2・235
母は黒川氏


妻は溝口佐左衛門吉勝の女

寛永18年3月1日 はじめて家光に拝謁

寛永18年3月1日 樽代前ニ置一同ニ御目見 ●「日記」

寛永18年7月10日 大番

寛永20年12月18日 200俵 ●「日記」共

慶安元年3月25日 徳川綱重に付属される。傅


小姓組番頭

承応2年8月19日 布衣


1700石


小姓組番頭を辞す


致仕。300俵

元禄11年10月20日 死す
瀬名吉久
生。八郎右衛門。甚左衛門
せなよしひさ
十右衛門政勝の次男
寛政譜2・233 寛永5年 はじめて家光に拝謁


小十人

寛永19年12月6日 納戸番 ●「日記」共

慶安元年9月26日 綱吉に付属される。小納戸

慶安4年 隊下の同心に連座して改易


以下不詳
施薬院宗雅 慶長5年 生。松千代。治部卿。施薬院。法眼。法印
せやくいんそうが
法印宗伯の長男
寛政譜18・178
妻は村越長門守吉勝の女

寛永11年~ 父宗伯の家を継ぐ。500石。家光に仕える。京都に住す

寛永16年7月11日 法印 ●「日記」共

寛永16年7月11日 施薬院惣領宗雅法印ニ被仰付之旨薬院へ老中被申渡之 ●「日記」

明暦元年9月25日 死す
施薬院宗雅次男
寛政譜18・179
法印宗雅の次男

寛永12年8月25日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共



施薬院宗伯 天正4年 生。法印。長生院
せやくいんそうはく
法印全宗の養子。三雲三郎左衛門資隆の男
寛政譜18・178
父資隆の死後、一鴎宗虎の養子となる


医業を学び家を継ぐ。薬方をうける


施薬院全宗の養子となる


兄秀隆の死後、家業を継ぐ

慶長4年 施薬院の家督を継ぐ。昇殿をゆるされる。(法印)


家康に仕える

元和3年8月14日 500石

寛永11年~ 致仕。月俸50口。長生院と号す

(寛永16年7月11日) (施薬院惣領宗雅法印ニ被仰付之旨薬院へ老中被申渡之) ●「日記」

寛文3年7月27日 死す
芹沢慶宅

せりざわけいたく
医師か?


駿河国駿東郡西田中村の芹沢か?



芹沢慶宅子

せりざわけいたくこ 寛永11年3月18日 芹沢慶宅子初て御目見 ●「日記」



泉岳寺
江戸芝。曹洞宗
せんがくじ




善古

ぜんこ
茶道の人か

寛永15年12月18日 御切米五拾俵被下之 ●「日記」



善光寺
信濃国
ぜんこうじ




善光寺大勧進
信濃国善光寺本坊
―だいかんじん




善光寺別当
信濃国善光寺本坊大勧進か
―べっとう 寛永13年2月1日 後住之御礼 ●「日記」



泉谷寺
武蔵国小机。浄土宗
せんこくじ


寛永19年7月6日 御朱印被下之 ●「日記」



仙石忠政 天正6年 生。左門。三左衛門。兵部大輔
せんごくただまさ
越前守秀久の三男
寛政譜5・315
母は野々村伊予守の女


室は小堀作内の女

慶長5年8月 従五位下・兵部大輔

慶長5年 父秀久と同じく秀忠の上田城攻めに従う

慶長19年6月 父秀久の遺領を継ぐ。信濃国小諸城5万石

元和8年 信濃国上田城6万石

寛永5年4月20日
仙石忠政長女
寛政譜5・315
仙石兵部大輔忠政の長女
寛政譜15・371
母は小堀作内の女

寛永10年7月2日 桑山修理亮一玄と縁組 ●「日記」


桑山美作守一尹を産む



仙石久邦 元和2年 生。右近。因幡守
せんごくひさくに
大和守久隆の男
寛政譜5・322
母は岡崎将監の女


妻は石河壱岐守貞政の女

寛永3年 はじめて家光に拝謁

寛永12年7月 小姓組

正保2年12月19日 父久隆の遺跡を継ぐ。4000石

慶安3年12月15日 小姓組組頭

慶安4年8月16日 布衣

承応2年9月27日 小姓組番頭

承応2年12月28日 従五位下・因幡守

万治元年1月11日 書院番頭

寛文9年7月3日 伏見奉行。6000石

天和元年11月21日 死す
仙石久隆 文禄3年 生。弥兵衛。右近。大和守
せんごくひさたか
越前守秀久の七男
寛政譜5・321
母は野々村伊予守の女


妻は岡崎将監の女

慶長9年 はじめて家康に拝謁

慶長9年 秀忠の御側に勤仕


兄丹後守の遺跡を賜る。3000石

慶長13年 従五位下・大和守

元和3年 書院番

寛永3年 家光の上洛に従う

~寛永4年 使番

寛永6年 目付

寛永9年9月2日 五の字の指物 ●「日記」

寛永10年12月26日 4000石

寛永10年12月26日 御加恩御知行千石 ●「日記」

寛永13年4月10日 小姓組番頭

寛永13年4月10日 御小姓組之大頭 ●「日記」

正保2年5月21日 死す
仙石政勝 元和6年 生。万千代。権之助。采女。治左衛門。和泉守。久信
せんごくまさかつ
兵部大輔忠政の三男
寛政譜5・319
母は小堀作内の女


妻は奥田半兵衛忠一の女

寛永11年3月15日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永18年4月16日 小姓組

(寛永20年12月18日) (采女の初出) ●「日記」

寛永20年12月18日 300俵 ●「日記」共

万治元年閏12月19日 小姓組・進物役

寛文5年2月28日 小姓組組頭

寛文5年3月18日 600俵

寛文5年12月28日 布衣

寛文9年2月25日 兄政俊より分知。2000石

延宝3年5月13日 先鉄炮頭

延宝6年12月3日 盗賊追捕の事を役す

延宝8年2月26日 新番頭

天和2年4月21日 2700石

貞享2年12月29日 勘定頭。従五位下・和泉守

貞享4年9月10日 逼塞。小普請

元禄2年6月4日 ゆるされる。なお拝謁をはばかる

元禄3年4月17日 ゆるされる

元禄9年12月7日 致仕。久信と称す

元禄13年5月8日 死す
仙石政俊 元和3年 生。兵介。越前守。道休
せんごくまさとし
兵部大輔忠政の長男
寛政譜5・315
母は小堀作内の女


室は水谷伊勢守勝隆の女

元和9年 はじめて秀忠に拝謁

寛永5年6月 父忠政の遺領を継ぐ。信濃国上田城6万石

寛永10年7月2日 縁辺組 ●「日記」

寛永11年12月29日 従五位下・越前守

(寛永12年6月30日) (越前守の初出) ●「日記」

(寛永18年5月12日) (火消之役人) ●「日記」

寛文9年2月25日 致仕。道休と号す

延宝2年7月24日
仙石政則 元和4年 生。勝五郎。織部
せんごくまさのり
兵部大輔忠政の次男
寛政譜5・318
母は小堀作内の女


妻は渡辺久左衛門善の女

寛永11年3月15日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永18年4月16日 小姓組 ●「日記」共

寛永20年12月18日 300俵 ●「日記」共


小姓組を辞す。小普請

寛文3年5月28日 死す
宣旨

せんじ
東福門院付女房

(寛永17年5月26日) (国母御方) ●「日記」



選釈寺
大坂。知恩寺末。浄土宗
せんじゃくじ 寛永18年4月18日 於大坂百万遍流選釈寺長林寺両寺之長老令破戒寺中ニ置妻女―


―剰知恩院流之白雲寺破戒之義依不同心右之両寺彼白雲寺殺害之―


―令隠密之処今度久貝因幡守穿鑿之上露顕之趣言上訖依之両悪僧并―


―女三人与同之者一人大坂中引渡之磔ニ曝之両寺ハ三日已後トゝメヲ―


―サスヘキ由上意之趣彼地定番之面々以次飛脚奉書遣之 ●「日記」



仙重

せんじゅう
囲碁将棋



専修寺
伊勢国一身田。浄土真宗
せんしゅうじ




専修寺慈智院

―じちいん (寛永11年7月28日) (一身田新門跡坊官) ●「日記」



善住坊
遠江国。曹洞宗善住寺か
ぜんじゅうぼう


寛永19年7月6日 御朱印被下之 ●「日記」



専称寺
陸奥国岩城。浄土宗
せんしょうじ




善正寺
山城国。日蓮宗
ぜんしょうじ
豊臣秀次の菩提寺。母日秀尼により建立

寛永17年3月10日 山城国禅昌寺寺領之御朱印頂戴之云々 ●「日記」



善正寺瑞龍院

―ずいりゅういん


寛永18年6月1日 松殿ヨリ太刀目録并薫袋被献之使者御目見是松殿事一代摂家之列―


―被仰付之并瑞龍院へ今度寺領五百石御寄附之御礼也 ●「日記」



禅知坊

ぜんちぼう
天台僧か

(寛永17年4月19日) (日光山法会に着座) ●「日記」



全貞
朝鮮人
ぜんてい 寛永12年4月20日 騎士曲乗仕 ●「日記」



善徹
善徴? 善微?
ぜんてつ
増上寺の僧

寛永9年11月18日 駿河国宝台院住持 ●「日記」

(寛永15・16年) 死す
善導寺(館林)
上野国館林。浄土宗
ぜんどうじ 天正18年 館林外加法師村より移転。開山演蓮社智誉幡随白道
舘林善導寺志
2世見蓮社明誉阿山
(浄土宗全書20・197)
3世浄蓮社清誉宗無


4世鑑蓮社森誉還愚


5世了蓮社定誉随波


6世生蓮社往誉無絃


7世登蓮社覚誉観竜


8世法蓮社住誉以伝


9世然蓮社法誉潮冶


10世心蓮社一誉霊海


11世遵蓮社明誉檀通


12世観蓮社勢誉玄意


(後略)
善導寺(筑後)
筑後国。浄土宗
ぜんどうじ
(前略)
筑後善導寺志 天正15年 20世法蓮社円誉元公
(浄土宗全書20・449) 文禄2年春 21世燈蓮社楽阿了感

慶長5年秋 22世徳蓮社運誉是頓

慶長14年4月15日 是頓寂

慶長14年 23世一蓮社純誉正説

元和4年 24世頂蓮社上誉大通

元和9年4月17日 大通寂

元和9年 25世光蓮社徳誉印慶

寛永3年9月5日 印慶寂

寛永3年11月 26世果蓮社団誉正阿冏無

寛永12年11月 27世源蓮社本誉法輪

寛永14年4月8日 法輪寂

寛永14年 28世照蓮社廓誉嶺笛

寛永15年9月28日 後住之御礼 ●「日記」

正保元年9月16日 嶺笛寂

正保2年2月21日 29世行蓮社雲誉真悦

正保2年12月3日 真悦寂

正保4年冬 30世業蓮社行誉弁忍崇無

寛文元年10月15日 弁忍崇無寂

寛文2年春 31世円蓮社天誉月鑑

寛文12年 32世満蓮社行誉南冏

寛文12年9月14日 南冏寂

寛文12年12月 33世深蓮社信誉恵秀


(後略)



泉涌寺
京都東山。真言宗
せんにゅうじ


寛永16年2月1日 寺領御判形頂戴之 ●「日記」






宣如光従 慶長7年 生。長丸。東本願寺門跡。法眼。法印。大僧正。東泰院。
せんにょこうじゅう
大僧正教如光寿の三男
宮廷公家系図集覧558
妻は九条関白幸家と天真院との女
群書系図部集5・376 慶長19年10月4日 得度。東本願寺門跡(信門)(七条)


法眼


法印

(寛永16年9月9日) (従東本願寺就縁辺之儀御樽肴献之) ●「日記」

寛永18年6月21日 東本願寺敷地之於東際東西百九十四間二尺南北二百九十七間五尺―


―今度就新加之御寄附御直判之御書出被遣之 ●「日記」


大僧正

承応2年12月 退隠

万治元年7月25日 遷化
専念寺
浄土宗
せんねんじ
知恩院伴僧






仙波喜多院
武蔵国川越。天台宗
せんばきたいん





正保元年6月10日 播州書写山松寿院依召参上武州仙波之住持職被仰付依之一束一巻―


―献之御礼 ●「日記」



仙波長種
生。弥七郎。兵左衛門。太郎兵衛
せんばながたね
太郎兵衛正種の長男
寛政譜9・160
妻は駒井孫四郎勝重の女

寛永13年3月25日 はじめて家光に拝謁

寛永13年3月25日 仙場太郎兵衛子被召出之 ●「日記」

寛永13年3月25日 大久保右京亮組(大番) ●「日記」

寛永13年12月27日 大番 ●「日記」共

万治2年 大番を辞す

寛文元年12月10日 父正種の遺跡を継ぐ。300石

元禄元年12月9日 致仕

元禄3年10月12日 死す
仙波正種 文禄2年 生。善七郎。太郎兵衛
せんばまさたね
七郎左衛門吉種の長男
寛政譜9・160 慶長11年 秀忠に仕える。大番

元和8年 大番組頭。駿府城番

寛永元年 徳川忠長に付属される

(寛永9年) 処士

寛永11年 大番。300石

(寛永13年3月25日) (大久保右京亮組) ●「日記」


大番を辞す。小普請

寛文元年2月21日 死す
善福寺
江戸麻布。浄土真宗
ぜんぷくじ
武蔵国。日蓮宗



千本資勝 天正2年 生。金蔵。帯刀
せんぼんすけかつ
松宅斎道長の養子。福原安芸守資孝の三男
寛政譜12・146 天正18年 養父道長とともに秀吉の小田原攻めに従う

慶長3年 はじめて家康に拝謁


養父道長の家を継ぐか。下野国大谷津530石

慶長5年~ 580石

慶長7年 下野国大谷津880石

寛永7年 死す
千本長勝 慶長10年 生。清兵衛。帯刀。十郎右衛門。夢休
せんぼんながかつ
帯刀資勝の男
寛政譜12・147
妻は福原雅楽頭資保の三女


後妻は福原雅楽頭資保の四女

元和7年12月 はじめて秀忠に拝謁

(寛永7年) 父資勝の遺跡を継ぐか。下野国880石

正保元年9月22日 改易 ●「日記」共

寛文5年7月17日 赦免

寛文5年12月25日 500俵

延宝3年5月16日 致仕。夢休と号す

貞享2年8月5日 死す
千本和隆 慶長17年 生。又七郎。兵左衛門
せんぼんなおたか
山城守義昌の次男
寛政譜12・144
母は茂木筑後守治良の女


妻は渡辺山城守茂の女

元和8年5月23日 はじめて秀忠に拝謁

寛永8年6月28日 小姓組

寛永10年2月7日 200石

寛永15年12月23日 兄大和守義等の旧知の一部を賜る。1050石

寛永16年11月6日 知行拝領之御礼 ●「日記」

寛文6年6月8日 使役

寛文7年12月28日 布衣

延宝5年12月1日 死す
千妙寺
常陸国黒子。東睿山金剛寿院。天台宗
せんみょうじ


正保元年5月17日 東叡山学頭被仰付其上学頭料三百石被寄附之 ●「日記」






千葉寺
下総国。真言宗
せんようじ




善立寺
江戸下谷。日蓮宗
ぜんりゅうじ




禅林寺
京都。西山浄土宗。永観堂
ぜんりんじ




宗安

そうあん
囲碁将棋

寛永12年12月1日 碁打将棋さし依為無足於大津御切米被下之所謂―


―宗庵弐拾石 ●「日記」



宗安寺
遠江国浜松。曹洞宗
そうあんじ







宗雲
乗雲と同一人物か?
そううん
囲碁将棋



宗雲子


寛永13年9月9日 宗運子御目見 ●「日記」



宗悦

そうえつ
紅葉山役人か

寛永9年10月3日 5人扶持。掃除坊主10人 ●「日記」

(正保元年) 死す

正保元年12月25日 跡目被仰付米五十石五人扶持紅葉山宗悦惣領宗也 ●「日記」
相応院 天正4年 生。亀
そうおういん
志水加賀守宗清の四女
柳営婦女伝系6
竹腰定右衛門(助九郎正時とも)に嫁す
(徳川諸家系譜1・166)
竹腰山城守正信を産む
士林泝洄3・321 文禄元年 離婚
幕府祚胤伝 文禄3年 家康に仕える
(徳川諸家系譜2・40) 文禄4年3月13日 仙千代君を産む

慶長5年10月28日 徳川義直を産む

慶長5年12月28日 徳川義直を産む ●「柳営婦女伝系」

(元和2年) 剃髪。相応院と称す。尾張国名護屋に住す

元和6年 江戸に下向

寛永19年9月16日 逝去
相応寺
上野国
そうおうじ




総願寺
武蔵国?
そうがんじ




宗賢

そうけん


正保元年1月10日 銀弐拾枚町医師宗賢今度諸家系図被仰付依令首尾被下之 ●「日記」



宗源院
近江国安土
そうげんいん
浄土宗浄厳院か。臨済宗総見寺か

寛永16年閏11月1日 御礼申上之今度安土へ入院依被仰付也 ●「日記」



崇源院
生。江子。於江与御方。達子
そうげんいん
浅井備前守贈中納言長政の三女
幕府祚胤伝
母は織田備後守信秀の女
(徳川諸家系譜2・59) 天正 美濃国井口城主佐治与九郎一成と縁組

天正12年 秀吉により佐治一成と離縁


秀吉の養女として羽柴少将秀勝に嫁ぐ


天真院を産む

(文禄元年) 羽柴秀勝と死別

文禄4年9月17日 秀忠と婚姻。伏見城へ入輿

慶長2年4月11日 天樹院を産む

慶長4年6月11日 天徳院を産む

慶長5年5月12日 天崇院を産む

慶長6年12月3日 長丸を産む。早世

慶長7年7月9日 興安院を産む

慶長9年7月17日 家光を産む

慶長11年12月3日 徳川忠長を産む

慶長12年10月4日 東福門院を産む

慶長18年 江戸へ下向

寛永3年9月15日 西丸において逝去

寛永3年10月18日 葬送。崇源院殿昌誉和興仁清大禅定尼

寛永3年11月28日 贈従一位
総見寺
近江国安土。臨済宗
そうけんじ
織田信長により建立

寛永17年3月10日 寺領之御朱印頂戴之云々 ●「日記」



増孝 天正17年 生。随心院門跡。大僧正。東南院門跡
ぞうこう
九条関白左大臣兼孝の次男
諸門跡譜
母は高倉大納言永家の息女従三位熈子
(群書系図部集1・149)
随心院門跡
宮廷公家系図集覧253
大僧正

寛永7年12月24日 東寺長者


東大寺別当


東南院門跡

正保元年7月21日 遷化
宗光寺
下野国長沼。天台宗
そうこうじ


正保元年5月17日 日光山学頭被仰付学頭料三百石被寄附之 ●「日記」



惣持院
駿河国府中山脇。天台宗
そうじいん




総持寺
能登国。曹洞宗
そうじじ


寛永19年8月15日 入院之御礼 ●「日記」



増上寺
武蔵国江戸。浄土宗
ぞうじょうじ
(前略)
三縁山志 寛永2年11月26日 14世桑誉了的
(浄土宗全書19・473) 寛永7年9月15日 了的寂

寛永7年10月 15世円誉潮龍

寛永7年12月9日 潮龍寂

(寛永8年10月) 16世深誉伝察

寛永9年1月1日 伝察寂

寛永9年1月17日 17世照誉了学

寛永11年2月13日 了学寂

寛永11年3月 18世定誉随波

寛永12年9月10日 随波寂

寛永12年9月 19世登誉智童

寛永12年9月28日 増上寺住持伝通院智堂被仰付 ●「日記」

寛永16年1月9日 智童寂 ●「日記」共

寛永16年2月 20世南誉雪念

寛永16年2月15日 下総飯沼之弘経寺摂念増上寺後住被仰付之 ●「日記」

寛永16年3月15日 雪念和尚増上寺入院依被仰付今日御目見 ●「日記」

寛永17年9月18日 雪念寂 ●「日記」共

寛永17年12月 21世業誉還無

寛永17年12月2日 鎌倉光明寺還無増上寺住持職被仰付之 ●「日記」

慶安3年6月20日 還無寂

慶安3年 22世暁誉位産

承応元年8月20日 位産寂


(後略)
増善寺
駿河国府中。曹洞宗。慈悲山
ぞうぜんじ




崇徳寺
奈良。浄土宗
そうとくじ
家康より50石の朱印

寛永11年7月30日 50石 ●「日記」

寛永13年2月1日 後住之御礼 ●「日記」



総寧寺
下総国関宿。曹洞宗
そうねいじ




宗把
生。浩翁軒。良正院
そうは
京都知恩院塔頭浩翁軒(のち改名良正院)の住持
華頂誌要

(浄土宗全書19・223)




相馬利胤 天正9年 生。虎王。孫次郎。大膳亮
そうまとしたね
長門守義胤の長男
寛政譜9・5
母は三分一所左衛門大夫義景の女


室は蘆名盛隆の女


継室は土屋民部少輔忠直の異父妹―


―松平周防守家臣岡田竹右衛門元次の女

慶長元年 秀吉に拝謁。従五位下

慶長5年 父義胤とともに家康の勘気を蒙る


本領安堵。陸奥国小高城に住す

慶長16年12月2日 陸奥国中村城に移る

寛永2年9月10日
相馬利胤娘
生。(寺沢兵庫頭堅高継室と同一人物か?)


相馬大膳亮利胤の女

寛永10年7月2日 内藤右馬助政重と縁組 ●「日記」






相馬兵庫

そうまひょうご
松平土佐守山内忠義の家臣



相馬義胤(大膳) 元和5年 生。虎之助。大膳亮
そうまよしたね
大膳亮利胤の男
寛政譜9・6
母は土屋民部少輔忠直の異父妹―


―松平周防守家臣岡田竹右衛門元次の女


室は内藤志摩守忠重の女

寛永2年10月 父利胤の遺領を継ぐ。陸奥国中村城6万石

寛永6年5月28日 はじめて秀忠・家光に拝謁

寛永10年7月2日 縁辺組 ●「日記」

(寛永12年6月30日) (虎之助と大膳之亮を並記) ●「日記」

寛永12年7月7日 帷子十進上之祝言被仰付御礼 ●「日記」

寛永13年12月29日 従五位下・大膳亮

寛永13年12月29日 相馬大膳正諸大夫ニ被仰付之 ●「日記」

(寛永18年5月12日) (火消之役人) ●「日記」

正保元年5月4日 火消之役人之内就交替御暇被下面々依有之今日改被仰付之一番 ●「日記」

正保元年7月1日 火之番二番 ●「日記」

慶安4年3月5日
相馬義胤(長門) 天文17年 生。孫次郎。長門守
そうまよしたね
弾正大弼盛胤の長男
寛政譜9・5
母は掛田兵庫頭義宗の女


室は伊達左京大夫稙宗の女


継室は三分一所左衛門大夫義景の女


陸奥国小高城に住す


陸奥国牛越城に住す

天正18年 秀吉に拝謁

慶長5年 改易

慶長5年 嫡子利胤とともに召し返される


陸奥国小高城6万石

慶長16年12月2日 陸奥国中村城6万石

元和元年~ 致仕

寛永3年6月 嫡孫虎之助義胤が幼少のため再び仕える

寛永3年10月3日 従五位下・長門守

寛永12年11月16日
宗也

そうや
宗悦の男

正保元年12月25日 跡目被仰付米五十石五人扶持紅葉山宗悦惣領宗也 ●「日記」



宗義真 寛永16年 生。彦満。播磨守。対馬守。侍従。刑部大輔
そうよしざね
対馬守義成の男
寛政譜8・262
母は日野大納言資勝の女


室は京極刑部少輔高和の女

寛永20年8月3日 はじめて家光・家綱に拝謁

寛永20年8月4日 宗対馬守右登城是昨日嫡男彦満両上様え初て御目見依之御礼也 ●「日記」

正保3年5月28日 改めて拝謁の礼をおこなう

明暦元年6月21日 従四位下・播磨守

明暦3年12月27日 父義成の遺領を継ぐ。対馬国。侍従。対馬守

延宝元年 朝鮮国釜山の邸を草梁に移す

元禄5年6月27日 致仕

元禄5年7月19日 刑部大輔

元禄7年11月25日 四男義方を後見

元禄15年8月7日
宗義成 慶長9年 生。彦七。彦三。対馬守。侍従
そうよしなり
対馬守義智の男
寛政譜8・256
母は阿比留氏


室は日野大納言資勝の女

元和元年 はじめて家康・秀忠に拝謁。父義智の遺領を継ぐ。対馬国。対馬守

元和2年 侍従

元和3年3月17日 従五位下

元和3年3月22日 従四位下

明暦3年10月26日
宗義成次女
寛政譜8・263
宗対馬守義成の次女
寛政譜4・396 寛永17年11月19日 宗対馬守娘松平左門ニ縁辺被仰付之 ●「日記」


松平備前守大河内正信に嫁ぐ


女子を産む。のちの土屋伊予守直樹の妻。のち日野又市郎資政の妻

万治2年~ 松平備前守大河内正久の嫡母となる


以下不詳
宗龍

そうりゅう
囲碁将棋



双林寺
上野国渋川白井。曹洞宗
そうりんじ




曾永山

そえいざん




曾我包助 慶長16年 生。猪之助。太郎右衛門。伊賀守。伊予守。伊斎
そがかねすけ
又左衛門尚祐の三男
寛政譜9・153
母は酒井左衛門尉忠次の養女山岡対馬守景佐の女


妻は彦坂平六郎重定の女

元和5年 はじめて秀忠に拝謁

寛永元年 家光に仕える。小姓組

寛永3年 兄古祐の采地を賜る。200石


書院番

寛永10年2月7日 400石

寛永16年7月12日 徒頭

寛永16年7月12日 石谷友之助本組御歩行頭 ●「日記」

寛永18年1月6日 布衣 ●「日記」共

慶安元年6月13日 新番頭

慶安4年11月21日 400石400俵

万治3年5月1日 綱吉に付属される。家老。3000石

万治3年12月28日 従五位下・伊賀守

寛文元年閏8月11日 5000石

寛文4年~ 家老を辞す


致仕

延宝4年10月29日 死す
曾我助政
生。友之助
そがすけまさ
伊予守包助の長男
寛政譜9・154 寛永17年3月9日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

某年 16歳にて死す
曾我近祐 慶長10年 生。権左衛門。又左衛門
そがちかすけ
丹波守古祐の男
寛政譜9・150
母は小笠原縫殿助長房の女


妻は柳生飛騨守宗冬の女


後妻は山岡五郎作景長の女

寛永3年 西丸小姓組。200俵

寛永4年11月6日 400石

寛永8年3月4日 520石の朱印

寛永10年 書院番

寛永10年2月7日 720石

明暦元年12月26日 先弓頭

明暦元年12月29日 布衣

明暦2年12月26日 1020石

万治元年3月19日 父古祐に代わり大坂町奉行。2020石

万治元年6月27日 父古祐の遺跡を継ぐ。3000石

寛文元年9月13日 死す
曾我古祐 天正14年 生。忠三郎。喜太郎。又左衛門。丹波守
そがひさすけ
又左衛門尚祐の長男
寛政譜9・150
母は滝川下総守雄利の女


妻は小笠原縫殿助長房の女


後妻は彦坂九兵衛光正の女

慶長6年 秀忠に仕える。


書院番。200石

元和元年 閉門


ゆるされる

寛永3年 父尚祐の遺跡を継ぐ。1000石

寛永8年2月12日 使番 ●「日記」共

寛永9年4月8日 目付

寛永9年9月2日 五の字の指物 ●「日記」

寛永9年11月27日 布衣 ●「日記」共

寛永10年2月14日 長崎之奉行 ●「日記」

寛永10年12月26日 2000石

寛永10年12月26日 御加恩御知行千石 ●「日記」

寛永11年7月29日 大坂町奉行 ●「日記」共

寛永11年閏7月1日 与力25騎同心50人を預かる。3000石 ●「日記」共

寛永15年12月16日 従五位下・丹波守

寛永15年12月16日 諸大夫 ●「日記」

(寛永15年12月19日) (丹波守の初出) ●「日記」

万治元年3月19日 大坂町奉行を辞す

万治元年4月21日 死す
十川能寂
そごう?
そがわのうじゃく
北野天満宮社家






祖慶

そけい
増上寺伴僧






曾雌定清 永禄3年 生。新蔵。又左衛門
そしさだきよ
帯刀定重の次男
寛政譜4・221
武田信玄・勝頼に仕える

天正10年 家康に仕える。旧知を賜る

天正13年9月 上田城攻めにて大久保忠世に属す。妻子を人質として駿河国興国寺に献ず

天正19年 九戸一揆にて大久保忠世に属す

慶長5年 上田城攻めにて秀忠に従う

慶長9年3月2日 110石の加増

寛永元年 徳川忠長に付属される

(寛永9年) 処士


月俸10口

寛永17年 家光に仕える。天守番

寛永18年11月15日 150石

寛永18年11月15日 芦田武川衆十八人駿州ニて之本知并御切米如前々被下之 ●「日記」

寛永19年6月1日 死す
曾雌定昌
生。平大夫。的外
そしさだまさ
平大夫定俊の男
寛政譜4・220 (寛永17年) 父定俊の遺跡を継ぐ

寛永18年11月15日 100石50俵。宝蔵番

寛永18年11月15日 芦田武川衆十八人駿州ニて之本知并御切米如前々被下之 ●「日記」


三丸番

寛永20年8月30日 若公様え被為附之三丸御殿御番被仰付之 ●「日記」

(貞享元年) 致仕。的外と号す


以下不詳
曾谷慶伝 慶長3年 生。伯安。(慶祐)。法橋。法眼。(法印)。はじめ熊谷を称す
そだにけいでん
熊谷伯安宗祐の次男
寛政譜13・1
母は清水常清の女


妻は曾谷宗怡の女


後妻は岩崎豊後守の女

寛永元年12月17日 法橋

寛永8年2月15日 はじめて秀忠・家光に拝謁

寛永8年9月28日 父宗祐の遺跡を継ぐ。寄合医。西丸に勤仕。200石。月俸30口

(寛永10年3月29日) (外科伯安) ●「日記」

寛永15年12月26日 伯庵法眼被仰付 ●「日記」

寛永15年12月27日 法眼

(寛永18年12月21日) (慶祐) ●「日記」 もしくは半井慶友のことか

(寛永19年4月4日) (慶祐法印) ●「日記」

(寛永19年4月4日) (右之小児医師并外科之輩妻子等引越ニ付て御暇被下之) ●「日記」

承応元年2月13日 死す
曾谷慶伝妻


(寛永19年4月4日) ((慶祐法印)右之小児医師并外科之輩―


―妻子等引越ニ付て御暇被下之) ●「日記」



曾谷杏祐 寛永5年 生。伯元。伯安。法橋
そだにたねすけ
伯安慶伝の長男
寛政譜13・2
母は岩崎豊後守の女


妻は岡本玄冶諸品の女

寛永17年10月15日 はじめて家光に拝謁

寛永17年10月15日 伯安子一束一巻初て御目見 ●「日記」

(寛永19年4月4日) ((慶祐法印)右之小児医師并外科之輩―


―妻子等引越ニ付て御暇被下之) ●「日記」

承応元年12月27日 父慶伝の遺跡を継ぐ。寄合医。200石。月俸30口

万治2年2月3日 番医

元禄2年6月23日 死す
曽根勘太郎

そねかんたろう
勘六郎の養子

寛永19年12月10日 曽根勘六郎跡養子勘太郎 ●「日記」



曽根勘六郎

そねかんろくろう



御代官方 ●「日記」寛永19年12月10日条

(寛永19年) 死す
曽根孫大夫

そねまごだゆう


(寛永17年6月5日) (紀伊大納言殿使者) ●「日記」



曾根吉重 慶長6年 生。靫負。内記。伝七郎。与五左衛門。はじめ興津を称す
そねよししげ
興津角左衛門良次の長男
寛政譜21・288
妻は曾根源左衛門家次の女


親族曾根源左衛門吉次の請により家光に仕える。代官

寛永19年12月10日 200俵 ●「日記」共

慶安2年7月5日 死す
曾根吉次 天正19年 生。源蔵。孫兵衛。源左衛門。覚斎
そねよしつぐ
源左衛門家次の次男
寛政譜3・271
妻は奥津甚左衛門良信の女


後妻は大久保源右衛門忠享の女

~慶長19年 秀忠に仕える

元和元年 食禄を賜る

元和9年 越前国北庄に赴き勝姫と仙千代に副って江戸に帰る

元和9年10月18日 出羽国由利の知行分配を沙汰

寛永7年 関東の勘定奉行

寛永10年6月27日 200石加増(600石?) ●「日記」共

寛永13年 勘定惣奉行

寛永14年 評定に列し民間の訴訟をあずかりきく

寛永16年12月26日 諸役人御道具其外御賄方入用等直段近年高直之故下々至迠―


―猥之様被為聞召向後用倹約万事牧野内匠頭伊丹播磨入道順斎―


―杉浦内蔵允曽根源左衛門此四人得差図可申付 ●「日記」

寛永18年12月29日 3000石 ●「日記」共

寛永19年5月22日 御城米浅草御蔵当座之奉行差図当夏借ヨリ可進退 ●「日記」

寛永19年8月16日 租税・財穀出納の事を裁判

寛永19年8月16日 曽根源左衛門事和泉守順斎内蔵允相加御代官方其外諸色御勘定之儀―


―右四人致吟味可仕之旨被仰出之 ●「日記」

寛永20年12月29日 布衣 ●「日記」共

慶安4年 家光の霊柩に従い日光山に赴く

寛文元年11月19日 勘定惣奉行を辞す

寛文2年11月9日 致仕。300俵。覚斎と号す

寛文4年12月15日 死す
曾根吉正 元和9年 生。孫助。五郎兵衛。祐斎
そねよしまさ
源左衛門吉次の次男
寛政譜3・273
母は奥津甚左衛門良信の女


妻は小出杢之助吉成の女


後妻は曾我又左衛門近祐の女

寛永16年2月5日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永17年3月19日 小姓組 ●「日記」共

(寛永19年12月10日) (五郎兵衛の初出) ●「日記」

寛永19年12月10日 300俵 ●「日記」共

寛文2年11月9日 父吉次の遺跡分知。500石

寛文10年2月28日 佐渡奉行。800石

寛文10年12月28日 布衣

延宝8年2月23日 佐渡奉行を辞す。小普請

元禄8年12月6日 致仕。300俵。祐斎と号す

元禄10年4月3日 死す
曽根与三左衛門
与五左衛門吉重か?
そねよそうざえもん
代官か

(寛永17年6月11日) (日光又ハ道中御賄仕候公家衆御馳走申) ●「日記」



園池宗朝 慶長16年6月29日 生。治部大輔。治部卿。参議。中納言
そのいけむねとも
四条中将隆致の次男
諸家伝下・1088 元和2年8月26日 従五位下
宮廷公家系図集覧441 寛永元年12月10日 元服。昇殿。治部大輔。従五位上

寛永5年2月10日 正五位下

寛永10年1月6日 従四位下

(寛永11年7月21日) (院中) ●「日記」

寛永14年1月5日 従四位上

寛永18年1月5日 正四位下

正保3年12月18日 従三位

正保4年6月21日 治部卿

慶安4年12月7日 正三位

承応3年12月24日 参議

明暦元年1月11日 参議を辞す

明暦2年12月1日 権中納言

明暦2年12月14日 従二位。帯剣

明暦3年1月23日 直衣

明暦3年8月9日 権中納言を辞す

寛文元年12月6日 薨去
園嶋杢之助

そのじまもくのすけ (寛永11年7月21日) (非蔵人) ●「日記」






園田善大夫
生。伝吉。善大夫
そのだぜんだゆう
駿府にて召し出される。徳川義直に仕える
士林泝洄4・586 元和元年~ 徒頭。鉄炮頭。同心30人


黒門足軽頭


病により免職。寄合。同心30人

慶安元年 死す
薗広親 元和6年 生。(杢之助)。左京少進。甲斐守。播磨守
そのひろちか
若狭守広頼の次男
地下家伝上・642 寛永19年 関東楽人
宮廷公家系図集覧644 寛永19年8月27日 御切米五十石十人扶持薗杢之助従当年被下之 ●「日記」

寛永20年9月13日 従京都妻子引越付て小判三十両被下之 ●「日記」

慶安元年1月5日 正六位下。左京少進

慶安4年1月5日 従五位下

慶安4年3月17日 甲斐守

明暦2年12月26日 従五位上

寛文2年2月21日 正五位下

寛文2年9月13日 播磨守

寛文11年12月21日 従四位下

延宝4年6月10日
薗広頼 天正12年 生。若狭守
そのひろより
若狭守広遠の男
地下家伝上・646
天王寺方楽人
宮廷公家系図集覧644 (寛永17年5月9日) (若狭) ●「日記」

正保4年12月7日 従四位下


若狭守

慶安4年1月5日 従四位上

明暦2年12月26日 正四位下

寛文4年8月10日 正四位上

寛文12年9月1日
薗部正友
生。五郎左衛門
そのべまさとも
徒目付
寛政譜21・273
貝役

寛永18年6月25日 御歩行目付園部五郎左衛門貝吹役被仰付之 ●「日記」

(万治元年) 死す
園基福 元和8年2月16日 生。侍従。少将。中将。蔵人頭。参議。中納言。大納言。准大臣
そのもととみ
大納言基音の長男
諸家伝下・706
母は谷出羽守衛友の長女
宮廷公家系図集覧706
室は中御門大納言尚良の女

寛永3年1月5日 従五位下

寛永8年3月24日 元服。昇殿。侍従

寛永9年1月5日 従五位上

寛永13年1月5日 正五位下

寛永15年12月23日 左少将

寛永18年1月5日 従四位下

正保元年1月11日 左中将

正保2年1月6日 従四位上

正保4年10月21日 正四位下

正保4年12月19日 蔵人頭

慶安元年1月5日 正四位上

慶安2年7月13日 参議

承応元年10月12日 従三位

明暦元年1月28日 権中納言

明暦2年1月5日 正三位

万治3年1月5日 従二位

万治3年12月24日 権大納言

寛文7年12月17日 正二位

寛文9年12月24日 権大納言を辞す

貞享3年5月16日 従一位。准大臣

元禄12年11月10日 薨去
園基音 慶長9年閏8月23日 生。侍従。少将。蔵人頭。中将。参議。中納言。大納言。贈左大臣
そのもとなり
参議基任の長男
諸家伝下・705
室は谷出羽守衛友の長女
宮廷公家系図集覧349 慶長13年1月7日 従五位下

慶長17年12月13日 元服。昇殿。侍従

慶長18年1月6日 従五位上

元和元年1月6日 正五位下

元和4年3月2日 左少将

元和5年12月25日 従四位下

元和9年1月5日 従四位上

寛永3年8月13日 蔵人頭。正四位下。右中将

寛永3年12月19日 正四位上

寛永8年1月12日 参議

寛永9年1月5日 従三位

寛永13年1月5日 正三位

寛永15年12月23日 権中納言

寛永17年12月15日 権中納言を辞す

寛永18年1月5日 従二位

慶安元年7月6日 権大納言

慶安3年1月5日 正二位

慶安3年12月22日 権大納言を辞す

明暦元年2月17日 薨去

寛文7年7月5日 贈左大臣
尊永寺
遠江国。真言宗。法多山
そんえいじ




尊円法親王 永仁6年 生。二品。青蓮院門跡。天台座主。大乗院
そんえんほっしんのう
伏見天皇の第六皇子
本朝皇胤紹運録

(群書系図部集1・89)


延文元年9月23日 入滅
尊覚法親王 慶長13年 生。十宮。親王。一乗院門跡
そんかくほっしんのう
後陽成天皇の第十皇子
本朝皇胤紹運録
母は近衛関白前久の息女中和門院
(群書系図部集1・101) 慶長15年1月19日 親王

元和4年12月16日 入寺。得度。興福寺一乗院


興福寺・清水寺別当

元和8年10月26日 興福寺別当

承応2年1月20日 興福寺別当再任

寛文元年7月26日 薨去
尊純法親王 天正19年 誕生。青蓮院門跡。天台座主
そんじゅんほっしんのう
尊朝法親王の嗣。伏見宮邦輔親王の養子
詰所系図
梶井門跡応胤法親王還俗号蜻菴の第一王子
(系図綜覧上・71) (慶長2年か) 青蓮院門跡
古代豪族系図集覧51 寛永16年閏11月26日 今度日光山東照大権現御縁起依令成就為御祝青蓮院へ―


―新加五百石被遣之 ●「日記」


天台座主

(正保元年12月1日) (被補天台座主職) ●「日記」

承応2年5月26日 薨去
尊性法親王 慶長7年10月8日 生。大覚寺門跡。二品
そんしょうほっしんのう
後陽成天皇の第五皇子
本朝皇胤紹運録
母は日野大納言輝資の息女大典侍従三位輝子
(群書系図部集1・100) 慶長10年8月22日 親王

慶長12年3月22日 入室。大覚寺

慶長19年12月22日 得度

元和7年2月27日 二品

寛永12年4月9日 東寺長者

慶安4年3月22日 薨去

Sheet 4: た行

大雲院
遠江国掛川。曹洞宗
だいうんいん




大円寺
江戸目黒
だいえんじ


寛永18年6月20日 板倉周防守大円寺屋敷被下之 ●「日記」



大音寺
長崎。浄土宗
だいおんじ




大恩寺
三河国。浄土宗
だいおんじ







大学院
大覚院か
だいがくいん




大覚院
江戸神田
だいがくいん
大学院と同じか?

(正保元年11月15日) (関東山伏先達山本坊大覚院峰入仕) ●「日記」



大学寺庄五郎

だいがくじしょうごろう
二丸御広間坊主頭休意の男

正保元年7月25日 今度二丸御広間坊主頭休意依重科之斬罪故彼実施大学寺庄五郎―


―同其子弐人於甲州在所斬戮之 ●「日記」



大学寺庄五郎子





正保元年7月25日 今度二丸御広間坊主頭休意依重科之斬罪故彼実施大学寺庄五郎―


―同其子弐人於甲州在所斬戮之 ●「日記」



大巌寺
下総国生実。浄土宗
だいがんじ
(前略)
生実大巌寺志 天正15年 3世雄誉霊巌
(浄土宗全書20・85) 天正18年 無住


3世雄誉霊巌再住


4世源誉随流


5世円誉潮龍


6世典誉文超

寛永9年8月4日 文超寂

寛永9年 4世源誉随流再住

寛永13年10月20日 随流寂

寛永14年 7世厳誉天了

正保2年2月7日 天了寂


8世頓誉智哲


(後略)
大経師以春
京都。暦発行の大経師職か。浜岡権之助か
だいきょうじいしゅん




大経師道以

だいきょうじどうい
以春の父か



大経師道巴

だいきょうじどうは




大教坊

だいきょうぼう
天台僧か

(寛永17年4月19日) (日光山法会に着座) ●「日記」



大見寺
遠江国見付。浄土宗
だいけんじ




大光院
上野国。新田寺。浄土宗
だいこういん 慶長16年12月 家康により開基。1世然誉呑龍
新田大光院志
2世円誉潮龍
(浄土宗全書20・13)
3世登誉智童


4世往誉無絃


5世伝誉台山

寛永19年10月26日 継目参内付て御暇 ●「日記」

寛永20年1月18日 紫衣成之参内相済下着御礼 ●「日記」


6世遵誉貴屋


7世本誉露白


(後略)
大公寺
甲斐国。臨済宗のち曹洞宗
だいこうじ


(寛永19年7月6日) (長禅寺兼帯) ●「日記」

寛永19年7月6日 御朱印被下之 ●「日記」



大黒作兵衛
銀座役人初代常是か?
だいこくさくびょうえ




大黒長右衛門

だいこくちょうえもん


(寛永15年12月28日) (常是座) ●「日記」



大黒長左衛門
銀座役人2代常是か?
だいこくちょうざえもん


(寛永15年12月28日) (常是座) ●「日記」



醍醐寺
京都伏見。真言宗
だいごじ




醍醐寺上醍醐
醍醐寺山上
―かみだいご




醍醐寺報恩院
醍醐寺の院家
―ほうおんいん




醍醐寺無量寿院
京都伏見醍醐寺
―むりょうじゅいん




醍醐寺理性院

―りしょういん
醍醐寺の院家



台山

たいさん
大残と同一人物か



大残

だいざん
台山と同一人物か



太山寺
播磨国。天台宗
たいさんじ







大寿院
たいじゅいん
多賀谷修理大夫重経の女
寛政譜3・74
佐竹右京大夫義宣に嫁ぐ
羽陰史略 寛永15年12月18日
(秋田叢書1・66) 寛永15年12月19日 佐竹修理大夫母儀死去付池田帯刀為上使被遣之 ●「日記」



大樹寺
三河国岡崎。浄土宗
だいじゅじ


寛永13年10月17日 就御代替三河大樹寺領不可有相違之御判―


―当住持頂戴之席御白書院 ●「日記」

寛永13年11月6日 新大樹寺御目見是寺領之御判頂戴仕付て也 ●「日記」



大勝院
京都。真言宗。大覚寺塔頭
だいしょういん




大正寺
駿河国府中。曹洞宗
だいしょうじ




大進房
大進坊
だいしんぼう
照高院門跡道周法親王の家臣



大誓院 天正11年 生。諷子
だいせいいん
松平丹波守戸田康長の長女
大垣市史上・270
母は家康の養妹久松佐渡守俊勝の女松姫智勝院
寛政譜14・320 慶長元年12月30日 戸田左門氏鉄に嫁ぐ


女子を産む。のちの板倉周防守重宗の室

慶長4年 戸田采女正氏信を産む


女子を産む。のちの本多出羽守正勝の室

慶長8年 戸田淡路守氏経を産む


女子を産む。のちの松平山城守忠国の室


戸田三右衛門頼鉄を産む


戸田相模守氏照を産む


戸田権大夫利鉄を産む

承応3年12月23日
大山寺
伯耆国。天台宗
だいせんじ




大泉寺(沼津)
駿河国沼津興国寺。曹洞宗
だいせんじ




大泉寺(富士)
駿河国富士。日蓮宗
だいせんじ




大善寺
武蔵国八王子。浄土宗
だいぜんじ
(前略)
滝山大善寺志
4世存誉存冏
(浄土宗全書20・147) 寛永3年7月13日 存冏寂


5世天誉鎮翁


6世船誉旧呑

寛永11年7月30日 旧呑寂


7世随誉帳序

寛永14年3月19日 帳序寂


8世正誉順察

寛永17年9月25日 順察寂


9世満誉蓮意


10世重誉湛益


(後略)
大膳亮三悦

だいぜんのすけさんえつ


寛永18年11月1日 医師大膳亮以進物初て御礼申上之 ●「日記」

寛永18年12月29日 法印 ●「日記」

寛永20年10月8日 医師大膳大夫大姫君様御懐妊ニ付て為御養生被為付之 ●「日記」






大中寺
下野国富田。曹洞宗
だいちゅうじ




大道寺次郎

だいどうじじろう


(寛永18年3月27日) (津軽土佐守家中証人) ●「日記」



大道寺直数
生。権平。権内。権之助。権内。権左衛門
だいどうじなおかず
内蔵助直次の養子。尾張家臣舎人源太左衛門恒忠の男
寛政譜14・281
妻は竹中越中守重常の女

寛永13年12月15日 はじめて家光に拝謁

寛永13年12月15日 内蔵介子大道寺権平初て御目見 ●「日記」

(寛永17年3月19日) (権内の初出) ●「日記」

寛永17年3月19日 書院番 ●「日記」共

(寛永19年12月10日) (権之助の初出) ●「日記」

寛永19年12月10日 三百俵 ●「日記」

慶安4年12月11日 養父直次の遺跡を継ぐ。1000石

万治3年7月18日 死す
大道寺直次 元亀2年 生。長右衛門。内蔵助
だいどうじなおつぐ
駿河守政重の男
寛政譜14・280
母は北条家臣遠山丹波守直景の女


妻は北条家臣高城下野胤時の女


父政重とともに北条氏直に仕える


北条氏直より偏諱を受ける

天正18年7月12日 小田原没落のとき家康に拝謁


処士。遠山長右衛門と称す

慶長5年 岐阜城攻めにて福嶋正則に属す

(元和5年) 福嶋正則改易のあと江戸に至り本誓寺に閑居

寛永11年5月20日 はじめて家光に拝謁。1000石。大道寺に復す

寛永11年5月20日 以太刀目録御目見是今度御家人ニ被召出―


―太田備中守類親也と云々 ●「日記」

寛永12年12月26日 先弓頭

寛永12年12月26日 御弓被為預所謂渡辺図書助元与力歩行同心被仰付之 ●「日記」

寛永13年12月29日 布衣 ●「日記」共

慶安4年10月11日 死す
大道寺直時 慶長11年 生。八介。玄蕃。主水
だいどうじなおとき
玄蕃直重の長男
士林泝洄3・255
母は加々爪備前守政豊の女


妻は市辺出羽正勝の女

寛永5年 父直重の遺跡を継ぐ。徳川義直に仕える。2000石。大番頭

(寛永10年3月26日) (玄蕃亮) ●「日記」

慶安2年 同心頭。騎士10騎を預かる

慶安3年 徳川光友に仕える

万治元年 家老

万治元年8月 4000石。加増を辞退し2000石

寛文元年 騎士20騎

寛文2年 病により致仕。主水

寛文3年3月11日 死す
大徳寺
京都。臨済宗
だいとくじ




大弐

だいに
東福門院付女房

(寛永17年5月26日) (国母御方) ●「日記」



大念寺
常陸国江戸崎。浄土宗
だいねんじ
(前略)
江戸崎大念寺志
3世深誉残鉄
(浄土宗全書20・297) 元和7年7月24日 残鉄寂


4世真誉良徹

寛永16年6月30日 良徹寂


5世勝誉旧応

寛永17年2月18日 増上寺御目見是江戸崎之大念寺増上寺二老旧応後住被仰付依也 ●「日記」


6世呈誉吟応

慶安3年6月9日 吟応寂


7世三誉輪超


(後略)
大夫

たいふ
東福門院付女房

(寛永17年5月26日) (国母御方) ●「日記」



大仏師康音 永禄5年 生。七条大仏師。法橋。少弐。(左京)
だいぶっしこうおん
大夫法眼康猶の長男
宮廷公家系図集覧600 (寛永9年8月28日) (大仏師左京法橋) ●「日記」

正保2年3月2日 死す
大平寺
三河国
だいへいじ




大明寺
相模国三浦。日蓮宗
だいみょうじ


寛永18年7月26日 寺領御朱印被下之 ●「日記」



大養寺
江戸。浄土宗。観崇院
だいようじ




大楽院
日光東照宮別所
たいらくいん (寛永19年4月17日) (院家) ●「日記」


行恵


2世恵海

正保元年5月17日 大楽院弟子中将大僧正へ日来奉公仕ヨリテ大楽院後住被仰付之 ●「日記」



大凉院
生。ねね姫。栄姫
だいりょういん
家康の養女。保科弾正忠正直の長女
寛政譜7・208
母は久松佐渡守俊勝と伝通院との女多劫君長元院
幕府祚胤伝 慶長5年6月6日 家康の養女として黒田筑前守長政に嫁ぐ。1000石
(徳川諸家系譜2・49) 慶長7年 松平筑前守黒田忠之を産む


女子を産む。のちの松平式部大輔榊原忠次の室

慶長15年 黒田甲斐守長興を産む

慶長17年 黒田市正高政を産む


女子を産む。のちの松平右近大夫池田輝興の室

寛永12年1月12日 逝去。徳誉栄春大凉院と号す
高井貞清 天正17年 生。助九郎。市右衛門
たかいさだきよ
助兵衛貞重の長男
寛政譜18・225
母は酒井雅楽頭家臣内藤半左衛門正勝の女


妻は渡辺図書の女


後妻は宇佐美助右衛門長元の女

慶長9年 秀忠に拝謁。小姓組


大番


伏見城番

元和2年8月20日 父貞重が紀伊家に付属されその旧知を賜る。200石

寛永2年1月11日 徳川忠長に付属される。300石

(寛永9年) 処士

寛永12年 大番。300石

(寛永13年3月25日) (皆川山城守組) ●「日記」

承応3年8月27日 切手門番頭

万治3年10月14日 死す
高井貞次 慶長14年 生。助次郎
たかいさだつぐ
市右衛門貞清の長男
寛政譜18・227
母は渡辺図書の女


妻は内藤半十郎相次の女

寛永13年3月25日 はじめて家光に拝謁

寛永13年3月25日 高井市右衛門子被召出之 ●「日記」

寛永13年3月25日 皆川山城守組(大番) ●「日記」

寛永13年12月27日 大番 ●「日記」共

寛永15年12月4日 200俵

寛永19年閏9月4日 死す
高井実為 寛永17年 生。仁左衛門。三郎兵衛
たかいさねため
助次郎貞次の男
寛政譜18・228
母は内藤半十郎相次の女


妻は松平近江守家臣鶴見半左衛門俊昌の女

寛永19年12月2日 父貞次の遺跡を継ぐ。200俵。小普請

寛永19年12月2日 高井助二郎跡目被仰付之 ●「日記」

正保3年6月25日 はじめて家光に拝謁

明暦3年 大番

寛文8年5月7日 納戸番

延宝元年12月21日 新番

延宝2年12月18日 250俵

元禄9年11月11日 新番を辞す

宝永5年8月30日 死す
高井友清 慶長14年 生。作左衛門
たかいともきよ
五兵衛清正の養子。小早川中納言秀秋家臣并川勘作の男
寛政譜9・324
妻は五兵衛清正の女

寛永元年 はじめて秀忠に拝謁

寛永元年 養父清正の遺跡を継ぐ。720石

寛永2年 書院番

明暦3年10月23日 小十人頭

万治元年4月17日 蟄居。すぐ宥免あり

万治元年閏12月25日 720石300俵

万治元年閏12月28日 布衣

寛文8年1月29日 小十人頭を辞す。小普請

延宝3年8月18日 死す
多賀越中

たがえっちゅう
京極若狭守忠高の家老



高尾文薫 元和9年 生。三郎左衛門。兵大夫。宗兵衛。入哉
たかおあきはる
惣兵衛嘉文の次男
寛政譜3・180
母は米倉助右衛門永時の女


妻は松崎惣左衛門是純の女

寛永20年3月3日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永20年6月22日 大番

万治元年7月19日 新番

寛文4年12月10日 父嘉文の遺跡を継ぐ。300石

延宝8年12月25日 致仕。入哉と号す

元禄5年12月27日 死す
高雄上人
京都高雄山神護寺の僧か?
たかおしょうにん
大覚寺門跡尊性法親王の家臣






高尾忠正 文禄元年 生。勘右衛門
たかおただまさ
惣十郎昌俊の次男
寛政譜3・180
家光に仕える

寛永10年 死す
高尾信正
生。左太郎。勘右衛門
たかおのぶまさ
勘右衛門忠正の男
寛政譜3・180 寛永15年1月15日 大番 ●「日記」共

寛永15年12月9日 父忠正の遺跡を継ぐ。200石

寛永15年12月9日 高尾勘右衛門跡弐百石惣領左太郎ニ被下之 ●「日記」

慶安元年6月12日 死す
高尾嘉文 天正12年 生。惣十郎。惣兵衛
たかおよしぶみ
惣十郎昌俊の長男
寛政譜3・180
妻は大久保甚左衛門忠直の女


後妻は米倉助右衛門永時の女

文禄2年11月 はじめて家康に拝謁

慶長2年 秀忠に仕える。小姓

慶長7年9月 勘気を蒙る

慶長19年 大坂の役にて松平周防守松井康重に属す

元和元年1月 召し返される

元和元年 300石

寛永元年 徳川忠長に付属される

(寛永9年) 処士

寛永11年 大番。300石

(寛永13年3月25日) (皆川山城守組) ●「日記」


広敷番頭

慶安3年8月23日 家綱に付属される


切手門番頭

寛文元年3月5日 切手門番頭を辞す

寛文4年10月18日 死す
高尾良幸
生。吉兵衛。七兵衛
たかおよしゆき
惣兵衛嘉文の長男
寛政譜3・180
母は米倉助右衛門永時の女

寛永13年3月25日 はじめて家光に拝謁

寛永13年3月25日 高尾惣兵衛子被召出之 ●「日記」

寛永13年3月25日 皆川山城守組(大番) ●「日記」

寛永13年12月27日 大番 ●「日記」共

寛永19年6月17日 同僚鈴木三郎右衛門信照を討ち逐電

寛永19年6月17日 麹町於御門舛形之内高尾吉兵衛誅鈴木三郎右衛門則逐電―


―相共皆川山城守組之大御番之輩也是去年二条在番中―


―意趣依有之也云々 ●「日記」


以下不詳
高木玄済
生。牛助。玄済。法橋。法眼
たかぎげんさい
吉右衛門光正の男
寛政譜5・418
母は本間修理亮の女


妻は安藤太郎兵衛の女


今大路延寿院玄朔に医術を学ぶ

寛永11年 二条城にてはじめて家光に拝謁

寛永14年 法眼

寛永16年 家光に仕える

寛永16年12月1日 医師玄斎一束一巻を以御目見 ●「日記」

寛永17年7月27日 番医 ●「日記」共

寛永17年11月28日 300俵。月俸20口

寛永17年11月28日 御切米并屋敷被下之 ●「日記」

寛文2年5月22日 死す
高木権九郎
生。権九郎
たかぎごんくろう
安兵衛可成の男
寛政譜5・419 正保元年2月20日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共


以下不詳
高木貞勝 慶長3年 生。新十郎。新兵衛。権右衛門
たかぎさだかつ
平兵衛貞盛の長男
寛政譜5・416
母は松平外記伊昌の女


妻は小笠原左衛門佐信之の女

慶長19年 大坂の役に父貞盛とともに従う

元和元年 大坂の役に父貞盛とともに従う

(寛永17年) 父貞盛の遺跡を継ぐ。美濃国多羅郷2300石

寛文8年8月18日 一族3人と隔年参府の命あり

寛文11年5月29日 致仕

寛文11年9月17日 死す
高木貞重 元和5年 生。四郎左衛門
たかぎさだしげ
二郎兵衛貞元の男
寛政譜5・414
母は津田長門守信成の女


妻は野中氏

寛文5年12月11日 父貞元の遺跡を継ぐ。美濃国多羅郷1000石

寛文8年8月18日 以後一族三人と隔年に参府

延宝元年6月15日 死す
高木貞俊 永禄6年 生。彦太郎。次郎兵衛。四郎左衛門。好春
たかぎさだとし
祖父彦左衛門貞久の養子。高木彦七郎貞家の男
寛政譜5・413
妻は縄生意息の妹

~天正6年 織田信長に仕える

天正12年 織田信雄に属す。一族4人で1万貫文

天正13年 美濃国安田城

天正14年 美濃国安田城917貫700文

天正18年 織田信雄配流により一族4人とともに甲斐国の加藤光泰のもとに寓居

慶長2年 家康に仕える。60石

慶長3年 560石

慶長5年 秀忠に従い青山常陸介忠成に属す

慶長5年 美濃国にて先鋒の案内をつとめる

慶長6年 美濃国多羅郷1000石

寛永12年 致仕。好春と号す

正保2年5月16日 死す
高木貞友 永禄7年 生。彦之助。藤兵衛
たかぎさだとも
彦左衛門貞久の五男
寛政譜5・410
母は祖父彦六郎貞次の女

~天正3年 織田信長に仕える

天正10年 織田信孝に仕える

天正11年 主君信孝死去ののち父貞久とともに美濃国駒野に閑居

天正11年 父貞久の遺跡を継ぐ。美濃国駒野城に住す

天正12年 織田信雄に属す。一族4人で1万貫文

天正18年8月 織田信雄配流により一族4人とともに甲斐国の加藤光泰のもとに寓居

慶長2年 家康に仕える。60石

慶長3年 500石

慶長5年 秀忠に従い青山常陸介忠成に属す

慶長5年 美濃国にて先鋒の案内をつとめる

慶長6年 美濃国多羅郷1000石

万治2年4月17日 死す
高木貞元 天正19年 生。左門。四郎左衛門。二郎兵衛
たかぎさだもと
四郎左衛門貞俊の男
寛政譜5・414
母は縄生意息の妹


妻は津田長門守信成の女

寛永12年 父貞俊の家を継ぐ。美濃国多羅郷1000石

(寛永17年4月28日) (二郎左衛門尉) ●「日記」

寛文5年7月27日 死す
高木助方
生。甚太郎
たかぎすけまさ
安右衛門清実の次男
寛政譜5・398
妻は細田加右衛門康次の女

元和9年 はじめて家光に拝謁。小十人


100俵

寛永9年8月25日 200俵

(寛永18年4月12日) (本目権兵衛組) ●「日記」

寛永18年4月12日 食禄を没収される

寛永18年4月12日 被放御扶持 ●「日記」

寛永18年9月5日 赦免。小十人。200俵

寛永18年9月5日 御赦免仕来御役如前々可相勤 ●「日記」


以下不詳
高木忠次
生。作右衛門
たかぎただつぐ
了可入道作右衛門忠雄の男
長崎畧史上・581 (元和2年) (父忠雄の家を継ぐ。長崎町年寄)

寛永18年3月30日 死す
高木為信 天正17年 生。善太郎。忠右衛門
たかぎためのぶ
志摩守一吉の次男
寛政譜5・389
母は佐治備中守為縄の女


妻は山田十大夫重利の養女鳥井十兵衛の女

元和元年 秀忠に仕える。大番

元和元年 300石

寛永元年12月 大番組頭

~寛永2年 500石

寛永10年2月23日 1000石

寛永19年10月26日 使番

寛永19年10月26日 唯今迠之御役御免折々御使なと可被仰付 ●「日記」

寛永19年11月1日 能勢小十郎唯今之御番御赦免自今以後御使等可被仰付間―


―最前被仰付五輩と申合一人宛殿中え可相詰之旨也 ●「日記」

寛永19年12月30日 布衣 ●「日記」共

寛永20年6月17日 出仕をとどめられる ●「日記」共

正保元年1月27日 ゆるされる ●「日記」共

正保2年6月28日 先鉄炮頭

慶安3年9月3日 家綱に付属される。西丸に勤仕

(慶安4年) 本丸に勤仕

寛文元年2月26日 務を辞す

寛文2年2月18日 死す
高木長二郎

たかぎちょうじろう 寛永11年2月8日 初て御目見 ●「日記」






高木正勝 寛永元年 生。九兵衛
たかぎまさかつ
筑後守正次の養子。服部権大夫政信の男
寛政譜5・402 寛永16年10月18日 高木筑後守養子儀如望被仰付之 ●「日記」

寛永16年11月6日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永20年6月16日 小姓組

慶安4年12月11日 養父正次の遺跡を継ぐ。3300石

某年 死す。断絶
高木正武
生。九助。空蝉
たかぎまさたけ
甚左衛門正則の長男
寛政譜5・402
妻は酒井壱岐守忠重の女

寛永20年9月9日 はじめて家光に拝謁

寛永20年9月9日 高木甚左衛門惣領子御目見 ●「日記」


病により家督たらず


以下不詳
高木正次(筑後) 天正3年 生。又七郎。九兵衛。筑後守
たかぎまさつぐ
筑後広正の次男
寛政譜5・401
母は村越太郎左衛門俊吉の女


妻は建部丹波守政長の女

天正17年 はじめて家康に拝謁。家康に仕える

文禄3年 680石。(秀忠に仕える)

慶長10年 歩卒20人を預かる。布衣

慶長18年 1300石

慶長19年 使番・目付

元和元年 2300石

元和2年 持筒頭。同心55人を預かる

元和9年 3300石

寛永3年12月28日 従五位下・筑後守

寛永9年6月25日 持筒頭。与力10騎同心55人を預かる

寛永9年6月25日 馬上同心10騎 ●「日記」

寛永10年 佐渡奉行

寛永10年10月26日 佐州へ被遣 ●「日記」

寛永19年3月 佐渡奉行を辞す

慶安4年 死す
高木正次(主水) 永禄6年 生。善次郎
たかぎまさつぐ
主水助清秀の三男
寛政譜5・384
母は水野周防守元氏の女


室は大久保治右衛門忠佐の養女

天正10年 家康に仕える

天正18年 1000石

文禄3年 父清秀の家を継ぐ。5000石

(慶長5年) (秀忠に仕える)

慶長7年 7000石

慶長10年4月 従五位下・主水正

慶長12年 大番頭

元和3年 9000石

元和9年 大坂定番。河内国丹南1万石

寛永7年11月30日
高木正綱 永禄11年 生。長次郎。九助。甚左衛門
たかぎまさつな
筑後広正の長男
寛政譜5・401
母は村越太郎左衛門俊吉の女


妻は酒井備後守忠利の女

~天正12年 家康に仕える

慶長4年 父広正の采地を賜る。2000石。歩卒50人

慶長5年 上杉征伐のとき秀忠に供奉

慶長10年 布衣

慶長11年 父広正の務めを継ぐ。武蔵国忍城守衛。3600石

慶長11年 城辺の地3000石と歩卒70人を預かる

慶長19年 秀忠の勘気を蒙る


ゆるされる。忍城守衛

寛永9年11月10日 死す
高木正俊
生。左兵衛
たかぎまさとし
甚左衛門正綱の次男
寛政譜5・405
母は酒井備後守忠利の女


妻は酒井讃岐守忠勝の女


家光に仕える。500石


書院番

(寛永10年6月14日) (御書院番御小姓衆組番衆) ●「日記」

寛永10年6月14日 進物番 ●「日記」


書院番を辞す。小普請

貞享元年4月25日 死す
高木正直
生。勘右衛門
たかぎまさなお
甚左衛門正綱の三男
寛政譜5・402
小姓組か?

(寛永17年6月13日) (給仕) ●「日記」


以下不詳



高木正長(安竹)
生。長次郎。安竹
たかぎまさなが
法眼玄済の長男
寛政譜5・418 寛永18年4月22日 高木玄斎御目見是京都より妻子引越罷下付て也 ●「日記」

明暦3年7月26日 はじめて家綱に拝謁


病により家督たらず


以下不詳
高木正長(喜左衛門) 慶長14年 生。太郎助。喜左衛門。一斎
たかぎまさなが
喜左衛門正信の男
寛政譜5・406 元和6年12月 父正信の遺跡を継ぐ。300石

寛永2年11月 大番

寛永10年2月7日 500石

寛永19年8月5日 浅草蔵の会計にあずかる

寛永19年8月5日 浅草御蔵御兵粮之御勘定有之席え相越無油断様可相斗 ●「日記」

明暦3年11月10日 大番組頭

万治2年12月23日 520石200俵

寛文2年10月15日 先弓頭

寛文2年12月27日 布衣

寛文3年1月21日 同心10人を増員

延宝6年9月14日 先弓頭を辞す。寄合

延宝6年12月10日 致仕。300俵。一斎と号す

延宝8年1月6日 死す
高木正成 天正15年 生。善次郎。肥前守。主水正
たかぎまさなり
主水正正次の長男
寛政譜5・384
母は大久保治右衛門忠佐の養女


室は山口修理亮重政の養女竹田理右衛門の女

慶長3年 家康に仕える

(慶長5年) (秀忠に仕える)

慶長19年 1000石

元和元年 2000石

寛永3年10月3日 従五位下・肥前守

寛永8年3月11日 父正次の遺領を継ぐ。河内国丹南1万石 ●「日記」共

寛永9年12月21日 書院番頭

寛永9年12月21日 御書院番之組頭 ●「日記」

寛永10年4月23日 河内国丹南1万3000石

寛永10年4月23日 3000石御加恩 ●「日記」

寛永10年4月23日 (主水正の初出) ●「日記」

寛永11年 大番頭

寛永12年4月2日
高木正成次女
寛政譜5・385
高木主水正正成の次女
寛政譜2・173
母は山口修理亮重政の養女竹田理右衛門の女

寛永10年7月2日 丹羽式部少輔氏定と縁組 ●「日記」

寛永14年 丹羽式部少輔氏純を産む



高木正成三女
寛政譜5・385
高木主水正正成の三女
寛政譜17・302
母は山口修理亮重政の養女竹田理右衛門の女

寛永16年5月11日 高木善二郎妹と設楽主馬と縁辺之儀善二郎望之趣―


―立御耳心次第ニ可仕之旨上意 ●「日記」


設楽甚三郎貞辰に嫁ぐ


(設楽左馬助を産むか。早世。母不明)

慶安4年 設楽甚兵衛貞成を産む

承応3年 森川勘兵衛重良を産む


(以下設楽貞辰に四女あり。母不明)


以下不詳
高木正則 慶長11年 生。九助。甚左衛門。虚斎
たかぎまさのり
甚左衛門正綱の長男
寛政譜5・402
母は酒井備後守忠利の女


妻は土井大炊頭利勝の女

慶長18年 はじめて家康に拝謁

寛永10年 父正綱の遺跡を継ぐ。3600石

寛永10年2月4日 父正綱の同心50人を預かる。寄合

寛永10年2月4日 相続御礼。父同心被仰付 ●「日記」

寛永10年8月6日 書院番組頭

寛永10年8月6日 御書院組頭 ●「日記」

寛永10年12月28日 4300石

寛永10年12月28日 七百石御加恩 ●「日記」

~寛永11年 4700石

(寛永13年12月13日) (布衣) ●「日記」

寛永16年5月13日 書院番組頭を辞す

寛永16年5月13日 依為病者御役御免云々 ●「日記」

天和3年12月21日 致仕。虚斎と号す

元禄5年9月22日 死す
高木正弘 慶長18年 生。善次郎。主水正
たかぎまさひろ
主水正正成の長男
寛政譜5・385
母は山口修理亮重政の養女竹田理右衛門の女


室は柴田筑後守康長の女

元和8年 はじめて秀忠に拝謁

寛永8年3月11日 1000石 ●「日記」共

寛永12年 父正成の遺領を継ぐ。河内国丹南1万石。1000石を預かる

寛永12年7月7日 継目之御礼 ●「日記」


1000石を収められる

寛永19年9月1日 毎歳八月交替午年在江戸 ●「日記」

慶安4年8月29日 大番頭

慶安4年12月28日 従五位下・主水正

万治元年6月13日
高木正房 元和6年 生。善十郎
たかぎまさふさ
主水正正成の三男
寛政譜5・388
母は山口修理亮重政の養女竹田理右衛門の女


妻は坪内惣兵衛定仍の女

寛永12年 父正成の遺領分知。1500石

寛永12年7月7日 はじめて家光に拝謁

寛永12年7月7日 継目之御礼 ●「日記」

寛永13年8月9日 小姓組 ●「日記」

慶安元年12月10日 死す
高木正好 元和元年 生。善之丞
たかぎまさよし
主水正正成の次男
寛政譜5・385
母は山口修理亮重政の養女竹田理右衛門の女

元和8年 はじめて秀忠に拝謁

寛永8年3月11日 1000石 ●「日記」共

寛永12年 父正成の遺領分知。2500石

寛永12年7月7日 継目之御礼 ●「日記」

寛永13年6月24日 死す
高木守久 慶長4年 生。善七郎。伊勢守
たかぎもりひさ
善三郎守次の男
寛政譜5・393
母は花井勘三郎盛次の女


妻は神谷縫殿助正次の女

慶長15年 家康に仕える


500俵

元和2年 秀忠に仕える。小姓組

寛永8年4月10日 小納戸

寛永8年4月10日 奥にて召し使われる ●「日記」

寛永9年 小姓組

寛永10年2月2日 大番組頭 ●「日記」共

寛永10年2月23日 800石

寛永19年10月26日 目付 ●「日記」共

寛永19年12月30日 布衣 ●「日記」共

寛永20年8月30日 禁裏付。1800石

寛永20年8月30日 当今え高木善七郎与力五騎足軽三十人千石御加恩 ●「日記」

寛永20年10月10日 従五位下・伊勢守

(正保元年9月9日) (伊勢守の初出) ●「日記」

万治元年4月1日 禁裏付を辞す

万治2年7月19日 大目付

寛文4年12月27日 1800石1000俵

延宝4年10月11日 大目付を辞す

延宝4年12月6日 致仕。600俵

延宝7年8月15日 死す
高木吉次 文禄3年 生。左源太。弥右衛門
たかぎよしつぐ
志摩守一吉の四男
寛政譜5・391
母は佐治備中守為縄の女

慶長14年 秀忠に仕える。大番

~慶長19年 300石

元和2年9月15日 徳川忠長に付属される

(寛永9年) 処士

寛永11年 家光に仕える。大番

寛永12年12月13日 300石

寛永19年 大番組頭

慶安4年11月21日 300石200俵

明暦2年2月28日 死す
高木吉任 天正12年 生。喜太郎。内膳。外記。修理
たかぎよしとう
志摩一吉の長男
士林泝洄2・212
松平忠吉に仕える
寛政譜5・384 慶長3年 200石

慶長6年5月1日 400石

慶長12年 徳川義直に仕える

寛永元年 父一吉の遺跡を継ぐ。1500石

寛永元年 鉄炮頭。足軽30人

寛永9年 大番頭

寛永14年 尾張国名古屋城代

正保3年11月1日 2000石

慶安3年 致仕

万治2年12月13日 月俸50口

延宝2年10月2日 死す
高木吉長 寛永8年 生。左源太。又兵衛
たかぎよしなが
弥右衛門吉次の男
寛政譜5・391
妻は御手洗五郎兵衛正近の養女大岡作左衛門義重の女

寛永17年3月9日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保4年12月25日 大番

明暦2年12月21日 父吉次の遺跡を継ぐ。300石200俵

寛文12年9月26日 大番組頭

寛文12年12月16日 300石400俵

天和2年4月21日 300石600俵

貞享4年11月6日 大番組頭を辞す。小普請

元禄元年3月6日 死す
高木可成
生。安兵衛
たかぎよしなり
長五郎寿林の男
寛政譜5・419
家光に仕える。大番

(正保元年2月20日) (大御番) ●「日記」

某年 死す
高倉永敦 元和元年4月9日 生。侍従。右衛門佐。右衛門督。参議。中納言。大納言
たかくらながあつ
大納言永慶入道常恵の長男
諸家伝下・634
母は佐竹常陸介義重の女
宮廷公家系図集覧464 元和3年1月5日 従五位下

元和9年2月14日 元服。昇殿。侍従

寛永元年4月5日 従五位上

寛永3年9月5日 右衛門佐

寛永5年2月10日 正五位下

寛永9年1月5日 従四位下

寛永13年1月5日 従四位上

(寛永13年5月6日) (藤右衛門佐) ●「日記」

寛永17年1月5日 正四位下

寛永20年9月15日 右兵衛督

正保3年1月5日 従三位

慶安4年1月5日 正三位

明暦元年1月11日 参議

明暦元年10月13日 直衣

明暦2年1月5日 従二位

明暦3年12月22日 権中納言

万治2年7月23日 権中納言を辞す

寛文2年1月5日 正二位

寛文9年12月18日 権大納言

寛文10年2月22日 権大納言を辞す

天和元年11月15日 薨去
高倉永慶 天正19年11月2日 生。侍従。右衛門佐。中宮亮。参議。右衛門督。越中守。
たかくらながよし
中納言。大納言。常恵
諸家伝下・633
中納言永孝の長男
宮廷公家系図集覧464 文禄3年12月7日 従五位下

慶長3年2月16日 元服。昇殿。侍従

慶長7年1月6日 従五位上

慶長11年1月11日 右衛門佐

慶長13年1月6日 正五位下

慶長16年12月30日 従四位下

元和元年1月5日 従四位上

元和5年1月6日 正四位下

元和9年1月5日 従三位

寛永元年11月20日 中宮亮。右衛門佐

寛永3年9月5日 右衛門佐を辞す

寛永3年11月21日 参議。中宮亮

寛永5年1月30日 参議。中宮亮。右衛門督。越中守

寛永5年2月10日 正三位

寛永6年11月9日 中宮亮を辞す

寛永8年11月6日 従二位

(寛永11年1月24日) (藤宰相) ●「日記」

寛永11年6月26日 権中納言

(寛永11年7月16日) (中納言の初出) ●「日記」

(寛永13年5月6日) (藤中納言) ●「日記」

寛永15年1月5日 正二位

(寛永15年3月6日) (昵近之衆) ●「日記」

寛永16年4月26日 八木弐百俵被遣之 ●「日記」

寛永19年閏9月8日 権中納言を辞す

寛永19年12月22日 権大納言

(寛永20年4月4日) (大納言の初出) ●「日記」

(正保元年2月15日) (中納言) ●「日記」

正保2年12月27日 権大納言を辞す

寛文3年 入道。常恵と号す

寛文4年9月5日 薨去
多賀源助

たがげんすけ
生駒壱岐守高俊に仕える

(寛永17年7月26日) (生駒壱岐守家来) ●「日記」

寛永17年7月26日 初加藤民部少輔御預追放 ●「日記」



高嶋左近
生。左近
たかしまさこん
主殿頭兼政の男か
寛政譜21・72
母は一条中納言兼定の女按察使か


幼少より家光に仕える。小姓

寛永14年11月20日 200俵

寛永14年11月26日 200俵 ●「日記」

寛永16年12月25日 膳番。500石

寛永16年12月25日 高嶋左近五百石知行被下之御膳番被仰付 ●「日記」

寛永16年12月26日 三百石之御加恩 ●「日記」

寛永19年2月26日 赤井弥兵衛と闘争

寛永19年2月27日 死罪
高嶋四郎兵衛

たかしましろうびょうえ
長崎町年寄か






高嶋持房 慶長10年12月21日 生。修理権大夫
たかしまもちふさ
万里小路中納言輔房の孫
諸家伝下・1110 元和9年2月13日 従五位下

寛永7年 元服。修理権大夫

寛永9年1月5日 従五位上

(寛永11年7月21日) (院中) ●「日記」

寛永13年1月5日 正五位下

寛永17年3月12日
多賀主膳

たがしゅぜん
東本願寺門跡宣如光従に仕える

(寛永15年9月28日) (東本願寺門跡のあとに御目見) ●「日記」



多賀大社
近江国
たがたいしゃ




高田久重
生。忠左衛門。はじめ友成を称すか
たかたひさしげ
友成某の男
寛政譜21・177
母は高田氏

寛永12年


徒目付

(寛永19年7月8日) (御検使) ●「日記」


広敷添番

(寛文10年) 死す
高田安政 慶長4年 生。藤五郎。庄右衛門
たかだやすまさ
小次郎直政の男
寛政譜5・21
母は安藤次右衛門正次の女


妻は内藤甚八郎の女

慶長14年11月17日 はじめて秀忠に拝謁

元和元年 小姓組

元和元年 200石


膳奉行

(寛永11年5月14日) (御膳奉行) ●「日記」

寛永11年5月14日 400石

寛永11年5月14日 御加恩弐百石 ●「日記」

寛永11年6月18日 小十人組の番頭

寛永11年6月18日 小十人組之頭 ●「日記」

寛永11年12月28日 布衣

(寛永13年12月13日) (布衣) ●「日記」

正保元年12月16日 先鉄炮頭

正保元年12月16日 御鉄炮頭 ●「日記」

正保元年12月25日 去比御預之与力同心之事被仰渡之与力五騎歩三拾人也 ●「日記」

慶安4年11月21日 400石300俵

万治2年10月25日 死す
鷹司信房 永禄8年10月25日 生。少将。中将。中納言。大納言。大将。内大臣。左大臣。
たかつかさのぶふさ
関白。法音院
諸家伝上・127
関白忠冬の中絶家を継ぐ。二条関白晴良の三男
宮廷公家系図集覧244
母は伏見宮中務卿貞敦親王の王女


室は佐々陸奥守成政の女

天正7年11月21日 正五位下。元服。禁色。昇殿

天正7年11月24日 左少将

天正8年1月28日 従四位下

天正8年3月7日 右中将

天正8年6月9日 従四位上

天正9年1月6日 従三位

天正9年4月17日 権中納言。右中将

天正10年1月6日 権大納言

天正10年7月20日 正三位

天正11年6月 従二位

天正16年1月13日 左大将

天正16年12月17日 正二位

天正17年1月6日 従一位

慶長11年9月22日 内大臣。左大将を辞す

慶長11年11月10日 左大臣

慶長11年11月11日 関白。氏長者。牛車。兵仗。内覧。一座

慶長13年11月26日 関白・左大臣を辞す

明暦3年12月15日 薨去
鷹司教平 慶長14年2月5日 生。少将。中将。中納言。大納言。大将。内大臣。右大臣。左大臣
たかつかさのりひら
関白左大臣信尚の男
諸家伝上・128
母は後陽成天皇の第二皇女清子内親王
宮廷公家系図集覧244
妻は冷泉大納言為満の息女

慶長15年12月23日 従五位下

慶長18年12月15日 元服。正五位下。昇殿

慶長18年12月21日 左少将

慶長19年6月20日 従四位下

慶長20年1月5日 従三位・左少将

元和2年1月27日 左中将

元和3年7月6日 権中納言・左中将

元和5年12月26日 正三位

元和5年12月28日 権大納言

元和9年1月6日 右大将

寛永3年8月27日 左大将

寛永5年2月10日 従二位

寛永8年12月11日 正二位

寛永9年1月9日 内大臣・左大将

寛永9年12月28日 右大臣・左大将

(寛永11年7月21日) (内府) ●「日記」

寛永12年1月24日 左大将を辞す

寛永17年3月21日 左大臣

(寛永18年10月3日) (左大臣の初出) ●「日記」

寛永18年12月1日 左大臣を辞す

明暦元年1月29日 従一位

寛文8年10月3日 薨去
高辻遂長 慶長5年4月25日 生。文章得業生。侍従。少納言。大内記。文章博士。大蔵卿
たかつじかつなが
参議。はじめ西坊城を称す
諸家伝下・914
大納言長雅の中絶家を継ぐ。五条中納言為経の次男
諸家伝下・1037
室は辻伯耆守近弘の女
宮廷公家系図集覧526 慶長18年10月27日 穀倉院学問料を給わる

慶長18年12月16日 元服

慶長18年12月17日 文章得業生

慶長18年12月23日 従五位下

慶長19年1月11日 侍従

元和元年1月5日 従五位上

元和4年1月5日 正五位下

元和5年12月25日 少納言

元和9年1月5日 従四位下

寛永5年1月6日 従四位上

寛永9年1月5日 正四位下

寛永9年1月11日 大内記

(寛永11年7月21日) (西坊城大内記) ●「日記」

寛永13年1月5日 従三位

寛永14年12月26日 文章博士

寛永14年12月30日 大内記を辞す

寛永16年12月11日 大蔵卿

寛永18年3月13日 正三位

寛永18年12月29日 参議。大蔵卿。文章博士

寛永19年2月5日 参議を辞す

寛永19年2月22日 文章博士を辞す

寛永19年12月29日 薨去
高辻長純 元和5年4月6日 生。文章得業生。侍従。文章博士。少納言。はじめ西坊城を称す
たかつじながずみ
参議遂長の男
諸家伝下・915
母は辻伯耆守近弘の女
宮廷公家系図集覧526 寛永8年11月21日 学問料を給わる

寛永8年12月6日 元服。文章得業生

寛永8年12月18日 従五位下。侍従

(寛永11年7月21日) (西坊城侍従) ●「日記」

寛永10年1月5日 従五位上

寛永14年1月5日 正五位下

寛永18年1月5日 従四位下

寛永19年2月2日 文章博士

正保元年1月5日 従四位上

正保元年12月14日 少納言。文章博士。侍従

慶安元年4月22日
多賀常勝 慶長元年 生。外記
たがつねかつ
吉左衛門常直の三男
寛政譜11・177
妻は豊臣秀次家臣生田右京亮経親の女


後妻は水戸家臣村瀬左馬助重治の女

慶長17年 はじめて秀忠に拝謁

慶長19年 小姓組

~元和元年 300俵

~寛永3年 西丸に勤仕


書院番

寛永10年2月7日 500石

寛文元年11月19日 死す
多賀常次
生。角左衛門
たがつねつぐ
吉左衛門常直の四男
寛政譜11・178
秀忠に仕える。500石。大番

寛永10年2月3日 御番御赦免 ●「日記」

(寛永10年2月3日) (覚左衛門) ●「日記」

寛永10年2月7日 700石

明暦3年 死す
多賀常長 文禄元年 生。左近
たがつねなが
吉左衛門常直の長男
寛政譜11・174
妻は神保式部大輔春茂の女


家康に仕える

元和元年 大坂の役にて大和口寄手

元和4年 父常直の遺跡を継ぐ。2000石

寛永3年 秀忠の上洛に供奉

寛永4年 使番。布衣

寛永14年11月26日 弥無油断江戸中可致夜廻 ●「日記」

明暦3年7月20日 死す
多賀常往
生。左門。三郎兵衛
たがつねゆき
角左衛門常次の長男
寛政譜11・179 寛永10年 はじめて家光に拝謁

寛永15年1月15日 大番 ●「日記」共

明暦3年12月25日 父常次の遺跡を継ぐ。700石

天和3年 死す
多賀常良 寛永10年 生。吉左衛門
たがつねよし
左近常長の男
寛政譜11・175
母は神保式部大輔春茂の女


妻は佐久間宇右衛門盛郎の女

寛永18年11月19日 はじめて家光に拝謁

寛永18年11月19日 多賀左近惣領以太刀目録御目見 ●「日記」

明暦3年12月25日 父常長の遺跡を継ぐ。2000石。小普請

延宝2年12月3日 致仕

元禄9年9月7日 死す
多賀内記

たがないき
京極刑部少輔高和に仕える

(寛永15年2月20日) (京極刑部家来) ●「日記」



高根神社
遠江国浜松
たかねじんじゃ
駿河国藤枝


遠江国菊川


遠江国掛川



高野市左衛門

たかのいちざえもん


(寛永19年7月8日) (青山大蔵少足軽) ●「日記」



高野喜三郎

たかのきさぶろう


寛永19年6月22日 酒井河内守へ高野喜三郎役儀ニ付て私曲有之由―


―依有申出族為御穿鑿御預 ●「日記」

(寛永19年7月8日) (手形裏書之役人) ●「日記」

寛永19年7月8日 斬罪 ●「日記」
高野山三郎 寛永12年
たかのさんさぶろう
喜三郎の男

寛永19年7月8日 死罪か ●「日記」



高野庄右衛門

たかのしょうえもん
喜三郎の男

寛永19年7月5日 本多下総守へ高野庄右衛門高野喜三郎子共たるに依て御預 ●「日記」

寛永19年7月8日 切腹 ●「日記」
高野庄兵衛

たかのしょうびょうえ
喜三郎の男

寛永19年7月5日 岡部美濃守へ高野庄兵衛高野喜三郎子共たるに依て御預 ●「日記」

寛永19年7月8日 切腹 ●「日記」
高野文十郎 寛永18年
たかのぶんじゅうろう
市左衛門の養子。喜三郎の男

寛永19年7月8日 死罪か ●「日記」



高野万太郎

たかのまんたろう
喜三郎の男

寛永19年7月5日 鳥居主膳へ高野万太郎高野喜三郎子共たるに依て御預 ●「日記」

寛永19年7月8日 切腹 ●「日記」
高橋久兵衛

たかはしきゅうびょうえ
東福門院付か

寛永11年7月2日 三河国吉田にて行路人に対し刃傷に及び―


―加々爪甲斐守直澄家臣次大夫に誅戮される ●「日記」
高橋法眼

たかはしほうげん
仁和寺心蓮院か


法眼



高橋宗定 慶長15年1月22日 生。御厨子所預。雅楽頭。若狭守
たかはしむねさだ
御厨子所預民部大輔宗好の男
地下家伝中・1063 元和6年5月15日 御厨子所預。従五位下
宮廷公家系図集覧661 寛永4年10月1日 雅楽頭

寛永11年1月5日 従五位上

(寛永16年4月1日) (北面之内御厨師) ●「日記」 北面之内御冠師か?

慶安2年12月27日 正五位下

慶安4年1月11日 若狭守

承応2年1月5日
高林一之介

たかばやしいちのすけ 寛永13年12月6日 初て御目見 ●「日記」






高林左之助
生。左之助
たかばやしさのすけ
又兵衛直重の長男
寛政譜4・154 寛永13年9月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共


以下不詳
高林利春 慶長10年 生。弥市郎。河内守
たかばやしとしはる
市郎左衛門吉次の養子。嶋田幽也利正の次男
寛政譜2・241
妻は吉次の女


後妻は細川越中守家臣村井道意の女

元和5年 家光に仕える。小姓

(元和8年) 養父吉次の遺跡を継ぐ。510石

寛永元年12月30日 従五位下・河内守


徒頭

寛永3年4月 1010石


書院番

寛永9年11月5日 書院番・進物役

寛永9年11月5日 本番御免。進物番 ●「日記」

寛永10年2月7日 1210石

寛永19年10月16日 実父利正より分知。2210石

寛永19年10月16日 嶋田幽也跡職従此以前訴訟之通弥被分下之由伊豆守対馬守伝仰之旨―


―所謂千石高林河内守弐千五百石嶋田八郎左衛門―


―五百石嶋田兵四郎千石嶋田久太郎 ●「日記」


書院番を辞す。寄合

承応元年4月26日 死す
高林直重
生。又十郎。又兵衛
たかばやしなおしげ
太郎兵衛直次の男
寛政譜4・154
妻は勝部甚五左衛門正房の女

寛永3年 家光に仕える。大番


200俵

寛永10年2月7日 400石

承応元年5月19日 大番組頭

承応元年12月22日 400石200俵

寛文5年1月14日 大坂船手。上乗5人水主50人。800石200俵

寛文7年2月4日 大坂船手。小豆・塩飽両嶋の代官

寛文8年1月19日 布衣

延宝5年 死す
高林直次
生。又十郎。太郎兵衛
たかばやしなおつぐ
与五右衛門昌重の養子。勝部太郎左衛門正信の次男
寛政譜4・154 慶長6年 はじめて秀忠に拝謁


大番

(元和3年) 養父昌重の遺跡を継ぐか。200石


310石


大番組頭

寛永10年12月19日 710石

寛永10年12月19日 大番組頭御加増被下之四百石 ●「日記」

某年 死す
高林昌近
生。権之助。十右衛門。与五右衛門。革心
たかばやしまさちか
与五右衛門正成の長男
寛政譜4・157
母は長谷川藤右衛門長重の女


妻は犬塚平右衛門忠世の女

寛永16年6月23日 高林与五兵衛惣領之子共初て御目見 ●「日記」

正保元年6月16日 小姓組 ●「日記」共

寛文4年12月10日 父正成の遺跡を継ぐ。400石200俵

寛文9年~ 小姓組を辞す。小普請

元禄5年7月9日 致仕。革心と号す

元禄12年閏9月12日 死す
高林正成
生。与五右衛門。(与五兵衛)
たかばやしまさなり
与五右衛門昌重の男
寛政譜4・156
母は市川大隅守の女


妻は小田切新右衛門昌快の女


後妻は長谷川藤右衛門長重の女

元和5年 はじめて家光に拝謁


大番。200俵

寛永10年2月7日 400石

(寛永16年6月23日) (松平外記植村出羽守組大番衆高林与五兵衛) ●「日記」

寛永20年12月4日 大番組頭 ●「日記」共

(正保元年6月4日) (松平外記組之組頭) ●「日記」

慶安4年11月21日 400石200俵

寛文2年8月25日 腰物奉行組頭

寛文2年12月27日 布衣

寛文4年閏5月12日 死す
高林吉次 天正4年 生。弥市郎。市郎左衛門
たかばやしよしつぐ
市左衛門吉利の男
寛政譜2・241
妻は加藤喜左衛門正次の女

(文禄2~慶長元年) 父吉利の遺跡を継ぐ。360石。秀忠に仕える

慶長7年1月25日 510石

慶長18年 大番組頭

元和8年6月20日 死す
高林吉次次女
寛政譜2・241
高林市郎左衛門吉次の次女
寛政譜3・135 寛永20年12月2日 縁組被仰付之馬場三郎左衛門娘溝口九十郎 ●「日記」


溝口孫左衛門安勝に嫁ぐ

(万治3年) 溝口左門友勝を産む

正保元年 溝口十大夫常勝を産む


他女子1人を産むか


以下不詳
高林与惣左衛門
生。新兵衛。与惣左衛門
たかばやしよそうざえもん
与五右衛門正成の次男
寛政譜4・158 正保元年6月4日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保4年12月25日 大番

~寛文9年 200俵

寛文11年5月4日 大番組頭

寛文11年12月23日 400俵

天和元年2月21日 大番組頭を辞す。小普請

元禄2年7月5日 致仕

某年 死す
高原市左衛門

たかはらいちざえもん
陶工

(寛永14年10月1日) (土之物焼師) ●「日記」



高原直久
生。次郎右衛門
たかはらなおひさ
左介次勝の長男
寛政譜17・238 元和8年12月15日 はじめて秀忠に拝謁

元和9年12月15日 父次勝の遺跡を継ぐ。讃岐国直嶋600石

寛永4年~ 検地して旧領を合わせる。讃岐国直嶋2000石

寛永19年 死す
高原直久跡目
寛政譜17・238
次郎右衛門直久の男

寛永20年2月20日 父直久の遺跡を継ぐ。讃岐国直嶋2000石

寛永20年2月20日 高原次郎右衛門跡目被仰付之家来根来番所へ召寄老中申渡之 ●「日記」

(明暦元年) 死す
高松宮好仁親王 慶長8年3月18日 生。七宮。三宮。済祐。二品。弾正尹。高松宮
たかまつのみやよしひと
後陽成天皇の第七皇子
本朝皇胤紹運録
母は近衛前関白前久の息女中和門院
(群書系図部集1・100)
簾中は秀忠の養女松平三河守忠直の長女亀姫寧子宝珠院
詰所系図
はじめ聖護院興意入道法親王の附弟。済祐と号す
(系図綜覧上・81) 慶長17年12月26日 親王
幕府祚胤伝 寛永2年10月 高松宮
(徳川諸家系譜2・68) 寛永7年11月7日 縁組あり
古代豪族系図集覧56 寛永15年6月3日 薨去

寛永15年6月8日 去三日薨去 ●「日記」
多賀光吉
生。伝十郎。又左衛門
たがみつよし
喜右衛門常貞の男
寛政譜11・176 寛永4年 家光に仕える。小十人。100俵

寛永9年8月25日 200俵

(寛永18年4月12日) (本目権兵衛組) ●「日記」

寛永18年4月12日 食禄をおさめられる

寛永18年4月12日 被放御扶持 ●「日記」

寛永18年9月5日 赦免。小十人。200俵

寛永18年9月5日 御赦免仕来御役如前々可相勤 ●「日記」

寛永19年8月18日 蔵奉行

寛永19年8月18日 御城米方御蔵奉行 ●「日記」


残物奉行

寛文8年 死す
高室昌重
生。四郎左衛門
たかむろまさしげ
豊前久家の男
寛政譜4・193
武田勝頼に仕える

天正10年~ 父久家とともに家康に拝謁。家康に仕える

天正12年~ 大番


代官。遠江国郡代。520石

(寛永19年7月8日) (八王子代官か) ●「日記」

正保2年6月5日 死す
高室政職 慶長14年 生。三郎兵衛。助右衛門
たかむろまさつね
四郎左衛門昌重の四男
寛政譜4・195
妻は新庄右近助直綱の女

(寛永19年12月10日) (御勘定) ●「日記」

寛永19年12月10日 勘定。150俵

寛永19年12月10日 百五十俵 ●「日記」

万治元年~ 代官

延宝5年閏12月5日 致仕

延宝6年4月2日 死す
高室昌成
生。喜三郎。金兵衛
たかむろまさなり
四郎左衛門昌重の三男
寛政譜4・193
妻は酒井強蔵昌明の女


秀忠に仕える


代官

(寛永19年7月8日) (八王子代官か) ●「日記」

正保2年12月19日 父昌重の遺跡を継ぐ。520石

慶安3年 死す
高安三右衛門
元栄もしくは英順か
たかやすさんえもん (寛永12年1月2日) (大鼓) ●「日記」
能楽史話359




高安彦太郎

たかやすひこたろう
ワキ方
能楽史話314




多賀谷隆家 寛永7年 生。一学。左兵衛
たがやたかいえ

羽陰史略
佐竹家臣
(秋田叢書1・75)

(秋田叢書1・216)
家老

延宝4年1月19日 死す
高屋種久
生。彦右衛門
たかやたねひさ
庄左衛門吉久の長男
寛政譜6・140
母は柳沢兵部丞信俊の女


妻は沢九郎兵衛宗久の女

寛永3年 家光に仕える。小十人。200俵

寛永19年12月6日 納戸番 ●「日記」共

元禄3年5月26日 死す
高山茂広
生。弥次右衛門
たかやましげひろ
秀忠に仕える。徒
寛政譜19・261
徒目付

(寛永19年7月8日) (御検使) ●「日記」


広敷添番

(寛文3年) 死す
高山盛勝 慶長10年 生。長吉郎。弥兵衛。主水。弥左衛門
たかやまもりかつ
主水正盛聡の長男
寛政譜9・218
母は稲生左衛門佐季興の女


妻は九条家臣山本六兵衛豊広の女

元和9年10月 はじめて家光に拝謁

寛永元年2月 書院番

寛永14年11月26日 父盛聡の遺跡を継ぐ。1000石

寛永14年11月26日 父就死去遺跡相続之儀被仰付 ●「日記」

寛永15年~ 書院番を辞す。小普請

延宝7年7月23日 死す
高山盛聡 永禄10年 生。宮徳。六郎。主水佑。主水正
たかやまもりとし
将監利家の男
寛政譜9・217
妻は稲生左衛門佐季興の女


小早川隆景に仕える

慶長元年5月24日 従五位下・主水佑

(慶長2年) 主君隆景死後に処士となり山城国東山に閑居


相模国小田原にて家康に拝謁

慶長5年 家康に仕える。与力10騎鉄炮同心100人。月俸200口

慶長7年10月2日 1000石。寄合

寛永14年8月22日 死す
滝市平
多喜六蔵資元もしくは十右衛門資勝か?寛政譜7・48
たきいちへい (寛永10年2月21日) (御鷹師) ●「日記」



滝川一俊 寛永8年 生。八郎。八郎右衛門
たきがわいちとし
久助一乗の長男
寛政譜11・28
妻は小笠原三郎左衛門信政の女

寛永19年10月11日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保3年8月 小姓組

寛文5年12月11日 父一乗の遺跡を継ぐ。900石

貞享3年7月26日 死す
滝川一乗 慶長7年 生。久助
たきがわいちのり
久助一時の男
寛政譜11・27
妻は戸田土佐守尊次の女

慶長8年 父一時の遺跡を継ぐ。2000石

慶長9年 従兄三九郎一積を名代とする。250石

元和2年 1000石

元和5年11月20日 家光に拝謁

元和7年 西丸書院番。松平清三郎昌長組

寛永10年2月7日 1200石

寛永18年 小姓組

慶安3年9月3日 西丸に勤仕

(慶安4年) 本丸に勤仕

寛文5年1月14日 死す
滝川一積
生。三九郎
たきがわかずあつ
三九郎一忠の男
寛政譜11・30
妻は真田安房守昌幸の女


中村一角に仕える

慶長9年 家康の命により従弟久助一乗の名代となる。1750石

元和2年 従弟一乗に分知。1000石

寛永9年7月16日 改易。真田左衛門佐幸村の女を養女として―


―松平中務大輔蒲生忠知の家臣に嫁がせたことにより

寛永9年7月16日 追放 ●「日記」


以下不詳
滝川忠征 永禄2年 生。彦次郎。豊前守
たきがわただゆき
木全又左衛門の長男
士林泝洄1・120
滝川一益に仕える


滝川を称す


秀吉に仕える


従五位下・豊前守


家康に仕える


使番

元和2年 徳川義直に付属される。6000石

元和3年 家老

寛永9年 致仕。1000石

寛永12年2月2日
滝川利貞 慶長14年 生。大学。勘兵衛。長門守
たきがわとしさだ
壱岐守正利の養子。土岐山城守定義の次男
寛政譜8・38
母は諏訪因幡守頼水の女


妻は養父正利の女

元和3年9月 はじめて秀忠に拝謁

元和9年 小姓

寛永2年 正利の養子となりその女を妻とする

寛永2年 養父正利の遺跡を継ぐ。2000石

寛永9年6月4日 中奥に伺候 ●「日記」共

寛永9年6月27日 膳番 ●「日記」

(寛永9年11月1日) (勘兵衛) ●「日記」

寛永9年12月20日 従五位下・長門守

寛永9年12月20日 諸大夫 ●「日記」

(寛永10年4月11日) (長門守の初出) ●「日記」

寛永16年12月26日 書院番

寛永16年12月26日 御表之御番 ●「日記」

寛永16年12月28日 書院番・進物役

寛永16年12月28日 進物番 ●「日記」

正保4年10月14日 小姓組組頭

慶安3年11月19日 小姓組番頭

慶安4年11月21日 2000石1000俵

明暦2年1月15日 書院番頭

寛文元年7月21日 留守居

延宝4年2月7日 留守居を辞す

延宝5年4月25日 死す
滝川直政 慶長12年 生。左門。与三右衛門
たきがわなおまさ
豊前守忠征の孫養子。浅野紀伊守家臣浅野刑部忠正の男
寛政譜11・32
母は忠征の女


妻は滝川佐兵衛法直の女

元和2年 養父忠征の采地を賜る。2010石

元和8年 はじめて秀忠に拝謁

寛永3年 小姓組

寛永3年11月5日 小姓組・進物役

寛永9年11月5日 本番御免。進物番 ●「日記」

(寛永15年10月17日) (与三右衛門の初出) ●「日記」

寛永15年10月17日 御赦免 ●「日記」

慶安元年10月30日 死す
滝川兵部

たきがわひょうぶ (寛永12年6月14日) (松平安芸守家来) ●「日記」



滝山寺
三河国岡崎。天台宗
たきさんじ




多喜資仁
生。伝助。伝兵衛
たきすけひと
十右衛門資勝の男
寛政譜7・48 (寛永18年12月29日) (御中間頭) ●「日記」

寛永20年3月18日 手鷹師

寛永20年12月18日 五十俵新規御切米被下之 ●「日記」

正保3年12月28日 父資勝の遺跡を継ぐ

天和2年3月21日 小十人

貞享元年12月21日 50俵加恩

元禄5年12月23日 月俸加恩。100俵10口

宝永4年12月6日 死す
滝又助
生。又助。恒忠か
たきまたすけ
中間頭か
寛政譜20・63 (寛永18年6月19日) (土戸当番滝又助組御小人) ●「日記」 小人頭か



沢庵宗彭 天正元年12月1日
たくあんそうほう
山名宗詮家臣秋庭綱典の男
澤庵宗彭56
母は牧田氏

天正10年 浄土宗の但馬国出石唱念寺にて出家。春翁と称す

天正14年 臨済宗の宗鏡寺に移る。秀喜と改名

文禄3年 董甫宗仲に従い大徳寺三玄院に入る。春屋宗園のもとで宗彭と改名

慶長4年 近江国佐和山瑞嶽寺に入る

慶長5年 大徳寺三玄院に帰る

慶長6年 堺大安寺の文西洞仁のもとに逗留

慶長8年 堺陽春庵の一凍紹滴のもとに参ず

慶長9年 一凍より印可を受けその法を継ぐ。沢庵と号す

慶長11年 一凍没により陽春庵に住す

慶長12年 徳禅寺に住す。のち堺南宗寺に移る

慶長14年3月8日 大徳寺153世。住山3日にして堺に帰る

慶長16年8月 大徳寺大仙院に住す

慶長19年 大徳寺養徳院に住す

元和元年 堺南宗寺焼失により岸和田日光教寺に寓居

元和元年 天下村極楽寺に移る

元和3年 堺南宗寺を再建

元和4年 奈良芳林庵に住す。のち泊瀬寺と山城国妙勝寺に寓居

元和6年 但馬国宗鏡寺投淵軒に住す

寛永4年 正隠宗智を大徳寺住持にさせる。堺南宗寺に帰る

寛永6年 紫衣事件により流罪。出羽国上山春雨庵に閑居

寛永9年7月17日 国安堵 ●「日記」

寛永9年 江戸広徳寺に寓居。のち駒込の堀直寄別邸に移る

寛永12年 江戸の柳生宗矩別邸に寓居

寛永13年2月1日 昨晦日八木被下御礼被申上 ●「日記」

寛永16年4月 江戸品川東海寺に入り開山となる

寛永16年5月1日 品川新寺御造立被仰付之入院之御礼 ●「日記」

寛永18年4月7日 長老なりの御礼 ●「日記」

正保2年12月11日 遷化
琢如光瑛 寛永2年 生。法印。大僧正。東本願寺門跡。淳寧院
たくにょこうえい
宣如光従の次男
宮廷公家系図集覧558 (寛永11年7月26日) (東本願寺御児) ●「日記」
群書系図部集5・376 寛永15年2月20日 得度

(寛永16年9月9日) (従東本願寺就縁辺之儀御樽肴献之) ●「日記」

寛永17年4月3日 去比縁辺之儀被仰出并於京都屋敷被遣之御礼 ●「日記」

寛永19年6月1日 従東本願寺巻物十進上之使者御目見是新門被任僧正御礼也 ●「日記」

(承応2年) 東本願寺門跡

寛文4年12月 退隠

寛文11年4月14日 遷化
宅間忠次 天正9年 生。忠四郎。伊織
たくまただつぐ
治部大輔規富の男
寛政譜12・227
母は北条家臣遠山丹波守直景の女


妻は春日下総守景定の女

天正19年 家康に仕える。小姓

慶長5年 大番

寛永2年12月3日 350石280俵の朱印

~寛永3年 大番組頭

寛永13年9月10日 死す
宅間憲之
生。三十郎。伊織
たくまのりゆき
伊織忠次の三男
寛政譜12・227
母は春日下総守景定の女


妻は松平安芸守浅野光晟家臣藤江善左衛門の女

寛永13年3月25日 はじめて家光に拝謁

寛永13年3月25日 宅間伊織子被召出之 ●「日記」

寛永13年3月25日 皆川山城守組(大番) ●「日記」

寛永13年11月24日 父忠次の遺跡を継ぐ。350石280俵

寛永13年11月24日 宅間伊織六百石子跡目被仰付之 ●「日記」

寛永13年12月27日 書院番 ●「日記」共

寛永20年8月30日 家綱に付属される

寛永20年8月30日 若公様え被為附之三丸御殿御番被仰付之 ●「日記」

慶安元年3月27日 小十人頭。三丸に勤仕

慶安3年9月 西丸に伺候

慶安4年 本丸に勤仕

慶安4年8月16日 布衣

慶安4年11月21日 350石580俵

延宝4年10月13日 小十人頭を辞す。小普請

延宝5年5月20日 死す
内匠

たくみ (寛永9年8月2日) 好仁親王の殿上人 ●「日記」



多久美作

たくみまさか


(寛永18年1月15日) (鍋嶋信濃守使者) ●「日記」



竹尾俊方 慶長8年 生。五郎兵衛。四郎兵衛
たけおとしかた
四郎兵衛俊勝の男
寛政譜15・263
妻は駒井右京親直の女

元和元年 はじめて秀忠に拝謁

元和6年 小姓組

寛永17年 父俊勝の遺跡を継ぐ。1670石

寛永18年3月3日 去年跡職被仰付面々或太刀目録或樽代ニて継目之御礼申上之 ●「日記」

(寛永19年7月8日) (四郎兵衛の初出) ●「日記」

寛文元年閏8月4日 死す
竹尾俊勝 天正元年 生。四郎兵衛
たけおとしかつ
平右衛門俊久の男
寛政譜15・263 天正11年 秀忠に仕える

~元和元年 膳番

~寛永2年 崇源院に付属される。1770石

寛永9年8月25日 天樹院に付属される。500石加増。歩行同心20人 ●「日記」共

寛永9年8月25日 1670石

寛永16年7月28日 死す
竹尾元道
生。作右衛門。喜左衛門
たけおもとみち
伝九郎清正の次男
寛政譜7・3
妻は木村三右衛門久正の女

寛永9年8月22日 家光に仕える。小十人。100俵

寛永19年12月16日 200俵 ●「日記」共

慶安2年2月25日 納戸番

慶安4年12月11日 父清正の遺跡分知。200石

延宝2年8月20日 死す
竹川経秀
生。監物
たけかわつねひで
監物信経の男
寛政譜19・48
父信経に継いで徳川忠長に仕える

(寛永9年) 処士

(寛永19年12月10日) (駿河大納言殿御部屋住衆) ●「日記」

寛永19年12月10日 家光に仕える。采地を賜る

寛永19年12月10日 如前々御知行被下之 ●「日記」

寛永19年12月15日 滝川監物渡部弥兵衛知行御切米被下之并同心七人宛如前々被仰付之―


―甲州町々仕置等可仕 ●「日記」


徳川綱重に付属される

延宝6年1月15日 死す
武嶋茂次(七郎右衛門)
生。市十郎。七郎右衛門。はじめ竹嶋と記す
たけしましげつぐ
市郎兵衛茂正の長男
寛政譜17・262
母は石谷十右衛門政信の女


妻は山岡伝右衛門景信の女

寛永13年12月15日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永18年 大番

(寛永20年12月18日) (七郎右衛門の初出) ●「日記」

寛永20年12月18日 弐百俵 ●「日記」

承応3年12月 父茂正の遺跡を継ぐ。1000石

(延宝) (武嶋と記す)


大番を辞す

元禄3年7月9日 致仕

元禄10年5月10日 死す
武嶋茂次(与惣左衛門) 文禄4年 生。与四郎。与惣左衛門。(与左衛門)
たけしましげつぐ
与四郎茂貞の男
寛政譜17・267 慶長18年 はじめて家康に拝謁

元和元年~ 大番。200俵

寛永10年2月7日 400石

(寛永12年) 父茂貞の遺跡を継ぐ。400石

寛永18年3月19日 死す
竹嶋茂成
生。七大夫
たけしましげなり
大炊助茂幸の長男
寛政譜17・262 慶長8年 家康に仕える

慶長19年 父茂幸の遺跡を継ぐ。500石。大番

元和元年~ 大番組頭

寛永10年2月23日 1000石

寛永20年11月11日 死す
武嶋茂信 寛永5年 生。(長五郎)。長三郎。宇右衛門
たけしましげのぶ
与惣左衛門茂次の長男
寛政譜17・267
妻は小宮山十左衛門吉広の女


後妻は窪田半兵衛久重の女

寛永18年12月4日 父茂次の遺跡を継ぐ。400石。小普請

寛永18年12月4日 四百石竹嶋与左衛門跡右惣領長五郎ニ被下之 ●「日記」

明暦2年9月14日 大番

元禄6年1月19日 大番組頭

元禄8年11月9日 死す
竹嶋茂正 慶長4年 生。市郎兵衛
たけしましげまさ
七大夫茂成の長男
寛政譜17・262
妻は石谷十右衛門政信の女

慶長19年~ 秀忠に仕える。大番


腰物持

寛永9年11月5日 腰物奉行 ●「日記」共


腰物奉行を辞す。小普請

寛永20年12月7日 父茂成の遺跡を継ぐ。1000石

寛永20年12月7日 千石七大夫跡竹嶋一郎兵衛市郎兵衛三百俵御切米差上之 ●「日記」

承応2年12月29日 死す
竹田定勝 寛永7年 生。亀千代丸。式部。式部卿。法印。養寿院
たけださだかつ
法印定宣の六男
寛政譜12・170
母は近藤周防守忠用の女


妻は斎藤佐渡守利宗の女


出家。建仁寺にあり


還俗

正保元年11月13日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

慶安元年10月25日 父定宣の遺跡を継ぐ。500石。月俸50口

寛文元年12月19日 番医

寛文5年12月28日 法印。御側に伺候。江戸に住す

寛文12年12月9日 致仕。養寿院と号す

元禄7年5月1日 死す
竹田林春
生。(易益)。専益
たけだしげはる
専益正林の長男
寛政譜18・307
母は伊勢祭主三位の女


妻は松平加賀守家臣馬淵嘉右衛門の女

寛永元年 はじめて秀忠・家光に拝謁

寛永10年12月3日 専益跡実子易益被下之 ●「日記」

(寛永11年1月2日) (専益の初出) ●「日記」

万治2年2月3日 番医

寛文7年1月2日 死す
竹田定昌 元和6年 生。宮内卿
たけだじょうしょう
法印定宣の四男
寛政譜12・170
母は近藤周防守忠用の女

寛永11年3月18日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共


父定宣とともに禁裏や江戸に伺候

寛永20年9月22日 死す
竹田定宣 天正元年 生。仙千代丸。法橋。法眼。法印
たけだじょうせん
定加の三男
寛政譜12・169
母は松平監物家次の女


妻は近藤周防守忠用の女


医師

慶長9年8月25日 法橋

慶長11年4月5日 法眼

慶長13年 はじめて家康に拝謁

慶長13年4月16日 法印

元和3年8月24日 500石。月俸50口

慶安元年1月15日 死す
武田信貞 寛永8年 生。新十郎。越前守。兵庫頭。はじめ川窪を称す
たけだのぶさだ
川窪越前守信雄の長男
寛政譜3・153
母は高木主水正正次の養女山田十大夫重利の女


妻は本多美作守忠相の女

寛永16年 はじめて家光に拝謁

寛永16年10月18日 父信雄の遺跡を継ぐ。2000石。寄合

寛永16年10月18日 川窪越前跡職弐千七百石実子新十郎被下之旨中山勘解由え―


―被申渡之越前守知行之内近年御加増分七百石ハ―


―被召上之 ●「日記」

正保元年11月13日 継目之御礼 ●「日記」

寛文4年6月7日 書院番頭

寛文4年12月25日 2000石1000俵

寛文4年12月28日 従五位下・越前守

寛文4年12月29日 命により武田の称号に復す

寛文10年12月1日 大番頭

天和2年4月21日 4000石1000俵


4710石1000俵

天和3年10月25日 閉門

貞享元年9月25日 ゆるされる。小普請

元禄10年7月26日 5710石

宝永4年5月21日 寄合

宝永7年4月26日 致仕

正徳元年3月23日 死す
武田信重 天正12年 生。徳丸。道安。猟徳院。法眼。法印
たけだのぶしげ
修理信治の長男
寛政譜3・212
妻は松平安芸守浅野光晟家臣の水野市之丞の女


京都にて医師


浅野幸長に拝謁


藤原惺窩に師事


参内し天脉を診る

元和9年5月27日 法眼

(寛永16年8月27日) (道安法印) ●「日記」

正保元年1月22日 法印 ●「日記」共

明暦2年12月23日 東福門院に附属される。月俸100口

寛文5年5月9日 死す
武田信安 寛永10年 生。忠三郎。与左衛門。はじめ川窪を称す
たけだのぶやす
川窪越前守信雄の次男
寛政譜3・155
母は高木主水正正次の養女山田十大夫重利の女


妻は松平淡路守忠直の女

寛永16年 父信雄の遺跡分知。700石。小普請

正保元年11月13日 はじめて家光に拝謁

正保元年11月13日 継目之御礼 ●「日記」

慶安3年9月3日 西丸小姓組

(慶安4年) 本丸に勤仕

万治元年閏12月19日 小姓組。進物役

寛文3年11月18日 小姓組組頭

寛文3年12月26日 700石300俵

寛文3年12月28日 布衣

寛文5年 兄兵庫頭信貞と同じく武田に改める

延宝3年10月16日 新番頭

天和2年4月21日 1400石300俵

元禄10年7月26日 1700石

元禄11年12月25日 新番頭を辞す。寄合

元禄12年1月24日 死す
武田兵庫
土御門左衛門佐久脩の四男武田藤兵衛信勝か?
たけだひょうご (寛永11年7月21日) (地下) ●「日記」






竹田政清 文禄3年 生。六郎右衛門
たけだまさきよ
助右衛門政長の次男
寛政譜13・134
母は織田家臣伴千大夫の女


妻は美濃部地蔵大夫茂数の女

寛永5年8月13日 外族美濃部八蔵茂俊の請によりはじめて家光に拝謁

寛永5年8月18日 小十人

寛永6年12月 100俵

寛永9年8月25日 200俵


蔵奉行

寛永19年8月18日 弐百俵小十人組竹内六郎左衛門浅草方御蔵奉行被仰付 ●「日記」


銅及び残物奉行


務を辞す。勘定奉行の支配に属す

延宝6年7月1日 死す
竹田正林 天文19年 生。専益
たけだまさしげ
森玄蕃弘晴の三男
寛政譜18・307
母は水野山城守の女


妻は伊勢祭主三位の女


竹田定加法印に医を学ぶ。京に住す


伏見にて秀忠に拝謁

慶長10年 江戸にて仕える。医師。300俵。崇源院に付属される

寛永10年2月18日 死す
竹田政盛 元和6年 生。八郎右衛門。二郎右衛門。藤右衛門
たけだまさもり
六郎右衛門政清の長男
寛政譜13・134
母は美濃部地蔵大夫茂数の女


妻は朝比奈市平の女

正保元年11月13日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

慶安2年12月26日 小十人


100俵。月俸10口

寛文4年12月29日 小十人組頭

寛文5年12月25日 300俵

天和2年4月22日 400俵

貞享4年12月29日 裏門切手番頭

元禄5年6月25日 裏門切手番頭を辞す。小普請

元禄7年1月19日 死す
竹中源三郎
生。源三郎
たけなかげんざぶろう
采女正重義の男
寛政譜6・306 (寛永11年2月22日) 父重義に連座して切腹

寛永11年2月22日 竹中采女父子今日切腹 ●「日記」
竹中重賢 元和元年 生。貞右衛門
たけなかしげかた
吉十郎重房の男
寛政譜6・307
母は織田民部大輔信重の女


妻は仙石大和守久隆の女

元和元年 父重房の遺跡を継ぐ。2230石。寄合

寛永19年8月21日 死す
竹中重門 天正元年 生。吉助。丹後守
たけなかしげかど
半兵衛重治の男
寛政譜6・303
母は安東伊賀守範俊の女


妻は加藤遠江守光泰の女


秀吉に仕える

天正16年 従五位下・丹後守

慶長5年 関ケ原の役にて家康に味方する


美濃国岩手(6000石)

寛永2年10月23日 美濃国岩手6000石

寛永8年閏10月9日 死す

寛永10年1月10日 御暇 ●「日記」(竹村丹後守の誤りか?)
竹中重常 慶長3年 生。竹之助。左京亮。越中守
たけなかしげつね
丹後守重門の長男
寛政譜6・303
母は加藤遠江守光泰の女


妻は杉原伯耆守長房の女

慶長19年 はじめて家康に拝謁

(寛永8年) 父重門の遺跡を継ぐか。美濃国岩手6000石

正保4年3月6日 近江国柏原御料地2万890石を預かる

万治元年閏12月27日 従五位下・越中守

寛文3年12月26日 近江国柏原御料地が収公される

寛文4年7月4日 死す
竹中重信
生。筑後守
たけなかしげのぶ
伊豆守重利の次男
寛政譜6・306 ~寛永3年 秀忠に仕える。3000石。寄合

寛永11年2月22日 佐竹修理大夫義隆に召し預けられる ●「日記」共

寛永16年8月5日 竹中筑後守病死之由佐竹修理大夫注進之因玆為検使―


―岡田太郎右衛門被差遣之 ●「日記」
竹中重職 寛永16年 生。吉十郎。監物
たけなかしげもと
貞右衛門重賢の男
寛政譜6・307
母は仙石大和守久隆の女


妻は北条右近大夫氏利の女

寛永19年11月12日 父重賢の遺跡を継ぐ。2230石。寄合

寛永19年11月12日 御旗本衆令死去跡被下之但自分之知行御切米何も上 ●「日記」

慶安元年6月10日 はじめて家光に拝謁

元禄15年7月7日 死す
竹中重義
生。采女正
たけなかしげよし
伊豆守重利の長男
寛政譜6・306
母は遠江守重元の女


室は松平周防守松井康重の女


秀忠に仕える


長崎奉行

寛永10年2月11日 長崎奉行をゆるされる

寛永10年2月11日 長崎之奉行御赦免 ●「日記」

寛永11年2月22日 切腹 ●「日記」共
竹内孝治 天正14年3月18日 生。蔵人。左近将監。中務大丞。刑部少輔。刑部卿
たけのうちたかはる
刑部卿長治の男
諸家伝下・767
母は松永弾正少弼久秀の女
宮廷公家系図集覧474 慶長3年11月1日 蔵人


左近将監

慶長9年8月1日 中務大丞

慶長16年3月28日 従五位下

慶長16年4月25日 刑部少輔

慶長17年12月28日 従五位上

慶長18年1月6日 正五位下

元和5年1月5日 従四位下

元和9年1月5日 従四位上

寛永5年1月7日 正四位下

寛永9年1月5日 従三位

寛永11年1月11日 刑部卿

寛永14年1月5日 正三位

正保4年1月5日 従二位

明暦3年11月20日 刑部卿をとどめられる

万治3年10月12日 薨去
竹内俊治 慶長16年12月7日 生。蔵人。左近将監。弾正少弼。弾正大弼
たけのうちとしはる
刑部卿孝治の男
諸家伝下・767 寛永5年1月22日 蔵人。左近将監。正六位上
宮廷公家系図集覧474 寛永10年10月5日 弾正少弼

(寛永11年7月21日) (差次) ●「日記」

寛永13年12月27日 極﨟

(寛永17年4月19日) (極﨟の初出) ●「日記」

寛永20年8月3日 従五位下

正保元年1月5日 従五位上

正保2年1月6日 正五位下

正保3年1月11日 弾正大弼

正保4年8月21日
竹内信就 寛永7年 生。平三郎。平十郎。三郎兵衛
たけのうちのぶなり
平右衛門信正の長男
寛政譜15・244
母は松平金兵衛の女


妻は御手洗吉左衛門昌重の女

正保元年11月10日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保2年12月19日 父信正の遺跡を継ぐ。300俵

承応2年7月 大番

寛文6年4月7日 仮の豊後国日田郡の代官

寛文9年2月 仮の代官を辞す

貞享元年2月23日 代官

貞享4年7月6日 六郷庄之助政晴に召し預けられる

元禄5年5月9日 赦免

元禄7年5月10日 200俵。小普請

元禄7年8月9日 死す
竹内信正 慶長4年 生。平右衛門
たけのうちのぶまさ
五左衛門信次の次男
寛政譜15・244
妻は松平金兵衛の女

寛永4年5月15日 家光に仕える。小十人


100俵。月俸10口

寛永6年7月23日 小十人組頭

寛永7年10月 300俵

寛永18年10月26日 小十人組頭をゆるされる。小普請

寛永18年10月26日 小十人組之組頭之内年寄之者御番御免被成連々別之御役可被仰付―


―之旨ニ依テ佐々木庄兵衛小佐手左介西山忠左衛門山本又右衛門―


―竹内平右衛門右五人御番御免鳥居三郎右衛門小野忠三郎―


―阿部甚五左衛門服部三郎右衛門坂部孫四郎此五人右之替ニ―


―組頭被仰付之 ●「日記」

正保2年6月24日 死す
竹内吉明 慶長16年 生。権之丞。又右衛門
たけのうちよしあきら
源右衛門吉勝の養子。中沢主税助の次男
寛政譜18・281
妻は源右衛門吉勝の長女

寛永5年 大番。150俵


200俵

寛永10年2月7日 400石

寛永20年2月10日 死す
竹内吉勝 天正10年 生。源右衛門
たけのうちよしかつ
五六左衛門吉安の男
寛政譜18・281 天正18年 家康に仕える。御側小姓。200俵


大番

~寛永11年 大坂蔵奉行。300俵

承応3年8月1日 死す
竹内幸和 寛永10年 生。与五郎。五郎左衛門
たけのうちよしすす
又右衛門吉明の長男
寛政譜18・282
妻は山角市左衛門勝重の女


後妻は織田主計頭貞置の女

寛永20年12月7日 父吉明の遺跡を継ぐ。400石。小普請

寛永20年12月7日 四百石又右衛門跡竹内与五郎 ●「日記」

慶安元年6月6日 大番

寛文5年10月4日 大番組頭

寛文5年12月25日 400石200俵

天和2年5月21日 400石400俵

元禄5年10月9日 大番組頭を辞す

元禄10年7月26日 800石

元禄13年8月9日 死す
竹腰信良 元和3年 生。源太郎。大膳。出雲守。三信
たけのこしのぶよし
山城守正信の長男
士林泝洄1・59
母は松平右衛門大夫康寛の女

寛永10年 尾張家臣。4000石

(寛永10年3月26日) (大膳亮) ●「日記」

寛永11年 従五位下・出雲守

(寛永12年11月1日) (出雲守の初出) ●「日記」

寛永14年 病により出仕せず

寛永15年 所領を辞す

(正保2年) 家督を辞す。剃髪。三信と号す

元禄元年2月21日
竹腰正信 天正19年 生。満丸。小伝次。伝次郎。左伝次。山城守
たけのこしまさのぶ
助九郎正時の男
士林泝洄1・58
母は志水加賀守宗清の女相応院
柳営婦女伝系6
祖父意休重時に養育される
(徳川諸家系譜1・168) 文禄4年 家康に拝謁

慶長10年 5000石。小伝次と称す。(徳川義直に仕える)

慶長12年 1万5000石

慶長16年3月22日 従五位下・山城守

慶長17年1月 尾張家老。同心50騎を預かる

元和3年 3万石

正保2年4月29日
武野知信
生。五郎。安斎
たけのとものぶ
方寸斎の次男
士林泝洄4・12
徳川義直に仕える。儒者。400石


450石

正保元年1月10日 銀三十枚小袖三尾張殿安斎今度諸家系図被仰付依令首尾被下之 ●「日記」


以下不詳(承応頃まで生存か)
建部賢豊 元和4年 生。六蔵。甚右衛門
たけべかたとよ
伝右衛門昌興の三男
寛政譜7・72
妻は外山忠兵衛正吉の女

寛永12年 家光に仕える。右筆

寛永14年11月26日 200俵 ●「日記」共

慶安2年10月19日 徳川綱重に付属される。370俵

元禄3年5月2日 死す
建部直恒 元和6年 生。三四郎。与兵衛
たけべなおつね
伝右衛門昌興の四男
寛政譜7・75
母は高山主水正盛聡の女


妻は春田長兵衛平狂の女

寛永20年12月29日 建部伝右衛門三番子四番子被召出之 ●「日記」

正保元年1月21日 右筆

正保元年2月20日 はじめて家光に拝謁

正保元年2月20日 今度御右筆御役被召出付て御礼 ●「日記」

正保元年12月25日 150俵 ●「日記」共

明暦2年12月23日 200俵

貞享3年2月22日 右筆を辞す。小普請

元禄15年閏8月18日 死す
建部昌興 天正8年 生。伝内。伝右衛門。宗西
たけべまさおき
道孤入道賢文の三男
寛政譜7・69
母は井上氏


妻は高山主水正盛聡の女

(天正18年) 井上氏のもとに住す。書を学ぶ

慶長元年 はじめて家康に拝謁。右筆。500石


御側に侍して筆翰の事をつとめる


松平薩摩守忠吉等に筆道を伝える

慶長5年 820石

元和2年 秀忠に仕える。昵近

寛永元年 西丸に勤仕

寛永3年 二条行幸のとき朝廷の規式・武家の故実を筆記し提出

(寛永18年12月29日) (御右筆衆) ●「日記」

明暦元年 致仕。宗西と号す

明暦元年4月18日 死す
建部昌親 元和4年 生。次右衛門。次郎右衛門
たけべまさちか
伯父伝右衛門昌興の猶子。建部伝内賢文の五男休意の男
寛政譜7・80
妻は朝比奈伝兵衛昌勝の女

寛永16年11月10日 はじめて家光に拝謁。右筆

寛永16年11月10日 御右筆ニ依被召出以樽代御礼 ●「日記」


200俵

寛文6年8月21日 右筆を辞す。小普請

元禄元年11月16日 死す
建部政長 慶長8年 生。三十郎。内匠。丹波守。自得
たけべまさなが
内匠頭光重の三男
寛政譜7・81
母は池田三左衛門輝政の養女


室は酒井讃岐守忠勝の女

慶長15年 秀頼により改易のところ家康の仲介により父光重の遺跡を継ぐ

慶長15年 700石。摂津国尼崎に住す

慶長19年 大坂の役にて尼崎を守備

元和元年 大坂の役にて尼崎を守備

元和元年7月21日 摂津国1万石

元和3年9月11日 播磨国林田1万石

(寛永12年6月30日) (三十郎と内匠を並記) ●「日記」

(寛永13年2月29日) (内匠) ●「日記」

(寛永17年7月7日) (内匠頭) ●「日記」

寛文元年12月28日 従五位下・丹波守

寛文7年8月28日 致仕。自得と号す

寛文12年4月18日
建部昌英 元和9年 生。又四郎。勘右衛門。惣右衛門
たけべまさふさ
伝右衛門昌興の五男
寛政譜7・77
母は高山主水正盛聡の女


妻は三島清左衛門政吉の女

寛永20年12月29日 建部伝右衛門三番子四番子被召出之 ●「日記」

正保元年1月21日 右筆

正保元年2月20日 はじめて家光に拝謁

正保元年2月20日 今度御右筆御役被召出付て御礼 ●「日記」

正保元年12月25日 150俵 ●「日記」共

明暦2年12月30日 200俵

延宝7年11月27日 右筆を辞す。小普請

貞享3年閏3月20日 死す
建部光延 慶長14年 生。千松。勘兵衛。宇右衛門
たけべみつのぶ
内匠頭光重の四男
寛政譜7・84
母は池田三左衛門輝政の養女

元和元年 兄政長の人質として家康に拝謁

寛永元年12月 小姓組


500石

寛文9年~ 小姓組を辞す。小普請

貞享3年閏3月17日 死す
竹村万嘉
生。藤兵衛
たけむらかずよし
丹後道清の男
寛政譜15・265
妻は本多三弥左衛門正重の女

~慶長19年 秀忠に近侍

元和元年~ 小姓組

寛永12年12月 父道清の遺跡を継ぐ。1000石

寛永13年2月13日 死す
竹村九左衛門

たけむらくざえもん
小笠原壱岐守忠知に仕える

(寛永16年8月10日) (小笠原壱岐守家老) ●「日記」



竹村道清 (永禄4年) 生。弥九郎。九兵衛。丹後
たけむらみちきよ
与吉兵衛善春の長男
寛政譜15・264
母は富松因幡の女

元亀元年 父善春討死のため外祖父富松因幡のもとに寓居


人質として近江国安土城にあり

天正10年6月 大和国竹内峠にて家康を郷導

慶長 1000石。石見奉行

(寛永10年1月10日) (竹中丹後守) ●「日記」

寛永12年6月12日 死す
竹村嘉有
生。権七郎。弥太郎。与兵衛
たけむらよしあり
弥太郎嘉勝の長男
寛政譜15・267
母は竹村丹後道清の女

寛永18年12月4日 父嘉勝の遺跡を継ぐ。300俵。小普請

寛永18年12月4日 三百俵御代官竹村弥太郎跡右惣領権七郎ニ被下之 ●「日記」

万治元年 代官

延宝6年8月16日 代官を辞す。致仕

天和3年7月27日 死す
竹村嘉勝 慶長5年 生。弥太郎
たけむらよしかつ
九郎右衛門嘉理の長男
寛政譜15・266
妻は竹村丹後道清の女

寛永9年8月27日 佐渡奉行。伊豆国奉行

寛永9年8月27日 佐渡之地被仰付 ●「日記」

(寛永9年8月27日) (孫太郎) ●「日記」

(寛永10年7月30日) (佐州御代官) ●「日記」

(寛永10年7月30日) (弥太郎) ●「日記」

寛永10年10月26日 佐州へ被遣 ●「日記」

(寛永10年10月26日) (弥二郎) ●「日記」

(寛永17年5月28日) (御代官) ●「日記」

寛永18年10月27日 死す
竹村嘉理 永禄9年 生。弥吉。九郎右衛門
たけむらよしまさ
与吉兵衛善春の次男
寛政譜15・266
母は富松因幡の女

元亀元年 父善春討死のため外祖父富松因幡のもとに寓居


人質として近江国安土城にあり


大久保石見守長安に仕える

慶長18年 家康に拝謁

寛永4年7月30日 佐渡奉行

寛永6年11月29日 1000石

寛永8年9月15日 死す
竹本外記

たけもとげき (寛永12年6月14日) (松平安芸守家来) ●「日記」



竹本正清 元和9年 生。八左衛門。心休
たけもとまさきよ
茂兵衛正吉の三男
寛政譜15・261
妻は筒井久平正成の女

寛永13年12月27日 大番 ●「日記」共


200俵

慶安4年9月29日 綱吉に付属される。神田館にて徒頭


加増あり


徒頭を辞す

延宝8年 徳松に付属される。西丸に伺候。500俵

天和3年 徳松逝去ののち小普請

貞享2年12月12日 致仕。心休と号す

元禄5年11月7日 死す
竹本正茂
生。八兵衛。半左衛門
たけもとまさしげ
猪右衛門正時の長男
寛政譜15・257 寛永13年3月25日 はじめて家光に拝謁

寛永13年3月25日 竹本伊右衛門子被召出之 ●「日記」

寛永13年3月25日 大久保右京亮組(大番) ●「日記」

寛永15年10月24日 大番 ●「日記」共

慶安4年 徳川綱重に付属される。持弓頭

延宝7年3月22日 死す
竹本正時
生。猪右衛門
たけもとまさとき
茂兵衛正吉の長男
寛政譜15・255
秀忠に仕える。大番


家光に仕える


200石

(寛永13年3月25日) (大久保右京亮組) ●「日記」

寛永19年8月18日 切米手形改

寛永19年8月18日 御切米手形之役人 ●「日記」

万治元年11月20日 死す
竹屋光長 慶長元年11月9日 生。右衛門権佐。右兵衛権佐。蔵人。少弁。中弁。宮内卿。
たけやみつなが
参議。中納言
諸家伝上・490
大蔵卿越中権守光継の嗣。広橋大納言総光の三男
宮廷公家系図集覧390
断絶していた竹屋家を継ぐ

慶長7年1月6日 従五位下

慶長13年1月20日 元服。昇殿

慶長14年2月11日 右衛門権佐

慶長16年3月21日 右兵衛権佐

慶長16年閏4月21日 従五位上

慶長18年11月11日 蔵人・右兵衛権佐

慶長18年11月21日 権右少弁

慶長19年1月5日 正五位下

慶長19年7月7日 権左少弁

元和元年12月28日 左少弁

元和2年1月5日 正五位上

元和5年7月10日 右中弁

元和9年1月5日 従四位下

寛永3年8月2日 従四位上

寛永4年9月 右中弁を辞す

寛永5年2月10日 正四位下

寛永6年3月5日 宮内卿

寛永9年1月5日 従三位

寛永16年12月29日 正三位

寛永19年12月22日 参議・宮内卿

寛永20年1月11日 参議・宮内卿等を辞す

慶安2年4月24日 従二位

明暦3年12月6日 権中納言。帯剣

明暦3年12月14日 直衣

明暦3年12月19日 権中納言を辞す

万治2年2月21日 薨去
竹屋光久 寛永2年9月14日 生。右衛門権佐。参議
たけやみつひさ
兄右衛門権佐光通の嗣。中納言光長の次男
諸家伝上・490 寛永9年12月5日 従五位下
宮廷公家系図集覧390 寛永10年5月4日 元服。昇殿。右衛門権佐

寛永14年1月5日 従五位上

寛永19年1月5日 正五位下

正保元年4月11日 去頃御方領依拝領太刀目録持参御礼 ●「日記」

正保3年1月5日 従四位下

慶安3年1月5日 従四位上

承応3年1月5日 正四位下

万治元年1月5日 従三位

寛文2年1月12日 正三位

寛文4年9月30日 参議

寛文7年12月17日 参議を辞す

貞享3年9月19日 薨去
田沢次郎八

たざわじろうはち


寛永15年12月18日 御切米七拾俵新儀被下之 ●「日記」



田沢道賀 永禄12年 生。清雲。法橋。法眼
たざわとうが
越前守常直の男
寛政譜12・155
妻は豊臣秀頼家臣稲田喜左衛門正時の女


幼少のとき父常直が戦死。京都に移住。延寿院東井に医を学ぶ


豊臣秀頼に仕える

元和元年~ 奈良に住す


江戸に住す

元和7年 はじめて秀忠に拝謁

寛永元年6月8日 法橋

寛永10年12月28日 家光に仕える。法眼

寛永15年12月1日 100俵月俸10口

寛永15年12月1日 先年被召出医師清雲御切米百俵拾人扶持被下之 ●「日記」

寛永16年11月19日 死す
田沢正勝 元和9年 生。伝蔵。七右衛門。七郎左衛門。久左衛門
たざわまさかつ
久左衛門正義の男
寛政譜3・173
母は山田清大夫重次の女


妻は石川与次右衛門重正の女

寛永10年6月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永18年 大番

(寛永20年12月18日) (七郎右衛門) ●「日記」

寛永20年12月18日 田沢七郎右衛門大御番無足当年より御切米弐百俵被下之 ●「日記」

慶安元年6月14日 新番

承応3年12月27日 父正義の遺跡を継ぐ。750石

天和2年2月22日 死す
田沢正成 寛永14年 生。右衛門八。弥十郎
たざわまさなり
伝左衛門正則の男
寛政譜3・177
母は久野掃部の女


妻は松平長左衛門舎治の女

正保元年12月25日 父正則の遺跡を継ぐ。200俵。小普請

正保元年12月25日 跡目被仰付弐百俵田沢伝左衛門惣領右衛門八 ●「日記」

明暦2年5月11日 小十人


小十人を辞す

元禄7年6月21日 死す
田沢正則 慶長11年 生。伝左衛門
たざわまさのり
久左衛門正久の三男
寛政譜3・177
母は志村又左衛門貞盈の女


妻は久野掃部の女

寛永9年8月 家光に仕える。小十人


月俸10口

~寛永11年 100俵。月俸10口

寛永19年12月16日 200俵

寛永19年12月16日 御加恩百俵被下之日来御切米共ニ弐百俵被仰付 ●「日記」

正保元年5月18日 死す
田沢正義 慶長7年 生。久左衛門
たざわまさよし
久左衛門正久の次男
寛政譜3・173
母は志村又左衛門貞盈の女


妻は山田清大夫重次の女

元和4年 はじめて秀忠に拝謁

(元和7年) 父正久の遺跡を継ぐ。大番。400石150俵

寛永10年2月7日 750石

(寛永10年6月1日) (堀市正組) ●「日記」

承応3年5月27日 死す
田沢意春 慶長5年 生。江斎。清雲
たざわもとはる
清雲道賀の長男
寛政譜12・155
母は豊臣秀頼家臣稲田喜左衛門正時の女


妻は豊臣秀頼家臣石井久右衛門源甫の女

寛永16年 父道賀の遺跡を継ぐ。100俵月俸10口

寛永16年12月 はじめて家光に拝謁

(寛永17年6月16日) (清雲) ●「日記」

正保3年6月11日 北の薬園を支配

慶安4年 200俵

延宝6年7月10日 致仕

天和2年1月26日 死す
多田秀正
生。庄左衛門
ただひでまさ
庄左衛門秀清の男
寛政譜19・163
鳥見役

(寛永13年8月23日) (昨日初て御鷹野ニ当年初て被為成付て(銀子)被下之 ●「日記」

(元禄3年) 死す
多田正次 慶長5年 生。八助
ただまさつぐ
八右衛門正吉の次男
寛政譜5・77
秀忠・家光に仕える。大番。215石

寛永14年4月 死す
多田正与
生。三吉。所右衛門
ただまさとも
所右衛門正信の男
寛政譜5・84
家光に仕える。500石


西丸小姓組

寛永13年12月27日 大番 ●「日記」共


大番を辞す。300石。武蔵国入間郡堀込村に閑居

承応2年6月24日 死す
多田正行
生。右衛門次郎
ただまさゆき
八助正次の男
寛政譜5・77
家光に仕える

寛永15年12月21日 父正次の遺跡を継ぐ。215石

寛永15年12月21日 弐百十五石八助跡目 ●「日記」


以下不詳
畳屋修理

たたみやしゅり
畳職人か



畳屋新次郎

たたみやしんじろう




畳屋与一郎

たたみやよいちろう
畳職人か



立花忠茂 慶長17年7月7日 生。千熊丸。大助。左近将監。飛騨守。侍従。好雪
たちばなただしげ
飛騨守宗茂の養子。立花主膳正直次の四男
寛政譜2・372
母は岡氏


室は永井信濃守尚政の女


継室は伊達陸奥守忠宗の女

元和8年12月27日 秀忠の御前にて元服。従五位下・左近将監。偏諱を賜る

寛永14年4月3日 養父宗茂の封を継ぐ。筑後国柳河城10万9600石

寛永16年4月3日 立花左近以太刀目録御礼是去比立斎法体之儀被仰付―


―因玆家督相続之義息左近ニ依被仰付御礼申上云々 ●「日記」

寛永18年1月1日 従四位下

寛永18年1月11日 叙位之御礼 ●「日記」

寛永20年12月28日 立花左近将監え松平陸奥守娘縁辺被仰付 ●「日記」

明暦3年12月27日 侍従

万治2年12月28日 飛騨守

寛文4年閏5月7日 致仕。好雪と号す

延宝3年9月19日
立花種次 慶長9年 生。弥七郎。主膳正
たちばなたねつぐ
主膳正直次の長男
寛政譜2・377
母は筑紫上野介広門の女


室は佐久間大膳亮勝之の女

元和3年5月3日 はじめて秀忠に拝謁

元和3年10月 父直次の遺跡を継ぐ。5000石

元和7年1月10日 筑後国三池1万石

元和9年8月6日 従五位下

寛永7年3月29日

寛永12年6月30日 (当年在江戸之歴々として長男民部種長と並記) ●「日記」―


―もしくは種長が主膳正を称していたか
立花種長 寛永2年 生。仙千代。弥七郎。(主膳正)。民部。和泉守。道運
たちばなたねなが
主膳正種次の長男
寛政譜2・377
母は佐久間大膳亮勝之の女


室は市橋下総守長政の女


継室は小出大和守吉英の女

寛永7年 父種次の遺領を継ぐ。筑後国三池1万石

寛永7年12月25日 はじめて家光に拝謁

(寛永12年6月30日) (主膳正と民部を並記) ●「日記」 主膳正も種長を指すか

(寛永13年5月9日) (立花主膳正幼少故無登営) ●「日記」

(寛永16年5月27日) (民部) ●「日記」

寛永16年5月27日 立花民部所へ市橋下総守娘縁辺 ●「日記」

(寛永17年8月15日) (民部少) ●「日記」

万治3年12月28日 従五位下・和泉守

天和2年2月27日 致仕。道運と号す

正徳元年2月1日
立花種吉 慶長13年 生。松千代丸。与兵衛。甲斐守
たちばなたねよし
主膳正直次の次男
寛政譜2・380
母は岡氏


妻は野一色外記義重の女

元和9年11月 はじめて秀忠・家光に拝謁


小姓。500石

寛永7年12月29日 従五位下・甲斐守


書院番

寛永9年11月5日 書院番・進物役

寛永9年11月5日 本番御免。進物番 ●「日記」

寛永10年2月7日 700石

正保2年9月19日 死す
立花宗茂 永禄12年 生。千熊丸。弥十郎。左近。左近将監。飛騨守。侍従。立斎
たちばなむねしげ
戸次鑑連入道道雪の養子。高橋鎮種入道紹運の長男
寛政譜2・370
母は斎藤兵部大輔鎮実の女


室は鑑連入道道雪の女


継室は家臣矢嶋勘兵衛秀行の女。また葉室中納言頼宣の女

天正9年10月25日 立花家の養子となる

天正13年10月 養父鑑連の遺領を継ぐ。筑前国立花山城

天正14年 秀吉に属す

天正15年6月5日 筑後国柳河城13万2200石。羽柴の称号を許される

天正15年7月2日 従四位下・侍従・左近将監

慶長5年10月 身命を助けられる

慶長8年10月25日 陸奥国棚倉1万石

慶長15年7月27日 陸奥国棚倉3万石

元和6年11月27日 筑後国柳河城10万9600石

元和8年12月27日 飛騨守


秀忠の相伴の列に加えられる

(寛永12年12月21日) (御咄之衆) ●「日記」

寛永14年4月3日 致仕

寛永15年10月20日 剃髪。立斎

寛永15年11月1日 立花立斎以太刀目録御礼是法体以後始て也 ●「日記」

(寛永16年12月22日) (飛騨守) ●「日記」

寛永19年11月25日
立花宗茂養女(本多室)
寛政譜2・372
飛騨守宗茂の養女。立花家臣小田部新助統房の女
寛政譜11・242
本多下総守俊次に嫁ぐ

元和3年 本多縫殿頭康長を産む


女子を産む。のちの牧野大和守光成の室

元和8年 本多兵部少輔康将を産む

元和9年 本多大蔵忠顕を産む

寛永2年 本多土佐守忠隆を産む


本多平助俊正を産む

寛永12年1月21日 頃当地下着 ●「日記」


(以下不詳)
立原久大夫

たちはらきゅうだゆう
持弓組

(寛永17年1月7日) (松平新五左衛門徒同心) ●「日記」

寛永17年1月7日 松平新五左衛門ニ被召預云々 ●「日記」

寛永17年1月8日 雖可為斬罪此度は被免之追布被仰付之 ●「日記」



田付景利 元和5年 生。武蔵。四郎兵衛
たつけかげとし
従兄兵庫景治の養子。土井大炊頭家臣田付新兵衛の四男
寛政譜7・336
妻は川勝太郎兵衛重氏の女

寛永11年 はじめて家光に拝謁

寛永14年12月8日 養父景治の遺跡を継ぐ。500石。鉄炮方

寛永14年12月8日 五百石兵庫跡田付四郎兵衛 ●「日記」

(寛永17年6月16日) (兵庫) ●「日記」

正保元年6月6日 青銅大筒の遠飛を工夫

慶安元年11月6日 与力3騎同心20人

慶安3年7月3日 阿蘭陀献上の玉火矢筒をあずかる

慶安4年8月16日 布衣

明暦元年4月 与力3騎同心20人。召筒磨同心12人

寛文5年2月7日 召筒13挺の張立をうけたまわる

寛文6年9月8日 与力5騎同心20人。召筒磨同心12人

延宝8年9月21日 失火あるとき見廻

天和2年4月21日 800石

天和3年1月24日 失火あるとき見廻

貞享2年7月3日 死す
田付景治 天正9年 生。四郎兵衛。兵庫
たつけかげはる
兵庫助景澄の男
寛政譜7・336 元和5年12月 父景澄の遺跡を継ぐ。500石。炮術師範

(寛永12年6月16日) (兵庫助の初出) ●「日記」

寛永14年3月14日 死す
達長老
建仁寺長老
たつちょうろう




伊達阿波

だてあわ
松平陸奥守伊達忠宗に仕える

(寛永15年5月17日) (松平越前守家老) ●「日記」



伊達勝治 寛永9年 生。大学。与兵衛。庄兵衛
だてかつはる
庄兵衛房次の長男
寛政譜18・275 寛永16年10月26日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永20年 父房次の遺跡を継ぐ。850石。小普請

慶安2年5月6日 死す
伊達景次 天正12年 生。本覚
だてけいじ
本覚景長の男
寛政譜17・230 (慶長16年) 眼科医

寛永4年12月 100俵

寛永15年12月 100俵。月俸10口

寛永15年12月1日 元御切米之上十人之御扶持被増下之 ●「日記」

万治2年10月4日 死す
伊達忠宗 慶長4年12月8日 生。虎菊丸。総次郎。美作守。越前守。陸奥守。侍従。
だてただむね
少将。松平を称す
寛政譜12・330
陸奥守政宗の次男


母は田村大膳大夫清顕の女陽徳院


室は秀忠の養女振姫池田三左衛門輝政の女孝勝院

慶長8年1月 はじめて家康に拝謁

慶長8年1月 はじめて秀忠に拝謁

慶長12年 家康の息女市姫と縁組

慶長13年1月 父政宗が松平の称号を賜る

慶長16年4月 市姫逝去により英勝院の養女池田輝政の女と縁組

慶長16年12月13日 秀忠の御前にて元服。従五位下・美作守。偏諱を賜る

元和2年10月2日 正五位下・侍従

元和3年12月13日 秀忠の養女が入輿

寛永元年6月23日 越前守

寛永3年8月19日 従四位下・少将

寛永13年5月26日 父政宗の遺領を継ぐ。陸奥国仙台城62万石

寛永13年7月21日 継目之御礼 ●「日記」

寛永16年4月14日 陸奥守 ●「日記」共

万治元年7月12日
伊達忠宗女
寛政譜12・334
松平陸奥守伊達忠宗の女
寛政譜2・373
母は秀忠の養女振姫池田三左衛門輝政の女孝勝院

寛永20年12月28日 縁辺 ●「日記」


立花飛騨守忠茂に嫁ぐ


立花千熊丸を産む。早世

正保2年 立花飛騨守鑑虎を産む

明暦2年 立花大膳茂辰を産む


矢嶋石見茂堅を産む

万治3年 立花弾正貞晨を産む


女子を産む。のちの飛騨守鑑虎養女。松平右衛門佐黒田綱政の室


以下不詳
伊達秀宗 天正19年 生。兵五郎。遠江守。侍従
だてひでむね
陸奥守政宗の長男
寛政譜12・343
母は飯坂氏


室は井伊兵部少輔直政の女

慶長元年4月 聚楽城にて元服。秀吉の偏諱を賜る。従五位下・侍従

慶長7年 はじめて家康に拝謁

慶長19年12月28日 伊予国宇和島城10万石

元和8年12月 遠江守

寛永3年8月19日 従四位下

明暦3年7月21日 致仕

万治元年6月8日
伊達房次
生。庄兵衛
だてふさつぐ
与兵衛房成の男
寛政譜18・275 慶長6年 家康に仕える


父房成の家を継ぐか。450石

慶長9年 秀忠に仕える。書院番


大番

寛永10年2月7日 650石

寛永14年9月18日 奥方番 ●「日記」共

寛永19年 850石

寛永20年8月25日 死す
伊達正勝 慶長元年 生。市蔵。与七郎。学弥。源左衛門。了念
だてまさかつ
主殿助信正の四男
仮名別諸士系譜5・36 慶長9年 家康に仕える。命により与七郎と改名。徳川頼宣に付属される。600石


徳川光貞に付属される


2000石


年寄


徳川頼宣の命により学弥と改名


源左衛門に改名

承応元年 2500石

寛文4年1月 隠居。80俵

延宝6年5月3日 死す
伊達政宗 永禄10年 生。梵天丸。藤次郎。美作守。左京大夫。越前守。陸奥守。
だてまさむね
侍従。少将。参議。中納言。松平を称す
寛政譜12・321
左京大夫輝宗の長男


母は最上右京大夫義守の女


室は田村大膳大夫清顕の女陽徳院

天正12年10月 父輝宗の封を継ぐ。出羽国米沢城

天正13年閏8月 従五位下・美作守

天正14年 左京大夫

天正17年 陸奥国黒川城

天正18年6月 出羽国米沢城

天正19年3月 侍従・越前守。羽柴の称号を賜る

天正19年 陸奥国岩出山城58万5000石

文禄4年 蟄居

文禄4年 ゆるされる

慶長2年 従四位下・少将

慶長8年 陸奥国仙台城58万5000石

慶長11年3月3日 陸奥国仙台城59万5000石

慶長13年1月 松平の称号を賜る。陸奥守

元和元年閏6月19日 参議・正四位下

寛永3年8月19日 従三位・中納言

寛永11年8月4日 陸奥国仙台城62万石

(寛永12年4月15日) (祝言被仰付之御礼) ●「日記」 子女の祝言か

寛永13年5月24日

寛永13年5月24日 今暁令死去 ●「日記」
伊達光宗 寛永4年 生。万助。越前守。侍従
だてみつむね
松平陸奥守伊達忠宗の次男
寛政譜12・334
母は秀忠の養女振姫池田三左衛門輝政の女孝勝院

(寛永7年) 嫡子となる

寛永15年8月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永16年4月14日 御前にて元服。偏諱を賜る。従五位下・越前守

寛永16年4月14日 御字光被下之越前守に被仰付之 ●「日記」

寛永20年12月29日 従四位下。侍従

寛永20年12月29日 侍従 ●「日記」

正保元年1月2日 先官侍従の上に列す

正保2年9月8日
伊達宗勝 元和7年 生。千勝丸。兵部。兵部少輔。兵部大輔
だてむねかつ
陸奥守政宗の十男
寛政譜12・333
母は多田氏


室は竹田法印の女


継室は立花飛騨守宗茂の養女立花主膳正種次の女

寛永9年11月19日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永9年11月19日 (兵部大輔) ●「日記」

(正保元年4月1日) (松平陸奥守弟伊達兵部始て御目見) ●「日記」

正保2年12月30日 従五位下・兵部少輔


兵部大輔

万治3年8月25日 伊達宗家を後見。国政をおこなう。3万石

寛文11年4月3日 松平土佐守山内豊昌に召し預けられる


以下不詳
伊達宗実
生。喝食丸。治部。安房
だてむねざね
家臣伊達安房成実の養子。松平陸奥守伊達政宗の九男
寛政譜12・333
母は芝多氏


伊達家臣伊達安房成実の養子となる



伊達宗時 元和元年 生。伊予松。小次郎。左京。左京亮
だてむねとき
遠江守秀宗の次男
寛政譜12・343
母は井伊兵部少輔直政の女

元和8年12月 はじめて秀忠に拝謁

寛永5年1月13日 嫡子となる

寛永9年12月26日 従五位下・左京亮

(寛永10年1月2日) (左京の初出) ●「日記」

(寛永10年3月1日) (松平陸奥守孫小次郎) ●「日記」

(寛永11年7月18日) (左京亮の初出) ●「日記」

承応2年5月29日
伊達宗泰 慶長7年 生。愛松丸。三河。三河守
だてむねやす
陸奥守政宗の四男
寛政譜12・333 慶長8年11月 陸奥国岩出山城

寛永3年閏4月 はじめて秀忠・家光に拝謁

寛永4年12月28日 従五位下・三河守

寛永15年12月23日
立入直頼
生。左京進。河内守
たてりなおより
左京進宗泰の男
地下家伝中・1074 寛永元年12月24日 左京進
宮廷公家系図集覧663 寛永11年7月21日 初て御礼 ●「日記」

寛永16年2月12日 河内守

正保3年12月21日 正六位上

寛文元年12月24日 従五位下

寛文5年2月4日
田所
父は大坂の役にて籠城
たどころ
紀伊国に住す



田中勝飽
生。八十郎
たなかかつあき
一郎右衛門忠勝の長男
寛政譜2・110 寛永10年 はじめて家光に拝謁

寛永15年10月24日 書院番 ●「日記」共

~慶安3年 死す
田中勝以
生。小十郎。一郎兵衛。一郎右衛門
たなかかつもち
一郎右衛門忠勝の次男
寛政譜2・110
妻は坪内半三郎定次の女

寛永15年11月21日 田中市郎右衛門二番目子可被召出 ●「日記」

寛永16年7月23日 はじめて家光に拝謁

寛永16年7月23日 田中一郎右衛門二番子以樽代初て御目見 ●「日記」

正保3年7月6日 書院番

慶安3年8月7日 父忠勝の遺跡を継ぐ。1060石

明暦3年8月17日 死す
田中定格 寛永12年 生。翁助。内匠。大隅守
たなかさだただ
主殿頭吉官の男
寛政譜20・349
母は田中久兵衛吉興の女


妻は真田長兵衛幸政の女


後妻は土岐山城守頼行の女

寛永18年4月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

万治元年4月19日 父吉官の遺跡を継ぐ。5000石。寄合

寛文3年11月18日 定火消

寛文3年12月28日 布衣

寛文6年2月27日 書院番頭

寛文6年12月28日 従五位下・大隅守

寛文9年8月15日 大番頭

天和3年12月19日 7000石

元禄4年6月23日 大番頭を辞す

元禄5年5月29日 死す
田中忠勝
生。五助。一郎右衛門
たなかただかつ
五郎右衛門義忠の長男
寛政譜2・109
母は松平右京長次の女

元和8年8月 父義忠の遺跡を継ぐ。560石

~寛永3年 納戸番

寛永9年8月18日 小十人頭 ●「日記」共

寛永9年12月 布衣

寛永10年12月27日 1060石

寛永10年12月27日 五百石御加増 ●「日記」

(寛永13年12月13日) (布衣) ●「日記」

寛永17年11月15日 先鉄炮頭

寛永17年11月15日 御鉄炮之頭被仰付之馬上五騎歩行同心廿五人三枝勘解由元組―


―但大久保甚右衛門ニ御預被成之残也 ●「日記」

慶安3年2月16日 死す
田中正貞
生。又三郎。左兵衛
たなかまささだ
又右衛門政重の長男
寛政譜12・68
家光に仕える

寛永19年11月12日 父政重の遺跡を継ぐ。200俵

寛永19年11月12日 御旗本衆令死去跡被下之但自分之知行御切米何も上 ●「日記」


務を辞す。小普請

慶安4年11月8日 死す
田中政重
生。又右衛門
たなかまさしげ
孫兵衛政長の男
寛政譜12・68
妻は松井与兵衛宗利の女


徳川忠長に仕える

寛永9年 家光に仕える。代官。200俵

寛永19年1月17日 死す
田中又左衛門

たなかまたざえもん
酒井讃岐守忠勝に仕える

(寛永13年11月6日) (酒井讃岐守使者) ●「日記」



田中吉官 慶長5年 生。翁助。主殿頭。はじめ菅沼を称す
たなかよしすけ
久兵衛吉興の養子。菅沼織部正定盈の八男
寛政譜20・349
母は松平監物家次の女


妻は養父吉興の女

慶長11年6月 秀忠に仕える。近習

慶長16年1月 従五位下・主殿頭

元和8年11月 秀忠の命により吉興の養子となりその女を室とする

元和8年11月 養父吉興の家を継ぐ。2万石

元和8年12月 小姓の頭(組頭?)

元和9年9月18日 改易

寛永2年 赦免

寛永2年7月1日 家光に仕える。2000俵。書院番


書院番組頭

寛永9年4月8日 書院番頭

寛永10年4月23日 5000石

寛永10年4月23日 3000石御加恩 ●「日記」

寛永19年閏9月5日 大番頭

寛永19年閏9月5日 大御番松平伊賀守組田中主殿頭被仰付 ●「日記」

万治元年1月9日 死す
田中義次 文禄3年 生。彦次郎。五郎右衛門
たなかよしつぐ
五郎右衛門義忠の次男
寛政譜2・111
母は松平右京長次の女

慶長15年 家康に仕える。現米80石


大番

寛永10年2月7日 400石

寛永19年1月28日 死す
田中義晴 元和8年 生。彦次郎。亀蔵。五郎右衛門
たなかよしてる
五郎右衛門義次の男
寛政譜2・111
妻は小笠原五左衛門貞利の女

寛永19年11月12日 父義次の遺跡を継ぐ。400石。小普請

寛永19年11月12日 御旗本衆令死去跡被下之但自分之知行御切米何も上 ●「日記」

慶安2年5月2日 大番

万治元年1月9日 死す
田辺権大夫
稲葉を称すか
たなべごんだゆう
稲葉丹後守正勝の家老






田辺庄右衛門

たなべしょうえもん
松平石見守池田輝澄に仕える

(寛永17年7月26日) (松平石見守家中) ●「日記」

寛永17年7月26日 父子共死罪 ●「日記」



田辺伝三郎

たなべでんざぶろう
理兵衛の男。弥太郎の弟

寛永20年6月26日 去廿二日堀田加賀守下屋敷え御成之刻於筋違橋田辺伝三郎訴状差上之―


―是先年彼父田辺理兵衛神保三郎兵衛組ニて小十人組御奉公仕―


―七年已前依相果惣領弥太郎ニ跡式被下之然処弥太郎三年已前ニ―


―令病死遺跡相続之嫡子依無之御切米被召上之仍彼弟伝三郎儀―


―被召出何様之御奉公ヲモ被仰付様ニと自訴之自然彼親類ニ右之訴之事―


―令教訓哉否御穿鑿之処其身為一分申上旨也兄跡式雖可被下之先例―


―無之雖然為幼稚御奉公も心懸申出付て被召出之旨伊豆守豊後守―


―対馬守民部少伝之 ●「日記」

寛永20年12月18日 百俵 ●「日記」



田辺安直 天正15年 生。清右衛門
たなべやすなお
新兵衛守秀の男
寛政譜11・38 慶長13年 父守秀死去により祖父重真とともに武蔵国青梅に住す


家康に拝謁


秀忠に仕える。180石。安房国代官

~寛永17年 残物奉行

寛永19年5月22日 仮の浅草蔵奉行

寛永19年5月22日 御城米浅草御蔵当座之奉行 ●「日記」

慶安3年~ 漆銅奉行

万治元年4月26日 死す
田辺弥太郎

たなべやたろう
理兵衛の男か

寛永13年11月24日 田辺理兵衛百俵子弥太郎跡目被仰付之 ●「日記」

(寛永17年) 死す ●「日記」寛永20年6月26日条
田辺理兵衛

たなべりひょうえ
神保三郎兵衛組小十人組 ●「日記」寛永20年6月26日条

(寛永13年) 死す ●「日記」寛永20年6月26日条

寛永13年11月24日 田辺理兵衛百俵子弥太郎跡目被仰付之 ●「日記」
谷左近

たにさこん
青蓮院門跡尊純法親王に仕える

(寛永13年5月6日) (青蓮院御門跡内) ●「日記」



谷次利
生。庄兵衛
たにつぐとし
家光に仕える。徒目付
寛政譜20・13 寛永15年12月23日 御歩行目付之内谷勝兵衛中根新右衛門石川伊左衛門―


―杉浦喜左衛門此四人御鷹野之刻御台所長持以下持之人足―


―相抱御成之砌は頭召列可罷出 ●「日記」

(寛永20年4月19日) (百七十俵) ●「日記」

寛永20年4月19日 只今迠之御番被成御免向後御役可被仰付之間可存其旨之由―


―小十人組御番所之次ニて老中被伝之 ●「日記」

寛永20年9月11日 弐百石被下之 ●「日記」


側衆に属して国廻をつとめる


代官。200石

寛文9年3月23日 代官を辞す

寛文11年2月21日 死す
谷兵右衛門

たにひょうえもん


寛永15年10月17日 御赦免 ●「日記」



谷平左衛門

たにへいざえもん


(寛永18年3月27日) (京極六丸家中証人) ●「日記」



谷衛清 元和元年 生。兵助。助三郎。蔵人
たにもりきよ
助三郎衛勝の男
寛政譜7・327
母は大嶋雲八光義の女


妻は新庄美作守直房の女

寛永5年 祖父出羽守衛友の遺領分知。2000石。寄合

寛永13年12月27日 書院番 ●「日記」共


書院番を辞す

元禄元年7月17日 死す
谷衛次 (寛永10年) 生。小兵衛
たにもりつぐ
大学頭衛政の次男
寛政譜7・322
家光に仕える


請て父衛政の所領におもむく

寛永19年12月18日 谷大学頭末子十歳病者故御奉公可仕之体無之間在所へ遣度之旨―


―大学頭望申付て阿部対馬守此趣中根壱岐守を以遂言上之処―


―可任其望之旨被仰出也 ●「日記」

某年 死す
谷衛冬 元和4年 生。宇右衛門
たにもりふゆ
出羽守衛友の六男
寛政譜7・325
妻は大島茂兵衛義唯の女

寛永5年 父衛友の遺領分知。1500石


小姓組

(寛永18年)8月15日 死す

(寛永18年12月4日) (斎藤摂津守組) ●「日記」
谷衛政 慶長3年 生。牛之助。大学助。大学頭
たにもりまさ
出羽守衛友の四男
寛政譜7・321
母は木下左近将監の女


室は山口縫殿の女

~慶長19年 秀忠に仕える

寛永5年 父衛友の遺領を継ぐ。丹波国山家1万石

(寛永11年4月1日) (大学頭の初出) ●「日記」

~寛永17年 従五位下・大学頭

寛文2年12月2日
谷衛将 寛永14年 生。八助。帯刀
たにもりまさ
宇右衛門衛冬の男
寛政譜7・325
母は大島茂兵衛義唯の女


妻は谷甚九郎衛利の女

寛永18年12月4日 父衛冬の遺跡を継ぐ。1500石

寛永18年12月4日 千五百石斎藤摂津守組谷宇右衛門跡右一円惣領八助ニ被下之 ●「日記」

万治2年7月11日 小姓組

元禄4年1月5日 死す
谷衛之
生。兵助。内蔵助
たにもりゆき
内蔵助衛成の次男
寛政譜7・327
母は堀左衛門督秀政の女


妻は青木次郎右衛門可直の女

寛永4年 家光に仕える

寛永5年 祖父出羽守衛友の遺領分知。2500石


書院番

寛永9年11月5日 書院番・進物役

寛永9年11月5日 本番御免。進物番 ●「日記」


書院番を辞す。寄合

天和元年6月10日 死す
種子嶋左近

たねがしまさこん
嶋津家臣

(寛永18年5月13日) (松平薩摩守使者) ●「日記」



多福寺
駿河国岡部。曹洞宗
たふくじ




多宝院
常陸国下妻。曹洞宗
たほういん




玉くすく
玉城か




(正保元年6月25日) (琉球中山王使者馬上之従者赤はちまき) ●「日記」



玉城朝智 天正10年3月9日 生。
たまぐすくちょうち
今帰仁王子朝典五世孫向之俊中城親方朝芳の次男
中山世譜下・15 慶長7年 大里間切与那原地頭職
玉城朝薫家譜 元和8年10月15日 玉城間切惣地頭職

(寛永5年) (向氏玉城親方朝智) ●「中山世譜」


玉城親方。貝摺奉行―


―(家譜には崇禎十七年(正保元年)2月24日とあり)

寛永17年1月16日
玉虫清茂
生。助十郎
たまむしきよもち
助大夫重茂の次男
寛政譜8・356 寛永13年3月15日 はじめて家光に拝謁

寛永13年3月15日 玉虫助大夫子樽代を以御礼 ●「日記」

寛永13年8月9日 小姓組 ●「日記」共

寛永15年 300俵


小姓組を辞す。小普請

延宝4年1月4日 死す
玉虫重茂 天正7年 生。助大夫
たまむししげもち
城和泉守景茂の次男
寛政譜8・354
妻は玉虫対馬守繁茂の女

慶長10年 秀忠に拝謁

~慶長19年 400石

元和9年 家光に仕える

寛永6年 使番

寛永10年12月26日 1400石

寛永10年12月26日 御加恩千石 ●「日記」

寛永11年1月13日 先鉄炮頭

寛永11年1月13日 御鉄炮之者三拾人被仰付之 ●「日記」

寛永11年2月26日 与力5人

寛永11年2月26日 与力同心五人 ●「日記」


先鉄炮頭を辞す

明暦2年3月5日 死す
玉虫高茂
生。七之助。七兵衛。はじめ城を称す
たまむしたかもち
城織部佑信茂の三男
寛政譜8・353
母は下曾禰刑部大輔の女

寛永13年3月15日 はじめて家光に拝謁

寛永13年3月15日 城織部子樽代を以御礼 ●「日記」

寛永13年8月9日 小姓組 ●「日記」共

寛永16年7月23日 兄城半左衛門朝茂より分知。300石 ●「日記」共

寛永18年4月28日 城七之助樽代以御目見是友之助知行之内を分被下付て也 ●「日記」


小姓組を辞す。小普請

延宝3年6月17日 死す
玉虫俊茂 慶長4年 生。次郎右衛門
たまむしとしもち
対馬守繁茂の長男
寛政譜8・358
妻は平賀三五郎忠勝の女

~元和元年 父繁茂と同じく松平忠輝に仕える

元和2年 処士

元和8年 父繁茂とともに徳川忠長に付属される

(寛永9年) 処士

寛永13年12月10日 赦免 ●「日記」共

寛永16年 家光に仕える。大番。300石

万治2年4月2日 死す
玉虫宗茂 慶長元年 生。八左衛門。道木
たまむしむねもち
助大夫重茂の長男
寛政譜8・354 元和3年 家光に仕える。小姓組


300俵

寛永10年2月7日 500石

寛永10年12月20日 中奥の番士

寛永10年12月20日 中奥御番 ●「日記」


小納戸

寛永19年10月25日 800石

寛永19年10月25日 三百石御加増 ●「日記」

寛永20年8月7日 奥方新番所の頭(新番頭)

寛永20年8月7日 奥方新御番所之頭 ●「日記」

寛永20年12月29日 布衣 ●「日記」共

正保4年9月26日 先鉄炮頭

慶安3年9月3日 西丸に勤仕

慶安4年 本丸に勤仕

慶安4年11月21日 800石300俵

明暦2年11月5日 父重茂の遺跡を継ぐ。1400石

明暦3年7月18日 先鉄炮頭を辞す

万治2年12月23日 致仕。300俵。道木と号す

寛文7年3月19日 死す
玉屋甲斐
紅問屋? 花火師?
たまやかい




玉寄

たまよせ


(正保元年6月25日) (琉球中山王使者馬上之従者赤はちまき) ●「日記」



田村宗意

たむらそうい
金工?



田村宗徳

たむらそうとく
金工?



田村長有 文禄元年 生。安栖。治部卿。法印
たむらちょうゆう
安栖長頥の長男
寛政譜18・184 慶長10年12月 父長頥の遺跡を継ぐ。330石

慶長18年 秀忠に近侍。法印

元和9年 昇殿

(寛永9年6月11日) (咄衆) ●「日記」

正保4年2月21日 死す
田村長久
生。九右衛門
たむらながひさ
助太郎長衛の長男
寛政譜18・173
母は石川小隼人の女

寛永15年10月24日 書院番 ●「日記」共

寛永17年7月22日 死す
田村長衛 文禄4年 生。助太郎
たむらながもり
安栖長頥の次男
寛政譜18・173
妻は石川小隼人の女


秀忠に仕える。小姓。300俵


膳奉行

(寛永11年5月14日) (御膳奉行) ●「日記」

寛永11年5月14日 200石300俵

寛永11年5月14日 御加恩弐百石 ●「日記」

寛永13年6月4日 二丸に勤仕

寛永13年6月4日 二丸御膳奉行 ●「日記」

(寛永18年12月29日) (御膳奉行) ●「日記」


二丸留守居

正保2年9月23日 相模国走水奉行

正保3年12月30日 布衣

正保4年2月4日 死す
多羅尾光重
生。左兵衛。(久八郎)
たらおみつしげ
久八郎光雅の長男
寛政譜15・125
母は浅野弾正少弼長政の養女浅野藤七郎長継の女


妻は烏丸大納言光広の女


駿府にてはじめて家康に拝謁。秀忠に仕える

元和元年~ 病により務を辞す。父光雅の采地近江国信楽におもむく

寛永19年11月5日 弟内記光房死去により本領を賜る。近江国信楽2300石。寄合

寛永19年11月5日 多羅尾久八郎跡子左兵衛被仰付 ●「日記」

(寛永20年12月28日) (久八) ●「日記」

万治2年1月18日 死す
多羅尾光雅 弘治元年 生。作兵衛。久八郎
たらおみつのり
四郎右衛門光俊の三男
寛政譜15・125
母は伊勢伊勢守貞孝の養女


妻は浅野弾正少弼長政の養女浅野藤七郎長継の女

天正10年6月 はじめて家康に拝謁

天正12年8月24日 采地を賜る


秀吉により所領没収

天正19年4月23日 近江国信楽3800石


所領分知。近江国信楽2300石

慶長5年 関ケ原の役にて筒井伊賀守定次に属す

寛永13年1月13日 死す
多羅尾光房
生。内記
たらおみつふさ
久八郎光雅の三男
寛政譜15・125
母は浅野弾正少弼長政の養女浅野藤七郎長継の女


妻は小出大隅守三尹の女

(寛永10年7月1日) (多羅尾内記病後御目見) ●「日記」

寛永13年3月24日 父光雅の遺跡を継ぐ。近江国信楽2300石

寛永13年3月24日 多羅尾久八郎跡職息内記被仰付之 ●「日記」

寛永13年3月28日 はじめて家光に拝謁

寛永18年6月10日 死す
多羅尾光好 慶長10年 生。久三郎。久右衛門
たらおみつよし
左京進光太の六男
寛政譜15・123
母は北条家臣山角豊前守の女


妻は伊藤掃部頭の女


秀忠に仕える

寛永6年 父光太の家を継ぐ。近江国信楽1500石。代官

寛文7年11月12日 閉門

寛文9年2月3日 ゆるされる

延宝2年10月8日 死す
太郎右衛門

たろうえもん (寛永12年1月2日) (大鼓) ●「日記」






太郎金

たろうかね


(正保元年6月25日) (琉球中山王使者馬上之従者楽人) ●「日記」



淡庵

たんあん
竹内門跡良恕法親王に仕える

(寛永13年5月6日) (竹内御門跡内) ●「日記」



丹後

たんご
中井正純配下か

(寛永14年11月1日) (大工) ●「日記」



弾正大弼

だんじょうだいひつ
一条関白昭良に仕える

(寛永16年4月1日) (一条殿殿上人) ●「日記」



単伝士印 天文12年
たんでんしいん
京都妙心寺の住持
妙心寺図録22。410
妙心寺智勝院(稲葉一鉄良通の菩提)をひらく

寛永6年 紫衣事件により処罰される

寛永9年7月17日 国安堵 ●「日記」

寛永11年5月29日 御赦免 ●「日記」


春日局の帰依を受ける

寛永15年 死去
丹波法眼

たんばほうげん (寛永12年3月13日) (一乗院之坊官) ●「日記」






御薙


禿か? 僧か?



知恩院
京都東山。浄土宗
ちおんいん 安元元年 開基。1世円光大師法然源空
華頂誌要
(中略)
(浄土宗全書19・188) 寛永6年6月25日 32世雄誉霊巌

寛永18年9月1日 霊巌寂

寛永19年2月 33世円誉廓源

寛永19年8月15日 入院之御礼 ●「日記」

寛永20年12月28日 入院之御礼 ●「日記」

慶安元年7月4日 廓源寂

慶安元年8月 34世心誉文宗

慶安2年12月8日 文宗寂

慶安3年1月 35世勝誉旧応

明暦3年3月1日 旧応寂


(後略)
知恩寺
京都。浄土宗。百万遍知恩寺
ちおんじ
(前略)
百万遍知恩寺誌要 元和元年 34世徳誉魯公
(浄土宗全書20・317) 元和7年 35世尊誉源公

寛永5年 36世本誉是応

寛永9年1月29日 是応寂


37世円誉文覚

正保元年6月24日 無主ニ付て後住被仰付之 ●「日記」

正保元年7月16日 百万遍知恩寺依無主三州源空寺彼住職被仰付之 ●「日記」

正保2年 38世誓誉究巌

慶安元年4月24日 究巌寂

慶安2年1月10日 39世光誉満霊

延宝8年1月23日 満霊寂


(後略)
近山永嘉
生。与左衛門。(与一郎)
ちかやまながよし
与左衛門久次の長男
寛政譜3・353
秀忠・家光に仕える。武蔵国八王子に住す。代官。100俵

寛永20年12月7日 百俵三人扶持六左衛門跡近山与一郎 ●「日記」

寛文11年2月23日 致仕

天和3年6月19日 死す
近山久次
生。与左衛門。(六左衛門)
ちかやまひさつぐ
四郎三郎久家の男
寛政譜3・353
妻は今井九左衛門の女


武田信玄・勝頼に仕える

天正10年 家康に仕える

天正19年 武蔵国八王子に住す

寛永20年7月13日 死す

寛永20年12月7日 百俵三人扶持六左衛門跡近山与一郎 ●「日記」
近山安成
生。六左衛門
ちかやまやすなり
五兵衛安俊の長男
寛政譜3・355
秀忠・家光に仕える。勘定

寛永19年4月4日 代官

寛永19年4月4日 越後村上え為御代官被差遣之 ●「日記」


食禄を没収される

延宝3年7月22日 死す
知鑑 慶長11年 生。信蓮社玄誉上人忠阿寂照知鑑
ちかん
遠江国浜松の人。和田氏
浄土伝燈総系譜
智童に師事
(浄土宗全書19・80)
川越蓮馨寺9世
華頂誌要 寛文元年 飯沼弘経寺15世
(浄土宗全書19・188) 寛文2年 鎌倉光明寺40世
鎌倉光明寺志 寛文3年12月24日 知恩院37世
(浄土宗全書19・628) 延宝2年4月19日 知恩院を辞す。伊勢国山田清雲院に退隠
飯沼弘経寺志
寂照寺をひらく
(浄土宗全書19・817) 延宝6年3月6日 遷化
川越蓮馨寺志

(浄土宗全書20・113)




筑後
平井筑後か
ちくご
中井正純配下か

(寛永14年11月1日) (大工) ●「日記」



千種有能 元和元年4月17日 生。侍従。少将。中将。参議。中納言。大納言。源翁文興
ちぐさありよし
岩倉木工頭具尭の次男
諸家伝下・1029
母は園中将基継の女
宮廷公家系図集覧493
室は久我中納言通前の女

元和9年7月1日 従五位下

寛永2年11月26日 元服。侍従

寛永4年12月7日 従五位上

寛永9年1月11日 右権少将

寛永11年1月6日 正五位下

寛永15年1月5日 従四位下

寛永15年1月11日 右権中将

(寛永16年4月1日) (少将) ●「日記」

寛永16年4月1日 去年依属御加恩御礼 ●「日記」

寛永18年1月5日 従四位上

正保2年1月6日 正四位下

慶安2年1月5日 従三位

明暦元年1月5日 正三位

明暦元年2月8日 参議

明暦2年7月11日 参議を辞す

寛文5年8月28日 権中納言

寛文5年12月5日 帯剣

寛文6年4月24日 直衣

寛文6年12月17日 従二位

寛文9年12月18日 権中納言を辞す

延宝4年2月12日 権大納言

延宝4年2月18日 権大納言を辞す

延宝5年閏12月11日 正二位

貞享3年3月5日 出家。源翁文興と号す

貞享4年4月1日 薨去
千種良由 慶長11年 生。法橋。法眼
ちぐさりょうゆ
豊臣秀頼家臣又三郎顕理の男
地下家伝中・1553
竹内門跡良恕法親王に仕える

(寛永13年5月6日) (竹内御門跡内千種杢助) ●「日記」

(寛永17年5月9日) (竹内新宮之内千種杢助) ●「日記」


得度。法橋

明暦3年7月3日 法眼

万治元年6月19日
筑紫信門 慶長9年 生。松市郎。右近。主水
ちくしのぶかど
主水正広門の養子。上野介広門の長男
寛政譜12・152
妻は上杉弾正大弼家臣千坂安芸高信の女

寛永8年5月14日 はじめて家光に拝謁

寛永8年5月14日 秀忠に拝謁 ●「日記」

寛永9年 書院番

寛永10年 200石

(寛永20年8月30日) (右近の初出) ●「日記」

寛永20年8月30日 家綱に付属される。守衆支配。三丸に伺候

寛永20年8月30日 若公様え被為附之三丸御殿御番被仰付之 ●「日記」

正保3年11月28日 叔父広門の遺跡を継ぐ。3000石


3000俵

慶安3年9月4日 西丸書院番


書院番を辞す。小普請

延宝元年10月21日 致仕

延宝6年5月7日 死す
筑紫広門
生。善吉郎。主水正
ちくしひろかど
兄上野介広門の養子。下野守惟門の次男
寛政譜12・152
妻は豊臣家臣片岡喜平次の女


秀吉に仕える

慶長4年 従五位下・主水正

慶長5年 処士となり肥後国に住す

慶長19年 ゆるされる

元和元年 はじめて家康に拝謁

寛永4年8月25日 寄合。3000石

正保3年7月11日 死す
知久直明 寛永5年 生。伊助。内蔵介
ちくなおあきら
伊左衛門直政の長男
寛政譜6・145 寛永17年5月22日 はじめて家光に拝謁

寛永17年5月22日 以太刀目録御目見 ●「日記」

寛文2年7月10日 死す
知久直政 慶長9年 生。伊介。内蔵介。伊左衛門
ちくなおまさ
伊左衛門則直の男
寛政譜6・145
母は知久弥次郎頼龍の女


妻は松平和泉守家乗の女

元和元年 はじめて秀忠に拝謁

正保元年12月25日 父則直の遺跡を継ぐ。信濃国知久3000石

正保元年12月25日 跡目被仰付三千石知久伊左衛門惣領内蔵助 ●「日記」

寛文11年1月20日 死す
知久則直 天正6年 生。万亀。伊左衛門
ちくのりなお
大和守頼氏の男
寛政譜6・145
母は遠江国木寺宮の女


妻は知久弥次郎頼竜の女

(天正13年) 父頼氏自殺し幼少のため菅沼大膳亮に召し預けられる


大久保忠世のもとにあり

天正19年1月 家康に仕える。300俵

慶長6年1月 信濃国知久3000石

元和6年9月 信濃国浪合・小野川・帯川・心川の関を守る。1300石を預かる

正保元年1月2日 死す
千坂伊豆守

ちさかいずのかみ
上杉定勝の家老か



智積院
京都東山。五百仏山根来寺。真言宗。智山
ちしゃくいん
(前略)
新義真言宗大観54 天正12年 3世玄宥堯性

天正13年 秀吉に攻められ根来山を逃れる


家康の帰依を受ける

慶長5年 京都瓦町に堂宇を再興。開山玄宥堯性。200石

慶長10年10月14日 玄宥寂

慶長11年5月 2世祐宜長善

慶長17年11月11日 祐宜寂


3世日誉正純

元和元年 500石。河原町より移転。智積院に改称

寛永8年 日誉退隠

寛永8年 4世元寿長存

寛永8年5月5日 相続あり ●「日記」

(寛永17年5月5日) (僧正) ●「日記」

慶安元年1月13日 元寿寂


5世隆長円精

明暦2年10月9日 隆長寂


(後略)
知足院
奈良東大寺か
ちそくいん




秩父重国娘
生。右衛門佐
寛政譜9・184
秩父孫次郎重国の女


東福門院付女房

(寛永17年5月26日) (国母御方) ●「日記」



秩父重富
生。長吉。七郎兵衛。彦兵衛
ちちぶしげとみ
彦兵衛重能の男
寛政譜9・184
妻は土井大炊頭家臣稲葉伊兵衛の女

正保元年6月4日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共


大番

明暦元年 父重能の遺跡を継ぐ。200石

元禄7年 大番を辞す。小普請

元禄9年1月23日 死す
秩父重能 慶長6年 生。彦兵衛
ちちぶしげよし
孫次郎重国の男
寛政譜9・184
母は武田左馬助の女

慶長13年 はじめて家康に拝謁。秀忠に仕える

慶長15年 徳川忠長に付属される。小姓

(寛永9年) 処士。武蔵国秩父に閑居

寛永19年 家光に仕える

(寛永19年12月10日) (駿河大納言殿御部屋住衆) ●「日記」

寛永19年12月10日 200石。大番

寛永19年12月10日 如前々御知行被下之 ●「日記」

(正保元年6月4日) (松平外記組) ●「日記」

明暦元年5月2日 死す
智哲 慶長7年 生。乗蓮社頓誉上人心阿正心智哲大和尚
ちてつ
美濃国の人。戸田氏
三縁山志
京都に住し称名寺にて剃髪
(浄土宗全書19・483) 元和元年 増上寺にて存応に師事
小石川伝通院志
生実大巌寺8世
(浄土宗全書19・678)
小石川伝通院8世
生実大巌寺志 寛文2年9月25日 増上寺25世
(浄土宗全書20・86) 寛文9年7月23日 麻布に屏居

寛文9年8月10日 遷化
智童 天正2年3月 生。天蓮社登誉上人志白智童大和尚
ちどう
武蔵国浅草の人。山口好景の男
三縁山志
母は加藤氏
(浄土宗全書19・479) 文禄2年 江戸浅草法源寺聞諦上人に従い剃髪


師に従い駿府宝台院に移住


駿府西福寺の住持


駿府宝台院の住持


新田大光院3世


小石川伝通院3世

寛永12年9月 増上寺19世

寛永12年9月28日 増上寺住持伝通院智堂被仰付 ●「日記」

寛永16年1月9日 遷化 ●「日記」共
千村重輔
生。勘平。平兵衛
ちむらしげすけ
新平重長の三男
士林泝洄1・116 (正保元年10月29日) (尾張亜相家中証人) ●「日記」

寛文2年5月9日 死す
千村重長
生。十三郎。平右衛門。新平
ちむらしげなが
平右衛門良重の長男
寛政譜2・399
母は山村三郎左衛門良候の女
士林泝洄1・115
妻は阿部河内の女

(寛永7年) 父良重の遺領を継ぐ。徳川義直に仕える。美濃国久々利に住す

(寛永10年2月15日) (平右衛門の初出) ●「日記」

寛文元年10月12日 死す
千村重長甥


寛永11年3月28日 千村平右衛門おい太刀目録ニて御礼 ●「日記」



千村基寛
生。吉之助。平右衛門
ちむらもとひろ
新平重長の長男
士林泝洄1・116
母は阿部河内の女

(寛文元年) 父重長の遺跡を継ぐ。尾張家に仕える。美濃国久々利に住す

貞享3年9月30日
茶筅師甚丞

ちゃせんしじんのじょう







北谷朝秀 元和5年
ちゃたんちょうしゅう
尚久王の末子か
中山世譜下・15 (寛永11年) (玉城按司)(尚氏)(朝秀) ●『琉球国使節渡来』
中山世譜下・18 (寛永11年閏7月9日) (玉城) ●「日記」
琉球国使節渡来473 (寛永15年) (尚氏北谷王子朝秀) ●「中山世譜」

承応2年 尚氏北谷王子朝秀到薩州癸巳年春病故 ●「中山世譜」
茶屋小四郎

ちゃやこしろう 寛永13年5月5日 御目見 ●「日記」






茶屋長右衛門

ちゃやちょうえもん (寛永13年1月1日) (茶屋四郎次郎中嶋延宗のあとに御礼) ●「日記」

(寛永13年12月21日) (御服所) ●「日記」



茶屋与兵衛

ちゃやよひょうえ (寛永13年5月1日) (京町人) ●「日記」






忠庵

ちゅうあん


寛永20年8月29日 長崎より来ル異国之通事忠庵御暇於長崎御扶持方十人扶持被下之 ●「日記」



忠運
生。(延命院)。知楽院。権僧正
ちゅううん
伊丹勘八直吉の次男
浅草寺志7
(浅草寺延命院)

(寛永16年) 浅草寺知楽院。紅葉山別当

寛永16年閏11月13日 去比知楽院権僧正就遷化彼寺宗相続之儀弟子延命院―


―雖被仰付若年付て竹林坊差添二丸御宮行事等可勤仕之旨―


―被仰出之仍竹林坊御扶持方五十人分被下之 ●「日記」

正保元年12月30日 院家 ●「日記」共

貞享2年8月6日 追放。下総国法漸寺に隠居

貞享3年8月27日 遷化
中円寺
天台宗か
ちゅうえんじ




忠次郎

ちゅうじろう
笛方か。太鼓方か






仲宣

ちゅうせん (寛永10年7月1日) (医師) ●「日記」






忠尊
生。観音院。智楽院。僧正
ちゅうそん
伊丹三河守直富の四男
浅草寺志7
母は遠山丹波守直景の女


観音院法印忠豪の弟子になる


浅草寺別当

元和3年 紅葉山別当

寛永9年11月28日 権僧正 ●「日記」

寛永13年 100石

寛永13年4月11日 御知行弐百石望之地において被下之御礼申上 ●「日記」

寛永16年11月18日 遷化

寛永16年11月19日 浅草智楽院権僧正昨日之遷化云々 ●「日記」
長庵

ちょうあん
堀田加賀守正盛に仕える

正保元年1月10日 銀弐拾枚加賀守内長庵今度諸家系図被仰付依令首尾被下之 ●「日記」



潮海寺
遠江国。真言宗
ちょうかいじ




長吉

ちょうきち
狂言方か

(寛永18年5月10日) (二千石を演じる) ●「日記」



長源院
駿河国府中。曹洞宗
ちょうげんいん




長源寺(駿府)
駿河国府中。臨済宗か
ちょうげんじ




長源寺(山形)
出羽国山形。曹洞宗
ちょうげんじ




長光寺
甲斐国。曹洞宗
ちょうこうじ


寛永19年7月6日 御朱印被下之 ●「日記」



長興寺
遠江国
ちょうこうじ


寛永19年7月6日 御朱印被下之 ●「日記」



張孝仁
朝鮮人
ちょうこうじん 寛永12年4月20日 騎士曲乗仕 ●「日記」



長西

ちょうさい
増上寺の僧か



調子右京
玄蕃助武政の男か
ちょうしうきょう (寛永11年7月21日) (地下) ●「日記」






調子将曹
玄蕃助武政の男か
ちょうししょうそう (寛永11年7月21日) (地下) ●「日記」






調子武俊 永禄7年 生。左近衛将曹。越前守
ちょうしたけとし
伯耆守武直の男
地下家伝上・762
正六位上
宮廷公家系図集覧649 天正14年3月16日 左近衛将曹

天正14年10月17日 従五位下

慶長元年4月27日 越前守

慶安元年12月27日
調子武永
生。左近衛番長。主膳正
ちょうしたけなが
右近少進(将監?)武光の男
地下家伝上・766
左近衛番長
宮廷公家系図集覧648 天正17年7月19日 従五位下。主膳正

某年
調子武信
生。左近衛番長。玄蕃頭
ちょうしたけのぶ
主膳正武永の男
地下家伝上・766
左近衛番長
宮廷公家系図集覧649
玄蕃頭。左近衛番長

元和元年1月5日 従五位下

(寛永11年7月21日) (調子玄蕃) ●「日記」 玄蕃助武政か不明

某年
調子武平
生。左近衛府生
ちょうしたけひら
玄蕃助武政の男
地下家伝上・763 (寛永11年7月21日) (府生) ●「日記」
宮廷公家系図集覧649 寛永20年9月11日 左近衛府生

明暦2年11月11日 死す
調子武政
生。右近衛将監。玄蕃助
ちょうしたけまさ
筑後守武通の男
地下家伝上・763
右近衛将監
宮廷公家系図集覧649 天正17年7月19日 従五位下。玄蕃助。右近衛将監

(寛永11年7月21日) (調子玄蕃) ●「日記」 玄蕃頭武信か不明

慶安3年12月23日
調子武正
生。左近衛将監。調子を称す
ちょうしたけまさ
左近衛将曹秦重益の男
地下家伝上・769
妻は調子玄蕃頭武信の女
宮廷公家系図集覧649 慶長4年2月10日 正六位上。左近衛将監

延宝5年4月3日 死す
調子武通 天正元年 生。左近衛府生。式部丞。筑後守
ちょうしたけみち
越前守武俊の男
地下家伝上・763
左近衛府生
宮廷公家系図集覧649
式部丞。左近衛府生

天正17年5月6日 従五位下。筑後守

慶安3年10月27日
長寿院

ちょうじゅいん
江戸浅草寺の子院か

寛永10年4月12日 権僧正 ●「日記」



長松院
遠江国掛川。曹洞宗
ちょうしょういん




長松寺
甲斐国。臨済宗
ちょうしょうじ


(寛永19年7月6日) (法泉寺兼帯) ●「日記」

寛永19年7月6日 御朱印被下之 ●「日記」



張席

ちょうせき




長禅寺
甲斐国。臨済宗
ちょうぜんじ


寛永19年7月6日 御朱印被下之 ●「日記」



長善寺
駿河国府中。時宗。一華堂長善寺か
ちょうぜんじ
武蔵国。日蓮宗


武蔵国。真言宗



朝鮮礼曹
朝鮮の外交機関
ちょうせんれいそう




長蔵
大蔵武則か
ちょうぞう
狂言方か

(寛永18年5月10日) (二千石を演じる) ●「日記」



澄存
生。三井大阿闍梨。若王子大僧正。(乗々院)。(勝仙院)。(徳本院)
ちょうそん
今川刑部大輔氏真入道宗誾の四男
寛政譜2・227
聖護院准后道澄に師事
熊野若王子神社概誌31 天正19年 熊野若王子神社別当


大峯大先達


熊野三山修験道本山の奉行

慶安3年 退隠か



長連頼 慶長9年11月9日 生。安芸。九郎左衛門
ちょうつらより
九郎左衛門連龍の次男
加賀藩史料4・317
室は松平肥前守前田利常の養女不破彦三光政の女
加賀藩史稿3・40 (元和5年) 父連龍の遺領を継ぐか。3万3000石? 前田利常に仕える
加賀藩史料編外・50 (寛永17年3月3日) (松平筑前守使者) ●「日記」

寛文11年3月24日
潮呑 天正6年 生。源蓮社信入。往誉
ちょうどん
武蔵国埼玉郡の出身。熊野氏
黒谷誌要
観智国師源誉存応に師事
(浄土宗全書20・390)
江戸深川に光厳寺(のちの雲光院)をひらく

寛永3年4月 黒谷金戒光明寺28世

寛永12年 清心院に隠棲

慶安3年4月13日
長如

ちょうにょ
浄土宗の僧か?



潮把

ちょうは
浄土宗の僧か?



長福寺
京都梅津。臨済宗。大梅山
ちょうふくじ
南禅寺金地院末寺



庁務大蔵

ちょうむおおくら


(寛永17年5月9日) (妙法院御門跡之内) ●「日記」



長命清左衛門

ちょうめいせいざえもん
能役者



潮也
生。然蓮社法誉
ちょうや
湯島霊山寺4世
本所霊山寺志
館林善導寺9世
(浄土宗全書20・282)

舘林善導寺志

(浄土宗全書20・197)




長楽寺
上野国新田。臨済宗のち天台宗
ちょうらくじ







長林寺
大坂。知恩寺末。浄土宗
ちょうりんじ 寛永18年4月18日 於大坂百万遍流選釈寺長林寺両寺之長老令破戒寺中ニ置妻女―


―剰知恩院流之白雲寺破戒之義依不同心右之両寺彼白雲寺殺害之―


―令隠密之処今度久貝因幡守穿鑿之上露顕之趣言上訖依之両悪僧并―


―女三人与同之者一人大坂中引渡之磔ニ曝之両寺ハ三日已後トゝメヲ―


―サスヘキ由上意之趣彼地定番之面々以次飛脚奉書遣之 ●「日記」



知楽院
武蔵国。天台宗。江戸浅草寺の本坊。のちの伝法院
ちらくいん




珍祐
生。上乗院。僧正
ちんゆう


(寛永13年3月15日) (上乗院僧正) ●「日記」

(寛永16年5月5日) (尾張上乗院) ●「日記」

(寛永18年1月6日) (上乗院権僧正) ●「日記」



津金胤次
生。又十郎
つがねたねつぐ
勘兵衛久清の男
寛政譜3・311
妻は三枝監物吉親の女

慶長16年 父久清の遺跡を継ぐ。甲府城守衛

元和2年 徳川忠長に付属される

(寛永9年) 処士

(寛永19年12月10日) (武川衆) ●「日記」

寛永19年12月10日 家光に仕える。旧領を賜る

寛永19年12月10日 如前々御知行被下之 ●「日記」


大番

寛文6年5月9日 広敷番頭

寛文11年 死す
塚原昌詮
生。新八郎。十左衛門
つかはらまさあき
次左衛門昌信の長男
寛政譜4・242 寛永16年6月23日 塚原次左衛門惣領之子共初て御目見 ●「日記」

寛永20年6月16日 小姓組

万治元年閏12月18日 父昌信の遺跡を継ぐ。1500石

寛文10年11月29日 死す
塚原昌信
生。次左衛門
つかはらまさざね
次左衛門昌重の長男
寛政譜4・242
妻は松平淡路守重長の女

慶長17年 秀忠に拝謁。大番

元和8年 大番組頭

寛永3年12月 父昌重の遺跡を継ぐ。450石

寛永9年 950石

(寛永16年6月23日) (松平外記植村出羽守組大番衆) ●「日記」

寛永19年閏9月28日 鶴姫に付属される

寛永19年閏9月28日 大姫君御方へ為中川市右衛門代被仰付 ●「日記」

寛永20年9月8日 1950石

寛永20年9月8日 千石御加恩 ●「日記」

明暦2年 鶴姫が逝去

明暦3年5月 務をゆるされる。小普請

万治元年3月22日 死す
塚原政信 天正19年 生。権次郎
つかはらまさのぶ
次左衛門昌重の次男
寛政譜4・243
家光に仕える。大番。200俵

(寛永11年6月26日) (駿府破損御修復奉行) ●「日記」

寛文9年1月10日 死す
柄巻屋甚吉

つかまきやじんきち







津軽伊豆

つがるいず
津軽土佐守信義に仕える

(寛永13年11月21日) (津軽土佐守家老) ●「日記」

寛永13年11月21日 毛利甲斐守被為預之 ●「日記」






津軽伊豆与同之輩


寛永15年3月7日 津軽土佐守心次第所ヲ可相掛 ●「日記」



津軽建次 慶長16年 生。左門。左馬助。兵部
つがるたけつぐ
左馬頭建広の長男
寛政譜12・80
母は永井与次郎吉次の女


妻は永井勘九郎吉勝の女

寛永4年 はじめて家光に拝謁

(寛永18年12月3日) (左馬助の初出) ●「日記」

寛永18年12月3日 父建広の遺跡を継ぐ。200俵。寄合

寛永18年12月3日 津軽左馬助跡目惣領左馬助被下之 ●「日記」

慶安4年5月22日 番医

天和2年12月12日 番医を辞す

貞享元年12月18日 致仕

貞享3年9月15日 死す
津軽健儀 元和9年 生。左京。以春。意春。法眼
つがるたけのり
左馬頭建広の次男
寛政譜12・81
妻は井伊掃部頭家臣佐藤道艮の女

寛永18年1月15日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛文元年12月19日 外科医。番医。月俸10口

寛文2年12月22日 100俵

寛文12年12月26日 200俵

元禄元年6月13日 奥医

元禄2年5月7日 法眼

元禄5年11月22日 奥医をゆるされる。寄合

元禄6年3月4日 出仕をとどめられる

元禄7年5月8日 ゆるされる

元禄8年7月9日 致仕

元禄13年5月8日 死す
津軽建広 永禄8年 生。兵部。左馬頭。はじめ大河内を称す
つがるたけひろ
大河内以三の四男
寛政譜12・80
妻は津軽右京大夫為信の女


後妻は永井与次郎吉次の女


北条氏政に属す


津軽右京大夫為信に仕える


父以三の業を継ぐ。外科医

慶長6年 参内。左馬頭


江戸に来る


家康に仕える。200俵

(寛永12年1月3日) (左馬助) ●「日記」

寛永18年9月5日 死す
津軽信枚 天正14年 生。平蔵。越中守
つがるのぶかず
右京大夫為信の三男
寛政譜12・74
室は家康の養女満天姫松平因幡守康元の女葉縦院

慶長6年5月11日 従五位下・越中守

慶長12年12月23日 父為信の遺領を継ぐ。陸奥国津軽4万7000石

慶長15年 陸奥国弘前城4万7000石

慶長16年6月25日 輿入れあり

寛永8年1月14日
津軽信英 元和6年 生。万吉。左京。十郎左衛門
つがるのぶふさ
越中守信枚の次男
寛政譜12・78
母は家康の養女満天姫松平因幡守康元の女葉縦院


妻は山口勘兵衛直堅の女

寛永8年4月1日 はじめて家光に拝謁

寛永15年3月22日 母が逝去

(寛永18年5月12日) (左京の初出) ●「日記」

寛永20年6月16日 小姓組

正保2年12月28日 300俵

慶安3年9月3日 西丸書院番。家綱に仕える


本丸に勤仕

明暦2年2月2日 兄土佐守信義の遺領分知。5000石。寄合。宗家を後見

寛文2年9月22日 死す
津軽信義 元和5年 生。平蔵。土佐守
つがるのぶよし
越中守信枚の長男
寛政譜12・74
母は家康の養女満天姫松平因幡守康元の女葉縦院


室は尾張家臣松平図書康久の女

寛永8年 父信枚の遺領を継ぐ。陸奥国弘前城4万7000石

寛永8年4月1日 はじめて家光に拝謁

寛永8年4月1日 父信枚の遺領を継ぐ ●「日記」

寛永11年12月29日 従五位下・土佐守

(寛永12年1月2日) (平蔵) ●「日記」

(寛永12年6月30日) (土佐守の初出) ●「日記」

寛永15年3月22日 母が逝去

明暦元年11月25日
津軽美作

つがるみまさか
津軽土佐守信義に仕える

(寛永13年11月21日) (津軽土佐守家老) ●「日記」

寛永13年11月21日 毛利甲斐守被為預之 ●「日記」



津軽美作与同之輩


寛永15年3月7日 津軽土佐守心次第所ヲ可相掛 ●「日記」



次田外記

つぎたげき
伊達遠江守秀宗に仕える

(寛永17年3月15日) (伊達遠江守証人) ●「日記」



佃三郎兵衛

つくださぶろうひょうえ (寛永10年6月9日) 加藤式部少輔家老 ●「日記」



筑波山
常陸国
つくばさん




筑波山知足院
常陸国筑波山別当。知足院中禅寺
―ちそくいん




筑波山知足院江戸護摩堂
江戸。筑波山知足院中禅寺江戸別院
―ちそくいんえどごまどう




柘植言清
生。牛之助。三之丞
つげのぶきよ
三之丞宗次の次男
寛政譜9・280
母は佐藤勘右衛門継成の女


妻は加賀美金右衛門正吉の女

寛永18年7月18日 はじめて家光に拝謁

寛永18年7月18日 二条御鉄炮頭柘植三丞并惣領権丞二番子午助御目見―


―午助樽代を以御礼申上 ●「日記」

正保2年7月19日 大番

明暦元年12月 父宗次の遺跡を継ぐ。300石200俵

寛文11年6月 大番を辞す。小普請

天和元年8月19日 大番

貞享2年6月25日 箪笥奉行

貞享4年6月14日 箪笥奉行を辞す

元禄6年3月12日 死す
柘植正時 天正12年 生。三四郎。平右衛門
つげまさとき
平右衛門正俊の長男
寛政譜8・227
母は丹羽右近大夫氏勝の女


妻は森対馬守可政の女


後妻は比留与左衛門正吉の女

慶長5年 はじめて家康に拝謁

慶長14年 父正俊の家を継ぐ。1400石

慶長15年 家康に仕える

(元和2年) 小姓組

(元和3年) 淀橋奉行

寛永8年2月12日 使番 ●「日記」共

寛永9年11月27日 布衣 ●「日記」共

寛永10年12月26日 2400石

寛永10年12月26日 御加恩千石 ●「日記」

(寛永10年12月26日) (平右衛門の初出) ●「日記」

寛永16年6月15日 破損之所御城廻可申付奉行被仰付之 ●「日記」

寛永17年6月12日 長崎奉行

寛永17年6月12日 長崎為奉行人可被差遣之旨被仰付依之大河内善兵衛与力同心―


―平右衛門預之 ●「日記」

寛永17年7月1日 柘植平右衛門今度長崎御奉行ニ被遣付て八木弐千俵於彼地被下之旨―


―上意也御法度之覚書於御前老中渡之并与力五騎歩行同心三十人―


―御直被仰付之 ●「日記」

寛永19年12月9日 死す
柘植正利 寛永8年 生。三四郎。右衛門佐
つげまさとし
平右衛門正直の長男
寛政譜8・228
母は大河内善兵衛正勝の女


妻は石川大隅守政次の女

正保元年11月10日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

慶安元年8月3日 小姓組

慶安3年9月3日 西丸書院番

(慶安4年) 本丸に勤仕

万治元年閏12月19日 書院番。進物役

寛文2年 書院番を辞す。小普請


病により嗣たらず

元禄10年5月1日 死す
柘植正直 慶長8年 生。右衛門作。平右衛門
つげまさなお
平右衛門正時の長男
寛政譜8・227
母は森対馬守可政の女


妻は大河内善兵衛正勝の女

慶長16年 はじめて家康に拝謁

元和5年 小姓組

元和7年 300俵

寛永10年2月7日 500石

寛永20年3月26日 父正時の遺跡を継ぐ。2000石

寛永20年3月26日 柘植平右衛門跡目弐千四百石之内弐千石惣領右衛門作―


―四百石二男平兵衛但右衛門作平兵衛自分之知行は上ル也 ●「日記」

明暦2年7月28日 使番

明暦2年12月26日 布衣

寛文12年3月8日 使番を辞す。寄合

延宝3年12月2日 死す
柘植正弘 元和元年 生。平兵衛
つげまさひろ
平右衛門正時の次男
寛政譜8・231
母は比留与左衛門正吉の女


妻は平岩金左衛門正次の女

寛永10年 はじめて家光に拝謁。小姓組


采地を賜る

寛永20年3月26日 父正時の遺跡分知。400石

寛永20年3月26日 柘植平右衛門跡目弐千四百石之内弐千石惣領右衛門作―


―四百石二男平兵衛但右衛門作平兵衛自分之知行は上ル也 ●「日記」

正保3年8月7日 綱吉に付属される

慶安元年9月25日 三丸番組頭


神田館にて番頭

承応2年8月19日 布衣


用人


1900石

延宝4年7月2日 死す
柘植宗雄
生。権之丞
つげむねお
三之丞宗次の長男
寛政譜9・280
母は佐藤勘右衛門継成の女

寛永11年 はじめて家光に拝謁

寛永19年6月20日 書院番 ●「日記」共

正保元年12月25日 三百俵 ●「日記」

某年 死す
柘植宗忠
生。甚右衛門
つげむねただ
小左衛門宗普の長男
寛政譜9・282
母は大久保三助正次の女


大番


(弐百俵) ●「日記」

寛永18年12月4日 父宗普の遺跡を継ぐ。740石

寛永18年12月4日 七百四十石余同人組柘植小左衛門跡右一円惣領甚右衛門被下之―


―甚右衛門取来之御切米弐百俵上ル ●「日記」

正保元年10月29日 死す
柘植宗次
生。三之丞
つげむねつぐ
叔父三之丞清広の養子。市助宗能の長男
寛政譜9・280
妻は佐藤勘右衛門継成の女

元和8年 養父清広の家を継ぐ。300石。伏見鉄炮頭


伏見城松丸口極楽橋門番

寛永2年 二条城西門番


二条鉄炮頭

(寛永18年7月18日) (二条御鉄炮頭) ●「日記」

正保4年12月27日 鉄炮部屋および与力同心を預かる

慶安元年3月13日 鉄炮方

慶安4年8月16日 布衣

慶安4年11月21日 300石200俵

明暦元年3月22日 死す
柘植宗辰 元和3年 生。清大夫
つげむねとき
小左衛門宗普の次男
寛政譜9・283
母は大久保三助正次の女


妻は内田伝左衛門守政の養女山県氏

寛永9年8月22日 家光に仕える。小十人。100俵

寛永19年12月16日 200俵 ●「日記」共

万治2年 小十人を辞す。小普請

貞享元年12月25日 死す
柘植宗普 天正2年 生。小左衛門
つげむねひろ
甚八郎宗吉の男
寛政譜9・282
妻は大久保三助正次の女

慶長5年 家康に仕える

慶長5年 150石


大番


大番組頭


(裏門切手番頭)

寛永14年9月18日 出仕をとどめられる

寛永14年9月18日 (御裏切手ノ)御番可致遠慮 ●「日記」


ゆるされる


740石

寛永16年3月 西丸裏門番頭


小普請

寛永18年4月1日 死す

(寛永18年12月4日) (杉浦内蔵組) ●「日記」
辻高昭 元和8年 生。太郎助。忠兵衛
つじたかてる
忠兵衛久昌の男
寛政譜7・34
妻は北条安房守正房の女


また稲葉右京亮家臣富田庄左衛門の女を娶る

寛永14年12月8日 父久昌の遺跡を継ぐ。750石余

寛永14年12月8日 七百五十石忠兵衛跡辻太郎介 ●「日記」


大番

天和3年8月 死す
辻達 寛永3年 生。思聡。了的。端亭
つじたつ
(連歌師)了純の男
水戸学徒列伝167
林羅山に師事

寛永14年 徳川頼房に仕える

正保元年1月10日 銀五拾枚水戸殿了的今度諸家系図被仰付依令首尾被下之 ●「日記」

寛文8年 死す
辻近厚 天正9年 生。志摩守
つじちかあつ
因幡守近朝の次男
地下家伝上・567
南都方楽人
宮廷公家系図集覧633
正六位下


従五位下

寛永10年12月23日 従五位上

(寛永17年5月9日) (志摩守) ●「日記」

正保4年12月7日 正五位下


志摩守

慶安4年1月5日 従四位下

明暦2年12月26日 従四位上

寛文元年5月18日
辻近元 慶長7年 生。左衛門少志。左兵衛大尉。伯耆守
つじちかもと
伯耆守近弘の男
地下家伝上・534
南都方楽人
宮廷公家系図集覧633 慶長13年1月11日 左衛門少志。正六位下


左兵衛大尉


従五位下

寛永10年12月23日 従五位上

寛永13年2月25日 伯耆守

(寛永14年9月27日) (伯耆の初出) ●「日記」

正保4年12月7日 正五位下

慶安4年1月5日 従四位下

明暦2年12月26日 従四位上

寛文2年2月11日 正四位下

延宝5年12月16日 正四位上

天和元年6月22日
辻久聖
生。八兵衛
つじひささと
忠兵衛久吉の三男
寛政譜7・34 寛永9年8月22日 家光に仕える。小十人


100俵

寛永19年12月16日 200俵 ●「日記」共


以下不詳
辻久昌 慶長元年 生。忠兵衛
つじひさよし
忠兵衛久吉の長男
寛政譜7・34
母は高尾惣十郎昌俊の女

(慶長19年) 父久吉の遺跡を継ぐ

慶長19年 大番

寛永2年7月27日 550石余の朱印

寛永10年2月7日 750石余


大番を辞す。小普請

寛永14年7月21日 死す
辻兵庫

つじひょうご
一条昭良に仕える

(寛永16年4月1日) (一条殿家来) ●「日記」



津嶋神社
尾張国
つしまじんじゃ




蔦木盛吉
生。孫右衛門。(新八郎)。はじめ知見寺を称す
つたきもりよし
越前盛次の男
寛政譜16・253 慶長19年 家康に拝謁。大番。廩米を賜る

元和元年 命により父盛次と同じく蔦木に改称

元和2年 徳川忠長に仕える。大番

寛永9年 父盛次の遺跡を継ぐ

寛永9年 処士

(寛永19年12月10日) (武川衆) ●「日記」

寛永19年12月10日 家光に仕える。大番。320石

寛永19年12月10日 武川衆蔦木新八郎如前々御知行被下之 ●「日記」


大番を辞す。小普請

明暦3年2月11日 死す
津田重氏 天正8年 生。八郎左衛門
つだしげうじ
喜太郎清幽の男
寛政譜8・211
妻は津田三左衛門信智の女

慶長5年 父清幽と同じく石田一成に属し佐和山城に籠る

慶長5年 父清幽と同じく家康に仕える。大番。200俵

寛永7年 大番組頭

寛永10年2月23日 400石200俵

寛永20年 死す
津田重次
生。半兵衛
つだしげつぐ
八郎左衛門重氏の長男
寛政譜8・211 寛永18年5月13日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永19年6月20日 書院番 ●「日記」共

寛永20年12月7日 父重氏の遺跡を継ぐ。400石200俵

寛永20年12月7日 六百石八郎左衛門跡 ●「日記」

慶安3年2月24日 死す
津田重正 元和6年 生。喜太郎。源兵衛
つだしげまさ
八郎左衛門重氏の次男
寛政譜8・211
母は津田三左衛門信智の女

寛永19年6月26日 大番 ●「日記」共


200俵

正保元年12月25日 弐百俵 ●「日記」

承応2年閏6月16日 死す
津田内記

つだないき
松平相模守池田光仲の家臣



津田正重 慶長8年 生。平七郎。平左衛門
つだまさしげ
興菴小平次秀政の養子
寛政譜8・204
豊臣秀頼家臣河北山三郎正勝の男


母は紀伊家臣花房内蔵正宇の女


妻は養父秀政の養女津田平八郎の女

元和元年 はじめて家康に拝謁

元和2年 家康に命により秀忠に拝謁

~元和3年 養父秀政の家を継ぐ。4010石。小姓組

寛永9年11月5日 小姓組・進物役

寛永9年11月5日 本番御免。進物番 ●「日記」

寛永11年5月4日 召し預けられる

寛永11年5月5日 昨日阿部対馬守ニ御預 ●「日記」

寛永11年5月7日 ゆるされる ●「日記」共

寛永14年11月26日 弥無油断江戸中可致夜廻 ●「日記」

寛永19年10月26日 使番

寛永19年10月26日 唯今迠之御役御免折々御使なと可被仰付 ●「日記」

寛永19年11月1日 能勢小十郎唯今之御番御赦免自今以後御使等可被仰付間―


―最前被仰付五輩と申合一人宛殿中え可相詰之旨也 ●「日記」

寛永19年12月30日 布衣 ●「日記」共

寛永20年6月17日 出仕をとどめられる ●「日記」共

正保元年1月27日 ゆるされる ●「日記」共

寛文元年12月24日 死す
津田正忠 慶長4年 生。忠三郎。玄蕃
つだまさただ
刑部正勝の次男
加賀藩史稿14・2
前田利常に仕える。昵近。300石

元和元年 600石

元和3年 父正勝の遺跡を継ぐ。3600石


6600石

寛永19年 小松にて宗門奉行


前田光高に仕える。執政

正保元年5月21日 松平筑前守家老津田玄蕃桂巻隼人正以太刀目録御礼是今度父従肥前守―


―筑前守へ依相付之也 ●「日記」

正保2年 前田光高死去により前田利常に仕える。執政


1万1070石

万治3年
土田縫殿助

つちだぬいどのすけ
有馬玄蕃頭豊氏に仕える

(寛永12年12月8日) (有馬玄蕃頭家来) ●「日記」



土御門泰重 天正16年1月8日 生。右近将監。中務大丞。中務少輔。左衛門佐。左兵衛督
つちみかどやすしげ
左衛門佐久脩の長男
諸家伝下・1005 慶長8年3月1日 元服
宮廷公家系図集覧542 慶長8年3月1日 正六位上・右近将監

慶長17年12月28日 中務大丞

慶長19年1月5日 従五位下

慶長19年12月3日 中務少輔

元和元年1月5日 従五位上

元和3年1月5日 正五位下

元和6年1月5日 従四位下

寛永3年11月19日 左衛門佐

寛永4年1月5日 従四位上

寛永8年1月6日 正四位下

寛永12年1月5日 従三位

(寛永15年3月6日) (昵近之衆) ●「日記」

寛永17年1月5日 正三位

正保元年12月12日 左兵衛督

慶安2年4月24日 従二位

寛文元年8月19日 薨去
土御門泰広 慶長16年4月28日 生。蔵人。右近将監。中務少輔。中務大輔。右衛門佐
つちみかどやすひろ
左兵衛督泰重の長男
諸家伝下・1005 寛永4年12月21日 元服。蔵人。禁色。昇殿。右近将監。正六位上
宮廷公家系図集覧542 (寛永11年7月21日) (極﨟) ●「日記」

寛永13年12月28日 従五位下

寛永14年1月22日 中務少輔

寛永14年4月5日 従五位上

寛永15年1月11日 正五位下

(寛永16年4月1日) (中務大輔) ●「日記」

(寛永18年10月19日) (殿上人) ●「日記」

寛永19年1月5日 従四位下

寛永19年1月11日 中務大輔

寛永20年10月15日 右衛門佐

正保3年1月5日 従四位上

慶安2年1月7日 正四位下

承応元年7月4日
土屋数直 慶長13年 生。辰之助。大和守。但馬守。侍従
つちやかずなお
民部少輔忠直の次男
寛政譜2・189
母は森川金右衛門氏俊の女


室は水野石見守忠貞の女

元和2年 はじめて秀忠に拝謁

元和5年 家光に付属される

元和8年 近習

元和9年 膳番

寛永元年 500俵

寛永元年12月28日 従五位下・大和守

寛永5年 500石


書院番

寛永9年11月5日 書院番・進物役

寛永9年11月5日 本番御免。進物番 ●「日記」

寛永10年2月7日 700石

寛永18年7月5日 書院番組頭

寛永18年7月5日 上野阿波守組頭 ●「日記」

慶安元年10月27日 小姓組番頭

慶安4年11月21日 700石1000俵

承応2年9月18日 御側に伺候

明暦2年12月21日 700石3000俵

明暦3年12月25日 5000石

寛文2年2月22日 若年寄。1万石

寛文4年6月13日 1万5000石

寛文5年12月23日 老職

寛文5年12月27日 従四位下

寛文6年7月28日 3万5000石

寛文9年6月25日 常陸国土浦城4万5000石

寛文10年12月29日 侍従

延宝7年4月2日
土屋勝正
生。市之丞
つちやかつまさ
三郎右衛門昌吉の男
寛政譜9・241
母は戸田忠兵衛の女


妻は今村彦兵衛重長の女


15歳にて家康に拝謁


17歳にて家康に仕える

慶長5年 大番。松平石見守康安の組に属す

慶長7年8月3日 200石


200俵

慶長19年 大番組頭

寛永2年12月11日 410石200俵

寛永7年1月14日 使番

寛永10年8月19日 目付 ●「日記」共

寛永11年4月15日 駿府町奉行 ●「日記」共

正保元年8月16日 死す
土屋重成娘
寛政譜9・233
土屋権右衛門重成の女
寛政譜2・36
酒井紀伊守忠吉に嫁ぐ


女子を産むか。のちの吉良若狭守義冬の妻


女子を産むか。のちの板倉阿波守重郷の室


酒井右衛門忠頼を産むか

元和9年 酒井和泉守忠時を産む

寛永2年 酒井兵部忠経を産む


女子を産むか。のちの吉良若狭守義冬の後妻


女子を産むか。のちの新庄新三郎直常の妻また植村左京泰治の妻

某年 死す
土屋重正
生。権十郎
つちやしげまさ
権右衛門重成の男
寛政譜9・233
秀忠に仕える。西丸小姓組


(1550石)

寛永10年6月14日 小姓組・進物役

寛永10年6月14日 進物番 ●「日記」

(寛永13年) 死す
土屋重吉
生。半三郎。権十郎
つちやしげよし
権十郎重正の養子。加藤勘右衛門正次の次男
寛政譜9・234
妻は松平丹後守重信の女

寛永13年 養父重正の遺跡を継ぐ。1550石

寛永13年8月25日 はじめて家光に拝謁

寛永13年8月25日 土屋権十郎養子跡目依被仰付今日御目見 ●「日記」

寛永19年6月20日 小姓組 ●「日記」共

延宝3年10月21日 三崎奉行

延宝4年1月11日 自殺。断絶
土屋利次 元和3年 生。忠次郎
つちやとしつぐ
忠左衛門利清の男
寛政譜9・229
母は武田家臣飯田助之丞常春の女


妻は嶋田幽也利正の女

寛永9年10月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永10年 小姓組

寛永10年8月11日 川船奉行 ●「日記」

寛永17年 父利清の遺跡を継ぐ。570石

寛永18年3月3日 去年跡職被仰付面々或太刀目録或樽代ニて継目之御礼申上之 ●「日記」

正保4年9月26日 小十人頭

正保4年12月30日 布衣

慶安4年11月21日 570石300俵

明暦3年7月23日 荒井奉行。870石300俵

寛文4年4月4日 奈良奉行。1370石300俵

寛文9年11月14日 閉門

寛文11年7月14日 ゆるされる

寛文11年8月17日 小普請

寛文12年7月16日 死す
土屋利直 慶長12年 生。平八郎。民部少輔
つちやとしなお
民部少輔忠直の長男
寛政譜2・185
母は森川金右衛門氏俊の女


室は永井右近大夫直勝の女


継室は松平右衛門大夫正綱の養女徳川忠長家臣大河内金七郎の女

慶長17年 父忠直の遺領を継ぐ。上総国久留里城2万石

慶長17年11月 はじめて家康に拝謁

元和7年 近習

元和7年 従五位下・民部少輔

寛永2年12月11日 上総国久留里城2万1000石

寛永11年1月29日 火事之砌至火本罷越万事可申付 ●「日記」

寛永19年9月1日 毎歳於江戸越年未年在江戸半年替 ●「日記」

延宝3年閏4月24日
土屋利直長女
寛政譜2・186
土屋民部少輔利直の長女
寛政譜13・192
母は松平右衛門大夫正綱の養女徳川忠長家臣大河内金七郎の女

寛永20年12月2日 縁組被仰付之土屋民部少輔娘内藤兵部少輔 ●「日記」


内藤兵部少輔政晴に嫁ぐ

正保2年 内藤丹波守政親を産む

正保2年8月6日 夫利直が死去


以下不詳
土屋知貞 文禄3年 生。左門。忠兵衛
つちやともさだ
惣検校伊豆円都の男
寛政譜9・226
母は今川家臣朝比奈駿河守信置の女


妻は飯高主水貞政の女


後妻は大嶋弥三郎光長の女

慶長17年 はじめて家康に拝謁。秀忠に付属される。小姓組

元和元年 500石

元和2年9月 家光に付属される

寛永10年2月7日 700石

寛永18年10月8日 如前々江戸中昼夜見舞之役被仰付 ●「日記」

正保2年6月28日 船手頭

正保2年12月30日 布衣

延宝2年6月29日 船手頭を辞す

延宝4年7月8日 死す
土屋虎永
生。権四郎。四郎兵衛
つちやとらなが
好庵虎久の次男
寛政譜7・378
母は高橋右近大夫家臣土屋左衛門虎宗の女


秀忠に仕える

元和3年8月 徳川忠長に付属される

(寛永9年) 処士

(寛永19年12月10日) (駿河大納言殿御部屋住衆) ●「日記」

寛永19年12月10日 家光に仕える。250石

寛永19年12月10日 如前々御知行被下之 ●「日記」

寛永20年6月22日 大番

寛文2年 死す
土山吉太郎

つちやまきちたろう (寛永11年7月21日) (地下) ●「日記」

寛永11年7月21日 初て御礼 ●「日記」



土屋正真
生。四郎左衛門
つちやまさざね
惣八郎正猶の男
寛政譜9・240
妻は桜井市右衛門信利の女

元和6年 秀忠に仕える。大番

寛永20年10月21日 家綱に付属される。三丸番

寛永20年10月21日 従大御番被召出三丸御番被仰付之 ●「日記」

慶安3年9月4日 大番

万治元年4月29日 死す
土屋政重 慶長3年 生。長三郎
つちやまさしげ
右衛門政成の長男
寛政譜9・237
母は侍女天野局の養女


妻は神谷縫殿助正次の女

慶長16年11月18日 はじめて秀忠に拝謁。家光に付属される。小姓


500石


書院番

寛永10年2月7日 700石

寛永20年8月30日 家綱に付属される。三丸に勤仕。守衆組

寛永20年8月30日 若公様え被為附之三丸御殿御番被仰付之 ●「日記」

慶安3年9月4日 書院番。西丸に伺候


書院番を辞す。小普請

寛文7年1月1日 死す
土屋正吉 天正19年 生。半四郎。半右衛門
つちやまさよし
源三正久の長男
寛政譜9・236 慶長19年10月 はじめて秀忠に拝謁


家光に仕える。大番。300石

寛永10年2月7日 500石

明暦3年2月23日 死す
土山信濃守

つちやましなののかみ (寛永11年7月21日) (地下) ●「日記」

寛永11年7月21日 初て御礼 ●「日記」



土山志摩

つちやましま
知恩院門跡良純法親王に仕える

(寛永12年3月13日) (智恩院之内) ●「日記」

(寛永12年8月12日) (志摩守) ●「日記」



土山武慶 慶長7年1月10日 生。左近衛将監。淡路守。駿河守。友菴
つちやまたけよし
駿河守右近衛将監武久の男
地下家伝中・810 慶長15年12月26日 従五位下。左近衛将監

寛永13年3月5日 淡路守。左近衛将監

寛文3年5月1日 駿河守

貞享4年12月26日 法体。友菴と号す

元禄2年10月26日
土屋之直 慶長16年 生。金弥。兵部少輔
つちやゆきなお
民部少輔忠直の三男
寛政譜2・193
母は森川金右衛門氏俊の女


妻は長谷川淡路守正信の女

元和9年 秀忠に拝謁

寛永5年 近侍。手水番。500俵

寛永9年 1000石

寛永9年6月4日 中奥に伺候 ●「日記」共

寛永9年6月27日 膳番 ●「日記」共

寛永9年12月20日 従五位下・兵部少輔

寛永9年12月20日 諸大夫 ●「日記」

(寛永10年2月29日) (兵部少輔の初出) ●「日記」

寛永16年12月26日 書院番

寛永16年12月26日 御表之御番 ●「日記」

寛永16年12月28日 書院番・進物役

寛永16年12月28日 進物番 ●「日記」

正保元年5月27日 書院番組頭

正保元年5月27日 池田帯刀組御書院番之組頭 ●「日記」

万治元年6月21日 小姓組番頭

万治元年閏12月25日 1000石1000俵

万治2年~ 閉門

寛文7年3月17日 赦免

寛文9年2月22日 書院番頭

寛文11年10月8日 大番頭

延宝元年12月25日 1000石3000俵

延宝5年閏12月25日 大番頭を辞す

延宝7年8月14日 死す
筒井次郎八

つついじろはち (寛永13年3月25日) (皆川山城守組) ●「日記」 (大番)






筒井忠景 元和3年 生。源丞
つついただかげ
内蔵忠重の次男
寛政譜17・86
母は米津清三郎春親の女


妻は松平与兵衛清信の女

寛永15年11月21日 筒井内蔵二番目子可被召出 ●「日記」

寛永16年7月23日 はじめて家光に拝謁

寛永16年7月23日 筒井内蔵二番子以樽代初て御目見 ●「日記」

寛永17年3月19日 小姓組 ●「日記」共

寛永19年12月10日 300俵 ●「日記」共

慶安元年5月18日 小納戸

明暦2年5月4日 中奥に伺候

万治2年2月11日 二丸留守居

延宝5年6月25日 死す
筒井忠重 天正8年 生。内蔵
つついただしげ
内蔵忠次の男
寛政譜17・84
母は熊岡刑部左衛門の女


妻は米津清三郎春親の女

天正10年 父忠次が戦死。母に従い遠江国匂坂に住む

天正19年 はじめて家康に拝謁


御傍に伺候。納戸役。200石100俵

元和元年~ 納戸番頭。200石200俵

寛永2年7月27日 220石200俵

寛永12年9月6日 筒井内蔵御前ニ出是累年雖為御納戸頭内田平左衛門―


―依別役被仰付之内蔵一人可為進退之旨去比被仰出之付て―


―今日御礼申上 ●「日記」

寛永19年5月5日 留守居番。1420石

寛永20年12月29日 布衣 ●「日記」共


家綱幼少のとき命によりしばしば御傍に伺候

明暦元年2月8日 死す
筒井忠助 慶長19年 生。小善。藤蔵。内蔵
つついただすけ
内蔵忠重の長男
寛政譜17・84
母は米津清三郎春親の女


妻は永井弥右衛門直元の女

寛永9年6月19日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永10年 小姓組

承応元年 書院番

明暦元年9月8日 父忠重の遺跡を継ぐ。1420石

万治2年6月25日 小十人頭

万治2年12月28日 布衣

延宝元年2月12日 留守番

天和2年4月21日 1920石

天和3年2月29日 死す
筒井伝十郎
生。金弥。伝十郎
つついでんじゅうろう
次郎八の男か

寛永13年3月25日 筒井次郎八子被召出之 ●「日記」

寛永13年3月25日 皆川山城守組(大番) ●「日記」

寛永19年6月26日 筒井金弥大御番被仰付之 ●「日記」

正保元年12月25日 大御番筒井伝十郎新規ニ弐百俵被下之 ●「日記」






筒井正成
生。久平
つついまさなり
弥左衛門久忠の長男
寛政譜17・88 元和元年 350俵。腰物持。薬込役


殺生方

(明暦2年) 死す
筒井正信 慶長14年 生。次郎助。左馬助。織部。慶雲
つついまさのぶ
主殿助正次の男。もしくは紀伊守順斎の次男
寛政譜17・82
妻は林丹波勝正の女


家光に仕える。小姓。1000石

~寛文元年 1200石


小姓を辞す。小普請

延宝5年閏12月12日 致仕。慶雲と号す

貞享2年11月28日 死す
筒井与右衛門
寛政譜17・91 与右衛門の家系か
つついよえもん (寛永11年閏7月25日) (大坂の役人か) ●「日記」






都筑宗左衛門
惣左衛門云成かその男か?寛政譜13・173
つづきそうざえもん
本多甲斐守政朝の家臣



都筑為次
生。弥左衛門
つづきためつぐ
弥左衛門為政の次男
寛政譜13・173
母は本多作左衛門重次の女


妻は近藤縫殿助用可の女

慶長17年 はじめて秀忠に拝謁

(元和8年) (父為政の遺跡を継ぐ? 6000石)


徒頭

寛永10年12月27日 500石加増。(6500石)

寛永10年12月27日 五百石御加増 ●「日記」

寛永16年5月13日 徒頭を辞す

寛永16年5月13日 依為病者御役御免云々 ●「日記」


(以下不詳)
都筑為常 寛永14年 生。加右衛門。翫雪。はじめ松下を称す
つづきためつね
松下十左衛門為定の男
寛政譜13・174
母は川口長三郎正武の女


妻は桑山下野守貞寄の女


後妻は設楽甚三郎貞辰の女

寛永19年11月12日 父為定の遺跡を継ぐ。500石。小普請

寛永19年11月12日 御旗本衆令死去跡被下之但自分之知行御切米何も上 ●「日記」


都筑に改める

明暦元年3月13日 小姓組

貞享4年3月16日 桐間番

貞享4年4月18日 小姓組

元禄7年11月21日 小姓組を辞す

享保6年6月25日 致仕。翫雪と号す

享保7年2月25日 死す
都筑為基
生。弥十郎。弥兵衛。弥左衛門
つづきためもと
弥左衛門為次の男
寛政譜13・173
母は近藤縫殿助用可の女


妻は石谷左近将監貞清の女

寛永10年2月19日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永15年1月15日 書院番 ●「日記」共

寛永18年12月13日 三百俵新規ニ被下之 ●「日記」

慶安3年9月3日 西丸に勤仕

(慶安4年) 本丸に勤仕

万治3年3月11日 徒頭

万治3年12月28日 布衣

寛文2年4月8日 松平相模守池田光仲に召し預けられる


以下不詳
都筑法勝
生。二郎右衛門
つづきのりかつ
平右衛門法久の三男
寛政譜13・170
母は内藤左馬助家臣磯谷定右衛門の女


妻は徳川忠長家臣伊丹弥五右衛門勝忠の女

寛永9年8月22日 家光に仕える。小十人


100俵

寛永19年12月16日 200俵 ●「日記」共

万治元年7月19日 新番

万治2年12月26日 250俵

貞享元年8月19日 箪笥奉行

貞享2年10月26日 箪笥奉行を辞す。小普請

貞享3年1月22日 死す
都筑法重 慶長17年 生。鍋之助。平左衛門。市左衛門
つづきのりしげ
平右衛門法久の次男
寛政譜13・167
母は内藤左馬助家臣磯谷定右衛門の女


妻は河野氏

寛永9年8月22日 はじめて家光に拝謁


小十人

寛永11年3月 100俵

寛永19年12月16日 200俵 ●「日記」共

慶安元年6月14日 新番

慶安4年9月29日 徳川綱重に付属される。目付


500俵


先手持弓等の頭


小姓組番頭


小姓組番頭を辞す

貞享4年3月29日 死す
都筑則次 寛永元年 生。平七郎。長左衛門
つづきのりつぐ
平蔵則久の男
寛政譜13・166
妻は本多右衛門八の女


後妻は服部四郎右衛門保重の女


父則久の遺跡を継ぐ。(100俵程か)

寛永13年12月21日 はじめて家光に拝謁

寛永13年12月21日 跡目之面々平蔵子都筑平七郎(御目見) ●「日記」

寛永19年6月26日 大番 ●「日記」共

万治2年3月6日 200俵


蔵役

延宝3年3月10日 蔵役をゆるされる

延宝5年2月3日 裏門番頭

延宝7年4月3日 代官。400俵

元禄7年5月6日 死す
都筑則久 慶長12年 生。平蔵
つづきのりひさ
平右衛門法久の長男
寛政譜13・166
母は内藤左馬助家臣磯谷定右衛門の女


家光に仕える。小十人


納戸番

寛永12年12月8日 死す
都筑半十郎

つづきはんじゅうろう


寛永14年11月26日 屋敷被下之 ●「日記」



都筑正数
生。善九郎
つづきまさかず
善兵衛正重の長男
寛政譜13・175
母は仁賀保兵庫の女


妻は庵原八兵衛正成の女

寛永4年 御側の鳥見

(寛永13年8月23日) (昨日初て御鷹野ニ当年初て被為成付て(銀子)被下之 ●「日記」

寛永15年12月18日 御扶持方五人扶持被下之 ●「日記」

明暦3年12月25日 父正重の遺跡を継ぐ。現米80石。二条城鉄炮鎗奉行

寛文2年8月27日 死す
都筑正重 天正7年 生。善兵衛
つづきまさしげ
弥十郎正秋の三男
寛政譜13・175
母は石川安芸守清兼の女


妻は仁賀保兵庫の女

慶長2年 家康に仕える

寛永2年 二条城鉄炮鎗奉行。現米80石

(寛永18年12月1日) (二条御役人) ●「日記」

明暦2年12月6日 死す
都筑政次
生。三四郎
つづきまさつぐ
三四郎政吉の男
寛政譜13・181
妻は本間十左衛門次年の女

寛永13年11月24日 父政吉の遺跡を継ぐ。200石

寛永13年11月24日 都筑三四郎弐百石子跡目被仰付之 ●「日記」


大番

寛文3年2月11日 腰物持役。新番。昼のみ勤仕

寛文4年12月25日 200石50俵

天和3年6月3日 腰物持役をゆるされる。新番

元禄4年 死す
都筑政吉
生。三四郎
つづきまさよし
三之助政吉の男
寛政譜13・181
秀忠に仕える


200石 ●「日記」寛永13年11月24日条


死す

寛永13年11月24日 都筑三四郎弐百石子跡目被仰付之 ●「日記」
津戸左次兵衛

つどさじびょうえ



大番

(寛永15年9月27日) (皆川山城守組) ●「日記」

寛永15年9月27日 昨日切腹被仰付 ●「日記」
津戸孫右衛門

つどまごえもん


寛永15年9月27日 左二兵衛弟孫右衛門儀は落合小平次ニ御預 ●「日記」



恒岡資久
生。源兵衛。新左衛門
つねおかすけひさ
内記資正の男
寛政譜4・386
妻は高須氏

慶長17年 はじめて家康に拝謁

慶長18年 父資正の遺跡を継ぐ。350俵

~慶長19年 大番

寛永10年2月7日 550石

寛永20年9月20日 箪笥奉行

寛永20年9月20日 御鉄炮玉薬之奉行 ●「日記」

万治3年12月25日 留守居方箪笥役

延宝7年 務を辞す

貞享2年1月27日 死す
壺井重信 元和9年 生。小左衛門
つぼいしげのぶ
金大夫永重の次男
寛政譜19・122
母は今村九郎兵衛吉正の女


妻は小笠原八右衛門直次の女

正保元年6月30日 書院番

正保元年6月30日 西尾小左衛門子坪井金大夫子諸星勝兵衛子右三人御書院番―


―御小姓組被仰付之 ●「日記」

正保4年12月20日 父永重の遺跡を継ぐ。400俵

元禄4年8月16日 書院番を辞す。小普請

元禄16年6月1日 死す
壺井永重 文禄3年 生。金大夫
つぼいながしげ
次右衛門長勝の男
寛政譜19・122
妻は今村九郎兵衛吉正の女

元和元年 大坂の役に従う

(寛永11年) 父長勝の遺跡を継ぐ。200俵。(代官?)

寛永15年12月5日 勘定所に勤仕

寛永15年12月5日 関東方御勘定 ●「日記」


400俵

正保4年5月14日 死す
壺井良勝
生。次左衛門
つぼいよしかつ
対馬守長清の次男
寛政譜19・124
秀忠に仕える。勘定。200俵

寛永14年 死す
壺井良重
生。牛之助。次右衛門
つぼいよししげ
次左衛門良勝の男
寛政譜19・124
妻は野村彦大夫為重の女

寛永14年12月8日 父良勝の遺跡を継ぐ。200俵

寛永14年12月8日 弐百俵次左衛門跡坪井牛之介 ●「日記」


代官

延宝4年 死す
坪内家定 永禄7年 生。源太郎。惣兵衛。玄蕃
つぼうちいえさだ
玄蕃利定の長男
寛政譜16・84
母は織田家臣生駒右近の妹


妻は織田家臣生駒八右衛門家長の女


織田右大臣信長に仕える

天正12年 家康に拝謁


(秀吉に仕える)

慶長5年 関ケ原の役にて井伊直政に属す

(慶長15年) 父利定の遺跡を継ぐ。5000石

(慶長15年) 鉄炮頭。同心50人を預かる

寛永9年6月25日 与力10騎同心50人を預かる

寛永9年6月25日 馬上同心10騎 ●「日記」

寛永11年 近江国水口城守衛

慶安元年10月24日 死す
坪内大隅

つぼうちおおすみ
大工






坪内源太郎

つぼうちげんたろう
佐左衛門の男か?



坪内佐左衛門

つぼうちさざえもん
佐左衛門定吉か? 寛政譜16・85



坪内定次 慶長元年 生。半三郎
つぼうちさだつぐ
玄蕃家定の次男
寛政譜16・90
母は織田家臣生駒八右衛門家長の女


妻は松平新太郎池田光政家臣横井弥兵衛の女

慶長15年 はじめて秀忠に拝謁

慶長16年 小姓組

~慶長19年 300石

元和元年~寛永3年 大押の役

寛永10年2月2日 徒頭 ●「日記」共

寛永10年12月27日 800石

寛永10年12月27日 五百石御加増 ●「日記」

(寛永13年12月13日) (布衣) ●「日記」

寛永18年4月12日 逼塞 ●「日記」共

寛永18年9月5日 ゆるされる

寛永18年9月5日 御赦免仕来御役如前々可相勤 ●「日記」

正保元年2月20日 先鉄炮頭

正保元年2月20日 御鉄炮頭小川新九郎元組 ●「日記」

正保元年12月16日 持筒頭

正保元年12月16日 御持筒頭大森半七郎元組 ●「日記」

慶安4年11月21日 800石300俵

寛文3年11月6日 持筒頭を辞す

延宝元年11月7日 死す
坪内定長 元和5年 生。数馬。又左衛門。惣兵衛。定長
つぼうちさだなが
惣兵衛定仍の三男
寛政譜16・85
母は菅沼織部正定盈の女


妻は池田内蔵助重政の女

寛永6年 はじめて秀忠に拝謁

寛永12年 小姓組

寛永15年 300俵

慶安3年9月3日 西丸に勤仕

(慶安4年) 本丸に勤仕

承応元年6月26日 小姓組。進物役

万治元年6月3日 徒頭

万治元年閏12月25日 600俵

万治元年閏12月28日 布衣

万治3年3月11日 父定仍に代わり先鉄炮頭

万治3年7月9日 父定仍の家を継ぐ。4500石

天和2年4月21日 5000石

元禄元年4月19日 先鉄炮頭を辞す

元禄3年12月7日 致仕。300俵。定長と号す

元禄5年1月19日 死す
坪内定仍 天正15年 生。喜太郎。惣兵衛。道雪
つぼうちさだより
玄蕃家定の長男
寛政譜16・85
母は織田家臣生駒八右衛門家長の女


妻は菅沼織部正定盈の女

慶長6年 はじめて家康に拝謁。近仕

慶安元年12月11日 父家定の遺跡を継ぐ。5000石。鉄炮頭

慶安元年12月30日 布衣

万治3年3月11日 鉄炮頭を辞す。寄合

万治3年7月9日 致仕。600俵。道雪と号す

寛文4年4月12日 死す
坪内友定 慶長9年 生。清九郎。藤右衛門
つぼうちともさだ
五郎左衛門秀定の養子。坪内佐左衛門正定の三男
寛政譜16・94
妻は五郎左衛門秀定の女

元和6年 はじめて秀忠に拝謁


家光の小姓。150俵


350俵


大番

寛永10年2月7日 550石

万治3年2月23日 大番組頭

寛文元年12月12日 550石200俵

寛文5年2月 大番組頭を辞す。小普請

寛文9年8月26日 死す


つぼね
九条幸家に仕える

(寛永17年5月26日) (九条殿) ●「日記」



妻木重門
生。平四郎。五平次。平十郎
つまきしげかど
彦右衛門重吉の次男
寛政譜5・285
母は長崎半左衛門元通の女


家光に仕える。小姓組。300俵


書院番

寛永10年2月7日 500石

寛永10年6月14日 書院番・進物役

寛永10年6月14日 進物番 ●「日記」

正保3年12月23日 死す
妻木重直 慶長9年 生。伝兵衛。彦右衛門。暫軒
つまきしげなお
彦右衛門重吉の長男
寛政譜5・283
母は長崎半左衛門元通の女


妻は真田安房守昌幸の女


家康に仕える

元和7年 書院番


300石

寛永10年2月7日 500石

寛永15年12月6日 父重吉の遺跡を継ぐ。1200石 ●「日記」共

寛永16年1月28日 妻木彦右衛門死去ニ付て跡目被仰付面々御礼 ●「日記」

万治2年8月21日 使役

万治2年12月28日 布衣

万治3年6月21日 長崎奉行

寛文2年4月12日 勘定奉行。3000石

寛文10年12月23日 勘定奉行を辞す。寄合

寛文12年12月9日 致仕。300俵。暫軒と号す

天和3年3月27日 死す
妻木重吉 元亀2年 生。平四郎。彦右衛門
つまきしげよし
伝兵衛貞徳の三男
寛政譜5・283
母は土岐三兵の女


妻は長崎半左衛門元通の女


幼少より森美作守忠政のもとにあり


松平薩摩守忠吉に仕える


忠吉逝去ののち家康に仕える。1000石

元和2年 書院番

寛永10年2月7日 1200石


書院番を辞す。小普請

寛永15年10月30日 死す
妻木之徳
生。左太郎。吉左衛門
つまきゆきのり
伝兵衛貞徳の次男
寛政譜5・281
母は土岐三兵の女

文禄3年 はじめて家康に拝謁

慶長18年9月3日 500石

元和元年~寛永2年 1000石

正保4年1月26日 死す
妻木頼次 元和6年 生。藤右衛門
つまきよりつぐ
権左衛門頼利の長男
寛政譜5・280
妻は永井豊前守直貞の女


また妻は最上源五郎義俊の女

(寛永10年2月19日) (これ以前に初御目見か) ●「日記」

承応2年12月22日 父頼利の遺跡を継ぐ。美濃国妻木村7000石

承応3年2月8日 はじめて家綱に拝謁

万治元年6月18日 死す
妻木頼利 天正13年 生。主水。権左衛門
つまきよりとし
長門守頼忠の長男
寛政譜5・280 慶長5年 はじめて家康に拝謁

(慶長15年) 小姓組

慶長17年 書院番

元和9年 父頼忠の遺跡を継ぐ。美濃国妻木村7500石。寄合

(寛永8年5月20日) (権左衛門) ●「日記」

承応2年10月1日 死す
鶴岡庄太郎

つるおかしょうたろう


寛永15年12月18日 百俵御切米被下之 ●「日記」



鶴岡与右衛門

つるおかよえもん 寛永13年7月30日 黄金弐枚御帷子二市岡左大夫黄金壱枚御帷子二―


―糸原甚左衛門同断鶴岡与右衛門右三人関東筋御領分―


―為国廻依被差遣被下之 ●「日記」

寛永19年6月22日 松平式部大輔へ鶴岡与右衛門役儀ニ付て私曲有之由―


―依有申出族為御穿鑿御預 ●「日記」

寛永19年7月8日 切腹 ●「日記」
鶴岡与右衛門子 寛永19年


与右衛門の男

寛永19年7月8日 死罪か ●「日記」



鶴岡八幡
鎌倉
つるがおかはちまん




つるのかた



家綱の侍女か






貞松院 慶長13年 生。佐井御方
ていしょういん
津田左衛門佐信益の次女
御系譜
東福門院に仕える
(徳川諸家系譜2・199) 寛永元年 京都より下向
士林泝洄3・185
徳川義直の側室となる

寛永3年6月16日 普峰院を産む。のちの広幡大納言忠幸の室

寛永16年8月 奥様と称す

慶安3年5月7日 夫義直が逝去

貞享元年12月8日
貞宗院
ていそういん
西郷弾正左衛門正勝の女
寛政譜6・296
戸塚五郎大夫忠春に嫁ぐ
寛政譜18・277
西郷局宝台院を産む


夫忠春が戦死


蓑笠之助正尚に嫁ぐ

(慶長14年)

寛永18年4月11日 台徳院様御祖母貞宗院殿三十三年之御遠忌付於相州玉縄貞宗寺―


―御追善御執行依之八木三百俵貞宗寺被下之并水野小左衛門―


―御法事之内彼地被付置之 ●「日記」
貞宗寺
相模国玉縄。浄土宗
ていそうじ
開基は貞宗院



手嶋彦兵衛

てしまひこびょうえ



徒目付か

(寛永19年7月8日) (御検使) ●「日記」



出目秀満
生。源次郎。源助。常心坊。常慶
でめひでみつ
二郎左衛門則満の男
仮面譜
能面打ち。越前国に住す
(能楽盛衰記上・346)
以下不詳



出目満永
生。源助。元休
でめみつなが
源助秀満の男
仮面譜
能面打ち。京都に住す
(能楽盛衰記上・346)
江戸に住す

寛文12年 死す
寺家伊折

てらいえいおり
梶井門跡慈胤法親王に仕える

(寛永13年5月6日) (梶井新宮(内)) ●「日記」



寺家大蔵少輔

てらいえおおくらのしょう


(寛永17年5月9日) (梶井御門跡之内) ●「日記」



寺尾直政 慶長9年 生。小源大。左馬。弾正忠。土佐守。越前守
てらおなおまさ
与兵衛正俊の長男
士林泝洄2・235 元和3年 徳川義直に仕える。小姓


家老


従五位下・弾正忠


8000石

慶安3年5月7日 義直に殉死
寺沢堅高 慶長14年 生。晴。兵庫頭
てらさわかたたか
志摩守広高の次男
寛政譜11・42
母は妻木伝兵衛貞徳の女


室は岡部内膳正長盛の女


また相馬大膳大夫利胤の女を娶る

元和6年 はじめて秀忠に拝謁

寛永元年 従五位下・兵庫頭

寛永10年 父広高の遺領を継ぐ。肥前国唐津12万石

寛永10年6月2日 次目之御礼 ●「日記」

寛永12年7月7日 帷子十進上之祝言ニ付て也 ●「日記」

寛永15年4月12日 肥前国唐津8万石。出仕をとどめられる

寛永15年4月12日 寺沢兵庫頭領内天草被召上云々 ●「日記」

寛永16年6月12日 ゆるされる ●「日記」共

正保4年11月18日 自殺
寺沢広高 永禄6年 生。忠次郎。志摩守
てらさわひろたか
越中守広正の男
寛政譜11・42
室は妻木伝兵衛貞徳の女


秀吉に仕える


肥前国唐津6万石

天正17年 従五位下・志摩守

慶長3年 肥前国唐津8万石

慶長6年2月 肥前国唐津12万石

寛永3年8月19日 従四位下

寛永10年4月11日
寺沢広高三女
寛政譜11・43
寺沢志摩守広高の三女
寛政譜15・280
母は妻木伝兵衛貞徳の女

寛永10年7月2日 戸川土佐守正安と縁組 ●「日記」


戸川市正を産む

慶安元年 戸川土佐守安宣を産む


戸川助七郎安成を産む


女子を産む。のちの池田越前守薫彰の室



寺嶋彦右衛門

てらしまひこえもん
松平相模守池田光仲に仕える

(寛永19年5月22日) (松平相模守家来) ●「日記」



寺田左太郎

てらださたろう
土井大炊頭利勝に仕える

(寛永19年4月14日) (大炊頭家来) ●「日記」



寺田与左衛門

てらだよざえもん
土井大炊頭利勝に仕える

(寛永17年4月14日) (大炊頭家来) ●「日記」



寺西左京

てらにしさきょう
加賀前田家中

(寛永17年2月26日) (松平肥前守家中之証人) ●「日記」



寺西将監

てらにししょうげん
松平安芸守浅野光晟の家老

(寛永12年6月14日) (寺之内将監) ●「日記」



寺西忠左衛門

てらにしちゅうざえもん
松平石見守池田輝澄に仕える

(寛永17年7月26日) (松平石見守家中) ●「日記」

寛永17年7月26日 父子共死罪 ●「日記」



寺西秀勝
生。治右衛門
てらにしひでかつ
治兵衛秀則の次男
諸士系譜16
妻は前田三郎四郎の女

(慶長16年) (父秀則の遺跡を継ぐか)


加賀前田家に仕える。7000石

寛永18年 死す
寺本勘兵衛

てらもとかんびょうえ (寛永12年6月14日) (松平安芸守家来下奉行) ●「日記」



てりや
照屋か




(正保元年6月25日) (琉球中山王使者馬上之従者赤はちまき) ●「日記」



天英宗五

てんえいそうご


正保元年1月10日 銀五拾枚南禅寺五首座今度諸家系図被仰付依令首尾被下之 ●「日記」


(上記、竺隠崇五か不明)


大徳寺242世

元禄10年1月4日 示寂
天嶽院
相模国玉縄。曹洞宗
てんがくいん




天岌
生。教蓮社心誉
てんきゅう
極善山即相院最上寺4世
三縁山志 寛文10年2月27日
(浄土宗全書19・570)







伝察 永禄5年 生。深誉伝察
でんさつ
蛇窪帯刀の男

慶長6年 岩槻浄国寺3世

元和3年 鎌倉光明寺33世

寛永7年12月 増上寺16世

寛永8年3月25日 増上寺住持 ●「日記」

寛永9年1月1日 遷化
天樹院 慶長2年4月11日 誕生。千姫。東丸。北之丸。天樹院
てんじゅいん
秀忠の長女
幕府祚胤伝
母は秀吉の養女達子浅井備前守長政の三女崇源院
(徳川諸家系譜2・60) 慶長8年7月28日 豊臣秀頼と縁組
寛政譜11・218 慶長8年11月 大坂城へ入輿

元和元年5月6日 大坂落城

元和元年5月8日 二条城へ入る

元和元年5月9日 伏見城へ入る

元和元年8月20日 江戸へ入る

元和2年9月 本多中務大輔忠刻と縁組

元和4年7月11日 本多中務大輔忠刻のもとへ入輿


円盛院を産む。のちの松平新太郎池田光政の室


甲千代を産む。のち早世

寛永3年5月7日 夫忠刻と死別

寛永3年12月6日 落飾。竹橋御殿に入る。東丸と称す(天樹院と号す?)

~寛永9年 飯田町に移る。北之丸と称す

(寛永10年5月20日) (御屋敷御移徙) ●「日記」

寛文6年2月6日 逝去
天諚寺
駿河国もしくは遠江国か
てんじょうじ




天真院
生。完子。従二位
てんしんいん
豊臣参議秀勝の女
諸家伝上・62
母は秀吉の養女達子浅井備前守長政の三女崇源院
宮廷公家系図集覧253
豊臣秀頼の母茶々浅井備前守長政の長女淀殿に養育される
江の生涯88 慶長9年6月3日 九条幸家に嫁ぐ

慶長12年1月24日 二条康道を産む

慶長14年8月13日 九条道房を産む

元和元年2月17日 松殿道昭を産む


(随心院門跡大僧正栄厳を産む?)


(女子を産む? のちの西本願寺良如光円の室)


(女子を産む? のちの東本願寺宣如光従の室)

万治元年8月18日 逝去
伝通院
武蔵国江戸小石川。浄土宗
でんずういん
(前略)
小石川伝通院志
中興1世正誉廓山
(浄土宗全書19・677) 寛永2年8月23日 廓山寂

寛永2年 2世定誉随波

(寛永11年) 3世登誉智童

寛永12年9月28日 増上寺住持伝通院智堂被仰付 ●「日記」


4世叡誉聞悦

寛永13年3月3日 門悦和尚小石川伝通院之住職被仰付御礼 ●「日記」


5世暁誉位産


6世直誉廓円


(後略)
天崇院 慶長5年5月12日 生。勝姫。高田
てんそういん
秀忠の三女
幕府祚胤伝
母は秀吉の養女達子浅井備前守長政の三女崇源院
(徳川諸家系譜2・62) 慶長14年 越前少将松平三河守忠直と縁組
西巌公年譜 慶長16年9月5日 発輿
(徳川諸家系譜4・98) 慶長16年9月28日 越前国福井城に入輿
三世恵照公年譜 元和元年11月9日 松平越後守光長を産む
(徳川諸家系譜4・101) 元和3年4月5日 宝珠院を産む。のちの好仁親王の室
(徳川諸家系譜4・110) 元和4年6月6日 廉貞院を産む。のちの九条道房の室

元和9年閏8月 夫忠直が豊後国へ配流のため三子とともに江戸に移住

寛永元年3月15日 子光長が越後国高田に転封

(寛永元年) 牛込川田ヶ窪(高田)に屋敷を賜り移住

寛文12年2月21日 逝去
天徳寺
江戸。浄土宗
てんとくじ




天王宮
上野国高崎柴崎
てんのうぐう
現在の進雄神社



転法輪公富 元和6年1月2日 生。転法輪三条。侍従。中将。中納言。大納言。大将。右馬寮御監。
てんぽうりんきんとみ
内大臣。右大臣。唯心院
諸家伝上・152
左大臣実秀の男
宮廷公家系図集覧269
母は日野大納言資勝の女
てぼり 元和6年閏12月27日 従五位下

寛永4年1月5日 従五位上

寛永5年1月6日 正五位下

寛永8年1月11日 侍従

寛永8年11月6日 従四位下

寛永12年1月5日 従四位上

寛永13年1月5日 正四位下

寛永14年12月21日 左中将。元服。禁色。昇殿

寛永15年1月5日 従三位。左中将

寛永15年3月19日 転法輪中将御方分高百石中将幼少付て先年雖上置―


―今程は禁中御役をも依相勤右百石之所中将へ被下之 ●「日記」

寛永16年12月29日 権中納言

寛永18年1月5日 正三位

(寛永18年4月10日) (中納言の初出) ●「日記」

慶安元年12月22日 権大納言

慶安2年4月3日 従二位

承応元年10月12日 正二位

明暦元年1月25日 右近衛大将。右馬寮御監。随身。兵仗

明暦2年12月26日 内大臣。右近衛大将

明暦3年3月27日 右近衛大将を辞す

万治元年9月6日 内大臣を辞す

寛文4年4月5日 右大臣

寛文5年1月11日 右大臣を辞す

寛文12年1月5日 従一位

延宝5年6月12日 薨去
転法輪実秀 慶長3年4月12日 生。転法輪三条。侍従。中将。中納言。大納言。大将。
てんぽうりんさねひで
内大臣。右大臣。左大臣。己心院
諸家伝上・151
大納言公広の男
宮廷公家系図集覧269
母は正親町三条贈准大臣公仲の女
てぼり
妻は日野大納言資勝の女

慶長9年8月1日 従五位下

慶長13年1月17日 従五位上

慶長17年1月5日 正五位下

慶長18年1月6日 従四位下

慶長18年10月19日 従四位上

元和元年1月5日 正四位下

元和元年11月27日 侍従。禁色

元和元年11月29日 元服。昇殿

元和2年1月11日 左中将

元和5年7月13日 従三位。左中将

元和6年1月11日 権中納言

元和7年1月5日 正三位

寛永5年1月6日 従二位

寛永6年11月6日 権大納言

寛永8年12月11日 正二位

寛永12年2月6日 右大将

寛永12年9月4日 右大将を辞す

慶安元年閏1月20日 内大臣

慶安元年12月13日 内大臣を辞す

承応元年9月17日 右大臣

承応2年2月3日 右大臣を辞す

明暦3年1月5日 従一位

万治3年1月13日 左大臣

寛文元年4月1日 左大臣を辞す

寛文11年8月25日 薨去
天宥 文禄3年 生。公平左京。宥誉。天宥。法印
てんゆう

出羽三山史 慶長5年 出羽国岩根沢日月寺に入る。宥俊に師事。宥誉と称す
(史蹟名勝山形県12・1) (~元和4年) 羽黒山別当宝善坊

寛永18年 南光坊天海に師事。真言宗から天台宗に改宗。天宥と称す

(寛文元年) 執行を兼務か

寛文8年4月4日 伊豆大嶋新嶋に流罪

延宝2年10月24日 遷化
天祐紹果 天正14年 生。仏海祖灯禅師
てんゆうじょうか
近江の人。美濃部氏
大徳寺世譜25 寛永2年6月18日 大徳寺169世

寛永18年4月7日 長老なりの御礼 ●「日記」

寛文6年9月21日 遷化
天龍寺
京都嵯峨。臨済宗。五山
てんりゅうじ


寛永19年閏9月28日 口帖頂戴并入院之御礼 ●「日記」



天輪寺
甲斐国。臨済宗
てんりんじ


(寛永19年7月6日) (南松院兼帯) ●「日記」

寛永19年7月6日 御朱印被下之 ●「日記」



天陸寺

てんろくじ




とい


(寛永9年7月17日) 石川才阿弥久次の母か? ●「日記」

寛永9年7月17日 ゆるされる ●「日記」



土井内蔵丞
小左衛門利昌の次男元政か。寛政譜5・250
どいくらのじょう
土井利勝に仕える

(寛永17年4月14日) (大炊頭家来) ●「日記」



土井甚十郎

どいじんじゅうろう


寛永14年11月26日 屋敷被下之 ●「日記」



土井利勝 天正元年 生。松千代。甚三郎。大炊助。大炊頭。侍従
どいとしかつ
小左衛門利昌の長男
寛政譜5・246
母は葉佐田美作守則勝の女


室は松平庄右衛門近清の女


幼少より家康に近侍

天正7年4月7日 秀忠に付属される。200俵

天正19年 1000石

慶長5年 使番

慶長5年 1500石

慶長6年11月 徒頭

慶長7年12月28日 下総国小見川1万石

慶長10年4月29日 従五位下・大炊助

慶長15年 下総国佐倉城3万2400石

慶長15年 老職

慶長17年 下総国佐倉城4万5000石

元和元年閏6月21日 下総国佐倉城6万5200石

元和9年 下総国佐倉城7万200石

寛永2年9月2日 下総国佐倉城14万2000石

寛永3年8月19日 従四位下

寛永3年9月6日 侍従

寛永9年1月 家光に仕える

寛永10年4月7日 下総国古河城16万石 ●「日記」共

(寛永10年12月14日) (佐倉侍従) ●「日記」

寛永12年11月15日 諸大名訴訟并御用之儀大炊頭讃岐守伊豆守豊後守加賀守―


―右五人壱人宛一月番ニ承言上 ●「日記」

寛永15年11月7日 小事の職務をゆるされる

寛永15年11月7日 昨今迠被仰付細成御役御赦免朔日十五日可致出仕―


―其間ニも御用等之時分罷出何も致相談油断仕間敷 ●「日記」

正保元年7月10日

正保元年7月10日 今朝卒去年七拾二 ●「日記」
土井利勝愛子
六女か?

寛永11年5月29日 土井大炊頭愛子死去付て蟄居 ●「日記」



土井利勝五女
寛政譜5・251
土井大炊頭利勝の五女
華族系譜 寛永20年12月28日 縁組 ●「日記」共
(徳川諸家系譜3・106)
松平讃岐守頼重に嫁ぐ

正保元年4月26日 婚姻

慶安元年3月22日 徳川左衛門督綱方を産む

明暦2年8月26日 水戸中納言徳川綱条を産む


女子を産む。のちの有馬玄蕃頭頼利の室

寛文3年8月3日
土井利隆 元和5年 生。松丸。遠江守。遠斎
どいとしたか
大炊頭利勝の長男
寛政譜5・250
嫡母松平庄右衛門近清の女の養いとなる


室は松平伊豆守信綱の女

寛永7年12月6日 従五位下・遠江守

寛永12年7月8日 土井遠江守ニ松平伊豆守娘可嫁之旨今日被仰出之 ●「日記」

寛永12年10月29日 小姓組番頭。政事にあずかる

寛永12年10月29日 御小姓組御番頭 ●「日記」

寛永15年11月7日 職をゆるされる

寛永15年11月7日 御役御免 ●「日記」

寛永19年9月1日 毎歳於江戸越年未年在江戸半年替 ●「日記」

正保元年9月1日 父利勝の遺領を継ぐ。下総国古河城13万5000石

正保元年9月1日 土井大炊頭遺跡十六万石之内十三万五千石 ●「日記」

万治元年9月7日 致仕。遠斎と号す

貞享2年2月28日
土井利直 寛永14年 生。虎之助。信濃守
どいとしなお
大炊頭利勝の五男
寛政譜5・259
室は丹羽式部少輔氏定の女


継室は松平伊予守忠昌の女

寛永18年8月9日 はじめて家光に拝謁。家綱に近侍

寛永18年8月9日 若君様為御奉公人今日御目見 ●「日記」

(寛永18年9月2日) (若君様御小姓衆) ●「日記」

正保元年9月1日 父利勝の遺領分知。5000石 ●「日記」共

慶安3年9月9日 奥小姓伺候の席にて拝謁

万治元年9月7日 兄利隆より分知。下総国大輪村1万石

万治元年閏12月16日 詰衆並

万治元年閏12月27日 従五位下・信濃守

延宝4年7月26日 奏者番

延宝5年3月15日
土井利長 寛永8年 生。八助。兵庫頭
どいとしなが
大炊頭利勝の三男
寛政譜5・255
室は毛利甲斐守秀元の女

寛永16年4月18日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永16年5月5日 はじめて登営して拝謁

寛永18年8月9日 家綱に近侍

寛永18年8月9日 若君様為御奉公人今日御目見 ●「日記」

(寛永18年9月2日) (若君様御小姓衆) ●「日記」

正保元年9月1日 父利勝の遺領分知。1万石 ●「日記」共

正保3年12月30日 従五位下・兵庫頭

慶安3年9月9日 奥小姓伺候の席にて拝謁

万治元年9月7日 兄利隆より分知。2万石

万治3年2月23日 奏者番

寛文3年7月11日 三河国西尾城2万3000石

延宝8年12月15日 奏者番を辞す

天和元年4月13日 致仕

元禄9年7月27日
土井利房 寛永8年 生。七助。能登守。侍従
どいとしふさ
大炊頭利勝の四男
寛政譜5・257
室は津軽土佐守信義の女

寛永16年4月18日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永16年5月5日 はじめて登営して拝謁

寛永18年8月9日 家綱に近侍

寛永18年8月9日 若君様為御奉公人今日御目見 ●「日記」

(寛永18年9月2日) (若君様御小姓衆) ●「日記」

正保元年9月1日 父利勝の遺領分知。1万石 ●「日記」共

正保3年12月30日 従五位下・能登守

慶安3年9月9日 奥小姓伺候の席にて拝謁

万治元年9月7日 兄利隆より分知。2万石

寛文元年6月14日 奏者番

寛文3年8月16日 若年寄

寛文3年9月11日 数寄屋のことをうけたまわる

寛文6年4月5日 馬の事をつかさどる

寛文10年5月26日 2万5000石

延宝7年7月10日 老職。4万石

延宝7年12月28日 従四位下

延宝8年8月18日 侍従

天和元年2月21日 老職をゆるされる。なお時々登営

天和2年3月16日 越前国大野城4万石

天和2年3月28日 詰衆の上首に伺候

天和3年5月25日
道以

どうい
茶人? 庭師?

寛永15年12月1日 銀子呉服等被下之是今度二丸御作事被仰付出来付て也 ●「日記」

寛永15年12月18日 道意御切米五拾俵被下之 ●「日記」



棠陰玄召

とういんげんしょう
東福寺南昌院
驢山住籍 寛永13年8月 対馬国以酊庵4世
(通航一覧1・367) 寛永15年4月 以酊庵輪番を終える

寛永17年4月 以酊庵再輪番

寛永18年4月 以酊庵輪番を終える

寛永19年3月 以酊庵再輪番


以下不詳
東雲寺
駿河国府中有東木。曹洞宗
とううんじ




藤右衛門

とうえもん (寛永12年1月2日) (小鼓) ●「日記」






東海寺
江戸品川。万松山
とうかいじ


寛永16年5月19日 沢庵新寺万松山東海寺ト今日号之 ●「日記」






東岳寺
江戸浅草。曹洞宗
とうがくじ




東観音寺
三河国小松原。臨済宗
とうかんのんじ




東儀兼秋 永禄3年 生。因幡守
とうぎかねあき
因幡守兼康の男
地下家伝上・593
天王寺方楽人
宮廷公家系図集覧640
京都方楽人


因幡守

正保元年4月17日
東儀兼長
生。右衛門尉。筑後守
とうぎかねなが
因幡守兼秋の長男
地下家伝上・633
天王寺方楽人
宮廷公家系図集覧640
右衛門尉

寛永13年12月21日 筑後守


従五位上

寛永19年 紅葉山楽人

寛永19年8月27日 御切米八十石十五人扶持従当年被下之 ●「日記」

正保4年12月7日 正五位下

慶安4年1月5日 従四位下

承応元年11月29日
東儀左兵衛

とうぎさひょうえ
筑後守兼長の次男兼武か?

寛永19年8月27日 御切米五十石十人扶持従当年被下之 ●「日記」






東儀季寿 慶長3年 生。左衛門少志。右近将曹。出雲守
とうぎすえとし
出雲守季兼の男
地下家伝上・588
天王寺方楽人
宮廷公家系図集覧639 慶長9年8月1日 正六位下


左衛門少志


従五位下


従五位上

寛永 右近将曹

寛永13年12月21日 出雲守

正保4年12月7日 正五位下

慶安4年1月5日 従四位下

明暦2年12月26日 従四位上

寛文2年2月11日 正四位下

寛文7年5月27日
東慶寺
鎌倉松ヶ岡。臨済宗。尼寺
とうけいじ







東源慧等

とうげんえとう
妙心寺141世
妙心寺図録22 寛永6年 紫衣事件により処罰される
禅宗辞典17 寛永9年7月17日 国安堵 ●「日記」

寛永11年5月29日 御赦免 ●「日記」



東光院
江戸小伝馬町。天台宗
とうこういん




東光寺
甲斐国。臨済宗
とうこうじ


寛永19年7月6日 御朱印被下之 ●「日記」



道晃法親王 慶長17年3月8日 生。吉宮。二品。聖護院門跡。照高院門跡
どうこうほっしんのう
後陽成天皇の第十一皇子
本朝皇胤紹運録
母は古市播磨守胤栄の女三位局
(群書系図部集1・101) 寛永3年10月13日 親王


(出家。聖護院)


園城寺長吏(近江国三井寺)


三山検校(熊野三山の統括)

万治元年閏12月 照高院に移る

延宝7年6月18日 薨去
東国寺
江戸浅草。曹洞宗
とうこくじ







道作
山脇玄心か
どうさく
能役者か

寛永14年7月21日 能自然居士・藤戸の笛方をつとめる



東寺
京都。真言宗。教王護国寺
とうじ







東寺光明院

―こうみょういん


(正保元年11月15日) (東寺惣代) ●「日記」



道周法親王 慶長18年1月16日 生。足宮。二品。照高院門跡
どうしゅうほっしんのう
後陽成天皇の第十二皇子
本朝皇胤紹運録
母は春日神主中東民部大輔時広の女土左局
(群書系図部集1・101)
(出家。照高院)

寛永11年11月28日 薨去
洞叔寿仙
とうしゅくじゅせん

読史備要1023 寛永8年4月17日 (仙西堂)天龍寺にて碩学 ●「日記」


天龍寺199世

寛永16年8月1日 (天龍寺仙長老) ●「日記」

寛永19年閏9月28日 口帖頂戴并入院之御礼 ●「日記」



東条季一
生。勘左衛門。覚右衛門
とうじょうすえかず
覚右衛門季昌の男。(覚右衛門季昌の養子)
寛政譜20・102 寛永19年12月10日 父季昌の遺跡を継ぐ。清泰院に仕える

寛永19年12月10日 大姫君様御侍衆東条角左衛門跡養子勘左衛門被下之 ●「日記」

(明暦2年) 清泰院逝去ののち召し返される


中丸広敷番頭


奥方広敷添番

某年 死す
東条季昌
生。覚右衛門
とうじょうすえまさ 慶長12年
寛政譜20・102
清泰院に付属される。侍

(寛永19年) 死す
東条政長 元和5年 生。平兵衛。猪兵衛
とうじょうまさなが
猪兵衛安長の男
寛政譜3・280
母は日野大納言輝資の女


妻は加藤遠江守光直の女

寛永2年 はじめて秀忠に拝謁

寛永10年 書院番


小姓組


200俵 ●「日記」

寛永14年11月25日 父安長の遺跡を継ぐ。900石

寛永14年11月25日 九百石東条猪兵衛跡実子平兵衛自分弐百表被召上之 ●「日記」

慶安3年9月3日 西丸書院番


小姓組

寛文2年6月10日 死す
東条安長 文禄元年 生。猪兵衛
とうじょうやすなが
民部卿行長の次男
寛政譜3・280
妻は日野大納言輝資の女

慶長5年 はじめて家康に拝謁


小姓組

元和3年5月26日 700石


西丸書院番

寛永9年11月5日 書院番・進物役

寛永9年11月5日 本番御免。進物番 ●「日記」


小姓組

寛永10年2月7日 900石

寛永14年6月10日 死す
道席

どうせき
医師



道仙

どうせん
徳川義直に仕える

正保元年1月10日 銀三十枚小袖三尾張殿道仙今度諸家系図被仰付依令首尾被下之 ●「日記」



東泉寺
駿河国府中。曹洞宗
とうせんじ




東漸寺
下総国小金。浄土宗
とうぜんじ
(前略)
小金東漸寺志 天正17年 7世団蓮社照誉遊嶽了学
(浄土宗全書20・62)
8世照蓮社霊誉円応重誓


9世載蓮社運誉順意


10世誓蓮社本誉路白

正保元年7月7日 後住被仰付ニヨテ御礼 ●「日記」


11世才蓮社弁誉主天


12世闡蓮社広誉順長


(後略)
東禅寺
江戸。臨済宗
とうぜんじ


寛永17年12月3日 昨夜丑下刻嶺南之寺火事 ●「日記」



東大寺
奈良
とうだいじ




東大寺金蔵院

―こんぞういん




東大寺四聖坊
東大寺塔頭
―ししょうぼう




東大寺真言院

―しんごんいん




東大寺新禅院

―しんぜんいん




東大寺八幡宮

―はちまんぐう







東竹院
武蔵国熊谷久下。曹洞宗
とうちくいん


寛永19年7月6日 御朱印被下之 ●「日記」



道哲

どうてつ




藤堂右京

とうどううきょう
藤堂大学頭高次に仕える

(寛永12年6月1日) (藤堂大学頭家老) ●「日記」



藤堂監物

とうどうけんもつ
藤堂大学頭高次に仕える

(寛永12年6月1日) (藤堂大学頭家老) ●「日記」



藤堂四郎右衛門

とうどうしろうえもん
藤堂大学頭高次に仕える

(寛永12年6月1日) (藤堂大学頭家老) ●「日記」



藤堂高重 慶長10年5月 生。左兵衛佐。従五位下
とうどうたかしげ
和泉守高虎の次男
寛政譜14・295
母は長越前守連久の女松寿院
宗国史上・310 寛永2年5月28日 はじめて秀忠に拝謁


分知あり。2万石

寛永8年4月10日

(寛永8年4月18日) 死す ●「日記」
藤堂高次 慶長6年閏11月11日 生。大助。大学助。大学頭。侍従。少将
とうどうたかつぐ
和泉守高虎の長男
寛政譜14・294
母は長越前守連久の女松寿院


室は酒井雅楽頭忠世の女

慶長8年1月 はじめて家康に拝謁

慶長11年1月28日 はじめて秀忠に拝謁

元和2年1月19日 従五位下

寛永7年11月18日 父高虎の遺領を継ぐ。伊賀国・伊勢国津城32万3900石

(寛永8年1月2日) (大学頭) ●「日記」

寛永11年7月16日 従四位下・侍従・大学頭

寛永11年7月16日 侍従 ●「日記」

寛文6年12月28日 少将

寛文9年9月29日 致仕

延宝4年11月16日
藤堂高久 寛永15年 生。大助。和泉守。侍従。少将
とうどうたかひさ
大学頭高次の長男
寛政譜14・295
室は酒井雅楽頭忠清の女

正保元年3月1日 はじめて家光に拝謁

正保元年3月3日 初て御礼 ●「日記」

承応3年12月26日 従四位下・和泉守

寛文9年9月29日 父高次の家を継ぐ。伊賀国・伊勢国津城27万900石

寛文9年12月25日 侍従

寛文10年4月28日 以後西国諸侯参勤ののちに参府

元禄8年12月18日 少将

元禄16年4月29日
藤堂高吉 天正7年 生。千丸。宮内少輔
とうどうたかよし
和泉守高虎の養子。丹羽越前守長秀の三男
寛政譜14・294
母は杉若氏
宗国史上・311
幼少のとき人質。秀吉のもとにあり


羽柴大納言秀長の養子となる


秀吉の命により高虎の養子となる。従五位下。宮内少輔

慶長5年~ 2万石

寛永12年 伊賀国名張2万石

寛文10年7月18日
藤堂高嘉 元和6年 生。(庄三郎)。勝五郎。勝兵衛
とうどうたかよし
兄将監嘉正の嗣。将監嘉以の四男
寛政譜14・304
母は松倉豊後守重正の女


妻は秋田隼人正季信の女

寛永11年5月26日 はじめて家光に拝謁

(寛永17年12月15日) (庄三郎) ●「日記」

寛永17年12月15日 兄嘉正の遺跡を継ぐ。大和国高市郡1000石。寄合

寛永17年12月15日 藤堂庄三郎亡父遺跡被仰付之付以太刀目録御目見 ●「日記」

正保2年6月25日 書院番

寛文11年2月19日 屋敷改

延宝元年2月7日 屋敷改をゆるされる

延宝2年10月15日 死す
藤堂長治 慶長18年 生。兵部。宮内
とうどうながはる
宮内少輔高吉の男
宗国史上・311 寛永3年 家光に拝謁

寛文10年9月 父高吉の遺領を継ぐ。伊賀国名張1万5000石

天和2年8月 死す
藤堂兵左衛門

とうどうひょうざえもん
藤堂大学頭高次に仕える

(寛永16年閏11月1日) (藤堂大学頭家来) ●「日記」



藤堂嘉次 元和5年 生。長三郎。平右衛門
とうどうよしつぐ
将監嘉以の三男
寛政譜14・308
母は松倉豊後守重正の女


妻は日向半兵衛政成の女


後妻は酒井雅楽頭家臣伊丹庄左衛門直盛の女

寛永6年8月25日 外祖父松倉重正より分知。2000石

寛永11年5月26日 はじめて家光に拝謁

寛永11年5月26日 御目見 ●「日記」

寛永12年12月29日 書院番

寛永15年7月19日 松倉長門守勝家改易により所領を収公される

寛永17年12月 300俵


書院番を辞す。小普請

元禄3年1月18日 死す
藤堂嘉長 慶長18年 生。太郎助。主馬
とうどうよしなが
将監嘉以の次男
寛政譜14・306
母は豊臣秀頼家臣郡主馬首良列の女


妻は日根野左京亮高継の女

寛永6年8月25日 父嘉以の遺跡分知。1000石

~(寛永13年) 書院番

寛文2年3月9日 死す
藤堂嘉正 慶長12年 生。左門。将監
とうどうよしまさ
将監嘉以の長男
寛政譜14・303
母は豊臣秀頼家臣郡主馬首良列の女


妻は川勝丹波守広綱の養女西洞院宰相時直の女

寛永6年8月25日 父嘉以の遺跡を継ぐ。大和国高市郡1000石

寛永6年9月 はじめて家光に拝謁

寛永17年9月24日 死す
藤堂嘉以 天正17年 生。将監
とうどうよしもち
玄蕃頭嘉清の次男
寛政譜14・303
母は久徳左近兵衛義時の女


妻は豊臣家臣郡主馬首良列の女


後妻は松倉豊後守重正の女

慶長6年 はじめて家康に拝謁

慶長8年 祖父勝兵衛嘉房の遺跡分知。大和国高市郡2000石。寄合

寛永5年7月24日 死す
道入

どうにゅう
紅葉山役人か

寛永9年10月3日 5人扶持。掃除坊主10人 ●「日記」



道伯

どうはく
連歌師か?

寛永13年1月15日 執筆道伯初て御目見 ●「日記」



東福寺
京都。臨済宗。五山
とうふくじ




東福寺南明院
京都東福寺
―なんめいいん
家康の継室旭姫の墓所がある



東福門院 慶長12年10月4日 生。松姫。和子
とうふくもんいん
秀忠の五女
幕府祚胤伝
母は秀吉の養女浅井備前守長政の三女崇源院
(徳川諸家系譜2・64) 元和6年6月6日 入内。後水尾天皇の女御
徳川幕府家譜 元和8年11月19日 額直。袖塞
(徳川諸家系譜1・46) 元和9年12月19日 明正天皇を産む
本朝皇胤紹運録 寛永元年11月28日 中宮
(群書系図部集1・102) 寛永2年9月13日 昭子内親王を産む

寛永3年11月13日 高仁親王を産む。早世

寛永5年9月28日 皇子を産む。早世

寛永6年8月27日 顕子内親王を産む

寛永6年11月9日 東福門院と称す

寛永9年6月5日 賀子内親王を産む

寛永10年~ 後光明天皇の養母となるか

寛永10年8月23日 皇女を産む。早世

寛永10年8月29日 御平産姫君御降誕 ●「日記」9月4日条

寛永14年11月16日 後西天皇を産む

承応3年~ 霊元天皇の養母となるか

延宝6年6月15日 崩御
東陽軒
甲斐国。臨済宗
とうようけん


寛永19年7月6日 御朱印被下之 ●「日記」



遠江国分寺

とおとうみこくぶんじ
中世に衰退か



遠江国分寺延命院

―えんめいいん




遠山景重(三左衛門)
生。三左衛門
とおやまかげしげ
秀忠に仕える。広敷添番
寛政譜21・138
火之番 ●「日記」


死す
遠山景重(十右衛門) 天正6年 生。忠三郎。十右衛門
とおやまかげしげ
勘右衛門方景の三男
寛政譜13・84
妻は松平越後守家臣山岡備前景猶の女

寛永元年 はじめて家光に拝謁

寛永元年11月21日 小姓組。300俵

寛永10年2月7日 500石

寛永12年9月16日 膳奉行 ●「日記」共

寛永12年12月21日 御膳奉行被仰付依て御目見 ●「日記」


小納戸

寛永14年11月25日 二丸に伺候

寛永14年11月25日 御本丸御膳奉行之内遠山忠三郎被相加之―


―二之丸御膳奉行被仰付之 ●「日記」

(寛永18年12月29日) (十右衛門の初出) ●「日記」

寛永20年8月7日 新番頭

寛永20年8月7日 奥方新御番所之頭 ●「日記」

寛永20年12月29日 布衣 ●「日記」共

正保4年12月25日 800石

慶安4年11月21日 800石400俵

寛文6年~ 新番頭を辞す。寄合

寛文8年7月10日 致仕

寛文8年9月17日 死す
遠山景重(忠兵衛)
生。忠兵衛
とおやまかげしげ
三郎右衛門景次の次男
寛政譜13・90
妻は飯高弥五兵衛貞次の女

慶長12年 秀忠に仕える


大番。200俵

寛永5年 大坂蔵奉行

正保3年 死す
遠山景綱
生。新次郎。四郎兵衛
とおやまかげつな
四兵衛直吉の長男
寛政譜13・98 慶長8年 秀忠に仕える。大番

(慶長16年) 父直吉の遺跡を継ぐ。400石

寛永10年2月7日 600石

慶安元年3月18日 死す
遠山景則
生。平三郎。半左衛門。空真
とおやまかげのり
忠兵衛景重の養子。井伊掃部頭家臣土屋九兵衛良秋の男
寛政譜13・91
母は遠山三郎右衛門景次の女


妻は伴作平重正の女

寛永5年 家光に仕える。大番


200俵

寛永10年2月7日 400石


400石100俵

寛永20年10月21日 家綱に付属される。三丸番

寛永20年10月21日 従大御番被召出三丸御番被仰付之 ●「日記」

慶安3年8月30日 小納戸

(慶安4年) 本丸に勤仕

万治3年12月12日 400石300俵

万治3年12月28日 布衣

寛文2年9月15日 400石600俵

寛文5年12月29日 1000石

寛文8年5月28日 新番頭。小納戸

天和2年4月21日 1700石

天和2年12月2日 職を辞す。寄合

天和3年12月21日 致仕。300俵。空真と号す

元禄元年2月25日 死す
遠山景吉(三左衛門)
生。三左衛門
とおやまかげよし
三左衛門景重の男
寛政譜21・138
母は松平右衛門大夫家臣森山内匠の女


妻は斎藤氏


父景重の遺跡を継ぐ


火番

寛永18年4月14日 火之番御役被仰付之此以前之親之役被仰付之 ●「日記」

正保4年12月25日 小十人

寛文2年10月26日 納戸番

寛文8年12月25日 加増あり。200俵

元禄2年6月6日 死す
遠山景吉(彦左衛門)
生。勘十郎。掃部助。左衛門佐。彦左衛門
とおやまかげよし
右衛門大夫の次男
士林泝洄2・185
母は徳川義直の乳母


徳川義直に仕える

慶長10年4月22日 1000石

慶長19年10月 大番頭

寛永3年 城代

寛永12年 城代を辞す。寄合

寛永18年 同心頭。同心10騎

某年 致仕


以下不詳
遠山主膳
経景か? 寛政譜13・82
とおやましゅぜん
紀伊家臣



遠山新兵衛

とおやましんびょうえ
徳川義直に仕える

(寛永15年10月11日) (尾張亜相使者) ●「日記」



遠山新六郎
虎丞か
とおやましんろくろう


寛永13年12月27日 大御番被仰付之 ●「日記」



遠山資為 慶長9年 生。平六郎。左京。因幡守
とおやますけため
太田新六郎重正の四男
寛政譜4・383
妻は日向半兵衛政成の女


叔母英勝院の外家の号遠山を称す

元和9年 はじめて家光に拝謁

元和9年5月8日 小姓。300俵

寛永7年12月29日 従五位下・因幡守


900石

(寛永13年12月29日) (御膳番) ●「日記」

寛永16年12月26日 書院番

寛永16年12月26日 御表之御番 ●「日記」


書院番を辞す。小普請

寛文3年6月24日 死す
遠山助直 慶長16年 生。弥一郎
とおやますけなお
理兵衛直清の男
寛政譜13・96 寛永3年 徳川忠長に付属される

(寛永9年) 処士

寛永11年 家光に拝謁

寛永12年 大番。230石

寛永20年10月21日 家綱に付属される。三丸番

寛永20年10月21日 従大御番被召出三丸御番被仰付之 ●「日記」

慶安3年9月4日 大番。西丸に勤仕

(慶安4年) 本丸に勤仕

寛文3年11月13日 死す
遠山友貞 寛永18年 生。久大夫。信濃守
とおやまともさだ
刑部少輔秀友の男
寛政譜13・78
母は滋野井大納言季吉の女


室は久世大和守広之の女


継室は木下淡路守利貞の女

寛永19年5月 父秀友の遺領を継ぐ。美濃国苗木城1万500石

寛永19年6月1日 継目之御礼 ●「日記」

慶安4年6月29日 はじめて家綱に拝謁

寛文元年12月28日 従五位下・信濃守

延宝6年5月6日
遠山虎丞
虎之介か。新六郎か
とおやまとらのじょう


寛永9年8月19日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」



遠山虎之介
虎丞か
とおやまとらのすけ


寛永13年12月27日 大御番被仰付之 ●「日記」



遠山長景 天正12年 生。藤四郎。勘右衛門
とおやまながかげ
勘右衛門方景の次男
寛政譜13・82
妻は阿茶局雲光院の養女

元和5年 はじめて秀忠に拝謁

寛永15年9月 父方景の遺跡を継ぐ。美濃国明知6530石

(正保元年4月24日) (勘右衛門の初出) ●「日記」

正保2年6月8日 死す
遠山秀友 慶長14年 生。刑部。刑部少輔
とおやまひでとも
久兵衛友政の男
寛政譜13・78
室は皆川山城守隆庸の女


継室は滋野井大納言季吉の女

慶長19年 はじめて秀忠に拝謁

元和6年5月 父友政の遺領を継ぐ。美濃国苗木城1万500石

(寛永11年3月27日) (刑部少輔。これ以前は刑部) ●「日記」

寛永19年1月7日
遠山安忠 寛永5年 生。久四郎
とおやまやすただ
清右衛門安次の長男
寛政譜13・102
妻は曾我伊予守包助の女

寛永14年12月8日 父安次の遺跡を継ぐ。500石

寛永14年12月8日 五百石清右衛門跡遠山久四郎 ●「日記」

正保2年6月25日 書院番

承応元年5月1日 死す
遠山安次 天正14年 生。久四郎。清左衛門。清右衛門
とおやまやすつぐ
佐左衛門安則の養子。榊原式部大輔家臣遠山清右衛門の男
寛政譜13・102
妻は小俣又十郎の女

慶長15年 養父安則の遺跡を継ぐ。300石


小姓組

元和2年9月15日 家光に付属される

寛永10年2月7日 500石

寛永14年6月3日 死す
遠山安宗
生。金十郎。平九郎。三大夫
とおやまやすむね
平大夫安重の養子。野間藤市郎政成の次男
寛政譜13・100
母は遠山六左衛門直定の女


妻は平大夫安重の三女


秀忠に仕える。大番


150俵

寛永10年2月7日 350石

寛永19年7月5日 親族の罪に連座して京極六丸高直に召し預けられる

寛永19年7月5日 京極六丸へ遠山平九郎大御番浅草御城米御蔵衆之弟―


―たるに依て御預 ●「日記」 兄が誰に当たるか不明

慶安4年10月17日 赦免。350俵。小普請

天和3年12月21日 致仕

元禄元年3月25日 死す
遠山頼直 寛永2年 生。百助。主殿。主殿頭。はじめ内藤を称すか
とおやまよりなお
内藤帯刀忠興の三男
寛政譜13・190
母は小山田氏


妻は真田内記信政の女

寛永6年 はじめて秀忠・家光に拝謁

寛文10年12月3日 父忠興より分知。陸奥国湯本村1万石

寛文10年12月28日 従五位下・主殿頭。帝鑑間に伺候

延宝4年11月27日 陸奥国湯長谷1万石

天和元年7月6日 大番頭

天和2年4月21日 陸奥国湯長谷1万2000石

貞享4年8月11日 大坂定番。陸奥国湯長谷1万5000石

元禄6年11月7日
戸隠山
信濃国。戸隠神社。戸隠山顕光寺。天台宗
とがくしさん




戸隠山宝蔵院

―ほうぞういん




戸川正安 慶長11年 生。市蔵。土佐守
とがわまさやす
肥後守逵安の長男
寛政譜15・279
母は宇喜多家臣岡豊前守元忠の女


室は寺沢志摩守広高の女

元和7年2月 はじめて秀忠に拝謁

元和7年6月 秀忠に仕える

寛永3年 従五位下・土佐守

寛永5年2月 父逵安の遺領を継ぐ。備中国庭瀬2万2500石

(寛永15年12月28日) (高野山ヨリ参候付て進物を以御礼) ●「日記」

寛文9年5月22日
戸川逵安 永禄10年 生。助七郎。肥後守
とがわみちやす
肥後守秀安の長男
寛政譜15・278
母は石川左衛門晴清の女


室は宇喜多家臣長船紀伊守の女


継室は宇喜多家臣岡豊前守元忠の女


父秀安に継いで宇喜多直家・秀家に仕える。備前国常山城に住す

天正18年 従五位下・肥後守

慶長4年10月 宇喜多家より放逐される

慶長5年 家康に仕える

慶長5年 備中国庭瀬2万9200石

元和元年~ 夜話衆。月俸300口

寛永4年12月25日
戸川安利 元和2年 生。平九郎。主膳。平右衛門
とがわやすとし
肥後守逵安の四男
寛政譜15・286
母は宇喜多家臣岡豊前守元忠の女


妻は石河伊豆守貞政の女


後妻は宮城越前守和甫の女

寛永2年 はじめて家光に拝謁

寛永5年 父逵安の遺領分知。3300石

寛永9年 書院番

寛永20年6月9日 書院番。進物役

寛永20年6月9日 進物御番 ●「日記」

寛文4年 書院番を辞す

寛文4年5月3日 死す
戸川安平
生。主水正
とがわやすひら
主水正正安の男
寛政譜15・279
妻は柴田筑後守康長の長女

元和4年11月 父正安の遺跡を継ぐ。1200石

寛永2年 はじめて家光に拝謁

寛永9年 小姓組

寛永12年12月1日 縁辺 ●「日記」

天和元年6月22日 松平越後守光長家臣小栗美作守に連座し―


―南部遠江守直政に召し預けられる


以下不詳
戸川令安 慶長18年 生。権左衛門
とがわよしやす
肥後守逵安の次男
寛政譜15・283 寛永11年3月15日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永12年 小姓組。300俵


小姓組を辞す。小普請

天和2年8月3日 死す
土岐加兵衛

ときかひょうえ


(寛永18年12月29日) (御かち目付) ●「日記」

寛永18年12月29日 黒鍬之頭被仰付之 ●「日記」



土岐持益
生。市正
ときもちます
斎藤越前守頼元の男
寛政譜5・164
妻は土岐左馬助頼次の女


家康に仕える

(元和9年) 従五位下

寛永2年12月11日 1000石

寛永17年4月28日
土岐頼勝 天正6年 生。左馬助。土佐守
ときよりかつ
左馬助頼次の長男
寛政譜5・160
母は湯島清菴武房の女


妻は山名中務大輔豊国の女


家康に拝謁


1000石

寛永2年 高家

寛永11年 従五位下

寛文6年10月14日 死す
土岐頼長(蔵人)
生。蔵人
ときよりなが
土佐守頼勝の三男
寛政譜5・160
母は山名中務大輔豊国の女

寛永13年8月6日 はじめて家光に拝謁

寛永13年8月6日 土岐左馬助子弐人初て御目見 ●「日記」

寛永13年12月27日 書院番 ●「日記」共

寛永16年12月13日 御切米三百俵 ●「日記」


以下不詳
土岐頼長(主水)
生。主水
ときよりなが
市正持益の男
寛政譜5・165
母は土岐左馬助頼次の女

(寛永10年1月1日) (年頭御礼) ●「日記」

寛永17年8月15日 父持益の遺跡を継ぐ。1000石

寛永17年8月15日 土岐市正令病死付跡職之義実子主水ニ無相違被仰付之 ●「日記」

寛永17年10月5日 はじめて家光に拝謁

明暦3年7月9日 死す
土岐頼成
生。大学
ときよりなり
土佐守頼勝の次男
寛政譜5・160
母は山名中務大輔豊国の女

寛永13年8月6日 はじめて家光に拝謁

寛永13年8月6日 土岐左馬助子弐人初て御目見 ●「日記」

寛永13年12月27日 書院番 ●「日記」共

寛永16年12月13日 御切米三百俵 ●「日記」


以下不詳
土岐頼久 元和2年 生。伊織。市右衛門
ときよりひさ
山城守定義の五男
寛政譜5・229
母は諏訪因幡守頼水の女


妻は某氏


後妻は大奥の老女某氏の養女

寛永5年3月1日 はじめて秀忠に拝謁

寛永8年5月15日 家光に仕える。小姓

~寛永13年 400石


書院番

(寛永20年8月30日) (市右衛門の初出) ●「日記」

寛永20年8月30日 家綱に付属される。三丸に伺候 ●「日記」共

慶安3年9月4日 西丸小姓組

(慶安4年) 本丸に勤仕

寛文3年7月19日 小姓組組頭

寛文3年12月26日 400石300俵

寛文3年12月28日 布衣

寛文12年2月6日 死す
土岐頼泰
生。次大夫。縫殿助
ときよりやす
二郎頼次の三男
寛政譜5・163
母は湯島清庵武房の女


妻は山岡伝右衛門景重の女

寛永2年 徳川忠長に付属される

(寛永9年) 勘気を蒙る。処士

寛永13年12月10日 赦免 ●「日記」共

寛永15年12月23日 書院番。300石

寛永15年12月23日 駿河衆土岐次大夫御書院番可仕之 ●「日記」

慶安元年1月2日 目付

慶安4年8月16日 布衣

慶安4年11月21日 300石300俵

寛文7年12月8日 目付を辞す

延宝4年12月6日 致仕。300俵

延宝5年8月19日 死す
土岐頼行 慶長13年 生。内膳。山城守
ときよりゆき
山城守定義の長男
寛政譜5・221
母は諏訪因幡守頼水の女


室は伊丹康勝入道順斎の女

元和3年9月 はじめて秀忠に拝謁

元和5年10月 父定義の遺領を継ぐ。下総国1万石

寛永元年10月28日 従五位下・山城守

寛永5年2月 出羽国上山城2万5000石

正保元年7月1日 火之番一番 ●「日記」

延宝6年8月16日 致仕

貞享元年12月10日
土岐頼義
生。内匠。土斎
ときよりよし
土佐守頼勝の長男
寛政譜5・160
母は山名中務大輔豊国の女


妻は諏訪数馬の女


家光に仕える

(寛永9年1月21日) (内匠助) ●「日記」

(寛永10年1月1日) (内匠頭) ●「日記」

(寛文6年) 父頼勝の家を継ぐ。1000石。表高家

天和2年12月18日 致仕。土斎と号す

貞享2年7月30日 死す
徳川家綱 寛永18年8月3日 生。竹千代。大納言。右近衛大将。右馬寮御監。内大臣。征夷大将軍。右大臣
とくがわいえつな
家光の長男
幕府祚胤伝
母は青木三太郎利長の次女楽宝樹院(朝倉惣兵衛の女とも)
(徳川諸家系譜2・90)
御台所は伏見宮式部卿貞清親王の四女浅宮顕子高巌院
寛政譜21・330 寛永18年8月9日 竹千代と命名
詰所系図 寛永18年9月2日 はじめて表へ出御
(系図綜覧上・72) 寛永18年9月23日 箸初

(寛永18年11月14日) (竹千代の初出) ●「日記」

寛永18年11月23日 御箸初 ●「日記」

寛永20年1月11日 髪置 ●「日記」共

寛永20年7月25日 二丸へ移る ●「日記」共

正保元年12月17日 家綱と称す

正保元年12月17日 若君御方御諱奉号家綱云々 ●「日記」

正保2年1月3日 袴着

正保2年4月23日 元服。従三位。正三位。権大納言

慶安元年3月5日 中剃

慶安3年9月20日 西丸に移る

慶安4年8月18日 征夷大将軍。右近衛大将。右馬寮御監。淳和奨学両院別当。―


―源氏長者。内大臣。牛車。随身兵仗

慶安4年12月28日 本丸に移る

承応2年8月12日 右大臣

明暦2年5月3日 額直。袖留

万治2年1月11日 前髪をとる

万治2年4月28日 左大臣を辞退

延宝8年5月8日 薨去
徳川家光 慶長9年7月17日 生。竹千代。大納言。右近衛大将。右馬寮御監。内大臣。
とくがわいえみつ
征夷大将軍。左大臣
幕府祚胤伝
秀忠の次男
(徳川諸家系譜2・70)
母は秀吉の養女浅井備前守長政の三女崇源院
徳川幕府家譜
御台所は鷹司前関白信房の姫中ノ丸様本理院
(徳川諸家系譜1・44) 元和3年11月21日 西丸へ移る

元和6年1月5日 従三位

元和6年1月7日 正三位

元和6年1月11日 権大納言

元和6年9月7日 元服

元和9年3月15日 右近衛大将・右馬寮御監

元和9年7月27日 内大臣・正二位・征夷大将軍・淳和奨学両院別当・源氏長者

元和9年12月20日 御台所が入輿

寛永元年12月10日 本丸へ移る

寛永3年8月18日 左大臣・従一位

慶安4年4月20日 薨去

慶安4年5月21日 大猷院殿・贈正一位大相国
徳川家康 天文11年12月26日 生。竹千代。次郎三郎。三河守。左京大夫。侍従。少将。中将。
とくがわいえやす
参議。大納言。大将。左馬寮御監。内大臣。征夷大将軍。
幕府祚胤伝
右大臣。太政大臣。はじめ松平を称す
(徳川諸家系譜2・5)
贈大納言二郎三郎広忠の長男
徳川幕府家譜
母は水野右衛門大夫忠政の次女伝通院
(徳川諸家系譜1・19)
室は関口伊豆守義広の女築山殿清池院
寛政譜2・233
御台所は秀吉の異父妹朝日君南明院
寛政譜6・34 天文16年 尾張国熱田の加藤図書順盛のもとに寓居

天文19年 駿河国府中の今川義元のもとにて質となる

弘治2年1月15日 今川義元により元服。偏諱を受ける。松平次郎三郎

弘治2年2月 清池院と婚姻

永禄3年 今川義元戦死により三河国岡崎城に戻る

永禄4年 尾張国織田信長と同盟

永禄5年 今川家と断交。妻子を駿府より移す

永禄9年12月29日 従五位下・三河守

永禄11年1月11日 左京大夫。徳川に改める

永禄13年1月 岡崎城を長男信康に譲り遠江国浜松城に移る

元亀2年1月5日 従五位上

元亀2年1月11日 侍従

天正2年1月5日 正五位下

天正5年12月10日 従四位下

天正5年12月29日 右近衛権少将

天正7年9月4日 北条氏政と同盟

天正8年1月5日 従四位上

天正10年3月29日 駿河国を領す

天正10年 甲斐国を平定

天正11年10月5日 正四位下

天正11年10月7日 左近衛権中将

天正12年2月7日 参議

天正14年1月5日 従三位

天正14年5月14日 南明院と婚姻

天正14年9月 秀吉に拝謁

天正14年10月4日 駿府城に移る

天正15年8月5日 従二位。権大納言

天正15年12月28日 左近衛大将・左馬寮御監

天正18年7月13日 関東に転封

天正18年8月1日 武蔵国江戸城に移る

慶長元年5月8日 内大臣・正二位

慶長4年9月9日 大坂城西丸に移る

慶長6年3月23日 伏見に移る

慶長7年1月6日 従一位

慶長8年2月12日 征夷大将軍・源氏長者・淳和奨学両院別当・右大臣・牛車・随身兵仗

慶長8年10月16日 右大臣を辞す

慶長10年4月16日 大御所

慶長12年1月 江戸城を秀忠に譲り駿府城に移る

慶長16年3月21日 太政大臣を辞退

慶長19年4月 太政大臣・准三后を辞退

元和2年3月17日 太政大臣

元和2年4月17日 薨去。安国院殿。久能山へ葬られる

元和3年2月21日 東照大権現

元和3年3月9日 贈正一位

元和3年4月4日 下野国日光山へ改葬

正保2年11月11日 東照宮
徳川忠長 慶長11年12月3日 生。国丸。国千代。少将。中将。参議。中納言。大納言
とくがわただなが
秀忠の三男
幕府祚胤伝
母は秀吉の養女浅井備前守長政の三女崇源院
(徳川諸家系譜2・63)
簾中は織田兵部大輔信良の女北丸殿光松院
徳川幕府家譜 元和2年9月13日 甲斐国18万石
(徳川諸家系譜1・46) 元和4年12月15日 従四位下・左少将

元和6年8月22日 右中将・参議・従四位上

元和8年8月1日 甲斐国25万石

元和9年1月17日 甲斐国50万石

元和9年7月27日 従三位・権中納言

寛永元年8月11日 駿河国府中城55万石

寛永3年8月19日 従二位・権大納言

寛永8年5月28日 甲斐国に幽居

寛永9年10月20日 上野国高崎に移る

寛永9年10月20日 高崎へ逼塞 ●「日記」

寛永10年12月6日 薨去。峰巌院殿晴徹暁雲大居士

寛永10年12月8日 去六日於高崎御自害 ●「日記」
徳川綱重 正保元年5月24日 生。長松。左馬頭。中将。参議。松平を称す
とくがわつなしげ
家光の三男
幕府祚胤伝
母は岡部八左衛門重家の三女夏順性院
(徳川諸家系譜2・80)
室は(九条左大臣兼晴の養女)二条関白左大臣光平の女隆崇院
徳川幕府家譜
後室は綾小路中納言俊景の三女(または山科参議言行の女)紅玉院
(徳川諸家系譜1・49) 正保元年5月24日 今朝於三丸御二男御誕生 ●「日記」


天樹院のところにて養育される

(正保元年9月9日) (長松殿の初出) ●「日記」

(正保元年9月23日) (長松殿紅葉山え御社参)(天樹院御亭へ御帰也) ●「日記」

正保3年1月11日 髪置

慶安元年1月11日 袴着

慶安2年11月9日 竹橋邸に移る

慶安3年11月25日 中剃

慶安4年4月18日 甲斐国15万石

承応2年8月12日 従三位。右中将。元服。偏諱を賜る。左馬頭。松平を称す

明暦2年5月3日 袖留

明暦3年7月26日 桜田御殿に移る

万治3年12月25日 前髪をとる

寛文元年7月21日 屋敷を移る

寛文元年閏8月9日 甲斐国府中城25万石

寛文元年12月28日 参議

延宝6年9月14日 逝去

延宝6年11月1日 清揚院殿

宝永6年9月7日 贈正一位大相国
徳川秀忠 天正7年4月7日 生。長丸。長松。竹千代。武蔵守。侍従。少将。中将。参議。
とくがわひでただ
中納言。大納言。大将。右馬寮御監。征夷大将軍。内大臣。
幕府祚胤伝
右大臣。太政大臣
(徳川諸家系譜2・54)
家康の三男
徳川幕府家譜
母は西郷左衛門尉清員の養女戸塚五郎大夫忠春の女宝台院
(徳川諸家系譜1・37)
御台所は秀吉の養女浅井備前守長政の三女崇源院

天正15年8月8日 従五位下・武蔵守

天正16年1月5日 正五位下

天正18年1月15日 秀吉より偏諱。元服。従四位下・侍従

天正19年10月 左少将

天正19年11月8日 右中将・参議

天正20年9月9日 権中納言・従三位

慶長6年3月28日 権大納言

慶長7年1月6日 従二位

慶長8年11月7日 右近衛大将・右馬寮御監

慶長10年4月16日 征夷大将軍・淳和奨学両院別当・源氏長者・内大臣・正二位

慶長11年9月23日 江戸城本丸へ移る

慶長19年4月12日 従一位・右大臣

元和9年7月27日 辞職。大御所

寛永元年11月10日 西丸へ移る

寛永3年8月18日 太政大臣

寛永9年1月24日 薨去

寛永9年2月22日 台徳院殿・贈正一位大相国公
徳川光圀 寛永5年6月10日 生。千代松。左衛門督。少将。中将。参議。中納言
とくがわみつくに
中納言頼房の三男
幕府祚胤伝
母は谷氏久昌院
(徳川諸家系譜2・45)
室は近衛左大臣関白信尋の次女法光院
水戸様御続帳 寛永9年5月3日 従五位上
(徳川諸家系譜2・250) 寛永10年1月18日 世子となる

寛永10年9月5日 従四位下・左衛門督

(寛永12年1月3日) (徳川千世松殿) ●「日記」

寛永13年3月4日 右近衛権少将

寛永13年7月6日 水戸殿御子息千代松殿元服御字光被下之―


―被補左衛門督則御礼 ●「日記」

寛永13年9月6日 元服。偏諱を賜る。字を子龍。常山と号す

寛永17年3月29日 右中将 ●「幕府祚胤伝」

寛永17年3月29日 被補任水戸左衛門督中将 ●「日記」

寛永17年7月11日 従三位 ●「幕府祚胤伝」

寛永17年7月11日 従三位中将 ●「水戸様御続帳」

寛永17年7月11日 尾張紀伊両宰相水戸中将当春官職雖被仰付之位階之儀未無御沙汰付―


―今度被仰出之所謂尾張紀伊は三位宰相中将水戸は三位中将―


―被仰付之 ●「日記」

(寛永17年9月9日) (水戸左金吾) ●「日記」

寛文元年8月19日 父頼房の遺領を継ぐ。常陸国水戸城28万石

寛文2年12月21日 参議・中将

元禄3年10月14日 致仕

元禄3年10月15日 中納言

元禄13年12月6日 薨去
徳川光貞 寛永3年12月11日 生。長福。常陸介。参議。中将。中納言。大納言
とくがわみつさだ
大納言頼宣の長男
幕府祚胤伝
母は中川氏理真院。嫡母は加藤肥後守清正の女瑤林院
(徳川諸家系譜2・43)
簾中は伏見宮貞清親王の姫宮天真院
紀州水戸御系譜写 寛永8年5月3日 従五位上
(徳川諸家系譜2・237) 寛永9年7月7日 元服。従四位下・常陸介。偏諱を賜る
南葵徳川家略譜4 寛永9年7月7日 元服。常陸介。偏諱を賜る ●「日記」

(寛永10年1月3日) (松平常陸介) ●「日記」

(寛永10年7月2日) (徳川常陸介) ●「日記」

寛永17年3月29日 参議。右近衛権中将。従三位

寛永17年3月29日 被補任紀伊常陸介宰相 ●「日記」

寛永17年7月11日 尾張紀伊両宰相水戸中将当春官職雖被仰付之位階之儀未無御沙汰付―


―今度被仰出之所謂尾張紀伊は三位宰相中将水戸は三位中将―


―被仰付之 ●「日記」

(寛永17年9月9日) (紀伊常州) ●「日記」

正保元年1月2日 就被取前髪以松平伊豆守御鷹之鶴并御樽被贈遣之 ●「日記」

寛文7年5月22日 父頼宣の家を継ぐ。紀伊国和歌山城55万5000石

寛文8年12月22日 権中納言

寛文9年1月10日 正三位

元禄3年5月4日 権大納言

元禄3年5月11日 従二位

元禄11年4月22日 致仕

元禄15年5月28日 剃髪。対山と号す

宝永2年8月8日 薨去
徳川光友 寛永2年7月29日 生。五郎八丸。右兵衛督。参議。中将。中納言。大納言
とくがわみつとも
大納言義直の長男
幕府祚胤伝
母は吉田甚兵衛の姉乾殿歓喜院
(徳川諸家系譜2・41)
嫡母は浅野紀伊守幸長の女春姫高原院
御系譜
継母は津田左衛門佐信益の女佐井御方貞松院
(徳川諸家系譜2・200)
簾中は家光の長女千代姫君霊仙院

寛永7年5月3日 従五位上

寛永10年5月13日 嫡母高原院・妹普峰院とともに江戸へ下向

寛永10年5月23日 家光に拝謁 ●「日記」共

(寛永10年7月2日) (松平五郎八) ●「日記」

寛永10年9月5日 従四位下・右兵衛督

寛永10年12月29日 元服。右兵衛督。偏諱を賜る ●「御系譜」

寛永10年12月29日 元服御字光被下之被補右兵衛督 ●「日記」

(寛永12年1月3日) (徳川右兵衛督殿) ●「日記」

寛永15年2月20日 姫君御方尾張殿御息右兵衛督殿え御縁辺 ●「日記」

寛永16年9月21日 婚姻あり

寛永16年9月21日 千代姫君御方尾張右兵衛督殿え御入輿 ●「日記」

寛永16年12月28日 ワキフサキノ為御祝呉服御肴等被差上之 ●「日記」

寛永17年3月4日 元服。参議・右中将。偏諱を賜る ●「幕府祚胤伝」

寛永17年3月29日 参議。右近衛権中将 ●「御系譜」

寛永17年3月29日 被補任尾張右兵衛督宰相 ●「日記」

寛永17年7月11日 従三位

寛永17年7月11日 尾張紀伊両宰相水戸中将当春官職雖被仰付之位階之儀未無御沙汰付―


―今度被仰出之所謂尾張紀伊は三位宰相中将水戸は三位中将―


―被仰付之 ●「日記」

(寛永17年9月9日) (尾張武衛) ●「日記」

寛永18年11月3日 尾張亜相え為上使松平伊豆守被遣之是御息宰相殿昨日依移徙也 ●「日記」

寛永20年1月2日 被為執前髪為御祝義松平伊豆守を以御鷹之鶴并御樽被贈下之 ●「日記」

慶安3年6月28日 父義直の遺領を継ぐ。尾張国名護屋城61万9500石

承応2年8月12日 正三位・権中納言

元禄3年5月4日 権大納言

元禄3年5月11日 従二位

元禄6年4月25日 致仕。尾張国名護屋に住す

元禄13年10月16日 薨去
徳川義直 慶長5年10月28日 生。五郎太丸。右兵衛督。参議。中将。中納言。大納言
とくがわよしなお
家康の九男
幕府祚胤伝
母は志水加賀守宗清の女相応院
(徳川諸家系譜2・40)
簾中は浅野紀伊守幸長の女春姫高原院
徳川幕府家譜
継室は津田左衛門佐信益の女佐井御方貞松院
(徳川諸家系譜1・41) 慶長8年12月28日 甲斐国24万石
御系譜 慶長11年8月11日 従四位下・右兵衛督
(徳川諸家系譜2・199) 慶長12年閏4月26日 尾張国清州城61万9500石

慶長15年閏2月26日 尾張国名護屋城61万9500石

慶長16年2月20日 従三位・参議・右中将

元和3年7月19日 権中納言

寛永3年8月19日 従二位・権大納言

慶安3年5月7日 薨去
徳川頼宣 慶長7年3月7日 生。長福。常陸介。参議。中将。中納言。大納言
とくがわよりのぶ
家康の十男
幕府祚胤伝
母は蔭山長門守氏広の養女正木左近大夫頼忠の女養珠院
(徳川諸家系譜2・42)
簾中は水野日向守勝成の養女加藤肥後守清正の女瑤林院
徳川幕府家譜 慶長8年11月7日 常陸国水戸城25万石
(徳川諸家系譜1・41) 慶長11年8月11日 従四位下・常陸介
紀伊徳川家譜 慶長14年12月22日 遠江国横須賀城50万石
(徳川諸家系譜2・237) 慶長16年3月20日 従三位・参議・右中将

元和2年6月 駿河国府中城55万5000石

元和3年7月19日 権中納言

元和5年7月19日 紀伊国和歌山城55万5000石

寛永3年8月19日 従二位・権大納言

寛文7年5月22日 致仕

寛文11年1月10日 薨去
徳川頼房 慶長8年8月10日 生。鶴千代。少将。参議。中将。中納言
とくがわよりふさ
家康の十一男
幕府祚胤伝
母は蔭山長門守氏広の養女正木左近大夫頼忠の女養珠院
(徳川諸家系譜2・44)
養母は太田新六郎康資の女英勝院
徳川幕府家譜
簾中は迎えず
(徳川諸家系譜1・42) 慶長11年11月21日 常陸国下妻10万石
水戸様御続帳 慶長14年1月5日 正五位下。徳川氏を称す
(徳川諸家系譜2・249) 慶長14年12月12日 常陸国水戸城25万石

慶長16年3月20日 元服。従四位下・右少将

元和6年8月21日 正四位下・参議・中将

元和8年9月28日 常陸国水戸城28万石

寛永3年8月19日 従三位・権中納言

寛永4年1月7日 正三位

寛文元年7月29日 薨去
徳川頼房長女 寛永元年5月29日
水戸様御続帳
徳川頼房の長女
(徳川諸家系譜2・249) 寛永20年12月28日 水戸殿息女松殿え可嫁 ●「日記」


松殿大納言道昭に嫁ぐ

正保3年6月12日 夫道昭が薨去

寛文4年10月23日
徳願寺
駿河国府中。曹洞宗
とくがんじ




徳大寺公信 慶長11年7月15日 生。侍従。少将。中納言。大納言。大将。内大臣。右大臣。
とくだいじきみのぶ
左大臣。浄覚
諸家伝上・190
中納言実久の男
宮廷公家系図集覧313
母は織田右大臣信長の十一女


室は吉川内蔵助広正の女

慶長17年1月5日 従五位下

慶長18年1月6日 従五位上

慶長18年10月27日 侍従

慶長19年1月5日 正五位下

元和元年1月22日 元服。禁色。昇殿

元和2年1月5日 従四位下

元和5年7月13日 左少将

元和5年12月25日 従四位上

元和6年閏12月20日 正四位下

寛永3年12月23日 従三位

寛永4年9月4日 権中納言

寛永7年1月5日 正三位

寛永8年11月6日 従二位

寛永15年1月5日 正二位

寛永16年閏11月13日 権大納言

寛永17年2月17日 神宮伝奏

(寛永18年10月3日) (大納言の初出) ●「日記」

寛永20年7月23日 右大将

寛永20年8月20日 右大将を辞す

正保3年10月14日 神宮伝奏を辞す

明暦元年1月25日 内大臣

明暦2年5月2日 内大臣を辞す

万治3年1月13日 右大臣

寛文元年1月5日 従一位

寛文元年5月26日 右大臣を辞す

寛文8年9月1日 左大臣

寛文9年12月11日 左大臣を辞す

延宝3年閏4月15日 入道。浄覚と号す

貞享元年7月21日 薨去
戸口長吉
生。庄右衛門
とぐちながよし 寛永3年12月
寛政譜19・89
鳥見役

(正保元年3月24日) (御鳥見) ●「日記」

(延宝5年) 死す
徳永金兵衛

とくながきんびょうえ (寛永12年6月14日) (浅野因幡守家来) ●「日記」



徳永昌興 寛永6年 生。吉兵衛。平八郎
とくながまさおき
式部少輔昌成の長男
寛政譜17・130
母は田中氏


妻は諏訪若狭守頼郷の女


後妻は坪内半三郎定次の女

寛永19年10月11日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保3年7月6日 書院番

慶安2年12月14日 父昌成の遺跡を継ぐ。3000石

万治元年閏12月19日 進物役

寛文9年12月 書院番を辞す。小普請

延宝3年11月19日 死す
徳永昌重 天正8年 生。左太郎。左馬助
とくながまさしげ
式部卿寿昌の長男
寛政譜17・127
母は三上氏


室は本願寺家司下間按察使頼龍の女

(慶長17年) 父寿昌の遺領を継ぐ。美濃国高洲城5万600石

元和3年9月5日 美濃国高洲城5万3700石の朱印

寛永5年2月28日 改易。酒井宮内少輔忠勝に召し預けられる。出羽国庄内におもむく

寛永9年 戸沢右京亮政盛に召し預けられる。出羽国新庄に移る

寛永19年6月19日 死す
徳永昌成 文禄4年 生。小法師。式部。式部少輔
とくながまさなり
式部卿寿昌の次男
寛政譜17・129
母は三上氏


妻は田中氏


後妻は諏訪因幡守頼水の女

慶長5年 証人として池田輝政の居城三河国吉田に至る

慶長9年5月 家康に仕える。御傍に近侍

慶長14年 従五位下。(式部少輔?)

寛永2年 3000石

~寛永11年 書院番

慶安2年5月19日 死す
徳山重政 元和元年 生。権十郎。五兵衛。浄雲
とくのやましげまさ
五兵衛直政の三男
寛政譜5・327
母は板倉伊賀守勝重の女


妻は水野河内守守信の女

寛永8年 はじめて家光に拝謁

寛永8年9月 書院番

寛永11年5月25日 父直政の遺跡を継ぐ。3240石

寛永11年5月25日 徳山五兵衛跡目無相違被仰付畢 ●「日記」

寛永20年6月9日 書院番・進物役

寛永20年6月9日 進物御番 ●「日記」

寛文10年5月16日 勘定頭

寛文10年12月28日 布衣

天和元年3月29日 勘定頭をゆるされる

貞享3年12月6日 致仕。浄雲と号す

元禄2年6月29日 死す
徳山直政 天正17年 生。安十郎。五兵衛
とくのやまなおまさ
則秀法印入道秀現の男
寛政譜5・326
母は蕪木右衛門大夫頼信の女


妻は竹中周防守重定の女


後妻は板倉伊賀守勝重の女

慶長11年4月 はじめて家康に拝謁

慶長11年12月 父則秀の遺跡を継ぐ。3000石。(五兵衛)

慶長14年 3240石

慶長19年 大坂の役にて仮の使番

寛永8年3月 使番。布衣

寛永11年2月3日 死す
土倉一成 慶長17年 生。淡路。閑爾
とくらかずなり
市正勝看の男
池田光政公伝上・381
母は村上周防守の女


室は鵜殿大隅の女

寛永9年10月11日 池田光政に仕える。1000石

寛永14年11月 父勝看の遺領を継ぐ。備前国佐伯1万1000石

元禄元年1月7日
戸沢定盛 慶長13年 生。又三郎。越中守
とざわさだもり
右京亮政盛の養子。鳥居左京亮忠政の次男
寛政譜9・312
室は養父政盛の女

寛永2年 政盛の養子となりその女を室とする

寛永4年11月28日 従五位下・越中守

寛永18年2月2日
戸沢政盛 天正13年 生。九郎五郎。右京亮
とざわまさもり
治部大輔盛安の男
寛政譜9・311
室は鳥居彦右衛門元忠の女

文禄元年 叔父平九郎光盛の家を相続する。出羽国角館4万4300石

文禄元年 はじめて秀吉に拝謁

慶長7年 常陸国松岡4万石

慶長14年 従五位下・右京亮

元和8年 出羽国最上新庄城6万石

寛永2年 出羽国最上新庄城6万8200石

慶安元年閏1月22日
戸沢政盛次女
寛政譜9・312
戸沢右京亮政盛の次女
寛政譜13・16 寛永12年8月6日 戸沢右京娘加藤出羽守嫁娶被仰付之 ●「日記」


加藤出羽守泰興に嫁ぐ


離婚


以下不詳
豊嶋暖次
生。小十郎
としまあつつぐ
作右衛門忠次の長男
寛政譜9・177
母は日下部兵右衛門定好の女


妻は内藤源左衛門正久の女


家光に仕える。大番。200石

寛永10年2月7日 400石

正保元年10月7日 死す
豊嶋勝直
生。十左衛門
としまかつなお
市兵衛秀有の次男
寛政譜9・180
妻は多田新八郎正吉の女


家康に仕える。上総国200石。代官

寛文2年 死す
豊嶋勝正
生。権之丞
としまかつまさ
十左衛門勝直の男
寛政譜9・180
母は多田新八郎正吉の女

寛永10年 はじめて家光に拝謁

寛永17年3月20日 大番 ●「日記」共

寛永19年12月10日 弐百俵 ●「日記」

寛文2年12月9日 父勝直の遺跡を継ぐ。600石


代官

元禄2年4月29日 逼塞

元禄10年11月30日 遠流


以下不詳
豊嶋忠次 永禄7年 生。左近右衛門。作右衛門
としまただつぐ
市兵衛秀有の長男
寛政譜9・176
妻は日下部兵右衛門定好の女


後妻は白井志摩守の女

天正19年 家康に仕える。代官。200石


大坂の役にて天竜川の船奉行


八丈島の代官

(寛永9年7月26日) (手嶋作右衛門とも表記) ●「日記」

寛永20年3月13日 死す
豊嶋忠松
生。作十郎
としまただまつ
作右衛門忠次の次男
寛政譜9・176
母は日下部兵右衛門定好の女


妻は早川五郎兵衛好勝の女

寛永4年 はじめて秀忠に拝謁


父に代わり八丈島代官。100俵

(寛永13年8月21日) (従御代官所当地参上ニ付御礼) ●「日記」

(寛永16年4月21日) (八丈嶋之御代官) ●「日記」

正保元年12月25日 父忠次の遺跡を継ぐ。100石100俵

正保元年12月25日 跡目被仰付百石豊嶋作右衛門二男作十郎ニ父知行百石御切米ニ―


―替被下之事 ●「日記」

正保2年9月20日 八丈島行の船が転覆し溺死
豊嶋泰行
生。猪之介。半左衛門
としまやすゆき
小十郎暖次の長男
寛政譜9・178
母は内藤源左衛門正久の女

正保元年12月25日 父暖次の遺跡を継ぐ。400石 ●「日記」共


大番

万治3年8月5日 死す
戸田氏西 寛永4年 生。新二郎。但馬守。左門。肥後守
とだうじあき
采女正氏信の長男
寛政譜14・377
母は牧野駿河守忠成の女


室は内藤飛騨守忠政の女

寛永15年6月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

慶安4年12月28日 従五位下・但馬守

明暦元年12月28日 左門

寛文11年7月19日 父氏信の家を継ぐ。美濃国大垣城10万石

天和3年12月4日 従四位下。肥後守

貞享元年6月7日
戸田氏鉄 天正4年 生。新二郎。采女正。左門。常閑
とだうじかね
左門一西の長男
寛政譜14・375
母は真木助兵衛氏常の女


室は松平丹波守戸田康長の長女諷子大誓院

天正17年3月10日 家康に近侍

文禄4年10月21日 従五位下・采女正

慶長7年 父一西の遺領を継ぐ。近江国膳所崎城3万石。左門

元和2年7月25日 摂津国尼崎城5万石

寛永11年7月16日 従四位下

寛永11年7月16日 四品 ●「日記」

寛永12年7月28日 美濃国大垣城10万石 ●「日記」共

慶安3年 営中にて頭巾、城内にて杖をゆるされる

慶安4年11月28日 致仕。常閑と号す

明暦元年2月14日
戸田氏鉄養女
寛政譜14・376
戸田左門氏鉄の養女。板倉周防守重宗の六女
寛政譜2・143
母は戸田左門氏鉄の長女
寛政譜14・322 寛永12年8月6日 戸田左門養娘松平孫四郎嫁娶被仰付之 ●「日記」


松平丹波守戸田光重に嫁ぐ

寛永20年~ 松平丹波守戸田光永の養母となる


以下不詳
戸田氏経 慶長8年 生。新吉。淡路守
とだうじつね
左門氏鉄の次男
寛政譜14・382
母は松平丹波守戸田康長の女


妻は間宮権左衛門之等の女

元和4年 秀忠に仕える


小姓。采地を賜る


1500石

元和7年5月27日 従五位下・淡路守

寛永10年8月5日 小姓組組頭

寛永10年8月5日 御小姓組頭 ●「日記」

寛永10年12月28日 2200石

寛永10年12月28日 七百石御加恩 ●「日記」

寛永13年9月27日 小姓組組頭を辞す。寄合

寛永13年9月27日 依病者組頭御赦免 ●「日記」

明暦元年5月7日 兄采女正氏信より新墾田分知。6200石

万治元年閏12月18日 大番頭

寛文8年1月30日 大番頭を辞す

寛文12年11月14日 致仕

天和元年7月20日 死す
戸田氏照
生。三郎四郎。相模守
とだうじてる
左門氏鉄の六男
寛政譜14・383
母は松平丹波守戸田康長の女


妻は中根大隅守正成の養女中根但馬守正次の女

寛永14年 父氏鉄に従い肥前国嶋原におもむく


家綱に付属される。小姓

慶安3年9月4日 西丸徒頭。500俵

(慶安4年) 本丸に勤仕

慶安4年8月16日 布衣

慶安4年11月21日 800俵

明暦元年5月7日 兄采女正氏信より新墾田分知。4000石

明暦元年9月15日 小姓組番頭

明暦元年12月29日 従五位下・相模守

寛文元年11月11日 書院番頭

寛文9年9月11日 大番頭

寛文10年7月8日 拝謁をはばかる


ゆるされる

延宝4年7月25日 大番頭を辞す。寄合

延宝5年9月25日 致仕

延宝6年8月28日 死す
戸田氏信 慶長4年 生。新二郎。伊賀。采女正。逸閑
とだうじのぶ
左門氏鉄の長男
寛政譜14・376
母は戸田丹波守康長の女


室は牧野駿河守忠成の長女

慶長10年 はじめて家康に拝謁

元和元年6月28日 従五位下・采女正

慶安4年11月28日 父氏鉄の家を継ぐ。美濃国大垣城10万石

寛文7年12月28日 従四位下


頭巾と杖をゆるされる

寛文11年7月19日 致仕。逸閑と号す

天和元年11月14日
戸田氏春 寛永11年 生。山三郎。摂津守
とだうじはる
采女正氏信の三男
寛政譜14・377
母は牧野駿河守忠成の女


妻は津軽土佐守信義の女

寛永18年11月14日 家綱に付属される。小姓

寛永18年11月14日 戸田采女二番子竹千代様え御小姓ニ被召出之 ●「日記」


中奥に伺候

慶安4年8月16日 従五位下・摂津守

万治元年閏12月22日 500俵

寛文12年9月11日 死す
戸田勘解由

とだかげゆ
有馬玄蕃頭豊氏に仕える

(寛永12年12月8日) (有馬玄蕃頭家来) ●「日記」



戸田勝吉 元亀3年 生。平兵衛。平右衛門
とだかつよし
兵右衛門清勝の男
寛政譜14・349
妻は岡野光雪の女

天正17年3月12日 はじめて家康に拝謁

~元和元年 大番


200石


箪笥奉行

寛永14年9月18日 裏門切手番頭

寛永14年9月18日 御裏切手ノ御番ニ被相加并同心十人被付之 ●「日記」

承応3年8月28日 裏門切手番頭を辞す。小普請

明暦元年8月18日 致仕。200石

寛文2年10月12日 死す
戸田清次 慶長9年 生。六郎右衛門
とだきよつぐ
平右衛門勝吉の次男
寛政譜14・349
母は岡野光雪の女

慶長19年8月2日 はじめて秀忠に拝謁


家光に仕える。大番。200俵

寛永10年2月7日 400石

寛永18年12月30日 腰物奉行 ●「日記」共

延宝5年4月27日 死す
戸田金左衛門
清堅かその子孫か。寛政譜14・333
とだきんざえもん
紀伊家老



戸田九郎兵衛

とだくろうひょうえ 寛永10年5月12日 戸田九郎兵衛屋敷天野対馬へ被下 ●「日記」



戸田貞吉
生。久助
とださだよし
九右衛門吉久の次男
寛政譜14・351
母は戸田平左衛門光定の女


妻は清水権之助政吉の次女

(元和6年) 祖父勝則の遺跡を継ぐ。700石。秀忠に近侍。鷹匠頭


1280石

寛永15年11月3日 1780石

寛永15年11月3日 御加恩五百石 ●「日記」

寛永19年11月12日 布衣 ●「日記」共

正保3年12月4日 2080石

慶安2年5月7日 同心50人を預かる

慶安3年閏10月14日 遊猟の供奉をゆるされ先に伺候

承応元年10月14日 死す
戸田三九郎
金左衛門清堅の家系か?寛政譜14・333
とださんくろう
紀伊家臣



戸田重勝
生。虎之助。十右衛門
とだしげかつ
半十郎重政の長男
寛政譜14・331
母は向井兵庫頭正綱の女

寛永15年12月1日 はじめて家光に拝謁

寛永15年12月1日 戸田半十郎子御目見 ●「日記」

寛永19年6月20日 御小姓与 ●「日記」

正保元年1月8日 死す
戸田重種 元和元年 生。斎宮。藤五郎。備後守。但馬守。出羽守
とだしげたね
藤五郎重宗の男
寛政譜14・328
妻は本多豊前守正貫の女

元和3年 父重宗の遺跡を継ぐ。武蔵国八幡山6420石。寄合

(寛永10年7月2日) (備後孫戸田藤五郎) ●「日記」

寛永10年7月2日 縁辺組 ●「日記」

(寛永12年6月16日) (寄合) ●「日記」

(寛永15年5月8日) (岡本宮内并弟戸田藤五郎) ●「日記」

承応2年9月27日 小姓組番頭

承応2年12月28日 従五位下・備後守

万治2年2月23日 書院番頭

寛文2年2月8日 大番頭

寛文12年12月3日 留守居

天和2年4月7日 留守居を辞す

元禄元年3月17日 死す
戸田重正
生。十郎右衛門
とだしげまさ
平右衛門の男
寛政譜21・352
家光に仕える。与力

(寛永20年4月19日) (御切米八拾石) ●「日記」

(寛永20年4月19日) (長坂茶利組) ●「日記」

寛永20年4月19日 只今迠之御番被成御免向後御役可被仰付之間可存其旨之由―


―小十人組御番所之次ニて老中被伝之 ●「日記」


国廻役。中根壱岐守正盛に属す

(寛文3年) 死す
戸田重政 慶長元年 生。半十郎
とだしげまさ
半十郎重康の男
寛政譜14・331
妻は向井兵庫頭正綱の女

慶長7年 父重康の遺跡を継ぐ。700石

慶長7年11月 秀忠に仕える


小姓組

正保元年1月6日 死す
戸田重元 (天文13年) 生。半平。十郎右衛門。備後守
とだしげもと
十郎右衛門重真の長男
寛政譜14・327 ~天正3年 松平紀伊守家忠に属す

~天正12年 家康に仕える

~天正18年 秀忠に付属される

慶長7年 武蔵国八幡山5000石

慶長8年1月 従五位下・備後守

慶長15年9月11日 死す
戸田重吉
生。忠兵衛
とだしげよし
久右衛門忠重の男
寛政譜14・363
手鷹師

寛文8年11月1日 死す
戸田十郎左衛門

とだじゅうろうざえもん
紀伊家臣

(寛永17年9月9日) (紀伊亜相使者) ●「日記」



戸田忠貞 寛永15年 生。次郎九郎
とだたださだ
八郎左衛門生勝の長男
寛政譜14・345 寛永20年12月7日 父生勝の遺跡を継ぐ。900石。小普請

寛永20年12月7日 九百石八郎右衛門跡戸田次郎九郎八郎右衛門千弐百石之内―


―惣領次郎九郎ニ九百石残三百石十三郎ニ被下之 ●「日記」

承応3年2月23日 書院番


書院番を辞す

寛文2年4月19日 死す
戸田忠高 慶長3年 生。半助。周防守
とだただたか
土佐守尊次の六男
寛政譜14・346
妻は堀越中守利長の養女多賀式部正武の女

寛永10年6月15日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永10年 書院番

正保2年9月9日 徳川綱重に付属される。抱守


書院番頭


甲府城代

寛文4年12月28日 従五位下・周防守。2570石

延宝2年12月17日 死す
戸田忠昌 寛永9年 生。主膳。伊賀守。越前守。山城守。侍従
とだただまさ
因幡守忠能の養子。戸田宗兵衛忠次の長男
寛政譜14・334
母は戸田家臣伴茂右衛門忠好の女


室は秋元越中守富朝の女

寛永16年9月26日 養子となる

寛永16年9月26日 戸田因幡守養子仕度之由連々望之趣達御耳―


―心次第可仕 ●「日記」

寛永16年10月18日 はじめて家光に拝謁

寛永16年10月18日 以太刀目録御目見 ●「日記」

正保4年8月21日 養父忠能の遺領を継ぐ。三河国田原城1万石

万治元年閏12月27日 従五位下・伊賀守

寛文4年5月9日 肥後国富岡城2万1000石

寛文11年1月25日 奏者番。寺社奉行。常陸国下館2万1000石

延宝4年4月3日 京都所司代

延宝4年7月23日 従四位下。侍従。越前守。3万1000石

天和元年7月19日 4万1000石

天和元年11月15日 老職

天和元年11月19日 山城守

天和2年2月15日 武蔵国岩槻城5万1000石

貞享3年1月21日 下総国佐倉城6万1000石

元禄7年4月21日 下総国佐倉城7万1000石

元禄12年9月10日
戸田忠光 慶長3年 生。美与。加賀守。松平を称すか
とだただみつ
丹波守康長の次男
寛政譜14・320
母は稲村氏


室は蜂須賀阿波守家政の女

慶長17年1月 はじめて秀忠に拝謁。元服。偏諱を賜る。従五位下・加賀守

寛永6年3月16日
戸田忠能 天正14年 生。甚九郎。因幡守
とだただよし
土佐守尊次の長男
寛政譜14・334
母は松平主殿助伊忠の女


室は九鬼長門守守隆の女

慶長3年 はじめて家康に拝謁

慶長5年9月 関ケ原の役に父尊次とともに従う

慶長17年12月27日 従五位下・因幡守

元和元年 父尊次の遺領を継ぐ。三河国田原城1万石

正保4年1月3日
戸田輝道 寛永5年 生。平吉。勘兵衛。作右衛門。播磨守。伊勢守
とだてるみち
市郎右衛門直良の次男
寛政譜14・372
母は山角刑部左衛門正勝の女


妻は玉虫助大夫重茂の女

寛永13年3月25日 はじめて家光に拝謁

寛永13年3月25日 戸田市郎右衛門二番子被召出之 ●「日記」

寛永13年3月25日 皆川山城守組(大番) ●「日記」

寛永19年6月20日 書院番 ●「日記」共

(正保元年12月25日) (勘兵衛の初出) ●「日記」

正保元年12月25日 300俵 ●「日記」共

万治元年閏12月19日 書院番。進物役

寛文6年6月8日 目付

寛文6年12月23日 600俵

寛文6年12月28日 布衣

寛文10年6月10日 徳川綱重に付属される。桜田館に勤仕。家老。3000石

寛文10年12月28日 従五位下・播磨守

元禄2年7月25日 改易。小普請。逼塞

元禄9年5月24日 赦免。なお出仕をはばかる

元禄10年11月30日 死す
戸田藤兵衛

とだとうひょうえ
書院番か?

(寛永9年8月6日) 御小広間給仕 ●「日記」



戸田直次 元和6年 生。市之丞。甚右衛門
とだなおつぐ
市郎右衛門直良の長男
寛政譜14・370
母は山角刑部左衛門正勝の女


妻は岩瀬吉左衛門氏次の女

寛永9年8月19日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永13年12月27日 大番 ●「日記」共


大番を辞す

寛文9年7月10日 父直良の遺跡を継ぐ。700石

元禄4年4月12日 死す
戸田直長 天正2年 生。惣左衛門
とだなおなが
又兵衛直頼の三男
寛政譜14・369 天正19年 家康に拝謁

~慶長5年 父直頼より分知。540石。大番

慶長16年 大番組頭

寛永17年7月23日 死す

(寛永18年12月4日) (皆川山城守組) ●「日記」
戸田直政 元和4年 生。五郎右衛門
とだなおまさ
又久直次の長男
寛政譜14・365
母は山岡五郎作景長の女

寛永10年 書院番

寛永13年 父直次の遺跡を継ぐ。800石

寛永19年11月1日 膳奉行 ●「日記」共

慶安3年12月15日 徒頭

慶安4年8月16日 布衣

明暦2年2月8日 死す
戸田直良(市郎右衛門)
生。市郎右衛門
とだなおよし
又兵衛直頼の五男
寛政譜14・370
妻は山角刑部左衛門正勝の女

慶長12年 秀忠に仕える。300俵。大番

慶長19年~ 大番組頭

寛永10年2月23日 700石

(寛永13年3月25日) (皆川山城守組組頭) ●「日記」


大番組頭を辞す。小普請

寛文9年5月12日 死す
戸田直良(半右衛門) 慶長16年 生。半右衛門
とだなおよし
惣左衛門直長の男
寛政譜14・369
妻は大河内善左衛門政憲の女

寛永12年 大番

寛永18年12月4日 父直長の遺跡を継ぐ。540石

寛永18年12月4日 五百五十石皆川山城守組戸田惣左衛門跡右惣領半右衛門被下之―


―半右衛門取来弐百石上ル ●「日記」

承応3年7月26日 死す
戸田生勝 天正15年 生。次郎九郎。八郎左衛門
とだなりかつ
土佐守尊次の五男
寛政譜14・344
母は松平主殿助伊忠の女

元和7年 はじめて秀忠に拝謁

元和8年 小姓

元和9年12月24日 1000石

寛永3年~ 西丸書院番


本丸に勤仕

寛永10年2月7日 1200石

寛永20年4月29日 死す
戸田政勝(平右衛門)
生。数馬。平右衛門
とだまさかつ
三左衛門政重の次男
寛政譜14・362
母は向井兵庫頭正綱の女


妻は井上中務少輔家臣津川権大夫正吉の女


10歳より家光に仕える


小姓組。400石

正保4年11月10日 死す
戸田政勝(与五右衛門)
生。小平次。源兵衛。与五右衛門
とだまさかつ
藤右衛門政次の男
寛政譜14・356 寛永18年3月1日 はじめて家光に拝謁

寛永18年3月1日 樽代前ニ置一同ニ御目見 ●「日記」

正保4年12月25日 大番

慶安3年12月11日 父政次の遺跡を継ぐ。300石

寛文9年~ 大番を辞す。小普請

元禄7年9月14日 死す
戸田正次 天正12年? 生。三郎右衛門
とだまさつぐ
土佐守尊次の四男
寛政譜14・343
母は松平主殿助伊忠の女

元和7年 はじめて秀忠に拝謁

寛永元年 書院番

寛永5年 500俵

寛永10年2月7日 700石

(寛永10年6月15日) (戸田因幡守弟三郎右衛門) ●「日記」

正保3年9月27日 死す
戸田政次(七内) 慶長12年 生。数馬。三左衛門。七内
とだまさつぐ
三左衛門政重の長男
寛政譜14・358
母は向井兵庫頭正綱の女


妻は大岡美濃守忠吉の女

元和9年1月25日 はじめて秀忠に拝謁

寛永元年1月 小姓組。200石

寛永10年2月7日 400石

寛永16年4月15日 中奥の番士

寛永16年4月15日 中奥之御番 ●「日記」

寛永19年11月1日 膳奉行 ●「日記」共

正保3年8月7日 綱吉の抱守。三丸に伺候


神田館にて用人


1500石

寛文12年6月16日 死す
戸田政次(藤右衛門)
生。文次郎。小平次。藤右衛門
とだまさつぐ
与五右衛門忠勝の長男
寛政譜14・355 慶長11年10月 はじめて秀忠に拝謁

慶長19年 大坂の役に従う

元和元年 大坂の役に従う

元和2年 徳川忠長に付属される。大番組頭

(寛永9年) 処士か


家光に仕える

寛永11年10月 大番

寛永12年12月13日 300石

(寛永13年3月25日) (皆川山城守組) ●「日記」

慶安2年9月11日 奥方番頭

慶安3年10月15日 死す
戸田政次(藤右衛門)子
与五右衛門政勝の可能性もあり。寛政譜14・356

寛永13年3月25日 戸田藤右衛門子被召出之 ●「日記」

寛永13年3月25日 皆川山城守組(大番) ●「日記」


早世か



戸田正好
生。半平
とだまさよし
半平光正の男
寛政譜14・330
母は板倉伊賀守勝重の女

慶長18年 父光正の遺跡を継ぐ

寛永4年 大番組頭


加増あり。820石

正保4年1月12日 先弓頭

正保4年12月30日 布衣

慶安4年11月21日 820石300俵

万治2年9月12日 死す
戸田光重 元和8年 生。信。孫四郎。主殿。丹波守。松平を称す
とだみつしげ
叔父丹波守庸直の嗣。加賀守忠光の男
寛政譜14・321
母は菅谷氏


室は戸田左門氏鉄の養女板倉周防守重宗の六女

寛永10年2月 はじめて家光に拝謁

寛永11年6月1日 叔父庸直の遺領を継ぐ。播磨国明石城7万石

寛永11年6月1日 松平丹波守死去付て舎兄加賀守子孫四郎相続 ●「日記」

寛永11年6月10日 御礼丹波守遺領依被仰付也 ●「日記」

寛永12年8月6日 嫁娶被仰付之 ●「日記」

寛永12年12月30日 従五位下・丹波守

(寛永13年1月2日) (丹波守の初出) ●「日記」

寛永13年1月15日 諸大夫被仰付御礼申上 ●「日記」

寛永16年3月3日 美濃国加納城7万石 ●「日記」共

明暦2年3月8日 大坂城番

~寛文元年 大坂城番を終える

寛文8年7月30日
戸田庸直 元和3年 生。助。佐渡守。丹波守。松平を称す
とだやすなお
丹波守康長の三男
寛政譜14・321
母は高田氏

寛永7年 はじめて家光に拝謁

寛永7年12月30日 従五位下・佐渡守

寛永10年2月25日 父康長の遺領を継ぐ。信濃国松本城7万石

寛永10年2月25日 遺領被仰付 ●「日記」

寛永10年4月9日 播磨国明石城7万石

寛永10年4月9日 本知松本より播州明石へ得替 ●「日記」


丹波守

(寛永10年12月27日) (丹波守の初出) ●「日記」

寛永11年5月12日
戸田康長 永禄5年 生。虎千代。孫六郎。丹波守。松平を称す
とだやすなが
弾正忠重の長男
寛政譜14・319
母は戸田伝十郎吉光の女


室は家康の養妹松姫久松佐渡守俊勝の女智勝院

永禄10年6月 遺跡を継ぐ。松平の称号を賜る

永禄10年 入輿あり

天正2年 御前にて元服。偏諱を賜る

天正16年6月27日 室が逝去

天正18年 1万石

文禄元年 丹波守

慶長6年11月 上野国白井城2万石

慶長7年 下総国古河城2万石

慶長10年4月16日 従五位下

慶長17年7月 常陸国笠間城3万石

元和2年 上野国高崎城5万石

元和3年3月7日 信濃国松本城7万石

元和9年 家光に付属される

寛永3年8月19日 従四位下

寛永9年12月12日
戸田之信
生。清四郎。次郎右衛門
とだゆきのぶ
忠右衛門之光の男
寛政譜14・364 寛永13年12月15日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永19年6月26日 大番 ●「日記」共

正保元年12月25日 200俵 ●「日記」共


以下不詳
戸田之光
生。忠右衛門
とだゆきみつ
弥兵衛信光の次男
寛政譜14・364
家光に仕える。納戸番。150俵

(寛永13年12月15日) (忠兵衛子戸田清四郎初て御目見) ●「日記」

正保3年9月15日 死す
戸田吉連
生。清九郎
とだよしつら
九右衛門吉久の三男
寛政譜14・354
秀忠に仕える。150俵。鷹のことを務める

慶安3年9月26日 死す
戸田由利
生。藤九郎。(半九郎)
とだよしとし
黒田次郎左衛門吉治の長男(もしくは次男か)
寛政譜21・249
妻は斎藤次郎右衛門信利の女

~慶長19年 秀忠に仕える。小姓

元和元年~ 焼火間番組頭


膳奉行


小納戸

~寛永2年 850石


勘気を蒙る。改易

寛永19年7月5日 杉原伯耆守へ戸田半九郎浪人浅草御城米御蔵衆之弟―


―たるに依て御預 ●「日記」


以下不詳
戸田吉成
生。四郎右衛門。七郎右衛門
とだよしなり
久助貞吉の次男
寛政譜14・352
母は清水権之助政吉の次女


妻は興津内記の女

寛永13年11月8日 はじめて家光に拝謁

寛永13年11月8日 戸田久助子二人御鷹場とねりにおいて初て御目見 ●「日記」


鷹のことをつとめる

慶安4年1月2日 死す
戸田吉政
生。六兵衛。はじめ黒田を称すか
とだよしまさ
黒田次郎左衛門吉治の次男(もしくは三男か)
寛政譜21・351
秀忠に仕える。200石


徳川忠長に付属される

寛永9年~ 家光に仕える。大番

寛永18年12月30日 腰物奉行 ●「日記」共

寛永19年7月5日 勘気を蒙る。嶋津万寿に召し預けられる

寛永19年7月5日 嶋津万寿へ戸田六兵衛御腰物奉行浅草御城米御蔵衆之弟―


―たるに依て御預 ●「日記」

慶安4年10月17日 赦免。200石。腰物奉行


腰物奉行を辞す。小普請

寛文元年7月27日 死す
戸塚忠次
生。作十郎
とつかただつぐ
半四郎之末の男
寛政譜18・277
母は戸塚作右衛門忠之の長女


妻は本郷勝右衛門勝吉の女

寛永5年 父之末の遺跡を継ぐ。1500石

寛永13年12月27日 書院番 ●「日記」共


書院番を辞す。小普請

明暦元年1月10日 死す
戸塚之末 慶長4年 生。半四郎
とつかゆきすえ
作右衛門忠之の養子。伊奈左門の次男
寛政譜18・277
妻は作右衛門忠之の長女

(寛永元年) 養父忠之の遺跡を継ぐ。1500石


西丸小姓組

寛永5年5月25日 死す
十時摂津守

とときせっつのかみ


(寛永18年3月29日) (立花左近証人) ●「日記」



戸張織次 寛永3年 生。山三郎。源五右衛門
とばりおりつぐ
山三郎織定の長男
寛政譜18・300
(または山三郎織定の養子九右衛門織成の次男)


妻は柴村左源太正重の女

寛永6年 父織定の遺跡を継ぐ。小普請。200俵

寛永9年8月19日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保2年6月25日 納戸番

寛文12年9月7日 納戸組頭

寛文12年12月26日 300俵

天和2年4月22日 400俵

貞享3年12月5日 納戸組頭を辞す

貞享4年11月8日 死す
戸張半兵衛

とばりはんびょうえ
美濃部権兵衛と喧嘩

寛永13年6月5日 権兵衛依為同類是亦寺ニて打捨可仕之旨被仰出 ●「日記」



富岡親良
生。平左衛門
とみおかちかよし 寛永10年
寛政譜22・175
徒目付

(寛永19年5月22日) (御歩行目付) ●「日記」


貝役

寛永20年9月24日 御貝吹之役 ●「日記」

某年 死す
富嶋右兵衛

とみしまうひょうえ
伊豆守元教の男か?

(寛永11年7月21日) (地下)(初て御礼) ●「日記」



富嶋元教
生。伊豆守
とみしまもとのり

地下家伝中・982 元和9年5月28日 従五位下。伊豆守


以下不詳



富田景教
生。勝五郎
とみたかげのり
勝兵衛景弘の養子。勝兵衛景弘の甥
寛政譜14・118
幼少より景弘の養子となる

寛永4年3月 はじめて家光に拝謁

(寛永5年) 養父景弘の遺跡を継ぐ。右筆

承応元年2月8日 死す
富田景久 寛永3年 生。右馬丞。五郎兵衛。八郎右衛門。景久。留田を称すか
とみたかげひさ
与右衛門兼久の長男
寛政譜7・30
妻は山口修理亮家臣山口十右衛門重好の女

正保元年2月20日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共


大番

慶安元年6月14日 新番

寛文5年11月7日 新番を辞す

延宝3年7月11日 父兼久の遺跡を継ぐ。250石

元禄6年7月11日 致仕。兼久と号す

元禄10年9月7日 死す
富田兼久 慶長8年 生。平大夫。与右衛門。留田を称すか
とみたかねひさ
宗因久次の長男
寛政譜7・29
母は内山氏


妻は平岡岡右衛門千道の女

慶長17年 秀忠に近侍。腰物持


徳川忠長に付属される


250石

(寛永9年) 処士

(寛永19年12月10日) (駿河大納言殿御部屋住衆) ●「日記」

寛永19年12月10日 家光に仕える。大番。250石

寛永19年12月10日 如前々御知行被下之 ●「日記」

(正保元年2月20日) (与右衛門の初出) ●「日記」

(正保元年2月20日) (大御番) ●「日記」

寛文元年~ 大番を辞す。小普請

延宝3年5月4日 死す
富田庄之助

とみたしょうのすけ
庄左衛門久尚か?

(寛永19年5月22日) (大番か) ●「日記」



富田信高
生。平九郎。信濃守
とみたのぶたか
左近将監知信の長男
寛政譜19・369
母は黒田監物久綱の女


室は宇喜多和泉守家臣宇喜多入道安信の女


継室は宇喜多中納言秀家の養女


また継室は北条家臣大森左近の女

天正16年 秀吉に仕える

文禄3年 従五位下・信濃守

文禄4年7月15日 伊勢国2万石

慶長4年 家康の命により父知信の家を継ぐ。伊勢国5万石

慶長5年8月26日 伊勢国津城を守るも落城。落髪して高野山に走る

慶長5年 伊勢国7万石

慶長12年 伊予国宇和嶋城12万石。従四位下

慶長18年10月8日 改易

慶長18年10月25日 鳥居左京亮忠政に召し預けられる。陸奥国岩城に蟄居

寛永10年2月29日 死す

(寛永10年3月11日) (陸奥国岩城にて相果との記事) ●「日記」
富田久尚
生。庄左衛門
とみたひさなお
忠左衛門久次の次男
寛政譜7・31
母は山内氏


妻は鵜殿新三郎長直の女

寛永元年 家光に拝謁

寛永元年 大番。200俵

寛永10年2月7日 400石

慶安4年11月21日 大番組頭。400石200俵


大番組頭を辞す。小普請

延宝5年6月21日 死す
富永重師
生。孫六郎。忠右衛門。主膳
とみながしげもろ
主膳重吉の長男
寛政譜7・362
母は北条家臣高橋和泉守秀治の女


妻は内藤主馬助重次の女

元和3年 はじめて秀忠に拝謁

元和7年 新焼火間番

寛永元年 西丸小姓組


改易


赦免。大番

正保4年4月13日 父重吉の遺跡を継ぐ。1300石

慶安元年3月27日 仮の鎗奉行

慶安3年9月3日 鎗奉行。家綱に付属される。西丸に伺候

(慶安4年) 本丸に勤仕

慶安4年8月16日 布衣

寛文2年12月28日 死す
富永重吉 天文20年 生。孫六郎。孫大夫。主膳
とみながしげよし
孫左衛門重久の長男
寛政譜7・361
母は北条氏康家臣田中越中守泰行の女


妻は北条家臣高橋和泉守秀治の女


北条氏康・氏政・氏直に仕える。塀和伊予守に属す

天正18年 北条氏直に従い高野山にのぼる

文禄元年 家康に拝謁。家康に仕える

文禄3年 250石

慶長5年~ 伏見城番衛

元和8年8月 普請奉行。800石

~寛永5年 普請奉行・屋敷奉行

寛永9年6月25日 鎗奉行

寛永9年7月1日 同心10人を預かる ●「日記」共

寛永10年12月28日 1300石

寛永10年12月28日 五百石御加恩 ●「日記」


(家光に兵法剣術を言上)

正保3年12月16日 死す
富永直信 天正2年 生。彦四郎。善左衛門。弥二右衛門。善左衛門
とみながなおのぶ
善左衛門守定の長男
寛政譜7・369
母は太田次郎左衛門康直の女


妻は遠山三郎右衛門景次の女


北条氏直に仕える。偏諱を受ける

天正18年 家康に仕える。小姓組

慶長2年 秀忠に仕える

元和2年6月5日 徳川忠長に付属される

(寛永9年) 内藤帯刀忠興に召し預けられる

寛永13年12月10日 赦免。家光に拝謁。400石

寛永13年12月10日 御赦免 ●「日記」

正保3年5月4日 川船奉行

慶安3年2月2日 死す
富永直哉 慶長6年 生。彦四郎
とみながなおはる
善左衛門直信の長男
寛政譜7・370
母は遠山三郎右衛門景次の女

慶長16年 はじめて秀忠に拝謁

元和3年 大番

寛永9年7月5日 破損奉行

寛永9年7月5日 定普請奉行 ●「日記」

寛永9年10月7日 同心3人 ●「日記」

(寛永10年6月9日) (破損奉行) ●「日記」

(寛永18年12月29日) (小普請奉行) ●「日記」

慶安3年12月11日 父直信の遺跡を継ぐ。400石

承応元年11月22日 死す
富永正義 天正7年 生。喜左衛門
とみながまさよし
善左衛門守定の次男
寛政譜7・372
母は太田次郎左衛門康直の女


妻は山本藤右衛門尚盛の女


家康に仕える。大番

元和元年 秀忠に仕える。大番

元和3年5月26日 300石の朱印

寛永10年2月7日 500石


大番組頭

承応元年12月22日 500石200俵

承応3年5月26日 大番組頭を辞す。小普請

寛文元年6月7日 死す
富永守忠 元和6年 生。長八郎。源右衛門。久兵衛
とみながもりただ
三右衛門守次の養子。中嶋十右衛門盛昌の次男
寛政譜7・374
妻は野々山肥前守兼周の女

寛永13年3月25日 中嶋十右衛門子被召出之 ●「日記」 兄中嶋盛直か不明

寛永13年3月25日 皆川山城守組(大番) ●「日記」 兄中嶋盛直か不明

正保3年2月28日 養父守次の遺跡を継ぐ。400石

正保3年10月24日 大番

万治元年7月19日 新番

元禄6年11月21日 新番を辞す。小普請

元禄11年4月6日 死す
富永守時
生。三九郎
とみながもりとき
喜左衛門正義の次男
寛政譜7・372 寛永13年9月28日 はじめて家光に拝謁

寛永13年9月28日 富永喜左衛門二番子樽代を以初て御目見 ●「日記」

寛永13年12月27日 大番 ●「日記」共


以下不詳
富永守和 慶長17年 生。喜三郎。十右衛門。喜三郎
とみながもりまさ
喜左衛門正義の四男
寛政譜7・373
母は山本藤右衛門尚盛の女


妻は加藤牛之助吉次の女


家光に仕える。小十人

寛永19年12月16日 御加恩百俵被下之日来御切米共ニ弐百俵被仰付 ●「日記」

慶安2年2月25日 納戸番

寛文元年11月28日 納戸組頭

寛文元年12月10日 父正義の遺跡を継ぐ。450石

天和3年4月22日 450石100俵

貞享元年2月23日 広敷番頭

元禄元年2月16日 広敷番頭を辞す

元禄10年7月26日 550石

元禄12年10月13日 死す
富永師勝
生。五之助。孫六郎。孫左衛門
とみながもろかつ
兄主膳重師の養子。主膳重吉の三男
寛政譜7・362
母は北条家臣高橋和泉守秀治の女


妻は松平甚三郎行隆の女

寛永元年 はじめて家光に拝謁

寛永10年 小姓組。300石

慶安元年5月25日 中奥の番士

明暦3年7月19日 徒頭

明暦3年12月28日 布衣

万治元年閏12月25日 300石300俵


兄重師の養子となる

寛文3年3月26日 養父重師の遺跡を継ぐ。1300石

寛文10年7月9日 駿府町奉行。1300石300俵

寛文12年11月19日 死す
富永吉時
生。源左衛門。孫大夫
とみながよしとき
主膳重吉の五男
寛政譜7・366
母は北条氏康家臣高橋和泉守秀治の女


妻は尾張家臣高木志摩守一吉の女


また妻は成瀬吉平次重の女

寛永13年3月15日 はじめて家光に拝謁。小姓組。300俵

寛永13年3月15日 富永主膳子樽代を以御礼 ●「日記」

寛永13年8月9日 富永権平御小姓組御番被仰付之 ●「日記」

慶安元年3月25日 鶴松の抱守


鶴松逝去により抱守をゆるされる

慶安3年閏10月18日 小姓組

延宝5年9月21日 死す
富永吉信 元和4年 生。平六郎
とみながよしのぶ
主膳重吉の六男
寛政譜7・362
母は北条家臣高橋和泉守秀治の女

寛永18年7月18日 はじめて家光に拝謁

寛永18年7月18日 冨永主膳正末子初て樽代を以御礼 ●「日記」

寛永19年6月20日 小姓組 ●「日記」共


300俵

正保2年6月28日 死す
富小路主膳

とみのこうじしゅぜん


(寛永17年5月9日) (梶井御門跡之内留小路主膳) ●「日記」



富小路頼直 慶長18年10月1日 生。右兵衛佐
とみのこうじよりなお
左衛門佐秀直の養子。持明院中将基久の三男
諸家伝下・739
室は清閑寺内大臣共房の次女
宮廷公家系図集覧258 元和6年6月5日 従五位下

寛永12年9月14日 元服。従五位上。右兵衛佐

寛永13年5月6日 継目之御礼 ●「日記」

寛永16年1月5日 正五位下

寛永20年10月7日 従四位下

正保4年1月5日 従四位上

慶安4年1月5日 正四位下

明暦2年1月5日 従三位

万治元年3月12日
戸村一学

とむらいちがく
佐竹修理大夫義隆に仕える

(寛永17年3月15日) (佐竹修理大夫証人) ●「日記」



戸村十大夫

とむらじゅうだゆう
佐竹修理大夫義隆の家老






戸村惣右衛門

とむらそうえもん
三浦志摩守正次に仕える

(寛永17年4月20日) (志摩守家来) ●「日記」



伴野吉次郎

とものきちじろう


寛永20年12月7日 火之番衆七十俵五人扶持七左衛門跡伴野吉次郎 ●「日記」



伴野貞継
生。数馬。小次郎
とものさだつぐ
九左衛門貞政の長男
寛政譜4・47
母は加藤主計頭家臣吉田勘右衛門の女

正保元年11月13日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保2年6月25日 書院番

元禄4年7月21日 父貞政の遺跡を継ぐ。350石

元禄4年10月24日 死す
伴野貞政
生。主馬。九左衛門
とものさだまさ
縫殿助貞明の長男
寛政譜4・47
母は依田内蔵助の女


妻は倉橋勝兵衛政長の女


後妻は加藤主計頭家臣吉田勘右衛門の女

元和4年 父貞明の家を継ぐ。(350石?)

元和8年 徳川忠長に付属される

寛永9年 松平和泉守乗寿に召し預けられる

寛永13年12月10日 ゆるされる ●「日記」共


小姓組

寛永15年12月1日 350石

寛永16年6月22日 御小姓組 ●「日記」

(正保元年11月13日) (九左衛門の初出) ●「日記」

寛文3年 大番

寛文12年 大番を辞す。小普請

元禄4年3月12日 死す
伴野七左衛門

とものしちざえもん


(寛永20年) 死す

寛永20年12月7日 火之番衆七十俵五人扶持七左衛門跡伴野吉次郎 ●「日記」
伴六左衛門

とものろくざえもん


(寛永18年12月29日) (御中間頭) ●「日記」

寛永20年12月29日 御加増百俵被下之都合百五十俵 ●「日記」



豊田喜八郎

とよだきはちろう
毛利伊勢守高直に仕える

(寛永17年3月15日) (森市三郎僕従) ●「日記」



虎屋弥吉

とらややきち 寛永15年12月28日 虎屋弥吉親之跡知行被下付進物を以御礼 ●「日記」






鳥居小路経秀
生。法橋。法眼
とりいこうじきょうしゅう
法印経孝の男
地下家伝中・1508
青蓮院門跡坊官
宮廷公家系図集覧680 慶長9年5月2日 法橋

慶長15年1月12日 法眼

(寛永13年5月6日) (青蓮院御門跡内鳥小路式部卿法眼) ●「日記」

承応3年1月17日
鳥居重次 慶長16年 生。三郎右衛門
とりいしげつぐ
又右衛門重正の養子。菅沼左次右衛門の男
寛政譜9・308
母は又右衛門重正の長女

寛永7年 秀忠に仕える。小十人


100俵

寛永9年8月25日 200俵

寛永18年10月26日 小十人組組頭

寛永18年10月26日 小十人組之組頭之内年寄之者御番御免被成連々別之御役可被仰付―


―之旨ニ依テ佐々木庄兵衛小佐手左介西山忠左衛門山本又右衛門―


―竹内平右衛門右五人御番御免鳥居三郎右衛門小野忠三郎―


―阿部甚五左衛門服部三郎右衛門坂部孫四郎此五人右之替ニ―


―組頭被仰付之 ●「日記」

正保元年12月4日 400俵

正保元年12月16日 小十人頭 ●「日記」共

正保元年12月29日 布衣 ●「日記」共

正保3年12月4日 400石

慶安4年11月21日 400石300俵

万治元年4月17日 蟄居するもゆるされる

延宝2年8月23日 小十人頭を辞す。小普請

延宝8年12月3日 死す
鳥居強右衛門

とりいすねえもん
松平下総守忠明に仕える


松平八郎左衛門清道に仕える

(正保元年6月1日) (松平八郎左衛門家老鳥居すね右衛門) ●「日記」



鳥居忠恒 慶長9年 生。新太郎。伊賀守。左京亮
とりいただつね
左京亮忠政の長男
寛政譜9・295
母は車氏


室は森美作守忠政の女

寛永5年 父忠政の遺領を継ぐ。出羽国山形城22万石

(寛永8年1月2日) 左京亮

(寛永9年1月21日) 伊賀守


従四位下

寛永13年7月7日

寛永13年7月7日 数年依病気今朝令死去 ●「日記」
鳥居忠春(久大夫) 元和7年 生。内膳。久五郎。久大夫。逋世
とりいただはる
土佐守成次の次男
寛政譜9・300
妻は安藤次右衛門正珍の女

寛永16年6月1日 はじめて家光に拝謁

寛永16年6月1日 以太刀目録御目見 ●「日記」

寛永16年12月26日 2000俵。寄合

寛永16年12月26日 御切米弐千俵 ●「日記」

延宝2年3月29日 先弓頭

延宝2年12月27日 布衣

天和2年5月21日 500石2000俵

貞享2年7月22日 鎗奉行

元禄元年1月11日 旗奉行

元禄7年12月14日 旗奉行を辞す

元禄8年7月9日 致仕。300俵。逋世と号す

元禄13年8月26日 死す
鳥居忠春(主膳) 寛永元年 生。鶴之助。鶴千代。主膳。主膳正
とりいただはる
左京亮忠政の三男
寛政譜9・295
母は内藤氏


室は三浦志摩守正次の長女

寛永13年7月21日 信濃国高遠城3万200石

寛永13年7月21日 高遠三万弐百石鳥居左京弟鶴千代ニ被下之 ●「日記」

寛永13年9月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

(寛永14年11月4日) (主膳の初出) ●「日記」

(寛永15年10月19日) (主膳正) ●「日記」

寛永16年12月30日 従五位下・主膳正

寛永16年12月30日 諸大夫 ●「日記」

寛永20年12月2日 縁組被仰付之三浦亀之助姉鳥居主膳正 ●「日記」

寛文3年8月1日 家臣松谷寿覚により傷を受け卒
鳥居忠房 (慶長11年) 生。太郎八。淡路守
とりいただふさ
土佐守成次の長男
寛政譜9・300
徳川忠長に仕える

寛永元年 従五位下・淡路守

(寛永8年) 父成次に継いで家老。甲斐国谷村3万5000石

寛永10年 鳥居左京亮忠恒に召し預けられる。出羽国山形に蟄居

寛永13年9月18日 赦免

寛永13年9月18日 被召出 ●「日記」

寛永14年7月14日 死す
鳥居忠頼 文禄元年 生。左門。讃岐守。石見守。美濃守
とりいただより
彦右衛門元忠の五男
寛政譜9・302
母は馬場氏


妻は阿部左馬助忠吉の女

慶長11年 はじめて秀忠に拝謁。小姓

慶長16年1月 従五位下・讃岐守

寛永2年7月27日 1500石

(寛永8年1月2日) (石見守) ●「日記」


小姓を辞す。寄合

承応2年7月18日 死す
鳥居吉貫
生。半十郎。半右衛門。小左衛門
とりいよしつら
又左衛門吉次の次男
寛政譜9・305
妻は指田小三郎の女


家光に仕える。小十人。100俵月俸10口

寛永9年8月25日 200俵

寛永19年12月6日 納戸番 ●「日記」共


納戸番を辞す。小普請

寛文9年10月19日 死す
鳥居吉長
生。又兵衛
とりいよしなが
又左衛門吉次の長男
寛政譜9・304 元和9年11月5日 小十人


100俵

寛永9年8月25日 200俵

寛永19年12月6日 納戸番 ●「日記」共

明暦元年11月 死す
鳥山精明 天正18年 生。牛之助
とりやまきよあきら
丹波精俊の養子。鳥山治右衛門精信の男
寛政譜2・108
妻は丹波精俊の女

(慶長15年) 父に継いで三河国代官

寛永15年 200俵

(寛永16年5月5日) (上方御代官) ●「日記」

寛文6年10月19日 死す
鳥山精元 元和3年 生。権蔵。市大夫。牛之助
とりやまきよもと
牛之助精明の三男
寛政譜2・108
母は鳥山丹波精俊の女


妻は尾張家臣服部小十郎正吉の女

寛永16年5月5日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共


父精明の代官職に副う

寛文6年12月11日 父精明の遺跡を継ぐ。200俵。三河国代官

元禄14年5月7日 代官を辞す。小普請

宝永4年11月26日 死す
呑口

どんこう



呑察

どんさつ
浄土宗の僧か



呑了
生。専蓮社覚誉
どんりょう
石見国津和野の人
浄土伝燈総系譜
随波に師事
(浄土宗全書19・74)
武蔵国代々木清岸寺を開く

正保4年12月15日

Sheet 5: な行

内記

ないき
浅草延命院家老

正保元年8月6日 浅草延命院家老大和内記私曲有之由延命院依訴之彼弐人召寄評定所―


―子細被相尋之上大和ハ一柳丹後守内記ハ堀左門被召預之 ●「日記」

正保元年8月9日 浅草延命院家老大和内記不届之子細有之由今度延命院訴之趣重畳―


―被遂御穿鑿之訖両人事先師知楽院為蒙重恩族之間延命院可守立之処―


―不応彼進退就万端軽延命院儀曲事也且延命院私曲有之儀両人亦―


―可言上之段被仰付再三雖為御僉議無其儀也依之佐州へ被処流罪―


― ●「日記」






内記大夫

ないきたいふ
近衛信尋に仕える

(寛永15年3月7日) ((摂関家の)家来之公家殿上人) ●「日記」

(寛永17年5月5日) (近衛殿殿上人内記) ●「日記」

(寛永17年5月9日) (近衛殿殿上人内匠頭) ●「日記」



内藤章政 寛永元年 生。丑松。主膳。八左衛門
ないとうあきまさ
久五郎直政の次男
寛政譜13・201
母は脇戸氏


妻は鳥居美濃守忠頼の女


後妻は打越次右衛門光種の女

寛永12年 父直政の遺跡分知。300石。小普請

寛永15年10月24日 書院番 ●「日記」共

寛文4年4月14日 死す
内藤勝次
生。六之助
ないとうかつつぐ
金左衛門忠清の三男
寛政譜13・214
母は大久保五郎右衛門康忠の女


妻は畠山下総守義真の女

慶長 秀忠に拝謁


15歳にて家光に付属される。小姓

慶長19年 父忠清の遺跡分知。500石


小姓組

寛永10年2月7日 700石

寛永10年6月14日 小姓組・進物役

寛永10年6月14日 進物番 ●「日記」


小姓組を辞す。小普請

延宝2年12月3日 致仕

延宝7年6月2日 死す
内藤勘兵衛

ないとうかんびょうえ 寛永11年6月14日 昨日於阿波守亭佐渡銀山之様子御穿鑿彼地御奉行―


―花房勘右衛門訴人内藤勘兵衛対決今日達上聞勘兵衛―


―被行死罪与党塩屋又二郎其外三人籠舎 ●「日記」
内藤五左衛門

ないとうござえもん


(寛永17年7月22日) (紀伊亜相使者) ●「日記」



内藤真政
生。権之助
ないとうさねまさ
久五郎直政の長男
寛政譜13・195
母は戸田又久直次の女

寛永3年 はじめて家光に拝謁

寛永7年 小姓組

寛永12年 父直政の遺跡を継ぐ。700石

寛永17年3月19日 書院番 ●「日記」共


書院番を辞す。小普請

延宝元年10月21日 致仕

貞享元年10月20日 死す
内藤重種
生。半六郎。筑後守。峯休
ないとうしげたね
主馬重次の次男
寛政譜13・250
母は紀伊家臣小笠原与左衛門清政の女


妻は西尾藤兵衛政氏の女

寛永元年 はじめて家光に拝謁

寛永6年 小姓組。150俵

寛永10年2月7日 350石

寛永19年10月16日 家綱に付属される ●「日記」共

寛永20年1月10日 布衣 ●「日記」共

正保4年12月5日 650石

慶安3年9月8日

(慶安4年) 本丸に勤仕

慶安4年8月16日 従五位下・筑後守

慶安4年11月21日 1150石

万治元年閏12月14日 閉門

万治2年10月2日 ゆるされる


傅を辞す。寄合

延宝5年閏12月12日 致仕。300俵。峯休と号す

元禄15年1月9日 死す
内藤重頼 寛永5年 生。弥三郎。若狭守。伊賀守。大和守。侍従
ないとうしげより
百介正勝の男
寛政譜13・227
母は板倉周防守重宗の女


室は久世三四郎広当の女

寛永7年 父正勝の遺領のうち5000石を賜る

寛永12年3月28日 はじめて家光に拝謁

寛永12年3月28日 太刀目録を以御礼 ●「日記」

万治3年11月18日 定火消

万治3年12月28日 布衣

寛文2年2月8日 書院番頭

寛文2年12月27日 従五位下・若狭守

寛文8年12月5日 大番頭

延宝4年2月21日 御側

延宝8年11月22日 徳松に付属される。傅役。8000石

天和3年閏5月3日 傅役を辞す

貞享元年12月10日 若年寄。1万3000石

貞享元年12月11日 伊賀守

貞享2年6月23日 大和守

貞享2年9月27日 大坂城代。3万3000石

貞享4年10月13日 京都所司代。持鎗2本をゆるされる

貞享4年10月21日 従四位下・侍従

元禄3年11月27日
内藤主膳 (寛永2年~) 生。主膳
ないとうしゅぜん
豊前守信照の次男
寛政譜13・201
早世か



内藤将監

ないとうしょうげん 寛永11年5月15日 御黒書院御礼太刀目録進上之 ●「日記」






内藤新右衛門

ないとうしんえもん


(寛永18年4月12日) (御腰物持御鉄炮之薬込) ●「日記」

寛永18年4月12日 逼塞



内藤相広
生。半七郎
ないとうすけひろ
半十郎相次の長男
寛政譜13・257 寛永13年12月6日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共


家光に仕える

~慶安4年 死すか
内藤忠興 文禄元年 生。万鍋。金一郎。帯刀
ないとうただおき
左馬助政長の長男
寛政譜13・186
母は三宅惣右衛門康貞の女


室は酒井左衛門尉家次の女

慶長10年4月 従五位下・帯刀。偏諱を賜る

元和元年3月25日 上総国佐貫のうち1万石

元和8年9月28日 陸奥国のうち2万石

寛永11年10月28日 父政長の遺領を継ぐ。陸奥国岩城平城7万石

承応3年3月3日 大坂城代

寛文7年12月28日 従四位下

寛文10年12月3日 致仕

延宝2年10月13日
内藤忠清 元和7年 生。三十郎。出雲守
ないとうただきよ
志摩守忠重の三男
寛政譜13・234
母は紀伊家臣内藤甚五左衛門正長の女


妻は北条出羽守氏重の女

寛永7年2月1日 はじめて家光に拝謁

寛永18年8月9日 家綱に付属される。小姓

寛永18年8月9日 若君様為御奉公人今日御目見 ●「日記」

正保2年4月21日 従五位下・出雲守

慶安3年9月4日 小姓組番頭。1000俵

慶安4年11月21日 2000俵

承応2年9月18日 御側に伺候。交替で宿直

明暦2年12月21日 4000俵

明暦3年12月25日 5000石

寛文元年6月25日 逼塞

寛文元年12月24日 ゆるされる。寄合

元禄3年3月17日 死す
内藤忠重 天正14年 生。甚十郎。伊賀守。志摩守
ないとうただしげ
仁兵衛忠政の次男
寛政譜13・230
室は紀伊家臣内藤甚五左衛門正長の女

慶長4年 秀忠に仕える

慶長5年 300石

慶長15年1月13日 家光に付属される。傅役

元和8年12月23日 1300石

元和9年7月27日 従五位下・伊賀守

元和9年 5000石。小姓組番頭

寛永2年9月2日 1万石。書院番頭

寛永3年 2万石


奉行職

(寛永9年6月11日) (咄衆) ●「日記」

寛永9年11月18日 乗物御赦免 ●「日記」

寛永10年3月18日 志摩国鳥羽城3万5000石

寛永10年3月18日 志摩・伊勢国3万5000石 ●「日記」

寛永12年7月7日 帷子五進上之祝言被仰付御礼 ●「日記」

寛永19年3月18日 志摩守

(寛永19年4月16日) (志摩守の初出) ●「日記」

寛永19年9月1日 毎歳八月交替未年在江戸 ●「日記」

承応2年4月23日
内藤忠重次女
寛政譜13・231
内藤志摩守忠重の次女
寛政譜9・6
母は紀伊家臣内藤甚五左衛門正長の女

寛永10年7月2日 相馬大膳亮義胤と縁組 ●「日記」


女子を産む。のちの養子相馬長門守忠胤の室



内藤忠次 慶長6年 生。金三郎。金左衛門
ないとうただつぐ
金左衛門忠清の長男
寛政譜13・210
母は大久保五郎右衛門康忠の女

慶長19年 父忠清の遺跡を継ぐ。1000石

元和元年 はじめて秀忠に拝謁。小姓

~元和3年 小姓組

寛永10年2月7日 1200石


小姓組を辞す。小普請


大番

(寛永13年9月28日) (大番か) ●「日記」

正保3年1月22日 死す
内藤忠俊
生。新五郎。図書助
ないとうただとし
右京進正成の長男
寛政譜13・219 (慶長10年) 父正成の遺跡を継ぐ。5000石


書院番

寛永8年2月4日 改易 ●「日記」共


以下不詳
内藤忠治
生。甚蔵
ないとうただはる
甚五左衛門忠次の次男
寛政譜13・209 寛永3年 家光に仕える

寛永4年 小姓組

寛永6年 300俵

寛永9年 書院番

寛永10年12月19日 500石

寛永10年12月19日 御加増被下之弐百石 ●「日記」

寛永18年 書院番を辞す。小普請

(寛永20年1月2日) (甚之助) ●「日記」 いまだ書院番か

(正保3年) 死す
内藤忠政 元和3年 生。甚太郎。飛騨守
ないとうただまさ
志摩守忠重の長男
寛政譜13・231
母は紀伊家臣内藤甚五左衛門正長の女


室は板倉周防守重宗の女

寛永4年4月11日 はじめて家光に拝謁

(寛永12年10月10日) (飛騨守) ●「日記」

寛永12年12月28日 従五位下・飛騨守

承応2年6月16日 父忠重の遺跡を継ぐ。志摩国鳥羽城3万5000石

延宝元年7月12日
内藤忠正
生。八郎左衛門。金左衛門
ないとうただまさ
金左衛門忠次の長男
寛政譜13・210
妻は伊奈兵蔵忠公の女

寛永13年9月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保3年11月28日 父忠次の遺跡を継ぐ。1200石

正保4年12月26日 大番

寛文5年2月5日 大番組頭

寛文6年4月28日 1200俵

延宝3年11月24日 死す
内藤忠吉 元和5年 生。三之助
ないとうただよし
志摩守忠重の次男
寛政譜13・232
母は紀伊家臣内藤甚五左衛門正長の女


妻は三宅大膳亮康盛の女

寛永7年2月1日 はじめて家光に拝謁

(寛永18年9月2日) (若君様御小姓衆) ●「日記」

承応2年6月16日 父忠重の遺領分知。3000石。寄合

寛文5年7月26日 死す
内藤種清 慶長11年 生。権右衛門
ないとうたねきよ
甚右衛門種昌の長男
寛政譜13・260
妻は飯田右馬助昌在の女

慶長19年 秀忠に仕える


大番

寛永14年11月26日 父種昌の遺跡を継ぐ。600石

寛永14年11月26日 父就死去遺跡相続之儀被仰付 ●「日記」

万治元年8月28日 大番組頭

万治元年閏12月25日 600石200俵

寛文12年閏6月5日 死す
内藤種昌 元亀2年 生。甚右衛門
ないとうたねまさ
織部種次の長男
寛政譜13・259
妻は山内法眼の女

~慶長19年 秀忠に仕える。大番

(慶長19年) 父種次の遺跡を継ぐか。400石

寛永10年2月7日 600石


天守番頭

寛永14年6月19日 死す
内藤直次 慶長13年 生。嘉兵衛
ないとうなおつぐ
忠兵衛正次の次男
寛政譜13・263
母は小坂橋内匠の女


与力

(寛永20年4月19日) (御切米八拾石) ●「日記」

(寛永20年4月19日) (渡辺半兵衛組) ●「日記」

寛永20年4月19日 只今迠之御番被成御免向後御役可被仰付之間可存其旨之由―


―小十人組御番所之次ニて老中被伝之 ●「日記」


国廻役。中根壱岐守正盛に属す

天和2年4月10日 小十人。250石

貞享3年9月25日 小普請

元禄11年2月5日 死す
内藤直信
生。勝兵衛
ないとうなおのぶ
又十郎政貞の次男
寛政譜3・195
京都東福寺の僧

元和6年 はじめて家光に拝謁。家光に仕える

寛永4年 命により還俗

寛永6年 采地を賜る

寛永10年7月30日 寄合あるの時の書物等を預かる

寛永10年7月30日 寄合之時書物等預置役人 ●「日記」

正保2年9月10日 家綱に付属される

慶安元年3月27日 近侍


以下不詳
内藤長富 慶長19年 生。八右衛門
ないとうながとみ
伝左衛門長教の長男
寛政譜3・193
母は松平宮内大輔家臣武山清兵衛の女

寛永6年6月10日 はじめて家光に拝謁


書院番

(寛永19年12月10日) (御書院番) ●「日記」

寛永19年12月10日 三百俵 ●「日記」

万治2年8月18日 死す
内藤長教 天正17年 生。伝左衛門。はじめ梶を称すか
ないとうながのり
(梶)理兵衛長縄の男
寛政譜3・193
妻は松平宮内大輔家臣武山清兵衛の女

慶長19年9月22日 はじめて家康に拝謁。家康に仕える


800石


道奉行

(寛永15年9月4日) (道奉行) ●「日記」

万治2年8月13日 死す
内藤信照 文禄元年 生。弥七郎。豊前守
ないとうのぶてる
紀伊守信正の長男
寛政譜13・200
母は石川長門守康通の女


室は阿部備中守正次の女

元和7年6月 従五位下・豊前守

寛永3年 父信正の遺領を継ぐ。5万石

寛永4年 陸奥国棚倉城5万石

慶安2年10月25日 大坂定番

~承応2年 大坂定番をゆるされる

寛文5年1月19日
内藤信照養女
寛政譜13・201
内藤豊前守信照の養女。内藤丹後守信武の女

寛永10年7月1日 堀美作守親昌と縁組 ●「日記」


(寛政譜では堀越中守利長の室)



内藤信直(玄蕃)
生。玄蕃
ないとうのぶなお
紀伊守信正の四男
寛政譜13・201 寛永16年12月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共


病により陸奥国棚倉に閑居

寛文8年12月1日 死す
内藤信直(三郎右衛門)
生。金弥。三郎右衛門
ないとうのぶなお
石見守信広の四男
寛政譜13・206
母は三宅越後守康信の女


妻は荒川出羽守定安の女

寛永12年8月11日 はじめて家光に拝謁

寛永12年8月11日 内藤石見守子両人始て御目見 ●「日記」

寛永13年12月27日 書院番 ●「日記」共

寛永16年12月13日 300俵 ●「日記」共

(寛永18年10月19日) (三郎右衛門の初出) ●「日記」

慶安3年8月7日 父信広の遺跡分知。1000石

明暦2年8月30日 死す
内藤信広 文禄元年 生。三弥。主税助。市正。石見守
ないとうのぶひろ
豊前守信成の次男
寛政譜13・205
母は粟生筑前守長勝の女


妻は三宅越後守康信の女

慶長16年6月 秀忠に仕える。小姓

慶長19年9月20日 徒頭

元和元年 1000石


小姓組組頭・徒頭

元和3年1月14日 従五位下・東市正

寛永3年 書院番組頭

寛永9年4月8日 大番頭。石見守

寛永10年4月23日 5000石

寛永10年4月23日 4000石御加恩 ●「日記」

寛永10年4月23日 (石見守の初出) ●「日記」

慶安元年6月26日 大坂定番。1万5000石。与力30騎同心100人を預かる


職を奪われる。8000石

慶安2年3月15日 死す
内藤信正四女
寛政譜13・201
内藤紀伊守信正の四女

寛永10年7月1日 堀越中守利長と縁組 ●「日記」


(寛政譜では堀美作守親昌の室)












内藤信通
生。伝九郎。八之丞
ないとうのぶみち
石見守信広の五男
寛政譜13・207
母は三宅越後守康信の女


妻は渡辺丹後守吉綱の女

寛永17年3月9日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永18年10月3日 家綱に付属される。小姓

寛永18年10月3日 (名前のみの記載) ●「日記」

慶安3年8月7日 父信広の遺跡分知。1000石

慶安3年9月4日 小姓組

寛文8年8月27日 死す
内藤信光 慶長16年 生。主税。伊勢守
ないとうのぶみつ
石見守信広の長男
寛政譜13・206
母は三宅越後守康信の女


妻は本多因幡守利長(政武)の女

元和7年 はじめて秀忠に拝謁

寛永9年12月6日 従五位下・伊勢守

寛永9年12月6日 諸大夫 ●「日記」

(寛永10年7月2日) (伊勢守の初出) ●「日記」

寛永10年7月2日 縁辺組 ●「日記」

慶安3年8月7日 父信広の遺跡を継ぐ。5000石。寄合

延宝3年5月23日 死す
内藤信之
生。伊豆守
ないとうのぶゆき
紀伊守信正の三男
寛政譜13・201
秀忠に仕える。小姓


従五位下・伊豆守

寛永8年7月3日 死す
内藤信雪
生。数馬。主水
ないとうのぶゆき
石見守信広の三男
寛政譜13・206
母は三宅越後守康信の女

寛永12年8月11日 はじめて家光に拝謁

寛永12年8月11日 内藤石見守子両人始て御目見 ●「日記」

寛永13年12月27日 書院番 ●「日記」共

(寛永16年12月13日) (主水の初出) ●「日記」

寛永16年12月13日 300俵 ●「日記」共

慶安3年8月7日 父信広の遺跡分知。1000石


失心して断絶
内藤信良 寛永2年 生。犬千代。淡路守。摂津守。豊前守
ないとうのぶよし
豊前守信照の長男
寛政譜13・201
母は阿部備中守正次の女


室は奥平美作守忠昌の女


継室は松平大和守直基の養女本多内蔵助昌長の女

寛永10年3月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

(寛永10年3月28日) (淡路) ●「日記」

(寛永12年3月21日) (淡路守) ●「日記」

寛永18年12月30日 従五位下・摂津守

寛永18年12月30日 諸大夫 ●「日記」

(正保元年11月13日) (摂津守の初出) ●「日記」

寛文5年 父信照の遺領を継ぐ。陸奥国棚倉城5万石。豊前守

寛文11年9月23日 弟三左衛門信全に新墾田を分知

延宝2年11月16日 致仕

元禄8年7月23日
内藤正勝 慶長13年 生。百介
ないとうまさかつ
修理亮清成の三男
寛政譜13・227
室は板倉周防守重宗の女

元和元年2月15日 はじめて秀忠に拝謁

元和8年 2000石

寛永3年 兄修理亮清政の遺領を継ぐ。2万石

寛永6年8月3日
内藤正重 天正6年 生。外記。善斎
ないとうまさしげ
甚一郎正貞の男
寛政譜13・223
妻は内藤右京進正成の女

天正17年12月 はじめて家康に拝謁

天正18年1月 家康に仕える

天正18年 秀忠に仕える

文禄元年 400石

慶長5年 使番。茜の幌をゆるされる

慶長6年 1400石。徒頭

慶長16年 1900石

慶長19年10月 持弓頭

元和9年 2900石

寛永3年10月3日 従五位下

寛永8年2月8日 5000石 ●「日記」共

寛永9年 与力10騎を預かる

寛永9年6月25日 馬上同心10騎 ●「日記」

寛永19年3月12日 持弓頭をゆるされる

承応3年4月20日 致仕。善斎と号す

寛文3年4月20日 死す
内藤政重 慶長19年 生。千千代。右馬助
ないとうまさしげ
左馬助政長の三男
寛政譜13・187
妻は相馬大膳亮利胤の女 ●「日記」

寛永9年6月 はじめて家光に拝謁

寛永10年7月2日 縁辺組 ●「日記」

寛永10年10月18日 死す
内藤政忠 寛永元年 生。菊太郎。与左衛門
ないとうまさただ
左七政俊の長男
寛政譜13・243
母は多門平左衛門成正の女


妻は徳川忠長家臣加古長三郎の女

寛永16年10月26日 初て御目見 ●「日記」

寛永16年12月26日 はじめて家光に拝謁

寛永17年3月19日 小姓組 ●「日記」共

寛永19年12月10日 三百俵 ●「日記」

寛文4年12月10日 父政俊の遺跡を継ぐ。400石


小姓組を辞す。小普請

寛文7年4月22日 死す
内藤正次
生。四郎左衛門
ないとうまさつぐ
外記正重の長男
寛政譜13・224
母は内藤右京進正成の女


秀忠・家光に仕える。書院番

寛永8年2月8日 1000石 ●「日記」

寛永15年11月7日 縁辺組織田左衛門佐娘内藤四郎左衛門 ●「日記」

寛永18年11月23日 夜賊に殺害される

寛永18年11月25日 一昨夜内藤四郎左衛門儀家来之者令殺害則逐電為重罪之者之間―


―急度可有穿鑿云々 ●「日記」
内藤政次 慶長7年 生。仁左衛門。式部少輔
ないとうまさつぐ
仁兵衛忠政の四男
寛政譜13・237
妻は大河内金兵衛久綱の女

元和6年12月26日 はじめて家光に拝謁

元和7年 書院番。300俵

寛永10年6月3日 500石

寛永12年9月16日 膳奉行 ●「日記」共

寛永12年12月21日 御膳奉行被仰付依て御目見 ●「日記」

寛永14年11月25日 二丸に勤仕

寛永14年11月25日 御本丸御膳奉行之内内藤仁左衛門被相加之―


―二之丸御膳奉行被仰付之 ●「日記」

寛永18年8月12日 家綱に付属される。御傅

寛永18年8月12日 若君様え御奉公可仕 ●「日記」

寛永19年2月6日 布衣

寛永19年4月17日 諸大夫 ●「日記」

寛永19年4月18日 従五位下・式部少輔

(寛永20年1月11日) (式部少輔の初出) ●「日記」

寛永20年9月24日 三丸番頭。御傅

寛永20年9月25日 三丸御番頭 ●「日記」

正保4年12月5日 1000石

慶安4年11月21日 1500石


本丸に勤仕

万治元年閏12月9日 当直をゆるされる。2500石

寛文4年7月1日 5000石

寛文10年8月6日 死す
内藤正俊 慶長19年 生。新五郎。出羽守
ないとうまさとし
織部正正成の長男
寛政譜13・220
妻は内藤外記正重の女

寛永9年 はじめて家光に拝謁

寛永10年 書院番

慶安3年9月3日 家綱に付属される。西丸小姓組

慶安4年 本丸に勤仕

(明暦元年) 父正成の遺跡を継ぐ。2000石

寛文3年1月21日 使役

寛文3年12月28日 布衣

寛文12年7月23日 持弓頭

天和元年4月6日 大目付

天和元年12月27日 従五位下・出羽守

天和2年4月21日 3000石

天和2年5月25日 留守居

貞享4年7月13日 留守居を辞す。寄合

貞享4年8月4日 死す
内藤政俊 天正15年 生。左七。(左吉)
ないとうまさとし
与左衛門重政の次男
寛政譜13・243
祖母は家康の乳母多門縫殿介重利の女


妻は多門平左衛門成正の女

~慶長17年 家康に近侍。左七と称す。240石。現米20石

元和元年~ 秀忠に仕える。400石

~寛永3年 小姓組

(寛永16年10月26日) (左吉) ●「日記」

慶安2年~ 弓矢鎗奉行

寛文元年11月21日 弓矢鎗奉行を辞す

寛文4年6月4日 死す
内藤政長 永禄11年 生。金一郎。左馬助
ないとうまさなが
弥次右衛門家長の長男
寛政譜13・185
母は松平弥右衛門忠長の女


室は三宅惣右衛門康貞の女

天正17年3月15日 豊臣姓を賜る。従五位下・左馬助

文禄元年 大番

慶長5年8月 父家長の旧領を賜る。上総国佐貫城2万石

慶長7年11月22日 上総国佐貫城3万石

元和元年3月25日 上総国佐貫城4万石

元和5年11月 上総国佐貫城4万5000石

元和8年9月28日 陸奥国岩城平城7万石

寛永9年12月28日 従四位下

寛永9年12月29日 四品 ●「日記」

寛永11年10月17日
内藤政長八女
寛政譜13・187
内藤左馬助政長の八女
寛政譜1・259
母は唐橋家の女

寛永10年7月1日 保科肥後守正之と縁組 ●「日記」


保科幸松を産む。早世

~寛永17年
内藤正成 天正9年 生。掃部助。織部正。従五位下
ないとうまさなり
右京進正成の次男
寛政譜13・220
妻は伊奈備前守忠次の女


家康に仕える。小姓


秀忠に仕える。書院番

~元和3年 父正成より分知。2000石

(寛永15年10月17日) (織部の初出) ●「日記」

寛永15年10月17日 内藤織部御赦免 ●「日記」

明暦元年7月15日 死す
内藤政晴 寛永3年 生。万福。兵部。兵部少輔
ないとうまさはる
左馬助政長の四男
寛政譜13・192
母は唐橋氏


室は土屋民部少輔利直の長女

寛永9年6月15日 はじめて家光に拝謁

寛永9年6月18日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」

寛永11年10月28日 陸奥国高槻2万石

(寛永17年2月13日) (兵部少の初出) ●「日記」

寛永19年12月30日 従五位下・兵部少輔

寛永19年12月30日 諸大夫 ●「日記」

寛永20年12月2日 縁組被仰付之土屋民部少輔娘内藤兵部少輔 ●「日記」

正保元年7月1日 火之番二番 ●「日記」

正保2年8月6日
内藤正守 元亀2年 生。与三兵衛
ないとうまさもり
与三兵衛正次の男
寛政譜13・246 天正19年 はじめて家康に拝謁


十人組

元和2年~ 大番

元和4年3月 改易

寛永15年10月17日 ゆるされる ●「日記」共

寛永16年12月26日 400俵

寛永16年12月26日 如前々御切米被下之 ●「日記」

寛永17年2月26日 400石

寛永17年2月26日 如前々御知行被下之 ●「日記」

寛永19年12月10日 400俵

寛永19年12月10日 知行悪故訴訟申上之仍御切米ニ替被下之 ●「日記」

慶安4年3月26日 死す
内藤政康 慶長12年 生。三十郎。清左衛門。十郎左衛門
ないとうまさやす
六左衛門忠政の次男
寛政譜13・215
妻は小嶋助左衛門忠余の女

元和6年10月 家光に仕える。小姓

元和9年7月 阿部備中守正次に召し預けられる


大嶋に配流

寛永6年 赦免。逼塞

寛永9年 大番

寛永11年2月26日 此以前御勘当御赦免日来大御番勤仕 ●「日記」

寛永11年2月26日 100俵 ●「日記」共

慶安元年9月25日 綱吉に付属される。三丸に伺候


神田館にて小姓組組頭


持筒頭


上野国館林城番


550俵

延宝5年3月18日 死す
内藤正吉(外記) 慶長7年 生。甚之丞。外記
ないとうまさよし
外記正重の次男
寛政譜13・224
母は内藤右京進正成の女


妻は松平隼人正重次の女

~慶安2年 家光に仕える。小姓組

承応3年4月24日 父正重の家を継ぐ。5000石

明暦2年12月2日 小姓組を辞す。寄合

万治元年9月8日 定火消

万治元年閏12月28日 布衣

寛文元年3月7日 持弓頭

寛文12年閏6月28日 鎗奉行

延宝2年1月11日 旗奉行

天和2年4月21日 5700石

貞享2年4月23日 旗奉行を辞す

貞享4年12月7日 致仕

元禄2年1月20日 死す
内藤正吉(与惣兵衛) 慶長14年 生。市左衛門。与惣兵衛
ないとうまさよし
与三兵衛正守の長男
寛政譜13・246
妻は大久保金兵衛忠時の女


また小尾彦大夫の女を娶る

正保元年5月18日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保元年6月29日 大番

慶安4年12月11日 父正守の遺跡を継ぐ。250俵

万治2年1月6日 死す
内藤政吉 天正16年 生。甚次郎。仁兵衛
ないとうまさよし
仁兵衛忠政の三男
寛政譜13・236
妻は酒井飛騨守重之の女

慶長12年 秀忠に拝謁。書院番


廩米を賜る


徳川忠長に付属される

寛永6年12月28日 布衣

寛永9年 秋田河内守俊季に召し預けられる

寛永17年12月10日 兄志摩守忠重に召し預けられる ●「日記」共


赦免

万治2年5月26日 死す
内藤美興 元和7年 生。千之助。市正
ないとうよしおき
帯刀忠興の次男
寛政譜13・188
母は小山田氏

寛永5年 はじめて家光に拝謁


東市正

慶安2年11月14日 死す
内藤頼長 元和5年 生。万菊。左京亮。左京大夫
ないとうよりなが
帯刀忠興の長男
寛政譜13・188
母は小山田氏


室は藤井松平山城守忠国の長女


継室は三条左大臣実秀の女

寛永5年 はじめて家光に拝謁

(寛永12年8月6日) (左京) ●「日記」

寛永12年8月6日 松平山城守娘内藤左京嫁娶被仰付之 ●「日記」

寛永13年5月1日 内藤帯刀松平山城守縁辺被仰付御礼 ●「日記」

寛永13年12月29日 従五位下・左京亮

寛永13年12月29日 内藤左京亮諸大夫ニ被仰付之 ●「日記」

寛永13年12月29日 (左京亮の初出) ●「日記」

寛文10年12月3日 父忠興の家を継ぐ。陸奥国岩城平城7万石

貞享元年12月25日 従四位下・左京大夫

貞享2年9月19日
永井白元 元亀3年 生。弥右衛門。監物
ながいあきもと
長田平右衛門重元の三男
寛政譜10・294
母は鈴木弥右衛門の女


妻は近藤八兵衛正忠の女


井伊直政家臣辻弥兵衛盛昌の養子となる。井伊直政に仕える


加藤光泰に仕える


加藤光泰の死後、処士。三河国に住す

文禄3年 家康に仕える

慶長元年 330石

慶長7年 秀忠に仕える。近侍

慶長12年 使番

慶長14年 530石

慶長15年 830石

慶長16年 目付

元和2年 1030石

元和8年 1530石

元和9年 2530石

寛永3年10月3日 従五位下・監物

寛永5年 3530石

寛永20年6月17日 出仕をとどめられる ●「日記」共

正保元年1月27日 ゆるされる ●「日記」共


目付を辞す

承応元年1月28日 致仕。300俵

承応3年9月27日 死す
永井重勝 天正8年 生。六兵衛
ながいしげかつ
惣六郎の男
寛政譜10・312
家光に仕える。230石。納戸番

寛永13年3月27日 死す
永井重政
生。六兵衛
ながいしげまさ
六兵衛重勝の男
寛政譜10・312 寛永12年4月11日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永13年12月28日 父重勝の遺跡を継ぐ。230石。小十人

寛永13年12月28日 永井六兵衛跡職被下小十人組御番被仰付御目見 ●「日記」

慶安元年6月14日 新番


以下不詳
永井主膳

ながいしゅぜん
駿河大納言徳川忠長に仕える

寛永9年 徳川忠長の配所に従う



永井将監
永井監物白元か
ながいしょうげん
使番か

寛永14年11月6日 松平光長・寺沢堅高へ雁下される使者 ●「日記」



中泉八幡宮神主
遠江国中泉。府八幡宮
なかいずみはちまんぐう




永井清右衛門

ながいせいえもん
長井清大夫盛実次男の清右衛門康実か?


寛政譜9・273

寛永9年12月19日 布衣 ●「日記」

寛永10年12月27日 五百石御加増 ●「日記」

寛永11年7月21日 御台所御門番 ●「日記」



永井清兵衛

ながいせいびょうえ


(寛永17年5月21日) (本丸普請の褒賞にあずかる) ●「日記」



永井忠正 天正10年 生。与次郎
ながいただまさ
与次郎吉次の長男
寛政譜10・303
妻は戸田備後守重元の女

天正18年 秀忠に仕える

慶長5年~元和元年 大番

寛永2年10月23日 400石の朱印


大番組頭

寛永9年 裏門番頭。600石

寛永14年9月18日 (御裏切手ノ)御番可致遠慮 ●「日記」


裏門番頭を辞す。小普請

寛文8年3月26日 死す
永井亭保

ながいていほ
宇治茶師か

寛永13年11月1日 永井亭保来本半四郎御礼申上是宇治中毎年定納之年貢―


―今度半分依御赦免也 ●「日記」



永井直清 天正19年 生。伝十郎。日向守
ながいなおきよ
右近大夫直勝の次男
寛政譜10・287
母は阿部伊予守正勝の女


室は高木筑後守正次の女


7・8歳の時よりしばしば家康・秀忠に拝謁

慶長9年 秀忠に仕える。小姓


書院番

慶長19年 大坂の役にて水野監物忠元に属す

元和元年11月 530石

元和5年~ 西丸に勤仕

寛永3年1月 父直勝の遺領分知。4030石


(のち乗輿を許される)

寛永9年4月7日 書院番頭

寛永9年11月18日 従五位下・日向守

寛永9年11月18日 諸大夫 ●「日記」

寛永9年11月20日 8000石

寛永9年11月20日 加増3000石 ●「日記」

寛永10年3月25日 書院番頭をゆるされる。山城国勝龍寺2万石

寛永10年3月25日 清龍寺2万石 ●「日記」

(寛永10年3月25日) (日向守の初出) ●「日記」

(~寛永11年) 山城国神足寺2万石

寛永19年7月 京都大坂の窮民賑救の事を沙汰

寛永19年 はじめて家綱に拝謁

寛永19年9月1日 毎歳八月交替午年在江戸 ●「日記」

正保3年10月 板倉周防守重宗の在府中に洛中洛外の諸事を沙汰

正保4年12月3日 大坂城代阿部備中守正次卒するによりその家臣を指揮

慶安2年7月4日 摂津国高槻城3万6000石

慶安4年 家光の霊柩に陪従して日光山に赴く

寛文11年1月9日
永井直貞 慶長3年 生。熊之助。十左衛門。豊前守
ながいなおさだ
右近大夫直勝の三男
寛政譜10・290
母は阿部伊予守正勝の女


妻は長崎半左衛門元通の女

慶長9年7月 家光の七夜より仕える。小姓

元和9年8月6日 従五位下・豊前守

元和9年12月14日 小姓組番頭

元和9年 1000石

寛永3年1月 父直勝の遺領分知。4300石

寛永5年 小姓組番頭を辞す

万治元年6月14日 致仕

寛文8年2月26日 死す
永井直重 慶長9年 生。長八郎。式部少輔
ながいなおしげ
右近大夫直勝の四男
寛政譜10・273
母は阿部伊予守正勝の女

元和4年 秀忠に仕える。小姓

寛永3年1月 3200石

寛永5年8月6日 従五位下・式部少輔

(寛永11年7月18日) (兵部少輔) ●「日記」


病により小姓を辞す

天和2年9月11日 死す
永井直孟 寛永3年 生。十左衛門。対馬守
ながいなおたか
豊前守直貞の長男
寛政譜10・291
母は長崎半左衛門元通の女


妻は清水氏

寛永10年2月19日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

万治元年6月14日 父直貞の家を継ぐ。4300石。寄合

万治2年8月21日 定火消

万治2年12月28日 布衣

寛文8年12月5日 書院番頭

寛文8年12月27日 従五位下・対馬守

延宝3年8月23日 死す
永井尚庸 寛永8年 生。大学。伊賀守。侍従
ながいなおつね
信濃守尚政の三男
寛政譜10・276
母は内藤修理亮清成の女


室は稲葉石見守正吉の女


継室は太田備中守資宗の女

寛永18年1月6日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永18年8月9日 家綱に仕える。小姓

寛永18年8月9日 若君様為御奉公人今日御目見 ●「日記」

(寛永18年9月2日) (若君様御小姓衆) ●「日記」

慶安元年~ 中奥に伺候

慶安4年8月16日 従五位下・伊賀守

承応元年6月4日 小姓

承応元年11月7日 1000俵

万治元年2月28日 父尚政より分知。河内国2万石

万治2年7月23日 近侍をゆるされる。菊間広縁に伺候

寛文元年6月8日 鷹匠を支配

寛文5年2月18日 奏者番

寛文5年12月23日 若年寄

寛文10年2月14日 所司代。3万石

寛文10年6月3日 従四位下。侍従

延宝4年4月4日 所司代を辞す

延宝5年3月27日
永井尚政 天正15年 生。伝八郎。信濃守。信斎
ながいなおまさ
右近大夫直勝の長男
寛政譜10・270
母は阿部伊予守正勝の女


室は内藤修理亮清成の女

慶長5年 はじめて家康に拝謁

慶長7年 秀忠に仕える。近習

慶長9年 1000石

慶長10年4月26日 従五位下・信濃守

元和元年 小姓組番頭

元和2年 5000石

元和5年 1万5000石

元和8年 老職


老職・書院番頭・小姓組番頭・小十人頭

元和9年 2万4100石

寛永元年11月10日 西丸に伺候

寛永3年1月 父直勝の遺領を継ぐ。下総国古河城8万9100石

寛永10年3月25日 職をゆるされる。山城国淀城10万石

寛永10年3月25日 雍州淀10万石 ●「日記」

寛永19年9月1日 毎歳八月交替未年在江戸 ●「日記」

正保元年11月23日 従四位下

正保元年11月23日 四品 ●「日記」

万治元年2月28日 致仕。信斎と号す

万治元年5月 事あるに臨んでは京大坂の諸奉行等と相議す

寛文8年9月11日
永井尚政五女
寛政譜10・274
永井信濃守尚政の五女
寛政譜1・315
母は内藤修理亮清成の女

寛永10年7月2日 松平能登守定政と縁組 ●「日記」

寛永15年12月28日 永井信濃守と松平能登守縁辺依被仰付御礼 ●「日記」

正保2年 松平数馬定知を産む


松平左大夫定澄を産む

正保4年 松平源左衛門定清を産む


女子を産むか。早世か


女子を産むか。のちの松平小十郎定員の妻



永井直元 慶長6年 生。木工助。平八郎。弥右衛門。道休
ながいなおもと
監物白元の長男
寛政譜10・295
母は近藤八兵衛正忠の女


妻は松前隼人正忠広の女

慶長16年3月 はじめて秀忠に拝謁

元和3年 書院番

承応元年1月28日 父白元の家を継ぐ。3530石。普請奉行

承応元年12月28日 布衣

寛文元年11月21日 普請奉行を辞す

寛文9年7月19日 致仕。300俵。道休と号す

延宝6年3月17日 死す
永井尚保 元和5年 生。右衛門。大和守
ながいなおやす
信濃守尚政の次男
寛政譜10・273
母は内藤修理亮清成の女


妻は保科弾正忠正貞の女 ●「日記」

寛永7年 はじめて秀忠・家光に拝謁

寛永8年 小姓。1000俵

寛永8年12月28日 従五位下・大和守

寛永10年7月2日 縁辺組 ●「日記」


病により小姓を辞す。廩米を収められる

延宝元年10月27日 死す
永井尚征 慶長19年 生。大膳。右近大夫
ながいなおゆき
信濃守尚政の長男
寛政譜10・273
母は内藤修理亮清成の女


室は毛利甲斐守秀元の女

元和8年 はじめて秀忠・家光に拝謁

寛永6年 秀忠に仕える

寛永8年 従五位下・右近大夫

寛永8年2月6日 縁組 ●「日記」

(寛永12年6月16日) (寄合) ●「日記」

万治元年2月28日 父尚政の家を継ぐ。山城国淀城7万3600石

寛文9年2月25日 丹後国宮津7万3600石

延宝元年11月11日
永井信勝
生。牛之助。勘兵衛
ながいのぶかつ
勘九郎吉勝の次男
寛政譜10・308 寛永16年6月23日 はじめて家光に拝謁

寛永16年6月23日 永井勘九郎二番目之子共初て御目見 ●「日記」

寛永17年3月20日 大番 ●「日記」共

寛永19年12月10日 200俵 ●「日記」共

正保元年12月25日 父吉勝の遺跡分知。200石

正保元年12月25日 跡目被仰付三百石永井勘九郎二男牛之助ニ被下之自分之切米弐百俵―


―父知行弐百石替被下之百石被召上之牛之助御切米弐百俵は三番子ニ―


―被下之則大御番え可入之由被仰付之 ●「日記」

寛文12年7月6日 天守番頭

天和2年4月22日 200石100俵

元禄2年6月5日 天守番頭を辞す。小普請

宝永3年6月15日 死す
永井正勝 慶長19年 生。三十郎。勘九郎。永賢
ながいまさかつ
勘九郎吉勝の長男
寛政譜10・307 寛永7年 家光に仕える。大番。150俵

寛永10年2月7日 350石

寛永20年11月7日 新番 ●「日記」共


新番を辞す。小普請

延宝2年12月3日 致仕。永賢と号す

元禄10年2月6日 死す
中井正純
生。五郎助。大和守
なかいまさずみ
大和守正清の兄(弟)
中井配下の棟梁層 寛永8年 本家の大和守正侶の養子正知(正純実子)を後見。大工頭

寛永18年1月26日 大和守

正保4年8月15日 正知に大工頭を譲る

~承応3年 死すか
永井正次 寛永2年 生。主馬。平兵衛。与次郎
ながいまさつぐ
与次郎忠正の男
寛政譜10・304
母は戸田備後守重元の女


妻は斎藤久右衛門信正の女

寛永19年6月20日 書院番 ●「日記」共

(正保元年12月25日) (平兵衛の初出) ●「日記」

正保元年12月25日 三百俵 ●「日記」

寛文8年7月10日 父忠正の遺跡を継ぐ。600石

天和2年8月 書院番を辞す

元禄11年7月12日 致仕

元禄11年8月14日 死す
長井正成
生。庄右衛門
ながいまさなり
勝左衛門正次の男
寛政譜9・94
妻は宮崎長九郎の女

寛永17年3月20日 大番。180石

寛永17年3月20日 大御番 ●「日記」

慶安元年6月10日 死す
永井正元 元和7年 生。左兵衛
ながいまさもと
監物白元の次男
寛政譜10・299
母は近藤八兵衛正忠の女


妻は牧野越中守儀成の女

寛永6年9月12日 はじめて秀忠に拝謁

寛永13年12月27日 書院番 ●「日記」共

寛永16年12月13日 300俵 ●「日記」共

寛永18年4月12日 逼塞 ●「日記」共

寛永18年9月5日 ゆるされる

寛永18年9月5日 御赦免仕来御役如前々可相勤 ●「日記」

慶安元年6月8日 膳奉行

慶安4年 家光死去により膳奉行をゆるされる

明暦2年3月10日 膳奉行

寛文3年9月4日 西丸留守居

寛文3年12月28日 布衣

延宝4年10月10日 死す
永井宗勝
生。小左衛門
ながいむねかつ
勘九郎吉勝の三男
寛政譜10・309 正保元年12月25日 兄勘兵衛信勝の廩米を賜る。200俵。大番

正保元年12月25日 跡目被仰付三百石永井勘九郎二男牛之助ニ被下之自分之切米弐百俵―


―父知行弐百石替被下之百石被召上之牛之助御切米弐百俵は三番子ニ―


―被下之則大御番え可入之由被仰付之 ●「日記」

明暦3年9月20日 死す
永井元勝 元和9年 生。主殿
ながいもとかつ
監物白元の養子。保々石見守貞広の三男
寛政譜10・302
母は監物白元の長女


妻は皆川市正宗富の女

寛永6年9月 はじめて秀忠に拝謁

寛永15年1月15日 書院番 ●「日記」共


300俵

慶安元年9月25日 綱吉に付属される。三丸に勤仕


神田館にて小姓組番頭


650俵

寛文4年9月19日 死す
永井元孝 寛永5年 生。杢之助。彦兵衛
ながいもとたか
監物白元の三男
寛政譜10・300
母は矢口氏


妻は玉虫助大夫重茂の女

寛永17年7月22日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永18年4月16日 小姓組 ●「日記」共

寛永20年12月18日 300俵 ●「日記」共

慶安3年9月3日 西丸書院番

(慶安4年) 本丸に勤仕

寛文3年10月1日 小納戸

寛文3年10月3日 命により彦兵衛と改名

寛文3年12月16日 500俵

寛文3年12月28日 布衣

寛文10年12月26日 700俵

延宝8年 家綱薨御により寄合並

貞享4年3月10日 西丸裏門番頭

元禄7年8月9日 西丸裏門番頭を辞す

元禄10年7月26日 700石

元禄13年7月5日 致仕。300俵

元禄16年1月1日 死す
永井吉勝
生。勘九郎
ながいよしかつ
与次郎吉次の次男
寛政譜10・307 文禄2年 はじめて家康に拝謁

慶長4年 秀忠に仕える。(200俵)

慶長5年~元和元年 大番

元和9年 家光に仕える

寛永9年10月8日 奥方番。300石 ●「日記」共


勘気を蒙る

寛永18年9月5日 ゆるされる

寛永18年9月5日 御赦免仕来御役如前々可相勤 ●「日記」

正保元年7月14日 死す
長井吉勝 元和8年 生。金弥。七郎右衛門。五右衛門
ながいよしかつ
五右衛門吉次の長男
寛政譜9・268
母は細井金兵衛勝久の女


妻は細井金兵衛勝吉の女


後妻は服部権大夫政信の女

寛永9年8月19日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

(寛永9年8月19日) (永井金弥) ●「日記」

寛永15年1月15日 大番 ●「日記」共

寛永20年12月7日 父吉次の遺跡を継ぐ。1500石

寛永20年12月7日 千五百石七郎右衛門弐百俵上ル五右衛門跡 ●「日記」

寛文4年3月3日 死す
長井吉忠
生。金十郎。大膳亮
ながいよしただ
五右衛門吉次の次男
寛政譜9・268 寛永15年 はじめて家光に拝謁

寛永17年2月25日 小姓

寛永17年2月25日 於御奥御目見是御近習ニ可被召遣之旨也云々 ●「日記」

(寛永19年12月10日) (御小姓衆) ●「日記」

寛永19年12月10日 200俵。月俸30口

寛永19年12月10日 弐百俵三十人扶持 ●「日記」

慶安元年12月30日 従五位下・大膳亮

慶安2年3月11日 死罪
長井吉次 天正18年 生。又左衛門。又五郎。五右衛門
ながいよしつぐ
又五郎吉正の男
寛政譜9・268
母は武田家臣橋爪宮内亮元綏の女


妻は細井金兵衛勝久の女

慶長10年 はじめて秀忠に拝謁

~慶長19年 大番

元和3年 父吉正の遺跡を継ぐ。(500石)

元和8年 大番組頭

寛永10年2月23日 1000石

寛永19年3月12日 留守居番。1500石

寛永20年11月3日 死す
中院
武蔵国川越仙波。天台宗
なかいん




中大路少弼

なかおおじしょうひつ
聖護院門跡道晃法親王の家臣



中大路主殿頭
主殿頭か主殿助か
なかおおじとのものかみ
九条幸家に仕える



長岡右馬

ながおかうま


(寛永18年11月1日) (細川肥後守家老) ●「日記」



長岡勘解由

ながおかかげゆ


(寛永18年5月6日) (細川肥後守陪臣) ●「日記」



長岡河内

ながおかかわち


(寛永20年6月7日) (細川三斎使者) ●「日記」



長岡九左衛門

ながおかくざえもん
専修寺門跡尭秀の家臣か



長岡蔵人

ながおかくろうど
専修寺門跡尭秀に仕える

(寛永15年6月28日) (一身田内) ●「日記」



長尾景信 慶長12年 生。庄右衛門
ながおかげのぶ
藤四郎景継の男
寛政譜9・264
母は四野宮播磨守の女


妻は杉山氏

(慶長19年) 父景継の遺跡を継ぐか。200石

元和8年 秀忠に仕える


大番

寛永10年2月7日 400石

寛永20年9月27日 大坂玉薬奉行 ●「日記」共

寛文5年5月24日 死す
長岡監物

ながおかけんもつ


(寛永18年11月1日) (細川肥後守家老) ●「日記」



長岡佐渡守

ながおかさどのかみ


(寛永20年4月25日) (細川肥後守家老) ●「日記」



長尾内匠

ながおたくみ
天真院に仕える

(寛永16年4月13日) (九条政所使) ●「日記」



中川勝宗 寛永9年 生。伝三郎。伝左衛門
なかがわかつむね
半左衛門光重の次男
寛政譜8・225
母は向井左近将監忠勝の女

寛永18年12月4日 父光重の遺跡分知。500石。小普請

寛永18年12月4日 三千百七拾石安藤伊賀守組中川半左衛門跡内弐千六百七拾石惣領―


―長三郎ニ被下之年十三五百石二男伝三郎ニ被下之年十 ●「日記」

寛永18年12月15日 はじめて家光に拝謁

寛永18年12月15日 父遺跡被下之御礼申上之 ●「日記」

慶安2年12月26日 書院番

寛文3年12月14日 書院番・進物役

寛文4年5月3日 死す
中川五郎七

なかがわごろしち 寛永9年8月19日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」

寛永15年1月15日 御書院番 ●「日記」



中川貞長 元和元年6月2日 生。縫殿頭
なかがわさだなが
正親町三条中納言公仲の長男中川貞秀の長男
諸家伝下・1073 寛永8年2月1日 従五位下。元服。縫殿頭
宮廷公家系図集覧404 (寛永11年7月21日) (院中) ●「日記」
宮廷公家系図集覧275 寛永12年1月5日 従五位上

寛永16年1月5日 正五位下

寛永20年1月5日 従四位下

正保4年1月5日 従四位上

慶安4年1月5日 正四位下

某年
中川重勝 寛永6年 生。長三郎。半左衛門
なかがわしげかつ
半左衛門光重の長男
寛政譜8・225
母は向井左近将監忠勝の女


妻は松平加賀守家臣前田熊之丞の女

寛永18年12月4日 父光重の遺跡を継ぐ。2670石

寛永18年12月4日 三千百七拾石安藤伊賀守組中川半左衛門跡内弐千六百七拾石惣領―


―長三郎ニ被下之年十三五百石二男伝三郎ニ被下之年十 ●「日記」

寛永18年12月15日 はじめて家光に拝謁

寛永18年12月15日 父遺跡被下之御礼申上之 ●「日記」

正保2年6月25日 小姓組


小姓組を辞す。小普請


書院番

延宝元年2月6日 死す
中川重正
生。伝左衛門
なかがわしげまさ
惣二郎重久の養子。大久保与六郎の長男
寛政譜5・40
秀忠に仕える


納戸番。150俵

寛永14年10月24日 死す
中川重良
生。左平太
なかがわしげよし
将監重清の男
寛政譜5・31
妻は向井兵庫頭正綱の女

慶長5年 はじめて秀忠に拝謁


書院番

~慶長19年 秀忠の命により家光に射術を言上

寛永8年3月 父重清の家を継ぐ。1000石

寛永10年2月7日 1200石

慶安4年 書院番を辞す。小普請

承応2年3月16日 死す
中川忠明 元和元年 生。久太郎。市右衛門
なかがわただあきら
市右衛門忠次の長男
寛政譜5・34
妻は折井市左衛門政次の女

寛永7年6月10日 はじめて家光に拝謁

寛永9年4月12日 大番


200俵

寛永19年11月12日 父忠次の遺跡を継ぐ。1710石

寛永19年11月12日 中川市右衛門遺跡弐千石之内千七百石久太郎残三百石久太郎自分之―


―弐百石加之五百石三十郎被下之 ●「日記」

万治2年4月 大番を辞す。小普請

寛文6年4月23日 死す
中川忠次 天正5年 生。与吉。与助。市右衛門
なかがわただつぐ
伯父市右衛門忠重の養子。中川与助忠近の男
寛政譜5・34 (天正12年) 実父忠近戦死ののち家康の命により忠重の養子となる

~慶長5年 秀忠に仕える

寛永2年9月2日 510石の朱印


大番


大番組頭

寛永10年2月23日 1010石

寛永10年8月19日 家光養女の鶴姫清泰院に付属される。2010石

寛永10年8月19日 姫君様御祝言付被遣之御加恩千石 ●「日記」

寛永18年12月22日 死す
中川忠直
生。市助。摠左衛門
なかがわただなお
市助忠宗の男
寛政譜5・37
妻は大竹源太郎正吉の女

寛永19年12月2日 父忠宗の遺跡を継ぐ。小普請。(200石)

寛永19年12月2日 中川市助跡目被仰付之 ●「日記」

明暦3年 大番

寛文7年2月18日 新番

寛文8年12月25日 200石50俵

貞享元年3月13日 膳奉行

貞享2年12月22日 新番

元禄15年8月14日 新番を辞す

宝永元年12月27日 死す
中川忠政
生。三十郎
なかがわただまさ
市右衛門忠次の次男
寛政譜5・36
妻は嶋田五郎兵衛直次の女

寛永16年6月23日 はじめて家光に拝謁

寛永16年6月23日 中川市右衛門二番目之子共初て御目見 ●「日記」

寛永17年3月19日 小姓組 ●「日記」共

寛永19年11月12日 父忠次の遺跡分知。500石

寛永19年11月12日 中川市右衛門遺跡弐千石之内千七百石久太郎残三百石久太郎自分之―


―弐百石加之五百石三十郎被下之 ●「日記」

延宝3年5月18日 死す
中川忠宗 元和6年 生。市助
なかがわただむね
市助忠房の男
寛政譜5・37
妻は近藤勘右衛門用政の女

(元和7年) 父忠房の遺跡を継ぐか。200石

寛永7年 家光に拝謁

寛永13年 大番

寛永19年9月30日 死す
中川忠幸 慶長6年 生。勘三郎。飛騨守
なかがわただよし
市右衛門忠重の三男
寛政譜5・38
妻は三枝彦兵衛守吉の女


後妻は九鬼長兵衛の女

元和3年 はじめて家光に拝謁

元和3年 小姓組。300俵

寛永10年 小納戸

寛永11年1月13日 500俵

寛永11年1月13日 弐百俵御加恩 ●「日記」

寛永20年6月16日 書院番

承応3年11月29日 明正院に付属される。500石500俵

明暦元年5月10日 従五位下・飛騨守

寛文10年9月25日 職を辞す

寛文10年12月15日 死す
中川俊臣 慶長4年 生。丹後守。左京権大夫
なかがわとしおみ
勘解由小路蔵人師仲の中絶家を相続。正四位下吉田兼任の四男
地下家伝中・1196 慶長14年1月21日 従五位下。(中川に改号か)。二条家諸大夫
宮廷公家系図集覧668 慶長18年1月12日 丹後守

元和元年1月5日 従五位上

元和5年1月6日 正五位下

寛永6年3月10日 従四位下。左京権大夫

(寛永13年4月2日) (摂政殿(二条康道)御使者) ●「日記」

正保4年12月7日 従四位上

慶安元年9月16日
中川長松

なかがわながまつ
加賀前田家中

(寛永17年2月26日) (松平肥前守家中之証人) ●「日記」



中川八郎左衛門

なかがわはちろうざえもん
加賀前田家中

(寛永20年10月3日) (松平筑前守使者) ●「日記」



中川久清 元和元年 生。津九。瀬兵衛。山城守
なかがわひさきよ
内膳正久盛の男
寛政譜5・28
母は松平隠岐守定勝の女


室は石川主殿頭忠総の女

寛永12年12月30日 はじめて家光に拝謁。従五位下・山城守。婚姻

(寛永13年1月15日) (山城守の初出) ●「日記」

寛永13年1月15日 諸大夫被仰付御礼申上 ●「日記」

寛永15年6月21日 縁辺組被仰付面々石川主殿頭娘中川山城守 ●「日記」

寛永17年7月1日 石川主殿頭中川山城守祝言相済御礼 ●「日記」

承応2年5月21日 父久盛の遺領を継ぐ。豊後国岡城7万400石

寛文6年4月29日 致仕

天和元年11月20日
中川久盛 文禄3年 生。清蔵。内膳。内膳正
なかがわひさもり
修理大夫秀成の長男
寛政譜5・28
母は新庄駿河守直頼の養女佐久間玄蕃允盛政の女


室は松平隠岐守定勝の女

慶長12年 はじめて秀忠に拝謁。内膳


家康に拝謁

慶長13年 従五位下・内膳正

慶長17年 父秀成の遺領を継ぐ。豊後国岡城7万400石

承応2年3月18日
中川久盛長女
寛政譜5・28
中川内膳正久盛の長女
寛政譜6・56
母は松平隠岐守定勝の女

寛永10年7月1日 水野出羽守忠職と縁組 ●「日記」

寛永12年9月28日 中川内膳水野出羽守祝言被仰付御礼 ●「日記」


水野采女を産む。早世

承応元年 水野隼人正忠直を産む


以下不詳



中川政次 元和6年 生。伝三郎
なかがわまさつぐ
伝左衛門重正の男
寛政譜5・40 寛永14年12月8日 父重正の遺跡を継ぐ。150俵。小普請

寛永14年12月8日 百五十俵伝右衛門跡中川伝三郎 ●「日記」

万治元年7月28日 死す
中川光重 慶長5年 生。午之助。半左衛門
なかがわみつしげ
伊勢守忠勝の男
寛政譜8・225
妻は向井左近将監忠勝の女

元和元年 秀忠に仕える。小姓


小姓組

(寛永6年) 父忠勝の遺跡を継ぐ。3000石

寛永18年8月15日 死す

(寛永18年12月4日) (安藤伊賀守組) ●「日記」
永倉真治
生。珍阿弥
ながくらしんじ
珍阿弥重安の養子。寺沢志摩守家臣板倉与兵衛治真の次男
寛政譜18・310 寛永8年 同朋

(寛永9年) 養父重安の遺跡を継ぐか

正保元年2月22日 家綱に付属される

正保元年2月23日 御同朋珎阿弥事若君様へ被進之 ●「日記」

正保3年1月23日 加増あり。100俵


同朋頭

承応3年12月26日 200俵

万治3年12月1日 300俵

延宝8年3月12日 死す
長坂一正 天正10年 生。権七郎
ながさかかずまさ
ちや利九郎信宅の三男
寛政譜4・173
母は本多中務大輔家臣石原弥右衛門貞続の女

慶長2年 兄権七郎信吉の遺跡を賜る。500石


大番

元和元年~ 大番組頭

寛永10年2月23日 1000石

寛永19年3月9日 鉄炮頭

寛永19年12月30日 布衣 ●「日記」共

正保4年5月22日 死す
長坂太郎右衛門

ながさかたろうえもん
本多美濃守忠政家臣



長坂信次 天正12年 生。作兵衛。小血鑓。茶利九郎。血鑓。丹波守
ながさかのぶつぎ
ちや利九郎信宅の四男
寛政譜4・174
母は本多中務大輔家臣石原弥右衛門貞続の女

慶長14年 家康に拝謁。家康に仕える

慶長16年 小十人

慶長19年4月18日 350石

(元和2年) 秀忠に仕える


580石。近習の番

寛永9年4月7日 小十人組の頭

寛永9年12月6日 布衣

寛永10年12月27日 1080石

寛永10年12月27日 五百石御加増 ●「日記」

(寛永13年12月13日) (布衣) ●「日記」

寛永15年12月16日 鉄炮頭

寛永15年12月16日 御鉄炮頭被仰付山田十大夫元組渡ル ●「日記」

寛永19年3月12日 持筒頭

正保元年9月17日 従五位下・丹波守

正保元年9月17日 諸大夫被仰付 ●「日記」

正保3年9月26日 井上外記正継により殺害される
長坂信俊 寛永3年 生。(伊折)。十郎兵衛。はじめ天野を称すか
ながさかのぶとし
権七郎一正の養子。天野豊前守長信の次男
寛政譜4・174
母は大河内金兵衛久綱の女


妻は権七郎一正の女

寛永11年閏7月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

(寛永15年10月24日) (天野伊折御書院番被仰付之) ●「日記」


一正の養子となる。その女を妻とする


書院番

正保4年8月21日 養父一正の遺跡を継ぐ。1000石

慶安3年9月3日 西丸に勤仕

慶安4年 本丸に勤仕

万治2年 書院番を辞す。小普請

元禄8年11月3日 死す
長坂吉利 天正7年 生。孫七郎
ながさかよしとし
深見孫兵衛吉次の男
寛政譜4・177
母は長坂氏

(慶長17年) 父吉次の遺跡を継ぐか


外家の号長坂を称す

寛永18年~ 材木奉行

慶安元年3月8日 死す
長崎右馬助

ながさきうまのすけ
五郎兵衛の男

寛永19年11月12日 御旗本衆令死去跡被下之但自分之知行御切米何も上 ●「日記」



長崎五郎兵衛

ながさきごろうびょうえ



徒組頭か。もしくは火番など

(寛永19年) 死す
長崎元政 慶長5年 生。勘十郎。弥左衛門
ながさきもとまさ
半左衛門元通の男
寛政譜8・235
母は尾張家臣中村対馬守元勝の女


妻は村越七郎左衛門正重の女

元和元年4月28日 はじめて家康に拝謁。大坂の役に従う

寛永10年2月2日 大番組頭 ●「日記」共

寛永11年5月25日 父元通の遺跡を継ぐ。1600石

寛永11年5月25日 長崎半左衛門跡目無相違被仰付畢 ●「日記」

(寛永16年6月23日) (松平外記植村出羽守組大番衆) ●「日記」

正保元年6月23日 死す
長崎元通 天正3年 生。左太郎。半左衛門
ながさきもとみち
伊豆守元家の男
寛政譜8・235
妻は尾張家臣中村対馬守元勝の女


小早川中納言秀秋に仕える

慶長7年5月28日 はじめて家康に拝謁

慶長7年 父元家の家を継ぐ。1600石

寛永9年6月5日 五の字の指物をゆるされる

寛永9年7月2日 惣普請奉行 ●「日記」共

寛永9年10月23日 駿府町奉行 ●「日記」共

寛永9年10月28日 同心之者被仰付 ●「日記」

寛永10年2月27日 2000石

寛永10年2月27日 加恩 ●「日記」

寛永11年3月30日 死す

寛永11年4月2日 去晦日病死 ●「日記」
長崎元義 寛永8年 生。半兵衛。半左衛門。弥左衛門
ながさきもとよし
弥左衛門元政の長男
寛政譜8・235
母は村越七郎左衛門正重の女


妻は安藤次右衛門正珍の女

寛永16年6月23日 はじめて家光に拝謁

寛永16年6月23日 長崎弥左衛門惣領之子共初て御目見 ●「日記」

正保元年12月25日 父元政の遺跡を継ぐ。1600石 ●「日記」共

正保4年12月25日 書院番

元禄13年 書院番を辞す。小普請

元禄13年7月6日 死す
中沢久英
生。犬之助。瀬兵衛。彦右衛門
なかざわひさひで
兄瀬兵衛吉実の嗣。太左衛門久次の三男
寛政譜16・208
兄吉実の遺跡を相続。徳川忠長に仕える

寛永9年 処士

寛永13年9月27日 小十人組之組頭 ●「日記」


以下不詳
長塩正勝 寛永4年 生。伝吉。善兵衛。市郎左衛門
ながしおまさかつ
又左衛門正家の長男
寛政譜11・184
母は大屋氏


妻は小林治郎大夫直次の女

寛永13年12月6日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永19年6月26日 大番 ●「日記」共

正保元年12月25日 弐百俵 ●「日記」

万治元年閏12月18日 父正家の遺跡を継ぐ。550石

寛文6年4月7日 大番を辞す。小普請

寛文9年10月7日 大番

寛文11年3月8日 大番を辞す

天和2年12月18日 致仕

正徳5年6月12日 死す
長嶋〇〇

ながしま
日野資勝に仕える

(寛永16年4月1日) (日野大納言内) ●「日記」



中嶋宇右衛門

なかじまうえもん 寛永13年12月27日 大御番被仰付之 ●「日記」






中嶋重春 慶長12年 生。与五郎
なかじましげはる
与五郎重好の男
寛政譜13・349 元和元年 はじめて家康に拝謁


父重好に継いで三河国大崎船手奉行

寛永6年8月8日 采地の朱印。(三河国大崎600石)

寛文8年12月11日 死す
中嶋十三郎

なかじまじゅうざぶろう 寛永13年12月27日 大御番被仰付之 ●「日記」






中嶋長四郎
長左衛門盛明か
なかじまちょうしろう


寛永13年12月27日 大御番被仰付之 ●「日記」



中嶋主殿

なかじまとのも
八条宮智忠親王の家臣

(寛永17年5月9日) (主殿頭) ●「日記」



中嶋延宗 元和5年 生。権四郎。四郎次郎。宗古。茶屋を称す
なかじまのぶむね
四郎次郎道澄の養子。茶屋小四郎中嶋宗清の男
朱印船貿易史406
妻は茶屋四郎次郎中嶋清次の女

寛永8年 養父道澄の遺跡を継ぐ。(200俵?)

(正保元年5月19日) (呉服所之者) ●「日記」

承応元年 致仕。宗古と号す

元禄6年 死す
中嶋半之丞

なかじまはんのじょう
加藤式部少輔明成に仕える

(寛永17年3月15日) (加藤式部少輔証人) ●「日記」



中嶋正勝 元和6年 生。権左衛門
なかじままさかつ
三右衛門正平の養子。中嶋弥次右衛門正定の長男
寛政譜4・59
妻は大久保平左衛門忠職の女

寛永13年3月25日 はじめて家光に拝謁

寛永13年3月25日 中嶋三右衛門子被召出之 ●「日記」

寛永13年3月25日 大久保右京亮組(大番) ●「日記」

寛永14年 大番


(200俵)

(寛永18年12月4日) (内藤石見守組) ●「日記」

寛永18年12月4日 養父正平の遺跡を継ぐ。400石

寛永18年12月4日 四百石大久保右京組中嶋三右衛門跡右内藤石見守組惣領権右衛門―


―被下之権右衛門取来之御切米弐百俵上ル ●「日記」

寛文7年10月16日 大番組頭

寛文7年12月26日 400石200俵

天和2年4月22日 400石400俵

元禄元年10月12日 大番組頭を辞す。小普請

元禄5年4月17日 死す
中嶋正平 天正15年 生。三右衛門
なかじままさひら
五左衛門信久の男
寛政譜4・59 元和8年 はじめて秀忠に拝謁

寛永元年 家光に仕える


大番。200俵

寛永10年12月15日 400石

(寛永13年3月25日) (大久保右京亮組) ●「日記」

寛永18年3月21日 死す
中嶋茂兵衛

なかじまもびょうえ (寛永11年6月26日) (駿府御番所作事奉行) ●「日記」






中嶋盛明 元和4年 生。長左衛門
なかじまもりあきら
五郎右衛門盛利の長男
寛政譜4・55
母は松波梶平重次の女

寛永13年3月25日 はじめて家光に拝謁

寛永13年3月25日 中嶋五郎右衛門子被召出之 ●「日記」

寛永13年3月25日 皆川山城守組(大番) ●「日記」


大番

寛永20年8月8日 新番

寛永20年8月8日 於土圭之間御番相詰其上方々御成之刻御先え参御殿御番等可相勤之旨―


―被仰付之由伊豆豊後列座有之民部少輔伝之玉虫八左衛門組 ●「日記」

正保4年12月20日 父盛利の遺跡を継ぐ。220石


新番を辞す。小普請

延宝元年10月21日 致仕

延宝6年8月21日 死す
中嶋盛利 文禄3年 生。長四郎。五郎右衛門
なかじまもりとし
大蔵盛直の次男
寛政譜4・55
妻は松波梶平重次の女

慶長9年 家康に仕える。小姓


大番

元和元年 大坂の役にて秀忠に従い阿部備中守正次に属す

元和6年 駿府城を守衛


徳川忠長に付属される

(寛永9年) 処士か

(寛永13年3月25日) (皆川山城守組) ●「日記」 (大番)

寛永13年12月27日 大番

寛永16年閏11月7日 土蔵番組頭 ●「日記」共

寛永17年4月10日 土蔵番頭 ●「日記」共

正保4年 死す
中嶋盛直 慶長16年 生。孫兵衛
なかじまもりなお
十右衛門盛昌の長男
寛政譜4・53
母は松平加賀守家臣岡谷左馬之助の女


妻は山田三郎兵衛の女

寛永12年 大番

寛永13年3月25日 中嶋十右衛門子被召出之 ●「日記」 弟富永守忠か不明

寛永13年3月25日 皆川山城守組(大番) ●「日記」 弟富永守忠か不明

(寛永18年) 父盛昌の遺跡を継ぐ。300石

~明暦3年 仮の石奉行

寛文2年9月5日 石奉行

延宝3年9月11日 死す
中嶋盛昌 天正13年 生。十右衛門
なかじまもりまさ
大蔵盛直の長男
寛政譜4・53
妻は松平加賀守家臣岡谷左馬之助の女

(慶長18年) 父盛直の遺跡を継ぐ。300石。家康に仕える


徳川忠長に付属される。郡奉行

(寛永9年) 処士


家光に仕える。大番。300石

(寛永13年3月25日) (皆川山城守組) ●「日記」

寛永18年8月12日 死す
中嶋主水正

なかじまもんどのかみ
北面

(寛永13年4月2日) (地下) ●「日記」

(寛永16年4月1日) (日野大納言内長嶋〇〇) ●「日記」



中嶋良延
生。新四郎。茶屋を称す
なかじまよしのぶ
四郎次郎清延の三男
朱印船貿易史405
尾張家に属す

寛文3年10月9日 死す
永田尹云
生。亮知。法眼
ながたいんうん
治部卿法眼俊元の男
地下家伝中・1591
大覚寺坊官



永田儀大夫

ながたぎだゆう
松平土佐守直良の家臣



長滝正次
生。四郎兵衛
ながたきまさつぐ
伝蔵正治の男
寛政譜22・174
徒目付


太鼓役

寛永18年6月25日 御歩行目付長滝四郎兵衛太鼓役被仰付之 ●「日記」

(延宝元年) 死す
永田権七郎
永見権七郎の誤りか
ながたごんしちろう 寛永10年10月6日 小石川辺へ被為成永田権七郎吉田久米鳥為射被成御覧 ●「日記」






永田定正
生。助之進
ながたさだまさ
孫次郎貞行の次男
寛政譜7・159 元和9年11月 はじめて家光に拝謁


小十人

寛永19年12月6日 納戸番 ●「日記」共


以下不詳
永田重真 (永禄8年) 生。勝左衛門
ながたしげざね
弥左衛門久琢の次男
寛政譜16・278
母は久野久大夫の女


妻は高木筑後守広正の女


織田信雄に仕える

天正19年 家康に仕える

文禄4年 秀忠に付属される

~慶長5年 600石

~慶長9年 使番

(元和元年) 1000石

寛永10年12月26日 2000石

寛永10年12月26日 御加恩千石 ●「日記」

寛永13年8月5日 死す
永田重正
生。久右衛門
ながたしげまさ
弥左衛門重直の四男
寛政譜16・275
母は梶川五左衛門秀盛の女


妻は設楽市左衛門貞信の女

(慶長17年) 兄四郎次郎重乗の遺跡分知。350石。大番


勘気を蒙る


死す
永田重好
生。権右衛門。宗休
ながたしげよし
伝左衛門重路の長男
寛政譜16・284
妻は山角文右衛門長定の女

寛永18年2月26日 はじめて家光に拝謁

寛永18年5月22日 大番

寛永20年12月18日 弐百俵 ●「日記」

延宝4年7月12日 父重路の遺跡を継ぐ。200石100俵

元禄6年2月10日 大番を辞す

元禄6年7月11日 致仕。宗休と号す

元禄12年9月15日 死す
永田将白

ながたしょうはく


(寛永17年5月9日) (大覚寺殿内) ●「日記」



永田直時 文禄4年 生。四郎三郎
ながたなおとき
弥左衛門重直の三男
寛政譜16・276
母は梶川五左衛門秀盛の女


妻は石河土佐守勝政の女

慶長5年 はじめて秀忠に拝謁


兄四郎次郎重乗より分知。450石


小姓組

元和2年9月15日 家光に付属される

寛永4年 450石150俵

寛永8年 膳奉行

寛永11年5月14日 650石150俵

寛永11年5月14日 御加恩弐百石 ●「日記」

寛永20年 膳奉行を辞す。小普請

寛文5年4月6日 致仕

寛文7年10月15日 死す
永田直俊 慶長4年 生。三十郎。勝左衛門
ながたなおとし
勝左衛門重真の男
寛政譜16・279
母は高木筑後守広正の女


妻は小栗又市政信の女

慶長18年 はじめて秀忠に拝謁

元和3年 家光に付属される。小姓組

寛永13年11月24日 父重真の遺跡を継ぐ。2000石

寛永13年11月24日 永田庄左衛門弐千石子三十郎跡目被仰付之 ●「日記」

寛永13年12月21日 跡目之面々(御目見) ●「日記」

万治2年10月28日 死す
永田直正 寛永4年 生。三四郎
ながたなおまさ
四郎三郎直時の長男
寛政譜16・277
母は石河土佐守勝政の女

寛永17年3月9日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永20年6月16日 書院番

正保2年 死す
永田直満 寛永8年 生。十兵衛。庄左衛門。はじめ小栗を称す
ながたなおみつ
勝左衛門直俊の養子。小栗又兵衛信友の次男
寛政譜16・279
母は駒井右京親直の女


妻は勝左衛門直俊の女

正保元年6月4日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共


大番


直俊の養子となりその女を妻とする

万治2年12月25日 養父直俊の遺跡を継ぐ。2000石


小姓組

寛文9年8月29日 死す
長谷忠康 慶長17年6月17日 生。民部大輔
ながたにただやす
西洞院右衛門督時慶の五男
諸家伝下・1094 寛永7年12月21日 従五位下。元服。昇殿。民部大輔
宮廷公家系図集覧516 (寛永11年7月21日) (院中) (民部少)  ●「日記」

寛永12年1月5日 従五位上

寛永16年1月5日 正五位下

寛永19年1月5日 従四位下

正保3年1月5日 従四位上

慶安4年1月5日 正四位下

明暦2年1月5日 従三位

寛文元年12月24日 正三位

寛文9年8月27日 薨去
中務

なかつかさ


(寛永17年5月26日) (禁中方) ●「日記」



中西清次
生。太郎右衛門
なかにしきよつぐ
太郎右衛門三清の男
寛政譜16・212 寛永11年4月8日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永11年 父三清の遺跡を継ぐか。信濃国代官

寛永19年12月10日 100俵 ●「日記」共


以下不詳
中西三清 永禄6年 生。太郎右衛門
なかにしみつきよ
彦助実清の男
寛政譜16・212 慶長14年 家康に拝謁

慶長15年 父実清の遺跡を継ぐ。信濃国代官

(寛永11年4月8日) (信州御代官) ●「日記」

寛永11年5月5日 死す
中西杢助

なかにしもくのすけ
円満院門跡常尊に仕える

(寛永13年5月6日) (円満院御門跡内) ●「日記」



中西元政 元和3年 生。外記
なかにしもとまさ
主水正元吉の次男
寛政譜16・211
妻は依田源六郎の女

寛永6年12月28日 はじめて家光に拝謁

寛永10年 小姓組


200俵

明暦2年9月23日 死す
中沼元知 元亀8年 生。左京亮
なかぬまもととも 天正19年3月11日 一乗院尊勢准后に仕える
地下家伝中・1646
一乗院尊覚法親王に仕える
宮廷公家系図集覧686 元和6年6月26日 従五位下・左京亮

寛永16年2月17日 従五位上


(以下不詳)
中根喜三郎

なかねきさぶろう


寛永19年10月17日 井上河内守え御預之中根喜三郎令病死依之為御検使火之御番―


―鈴木喜左衛門至下野国鹿沼被差遣之是彼喜三郎依為見知也 ●「日記」



中根新右衛門

なかねしんえもん


寛永15年12月23日 御歩行目付之内谷勝兵衛中根新右衛門石川伊左衛門―


―杉浦喜左衛門此四人御鷹野之刻御台所長持以下持之人足―


―相抱御成之砌は頭召列可罷出 ●「日記」



中根善右衛門

なかねぜんえもん
松平式部大輔榊原忠次に仕える

(寛永16年5月5日) (松平式部大輔家来) ●「日記」

寛永16年5月5日 御目見是亡父跡目依被仰付也 ●「日記」



中根善右衛門父



松平式部大輔榊原忠次に仕える

(寛永16年) 死す



中根善次郎

なかねぜんじろう
松平式部大輔榊原忠次の家臣






中根長左衛門

なかねちょうざえもん
松平越後守光長に仕える
越藩史略4―8・231 (正保元年10月30日) (越後少将使) ●「日記」

天和元年6月23日 水谷左京亮勝宗に召し預けられる



中根友次 文禄4年 生。権六。七左衛門。(または権六。六左衛門貞次)
なかねともつぐ
権六信友(または権六郎貞重)の次男
寛政譜9・258
妻は石原八郎左衛門貞純の女


後妻は牛奥太郎右衛門昌成の女

~元和元年 秀忠に仕える。大番

寛永2年9月2日 230石の黒印

寛永2年 330石

寛永10年2月7日 530石

~寛永11年 材木奉行

寛文5年8月25日 死す
中根正勝(喜四郎)
生。喜四郎
なかねまさかつ
喜四郎正重の男
寛政譜9・260 慶長10年 秀忠に拝謁


家光に仕える。大番。200俵

寛永16年3月7日 天守番頭

寛永16年3月7日 江戸御殿主番頭 ●「日記」


以下不詳
中根正勝(八郎左衛門)
生。八郎左衛門。はじめ松平を称す
なかねまさかつ
松平九郎兵衛正俊の三男
寛政譜9・253
母は中根喜蔵利重の女

寛永3年5月29日 はじめて秀忠に拝謁。小十人。中根を称す


廩米を賜る

寛永9年8月25日 200俵

寛永15年5月8日 土圭間番 ●「日記」共

慶安3年6月14日 新番


新番を辞す。小普請

寛文2年7月17日 死す
中根正勝(日向) 慶長10年 生。半平。伝七郎。日向守
なかねまさかつ
大隅守正成の長男
寛政譜9・245
母は榊原隼之助忠勝の女


妻は植村出羽守家政の女

元和3年 はじめて家光に拝謁。小姓。300俵


小姓をゆるされる

元和7年 書院番

寛永9年11月5日 書院番・進物役

寛永9年11月5日 本番御免。進物番 ●「日記」

寛永10年2月7日 500石

(寛永19年8月14日) (伝七郎の初出) ●「日記」

(寛永20年1月2日) (半平) ●「日記」

正保元年5月27日 書院番組頭

正保元年5月27日 牧野佐渡守組御書院番之組頭 ●「日記」

正保元年12月29日 従五位下・日向守

正保元年12月29日 諸大夫 ●「日記」

慶安元年3月13日 書院番頭

慶安4年11月21日 1500石

万治2年2月23日 父正成の家を継ぐ。5000石。大番頭

延宝元年3月26日 大番頭を辞す

延宝元年7月30日 致仕

延宝7年8月6日 死す
中根正次(喜蔵) 天正17年 生。九之丞。喜蔵
なかねまさつぐ
喜蔵利重の養子。松平九郎兵衛正俊の次男
寛政譜9・251
母は喜蔵利重の女


妻は高山主水正盛聡の女

天正19年3月 実父母に従いはじめて家康に拝謁。命により利重の名跡を継ぎ喜蔵と称す

慶長8年3月10日 小姓組

寛永2年7月25日 270石の朱印。現米40石


(箪笥奉行か)

寛永13年10月7日 中根喜蔵元同心小林権平被仰付 ●「日記」

寛永13年10月7日 嶋次左衛門元同心中根喜蔵被仰付 ●「日記」

寛永13年10月7日 大番組頭か ●「日記」

正保元年10月 大箪笥奉行

慶安3年10月4日 死す
中根正次(但馬)
生。五兵衛。但馬守
なかねまさつぐ
半兵衛正重の三男
寛政譜9・249
母は服部石見守保長の女


妻は青山伯耆守忠俊の女

慶長19年 秀忠に仕える。書院番。300俵

元和2年 徳川忠長に付属される。500石

(寛永9年) 処士

寛永13年12月10日 赦免。家光に仕える

寛永13年12月10日 御赦免 ●「日記」

寛永15年12月1日 500石

寛永15年12月23日 書院番 ●「日記」共

寛永20年8月30日 新院(明正天皇)に付属される。1000石。従五位下・但馬守

寛永20年8月30日 新院え中根五兵衛与力弐騎徒十五人五百石御加恩 ●「日記」

(正保元年2月8日) (但馬守の初出) ●「日記」

明暦2年11月15日 死す
中根正次(但馬)男
寛政譜9・249
但馬守正次の男

正保元年2月8日 はじめて家光に拝謁

正保元年2月8日 中根但馬守惣領初て御目見 ●「日記」


早世か
中根正次(仁左衛門) 慶長10年 生。仁左衛門。茂助。仁左衛門
なかねまさつぐ
茂助正成の男
寛政譜9・256
母は大岡忠右衛門忠政の女


妻は佐野伝右衛門正長の女

(元和8年) 父正成の遺跡を継ぐ。(300石?)


秀忠に仕える。大番

寛永10年2月7日 500石

明暦2年2月22日 広敷番頭

寛文2年9月25日 広敷番頭を辞す

延宝2年4月21日 死す
中根正連 慶長15年 生。九郎兵衛。はじめ松平を称す
なかねまさつら
松平九郎兵衛正俊の四男
寛政譜9・254
母は中根喜蔵利重の女


妻は平賀三五郎忠勝の女

寛永7年 はじめて秀忠に拝謁。小十人。中根を称す


100俵

寛永16年10月23日 鉄炮玉薬奉行

寛永16年10月23日 御鉄炮薬込 ●「日記」

慶安元年9月29日 新番

慶安3年8月27日 閉門

慶安3年10月19日 ゆるされる

万治2年12月26日 250俵

寛文2年10月3日 綱吉に付属される。神田館にて鉄炮頭。550俵

延宝8年 徳松に付属される。西丸に勤仕


務を辞す

天和3年 徳松逝去ののち小普請

元禄2年3月7日 死す
中根正朝 元和3年 生。八十郎。平十郎。正致軒
なかねまさとも
壱岐守正盛の長男
寛政譜14・311
母は大橋氏


妻は山口勘兵衛直賢の女

寛永11年2月8日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共


小姓組。300俵

慶安3年12月15日 書院番組頭

慶安4年8月16日 布衣

慶安4年11月21日 600俵

明暦元年8月3日 父正盛の家を継ぐ。4000石

寛文9年7月3日 荒川関所奉行

延宝6年4月1日 荒川関所奉行を辞す。寄合

貞享元年7月19日 致仕。300俵。正致軒と号す

元禄9年6月30日 死す
中根正成 天正15年 生。伝七郎。大隅守。宗閑
なかねまさなり
半兵衛正重の長男
寛政譜9・244
母は服部石見守保長の女


妻は榊原隼之助忠勝の女


また妻は紀伊家臣川北主水の女


また妻は金田靫負宗房の女

(慶長3年) 父正重の遺跡を継ぐ。200石

慶長4年 はじめて秀忠に拝謁。小姓

慶長10年2月10日 400石

元和元年 大坂の役にて書院番。青山伯耆守忠俊に属す

元和元年12月2日 1400石

元和2年9月18日 家光に付属される

元和9年6月1日 小十人頭

元和9年 1600石


2000石

寛永5年8月4日 3000石

寛永9年6月25日 持筒頭

寛永9年6月25日 馬上同心10騎(すでに持筒頭か) ●「日記」

寛永10年7月26日 小姓組番頭 ●「日記」共

寛永12年12月14日 5000石

寛永12年12月14日 二千石御加恩 ●「日記」

寛永13年3月27日 書院番頭 ●「日記」共

寛永13年12月29日 従五位下・大隅守

寛永13年12月29日 諸大夫ニ被仰付之 ●「日記」

(寛永15年2月8日) (大隅守の初出) ●「日記」

寛永17年10月16日 大番頭

寛永17年10月16日 大御番頭被仰付之北条出羽守元組也 ●「日記」

万治2年2月23日 致仕。1500石。宗閑と号す

寛文11年9月4日 死す
中根正信
生。六郎左衛門
なかねまさのぶ
八郎左衛門正勝の男
寛政譜9・253
妻は鈴木八右衛門隆次の女

寛永11年 家光に拝謁


小十人。100俵

寛永19年12月16日 200俵 ●「日記」共

正保2年閏5月2日 家綱に仕える

慶安3年9月3日 西丸に勤仕

(慶安4年) 本丸に勤仕

寛文3年5月21日 死す
中根正盛 天正16年 生。平十郎。壱岐守
なかねまさもり
喜八郎正時の養子。近藤市左衛門正則の次男
寛政譜14・311
母は平岩主計頭親吉の女


妻は大橋氏


秀忠に拝謁。小姓


大番

寛永2年12月11日 220石の朱印

寛永9年 小納戸


400石

寛永11年1月13日 800石

寛永11年1月13日 四百石御加恩 ●「日記」


御側。与力22騎

寛永15年1月1日 従五位下・壱岐守

寛永15年1月1日 中根平十郎諸大夫被仰付号壱岐守 ●「日記」

寛永15年4月14日 1800石

寛永15年4月14日 千石御加増 ●「日記」

寛永16年6月11日 3000石 ●「日記」共

寛永17年11月14日 宿直をゆるされる。5000石

寛永17年11月14日 弐千石御加恩以上五千石被下之御夜詰被成御赦免―


―別之御役可被仰付云々 ●「日記」

明暦元年8月3日 致仕。600俵

寛文5年12月2日 死す
中根正寄 慶長元年 生。次郎左衛門
なかねまさより
喜八郎正時の男
寛政譜14・315
妻は紀伊家臣近藤太郎左衛門の女

元和9年 はじめて家光に拝謁


小納戸。200石

寛永18年2月25日 小十人頭 ●「日記」共

寛永18年3月5日 本目権兵衛中根次郎左衛門去比小十人組之番頭依被仰付之―


―田中市郎右衛門元組二郎左衛門落合小平次元組権兵衛―


―今日朽木民部少輔被引渡之 ●「日記」

寛永18年4月12日 逼塞 ●「日記」共

寛永18年9月5日 ゆるされる

寛永18年9月5日 御赦免仕来御役如前々可相勤 ●「日記」

寛永19年12月30日 布衣 ●「日記」共

寛永20年8月7日 新番頭

寛永20年8月7日 奥方新御番所之頭 ●「日記」

正保4年12月25日 600石

慶安4年11月21日 600石400俵

明暦3年9月16日 死す
中根六兵衛

なかねろうびょうえ


正保元年6月16日 御書院番 ●「日記」



中院通純 慶長17年8月28日 生。侍従。少将。中将。参議。中納言。大納言
なかのいんみちずみ
内大臣通村の男
諸家伝下・843
母は溝口伯耆守秀勝の女
宮廷公家系図集覧503
室は高倉大納言永慶の女

慶長18年1月6日 従五位下

元和3年1月5日 従五位上

元和5年12月28日 侍従

元和6年1月5日 正五位下

寛永元年12月22日 従四位下。元服

寛永4年1月5日 従四位上

寛永4年1月11日 左少将

寛永7年1月5日 正四位下

寛永7年1月11日 左中将

寛永8年12月6日 参議。左中将

寛永9年1月5日 従三位

寛永14年11月1日 権中納言

寛永14年12月20日 帯剣

寛永16年6月16日 直衣

寛永16年12月29日 正三位

寛永18年1月5日 従二位

(寛永18年4月10日) (中納言の初出) ●「日記」

正保元年10月2日 賀子内親王勅別当

正保3年3月13日 権中納言を辞す

正保4年12月21日 権大納言

承応元年10月12日 正二位

承応2年4月8日 頓死
中院通村 天正15年1月26日 生。侍従。加賀介。少将。中将。参議。中納言。中宮権大夫。
なかのいんみちむら
伝奏。大納言。内大臣。後十輪院
諸家伝下・843
中納言通勝素然入道の次男
宮廷公家系図集覧502
母は細川兵部大輔藤孝入道幽斎の女


室は溝口伯耆守秀勝の女

慶長5年5月10日 従五位下

慶長5年12月27日 侍従

慶長5年12月28日 元服。禁色。昇殿

慶長6年3月20日 侍従。加賀介

慶長7年1月6日 従五位上

慶長12年1月6日 正五位下

慶長13年1月6日 従四位下

慶長14年1月11日 左少将

慶長16年12月30日 従四位上

慶長18年1月6日 正四位下

慶長18年1月12日 右中将

慶長19年12月29日 参議。右中将

元和元年1月5日 従三位

元和3年1月5日 正三位

元和3年1月11日 権中納言

元和6年閏12月28日 従二位

寛永元年11月28日 中宮権大夫

寛永元年 武家伝奏

寛永6年11月2日 権大納言。中宮権大夫

寛永6年11月9日 中宮権大夫を止められる

寛永7年 武家伝奏を止められる

寛永8年12月11日 正二位

(寛永12年) これ以前江戸に幽閉されこのころ復帰か

寛永19年12月22日 権大納言を辞す

正保4年7月28日 内大臣

正保4年11月18日 内大臣を辞す


従一位

承応2年2月29日 薨去
中野重弘
生。吉兵衛
なかのしげひろ
七蔵重吉の男
寛政譜13・340
妻は米津勘兵衛田政の女

~慶長19年 秀忠に仕える

元和元年~ 書院番

元和2年9月15日 家光に付属される


代官

寛永10年7月26日 但馬国銀山奉行・代官

寛永10年7月26日 但馬銀山御代官 ●「日記」

寛永10年8月22日 但馬金山御代官 ●「日記」

(寛永13年6月1日) (但馬国御代官) ●「日記」

慶安3年2月14日 死す
中野笑雲(1)
生。笑雲
なかのしょううん
彦兵衛景久の長男
寛政譜13・341
古田織部正宗重を師として茶湯の道を伝授

慶長6年 はじめて家康に拝謁。茶道頭

元和2年5月 秀忠に仕える。現米50石


上洛や日光社参に供奉

(寛永20年) 死す
中野笑雲(2)
生。了雲。笑雲
なかのしょううん
笑雲(1)の男
寛政譜13・342 元和2年8月1日 はじめて秀忠に拝謁

元和5年 秀忠に仕える。茶道

寛永15年12月18日 御切米五拾俵被下之 ●「日記」

寛永20年12月7日 父笑雲の遺跡を継ぐ。茶道頭

寛永20年12月7日 米五十石笑雲子了雲了雲五十俵五人扶持差上之 ●「日記」

(寛文6年) 死す
長野二郎兵衛

ながのじろうひょうえ 寛永9年8月23日 宿割役

寛永9年11月5日 本番御免。進物番 ●「日記」

寛永11年4月10日 於桑名宿割衆堀田甚左衛門長野次郎兵衛喧嘩―


―甚左衛門当座相果 ●「日記」

寛永11年5月5日 昨日朽木民部少ニ御預 ●「日記」

寛永11年5月7日 被誅戮之 ●「日記」
中坊時祐 天正18年 生。長兵衛。(左近)。美作守。宗空
なかのぼうときすけ
飛騨守秀政の養子。豊臣家臣超昇寺孫七郎弘盛の男
寛政譜16・203
母は中坊飛騨守秀祐の次女


妻は松平右衛門大夫大河内正綱の養女

天正18年 実父弘盛死去のため外祖父秀祐に養育される


飛騨守秀政の嗣となる

慶長17年 家康の命により秀忠に仕える。書院番

寛永15年11月9日 養父秀政の遺跡を継ぐ。3500石。奈良奉行。大和・近江両国代官

寛永15年11月9日 亡父飛騨守遺跡三千五百石被下之并和州奈良町奉行―


―御代官所等無相違被仰付之 ●「日記」

(寛永16年10月24日) (左近) ●「日記」

慶安3年12月4日 与力6騎同心30人

承応元年5月27日 従五位下。美作守

寛文3年10月3日 職を辞す

寛文8年10月3日 致仕。宗空と号す

延宝5年6月12日 死す
中坊秀政 天正3年 生。左近。左近大夫。飛騨守
なかのぼうひでまさ
飛騨守秀祐の男
寛政譜16・203
妻は多羅尾左京進光太の女

慶長14年 父秀祐の遺跡を継ぐ。3500石

慶長14年 奈良奉行。大和・近江両国の御料を預かる

寛永10年11月11日 従五位下・飛騨守

(寛永11年1月12日) (飛騨守の初出) ●「日記」

寛永15年8月10日 死す
長野政成
生。八助。五郎右衛門。数馬。はじめ矢野を称す
ながのまさなり
矢野九左衛門清定の長男
士林泝洄3・391
長野に改める


徳川義直に仕える

元和9年 同心頭。騎士25騎を預かる。2000石

(寛永11年4月26日) (五郎右衛門。これ以前は数馬) ●「日記」

寛永12年 家老

正保元年11月 致仕。休心と号す

寛文11年6月14日 死す
中御門宣順 慶長18年10月27日 生。左兵衛佐。弁。蔵人。蔵人頭。参議。中納言。大納言
なかのみかどのぶより
大納言尚良の長男
諸家伝上・600
室は阿野大納言実顕の女
宮廷公家系図集覧429 慶長19年1月5日 従五位下

元和6年12月27日 元服。昇殿。左兵衛佐。従五位上

元和9年1月5日 正五位下

寛永4年9月7日 権右少弁

寛永4年11月24日 蔵人

寛永5年3月12日 正五位上

寛永6年11月6日 左少弁

寛永6年11月8日 明正天皇蔵人

寛永8年12月18日 右中弁

寛永9年6月5日 従四位下。蔵人を辞す

寛永9年10月2日 従四位上

寛永9年12月11日 正四位下

寛永10年4月6日 正四位上

寛永12年1月11日 左中弁

寛永14年12月20日 右大弁

(寛永15年3月6日) ((摂関家の)家来之公家殿上人) ●「日記」

寛永16年閏11月18日 蔵人頭。右大弁

(寛永17年4月19日) (左大弁) ●「日記」

(寛永17年5月5日) (頭右大弁) ●「日記」

寛永18年8月23日 左大弁

寛永19年2月6日 参議。左大弁

寛永19年7月19日 従三位

寛永20年10月16日 左大弁を辞す

(正保元年1月14日) (宰相の初出) ●「日記」

正保元年1月29日 継目之御礼 ●「日記」

正保2年2月7日 権中納言

正保2年2月19日 帯剣

正保4年12月7日 正三位

承応元年11月26日 権大納言

承応3年12月21日 従二位

承応3年12月28日 正二位

万治元年閏12月22日 権大納言を辞す

寛文4年5月3日 薨去
中御門尚良 天正18年8月7日 生。右衛門佐。弁。蔵人。蔵人頭。参議。中納言。大納言
なかのみかどひさよし
大納言資胤の長男
諸家伝上・600
母は中御門頭弁宣教の長女
宮廷公家系図集覧429 慶長3年12月14日 従五位下

慶長5年11月19日 元服。昇殿。右衛門佐

慶長7年1月6日 従五位上

慶長9年8月1日 右少弁

慶長10年9月10日 蔵人

慶長11年1月6日 正五位下

慶長12年1月17日 正五位上

慶長14年1月9日 左少弁

慶長14年1月13日 右中弁

慶長16年4月21日 従四位下

慶長16年7月3日 従四位上

慶長16年11月11日 正四位下

慶長17年1月19日 右大弁

慶長17年7月25日 蔵人頭

慶長17年12月7日 正四位上

慶長18年7月19日 参議。右大弁を去る

慶長19年1月5日 従三位

元和2年12月26日 権中納言

元和3年1月5日 正三位

元和6年8月15日 従二位

寛永元年6月23日 賀茂伝奏

寛永3年1月17日 賀茂伝奏を辞す

寛永4年7月6日 権大納言

寛永6年11月8日 院執権

寛永7年1月6日 正二位

寛永10年12月23日 権大納言を辞す

(寛永11年7月12日) (大納言) ●「日記」

(寛永11年7月16日) (中納言) ●「日記」

寛永18年8月23日 薨去
長橋局
勾当内侍の異称
ながはしのつぼね




中御門宗条 寛永2年3月28日 生。侍従。少将。中将。蔵人頭。参議。中納言。大納言。内大臣
なかみかどむねえだ
浩妙院。松木と称す
諸家伝下・686
中将宗保の男
宮廷公家系図集覧341
母は広橋内大臣兼勝の三女


室は河鰭中将基秀の女

寛永7年1月5日 従五位下

寛永10年12月29日 元服。侍従。従五位上

寛永14年1月5日 正五位下

(寛永18年4月25日) (少将) ●「日記」

寛永18年12月25日 左少将

寛永19年1月5日 従四位下

正保2年1月6日 従四位上

正保4年4月3日 左中将

慶安元年1月5日 正四位下

承応元年11月26日 蔵人頭

承応元年12月8日 禁色

承応元年12月21日 正四位上

承応3年12月18日 参議。左中将

明暦元年2月8日 従三位

明暦2年12月26日 権中納言

万治2年1月5日 正三位

寛文元年12月24日 権大納言

寛文2年12月1日 権大納言を辞す

寛文8年12月22日 従二位

延宝2年2月26日 正二位

元禄元年2月1日 内大臣

元禄元年2月16日 内大臣を辞す

元禄13年6月24日 薨去
中御門宗保 慶長14年11月5日 生。侍従。少将。中将。松木と称す
なかみかどむねやす
従五位下宗敦の嗣。花山院左大臣定熈の六男
諸家伝下・686
室は広橋内大臣兼勝の三女
宮廷公家系図集覧341 慶長19年9月9日 従五位下

元和3年1月5日 従五位上

元和3年3月4日 元服。昇殿。侍従

元和6年1月5日 正五位下

寛永3年11月28日 左少将

寛永4年1月5日 従四位下

寛永5年2月10日 左中将

寛永8年1月6日 従四位上

寛永12年1月5日 正四位下

正保3年10月13日
永見重時 慶長16年 生。権七郎。宗久
ながみしげとき
新右衛門重成の長男
寛政譜10・131
母は渡辺氏


妻は日根野長五郎弘吉の女

寛永4年 西丸小姓組


200俵


本丸に勤仕

寛永10年2月7日 400石

慶安3年9月3日 家綱に付属される。西丸に伺候

承応元年12月27日 父重成の遺跡分知。900石

万治3年3月25日 先弓頭

万治3年12月26日 900石300俵

万治3年12月28日 布衣

延宝8年1月21日 先弓頭を辞す。寄合

延宝8年12月25日 致仕。300俵。宗久と号す

元禄7年10月10日 死す
永見重成 文禄3年 生。権右衛門。新三郎。新右衛門
ながみしげなり
新右衛門勝定の養子。今村彦兵衛重長の次男
寛政譜10・129
母は平岩左馬介の女


妻は新右衛門勝定の女

慶長12年 はじめて家康に拝謁。養父勝定の遺跡を継ぐか。2050石


秀忠に仕える。小姓組

慶長19年 大坂の役にて板倉周防守重宗に属す

元和元年 軍令に違反するもゆるされる

寛永5年 徒頭

寛永7年 先弓頭。与力10騎同心20人

寛永10年12月27日 2550石

寛永10年12月27日 五百石御加増 ●「日記」

寛永13年9月10日 持弓頭。与力10騎同心55人

寛永13年9月10日 安藤伝十郎元組与力同心御預ケ ●「日記」

寛永15年12月22日 中山勘解由御弓頭被仰付永見新右衛門元組渡ル ●「日記」

承応元年2月14日 死す
永見重広 寛永11年 生。新三郎。左京。新右衛門。栄春
ながみしげひろ
新右衛門重成の次男
寛政譜10・129
母は永見新右衛門勝定の女


妻は石川大隅守正次の女

寛永20年3月3日 はじめて家光に拝謁

寛永20年3月3日 永見新右衛門子太刀目録を以初て御礼 ●「日記」

承応元年12月27日 父重成の遺跡を継ぐ。2050石

承応3年2月23日 小姓組

寛文2年6月1日 徒頭

寛文2年12月27日 布衣

寛文7年12月8日 徒頭を辞す。小普請

延宝7年11月27日 致仕。500石。栄春と号す

宝永7年1月5日 死す
なかみね





(正保元年6月25日) (琉球中山王使者馬上之従者黄はちまき) ●「日記」



永見吉次
生。忠左衛門。志摩守。はじめ毛受を称すか
ながみよしつぐ
毛受氏の男
越前人物志上・544
母は永見氏


松平伊予守忠昌に仕える


1万5000石。与力同心20人

(寛永19年4月23日) (松平伊与守家老) ●「日記」

慶安3年2月13日
中村伊予
筆屋
なかむらいよ




中村五郎吉

なかむらごろきち
松平阿波守蜂須賀忠英の家臣



中村美作

なかむらみまさか


(寛永19年8月28日) (松平阿波守証人) ●「日記」



中村弥右衛門

なかむらやえもん
代官か

寛永11年1月29日 台徳院様御三回忌於増上寺御法事中相談有之 ●「日記」



中村之重
生。木工右衛門
なかむらゆきしげ
木工右衛門之成の男
寛政譜10・50
母は佐治与九郎一成の女


妻は五味備前守豊直の女


秀忠に拝謁


家光に拝謁


摂津国多田銀山代官

天和2年10月18日 追放


以下不詳
中村之成
生。木工右衛門
なかむらゆきなり
木工右衛門之直の男
寛政譜10・50
妻は佐治与九郎一成の女


家康に仕える

~慶長19年 秀忠に仕える

元和元年~ 死す
中山勝阜 寛永8年 生。十兵衛。平右衛門。はじめ永井を称す
なかやまかつおか
五平次勝信の養子。永井豊前守直貞の次男
寛政譜12・248
母は長崎半左衛門元通の女


妻は船橋三位秀相の女

寛永18年10月3日 家綱に付属される。小姓

寛永18年10月3日 (名前のみの記載) ●「日記」

慶安3年9月4日 書院番。300俵


勝信の養子となる

寛文2年12月9日 養父勝信の遺跡を継ぐ。500石

延宝7年9月28日 徒頭

延宝7年12月19日 500石300俵

延宝7年12月28日 布衣

天和2年4月21日 1000石300俵

元禄2年5月14日 先鉄炮頭

元禄10年7月26日 1300石

元禄15年1月11日 鎗奉行

宝永4年1月11日 旗奉行

宝永4年3月28日 与力1騎同心15人

宝永4年5月9日 死す
中山勝信
生。亀次郎。五平次
なかやまかつのぶ
五平次勝尚の男
寛政譜12・248 慶長7年 父勝尚の遺跡を継ぐ。500石


大番

~寛永2年 大番組頭

寛永14年9月18日 裏門切手番頭

寛永14年9月18日 御裏切手ノ御番ニ被相加并同心十人被付之 ●「日記」

万治3年12月26日 裏門切手番頭を辞す。小普請

寛文2年2月22日 死す
中山勝久
生。長吉。権左衛門
なかやまかつひさ
茂左衛門忠勝の男
寛政譜12・245
母は荒木十左衛門元政の女


妻は長崎弥左衛門元政の女

寛永9年12月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

(寛永9年12月1日) (長介) ●「日記」

寛永13年12月27日 大番 ●「日記」共

万治2年12月25日 父忠勝の遺跡を継ぐ。900石

万治3年12月25日 大番組頭

延宝2年6月26日 死す
中山勝之
生。茂兵衛
なかやまかつゆき
十郎右衛門政長の男
寛政譜12・241
母は武藤氏


妻は酒井与左衛門豊治の女

寛永18年4月 大番

寛永20年12月18日 弐百俵 ●「日記」

慶安3年12月11日 父政長の遺跡を継ぐ。300石

寛文元年10月12日 新番

延宝元年4月16日 新番組頭

延宝元年12月19日 300石200俵

延宝6年10月26日 千代姫君霊仙院の用人。1300石200俵

貞享3年12月26日 布衣

元禄6年10月3日 守殿にて老女関野を切害し自殺。采地収公
中山熊蔵

なかやまくまぞう 寛永9年8月19日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」






中山重時 天正7年 生。猪右衛門
なかやましげとき
猪右衛門勝政の三男
寛政譜12・238
母は荒川左衛門大夫の女


妻は堤氏

文禄4年 家康に仕える

(慶長18年) 父勝政の遺跡を継ぐ。500石

~(寛永11年) 大坂弓奉行

寛永15年1月9日 死す
中山忠勝
生。茂左衛門
なかやまただかつ
茂左衛門忠光の男
寛政譜12・245
妻は荒木十左衛門元政の女

慶長6年 父忠光の遺跡を継ぐ。500石

慶長18年 大番

元和3年~寛永元年 700石

寛永10年2月7日 900石

万治2年11月4日 死す
中山忠直 文禄2年 生。六郎右衛門。道及
なかやまただなお
猪右衛門勝政の五男
寛政譜12・242
母は荒川左衛門大夫の女

慶長16年 秀忠に仕える。大番

慶長16年 200俵

寛永10年2月7日 400石

正保3年3月15日 天守番頭

寛文元年11月21日 天守番頭を辞す

寛文5年4月6日 致仕。道及と号す

天和2年9月22日 死す
中山寺
摂津国。真言宗
なかやまでら




中山照守 元亀元年 生。助六郎。勘解由
なかやまてるもり
勘解由家範の長男
寛政譜11・87
母は後藤主膳の女


妻は遠山民部少輔利景の女


北条氏輝に仕える

天正18年 潜居

天正18年8月 家康に拝謁。300石

天正18年8月 秀忠に付属される。使番

慶長5年 真田伊豆守信之に召し預け

慶長6年9月 赦免。300石

慶長7年2月15日 400石

元和元年 大坂の役にて使番

元和元年12月27日 1000石

~元和4年 目付

寛永3年~ 1500石

寛永9年7月1日 鎗奉行

寛永9年7月1日 足軽同心10人 ●「日記」

寛永9年10月3日 3500石

寛永9年10月3日 2000石加増 ●「日記」

寛永10年4月7日 旗奉行 ●「日記」共

寛永10年5月3日 時々可罷出 ●「日記」


(秀忠・家光に馬術を言上)

寛永11年1月21日 死す
中山直定 慶長4年 生。助六郎。勘解由
なかやまなおさだ
勘解由照守の長男
寛政譜11・88
母は遠山民部少輔利景の女


妻は石巻市之丞の女

慶長10年 はじめて秀忠に拝謁

元和元年12月27日 400石。小姓組

~寛永3年 家光に付属される

寛永6年 徒頭。500石

寛永10年8月6日 小姓組組頭 ●「日記」共

寛永11年3月26日 父照守の遺跡を継ぐ。3500石

寛永11年3月26日 親勘解由跡職三千五百石被下之 ●「日記」

寛永11年4月1日 継目之御礼 ●「日記」

(寛永13年12月13日) (勘解由の初出) ●「日記」

(寛永13年12月13日) (布衣) ●「日記」

寛永15年12月22日 先弓頭

寛永15年12月22日 御弓頭被仰付永見新右衛門元組渡ル ●「日記」

正保2年1月19日 死す
中山直範 元和5年 生。勘三郎
なかやまなおのり
勘解由照守の次男
寛政譜11・97
母は遠山民部少輔利景の女


妻は本郷勝右衛門勝吉の女

寛永2年 はじめて家光に拝謁

寛永11年3月26日 500石

寛永11年3月26日 助六自分之知行五百石助六弟勘三郎ニ被下之 ●「日記」

寛永11年4月1日 継目之御礼 ●「日記」

寛永15年1月15日 書院番 ●「日記」共

慶安3年9月3日 家綱に付属される。小姓組。西丸に勤仕

~明暦2年 御前にて馬術を言上

明暦3年7月19日 馬の事をあずかる。小姓組をゆるされる。寄合

明暦3年12月27日 布衣

万治2年1月17日 妻子とともに松平式部大輔榊原忠次に召し預けられる

寛文3年7月20日 お預けをゆるされる。宗家勘解由直守の采地武蔵国新座郡溝沼村に閑居

元禄6年7月21日 死す
中山直守 寛永10年 生。新藤左衛門。助六郎。勘解由。丹波守
なかやまなおもり
勘解由直定の長男
寛政譜11・89
母は石巻市之丞の女


妻は大久保右京亮教隆の女

寛永17年7月22日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保2年12月19日 父直定の遺跡を継ぐ。3000石

承応3年2月23日 小姓組

万治元年3月6日 徒頭

万治元年閏12月28日 布衣

寛文3年9月3日 先鉄炮頭

天和2年4月21日 3500石

天和3年1月23日 盗賊追捕役

貞享元年12月12日 4000石

貞享3年12月3日 大目付

貞享3年12月26日 従五位下・丹波守

貞享4年7月2日 死す
中山信治 寛永5年 生。左助。大膳。備前守
なかやまのぶはる
兄市正信政の養子。備前守信吉の四男
寛政譜11・101
母は塩谷阿波守義上の女


妻は向井将監忠勝の女

寛永19年 はじめて家光に拝謁

(寛永20年3月28日) (水戸中納言殿家来) ●「日記」

正保2年12月25日 従五位下・備前守

慶安4年 養父信政の家を継ぐ。常陸国松岡2万石

天和元年 致仕

元禄2年6月11日
中山信政 文禄3年 生。内記。市正。風軒
なかやまのぶまさ
備前守信吉の長男
寛政譜11・100
母は北条家臣久下下総守の女


妻は向井兵庫頭正綱の女

慶長14年 秀忠に仕える。小姓組。500俵

寛永5年11月 徳川頼房に付属される。家老

寛永11年7月22日 従五位下・東市正

(寛永11年7月23日) (市正の初出) ●「日記」

寛永19年 父信吉の遺跡を継ぐ。2万石


常陸国松岡2万石

慶安4年 致仕。風軒と号す

延宝5年10月28日
中山信吉 天正6年 生。左助。菊太郎。雅楽助。備前守
なかやまのぶよし
勘解由家範の次男
寛政譜11・100
母は片倉氏


妻は北条家臣久下下総守の女


後妻は塩谷阿波守義上の女

天正18年8月 家康に仕える。小姓。菊太郎と称す


雅楽助と称す


歩行頭

慶長12年 徳川頼房に付属される。家老。6500石

慶長13年1月29日 与力17騎を預かる。1万石

元和2年3月26日 従五位下・備前守

元和7年 2万石

寛永19年1月6日

(正保元年3月27日) ((水戸殿より中山備前守被差上之)とあり。信吉存命か、信政・信治のことか)
長山八之丞

ながやまはちのじょう
松平筑前守黒田忠之に仕える

(寛永17年11月9日) (松平右衛門佐家中証人) ●「日記」



中山法華経寺
下総国中山。日蓮宗
なかやまほけきょうじ




中山元親 文禄2年12月12日 生。侍従。少将。蔵人頭。中将。参議。中納言。大納言
なかやまもとちか
大納言慶親の長男
諸家伝上・336 慶長2年1月5日 従五位下
宮廷公家系図集覧328 慶長16年4月29日 元服。侍従。従五位上

慶長18年12月2日 左少将

元和元年1月5日 正五位下

元和3年1月5日 従四位下

元和5年12月25日 従四位上

元和9年1月5日 正四位下

寛永3年8月10日 蔵人頭。左中将

寛永3年12月9日 正四位上

寛永4年1月18日 蔵人頭を辞す

寛永4年1月29日 参議。左中将

寛永5年1月6日 従三位

寛永8年1月6日 正三位

寛永8年12月24日 権中納言

寛永11年 従二位

寛永16年8月23日 権大納言

寛永16年8月26日 薨去
中山守勝
生。勘兵衛
なかやまもりかつ
勘解由照守の養子。高山氏の男
寛政譜11・104 ~(寛永12年) 家光に仕える。馬預。200俵

万治3年12月26日 300俵

寛文6年3月2日 死す
中山幸時
生。左兵衛。猪右衛門
なかやまゆきとき
猪右衛門重時の長男
寛政譜12・238
母は堤氏


妻は内藤半弥正次の女


後妻は内田平左衛門正世の女

寛永11年 小姓組

寛永15年7月2日 父重時の遺跡を継ぐ。500石

寛永15年7月2日 中山伊右衛門五百石左兵衛跡職被仰付之 ●「日記」

慶安3年9月3日 西丸書院番

~寛文9年 小姓組

元禄4年8月16日 死す
中山吉勝 元和4年 生。主馬。隠岐守。遠江守
なかやまよしかつ
備前守信吉の次男
寛政譜11・103
母は塩谷阿波守義上の女


妻は松平作十郎清須の女

寛永8年5月14日 はじめて家光に拝謁

寛永8年5月14日 秀忠に拝謁 ●「日記」

寛永11年 小姓組


300俵

慶安元年5月21日 進物役

寛文6年2月27日 小姓組組頭

寛文6年12月23日 600俵

寛文6年12月28日 布衣

延宝7年6月14日 先鉄炮頭

天和元年7月30日 盗賊追捕役

天和2年4月21日 500石600俵

天和2年11月6日 勘定頭。2100石

天和2年12月27日 従五位下・隠岐守

貞享2年9月30日 勘定頭を辞す。寄合

元禄8年7月9日 致仕。300俵

元禄12年7月12日 死す
中山義信
生。新右衛門
なかやまよしのぶ 寛永11年
寛政譜22・189
表火番

寛永18年4月14日 火之番御役被仰付之御歩行より新規ニ出之 ●「日記」


奥火番

某年 死す
半井慶友 慶長12年 生。宗珠。卜養。法眼
なからいけいゆう
卜養奇雲の男
寛政譜21・19
医師。堺に住す


しばしば江戸に来る

(寛永18年12月21日) (慶祐) ●「日記」 もしくは曾谷慶伝のことか

承応2年11月15日 はじめて家綱に拝謁

寛文6年12月25日 番医

寛文7年12月26日 200俵

延宝元年12月28日 法眼

延宝5年3月7日 番医を辞す。寄合

延宝6年12月10日 致仕

延宝6年12月26日 死す
半井成忠 元和9年 生。勝千代。三位。驢庵。瑞成。通仙院。瑞堅。僧都
なからいなりただ
驢庵成近の長男
寛政譜11・195
母は横浜一庵正勝の女


妻は小出信濃守吉親の女

寛永10年3月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共


剃髪。三位と号す

寛永16年10月12日 父成近の遺跡を継ぐ。1500石

寛永16年10月12日 半井驢庵跡職千五百石惣領被下之 ●「日記」

(寛永17年1月7日) (三位の初出) ●「日記」

寛永17年1月7日 継目之御礼 ●「日記」

寛永17年5月28日 天脉を診す

正保2年閏5月8日 命により驢庵と号す

慶安4年12月29日 僧都

延宝6年7月2日 死す
半井成近
生。勝麿。典薬頭。出羽守。驢庵。瑞寿
なからいなりちか
瑞玄利親の男
寛政譜11・195
母は藤堂和泉守高虎の女


妻は横浜一庵正勝の女

寛永元年10月 はじめて家光に拝謁。家光に仕える。剃髪。驢庵と号す

寛永9年10月27日 1000石 ●「日記」共

(寛永14年) 勘気を蒙る

寛永14年7月4日 尾紀両亜相水戸黄門登営是驢庵道三累日所献御薬御相応之間―


―被宥御勘発彼両輩調合之良薬被召上様ニト御訴訟云々 ●「日記」

寛永15年9月17日 ゆるされる

寛永15年9月17日 被赦御勘気被召出之 ●「日記」

寛永16年6月9日 久志本常尹と交代で勤番

寛永16年6月9日 驢庵被為召久志本式部替々可相詰之旨被仰出之云々 ●「日記」

寛永16年6月15日 祖父成信の遺跡を賜る。1500石

寛永16年6月15日 半井通仙院跡五百石驢庵ニ被下之以上千五百石 ●「日記」

寛永16年7月9日 通仙院遺跡依被仰付以進物御礼 ●「日記」

寛永16年10月9日 死す
半井成信
生。宮内大輔。驢庵。瑞桂。任世翁。通仙院
なからいなりのぶ
驢庵光成の男
寛政譜11・195
駿府にて家康に拝謁

寛永元年 通仙院と号す。驢庵の号を嫡孫成近にゆずる

寛永15年4月11日 死す
名倉善左衛門

なぐらぜんざえもん
松平石見守池田輝澄に仕える

(寛永17年7月26日) (松平石見守家中) ●「日記」

寛永17年7月26日 父子共死罪 ●「日記」



名倉善左衛門子



善左衛門の男

(寛永17年7月26日) (松平石見守家来) ●「日記」

寛永17年7月26日 切腹 ●「日記」



浪越三昌
生。弥右衛門。浄味。古浄味
なごやみつまさ
弥七郎善正の長男
工芸鏡1・35
鋳物師。茶釜鋳造

慶長19年 豊臣秀頼の命により方広寺大仏殿の巨鐘を鋳造

(寛永12年12月28日) (弥七郎) ●「日記」

(寛永12年12月28日) (連歌師里村玄仲のあと庄田隼人の前に御礼) ●「日記」

寛永15年8月9日 死す
那須一郎兵衛

なすいちろうびょうえ
松平相模守池田光仲に仕える

(寛永19年5月22日) (松平相模守家来) ●「日記」



那須資景 天正14年 生。藤王丸。与一。左京大夫
なすすけかげ
修理大夫資晴の男
寛政譜12・132
母は結城中務大輔晴朝の女


室は小山氏

天正18年10月23日 秀吉に拝謁。父資晴に下野国那須5000石の朱印

天正19年4月23日 5000石加増

慶長5年 はじめて家康・秀忠に拝謁。妻等を人質として江戸に送る

慶長5年 300石加増

慶長7年 1000石加増

慶長11年12月25日 従五位下・左京大夫

(慶長14年) 父資晴の遺跡を継ぐ。下野国那須1万4000石

寛永元年 致仕

寛永20年3月15日 息資重死去。下野国那須5000石

寛永20年3月15日 那須美濃守跡式之儀末期之刻遺言御用有間敷之旨従兼て就被仰出之―


―雖令養子相続之儀不被仰付之也併老衰之父令存生之由依達上聴―


―不便ニ被思召不絶家名之様五千石老父え被下之由上意也 ●「日記」

承応元年2月18日 致仕

明暦2年1月25日
那須資景娘
寛政譜12・132
那須左京大夫資景の女
寛政譜2・121
母は小山氏

寛永15年6月21日 縁辺組被仰付面々那須美濃守妹喜連川右兵衛 ●「日記」


喜連川右兵衛督尊信に嫁ぐ


以下不詳
那須資重 慶長14年 生。与市。美濃守
なすすけしげ
左京大夫資景の男
寛政譜12・133
母は小山氏


室は土方掃部頭雄重の女


継室は大関弥平次政増の女


はじめて家光に拝謁

寛永元年1月1日 従五位下・美濃守

寛永元年 父資景の封を継ぐ。下野国那須1万4000石

寛永19年7月25日
奈須恒昌 文禄2年 生。民部卿。玄竹。久昌院。法眼。法印
なすつねまさ
二郎四郎重貞の男
寛政譜18・305
弱年のときより江戸に住す。曲直瀬道三に医を学ぶ

寛永10年 はじめて秀忠に拝謁 (家光にか)

寛永15年12月1日 家光に仕える。医師。100俵月俸10口

寛永15年12月1日 先年被召出医師玄竹御切米百俵拾人扶持被下之 ●「日記」

寛永17年6月1日 玄竹意安替々殿中ニ可相詰 ●「日記」

正保3年1月23日 200俵月俸10口

慶安3年 家光より雷除解毒丸の方を教わる

慶安4年8月16日 法眼

慶安4年9月15日 当番をゆるされる。なお折々登営

万治2年1月28日 法印

寛文2年2月20日 400俵月俸10口

寛文4年12月28日 500石

寛文6年 年ごとに詰茶を賜る

寛文9年3月20日 病により登営のとき裏門のうちまで乗輿をゆるされる

寛文9年8月10日 老衰により御次まで頭巾の着用をゆるされる

延宝元年10月21日 致仕。200俵

延宝7年2月27日 死す
夏目勘解由

なつめかげゆ
奥平美作守忠昌に仕える

(寛永19年4月19日) (美作守家来) ●「日記」



夏目安信 慶長10年 生。右衛門八郎。甚五左衛門
なつめやすのぶ
長右衛門信次の次男
寛政譜6・161
母は鹿倉土佐守の女


妻は久保新左衛門正俊の女

元和7年 はじめて秀忠に拝謁

元和9年 大番

寛永8年 父信次の遺跡を継ぐ。530石

寛永10年2月7日 730石

寛永19年10月8日 大番組頭

寛永19年10月8日 保科弾正忠組大御番組頭 ●「日記」

正保4年10月14日 先鉄炮頭

正保4年12月30日 布衣

慶安元年5月20日 死す
夏目吉次 元亀3年 生。木工左衛門
なつめよしつぐ
次郎左衛門吉信の五男
寛政譜6・168
母は松下石見守之綱の女

~文禄元年 加藤肥後守清正に仕える

慶長10年~ 家康に仕える。秀忠に付属される

元和元年8月15日 560石。大番

寛永2年~ 西丸裏門番頭

~寛永11年 大箪笥奉行

寛永20年6月14日 死す
夏目吉尚
生。才兵衛
なつめよしなお
木工左衛門吉次の次男
寛政譜6・170
家光に仕える。二丸宮番。100俵

寛永19年12月15日 200俵

寛永19年12月15日 二丸御宮御番衆夏目才兵衛ニ御切米百俵被増下之 ●「日記」

承応3年3月18日 死す
夏目吉成 寛永元年 生。市十郎。木工左衛門。離世
なつめよしなり
源兵衛吉政の男
寛政譜6・168
母は川口孫作宗信の女

寛永18年3月1日 はじめて家光に拝謁

寛永18年3月1日 樽代前ニ置一同ニ御目見 ●「日記」

寛永19年6月26日 大番 ●「日記」共

寛永20年12月7日 祖父木工左衛門吉次の遺跡を継ぐ。560石

寛永20年12月7日 五百六十石杢左衛門跡夏目市十郎右祖父杢左衛門跡也―


―亡父源兵衛四百石知行所替被下之 ●「日記」


大番組頭

万治3年12月15日 先鉄炮頭

万治3年12月26日 560石300俵

万治3年12月28日 布衣

天和元年5月22日 持筒頭

天和2年4月21日 1060石300俵

元禄元年1月11日 鎗奉行

元禄5年4月10日 鎗奉行を辞す。寄合

元禄6年7月11日 致仕。300俵。離世と号す

宝永5年9月10日 死す
夏目吉政 元和元年 生。源兵衛
なつめよしまさ
木工左衛門吉次の長男
寛政譜6・168
妻は佐野主馬吉綱の女


また川口孫作宗信の女を娶る

元和7年 はじめて秀忠に拝謁

寛永元年 大番


200俵

寛永10年2月7日 400石

(寛永18年3月1日) (大久保右京亮教隆組もしくは皆川山城守隆庸組) ●「日記」

寛永20年10月24日 死す
名取長知
生。伊織。半左衛門
なとりながとも
半左衛門長次の長男
寛政譜17・21
妻は中嶋十右衛門盛昌の女


父長次とおなじく徳川忠長に仕える

(寛永9年) 処士

寛永11年 家光に仕える。300石


大番

寛永19年8月18日 蔵奉行

寛永19年8月18日 浅草方御蔵奉行 ●「日記」

慶安元年3月13日 家綱に付属される

万治2年10月21日 大番組頭

万治2年12月23日 300石200俵

万治3年7月8日 代官。600石200俵

寛文3年12月28日 布衣

寛文7年12月26日 死す
鍋嶋勝茂 天正8年 生。伊平太。信濃守。侍従
なべしまかつしげ
加賀守直茂の長男
寛政譜13・286
母は石井兵部少輔忠常の女


室は戸田民部少輔勝隆の女


継室は家康の養女岡部内膳正長盛の女高源院


秀吉に仕える

文禄4年2月14日 従五位下・信濃守

慶長10年5月18日 家康の養女が入輿

慶長12年 父直茂の封を継ぐ。肥前国佐嘉城35万7000石

慶長15年 肥前国佐嘉城33万7000石

慶長19年 肥前国佐嘉城26万3800石

寛永3年8月27日 従四位下・侍従

寛永12年 肥前国佐嘉城21万1200石

寛永15年6月29日 逼塞

寛永15年6月29日 先可相止出仕 ●「日記」

寛永15年12月30日 ゆるされる

寛永15年12月30日 今度有馬表之儀付違御気色雖令逼塞今日被宥其科之 ●「日記」

寛永19年3月26日 長崎湊口警衛

寛永20年 長崎番衛

明暦3年2月19日 致仕

明暦3年3月24日
鍋嶋勝茂長女
寛政譜13・288
鍋嶋信濃守勝茂の長女
寛政譜12・222
母は家康の養女岡部内膳正長盛の女高源院


上杉弾正少弼定勝に嫁ぐ


女子を産む。のちの松平飛騨守前田利治の室。尼となり隠之と称す


女子を産む。のちの松平丹後守鍋嶋光茂の室


上杉徳松を産む。早世



鍋嶋勝茂五女
寛政譜13・289
鍋嶋信濃守勝茂の五女
寛政譜1・161
母は家康の養女岡部内膳正長盛の女高源院

寛永10年7月1日 松平主殿頭忠房と縁組 ●「日記」

寛永12年8月15日 鍋嶋信濃守松平主殿頭御礼依縁辺之儀也 ●「日記」

慶安2年~ 夫忠房の長男大炊頭好房の養母となる

明暦3年~ 夫忠房の次男右京亮忠倫の養母となる



鍋嶋忠直 慶長18年 生。翁助。肥前守。松平を称す
なべしまただなお
信濃守勝茂の次男
寛政譜13・288
母は家康の養女岡部内膳正長盛の女高源院


室は松平下総守忠明の長女

元和3年3月28日 はじめて秀忠に拝謁

元和8年12月26日 従五位下・肥前守。偏諱・松平の称号を賜る

寛永12年1月28日

寛永12年1月29日 死去 ●「日記」
鍋嶋直澄 元和元年 生。千熊丸。加賀守。甲斐守。義峯
なべしまなおすみ
信濃守勝茂の五男
寛政譜13・296
母は家康の養女岡部内膳正長盛の女高源院


室は松平下総守忠明の長女

(寛永12年11月25日) (甲斐守) ●「日記」

寛永12年11月25日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永12年12月30日 従五位下・甲斐守

寛永13年1月15日 諸大夫被仰付御礼申上 ●「日記」


父勝茂より分知。肥前国佐嘉城三丸5万2600石

寛永17年11月24日 鍋嶋甲斐守縁辺松平下総守娘松平肥前守室也可相結之旨上意也 ●「日記」

寛永18年 命により婚姻

寛永18年5月3日 鍋嶋信濃守同甲斐守御礼太刀目録御袷五重宛進上之是甲斐守縁辺―


―被仰出頃日祝言相調付て也 ●「日記」


肥前国蓮池5万2600石

寛文6年2月28日 致仕。義峯と号す

寛文9年3月5日
鍋嶋直朝 元和8年 生。仁王。刑部大輔。和泉守。紹龍
なべしまなおとも
信濃守勝茂の九男
寛政譜13・299
母は家康の養女岡部内膳正長盛の女高源院


室は宗家鍋嶋家臣鍋嶋隼人高顕の女

寛永10年 鍋嶋孫平太正茂の養子となる

寛永12年9月1日 はじめて家光に拝謁

寛永12年9月1日 鍋嶋孫平太子刑部少輔以太刀目録始て御礼申上 ●「日記」

寛永17年12月29日 従五位下・和泉守

寛永17年12月29日 諸大夫 ●「日記」

(寛永18年1月11日) (刑部大輔の初出か) ●「日記」

寛永19年 養父正茂に実子誕生のため実家に帰る


父勝茂より分知。肥前国鹿嶋2万石

寛文12年12月9日 致仕。紹龍と号す

宝永6年11月19日
鍋嶋直能 元和8年 生。飛騨。飛騨守。加賀守
なべしまなおよし
紀伊守元茂の長男
寛政譜13・294
母は宗家の臣鍋嶋主水茂里の女


室は鍋嶋信濃守勝茂の養女多久美作茂辰の女

寛永17年2月10日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

慶安4年12月28日 従五位下・加賀守

承応3年11月 父元茂の遺領を継ぐ。肥前国佐嘉城西丸7万3200石


肥前国小城7万3200石

延宝7年12月26日
鍋嶋伯庵

なべしまはくあん
寛政譜13・286龍造寺駿河守高房の男という

正保元年8月18日 鍋嶋伯庵事日来就御奉公之望不断相越達御聴之処可被召出子細無之―


―雖然如此牢人今度所々領内差遣可置之旨上意也因玆伯庵は―


―保科肥後守領内可有之 ●「日記」



鍋嶋正茂 慶長10年 生。孫平太。宗甫
なべしままさしげ
和泉守忠茂の長男
寛政譜13・300 慶長14年 はじめて秀忠に拝謁

寛永元年 父忠茂の遺領を継ぐ。肥前国鹿嶋2万5000石

寛永19年 養子和泉守直朝に分知。下総国5000石


書院番

寛文4年12月27日 致仕。宗甫と号す

貞享3年11月18日 死す
鍋嶋光茂 寛永9年 生。翁助。丹後守。侍従。松平を称す
なべしまみつしげ
松平肥前守鍋嶋忠直の男
寛政譜13・289
母は松平下総守忠明の長女


室は上杉弾正少弼定勝の女

寛永14年 外祖父忠明の請によりはじめて奥にて家光に拝謁

正保元年3月3日 鍋嶋翁介信濃守惣領孫初て御礼 ●「日記」

慶安元年12月22日 家光の御前にて元服。偏諱を賜る。従四位下。丹後守。松平を称す

明暦3年2月19日 祖父信濃守勝茂の家を継ぐ。肥前国佐嘉城21万1200石。大広間に伺候

明暦3年2月 祖父勝茂のときのごとく長崎番衛

万治元年2月5日 侍従

元禄8年11月29日 致仕

元禄13年5月16日
鍋嶋元茂 慶長7年 生。三平。紀伊守
なべしまもとしげ
信濃守勝茂の長男
寛政譜13・294
母は小西氏


室は宗家の臣鍋嶋主水茂里の女

慶長19年8月 はじめて秀忠に拝謁

慶長19年 1000俵


肥前国佐嘉城西丸7万3200石

元和5年12月30日 従五位下・紀伊守

承応3年11月11日
鉛屋弥平次

なまりややへいじ







奈良墨屋
大和国奈良。製墨
ならすみや
松井道珍の子孫か
奈良県産業案内180




奈良墨屋若狭

ならすみやわかさ




奈良弥二郎

ならやじろう
商人か? 職人か



奈良弥二郎子



商人か? 職人か



成川七郎兵衛

なるかわしちろうびょうえ


(寛永19年7月8日) (石坂金左衛門手代) ●「日記」

寛永19年7月8日 死罪か ●「日記」



成瀬重治(五左衛門)
生。五左衛門
なるせしげはる
五左衛門重能の長男
寛政譜15・146
妻は伊丹理右衛門康信の女

(寛永6年) (父重能の遺跡を継ぐか。200俵)


秀忠・家光に仕える。代官。(200俵)

(寛文11年) 死す
成瀬重治(惣右衛門)
生。惣九郎。求馬之助。惣右衛門
なるせしげはる
惣右衛門重正の次男
寛政譜15・142
妻は高木忠右衛門為信の女

寛永14年12月8日 父重正の遺跡を継ぐ。500石

寛永14年12月8日 五百石惣右衛門跡成瀬求馬助 ●「日記」

寛永15年10月24日 大番 ●「日記」共

慶安3年8月30日 家綱に付属される。西丸小納戸

(慶安4年) 本丸に勤仕

万治3年12月1日 500石300俵

万治3年12月28日 布衣

寛文7年12月26日 500石500俵

延宝5年9月26日 留守居番

天和2年4月21日 1000石500俵

貞享3年8月3日 留守居番を辞す。寄合

元禄4年3月7日 死す
成瀬重正 永禄11年 生。惣右衛門
なるせしげまさ
吉助重宗の男
寛政譜15・142
妻は宮治助内の女

(天正12年) 父重宗の遺跡を継ぐか


家康に仕える。大番。300俵

寛永10年2月7日 500石

寛永14年9月20日 死す
成瀬藤九郎

なるせとうくろう 寛永11年2月26日 此以前御勘当御赦免日来大御番勤仕 ●「日記」

寛永11年2月26日 200俵 ●「日記」



成瀬正虎 文禄3年 生。小平次。半左衛門。隼人正。一岳
なるせまさとら
隼人正正成の長男
寛政譜15・135
母は森川金右衛門氏俊の女
士林泝洄1・43
妻は相応院の養女


後妻は同人の養女


権田小三郎の養子となる


松平下総守忠明の養子となる


父正成のもとに戻る

慶長16年 秀忠に仕える。小姓組。4000石

慶長19年12月 徳川義直に仕える

元和3年 5000石。父正成に副て国政を沙汰

寛永2年3月 父正成の遺跡を継ぐ。尾張国犬山城(3万石)

寛永3年8月19日 従五位下・隼人正

万治2年 致仕

寛文元年9月24日 剃髪。一岳と号す

寛文3年5月9日
成瀬正虎養女
寛政譜15・136
成瀬隼人正正虎の養女。成瀬伊豆守之成の次女
寛政譜15・16
母は片桐出雲守孝利の養女片桐市正且元の女

寛永12年8月6日 成瀬伊豆娘小出対馬子嫁娶被仰付之 ●「日記」


伯父隼人正正虎の養女となるか


小出信濃守英知に嫁ぐ


以下不詳
成瀬正則 慶長14年 生。長吉。吉左衛門
なるせまさのり
吉右衛門正一の五男
寛政譜15・131
母は倉賀野甚五兵衛の姉
士林泝洄1・49 慶長19年8月8日 はじめて家康に拝謁


徳川義直に仕える。騎士6名軽卒50人


尾張国名古屋城留守。騎士30名軽卒(50人?)。3000石

寛文11年11月5日 死す
成瀬正吉 慶長6年 生。吉平
なるせまさよし
吉平久次の長男
寛政譜15・139
母は小笠原弾正少弼氏資の女


妻は佐橋甚兵衛吉次の女

慶長19年 はじめて秀忠に拝謁

元和3年 父久次の遺跡を継ぐ。500石

元和3年 書院番

寛永2年~寛永3年 小姓組。西丸に勤仕


本丸に勤仕

寛永10年2月7日 700石


大番

寛永20年10月21日 家綱に付属される。三丸番

寛永20年10月21日 従大御番被召出三丸御番被仰付之 ●「日記」

慶安3年9月4日 大番

承応3年1月11日 死す
成瀬之虎 寛永11年 生。藤蔵
なるせゆきとら
伊豆守之成の次男
寛政譜15・137
母は片桐出雲守孝利の養女片桐市正且元の女

寛永11年12月 父之成の遺領を継ぐ。(下総国栗原)1万6000石

寛永12年2月15日 継目之御礼 ●「日記」

寛永15年12月2日 卒。断絶
成瀬之成 慶長元年 生。於竹。藤蔵。伊豆守
なるせゆきなり
隼人正正成の次男
寛政譜15・137
母は森川金右衛門氏俊の女


室は阿部備中守正次の女


継室は片桐出雲守孝利の養女片桐市正且元の女

慶長16年 はじめて家康に拝謁

慶長16年 秀忠に仕える。小姓。1000石

元和元年閏6月21日 従五位下・伊豆守

元和2年 父正成の旧領を賜る。(下総国栗原)1万5000石

元和8年 根来足軽100人

元和9年 (下総国栗原)1万6000石

寛永3年春 家光に仕える

寛永9年2月12日 与力20騎

寛永10年2月12日 馬上廿騎 ●「日記」

寛永11年10月28日
成多喜勝蓮

なるたきしょうれん
仁和寺心蓮院

(寛永17年5月9日) (勝運) ●「日記」



成多喜竜於

なるたきりゅうお
仁和寺心蓮院



鳴海寿幸
生。新蔵。宗円
なるみながよし
円斎寿世の長男
寛政譜4・82 慶長14年 父寿世の遺跡を継ぐ。数寄屋坊主


以下不詳
南院泰重 天正8年 生。法橋。法眼。上座
なんいんやすしげ
都維那泰勝の嗣。法眼泰諄の次男
地下家伝中・1655
大乗院門跡の坊官


法橋

(寛永9年8月2日) (法橋) ●「日記」


法眼

寛永20年6月15日 上座

明暦3年11月9日
南宮
美濃国一宮。南宮大社
なんぐう


寛永20年1月18日 美濃南宮別当御造営御礼捧之 ●「日記」



南光坊天海 天文5年 生。随風。無心。天海。僧正。大僧正
なんこうぼうてんかい
蘆名氏の一族か?
南光坊天海の研究 天文15年 陸奥国黒川稲荷堂別当弁誉のもとで得度。随風と号す


無心とも称す

天文18年 諸国遊学

(元亀元年) 武田信玄に招かれる。天台論議法要の講師

天正元年 蘆名盛氏の求めにより会津黒川稲荷堂別当

天正18年 武蔵国仙波喜多院で僧正豪海に師事。天海と号す

天正19年 蘆名盛重の転封により常陸国江戸崎不動院住持

慶長4年 仙波喜多院を兼帯

慶長12年 家康の命により比叡山東塔南光坊に住す

慶長14年 権僧正

慶長15年 智楽院・南光坊

慶長16年 僧正。毘沙門堂

慶長18年11月 日光山貫主。光明院座主

(元和5年) 大僧正

寛永11年5月2日 日光東照大権現御社領社僧宮仕楽人等支配并社法之御朱印 ●「日記」

寛永11年5月17日 寺領千石御寄附之御書出被下置之 ●「日記」

寛永18年9月14日 於日光新造之寺え相移付昆布一箱御樽ニ被遣之 ●「日記」

寛永20年10月2日 遷化

寛永20年10月4日 一昨二日遷化 ●「日記」
南松院
甲斐国。臨済宗
なんしょういん


寛永19年7月6日 御朱印被下之 ●「日記」



南条宗右衛門

なんじょうそうえもん
代官か

寛永15年2月10日 黄金呉服等被下之是今度増上寺御法事之内為御賄依相談也 ●「日記」

寛永15年9月16日 今度御法事ニ付て増上寺相詰 ●「日記」

寛永17年6月11日 日光又ハ道中御賄仕候公家衆御馳走申 ●「日記」

寛永19年5月27日 南条惣右衛門私曲之事有之由申出族依有之今日於評定所―


―内藤兵部ニ被預置之 ●「日記」

(寛永19年5月29日) (御代官) ●「日記」

寛永19年7月8日 切腹 ●「日記」
南条隆友
生。小兵衛。小十郎。小兵衛
なんじょうたかとも
十兵衛隆政の次男
寛政譜9・367
妻は小長谷加兵衛時次の女

寛永5年 父隆政の遺跡を継ぐ。小普請

寛永7年 はじめて家光に拝謁

寛永13年11月 大番

寛文6年8月23日 金奉行

元禄2年閏1月3日 逼塞

元禄3年8月13日 ゆるされる。小普請。なお拝謁をはばかる

元禄4年4月24日 ゆるされる

元禄5年1月14日 死す
南条則門
生。金左衛門
なんじょうのりかど
帯刀則勝の男
寛政譜9・365
父則勝とともに代官

(寛永5年) 父則勝死去ののち大河内金兵衛久綱に属し武蔵国忍・羽生領を支配

寛永19年12月10日 200俵 ●「日記」共

某年 死す
南条兵大夫

なんじょうひょうだゆう
宗右衛門の男

寛永19年5月29日 板倉主水正え南条惣右衛門子兵大夫御預 ●「日記」

寛永19年7月8日 切腹 ●「日記」
南条兵大夫子





寛永19年7月8日 南条兵大夫子男子弐人壱人三壱人二(死罪か) ●「日記」



南泉寺
江戸湯島。臨済宗
なんせんじ




南禅寺
京都。臨済宗。五山
なんぜんじ




難波田憲利 天正2年 生。善左衛門
なんはだのりとし
因幡憲次の男
寛政譜15・94
母は三条左大臣の女


妻は山上七右衛門忠宗の女

文禄元年 家康に拝謁


秀忠に仕える。大番。200俵


大番を辞す。小普請

寛永12年5月5日 死す
難波田憲長 元和6年 生。長吉。善左衛門
なんはだのりなが
善左衛門憲利の次男
寛政譜15・96
母は山上七右衛門忠宗の女


妻は徳川忠長家臣服部次郎左衛門の女

寛永15年 はじめて家光に拝謁

寛永15年12月6日 父憲利の遺跡を賜る。100俵

寛永15年12月6日 難波田善左衛門跡御切米弐百石之内百石二男長吉ニ被下之―


―右同断(惣領は各々ニ知行令拝領付) ●「日記」

寛永16年 大番


家綱に付属される

慶安3年9月4日 幕奉行。西丸に勤仕


280俵

(慶安4年) 本丸に伺候

元禄6年11月21日 幕奉行を辞す。小普請

元禄10年2月18日 死す
難波田憲吉 慶長12年 生。太郎兵衛。太兵衛
なんはだのりよし
善左衛門憲利の長男
寛政譜15・95
母は山上七右衛門忠宗の女

寛永2年10月 大番。200俵

寛永10年2月7日 400石

寛文元年8月27日 死す
難波宗種 慶長15年 生。侍従。少将。中将。参議。中納言
なんばむねたね
飛鳥井大納言雅宣の男。難波家を相続
諸家伝上・362 元和3年1月5日 従五位下
宮廷公家系図集覧336 元和5年6月10日 元服。従五位上。侍従

寛永4年1月5日 正五位下

寛永5年2月10日 左少将

寛永8年11月6日 従四位下

寛永9年1月11日 中将

寛永11年1月6日 従四位上

(寛永11年7月21日) (左中将) ●「日記」

寛永14年1月5日 正四位下

寛永17年1月5日 従三位

寛永20年1月5日 正三位

正保2年10月25日 参議

慶安元年12月22日 参議を辞す

慶安4年1月5日 従二位

承応3年4月7日 権中納言

明暦元年4月7日 直衣

明暦2年7月3日 中納言を辞す

万治2年2月14日 薨去
南部重直 慶長11年 生。権平。山城守
なんぶしげなお
信濃守利直の三男
寛政譜4・107
母は蒲生飛騨守氏郷の女


室は加藤左馬助嘉明の女

慶長17年12月20日 はじめて秀忠に拝謁

元和4年12月23日 従五位下・山城守

寛永9年10月 父利直の遺領を継ぐ。陸奥国三戸城10万石

寛永9年11月1日 継目御礼 ●「日記」

寛永12年 陸奥国盛岡城10万石

寛永13年 蟄居

寛永14年12月22日 ゆるされる

寛永14年12月22日 交替被仰出之処去年令遅参付て蒙御勘気蟄居之儀今日御赦免 ●「日記」

寛文4年9月12日
南部利直 天正4年 生。彦九郎。信濃守
なんぶとしなお
大膳大夫信直の男
寛政譜4・105
室は蒲生飛騨守氏郷の女

天正18年3月 元服。前田利家が加冠

文禄4年 従五位下

慶長4年12月 父信直の遺領を継ぐ。陸奥国三戸城10万石

寛永3年8月19日 従四位下

寛永9年8月18日
南坊

なんぼう
梶井門跡最胤法親王の坊官

(寛永13年5月6日) (梶井御門跡内) ●「日記」



新里喜左衛門
彦左衛門のことか
にいさときざえもん







新里久兵衛

にいさときゅうびょうえ
喜左衛門の男

(寛永19年7月8日) (板倉市正組御歩行衆) ●「日記」

寛永19年7月8日 切腹 ●「日記」
新里彦左衛門

にいさとひこざえもん


(寛永19年5月22日) (江戸御蔵衆) ●「日記」

寛永19年5月22日 井上河内守え御預 ●「日記」

(寛永19年7月8日) (御城米蔵奉行) ●「日記」

寛永19年7月8日 斬罪 ●「日記」
新里彦太郎

にいさとひこたろう
彦左衛門の男

寛永19年5月29日 阿部徳千代え新里彦左衛門子彦太郎御預 ●「日記」

寛永19年7月8日 切腹 ●「日記」
新納右衛門

にいろうえもん
松平大隅守嶋津光久に仕える

(寛永15年5月13日) (松平薩摩守家老) ●「日記」



仁賀保挙誠 永禄5年 生。兵庫頭
にかほたかのぶ
大和守挙晴の養子。赤尾津氏の男
寛政譜4・75
室は北条氏直家臣田村掃部の女


挙晴の養子となる。秀吉に仕える

慶長5年 出羽国由利郡仁賀保5000石

慶長7年 常陸国武田5000石

元和9年10月18日 出羽国仁賀保1万石。庄内由利の境の三崎関を守る

寛永2年2月24日
仁賀保誠次 慶長10年 生。孫十郎。内記
にかほのぶつぐ
兵庫頭挙誠の三男
寛政譜4・77
母は北条氏直家臣田村掃部の女


妻は跡部民部良保の女

元和4年 はじめて秀忠に拝謁

寛永2年 父挙誠の遺領分知。1000石

寛永6年 小姓組

寛永10年2月7日 1200石

延宝5年4月 小姓組を辞す。小普請

延宝5年6月18日 死す
仁賀保誠政 慶長6年 生。寅之助。淀吉。内膳
にかほのぶまさ
兵庫頭挙誠の次男
寛政譜4・76
母は北条氏直家臣田村掃部の女


妻は桑山左近大夫貞晴の女

元和元年8月 はじめて秀忠に拝謁

元和2年 家光に仕える。中奥に伺候


書院番

元和9年 小姓組

寛永2年 父挙誠の遺領分知。2000石

寛永9年11月5日 小姓組・進物役

寛永9年11月5日 本番御免。進物番 ●「日記」

承応2年10月20日 死す
二木庄右衛門

にきしょうえもん
小笠原右近将監忠真に仕える

(寛永14年7月6日) (小笠原右近大夫下奉行) ●「日記」



西池季益
生。主膳正。藤木とも称すか
にしいけすえます
内裏天満宮神主(藤木)縫殿季虎の次男
古代豪族系図集覧175
竹内門跡良恕法親王に仕える

(寛永13年5月6日) (竹内御門跡内西池主膳) ●「日記」


以下不詳
西尾氏教 文禄元年 生。主水
にしおうじのり
豊後守光教の養子。木下大膳大夫の三男
寛政譜6・353
母は豊後守光教の長女


妻は織田三吉信秀の女


実父大膳大夫死去により母に従い豊後守光教に養われる

慶長11年 証人として江戸に至る。はじめて家康に拝謁


養父光教より分知。5000石。書院番

慶長19年 大坂の役にて青山伯耆守忠俊に属す

寛永10年6月17日 死す
西大路隆郷 慶長15年11月9日 生。侍従。少将
にしおおじたかさと
参議隆範の中絶家を相続。広橋大納言総光の次男
諸家伝上・405 元和6年閏12月20日 従五位下
宮廷公家系図集覧445 元和6年閏12月24日 元服。昇殿。侍従

寛永3年1月5日 従五位上

寛永5年2月10日 左少将

寛永10年1月6日 正五位下

寛永15年3月19日 百石取之拾弐人之新家之衆五十石宛御加恩壱人付百五拾石宛ニ―


―被仰付之雖然西大路少将儀は数年病気付此度御加増不被下之―


―相残拾壱人之衆へ被下之 ●「日記」

貞享元年3月20日
西尾重次 寛永5年 生。市十郎。内蔵助。甚之助。小左衛門
にしおしげつぐ
小左衛門重長の長男
寛政譜6・347
母は神保長三郎相茂の女


妻は小川長左衛門康明の女

寛永19年10月11日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保元年6月30日 小姓組

正保元年6月30日 西尾小左衛門子坪井金大夫子諸星勝兵衛子右三人御書院番―


―御小姓組被仰付之 ●「日記」

延宝7年7月9日 父重長の遺跡を継ぐ。700石

元禄9年~ 小姓組を辞す。小普請

宝永4年11月7日 死す
西尾重長 慶長9年 生。七兵衛。小左衛門
にしおしげなが
実兄因幡守吉定の養子。鈴木三郎大夫吉長の男
寛政譜6・347
母は西尾隠岐守吉次の三女


妻は神保長三郎相茂の女

元和8年 小姓組

~寛永2年 養父吉定の采地を賜る。700石

寛永10年2月7日 900石

寛永19年11月1日 膳奉行 ●「日記」共

明暦2年8月1日 二丸留守居

万治3年3月29日 二丸留守居を辞す。寄合

延宝6年12月25日 死す
西尾忠昭 慶長18年 生。右京。右京亮。丹後守
にしおただあきら
丹後守忠永の長男
寛政譜6・342
母は西尾隠岐守吉次の次女


室は竹中采女正重義の女


継室は松平外記伊昌の女

元和6年3月 父忠永の遺領を継ぐ。常陸国土浦城2万石

元和6年3月 はじめて秀忠に拝謁

寛永7年12月29日 従五位下・右京亮


丹後守

(寛永10年7月2日) (丹後守の初出) ●「日記」

寛永11年1月29日 火事之砌至火本罷越万事可申付 ●「日記」

(寛永12年6月16日) (寄合) ●「日記」

寛永16年10月15日 火事之刻紅葉山御仏殿火のこ参候は人を召列見廻可申 ●「日記」

寛永19年9月1日 毎歳於江戸越年午年在江戸半年替 ●「日記」

慶安2年2月11日 駿河国田中城2万5000石

承応3年10月26日
西尾忠知 元和5年 生。勝之助。主水
にしおただとも
丹後守忠永の次男
寛政譜6・342
母は西尾隠岐守吉次の次女

寛永17年3月19日 書院番 ●「日記」共

(寛永19年12月10日) (主水の初出) ●「日記」

寛永19年12月10日 300俵 ●「日記」共

承応3年12月22日 兄忠昭の遺領分知。5000石。寄合。甥忠成を後見

延宝3年6月12日 死す
西尾忠永次女
寛政譜6・342
西尾丹後守忠永の次女
寛政譜6・391
母は西尾隠岐守吉次の次女

寛永10年7月2日 稲垣藤助重昌と縁組 ●「日記」

寛永13年 稲垣信濃守重昭を産む



西尾政氏 文禄3年 生。市兵衛。藤兵衛
にしおまさうじ
藤兵衛利氏の長男
寛政譜6・345
妻は大久保右馬允忠拠の女


幼稚の時より家康に仕える

慶長15年7月 はじめて秀忠に拝謁

慶長16年 父利氏の遺跡を継ぐ。900石

~寛永2年 西丸小姓組

寛永10年2月7日 1100石

明暦2年7月28日 使役

明暦3年12月28日 布衣

寛文11年3月7日 使役を辞す。寄合

延宝3年8月27日 死す
西尾正保 慶長7年 生。加右衛門
にしおまさやす
伊兵衛正義の男
寛政譜7・298
母は村井氏


妻は野村彦大夫為勝の女

慶長18年 はじめて家康に拝謁

元和2年 秀忠に仕える

元和3年 食禄を賜る。板倉内膳正重昌組に属す

寛永3年 加増あり。(250石)

寛永9年 大番

寛永10年2月7日 450石

寛永10年12月20日 書物奉行 ●「日記」共

寛文元年3月23日 死す
西尾盛教 元和7年 生。権之助。主水。権助
にしおもりのり
主水氏教の長男
寛政譜6・353
母は織田三吉信秀の女


妻は池田内蔵助重政の女

寛永10年11月30日 父氏教の遺跡を継ぐ。5000石。寄合

寛永10年11月30日 (跡目) ●「日記」

万治元年10月7日 死す
西川貞重
生。与作。与左衛門
にしかわさだしげ
仁右衛門貞景の男
寛政譜15・304 (慶長13年) 父貞景の遺跡を継ぐ。200俵月俸3口。家康に仕える。手鷹師

(寛永10年2月21日) (御鷹師) ●「日記」

延宝3年11月11日 死す
西川左馬助

にしかわさまのすけ
東本願寺門跡宣如光従の家老






西川清左衛門
生。清左衛門
にしかわせいざえもん ~慶長19年 秀忠に仕える
寛政譜19・250 元和元年~ 近習。馬を預かる


大塚村にて芝地3000坪余を賜る


(100俵(50俵)月俸2口)

寛永14年 死す
西川正栄
生。権十郎。清左衛門
にしかわまさなか
清左衛門の男
寛政譜19・251
妻は宇佐美助右衛門長歳の女

~寛永3年 家光に仕える。馬方


(50俵)

寛永14年11月25日 父清左衛門の遺跡を継ぐ。100俵月俸2口

寛永14年11月25日 百俵弐人扶持西川清左衛門跡実子権十郎―


―自分之五十表其侭被下置之 ●「日記」


150俵月俸4口

慶安2年3月2日 死す
錦小路

にしきこうじ
後水尾天皇付女房

(寛永17年5月26日) (仙洞) ●「日記」



仁科信勝
生。(勘解由)。勘之丞。勘右衛門
にしなのぶかつ
勘右衛門信道の長男
寛政譜3・296 寛永13年11月24日 父信道の遺跡を継ぐ。100俵月俸5口。小普請

寛永13年11月24日 仁科勘右衛門百俵ニ五人扶持子跡目被仰付之 ●「日記」

寛永13年12月21日 はじめて家光に拝謁

寛永13年12月21日 跡目之面々勘右衛門子仁科勘解由(御目見) ●「日記」

万治元年閏12月3日 勘定

寛文6年12月23日 150俵月俸5口

延宝6年9月17日 死す
仁科信道 文禄2年 生。勘右衛門
にしなのぶみち
右近信衡の男
寛政譜3・296


摂津国高槻蔵奉行。100俵月俸5口

寛永11年 死す
西洞院時直 天正12年 生。侍従。少納言。右衛門督。参議。周防権守
にしのとういんときなお
右衛門督時慶の長男
諸家伝下・885 天正13年12月19日 従五位下
宮廷公家系図集覧515 文禄元年1月5日 従五位上。侍従。元服

慶長5年2月10日 正五位下

慶長6年3月22日 少納言

慶長12年1月6日 従四位下

慶長16年3月21日 従四位上

元和元年1月6日 正四位下

元和5年1月6日 従三位

元和6年1月21日 右衛門督

寛永元年1月5日 正三位

寛永3年12月7日 参議。右衛門督

寛永6年 周防権守

寛永8年11月6日 従二位

寛永11年3月26日 右衛門督をとどめられる

寛永13年10月 参議を辞す

寛永13年10月9日 薨去

寛永15年3月19日 西洞院松庵家領高百七拾石余之所孫少納言へ相渡―


―少納言高八十石之御方領松庵隠居分ニ被下之―


―宰相八十石之御方領は上り候事 ●「日記」
西洞院時慶 天文21年11月5日 生。侍従。少将。右兵衛佐。参議。遠江権守。右衛門督。円空。松庵
にしのとういんときよし
はじめ河鰭家を相続
諸家伝下・885
左兵衛督時当の養子
宮廷公家系図集覧515
飛鳥井権大納言雅綱の長男安居院覚澄の長男

永禄7年12月10日 従五位下

永禄7年12月22日 元服。昇殿。侍従

永禄11年1月5日 従五位上

天正元年11月27日 正五位下

天正2年3月28日 左少将

天正3年4月14日 左少将を辞す。右兵衛佐

天正3年4月17日 西洞院家を相続

天正4年1月11日 従四位下

天正8年閏3月26日 従四位上

天正12年1月6日 正四位下

天正19年7月25日 従三位

慶長5年1月11日 参議

慶長6年1月6日 正三位

慶長6年3月19日 遠江権守

慶長16年3月21日 右衛門督

慶長16年3月27日 従二位

元和6年1月21日 右衛門督を辞す

寛永元年8月26日 出家。円空と号す

寛永15年3月19日 西洞院松庵家領高百七拾石余之所孫少納言へ相渡―


―少納言高八十石之御方領松庵隠居分ニ被下之―


―宰相八十石之御方領は上り候事 ●「日記」

寛永16年11月20日 薨去
西洞院時良 慶長15年11月21日 生。侍従。右兵衛権佐。少納言
にしのとういんときよし
参議時直の男
諸家伝下・886
母は家女房または川勝主水正秀氏の女
宮廷公家系図集覧515 慶長16年3月26日 従五位下

元和4年9月20日 元服。昇殿。従五位上。侍従

元和9年1月5日 正五位下

寛永4年1月5日 従四位下

寛永5年1月11日 右兵衛権佐

寛永8年1月6日 従四位上

寛永9年1月11日 少納言

寛永12年1月5日 正四位下

寛永15年3月6日 続目之御礼 ●「日記」

(寛永15年3月6日) (昵近之衆) ●「日記」

寛永15年3月19日 西洞院松庵家領高百七拾石余之所孫少納言へ相渡―


―少納言高八十石之御方領松庵隠居分ニ被下之―


―宰相八十石之御方領は上り候事 ●「日記」

寛永18年1月5日 従三位。少納言を辞す

承応2年2月7日 薨去
西坊法眼
法橋と同一人物か
にしのぼうほうげん
円満院門跡常尊の坊官

(寛永13年5月6日) (円満院御門跡内) ●「日記」



西之坊法橋
法眼と同一人物か
にしのぼうほっきょう
円満院門跡の坊官






西山寛明 寛永8年 生。忠次郎。次郎八郎。与兵衛
にしやまひろあきら
忠左衛門寛宗の長男
寛政譜13・116 正保元年11月10日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

慶安2年12月26日 大番

寛文7年12月10日 父寛宗の遺跡を継ぐ。300俵

延宝2年7月3日 大番組頭

延宝2年12月18日 500俵

天和2年4月22日 700俵

元禄8年6月22日 大番組頭を辞す

元禄10年7月26日 700石

元禄10年10月9日 死す
西山寛宗 文禄2年 生。忠左衛門
にしやまひろむね
八兵衛昌次の四男
寛政譜13・116
母は武田家臣中島日向の女

元和9年 家光に仕える。小十人。100俵

寛永6年9月 小十人組頭

寛永6年10月 300俵

寛永18年10月26日 小十人組頭をゆるされる。小普請

寛永18年10月26日 小十人組之組頭之内年寄之者御番御免被成連々別之御役可被仰付―


―之旨ニ依テ佐々木庄兵衛小佐手左介西山忠左衛門山本又右衛門―


―竹内平右衛門右五人御番御免鳥居三郎右衛門小野忠三郎―


―阿部甚五左衛門服部三郎右衛門坂部孫四郎此五人右之替ニ―


―組頭被仰付之 ●「日記」

承応3年8月27日 宝蔵番頭

寛文3年12月26日 宝蔵番頭を辞す

寛文7年8月4日 死す
西山昌姓
生。久四郎。久右衛門。太郎兵衛
にしやままさうじ
太郎兵衛昌綱の次男
寛政譜13・122
妻は西山清左衛門昌行の女

寛永16年6月23日 はじめて家光に拝謁

寛永16年6月23日 西山太郎兵衛二番目之子共初て御目見 ●「日記」

寛永17年3月20日 大番 ●「日記」共

(寛永19年12月10日) (久右衛門の初出) ●「日記」

寛永19年12月10日 200俵 ●「日記」共

正保3年11月28日 父昌綱の遺跡を賜る。300石


300俵

万治2年2月2日 死す
西山昌一 寛永20年 生。忠次郎
にしやままさかず
忠兵衛昌門の男
寛政譜13・121 寛永20年12月7日 父昌門の遺跡を継ぐ。350石。小普請

寛永20年12月7日 三百五十石忠兵衛跡西山忠次郎 ●「日記」

慶安3年 死す
西山昌門
生。忠兵衛
にしやままさかど
太郎兵衛昌綱の次男
寛政譜13・120
秀忠に仕える。大番。150俵

寛永10年2月7日 350石

寛永20年12月7日 三百五十石忠兵衛跡西山忠次郎 ●「日記」

寛永20年12月21日 死す
西山昌近
生。千助
にしやままさちか
忠左衛門寛宗の次男
寛政譜13・116 正保元年9月9日 徳川綱重に付属される。小姓

正保元年9月9日 長松殿へ西山忠左衛門弐番子被召出之 ●「日記」

慶安元年12月11日 月俸20口


以下不詳
西山昌綱 元亀元年 生。太郎兵衛
にしやままさつな
十右衛門昌俊の四男
寛政譜13・120
母は楠浦若狭の女

~天正18年 家康に仕える。大番

慶長5年~ 父昌俊の遺跡分知。150石

慶長14年 松平上総介忠輝に付属される

慶長14年 これまでの150石は養子昌削に賜る

元和2年 処士


秀忠に仕える。300石。大番

寛永2年 破損奉行

寛永9年7月2日 小普請奉行 ●「日記」共

(寛永10年6月9日) (破損奉行) ●「日記」

寛永14年9月18日 裏門切手番頭

寛永14年9月18日 御裏切手ノ御番ニ被相加并同心十人被付之 ●「日記」

正保3年6月1日 死す
西山昌時 慶長19年 生。清兵衛。十右衛門
にしやままさとき
十右衛門昌勝の養子。窪田藤左衛門行重の次男
寛政譜13・118
母は十右衛門昌勝の長女


妻は保科弾正忠家臣保科隼人貞次の女

(寛永3年) 養父昌勝の遺跡を継ぐ。300石。大番

寛永10年2月7日 500石

寛永19年5月21日 大番組頭

寛永19年5月21日 保科弾正組西山十右衛門松平縫殿助組三宅多兵衛右両人―


―大番組頭被仰付 ●「日記」

寛永19年7月5日 兄窪田藤右衛門に連座して松下石見守長綱に召し預けられる ●「日記」共

慶安4年10月17日 赦免

万治2年2月26日 道奉行

寛文6年8月18日 道奉行を辞す。小普請

延宝6年5月28日 死す
二条法眼

にじょうほうげん


(寛永17年5月9日) (一乗院殿内) ●「日記」



二条光平 寛永元年12月13日 生。少将。中将。中納言。大納言。大将。内大臣。右大臣。
にじょうみつひら
左大臣。関白。摂政。後是心院
諸家伝上・83
摂政左大臣康道の男
宮廷公家系図集覧257
母は後陽成天皇の第六皇女貞子内親王


室は後水尾天皇の第六皇女賀子内親王

寛永11年閏7月1日 二条殿若君太刀目録ニて御目見御字光被進之則号光平 ●「日記」

寛永11年閏7月9日 正五位下。元服。禁色。昇殿

寛永11年閏7月12日 左少将

寛永11年8月2日 従四位下

寛永11年10月28日 左中将

寛永12年1月5日 従三位

寛永12年7月16日 権中納言

寛永14年10月12日 権大納言

寛永14年12月29日 正三位

寛永15年1月7日 右大将

(寛永15年2月29日) (右大将の初出) ●「日記」

寛永15年12月23日 右大将を辞す

寛永16年1月5日 従二位

寛永16年1月14日 右大将

寛永17年1月5日 正二位

寛永18年12月2日 内大臣。右大将

寛永18年7月11日 左大将

(寛永18年10月3日) (右大将) ●「日記」

正保元年11月15日 摂政殿使者御目見是御息内府縁辺之儀被仰出御礼也 ●「日記」

正保4年7月3日 右大臣。左大将

慶安4年2月3日 左大将を辞す。随身兵仗は元の如し

承応元年2月9日 右大臣を辞す

承応元年2月21日 右大臣

承応元年9月15日 左大臣

承応2年9月21日 関白。氏長者。内覧。牛車。随身。兵仗

明暦3年3月8日 従一位

万治2年 左大臣を辞す

寛文3年4月27日 摂政

寛文4年9月17日 摂政を辞す

天和2年11月12日 薨去
二条康道 慶長12年1月24日 生。少将。中将。中納言。大納言。大将。内大臣。右大臣。
にじょうやすみち
左大臣。摂政。後浄明珠院
諸家伝上・82
関白昭実の養子。九条関白幸家の次男
宮廷公家系図集覧257
母は豊臣参議秀勝と崇源院の女従二位完子


室は後陽成天皇の第六皇女貞子内親王

慶長18年12月7日 正五位下。元服。禁色。昇殿

慶長18年12月11日 左少将

慶長19年6月20日 従四位下

元和元年1月5日 従三位

元和元年12月27日 左中将

元和2年7月4日 権中納言。左中将

元和5年12月25日 正三位

元和5年12月29日 権大納言

元和6年1月5日 従二位

元和6年8月17日 右大将

元和7年1月12日 内大臣

元和7年1月16日 内大臣。右大将

元和8年1月5日 正二位

元和9年1月5日 左大将

寛永3年8月27日 左大将を辞す

寛永6年9月13日 右大臣

寛永9年12月28日 左大臣

寛永12年10月10日 摂政。氏長者。内覧。牛車。兵仗

寛永12年10月15日 二条殿使者御前ヘ出ル是今度摂政之御礼也 ●「日記」

寛永14年12月24日 左大臣を辞す

寛永16年1月5日 従一位

正保元年12月28日 摂政殿使者以太刀目録御礼是御家領替被遣之付て ●「日記」

正保4年1月3日 摂政を辞す

慶安元年3月5日 牛車。兵仗

寛文6年7月28日 薨去
二尊院
京都嵯峨。天台宗・真言宗・律宗・浄土宗の兼学道場
にそんいん




日遠 元亀3年 生。字堯順。号心性院。一道
にちおん
京都の人石井了玄の男(三男?)
日蓮宗高僧伝158 天正5年 母に従い本国寺に到る。日重に師事
日蓮宗高僧伝172 慶長9年 久遠寺22世

慶長13年 甲斐国大野山に隠棲。本遠寺を開く

元和元年 家康の命により久遠寺に戻る

元和元年 甲斐国大野山に隠棲

寛永7年 池上本門寺16世

寛永8年 鎌倉に隠棲

寛永19年3月5日 遷化
日編

にちへん (寛永12年12月5日) (先年小田原石垣御譜請之儀以日編被仰付之) ●「日記」



日本寺
下総国中村。日蓮宗
にちほんじ




日坂八幡
遠江国日坂。誉田八幡。事任八幡
にっさかはちまん


寛永19年7月6日 御朱印被下之 ●「日記」



日暹
生。字隆恕。号智見院
にっせん
日遠に師事
日蓮宗高僧伝161
京都常照寺鷹峰檀林の化主


京都本満寺に移る

寛永4年 久遠寺26世

慶安元年5月29日 遷化
日廷 慶長18年 生。字尊賀。号尊賀院
にってい
伏見宮邦房親王の子
日蓮宗高僧伝194
出家。京都本満寺の日暹に入門

(寛永13年9月28日) (身延弟子尊雅) ●「日記」


京都妙覚寺25世


鷹峰に隠棲

貞享元年9月9日 遷化
日東

にっとう (寛永12年1月6日) (池上本門寺弟子) ●「日記」
日蓮宗高僧伝172
池上本門寺17世

寛永12年10月6日 池上日東一束一巻継目之御礼同日恩御目見 ●「日記」



蜷川親房 慶長4年 生。喜左衛門。道祐
にながわちかふさ
次郎右衛門親満の長男
寛政譜18・95
母は白川治部大輔の女


妻は織田大和守尚長の女


後妻は花房五郎左衛門職則の女


書院番。300石

寛永16年~ 父親満の家を継ぐ。520石

寛永19年10月26日 目付 ●「日記」共

寛永19年12月30日 布衣 ●「日記」共

慶安4年11月21日 520石300俵

寛文元年閏8月13日 先鉄炮頭

延宝4年10月13日 先鉄炮頭を辞す。寄合

延宝5年3月7日 致仕。300俵。道祐と号す

元禄7年3月21日 死す
若王子
京都東山。聖護院の鎮守
にゃくおうじ
現在は熊野若王子神社

正保元年11月28日 京都東山若王寺依入峯御祈祷之御札献之 ●「日記」



若王子乗々院
京都若王子神社別当。聖護院院家。熊野三山検校を統轄
―じょうじょういん




如来寺
下野国日光今市。浄土宗
にょらいじ 寛永13年2月1日 後住之御礼 ●「日記」



丹羽氏定 慶長11年 生。勘助。式部少輔
にわうじさだ
式部少輔氏信の長男
寛政譜2・172
母は水野日向守勝成の養女水野市正忠胤の女


室は高木主水正正成の女

元和元年 はじめて秀忠・家光に拝謁

寛永10年7月2日 縁辺組 ●「日記」

正保3年11月11日 父氏信の遺領を継ぐ。美濃国岩村城1万9000石

正保3年12月30日 従五位下・式部少輔

明暦3年4月16日
丹羽氏信 天正18年 生。勘助。式部少輔
にわうじのぶ
勘助氏次の次男
寛政譜2・172
母は加藤太郎右衛門忠景の女


室は水野日向守勝成の養女水野市正忠胤の女

慶長4年 はじめて家康に拝謁

慶長6年 父氏次の遺領を継ぐ。三河国伊保1万石


婚姻

慶長19年 大坂の役にて水野勝成に属す

元和3年7月21日 従五位下・式部少輔

寛永12年3月21日 百人組頭

寛永12年3月21日 成瀬伊豆守跡鉄炮被仰付 ●「日記」

寛永12年12月13日 書院番頭 ●「日記」共

寛永15年4月27日 書院番頭をゆるされる。美濃国岩村城2万石

寛永15年4月27日 美濃国岩村高弐万石拝領松平和泉守上知之壱万石之―


―御加恩也云々就中唯今迠之御役御免云々 ●「日記」

正保3年5月11日
丹羽氏信娘


丹羽式部少輔氏信の女

寛永10年7月2日 保科大学と縁組 ●「日記」






丹羽五郎介

にわごろすけ
丹羽左京大夫光重に仕える

(寛永17年3月15日) (丹羽左京僕従) ●「日記」



庭田重秀 慶長11年1月25日 生。侍従。少将。中将
にわたしげひで
中納言重定の長男
諸家伝下・785 慶長16年3月22日 従五位下
宮廷公家系図集覧476 慶長18年4月6日 元服。昇殿

慶長18年4月7日 従五位上。侍従

元和元年1月5日 正五位下

元和5年2月27日 右少将

元和6年1月5日 従四位下

元和8年1月5日 従四位上

寛永5年2月10日 右中将

慶安3年11月7日
丹羽長兵衛

にわちょうびょうえ


(寛永19年7月8日) (浅草御蔵方手代) ●「日記」

(寛永19年7月8日) (朝岡三郎右衛門手代) ●「日記」

寛永19年7月8日 斬罪 ●「日記」
丹羽長兵衛子 寛永19年


長兵衛の男

寛永19年7月8日 丹羽長兵衛子男子一人当歳(死罪か) ●「日記」



丹羽長重 元亀2年 生。鍋。五郎左衛門。加賀守。五郎左衛門。侍従。参議
にわながしげ
越前守長秀の長男
寛政譜11・329
母は織田大隅守信広の女


室は織田右大臣信長の女

(天正11年) 秀吉に仕える

天正13年 父長秀の遺領を継ぐ。越前国北庄城

天正14年 従四位下・侍従


若狭国に減封

天正15年 加賀国松任4万石

(天正15年) 加賀国松任4万3000石

天正16年 はじめて家康に拝謁

文禄4年12月10日 加賀国小松12万5400石

文禄4年 従三位・参議・加賀守

慶長5年 城を去り品川に幽居(加賀守を辞す?)

慶長8年11月 常陸国古渡1万石

元和5年 常陸国江戸崎2万石

元和8年1月11日 陸奥国棚倉5万石

(寛永元年) 陸奥国赤楯城5万石

寛永4年2月10日 陸奥国白川城10万700石

寛永14年閏3月6日
丹羽長吉 慶長19年 生。虎松。五郎右衛門。三左衛門。新左衛門。三悦
にわながよし
左近将監長次の長男
寛政譜11・335
母は丹羽加賀守家臣坂井若狭直家の女


妻は赤井兵庫頭忠泰の女

元和5年 父長次の遺跡を継ぐ。1000石

寛永13年12月27日 書院番 ●「日記」共

承応元年 書院番を辞す。小普請

寛文10年2月12日 書院番

延宝3年4月1日 書院番を辞す

元禄元年12月9日 致仕。三悦と号す

元禄9年7月3日 死す
丹羽正長 慶長3年 生。平右衛門。(左平太)
にわまさなが
左平太正安の三男
寛政譜11・182
妻は榊原飛騨守職直の女

元和2年 はじめて秀忠に拝謁


小姓組

寛永12年 父正安の遺跡を継ぐ。1000石

寛永12年12月21日 丹羽平右衛門尉跡職被仰付御礼 ●「日記」

(正保元年5月11日) (左平太) ●「日記」

慶安元年~ 目付

慶安4年8月16日 布衣

寛文元年11月13日 死す
丹羽光重 元和7年 生。宮松丸。左京亮。左京大夫。侍従。玉峯
にわみつしげ
五郎左衛門長重の男
寛政譜11・331
母は織田右大臣信長の女


室は安藤右京進重長の女


継室は櫛笥内大臣隆胤の女(少将隆胤か内大臣隆賀か)

寛永4年 はじめて秀忠に拝謁

寛永11年12月19日 家光の御前にて元服。偏諱を賜る。従五位下・左京亮

寛永12年8月6日 安藤右京進娘丹羽左京嫁娶被仰付之 ●「日記」

寛永13年9月28日 丹羽五郎左衛門安藤右京進子共祝言付て御礼 ●「日記」

寛永14年4月 父長重の遺領を継ぐ。陸奥国白川城10万700石

寛永14年12月26日 去比亡父之遺跡雖被仰付御不例ニ付継目之御礼未申上依之―


―今日太刀目録并亡父之遺物献之各対謁老中て退去 ●「日記」

寛永19年12月30日 従四位下。左京大夫

寛永19年12月30日 四品 ●「日記」

寛永20年7月4日 陸奥国二本松城10万700石。田村郡1万5360石を預かる

寛永20年7月4日 二本松え得替 ●「日記」

万治元年閏12月27日 侍従

延宝6年8月6日 田村郡の預地が収公される

延宝7年4月7日 致仕。玉峯と号す

元禄14年4月11日
丹羽弥右衛門

にわやえもん
書院番与力

寛永20年5月30日 今日御書院番之当番水野石見守今度御暇被下知行所え相越付て―


―新庄美作守添番勤仕之然処ニ石見守与力河村久兵衛丹羽弥右衛門―


―御玄関之前於御番所次間弁当ヲ給之時久兵衛狂気ニて弥右衛門ヲ―


―討之三ヶ所疵付相番三人未タ表ニ相詰有之騒動ヲ聞テ打合右両人ヲ―


―引分之節久兵衛自殺相番之輩ニ時之口又日来意趣有之哉之由―


―御目付之面々被尋之聊無意恨云々 ●「日記」



仁和寺
京都。真言宗
にんなじ




仁和寺真光院

―しんこういん
仁和寺の院家



仁和寺菩提院
京都仁和寺
―ぼだいいん




塗師屋又右衛門
漆塗り
ぬしやまたえもん







塗師屋又五郎
漆塗り
ぬしやまたごろう







沼間清村
生。将監
ぬまきよむら
兵右衛門清許の次男
寛政譜17・56 寛永16年6月23日 はじめて家光に拝謁

寛永16年6月23日 沼兵右衛門二番目之子共初て御目見 ●「日記」

寛永19年6月20日 書院番 ●「日記」共


以下不詳
沼間清許
生。与吉。源兵衛。兵右衛門
ぬまきよもと
主膳興清の長男
寛政譜17・56
母は中村式部少輔一氏の養女


妻は紀伊家臣三浦左近大夫頼忠の女

慶長9年 はじめて家康に拝謁

寛永元年 父興清の遺跡を継ぐ。5000俵。西丸書院番

寛永3年~寛永8年 書院番を辞す

慶安4年9月19日 死す
沼田八郎右衛門

ぬまたはちろうえもん
津軽土佐守信義に仕える

(寛永13年11月21日) (津軽土佐守家老) ●「日記」

寛永13年11月21日 追放 ●「日記」
根岸源五兵衛

ねぎしげんごひょうえ


寛永15年9月27日 去比於自分(津戸左次兵衛)屋敷内招他所之者令取相撲之節―


―喧嘩出来て見物之内根岸源五兵衛忽令刃傷 ●「日記」



根岸定周 元和2年 生。三左衛門。三大夫
ねぎしさだちか
長兵衛定仍の次男
寛政譜15・274
母は山田伊賀直安の女


妻は伊奈五左衛門忠雪の女

寛永11年閏7月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永11年9月 大番


200俵

寛永20年8月8日 新番

寛永20年8月8日 於土圭之間御番相詰其上方々御成之刻御先え参御殿御番等可相勤之旨―


―被仰付之由伊豆豊後列座有之民部少輔伝之安西甚兵衛組 ●「日記」

慶安4年9月29日 綱吉に付属される。目付


神田館にて持弓頭


小姓組番頭


500俵

延宝8年 徳松に付属される。西丸に勤仕

天和3年 徳松逝去ののち小普請

貞享2年9月14日 広敷番頭

元禄元年8月23日 広敷番頭を辞す

元禄元年9月8日 死す
根岸定仍 天正元年 生。与太郎。長兵衛
ねぎしさだより
主計定直の男
寛政譜15・272
母は宮倉氏


妻は山田伊賀直安の女

天正18年 家康に拝謁。家康に仕える

文禄元年~慶長5年 300俵。大番

寛永11年9月4日 死す
根来盛重 弘治2年 生。小左次。大納言坊。右京進。はじめ霜を称す
ねごろもりしげ
霜四郎左衛門盛勝の養子。和泉国熊取谷の中左近の男
寛政譜16・348
幼少より紀伊国根来寺にのぼる


有髪僧となり成真院(岩室坊)に住職

天正12年 愛染院長算とともに家康に味方する

天正13年 秀吉による根来寺破却により和泉国熊取谷に逃れる

天正13年8月22日 浜松にて家康に拝謁。命により根来を称し還俗


成瀬吉右衛門正一に属す(根来組同心)

元和8年 和泉国代官

寛永2年12月15日 750石の朱印

寛永18年7月9日 死す
根来盛正 天正19年 生。小左次。出雲守
ねごろもりまさ
右京進盛重の男
寛政譜16・349 慶長8年 はじめて家康に拝謁

慶長12年 家康に仕える

元和元年7月16日 500石

元和2年 秀忠に仕える。書院番

元和8年 家光に付属される

寛永2年 徒頭

寛永5年 持筒頭

寛永6年5月27日 1000石

寛永7年10月21日 1500石

寛永9年6月25日 馬上同心10騎 ●「日記」

(寛永10年2月10日) (小才次) ●「日記」

寛永10年12月27日 2200石

寛永10年12月27日 七百石御加恩 ●「日記」

寛永14年9月26日 従五位下・出雲守

寛永14年9月26日 諸大夫 ●「日記」

(寛永14年11月19日) (出雲守の初出) ●「日記」

寛永18年12月4日 父盛重の遺跡を賜る。2950石

寛永18年12月4日 七百石御代官根来右京跡右子出雲守ニ御加恩 ●「日記」


持筒頭を辞す

承応3年9月19日 死す
根本成重
生。久平
ねもとなりしげ
又兵衛成次の男
寛政譜18・287
家光に仕える。手鷹匠

(寛永13年11月9日) ((鷹場役人として)銀子五枚被下之) ●「日記」

慶安元年6月4日 父成次の遺跡を継ぐ。150俵月俸5口

寛文2年6月16日 死す
野一色義重
生。頼母。外記
のいっしきよししげ
兄頼母助助重の嗣。頼母助助義の三男
寛政譜7・308
母は黒川玄蕃助盛治の女


妻は紀伊家臣中川弥次右衛門時宗の女


松平上総介忠輝に仕える

(元和元年) 兄助重の遺跡を継ぐ。2000石。秀忠に仕える。西丸書院番

寛永18年10月8日 如前々江戸中昼夜見舞之役被仰付 ●「日記」

承応3年5月8日 死す
能成寺
甲斐国。臨済宗
のうじょうじ


寛永19年7月6日 御朱印被下之 ●「日記」



野口成次
生。兵左衛門
のぐちなりつぐ
清左衛門の男
寛政譜18・313 慶長14年 秀忠に仕える


家光に仕える


勘気を蒙る

寛永13年8月24日 赦免 ●「日記」共

寛永15年10月24日 大番 ●「日記」共

寛永15年12月19日 廩米を賜る

寛永15年12月19日 御切米被下之 ●「日記」


以下不詳
野口吉次
生。(権四郎)。才兵衛
のぐちよしつぐ
甚右衛門吉成の男
寛政譜18・313
家光・家綱に仕える。大番

寛永19年6月26日 野口権四郎大御番被仰付 ●「日記」

正保元年12月25日 大御番野口権十郎新規ニ弐百俵被下之 ●「日記」

明暦2年4月5日 死す
のくま
野く満?のくまん?




(正保元年6月25日) (琉球中山王使者馬上之従者黄はちまき) ●「日記」



野路井宗越

のじいそうえつ
大覚寺門跡尊性法親王の家臣



能勢久頼
生。庄三郎
のせひさより
四郎右衛門頼安の男
寛政譜5・118
妻は花房右馬助正栄の女

寛永6年 はじめて家光に拝謁


勘定

正保元年12月25日 父頼安の家を継ぐ。500俵

正保元年12月25日 五百俵能勢四郎右衛門惣領庄三郎ニ被下之自分之御切米来年より―


―被召上之亡父相継之儀被仰付之 ●「日記」

寛文4年6月11日 勘定組頭


勘定組頭を辞す。勘定頭の支配となる

延宝7年 死す
能勢頼重 天正15年 生。新十郎。次左衛門
のせよりしげ
摂津守頼次の長男
寛政譜5・98
母は井上治部少輔氏幸の女


妻は佐久間大膳亮勝之の女

慶長5年 人質となり大坂城にあり

慶長7年 家康に仕える。父頼次より分知。1530石

慶長7年 書院番

元和7年 父頼次の家を継ぐ。3000石

寛永3年~ 使番

寛永10年 父頼次に預けられた御料地6800石を返納

慶安3年3月2日 死す
能勢頼隆 天正16年 生。小十郎
のせよりたか
摂津守頼次の次男
寛政譜5・103
母は井上治部少輔氏幸の女


妻は池田三左衛門家臣森寺清右衛門の女

慶長9年 家康に拝謁。小姓。1000石

元和2年 秀忠に仕える。書院番

元和7年 兄次左衛門頼重の采地を賜る。1530石

(寛永9年11月5日) (三十郎) ●「日記」

寛永9年11月5日 本番御免。進物番 ●「日記」

寛永14年11月26日 江戸夜警

寛永14年11月26日 弥無油断江戸中可致夜廻 ●「日記」

寛永19年11月1日 使番

寛永19年11月1日 唯今之御番御赦免自今以後御使等可被仰付間―


―最前被仰付五輩と申合一人宛殿中え可相詰之旨也 ●「日記」

寛永19年12月30日 布衣 ●「日記」共

明暦3年1月23日 死す
能勢頼永 慶長14年 生。春松。市十郎
のせよりなが
摂津守頼次の五男
寛政譜5・113
母は井上治部少輔氏幸の女


妻は曾我丹波守古祐の女

元和5年 はじめて秀忠に拝謁

元和7年 兄惣右衛門頼之の采地を賜る。840石

寛永3年 西丸書院番

寛永9年 本丸に勤仕

寛永9年11月5日 書院番。進物役

寛永10年2月7日 1040石

寛永15年12月17日 徒頭

寛永15年12月17日 御歩行之頭被仰付之久世大和守元組 ●「日記」

寛永16年12月30日 布衣 ●「日記」共

寛永18年4月12日 逼塞 ●「日記」共

寛永18年9月5日 ゆるされる

寛永18年9月5日 御赦免仕来御役如前々可相勤 ●「日記」

正保元年9月5日 家綱に付属される ●「日記」共

正保3年1月23日 三丸徒頭

寛文2年10月10日 新番頭

天和2年4月21日 1740石

天和2年7月28日 死す
能勢頼宗 慶長19年 生。新十郎。次左衛門。日向守
のせよりむね
次左衛門頼重の三男
寛政譜5・99
母は佐久間大膳亮勝之の女


妻は黒田筑前守家臣能勢長右衛門頼資の女

寛永10年 書院番

寛永11年 中奥に伺候

寛永13年10月8日 書院番 ●「日記」共

慶安3年12月11日 父頼重の遺跡を継ぐ。3000石

万治2年8月21日 使役

万治2年12月28日 布衣

寛文10年5月16日 普請奉行

寛文10年6月15日 席を作事奉行の次に定められ芙蓉間に伺候

寛文12年2月13日 京都町奉行。4000石

寛文12年4月27日 従五位下・日向守

延宝6年11月15日 死す
能勢頼安
生。四郎右衛門
のせよりやす
四郎左衛門頼之の男
寛政譜5・117 元和 家康に仕える。勘定。佐野主馬吉綱に属す

寛永10年10月26日 佐州へ被遣 ●「日記」

寛永14年~ 500俵

寛永15年12月5日 上方御勘定 ●「日記」

正保元年12月25日 致仕

正保2年12月27日 死す
能勢頼之 文禄2年 生。俊徳。徳右衛門。惣右衛門
のせよりゆき
摂津守頼次の三男
寛政譜5・107
母は井上治部少輔氏幸の女


妻は川村善次郎重久の女

慶長19年 大坂の役にて父頼次に従う

元和2年 はじめて秀忠に拝謁。書院番。父頼次より分知。840石

元和7年 兄小十郎頼隆の采地を賜る。1000石

寛永9年 本丸に勤仕

寛永10年2月7日 1200石

慶安元年1月11日 目付

慶安4年8月16日 布衣

寛文元年11月21日 目付を辞す。寄合

寛文3年11月6日 致仕。300俵

寛文5年4月10日 死す
能勢頼栄 元和7年 生。助十郎。八左衛門
のせよりよし
次左衛門頼重の七男
寛政譜5・101
母は佐久間大膳亮勝之の女


妻は立花甲斐守種吉の女

寛永17年7月22日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永19年6月20日 書院番 ●「日記」共

正保元年12月25日 300俵 ●「日記」共

元禄元年10月26日 死す
野田勝成
生。長五郎。市左衛門。はじめ松木を称す
のだかつなり
松木市左衛門浄成の長男
寛政譜16・250
妻は一色右馬助範次の女

寛永18年12月4日 父浄成の遺跡を継ぐ。200俵。代官

寛永18年12月4日 弐百俵御代官松木市左衛門跡右惣領長五郎ニ被下之 ●「日記」

(寛永19年9月20日) (松木市左衛門の初出) ●「日記」


野田を称す

明暦元年 徳川綱重に付属される。桜田館にて代官。300俵


勘定奉行


勘定奉行を辞す

延宝8年9月4日 死す
野田忠継
生。三大夫。三郎左衛門。はじめ松木を称す
のだただつぐ
松木七郎兵衛忠成の次男
寛政譜16・245
母は境氏


妻は牧氏


秀忠に仕える。代官。200俵

承応2年 綱吉に付属される。250俵。神田館にて代官。野田を称す

明暦元年2月2日 死す
野宮定逸 慶長15年5月17日 生。兵部大輔。中将。中納言。伝奏。大納言
ののみやさだとし
花山院少将忠長の次男
諸家伝下・949
母は東本願寺教如光寿の次女
宮廷公家系図集覧324 元和6年3月3日 従五位下

元和8年8月21日 従五位上。童形

元和8年8月23日 元服。兵部大輔。禁色。昇殿

寛永3年1月5日 正五位下

寛永6年1月5日 従四位下

寛永10年1月6日 従四位上

(寛永11年7月21日) (院中) ●「日記」

寛永13年1月5日 正四位下

寛永14年1月11日 左権中将

寛永17年1月5日 従三位。兵部大輔。左権中将

正保元年8月12日 正三位

正保4年12月28日 権中納言

慶安元年2月10日 帯剣

承応元年10月12日 従二位


武家伝奏

承応元年11月12日 権大納言

承応2年2月3日 権大納言を辞す

承応3年12月 正二位

万治元年2月15日 薨去
野々山兼周 慶長18年 生。一郎左衛門。新兵衛。肥前守
ののやまかねちか
丹後守兼綱の長男
寛政譜2・360
母は石川三蔵忠勝の女


妻は川村善次郎重久の女

寛永4年1月28日 はじめて家光に拝謁


大番

寛永9年 200俵

寛永10年2月7日 400石

万治元年7月19日 新番

寛文3年11月8日 父兼綱に副えて東福門院に付属される

寛文3年12月 従五位下・肥前守

寛文4年6月23日 父兼綱の家を継ぐ。1530石200俵

寛文12年3月22日 死す
野々山兼綱 天正19年 生。新兵衛。丹後守。無世
ののやまかねつな
新兵衛頼兼の養子。内藤右京進家臣上田内記信綱の男
寛政譜2・359
妻は新兵衛頼兼の女


後妻は石川三蔵忠勝の女


また井上主計頭正就の養女

(慶長9年) 養父頼兼の遺跡を継ぐ。530石

慶長10年9月17日 はじめて秀忠に拝謁

慶長14年 腰物奉行

寛永8年4月10日 近侍

寛永8年4月10日 奥にて召し使われる ●「日記」

寛永8年7月5日 小納戸

寛永8年12月 530石200俵

寛永9年6月 番衆に列す

寛永10年7月30日 寄合之時書物等預置役人 ●「日記」

寛永15年5月8日 目付 ●「日記」共

寛永16年12月30日 布衣 ●「日記」共

寛永18年4月12日 蟄居 ●「日記」共

寛永18年9月5日 ゆるされる

寛永18年9月5日 御赦免仕来御役如前々可相勤 ●「日記」

寛永20年8月30日 東福門院に付属される

寛永20年8月30日 1530石200俵。従五位下・丹後守

寛永20年8月30日 国母様え野々山新兵衛与力五騎足軽三十人千石御加恩 ●「日記」

(正保元年1月16日) (丹後守の初出) ●「日記」

寛文4年4月6日 務をゆるされる

寛文4年6月23日 致仕。400石。無世と号す

寛文7年10月28日 死す
野々山兼宗
生。瀬兵衛
ののやまかねむね
丹後守兼綱の次男
寛政譜2・364
母は石川三蔵忠勝の女

寛永15年11月21日 野々山新兵衛二番目子可被召出 ●「日記」

寛永16年7月23日 はじめて家光に拝謁

寛永16年7月23日 野々山新兵衛二番子以樽代初て御目見 ●「日記」


小姓組

寛永17年3月19日 御小姓組御番 ●「日記」

寛永19年12月10日 300俵 ●「日記」共

慶安元年5月18日 小納戸

明暦2年5月4日 中奥の番士

寛文2年12月22日 400俵

寛文11年7月29日 改易

寛文11年8月8日 自殺
野々山元綱 元和6年 生。兵弥。弥兵衛
ののやまもとつな
丹後守兼綱の三男
寛政譜2・365
母は石川三蔵忠勝の女


妻は京極若狭守家臣飯田惣兵衛之久の女

正保元年2月8日 はじめて家光に拝謁

正保元年2月8日 野々山丹後守三番子初て御目見 ●「日記」

正保元年6月16日 小姓組 ●「日記」共

正保3年12月10日 300俵

寛文9年7月23日 膳奉行

延宝5年閏12月25日 膳奉行を辞す

延宝6年12月6日 死す
野辺正及 寛永5年 生。七十郎。七郎左衛門。是因
のべまさちか
伝左衛門正要の長男
寛政譜10・26
妻は内藤三右衛門の女

寛永15年12月2日 はじめて家光に拝謁

寛永15年12月2日 野辺伝左衛門子初て御目見 ●「日記」


鷹師

(寛永19年12月10日) (御鷹師) ●「日記」

寛永19年12月10日 五十俵三人扶持 ●「日記」

明暦2年12月21日 父正要の遺跡を継ぐ。現米50石月俸5口

天和2年3月21日 小普請


進物取次番頭


進物取次番頭を辞す

元禄10年12月5日 致仕。是因と号す

正徳4年12月15日 死す
野辺正要
生。伝左衛門
のべまさとし
伝十郎正久の三男
寛政譜10・26
家康に仕える。現米50石月俸5口


鷹の事をつとめる

(寛永15年12月2日) (御鷹師) ●「日記」

明暦2年7月17日 死す
野間重次 天正18年 生。久三郎
のましげつぐ
宗院重久の男
寛政譜15・344 慶長15年 家康に仕える。100俵

寛永14年12月8日 致仕

寛永15年 死す
野間重吉
生。久三郎
のましげよし
久三郎重次の男
寛政譜15・344
鷹師

寛永14年12月8日 父重次の家を継ぐ。100俵

寛永14年12月8日 百俵御鷹師野間久三郎 ●「日記」

寛永15年 はじめて家光に拝謁


以下不詳
野間成岑 天正18年 生。玄琢。法橋。法眼。寿昌院。法印
のませいしん
宗印の男
寛政譜13・350
妻は神崎氏


医業を学ぶ

慶長15年11月12日 法橋


禁中に伺候

元和3年 法眼

元和6年 寿昌院と号す

元和9年閏8月12日 法印

寛永3年7月1日 はじめて秀忠に拝謁


隔年に江戸に伺候

寛永15年 東福門院に付属される

(寛永16年閏11月18日) (寿昌) ●「日記」


500俵

寛永20年11月1日 三竹法眼御目見亡父玄琢御切米被下之御礼 ●「日記」

正保2年11月14日 死す
野間成大 元和元年 生。三竹。法橋。法眼。寿昌院。法印
のませいだい
寿昌院玄琢成岑の長男
寛政譜13・351
母は神崎氏


妻は本多出羽守正勝の女

寛永13年5月12日 法橋

寛永15年12月19日 法眼

寛永16年12月24日 三十人扶持 ●「日記」

寛永17年 奥医。東福門院に付属される


隔年に江戸に伺候

寛永17年4月25日 玄璘三竹御城替々可相詰 ●「日記」

寛永20年11月1日 三竹法眼御目見亡父玄琢御切米被下之御礼 ●「日記」

正保3年2月28日 父成岑の遺跡を継ぐ。500俵

寛文8年12月27日 法印

延宝4年8月18日 死す
野間宗親 慶長14年 生。市太郎。金左衛門
のまむねちか
金左衛門重成の長男
寛政譜15・346
妻は曾我丹波守古祐の女

元和6年 父重成の家を継ぐ。300石

寛永元年 大番

(寛永11年6月26日) (金三郎) ●「日記」

正保2年6月23日 大番組頭

慶安4年11月21日 300石200俵

寛文7年10月1日 死す
野村次左衛門

のむらじざえもん


(寛永19年7月8日) (御歩行目付) ●「日記」



野村為重
生。藤三郎。彦大夫
のむらためしげ
彦大夫為勝の男
寛政譜7・198
妻は大河内金兵衛久綱の養女

元和元年9月15日 はじめて秀忠に拝謁。焼火間番


土圭間番


薬込役

寛永10年 父為勝の遺跡を継ぐ。330石。代官(上総国東金領・下総国千葉領)

万治2年9月21日 死す
野村為次
生。藤三郎。源兵衛
のむらためつぐ
彦大夫為重の次男
寛政譜7・198 寛永18年8月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

(正保元年6月16日) (源兵衛の初出) ●「日記」

正保元年6月16日 小姓組 ●「日記」共

正保2年7月1日 死す
野呂宗景
生。一郎右衛門
のろむねかげ
久大夫勝景の男
寛政譜17・411
先手与力

(寛永20年4月19日) (御切米八拾石) ●「日記」

(寛永20年4月19日) (神谷与七郎組) ●「日記」

寛永20年4月19日 只今迠之御番被成御免向後御役可被仰付之間可存其旨之由―


―小十人組御番所之次ニて老中被伝之 ●「日記」


国目付役


浅草蔵目付を兼ねる

(寛文12年) 死す

Sheet 6: は行

灰屋次左衛門

はいやじざえもん
灰屋紹益佐野重孝の縁者か






垪和采女

はがうねめ
毛利伊勢守高直に仕える

(寛永17年3月15日) (森市三郎証人) ●「日記」



芳賀内蔵丞

はがくらのじょう
松平新太郎池田光政の家老

(寛永11年4月1日) (内蔵助) ●「日記」
萩原利久
生。長左衛門
はぎわらとしひさ
久左衛門正利の養子。小木惣右衛門の男
寛政譜8・80
妻は正利の女

元和6年 はじめて秀忠に拝謁


細工頭

(寛永10年8月25日) (御細工頭) ●「日記」

寛文4年12月2日 死す
白雲寺
大坂。知恩院末。浄土宗
はくうんじ 寛永18年4月18日 於大坂百万遍流選釈寺長林寺両寺之長老令破戒寺中ニ置妻女―


―剰知恩院流之白雲寺破戒之義依不同心右之両寺彼白雲寺殺害之―


―令隠密之処今度久貝因幡守穿鑿之上露顕之趣言上訖依之両悪僧并―


―女三人与同之者一人大坂中引渡之磔ニ曝之両寺ハ三日已後トゝメヲ―


―サスヘキ由上意之趣彼地定番之面々以次飛脚奉書遣之 ●「日記」






柏山寺
出羽国山形。天台宗
はくさんじ




羽倉信勝
生。非蔵人。豊国社祝。式部少輔
はぐらのぶかつ
伏見稲荷社目代兵部大輔政信の長男
地下家伝中・874 元和6年3月13日 非蔵人
古代豪族系図集覧204 (寛永11年7月21日) (内記) ●「日記」 摂津守信勝か不明

寛永12年8月14日 死す
羽倉延次 天正7年1月22日 生。非蔵人。大和介。伏見稲荷社目代。上北面。玄蕃頭
はぐらのぶつぐ
伏見稲荷社目代兵部大輔政信の次男
地下家伝中・861 天正17年2月1日 元服
古代豪族系図集覧205 慶長11年 非蔵人

慶長13年3月8日 上北面。玄蕃頭。従五位下

慶安4年2月8日
羽倉信吉 慶長13年 生。非蔵人。摂津守。上北面
はぐらのぶよし
伏見稲荷社御殿預主膳正重久の次男
地下家伝中・860 元和9年10月15日 非蔵人
古代豪族系図集覧204 (寛永11年7月21日) (内記) ●「日記」 式部少輔信勝か不明

寛文3年1月26日 院参

寛文3年2月16日 従五位下。摂津守。上北面

貞享4年7月4日
羽黒山
出羽国最上
はぐろさん




羽黒山宝前院
羽黒山別当。宝善坊。宝前院。原則として執行を兼帯
―ほうぜんいん

出羽三山史
出羽国岩根沢日月寺慶俊
(史蹟名勝山形12・1)
出羽国岩根沢日月寺宥源

元和2年 出羽国岩根沢日月寺宥俊

(~元和4年) 出羽国岩根沢日月寺天宥

寛文8年4月4日 天宥流罪

寛文8年8月 寛永寺尊重院圭海






初鹿野昌重 慶長18年 生。次郎左衛門
はしかのまさしげ
勘解由信吉の次男
寛政譜15・353
母は新見氏


妻は飯嶋氏

寛永2年 父信吉の遺跡分知。300石


西丸小姓組


本丸に勤仕

寛永10年2月7日 500石

寛永13年10月28日 小姓組。進物役

寛永13年10月28日 御進物番 ●「日記」


大番

延宝3年5月14日 広敷番頭

天和2年4月22日 500石200俵

天和3年12月11日 広敷番頭を辞す。小普請

元禄9年5月12日 死す
初鹿野昌次 慶長10年 生。伝右衛門。依立
はしかのまさつぐ
勘解由信吉の長男
寛政譜15・350
母は新見氏


妻は赤井兵庫頭忠泰の女

寛永2年 父信吉の遺跡を継ぐ。700石


西丸小姓組

寛永10年2月7日 900石

正保元年5月27日 徒頭 ●「日記」共

正保元年8月8日 徒頭をゆるされる。閉門

正保元年8月9日 被止出仕閉門被仰付之 ●「日記」

慶安元年6月3日 赦免

慶安3年12月15日 徒頭

慶安4年8月16日 布衣

慶安4年11月21日 900石300俵

明暦元年9月10日 先鉄炮頭

万治2年12月3日 閉門


ゆるされる

寛文3年11月6日 先鉄炮頭を辞す。小普請

寛文10年10月14日 致仕。300俵。依立と号す

寛文11年3月12日 死す
羽柴勘右衛門

はしばかんえもん




羽柴勘右衛門子

はしばかんえもんこ 寛永9年7月17日 ゆるされる ●「日記」



橋本実村 慶長3年 生。侍従。少将。中将。参議。中納言
はしもとさねむら
中将実勝の嗣。橋本季景の男
諸家伝上・288
室は花山院左大臣定熈の次女
宮廷公家系図集覧295 元和5年1月6日 従五位下

元和6年6月29日 元服。侍従。昇殿

元和9年1月5日 従五位上

元和9年1月11日 左少将

寛永4年1月5日 正五位下

寛永8年1月6日 従四位下

寛永10年1月12日 左中将

寛永12年1月5日 従四位上

寛永17年1月5日 正四位下

寛永19年1月5日 従三位

(正保元年1月14日) (三位の初出) ●「日記」

正保元年1月29日 昵近被仰付御礼 ●「日記」

正保元年12月12日 参議・左中将

正保元年12月19日 参議を辞退

正保4年1月5日 正三位

慶安2年2月30日 権中納言

慶安2年4月27日 権中納言を辞す

慶安4年1月5日 従二位

寛文4年11月10日 薨去
橋本季村 寛永4年9月6日 生。侍従。少将。中将
はしもとすえむら
中納言実村の長男
諸家伝上・289
母は花山院左大臣定熈の次女
宮廷公家系図集覧295 寛永7年1月5日 従五位下

寛永11年4月22日 元服。侍従

寛永12年1月5日 従五位上

寛永17年3月5日 正五位下

寛永19年12月22日 左少将

寛永20年1月5日 従四位下

正保元年1月11日 右中将

(正保元年1月29日) (少将) ●「日記」

正保元年1月29日 三位子橋本少将新知拝領之御礼 ●「日記」

正保4年1月5日 従四位上

慶安元年4月27日
橋本資信
生。十左衛門
はしもとすけのぶ
豪商橋本家の養子。太田新六郎重正の三男
寛政譜4・377
朱印船貿易商
寛永8年 カンボジアに渡航


銀座座人



橋本正言
生。太郎左衛門
はしもとまさのり
先祖は陸奥国橋本に住す
寛政譜21・88
豊臣秀次に仕える


処士

~(寛永12年) 家光に仕える。馬医。150俵

寛永20年12月18日 200俵 ●「日記」共

万治元年閏12月25日 300俵

寛文8年5月15日 死す
長谷川織部

はせがわおりべ
久太郎の男

(寛永20年6月12日) (松平安芸守家来) ●「日記」

寛永20年6月12日 松平安芸守家来長谷川久太郎安芸守え申旨有之て彼国ヲ立退ニ付て―


―質人ニ差上二男織部所え右之趣申越ニ依て安芸守屋敷ヲ織部立退之由―


―安芸守より牧野内匠頭酒井和泉守杉浦内蔵允所より相断ニ付て―


―久太郎織部今日評定席え召寄様子相尋之上久太郎ハ植村出羽守―


―織部は井伊兵部少輔え御預之旨伊豆守豊後守対馬守伝之 ●「日記」

寛永20年6月20日 松平安芸守家来長谷川久太郎儀右安芸守ニ不足有之由付て去頃立退畢―


―然処彼二男織部為質人令在江戸父久太郎立退子細承之是又安芸守―


―屋敷夜中立退就其安芸守より質人奉行牧野内匠頭酒井和泉守―


―杉浦内蔵允え相届其趣今度又安芸守参勤之上老中迠依訴之御穿鑿之処―


―対安芸守久太郎儀可為不足趣雖無之其身於致不足は質人差上輩―


―不経上意理不尽行其科事難成之間不立退て可企訴訟之処ニ不及其儀―


―剰二男織部儀為質人之処立退之条不届至極也依之今日久太郎父子―


―安芸守え被下之事 ●「日記」



長谷川主計

はせがわかずえ
松平阿波守蜂須賀忠英に仕える

(寛永15年7月28日) (松平阿波守家中証人) ●「日記」



長谷川久太郎

はせがわきゅうたろう


(寛永20年6月12日) (松平安芸守家来) ●「日記」

寛永20年6月12日 松平安芸守家来長谷川久太郎安芸守え申旨有之て彼国ヲ立退ニ付て―


―質人ニ差上二男織部所え右之趣申越ニ依て安芸守屋敷ヲ織部立退之由―


―安芸守より牧野内匠頭酒井和泉守杉浦内蔵允所より相断ニ付て―


―久太郎織部今日評定席え召寄様子相尋之上久太郎ハ植村出羽守―


―織部は井伊兵部少輔え御預之旨伊豆守豊後守対馬守伝之 ●「日記」

寛永20年6月20日 松平安芸守家来長谷川久太郎儀右安芸守ニ不足有之由付て去頃立退畢―


―然処彼二男織部為質人令在江戸父久太郎立退子細承之是又安芸守―


―屋敷夜中立退就其安芸守より質人奉行牧野内匠頭酒井和泉守―


―杉浦内蔵允え相届其趣今度又安芸守参勤之上老中迠依訴之御穿鑿之処―


―対安芸守久太郎儀可為不足趣雖無之其身於致不足は質人差上輩―


―不経上意理不尽行其科事難成之間不立退て可企訴訟之処ニ不及其儀―


―剰二男織部儀為質人之処立退之条不届至極也依之今日久太郎父子―


―安芸守え被下之事 ●「日記」



長谷川久弥

はせがわきゅうや


寛永13年8月9日 小姓組 ●「日記」



長谷川小刑部

はせがわこぎょうぶ


(寛永19年8月28日) (松平阿波守証人) ●「日記」



長谷川五郎左衛門

はせがわごろうざえもん


(寛永17年7月27日) (御台所衆) ●「日記」

寛永17年7月27日 御台所衆長谷川五郎左衛門其外弐人神谷又五郎鈴木喜左衛門両人ニ―


―御預 ●「日記」



長谷川三九郎
伊兵衛宣重か
はせがわさんくろう


寛永15年1月15日 御書院番 ●「日記」



長谷川重辰
生。長五郎
はせがわしげとき
四郎兵衛重次の三男
寛政譜10・59
母は佐々木承禎家臣後藤十兵衛の女


妻は仁賀保内膳誠政の女

寛永3年 家光に仕える。小姓組


200俵

寛永10年12月19日 400石

寛永10年12月19日 御加増被下之弐百石 ●「日記」

寛永16年4月15日 中奥の番士

寛永16年4月15日 中奥之御番 ●「日記」

慶安4年11月26日 二丸留守居

延宝2年3月18日 死す
長谷川重治 慶長8年 生。半右衛門
はせがわしげはる
四郎兵衛重次の養子。長谷川次右衛門重勝の男
寛政譜10・57
妻は小嶋氏

元和元年 家康に仕える。小姓

元和2年 500石

寛永2年~ 小姓組

寛永10年2月7日 700石


勘気を蒙る

寛永13年8月24日 赦免 ●「日記」共

寛永20年8月13日 死す
長谷川重政
生。四郎兵衛
はせがわしげまさ
四郎兵衛重次の長男
寛政譜10・57
母は佐々木承禎家臣後藤十兵衛の女

元和9年 秀忠に拝謁

寛永6年 書院番

(寛永8年) 父重次の遺跡を継ぐか

寛永20年10月16日 死す
長谷川重棟
生。犬千代。半四郎
はせがわしげむね
半右衛門重治の長男
寛政譜10・58
母は小嶋氏


妻は坪内半三郎定次の女

寛永20年12月7日 父重治の遺跡を継ぐ。700石 ●「日記」共

明暦元年3月13日 小姓組

貞享3年2月13日 桐間番


桐間番を辞す。小普請

元禄9年8月2日 死す
長谷川甚左衛門

はせがわじんざえもん


寛永19年7月14日 今度御蔵衆私曲之与同人也雖然或軽罪或忠信之儀申出ニ付て―


―身命御助家財欠所之上佐渡え配流 ●「日記」



長谷川清兵衛

はせがわせいびょうえ


(寛永15年12月28日) (銀座) ●「日記」



長谷川但馬守

はせがわたじまのかみ
松平阿波守蜂須賀忠英の家臣



長谷川藤六郎

はせがわとうろくろう


寛永16年2月30日 近日勅使院使下向ニ付御馳走人被仰付之勅使えは松平若狭守―


―溝口出雲守御賄柴村左源太院使え土方彦三郎―


―御賄長谷川藤六 ●「日記」

寛永19年閏9月29日 遠流京極刑部少輔預之 ●「日記」



長谷川長勝
生。藤太郎。藤兵衛
はせがわながかつ
藤兵衛長親の養子。長谷川藤右衛門長次の次男
寛政譜14・101
(または今川家臣置塩孫大夫真為の男。母は藤兵衛長盛の長女)


妻は藤兵衛長親の長女

元和9年2月22日 養父長親の遺跡を継ぐ。駿河国50石200俵。嶋田代官

(寛永12年1月21日) (駿州御代官) ●「日記」

正保元年 新墾田3100石の十分の一の租税を賜る

明暦元年9月21日 死す
長谷川長重 天正10年 生。藤右衛門
はせがわながしげ
藤右衛門長次の長男
寛政譜14・103
妻は牛奥織部昌次の女


家康に仕える

(慶長15年) 父長次の遺跡を継ぐ。200俵。代官

慶安元年4月2日 死す
長谷川長春 寛永3年 生。藤太郎。藤兵衛
はせがわながはる
藤兵衛長勝の長男
寛政譜14・101
母は長谷川藤兵衛長親の長女


妻は有栖川家臣森戸甚左衛門の女

寛永18年8月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

明暦元年 父長勝の遺跡を継ぐ。駿河国50石200俵。嶋田代官

延宝5年6月18日 死す
長谷川宣重
生。(三九郎)。伊兵衛
はせがわのぶしげ
伊兵衛宣元の男
寛政譜14・95 寛永15年1月 書院番

(寛永15年1月15日) (長谷川三九郎御書院番) ●「日記」

(寛永15年) 父宣元の遺跡を継ぐ

寛文11年7月5日 死す
長谷川宣元 慶長元年 生。伊兵衛
はせがわのぶもと
伊兵衛宣次の男
寛政譜14・95 慶長16年 秀忠に仕える。小姓

元和元年~ 徳川忠長に付属される

(寛永9年) 勘気を蒙る

寛永13年12月10日 赦免。家光に仕える

寛永13年12月10日 御赦免 ●「日記」

寛永15年7月6日 死す
長谷川八兵衛
伊兵衛宣元? 伊兵衛宣重?
はせがわはちびょうえ


寛永15年12月23日 駿河衆長谷川八兵衛御書院番可仕之 ●「日記」






長谷川広清 元和元年 生。八左衛門。左馬助
はせがわひろきよ
叔母清雲院の養子。左兵衛藤広の四男
寛政譜13・127
母は川村氏

寛永2年11月1日 家光に拝謁


書院番。400石

正保2年10月2日 死す
長谷川藤継
生。忠兵衛。頓也
はせがわふじつぐ
三郎左衛門藤直の三男
寛政譜13・124 ~慶長4年 家康・秀忠に仕える

慶長14年12月 蛮船追討のときその船主を討つ

~慶長19年 摂津国代官。多田銀山奉行

元和元年~ 病により致仕。京都に住す

寛文5年3月27日 死す
長谷川藤継子

寛政譜13・125
忠兵衛藤継の男

寛永11年閏7月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共


以下不詳
長谷川正清
生。太郎兵衛。久兵衛。太郎兵衛。久兵衛
はせがわまさきよ
三右衛門光長の男
寛政譜14・111 寛永5年 秀忠に仕える

寛永13年~ 勘定

~寛文6年 勘定組頭

寛文6年12月10日 勘定組頭をゆるされる。時々勘定所に出仕

寛文8年4月21日 代官

延宝3年 死す
長谷川正相 元和2年 生。久三郎
はせがわまさすけ
淡路守正信の男
寛政譜14・97
母は長谷川讃岐正吉の長女


妻は伊沢隼人正政信の女

寛永10年12月21日 はじめて家光に拝謁

寛永13年12月27日 書院番 ●「日記」共

(寛永16年10月18日) (酒井壱岐守忠重組か) ●「日記」

寛永16年10月18日 父正信の遺跡を継ぐ。4070石

寛永16年10月18日 長谷川淡路遺跡四千石実子久三郎被下之旨―


―酒井壱岐守老中被申渡之 ●「日記」

慶安3年9月3日 家綱に付属される。西丸に伺候

(慶安4年) 本丸に勤仕

寛文3年1月21日 先弓頭

寛文3年12月28日 布衣

寛文4年7月18日 4070俵

天和2年4月21日 500石4070俵

貞享4年11月6日 先弓頭を辞す。寄合

元禄2年1月14日 死す
長谷川正次 慶長3年 生。藤九郎
はせがわまさつぐ
筑後正成の次男
寛政譜14・94 元和2年 はじめて秀忠に拝謁

元和5年 西丸小姓組

元和7年 300俵

寛永10年 書院番

寛永10年2月7日 500石

寛永16年4月15日 中奥の番士

寛永16年4月15日 中奥之御番 ●「日記」

承応2年 中奥の番士を辞す。小普請

万治3年7月4日 死す
長谷川正尚
生。縫殿助
はせがわまさなお
式部少輔守知の長男
寛政譜13・325
母は豊臣家臣矢野和泉守正倫の女


妻は溝口伯耆守宣勝の女

慶長9年 はじめて家康に拝謁

慶長16年 家康に仕える

元和3年1月 書院番

寛永9年 父守知の遺跡を継ぐ。7000石

寛永10年2月25日 遺領被仰付 ●「日記」

正保元年7月9日 死す
長谷川正信 慶長元年 生。久三郎。淡路守
はせがわまさのぶ
讃岐正吉の養子。長谷川筑後正成の長男
寛政譜14・97
妻は讃岐正吉の長女

寛永2年9月2日 采地の朱印を賜る。(4070石)

~寛永3年 徒頭

寛永9年4月8日 書院番組頭

寛永9年12月15日 従五位下・淡路守

寛永9年12月15日 諸大夫

寛永10年4月23日 (4770石)

寛永10年4月23日 700石御加恩 ●「日記」

寛永10年4月23日 (淡路守の初見) ●「日記」

(寛永11年1月24日) (酒井壱岐守忠重組?) ●「日記」


(4070石)

寛永16年3月8日 死す
長谷川守勝 慶長11年 生。兵助。三左衛門
はせがわもりかつ
式部少輔守知の三男
寛政譜13・326
母は柴田氏


妻は秋山修理亮正重の女

慶長17年 はじめて家康に拝謁

寛永9年 父守知の遺跡分知。3110石

寛永10年2月25日 (兄正尚の相続御礼と同時に御礼) ●「日記」

寛永10年8月15日 小姓組

(寛永16年8月25日) (三左衛門の初出) ●「日記」

明暦2年7月28日 使役

明暦2年12月26日 布衣

万治元年2月29日 死す
長谷川守俊
生。小兵衛
はせがわもりとし
兄縫殿助正尚の養子。式部少輔守知の四男
寛政譜13・325 寛永16年9月26日 長谷川縫殿養子仕度之由連々望之趣達御耳―


―心次第可仕 ●「日記」

寛永16年10月18日 はじめて家光に拝謁

寛永16年10月18日 長谷川縫殿養子小兵衛以太刀目録御礼 ●「日記」

正保3年2月28日 養父正尚の遺跡を継ぐ。7000石

正保3年11月1日 死す。断絶
長谷川守知 (永禄12年) 生。源三郎。右兵衛尉。式部少輔
はせがわもりとも
刑部卿法眼宗仁の長男
寛政譜13・325
室は豊臣家臣矢野和泉守正倫の女


織田信長に仕える

天正10年 秀吉に仕える

天正14年1月19日 従五位下


式部少輔

慶長5年 家康に仕える

元和2年 秀忠に仕える

元和3年5月26日 1万石

寛永9年11月26日
長谷川安勝
生。九兵衛
はせがわやすかつ
源左衛門安重の男
寛政譜14・110
母は長谷川源右衛門安久の女


妻は小嶋助左衛門忠余の女

元和9年12月19日 家光に拝謁

寛永元年 大番


250俵

寛永10年2月7日 450石

寛永18年12月30日 腰物奉行 ●「日記」共

寛永19年12月10日 450俵

寛永19年12月10日 知行悪故訴訟申上之仍御切米ニ替被下之 ●「日記」

寛文8年6月27日 具足奉行

延宝4年7月25日 死す
長谷寺
大和国。真言宗。豊山。神楽院。本長谷寺
はせでら
(前略)
真義真言宗大観68 天正12年8月 専誉が頼玄の席を継ぎ化主となる

天正13年3月 秀吉に攻められ根来山を逃れる

天正15年 豊臣秀長に招かれ大和国にて再興。開山専誉宮賢―


―専誉は小池坊中性院に住す

慶長9年5月5日 専誉寂

慶長9年 2世性盛頼心

慶長14年7月16日 性盛寂

(慶長17年) 3世宥義玄音

(元和2年) 宥義退隠か

(元和2年) 4世秀算京識

元和4年7月14日 宥義寂

寛永18年10月16日 秀算寂

寛永18年 5世尊慶頼心

寛永19年8月17日 和州長谷寺小池坊後住頼心坊被仰付之旨老中列座有て―


―知積院并頼心坊へ伝上意趣 ●「日記」

寛永20年4月16日 和州初瀬寺之小池坊御暇被下依て白銀御袷等被下之次初瀬観音堂―


―為御建立白銀壱万枚被下之云々 ●「日記」

承応3年12月19日 尊慶寂


(後略)
長谷寺(古河)
下総国古河
はせでら




長谷寺小池坊
大和長谷寺能化。妙音院
―こいけぼう
(坊主は長谷寺化主に同じか)

寛永11年7月30日 権僧正 ●「日記」

寛永19年8月17日 和州長谷寺小池坊後住頼心坊被仰付之旨老中列座有て―


―知積院并頼心坊へ伝上意趣 ●「日記」

寛永20年1月18日 入寺之御礼 ●「日記」



長谷部左近

はせべさこん (寛永12年10月6日) 松平土佐守直良の家臣 ●「日記」






波多宇右衛門

はたうえもん
杢助の養子

寛永19年12月10日 波多杢助跡養子宇右衛門 ●「日記」



畠山景吉
生。与一郎。玄昌。幽庵。法橋。法眼
はたけやまかげよし
内蔵助元長の次男
寛政譜2・258
延寿院玄朔の門に入り医術を学ぶ


毛利輝元・秀就に仕える

慶長15年4月24日 法橋

寛永6年1月22日 はじめて秀忠・家光に拝謁。法眼

寛永16年12月28日 松平長門守医師玄昌始て御目見 ●「日記」

寛永16年 家光に仕える

寛永18年12月29日 500石 ●「日記」共


以下不詳
畠山式部

はたけやましきぶ 寛永11年1月2日 (年頭御礼)民部の誤りか。もしくは基昌、義里か。寛政譜2・254






畠山政信 天正19年 生。二郎四郎。民部。休山
はたけやままさのぶ
左衛門佐貞政の男
寛政譜2・250
母は貴志氏


妻は片桐東市正且元の女

元和元年7月 はじめて家康に拝謁

寛永元年10月 江戸に来て仕える。300石

寛文4年9月27日 致仕。休山と号す

延宝3年1月2日 死す
畠山義里 元和7年 生。式部。下総守。飛騨守。侍従。窓暫
はたけやまよしさと
下総守義真の次男
寛政譜2・254
妻は松平縫殿助真次の女

寛永13年8月25日 はじめて家光に拝謁

寛永13年8月25日 畠山長門子共初て御礼 ●「日記」

万治2年2月9日 父義真の家を継ぐ。3120石

寛文3年1月15日 奥高家

寛文3年2月27日 従五位下。侍従。下総守

天和元年12月27日 従四位下

天和3年3月7日 奥高家肝煎

貞享3年5月27日 奥高家肝煎を辞す

貞享3年7月9日 致仕。窓暫と号す

元禄4年2月13日
畠山義真 天正7年 生。弥三郎。長門守。下総守。一庵
はたけやまよしざね
民部少輔義春の三男
寛政譜2・254
母は長尾越前守政景の女


上杉景勝の養子となる


父義春のもとにかえる

慶長6年 はじめて家康に拝謁

慶長17年閏10月15日 従五位下・長門守

元和3年5月26日 3120石

万治2年2月9日 致仕。一庵と号す

延宝2年9月28日 死す
旗さし筑後

はたさしちくご
旗指物職人か

正保元年12月29日 御切米被下之 ●「日記」



秦秦石 元和3年 生。悰渭。寿命院。法眼
はたしんせき
寿命院法印徳隣の長男
寛政譜10・328
母は秦寿命院法印宗巴の三女


妻は紀伊家臣小出権大夫の女

寛永10年8月 はじめて家光に拝謁

(寛永11年1月2日) (医者)(寿命院) ●「日記」

寛永11年4月8日 父徳隣の遺跡を継ぐ。500石

寛永11年4月8日 続目之御礼 ●「日記」

寛永11年8月2日 亡父相続之御礼 ●「日記」

慶安4年9月15日 番医

承応3年12月30日 法眼

寛文2年9月13日 死す
秦徳隣 天正19年 生。有室。寿命院。法眼。法印
はたとくりん
寿命院法印宗巴の養子。吉田盛方院浄慶の次男
寛政譜10・327
妻は寿命院法印宗巴の三女

慶長14年 はじめて家康に拝謁

慶長14年 はじめて秀忠に拝謁

(寛永3年) (諸医の首)

寛永8年5月20日 死す
波多野

はたの
座頭






波多杢助

はたもくのすけ



御留守居方 ●「日記」寛永19年12月10日条

(寛永19年) 死す
鉢阿弥

はちあみ
錺屋か






鉢阿弥意休

はちあみいきゅう


正保元年12月29日 御切米被下之 ●「日記」



鉢阿弥越前

はちあみえちぜん







八条宮智忠親王 元和5年11月1日 生。八条宮。二品。中務卿
はちじょうのみやのりただ
智仁親王の第一王子
詰所系図
母は京極丹後守高知の長女常照院
(系図綜覧上・78)
簾中は松平肥前守前田利常の女富姫真照院
三壷聞書262 寛永6年4月 父智仁親王が薨去。(八条宮)

寛永19年8月18日 松平肥前守息女へ銀子三百枚巻物五拾被下之―


―是八条殿え縁辺之儀ニ付て也 ●「日記」

寛永19年8月 入輿あり

明暦3年1月14日 二品。中務卿

寛文2年7月7日 薨去
蜂須賀家政 永禄元年 生。小六。阿波守。蓬庵
はちすかいえまさ
修理大夫正勝の男
寛政譜6・240
室は豊臣家臣生駒八右衛門家長の女


織田右大臣信長に仕える

天正3年 秀吉に属す

天正12年 3000石

天正13年 阿波国徳嶋城17万3000石

天正14年1月2日 従五位下・阿波守

慶長5年 致仕。蓬庵と号す

寛永15年12月30日

寛永16年1月11日 蓬庵死去付息阿波守へ為上使多賀左近可被差遣 ●「日記」
蜂須賀隆重 寛永11年 生。万之助。下総。飛騨守。寛楽
はちすかたかしげ
松平阿波守蜂須賀忠英の次男
寛政譜6・250
母は小笠原右近将監忠真の養女繁小笠原信濃守忠脩の女齢昭院


室は蜂須賀家臣清田氏

正保元年5月7日 家綱に付属される。小姓。はじめて家綱に拝謁

正保元年5月7日 若君様え御奉公被召出今日於二丸御目見 ●「日記」

正保元年5月11日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

慶安3年9月9日 西丸にて朔望の拝賀に登営

(慶安4年) 本丸に勤仕

慶安4年8月16日 従五位下・飛騨守

明暦3年3月15日 詰衆。3000俵

寛文6年 宗家綱通を後見

寛文12年9月28日 後見を辞す

延宝6年10月7日 宗家綱矩を後見

延宝6年10月19日 阿波国富田5万石

延宝6年11月8日 詰衆をゆるされる

元禄元年4月14日 雁間に伺候

元禄4年閏8月28日 後見を辞す

宝永2年12月26日 致仕。寛楽と号す

宝永4年8月24日
蜂須賀忠英 慶長16年 生。千松丸。阿波守。侍従。松平を称す
はちすかただひで
阿波守至鎮の男
寛政譜6・243
母は家康の養女氏姫小笠原兵部大輔秀政の長女敬台院
蜂須賀家記204
室は小笠原右近将監忠真の養女繁小笠原信濃守忠脩の女齢昭院

元和2年6月 はじめて秀忠に拝謁

元和6年 父至鎮の遺領を継ぐ。阿波国徳島城25万7000石

元和9年9月10日 御前にて元服。偏諱を賜る。従四位下・阿波守。松平の称号を許される

寛永3年8月19日 侍従

正保3年 蟄居

正保3年3月25日 ゆるされ登営する

承応元年4月4日
蜂須賀光隆 寛永7年 生。千松丸。因幡守。阿波守。侍従。松平を称す
はちすかみつたか
阿波守忠英の長男
寛政譜6・244
母は小笠原右近将監忠真の養女繁小笠原信濃守忠脩の女齢昭院


室は小笠原信濃守長次の女

寛永19年3月 はじめて家光に拝謁

慶安元年12月22日 家光に御前にて元服。偏諱を賜る。従四位下。因幡守

承応元年5月27日 父忠英の遺領を継ぐ。阿波国徳島城25万7000石。大広間に伺候

承応2年12月28日 侍従。阿波守

寛文6年5月27日
蜂須賀至鎮次女
寛政譜6・244
阿波守至鎮の次女
寛政譜6・49
母は家康の養女氏姫小笠原兵部大輔秀政の長女敬台院

(寛永10年7月1日) (松平阿波守妹) ●「日記」

寛永10年7月1日 水野出雲守成貞と縁組 ●「日記」


女子を産むか。のちの松平阿波守家臣賀嶋長門政玄の妻


女子を産むか。のちの松平阿波守家臣稲田主税植春の妻


水野十郎左衛門成之を産む

寛永19年 水野又八郎忠丘を産む


女子を産むか。のちの松平阿波守家臣山崎小八郎幸玄の妻



八大坊
相模国大山別当。真言宗
はちだいぼう


寛永18年12月1日 相州大山八大坊御目見是彼山之御造営被仰付就令出来御礼 ●「日記」



八戸弥六郎

はちのへやろくろう
南部山城守重直の家老



八戸弥六郎娘



八戸弥六郎の女

(寛永17年3月15日) (南部山城守証人) ●「日記」



八幡
山城国。石清水八幡か
はちまん
単に「八幡」とある場合は石清水八幡宮を指すか



八幡(信濃)
信濃国
はちまん




八幡(駿府)
駿河国府中
はちまん




八幡(駿河青山)
駿河国青山
はちまん




八幡(遠江)
遠江国









蜂屋定吉 元和9年 生。彦大夫。七兵衛。定休
はちやさだよし
七兵衛定頼の養子。布施孫兵衛重直の三男
寛政譜5・236
母は七兵衛定頼の次女


妻は七兵衛定頼の養女堀豊前利政の女

寛永6年 養父定頼の遺跡を継ぐ。700石300俵。寄合

寛永18年4月16日 書院番 ●「日記」共

万治2年10月7日 先弓頭

万治2年12月28日 布衣

天和2年4月21日 1200石300俵

元禄8年1月11日 鎗奉行

元禄10年7月26日 1500石

宝永2年12月10日 鎗奉行を辞す。寄合

宝永3年7月27日 致仕。定休と号す。500石

正徳4年4月16日 死す
蜂屋正次
生。源右衛門
はちやまさつぐ
源助定則の養子。蜂屋源左衛門定近の三男
寛政譜5・239
妻は三橋善兵衛成次の女

(慶長7年) 養父定則の遺跡を継ぐか

~慶長19年 秀忠に仕える。大番

寛永13年4月9日 奥方番 ●「日記」共


700石

慶安2年7月4日 死す
蜂屋正列
生。才三郎。十郎右衛門
はちやまさつら
伝右衛門栄正の次男
寛政譜5・245
母は織田家臣高田伝助の女


妻は久松太郎左衛門定次の女


家康に仕える。現米50石月俸5口

寛永20年 鷹師

延宝6年7月14日 致仕

延宝6年9月20日 死す
蜂屋正成 天正17年 生。五郎兵衛
はちやまさなり
三郎左衛門栄包の長男
寛政譜5・243
(もしくは市左衛門栄宅の五男)


家康に仕える


手鷹師。現米100石

(寛永10年2月21日) (御鷹師) ●「日記」

寛文4年6月9日 死す
鉢屋与一郎
鉢屋衆の頭領か
はちやよいちろう
芸能・忍集団。川原者。茶筅。鉢屋。番太。苫屋

寛永15年10月1日 同所(御白書院)御縁ニて鉢屋与一郎御目見松平出雲守披露之 ●「日記」



蜂屋善遠 文禄2年 生。九郎次郎
はちやよしとお
九郎左衛門善成の男
寛政譜19・178
妻は一尾淡路守通春の女

慶長 秀忠に仕える。近習番


小姓組

(元和2年) 父善成の遺跡を継ぐ。300石


1000石

寛永10年8月29日 死す
蜂屋栄知
生。作内
はちやよしとも
伝右衛門栄正の長男
寛政譜5・244
母は織田家臣高田伝助の女


家康に仕える。手鷹師

(寛永元年) 父栄正の遺跡を継ぐ。420石

寛文9年2月9日 死す
蜂屋善成
生。九郎左衛門
はちやよしなり
九郎次郎善範の男
寛政譜19・178 天正19年 家康に仕える。300石

元和2年7月8日 死す
蜂屋栄之
生。権三郎。彦左衛門。兵左衛門
はちやよしゆき
作内栄知の男
寛政譜5・244
妻は蜂屋十郎右衛門正列の女

寛永13年11月8日 はじめて家光に拝謁

寛永13年11月8日 蜂屋作内子御鷹場とねりにおいて初て御目見 ●「日記」


手鷹師

寛文9年7月10日 父栄知の遺跡を継ぐ。420石

天和2年3月21日 手鷹師をゆるされる。小普請

貞享元年12月18日 致仕

元禄6年3月22日 死す
服部貞富 天正13年 生。久兵衛
はっとりさだとみ
美濃貞信の男
寛政譜18・61
妻は太田彦左衛門清政の女

慶長5年 家康に仕える

~慶長19年 大番。200俵

寛永10年2月7日 400石

寛永19年 大番を辞す。小普請

寛文9年3月29日 死す
服部長右衛門

はっとりちょうえもん


寛永18年4月14日 火之番御役被仰付之御歩行より新規ニ出之 ●「日記」






服部直次
生。惣左衛門
はっとりなおつぐ

寛政譜18・81 某年 61歳で死す



服部直盛
生。権八郎
はっとりなおもり
惣左衛門直次の男
寛政譜18・82 寛永13年2月6日 はじめて家光に拝謁

寛永13年2月6日 服部惣左衛門子初て御礼 ●「日記」

寛永13年12月27日 大番 ●「日記」共

某年 22歳で死す
服部信成 元和7年 生。与左衛門
はっとりのぶなり
権大夫政信の四男
寛政譜18・68
母は加藤喜左衛門正次の女


妻は川口久助宗次の女

寛永12年8月11日 はじめて家光に拝謁

寛永12年8月11日 服部権大夫子始て御目見 ●「日記」

寛永16年6月22日 小姓組 ●「日記」共

寛永18年12月13日 300俵 ●「日記」共

寛永19年11月12日 父政信の遺跡分知。1500石

寛永19年11月12日 服部権大夫遺跡四千弐百石之内弐千七百石余新左衛門―


―千五百石余与左衛門被下 ●「日記」

寛文7年11月10日 小姓組を辞す。小普請

天和2年5月29日 致仕

元禄5年1月23日 死す
服部半三郎

はっとりはんざぶろう 寛永10年3月22日 営中にて山中三右衛門と僕従1人を殺害

寛永10年3月23日 切腹 ●「日記」



服部政次 慶長11年 生。杢助
はっとりまさつぐ
杢助政重の男
寛政譜18・70 元和2年 はじめて秀忠に拝謁

元和9年 小姓組

寛永元年 父政重の遺跡を継ぐ。遠江国敷智郡1000石。今切関所番

正保3年 死す
服部政信 天正7年 生。与十郎。権大夫
はっとりまさのぶ
権大夫政光の長男
寛政譜18・68
母は高力河内守清長の女


妻は加藤喜左衛門正次の女

慶長5年 関ケ原役にて使番

慶長5年 500石

慶長19年 大坂の役にて使番。秀忠に従う

元和元年 父政光の遺跡を継ぐ。3500石

元和5年 遠江国今切関所番。4000石

寛永2年12月11日 4290石の朱印

寛永19年5月17日 死す
服部政久(玄蕃)
生。玄蕃。玄蕃頭
はっとりまさひさ
権大夫政信の次男
寛政譜18・68
母は加藤喜左衛門正次の女


家光に仕える。小姓組

元和8年12月 従五位下・玄蕃頭


徒頭


小姓組組頭


1000石

~寛永3年 書院番組頭

寛永15年3月30日 死す
服部政久子 (寛永15年)
寛政譜18・68
玄蕃頭政久の男

寛永15年7月2日 父政久の遺跡を継ぐ。1000石

寛永15年7月2日 服部玄蕃頭千石実子一歳跡職被仰付之 ●「日記」


以下不詳
服部政久(新左衛門)
生。与一郎。新左衛門
はっとりまさひさ
権大夫政信の三男
寛政譜18・68
母は加藤喜左衛門正次の女

元和8年 はじめて家光に拝謁

元和8年10月 小姓組。200俵

寛永10年2月7日 400石


(勘気を蒙るか?)

寛永16年6月22日 御小姓組 ●「日記」

寛永19年11月12日 父政信の遺跡を継ぐ。2790石

寛永19年11月12日 服部権大夫遺跡四千弐百石之内弐千七百石余新左衛門―


―千五百石余与左衛門被下 ●「日記」

正保4年5月17日 死す。断絶
服部元延 慶長11年 生。兵右衛門。一郎右衛門
はっとりもとのぶ
市郎右衛門元正の男
寛政譜18・54
妻は大久保治右衛門忠佐の女

元和5年 秀忠に仕える。御傍に勤仕


大番。200俵

寛永10年2月7日 400石

寛永18年12月4日 父元正の遺跡を継ぐ。1000石。大番組頭

寛永18年12月4日 千石水野備後組服部一郎右衛門跡右惣領兵右衛門ニ被下之―


―備後守御番組之組頭親のことく依被仰付也兵右衛門取来之―


―四百石上ル ●「日記」

承応元年11月16日 死す
服部元正 天正8年 生。市平。市郎右衛門
はっとりもとまさ
市郎右衛門保英の長男
寛政譜18・54 文禄3年 家康に仕える。御傍に勤仕

寛永2年10月23日 300石の朱印


大番


大番組頭


500石

寛永10年2月23日 1000石

寛永17年8月23日 死す

(寛永18年12月4日) (水野備後組) ●「日記」
服部保秋 寛永17年 生。権之助。中
はっとりやすあき
叔父中保継の養子。三九郎保重の男
寛政譜18・72
母は柴田筑後守康長の女


妻は長谷川久三郎正相の女

寛永18年12月4日 実父保重の遺跡を継ぐ。300俵

寛永18年12月4日 三百俵加々爪甲斐守組服部三九郎跡惣領権之助ニ被下之 ●「日記」


叔父保継の養子となる。300俵は収公

承応3年12月27日 養父保継の遺跡を継ぐ。3050石。小普請

天和3年3月1日 死す
服部保定 慶長10年 生。三郎右衛門。安右衛門
はっとりやすさだ
安右衛門保森の男
寛政譜18・58
母は向井氏


妻は服部源兵衛保次の女


後妻は朝倉氏

元和9年6月24日 はじめて家光に拝謁


小十人。100俵

寛永9年8月25日 200俵

寛永18年10月26日 小十人組組頭

寛永18年10月26日 小十人組之組頭之内年寄之者御番御免被成連々別之御役可被仰付―


―之旨ニ依テ佐々木庄兵衛小佐手左介西山忠左衛門山本又右衛門―


―竹内平右衛門右五人御番御免鳥居三郎右衛門小野忠三郎―


―阿部甚五左衛門服部三郎右衛門坂部孫四郎此五人右之替ニ―


―組頭被仰付之 ●「日記」

正保3年12月4日 300俵

万治2年5月9日 具足奉行

延宝3年4月12日 具足奉行を辞す。小普請

貞享3年9月22日 死す
服部保郷 慶長7年 生。平吉
はっとりやすさと
市郎右衛門保英の三男
寛政譜18・55
母は村串与三左衛門の女

慶長19年 家康に仕える。大坂の役に供奉

元和元年~ 大番。200俵

寛永10年2月2日 大番組頭 ●「日記」共

寛永10年2月23日 600石

慶安元年10月27日 先鉄炮頭

慶安元年12月30日 布衣

慶安4年11月21日 600石300俵

承応元年10月8日 先鉄炮頭を辞す。寄合

承応3年11月8日 死す
服部保重
生。三九郎
はっとりやすしげ
中保俊の長男
寛政譜18・72
母は水野太郎作清次の女


妻は柴田筑後守康長の女

寛永9年12月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共


小姓組。300俵

寛永18年8月5日 死す

(寛永18年12月4日) (加々爪甲斐守組) ●「日記」
服部保俊
生。三九郎。中
はっとりやすとし
中保正の次男
寛政譜18・72
母は紀伊家臣川井刑部重長の女


妻は水野太郎作清次の女

慶長13年 秀忠に仕える

(元和2年) 父保正の遺跡を継ぐ。1550石


(中)


小姓組

寛永8年2月12日 歩行頭 ●「日記」共

寛永10年12月27日 2050石

寛永10年12月27日 五百石御加増 ●「日記」

寛永12年11月1日 小姓組組頭

寛永12年11月1日 御小姓組之組頭 ●「日記」

(寛永13年12月13日) (布衣) ●「日記」

寛永19年9月1日 荒井関所番

寛永19年9月1日 荒井御番 ●「日記」

寛永20年6月6日 3050石

寛永20年6月6日 御加恩千石被下之都合三千石余ニ被仰付 ●「日記」

慶安4年6月7日 死す
服部保信(七郎左衛門) 寛永元年 生。長右衛門。七郎左衛門
はっとりやすのぶ
三右衛門保久の長男
寛政譜18・74 寛永9年 はじめて家光に拝謁

寛永18年7月12日 大番

寛永20年12月18日 弐百俵 ●「日記」

寛文元年10月12日 新番

延宝3年7月11日 父保久の遺跡を継ぐ。500石


新番を辞す

元禄14年1月25日 死す
服部保信(半右衛門) 天正10年 生。半右衛門
はっとりやすのぶ
中保次の次男
寛政譜18・75
妻は内藤平右衛門の女

慶長2年 家康に仕える

~元和元年 腰物奉行。300俵

寛永17年4月10日 死す
服部保信(半右衛門子)
生。竹之助。半右衛門
はっとりやすのぶ
半右衛門保信の長男
寛政譜18・76
母は内藤平右衛門の女


妻は大久保次郎八郎忠重の女

寛永13年12月15日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共


大番

(寛永17年) 父保信の遺跡を継ぐ。300俵


大番を辞す。小普請

延宝2年12月3日 致仕

天和2年4月4日 死す
服部保久 文禄3年 生。三八郎。三右衛門
はっとりやすひさ
中保正の三男
寛政譜18・73
母は紀伊家臣川井刑部重長の女

慶長13年10月13日 秀忠に仕える。小姓組

(元和2年) 父保正の遺跡分知。500石

~寛永2年 西丸に伺候

寛永9年4月 大番

寛永10年2月7日 700石

慶安2年~ 大番を辞す。小普請

延宝3年5月19日 死す
服部保好 寛永元年 生。五郎八。五兵衛。甚大夫
はっとりやすよし
源兵衛保次の長男
寛政譜18・57 寛永15年8月1日 はじめて家光に拝謁

寛永18年5月26日 大番

寛永20年12月18日 弐百俵 ●「日記」

慶安元年6月14日 新番

明暦元年 父保次の遺跡を継ぐ。200石


200俵

万治2年12月26日 250俵

寛文9年9月13日 書物奉行

延宝7年12月19日 350俵

元禄4年11月23日 死す
服部与右衛門
与十郎政長か?寛政譜18・68
はっとりよえもん 寛永10年12月19日 御加増被下之弐百石煩本復ニ付て被下之 ●「日記」






花井右衛門

はないうえもん


寛永15年10月17日 御国御免 ●「日記」



花井左京
庄右衛門吉久か
はないさきょう


寛永15年1月15日 御書院番 ●「日記」



花井定義 元和5年 生。十三郎。(源左衛門)。治左衛門
はないさだよし
勘左衛門定光の長男
寛政譜15・183
母は松平越後守家臣渥美久兵衛友重の女


妻は成瀬三郎兵衛重久の女

寛永9年 はじめて家光に拝謁

寛永18年7月5日 大番

寛永20年12月18日 花井源左衛門大御番無足当年より御切米弐百俵被下之 ●「日記」

承応2年12月23日 父定光の遺跡を継ぐ。500石

寛文2年10月19日 小普請奉行

貞享元年11月25日 小普請


拝謁をはばかる

元禄3年4月17日 ゆるされる

元禄11年4月26日 死す
花井吉久 寛永2年 生。(左京)。庄右衛門
はないよしひさ
庄右衛門吉高の養子。浅井七平元吉の三男
寛政譜18・332
妻は庄右衛門吉高の女


後妻は三枝清右衛門吉勝の女

寛永11年 養父吉高の家を継ぐ。330石300俵

寛永15年1月 書院番

(寛永15年1月15日) (花井左京御書院番) ●「日記」

元禄2年2月29日 書院番を辞す。小普請

元禄9年2月5日 甥大岡五左衛門忠英に連座し閉門

元禄9年12月9日 赦免。なお拝謁をはばかる

元禄10年4月20日 ゆるされる

元禄10年5月1日 死す
花園公久 天正19年 生。侍従。少将。中将
はなぞのきんひさ
正親町三条中将実教の長男
諸家伝下・957 元和5年1月6日 従五位下
宮廷公家系図集覧275 元和6年閏12月23日 侍従。昇殿

元和8年1月11日 右少将

元和9年1月5日 従五位上

寛永4年1月5日 正五位下

寛永7年1月11日 禁色

寛永8年1月6日 従四位下

寛永9年1月11日 右中将

寛永12年10月6日
花房正堅 慶長19年 生。勘兵衛
はなぶさまさかた
兄勘右衛門正盛の養子。志摩守正成の六男
寛政譜2・211
母は別所長治家臣神沢善左衛門の女


妻は井上次兵衛利義の女

寛永7年 はじめて秀忠に拝謁。近習

寛永9年 書院番

寛永9年12月3日 300俵

寛永10年2月7日 500石

明暦2年閏4月5日 死す
花房正信 慶長7年 生。助之丞
はなぶさまさのぶ
志摩守正成の四男
寛政譜2・214
母は別所長治家臣神沢善左衛門の女


妻は秋田信濃守家臣荒木金右衛門の女

元和4年 家光に付属される。西丸小姓組


300俵


400俵

(寛永元年) 本丸に勤仕

寛永10年2月7日 600石


書院番

寛永19年8月5日 浅草蔵粮米会計のことを監す

寛永19年8月5日 浅草御蔵御兵粮之御勘定有之席え相越無油断様可相斗 ●「日記」


書院番を辞す。小普請

元禄元年1月21日 死す
花房正盛 天正14年 生。勘右衛門。一舟
はなぶさまさもり
志摩守正成の次男
寛政譜2・211
母は宇喜多直家の家臣遠藤修理亮俊通の女

慶長4年 豊臣秀頼に仕える


辞して去る

慶長19年 秀忠に拝謁

慶長19年 大坂の役にて松平左衛門督忠継の備にあり

元和元年 大坂の役にて書院番頭内藤若狭守清次に属す

寛永3年 使番

寛永8年 加増。1000石

寛永9年11月27日 布衣 ●「日記」共

寛永10年4月16日 目付 ●「日記」共

寛永10年10月26日 佐州へ被遣 ●「日記」

寛永11年 (勘気を蒙るか?)

(寛永11年6月14日) (佐渡御奉行) ●「日記」

寛永16年11月8日 目付

寛永16年11月8日 如前々御目付可仕 ●「日記」

万治元年8月28日 目付を辞す

寛文3年9月23日 死す
花房正栄 文禄3年 生。右馬助
はなぶさまさよし
志摩守正成の三男
寛政譜2・212
母は宇喜多直家家臣遠藤修理亮俊通の女


妻は日野大納言輝資の女


秀忠に仕える。書院番。月俸30口

元和元年 1000石

元和3年~寛永3年 西丸に勤仕


本丸に勤仕

寛永9年8月18日 使番 ●「日記」共

寛永9年12月29日 布衣 ●「日記」共

寛永11年5月14日 2000石

寛永11年5月14日 御加恩千石 ●「日記」

寛永16年10月4日 死す
花房職重 寛永6年 生。五郎八。大膳
はなぶさもとしげ
五郎左衛門職利の長男
寛政譜2・198
母は堀田勘左衛門正吉の女


妻は斎藤摂津守三友の女

寛永19年8月10日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

慶安元年10月25日 父職利の遺跡を継ぐ。7220石

貞享4年6月18日 死す
花房職利 慶長13年 生。平吉。五郎左衛門
はなぶさもととし
五郎左衛門職則の長男
寛政譜2・198
母は松平相模守家臣津田監物信蕃の女


妻は堀田勘左衛門正吉の女

元和6年12月 はじめて秀忠に拝謁

元和6年 父職則の遺跡を継ぐ。7220石

慶安元年1月2日 死す
花房職則 天正8年 生。五郎左衛門
はなぶさもとのり
助兵衛職之の長男
寛政譜2・198
母は宇喜多直家家臣額田三河守の女


妻は松平相模守家臣津田監物信蕃の女

慶長5年8月 はじめて家康に拝謁

慶長5年 父職之とともに備前国岡山城をうけとる

元和3年 父職之の遺跡を継ぐ。7220石

元和6年11月27日 死す

(寛永13年8月25日) (花房平左衛門子共初て御礼) ●「日記」
花房職休 慶長11年 生。主馬。平左衛門
はなぶさもとよし
五郎左衛門職則の次男
寛政譜2・200
母は松平相模守家臣津田監物信蕃の女

寛永13年4月 はじめて家光に拝謁

寛永13年8月25日 花房平左衛門子共初て御礼 ●「日記」

寛永13年12月27日 書院番 ●「日記」共

寛永16年12月13日 300俵 ●「日記」共

慶安元年3月25日 綱重に付属される。抱守


小姓組番頭


留守居


1020石

延宝元年2月7日 死す
花房栄勝 元和7年 生。又七郎
はなぶさよしかつ
右馬助正栄の次男
寛政譜2・213
母は日野大納言輝資の女


妻は花房志摩守幸次の女

寛永9年 はじめて家光に拝謁

寛永13年8月9日 小姓組 ●「日記」共

寛永16年閏11月7日 父正栄の遺跡を継ぐ。1000石

寛永16年閏11月7日 花房右馬助跡子又七郎ニ被下之但先年御加増之分は被召上之 ●「日記」

慶安3年9月3日 西丸書院番

(慶安4年) 本丸に勤仕

寛文元年1月8日 死す
花房幸次 (天正10年) 生。弥左衛門。志摩守
はなぶさよしつぐ
志摩守正成の長男
寛政譜2・207
母は宇喜多直家の家臣遠藤修理亮俊通の女


妻は戸川肥後守達安の女

慶長8年 はじめて家康に拝謁

元和元年 大坂の役にて永井右近大夫直勝に属す

元和9年4月 父正成の遺跡を継ぐ。備中国5000石。寄合

(寛永2年7月27日) 6050石

寛永3年 使番。従五位下・志摩守

寛永8年3月 伊勢国の代官。山田奉行

寛永10年3月4日 山田奉行。船手役。備中・伊勢国9050石

寛永10年3月4日 3000石加増。勢州御代官御赦免。彼国舩手之役者 ●「日記」

寛永18年4月12日 死す
花房幸昌 寛永3年 生。弥之助。外記
はなぶさよしまさ
志摩守幸次の三男
寛政譜2・207
妻は堀淡路守直升の女

寛永11年2月15日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永18年7月4日 父幸次の遺跡を継ぐ。備中国6050石

寛永18年7月4日 花房志摩守跡職備中国知行六千三百石惣領弥之助ニ被下之 ●「日記」

寛永18年8月1日 継目之御礼 ●「日記」

寛文元年3月7日 定火消

寛文元年12月28日 布衣

寛文4年8月13日 弟左兵衛幸清に分知。備中国5750石

延宝3年8月20日 5750俵

天和3年2月7日 百人組頭

貞享3年7月22日 逼塞

貞享3年9月5日 小普請

貞享4年7月13日 ゆるされる

元禄8年9月6日 死す
花房幸之 慶長6年 生。弥左衛門
はなぶさよしゆき
志摩守幸次の長男
寛政譜2・207
母は戸川肥後守達安の女


(書院番か小姓組)

寛永9年11月5日 進物役

寛永9年11月5日 本番御免。進物番 ●「日記」

寛永10年11月16日 死す
花村正次
生。忠兵衛
はなむらまさつぐ
三郎兵衛正吉の男
寛政譜20・74
母は曲淵清兵衛吉門の女

寛永20年8月30日 父正吉の遺跡を賜る ●「日記」共

正保2年8月5日 大番

慶安2年3月 綱吉に付属される。神田館にて書院番

延宝2年5月2日 死す
花村正吉
生。忠兵衛。三郎兵衛
はなむらまさよし
但馬正資の男
寛政譜20・74
妻は曲淵清兵衛吉門の女

慶長19年 家康に拝謁


甲府城勤番

元和2年 徳川忠長に付属される

(寛永9年) 処士

寛永10年 月俸を賜る

寛永11年 死す
馬場五郎作
生。五郎作
ばばごろさく
三郎左衛門利重の男
寛政譜2・395
(利重の次男茂兵衛重昌か三男彦四郎宣隆と同一人物かとの注釈あり)

寛永9年8月15日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共



馬場利興 寛永3年 生。権六郎。左衛門
ばばとしおき
三郎左衛門利重の四男
寛政譜2・397
母は妻木長門守忠頼の女

寛永18年11月14日 家綱に付属される。小姓 ●「日記」共

慶安3年9月4日 西丸書院番。300俵

(慶安4年) 本丸に勤仕

明暦3年12月25日 父利重の遺跡分知。600石

延宝8年6月19日 死す
馬場利重
生。三郎左衛門
ばばとししげ
半左衛門昌次の長男
寛政譜2・394
母は千村平右衛門良重の女


妻は妻木長門守頼忠の女

慶長5年 はじめて家康に拝謁。家康に仕える

(元和4年) 父昌次の遺跡を継ぐ。1600石


秀忠に仕える。書院番

寛永8年2月12日 使番 ●「日記」共

寛永9年4月 目付

寛永9年9月2日 五の字の指物 ●「日記」

寛永9年11月27日 布衣 ●「日記」共

寛永12年12月14日 2600石

寛永12年12月14日 千石御加恩 ●「日記」

(寛永13年12月13日) (御目付) ●「日記」

寛永15年11月10日 長崎奉行

寛永15年11月10日 馬場三郎左衛門大河内善兵衛長崎之奉行被仰付け―


―隔年ニ一人宛可相越之旨也 ●「日記」

寛永16年2月3日 馬場三郎左衛門大河内善兵衛御座之間へ被為召近日長崎へ―


―可相越之旨被仰出之然は於彼地両人米弐千俵被下之従来年は―


―壱人宛雖被差遣之其侭弐千俵被下置之旨上意也云々 ●「日記」

承応元年1月28日 長崎奉行を辞す

明暦3年9月10日 死す
馬場信正
生。次郎兵衛。八郎左衛門
ばばのぶまさ
右衛門尉信成の長男
寛政譜3・362 元和7年2月22日 はじめて秀忠に拝謁。父信成の遺跡を継ぐ。武蔵国鉢形領

元和9年 徳川忠長に付属される

(寛永9年) 処士

寛永17年 家光に仕える

寛永18年11月15日 160石

寛永18年11月15日 芦田武川衆十八人駿州ニて之本知并御切米如前々被下之 ●「日記」

寛永20年12月18日 160俵。宝蔵番

寛永20年12月18日 知行悪所ニ付御切米ニ替被下之 ●「日記」


宝蔵番を辞す

(延宝7年) 死す
馬場房次
生。源三郎。左次兵衛
ばばふさつぐ
源右衛門房頼の男
寛政譜3・365 寛永18年12月4日 父房頼の遺跡を継ぐ。200俵。小普請

寛永18年12月4日 弐百俵御納戸馬場源右衛門跡右惣領ニ被下之 ●「日記」

延宝4年 死す
馬場房頼
生。源右衛門
ばばふさより
彦八郎房家の男
寛政譜3・365
家光に仕える。小十人

寛永13年2月23日 納戸番。200俵

寛永13年2月23日 御納戸衆 ●「日記」

寛永18年 死す
馬場六之助

ばばろくのすけ


寛永18年4月14日 火之番御役被仰付之此以前之親之役被仰付之 ●「日記」



馬場六之助親



火之番 ●「日記」


死す
羽太正忠 元和8年 生。勘十郎。権兵衛
はぶとまさただ
十大夫正成の長男
寛政譜17・13
母は多門縫殿助重信の女


妻は恒岡佐大夫資直の女

寛永13年 家光に仕える。大番

寛永13年3月25日 羽太半蔵子被召出之 ●「日記」

寛永13年3月25日 皆川山城守組(大番) ●「日記」

慶安3年12月11日 父正成の遺跡を継ぐ。200俵

寛文2年9月27日 大番組頭

寛文2年12月22日 400俵

貞享2年9月14日 先弓頭

貞享2年12月28日 布衣

元禄2年12月29日 先弓頭を辞す。寄合

元禄8年12月6日 致仕。300俵

宝永2年4月22日 死す
羽太正成 慶長元年 生。内記。十大夫
はぶとまさなり
半蔵正俊の男
寛政譜17・13
母は上田兵庫元俊の女


妻は多門縫殿助重信の女

慶長2年 父正俊死去により祖父半蔵正次に養われる

慶長19年 家康に仕える

元和元年 近習

元和2年 大番。150石

(寛永13年3月25日) (羽太半蔵)(皆川山城守組) ●「日記」

慶安3年7月15日 死す
浜名惣社
遠江国浜松。
はまなそうしゃ




浜松五社
遠江国浜松。秀忠の産土
はままつごしゃ


寛永11年7月2日 新加領弐百石被寄附之 ●「日記」



浜松諏訪
遠江国浜松。秀忠の産土
はままつすわ


寛永15年10月17日 浜松諏訪神主宮内嶋より赦帰神主ハ無用可仕事 ●「日記」



浜松二諦坊
遠江国浜松。真言宗修験道
はままつにたいぼう




葉室頼業 元和元年4月24日 生。兵部少輔。少弁。蔵人。中弁。蔵人頭。大弁。参議。
はむろよりなり
中納言。大納言
諸家伝上・551
故権中納言頼宣の子として相続。万里小路参議孝房の次男


母は藤原重吉の女


妻は橋本権中納言実村の女

元和9年9月25日 従五位下

寛永4年9月13日 元服。昇殿。従五位上。兵部少輔

寛永9年1月5日 正五位下

寛永12年1月11日 権右少弁

寛永14年12月20日 右少弁

寛永16年3月2日 蔵人。正五位上

寛永18年8月23日 左少弁

寛永19年1月21日 右中弁

寛永19年7月8日 従四位下。蔵人を辞す

寛永19年11月26日 従四位上

寛永20年1月5日 正四位下

寛永20年10月16日 蔵人頭。左中弁

寛永20年12月28日 正四位上

正保元年12月26日 右大弁

正保2年10月18日 参議・右大弁

正保2年12月28日 参議・左大弁

正保3年1月5日 従三位

正保4年12月30日 左大弁を辞す

慶安2年1月5日 正三位

慶安2年7月17日 参議を辞す

承応元年11月12日 権中納言

承応3年6月1日 神宮伝奏

承応3年12月1日 神宮伝奏を辞す

明暦元年1月5日 従二位

明暦元年2月6日 賀茂伝奏

明暦2年12月26日 権大納言

万治3年12月22日 正二位

寛文6年12月22日 権大納言を辞す

寛文8年5月23日 軽服により賀茂伝奏を辞す

延宝3年6月24日 薨去
はやを

はやお


(寛永18年6月13日) (天樹院の侍女か) ●「日記」



早川正俊
生。八郎左衛門
はやかわまさとし 元和2年
寛政譜19・35
植木奉行

(正保元年7月4日) (植木奉行) ●「日記」

(寛文10年) 死す
林勝正
生。藤左衛門。丹波
はやしかつまさ
丹波正利の男
寛政譜12・388
母は佐々木氏


妻は山田氏

慶長9年 はじめて家康に拝謁

(慶長13年) 父正利の遺跡を継ぐ。2000石。寄合


丹波。書院番

(寛永9年7月6日) (丹波守) ●「日記」

寛永9年11月5日 書院番・進物役

寛永9年11月5日 本番御免。進物番 ●「日記」

寛永14年10月 出仕をとどめられる

寛永15年7月22日 ゆるされる

寛永15年7月22日 可致出仕之旨於評定場老中伝仰之旨也 ●「日記」

寛永19年10月26日 書院番をゆるされる。時々の御使

寛永19年10月26日 唯今迠之御役御免折々御使なと可被仰付 ●「日記」

寛永19年11月1日 能勢小十郎唯今之御番御赦免自今以後御使等可被仰付間―


―最前被仰付五輩と申合一人宛殿中え可相詰之旨也 ●「日記」

寛永19年12月30日 布衣 ●「日記」共

慶安3年3月3日 死す
林勝義
生。大学
はやしかつよし
丹波勝正の長男
寛政譜12・389
家光に仕えるか。書院番か小姓組か

(寛永16年4月12日) (小倉中将の給仕役) ●「日記」


早世
林加兵衛

はやしかひょうえ
鳥見役か

(寛永13年8月23日) (昨日初て御鷹野ニ当年初て被為成付て(銀子)被下之 ●「日記」

寛永15年12月18日 御扶持方五人扶持被下之 ●「日記」



林清実
生。半右衛門
はやしきよざね
小吉清勝の男
寛政譜4・136 ~慶長5年 家康に拝謁。家康に仕える

元和2年 秀忠に仕える

寛永6年2月 二条城の鉄炮を預かる

(寛永18年12月1日) (二条御役人) ●「日記」


以下不詳
林内蔵助

はやしくらのすけ
松平越後守光長の家臣か?

寛永9年7月17日 ゆるされる。光長に下される ●「日記」



林重直 寛永元年 生。五郎助。五郎左衛門。治大輔
はやししげなお
五郎左衛門重信の養子。成瀬五左衛門重治の次男
寛政譜4・132
母は伊丹理右衛門康信の女


妻は角南主馬重勝の女

寛永15年12月21日 養父重信の遺跡を継ぐ。200俵

寛永15年12月21日 弐百俵五郎左衛門跡目 ●「日記」

寛永16年 大番

慶安元年9月25日 綱吉に付属される。三丸書院番


神田館にて膳奉行。300俵


膳奉行を辞す


書院番


使番


西門同心頭


西門同心頭を辞す

寛文11年7月16日 死す
林重信 慶長10年 生。五郎左衛門
はやししげのぶ
藤五郎忠政の養子。成瀬五左衛門重能の三男
寛政譜4・132
妻は藤五郎忠政の養女林藤四郎吉忠の女

(元和8年) 養父忠政の遺跡を継ぐ。200石。家光に仕える。小姓組

寛永3年 伊豆国大嶋に配流

寛永8年 赦免。相模国中原に住す

寛永10年 大番。200俵

寛永15年8月4日 死す
林清兵衛
生。清兵衛
はやしせいびょうえ
半右衛門清実の男
寛政譜4・136
鳥見役か

寛永15年12月18日 御扶持方五人扶持被下之 ●「日記」


父清実に継いで二条城鉄炮奉行

元禄6年 死す
林忠勝 元和元年 生。兵四郎。藤四郎。(兵四郎)
はやしただかつ
藤四郎吉忠の男
寛政譜4・130
母は河村善七郎重信の女


妻は天野孫左衛門重房の女

元和元年 父吉忠の遺跡を継ぐ。300俵


家光に仕える。大番

寛永10年2月7日 500石

寛永15年2月12日 死す
林忠隆 寛永9年 生。兵四郎。藤四郎。信濃守
はやしただたか
兵四郎忠勝の男
寛政譜4・130
母は天野孫左衛門重房の女


妻は高城清右衛門重胤の女

寛永15年12月6日 父忠勝の遺跡を継ぐ。300石。小普請。はじめて家光に拝謁

寛永15年12月6日 林兵四郎跡五百石之内旧領三百石惣領被下之―


―右同断(幼少ニ付御加増之分は被召上之) ●「日記」

慶安2年6月21日 大番

寛文5年2月3日 大番組頭

寛文6年12月23日 300石200俵

延宝7年1月19日 先弓頭

延宝7年12月19日 300石500俵

延宝7年12月28日 布衣

天和元年4月6日 持弓頭

天和元年8月21日 新番頭

天和2年4月21日 1000石500俵

天和2年6月3日 大目付

天和2年12月27日 従五位下・信濃守

貞享2年5月21日 2000石500俵

貞享3年11月26日 御側

貞享3年12月27日 2500石500俵

元禄元年3月10日 御側をゆるされる。出仕をはばかる

元禄元年4月17日 赦免。寄合。なお拝謁をはばかる

元禄2年6月4日 ゆるされる

元禄9年7月5日 致仕

元禄10年4月9日 死す
林信勝 天正11年 生。菊松丸。又三郎。道春。民部卿。法印
はやしのぶかつ
理斎吉勝の養子。林林入信時の長男
寛政譜12・390
母は田中氏


妻は荒川宗意の女


京都建仁寺に学ぶ


家に帰り独学

慶長5年 四書五経を講ずる

慶長9年 藤原惺窩を師友とする

慶長10年 はじめて家康に拝謁。しばしば御前に伺候

慶長12年4月 はじめて秀忠に拝謁。しばしば書を講ずる

慶長12年 家康の命で剃髪。道春と号す

慶長13年 300俵。駿府の文庫を預かる

慶長16年 310石。300俵

寛永元年4月11日 家光に仕える

寛永6年12月30日 法印。民部卿

寛永7年 江戸上野に宅地を賜る。学問所・文庫を造る

(寛永9年6月11日) (咄衆) ●「日記」

寛永9年12月23日 310石。600俵。

寛永9年12月23日 加増300俵 ●「日記」

正保4年 朔望以外の登営をゆるされる

慶安4年12月15日 910石

明暦3年1月23日 死す
林信澄 天正13年 生。弥一郎。永喜。刑部卿。法印
はやしのぶずみ
林入信時の次男
寛政譜12・405
母は田中氏


妻は布施氏


剃髪。永喜と号す

慶長13年 家康に拝謁

慶長13年 秀忠に拝謁

慶長17年 550石。秀忠に近侍

寛永6年12月30日 法印。刑部卿

寛永7年 550石。300俵

(寛永9年6月11日) (咄衆) ●「日記」

寛永15年8月19日 死す
林信次 元和4年 生。弥平次。永甫
はやしのぶつぐ
刑部卿法印永喜信澄の次男
寛政譜12・405
母は布施氏

寛永15年 父信澄の遺跡を継ぐ。550石300俵

寛永15年12月1日 はじめて家光に拝謁

寛永15年12月1日 永甫以一束一本御礼是亡親永喜跡目依被仰付也 ●「日記」

寛永15年12月12日 評定所に出仕して公案のことにあずかる。剃髪。永甫と号す

寛永20年9月 死す。断絶
林春勝 元和4年 生。吉松。又三郎。春斎。弘文院。法眼。治部卿法印
はやしはるかつ
民部卿法印道春信勝の三男
寛政譜12・394
母は荒川宗意の女


妻は羽田庄兵衛至政の女

寛永10年10月 江戸に至り剃髪。春斎と号す

寛永11年11月1日 はじめて家光に拝謁

寛永15年12月 父信勝のつとめを見習う。永甫信次とともに評定の席に出仕

正保元年12月25日 200俵。月俸10口

正保元年12月25日 弐百俵拾人扶持 ●「日記」

正保2年12月30日 法眼

正保3年12月9日 500俵

明暦3年5月19日 父信勝の遺跡を継ぐ。910石

寛文元年12月28日 法印。治部卿

寛文3年12月26日 弘文院の学士と称す

寛文10年6月19日 1110石

寛文10年10月23日 1110石。月俸95口

延宝8年2月23日 致仕。300俵

延宝8年5月5日 死す
林春芳
生。伝右衛門
はやしはるよし
秀忠に仕える。徒目付
寛政譜21・341 (慶安2年) 死す



林久次
生。右馬之助
はやしひさつぐ
清蔵久勝の男
寛政譜20・294
妻は織田信雄家臣岡権右衛門の女

~慶長5年 家康に仕える。大番


200石

寛永2年 400石

寛永11年10月13日 改易

慶安3年7月28日 死す
林広有 慶長8年 生。石見守
はやしひろあり
石見守広康の男
地下家伝上・610
母は東儀因幡守兼秋の女
宮廷公家系図集覧642
天王寺方楽人

慶長18年 正六位下

寛永13年12月21日 石見守

慶安元年12月7日 正五位下

慶安4年1月5日 従四位下

明暦2年12月26日 従四位上

万治3年1月10日
林門入 天正11年 生。門三郎。門入
はやしもんにゅう
伊賀国の人。堺鉄炮張松屋弥左衛門の男
坐隠談叢2・14
日蓮僧の利玄坊に囲碁を学ぶ


家康に仕える

(寛永12年9月18日) (囲碁象戯)(門入) ●「日記」

寛文7年7月28日 死す
速水忠兵衛
長門守光益の五男室津雅楽頭師益か?
はやみちゅうびょうえ
河端右近衛将監直益の長男安房守景慶か?

(寛永11年7月21日) (地下)(初て御礼) ●「日記」



速水将益 慶長10年3月19日 生。右京大進。長門守
はやみまさます
長門守光益の長男
地下家伝中・918 慶長17年1月5日 従五位下
宮廷公家系図集覧608 慶長18年10月19日 右京大進

寛永9年1月5日 従五位上

寛永13年3月5日 長門守

寛文4年9月30日 正五位下

寛文9年12月8日 従四位下

延宝2年3月4日
速水光益 天正6年 生。右兵衛志。右兵衛大尉。長門守
はやみみつます
叔父左衛門大尉友益の養子。速水左衛門大尉武益の三男
地下家伝中・918 天正11年 従五位下
宮廷公家系図集覧609 天正14年 右兵衛志

文禄3年 右兵衛大尉

慶長18年10月19日 長門守

慶長20年1月5日 従五位上

寛永4年11月3日 正五位下

(寛永8年5月14日) (北面) ●「日記」

寛永8年7月25日
速水吉忠
生。七兵衛
はやみよしただ
七右衛門吉成の男
寛政譜15・228
妻は鈴木三郎九郎重成の女


秀忠・家光に仕える。納戸番

~寛永2年 父吉成の家を継ぐ。220石

万治2年5月4日 納戸番組頭

寛文元年12月12日 220石100俵

寛文10年5月3日 納戸番組頭を辞す。小普請

寛文11年7月21日 死す
速水吉次
生。十助。彦三郎。七蔵
はやみよしつぐ
七兵衛吉忠の男
寛政譜15・228 寛永13年12月15日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

(寛永19年6月26日) (彦三郎の初出) ●「日記」

寛永19年6月26日 大番 ●「日記」共

正保元年12月25日 弐百俵 ●「日記」

慶安元年6月14日 新番

~寛文11年 死す
速水良益 天正3年 生。安芸守
はやみよします
安芸守有益の養子。小嶋氏の男
地下家伝中・922
妻は安芸守有益の女
宮廷公家系図集覧608
従五位下

天正19年~ 安芸守

(寛永8年5月14日) (北面) ●「日記」

(寛永19年8月20日) (広橋大納言家来) ●「日記」

承応2年10月29日
速水栄益 慶長12年1月4日 生。采女佑。采女正。越中守
はやみよします
長門守光益の次男
地下家伝中・927 元和5年3月28日 従五位下。采女佑
宮廷公家系図集覧609
采女正

慶安4年7月24日 越中守

寛文6年12月24日 従五位上

寛文11年12月21日 正五位下

延宝3年3月17日
早山玄蕃

はややまげんば
小笠原右近将監忠真に仕える

(寛永16年8月10日) (小笠原右近大夫家老) ●「日記」



はやを










原重国
生。亀蔵。勘右衛門
はらしげくに
亀蔵重久の男
寛政譜14・162
母は稲垣平右衛門長茂の女


妻は松下十左衛門為定の女


徳川忠長に仕える。小姓

元和4年 父重久の遺跡を継ぐか。200俵か

(寛永9年) 処士

寛永13年12月10日 赦免。大番

寛永13年12月10日 御赦免 ●「日記」

寛永15年12月1日 200俵

正保2年6月28日 腰物奉行


腰物奉行を辞す。小普請

寛文10年3月25日 死す
原田権左衛門

はらだごんざえもん
松平式部大輔榊原忠次に仕える

(寛永16年5月5日) (松平式部大輔家来) ●「日記」

寛永16年5月5日 御目見是亡父跡目依被仰付也 ●「日記」



原田権左衛門父



松平式部大輔榊原忠次に仕える

(寛永16年) 死す
原田種直 天正18年 生。半兵衛。四郎左衛門
はらだたねなお
甚蔵種重の長男
寛政譜9・412
母は水戸家臣鈴木五郎右衛門の女

元和元年 家康に仕える

元和元年8月15日 200石。御傍に勤仕


大番

寛永10年2月7日 400石

万治2年 大番を辞す。小普請

寛文8年12月12日 死す
原田種延 慶長16年 生。友之助。勘右衛門
はらだたねなが
勘兵衛種正の男
寛政譜10・5
妻は花房志摩守幸次の女

寛永10年6月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

慶安2年12月11日 父種正の遺跡を継ぐ。800石

~万治3年 大番


大番を辞す。小普請

延宝4年8月20日 死す
原田種成 元和4年 生。藤左衛門
はらだたねなり
藤左衛門種吉の次男
寛政譜9・410 (元和8年) 父種吉の遺跡を継ぐ。(950石)

正保元年5月25日 大番組頭

正保元年5月25日 大御番組頭被仰付之松平外記組 ●「日記」

正保2年8月2日 死す。断絶
原田種信
生。木工右衛門
はらだたねのぶ
甚蔵種重の三男
寛政譜10・3
母は水戸家臣鈴木五郎右衛門の女


家光に仕える。小十人

寛永19年12月6日 納戸番 ●「日記」とも


以下不詳
原田種春 文禄3年 生。小兵衛。孫兵衛
はらだたねはる
甚蔵種重の次男
寛政譜10・1
母は水戸家臣鈴木五郎右衛門の女


妻は山岡伝右衛門景重の女

元和9年 家光に仕える。小十人


小十人組頭

寛永16年4月15日 中奥の番士

寛永16年4月15日 中奥之御番 ●「日記」

慶安4年9月29日 綱吉に付属される


留守居役

寛文12年8月9日 死す
原田種正
生。勘兵衛
はらだたねまさ
九郎左衛門量種の長男
寛政譜10・5 ~天正18年 家康に仕える。小姓

元和2年 300石


大番

寛永10年2月2日 大番組頭 ●「日記」共

(寛永10年6月1日) (堀市正組) ●「日記」

寛永13年4月16日 800石

慶安2年2月20日 死す
原田内記

はらだないき
松平式部大輔榊原忠次の家臣






原胤親
生。弥吉。監物
はらたねちか
家康に仕える。台所
寛政譜19・183
御台所之原弥吉組頭並之御切米被増下之 ●「日記」


台所組頭

寛永20年~ 新院(明正天皇か)に付属される。台所頭

寛永20年9月3日 御台所衆原弥吉為御加恩百俵ニ八人扶持被下之都合弐百俵ニ―


―十人扶持ニて新院え被為附 ●「日記」


以下不詳
原田正氏
生。藤大夫
はらだまさうじ
小右衛門正信の三男
寛政譜22・338
百人組与力

(寛永20年4月19日) (御切米八拾石) ●「日記」

(寛永20年4月19日) (森川金右衛門組) ●「日記」

寛永20年4月19日 只今迠之御番被成御免向後御役可被仰付之間可存其旨之由―


―小十人組御番所之次ニて老中被伝之 ●「日記」


国廻役。中根壱岐守正盛に属す

某年 死す
原田正種
生。三九郎
はらだまさたね
三九郎吉種の男
寛政譜10・6 (元和元年) 父吉種の遺跡を継ぐか

元和元年12月 大番。200俵

寛永10年2月7日 400石

(寛永16年6月23日) (松平外記植村出羽守組大番衆) ●「日記」


大番を辞す。小普請

寛文7年 死す
原田正種長男
寛政譜10・7
三九郎正種の長男

寛永16年6月23日 はじめて家光に拝謁

寛永16年6月23日 原田三九郎惣領之子共初て御目見 ●「日記」


以下不詳
原与右衛門

はらよえもん
小笠原右近将監忠真に仕える

(寛永14年7月6日) (小笠原右近大夫下奉行) ●「日記」



針屋庄六

はりやしょうろく
宗春の男

寛永19年11月12日 針屋宗春跡八十六石子庄六被下之 ●「日記」



針屋宗春

はりやそうしゅん
千利休宗易の弟子宗春の男か


京都茶人


86石

(寛永19年) 死す
春木大夫

はるきだゆう
伊勢御師



春田直次 慶長14年 生。猪之助
はるたなおつぐ
猪之助吉次の次男
寛政譜6・378
妻は岡野平兵衛房恒の女

慶長19年 父吉次の遺跡を継ぐ。600石

元和2年 駿河国より江戸に来る。はじめて秀忠に拝謁

寛永元年 大番


小姓組

~寛永11年 書院番

寛永13年10月28日 書院番。進物役

寛永13年10月28日 御進物番 ●「日記」

寛永17年~ 書院番を辞す。小普請

天和3年4月16日 死す
春田久重
生。四郎次郎
はるたひさしげ
伝右衛門久吉の男
寛政譜6・376
妻は伊藤勘兵衛の女


父久吉の遺跡を継ぐか。200石


秀忠・家光に仕える。大番

寛永10年2月7日 400石

寛永14年8月16日 死す
春田久忠
生。七之助。四郎五郎
はるたひさただ
四郎次郎久重の養子。武嶋市郎兵衛茂正の三男
寛政譜6・376
母は石谷十右衛門政信の女


妻は加藤加兵衛則次の女


後妻は大奥の老女伊の井の女

寛永15年12月21日 養父久重の遺跡を継ぐ。200石

寛永15年12月21日 四百石四郎二郎跡目内弐百石上ル ●「日記」

慶安2年12月 大番

寛文7年2月18日 新番

寛文8年12月25日 200石50俵

貞享4年6月9日 新番組頭

貞享4年12月10日 200石250俵

元禄9年4月21日 目付

元禄9年7月10日 小石川御殿奉行


拝謁をはばかる

元禄10年4月20日 ゆるされる

元禄11年3月25日 務を辞す。小普請

正徳3年6月14日 死す
春田久吉
生。源三郎。伝右衛門。(長兵衛)
はるたひさよし
長兵衛久次の男
寛政譜6・376
秀忠に仕える


父久次の遺跡を継ぐ。大番

寛永15年4月28日 大坂御番衆保科弾正忠組大久保八左衛門春田長兵衛―


―去十七日喧嘩ニて双方相果之由番頭并彼地御目付より―


―注進之 ●「日記」
半左衛門

はんざえもん (正保元年8月9日) (京極六丸僕従) ●「日記」

正保元年8月9日 御徒之者ヲ刀之むねをもて打之間自然不慮之喧嘩タルヘキ哉と被思召―


―重畳御穿鑿之処半左衛門女房ニ御徒権左衛門并浪人長左衛門両人ニて―


―戯懸其上女之肩ニ手ヲカクル事無紛相聞之条半左衛門は科無之故―


―御赦免 ●「日記」



半左衛門女房










伴重長
生。次郎助。権之助。五郎大夫。作平
ばんしげなが
兄作平重正の養子。五兵衛重盛の四男
寛政譜17・378
母は越前家臣坂井図書の女


妻は布施孫兵衛重直の女

寛永15年12月21日 養父重正の遺跡を継ぐ。320俵

寛永15年12月21日 三百廿八俵作平跡目 ●「日記」


大番

明暦2年11月12日 大番組頭

万治2年12月23日 520俵

万治3年12月15日 船手

万治3年12月28日 布衣

天和2年4月21日 400石520俵

貞享元年11月14日 水野隼人正忠直に召し預けられる。信濃国松本に至る


以下不詳
伴重正 文禄2年 生。作左衛門。作平
ばんしげまさ
五兵衛重盛の長男
寛政譜17・378
母は越前家臣坂井図書の女


妻は遠山平右衛門正次の女

慶長10年 家康に仕える。御傍に近侍

元和元年~寛永3年 小姓組。320俵


具足奉行

寛永14年3月24日 死す
塙宗安
生。泰春。(道閑)。道祐。法橋。法眼
ばんそうあん
道閑安友の三男
寛政譜17・226
父安友の業を継ぐ。江戸にて小児医師

寛永3年9月 法橋

寛永18年10月21日 家綱に付属される。200俵

寛永18年12月13日 小児医師如成道閑ニ御合力米弐百俵宛被下之 ●「日記」

(寛永19年9月5日) (若君様御医師道閑) ●「日記」

正保3年1月23日 300俵

明暦元年2月11日 法眼

天和元年4月6日 追放


以下不詳
般若院
伊豆国。伊豆山神社別当。真言宗
はんにゃいん




伴盛政 元和元年 生。小作。五兵衛。権右衛門
ばんもりまさ
五兵衛重盛の次男
寛政譜17・376
母は越前家臣坂井図書の女


妻は神谷八郎左衛門政成の女

元和9年10月 父重盛の遺跡を継ぐ。150俵

元和9年 はじめて家光に拝謁

寛永8年2月 大番

寛永10年2月7日 350石

寛永16年10月23日 鉄炮薬込役

寛永16年10月24日 御鉄炮薬込 ●「日記」

寛永18年4月12日 逼塞 ●「日記」共

寛永18年9月5日 ゆるされる

寛永18年9月5日 御赦免仕来御役如前々可相勤 ●「日記」

慶安3年8月27日 閉門

慶安3年10月19日 ゆるされる

承応元年 新番

寛文7年6月18日 箪笥奉行

延宝5年10月19日 箪笥奉行を辞す。小普請

天和元年12月21日 死す
万霊

ばんれい
浄土宗の僧か?



ひあんさ


(正保元年6月25日) (琉球中山王使者馬上之従者紫はちまき) ●「日記」






東園基賢 寛永3年9月23日 生。侍従。少将。中将。蔵人頭。参議。中納言。大納言。常算
ひがしぞのもとかた
叔父中将基教の嗣。園大納言基音の次男
諸家伝下・968
母は谷出羽守衛友の長女
宮廷公家系図集覧349 寛永10年9月10日 従五位下

寛永15年3月19日 東園相果実子無之付甥を跡目被仰付御番御奉公仕依之―


―東園家領百八拾石之所甥ニ被下之 ●「日記」

寛永15年9月15日 元服。昇殿。侍従。従五位上

寛永19年1月5日 正五位下

正保元年1月11日 左少将

正保2年1月5日 従四位下

慶安3年1月5日 従四位上

慶安3年1月11日 左中将

承応3年1月5日 正四位下

明暦元年1月20日 蔵人頭

明暦元年1月25日 禁色

明暦元年1月30日 正四位上

明暦2年1月11日 参議

明暦3年1月5日 従三位

寛文元年1月5日 正三位

寛文元年12月24日 権中納言

寛文2年10月29日 帯剣

寛文2年12月14日 直衣

寛文9年12月27日 権大納言

寛文12年12月5日 従二位(寛文8年12月22日分)

寛文12年12月22日 権大納言を辞す

延宝2年12月26日 正二位

延宝5年3月17日 幕府の命により閉門。子基量に相続

貞享3年7月19日 入道。常算と号す

宝永元年7月21日 薨去
東園基教 慶長12年8月9日 生。侍従。少将。中将
ひがしぞのもとのり
園参議基任の次男
諸家伝下・968 慶長18年1月6日 従五位下
宮廷公家系図集覧349 元和元年12月17日 元服。昇殿。侍従

元和5年1月5日 従五位上

元和7年1月11日 右少将

元和9年1月5日 正五位下

寛永4年1月6日 従四位下

寛永9年1月6日 従四位上

寛永9年1月11日 左中将

寛永13年10月14日
東坊城恒長 元和7年12月18日 生。文章得業生。侍従。大内記。文章博士。少納言。参議。
ひがしぼうじょうつねなが
式部大輔。中納言。大納言
諸家伝下・931
大納言長維の長男
宮廷公家系図集覧522
母は広橋大納言総光の女

寛永2年1月5日 穀倉院学問料を給わる

寛永8年4月2日 元服

寛永8年4月12日 文章得業生

寛永8年4月19日 従五位下

寛永8年6月17日 侍従

寛永10年1月6日 従五位上

寛永14年1月5日 正五位下

寛永14年12月29日 大内記。文章博士

寛永16年1月11日 少納言。侍従

寛永18年7月5日 従四位下

寛永19年2月20日 文章博士。大内記を辞す

正保元年1月5日 従四位上

(正保元年4月11日) (少納言の初出) ●「日記」

正保元年4月11日 去頃御方領依拝領太刀目録持参御礼 ●「日記」

慶安元年1月5日 正四位下

承応3年12月21日 従三位

万治元年4月27日 参議。正三位

寛文元年4月13日 式部大輔。文章博士

寛文2年12月14日 権中納言。式部大輔。文章博士を辞す

寛文3年1月15日 帯剣

寛文8年1月5日 従二位

延宝元年12月8日 直衣

延宝元年12月28日 正二位

延宝2年2月10日 権大納言。式部大輔を去る

延宝2年5月4日 権大納言を辞す

元禄13年10月12日 薨去
東坊城長維 文禄3年4月14日 生。文章得業生。大内記。少納言。侍従。式部大輔。
ひがしぼうじょうながこれ
中納言。大納言
諸家伝下・931
中納言盛長の養子。五条中納言為経の三男
宮廷公家系図集覧522
室は広橋大納言総光の女

慶長3年11月8日 穀倉院学問料を給わる

慶長10年11月10日 元服。文章得業生

慶長14年1月6日 従五位下

慶長15年閏2月13日 大内記

慶長16年3月21日 少納言

慶長16年3月24日 侍従

慶長18年1月6日 従五位上

元和2年1月5日 正五位下

元和5年12月25日 従四位下

元和8年1月5日 従四位上

寛永4年1月5日 正四位下

寛永8年1月6日 従三位

寛永10年11月12日 式部大輔

寛永12年1月5日 正三位

寛永12年1月15日 参議。式部大輔

寛永16年9月19日 権中納言

寛永17年1月5日 従二位

寛永19年12月22日 権中納言を辞す

寛永20年11月28日 直衣

正保2年1月12日 権大納言。式部大輔

慶安元年12月22日 大納言を辞す

慶安2年4月3日 正二位

万治2年3月13日 薨去
疋田政方 慶長16年 生。喜三郎。喜左衛門。源左衛門
ひきたまさかた
喜左衛門正次の三男
寛政譜13・132
母は小栗左京進正重の女

寛永9年 家光に仕える。小十人。100俵

寛永19年12月16日 200俵 ●「日記」共

正保2年閏5月2日 家綱に付属される

慶安3年9月4日 腰物奉行

貞享2年7月2日 富士見宝蔵番頭

元禄2年4月9日 富士見宝蔵番頭を辞す。小普請

元禄4年11月4日 死す
疋田正勝 慶長15年 生。右京。長兵衛
ひきたまさかつ
喜兵衛正重の長男
寛政譜13・129
秀忠・家光に仕える。大番。350石

寛永19年8月18日 蔵奉行

寛永19年8月18日 御城米方御蔵奉行 ●「日記」

寛文2年10月5日 天守番頭

延宝元年1月2日 死す
比企義久
生。次左衛門
ひきよしひさ
左馬助則員の男
寛政譜17・242 慶長16年 家康に仕える

(元和2年) 秀忠に仕える

寛永9年 弓奉行。現米80石

寛永20年 死す

寛永20年12月7日 米八十石比企次左衛門右相果之事年之物成被下之是相果跡式相続無之―


―依相果年之物成後家ニ被下是七月已後依為死去如御定之也 ●「日記」
樋口

ひぐち
大鼓方樋口石見守の後裔か。もしくはその門人石井家の者か






樋口家次
生。又兵衛
ひぐちいえつぐ
又兵衛吉次の男
寛政譜6・142
家康に仕える


秀忠・家光に仕える。代官

(承応3年) 死す
樋口七左衛門

ひぐちしちざえもん


寛永20年9月6日 御鳥見 ●「日記」



樋口信孝 慶長4年12月24日 生。侍従。少将。中将。参議
ひぐちのぶたか
高倉入道左中将親具の次男
諸家伝下・989
妻は広橋内大臣兼勝の長女
宮廷公家系図集覧465 慶長17年8月21日 従五位下

慶長17年8月22日 元服。昇殿。侍従

慶長19年1月5日 従五位上

元和2年1月11日 右少将

元和4年1月5日 正五位下

元和9年1月5日 従四位下

寛永3年11月27日 右中将

寛永5年1月7日 従四位上

寛永9年1月5日 正四位下

寛永14年1月5日 従三位

寛永19年1月5日 正三位

慶安4年1月5日 従二位

万治元年1月12日 参議

万治元年7月6日 参議を辞す

万治元年7月20日 薨去
樋口信康 元和9年11月10日 生。侍従。少将。中将。参議。中納言
ひぐちのぶやす
参議信孝の男
諸家伝下・989
母は広橋内大臣兼勝の長女
宮廷公家系図集覧465
室は堀河中納言康胤の女

寛永6年1月5日 従五位下


元服。昇殿。侍従

寛永11年1月5日 従五位上

(寛永11年7月21日) (侍従) ●「日記」

寛永14年1月11日 右少将

寛永15年1月5日 正五位下

(寛永17年4月19日) (侍従) ●「日記」

(寛永17年5月8日) (少将の初出) ●「日記」

寛永19年12月22日 従四位下

正保元年4月11日 去頃御方領依拝領太刀目録持参御礼 ●「日記」

正保3年1月5日 従四位上

正保3年1月11日 右中将

慶安3年1月5日 正四位下

明暦3年11月25日 従三位

寛文3年1月6日 正三位

延宝3年1月5日 従二位

貞享元年9月28日 参議

貞享元年10月29日 参議を辞す

貞享4年7月30日 権中納言

貞享4年8月26日 直衣

貞享4年9月23日 権中納言を辞す

元禄4年6月21日 薨去
樋口又左衛門
生。又左衛門
ひぐちまたざえもん
又兵衛家次の男
寛政譜6・143 正保元年6月30日 大番 ●「日記」共

承応3年12月27日 父家次の遺跡を継ぐ。50石150俵

万治2年 死す
ひこ
緋子か。肥後か
ひこ
大奥女中か


緋子と強と寿林とで三老女とされたか



彦右衛門

ひこえもん


(寛永16年3月15日) (長崎町中惣代) ●「日記」



彦坂織部

ひこさかおりべ
松平讃岐守頼重に仕える

(寛永16年11月26日) (水戸右京大夫使者) ●「日記」



彦坂重定 文禄3年 生。平六郎
ひこさかしげさだ
九兵衛光正の長男
寛政譜6・25
母は松平助左衛門の女

慶長15年 はじめて秀忠に拝謁。左右に近侍。400石

寛永10年2月2日 徒頭 ●「日記」共

寛永10年12月27日 900石

寛永10年12月27日 五百石御加増 ●「日記」

(寛永13年12月13日) (布衣) ●「日記」

寛永18年4月11日 死す
彦坂重紹 元和5年 生。左兵衛。九兵衛。壱岐守
ひこさかしげつぐ
平六郎重定の長男
寛政譜6・25
妻は曾我又左衛門近祐の女

寛永9年6月 はじめて家光に拝謁

寛永15年1月15日 書院番 ●「日記」共

寛永17年12月 300俵

(寛永18年12月4日) (稲垣若狭組) ●「日記」

寛永18年12月4日 父重定の遺跡を継ぐ。900石

寛永18年12月4日 九百石彦坂平六郎跡右一円惣領稲垣若狭組九兵衛ニ被下之―


―三百俵内田信濃組源三郎ニ被下之是ハ兄九兵衛唯今迠取来之―


―御切米也 ●「日記」

慶安3年9月3日 西丸に勤仕

明暦2年7月4日 小十人頭

明暦2年12月23日 900石300俵

明暦2年12月26日 布衣

万治元年9月1日 目付

寛文元年11月11日 大坂町奉行。1900石300俵

寛文元年12月28日 従五位下・壱岐守

延宝5年9月13日 大坂町奉行を辞す。寄合

延宝7年9月25日 大目付

天和2年4月21日 2900石300俵

天和3年7月23日 留守居

元禄4年12月10日 3400石300俵

元禄8年5月14日 宿直をゆるされる

元禄10年2月3日 死す
彦坂重治 元和7年 生。源三郎。源兵衛。伯耆守
ひこさかしげはる
平六郎重定の次男
寛政譜6・28 寛永15年11月21日 彦坂平六郎二番目子可被召出 ●「日記」

寛永16年10月26日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永17年3月19日 小姓組 ●「日記」共

(寛永18年12月4日) (内田信濃組) ●「日記」

寛永18年12月4日 兄重紹の廩米を賜る。300俵

寛永18年12月4日 九百石彦坂平六郎跡右一円惣領稲垣若狭組九兵衛ニ被下之―


―三百俵内田信濃組源三郎ニ被下之是ハ兄九兵衛唯今迠取来之―


―御切米也 ●「日記」

寛文6年6月8日 目付

寛文6年12月23日 600俵

寛文6年12月28日 布衣

延宝8年10月7日 勘定頭。1600石

天和2年4月21日 2300石

天和2年4月27日 従五位下・伯耆守

貞享4年9月10日 職を奪われて逼塞

元禄2年6月4日 ゆるされる。600石。小普請。なお拝謁を停められる

元禄3年4月17日 ゆるされる

元禄6年8月27日 死す
彦坂吉成
生。平九郎
ひこさかよしなり
刑部右衛門宗有の男
寛政譜6・31 ~慶長19年 家康に仕える

元和元年~ 代官

(寛永8年) 父宗有の遺跡を継ぐか。200俵

万治2年5月9日 400俵

万治3年~ 死す
久永重知 慶長4年 生。内記。半之丞。源兵衛
ひさながしげとも
源兵衛重勝の男
寛政譜18・83
母は北条家臣梁田中務大輔晴助の女


妻は小浜民部少輔光隆の女


後妻は徳川忠長家臣鳥居土佐守成次の養女―


―八木庄左衛門光政の女

慶長16年 はじめて家康・秀忠に拝謁

寛永6年 父重勝の遺跡を継ぐ。先弓頭

(寛永9年8月4日) (源兵衛) ●「日記」

寛永9年12月18日 布衣

寛永9年12月19日 布衣(久永半之丞) ●「日記」

寛永14年8月5日 死す
久永重行
生。源六郎。源兵衛
ひさながしげゆき
兄源兵衛政勝の養子。源兵衛重知の次男
寛政譜18・83
母は小浜民部少輔光隆の女

寛永12年12月15日 はじめて家光に拝謁

寛永12年12月15日 久永源兵衛二番目子樽代を以御目見 ●「日記」

寛永13年8月9日 小姓組 ●「日記」共

寛永14年11月25日 父重知の遺跡分知。500石

寛永14年11月25日 久永源兵衛跡五百石二男源六郎 ●「日記」

寛永20年8月30日 家綱に付属される。三丸番 ●「日記」共

正保3年 兄政勝の養子となる

正保3年12月9日 養父政勝の遺跡を継ぐ。2700石

慶安3年9月4日 西丸書院番


本丸に伺候

万治3年12月15日 先鉄炮頭

万治3年12月28日 布衣

延宝元年11月1日 盗賊追捕の事をつとめる

延宝4年2月4日 盗賊追捕の事をゆるされる

延宝4年6月9日 持筒頭

天和2年4月21日 3200石

貞享4年3月9日 持筒頭を辞す。寄合

元禄4年8月15日 死す
久永政勝
生。半之丞。(半兵衛)。源兵衛
ひさながまさかつ
源兵衛重知の長男
寛政譜18・83
母は小浜民部少輔光隆の女

寛永9年12月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永9年12月19日 布衣 ●「日記」(父源兵衛重知の誤りか?)

寛永13年8月9日 小姓組 ●「日記」共

寛永14年11月25日 父重知の遺跡を継ぐ。2700石

寛永14年11月25日 久永源兵衛跡弐千七百石惣領半兵衛 ●「日記」

(寛永18年10月19日) (半之丞) ●「日記」

正保3年7月25日 死す
久永諸重
生。十郎左衛門
ひさながもろしげ
源左衛門の男
寛政譜18・87
先手与力

(寛永20年4月19日) (弐百石) ●「日記」

(寛永20年4月19日) (中山勘解由組) ●「日記」

寛永20年4月19日 只今迠之御番被成御免向後御役可被仰付之間可存其旨之由―


―小十人組御番所之次ニて老中被伝之 ●「日記」


国廻役

(万治3年) 死す
久松定次 天正18年 生。多左衛門
ひさまつさだつぐ
彦左衛門忠次の次男
寛政譜17・320
母は小野田兵部の女


妻は遠山四郎兵衛直吉の女

慶長9年2月 家康に近侍


200俵

~慶長19年 秀忠に仕える

元和9年 鷹のことを支配

寛永20年3月20日 死す
久松定延 元和9年 生。喜三郎
ひさまつさだのぶ
彦左衛門定佳の長男
寛政譜17・316
母は伊丹氏


妻は稲生次郎左衛門正信の女

寛永13年11月8日 はじめて家光に拝謁

寛永13年11月8日 久松彦左衛門惣領子御鷹場とねりにおいて初て御目見 ●「日記」

寛永15年10月24日 書院番

万治2年12月25日 父定佳の遺跡を継ぐ。500石

寛文4年9月30日 腰物奉行の頭

寛文4年12月25日 500石200俵

寛文4年12月28日 布衣

延宝3年4月14日 死す
久松定久 元和元年 生。権大夫。太左衛門
ひさまつさだひさ
多左衛門定次の長男
寛政譜17・321
母は遠山四郎兵衛直吉の女


妻は林長十郎の女

寛永7年8月 手鷹師

寛永20年12月7日 父定次の遺跡を継ぐ。200俵 ●「日記」共

慶安元年10月 鷹匠頭

貞享4年6月13日 鷹匠頭を辞す。小普請


拝謁をとどめられる

元禄元年12月18日 ゆるされる

元禄4年10月8日 死す
久松定佳 天正14年 生。惣太郎。彦左衛門
ひさまつさだよし
彦左衛門忠次の長男
寛政譜17・316
母は小野田兵部の女


妻は伊丹氏

慶長5年 家康に仕える。御傍に勤仕

元和2年3月15日 300石

(元和4年) 父忠次の遺跡を継ぐ。500石

寛永14年9月18日 裏門切手番頭

寛永14年9月18日 御裏切手ノ御番ニ被相加并同心十人被付之 ●「日記」


留守居番

慶安3年9月3日 家綱に付属される。西丸に勤仕

慶安4年 本丸に勤仕

慶安4年8月16日 布衣

明暦2年3月15日 留守居番を辞す

万治2年11月10日 死す
土方雄氏 天正11年 生。彦三郎。杢之助。丹後守
ひじかたかつうじ
河内守雄久の長男
寛政譜5・359
室は織田常真入道信雄の女


秀吉に仕える

慶長3年 従五位下・丹後守

慶長4年 父雄久とともに佐竹義重のもとに蟄居。(杢之助に戻るか?)

~慶長5年 秀忠に仕える

元和元年 大坂の役にて酒井忠世に属す

~寛永3年 伊勢国薦野1万2000石

(寛永11年閏7月29日) (丹後守) ●「日記」

寛永12年3月 致仕

寛永15年6月28日
土方雄高 慶長17年 生。勝五郎。杢助
ひじかたかつたか
杢之助雄氏の長男
寛政譜5・359
母は織田常真入道信雄の女


室は北条出羽守氏重の次女

寛永9年9月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永12年3月 父雄氏の封を継ぐ。伊勢国薦野1万2000石

(寛永12年6月30日) (木工助の初出) ●「日記」

寛永12年8月6日 嫁娶被仰付之 ●「日記」

慶安4年9月8日
土方雄次 慶長16年 生。彦三郎。河内守
ひじかたかつつぐ
掃部頭雄重の男
寛政譜5・357
母は内藤左馬助政長の女


室は内藤帯刀忠興の女

元和7年 はじめて秀忠に拝謁

寛永6年2月15日 父雄重の遺領を継ぐ。陸奥国窪田2万石

(寛永12年6月30日) (河内守) ●「日記」

(寛永12年8月25日) (彦三郎) ●「日記」

寛永17年12月29日 従五位下・河内守

寛永17年12月29日 諸大夫 ●「日記」

(寛永18年1月11日) (河内守の初出か) ●「日記」

正保元年5月4日 火消之役人之内就交替御暇被下面々依有之今日改被仰付之三番 ●「日記」

正保元年7月1日 火之番二番 ●「日記」

延宝7年11月27日 致仕

延宝8年1月28日
土方勝次 元和9年 生。五郎左衛門
ひじかたかつつぐ
宇右衛門勝直の男
寛政譜5・363
母は小笠原氏


妻は大沢右京亮基重の女

寛永9年12月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共


書院番

寛永20年12月7日 父勝直の遺跡を継ぐ。1560石

寛永20年12月7日 千五百六十石余宇右衛門跡土方五郎左衛門五郎左衛門弐百俵―


―御切米差上之 ●「日記」

承応元年5月3日 死す
土方勝直 天正2年 生。宇右衛門。はじめ清水を称す
ひじかたかつなお
清水又右衛門家勝の男
寛政譜5・363
母は土方刑部少輔信治の女


妻は小笠原氏

天正18年 小田原の役にて土方河内守雄久に属す


豊臣秀次に仕える


土方を称す

文禄2年 朝鮮の役にて加藤嘉明に属す

慶長5年 関ケ原の役にて加藤嘉明に属す


松平薩摩守忠吉に仕える

慶長14年 秀忠に仕える。月俸を賜る。書院番


500石

元和元年 大坂の役にて青山伯耆守忠俊に属す

元和元年 1500石

寛永2年 1560石の朱印

寛永20年6月15日 死す
毘沙門堂門跡
京都。天台宗
びしゃもんどうもんぜき




備前屋三郎右衛門
大坂の商人か
びぜんやさぶろうえもん
小田原石垣普請の検地不正を訴える ●「日記」

寛永12年12月5日 就公儀於致訴人ハ御褒美をも可被下之処ニ搆私欲―


―権々企非訴儀曲事ニ被思召間大坂中被為払之 ●「日記」



日高右衛門兵衛

ひだかうえもんびょうえ
本多内記政勝に仕える

(寛永16年3月3日) (本多内記家老) ●「日記」



肥田喜三郎
生。喜三郎
ひだきさぶろう
与左衛門定勝の男
寛政譜5・331
母は小西助右衛門の女

寛永9年12月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

明暦2年12月21日 父定勝の遺跡を継ぐ。石高不明


死す。断絶
肥田忠親
生。主水
ひだただちか
玄蕃允忠政の男
寛政譜5・332
母は金森法印長近の女

慶長17年1月 家康に仕える。寄合

慶長17年10月30日 1000石

(寛永9年) 小姓組

寛永11年5月5日 昨日朽木民部少ニ御預 ●「日記」

寛永11年5月7日 改易 ●「日記」共


以下不詳
肥田忠頼
生。半兵衛
ひだただより
主水忠親の長男
寛政譜5・332 寛永元年11月28日 はじめて秀忠に拝謁

寛永4年1月 小姓組。200俵

寛永10年2月7日 400石


勘気を蒙る

寛永15年10月17日 ゆるされる ●「日記」共

慶安3年9月3日 家綱に付属される。西丸書院番

延宝2年12月18日 書院番を辞す。小普請

天和2年9月24日 死す
一柳直家 慶長4年 生。禅門。美作守
ひとつやなぎなおいえ
監物直盛の次男
寛政譜10・158
室は高倉大納言永慶の女

慶長10年 はじめて家康・秀忠に拝謁

慶長14年 従五位下・美作守

寛永13年6月1日 父直盛より分知。5000石

寛永13年11月24日 父直盛の遺領分知。播磨国小野2万8600石

寛永13年11月28日 継目之御礼 ●「日記」

寛永19年5月29日
一柳直家次女
寛政譜10・158
一柳美作守直家の次女


母は高倉大納言永慶の女

寛永20年3月15日 一柳美作守為遺跡於播州之内壱万石小出対馬守二男宇右衛門被下之―


―美作守娘可嫁之旨也不相果已然より家老之面々え就相達―


―被仰付之 ●「日記」


一柳宇右衛門直次に嫁ぐ

慶安2年 一柳土佐守末礼を産む

明暦元年 小出百助吉忠を産む

明暦3年 一柳縫殿直昌を産む


女子を産む。のち加藤織部正直泰の養女


以下不詳
一柳直興 寛永元年 生。左近。監物
ひとつやなぎなおおき
丹後守直重の長男
寛政譜10・156
母は菊亭大納言公矩の女


室は松平丹後守重直の女

寛永15年11月1日 はじめて家光に拝謁

寛永15年11月1日 一柳丹後守兄弟太刀目録并御服献之始て御目見 ●「日記」

正保2年12月1日 父直重の遺領を継ぐ。伊予国西条城2万5000石

正保3年12月30日 従五位下。監物

寛文5年7月29日 改易。松平加賀守前田綱紀に召し預けられる

貞享3年6月25日 配所にて従者を召し使うことをゆるされる

元禄15年8月3日 死す
一柳直重 慶長3年 生。入道。丹後守
ひとつやなぎなおしげ
監物直盛の長男
寛政譜10・156
室は菊亭大納言公矩の女

慶長14年 従五位下・丹後守

慶長14年 はじめて家康・秀忠に拝謁

寛永13年11月24日 父直盛の遺領を継ぐ。伊予国西条城3万石

寛永13年11月28日 継目之御礼 ●「日記」

正保2年6月24日
一柳直次 元和9年 生。宇右衛門。はじめ小出を称す
ひとつやなぎなおつぐ
美作守直家の養子。小出伊勢守吉親の次男
寛政譜10・158
室は直家の女

寛永10年2月19日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永20年3月15日 直家の養子となり婚姻。播磨国小野1万石

寛永20年3月15日 一柳美作守為遺跡於播州之内壱万石小出対馬守二男宇右衛門被下之―


―美作守娘可嫁之旨也不相果已然より家老之面々え就相達―


―被仰付之 ●「日記」

寛永20年3月25日 壱万石 ●「日記」

(寛永20年4月1日) (一柳の初出) ●「日記」

万治元年12月27日
一柳直照 寛永3年 生。藤宮。熊之助。半左衛門。半弥
ひとつやなぎなおてる
丹後守直重の次男
寛政譜10・157
母は菊亭大納言公矩の女


妻は水谷伊勢守勝隆の女

寛永15年11月1日 はじめて家光に拝謁

寛永15年11月1日 一柳丹後守兄弟太刀目録并御服献之始て御目見 ●「日記」

正保2年12月1日 父直重の遺領分知。伊予国宇摩郡5000石

寛文7年4月5日 死す
一柳直盛 永禄7年 生。四郎右衛門。監物
ひとつやなぎなおもり
刑部大輔宣高の次男
寛政譜10・154 天正18年 秀吉に仕える。尾張国黒田城3万石

天正19年11月28日 従五位下・監物

文禄元年1月11日 尾張国黒田城3万5000石

慶長6年 伊勢国神戸城5万石

寛永13年6月1日 伊予国西条城6万3000石

寛永13年6月1日 御加恩壱万八千石被下勢州領分所替被仰付於伊与国五万八千石―


―於播磨国壱万石都合六万八千石令拝領云々 ●「日記」

寛永13年8月19日
一柳直頼 慶長7年 生。鍋。蔵人
ひとつやなぎなおより
監物直盛の三男
寛政譜10・160
室は小出伊勢守吉親の女

慶長19年 大坂の役にて父直盛の質として江戸にあり

元和元年 大坂の役にて父直盛の質として江戸にあり

元和4年6月 はじめて秀忠に拝謁

寛永10年7月3日 縁辺組 ●「日記」

寛永13年11月24日 父直盛の遺領分知。伊勢国小松1万石

寛永13年11月28日 継目之御礼 ●「日記」

正保2年4月28日
人見賢知 慶長9年 生。七蔵。又七郎。元徳。玄徳。法橋。大蔵卿。瑞祥院。法印
ひとみかたとも
又七郎友徳の五男
寛政譜17・217
母は吉田氏


妻は井伊掃部頭家臣木田余兵左衛門定秀の女


小児科医

元和7年 禁裏医師

寛永14年5月 法橋

寛永16年3月18日 千代姫不例により召されて江戸に至る

寛永16年12月26日 御切米御扶持方被下之 ●「日記」

寛永17年4月3日 小児薬師玄徳捧進物始て御目見 ●「日記」

寛永18年 家綱に付属される

寛永18年9月6日 500石 ●「日記」共

寛永19年2月8日 大蔵卿法印

寛永19年4月1日 御勝手方より捧進物御礼是法印被仰付依テ也 ●「日記」

正保2年12月28日 700石


勘気を蒙る

慶安元年5月26日 赦免

延宝2年12月3日 致仕

貞享元年1月2日 死す
人見賢知子





(寛永19年4月4日) ((玄徳)右之小児医師并外科之輩妻子等引越ニ付て御暇被下之) ●「日記」



人見賢知妻





(寛永19年4月4日) ((玄徳)右之小児医師并外科之輩妻子等引越ニ付て御暇被下之) ●「日記」



人見壱 慶長5年 生。壱蔵。道生。卜幽
ひとみはじめ
又七郎友徳の三男
寛政譜17・217
菅玄同に学ぶ
水戸学徒列伝167
林羅山に師事


柏原氏の養子となる。のち本姓に復す

寛永5年 江戸に来る


徳川頼房に仕える。侍講

正保元年1月10日 銀五拾枚水戸殿卜幽今度諸家系図被仰付依令首尾被下之 ●「日記」

寛文10年 死す
日向政次 慶長14年 生。数馬。伝右衛門。半兵衛
ひなたまさつぐ
半兵衛政成の長男
寛政譜4・179
母は永井信濃守尚政の女


妻は徳川忠長家老鳥居土佐守成次の女

元和元年2月 はじめて家康に拝謁

寛永13年 父政成が赦免

寛永16年11月10日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永17年3月19日 書院番 ●「日記」共

寛永20年12月7日 父政成の遺跡を継ぐ。3080石

寛永20年12月7日 三千八十石伝右衛門三百俵ハ上ル半兵衛跡 ●「日記」

慶安3年12月15日 先鉄炮頭

慶安4年8月16日 布衣

万治3年1月29日 持筒頭

延宝5年3月7日 持筒頭を辞す。寄合

延宝5年9月25日 致仕。300俵

元禄6年9月13日 死す
日向政成 永禄8年 生。伝次郎。半兵衛
ひなたまさなり
玄東斎の男
寛政譜4・178
妻は内藤修理亮清成の女


後妻は横田十郎兵衛の女


また後妻は永井信濃守尚政の女

~天正8年 武田勝頼に仕える

天正10年 はじめて家康に拝謁。家康に仕える

天正11年閏1月14日 170貫文

天正12年 長久手の役にて松平忠左衛門重勝に属す

慶長7年 伊勢・近江・甲斐国の郡代

慶長19年 大坂の役にて鉄炮足軽50人を預かる

元和元年 大坂の役にて鉄炮足軽50人を預かる

元和4年 与力10騎

元和4年 1000石加増

元和5年 駿河大納言徳川忠長に付属される

寛永9年 松平式部大輔榊原忠次に召し預けられる

寛永13年9月18日 赦免。3080石

寛永13年9月18日 被召出 ●「日記」

寛永20年5月2日 死す
日根野高真
生。帯刀。半助
ひねのたかざね
左京亮高継の次男
寛政譜15・335
妻は兼松又四郎正尾の女

寛永3年6月18日 父高継の遺跡分知。1000石

寛永17年3月19日 小姓組 ●「日記」共

慶安元年5月21日 小姓組。進物役

万治2年12月29日 死す
日根野高当 慶長4年 生。源左衛門
ひねのたかまさ
織部正高吉の三男
寛政譜15・336
母は戸田民部少輔忠成の女

元和8年2月15日 秀忠に拝謁 ●「日記」

元和8年4月 はじめて秀忠に拝謁

寛永12年12月28日 書院番

寛永12年12月28日 初て御目見 ●「日記」

寛永15年 300俵

寛文5年5月26日 死す
日根野弘方
生。権十郎。寿軒
ひねのひろかた
長右衛門弘佐の男
寛政譜15・342
母は遠藤大隅守弼基の女


妻は永見権七郎重時の女

寛永11年 はじめて家光に拝謁(寛永12年2月15日とも)

寛永15年1月15日 書院番 ●「日記」共

寛永18年9月11日 小姓

(寛永19年4月4日) (御小姓衆) ●「日記」

慶安2年12月14日 父弘佐の遺跡を継ぐ。500石

明暦2年5月4日 中奥の番士

寛文8年2月21日 小十人頭

寛文8年12月25日 500石300俵

寛文8年12月28日 布衣

寛文11年3月26日 目付

天和元年3月29日 目付をゆるされる。小普請

元禄8年12月6日 致仕。寿軒と号す

元禄14年12月10日 死す
日根野弘佐
生。内記。長右衛門
ひねのひろすけ
九郎右衛門弘勝の男
寛政譜15・342
母は松永弾正少弼久秀の女


妻は遠藤大隅守弼基の女


処士

慶長19年 大坂の役にて松倉長門守重正に属す

元和元年 大坂の役にて松平下総守忠明に属す

元和3年 秀忠に拝謁

元和4年12月 書院番

元和5年12月 300俵

寛永10年2月7日 500石

慶安2年5月27日 死す
日根野吉明 天正15年 生。織部正・従五位下
ひねのよしあきら
織部正高吉の長男
寛政譜15・334
母は戸田民部少輔忠成の女


室は松平五左衛門一生の女

慶長5年 父高吉の遺領を継ぐ。信濃国諏訪高嶋城2万7000石

慶長7年 下野国壬生1万900石

寛永10年2月12日 与力20騎歩卒100人を預かる・鉄砲頭(百人組頭)

寛永10年2月12日 青山大蔵預之徒同心百人并馬上同心廿人 ●「日記」

寛永11年7月30日 豊後国府内2万石。鉄砲頭をゆるされる

寛永11年7月30日 豊後府内之城被仰付壱万石御加増都合弐万石 ●「日記」

明暦2年3月26日
日根野吉雄 元和元年 生。(長吉)。次右衛門
ひねのよしかつ
織部正吉明の男
寛政譜15・334
母は松平五左衛門一生の女


室は稲葉民部少輔一通の次女

元和9年 はじめて秀忠に拝謁

(寛永12年8月6日) (長吉) ●「日記」

寛永12年8月6日 嫁娶被仰付之 ●「日記」

正保2年12月15日
日根野吉次 慶長15年 生。半三郎。長五郎
ひねのよしつぐ
長五郎弘吉の長男
寛政譜15・338
母は松平周防守家臣都筑助大夫の女


妻は嶋田五郎兵衛直次の女

寛永元年 はじめて秀忠に拝謁

寛永8年 父弘吉の遺跡を継ぐ。800石


書院番

寛永10年2月7日 1000石


書院番を辞す。小普請

寛文7年8月23日 死す
日根正重
生。九郎兵衛
ひねまさしげ
太郎兵衛正吉の男
寛政譜15・340 寛永11年2月 御膳所台所人


松平伊豆守信綱に召し預けられる。武蔵国川越に蟄居

寛永15年10月17日 赦免。御膳所台所人

寛永15年10月17日 御赦免 ●「日記」

(寛文9年) 死す
日野資勝 天正5年 生。侍従。少弁。中弁。蔵人。蔵人頭。大弁。参議。美作権守。
ひのすけかつ
勘解由長官。中納言。大納言。伝奏
諸家伝上・440
大納言輝資入道の長男
宮廷公家系図集覧373
母は住吉神主津守国繁の女


妻は烏丸准大臣光宣の女

天正6年11月25日 従五位下

天正9年1月15日 従五位上・侍従。元服。昇殿

天正13年1月6日 正五位下

天正14年11月4日 左少弁

天正17年1月30日 右中弁

天正18年1月16日 蔵人

天正18年7月25日 正五位上

文禄3年8月19日 左中弁

文禄4年11月4日 従四位下。蔵人を辞す

文禄4年11月26日 従四位上

文禄4年12月28日 正四位下

慶長2年1月16日 正四位上・蔵人頭

慶長4年11月16日 左大弁

慶長4年11月17日 参議・左大弁

慶長5年1月5日 従三位

慶長6年3月19日 美作権守。勘解由長官

慶長7年1月7日 出仕をとどめられる

慶長7年4月10日 出仕

慶長13年8月13日 美作権守と勘解由長官を辞す

慶長16年4月21日 正三位・権中納言

慶長19年1月11日 権大納言

慶長20年1月5日 従二位

元和5年1月6日 正二位

寛永3年1月11日 神宮伝奏

寛永3年 神宮伝奏を辞す

寛永4年1月11日 神宮伝奏

寛永7年9月15日 武家伝奏


武家伝奏を辞す

寛永16年6月15日 薨去

寛永16年7月1日 日野大納言就逝去不便ニ被思召之 ●「日記」
日野資友娘
寛政譜13・269
日野中納言資友の女


新庄越前守直定に嫁ぐ

慶長4年 新庄越前守直好を産む

慶長8年 新庄宗兵衛直之を産む

元和2年 新庄内蔵助直治を産む

(寛永16年)

(寛永16年10月26日) (新庄越前守母儀之忌明之付て以進物御目見) ●「日記」
日野資栄 元和4年 生。弥市郎。伊予守。侍従。勇心
ひのすけよし
大納言輝資入道の養子。花房右馬助正栄の長男
寛政譜12・314
母は大納言輝資入道の四女
宮廷公家系図集覧373
妻は堀美作守親良の女

元和9年 養父輝資の遺跡を継ぐ。1030石。秀忠に仕える


家光に仕える


表高家

(寛永12年10月10日) (今川主膳正以下高家の列に名あり) ●「日記」

天和3年2月13日 奥高家

天和3年3月1日 従四位下・伊予守

貞享2年4月5日 1530石

貞享3年12月28日 侍従

元禄4年12月4日 奥高家を辞す。寄合

元禄10年7月6日 致仕。勇心と号す

元禄11年8月6日
日野西総盛 慶長10年 生。侍従。弁。勧学院別当。右兵衛佐
ひのにしふさもり
広橋大納言総光の四男
諸家伝上・492
母は杉若越後守の女
宮廷公家系図集覧389 慶長18年4月10日 従五位下

慶長18年9月26日 元服。昇殿。侍従

慶長19年7月27日 右少弁

元和3年1月5日 従五位上

元和7年1月5日 正五位下

寛永4年10月25日 勧学院別当

寛永9年6月5日 右少弁を辞す

寛永10年12月20日 右兵衛佐

寛永10年12月24日 従四位下

寛永10年12月27日 従四位上

寛永12年1月18日
日野西光氏 元和2年2月18日 生。侍従。左衛門佐
ひのにしみつうじ
兄右兵衛佐総盛の嗣。広橋大納言総光の五男
諸家伝上・492
母は杉若越後守の女
宮廷公家系図集覧389 寛永10年3月2日 従五位下

寛永13年7月29日 元服。昇殿。侍従

寛永14年1月5日 従五位上

寛永16年4月1日 継目之御礼 ●「日記」

寛永19年1月5日 正五位下

寛永19年1月16日 左衛門権佐

正保元年8月13日
日野弘資 元和3年1月29日 生。侍従。少弁。蔵人。中弁。蔵人頭。参議。大弁。中納言。
ひのひろすけ
大納言。伝奏
諸家伝上・441
中納言光慶の男
宮廷公家系図集覧373
母は加藤左馬助嘉明の女


妻は家女房(正親町三条大納言実有の女)

元和4年1月8日 従五位下

元和7年1月23日 元服。昇殿。侍従。従五位上

寛永4年1月5日 正五位下

寛永9年6月5日 権右少弁。蔵人

寛永10年1月6日 正五位上

寛永12年1月11日 右少弁

寛永14年12月20日 左少弁

(寛永15年3月6日) (昵近之衆) ●「日記」

寛永16年閏11月28日 続目之御礼ニ雖令参府就二丸御座依為軽服無御対顔 ●「日記」

寛永17年12月20日 従四位下。蔵人を辞す

寛永18年1月5日 従四位上

寛永18年8月23日 右中弁

(寛永18年10月3日) (左少弁の初出) ●「日記」

(寛永18年10月19日) (殿上人) ●「日記」

寛永18年11月13日 正四位下

寛永19年1月21日 左中弁

寛永19年7月12日 蔵人頭

寛永19年8月14日 正四位上

寛永20年10月16日 参議。右大弁

寛永20年11月15日 従三位

正保元年12月26日 左大弁

正保2年12月28日 左大弁を辞す

正保4年12月19日 参議を辞す

慶安元年1月5日 正三位

承応元年9月11日 権中納言

明暦元年1月5日 従二位

明暦2年9月27日 権大納言

万治元年4月 神宮伝奏

万治2年12月2日 神宮伝奏を辞す

万治3年12月16日 正二位

万治3年12月26日 権大納言を辞す

寛文10年9月15日 武家伝奏

延宝2年1月10日 武家伝奏を辞す

貞享4年9月29日 薨去
日野弥兵衛

ひのやひょうえ


寛永18年2月8日 関東国廻 ●「日記」

寛永19年6月22日 皆川山城守へ日野弥兵衛役儀ニ付て私曲有之由―


―依有申出族為御穿鑿御預 ●「日記」

寛永19年7月8日 切腹 ●「日記」
日御碕神社
出雲国
ひのみさきじんじゃ




日御碕順式

―じゅんしき
日御碕神社別当か



日比八左衛門

ひびはちざえもん


寛永19年7月14日 今度御蔵衆私曲之与同人也雖然或軽罪或忠信之儀申出ニ付て―


―身命御助家財欠所之上江戸并在所追放 ●「日記」



比牟礼八幡
近江国。日牟礼八幡
ひむれはちまん


正保元年4月11日 江州比牟礼山八幡宮領御朱印被下之 ●「日記」



ひやくな
百名か




(正保元年6月25日) (琉球中山王使者馬上之従者黄はちまき) ●「日記」



檜山久保 慶長14年 生。宮内少輔
ひやまひさやす
出雲守時久の男
地下家伝中・1392 元和5年12月25日 従五位下。花山院家諸大夫

元和6年6月11日 宮内少輔

慶安4年1月5日 従五位上

明暦2年12月26日 正五位下

寛文2年12月14日 従四位下

寛文8年12月24日 従四位上

延宝3年6月18日
表具屋有庵
表具屋。経師屋
ひょうぐやゆうあん


寛永19年12月11日 御扶持被下之 ●「日記」

寛永20年3月16日 旧冬御切米并御扶持方被下之添状今日遣之 ●「日記」



表具屋右斎

ひょうぐやゆうさい


寛永20年3月16日 旧冬御切米并御扶持方被下之添状今日遣之 ●「日記」



兵藤玄蕃

ひょうどうげんば
奥平美作守忠昌に仕える

(寛永19年4月19日) (美作守家来) ●「日記」



日吉右京

ひよしうきょう


(寛永15年1月20日) (山王神職右京) ●「日記」

(寛永15年12月28日) (山王神主日吉右京) ●「日記」



平井采女正

ひらいうねめのかみ
三宝院門跡覚定の家臣



平岩正包
生。半四郎。又左衛門。佐右衛門
ひらいわまさかね
金左衛門正当の次男
寛政譜18・104
妻は松平信濃守家臣塚原庄右衛門の女

寛永4年 はじめて家光に拝謁


大番

寛永20年12月18日 200俵 ●「日記」共

慶安元年5月25日 綱吉に付属される。三丸に伺候。370俵


神田館にて先手鉄炮頭

延宝4年7月6日 死す
平岩正次 文禄元年 生。金左衛門
ひらいわまさつぐ
金左衛門正当の長男
寛政譜18・101 (元和元年) 父正当の遺跡を継ぐ。800石


秀忠に仕える。大番


大番組頭


船奉行

寛永9年6月21日 死す
平岩正信 元和9年 生。六蔵。金左衛門
ひらいわまさのぶ
金左衛門正次の長男
寛政譜18・101
妻は松平安芸守浅野光晟家臣大久保民部の女

寛永9年8月26日 父正次の遺跡を継ぐ。800石

寛永9年8月26日 跡目 ●「日記」

寛永9年9月1日 はじめて家光に拝謁。(●「日記」では継目御礼)

寛永16年6月22日 小姓組 ●「日記」共

慶安元年5月25日 中奥番

慶安元年10月27日 徒頭

慶安元年12月30日 布衣

慶安4年3月12日 死す
平岩元則
生。善右衛門。瀬兵衛
ひらいわもとのり
瀬兵衛元成の長男
士林泝洄2・134 ~寛永元年 徳川義直に仕える

寛永7年 近習

寛永10年10月21日 鉄炮頭。250石

正保元年12月15日 父元成の家を継ぐ。700石

承応2年9月15日 国奉行

万治2年6月21日 旗奉行

延宝元年2月10日 致仕

某年 死す
平岩弥右衛門

ひらいわやえもん
尾張家臣



平尾伊織
生。伊織
ひらおいおり
徳川忠長に付属される
寛政譜22・363 (寛永9年) 処士


赦免あり。書院番。700石

(寛永20年) 死す
平岡和由 天正12年 生。次郎右衛門
ひらおかかずよし
帯刀良知の男
寛政譜5・154
母は武田家臣小幡惣七郎盛直の女


妻は田辺庄右衛門の女

元和3年 父良知の家を継ぐ。200俵。代官(甲斐国山梨郡岩窪村か)

元和4年 はじめて秀忠に拝謁

(寛永11年6月26日) (駿府御賄人) ●「日記」

寛永18年11月17日 死す
平岡道賢 慶長16年 生。源兵衛
ひらおかみちかた
岡右衛門千道の三男
寛政譜5・151
母は池田三左衛門輝政家臣丹羽山城の女


妻は神谷八郎左衛門政成の女


家光に仕える。勘定

寛永15年12月18日 100俵 ●「日記」共

寛文元年~ 勘定組頭。300俵

寛文4年6月6日 死す
平岡道房 元和5年 生。善八。四郎兵衛。宇閑
ひらおかみちふさ
岡右衛門吉道の長男
寛政譜5・144
母は甘利氏


妻は田代氏

寛永18年2月 勘定

寛永19年12月10日 150俵 ●「日記」共

承応2年6月30日 綱吉に付属される。代官


200俵


致仕。宇閑と号す

元禄6年5月4日 死す
平岡善征
生。勘兵衛。勘右衛門
ひらおかよしゆき
次郎右衛門和由の次男
寛政譜5・155
家光に仕える。大番

寛永10年2月7日 200石

寛永19年12月10日 200俵

寛永19年12月10日 知行悪故訴訟申上之仍御切米ニ替被下之 ●「日記」

寛永20年8月8日 土圭間に伺候。出御のとき先に参り番衛

寛永20年8月8日 於土圭之間御番相詰其上方々御成之刻御先え参御殿御番等可相勤之旨―


―被仰付之由伊豆豊後列座有之民部少輔伝之玉虫八左衛門組 ●「日記」

慶安4年9月29日 徳川綱重に付属される。小十人頭

承応元年10月28日 改易


以下不詳
平岡頼資 慶長10年 生。牛右衛門。石見守
ひらおかよりすけ
石見守頼勝の男
寛政譜5・140
室は小堀遠江守政一の女


継室は内藤左馬助政長の女

慶長12年 父頼勝の遺領を継ぐ。美濃国徳野1万石


従五位下・石見守


柳間に伺候

承応2年1月8日
平賀清面 寛永7年 生。八之丞。三五郎
ひらがきよつら
三五郎忠勝の四男
寛政譜4・213
母は飯田四郎左衛門重次の長女


妻は山本四兵衛正吉の女


後妻は玉虫次郎右衛門俊茂の女


また都筑二郎右衛門法勝の女を娶る

寛永19年11月12日 平賀三五郎儀先年実子無之ニ付て妻女之弟令養子是平賀小三郎―


―日来勤御奉公依之領知四百石被下置之其後実子出来之今度三五郎―


―俄相果右之趣達御聴之処三五郎御切米は上実子之儀は可被召出旨―


―仰之通老中被伝之 ●「日記」

承応3年2月27日 大番

明暦2年12月21日 200俵

寛文8年5月7日 納戸番

延宝3年6月11日 納戸番組頭

延宝3年12月21日 300俵

天和2年4月22日 400俵

元禄元年5月13日 広敷番頭

元禄10年4月29日 広敷番頭を辞す。小普請

元禄10年7月6日 致仕

宝永6年3月8日 死す
平賀清秀 元和9年 生。七之丞
ひらがきよひで
三五郎忠勝の次男
寛政譜4・213
母は飯田四郎左衛門重次の長女


妻は飯田四郎左衛門直重の女

寛永19年11月12日 平賀三五郎儀先年実子無之ニ付て妻女之弟令養子是平賀小三郎―


―日来勤御奉公依之領知四百石被下置之其後実子出来之今度三五郎―


―俄相果右之趣達御聴之処三五郎御切米は上実子之儀は可被召出旨―


―仰之通老中被伝之 ●「日記」

正保元年2月20日 はじめて家光に拝謁

正保元年2月20日 平賀三五郎子初て御目見 ●「日記」

慶安2年12月26日 大番

承応元年12月10日 死す
平賀定次
生。小三郎。小左衛門
ひらがさだつぐ
三五郎忠勝の養子。飯田四郎左衛門重次の三男
寛政譜4・213 寛永5年 はじめて家光に拝謁。大番

寛永8年 200俵

寛永10年2月7日 400石

寛永19年11月12日 平賀三五郎儀先年実子無之ニ付て妻女之弟令養子是平賀小三郎―


―日来勤御奉公依之領知四百石被下置之其後実子出来之今度三五郎―


―俄相果右之趣達御聴之処三五郎御切米は上実子之儀は可被召出旨―


―仰之通老中被伝之 ●「日記」

(寛永20年8月8日) (小左衛門の初出) ●「日記」

寛永20年8月8日 新番

寛永20年8月8日 於土圭之間御番相詰其上方々御成之刻御先え参御殿御番等可相勤之旨―


―被仰付之由伊豆豊後列座有之民部少輔伝之遠山十右衛門組 ●「日記」

正保2年2月18日 死す
平賀忠勝 天正15年 生。三五郎
ひらがただかつ
武兵衛忠次の男
寛政譜4・212
妻は飯田四郎左衛門重次の長女

慶長7年 家康に仕える。近習


小十人


秀忠に仕える。腰物番

~寛永3年 300石


加増あり

寛永17年3月17日 死す
平田道有
生。貞庵。道有。法眼
ひらたどうゆう
藤庵の男
寛政譜17・216 寛永14年 はじめて家光に拝謁

寛永15年12月6日 月俸を賜る。寄合医師

寛永15年12月6日 先年被召出医師道有ニ十人扶持被下之 ●「日記」

寛文元年12月19日 番医

寛文2年12月22日 200俵

天和2年11月18日 奥医

天和3年12月25日 法眼

天和3年12月27日 300俵

元禄5年11月22日 番医

元禄6年3月4日 遠慮

元禄7年5月8日 ゆるされる

元禄11年11月28日 番医を辞す。小普請

宝永2年10月24日 死す
平田生職 天正19年2月1日 生。少外記。右少史。左少史。少内記。右大史
ひらたなりもと
出納(平田)兵庫頭職久の男
地下家伝上・67
母は多讃岐守忠宗の女
宮廷公家系図集覧577
妻は大野右馬允宗閑の女

慶長10年4月14日 正六位上。権少外記

慶長18年11月19日 右少史。権少外記

慶長18年12月30日 少外記

慶長19年10月2日 左少史

寛永6年8月4日 少内記。左少史。少外記

寛永6年11月8日 右大史

寛永9年1月10日 従五位下

(寛永11年7月21日) (右大史咸務) ●「日記」

明暦元年8月25日 少内記を辞す

明暦元年9月25日 従五位上。少外記・右大史を辞す

明暦元年9月26日 死す
平田隼人正

ひらたはやとのかみ


(寛永20年3月19日) (宗対馬守家来) ●「日記」



平野勝貞 慶長8年 生。権之助。与左衛門
ひらのかつさだ
次郎右衛門勝茂の長男
寛政譜8・332
母は行方摂津守の女


妻は毛利摂津守高成の女

寛永15年2月19日 勘定

寛永15年12月18日 百俵御切米被下之 ●「日記」

寛永17年 父勝茂の遺跡を継ぐ。200俵

慶安4年9月29日 綱吉に付属される


神田館にて勘定頭。600俵


勘定頭を辞す


致仕

元禄元年3月6日 死す
平野勝長 寛永3年 生。次郎助。次郎左衛門
ひらのかつなが
次郎右衛門勝茂の次男
寛政譜8・335
母は行方摂津守の女


妻は藤方勘右衛門安重の女

寛永19年 家光に仕える。勘定

寛永19年12月10日 150俵 ●「日記」共

寛文6年12月10日 勘定組頭

寛文6年12月25日 250俵

寛文11年12月23日 350俵

延宝7年12月19日 死す
平野重長
生。七之助。三郎右衛門
ひらのしげなが
三郎右衛門重政の男
寛政譜15・368
秀忠に仕える

(寛永20年) 父重政の遺跡を継ぐ。100俵。(遠江国寺谷・加茂・向坂の)代官

(正保元年2月5日) (御代官) ●「日記」


代官を辞す。致仕

元禄2年4月1日 死す
平野重政
生。三郎右衛門
ひらのしげまさ
三郎右衛門繁定の男
寛政譜15・368
家康に仕える

(元和2年) 徳川頼宣に付属される。駿河国代官

(元和5年) 秀忠に仕える

(寛永元年) 父繁定の遺跡を継ぐ。100俵。(遠江国寺谷・加茂・向坂の)代官

(寛永12年1月21日) (遠州御代官) ●「日記」

寛永20年8月17日 死す
平野太郎左衛門

ひらのたろうざえもん
木下右衛門大夫延俊に仕える

(寛永16年8月10日) (木下右衛門大夫家老) ●「日記」



平野友平
生。藤次郎
ひらのともひら
藤次郎正貞の次男
寛政譜15・367 (寛永15年) 父正貞の遺跡を継ぐか

(寛永16年5月5日) (上方御代官衆子共) ●「日記」

寛永16年5月5日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共


代官。200俵

(正保元年2月5日) (御代官) ●「日記」

延宝4年 死す
平野長勝 慶長8年 生。権平
ひらのながかつ
遠江守長泰の男
寛政譜8・329
母は土方河内守雄久の女


妻は小浜民部少輔光隆の女

元和元年 秀忠に拝謁

寛永5年 父長泰の遺跡を継ぐ。大和国田原本5000石

寛文8年12月9日 死す
平野長利
生。清左衛門
ひらのながとし
九左衛門長重の男
寛政譜8・331
母は佐久間河内守政実の姪女

元和9年 家光に仕える。書院番


父長重の家を継ぐ。500石

寛永10年2月7日 700石

寛文7年3月15日 死す
平野長直
生。大助。九左衛門
ひらのながなお
清左衛門長利の男
寛政譜8・331
妻は竹谷松平帯刀清直の養女竹谷松平民部清雄の女

正保元年9月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保4年12月25日 書院番

寛文7年7月5日 父長利の遺跡を継ぐ。700石

天和2年8月9日 小十人頭

天和2年12月27日 布衣

天和3年7月18日 目付

貞享元年10月27日 先鉄炮頭

貞享3年7月6日 小普請。拝謁をとどめられる

元禄3年4月17日 ゆるされる

元禄9年3月23日 死す
平野平左衛門

ひらのへいざえもん


(寛永15年12月28日) (銀座) ●「日記」

(正保元年5月10日) (銀座年寄) ●「日記」

正保元年5月10日 女中荒木義森川長左衛門尉ト申町人母松山并長左衛門被相頼掠公義―


―御内々ノ上意之様申成長左衛門ヲ銀座成年寄依之荒木事土岐山城守ニ―


―御預息荒木左馬助細川肥後守御預長左衛門并松山男子之分昨夕断罪―


―被仰付也次銀座年寄平野平左衛門尉事荒木被頼取持之故思召不届―


―彼座中除之 ●「日記」






平野正貞
生。藤次郎
ひらのまささだ
次郎兵衛長成の男
寛政譜15・367
家康に仕える


秀忠に仕える

元和元年 代官


家光に仕える

寛永15年6月10日 死す

(寛永16年5月5日) (上方御代官) ●「日記」
平野正貞長男

寛政譜15・367
藤次郎正貞の長男

寛永11年閏7月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共


以下不詳
平松時量 寛永4年3月15日 生。侍従。少納言。参議。右衛門督。中納言。嘯月
ひらまつときかず
中納言時庸の長男
諸家伝下・992
母は日野大納言輝資の次女
宮廷公家系図集覧516
室は飛鳥井大納言雅章の次女

寛永8年11月6日 従五位下

寛永11年6月6日 元服。昇殿。侍従

寛永14年1月5日 従五位上

寛永19年1月5日 正五位下

正保元年1月29日 新知拝領之御礼 ●「日記」

正保2年1月6日 従四位下

慶安元年7月8日 少納言。侍従

慶安2年1月5日 従四位上

承応2年1月5日 正四位下

明暦3年1月5日 従三位

寛文元年4月2日 参議

寛文元年4月9日 右衛門督

寛文3年1月6日 正三位

寛文8年12月22日 従二位

延宝2年7月5日 権中納言

延宝2年11月4日 帯剣

延宝6年8月21日 権中納言を辞す

天和2年12月24日 正二位

元禄14年2月23日 出家。嘯月と号す

宝永元年8月12日 薨去
平松時庸 慶長4年4月28日 生。侍従。少納言。右衛門督。参議。中納言
ひらまつときつね
西洞院右衛門督時慶の次男
諸家伝下・991
室は日野大納言輝資の次女
宮廷公家系図集覧516 慶長12年1月15日 従五位下

慶長18年2月23日 元服。昇殿。侍従。従五位上

元和3年1月5日 正五位下

元和6年1月5日 従四位下

寛永元年1月5日 従四位上

寛永5年1月6日 正四位下

寛永8年12月17日 少納言・侍従

寛永9年1月5日 従三位

寛永11年3月26日 右衛門督

寛永15年1月5日 正三位


服喪

寛永17年2月10日 右衛門督


服喪

寛永17年5月19日 右衛門督

寛永20年11月7日 参議・右衛門督

(正保元年1月14日) (宰相の初出) ●「日記」

正保4年1月5日 従二位

慶安元年6月28日 参議・右衛門督を辞す

承応3年7月11日 権中納言

承応3年7月11日 権中納言を辞す

承応3年7月11日 薨去
平良

ひらら


(正保元年6月25日) (琉球中山王使者馬上之従者赤はちまき) ●「日記」



広沢平三郎

ひろさわへいざぶろう
平兵衛の惣領

寛永20年12月7日 三拾俵三人扶持平兵衛跡広沢平三郎 ●「日記」



広沢平兵衛

ひろさわへいびょうえ


寛永20年12月7日 三拾俵三人扶持平兵衛跡広沢平三郎 ●「日記」



広田図書

ひろたずしょ
水野日向守勝成に仕える


水野美作守勝俊に仕える

(寛永16年12月1日) (水野美作守家老) ●「日記」



広庭祐信 天正17年 生。上北面。主膳正。播磨守。院非蔵人。下鴨神主
ひろにわすけのぶ
下鴨神主内蔵頭祐房の五男
地下家伝中・861 (寛永11年7月21日) (非蔵人)(播磨守) ●「日記」
古代豪族系図集覧160 寛永13年 上北面

寛永13年3月8日 従五位下。主膳正


播磨守


上北面を辞す

寛文7年12月20日
広橋兼賢 文禄4年7月26日 生。侍従。中弁。蔵人。蔵人頭。大弁。参議。中納言。大納言。准大臣
ひろはしかねかた
大納言総光の長男
諸家伝上・459
母は杉若越後守の女
宮廷公家系図集覧389 慶長2年1月5日 従五位下

慶長7年12月21日 元服。昇殿。侍従

慶長9年8月1日 従五位上

慶長14年1月6日 正五位下

慶長14年1月11日 権右中弁

慶長16年4月21日 蔵人

慶長17年1月5日 正五位上

慶長17年1月19日 右中弁

慶長18年7月22日 従四位下

慶長18年8月28日 従四位上

慶長18年12月2日 正四位下

慶長19年1月5日 正四位上

慶長19年1月14日 蔵人頭

慶長19年7月27日 左中弁

元和元年12月28日 右大弁

元和5年7月10日 左大弁

元和5年7月13日 参議・左大弁

元和6年1月5日 従三位

元和7年1月11日 権中納言

寛永元年1月5日 正三位

寛永5年2月10日 従二位

寛永10年8月2日 権大納言

寛永11年1月6日 正二位

(寛永15年3月6日) (昵近之衆) ●「日記」

正保4年12月28日 権大納言を辞す

万治3年12月24日 従一位

寛文元年12月24日 准大臣

寛文9年5月25日 薨去
広橋綏光 元和2年1月23日 生。侍従。中宮権大進。少弁。蔵人。中弁。大弁。蔵人頭。
ひろはしやすみつ
参議。中納言
諸家伝上・460
大納言兼賢の長男
宮廷公家系図集覧389
母は正親町少将季康の女


妻は三条西公勝の女

元和3年1月5日 従五位下

元和6年5月17日 元服。昇殿。従五位上・侍従

寛永元年11月28日 中宮権大進

寛永4年1月5日 正五位下

寛永6年11月9日 中宮権大進を辞す

寛永8年11月20日 権右少弁

寛永9年5月2日 蔵人

寛永9年12月6日 禁色

寛永10年1月6日 正五位上

寛永10年6月5日 右少弁(職事勅許)

寛永12年1月11日 左少弁

寛永13年6月30日 勧学院氏院別当

寛永14年12月20日 右中弁

(寛永16年4月1日) (右少弁) ●「日記」

寛永16年閏11月21日 従四位下。蔵人を辞す

寛永16年閏11月29日 従四位上

寛永16年12月20日 正四位下

寛永18年8月23日 左中弁

(寛永18年10月3日) (右中弁の初出) ●「日記」

(寛永18年10月19日) (殿上人) ●「日記」

(寛永18年10月21日) (右少弁) ●「日記」

寛永19年1月21日 右大弁

寛永19年2月6日 蔵人頭

寛永19年6月10日 正四位上

寛永19年7月8日 神宮奉行

寛永20年10月16日 参議。左大弁

寛永20年11月15日 従三位

正保元年12月24日 左大弁を辞す

正保4年12月28日 参議を辞す

慶安元年12月22日 正三位

慶安3年12月21日 権中納言

承応2年3月22日 直衣

承応3年3月4日 薨去
深井吉親
生。主膳。藤堂を称す
ふかいよしちか
藤堂高虎に仕える
宗国史下・483
3000石


藤堂の称号を賜る

慶長19年 4000石。中堅騎将

~寛永7年 執政

(寛永12年6月1日) (藤堂大学頭家老) ●「日記」

慶安3年 死す
深尾因幡守

ふかおいなばのかみ (寛永11年7月26日) (松平土佐守家来) ●「日記」






深尾元重
生。八大夫
ふかおもとしげ
掃部元治の次男
寛政譜7・301
母は小沢瀬兵衛忠重の女


妻は佐野四郎右衛門政定の女

寛永16年閏11月7日 父元治の遺跡を継ぐ。340石。土蔵番組頭

寛永16年閏11月7日 御土蔵番組頭 ●「日記」

天和2年4月22日 340石100俵

貞享2年3月16日 土蔵番組頭を辞す。小普請

貞享4年7月12日 死す
深田正室
生。正室
ふかだしょうしつ
石河宗有の男
士林泝洄4・208
堀正意に学ぶ


徳川義直に仕える。200石

寛文3年4月17日 死す
深田内記

ふかだないき


(正保元年4月1日) (伊達遠江守(家中証人)) ●「日記」



深多弥左衛門

ふかだやざえもん
能見松平丹後守重直に仕える

(寛永16年8月10日) (松平丹後守家老) ●「日記」



深津正勝 慶長19年 生。市兵衛
ふかつまさかつ
市兵衛正重の長男
寛政譜17・148
妻は細井金兵衛勝吉の女

寛永7年 父正重の遺跡を継ぐ。300石


大番

寛永10年2月7日 500石

寛永14年閏3月7日 死す
深津正貞 慶長6年 生。弥七郎。越中守
ふかつまささだ
弥左衛門正但の男
寛政譜17・144
母は朝比奈左近宗利の女


妻は酒井佐大夫吉勝の女

元和9年 はじめて家光に拝謁

寛永元年 小姓組

~寛永3年 300俵

寛永10年2月7日 500石

寛永14年11月25日 膳奉行

寛永14年11月25日 御本丸御膳奉行 ●「日記」

寛永18年12月4日 父正但の遺跡を継ぐ。500石

寛永18年12月4日 五百石大坂御金奉行深津弥左衛門跡惣領弥七郎ニ被下之―


―但弥七郎取来之五百石ハ被召上 ●「日記」

承応3年11月29日 新院(明正天皇)付。1000石

明暦元年 従五位下・越中守

万治3年3月8日 死す
深津正武
生。弥助。長右衛門。五郎大夫
ふかつまさたけ
長右衛門正信の長男
寛政譜17・141
母は玉虫助大夫重茂の女


妻は雀部新六重利の女

寛永15年1月15日 大番 ●「日記」共


(200俵)

寛永18年12月4日 父正信の遺跡を継ぐ。750石

寛永18年12月4日 七百石中根大隅守組深津長右衛門跡右惣領弥之助ニ被下之―


―弥之助取来候御切米弐百俵ハ上ル ●「日記」

万治2年2月26日 道奉行

延宝元年3月30日 道奉行を辞す。小普請

元禄3年10月17日 死す
深津正但 天正12年 生。孫左衛門。弥左衛門
ふかつまさただ
弥左衛門正吉の長男
寛政譜17・144
母は勝与一郎重久の女


妻は朝比奈左近宗利の女

慶長5年 はじめて秀忠に拝謁。秀忠に仕える

慶長19年 大坂の役にて大番

元和元年~ 大番組頭

寛永2年9月2日 500石の朱印

寛永4年 大坂金奉行

寛永18年6月7日 死す

(寛永18年12月4日) (弥左衛門の初出)(大坂御金奉行) ●「日記」
深津正俊 慶長13年 生。彦兵衛
ふかつまさとし
弥左衛門正吉の養子。勝五左衛門重昌の次男
寛政譜17・147
妻は柴田伝右衛門正吉の女

寛永6年 はじめて家光に拝謁

寛永6年2月 小十人


廩米を賜る

寛永9年8月25日 100俵加増

寛永13年9月27日 小十人組組頭 ●「日記」共

正保3年12月4日 300俵

万治2年 大坂具足奉行

万治3年5月21日 死す
深津正信 慶長2年 生。長右衛門
ふかつまさのぶ
弥左衛門正吉の次男
寛政譜17・141
母は勝与一郎重久の女


妻は玉虫助大夫重茂の女

慶長19年 秀忠に仕える

慶長19年 大坂の役にて阿部備中守正次に属す

元和元年 大坂の役にて阿部備中守正次に属す


100俵を加増

寛永6年 父正吉の遺跡を継ぐ。550石

寛永10年2月7日 750石

寛永18年5月3日 死す

(寛永18年12月4日) (中根大隅守組) ●「日記」
深津正之 元和2年 生。甚左衛門
ふかつまさゆき
兄市兵衛正勝の嗣。市兵衛正重の次男
寛政譜17・148 寛永15年12月21日 兄正勝の遺跡を継ぐ。300石

寛永15年12月21日 五百石市兵衛跡目内弐百石上ル ●「日記」

寛永16年 家光に仕える

寛永20年8月8日 新番

寛永20年8月8日 於土圭之間御番相詰其上方々御成之刻御先え参御殿御番等可相勤之旨―


―被仰付之由伊豆豊後列座有之民部少輔伝之遠山十右衛門組 ●「日記」

慶安4年9月29日 徳川綱重に付属される


300石300俵。留守居


留守居を辞す

元禄3年11月11日 死す
深谷盛吉 天正2年 生。忠三郎。忠兵衛
ふかやもりよし
左馬介吉次の男
寛政譜18・240
妻は大八木安左衛門の女


太田十郎氏房に仕える

天正18年 処士か

慶長2年 家康に仕える。代官(武蔵国八王子か)。200俵

(寛永13年5月28日) (美濃国御代官) ●「日記」


徳川綱重に付属される。代官

明暦2年7月23日 死す
深谷吉政 慶長9年 生。喜三郎。喜右衛門
ふかやよしまさ
忠兵衛盛吉の長男
寛政譜18・240
母は大八木安左衛門の女


妻は乙幡半右衛門重行の女


家光に仕える。大番。200俵

寛永11年 代官

寛文11年2月23日 致仕

延宝4年12月8日 死す
福井正重
生。勘兵衛
ふくいまさしげ
清右衛門正次の長男
寛政譜17・124
妻は小宮山喜左衛門広正の女

寛永11年 はじめて家光に拝謁

寛永18年 大番

寛永20年12月18日 弐百俵 ●「日記」

延宝3年12月14日 父正次の遺跡を継ぐ。500石

延宝7年2月10日 大番組頭

延宝8年12月26日 500石200俵

天和2年4月22日 500石400俵

貞享4年11月6日 大番組頭を辞す。小普請

元禄4年 死す
福王信定
生。平右衛門
ふくおうのぶさだ
市左衛門信重の長男
寛政譜17・2
母は喜連川左馬頭家臣逸見駿河の女


妻は伊丹喜左衛門の女

寛永9年6月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

(承応3年) 父信重の遺跡を継ぐ。(200俵)。小普請


大番

寛文2年10月26日 納戸番

寛文8年11月11日 大坂具足奉行

寛文8年12月12日 300俵

元禄5年9月11日 死す
福王信重
生。市左衛門
ふくおうのぶしげ
新右衛門信正の男
寛政譜17・2
妻は喜連川左馬頭家臣逸見駿河の女


秀忠に仕える。小十人


納戸番


二丸宮の膳奉行

承応3年6月5日 死す
福岡光忠
生。太郎八。源心
ふくおかみつただ
太郎右衛門の男
仮名別諸士系譜6・126
父太郎右衛門の遺跡を継ぐ


徳川頼宣に付属される。横須賀衆

元和5年 1000石

万治元年11月 隠居

寛文6年7月3日 死す
福正院
生。福照院。福正院
ふくしょういん
秀忠の養女。榊原式部大輔康政の次女
寛政譜5・47
母は松平五郎左衛門大須賀康高の女

慶長10年9月 秀忠の養女として松平武蔵守池田利隆に嫁ぐ

慶長14年 松平新太郎池田光政を産む。1000石

慶長16年 松平備後守池田恒元を産む

元和2年 夫利隆と死別。尼となり福正院と号す

寛永18年11月22日 松平新太郎登営是母儀へ八木被下之御礼也―


―松平阿波守は令煩付て使者被差上云々 ●「日記」

寛文12年10月26日 逝去
福田和泉

ふくだいずみ
松平相模守池田光仲に仕える

(寛永19年5月22日) (松平相模守家来) ●「日記」



福田蔵人

ふくだくろうど
松平相模守池田光仲に仕える

(寛永17年3月15日) (松平相模守証人) ●「日記」



福富家貞
生。平三郎。平左衛門
ふくづみいえさだ
大膳の男
寛政譜10・97 元和元年7月24日 家康に仕える。書院番。3000石

寛永10年4月29日 書院番を辞す。小普請

寛永10年4月29日 依長病小普請被仰付 ●「日記」

承応3年 死す
福西吉左衛門

ふくにしきちざえもん
松平中務大輔蒲生忠知の家老

寛永9年7月11日 伊豆大島へ流罪 ●「日記」



福原資敏 元和6年 生。内記
ふくはらすけとし
淡路守資盛の長男
寛政譜12・139
妻は喜連川右兵衛督尊信の女

寛永9年 はじめて家光に拝謁

寛文11年3月15日 死す
福原資盛 慶長8年 生。内記。淡路守。岩久
ふくはらすけもり
雅楽頭資保の長男
寛政譜12・139
母は久野氏


妻は大田原備前守晴清の女

元和元年 はじめて秀忠に拝謁

元和5年 松平丹後守重忠、秋元但馬守泰朝に属し駿府城番

(寛永10年) 父資保の遺跡を継ぐ。下野国那須郡福原4500石

正保元年9月22日 蟄居 ●「日記」共


赦免

延宝元年5月8日 致仕。岩久と号す

延宝7年12月21日 死す
福原資保 元亀2年 生。新太郎。安芸守。雅楽頭
ふくはらすけやす
兄中務丞資広の嗣。安芸守資孝の次男
寛政譜12・138
母は福原弾正左衛門資郡の女


妻は久野氏

慶長3年11月15日 はじめて家康に拝謁。下野国那須郡2610石

慶長5年 下野国那須郡2910石

慶長7年 下野国那須郡3910石


下野国那須郡4410石


下野国那須郡4500石

寛永10年12月24日 死す
福村一郎右衛門

ふくむらいちろうえもん


(寛永19年12月10日) (御台所衆) ●「日記」

寛永19年12月10日 三十俵弐人扶持 ●「日記」



福村長右衛門
生。長十郎。長右衛門
ふくむらちょうえもん
長右衛門政直の長男
寛政譜3・94
妻は下嶋市兵衛政真の女


勘定

正保3年12月13日 150俵


代官

延宝5年4月4日 本多作左衛門重益に召し預けられる

延宝5年8月4日 遠流


以下不詳
福村政直
生。勘右衛門。長右衛門
ふくむらまさなお
長右衛門勝正の次男
寛政譜3・94
秀忠・家光に仕える。武蔵国八王子代官


以下不詳
藤井善右衛門

ふじいぜんえもん
寛政譜19・134善右衛門頼仙の養父か

(寛永20年6月23日) (御徒目付) ●「日記」



藤井太郎右衛門

ふじいたろうえもん


(寛永18年12月29日) (御かち目付) ●「日記」



藤江雅良 慶長8年3月8日 生。右京大夫。量雅
ふじえまさよし
飛鳥井大納言雅綱の長男安居院覚澄の次男
諸家伝下・1112 元和8年12月11日 従五位下。元服。右京大夫
宮廷公家系図集覧336 寛永9年1月5日 従五位上

(寛永11年7月21日) (院中) ●「日記」

(寛永11年閏7月22日) (北面藤井右京) ●「日記」

寛永13年1月5日 正五位下

寛永17年1月5日 従四位下

正保元年1月5日 従四位上

慶安元年1月5日 正四位下

承応元年12月7日 従三位

承応2年3月6日 出家。量雅と号す


以下不詳
藤懸永俊 元和元年 生。監物
ふじかけながとし
三蔵永重の男
寛政譜8・213
母は谷内蔵助衛成の女


妻は建部丹波守政長の女

寛永8年 父永重の遺跡を継ぐ。丹波国何鹿郡上林庄5000石

寛永8年 はじめて家光に拝謁

天和2年12月18日 致仕

元禄10年8月28日 死す
藤方安重
生。勘右衛門。閑斎
ふじかたやすしげ
平九郎安正の次男
寛政譜8・35
妻は松平加賀守家臣家所杢之助の妹

寛永9年8月19日 はじめて家光に拝謁

寛永9年8月22日 小十人。100俵

寛永19年12月16日 200俵 ●「日記」共

寛永20年8月8日 新番

寛永20年8月8日 於土圭之間御番相詰其上方々御成之刻御先え参御殿御番等可相勤之旨―


―被仰付之由伊豆豊後列座有之民部少輔伝之中根次郎左衛門組 ●「日記」

慶安4年9月29日 綱吉に付属される


神田館にて目付


持筒頭


留守居役


600俵


致仕。閑斎と号す

延宝8年9月17日 死す
藤川重信 天正16年 生。孫十郎
ふじかわしげのぶ
十右衛門重安の三男
寛政譜14・240
秀忠に仕える。納戸番。采地を賜る

寛永10年7月25日 死す
藤川重房
生。左十郎。孫十郎
ふじかわしげふさ
孫十郎重信の養子。生駒讃岐守家臣藤川左衛門重政の男
寛政譜14・241
妻は鈴木三郎九郎重成の女

寛永11年3月21日 養父重信の遺跡を継ぐ。?石

寛永11年3月21日 藤川孫十郎跡式之事養子ニ被下置 ●「日記」

寛永11年3月26日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

(寛永11年3月26日) (左太郎) ●「日記」


大番

(寛永19年12月10日) (孫十郎の初出) ●「日記」

寛永19年12月10日 420俵

寛永19年12月10日 知行悪故訴訟申上之仍御切米ニ替被下之 ●「日記」

明暦3年 死す
藤木十左衛門

ふじきじゅうざえもん


寛永16年10月15日 御切米弐百俵弐拾人扶持被下之是針治之功者ニ付て―


―従賀茂被召寄当地令居住也 ●「日記」



藤重権之助
塗師。茶器修復。金継ぎ
ふじしげごんのすけ







藤重四郎兵衛
塗師。茶器修復。金継ぎ
ふじしげしろうびょうえ







藤重藤言
塗師。茶器修復。金継ぎ
ふじしげとうげん







富士浅間神社
駿河国。富士大宮司
ふじせんげんじんじゃ




―辻之坊

―つじのぼう




―宝蔵坊

―ほうぞうぼう




―宝憧院
富士別当
―ほうどういん




藤田忠房
生。九郎左衛門
ふじたただふさ
民部忠次の次男
士林泝洄4・577
父忠次の隠居領を賜る。徳川義直に仕える。1000石。寄合


書院番頭

寛永19年4月8日 死す
藤谷為条 元和6年3月21日 生。侍従。少将。中将。右衛門督。参議。中納言
ふじたにためえだ
中納言為賢の長男
諸家伝下・981
母は四条中将隆昌の長女
宮廷公家系図集覧359 寛永3年1月5日 従五位下

寛永7年12月22日 元服。昇殿。侍従

寛永8年11月6日 従五位上

寛永13年1月5日 正五位下

寛永14年9月1日 右少将

寛永17年1月5日 従四位下

寛永18年1月11日 左中将

正保元年1月5日 従四位上

慶安元年1月5日 正四位下

承応3年12月21日 従三位

明暦元年10月5日 右衛門督

万治元年1月5日 正三位

万治元年7月9日 参議。右衛門督

寛文元年4月2日 参議・右衛門督を辞す

寛文7年1月5日 従二位

寛文9年12月18日 権中納言

延宝元年12月26日 正二位

延宝2年7月5日 権中納言を辞す

延宝8年9月15日 薨去
藤谷為賢 文禄2年8月13日 生。侍従。少将。中将。民部卿。参議。中納言
ふじたにためかた
冷泉大納言為満の次男
諸家伝下・980
室は四条中将隆昌の長女
宮廷公家系図集覧358 慶長11年6月5日 従五位下。元服。昇殿。侍従

慶長17年1月5日 従五位上

慶長19年1月5日 左少将

慶長20年1月5日 正五位下

元和5年1月6日 従四位下

元和6年1月11日 左中将

元和10年1月5日 従四位上

寛永5年1月7日 正四位下

寛永9年1月5日 従三位

寛永11年3月26日 民部卿

寛永14年1月5日 正三位

寛永15年12月23日 参議。民部卿を辞す

寛永19年1月5日 従二位

寛永19年12月22日 権中納言

寛永20年1月5日 帯剣

正保2年4月15日 権中納言を辞す

承応2年7月11日 薨去
富士信尚 寛永元年 生。伝右衛門。又市郎
ふじのぶなお
市左衛門信久の長男
寛政譜6・361 寛永13年12月6日 藤伝右衛門初て御目見 ●「日記」

(寛永16年) 父信久の遺跡を継ぐ。200石

寛永19年 はじめて家光に拝謁


大番

寛文元年10月12日 新番。200石50俵

寛文6年3月18日 死す
富士信吉 慶長16年 生。七郎左衛門
ふじのぶよし
市兵衛信重の三男
寛政譜6・360 寛永9年 はじめて家光に拝謁


小十人。100俵

寛永19年12月16日 200俵 ●「日記」共

慶安2年2月25日 納戸番

寛文5年8月9日 長男信光に連座して逼塞

寛文6年4月15日 ゆるされる

天和元年1月21日 死す
藤林綱久 天正元年 生。源七郎。道寿
ふじはやしつなひさ
伊賀守綱次の長男
寛政譜18・91
妻は朽木河内守元綱の四男太兵衛の女

天正19年 家康に仕える

~慶長5年 100俵

元和元年~ 今大路道三に医業を学ぶ


秀忠に仕える

寛永17年10月28日 京都の薬園を預かる。京都に住す

万治元年12月26日 死す
藤林雅良 慶長18年 生。市兵衛
ふじはやしまさよし
市兵衛勝政の養子。藤林弥六正治の次男
寛政譜18・93
妻は尾張家臣奥平求馬之助の女


後妻は近衛家臣進藤筑後守の女

(寛永3年) 養父勝政の遺跡を継ぐ。山城国横大路村200俵。大和国代官

寛文12年12月23日 死す
伏原賢忠 慶長7年5月2日 生。蔵人。左近将監。主計頭。少納言。侍従。主水正。大蔵卿。
ふしはらかたただ
はじめ東高倉を称すか
諸家伝下・1032
舟橋式部少輔秀賢の次男
宮廷公家系図集覧530 元和元年7月25日 元服。正六位上。蔵人。左近将監

寛永6年10月20日 従五位下。主計頭

寛永8年11月6日 従五位上

寛永10年1月6日 正五位下

(寛永11年7月21日) (院中) ●「日記」

寛永15年1月5日 従四位下

寛永19年1月5日 従四位上

寛永20年9月30日 少納言。侍従

正保元年12月12日 少納言を辞す

正保3年1月5日 正四位下

正保3年1月11日 主水正

承応元年10月12日 従三位

明暦元年1月11日 大蔵卿

明暦3年1月5日 正三位

寛文6年9月4日 従二位

寛文6年9月6日 薨去
伏見稲荷
京都伏見
ふしみいなり







伏見為景 元和7年 生。伊左衛門。助左衛門
ふしみためかげ
金右衛門長景の長男
寛政譜15・254
母は伏見平左衛門長政の女


妻は久留善兵衛次正の女

寛永13年3月25日 はじめて家光に拝謁

寛永13年3月25日 伏見金右衛門子被召出之 ●「日記」

寛永13年3月25日 大久保右京亮組(大番) ●「日記」

寛永13年12月27日 大番 ●「日記」共


200俵

慶安元年9月25日 綱吉に付属される。書院番


徒頭


持筒頭


500俵

延宝8年 徳松の御供。西丸に勤仕

天和3年 徳松逝去ののち務をゆるされる。小普請

貞享2年5月28日 死す
伏見為智 寛永4年 生。竹之助。勘十郎。勘七郎。空夢
ふしみためとも
勘七郎為則の長男
寛政譜17・334
母は伏見金右衛門長景の女


妻は伴権右衛門盛政の女

寛永13年12月6日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

(寛永19年6月26日) (勘十郎の初出) ●「日記」

寛永19年6月26日 大番 ●「日記」共

正保元年12月25日 弐百俵 ●「日記」

寛文11年5月29日 父為則の家を継ぐ。500石500俵

延宝2年9月27日 大番組頭

延宝6年11月21日 先弓頭

延宝6年12月28日 布衣

天和2年4月21日 1000石500俵

元禄4年閏8月9日 先弓頭を辞す。寄合

元禄6年12月6日 致仕。300俵。空夢と号す

元禄10年9月21日 死す
伏見為則 慶長5年 生。勘七郎。道智。はじめ津戸を称す
ふしみためのり
金右衛門長景の養子。津戸山城守為次の次男
寛政譜17・334
母は川目豊後の女
寛政譜15・253
妻は金右衛門長景の長女


後妻は伴五兵衛重盛の女

元和6年 秀忠に仕える。大番。200俵

寛永3年 300俵

寛永10年2月7日 500石

慶安元年4月1日 大番組頭

慶安4年11月21日 500石200俵

明暦3年10月23日 先鉄炮頭

明暦3年12月28日 布衣

万治元年閏12月25日 500石500俵

寛文10年11月29日 先鉄炮頭を辞す

寛文11年5月29日 致仕。200俵。道智と号す

延宝元年6月1日 死す
伏見長景 永禄8年 生。金右衛門
ふしみながかげ
平左衛門長政の養子。野呂猪之丞正景の次男
寛政譜15・252
母は北畠中納言具親の女


妻は平左衛門長政の女

文禄4年 はじめて家康に拝謁

(慶長13年) 養父長政の遺跡を継ぐ

元和5年 徳川忠長に付属される

(寛永9年) 処士

寛永11年 家光に仕える。大番

寛永12年12月13日 200石

(寛永13年3月25日) (大久保右京亮組) ●「日記」


大番を辞す。小普請

万治元年11月7日 死す
布施佐五左衛門(1)
ふせさござえもん
兵庫大夫の男
仮名別諸士系譜6・146
北条家臣

天正18年 父兵庫大夫とともに浪人


父兵庫大夫とともに家康に仕える


徳川頼宣に付属される。300石

元和5年 500石。鉄炮頭

寛永12年2月7日 死す
布施佐五左衛門(2)
ふせさござえもん
佐五左衛門(1)の男
仮名別諸士系譜6・147
徳川頼宣に仕える

寛永12年 父佐五右衛門の遺跡を継ぐ。250石


1800石


城代

寛文7年7月15日 隠居

天和3年6月15日 死す
布施重勝 寛永元年 生。新助
ふせしげかつ
孫兵衛重直の次男
寛政譜18・203
母は蜂屋七兵衛定頼の女

寛永18年6月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永19年6月11日 書院番

寛永19年6月20日 御書院番 ●「日記」

正保元年12月25日 300俵 ●「日記」共

慶安3年9月3日 西丸に勤仕

(慶安4年) 本丸に勤仕

元禄元年2月26日 死す
布施重直 文禄4年 生。新次郎。孫兵衛
ふせしげなお
孫兵衛重次の男
寛政譜18・201
母は竹中丹後守の女


妻は蜂屋七兵衛定頼の女

慶長12年 父重次の遺跡を継ぐ。220石。(同心10人)

~慶長19年 弓頭。駿府に勤仕

元和2年 江戸にて秀忠に仕える。同心20人

元和2年12月 布衣

寛永10年12月27日 720石

寛永10年12月27日 五百石御加増 ●「日記」


1020石

慶安元年閏1月18日 死す
布施重成 寛永3年 生。新次郎。孫兵衛。独翁
ふせしげなり
孫兵衛重直の三男
寛政譜18・201
母は蜂屋七兵衛定頼の女


妻は加藤佐内の女

寛永13年11月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永20年6月16日 小姓組

慶安元年6月10日 父重直の遺跡を継ぐ。1020石

万治元年3月21日 先弓頭

万治元年閏12月28日 布衣

延宝2年~ 閉門

延宝4年8月3日 ゆるされる

天和2年4月21日 1520石

元禄元年2月16日 先弓頭を辞す。寄合

元禄3年7月9日 致仕。300俵。独翁と号す

元禄8年4月2日 死す
布勢勝左衛門

ふせしょうざえもん


寛永17年9月28日 朝倉八右衛門布勢勝左衛門ニ銀子呉服等被下之 ●「日記」



伏屋為次 文禄元年 生。辰之助。新助
ふせやためつぐ
左衛門佐為長の長男
寛政譜6・362
母は生駒七郎右衛門の女


妻は豊臣家臣堀利右衛門の女

慶長14年 はじめて家康に拝謁。小姓

(元和2年) 寄合


秀忠に仕える。書院番

元和3年5月26日 1050石の朱印


書院番を辞す。小普請

明暦2年10月21日 死す
伏屋為房 寛永3年 生。小兵衛
ふせやためふさ
新助為次の長男
寛政譜6・363
母は豊臣家臣堀利右衛門の女

寛永16年7月23日 はじめて家光に拝謁

寛永16年7月23日 伏屋新助惣領子樽代を以初て御目見 ●「日記」

正保4年12月25日 書院番

明暦2年 書院番を辞す

万治3年5月21日 死す
布施吉時
生。与兵衛。孫左衛門
ふせよしとき
孫左衛門長吉の次男
寛政譜18・199
妻は川上源右衛門直縄の女

寛永9年8月22日 家光に仕える。小十人。100俵

寛永19年12月16日 200俵 ●「日記」共


納戸番

寛文3年2月15日 納戸番組頭

寛文3年12月26日 300俵

延宝元年5月25日 死す
布施義孝
生。亀之助。半兵衛
ふせよしのり
半兵衛義重の男
寛政譜18・198
妻は布施孫左衛門吉時の女


父義重の遺跡を継ぐ。200俵

寛永15年12月1日 小十人組布施半兵衛跡目無相違被仰付之 ●「日記」

寛文5年 小十人

延宝元年 小十人を辞す。小普請

元禄10年12月5日 致仕

正徳2年10月30日 死す
豊前正次
生。太郎助。平助
ぶぜんまさつぐ
八右衛門正吉の男
寛政譜20・295 寛永18年12月4日 父正吉の遺跡を継ぐ

寛永18年12月4日 百五十俵近藤勘右衛門組豊前八右衛門右惣領ニ被下之 ●「日記」


支配勘定

(寛文5年) 死す
豊前正吉
生。八右衛門
ぶぜんまさよし
秀忠に仕える。徒
寛政譜20・295
徒組頭

(寛永18年) 死す

(寛永18年12月4日) (近藤勘右衛門組) ●「日記」
仏眼院

ぶつげんいん


(寛永17年5月9日) (梶井御門跡之内) ●「日記」



仏光寺
京都。浄土真宗
ぶっこうじ







仏光寺大善院

―だいぜんいん







不動院
江戸崎不動院か?
ふどういん
高野山不動院か?


東大寺不動院か?



不動院(多賀)
近江国多賀大社別当






不動坊

ふどうぼう
南光坊天海の従僧か



船越永景 慶長2年 生。孫市。三郎四郎。伊予守
ふなこしながかげ
五郎右衛門景直の長男
寛政譜14・219
妻は浅野弾正少弼長政の養女杉原伯耆守長房の女


後妻は稲葉左近蔵人道通の女

慶長9年 はじめて家康に拝謁。小姓

慶長16年 父景直の遺跡を継ぐ。6140石

元和2年 江戸にて秀忠に仕える。寄合

寛永2年7月25日 6260石の朱印

寛永15年11月11日 作事奉行 ●「日記」共

寛永18年12月29日 布衣 ●「日記」共

承応2年3月29日 従五位下・伊予守

寛文10年9月1日 死す
舟橋相賢 元和4年2月23日 生。左兵衛佐。式部少輔。明経博士。少納言。侍従。刑部卿
ふなはしすけかた
少納言侍従秀相の長男
諸家伝下・1021
母は吉田左兵衛佐兼治の次女
宮廷公家系図集覧530 寛永4年12月10日 従五位下

寛永5年2月7日 元服。左兵衛佐

寛永10年4月6日 従五位上

寛永10年11月12日 式部少輔

寛永14年1月5日 正五位下

寛永18年1月5日 明経博士

寛永19年12月22日 従四位下

正保4年1月5日 従四位上

慶安4年1月5日 正四位下

承応3年12月28日 少納言。侍従。明経博士を辞すか

明暦2年2月5日 従三位

万治3年12月24日 刑部卿

寛文元年1月5日 正三位

天和2年12月18日 従二位。刑部卿を辞す

元禄2年10月16日
船橋半左衛門

ふなばしはんざえもん
津軽土佐守信義に仕える

(寛永13年11月21日) (津軽土佐守家老) ●「日記」

寛永13年11月21日 松平隠岐守ニ被為預之 ●「日記」
舟橋秀相 慶長5年8月11日 生。式部少輔。明経博士。少納言。侍従
ふなはしひですけ
式部少輔秀賢の長男
諸家伝下・1021
室は吉田左兵衛佐兼治の次女
宮廷公家系図集覧530 元和元年6月24日 従五位下。式部少輔

元和6年1月5日 従五位上

元和7年1月11日 明経博士

元和9年1月5日 正五位下

寛永5年1月5日 従四位下

寛永9年1月11日 少納言

寛永10年1月6日 従四位上

寛永10年1月12日 侍従。少納言

(寛永13年5月6日) (少将) ●「日記」誤記か

寛永14年1月5日 正四位下

(寛永15年3月6日) (昵近之衆) ●「日記」

(寛永18年10月19日) (殿上人) ●「日記」

寛永20年9月15日 少納言を辞す

正保3年12月27日 従三位

正保4年9月15日 薨去
普峰院 寛永3年6月16日 生。鶴姫。京姫。糸子。普峰院
ふほういん
徳川大納言義直の女
御系譜
母は津田左衛門佐信益の女佐井御方貞松院
(徳川諸家系譜2・200) 慶安4年2月28日 広幡大納言忠幸に嫁ぐ
宮廷公家系図集覧513 承応3年4月5日 瑩珠院を産む。のちの徳川中納言綱誠の室

延宝2年8月23日 逝去
古川庄介

ふるかわしょうすけ 寛永9年7月17日 ゆるされる ●「日記」

寛永16年6月5日 国母様え火番之内窪田左次右衛門可被遣之旨伊豆豊後対馬守―


―被申渡之是最前被遣古川庄介替云々 ●「日記」



古田重恒 慶長8年 生。希代丸。兵部少輔・従五位下
ふるたしげつね
兵部少輔重勝の男
寛政譜15・79
室は古田大膳大夫重治の女

元和9年5月 叔父大膳大夫重治の封を継ぐ。石見国浜田城5万5000石

寛永20年9月27日 火消 ●「日記」

慶安元年6月16日
古田重直
生。兵九郎
ふるたしげなお
半左衛門重忠の長男
寛政譜15・79
母は滝川豊前守法忠の女


妻は岡田伊勢守善同の女


伯父古田兵部少輔重勝の養子となる

(慶長8年) 養父重勝に実子が生まれ叔父古田大膳大夫重治に養われる


秀忠に仕える。小姓組。500石

寛永2年2月7日 700石

寛永13年7月3日 死す
古田重弘 慶長17年 生。平三郎。吉左衛門
ふるたしげひろ
半左衛門重忠の次男
寛政譜15・81
母は滝川豊前守法忠の女


妻は本多大隅守忠純の女


また妻は今大路兵部大輔親清の女


幼稚のとき叔父古田大膳大夫重治に養育される

寛永3年3月11日 家光に拝謁。500石

寛永4年 書院番

寛永7年 小姓組

寛永9年11月5日 書院番・進物役

寛永9年11月5日 本番御免。進物番 ●「日記」

~慶安元年 進物番を辞す


書院番を辞す。小普請

天和3年12月21日 致仕

元禄5年7月17日 死す
古田重政 寛永5年 生。百介。兵九郎
ふるたしげまさ
兵九郎重直の男
寛政譜15・80
母は岡田伊勢守善同の女


妻は古田吉左衛門重弘の女

寛永13年11月24日 父重直の遺跡を継ぐ。500石。小普請

寛永13年11月24日 古田兵九郎五百石子百介跡目被仰付之 ●「日記」

寛永13年12月21日 はじめて家光に拝謁

寛永13年12月21日 跡目之面々兵九郎子古田兵九郎(御目見) ●「日記」


小姓組


小姓組を辞す

寛文7年3月23日 死す
文周

ぶんしゅう


(寛永17年9月13日) (知足院弟子) ●「日記」



文撰

ぶんせん


寛永18年2月25日 目医師文撰初て一束一本捧之落縁ニテ御礼申上之 ●「日記」



文宗
生。深蓮社慈曄心誉文宗
ぶんそう
相模国小田原の人
華頂誌要
岩付浄国寺4世
(浄土宗全書19・188)
飯沼弘経寺12世
岩付浄国寺志 寛永17年2月18日 増上寺御目見是飯沼之弘経寺文宗後住被仰付依也 ●「日記」
(浄土宗全書20・178) 慶安元年8月 知恩院34世
飯沼弘経寺志 慶安2年12月8日 遷化
(浄土宗全書19・817)




豊正秋 慶長9年 生。左近将監。筑後守
ぶんのまさあき
筑後守親秋の嗣。親秋の甥定勝の男
地下家伝上・497
妻は林出雲守の女
宮廷公家系図集覧620
京都方楽人

(寛永17年5月9日) (左兵衛) ●「日記」 光秋か不明

慶安元年1月5日 正六位下

慶安元年1月11日 左近将監

慶安3年12月22日 筑後守

慶安4年1月5日 従五位下

明暦2年12月26日 従五位上

寛文2年2月11日 正五位下

寛文5年7月11日
豊光秋
ぶんのみつあき
隠岐守為秋の男
地下家伝上・492
京都方楽人
宮廷公家系図集覧620 (寛永17年5月9日) (左兵衛) ●「日記」 正秋か不明

慶安元年1月5日 正六位下

慶安元年1月11日 隠岐守

慶安4年1月5日 従五位下

明暦2年12月26日 従五位上

明暦3年12月29日
平田寺
遠江国相良。臨済宗
へいでんじ




平内政信
生。大隅
へいのうちまさのぶ
大工

寛永19年4月17日 百石御加増 ●「日記」

正保2年7月5日 死す
平林寺
武蔵国岩槻。臨済宗
へいりんじ




日置忠俊 元亀3年 生。左門。豊前
へきただとし
猪右衛門忠勝の男
池田光政公伝上・377
母は加賀国今枝氏慶授院か


室は飯尾茂介敏成の女コリヨ

天正18年 父忠勝の遺跡を継ぐ。池田輝政に仕える

慶長5年 1万石

慶長8年 1万5000石。池田利隆の家老。豊前

寛永16年 1万7000石

寛永16年 隠居

寛永18年9月19日
日置忠俊娘





(寛永16年5月1日) (松平新太郎家中証人日置豊前娘) ●「日記」



日置忠治 元和5年 生。猪右衛門。若狭。草也
へきただはる
豊前忠俊の養子。加賀前田家臣今枝氏の男
池田光政公伝上・378
室は松平新太郎池田光政の養女池田摂津利政の女心珠院

寛永15年9月5日 豊前忠俊の養子となる

寛永16年 養父忠俊の家を継ぐ。1万6000石

寛永17年12月23日 婚礼

(寛永20年4月25日) (松平新太郎家老日置若狭) ●「日記」

承応元年6月 政職

延宝5年10月 隠居。草也と号す

元禄6年4月16日
日置主殿

へきとのも (寛永11年7月25日) (松平新太郎家老) ●「日記」






へしき
平敷か




(正保元年6月25日) (琉球中山王使者馬上之従者黄はちまき) ●「日記」



別所重家 天正16年 生。左近。孫右衛門
べっしょしげいえ
主水正重宗の三男
寛政譜8・74 慶長6年 松平薩摩守忠吉に仕える

慶長12年 松平忠吉逝去により家康に仕える。書院番

寛永2年10月23日 1000石

寛永3年~ 小姓組

寛永10年2月7日 1200石

寛永19年5月22日 一昨日麻生筋御成之刻別所孫右衛門屋敷上覧此已前拝領之屋敷―


―於于今囲無之明置之儀不届之旨被仰出依之彼屋敷可召上 ●「日記」

正保3年6月15日 死す
別所内膳
寛政譜8・72主水正重宗の七男か?
べっしょないぜん
一乗院門跡尊覚法親王の家臣






別所六左衛門

べっしょろくざえもん
松平石見守池田輝澄に仕える

(寛永17年7月26日) (松平石見守家中) ●「日記」

寛永17年7月26日 初松平相模守後仙石越前守御預二十人ふち越前守遣之 ●「日記」



弁海
生。寒松院。僧正
べんかい
南光坊天海の弟子

寛永10年4月12日 権僧正 ●「日記」



弁慶仁左衛門

べんけいにざえもん


(寛永20年2月13日) (工匠) ●「日記」



逸見義記 文禄3年 生。小四郎。市之丞
へんみよしのり
小四郎左衛門義次の三男
寛政譜3・121
母は北条氏邦家臣富永下総守の女


妻は北条氏直家臣富永清兵衛義安の女


後妻は春田四郎次郎久重の女

慶長15年9月15日 はじめて秀忠に拝謁

~慶長19年 大番。200俵

元和元年~ 200石

万治元年6月12日 死す
逸見義持 天正19年 生。左源太。左馬助。八左衛門
へんみよしもち
左馬助義助の次男
寛政譜3・115
妻は猪子治左衛門一日の女

慶長17年5月 はじめて秀忠に拝謁

寛永元年 父義助の遺跡を継ぐ。350石


大番

寛永10年2月7日 550石

寛永17年6月21日 大番組頭

寛永17年6月21日 逸見左源太義水野備後守組頭ニ被仰付ニ依テ御礼也 ●「日記」

慶安4年12月3日 550石200俵

寛文3年4月23日 死す
逸見義元 元和6年 生。左源次。八十郎。五左衛門
へんみよしもと
市之丞義記の長男
寛政譜3・121
母は北条氏直家臣富永清兵衛義安の女


妻は牛込三右衛門俊重の女

寛永13年9月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永16年12月 大番

万治元年閏12月18日 父義記の遺跡を継ぐ。200石

寛文元年6月22日 大坂具足奉行。200石100俵

元禄4年7月13日 大坂具足奉行をゆるされる。小普請

元禄5年7月17日 死す
法案寺
大坂。真言宗。生玉神社別当。法案寺南坊
ほうあんじ




報恩寺
江戸八丁堀。浄土真宗
ほうおんじ




法光院

ほうこういん




宝光院
出羽国最上。天台宗
ほうこういん




方広寺
遠江国。臨済宗
ほうこうじ




宝厳寺
近江国竹生嶋
ほうごんじ




宝厳寺吉祥院
近江国竹生嶋宝厳寺
―きっしょういん




宝厳寺妙覚院
近江国竹生嶋宝厳寺
―みょうがくいん




宝珠院
安房国。真言宗
ほうじゅいん




宝珠院 元和3年4月5日 生。亀姫。寧子
ほうじゅいん
越前宰相松平忠直の長女
幕府祚胤伝
母は秀忠の四女高田殿勝姫天崇院
(徳川諸家系譜2・68) 元和9年9月 越前国北庄より江戸に至る
華族系譜 寛永7年11月 秀忠の養女となる。高松宮好仁親王と婚約。入輿
(徳川諸家系譜4・50)
明子女王を産む
(徳川諸家系譜4・110)
女子を産む。早世か
詰所系図 寛永15年6月 夫好仁親王薨去により落飾。宝珠院と号す
(系図綜覧上・81) 承応2年 越後国高田へ移住

天和元年1月17日 薨去
宝樹院
生。楽。宝樹院
ほうじゅいん
青木三太郎利長の次女
寛政譜21・330
母は増山織部の女泉光院

寛永10年 家光に近侍。お楽の方と称す

寛永18年8月3日 家綱を産む

慶安4年 家光薨去ののち尼となる。宝樹院と称す

承応元年12月2日 逝去
保寿院 慶長2年 生。千代姫
ほうじゅいん
秀忠の養女。小笠原兵部大輔秀政の次女
幕府祚胤伝
母は岡崎三郎松平信康の長女峰高寺殿
(徳川諸家系譜2・66) 慶長13年 秀忠の養女として細川越中守忠利と縁組
寛政譜2・310 慶長14年4月24日 豊前国仲津城へ入輿。1000石

元和5年 細川肥後守光尚を産む

寛永18年 尼となる。保寿院と称す

慶安2年11月24日 江戸にて逝去
北条氏重 文禄4年 生。久太郎。出羽守
ほうじょううじしげ
左衛門大夫氏勝の養子。保科弾正忠正直の四男
寛政譜8・308
母は久松佐渡守俊勝と伝通院との女多劫君


室は杉原伯耆守長房の女


異父兄松平左馬允忠頼の居城遠江国浜松に住す

慶長13年冬 家康の命により江戸に来る

慶長14年春 はじめて秀忠に拝謁

慶長16年 家康・秀忠の命により氏勝の養子となる。下総国佐倉1万石

慶長18年9月21日 従五位下・出羽守

慶長18年冬 下野国富田1万石

元和5年 遠江国久能城1万石

寛永12年3月21日 大番頭 ●「日記」共

寛永17年9月28日 大番頭をゆるされる。下総国関宿城2万石

寛永17年9月28日 於関宿壱万弐千石余御加恩都合弐万弐千石余拝領之―


―大御番頭御赦免 ●「日記」

寛永19年9月1日 毎歳於江戸越年午年在江戸半年替 ●「日記」

正保元年3月18日 駿河国田中城2万5000石

正保元年3月18日 駿州田中え得替五千石御加増都合弐万七千六百石 ●「日記」

慶安元年閏1月21日 遠江国掛川城3万石

万治元年10月1日
北条氏重次女
寛政譜8・309
北条出羽守氏重の次女
寛政譜5・360 寛永12年8月6日 北条出羽守娘土方杢助嫁娶被仰付之 ●「日記」


土方杢助雄高に嫁ぐ


女子を産む。のちの養子土方市正雄豊の室


以下不詳
北条氏利 慶長9年 生。久五郎。右近大夫
ほうじょううじとし
美濃守氏盛の次男
寛政譜8・305
母は船越五郎右衛門景直の女


妻は三井左衛門佐吉正の女

慶長19年 はじめて家康・秀忠に拝謁

元和3年 秀忠に仕える。書院番

寛永7年12月29日 従五位下・右近大夫

寛永9年11月5日 書院番・進物役

寛永9年11月5日 本番御免。進物番 ●「日記」


500石

寛永16年7月12日 書院番組頭

寛永16年7月12日 酒井壱岐守組御書院番組頭 ●「日記」

寛永19年閏9月10日 小姓組番頭

寛永19年閏9月10日 御小姓組番頭ニ御直ニ被仰付之水野石見守元組 ●「日記」

寛永19年12月15日 2000石 ●「日記」共

慶安3年9月3日 西丸書院番頭


本丸に勤仕

慶安4年11月21日 2000石1000俵

万治元年3月21日 留守居

寛文12年11月12日 死す
北条氏信娘
寛政譜8・303
北条美濃守氏信の女
寛政譜9・118 寛永15年11月7日 縁辺組北条久太郎妹佐久間源六郎 ●「日記」


佐久間源六郎勝盛に嫁ぐ


夫勝盛と離婚
北条氏宗 元和5年 生。久太郎
ほうじょううじむね
美濃守氏信の男
寛政譜8・303
母は佐久間備前守安政の女


室は大久保主膳正幸信の女

寛永2年11月 父氏信の遺領を継ぐ。河内国狭山1万石

寛永2年11月 はじめて家光に拝謁

寛文10年10月1日 致仕

貞享2年5月18日
法性寺
武蔵国川口鳩谷。曹洞宗
ほうしょうじ




法祥寺
出羽国山形。曹洞宗
ほうしょうじ




宝生重友
生。九郎。将監。宝生大夫
ほうしょうしげとも
宝生大夫九郎左衛門重房の男
能楽史話275 貞享2年8月 死す



宝生重房
生。九郎左衛門。宝生大夫
ほうしょうしげふさ
宝生大夫四郎左衛門道奇勝吉の男
能楽史話275 寛文5年6月 死す



坊城俊完 慶長14年11月27日 生。兵部少輔。蔵人。弁。蔵人頭。参議。中納言。大納言。常空
ぼうじょうとしさだ
はじめ葉室家を相続。小川坊城とも称す
諸家伝上・618
参議俊昌の次男
宮廷公家系図集覧413
母は従五位下豊臣重正の女


室は岩倉中納言具起の妹

慶長16年3月21日 従五位下

慶長19年3月5日 元服。従五位上。兵部少輔

元和2年 坊城家に戻る

元和5年1月6日 正五位下

寛永3年12月3日 蔵人。禁色

寛永3年12月19日 正五位上

寛永4年9月7日 右中弁

寛永6年11月6日 左中弁

寛永8年12月15日 従四位下。蔵人頭

寛永8年12月18日 右大弁

寛永9年1月5日 従四位上

寛永9年2月29日 正四位下

寛永9年4月11日 正四位上

寛永9年5月2日 参議

寛永10年1月6日 従三位

寛永12年1月6日 左大弁

寛永14年1月5日 正三位

寛永14年12月20日 左大弁を辞す

寛永16年2月23日 権中納言

寛永19年1月5日 従二位

正保元年1月28日 直衣

(正保元年3月28日) (小川中納言) ●「日記」

正保元年12月20日 権中納言を辞す

慶安元年閏1月19日 権大納言

慶安3年12月22日 権大納言を辞す

承応元年10月12日 正二位

明暦3年8月20日 出家。常空と号す

寛文2年1月2日 薨去
坊城俊広 寛永3年10月3日 生。右兵衛権佐。弁。蔵人。蔵人頭。院年預。参議。中納言
ぼうじょうとしひろ
大納言。本院伝奏
諸家伝上・619
大納言俊完の長男
宮廷公家系図集覧413
母は岩倉中納言具起の妹

寛永6年1月5日 従五位下

寛永11年5月9日 元服。従五位上。右兵衛権佐

寛永15年1月5日 正五位下

寛永20年10月16日 権右少弁

寛永20年11月3日 蔵人

寛永20年11月13日 正五位上。禁色

(正保元年4月11日) (弁の初出) ●「日記」

正保元年4月11日 去頃御方領依拝領太刀目録持参御礼 ●「日記」

正保元年12月26日 右少弁

正保2年12月28日 左少弁

正保4年12月30日 右中弁

慶安2年1月12日 左中弁

慶安2年7月20日 蔵人頭。従四位下

慶安2年7月28日 院年預

慶安2年8月14日 従四位上

慶安2年11月8日 右大弁

慶安2年12月27日 正四位下

慶安3年1月5日 正四位上

承応元年11月30日 参議。右大弁

承応2年1月5日 従三位

承応3年12月18日 左大弁

明暦元年1月28日 権中納言

明暦元年2月27日 直衣

明暦元年3月24日 帯剣

明暦3年1月5日 正三位

万治3年12月24日 権大納言

寛文元年3月6日 神宮伝奏


神宮伝奏を辞す

寛文元年12月24日 従二位

寛文6年1月5日 正二位

寛文12年12月22日 権大納言を辞す

貞享元年12月2日 本院(明正天皇)伝奏

貞享4年12月23日 従一位

元禄15年3月3日 薨去
北条正房 慶長14年 生。梅千代。新蔵。安房守
ほうじょうまさふさ
新左衛門繁広の男
寛政譜8・309
母は水戸家臣遠山彦六景信の女


妻は北条内匠氏則の女

(慶長16年) 父繁広死去ののち母の所縁により上総国山辺郡南県に寓居

慶長19年 はじめて家康に拝謁。500俵

寛永2年 小姓組

寛永10年2月7日 700石

寛永15年5月8日 徒頭 ●「日記」共

寛永16年12月30日 布衣 ●「日記」共

寛永18年4月12日 逼塞 ●「日記」共

寛永18年9月5日 ゆるされる

寛永18年9月5日 御赦免仕来御役如前々可相勤 ●「日記」

正保元年12月16日 鉄炮頭 ●「日記」共

正保元年12月25日 去比御預之与力同心之事被仰渡之与力五騎歩三拾人也 ●「日記」

正保3年 雄鑑鈔を献上。その後も士鑑用法を撰び献上

正保4年1月12日 持筒頭

正保4年10月11日 城制木図を献上

慶安元年3月13日 新番頭

慶安3年 貝太鼓の音響や旌旗の歌書等の遠近を試みる

慶安3年 近習の人数や陣屋割本陣御殿図や兵糧主用等を冊子にして上覧に備える


阿蘭陀の攻城法を研究


家光に鉄炮を製作

慶安4年 諸国の道度や絵図を製作


阿蘭陀の戦法や大小筒火箭の用法等を書籍にして献上

慶安4年4月22日 日光山への駅路にて家光の霊柩が宿る寺院を監す

慶安4年11月21日 700石400俵

承応2年3月29日 従五位下・安房守

明暦元年 城制の絵図を献上

明暦元年9月10日 大目付

明暦3年1月27日 江戸火災ののち江戸の宅地割を図にして献上

万治元年4月 城制の木図を献上

万治元年4月29日 1700石400俵

万治2年2月 天地の絵図を預かる

万治2年4月2日 与力同心を預かる

寛文3年 貝太鼓の役の者に技法を伝授

寛文3年 阿蘭陀献上の合戦図を預かる

寛文10年3月9日 大目付を辞す

寛文10年5月29日 死す
芳心院
因幡姫。芳心院
ほうしんいん
紀伊大納言徳川頼宣の長女
紀州水戸御系譜写
母は中川氏理真院
(徳川諸家系譜2・238) 寛永3年 生 ●「幕府祚胤伝」
幕府祚胤伝 寛永8年9月22日 生 ●「紀州水戸御系譜写」
(徳川諸家系譜2・43) 寛永20年12月28日 縁辺 ●「日記」
寛政譜5・58 正保2年4月18日 松平相模守池田光仲と婚姻

正保4年 松平伯耆守池田綱清を産む

慶安3年 松平壱岐守池田仲澄を産む

天和3年~ 松平河内守池田清定の養母となる

宝永5年11月28日
鳳栖元竹
ほうせいげんちく
以心崇伝の弟子
宗派目子 (寛永8年1月4日) (竹西堂) ●「日記」
(金地院公文帳165) 寛永10年 師崇伝の遺跡分知。200石
金地院由緒書 寛永10年6月26日 国師跡弐百石 ●「日記」
(金地院公文帳272) 寛永12年7月11日 遷化



法善院

ほうぜんいん
臨済宗か



宝仙寺
武蔵国中野。真言宗
ほうせんじ




宝泉寺
相模国藤沢遠藤。曹洞宗
ほうせんじ




法泉寺
甲斐国。臨済宗
ほうせんじ


寛永19年7月6日 御朱印被下之 ●「日記」



宝台院
駿河国。浄土宗。龍泉寺
ほうだいいん
秀忠の母宝台院(西郷局)の菩提寺

寛永9年11月18日 善徹が住持 ●「日記」

寛永11年3月4日 継目為参内上付て呉服銀等拝領 ●「日記」


満霊(大誉)が住持

寛永16年12月4日 駿河宝台院為後住川越之蓮馨寺被仰付之 ●「日記」

寛永17年1月28日 駿河宝台院一束一本捧之御礼是今度彼寺住持依被仰付也 ●「日記」

寛永18年3月17日 駿州宝台院満霊為続目之参内上洛 ●「日記」

正保元年6月24日 無主ニ付て後住被仰付之 ●「日記」



宝泰寺
駿河国府中。臨済宗
ほうたいじ




宝幢寺
京都。浄土宗
ほうどうじ




宝憧寺(山形)
出羽国山形。真言宗
ほうどうじ




宝養寺

ほうようじ




鳳来寺
三河国。真言宗・天台宗
ほうらいじ




法輪
生。源蓮社本誉
ほうりん
増上寺に学ぶ
筑後善導寺志 寛永12年11月 筑後国善導寺27世
(浄土宗全書20・450) 寛永14年4月8日



法輪院

ほうりんいん
青蓮院門跡尊純法親王の坊官

(寛永13年5月6日) (青蓮院御門跡内) ●「日記」



法輪寺
下総国飯高。日蓮宗。のち飯高寺
ほうりんじ




鳳林承章 文禄2年
ほうりんじょうしょう
勧修寺大納言晴豊の男
鹿苑院公文帳200 寛永2年5月28日 相国寺95世

(寛永8年4月17日) (章長老) ●「日記」

寛文8年8月24日 遷化
外間小左衛門

ほかまこざえもん


(寛永19年7月8日) (葛谷藤兵衛手代) ●「日記」

寛永19年7月8日 死罪か ●「日記」
甫閑

ほかん
京都妙心寺の僧か?






星合具枚
生。虎之助。伊左衛門
ほしあいともかず
采女正具泰の長男
寛政譜8・27
母は飯尾隠岐守信宗の女(崇源院の侍女)


妻は来嶋右衛門一長親の女


幼少よりしばしば大奥にて秀忠・家光に拝謁

慶長19年 秀忠に仕える

元和6年11月28日 小十人。松平右衛門大夫大河内正綱組

寛永7年3月20日 納戸番

寛永10年12月20日 書物奉行 ●「日記」共

寛永16年9月7日 父具泰の遺跡を継ぐ。500俵

承応2年6月7日 死す
星合具通 慶長3年 生。太郎兵衛
ほしあいともみち
采女正具泰の次男
寛政譜8・29
母は飯尾隠岐守信宗の女(崇源院の侍女)


妻は竹内源右衛門吉勝の女


また妻は松野摂津守助正の女


また妻は小川氏


幼稚のときより大奥にてしばしば秀忠・家光に拝謁

元和元年 秀忠に仕える

元和7年1月2日 小十人。松平右衛門大夫大河内正綱組

元和8年 100俵

寛永2年 右筆

寛永3年 200俵

慶安3年8月23日 家綱に付属される

寛文3年11月26日 書物奉行

寛文4年12月25日 300俵

延宝元年11月29日 書物奉行を辞す。小普請

延宝7年11月26日 死す
保科大学
生。大学
ほしなだいがく
弾正忠正貞の男 ●「日記」


妻は丹羽式部少輔氏信の女 ●「日記」

寛永10年7月2日 縁辺組 ●「日記」



保科正貞 天正16年 生。甚四郎。弾正忠
ほしなまささだ
弾正忠正直の三男
寛政譜4・355
母は家康の異父同母妹多劫君久松佐渡守俊勝の女


室は船橋二位枝賢の女

文禄3年 兄正光の猶子となる


幼少より家康に近侍

慶長7年 秀忠に仕える

慶長10年 従五位下・弾正忠

元和4年6月7日 母が逝去

元和8年 兄正光のもとを去り、伊勢国長島の松平定勝の家に寄食

寛永6年 3000俵


3000石

寛永7年7月 大番頭


与力10騎同心20人

寛永10年4月23日 7000石

寛永10年4月23日 4000石御加恩 ●「日記」

慶安元年6月26日 大坂定番。上総国飯野1万7000石。与力30騎同心100人

万治3年11月22日 大坂定番を辞す。帝鑑間に伺候

寛文元年11月1日
保科正貞娘


保科弾正忠正貞の女

寛永10年7月2日 永井大和守尚保と縁組 ●「日記」






保科正英 慶長16年 生。百助。主水
ほしなまさふさ
弾正忠正貞の養子。小出大和守吉英の三男
寛政譜4・358
母は保科弾正忠正直の三女


妻は井上淡路守庸名の女


養子となる

寛永16年9月26日 保科弾正養子仕度之由連々望之趣達御耳―


―心次第可仕 ●「日記」

寛永16年10月26日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛文元年12月26日 養父正貞の遺領分知。2000石。寄合

延宝3年12月14日 致仕

延宝6年5月23日 死す
保科正光 永禄4年 生。甚四郎。肥後守
ほしなまさみつ
弾正忠正直の長男
寛政譜4・354
母は跡部氏


室は真田安房守昌幸の女

天正10年 はじめて家康に拝謁。駿府に昵近

天正18年8月 下総国多胡1万石

文禄2年 従五位下・肥後守

慶長5年11月 信濃国高遠2万5000石

元和4年 信濃国高遠3万石

寛永8年10月7日
保科正之 慶長16年5月7日 生。幸松。肥後守。侍従。少将。中将
ほしなまさゆき
秀忠の四男
寛政譜1・255
母は浄光院北条家旧臣神尾伊予栄加の女
幕府祚胤伝
室は内藤左馬助政長の女
(徳川諸家系譜2・65)
継室は藤木氏

慶長18年3月2日 見性院(武田信玄の女、穴山梅雪の妻)に養われる

元和3年11月8日 保科肥後守正光に養育される。信濃国高遠に赴く

寛永6年6月24日 はじめて家光に拝謁

寛永8年11月12日 養父正光の遺領を継ぐ。信濃国高遠城3万石

寛永8年11月28日 従五位下・肥後守

寛永9年12月28日 従四位下

寛永9年12月28日 四品 ●「日記」

寛永10年7月1日 室と縁組 ●「日記」

寛永11年7月16日 侍従 ●「日記」共

(寛永12年1月2日) (高遠侍従の初出) ●「日記」

寛永13年2月 西丸守衛

寛永13年7月21日 出羽国山形城20万石。西丸守衛を免除

寛永13年7月21日 於最上弐拾万石拝領 ●「日記」

寛永14年1月15日 二丸守衛

寛永14年 保科家のものを弾正忠正貞に譲る

寛永16年1月11日 国家の大政をあずかり議す

寛永16年10月29日 西丸御番 ●「日記」

寛永19年10月 近郊の鷹場にて鷹をつかうことを許される

寛永20年7月4日 陸奥国会津城23万石。5万石の御料を預かる

寛永20年7月4日 会津え得替三万石御加恩都合弐十三万石 ●「日記」

正保2年4月21日 少将

正保2年7月14日 従四位上

正保3年12月1日 常陸国下館にて鷹場を賜る

慶安2年7月21日 内桜田邸に移住

慶安4年4月20日 家綱の輔佐役

承応2年10月28日 中将

承応2年11月17日 正四位下

寛文元年1月 眼疾により朔望の出仕をゆるされる。重事を議すときのみ出仕

寛文9年4月27日 致仕

寛文12年12月18日
星野権兵衛

ほしのごんびょうえ


(寛永20年) 死す

寛永20年12月7日 火之番衆七十俵五人扶持権兵衛跡星野善吉郎 ●「日記」
星野善吉郎

ほしのぜんきちろう


寛永20年12月7日 火之番衆七十俵五人扶持権兵衛跡星野善吉郎 ●「日記」



星野六兵衛

ほしのろくびょうえ


(寛永18年12月4日) (五拾俵ニ弐人扶持火之番星野六兵衛右惣領ニ被下之) ●「日記」



星野六兵衛惣領





寛永18年12月4日 五拾俵ニ弐人扶持火之番星野六兵衛右惣領ニ被下之 ●「日記」



細井勝茂 慶長15年 生。百助。佐次右衛門
ほそいかつしげ
金兵衛勝吉の次男
寛政譜17・109
母は賀茂宮治兵衛直重の女


妻は杉浦忠左衛門親俊の養女

寛永元年4月12日 はじめて家光に拝謁

寛永元年7月25日 書院番

寛永3年12月 300俵

寛永8年11月 400俵

寛永10年2月7日 600石

寛永10年6月14日 書院番・進物役

寛永10年6月14日 進物番 ●「日記」

寛永16年5月21日 小十人頭

寛永16年5月21日 小十人組之頭被仰付之長坂茶利元組渡ル ●「日記」

寛永18年1月6日 布衣 ●「日記」共

寛永18年4月12日 逼塞 ●「日記」共

寛永18年9月5日 ゆるされる

寛永18年9月5日 御赦免仕来御役如前々可相勤 ●「日記」

慶安4年4月 日光山へ家光の霊柩に従う

慶安4年11月21日 600石300俵

承応元年11月3日 船手

承応2年6月4日 駿河国清水船手。900石300俵

延宝2年9月22日 先鉄炮頭

天和2年4月21日 1700石

貞享元年10月2日 先鉄炮頭を辞す。寄合

貞享4年7月17日 死す
細井勝武 慶長13年 生。藤十郎。金五郎。金兵衛
ほそいかつたけ
金兵衛勝吉の長男
寛政譜17・107
母は賀茂宮治兵衛直重の女


妻は徳川忠長家臣渡辺監物忠の女

元和6年 はじめて秀忠に拝謁

寛永4年 家光に仕える

寛永12年 小姓組

寛永16年7月22日 父勝吉の遺跡を継ぐ。1650石

寛永16年7月22日 細井金兵衛遺跡惣領金五郎ニ被下之 ●「日記」

寛永18年3月3日 去年跡職被仰付面々或太刀目録或樽代ニて継目之御礼申上之 ●「日記」

(正保元年5月14日) (金兵衛の初出) ●「日記」

正保2年6月28日 船手

正保2年12月30日 布衣

慶安3年6月20日 死す
細井勝正 元和8年 生。金之丞。百斗兵衛。宗左衛門
ほそいかつまさ
金兵衛勝吉の四男
寛政譜17・114
母は賀茂宮治兵衛直重の女


妻は渡辺囚獄盛の女

寛永12年8月15日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永13年12月27日 書院番 ●「日記」共

(寛永16年12月13日) (惣左衛門の初出) ●「日記」

寛永16年12月13日 300俵 ●「日記」共

慶安元年3月25日 鶴松の抱守となる

慶安3年閏10月18日 鶴松逝去により書院番に復す

貞享元年11月26日 船手

貞享元年12月21日 600俵

貞享元年12月28日 布衣

貞享3年6月24日 死す
細井勝行 寛永8年 生。藤十郎。金五郎
ほそいかつゆき
金兵衛勝武の長男
寛政譜17・107
母は徳川忠長家臣渡辺監物忠の女


妻は内藤外記正重の女

寛永18年12月1日 はじめて家光に拝謁

寛永18年12月1日 細井金五郎子初て御目見 ●「日記」

慶安2年12月26日 小姓組

慶安3年8月7日 父勝武の遺跡を継ぐ。1300石

延宝7年6月14日 小十人頭

延宝7年12月28日 布衣

天和2年4月21日 1800石

貞享4年1月11日 先鉄炮頭

元禄3年5月11日 先鉄炮頭を辞す。寄合

元禄3年 死す
細井勝吉 天正8年 生。喜三郎。金五郎。金兵衛
ほそいかつよし
金兵衛勝久の次男
寛政譜17・106
母は成瀬藤左衛門正頼の女


妻は賀茂宮治兵衛直重の女

~慶長12年 秀忠に仕える

元和6年6月 父勝久の遺跡を継ぐ。1650石。鉄炮同心50人

元和7年 駿河国清水船手。水主同心50人

寛永16年3月15日 死す
細井金大夫

ほそいきんだゆう


寛永19年閏9月29日 細井金大夫小野寺桂之介此両人先年堀丹後守雖召預之―


―丹後守就死去佐竹修理大夫被召預之 ●「日記」



細川興孝 元和3年 生。天。刑部少輔。立白
ほそかわおきたか
越中守忠興の五男
寛政譜2・310
母は清田氏

元和5年2月15日 人質として江戸に至る


細川家臣となる
細川興隆 寛永9年 生。兵千代。市正。豊前守。宗閑
ほそかわおきたか
玄蕃頭興昌の男
寛政譜2・320
母は加藤左近大夫貞泰の女


室は牧野内匠頭信成の女

寛永20年6月 父興昌の遺領を継ぐ。下野国谷田部1万6200石

寛永20年8月14日 はじめて家光に拝謁

寛永20年8月14日 亡父遺跡相続被仰付御礼太刀目録并進物献之 ●「日記」

正保3年12月30日 従五位下・豊前守

元禄2年閏1月14日 致仕。宗閑と号す

元禄3年1月21日
細川興昌 慶長9年 生。勝千代丸。玄蕃頭
ほそかわおきまさ
玄蕃頭興元の男
寛政譜2・320
母は沼田氏


養母は嫡母立花飛騨守宗茂の養女高橋鎮種入道紹運の女


室は加藤左近大夫貞泰の女

元和4年 父興元の遺領を継ぐ。下野国谷田部1万6200石

元和8年 従五位下・玄蕃頭

寛永20年3月22日
細川瑞益 元和2年 生。五郎。瑞益
ほそかわずいえき
紹高全隆の男
寛政譜2・322 寛永4年 はじめて秀忠に拝謁

寛永10年3月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」

寛永15年6月11日 死す
細川忠興 永禄6年 生。熊千代。与一郎。越中守。侍従。少将。参議。三斎宗立
ほそかわただおき
陸奥守輝経の養子。長岡兵部大輔藤孝の長男
寛政譜2・301
母は沼田上野介光兼の女


室は明智日向守光秀の女


足利義輝の命により輝経の養子となる

天正5年2月 実父藤孝とともに織田信長に属す

天正6年 織田信長の昵近

天正8年 丹後国八幡山城12万石


丹後国宮津城12万石

(天正11年) 従五位下

天正13年7月11日 従四位下・侍従。羽柴の称号をゆるされる

天正16年 少将

天正18年1月 秀忠に作法を指南

(文禄2年) 越中守

慶長元年9月2日 参議・従三位

慶長元年 明使の応答役

慶長5年2月 丹後国宮津城18万石

慶長5年11月2日 豊前国仲津城39万9000石

慶長7年11月 豊前国小倉城39万9000石

元和元年12月24日 羽柴を改め細川に復す

元和6年閏12月25日 致仕。剃髪し三斎宗立と号す


豊前国仲津城に住す

寛永4年7月6日 家光の咄衆

寛永9年10月28日 肥後国八代城に住す

寛永12年7月23日 本丸玄関までの乗輿をゆるされる

正保2年12月2日
細川忠利 天正14年 生。光。内記。越中守。侍従。少将。はじめ長岡を称す
ほそかわただとし
越中守忠興の三男
寛政譜2・308
母は明智日向守光秀の女


室は秀忠の養女千代姫小笠原兵部大輔秀政の女保寿院

慶長5年8月21日 偏諱を賜る。内記

慶長5年 細川を称す

慶長10年4月8日 従五位下・侍従

慶長13年 縁組

慶長14年4月24日 入輿あり

元和6年 父忠興の封を継ぐ。豊前国小倉城39万9000石

元和8年12月 越中守

寛永3年8月19日 従四位下・少将

寛永9年10月4日 肥後国熊本城54万石

寛永9年10月4日 肥後一国并豊後国之内鶴崎弐万石 ●「日記」

(寛永12年12月21日) (御咄之衆) ●「日記」

寛永18年3月17日

寛永18年3月27日 去十七日死去 ●「日記」
細川立孝 元和元年 生。坊。立允。中務大輔
ほそかわたつたか
越中守忠興の四男
寛政譜2・317
母は清田氏


室は五条中納言為適の女


薙髪。立允と号す

寛永14年 甥肥後守光尚とともに肥前国嶋原に出陣


束髪。中務大輔と改める

寛永16年9月20日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保2年閏5月11日
細川全隆
生。紹高
ほそかわまたたか
紹高元定の男
寛政譜2・322
秀吉の命により紹高と号す

天正16年 豊臣秀次に附属される


秀吉に仕える

文禄元年 はじめて家康に拝謁

慶長13年 40石

慶長14年 秀忠に仕える


40石300俵。月俸15口

万治元年6月14日 致仕


以下不詳
細川光尚 元和5年 生。六丸。肥後守。侍従
ほそかわみつなお
越中守忠利の長男
寛政譜2・310
母は秀忠の養女千代姫小笠原兵部大輔秀政の女保寿院


室は烏丸中納言光賢の女

元和7年12月21日 奥にてはじめて秀忠・御台所に拝謁

(寛永12年6月30日) (肥後守) ●「日記」

(寛永12年7月21日) (六丸) ●「日記」

寛永12年7月23日 御前にて元服。偏諱を賜る。従四位下・侍従・肥後守

寛永12年7月23日 御目見是元服依被仰付也則任肥後守剰被補侍従―


―御字光御硯箱之蓋ニ乗之従御前下給之 ●「日記」

寛永13年11月6日 細川肥後守妻女忌明候付て御目見 ●「日記」

寛永18年5月5日 父忠利の遺領を継ぐ。肥後国熊本城54万石

寛永18年5月6日 御礼御太刀一腰助吉并白銀千枚御帷子単物五十進上之―


―是亡父越中守遺跡相続依被仰付也 ●「日記」

正保3年6月11日 肥後国熊本城51万石

慶安2年11月24日 母が逝去

慶安2年12月26日
細川元隆 (寛永6年) 生。千松。宗仙
ほそかわもとたか
紹高全隆の養子。坂上池院宗説の次男
寛政譜2・322
母は紹高全隆の次女

寛永16年9月26日 細川紹高養子仕度之由連々望之趣達御耳―


―心次第可仕 ●「日記」


12歳のときはじめて家光に拝謁

寛永17年3月15日 紹高父子御目見子今度初て御礼申上之 ●「日記」

万治元年6月14日 養父全隆の家を継ぐ。40石300俵。月俸15口。医師

貞享4年7月10日 致仕


以下不詳
細田康利
生。五郎右衛門
ほそだやすとし
加右衛門康次の男
寛政譜15・98 寛永15年11月 手鷹師

寛永19年12月10日 五十俵三人扶持 ●「日記」

明暦2年閏4月15日 死す
補仲等修
ほちゅうとうしゅう
天龍寺200世
読史備要1023 寛永8年4月17日 (修西堂)天龍寺にて碩学 ●「日記」



堀田右馬允

ほったうまのじょう
徳川頼宣に仕える

(正保元年12月12日) (紀伊亜相使者) ●「日記」



堀田一純 慶長5年 生。権六。権右衛門。一栖
ほったかずすみ
若狭守一継の三男
寛政譜11・17
母は豊臣家臣薄田隼人正兼相の妹


妻は中山勘解由照守の養女大野三八の女

元和元年5月 家康に仕える。小姓


700石

寛永3年 徒頭

寛永3年8月 布衣

寛永7年 父一継の遺領を賜る。4200石

(寛永15年4月2日) (御歩行頭) ●「日記」

正保元年8月2日 徒頭を辞す

正保元年8月2日 年老之上為病者之間歩行頭被成御赦免候向後似合寄御役―


―可被仰付 ●「日記」

寛文7年12月15日 致仕。一栖と号す

寛文9年3月1日 死す
堀田一輝 寛永6年 生。梅松丸。五郎左衛門。河内守
ほったかずてる
兵部少輔一通の四男
寛政譜11・13
妻は本多美作守忠相の女

寛永12年4月11日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永17年9月13日 父一通の遺跡を継ぐ。5000石

寛永17年9月13日 堀田兵部子梅松丸ニ亡父五千三百石之跡目五千石被仰付之―


―弟竹松丸ニ三百石被下之太刀目録ヲ以御礼申上 ●「日記」

寛文2年2月9日 定火消

寛文2年12月27日 布衣

延宝8年1月11日 持筒頭

天和2年4月21日 5500石

天和3年5月19日 百人組頭

元禄5年1月11日 留守居

元禄5年12月18日 従五位下・河内守

元禄12年2月13日 留守居を辞す

宝永2年4月8日 死す
堀田一則
生。甚五左衛門
ほったかずのり
権右衛門一純の次男
寛政譜11・17 寛永15年11月21日 堀田権右衛門二番目子可被召出 ●「日記」

寛永16年7月23日 はじめて家光に拝謁

寛永16年7月23日 堀田権右衛門二番子以樽代初て御目見 ●「日記」

某年 死す
堀田一通 天正14年 生。掃部。兵部少輔
ほったかずみち
若狭守一継の長男
寛政譜11・13
母は豊臣家臣薄田隼人正兼相の妹


妻は上田主殿助重秀の女

(元和) はじめて秀忠に拝謁

元和6年7月15日 従五位下・兵部少輔

寛永2年 父一継の家を継ぐ。5380石。寄合

寛永16年11月15日 死す
堀田一幸 寛永5年 生。権六郎。権右衛門
ほったかずゆき
権右衛門一純の長男
寛政譜11・17
母は中山勘解由照守の養女大野三八の女


妻は大田原備前守政清の女

寛永13年9月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保2年6月25日 書院番

慶安3年9月3日 西丸小姓組

(慶安4年) 本丸に勤仕

寛文7年12月15日 父一純の家を継ぐ。4200石

貞享4年11月15日 先弓頭

貞享4年12月25日 布衣

元禄10年閏2月27日 先弓頭を辞す。寄合

元禄10年12月5日 致仕。300俵

元禄16年11月28日 死す
堀田甚左衛門
生。甚左衛門
ほったじんざえもん
図書頭長正の次男
寛政譜10・409
家光に仕える。書院番。1000石

寛永11年2月28日 同列と争論し死す

寛永11年4月10日 於桑名宿割衆堀田甚左衛門長野次郎兵衛喧嘩―


―甚左衛門当座相果 ●「日記」
堀田正俊 寛永11年 生。久太郎。備中守。筑前守。侍従。少将
ほったまさとし
加賀守正盛の三男
寛政譜11・1
母は酒井讃岐守忠勝の五女


室は稲葉美濃守正則の女

寛永12年 家光の命により春日局の養子となる。大奥にあり

寛永18年8月9日 はじめて家光に拝謁。家綱に付属される。小姓

寛永18年8月9日 若君様為御奉公人今日御目見 ●「日記」

寛永20年9月10日 婚約

寛永20年12月6日 春日局の遺跡分知。3000石

慶安2年~ 中奥に伺候

慶安4年8月14日 父正盛の遺領分知。1万3000石

慶安4年8月16日 従五位下・備中守

万治3年2月23日 奏者番

寛文7年6月8日 上野国安中2万石

寛文10年2月22日 若年寄

延宝6年12月29日 上野国安中2万5000石

延宝7年7月10日 老職。上野国安中4万石

延宝7年12月28日 従四位下

延宝8年8月18日 侍従

天和元年2月25日 下総国古河城9万石。筑前守

天和元年12月11日 連判をゆるされる。大老職。少将

天和2年1月21日 下総国古河城13万石

貞享元年8月28日 稲葉石見守正休に斬られて卒
堀田正信 寛永8年 生。与一郎。上野介
ほったまさのぶ
加賀守正盛の長男
寛政譜10・413
母は酒井讃岐守忠勝の五女


室は松平隠岐守定行の女

寛永15年11月6日 御目見 ●「日記」

正保元年12月30日 従五位下・上野介

正保元年12月30日 諸大夫 ●「日記」

慶安4年8月14日 父正盛の遺領を継ぐ。下総国佐倉城11万石。雁間に伺候

万治3年7月7日 弟勝直の采地を還付。下総国佐倉城11万3000石

万治3年10月11日 下総国守谷に退去

万治3年11月3日 改易。弟脇坂中務少輔安政に召し預けられる。信濃国飯田に配流

寛文12年5月25日 酒井修理大夫忠直に召し預けられる。若狭国小浜に移る。2000俵


配所を出て京都の石清水八幡宮と清水寺に参籠

延宝5年6月14日 松平阿波守蜂須賀綱通に召し預けられる。阿波国徳島に配流

延宝8年5月20日 家綱の訃報を聞き自殺
堀田正英 寛永15年 生。虎之助。内膳。対馬守
ほったまさひで
加賀守正盛の四男
寛政譜11・10
母は酒井讃岐守忠勝の五女


室は松平若狭守康信の養女石川勘助正長の女

寛永18年8月9日 はじめて家光に拝謁。家綱に付属される。小姓

寛永18年8月9日 若君様為御奉公人今日御目見 ●「日記」

慶安3年9月3日 奥小姓伺候の席にて拝謁


西丸に勤仕

慶安4年 本丸に勤仕

慶安4年8月14日 父正盛の遺領分知。5000石

万治2年 中奥の小姓

万治2年12月27日 従五位下・対馬守

寛文9年2月22日 小姓組番頭

寛文11年10月8日 書院番頭

延宝4年6月3日 大番頭

延宝8年11月22日 徳松に付属される。傅役。8000石

天和元年9月6日 若年寄

天和2年2月29日 1万3000石

貞享2年6月10日 奏者番

貞享3年2月3日 奏者番をゆるされる。帝鑑間に伺候

元禄元年7月3日
堀田正盛 慶長13年 生。三四郎。出羽守。加賀守。侍従
ほったまさもり
勘左衛門正吉の長男
寛政譜10・410
母は稲葉佐渡守正成の女


室は酒井讃岐守忠勝の五女

元和6年閏12月 はじめて家光に拝謁。近侍

元和9年 700石

元和9年12月30日 従五位下・出羽守


(加賀守)

寛永2年 5000石

寛永3年 小姓組番頭

寛永3年 1万石

(寛永9年6月4日) (加賀守の初出) ●「日記」

寛永10年3月23日 政事を議し小事をはからう(六人衆)

寛永10年3月23日 六人衆 ●「日記」

寛永10年4月19日 御数寄屋方職人肝煎 ●「日記」

寛永10年5月5日 宿老並・小姓組番頭

寛永10年5月5日 松平伊豆守並ニ御年寄被仰付 ●「日記」

寛永10年12月28日 1万5000石

寛永10年12月28日 五千石御加恩 ●「日記」

寛永11年閏7月29日 従四位下

寛永11年閏7月29日 四品 ●「日記」

寛永12年3月1日 武蔵国川越城3万5000石 ●「日記」共

寛永12年10月29日 小姓組番頭をゆるされる

寛永12年10月29日 御番頭御赦免 ●「日記」

寛永12年11月15日 諸大名訴訟并御用之儀大炊頭讃岐守伊豆守豊後守加賀守―


―右五人壱人宛一月番ニ承言上 ●「日記」

寛永12年12月30日 正月之御給仕御免 ●「日記」

寛永15年2月2日 出仕をとどめられる


ゆるされる

寛永15年2月2日 雖止出仕今日大僧正御侘被申上之則御宥免 ●「日記」

寛永15年3月8日 宿老職をゆるされる。大事のみ評定に列す

寛永15年3月8日 信濃国松本城10万石

寛永15年3月8日 信州松本七万石於江戸近辺三万石都合拾万石被下之并―


―唯今迠御役御免 ●「日記」

寛永17年12月29日 侍従 ●「日記」共

寛永19年7月16日 下総国佐倉城11万石 ●「日記」共

(寛永20年1月1日) (佐倉侍従の初出) ●「日記」

慶安4年4月20日 殉死
堀田通貞
生。竹松丸。源五郎
ほったみちさだ
兵部少輔一通の五男
寛政譜11・16
妻は遠山半左衛門景則の養女某氏の女

寛永17年9月13日 父一通の遺跡分知。380石

寛永17年9月13日 堀田兵部子梅松丸ニ亡父五千三百石之跡目五千石被仰付之―


―弟竹松丸ニ三百石被下之太刀目録ヲ以御礼申上 ●「日記」

承応3年2月27日 書院番

寛文3年12月14日 書院番。進物役

寛文10年4月17日 死す
保々貞季
生。兵九郎
ほぼさだすえ
石見守貞広の次男
寛政譜5・273
母は永井監物白元の女


家光に仕える

寛永13年1月14日 200俵 ●「日記」共


勘気を蒙る

慶安元年6月3日 ゆるされる

承応3年 死す
保々貞高 元和7年 生。左門
ほぼさだたか
石見守貞広の長男
寛政譜5・273
母は永井監物白元の女


妻は能勢小十郎頼隆の女


後妻は西尾主水氏教の女

寛永13年12月27日 書院番 ●「日記」共

寛永16年12月13日 御切米三百俵 ●「日記」

承応3年12月27日 父貞広の遺跡を継ぐ。1200石

万治2年10月18日 死す
保々貞晴
生。九十郎。八郎右衛門
ほぼさだはる
石見守貞広の六男
寛政譜5・276
母は永井監物白元の女


妻は三上源右衛門吉明の女

正保元年9月9日 徳川綱重に付属される。小姓

正保元年9月9日 長松殿へ保々石見守末子被召出之 ●「日記」

慶安元年12月11日 月俸20口


300俵


桜田館にて用人。800俵

貞享2年2月19日 死す
保々貞広 慶長6年 生。半左衛門。石見守
ほぼさだひろ
長兵衛則貞の男
寛政譜5・273
母は奥山氏


妻は永井監物白元の女

慶長13年 小姓


父則貞の家を継ぐ。1500石


小納戸

寛永10年7月25日 小姓組組頭・小納戸

寛永10年7月25日 御小姓組組頭 ●「日記」

寛永11年閏7月29日 従五位下・石見守

寛永11年閏7月29日 諸大夫 ●「日記」

(正保元年9月9日) (石見守の初出) ●「日記」


小姓組組頭を辞す。小納戸

慶安3年 五男七郎貞俊に分知。1200石

承応3年8月30日 死す
堀尾右京

ほりおうきょう




堀尾采女

ほりおうねめ
堀尾山城守忠晴の家老



堀尾忠晴 慶長4年 生。三之助。山城守。侍従
ほりおただはる
出雲守忠氏の男
寛政譜11・191
母は前田徳善院玄以の女


室は秀忠の養女奥平大膳大夫家昌の女雲松院

慶長9年 父忠氏の遺領を継ぐ。出雲国・隠岐国24万石

慶長16年3月11日 従五位下・山城守

慶長16年3月20日 従四位下

寛永3年8月19日 侍従

寛永10年9月20日

寛永10年9月24日 遠行ニ付為香典銀子三百枚至屋敷被遣之 ●「日記」
堀川信親 元和4年12月25日 生。侍従。少将
ほりかわのぶちか
中納言康胤の長男
諸家伝下・986 元和6年10月12日 従五位下
宮廷公家系図集覧465 元和9年2月6日 元服。昇殿。侍従

寛永3年11月3日 従五位上

寛永11年1月6日 正五位下

寛永14年9月1日 左権少将

寛永16年10月23日 死す
堀川則康 元和8年5月13日 生。侍従。少将。中将。参議
ほりかわのりやす
中納言康胤の次男
諸家伝下・986 寛永9年12月5日 従五位下
宮廷公家系図集覧465 寛永17年3月11日 元服。昇殿。従五位上。侍従

寛永19年1月11日 左少将

寛永20年1月5日 正五位下

正保4年1月5日 従四位下


中将

慶安4年1月5日 従四位上

明暦元年1月5日 正四位下

明暦元年8月26日 中将を辞すか

万治2年1月5日 従三位

寛文4年1月6日 正三位

延宝2年7月12日 参議

延宝2年12月27日 参議を辞す

延宝3年12月2日 従二位

貞享3年5月25日 薨去
堀川弘忠 慶長18年 生。左衛門少志。式部少丞。左衛門大尉。近江守
ほりかわひろただ
近江守弘能の長男
地下家伝上・431
妻は速水長門守将益の女
宮廷公家系図集覧611 元和5年2月28日 従五位下

元和5年3月10日 左衛門少志

寛永5年1月28日 式部少丞。左衛門少志

寛永9年1月5日 従五位上

寛永11年7月21日 初て御礼 ●「日記」

寛永14年1月11日 左衛門大尉

(寛永16年4月1日) (一条殿家来堀川式部少輔) ●「日記」

正保2年1月6日 正五位下

慶安4年2月19日 正五位上

明暦2年1月5日 従四位下

寛文元年12月24日 従四位上

寛文6年1月5日 正四位下

寛文12年11月23日 正四位上。近江守。左衛門大尉。式部少丞

延宝4年2月26日
堀川弘能 天正16年9月7日 生。左衛門少尉。左衛門大尉。近江守。一条家管領
ほりかわひろよし
近江守豊弘の男。(または近江守豊弘の養子)
地下家伝上・431
(妻は近江守豊弘の女)
宮廷公家系図集覧611 慶長10年 従五位下

慶長17年1月11日 左衛門少尉

元和2年1月6日 従五位上

元和2年1月12日 左衛門大尉


正五位下。近江守。左衛門大尉

寛永9年1月5日 従四位下

慶安4年2月19日 従四位上

明暦2年1月5日 正四位下

寛文元年12月24日 正四位上

寛文2年9月24日
堀川正弘 慶長5年 生。左衛門少尉。左衛門大尉。壱岐守。壱寿
ほりかわまさひろ
叔父左衛門大尉俊弘の嗣。左衛門大尉持弘の男
地下家伝上・425 慶長15年1月7日 正六位上。左衛門少尉
宮廷公家系図集覧612 慶長19年12月19日 従五位下

元和元年1月6日 左衛門大尉

元和6年閏12月16日 従五位上

寛永6年12月24日 正五位下。壱岐守。左衛門大尉

慶安4年2月5日 従四位下

明暦2年4月11日 従四位上

寛文5年12月23日 正四位下

寛文11年10月27日 落髪。壱寿と号す

延宝7年11月29日
堀川康胤 文禄元年9月9日 生。侍従。左兵衛権佐。少将。中将。左衛門督。参議。中納言。休山
ほりかわやすたね
高倉入道左中将親具の長男
諸家伝下・985 慶長7年1月6日 従五位下
宮廷公家系図集覧465 慶長8年3月1日 元服。昇殿。侍従

慶長11年4月21日 従五位上

慶長16年3月21日 左兵衛権佐

慶長17年1月5日 正五位下

慶長17年9月20日 左少将

元和元年8月25日 従四位下

元和元年12月15日 左中将

元和5年1月6日 従四位上

元和8年1月5日 正四位下

寛永7年1月5日 従三位

寛永7年11月25日 左衛門督

寛永11年6月26日 参議

寛永12年1月5日 正三位

寛永12年12月30日 参議・左衛門督

寛永16年閏10月7日 参議を辞す

寛永16年11月4日 参議・左衛門督

寛永17年1月5日 従二位

正保元年4月11日 去頃昵近被仰付御礼 ●「日記」

正保元年9月17日 参議と左衛門督を辞す

寛文3年12月14日 権中納言

寛文3年12月21日 権中納言を辞す

寛文3年12月26日 出家。休山と号す

延宝元年1月27日 薨去
堀正意 天正13年5月28日 生。七。与十郎。正意。杏庵。法橋。法眼
ほりしょうい
徳印の男
士林泝洄4・214 文禄3年 南禅寺にて医と儒を学ぶ

慶長7年 剃髪。正意と号す

慶長12年 浅野紀伊守幸長に仕える。500石

慶長18年12月14日 法橋

慶長18年 浅野但馬守長晟に仕える

元和8年 徳川義直に仕える。300石

寛永3年5月6日 法眼

寛永15年8月18日 1000石

寛永19年11月20日
堀忠重
生。兵四郎
ほりただしげ
豊前利政の次男
寛政譜12・382
母は蜂屋七兵衛定頼の女


妻は安藤次右衛門正珍の女

寛永13年12月15日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永15年9月23日 父利政の遺跡を継ぐ。1000石

寛永15年9月23日 堀豊前守遺跡千五百石之内千石惣領兵四郎―


―五百石二男堀七三郎被下之 ●「日記」

正保4年12月25日 書院番

慶安3年9月3日 西丸に勤仕

寛文4年5月3日 失心して死す。断絶
堀親智 寛永5年 生。孫太郎
ほりちかとも
美作守親良の次男
寛政譜12・355
母は若山氏


妻は堀越中守利長の女

寛永14年9月8日 父親良の遺領分知。3000石

寛永14年9月8日 堀美作守跡惣領又七郎二万石二男孫太郎三千石―


―三男三太郎二千石被下之 ●「日記」

寛永20年12月2日 縁組被仰付之堀越中守娘堀孫太郎 ●「日記」

寛文6年8月24日 死す
堀親昌 慶長11年 生。吉千代。又七郎。美作守
ほりちかまさ
美作守親良の長男
寛政譜12・352
母は近藤氏


室は杉原伯耆守長房の女


継室は青山大蔵少輔幸成の女


また継室は内藤紀伊守信正の女


(内藤豊前守信照の養女内藤丹後守信武の女の誤りか)


また三条西右大臣実条の女を娶る

寛永10年7月1日 内藤豊前守信照娘と縁組 ●「日記」

寛永14年9月8日 父親良の遺領を継ぐ。下野国烏山城2万石

寛永14年9月8日 堀美作守跡惣領又七郎二万石二男孫太郎三千石―


―三男三太郎二千石被下之 ●「日記」

寛永14年12月26日 去比亡父之遺跡雖被仰付御不例ニ付継目之御礼未申上依之―


―今日太刀目録并亡父之遺物献之各対謁老中て退去 ●「日記」

寛永17年12月29日 従五位下・美作守

寛永17年12月29日 諸大夫 ●「日記」

(寛永18年1月11日) (美作守の初出) ●「日記」

寛文12年閏6月1日 信濃国飯田城2万石

延宝元年7月16日
堀親泰 寛永11年 生。三太郎。主膳。助右衛門。静也
ほりちかやす
美作守親良の三男
寛政譜12・355
母は若山氏


妻は北条安房守正房の女

寛永14年9月8日 父親良の遺領分知。2000石

寛永14年9月8日 堀美作守跡惣領又七郎二万石二男孫太郎三千石―


―三男三太郎二千石被下之 ●「日記」

寛永18年2月25日 はじめて家光に拝謁。寄合

寛永18年2月25日 御礼是親美作守所領之内分依被下之也 ●「日記」

万治2年7月11日 書院番

寛文8年2月21日 小姓組組頭

寛文11年3月26日 小姓組組頭を辞す。小普請

元禄7年12月7日 致仕。静也と号す

元禄13年8月5日 死す
堀親良 天正8年 生。吉千代。美作守
ほりちかよし
左衛門督秀政の次男
寛政譜12・351
母は喜多嶋和泉守の女


室は浅野弾正少弼長政の女


秀吉に仕える

天正18年 2万石

天正19年1月24日 従五位下・美作守。豊臣氏・羽柴の称号を賜る。偏諱を賜る

慶長3年4月 越後国蔵王城4万石

慶長7年 兄秀治の次男鶴千代に封を譲る。1万2000石

慶長11年 秀忠に仕える。1万2000俵

慶長16年 下野国真岡1万2000石

元和4年12月6日 下野国真岡1万7000石

寛永4年3月16日 下野国烏山城2万5000石

寛永14年5月13日
堀利重(市正) 天正9年 生。左馬助。伊賀守。市正
ほりとししげ
太郎左衛門秀重の三男
寛政譜12・357
母は西庄氏


室は本多豊後守康重の女

慶長4年 甥左衛門督秀治の人質として江戸に来る。秀忠に仕える

(慶長5年) 従五位下・伊賀守。8000石

(慶長15年) 井伊掃部頭直孝に代わり書院番頭

慶長19年 大久保相模守忠隣に連座し奥平大膳大夫家昌に召し預けられる

元和元年 大坂の役にてひそかに松平下総守忠明に属す

元和8年 恩赦。常陸国土浦1万石

(元和8年) 下野国宇都宮にて奥平美作守忠昌を後見

寛永3年 書院番頭

寛永5年 大番頭

寛永10年4月23日 常陸国土浦1万4000石

寛永10年4月23日 4000石御加恩 ●「日記」

寛永12年11月9日 諸国寺社方訴訟之儀承届可致言上 ●「日記」

~寛永14年 奏者番・寺社奉行

寛永15年4月24日

寛永15年4月28日 大坂より重て継飛脚到着堀市正去廿三日病死之由申来 ●「日記」
堀利重(十兵衛)
生。七三郎。十兵衛
ほりとししげ
豊前利政の三男
寛政譜12・384
母は蜂屋七兵衛定頼の女


妻は布施孫兵衛重直の女

寛永15年9月23日 父利政の遺跡分知。500石

寛永15年9月23日 堀豊前守遺跡千五百石之内千石惣領兵四郎―


―五百石二男堀七三郎被下之 ●「日記」

慶安2年12月26日 小姓組

寛文3年~ 小姓組を辞す。小普請

万治元年7月1日 書院番

元禄7年8月 書院番を辞す

元禄11年3月17日 死す
堀利常 慶長5年 生。七郎右衛門
ほりとしつね
豊前利政の長男
寛政譜12・383
母は蜂屋七兵衛定頼の女

寛永7年 書院番

寛永9年 200俵

寛永13年5月20日 死す
堀利直 寛永2年 生。数馬。宮内
ほりとしなお
市正利重の次男
寛政譜12・360
妻は本堂源七郎栄親の女

寛永12年8月11日 はじめて家光に拝謁

寛永12年8月11日 堀市正子始て御目見 ●「日記」

寛永15年7月2日 父利重の遺領分知。2000石

寛永15年7月2日 堀市正遺跡総領越中守壱万弐千石次男数馬弐千石 ●「日記」

寛永15年8月1日 亡父跡職去頃依被仰付御礼 ●「日記」

寛永18年4月23日 書院番 ●「日記」共

慶安3年9月3日 西丸に勤仕


小姓組

承応元年6月26日 小姓組。進物役

明暦2年 小姓組を辞す。小普請

寛文7年閏2月11日 死す
堀利長 慶長6年 生。左馬助。対馬守。越中守
ほりとしなが
市正利重の長男
寛政譜12・358
室は内藤豊前守信照の女

元和8年 はじめて秀忠に拝謁

寛永9年12月6日 従五位下・対馬守

寛永9年12月6日 諸大夫 ●「日記」

(寛永10年7月1日) (左馬から左馬助になったか) ●「日記」

寛永10年7月1日 内藤豊前守信照妹と縁組 ●「日記」

(寛永11年7月18日) (越中守の初出) ●「日記」

寛永15年7月2日 父利重の遺領を継ぐ。常陸国土浦1万2000石

寛永15年7月2日 堀市正遺跡総領越中守壱万弐千石次男数馬弐千石 ●「日記」

寛永15年8月1日 亡父跡職去頃依被仰付御礼 ●「日記」

寛永18年1月15日 大番頭

寛永18年1月15日 大御番頭被仰付之植村出羽守元組也 ●「日記」

万治元年10月12日
堀利長次女
寛政譜12・358
堀越中守利長の次女
寛政譜12・355 寛永20年12月2日 縁組被仰付之堀越中守娘堀孫太郎 ●「日記」


堀孫太郎親智に嫁ぐ


以下不詳
堀利房 寛永5年 生。山三郎。七郎右衛門
ほりとしふさ
七郎右衛門利常の男
寛政譜12・383
妻は蜂屋七兵衛定吉の女

寛永13年11月24日 父利常の遺跡を継ぐ。200俵

寛永13年11月24日 堀七郎右衛門弐百石子山三郎跡目被仰付之 ●「日記」

寛永13年12月21日 はじめて家光に拝謁

寛永13年12月21日 跡目之面々七郎右衛門子堀山三郎(御目見) ●「日記」

正保4年12月25日 大番

寛文7年2月18日 新番

寛文8年12月25日 250俵

延宝7年5月9日 新番組頭

延宝7年12月19日 450俵

天和2年4月22日 750俵


500石250俵

貞享3年9月18日 目付

貞享3年12月26日 布衣

貞享4年3月10日 先鉄炮頭

元禄5年4月10日 先鉄炮頭を辞す。寄合

元禄10年7月26日 750石

元禄12年9月14日 死す
堀利政 天正3年 生。柄之助。作左衛門。豊前。はじめ奥田を称す
ほりとしまさ
奥田七郎兵衛道利の次男
寛政譜12・382
妻は蜂屋七兵衛定頼の女

~慶長5年 堀監物直政に属し称号を堀に改める


処士。京に住す

慶長19年 家康に仕える

元和元年 大坂の役にて堀淡路守直重に属す

元和元年5月7日 書院番。500俵


西丸に勤仕

寛永9年8月18日 使番 ●「日記」共

寛永9年11月27日 布衣 ●「日記」共

寛永10年12月26日 1500石

寛永10年12月26日 御加恩千石 ●「日記」

寛永15年3月18日 死す
堀直昭 慶長15年 生。惣兵衛。左門。惣兵衛
ほりなおあき
淡路守直重の次男
寛政譜12・372
母は堀氏


妻は大草七兵衛高正の女

元和元年 はじめて秀忠に拝謁

元和2年 父直重の遺領分知。1000石

元和3年 秀忠に仕える

寛永2年~ 書院番


小姓組

寛永10年2月7日 1200石

承応元年5月8日 死す
堀直氏 寛永3年 生。五郎七郎。三左衛門。自章
ほりなおうじ
式部少輔直之の五男
寛政譜12・381
母は柴田佐渡守勝全の女


妻は岡野権左衛門英明の女

寛永15年10月24日 書院番。食禄を賜る

寛永15年10月24日 御書院番 ●「日記」

(寛永19年閏9月1日) (三左衛門の初出か) ●「日記」 これ以前も兄三右衛門直景と不分明

寛永19年閏9月1日 兄直景より分知。1500石

寛永19年閏9月1日 堀式部少遺跡息三右衛門ニ相続被仰付之所謂父知行雖為九千五百石―


―自分之知行弐千石之内五百石父知行ニ入都合壱万石ニて被下之―


―残て千五百石自分之知行弟三左衛門ニ被下之 ●「日記」

寛文9年~ 書院番を辞す。小普請

元禄元年12月9日 致仕。自章と号す

元禄11年10月6日 死す
堀直景 慶長9年 生。右衛門太郎。三右衛門。式部少輔。宗三
ほりなおかげ
式部少輔直之の長男
寛政譜12・375
母は柴田佐渡守勝全の女


室は戸川肥後守達安の女


継室は内藤帯刀忠興の養女西尾豊後守光教の女

元和2年 はじめて秀忠に拝謁

元和7年 書院番。500石

寛永7年 使番


1000石

寛永8年2月12日 使番 ●「日記」

寛永10年12月26日 2000石

寛永10年12月26日 御加恩千石 ●「日記」

寛永13年12月29日 布衣 ●「日記」共

寛永14年11月26日 弥無油断江戸中可致夜廻 ●「日記」

寛永19年閏9月1日 父直之の遺跡を継ぐ。上総国苅谷1万石

寛永19年閏9月1日 堀式部少遺跡息三右衛門ニ相続被仰付之所謂父知行雖為九千五百石―


―自分之知行弐千石之内五百石父知行ニ入都合壱万石ニて被下之―


―残て千五百石自分之知行弟三左衛門ニ被下之 ●「日記」

承応2年6月10日 使番をゆるされる

万治元年閏12月28日 詰衆

万治3年12月28日 従五位下・式部少輔

寛文8年8月10日 致仕。宗三と号す

延宝3年2月18日
堀直定 寛永13年 生。千介
ほりなおさだ
兵部大輔直次の男
寛政譜12・367
母は土井大炊頭利勝の女

寛永16年10月22日 祖父丹後守直寄の遺領を継ぐ。越後国村上城10万石

寛永16年10月22日 堀丹後守跡職之事本知雖為拾万石丹後守存生之内十七万石余之―


―御役相勤度之旨訴訟申上依之今度十三万石ニ被仰付十万石は―


―孫仙介ニ被下之残三万石は二男七郎五郎ニ被下之 ●「日記」

寛永19年3月2日 卒。断絶
堀直次 慶長19年 生。三十郎。兵部大輔
ほりなおつぐ
丹後守直寄の長男
寛政譜12・367
母は松平庄右衛門近清の女


室は土井大炊頭利勝の女

寛永3年8月 従五位下・兵部大輔

寛永15年7月17日
堀直輝 寛永8年 生。大学。肥前守
ほりなおてる
淡路守直升の男
寛政譜12・370
母は堀式部少輔直之の女


室は酒井摂津守忠当の養女松平右衛門大夫大河内正綱の女

寛永13年11月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永14年9月8日 父直升の遺領を継ぐ。信濃国須坂1万5000石

寛永14年9月8日 遺跡被仰付堀淡路守惣領大学 ●「日記」

寛永20年12月26日 堀大学え松平右衛門大夫娘縁辺 ●「日記」

寛文2年12月27日 従五位下・肥前守

寛文9年7月8日
堀直時 元和2年 生。七郎五郎。丹後守
ほりなおとき
丹後守直寄の次男
寛政譜12・367
母は松平庄右衛門近清の女


室は池田備中守長幸の女

寛永3年 はじめて秀忠・家光に拝謁

寛永16年10月22日 父直寄の遺領分知。越後国安田3万石

寛永16年10月22日 堀丹後守跡職之事本知雖為拾万石丹後守存生之内十七万石余之―


―御役相勤度之旨訴訟申上依之今度十三万石ニ被仰付十万石は―


―孫仙介ニ被下之残三万石は二男七郎五郎ニ被下之 ●「日記」

寛永19年12月30日 従五位下・丹後守

寛永19年12月30日 諸大夫 ●「日記」

寛永20年2月29日
堀直政 慶長14年 生。九郎次郎。喜内。采女正
ほりなおまさ
式部少輔直之の次男
寛政譜12・379
母は柴田佐渡守勝全の女。


妻は朽木河内守元綱の女

元和7年 はじめて秀忠に拝謁

元和7年 家光に付属される。小姓。3000石

寛永3年8月 従五位下・采女正

寛永15年4月25日 小姓を辞す。寄合

寛永15年4月25日 病者故御役御赦免 ●「日記」

万治元年3月6日 死す
堀直升 慶長12年 生。大学。従五位下。淡路守
ほりなおます
淡路守直重の長男
寛政譜12・370
室は堀式部少輔直之の女

元和元年 はじめて秀忠に拝謁

元和2年8月 父直重の遺領を継ぐ。信濃国須坂1万5000石

寛永14年3月17日
堀直之 天正12年 生。佐太郎。主計助。三右衛門。式部少輔
ほりなおゆき
監物直政の五男
寛政譜12・374
母は宮川氏


妻は柴田佐渡守勝全の女


堀左衛門督秀治・越後守忠俊に仕える

慶長16年 はじめて秀忠に拝謁。書院番

元和元年 1000石。使番

元和2年7月 越後国椎谷5500石

寛永4年12月18日 従五位下・式部少輔

寛永8年9月 町奉行

(寛永9年6月11日) (咄衆) ●「日記」

寛永10年4月23日 上総国苅谷9500石

寛永10年4月23日 4000石御加恩 ●「日記」

寛永10年6月6日 諸中御用被下無由断可令言上 ●「日記」

寛永14年12月22日 出仕をとどめられる ●「日記」共

寛永15年1月19日 ゆるされる ●「日記」共

寛永15年5月16日 町奉行を辞す

寛永15年5月16日 当町奉行御赦免 ●「日記」

寛永17年1月23日 寺社奉行 ●「日記」共

寛永19年7月10日 死す
堀直吉 寛永14年 生。左門。丹波守。丹後守
ほりなおよし
丹後守直時の男
寛政譜12・367
室は堀兵部大輔直次の女

寛永20年 父直時の遺領を継ぐ。越後国安田3万石

寛永20年7月14日 はじめて家光に拝謁

寛永20年8月14日 亡父遺跡相続被仰付御礼太刀目録并進物献之 ●「日記」

正保元年5月5日 越後国村松3万石

承応元年12月28日 従五位下・丹波守

延宝4年10月15日 丹後守

延宝4年10月25日
堀直寄 天正5年 生。三十郎。丹後守
ほりなおより
監物直政の次男
寛政譜12・365
母は宇佐美氏


室は松平庄右衛門近清の女

慶長3年 越後国坂戸城5万石

慶長15年 信濃国飯山城4万石

慶長16年 信濃国飯山城5万石

元和2年 越後国長岡城8万石

元和4年4月9日 越後国村上城10万石

寛永10年4月21日 御咄ニ可罷出 ●「日記」

寛永16年6月29日
堀直寄娘


堀丹後守直寄の女

寛永10年7月2日 酒井左京亮忠久と縁組 ●「日記」






堀直寄次女
寛政譜12・367
堀丹後守直寄の次女
寛政譜14・134 寛永12年8月6日 堀丹後守娘岡部帯刀嫁娶被仰付之 ●「日記」


岡部内膳正行隆に嫁ぐ

慶安3年 岡部美濃守長泰を産む


以下不詳
堀長任
生。三郎右衛門
ほりながとう
松平上総介忠輝に仕える
寛政譜22・260
家光に仕える。町奉行与力

(寛永20年4月19日) (弐百三十石) ●「日記」

(寛永20年4月19日) (神尾備前守組) ●「日記」

寛永20年4月19日 只今迠之御番被成御免向後御役可被仰付之間可存其旨之由―


―小十人組御番所之次ニて老中被伝之 ●「日記」

寛永20年9月11日 三百石被下之 ●「日記」


国廻役。中根壱岐守正盛に属す

(明暦3年) 死す
堀秀嵩 慶長13年 生。藤次郎。甚五兵衛
ほりひでたけ
因幡守秀信の男
寛政譜12・386
妻は上田主殿助重秀の女

元和7年11月 はじめて秀忠に拝謁

寛永2年 家光に仕える

(寛永4年) 父秀信の遺跡を継ぐ。1500石

寛永5年11月10日 書院番

慶安元年9月14日 死す
堀主水

ほりもんど
加藤式部少輔明成に仕える

寛永15年 逐電

寛永18年3月15日 加藤式部少輔家来堀主水四年以前寅年彼在所ヨリ逐電式部少所々―


―穿鑿之故今度井上筑後守所迠罷出よりて今日於評定所老中子細―


―被尋之落着之内主水は溝口出雲守御預弟両人仙石越前守―


―杉原伯耆守被預之云々 ●「日記」

寛永18年3月21日 加藤式部少輔家来堀主水事頃日御穿鑿之処重畳不届被思召―


―式部少に彼兄弟三人共ニ被下之間可行罪科之旨上意之趣―


―今日式部少御城へ招之老中伝之 ●「日記」



堀主水弟





寛永18年3月15日 加藤式部少輔家来堀主水四年以前寅年彼在所ヨリ逐電式部少所々―


―穿鑿之故今度井上筑後守所迠罷出よりて今日於評定所老中子細―


―被尋之落着之内主水は溝口出雲守御預弟両人仙石越前守―


―杉原伯耆守被預之云々 ●「日記」

寛永18年3月21日 加藤式部少輔家来堀主水事頃日御穿鑿之処重畳不届被思召―


―式部少に彼兄弟三人共ニ被下之間可行罪科之旨上意之趣―


―今日式部少御城へ招之老中伝之 ●「日記」



堀谷猪七郎
権左衛門正亮の兄か
ほりやいのしちろう
弥九郎正厚の男

寛永17年3月8日 御台所衆堀谷弥九郎子猪七郎御膳上リ候節塩を沙糖ニ取違上候事―


―不念之至也依之神谷又五郎ニ被為預之 ●「日記」



堀谷正厚
生。弥九郎
ほりやまさあつ 天正6年9月 家康に仕える
寛政譜20・335 天正18年 膳部の役


膳所台所人


膳所台所組頭

(寛永19年) 死す
堀谷正亮
生。権左衛門
ほりやまさすけ
弥九郎正厚の男
寛政譜20・335 寛永19年11月12日 父正厚の遺跡を継ぐ。台所人

寛永19年11月12日 御旗本衆令死去跡被下之但自分之知行御切米何も上 ●「日記」

(延宝8年) 死す
本阿弥市十郎

ほんあみいちじゅうろう
刀剣鑑定か?



本阿弥一郎兵衛

ほんあみいちろうひょうえ
刀剣鑑定か?



本阿弥光作

ほんあみこうさく
刀剣鑑定か?



本阿弥光伯

ほんあみこうはく
刀剣鑑定か?



本阿弥三郎左衛門

ほんあみさぶろうざえもん
刀剣鑑定か?



本阿弥三郎兵衛

ほんあみさぶろうびょうえ
刀剣鑑定か?



本阿弥十三郎

ほんあみじゅうざぶろう
刀剣鑑定か?



本阿弥十郎兵衛

ほんあみじゅうろうびょうえ




本阿弥又次郎
生。又次郎
ほんあみまたじろう
光作の男

(寛永10年3月28日) (本阿弥光作子又次郎)(御目見) ●「日記」
本阿弥弥一郎

ほんあみやいちろう
刀剣鑑定か?



本因坊算悦 慶長16年 生。算悦
ほんいんぼうさんえつ
本因坊算砂の養子か。杉村氏。京都出身
坐隠談叢2・8 (元和9年) 本因坊算砂死去により中村道碩の後見を受ける


30石

寛永7年 後見人中村道碩より印可を返付される。本因坊2世

寛永12年12月1日 碁打将棋さし依為無足於大津御切米被下之所謂―


―本因坊丗石御扶持方三人 ●「日記」

万治元年9月16日 死す
本郷右近

ほんごううこん
好仁親王の家臣



本郷勝乗 元和5年 生。左介。伝四郎
ほんごうかつのり
勝右衛門勝吉の次男
寛政譜8・66
母は松平石見守康安の女

寛永13年2月6日 はじめて家光に拝謁

寛永13年2月6日 本郷庄右衛門二番子初て御礼 ●「日記」

寛永13年8月9日 小姓組 ●「日記」共

(寛永18年10月19日) (伝四郎の初出) ●「日記」

慶安3年9月3日 家綱に付属される。西丸書院番

(慶安4年) 本丸に伺候

明暦元年12月21日 父勝吉の遺跡分知。300石

延宝4年12月19日 死す。断絶
本郷勝吉 慶長2年 生。虎王丸。勝右衛門
ほんごうかつよし
勝三郎頼泰の次男
寛政譜8・65
母は酒井左衛門尉忠次の養女山岡対馬守景佐の女


妻は松平石見守康安の女

(慶長4年) 父頼泰死去により1000石を賜る

慶長9年 はじめて家康・秀忠に拝謁

~慶長19年 書院番

元和元年 1300石


徒頭


使番

(寛永10年1月22日) (彦三郎) ●「日記」

寛永10年12月26日 2300石

寛永10年12月26日 御加恩千石 ●「日記」

(寛永10年12月26日) (庄右衛門の初出) ●「日記」

(寛永13年12月13日) (布衣) ●「日記」

明暦元年8月22日 死す
本興寺
遠江国。日蓮宗
ほんこうじ


寛永19年7月6日 御朱印被下之 ●「日記」



北郷久直
生。又十郎。式部少輔。はじめ嶋津を称す
ほんごうひさなお
松平大隅守嶋津家久の四男
寛政譜2・346
母は嶋津家臣嶋津備前忠清の女

寛永8年4月1日 従五位下・式部少輔 ●「日記」共


嶋津家臣北郷出雲忠亮の養子となる

(寛永12年12月28日) (北郷式部少の初出) ●「日記」

寛永12年12月28日 初て御目見是松平大隅守陪臣也―


―雖然大隅守依為末子如此 ●「日記」


以下不詳
本郷泰勝
生。勝三郎
ほんごうやすかつ
勝右衛門勝吉の長男
寛政譜8・66
母は松平石見守康安の女


妻は安藤治右衛門正珍の女


12歳のときはじめて秀忠に拝謁

(寛永17年5月8日) (公家柳原弁の給仕役) ●「日記」

~慶安元年 書院番

明暦元年12月21日 父勝吉の遺跡を継ぐ。2000石

万治2年7月25日 普請奉行

万治2年12月28日 布衣

延宝2年9月3日 死す
本光坊

ほんこうぼう
円満院門跡の坊官



本国寺
京都山科。日蓮宗
ほんこくじ




穈察

ぼんさつ
龍穏寺住持

寛永8年3月25日 吉祥寺へ隠居 ●「日記」



本山
紀伊国熊野。修験
ほんざん







本実成院
上総国長福寿寺。天台宗
ほんじつじょういん


(正保元年11月17日) (紅葉山別当の代理か) ●「日記」



本寿寺
遠江国か
ほんじゅじ




本庄市正

ほんじょういちのかみ
有馬玄蕃頭豊氏に仕える

(寛永12年12月8日) (有馬玄蕃頭家来) ●「日記」



本誓寺
江戸。浄土宗
ほんせいじ
英勝院の開基


増上寺の伴僧



本多犬千代 寛永13年 生。犬千代
ほんだいぬちよ
大隅守正遂の男
寛政譜11・297
母は本多大隅守忠純の長女

寛永15年 父正遂の遺領を継ぐ。下野国榎本2万8000石

寛永15年12月1日 太刀馬代黄金十枚進上之是亡父大隅守跡目依被仰付也―


―幼少故進物迠差上之御目見無之 ●「日記」

寛永17年5月13日 卒。断絶

寛永17年5月28日 去頃病死 ●「日記」
本多右馬助

ほんだうまのすけ 寛永9年9月6日 御菓子 御目見 ●「日記」



本多景次 慶長10年 生。杢之助。将監
ほんだかげつぐ
縫殿助康俊の五男
寛政譜11・256
母は菅沼織部正定盈の女


妻は織田河内守信益の女

元和7年 はじめて秀忠に拝謁

元和8年 家光に付属される。小姓。500石

寛永元年 従五位下・将監


書院番

慶安3年9月3日 西丸小姓組組頭


本丸に伺候

慶安4年11月21日 500石300俵

寛文8年1月30日 小姓組組頭を辞す

延宝3年5月16日 致仕。300俵

貞享4年8月12日 死す
本多勝行 寛永12年 生。八郎兵衛
ほんだかつゆき
内記政勝の長男
寛政譜11・235
母は有馬左衛門佐直純の女

寛永16年3月3日 大和国4万石

寛永16年3月3日 本多甲斐守義旧冬令死去彼実子幼稚故遺跡十五万石本多内記ニ―


―被仰付甲斐守実子は則可致養子之旨上意也雖然播州姫路ハ―


―得替於和州郡山十五万石被下之次内記本知四万石の高を以―


―於和州内記実子ニ被下之 ●「日記」

(寛永17年8月1日) (八郎兵衛の初出) ●「日記」

慶安3年6月11日 卒。断絶
本田清続 天正16年 生。清右衛門
ほんだきよつぐ
主膳正家の次男
寛政譜11・317
母は松平兵庫頭親良の女


妻は永井信濃守家臣石川次郎右衛門の女

寛永3年6月 はじめて家光に拝謁


大番

寛永9年12月12日 200俵

寛永10年2月7日 400石

(正保元年2月20日) (大御番) ●「日記」


蔵奉行


務を辞す。小普請

万治3年8月16日 死す
本多五郎右衛門

ほんだごろうえもん
松平伊予守忠昌に仕える

(寛永16年6月3日) (越前宰相使者) ●「日記」



本多定勝
生。藤左衛門
ほんださだかつ
家康に仕える
寛政譜11・318
秀忠に仕える


家光に仕える

寛永8年3月15日 (この時点で鷹匠か?) ●「日記」


以下不詳
本多学澄
生。四郎兵衛
ほんださとずみ
藤左衛門定勝の男
寛政譜11・318
家康・秀忠・家光に仕える。大番。300石

寛永10年2月7日 500石


大番を辞す。小普請

寛文元年 死す
本多重昭 寛永11年 生。大吉。作左衛門。飛騨守
ほんだしげあき
淡路守重能の男
寛政譜11・263
母は大久保加賀守忠常の女


室は松平伊予守忠昌の女


継室は甘露寺宰相嗣長の女

正保元年11月10日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

承応元年2月8日 父重能の遺領を継ぐ。越前国丸岡城4万3300石

承応元年12月28日 従五位下・飛騨守

延宝4年1月14日
本多重冬
生。権九郎。九右衛門
ほんだしげふゆ
権右衛門玄正の長男
寛政譜11・270
母は武嶋七大夫茂成の女


妻は美濃部八郎右衛門茂俊の女

寛永15年9月1日 はじめて家光に拝謁

正保元年12月25日 父玄正の遺跡を継ぐ。400石 ●「日記」共

正保2年3月 大番

寛文7年2月16日 蔵奉行

寛文11年2月30日 蔵奉行をゆるされる

貞享元年8月19日 広敷番頭

元禄元年2月12日 広敷番頭を辞す。小普請

宝永2年11月29日 致仕

正徳3年10月16日 死す
本多重世 慶長8年 生。長次郎。丹後守
ほんだしげよ
豊後守康重の四男
寛政譜11・288
妻は山名平右衛門豊政の女

元和4年 秀忠に仕える。小姓

元和6年閏12月 従五位下・丹後守

元和8年12月 1000石

元和9年 膳番


書院番

寛永10年2月7日 1200石

寛永19年11月24日 死す
本多重能 天正18年 生。勘五郎。作左衛門。信濃。淡路。淡路守
ほんだしげよし
飛騨守成重の長男
寛政譜11・263
母は土岐山城守定政の女


室は大久保加賀守忠常の女

慶長11年 はじめて家康に拝謁。秀忠に仕える

寛永18年12月30日 従五位下・淡路守

寛永18年12月30日 諸大夫 ●「日記」

正保2年5月19日 父成重の家を継ぐ。越前国丸岡城4万3300石

慶安4年12月7日
本多七左衛門

ほんだしちざえもん
松平越後守光長の家臣



本多新之丞
次郎大夫勝重か? 寛政譜11・307
ほんだしんのじょう


寛永13年12月6日 初て御目見 ●「日記」

寛永19年6月26日 大御番 ●「日記」

正保元年12月25日 弐百俵 ●「日記」



本多助久 元和2年 生。帯刀。内膳。彦八郎
ほんだすけひさ
伊勢守忠利の長男
寛政譜11・285
妻は大河内金兵衛久綱の女

寛永15年12月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保2年閏5月26日 父忠利の遺領分知。4560石。寄合

正保2年6月27日 遠江国城東郡4560石

寛文3年11月22日 遠江国新居関所番

寛文9年6月17日 死す
本多純政
生。八兵衛。意安。はじめ有馬を称す
ほんだすみまさ
有馬左衛門佐直純の次男
寛政譜12・192
母は家康の養女本多美濃守忠政の女国姫栄寿院

(寛永17年3月28日) (本多の初出) ●「日記」

(寛永18年4月18日) (有馬八兵衛) ●「日記」

寛永18年 父有馬直純より分知。3000石

寛永18年8月1日 はじめて家光に拝謁

寛永18年8月1日 有馬蔵人御礼綿黄金太刀目録進上之同八兵衛御礼太刀目録進上之―


―是亡父左衛門佐遺跡被仰付之也 ●「日記」

正保元年 疾により退身。京に住す

慶安2年2月29日 母が逝去

明暦元年12月27日 死す
本多忠顕 元和9年 生。右京。大蔵
ほんだただあき
下総守俊次の三男
寛政譜11・243
母は立花飛騨守宗茂の養女立花家臣小田部新助統房の女

寛永12年1月21日 はじめて家光に拝謁

寛永12年1月21日 本多下総守同子息右京当地依参勤御目見 ●「日記」

慶安3年9月3日 家綱に付属される。西丸書院番


本丸に勤仕

承応元年12月18日 300俵

寛文4年 書院番を辞す。父兄の領地近江国膳所に閑居

元禄12年9月18日 死す
本多忠相 慶長4年 生。清三郎。修理。美作守
ほんだただすけ
縫殿助康俊の次男
寛政譜11・250
母は菅沼織部正定盈の女


妻は稲垣摂津守重綱の女

慶長10年 はじめて秀忠に拝謁

元和元年11月 小姓

元和2年11月23日 1000石

元和6年閏12月18日 従五位下・美作守

寛永元年4月15日 1500石

寛永5年11月 3500石

寛永7年1月7日 5000石

寛永9年4月8日 書院番頭

寛永10年4月23日 8000石。与力10騎足軽20人

寛永10年4月23日 3000石御加恩 ●「日記」

明暦2年1月12日 留守居

寛文10年9月11日 留守居を辞す。のちなお出仕する

寛文11年12月19日 致仕

天和2年2月26日 死す
本多忠相長女
寛政譜11・251
本多美作守忠相の長女
寛政譜13・392 寛永10年7月2日 近藤彦九郎用将と縁組 ●「日記」

正保元年 近藤彦九郎用慶を産む

正保3年 近藤彦兵衛用賢を産む



本多忠純 天正14年 生。大学。大隅守
ほんだただずみ
佐渡守正信の三男
寛政譜11・296
室は片桐東市正且元の養女片桐主膳正貞隆の女


家康に仕える


従五位下。(大隅守)

慶長10年1月 下野国榎本1万石

元和元年 下野国皆川2万8000石

寛永8年12月13日
本多忠隆 寛永2年 生。(民部)。式部。土佐守
ほんだただたか
下総守俊次の四男
寛政譜11・248
母は立花飛騨守宗茂の養女立花家臣小田部新助統房の女


妻は青山因幡守宗俊の養女稲葉民部少輔一通の女

寛永18年 はじめて家光に拝謁

寛永18年10月3日 家綱に付属される。小姓

寛永18年10月3日 (本多民部) (名前のみの記載) ●「日記」

正保2年4月21日 従五位下・土佐守

慶安3年9月4日 西丸小姓組番頭。1000俵

(慶安4年) 本丸に勤仕

慶安4年11月21日 2000俵

万治2年12月22日 3000石

寛文4年6月28日 5000石

延宝5年5月18日 小姓組番頭を辞す

延宝6年7月13日 死す
本多忠利 慶長5年 生。出羽。伊勢守
ほんだただとし
豊後守康紀の長男
寛政譜11・281
母は松平玄蕃頭家清の女


室は井上主計頭正就の女

慶長18年7月28日 秀忠の偏諱を賜る。伊勢守

元和元年6月 従五位下

元和9年 父康紀の遺領を継ぐ。三河国岡崎城5万1500石

寛永11年 三河国岡崎城5万6500石

正保2年2月10日
本多忠政 天正3年 生。平八郎。美濃守。侍従
ほんだただまさ
中務大輔忠勝の長男
寛政譜11・217
母は阿知和右衛門の女
幕府祚胤伝
室は岡崎三郎松平信康の次女妙光院
(徳川諸家系譜2・28) 天正18年 入輿あり

慶長3年4月23日 従五位下・美濃守

慶長15年11月25日 父忠勝の遺領を継ぐ。伊勢国桑名城10万石

元和3年7月14日 播磨国姫路城15万石

寛永3年6月25日 室が逝去

寛永3年8月19日 従四位下・侍従

寛永8年8月10日
本多忠政次女
寛政譜11・218
本多美濃守忠政の次女
寛政譜3・400
母は岡崎三郎松平信康の息女妙光院
寛政譜3・395
小笠原信濃守忠脩に嫁ぐ


女子を産む。のち小笠原右近将監忠真の養女となり―


―松平阿波守蜂須賀忠英の室となる

元和元年 小笠原信濃守長次を産む

元和元年5月7日 夫忠脩が大坂の役にて討死

元和2年 前夫忠脩の弟小笠原右近将監忠真の室となる

元和4年 小笠原兵部大輔長安を産む


女子を産む。のちの松平右衛門佐黒田光之の室

寛永8年 小笠原大和守長宣を産む


女子を産む。のちの松平刑部大輔頼元の室


女子を産む

寛永12年1月21日 頃当地下着 ●「日記」


(以下不詳)
本多忠義 慶長7年 生。唐之助。右兵衛。幸千代。能登守。鈍斎
ほんだただよし
美濃守忠政の三男
寛政譜11・226
母は岡崎三郎松平信康の息女妙光院


室は森美作守忠政の女

元和元年閏6月19日 従五位下・能登守

寛永3年 播磨国姫路城内4万石

寛永8年 播磨国姫路城内5万石

寛永16年3月3日 遠江国掛川城7万石 ●「日記」共

正保元年3月8日 越後国村上城10万石 ●「日記」共

慶安2年6月9日 陸奥国白川城12万石

寛文2年11月25日 致仕。鈍斎と号す

延宝4年9月26日
本多忠義長女
寛政譜11・227
本多能登守忠義の長女
寛政譜6・256 寛永12年8月6日 本多能登守娘金森長門嫁娶被仰付之 ●「日記」


金森長門守頼直に嫁ぐ

慶安元年 金森飛騨守頼業を産む

慶安3年 金森左京近供を産む


金森権之助を産む。早世か


以下不詳
本多対馬守

ほんだつしまのかみ 寛永11年7月18日 参内供奉 ●「日記」



本多藤五郎

ほんだとうごろう (寛永9年7月6日) (諸道具奉行) ●「日記」



本多利長 寛永12年 生。石見。越前守
ほんだとしなが
伊勢守忠利の六男
寛政譜11・282
母は井上主計頭正就の女


室は松平右衛門大夫大河内正綱の女

寛永18年12月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保2年閏5月26日 父忠利の遺領を継ぐ。三河国岡崎城5万石。帝鑑間に伺候

正保2年6月27日 遠江国横須賀5万石

正保3年12月30日 従五位下・越前守

天和2年2月22日 改易。出羽国村山郡1万石。出仕をとどめられる

天和2年12月17日 ゆるされる

元禄5年12月16日
本多時令
生。長三郎。金右衛門。はじめ宮崎を称す
ほんだときよし
宮崎備前守時重の次男
寛政譜16・266
母は本多藤四郎の女


妻は立花甲斐守種吉の女

寛永13年12月15日 はじめて家光に拝謁

寛永13年12月15日 備前守二番め宮崎長三郎初て御目見 ●「日記」

寛永20年 書院番

正保2年12月28日 300俵

明暦2年11月5日 父の遺跡分知。500石

万治2年2月21日 膳奉行

万治3年3月23日 小納戸

万治3年12月1日 500石200俵

万治3年12月28日 布衣


小納戸を辞す。寄合

貞享3年7月12日 西丸裏門番頭

元禄5年10月9日 西丸裏門番頭を辞す

元禄10年7月26日 700石

元禄12年11月25日 改易。永井豊熊直達に召し預けられる


以下不詳
本多俊次 文禄4年 生。下総。下総守。浄有
ほんだとしつぐ
縫殿助康俊の長男
寛政譜11・241
母は菅沼織部正定盈の女


室は立花飛騨守宗茂の養女立花家臣小田部新助統房の女

慶長4年 はじめて家康に拝謁

慶長15年 従五位下・下総守

元和7年 父康俊の遺領を継ぐ。三河国西尾城3万5000石

寛永13年6月23日 伊勢国亀山城5万石 ●「日記」共

寛永19年8月11日 西丸御番 ●「日記」

慶安4年4月4日 近江国膳所城7万石

寛文4年9月12日 致仕。浄有と号す

寛文8年8月11日
本多利友 慶長2年 生。八十郎。彦兵衛
ほんだとしとも
野条越前成宣の長男
寛政譜18・214
本多美濃守忠政の烏帽子子となり本多を称す


家康に仕える

慶長17年 秀忠に付属される。小姓組

元和元年 300石

寛永9年 大番

寛永11年10月13日 改易。陸奥国仙台に蟄居

慶安4年10月17日 赦免

承応元年12月18日 300俵

承応2年2月20日 大番

寛文4年 大番を辞す。小普請

延宝4年10月14日 死す
本多俊昌 慶長7年 生。主馬助。雪斎
ほんだとしまさ
縫殿助康俊の三男
寛政譜11・253
母は菅沼織部正定盈の女

元和7年 はじめて秀忠に拝謁

元和8年 小姓

元和9年 1000石

寛永10年 1200石


小姓をゆるされる。小普請

寛文10年10月14日 致仕。雪斎と号す

延宝2年12月10日 死す
本多俊之
生。内蔵助
ほんだとしゆき
縫殿助康俊の四男
寛政譜11・256
伝通院随波上人に師事

寛永12年7月14日 はじめて家光に拝謁

寛永12年7月14日 本多美作守弟以太刀目録初て御礼 ●「日記」

寛永12年12月23日 小姓組

寛永15年12月7日 300俵


小姓組を辞す。小普請

延宝7年5月24日 死す
本多富正 元亀3年 生。源四郎。志摩。伊豆守。丹波守。元覚
ほんだとみまさ
孫左衛門重富の男
寛政譜11・259
室は小栗大六の女泰雲院
越前人物志上・313 天正14年 松平秀康に付属される

天正18年 100石

文禄3年 150石

~慶長4年 700石

慶長6年春 老臣。志摩と称す。3000石

慶長6年 越前国府中城3万9000石

慶長10年4月 伊豆と称す

慶長16年3月20日 従五位下


越前国府中城4万5200石

(寛永11年8月2日) (伊豆守) ●「日記」

寛永11年 丹波守

(寛永12年12月28日) (丹波守の初出) ●「日記」

寛永16年5月6日 室が卒

正保2年 剃髪。元覚と号す

慶安2年8月12日
本多成於 慶長16年 生。五兵衛。五郎兵衛
ほんだなりお
九蔵秀玄の五男
寛政譜11・276
母は本多作左衛門重次の女


妻は太田次郎右衛門助重の女

寛永9年8月22日 はじめて家光に拝謁

寛永9年9月21日 小十人

寛永11年2月21日 100俵

寛永19年12月16日 200俵 ●「日記」共

慶安2年2月25日 納戸番

寛文2年10月19日 納戸番組頭

寛文2年12月22日 300俵

天和2年4月22日 400俵

天和3年8月10日 納戸番組頭を辞す。小普請

元禄2年2月5日 死す
本多成重 元亀3年 生。仙千代。丹下。次郎大夫。飛騨守。土菴
ほんだなりしげ
作左衛門重次の男
寛政譜11・261
母は鳥居伊賀守忠吉の女


室は土岐山城守定政の女

天正4年5月11日 はじめて家康に拝謁

天正11年 家康に近侍

天正12年12月 秀康にしたがい京にて人質となる

天正13年 父重次のはからいで浜松にかえる

天正13年12月8日 御前にて元服。丹下

天正18年 父重次とともに閉居

(慶長元年) 父重次の遺跡を継ぐ。3000石

慶長7年10月2日 5000石

慶長18年 松平忠直に付属される。越前国丸岡城4万石

元和元年閏6月19日 従五位下・飛騨守

寛永元年5月18日 家光に仕える。越前国丸岡城4万6300石

寛永3年 越前国丸岡城4万3300石

正保2年5月19日 致仕。土菴と号す

正保4年6月23日
本多信勝 元亀2年 生。山県。百助。太郎左衛門
ほんだのぶかつ
庄左衛門信俊の男
寛政譜11・237
母は小栗又市忠政の女


妻は高力土佐守正長の女

文禄元年2月 家康の御傍に勤仕。月俸を賜る

文禄3年1月 1000石

慶長5年7月 秀忠に付属される。大番頭

慶長7年 大番頭を辞す。弓の与力を預かる

元和9年 加増(1500石?)

寛永10年12月27日 700石加増(2200石?)

寛永10年12月27日 七百石御加恩 ●「日記」

寛永11年~ 2230石

正保3年7月8日 死す
本多信次 慶長5年 生。山県。百助
ほんだのぶつぐ
太郎左衛門信勝の長男
寛政譜11・237
母は高力土佐守正長の女

慶長11年 はじめて家康に拝謁

慶長19年 秀忠に仕える。中奥に伺候。500石

(正保元年6月25日) (下馬より松平伊与守前迠之道筋布施孫兵衛本多百介馬乗同心并―


―徒同心召列見廻之) ●「日記」


(上記、父信勝の弓衆を率いたか?)

正保3年 父信勝の遺跡を継ぐ。2230石


番を辞す。小普請

承応2年7月3日 死す
本多信吉 慶長7年 生。次郎右衛門。播磨守
ほんだのぶよし
太郎左衛門信勝の次男
寛政譜11・237
母は高力土佐守正長の女


妻は米倉平大夫重種の女

元和4年 秀忠に仕える。小姓組


200俵

寛永10年2月7日 400石

寛永18年8月12日 家綱に付属される。御傅。700石

寛永18年8月12日 若君様え御奉公可仕 ●「日記」

寛永19年2月6日 布衣

寛永20年1月10日 従五位下・播磨守

寛永20年1月10日 諸大夫 ●「日記」

(寛永20年1月11日) (播磨守の初出) ●「日記」

寛永20年9月24日 御傅。三丸番頭

正保4年12月5日 1200石

慶安2年6月24日 死す。断絶
本多玄重
生。十蔵
ほんだはるしげ
九蔵秀玄の四男
寛政譜11・275
母は本多作左衛門重次の女

寛永7年 家光に仕える。小十人


100俵

寛永18年8月9日 家綱に付属される。納戸番

寛永18年8月9日 若君様為御奉公人御納戸方ニ被付 ●「日記」

慶安3年9月4日 納戸番組頭

慶安4年11月21日 200俵

万治2年4月13日 広敷番頭

万治2年12月24日 400俵

寛文12年2月 広敷番頭を辞す。小普請

貞享元年4月29日 死す
本多玄正 慶長13年 生。九蔵。権右衛門
ほんだはるまさ
九蔵玄盛の男
寛政譜11・269
母は加藤与兵衛影久の女


妻は武嶋七大夫茂成の女

慶長15年 父玄盛の遺跡を継ぐ。200石

元和3年 はじめて秀忠に拝謁

寛永元年 大番

寛永10年2月7日 400石

正保元年6月14日 死す
本多豊後 寛永4年 生。豊後
ほんだぶんご
伊勢守忠利の四男
寛政譜11・282
母は井上主計頭正就の女

寛永12年4月11日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永15年12月27日
本多政勝 慶長19年 生。入道丸。内記。侍従
ほんだまさかつ
甲斐守政朝の嗣。出雲守忠朝の次男
寛政譜11・219
室は有馬左衛門佐直純の女


秀忠に仕える

寛永8年 播磨国姫路城4万石

寛永10年7月28日 縁辺之御礼 ●「日記」

寛永11年1月12日 従五位下

寛永11年1月12日 諸大夫 ●「日記」

寛永16年3月3日 宗家政朝の遺領を継ぐ。大和国郡山城10万石

寛永16年3月3日 本多甲斐守義旧冬令死去彼実子幼稚故遺跡十五万石本多内記ニ―


―被仰付甲斐守実子は則可致養子之旨上意也雖然播州姫路ハ―


―得替於和州郡山十五万石被下之次内記本知四万石の高を以―


―於和州内記実子ニ被下之 ●「日記」

寛永17年12月29日 従四位下

寛永17年12月29日 四品 ●「日記」

寛文3年12月29日 侍従

寛文11年10月30日
本多政重(安房)
生。長五郎。左兵衛。山城。大和。安房守。従五位下
ほんだまさしげ
佐渡守正信の次男
寛政譜11・292
妻は上杉景勝の養女直江山城守兼続の女
本多氏由緒帳
倉橋長右衛門の養子となる
(加賀藩史料3・240) 文禄2年 家康・秀忠に仕える

慶長2年8月 戸田帯刀為春と謀り岡部庄八を討ち逐電。伊勢国に潜居


正木左兵衛と名乗る


宇喜多秀家に属す。2万石

慶長5年 福嶋正則に属す。3万石

慶長7年 前田肥前守利長に仕える。3万石。本多山城と称す

慶長9年 前田利長の命で上杉景勝家臣直江山城守兼続の女婿となる


(直江山城・大和と名乗るか?)

慶長16年 上杉家を退き、前田利長に仕える(本多に戻る?)


5万石

元和元年6月 従五位下・安房守

(寛永10年1月20日) (松平肥前守家老) ●「日記」

正保4年3月 隠居

正保4年6月3日
本多政重(権右衛門)
生。権九郎。権右衛門
ほんだまさしげ
権右衛門正房の三男
寛政譜21・36
千姫天樹院に仕える


徳川忠長に付属される

(寛永9年) 酒井雅楽頭忠世に召し預けられる

寛永12年11月 赦免


父正房に継いで千姫天樹院に付属される

某年 死す
本多政武
生。因幡守
ほんだまさたけ
因幡守俊政の男
断家譜1・122 慶長13年 父俊政の遺領を継ぐ。大和国高取城3万石

寛永14年7月13日
本多政武長女
断家譜1・123
本多因幡守政武の長女

寛永10年7月3日 九鬼大和守久隆と縁組 ●「日記」






本多政武次女
断家譜1・123
本多因幡守政武の次女
寛政譜13・206 寛永10年7月2日 内藤伊勢守信光と縁組 ●「日記」

寛文4年 内藤主膳信清を産む



本田正次 慶長10年 生。杢助。清兵衛
ほんだまさつぐ
主膳正家の長男
寛政譜11・315
母は松平兵庫頭親良の女


妻は仁賀保兵庫頭挙誠の女

元和5年5月8日 父正家の遺跡を継ぐ。550石。はじめて秀忠に拝謁

元和5年 大番

寛永10年2月7日 750石

慶安3年3月9日 大番組頭

寛文3年12月23日 大番組頭を辞す。小普請

元禄4年6月8日 死す
本多正綱 寛永元年 生。半之丞。平右衛門
ほんだまさつな
豊前守正貫の次男
寛政譜11・301
母は本多藤左衛門正澄の女


妻は船橋三位秀相の女

寛永11年 はじめて家光に拝謁

寛永18年11月14日 家綱に付属される。小姓

寛永18年11月14日 本多豊前守二番子竹千代様え御小姓ニ被召出之 ●「日記」

慶安3年9月4日 徒頭。500俵

慶安4年8月16日 布衣

慶安4年11月21日 800俵

延宝4年6月9日 先鉄炮頭

延宝7年4月27日 先鉄炮頭を辞す

天和2年1月5日 死す
本多正貫 文禄2年 生。源十郎。三弥。豊前守。休山
ほんだまさつら
三弥左衛門正重の養子。長坂太郎左衛門重吉の長男
寛政譜11・298
母は養父正重の女


妻は本多藤左衛門正澄の女

慶長10年 はじめて秀忠に拝謁

元和2年 養父正重の家を継ぐ。8000石

寛永9年6月21日 与力25騎鉄炮同心100人を預かる ●「日記」共

寛永9年12月15日 従五位下・豊前守

寛永9年12月15日 諸大夫 ●「日記」

(寛永10年2月19日) (豊前守の初出) ●「日記」

寛永12年11月10日 書院番頭 ●「日記」共

寛永19年閏9月5日 大番頭

寛永19年閏9月5日 大御番大久保主膳正元組本多豊前守被仰付 ●「日記」

寛文4年2月30日 致仕。休山と号す

寛文12年2月1日 死す
本多正貫娘
寛政譜11・298
本多豊前守正貫の女

寛永10年7月2日 戸田出羽守重種と縁組 ●「日記」

正保元年 戸田和泉守重恒を産む



本多政朝(甲斐) 慶長4年 生。鍋之助。甲斐守。侍従
ほんだまさとも
美濃守忠政の次男
寛政譜11・218
母は岡崎三郎松平信康の息女妙光院
幕府祚胤伝
室は本多出雲守忠朝の女
(徳川諸家系譜2・28) 慶長17年12月18日 従五位下・甲斐守

元和元年7月1日 叔父忠朝の遺領を継ぐ。上総国大多喜城5万石

元和3年9月18日 播磨国竜野5万石

寛永3年 兄忠刻の遺領を継ぐ。播磨国姫路城10万石

寛永3年6月25日 母が逝去

寛永11年7月16日 従四位下・侍従

寛永11年7月16日 侍従 ●「日記」

寛永15年11月20日

寛永15年11月25日 本多甲斐守儀持病之癪差発去廿日之夜死去之由―


―大坂ヨリ注進之 ●「日記」
本多政朝(甲斐)娘


本多甲斐守政朝の娘

寛永12年8月6日 本多甲斐守娘黒田市正嫁娶被仰付之 ●「日記」



本多政朝(帯刀) 元和6年 生。帯刀
ほんだまさとも
安房守政重の三男
寛政譜11・295
妻は三浦志摩守正次の女

寛永19年4月1日 はじめて家光に拝謁

寛永20年12月18日 5000石。寄合

寛永20年12月18日 五千石新規被下之 ●「日記」

寛文元年7月13日 死す
本多正直 元和4年 生。三弥。伯耆守
ほんだまさなお
豊前守正貫の長男
寛政譜11・298
母は本多藤左衛門正澄の女


妻は稲垣摂津守重綱の女

寛永4年7月10日 はじめて秀忠に拝謁

寛永10年7月2日 縁辺組 ●「日記」

万治元年閏12月27日 従五位下・伯耆守

寛文4年2月30日 父正貫の家を継ぐ。8000石

寛文8年2月21日 大番頭

延宝5年3月15日 死す
本多政長(安房) 寛永8年 生。長松。左馬助。安房。安房守。素立軒
ほんだまさなが
安房守政重の四男
寛政譜11・293
妻は松平肥前守前田利常の七女春姫
政隣記 (寛永9年9月6日) (右馬助) ●「日記」
(加賀藩史料3・222)
父政重に継いで松平肥前守に仕える
(加賀藩史料5・156) 正保3年11月2日 入輿あり
本多家譜 元禄4年12月 従五位下・安房守
(加賀藩史稿14・16) 元禄14年7月 致仕。3000石

元禄15年 剃髪

宝永5年8月
本多政長(中務) 寛永10年 生。勘右衛門。市正。中務大輔
ほんだまさなが
内記政勝の養子。甲斐守政朝の長男
寛政譜11・219
室は松平対馬守山内忠豊の女

寛永16年3月3日 命により政勝の嗣となる

寛永16年3月3日 本多甲斐守義旧冬令死去彼実子幼稚故遺跡十五万石本多内記ニ―


―被仰付甲斐守実子は則可致養子 ●「日記」

慶安4年12月28日 従五位下・市正


中務大輔

承応2年10月9日 大和国郡山城内3万石

寛文11年12月23日 養父政勝の遺領を継ぐ。大和国郡山城12万石

延宝7年4月24日
本田正信 寛永15年 生。市之丞。藤十郎。泰玄
ほんだまさのぶ
清右衛門清続の男
寛政譜11・317
母は永井信濃守家臣石川次郎右衛門の女


妻は河野良以通宗の女

正保元年2月20日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

承応3年8月18日 大番

万治3年12月23日 父清続の遺跡を継ぐ。400石

延宝7年2月27日 金奉行

元禄2年閏1月3日 小普請。逼塞

元禄3年8月13日 赦免。なお拝謁をとどめられる

元禄4年4月24日 ゆるされる

元禄13年7月5日 致仕。泰玄と号す

元禄14年10月11日 死す
本多政信 寛永11年 生。七幡次郎。監物
ほんだまさのぶ
内記政勝の養子。甲斐守政朝の次男
寛政譜11・224 寛永16年3月3日 命により政勝の養子となる

寛永16年3月3日 本多甲斐守義旧冬令死去彼実子幼稚故遺跡十五万石本多内記ニ―


―被仰付甲斐守実子は則可致養子 ●「日記」

正保元年11月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

承応2年10月9日 大和国郡山城内1万石。帝鑑間に伺候

寛文元年12月28日 従五位下

寛文2年4月20日
本多政遂 慶長18年 生。主税助。大隅守
ほんだまさもろ
大隅守忠純の養子。松平加賀守家臣本多安房守政重の男
寛政譜11・297
室は忠純の女


忠純の養子となりその女を室とする

寛永7年 はじめて家光に拝謁

寛永9年8月26日 養父忠純の遺領を継ぐ。下野国榎本2万8000石

寛永9年8月26日 跡目 ●「日記」

寛永13年12月29日 従五位下・大隅守

寛永13年12月29日 本多大隅守諸大夫ニ被仰付之 ●「日記」

寛永13年12月29日 (大隅守の初出) ●「日記」

寛永15年7月29日

寛永15年8月2日 去月廿九日死去 ●「日記」
本多光直
生。伊右衛門。弥五右衛門。三休
ほんだみつなお
左大夫光重の次男
寛政譜11・311
父光重とおなじく徳川忠長に付属される

(寛永5年) 父光重の遺跡を継ぐ

(寛永9年) 処士

寛永10年 家光に仕える。月俸を賜る

寛永11年 大番

寛永15年 200石

承応元年5月19日 大番組頭

明暦2年12月23日 200石200俵

延宝元年2月21日 大番組頭を辞す。小普請

延宝2年12月3日 致仕。三休と号す

貞享3年3月2日 死す
本多光政
生。早三郎。左大夫
ほんだみつまさ
左大夫光重の長男
寛政譜11・309 慶長15年 秀忠に拝謁

元和元年 大番

寛永2年 300石

寛永10年2月7日 500石

慶安元年4月1日 大番組頭

承応元年12月22日 500石200俵

万治3年2月9日 目付

万治3年12月28日 布衣

寛文11年1月26日 先鉄炮頭

延宝6年 死す
本多民部

ほんだみんぶ


(寛永18年7月18日) (松平伊予守使者) ●「日記」



本多安明
生。猪之助。八左衛門。弥五右衛門
ほんだやすあき
弥五右衛門光直の男
寛政譜11・311 寛永17年3月9日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

慶安元年 大番

延宝2年12月3日 父光直の家を継ぐ。200石200俵

貞享2年10月11日 大番組頭

貞享4年12月10日 200石400俵

元禄2年6月16日 死す
本多康重長女
寛政譜11・281
豊後守康重の長女
寛政譜6・175
諏訪因幡守頼水に嫁ぐ

文禄4年 諏訪出雲守忠恒を産む

慶長2年 諏訪若狭守頼郷を産む

慶長8年 諏訪左門頼長を産む

寛永12年7月7日 帷子五進上之(祝言被仰付御礼?) ●「日記」


以下不詳
本多康長 元和3年 生。内膳。縫殿助。縫殿頭
ほんだやすなが
下総守俊次の長男
寛政譜11・242
母は立花飛騨守宗茂の養女立花家臣小田部新助統房の女


室は松平右近将監成重の女

寛永9年 はじめて秀忠に拝謁

寛永10年7月1日 縁辺 ●「日記」

寛永17年12月29日 従五位下・縫殿頭

寛永17年12月29日 諸大夫 ●「日記」

万治元年6月24日
本多康将 元和8年 生。兵部。兵部少輔。覚翁
ほんだやすまさ
下総守俊次の次男
寛政譜11・242
母は立花飛騨守宗茂の養女立花家臣小田部新助統房の女

寛永12年1月21日 はじめて家光に拝謁

寛永12年1月21日 本多下総守同子息兵部当地依参勤御目見 ●「日記」

万治2年12月15日 嫡子となる

万治2年12月28日 従五位下・兵部少輔

寛文4年9月12日 父俊次の家を継ぐ。近江国膳所城7万石

延宝7年6月18日 致仕。覚翁と号す

元禄4年1月7日
本堂茂親 天正13年 生。伊勢守
ほんどうしげちか
(和賀)伊勢守忠親の男
寛政譜2・390
出羽国本堂城に住す

慶長4年 はじめて家康に拝謁


(忠親の家を継ぐ。出羽国本堂城8980石)

慶長6年6月 常陸国志筑8500石

正保2年5月2日 死す
本徳寺
播磨国亀山。浄土真宗か
ほんとくじ
摂津国船場。浄土真宗か

(寛永11年7月25日) (本願寺一宗) ●「日記」



本間宮内卿

ほんまくないきょう
随心院門跡増孝の家臣






本間次良 寛永元年 生。忠兵衛。文五郎。忠兵衛
ほんまつぐよし
十左衛門次年の次男
寛政譜6・131
母は片山七右衛門の女


妻は山中市郎右衛門元吉の女

寛永19年3月1日 はじめて家光に拝謁

寛永19年6月26日 大番 ●「日記」共

(正保元年12月25日) (文五郎の初出) ●「日記」

正保元年12月25日 200俵 ●「日記」共

万治3年5月1日 大番を辞す。小普請

寛文2年6月5日 死す
本間説直 天正17年 生。太左衛門。十右衛門
ほんまときなお
十右衛門政季の三男
寛政譜6・126
妻は山田権右衛門正次の女


秀忠に仕える。大番。300俵

寛永10年2月7日 500石

寛永19年12月2日 弓矢奉行 ●「日記」共

明暦2年8月6日 死す
本間虎之介

ほんまとらのすけ


寛永13年12月27日 大御番被仰付之 ●「日記」



本間正則
生。伊右衛門。はじめ高見塚を称す
ほんままさのり
母は本間氏
寛政譜19・299 元和5年 台所人


千代姫霊仙院に付属される。台所頭

寛永19年4月6日 千代姫君様御台所頭被仰付之御知行弐百石被下之 ●「日記」


清泰院に付属される

寛永19年6月17日 大姫君様え被為付之本間猪右衛門是又知行御書出頂戴 ●「日記」

明暦2年 清泰院逝去ののち御家人となる

(明暦3年) 死す
本間義貞 元和9年 生。三之丞。七左衛門。五郎左衛門
ほんまよしさだ
五郎左衛門季重の長男
寛政譜6・122
母は中川市右衛門忠次の女


妻は宇佐美江右衛門の女

寛永11年 はじめて家光に拝謁

寛永15年1月15日 大番 ●「日記」共

万治3年3月1日 大番組頭

万治3年12月23日 父季重の遺跡を継ぐ。800石

延宝5年閏12月9日 千代姫霊仙院に付属される。1800石

延宝6年8月18日 死す
本間六大夫

ほんまろくだゆう 寛永9年8月19日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」



本明寺
江戸。本妙寺?
ほんみょうじ




本目源蔵

ほんめげんぞう


寛永20年12月7日 火之番衆七十俵五人扶持兵左衛門跡本目源蔵 ●「日記」



本目直信 慶長9年 生。権兵衛
ほんめなおのぶ
助左衛門正久の男
寛政譜18・326
妻は豊臣家臣真野主膳の女


秀忠に仕える。小十人。100俵


腰物持

寛永9年11月5日 鉄炮薬込役 ●「日記」共

寛永11年5月14日 200石100俵


新番

寛永18年2月25日 小十人頭 ●「日記」共

寛永18年3月5日 本目権兵衛中根次郎左衛門去比小十人組之番頭依被仰付之―


―田中市郎右衛門元組二郎左衛門落合小平次元組権兵衛―


―今日朽木民部少輔被引渡之 ●「日記」

寛永18年4月12日 改易 ●「日記」共

慶安元年6月3日 赦免

慶安3年 200俵。寄合

慶安4年11月4日 200石

寛文9年6月29日 死す
本目兵左衛門

ほんめひょうざえもん


(寛永20年) 死す

寛永20年12月7日 火之番衆七十俵五人扶持兵左衛門跡本目源蔵 ●「日記」
本目正義
生。権左衛門。権介
ほんめまさよし
祖父権十郎義正の養子。権十郎正重の次男
寛政譜1・251 寛永7年 はじめて家光に拝謁

寛永11年1月13日 養父義正の遺跡を継ぐ。200石

寛永15年1月15日 大番 ●「日記」共


以下不詳
本門寺
武蔵国池上。日蓮宗
ほんもんじ 天正9年 12世日惺
日蓮宗高僧伝172 慶長3年7月6日 日惺寂

慶長3年 13世日尊

慶長8年3月16日 日尊寂

慶長8年 14世日紹

元和3年4月19日 日紹寂

元和3年 15世日友

元和5年6月14日 日友寂

寛永7年 16世日遠

寛永8年 日遠隠棲


17世日東

寛永12年10月6日 池上日東一束一巻継目之御礼同日恩御目見 ●「日記」

慶安元年 18世日耀

明暦元年10月12日 日耀寂

明暦 19世日豊
本理院 慶長7年5月 生。満姫。孝子。御台所。中丸
ほんりいん
鷹司関白左大臣信房の四女
幕府祚胤伝 元和9年12月20日 江戸城西丸の家光のもとへ入輿
(徳川諸家系譜2・75) 寛永元年12月10日 本丸へ移徙。祝言
宮廷公家系図集覧245 寛永2年8月9日 婚礼。御台所と称す


中丸御殿に移る

慶安4年4月 夫家光薨去により落飾。本理院と号す

延宝2年6月8日 逝去
盆龍

ぼんりゅう


(寛永16年3月15日) (増上寺伴僧) ●「日記」



本蓮寺
長崎。日蓮宗
ほんれんじ


Sheet 7: ま行

蒔田左介

まいたさすけ







蒔田左介男





寛永16年7月23日 蒔田左介惣領子樽代を以初て御目見 ●「日記」



蒔田定則
生。八十郎。三左衛門。八郎左衛門
まいたさだのり
玄蕃頭定正の次男
寛政譜15・86
母は戸田土佐守尊次の次女


妻は川窪越前守信雄の女


また稲葉十左衛門通照の女を娶る

寛永18年11月22日 父定正の遺跡分知。1300石

寛永18年11月22日 蒔田玄蕃頭跡八千三百石余之内七千石惣領久太郎―


―千三百石余次男八十郎被下之 ●「日記」

寛永18年12月15日 はじめて家光に拝謁

寛永18年12月15日 蒔田久太郎同八十郎父遺跡被仰付御礼太刀目録進上之 ●「日記」

正保4年12月25日 小姓組

万治元年閏12月19日 小姓組。進物役

寛文3年11月25日 使役

寛文3年12月28日 布衣

天和2年4月22日 1800石

貞享元年8月21日 使役を辞す。寄合

元禄6年11月20日 死す
蒔田定正 天正19年 生。久太郎。玄蕃頭
まいたさだまさ
左衛門権佐広定の長男
寛政譜15・84
母は大嶋雲八光義の女


妻は戸田土佐守尊次の次女

~慶長19年 家康に仕える

寛永7年12月28日 従五位下・玄蕃頭。300俵


500石

寛永10年6月11日 使番 ●「日記」共

寛永11年5月14日 1300石

寛永11年5月14日 御加恩千石 ●「日記」

寛永13年 父広定の遺跡を継ぐ。8310石

寛永13年11月1日 蒔田玄蕃同数馬以太刀目録御礼申上是亡父権佐跡職依被仰付也 ●「日記」

寛永17年12月29日 死す
蒔田定行 元和6年 生。権太郎。久太郎。権佐
まいたさだゆき
玄蕃頭定正の長男
寛政譜15・84
母は戸田土佐守尊次の次女


妻は戸田因幡守忠能の養女紀伊家臣九鬼半右衛門の女


また三好新右衛門の女を娶る


また蒔田勘左衛門の女を娶る

寛永18年11月22日 父定正の遺跡を継ぐ。7000石。寄合

寛永18年11月22日 蒔田玄蕃頭跡八千三百石余之内七千石惣領久太郎―


―千三百石余次男八十郎被下之 ●「日記」

寛永18年12月15日 はじめて家光に拝謁

寛永18年12月15日 蒔田久太郎同八十郎父遺跡被仰付御礼太刀目録進上之 ●「日記」

寛文2年2月8日 定火消

寛文2年12月27日 布衣

延宝3年3月10日 持弓頭

延宝5年4月14日 百人組頭

天和2年4月21日 7700石

元禄2年12月29日 百人組頭を辞す

元禄3年1月14日 死す
蒔田長広 慶長6年 生。数馬助
まいたながひろ
左衛門権佐広定の三男
寛政譜15・87
母は石河土佐守勝政の女


妻は長谷川式部少輔守知の女


家康に仕える。書院番。500俵

寛永9年11月5日 書院番・進物役

寛永9年11月5日 本番御免。進物番 ●「日記」

寛永10年2月7日 700石

寛永13年 父広定の遺領分知。3700石

寛永13年11月1日 蒔田玄蕃同数馬以太刀目録御礼申上是亡父権佐跡職依被仰付也 ●「日記」

寛永19年11月29日 只今迠之御番被御免殿中相詰御使等之御用御奉公可仕 ●「日記」

寛永19年12月29日 書院番をゆるされる。使等を務める。布衣

寛永19年12月30日 布衣 ●「日記」

承応元年5月22日 死す
蒔田広定 元亀2年 生。左衛門権佐。従五位下
まいたひろさだ
相模守広光の次男
寛政譜15・83
母は木下備中守の女


室は大嶋雲八光義の女


継室は石河土佐守勝政の女


秀吉・秀頼に仕える。1万石

慶長5年 高野山に蟄居


家康に仕える。1万石

元和元年閏6月19日 秀忠に仕える

寛永13年8月23日
蒔田広正 元和7年 生。権左衛門
まいたひろまさ
数馬助長広の男
寛政譜15・88
母は長谷川式部少輔守知の女


妻は蒔田玄蕃頭定正の女

寛永19年6月20日 書院番 ●「日記」共

承応元年12月27日 父長広の遺跡を継ぐ。3700石


書院番を辞す。小普請

延宝8年9月22日 死す
蒔田義祗 慶長12年 生。源六郎。左兵衛
まいたよしまさ
左兵衛佐頼久の男
寛政譜2・245
妻は石野新蔵広継の女

慶長14年 父頼久の遺跡を継ぐ。1120石

慶長16年 はじめて家康に拝謁

明暦3年1月14日 死す
前田越前

まえだえちぜん (寛永12年6月14日) (松平安芸守家来) ●「日記」



前田数馬

まえだかずま


寛永13年5月8日 しやく(酌) ●「日記」



前田検校

まえだけんぎょう
平家琵琶奏者



前田玄蕃頭

まえだげんばのかみ (寛永9年7月24日) 蒔田玄蕃頭の誤りか?



前田定俊 慶長12年 生。善四郎。弥右衛門
まえださだとし
万五郎定勝の養子。榊原式部大輔家臣中村源兵衛重久の次男
寛政譜18・50
母は前田五右衛門定久の女


妻は坂口氏

慶長15年 養父定勝死去ののち叔父前田五左衛門定良のもとにあり

寛永3年閏4月28日 はじめて家光に拝謁


小十人。100俵

寛永9年8月25日 200俵

寛永20年8月8日 新番

寛永20年8月8日 於土圭之間御番相詰其上方々御成之刻御先え参御殿御番等可相勤之旨―


―被仰付之由伊豆豊後列座有之民部少輔伝之安西甚兵衛組 ●「日記」

正保3年9月26日 死す
前田定行
生。五郎右衛門
まえださだゆき
五左衛門定良の次男
寛政譜18・49
母は彦坂小刑部元成の女


家光に仕える。小十人。100俵

寛永9年8月25日 200俵

(寛永18年4月12日) (本目権兵衛組) ●「日記」

寛永18年4月12日 勘気を蒙る

寛永18年4月12日 被放御扶持 ●「日記」

寛永18年9月5日 赦免。小十人。200俵

寛永18年9月5日 御赦免仕来御役如前々可相勤 ●「日記」

慶安3年2月25日 納戸番

寛文元年11月28日 納戸番組頭

寛文元年12月12日 300俵

寛文11年6月29日 納戸番組頭を辞す。小普請

寛文12年 死す
前田定良 天正10年 生。孫五郎。五左衛門
まえださだよし
五右衛門定久の次男
寛政譜18・42
妻は彦坂小刑部元成の女

天正16年 はじめて家康に拝謁

天正18年 家康に仕える


大番。80俵

寛永2年12月11日 300石

(寛永9年7月2日) (五郎左衛門) ●「日記」

寛永9年7月2日 小普請奉行 ●「日記」共

(寛永9年10月7日) (五左衛門) ●「日記」

寛永9年10月7日 同心3人 ●「日記」共

(寛永10年6月9日) (破損奉行) ●「日記」


勘気を蒙る

寛永15年10月17日 ゆるされる ●「日記」共

寛永16年12月26日 300石

寛永16年12月26日 如前々御切米被下之 ●「日記」

(寛永18年12月29日) (小普請奉行) ●「日記」

正保4年9月26日 先鉄炮頭

正保4年12月30日 布衣

慶安4年11月21日 600石

明暦2年2月20日 死す
前田孝成
生。孫九郎。志摩。了心
まえだたかなり
内記直知の三男
諸士系譜14・16
母は牧村兵部大輔の女祖心尼


妻は堀田加賀守正盛の女


加賀前田家臣。1500石


町野長門守幸和の養子となり堀田加賀守正盛の女を娶る


加賀前田家臣。7000石

(寛永20年7月7日) (松平筑前守使者) ●「日記」

(正保2年) 前田光高死去ののち致仕剃髪。了心と号す


以下不詳
前田孝矩 寛永4年 生。亀次郎。帯刀。又兵衛。伊賀守。相模守。日向守
まえだたかのり
大和守利孝の次男
寛政譜17・293
母は本多縫殿助康俊の女

寛永17年10月15日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

承応3年12月27日 2000俵。寄合

寛文3年11月19日 小姓組

寛文9年7月8日 書院番組頭

寛文9年12月25日 布衣

天和2年4月21日 500石2000俵

天和3年閏5月9日 小姓組番頭

天和3年12月4日 従五位下・伊賀守

貞享2年1月22日 書院番頭

元禄3年7月2日 書院番頭を辞す

元禄6年1月7日 死す
前田綱紀 寛永20年 生。犬千代丸。加賀守。少将。中将。参議。肥前守
まえだつなのり
筑前守光高の長男
寛政譜17・277
母は家光の養女徳川頼房の四女清泰院


室は保科肥後守正之の女

寛永20年11月16日 今暁大姫君御方加賀少将内室平産男子御誕生 ●「日記」

正保元年2月12日 母に従いはじめて家光に拝謁

正保2年6月13日 父光高の遺領を継ぐ。加賀国金沢城80万石。祖父利常が後見

承応3年1月12日 家綱の御前にて元服。偏諱を賜る。正四位下。少将。加賀守

万治元年6月3日 縁組

万治元年11月28日 祖父利常の城地を賜る。加賀国金沢城102万石

万治元年閏12月27日 中将

元禄2年8月9日 五節句に白書院にて拝謁

元禄6年12月1日 参議

宝永4年12月28日 従三位

享保7年 能登国御料地1万4000石を預かる

享保8年5月9日 致仕

享保8年6月15日 肥前守

享保9年5月9日
前田恒知
生。権佐
まえだつねとも
内記直知の四男
諸士系譜14・16
妻は兄前田熊之助の女。のち離別

(寛永7年) (父直知の遺跡)分知。3200石。小松に奉仕

延宝7年9月10日 小松城番

貞享2年3月24日 死す
前田利孝 文禄3年 生。孫八郎。大和守
まえだとしたか
大納言利家の五男
寛政譜17・290
母は山田氏


室は本多縫殿助康俊の女

慶長9年 はじめて家康・秀忠に拝謁

慶長18年8月10日 従五位下・大和守

元和2年 上野国七日市1万石

寛永14年6月4日
前田利次 元和3年 生。千勝丸。淡路守。侍従。松平を称す
まえだとしつぐ
肥前守利常の次男
寛政譜17・284
母は秀忠の息女珠姫天徳院


室は鳥居左京亮忠政の女

元和8年7月3日 母が逝去

寛永8年12月27日 従四位下・侍従・淡路守。松平の称号を賜る

(寛永9年8月15日) (千勝丸) ●「日記」

寛永16年6月20日 父利常より分知。越中国百塚10万石

寛永16年6月20日 松平肥前守隠居仕度之旨累年依訴訟今日肥前守筑前守御前へ被召出之―


―心次第可有与奪之旨肥前守へ被仰出之則如望領知配分被仰付之所謂―


―八拾万石筑前守拾万石淡路守七万石飛騨守廿弐万石肥前守 ●「日記」

寛永17年2月25日 御目見太刀目録并呉服等進上之是去比縁辺依被仰付也 ●「日記」

万治3年 越中国富山城10万石

延宝2年7月7日
前田利常 文禄2年 生。猿千代。犬千代丸。筑前守。肥前守。侍従。少将。
まえだとしつね
参議。中納言。松平を称す
寛政譜17・274
兄肥前守利長の嗣。大納言利家の四男
前田家譜
母は上木新兵衛の女寿福院
(加賀藩史料編外・46)
室は秀忠の息女珠姫天徳院

慶長5年 縁組

慶長6年 兄利長の嗣となる

慶長6年9月30日 入輿あり

慶長10年5月 元服。松平の称号を賜る。従四位下・侍従・筑前守

慶長10年6月28日 兄利長の封を継ぐ。加賀国金沢城119万2700石

慶長19年9月9日 少将

元和元年閏6月19日 参議

元和8年7月3日 室が逝去

寛永3年8月19日 中納言・従三位

寛永6年4月23日 肥前守

寛永16年6月20日 致仕。加賀国小松22万石

寛永16年6月20日 松平肥前守隠居仕度之旨累年依訴訟今日肥前守筑前守御前へ被召出之―


―心次第可有与奪之旨肥前守へ被仰出之則如望領知配分被仰付之所謂―


―八拾万石筑前守拾万石淡路守七万石飛騨守廿弐万石肥前守 ●「日記」

(寛永17年1月21日) (小松中納言の初出) ●「日記」

万治元年10月12日
前田利治 元和4年 生。宮松丸。飛騨守。侍従。松平を称す
まえだとしはる
肥前守利常の三男
寛政譜17・287
母は秀忠の息女珠姫天徳院


室は上杉弾正少弼定勝の女

元和8年7月3日 母が逝去

(寛永8年) (すでに松平を名乗る) ●「日記」

寛永11年12月15日 松平の称号を賜る

(寛永12年1月1日) (飛騨守の初出) ●「日記」

寛永12年1月15日 従四位下・飛騨守

寛永12年1月15日 元服位階四品ニ被仰付ニ依て御礼 ●「日記」

寛永16年6月20日 加賀国大聖寺城7万石

寛永16年6月20日 松平肥前守隠居仕度之旨累年依訴訟今日肥前守筑前守御前へ被召出之―


―心次第可有与奪之旨肥前守へ被仰出之則如望領知配分被仰付之所謂―


―八拾万石筑前守拾万石淡路守七万石飛騨守廿弐万石肥前守 ●「日記」

正保3年12月30日 侍従

万治3年4月21日
前田利意 寛永2年 生。孫八郎。右近。右近大夫
まえだとしもと
大和守利孝の長男
寛政譜17・290
母は本多縫殿助康俊の女


室は松平加賀守戸田忠光の女

寛永9年3月28日 はじめて家光に拝謁

寛永14年9月8日 父利孝の遺領を継ぐ。上野国七日市1万石

寛永14年9月8日 遺跡被仰付前田大和守惣領右近 ●「日記」

寛永14年12月26日 去比亡父之遺跡雖被仰付御不例ニ付継目之御礼未申上依之―


―今日太刀目録并亡父之遺物献之各対謁老中て退去 ●「日記」

万治3年12月28日 従五位下・右近大夫

貞享2年4月28日
前田知辰 元和5年7月5日 生。内蔵允
まえだともとき
修理知好の次男
前田氏家譜
母は春慶院
(加賀藩史料3・434)
妻は竹屋中納言光長の女(前田利家四女樹正院の養女)
諸士系譜14・5
出生地の山城国鞍馬に住すか

寛永5年 父知好死去ののち加賀国金沢に移る

寛永8年7月25日 前田利常に仕える。2000石

寛永10年 縁組

寛永11年6月26日 3000石

寛永12年6月 婚姻

寛永18年 主君利常の小松隠居に従う

正保元年7月7日 4200石


加賀国小松城代

承応元年 家老職並

承応2年2月13日 5400石

明暦元年3月4日 死す
前田直勝 寛永7年 生。左太郎。半右衛門。安芸守。鉄舟
まえだなおかつ
左助正信の男
寛政譜17・332
母は花房志摩守正成の女


妻は宮城三左衛門和治の女


後妻は大奥侍女浅井氏の養女

寛永13年 はじめて家光に拝謁

正保元年12月25日 父正信の遺跡を継ぐ。1200石 ●「日記」共

慶安元年8月3日 書院番

寛文8年9月5日 使番

寛文8年12月28日 布衣

寛文11年2月5日 禁裏付。2200石

寛文11年6月9日 従五位下・安芸守

延宝元年2月12日 京都町奉行

元禄5年3月23日 大目付

元禄12年12月12日 大目付を辞す。寄合

元禄14年7月5日 致仕。300俵。鉄舟と号す

宝永2年11月28日 死す
前田直之
生。肥後。三左衛門
まえだなおゆき
能登守利政の男
諸士系譜14・2
室は小幡不入の女
寛政譜17・274
前田利常に仕える。1万石


人持組頭

万治2年3月 小松城代

延宝2年10月18日
前田正信 慶長9年 生。半十郎。半右衛門。左助
まえだまさのぶ
半右衛門正勝の長男
寛政譜17・332
母は水野四郎右衛門の女


妻は花房志摩守正成の女

慶長18年 はじめて家康に拝謁

(慶長18年) 父正勝の遺跡を継ぐ。1000石

元和6年 書院番

寛永10年2月7日 1200石


書院番を辞す。小普請

正保元年3月19日 死す
前田光高 元和元年 生。犬千代丸。筑前守。少将。松平を称す
まえだみつたか
肥前守利常の長男
寛政譜17・276
母は秀忠の息女珠姫天徳院


室は家光の養女大姫徳川頼房の息女清泰院

元和8年7月3日 母が逝去

寛永6年4月23日 家光の御前にて元服。偏諱を賜る。正四位下・少将・筑前守

寛永9年12月13日 縁組 ●「日記」共

寛永10年12月5日 入輿あり

寛永10年12月5日 姫君様松平筑前守へ御祝言 ●「日記」

寛永16年6月20日 父利常の封を継ぐ。加賀国金沢城80万石

寛永16年6月20日 松平肥前守隠居仕度之旨累年依訴訟今日肥前守筑前守御前へ被召出之―


―心次第可有与奪之旨肥前守へ被仰出之則如望領知配分被仰付之所謂―


―八拾万石筑前守拾万石淡路守七万石飛騨守廿弐万石肥前守 ●「日記」

正保2年4月5日
前野次大夫

まえのじだゆう
生駒壱岐守高俊に仕える

(寛永17年7月26日) (生駒壱岐守家老) ●「日記」

寛永17年7月26日 父子共切腹 ●「日記」



前場勝門
生。久三郎
まえばかつかど
久三郎勝政の男
寛政譜11・144 正保元年 父勝政の遺跡を継ぐ。260石

正保元年11月13日 はじめて家光に拝謁

正保元年11月13日 継目之御礼 ●「日記」

正保2年6月25日 書院番

明暦3年8月18日 260石30俵

元禄9年~ 書院番を辞す。小普請

正徳2年2月3日 死す
前場勝政
生。久三郎
まえばかつまさ
吉右衛門勝秀の長男
寛政譜11・144 ~慶長19年 家康に仕える

元和元年~ 秀忠に仕える。小姓組。260石

正保元年 死す
前場勝吉
生。清左衛門
まえばかつよし
吉右衛門勝秀の次男
寛政譜11・145 寛永9年 家光に仕える。小十人。100俵

寛永19年12月16日 200俵 ●「日記」共

明暦2年 死す
曲淵明信 寛永6年 生。清三郎。市大夫
まがりぶちあけのぶ
清蔵吉次の長男
寛政譜3・343 正保元年5月27日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保元年6月30日 大番

正保元年6月30日 清蔵子曲渕清二郎大御番被仰付之 ●「日記」清三郎の誤りか

正保3年12月22日 200俵

万治元年7月19日 新番

万治2年12月26日 250俵

延宝元年4月16日 新番組頭

延宝元年12月19日 450俵

天和2年4月22日 750俵

貞享元年2月26日 二条城番。300石750俵

元禄6年5月15日 船手

元禄6年12月18日 布衣

元禄9年7月21日 1050俵

元禄10年7月26日 1050石

元禄13年2月9日 船手を辞す。寄合

元禄13年8月10日 死す
曲淵助兵衛
生。勘兵衛。助兵衛
まがりぶちすけびょうえ
小十人。100俵
寛政譜22・361 寛永19年12月16日 200俵 ●「日記」共

寛文2年10月26日 納戸番

某年 死す
曲淵正次 慶長6年 生。彦助。勝左衛門
まがりぶちまさつぐ
勝左衛門正吉の次男
寛政譜3・337 元和2年 父正吉の家を継ぐ。230石

元和9年 徳川忠長に付属される

(寛永9年) 処士

寛永10年 召し返される。家光に仕える

寛永13年2月26日 死す
曲淵正長 寛永2年 生。彦助。勝左衛門
まがりぶちまさなが
勝左衛門正次の長男
寛政譜3・337
妻は南条太郎右衛門隆成の女

寛永20年8月30日 家光に仕える。230石

寛永20年8月30日 曲渕庄左衛門亡父跡式被下之 ●「日記」

正保2年8月5日 大番

寛文10年10月6日 腰物奉行

延宝元年9月1日 死す
曲淵吉明 慶長6年 生。市郎右衛門。助之丞
まがりぶちよしあきら
助丞吉重の次男
寛政譜3・341
母は青木尾張守信親の女


妻は加藤式部少輔家臣田村市右衛門の女

寛永17年 父吉重の遺跡を継ぐ。220石

(寛永20年8月30日) (芦田武川衆) ●「日記」

寛永20年8月30日 家綱に付属される。三丸に伺候 ●「日記」共

慶安3年9月4日 大番

承応3年12月15日 鉄炮玉薬奉行

寛文6年6月20日 鉄炮玉薬奉行を辞す

寛文8年12月14日 死す
曲淵吉次 慶長4年 生。清蔵
まがりぶちよしつぐ
助丞吉重の長男
寛政譜3・343
母は青木尾張守信親の女


秀忠に仕える。小十人


150俵

寛永8年4月10日 土圭間番 ●「日記」共

正保3年1月22日 具足奉行

寛文8年5月6日 死す
槙田清次郎

まきたせいじろう


寛永20年12月7日 火之番衆五十俵弐人扶持惣左衛門跡槙田清次郎 ●「日記」



槙田惣左衛門

まきたそうざえもん


(寛永20年) 死す

寛永20年12月7日 火之番衆五十俵弐人扶持惣左衛門跡槙田清次郎 ●「日記」
牧長重 文禄2年 生。又十郎。助右衛門
まきながしげ
助右衛門長勝の男
寛政譜10・81 慶長11年 秀忠に仕える。書院番


1500石(父長勝の家を継ぐか)

元和6年 小納戸

元和9年 家光の上洛に従う

寛永8年 布衣

寛永10年12月20日 中奥の番士

寛永10年12月20日 中奥御番 ●「日記」

慶安2年~ 務を辞す。小普請

万治2年9月27日 死す
牧野金弥

まきのきんや (寛永13年4月25日) (紀伊殿家来) ●「日記」






牧野定成 元和3年 生。播磨
まきのさだなり
駿河守忠成の四男
寛政譜6・274
妻は内藤権之助政次の女

寛永9年8月3日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永11年5月21日 父忠成より分知。越後国6000石。寄合

(寛永13年11月1日) (播磨守) ●「日記」

万治元年10月7日 死す
牧野成勝 元和2年 生。大吉。伊織。伝蔵
まきのしげかつ
伝蔵成純の養子。牧野将監成信の長男
寛政譜11・46
母は生駒氏


妻は清閑寺内大臣共房の女


後妻は綾小路宰相高有の女

寛永13年6月28日 はじめて家光に拝謁。書院番

寛永13年6月28日 牧野伝蔵猶子伊折今日被召出付て太刀目録を以御礼 ●「日記」

慶安3年9月3日 西丸に勤仕

(慶安4年) 本丸に勤仕

万治2年7月13日 養父成純の家を継ぐ。3000石

万治2年7月25日 徒頭

万治2年12月28日 布衣

元禄3年11月5日 死す
牧野成純 天正18年 生。五六。伝蔵。一斎
まきのしげずみ
伊予守成里の三男
寛政譜11・45
母は安孫子右京亮の養女

慶長8年 秀忠に仕える


家康の命により伝蔵に改める

慶長19年 父成里の遺跡を継ぐ。2000石

慶長19年 書院番

寛永9年8月18日 使番 ●「日記」共

寛永9年11月27日 布衣 ●「日記」

寛永10年11月27日 布衣

寛永10年12月26日 3000石

寛永10年12月26日 御加恩千石 ●「日記」

寛永15年 出仕をとどめられる

寛永15年7月22日 ゆるされるも、老職と争うことあり、病と称して出仕せず。―


―なお使番をゆるされず

寛永15年7月22日 可致出仕之旨於評定場老中伝仰之旨也 ●「日記」

万治2年7月13日 使番を辞す。致仕。300俵。一斎と号す

延宝6年12月19日 死す
牧野成常 慶長2年 生。六郎。織部。織部正。性謙
まきのしげつね
伊予守成里の四男
寛政譜11・48
母は安孫子右京亮の養女

慶長8年 はじめて家康に拝謁

慶長14年 秀忠に仕える

慶長19年 父成里の遺跡分知。1000石

慶長19年 書院番

元和元年~寛永2年 西丸小姓組

寛永3年~寛永9年 書院番

寛永10年12月19日 1200石

寛永10年12月19日 御加増被下之弐百石 ●「日記」

寛永14年11月26日 弥無油断江戸中可致夜廻 ●「日記」

(寛永15年1月24日) (織部正) ●「日記」

寛永15年11月11日 作事奉行 ●「日記」共

寛永18年12月29日 布衣 ●「日記」共

承応3年9月9日 従五位下・織部正

寛文3年11月6日 作事奉行を辞す。致仕。300俵。性謙と号す

寛文9年2月23日 死す
牧野成喬 寛永4年 生。数馬。伊織。数馬。摂津守。監物。摂斎
まきのしげつね
織部正成常の養子。牧野将監成信の次男
寛政譜11・48
母は堀田氏


妻は織部正成常の養女松平伊予守池田綱政の女

寛永17年2月25日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保元年6月16日 小姓組 ●「日記」共

寛文3年11月6日 養父成常の家を継ぐ。1200石

寛文12年6月11日 使役

延宝2年7月9日 禁裏付。2200石

延宝2年10月27日 従五位下・摂津守

天和元年6月19日 禁裏付をゆるされる。小普請

宝永5年8月6日 致仕。摂斎と号す

正徳2年12月25日 死す
牧野成信
生。二六。将監。風車軒
まきのしげのぶ
伊予守成里の長男
寛政譜11・45
池田三左衛門輝政に近侍

(寛永13年6月28日) (牧野伊折実父松平新太郎家来) ●「日記」


禅門に入って諸国を遊歴


老年におよび実子成勝の采地下野国梁田郡羽田村に閑居


以下不詳
牧野信濃守

まきのしなののかみ


(寛永16年1月17日) (御神前御簾) ●「日記」



牧野忠清 元和6年 生。(左近)。半右衛門。幽閑
まきのただきよ
兄播磨定成の養子。駿河守忠成の五男
寛政譜6・269
妻は大久保左馬允忠知の女
寛政譜6・274 (寛永16年10月18日) (牧野右馬允三番子左近以太刀目録并進物御目見) ●「日記」


家綱に付属される。小姓

慶安3年9月4日 西丸書院番


300俵

(慶安4年) 本丸に伺候

承応元年6月26日 書院番。進物役

明暦2年2月5日 書院番組頭

明暦2年12月23日 600俵

明暦2年12月26日 布衣

万治元年 兄定成の養子となる

万治元年閏12月18日 養父定成の遺跡を継ぐ。越後国蒲原郡6000石

寛文5年2月9日 務を辞す

天和2年5月29日 致仕。幽閑と号す

元禄6年2月5日 死す
牧野尹成 慶長17年 生。八大夫。土参
まきのただしげ
内匠頭信成の三男
寛政譜6・289
母は土岐山城守定政の女


妻は土岐山城守定義の女

寛永10年 家光に仕える。書院番


勘気を蒙る

寛永13年8月24日 赦免 ●「日記」共

慶安3年6月26日 父信成の遺跡分知。2000石


書院番を辞す。小普請

天和2年5月29日 致仕。土参と号す

貞享元年8月16日 死す
牧野忠成 天正9年 生。新次郎。駿河守。右馬允。駿河守
まきのただなり
右馬允康成の長男
寛政譜6・267
母は酒井左衛門督忠次の女


室は永原道真の女


家康に仕える


秀忠より偏諱を賜る

慶長9年 父康成の公事を継ぐ

慶長10年4月 従五位下・駿河守

慶長14年 父康成の遺領を継ぐ。上野国大胡2万石

慶長16年1月2日 謡初着座衆

元和2年7月 越後国長嶺城5万石

元和4年 越後国長岡城6万石

元和5年 右馬允

元和6年3月7日 越後国長岡城7万4000石

寛永11年7月16日 従四位下

寛永11年7月16日 四品 ●「日記」

寛永13年8月21日 松平山城守牧野右馬允縁辺被仰付御礼 ●「日記」

寛永17年2月20日 富士見御番

承応3年 駿河守

承応3年12月16日
牧野忠成長女
寛政譜6・268
牧野駿河守忠成の長女
寛政譜14・377
戸田采女正氏信に嫁ぐ

寛永4年 戸田肥後守氏西を産む

寛永11年 戸田摂津守氏春を産む

寛永12年10月15日 戸田采女内儀為在江戸従在所引越付て綿一台進上之 ●「日記」


女子を産む。早世か


女子を産む。のちの遠藤備前守常友の室

寛永16年 戸田内蔵允氏利を産む。戸田左門氏鉄の養子

寛永17年 戸田主税氏広を産む


戸田式部氏方を産む


女子を産む。のちの板倉隠岐守重常の室


以下不詳
牧野親成 慶長12年 生。半右衛門。佐渡守。侍従。哲山
まきのちかしげ
内匠頭信成の次男
寛政譜6・284
母は土岐山城守定政の女


室は酒井讃岐守忠勝の養女高木甚左衛門正綱の女


父信成の石戸の邸にて秀忠・家光に拝謁


家光に仕える。小姓

寛永9年12月6日 従五位下・佐渡守

寛永9年12月6日 諸大夫 ●「日記」

寛永10年1月17日 膳番

寛永10年1月17日 御奥にて被召仕。御膳番 ●「日記」

(寛永10年1月17日) (佐渡守の初見) ●「日記」

寛永10年8月9日 徒頭。1000石

寛永10年8月9日 御徒頭 ●「日記」

寛永19年3月19日 書院番頭。元の如く近侍

正保元年3月18日 5000石 ●「日記」共

正保4年11月26日 父信成の家を継ぐ。下総国関宿城1万7000石

承応2年9月18日 書院番頭をゆるされる。御側に伺候

承応3年11月28日 京都所司代を補佐。下総国関宿城2万7000石

明暦元年2月4日 侍従

明暦2年1月29日 従四位下

明暦2年 3万2600石

寛文8年5月16日 京都所司代を辞す

寛文8年5月23日 丹後国田辺城3万5000石

延宝元年9月29日 致仕。哲山と号す

延宝5年9月23日
牧野伝左衛門

まきのでんざえもん


(寛永17年12月11日) (紀伊亜相使者) ●「日記」



牧野富成 寛永5年 生。大吉。主殿。因幡守
まきのとみしげ
兄佐渡守親成の嗣。内匠頭信成の八男
寛政譜6・285
母は生駒図書満正の女
寛政譜6・286
室は京極修理大夫高三の女


継室は藤波二位徳忠の女

寛永18年10月3日 家綱に付属される。小姓

寛永18年10月3日 (名前のみの記載) ●「日記」


500俵

(正保元年1月3日) (主殿の初出) ●「日記」

正保2年4月21日 従五位下・因幡守

承応元年11月7日 1000俵

明暦元年1月19日 兄親成の嗣となる

明暦2年11月16日 表にて奉仕

延宝元年9月29日 兄親成の家を継ぐ。丹後国田辺城3万5000石

天和元年8月16日 奏者番

元禄6年8月6日
牧野虎之介

まきのとらのすけ


寛永15年1月15日 御書院番 ●「日記」



牧野直成 寛永10年 生。兵部。長門守
まきのなおしげ
内匠頭信成の九男
寛政譜6・293
母は生駒図書満正の女


妻は内藤伊勢守信光の女

寛永18年10月3日 家綱に付属される。小姓

寛永18年10月3日 (名前のみの記載) ●「日記」

慶安3年6月26日 父信成の遺領分知。1500石

慶安3年9月9日 膳番。西丸に勤仕

慶安4年8月16日 従五位下・長門守

慶安4年12月28日 本丸に勤仕

万治3年12月12日 2000石


膳番を辞す。寄合

元禄14年4月11日 死す
牧野永成 元和6年 生。太郎左衛門。内匠頭
まきのながしげ
内匠頭信成の六男
寛政譜6・291
母は土岐山城守定政の女


妻は酒井壱岐守忠重の女


家光に仕える

慶安元年5月25日 中奥に伺候

慶安3年6月26日 父信成の遺跡分知。1500石

慶安3年12月15日 書院番組頭

慶安4年8月16日 布衣

万治2年2月23日 小姓組番頭

万治2年12月23日 1500石1000俵

万治2年12月27日 従五位下・内匠頭

寛文2年8月17日 死す
牧野信成 天正6年 生。九右衛門。豊前守。内匠頭。哲心
まきののぶしげ
讃岐守康成の三男
寛政譜6・283
母は小笠原丹波守安次の女


室は土岐山城守定政の女


継室は生駒図書満正の女

文禄元年 江戸城造営奉行

慶長4年 父康成の遺跡を継ぐ。5000石

慶長5年~ 秀忠に仕える

慶長10年4月26日 従五位下・豊前守

慶長11年 大番頭

慶長15年 小姓組番頭。火の番

慶長19年 書院番頭

元和元年 大番頭

寛永3年10月 留守居


内匠頭

~寛永9年 7000石

寛永10年4月23日 1万1000石

寛永10年4月23日 4000石御加恩 ●「日記」

寛永14年 生誕の千代姫を仮に養う

寛永16年12月26日 諸役人御道具其外御賄方入用等直段近年高直之故下々至迠―


―猥之様被為聞召向後用倹約万事牧野内匠頭伊丹播磨入道順斎―


―杉浦内蔵允曽根源左衛門此四人得差図可申付 ●「日記」

寛永17年7月16日 御留守居衆預之与力歩行同心於御裏御門両所御番仕其上今度火事番―


―被仰付之然は方々ニて御番難勤仕之由連々訴之因玆与力五人―


―歩行同心弐十人宛松平大隅守牧野内匠頭酒井和泉守杉浦内蔵允へ―


―重て御預也以来頭被仰付義モ可有之間其迠ハ先右四人可相拘 ●「日記」

寛永18年8月9日 家綱の傅役

寛永18年8月9日 被為付之 ●「日記」

寛永20年7月 朝鮮信使の使者・奏者をつとめる

寛永20年7月15日 従四位下

寛永20年7月15日 若公様え朝鮮国王より之書翰并捧進物信使御礼之時酒井河内守―


―牧野内匠頭可叙四品之旨上意也 ●「日記」

正保元年3月18日 下総国関宿城1万7000石

正保元年3月18日 牧野内匠頭御前被為召下総国関宿城被仰付壱万千石御加増都合―


―弐万弐千石次牧野佐渡守被召出内匠頭旧領之内石戸領五千石被下之―


―四千石御加恩也 ●「日記」

正保4年11月26日 致仕。5000石。哲心と号す

慶安3年4月11日
牧野信成次女
寛政譜6・282
牧野内匠頭信成の次女
寛政譜10・365 寛永20年12月26日 縁辺 ●「日記」


阿部播磨守正能に嫁ぐ

慶安2年 阿部豊後守正武を産む

明暦元年 阿部志摩守正明を産む

万治元年 阿部遠江守正房を産む

寛文5年 阿部伯耆守正員を産む


女子を産む。のちの松平周防守松井康官の室


以下不詳
牧野儀成 慶長11年 生。帯刀。美濃守。越中守
まきののりなり
右馬允康成の三男
寛政譜6・276
母は酒井左衛門督忠次の女


妻は朝倉石見守在重の女

寛永4年9月 はじめて秀忠・家光に拝謁

寛永5年 西丸書院番

寛永9年 本丸に勤仕


采地を賜る

寛永11年 小姓組

寛永18年7月5日 小姓組組頭。500石

寛永18年7月5日 内田信濃守組頭 ●「日記」

寛永18年12月29日 布衣 ●「日記」共

正保元年12月16日 書院番頭

正保元年12月16日 御書院番頭大久保左馬允元組 ●「日記」

正保元年12月29日 従五位下・美濃守

正保元年12月29日 諸大夫 ●「日記」

慶安元年3月14日 綱吉に付属される。5000石。三丸に伺候


神田館にて家老

万治3年3月5日 死す
牧野兵左衛門

まきのひょうざえもん


(寛永17年9月18日) (御台所人) ●「日記」

寛永17年9月18日 神谷又五郎鈴木喜左衛門ニ御預 ●「日記」



牧野正景
生。三之助。清兵衛
まきのまさかげ
清兵衛正成の男
寛政譜11・51
妻は妻木吉左衛門頼久の女

慶長19年10月 はじめて家康に拝謁

元和2年 秀忠に仕える。書院番

寛永9年8月26日 父正成の遺跡を継ぐ。1610石

寛永9年8月26日 跡目 ●「日記」

寛永9年9月1日 (清兵衛) ●「日記」


書院番を辞す。小普請

明暦元年10月23日 死す
牧野正成
生。金助
まきのまさしげ 天正12年 家康に仕える
寛政譜20・429 天正18年 小人頭

(寛永10年2月21日) (鷹野に供奉) ●「日記」

(寛永12年8月23日) (御小人頭) ●「日記」

(寛永13年8月23日) (昨日初て御鷹野ニ当年初て被為成付て(銀子)被下之 ●「日記」

(慶安4年) (死す?)
牧野正照
生。助兵衛
まきのまさてる
助兵衛忠正の男
寛政譜11・52
妻は成瀬喜右衛門の女

~慶長19年 秀忠に仕える。500石

寛永2年~ 大番

寛永10年2月7日 700石

慶安3年 広敷番頭

慶安3年8月23日 西丸に勤仕

(慶安4年) 本丸に伺候

承応3年1月12日 死す
牧野正友 元和6年 生。佐十郎。助兵衛
まきのまさとも
助兵衛正照の男
寛政譜11・52
母は成瀬喜右衛門の女


妻は伊東刑部左衛門政勝の女

寛永9年8月19日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永13年12月27日 大番 ●「日記」共

承応3年12月27日 父正照の遺跡を継ぐ。700石

寛文元年6月22日 死す
牧野正成 元亀3年 生。清兵衛
まきのまさなり
佐治遠江守の男
寛政譜11・50
異父兄牧野伊予守成里に養育される

~文禄 長谷川藤五郎秀一に属す

文禄3年 家康に仕える。500石


1500石

慶長5年9月 関ケ原の役にて使番


関東諸国において鉄炮にて鳥をとることをうけたまわる

慶長7年10月2日 2110石

慶長19年 大坂の役にて鴫野口の寄手の進退を指揮

元和元年 大坂の役にて使をつとめる

元和2年 秀忠に仕える

元和3年 使番

元和5年1月11日 目付

元和9年7月 家光の参内に布衣を着て供奉

寛永3年~ 1610石

寛永8年12月8日 死す
牧野正重
生。隼人。権十郎。金助
まきのまさのぶ
金助正成の男
寛政譜20・429 (寛永18年12月29日) (御中間頭) ●「日記」

寛永20年12月18日 五十俵新規御切米被下之 ●「日記」

慶安4年12月11日 父正成の遺跡を継ぐ。小人頭。鳥見役

(元禄8年) 致仕

某年 死す
牧野光成 慶長19年 生。老之助。大和守
まきのみつなり
右馬允忠成の長男
寛政譜6・268
母は永原道真の女


室は本多下総守俊次の女

寛永4年12月25日 従五位下・大和守


家光より偏諱を賜る

(寛永10年2月11日) (去冬諸大夫ニ被仰付) ●「日記」

寛永14年6月22日
牧野康成 元和3年 生。内膳。内膳正
まきのやすなり
駿河守忠成の次男
寛政譜6・271
母は永原道真の女


室は松平周防守松井康重の五女

(寛永9年8月3日) (内膳) ●「日記」

寛永11年5月21日 父忠成より分知。1万石

(寛永12年8月6日) (内膳正の初出) ●「日記」

寛永12年8月6日 嫁娶被仰付之 ●「日記」

~寛永13年 従五位下・内膳正

明暦3年9月 越後国与板1万石

明暦3年12月30日
正木康長 天正18年 生。左馬允。左近
まさきやすなが
左近大夫頼忠の四男
寛政譜9・101
妻は木造左馬介の女


里見家に仕える

(慶長8年) 処士


家康により召し出される。秀忠に仕える。書院番。500俵

寛永10年2月7日 700石

寛文6年9月7日 死す
真三郎

まさぶろう


(正保元年6月25日) (琉球中山王使者馬上之従者楽人) ●「日記」



真境名

まじきな


(正保元年6月25日) (琉球中山王使者馬上之従者赤はちまき) ●「日記」



間嶋摂津守

まじませっつのかみ



堀尾山城守忠晴に仕える

寛永10年 処士

正保元年8月24日 堀尾山城守死去以後令浪人城州八幡ニ在住依之京極丹後守領分ニ―


―可差置之 ●「日記」



増井正利
生。一郎左衛門
ますいまさとし
家光に仕える。植木奉行
寛政譜22・386 (正保元年7月4日) (植木奉行) ●「日記」

(寛文2年) 死す
益田采女

ますだうねめ (寛永11年5月15日) (松平長門守家中証人) ●「日記」






増田太左衛門
生。伝十郎。太左衛門
ますだたざえもん
太兵衛の男
寛政譜22・416 寛永20年12月7日 父太兵衛の遺跡を継ぐ

寛永20年12月7日 火之番衆七十俵五人扶持太兵衛跡増田伝十郎 ●「日記」


火番


提燈奉行


広敷添番

(天和3年) 致仕


以下不詳
増田太兵衛
生。太兵衛
ますだたひょうえ
寛政譜22・416
火番

寛永18年4月14日 火之番御役被仰付之御歩行より新規ニ出之 ●「日記」

(寛永20年) 死す
益田主殿

ますだとのも
毛利伊勢守高直に仕える

(寛永16年8月10日) (毛利市三郎家老) ●「日記」



増田理左衛門
士林泝洄3・55治兵衛豊信か
ますだりざえもん


(正保元年10月22日) (尾張大納言殿使者) ●「日記」



舛屋道勺
桝屋か
ますやどうしゃく







町左近

まちさこん
青蓮院門跡坊官

(寛永14年10月1日) (青蓮院御門跡坊官) ●「日記」



町野三休
長門幸和か?
まちのさんきゅう


(寛永19年7月8日) (町野三休預石坂善太郎切腹金左衛門子) ●「日記」



町野幸和
生。長門
まちのゆきかず
左近繁仍の長男
寛政譜18・209 ~天正18年 蒲生氏郷に仕える

(天正19年) 父繁仍と同じく陸奥国井縄代城に住す


陸奥国二本松城に住す


蒲生飛騨守秀行に仕える


下野国真岡城に住す


陸奥国白川城に住す


松平下野守蒲生忠郷に仕える

寛永4年 主君忠郷死去断絶により流落。江戸に住す

寛永9年5月22日 家光に仕える ●「日記」共

寛永11年6月16日 鉄炮頭。同心50人

寛永11年6月16日 御鉄炮同心五十人 ●「日記」

寛永11年6月17日 5000石 ●「日記」共

寛永11年12月28日 布衣

寛永15年10月13日 与力10騎

正保4年 死す
町野幸長
生。左近。助左衛門。壱岐守。幸宣
まちのよしなが
長門幸和の養子。斎藤佐渡守利宗の三男
寛政譜18・210
母は加藤肥後守清正家臣松下飛騨意綱の女


妻は長門幸和の女

寛永17年10月26日 斎藤佐渡守二番目子町野長門養子ニ仕度之由内々申上之処―


―心次第可仕之旨被仰出之 ●「日記」

寛永17年11月5日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共


番をつとめる

寛永20年6月9日 進物役

寛永20年6月9日 進物御番 ●「日記」

正保4年8月21日 養父幸和の遺跡を継ぐ。5000石

承応2年閏6月10日 番を辞す。寄合

万治元年9月8日 定火消

万治元年閏12月28日 布衣

寛文元年7月29日 書院番頭

寛文元年12月28日 従五位下・壱岐守

延宝6年4月1日 書院番頭を辞す

天和3年12月21日 致仕。幸宣と号す

元禄14年9月25日 死す
松井喜左衛門
生。小三治。喜左衛門
まついきざえもん
秀忠の代に7歳にて家光の御伽となる
能楽史話404
3人扶持


新規200俵

寛永12年12月1日 狂言者松井喜左衛門一倍之御加増 ●「日記」

寛永19年2月9日 家綱の山王参詣に供奉

承応元年7月1日 病死
松井宗卿
生。頼母。与兵衛。市正
まついむねあき
七大夫の次男
士林泝洄3・132
徳川義直に仕える。小姓

慶安4年10月22日 腰物番頭。400石

万治元年9月3日 用人。800石

寛文5年10月12日 同心頭。同心10騎。1500石

延宝4年6月10日 同心頭を辞す。大寄合。1000石

貞享2年6月1日 致仕


以下不詳
松井宗重 慶長8年 生。助大夫
まついむねしげ
助大夫宗次の男
寛政譜10・70
母は大井石見守政成の女


妻は大井民部少輔政吉の女

慶長13年 父宗次の遺跡を継ぐ。200石

元和8年9月18日 徳川忠長に付属される。大番

(寛永9年) 処士


家光に仕える。廩米を賜る

寛永17年8月23日 宝蔵番

寛永18年11月15日 200石

寛永18年11月15日 芦田武川衆十八人駿州ニて之本知并御切米如前々被下之 ●「日記」

寛永20年8月26日 家綱に付属される。三丸番

寛永20年8月30日 若公様え被為附之三丸御殿御番被仰付之 ●「日記」

寛永20年12月18日 200俵

寛永20年12月18日 知行悪所ニ付御切米ニ替被下之 ●「日記」

慶安3年9月4日 大番。西丸に勤仕

寛文元年11月28日 広敷番頭

寛文元年12月12日 400俵

延宝3年8月13日 広敷番頭を辞す。小普請

元禄13年7月9日 死す
松井宗利 天正18年 生。虎之助。掃部。与兵衛
まついむねとし
与兵衛宗直の三男
寛政譜10・68
母は大森彦十郎泰頼の女


妻は依田小隼人守直の女


秀忠に仕える

元和2年 父宗直の遺跡を継ぐ。450石


納戸組頭


450石200俵

(寛永9年6月19日) (松平と記載) ●「日記」

寛永12年4月20日 死す
松井康朗
生。伝十郎。左近。松平を称す
まついやすあきら
左近大夫康政の男
寛政譜6・329
母は酒井讃岐守忠勝の女


妻は池田帯刀長賢の女

寛永17年8月23日 祖父周防守康重の遺領分知。5000石

寛永17年8月23日 松平周防守遺跡六万石之内五万石は惣領淡路守五千石は孫伝十郎―


―三千石は二男主馬助弐千石は三男隼人ニ被下置之 ●「日記」

寛永17年9月11日 播磨国5000石。寄合

(寛永17年9月13日) (左近の初出) ●「日記」

寛永17年9月13日 関東ニテ五千石被下之 ●「日記」

慶安2年9月17日 死す
松井康重 永禄11年 生。次郎。左近丞。周防守。松平を称す
まついやすしげ
周防守康親の長男
寛政譜6・324
母は松平次郎右衛門重吉の女


室は石川長門守康通の女


継室は徳永石見守寿昌の女

天正8年 はじめて家康に拝謁

天正11年3月16日 偏諱を賜る

天正11年6月 父康親の遺領を継ぐ。駿河国三枚橋城主

天正18年8月 武蔵国寄西2万石

文禄4年3月20日 従五位下。(周防守)

慶長6年2月 常陸国笠間城3万石

慶長13年 丹波国篠山城5万石

元和5年 和泉国岸和田城5万石

寛永8年3月4日 和泉国岸和田城6万石

寛永11年7月16日 従四位下

寛永11年7月16日 四品 ●「日記」

寛永17年6月27日
松井康重五女
寛政譜6・326
松平周防守松井康重の五女
寛政譜6・272 寛永12年8月6日 松平周防守娘牧野内膳正嫁娶被仰付之 ●「日記」


牧野内膳正康成に嫁ぐ

慶安3年~ 女子を産む。のちの牧野飛騨守忠成の室―


―離婚ののち六郷佐渡守政信の室


以下不詳
松井康重六女
寛政譜6・326
松平周防守松井康重の六女

寛永10年7月1日 松平佐渡守大河内利綱と縁組 ●「日記」


以下不詳
松井康映 元和元年 生。松千代丸。淡路守。周防守。松平を称す
まついやすてる
周防守康重の次男
寛政譜6・325
養母は徳永石見守寿昌の女


室は岡部美濃守宣勝の長女

寛永10年 嫡子となる

(寛永10年1月12日) (松平淡路守周防代) ●「日記」

(寛永10年1月12日) (御前え罷出御礼申上云々) ●「日記」

寛永10年7月25日 はじめて家光に拝謁

寛永10年7月25日 松平周防守二男淡路守惣領依被仰付以太刀目録御目見 ●「日記」

寛永10年12月28日 従五位下・淡路守

寛永12年8月6日 嫁娶被仰付之 ●「日記」

寛永13年1月15日 松平淡路守岡部美濃守祝言之御礼申上 ●「日記」

寛永17年8月23日 父康重の遺領を継ぐ。和泉国岸和田城5万400石

寛永17年8月23日 松平周防守遺跡六万石之内五万石は惣領淡路守五千石は孫伝十郎―


―三千石は二男主馬助弐千石は三男隼人ニ被下置之 ●「日記」

寛永17年9月11日 播磨国山崎5万400石

寛永17年9月11日 播州山崎え以本知之高被遣之 ●「日記」


周防守

(寛永17年9月13日) (周防守の初出) ●「日記」

寛永17年9月13日 松平周防守為継目播州シソニテ五万石岸和田所替被仰付之御礼 ●「日記」

慶安2年8月12日 石見国浜田城5万400石

延宝2年12月30日
松井康命
生。千代松。主馬助。松平を称す
まついやすなが
松平周防守松井康重の三男
寛政譜6・330
妻は堀田加賀守正盛の養女

寛永10年7月18日 松平周防守末子兄弟御礼 ●「日記」

寛永17年8月23日 父康重の遺領分知。3000石

寛永17年8月23日 松平周防守遺跡六万石之内五万石は惣領淡路守五千石は孫伝十郎―


―三千石は二男主馬助弐千石は三男隼人ニ被下置之 ●「日記」

寛永20年12月26日 御番被仰付之 ●「日記」

正保元年6月16日 書院番 ●「日記」共

慶安2年9月12日 死す
松井康紀 元和5年 生。福松。隼人。伊織。松平を称す
まついやすのり
松平周防守松井康重の四男
寛政譜6・332
妻は建部丹波守政長の女


後妻は小笠原左京大夫家臣宮崎宮内の女

寛永10年7月18日 松平周防守末子兄弟御礼 ●「日記」

寛永17年8月23日 父康重の遺領分知。2000石。小普請

寛永17年8月23日 松平周防守遺跡六万石之内五万石は惣領淡路守五千石は孫伝十郎―


―三千石は二男主馬助弐千石は三男隼人ニ被下置之 ●「日記」

延宝8年12月25日 致仕

天和3年6月29日 死す
松井康政 慶長9年 生。左近。左近大夫。松平を称す
まついやすまさ
周防守康重の長男
寛政譜6・325
母は徳永石見守寿昌の女


室は酒井讃岐守忠勝の女

元和4年12月27日 従五位下・左近大夫

寛永7(8)年10月17日
松井幸宗 元和5年 生。小兵衛
まついゆきむね
与兵衛宗利の次男
寛政譜10・69
母は依田小隼人守直の女

寛永9年6月19日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

(寛永9年6月19日) (松平と記載) ●「日記」

寛永12年 父宗利の遺跡を継ぐ。450石200俵


小姓組

寛永20年8月9日 死す
松浦外記

まつうらげき
松浦肥前守鎮信に仕える

(寛永17年3月15日) (松浦肥前守証人) ●「日記」



松浦監物

まつうらけんもつ
松浦肥前守鎮信に仕える

(寛永17年3月15日) (松浦肥前守僕従) ●「日記」



松浦三郎助

まつうらさぶろうすけ
改易もしくは死去か

寛永12年1月11日 飯高七兵衛ニ松浦三郎助屋敷被下之 ●「日記」



松浦鎮信 元和8年 生。源三郎。肥前守。鎮信
まつうらしげのぶ
壱岐守隆信の長男
寛政譜8・91
母は牧野右馬允康成の女


室は藤井松平山城守忠国の次女

寛永6年 はじめて家光に拝謁

寛永12年8月6日 松平山城守娘松平伊賀守子嫁娶被仰付之 ●「日記」


―(松浦壱岐守子の誤りの可能性あり)

寛永12年12月30日 従五位下・肥前守

(寛永13年1月15日) (肥前守の初出) ●「日記」

寛永13年1月15日 諸大夫被仰付御礼申上 ●「日記」

寛永14年9月8日 父隆信の遺領を継ぐ。壱岐国・肥前国平戸城6万3200石

寛永14年9月8日 遺跡被仰付松浦壱岐守跡惣領肥前守 ●「日記」

寛永14年12月26日 去比亡父之遺跡雖被仰付御不例ニ付継目之御礼未申上依之―


―今日太刀目録并亡父之遺物献之各対謁老中て退去 ●「日記」

寛文4年5月23日 一族松浦猪右衛門信貞に分知。壱岐国・肥前国平戸城6万1700石

貞享2年9月30日 詰衆に列す。雁間に伺候

元禄2年3月2日 奥に伺候

元禄2年4月18日 務を辞す

元禄2年7月3日 致仕。鎮信と号す

元禄16年10月6日
松浦隆信 天正19年 生。肥前守。壱岐守
まつうらたかのぶ
肥前守久信の長男
寛政譜8・90
母は大村民部大輔純忠の女


室は牧野右馬允康成の女

(慶長7年) 父久信の遺領を継ぐ。壱岐国・肥前国平戸城6万3200石

慶長8年 はじめて家康に拝謁

慶長17年9月 従五位下・肥前守

(寛永12年8月6日) (壱岐守か。松平伊賀守と誤記の可能性あり) ●「日記」

(寛永12年12月30日) (壱岐守)

(寛永13年2月29日) (壱岐守の初出) ●「日記」

寛永14年5月24日
松浦信貞 慶長14年 生。左近。八左衛門。猪右衛門。道秀
まつうらのぶさだ
丹後守信正の男
寛政譜8・98
母は松浦肥前守久信の女


妻は大村丹後守家臣大村式部の女

寛永10年8月8日 はじめて家光に拝謁

寛永10年8月8日 太刀目録にて御礼 ●「日記」

寛永12年 小姓組

寛永15年 300俵

(寛永20年6月9日) (八左衛門の初出) ●「日記」

寛永20年6月9日 小姓組・進物役

寛永20年6月9日 杉浦八左衛門進物御番被仰付之 ●「日記」

寛文4年5月23日 一族松浦肥前守鎮信より分知。1500石

寛文6年6月13日 勘定頭。3000石

寛文6年12月28日 布衣

延宝元年7月30日 勘定頭を辞す。寄合

天和2年12月18日 致仕。300俵。道秀と号す

元禄7年8月22日 死す
松浦信辰 慶長2年 生。半左衛門。主殿
まつうらのぶとき
肥前守久信の三男
寛政譜8・96
母は大村民部大輔純忠の女


妻は大村丹後守家臣大村右京幸成の女

寛永10年8月8日 はじめて家光に拝謁

寛永10年8月8日 太刀目録にて御礼 ●「日記」

寛永12年 小姓組。300俵

寛永15年9月2日 死す
松浦信生 元和6年 生。左内。松雲
まつうらのぶなり
主殿信辰の男
寛政譜8・96 寛永12年9月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永12年12月 書院番

寛永19年 書院番を辞す。小普請

寛文10年10月14日 致仕。松雲と号す


宗家松浦肥前守鎮信の所領肥前国平戸に閑居

貞享4年3月16日 死す
松尾一学

まつおいちがく
七左衛門の男
徳川実紀2・674
柳川豊前守調興の郎等か

寛永12年3月12日 斬罪 ●「日記」
松尾七左衛門

まつおしちざえもん
柳川豊前守調興の郎等
徳川実紀2・674 寛永12年3月12日 斬罪 ●「日記」



松風助右衛門
寛政譜15・1正成と寛政譜15・2正忠、兄弟ともに権右衛門を称し、
まつかぜすけえもん
弟正成は正保3年、兄正忠は寛永20年10月5日61歳で死すという。


助右衛門は正成か? 十左衛門ののち助右衛門、また権右衛門と改めるか。

寛永20年12月10日 御幕奉行 ●「日記」



松風正勝 元和元年 生。伝三郎
まつかぜまさかつ
権右衛門正忠の男
寛政譜15・2
妻は中嶋氏


家光に仕える。大番

正保元年7月10日 死す
松風正成
生。十左衛門。権右衛門
まつかぜまさなり
助兵衛正広の次男
寛政譜15・1 寛永13年11月24日 父正広の遺跡を継ぐ。300石

寛永13年11月24日 松風助兵衛三百石子十左衛門跡目被仰付之 ●「日記」

寛永13年12月21日 はじめて家光に拝謁

寛永13年12月21日 跡目之面々(御目見) ●「日記」


金奉行。350石

正保3年 死す
松風正広 天文23年 生。助兵衛
まつかぜまさひろ
六郎兵衛正孝の男
寛政譜15・1
家康に仕える


金奉行


300石 ●「日記」寛永13年11月24日条

寛永13年8月22日 死す
松風正吉 寛永20年 生。権十郎。理左衛門
まつかぜまさよし
伝三郎正勝の男
寛政譜15・2
母は中嶋氏

正保元年12月25日 父正勝の遺跡を継ぐ。300石。小普請

正保元年12月25日 跡目被仰付三百五十石松風伝三郎惣領権十郎 ●「日記」

万治元年2月15日 大番


350俵

寛文9年~ 大番を辞す

延宝8年5月8日 死す
松かね

まつかね


(正保元年6月25日) (琉球中山王使者馬上之従者楽人) ●「日記」



松木浄成
生。五郎兵衛。市左衛門
まつききよなり
七左衛門成次の三男
寛政譜16・250
秀忠に仕える。代官。200俵

寛永18年6月22日 死す
松木左門

まつきさもん
嶋津但馬守久雄に仕える

(寛永16年8月10日) (嶋津万千代家老) ●「日記」



真継久忠 元和2年 生。兵部大丞。伊予守。御蔵小舎人
まつぎひさただ
従六位下親賢の嗣。河越重忠の男
地下家伝上・368 寛永7年1月5日 正六位上
宮廷公家系図集覧605 寛永7年1月11日 兵部大丞

(寛永12年5月20日) (兵部少) ●「日記」

(寛永17年5月9日) (御蔵兵部丞) ●「日記」

明暦元年12月15日 従五位下

寛文3年1月12日 従五位上

寛文6年12月17日 伊予守

延宝6年7月6日
真継美濃
真継伊予守久忠か?
まつぎみの (寛永11年7月21日) (地下) ●「日記」

寛永11年7月21日 初て御礼 ●「日記」



松倉勝家 慶長2年 生。長門守
まつくらかついえ
豊後守重政の長男
寛政譜17・237
室は片山与安の女

寛永8年 父重政の遺領を継ぐ。肥前国島原城4万石

寛永8年4月11日 父重政の遺領を継ぐ ●「日記」

寛永15年4月12日 所領を没収され召し預けられる

寛永15年4月12日 森内記ニ御預ケ ●「日記」

寛永15年7月19日 死刑

寛永15年7月19日 松倉長門儀自去年九州嶋原徒党令蜂起剰常々無作法共数多―


―依有之御穿鑿之上松倉長門死罪被仰付之 ●「日記」
松倉三弥
生。三弥
まつくらさんや
豊後守重政の三男
寛政譜17・237 寛永11年8月2日 松倉長門守弟始て御目見 ●「日記」 兄重利か不明

寛永15年4月12日 兄勝家に連座。松平長門守毛利秀就に召し預けられる

寛永15年4月12日 松平長門守ニ御預ケ ●「日記」

寛永15年7月19日 内藤帯刀忠興に召し預けられる ●「日記」共


以下不詳
松倉重利
生。右近
まつくらしげとし
豊後守重政の次男
寛政譜17・237 寛永11年8月2日 松倉長門守弟始て御目見 ●「日記」 弟三弥か不明

寛永15年4月12日 兄勝家に連座。生駒壱岐守高俊に召し預けられる

寛永15年4月12日 生駒壱岐守御預ケ ●「日記」

寛永15年7月19日 保科肥後守正之に召し預けられる ●「日記」共


以下不詳
松倉重政
生。九十郎。豊後守
まつくらしげまさ
右近大夫重信の長男
寛政譜17・236
母は秦楽寺因幡守の女


室は筒井主殿助正次の女


筒井伊賀守定次に仕える。伊賀国梁瀬城8000石

慶長13年7月 主家が改易される。大和国二見五条1万石

元和2年 肥前国日野江城4万石


肥前国島原城4万石

寛永7年11月16日
松崎勘右衛門
生。市十郎。市丞。勘右衛門
まつざきかんえもん
権左衛門吉次の長男
寛政譜14・424
妻は渡辺孫三郎富次の女

正保元年5月27日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

(正保元年6月16日) (市丞の初出) ●「日記」

正保元年6月16日 書院番 ●「日記」共

寛文3年9月20日 死す
松崎宣陸 元和3年12月1日 生。中務少輔
まつざきのぶたか
中御門大納言尚良の三男
諸家伝下・1110 元和6年1月5日 従五位下
宮廷公家系図集覧429 寛永6年1月8日 元服。従五位上。中務少輔

(寛永11年7月21日) (院中) ●「日記」

寛永13年11月28日
松崎吉次
生。権左衛門
まつざきよしつぐ
三郎重勝の三男
寛政譜14・424
妻は桑嶋助左衛門親義の女


徳川忠長に仕える

寛永9年 召し預けられる

寛永13年9月18日 家光に仕える。500石

寛永13年9月18日 被召出 ●「日記」

寛永15年12月23日 小姓組 ●「日記」共

万治元年6月3日 三浦三崎の船手

万治元年閏12月28日 布衣

寛文3年11月6日 三浦三崎の船手を辞す。寄合

延宝3年12月25日 死す
松崎吉久 天正7年 生。善右衛門
まつざきよしひさ
権七郎忠吉の男
寛政譜14・421
妻は甲賀氏

天正7年5月4日 父忠吉の遺跡を継ぐ。家康に仕える


小松崎と呼ばれる

天正12年 秀忠に仕える。小姓


徳川忠長に付属される。納戸番の頭

(寛永9年) 処士か

寛永13年12月10日 家光に仕える。500石

寛永13年12月10日 御赦免 ●「日記」

寛永20年12月2日 川船奉行 ●「日記」共

万治元年4月2日 川船奉行を辞す

寛文2年3月24日 死す
松下貞綱 慶長10年 生。主馬
まつしたさだつな
常慶安綱の養子
寛政譜7・127
妻は長田十大夫重政の女

元和4年 家光に仕える


小姓組。300俵

寛永10年2月7日 500石


小姓組を辞す


書院番

万治元年4月17日 蟄居。宥免あり。書院番

万治2年7月25日 死す
松下重氏 慶長10年 生。清九郎
まつしたしげうじ
清九郎重政の男
寛政譜7・136
母は松平庄右衛門昌利の女


妻は桑島万機親義の女

元和7年 はじめて秀忠に拝謁

元和8年 大番。250石

寛永10年2月7日 450石

正保2年9月9日 亀松の抱守

慶安元年9月8日 亀松逝去により大番


大番を辞す。小普請

寛文11年9月20日 死す
松下重綱 (慶長3年) 生。甚太郎。与兵衛
まつしたしげつな
常慶入道安綱の長男
寛政譜7・125
母は落合蔵人の女


妻は坂部三郎兵衛広勝の女


秀忠に仕える。小姓

元和9年6月 徒頭

(寛永元年) 父安綱の遺跡を継ぐ。740石


病により供奉せず

寛永10年2月2日 大番組頭 ●「日記」共

寛永10年2月23日 加増あり

寛永17年9月10日 死す
松下清兵衛

まつしたせいびょうえ
美濃部権兵衛と喧嘩

寛永13年6月5日 権兵衛依為同類是亦寺ニて打捨可仕之旨被仰出 ●「日記」



松下為定 天正17年 生。十左衛門
まつしたためさだ
都筑弥左衛門為政の三男
寛政譜13・174
母は本多作左衛門重次の女


妻は川口長三郎正武の女

元和6年8月14日 家光に仕える。小姓組。300俵


書院番

寛永10年2月7日 500石

寛永19年9月29日 死す
松下豊綱 寛永17年 生。左助
まつしたとよつな
石見守長綱の長男
寛政譜7・123
母は松平土佐守山内忠義の長女

正保元年5月9日 松平土佐守山内忠義に召し預けられる。3000俵

正保元年5月9日 昨朝阿部豊後守宅え松平土佐守招之松下石見守并妻子共被召預之間―


―土州え引越可差置石見守嫡男成人仕候上御前え可被召出之―


―仍御扶持米毎年三千俵宛被下之 ●「日記」

明暦3年5月18日 死す
松下直綱 元和9年 生。甚三郎。源左衛門。与兵衛
まつしたなおつな
与兵衛重綱の養子。沖孫三郎昌俊の次男
寛政譜7・125
母は坂部三郎兵衛広勝の女


妻は布施孫兵衛重直の女

寛永13年9月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

(寛永13年9月28日) (松下与兵衛子甚三郎) ●「日記」

(寛永17年12月10日) (源三郎) ●「日記」

寛永17年12月10日 養父重綱の遺跡を継ぐ。740石。小普請

寛永17年12月10日 松下与兵衛跡目実子惣領松下源三郎被仰付之―


―先年御加増之分ハ被召上之 ●「日記」

寛永18年4月16日 書院番 ●「日記」共

天和元年5月2日 死す
松下長綱 慶長15年 生。左助。石見守
まつしたながつな
石見守重綱の男
寛政譜7・122
母は加藤左馬助嘉明の女


室は松平土佐守山内忠義の長女

寛永5年1月 父重綱の遺領を継ぐ。転封。陸奥国三春城3万石

(寛永12年6月30日) (石見守) ●「日記」

(寛永12年7月14日) (左介) ●「日記」

寛永13年12月29日 従五位下・石見守

寛永13年12月29日 諸大夫被仰付 ●「日記」

正保元年4月10日 改易。松平土佐守山内忠義に預けられる

正保元年4月10日 去七日ヨリ気違候付て三春之城差上度之由舅松平土佐守言上―


―則達高聞之処望之通被仰付之由於松平伊豆守宅土佐守加藤内蔵助―


―加藤弥三郎朝倉石見守招寄之井伊掃部頭酒井讃岐守堀田加賀守―


―松平伊豆守阿部豊後守伝仰之趣 ●「日記」

正保元年5月9日 昨朝阿部豊後守宅え松平土佐守招之松下石見守并妻子共被召預之間―


―土州え引越可差置石見守嫡男成人仕候上御前え可被召出之―


―仍御扶持米毎年三千俵宛被下之 ●「日記」

万治元年9月10日 死す
松下長綱娘
寛政譜7・123
松下石見守長綱の女
寛政譜10・320 正保元年5月9日 昨朝阿部豊後守宅え松平土佐守招之松下石見守并妻子共被召預之間―


―土州え引越可差置石見守嫡男成人仕候上御前え可被召出之―


―仍御扶持米毎年三千俵宛被下之 ●「日記」


宮城越前守和澄に嫁ぐ

寛文元年 宮城三左衛門和堅を産む


娘三人を産むか


以下不詳
松下長光 正保元年 生。松千代。加兵衛
まつしたながみつ
石見守長綱の次男
寛政譜7・123
母は松平土佐守山内忠義の長女


妻は古田兵九郎重次の女

正保元年5月9日 兄豊綱とともに山内忠義に召し預けられる

正保元年5月9日 昨朝阿部豊後守宅え松平土佐守招之松下石見守并妻子共被召預之間―


―土州え引越可差置石見守嫡男成人仕候上御前え可被召出之―


―仍御扶持米毎年三千俵宛被下之 ●「日記」

明暦3年~ 兄豊綱の廩米を賜る。3000俵

万治元年9月21日 はじめて家綱に拝謁。寄合

元禄10年5月12日 死す
松下八大夫

まつしたはちだゆう


(寛永19年12月10日) (御代官) ●「日記」

寛永19年12月10日 弐百俵 ●「日記」

正保元年1月14日 台徳院殿御遠忌御法事中御賄 ●「日記」



松下房利 慶長11年 生。彦兵衛。伊賀守。豊前守。豊休
まつしたふさとし
常慶安綱の四男
寛政譜7・128
母は落合蔵人の女


妻は松下助右衛門長晴の女


また大久保四郎左衛門忠重の女を娶る

寛永6年 家光に仕える


小姓組


200俵

寛永10年2月7日 400石

寛永16年4月15日 中奥の番士

寛永16年4月15日 中奥之御番 ●「日記」

承応2年10月22日 二丸留守居

万治3年4月13日 本院後水尾天皇付。900石

万治3年10月16日 従五位下・伊賀守

延宝元年7月30日 務を辞す。寄合

延宝3年12月14日 致仕。300俵。豊休と号す

延宝4年8月22日 死す
松下以久
生。非蔵人。美濃守。上北面。上賀茂神主。貴船社祝
まつしたもちひさ
上賀茂神主宮内卿元久の長男
地下家伝中・861 慶長11年 非蔵人
古代豪族系図集覧167 (寛永11年7月21日) (美濃守) ●「日記」

寛永13年3月8日 従五位下。美濃守。上北面

承応2年8月28日
松下之勝 天正2年 生。善市郎
まつしたゆきかつ
孫十郎伊長の次男
寛政譜7・135
妻は岡部主水の女


家康に仕える

慶長10年2月 500石

(寛永15年9月16日) (今度御法事ニ付て増上寺相詰) ●「日記」

正保元年8月11日 死す
松下之綱 元和8年 生。善大夫
まつしたゆきつな
善市郎之勝の男
寛政譜7・135
母は岡部主水の女


妻は渡辺豊前守綱治の女

寛永10年 家光に拝謁

寛永15年1月15日 大番 ●「日記」共

正保元年12月25日 父之勝の遺跡を継ぐ。500石

正保元年12月25日 跡目被仰付五百石松下善一郎惣領善大夫ニ被下之善大夫自分之御切米―


―来年より被召上之 ●「日記」

万治3年2月23日 大番組頭

寛文元年12月12日 500石200俵

天和2年5月21日 500石400俵

貞享4年1月29日 大番組頭を辞す。小普請

貞享4年2月16日 死す
松下之則
生。半六郎
まつしたゆきのり
清九郎重氏の長男
寛政譜7・136
母は桑島万機親義の女


妻は平野清左衛門長利の女

寛永17年3月9日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保元年 大番

万治元年7月19日 新番

寛文11年12月12日 父重氏の遺跡を継ぐ。450石


新番を辞す

延宝6年 新番

貞享元年3月29日 新番組頭

貞享2年12月23日 450石200俵

元禄2年2月27日 死す
形原松平家信 永禄8年 生。紀太郎。又七。紀伊守
まつだいらいえのぶ
紀伊守家忠の男
寛政譜1・128
母は酒井雅楽頭正親の女
かたのはら
室は松平上野介康忠の女


継室は太田備中守輝資の女

天正10年7月 甲斐・信濃攻めにて父家忠とともに酒井忠次に属す

天正18年 上総国五井5000石

慶長6年 三河国形原5000石

慶長15年1月26日 従五位下・紀伊守

元和元年 これよりしばらく病により男康信を代わりとして形原に閑居

元和4年9月 留守居。三河国形原1万石

元和5年9月 摂津国高槻城2万石

寛永11年7月16日 従四位下

寛永11年7月16日 四品 ●「日記」

寛永12年2月29日 下総国佐倉城4万石 ●「日記」共

寛永13年8月29日 西之丸被下酒井雅楽頭上ヶ屋敷拝領之 ●「日記」

寛永15年1月14日
形原松平氏信 慶長18年 生。大学。修理。修理亮。内蔵允。左馬允。伯耆守。民部少輔。意休
まつだいらうじのぶ
紀伊守家信の四男
寛政譜1・134
妻は久貝忠左衛門正世の女
かたのはら 寛永2年11月 はじめて家光に拝謁

寛永7年10月 中奥に伺候

寛永8年 500俵

寛永8年12月 膳番

寛永8年12月29日 従五位下・修理亮

(寛永10年8月1日) (内蔵丞) ●「日記」宮石松平正成か

寛永11年~ 書院番

(寛永13年5月8日) (修理) ●「日記」氏信か不明

寛永15年5月16日 父家信の遺領分知。2000石

寛永15年5月16日 松平紀伊守遺跡息若狭守被仰付之然て彼領知四万石之内ニて―


―弐千石宛弟修理亮新九郎ニ被頒下之 ●「日記」

寛永15年6月1日 (継目之御礼)御目見 ●「日記」

寛永20年6月9日 書院番・進物役

寛永20年6月9日 進物御番 ●「日記」

慶安元年3月30日 書院番組頭

慶安3年9月3日 家綱に付属される。西丸小姓組番頭

慶安4年11月21日 2000石1000俵

慶安4年12月28日 本丸に勤仕

明暦2年11月5日 書院番頭

寛文元年11月11日 大番頭

寛文2年2月8日 御側

寛文4年6月19日 6000石

延宝2年12月16日 御側を辞す

延宝5年4月25日 致仕。意休と号す

天和3年6月16日 死す
松平右馬助
生。治部。右馬助
まつだいらうまのすけ
治部康高の長男
諸士系譜14・26
妻は岡島備中守一元の女

(寛永6年) 父康高の遺跡を継ぐか。4000石。加賀前田家に仕える

明暦2年 死す
松平大隅守娘



松平大隅守嶋津家久の娘か


能見松平大隅守重則の娘か?

寛永10年7月1日 酒井石見守忠定と縁組 ●「日記」



松平勘解由
寛政譜1・154勘解由左衛門康定もしくはその子か?
まつだいらかげゆ
松平主殿頭忠房の家臣か?

(寛永10年1月1日) (諸大夫直臣か) ●「日記」



大給松平一重
生。武兵衛。源右衛門
まつだいらかずしげ
右近将監成重の三男
寛政譜1・89
母は安藤対馬守重信の女
おぎゅう 寛永12年8月 はじめて家光に拝謁

寛永18年4月16日 小姓組 ●「日記」共

寛永20年12月18日 300俵 ●「日記」共

万治元年3月 小姓組を辞す。小普請

元禄13年8月10日 死す
能見松平勝隆 天正17年 生。忠左衛門。市正。出雲守。覚雲
まつだいらかつたか
大隅守重勝の五男
寛政譜1・199
母は鳥居伊賀守忠吉の女
のみ
室は九鬼長門守守隆の女


母方の鳥居元忠・忠政のもとに住む

慶長15年 はじめて家康に拝謁

慶長18年 家康に仕える。500石

慶長18年7月21日 大番頭

元和2年 秀忠に仕える。大番頭

元和3年 3500石

元和3年12月 従五位下・出雲守

元和6年12月 6500石

寛永10年4月23日 1万500石

寛永10年4月23日 4000石御加恩 ●「日記」

寛永10年11月9日 奏者番・大番頭

寛永12年11月9日 奏者番・寺社奉行

寛永12年11月9日 諸国寺社方訴訟之儀承届可致言上 ●「日記」

寛永16年1月28日 上総国佐貫城1万5000石 ●「日記」共

(寛永17年6月26日) (御申次) ●「日記」

寛永19年閏9月29日 安藤右京進太田備中守松平出雲守水野備後守御座之間へ被召出―


―何ニても存寄之義於有之は老中相談之上可致言上下ニて―


―不可相斗之旨被仰付之云々 ●「日記」

万治2年3月21日 奏者番・寺社奉行を辞す。雁間に伺候

寛文2年9月30日 致仕。覚雲と号す

寛文6年2月3日
長沢松平勝直 慶長13年 生。新平
まつだいらかつなお
庄右衛門清直の次男
寛政譜1・213
母は松平忠輝家臣原田権左衛門の女
ながさわ 元和9年 秀忠に仕える。書院番。廩米を賜る


300俵

寛永10年2月7日 500石

寛永16年7月12日 徒頭

寛永16年7月12日 神尾宮内本組御歩行頭 ●「日記」

寛永18年1月6日 布衣 ●「日記」共

慶安4年11月21日 500石300俵

承応2年10月8日 先鉄炮頭

寛文2年2月8日 駿府定番。1800石

寛文3年7月25日 死す
大給松平勝広 元和2年 生。市正
まつだいらかつひろ
右近将監成重の長男
寛政譜1・82
母は安藤対馬守重信の女
おぎゅう 寛永8年12月27日



能見松平勝広 慶長19年 生。伝五郎。忠左衛門。美濃守
まつだいらかつひろ
出雲守勝隆の養子。松平淡路守重長の長男
寛政譜1・201
母は毛利伊勢守高政の女
のみ
室は今川刑部大輔直房の女

寛永9年 勝隆の養子となる

寛永9年7月11日 はじめて家光に拝謁

寛永9年12月6日 従五位下・美濃守

寛永9年12月6日 諸大夫 ●「日記」

(寛永11年7月18日) (美濃守の初出) ●「日記」

寛永12年6月 多病により嫡を辞す

(寛永18年3月8日) (松平出雲守嫡子) ●「日記」

寛文12年12月23日
松平勝政 天正元年 生。藤八郎。源三郎。豊前守
まつだいらかつまさ
源三郎勝俊の名跡を継ぐ。水野藤次郎忠分の五男
寛政譜1・285
妻は勝俊の女

天正14年 婚姻。勝俊の遺跡を継ぐ

文禄元年2月 1500石

慶長6年 婚儀あり

慶長7年10月 2500石

慶長8年3月 従五位下・豊前守

元和2年8月 5000石

元和5年8月 大番頭

寛永10年2月9日 駿府城番。与力10騎同心50人。8000石

寛永10年2月9日 与力同心の給地2000石

寛永10年2月9日 駿府定番。徒同心50人。3000石加増 ●「日記」

寛永10年2月14日 駿府之御城御番 ●「日記」

(寛永11年6月26日) (駿府御定番) ●「日記」

寛永12年6月10日 死す
松平勝義 慶長7年 生。源三郎。因幡守。豊前守
まつだいらかつよし
豊前守勝政の男
寛政譜1・285
妻は安藤彦四郎重能の女

寛永9年12月6日 従五位下・因幡守

寛永9年12月6日 諸大夫 ●「日記」

(寛永10年2月3日) (因幡守の初出) ●「日記」

寛永12年11月9日 父勝政の遺跡を継ぐ。下総国多古8000石。寄合

寛永12年11月9日 亡父豊前守跡職被仰付知行所於当地替被下之 ●「日記」

(寛永17年1月1日) (豊前守の初出) ●「日記」

承応2年9月27日 大番頭

寛文10年11月17日 死す
竹谷松平清雄
生。民部
まつだいらきよお
玄蕃頭清昌の長男
寛政譜1・120 (寛永15年12月19日) (松平民部少参勤付太刀目録并進物品々を以御目見) ●「日記」
たけのや
病により嗣たらず


以下不詳
竹谷松平清直 寛永3年 生。帯刀
まつだいらきよなお
玄蕃頭清昌の三男
寛政譜1・120
妻は大久保右京亮教隆の女
たけのや
後妻は黒田筑前守家臣能勢長右衛門頼資の女

寛永17年12月11日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

明暦元年7月13日 父清昌の遺跡を継ぐ。三河国西郡4500石

延宝5年11月17日 死す
長沢松平清直 天正12年 生。小聖。出羽守。庄右衛門
まつだいらきよなお
庄右衛門近清の長男
寛政譜1・213
母は酒井雅楽頭正親の女
ながさわ
妻は松平上総介忠輝家臣原田権左衛門の女


長沢松平源七郎康直に仕える

(文禄2年) 松平松千代に仕える。家老。(出羽守?)


松平上総介忠輝に仕える。家老

慶長14年 改易


ゆるされる。松平上総介忠輝に仕える

元和3年4月 忠輝改易により流浪。庄右衛門に改める

元和4年7月 家光に仕える。三河国形原5000石

寛永11年 出雲隠岐両国の士民を鎮撫。

慶安4年6月7日 死す
竹谷松平清信 慶長9年 生。内記。与兵衛
まつだいらきよのぶ
内記清定の男
寛政譜1・122
母は松平紀伊守家信の養女松平上野介康忠の女
たけのや (慶長10年) 父清定死去ののち伯父家清・従兄弟忠清・清昌に属す。700石

寛永12年 はじめて家光に拝謁

寛永12年 小姓組。300俵


小姓組を辞す。小普請

寛文11年11月23日 死す
竹谷松平清昌 文禄2年 生。庄次郎。玄蕃頭
まつだいらきよまさ
玄蕃頭家清の次男
寛政譜1・120
母は鵜殿彦八郎光正の女
たけのや 慶長17年11月 三河国西郡5000石。隔年帰国

元和3年7月19日 従五位下・玄蕃頭

寛永13年6月26日 吉良在番被仰付 ●「日記」

明暦元年3月18日 死す
松平清道 寛永11年 生。八郎左衛門
まつだいらきよみち
下総守忠明の次男
寛政譜1・272
母は三好氏。嫡母(小出播磨守吉政の女)の養いとなる

正保元年5月18日 父忠明の遺領分知。播磨国3万石 ●「日記」共

正保元年6月1日 はじめて家光に拝謁

正保元年6月1日 亡父下総守相続被仰付御礼 ●「日記」

正保元年12月26日
竹谷松平清行 元和8年 生。主膳。次郎兵衛
まつだいらきよゆき
与兵衛清信の長男
寛政譜1・122
妻は松平玄蕃頭清昌の女
たけのや 寛永18年6月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永19年6月20日 小姓組 ●「日記」共

(正保元年12月25日) (次郎兵衛の初出) ●「日記」

正保元年12月25日 300俵 ●「日記」共

慶安元年5月25日 中奥の番士

慶安4年6月13日 小納戸

承応元年11月13日 500俵

万治3年12月1日 700俵

万治3年12月28日 布衣

寛文7年12月26日 900俵

寛文10年5月15日 死す
五井松平伊燿 慶長9年 生。主水。備中守。外記
まつだいらこれてる
外記忠実の長男
寛政譜1・147
母は松平主殿助家忠の女
ごい
妻は柴田筑後守康長の女

寛永9年12月6日 従五位下・備中守

寛永9年12月6日 諸大夫 ●「日記」

(寛永11年7月18日) (備中守の初出) ●「日記」

承応元年8月 死去した父忠実の代わりに臨時で大番頭をつとめる

承応元年12月27日 父忠実の遺跡を継ぐ。5500石

承応2年10月27日 大番頭

寛文8年8月7日 大番頭を辞す

寛文9年2月25日 致仕。2000俵

延宝2年11月22日 死す
松平斎
二郎右衛門か。二郎助か
まつだいらさい
書院番か

寛永13年5月8日 梅園少将の給仕役



松平定勝五女
寛政譜1・293
松平隠岐守定勝の五女
寛政譜10・351
母は奥平久兵衛貞友の女

寛永10年7月3日 阿部対馬守重次と縁組 ●「日記」

寛永12年 阿部備中守定高を産む


女子を産む。のちの松平隠岐守定行の養女。松平遠江守忠倶の妻

寛永14年 阿部伊予守正春を産む


女子を産む。のちの松平対馬守近陣の室



松平定綱 文禄元年 生。亀松。三郎四郎。越中守
まつだいらさだつな
隠岐守定勝の三男
寛政譜1・299
母は奥平久兵衛貞友の女


室は浅野弾正少弼長政の女


荒川次郎九郎の養子となる

慶長4年 命により養父次郎九郎の遺跡を継がず

慶長7年10月 はじめて家康に拝謁

慶長7年11月 秀忠に仕える

慶長9年1月 5000石

慶長10年4月16日 従五位下・越中守

慶長10年12月 家康の命により婚姻

慶長14年8月 下総国山川1万5000石

(慶長19年) 書院番頭

元和2年 常陸国下妻3万石

元和4年 遠江国掛川城3万石

元和9年 山城国淀城3万5000石

寛永10年3月23日 美濃国大垣城6万石

寛永10年3月23日 濃州大垣城。2万5000石加増 ●「日記」

寛永11年7月16日 従四位下

寛永11年7月16日 四品 ●「日記」

寛永12年7月28日 伊勢国桑名城11万石 ●「日記」共

慶安4年12月25日
松平定綱長女
寛政譜1・301
松平越中守定綱の長女
寛政譜2・8 寛永20年12月28日 縁辺 ●「日記」


酒井雅楽頭忠清に嫁ぐ

正保元年3月3日 酒井河内守松平越中守進物并太刀目録献之御礼是去頃越中守娘―


―河内守へ縁辺被仰付嫁婚依相済也 ●「日記」


女子を産む。のちの藤堂和泉守高久の室

慶安元年 酒井雅楽頭忠挙を産む


男子を生む。早世か


松平定経 寛永7年 生。万吉。主膳。肥前守
まつだいらさだつね
美作守定房の長男
寛政譜1・311
母は内藤左馬助政長の女


室は松平越中守定綱の女

正保元年5月11日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

万治2年12月28日 従五位下・肥前守

寛文10年5月11日
松平定時 寛永12年 生。長松。蔵人。靫負。靫負佐。玄蕃頭。美作守
まつだいらさだとき
美作守定房の次男
寛政譜1・311
母は内藤左馬助政長の女

正保元年5月11日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛文10年8月28日 嫡子となる

寛文10年12月28日 従五位下・靫負佐

寛文11年 玄蕃頭に改める

延宝2年6月28日 父定房の家を継ぐ。伊予国今治城4万石

延宝2年12月 美作守に改める

延宝4年8月19日
松平貞則
生。友之助。助左衛門
まつだいらさだのり
助左衛門秀勝の四男
士林泝洄2・12 ~慶長19年 徳川義直に仕える。小姓


小姓頭

~寛永6年 父秀勝の家を継ぐ。4000石。同心頭

寛永17年12月26日 改易


以下不詳
松平定房 慶長9年 生。千徳。肥前守。美作守。侍従。安心軒
まつだいらさだふさ
隠岐守定勝の五男
寛政譜1・311
母は奥平久兵衛貞友の女


室は内藤左馬助政長の女

慶長16年 はじめて家康に拝謁

慶長19年 秀忠に拝謁

元和2年 江戸に参る

元和7年12月18日 従五位下・肥前守


美作守

寛永2年 伊勢国長嶋城7000石

寛永12年7月28日 伊予国今治城3万石 ●「日記」共

寛永20年9月27日 火消 ●「日記」

正保元年5月4日 火消之役人之内就交替御暇被下面々依有之今日改被仰付之三番 ●「日記」

寛文5年6月18日 大留守居。伊予国今治城4万石

寛文5年12月27日 従四位下

寛文9年11月1日 侍従

延宝2年5月8日 大留守居を辞す

延宝2年6月28日 致仕。安心軒と号す

延宝4年6月28日
松平定政 慶長15年 生。吉五郎。能登守。不白
まつだいらさだまさ
隠岐守定勝の六男
寛政譜1・315
母は奥平久兵衛貞友の女


妻は永井信濃守尚政の五女

元和6年 はじめて秀忠に拝謁

寛永3年 江戸に伺候

寛永10年2月1日 家光に仕える

(寛永10年7月2日) (隠岐守弟松平能登守) ●「日記」

寛永10年7月2日 縁辺組 ●「日記」

寛永10年7月26日 小姓

寛永10年7月26日 向後之儀御前近可被召使 ●「日記」

寛永10年12月 従五位下・能登守

寛永11年2月8日 5000石

寛永11年2月8日 新恩高五千石 ●「日記」

寛永11年6月16日 小姓組組頭

寛永11年6月16日 池田帯刀跡 ●「日記」

寛永12年7月28日 伊勢国長嶋城7000石 ●「日記」共

寛永13年11月1日 近習

寛永15年12月28日 永井信濃守と松平能登守縁辺依被仰付御礼 ●「日記」

慶安2年2月28日 三河国刈屋城2万石

慶安4年7月9日 東叡山にて髪をおろす。能登入道不白と号す。所領を返上

慶安4年7月18日 兄隠岐守定行に召し預けられる。伊予国松山に蟄居


2000俵

寛文12年11月24日 死す
松平定行 天正15年 生。千松。刑部。河内守。隠岐守。侍従。松山。勝山
まつだいらさだゆき
隠岐守定勝の次男
寛政譜1・292
母は奥平久兵衛貞友の女


室は松平大隅守嶋津家久の養女嶋津家臣嶋津豊後朝久の女


継室は松平大隅守嶋津家久の養女嶋津家臣伊集院源次郎忠真の女

慶長6年10月 はじめて家康に拝謁

慶長7年 家康に近侍

慶長7年5月1日 従五位下・河内守

慶長7年10月2日 2000石

慶長12年閏4月29日 遠江国掛川城3万石

元和3年 伊勢国桑名城

寛永元年6月5日 父定勝の遺領を継ぐ。伊勢国桑名城11万石

寛永3年8月19日 従四位下・隠岐守

寛永11年7月16日 侍従 ●「日記」共

寛永12年7月28日 伊予国松山城15万石 ●「日記」共

寛永20年 御料地1万8900石を預かる

正保元年1月18日 長崎南蛮船来航時に指揮役

慶安4年6月13日 黒書院溜間に伺候

万治元年2月28日 致仕。松山と号す

寛文8年10月19日
松平定行長女
寛政譜1・294
松平隠岐守定行の長女
寛政譜2・23
母は松平大隅守嶋津家久の養女嶋津家臣嶋津豊後朝久の女

寛永12年8月6日 松平隠岐守娘酒井備後嫁娶被仰付之 ●「日記」


酒井備後守忠朝に嫁ぐ


酒井鍋を産む。早世


酒井隼人を産む。早世


酒井与十郎を産む。早世


女子を産む。のちの松平隠岐守定頼の養女―


―松平若狭守直明の室鏡智院


松平左内定安を産む。松平主計頭定盛の養子―


―のち松平隠岐守定直の養弟


以下不詳
松平定良 寛永9年 生。亀松。三郎四郎。摂津守
まつだいらさだよし
越中守定綱の次男
寛政譜1・301
母は浅井氏

寛永18年8月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保3年12月30日 従五位下・摂津守

承応元年2月23日 父定綱の遺領を継ぐ。伊勢国桑名城11万石。帝鑑間に伺候

明暦3年7月18日
松平定頼 慶長12年 生。千松。刑部。河内守。隠岐守
まつだいらさだより
隠岐守定行の男
寛政譜1・293
母は嶋津大隅守家久の養女嶋津家臣嶋津豊後朝久の女


室は京極丹後守高広の女

元和3年6月 はじめて秀忠に拝謁

寛永3年8月19日 従五位下・河内守

寛永8年5月24日 縁組あり ●「日記」

万治元年2月28日 父定行の家を継ぐ。伊予国松山城15万石

万治元年4月28日 長崎南蛮船来航時に指揮役

万治2年12月27日 従四位下

寛文元年12月25日 隠岐守

寛文2年1月22日
大給松平真次 天正5年 生。三郎次郎。左近。縫殿助
まつだいらさねつぐ
左近真乗の次男
寛政譜1・76
母は戸田弾正の女
おぎゅう 慶長2年4月 武蔵上野両国の賊徒を鎮圧

慶長19年 秀忠に仕える。大坂の役に従う

元和元年 大坂の役に従う

元和元年 徒頭。1000石。従五位下

寛永4年 大番頭。三河国加茂郡大給3000石

寛永10年9月12日 知行於三州本領ニ被替下書出拝領 ●「日記」

寛永12年12月14日 三河国加茂郡大給7000石

寛永12年12月14日 四千石御加恩 ●「日記」

寛永20年12月 大番頭を辞す

正保3年9月14日 死す
大給松平真次孫
肥前守乗真の子か




寛永15年8月1日 松平縫殿助子并孫以太刀目録初て御目見 ●「日記」



深溝松平重次 慶長13年 生。七十郎。孫大夫。隼人正。白峯
まつだいらしげつぐ
市大夫忠次の長男
寛政譜1・174
母は安藤次右衛門正次の養女巨海彦八郎忠正の女
ふこうず
妻は揖斐与右衛門政景の養女都築与右衛門の女

元和5年11月 父忠次の遺跡を継ぐ。900石

元和8年6月 大番

寛永9年2月 大番組頭

寛永11年 1200石

寛永19年10月26日 目付 ●「日記」共

寛永19年12月30日 布衣 ●「日記」共

慶安元年2月16日 大坂町奉行。2500石

慶安元年12月30日 従五位下・隼人正

寛文3年4月11日 大坂町奉行を辞す。寄合

寛文9年7月19日 致仕。白峯と号す

寛文11年6月2日 死す
能見松平重直 慶長6年 生。千松丸。長松。孫次郎。長門。丹後守
まつだいらしげなお
丹後守重忠の養子。小笠原兵部大輔秀政の四男
寛政譜1・193
母は岡崎三郎松平信康の息女福姫峰高寺
のみ
室は丹後守重忠の女

寛永3年 養父重忠の遺領を継ぐ。摂津国三田3万石。従五位下・丹後守

寛永9年10月11日 豊前国の内3万7000石 ●「日記」

寛永9年11月11日 豊前国竜王3万7000石

寛永16年 豊前国高田城3万7000石

寛永19年11月28日
能見松平重長 寛永5年 生。修理。図書
まつだいらしげなが
丹後守重直の次男
寛政譜1・196
母は能見松平丹後守重忠の次女


妻は伊奈半十郎忠治の女

寛永20年3月26日 父重直の遺領分知。豊前国3000石

寛永20年3月26日 松平丹後守遺跡三万七千石之内三万弐千石嫡子市正三千石二男修理―


―弐千石三男宮内 ●「日記」

寛永20年4月1日 はじめて家光に拝謁

寛永20年4月1日 亡父遺跡相続被仰付御礼申上之 ●「日記」

正保2年8月8日 豊後国国東郡3000石

慶安3年9月3日 家綱に付属される。西丸書院番

(慶安4年) 本丸に勤仕

万治2年8月21日 書院番組頭

万治2年12月28日 布衣

寛文4年2月4日 書院番組頭を辞す。小普請

元禄3年11月24日 死す
大草松平重成
生。文四郎。志摩守
まつだいらしげなり
石見守康安の次男
寛政譜1・144
妻は松平主殿助家忠の女
おおくさ
秀忠に仕える

~慶長5年 家康に仕える

慶長8年3月25日 従五位下・志摩守。大十人組頭

~慶長19年 徒頭

寛永3年 書院番の小頭

寛永4年 駿河大納言徳川忠長に付属される。大番頭。3000石

寛永9年 西尾丹後守忠昭に召し預けられる

寛永12年1月 赦免。徳川頼房に付属される。家老。3000石


4000石


以下不詳
松平重信 慶長5年 生。助十郎。丹後守
まつだいらしげのぶ
助十郎正勝の嗣。形原松平紀伊守家信の次男
寛政譜1・115
妻は助十郎正勝の女

元和元年 命により正勝の嗣となりその女を妻とする


1200石

寛永16年5月1日 小姓組組頭

寛永16年5月1日 御小姓組之組頭被仰付之安藤伊賀守組也 ●「日記」

寛永18年1月6日 布衣 ●「日記」共

正保2年9月23日 書院番頭

正保2年12月30日 従五位下・丹後守

慶安元年10月27日 大番頭

承応元年12月22日 1200石2000俵

明暦2年1月12日 駿府城代。5000石

寛文9年7月23日 駿府城代を辞す

延宝元年4月1日 死す
能見松平重則 天正8年 生。半次郎。内膳正。大隅守
まつだいらしげのり
大隅守重勝の三男
寛政譜1・199
母は鳥居伊賀守忠吉の女
のみ
室は屋代越中守勝永の女

慶長3年 秀忠に仕える


大番組頭

慶長18年 徒頭

元和7年1月11日 大番頭

寛永3年12月 従五位下・内膳正


大隅守

寛永7年 留守居・与力10騎歩卒50人を預かる・奏者番


夜話の席に伺候

(寛永8年1月3日) (内膳正) ●「日記」

(寛永9年6月10日) (大隅守の初出) ●「日記」

寛永10年4月23日 1万500石

寛永10年4月23日 4000石御加恩 ●「日記」

寛永17年 与力15騎歩卒70人を預かる

寛永17年7月16日 御留守居衆預之与力歩行同心於御裏御門両所御番仕其上今度火事番―


―被仰付之然は方々ニて御番難勤仕之由連々訴之因玆与力五人―


―歩行同心弐十人宛松平大隅守牧野内匠頭酒井和泉守杉浦内蔵允へ―


―重て御預也以来頭被仰付義モ可有之間其迠ハ先右四人可相拘 ●「日記」


下野国皆川1万500石

寛永18年12月27日
能見松平重則長女
寛政譜1・199
能見松平大隅守重則の長女
寛政譜6・298
母は屋代越中守勝永の女

寛永15年6月21日 縁辺組被仰付面々松平大隅守娘西江孫六郎 ●「日記」


西郷若狭守延員に嫁ぐ


能見松平主殿重員を産む


以下不詳
能見松平重則次女
寛政譜1・199
能見松平大隅守重則の次女
寛政譜18・124
母は屋代越中守勝永の女

寛永13年11月23日 松平大隅守娘神保左京え縁辺之儀被仰付之 ●「日記」


神保左京茂明に嫁ぐ


以下不詳
能見松平重則三女
寛政譜1・199
能見松平出雲守勝隆の養女。能見松平大隅守重則の三女
寛政譜1・201
母は屋代越中守勝永の女
寛政譜14・266 寛永18年7月3日 伊東甚太郎ニ松平出雲守娘縁辺之儀被仰付 ●「日記」


伊東甚太郎長治に嫁ぐ

寛永20年 伊東信濃守長貞を産む


以下不詳
松平重和 慶長12年 生。太郎左衛門
まつだいらしげふさ
太郎左衛門尚栄の男
寛政譜1・207
母は成瀬惣右衛門重正の養女戸田平左衛門光定の女


妻は本多隠岐守家臣本多与右衛門光久の女


また本多左大夫光政の女

寛永8年2月15日 はじめて家光に拝謁

寛永8年2月15日 秀忠に拝謁 ●「日記」

寛文4年1月15日 死す
形原松平重正
生。斎宮。八左衛門。八郎兵衛
まつだいらしげまさ
八左衛門信平の男
寛政譜1・138
妻は松平与兵衛清信の女

寛永20年12月7日 父信平の遺跡を継ぐ。500石

寛永20年12月7日 五百石八左衛門跡松平八左衛門子 ●「日記」

寛文3年11月19日 小姓組

延宝3年7月5日 死す
能見松平重正 元和9年 生。太郎八。内匠。玄蕃頭
まつだいらしげまさ
大隅守重則の男
寛政譜1・199
母は屋代越中守勝永の女
のみ
室は松平右衛門大夫大河内正綱の女

寛永10年 はじめて家光に拝謁

寛永19年5月9日 父重則の遺領を継ぐ。下野国皆川1万500石

寛永19年5月9日 松平大隅守跡壱万五百石嫡子太郎八ニ被下之 ●「日記」

寛永19年9月1日 毎歳於江戸越年午年在江戸半年替 ●「日記」

万治3年12月28日 従五位下・玄蕃頭

寛文2年9月2日
大草松平重之
生。隼人。志摩
まつだいらしげゆき
叔父志摩守重成の養子。壱岐守正朝の三男
寛政譜1・145
徳川忠長に仕える
おおくさ (寛永9年) 流浪

寛永17年12月15日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共


養父重成に継いで徳川頼房に仕える

(寛永20年3月28日) (水戸中納言殿家来) ●「日記」

某年 死す
松平修理 寛永10年 生。修理
まつだいらしゅり
徳川大納言頼宣の次男
紀州水戸御系譜写
母は武藤氏
(徳川諸家系譜2・238) 寛永13年11月18日 夭逝

寛永13年11月19日 紀州之為上使水野下総守被差遣御内書被進之是修理殿依死去也 ●「日記」
形原松平典信 寛永6年 生。又七郎。大和守。駿河守
まつだいらすけのぶ
若狭守康信の長男
寛政譜1・130
母は紀伊家老水野出雲守重仲の女


室は板倉周防守重宗の女

寛永16年6月1日 はじめて家光に拝謁

寛永16年6月1日 松平若狭守子以太刀目録御目見 ●「日記」

慶安4年12月28日 従五位下・大和守


駿河守

寛文9年9月29日 丹波国笹山城5万石

寛文12年11月20日
松平竹松

まつだいらたけまつ
松前竹松の誤りか不明



大給松平忠昭 元和3年 生。太郎左衛門。主税之助。左近将監。如円
まつだいらただあき
右近将監成重の次男
寛政譜1・82
母は安藤対馬守重信の女
おぎゅう
室は酒井下総守忠正の女

寛永9年6月3日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永10年7月2日 縁辺組 ●「日記」

寛永10年 父成重の遺領を継ぐ。丹波国亀山城2万2200石

寛永11年2月26日 亡父将監遺跡相続之御礼 ●「日記」

寛永11年閏7月6日 豊後国亀川2万2200石

寛永11年閏7月6日 豊後国之内此已前石川主殿頭上知弐万石被下之得替 ●「日記」

寛永12年4月 豊後国中津留2万2200石

寛永17年12月29日 従五位下・左近将監

寛永17年12月29日 諸大夫 ●「日記」

(寛永18年1月11日) (左近将監の初出) ●「日記」

寛永19年 豊後国高松2万2200石

正保元年7月1日 火之番三番 ●「日記」

万治元年2月27日 豊後国府内城2万2200石

延宝4年3月27日 致仕。如円と号す

元禄6年9月12日
藤井松平忠秋 慶長12年 生。兵部少輔
まつだいらただあき
伊豆守信吉の三男
寛政譜1・45
母は伊豆守信一の女
ふじい 元和9年6月 はじめて秀忠に拝謁。偏諱を賜る

元和9年 家光に拝謁

寛永2年9月 近習

寛永2年12月30日 従五位下・兵部少輔

寛永9年2月 采地を賜る

寛永11年 病により兄山城守忠国の封地に蟄居

承応元年7月20日 死す
松平忠明 天正11年 生。鶴松丸。下総守。侍従
まつだいらただあきら
家康の養子。奥平美作守信昌の四男
寛政譜1・270
母は家康の長女亀姫盛徳院


室は織田上野介信包の女


継室は小出播磨守吉政の女

天正11年 家康に拝謁

天正16年 家康の養いとなる。松平の称号を賜る

文禄元年 7000石

慶長4年3月11日 偏諱を賜る

慶長5年4月7日 従五位下・下総守

慶長7年9月 三河国作手1万7000石

慶長15年7月27日 伊勢国亀山城5万石

元和元年6月10日 摂津国大坂城10万石

元和5年 大和国郡山城12万200石

寛永2年5月27日 母が逝去

寛永3年8月19日 従四位下・侍従

寛永9年 政事にあずかる

寛永10年7月28日 縁辺之御礼 ●「日記」(自身の継室か、娘か不明)

寛永16年3月3日 播磨国姫路城18万石 ●「日記」共

寛永19年5月3日 如例長崎奉行と相談自然きりしたん宗門之船長崎表へ於着は―


―最前被仰付之通ニ可仕之 ●「日記」

正保元年3月25日 卒 ●「日記」共
松平忠明長女 元和3年
寛政譜1・271
松平下総守忠明の長女
寛政譜13・289
松平肥前守鍋嶋忠直に嫁ぐ
寛政譜13・296 寛永9年 松平丹後守鍋嶋光茂を産む
蓮池伝記5
女子を産む

寛永12年1月28日 夫忠直が卒

寛永17年11月24日 鍋嶋甲斐守縁辺松平下総守娘松平肥前守室也可相結之旨上意也 ●「日記」


鍋嶋甲斐守直澄に嫁ぐ

寛永18年5月3日 鍋嶋信濃守同甲斐守御礼太刀目録御袷五重宛進上之是甲斐守縁辺―


―被仰出頃日祝言相調付て也依之右両人之内儀より御袷三重宛献之―


―是ハ目録ニて上之 ●「日記」

寛永20年 鍋嶋摂津守直之を産む

正保2年1月27日
桜井松平忠氏
生。三七郎。監物
まつだいらただうじ
淡路守忠直の長男
寛政譜1・37
妻は浅野采女正長重の女
さくらい 寛永17年2月13日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保3年11月28日 父忠直の遺跡を継ぐ。1500石。寄合

寛文元年11月11日 小姓組番頭

寛文元年12月12日 1500石1000俵

寛文元年12月28日 従五位下。なお監物と称す

寛文10年9月14日 書院番頭

寛文11年7月6日 改易


以下不詳
藤井松平忠国 慶長2年 生。千熊。勘四郎。山城守
まつだいらただくに
伊豆守信吉の長男
寛政譜1・44
母は伊豆守信一の女
ふじい
室は戸田左門氏鉄の女

慶長12年 はじめて家康・秀忠に拝謁

慶長14年12月22日 秀忠の御前にて元服。偏諱を賜る。山城守

慶長19年1月 従五位下

元和7年 父信吉の遺領を継ぐ。丹波国笹山5万石

寛永13年8月21日 松平山城守牧野右馬允縁辺被仰付御礼 ●「日記」

慶安2年7月4日 播磨国明石城7万石

万治2年2月20日
藤井松平忠国娘


藤井松平山城守忠国の娘(長女かそれ以前に娘がいたか)

寛永8年6月12日 江戸へ差下 ●「日記」



藤井松平忠国娘2


藤井松平山城守忠国の娘(次女か)

寛永12年8月6日 松平山城守娘松平伊賀守子嫁娶被仰付之 ●「日記」


―(藤井松平伊賀守忠晴の長男刑部少輔忠俊との縁組か)


―(松浦壱岐守子の誤りの可能性もあるか)



藤井松平忠国長女
寛政譜1・46
藤井松平山城守忠国の長女
寛政譜13・188 寛永12年8月6日 松平山城守娘内藤左京嫁娶被仰付之 ●「日記」

寛永13年5月1日 内藤帯刀松平山城守縁辺被仰付御礼 ●「日記」


内藤左京大夫頼長に嫁ぐ


内藤弥右衛門義邦を産む。早世

明暦元年 内藤下野守義英を産む


女子を産む。のちの小出備前守英安の室


女子を産む。のちの岡部美濃守長泰の室

~寛文7年
藤井松平忠国次女
寛政譜1・46
藤井松平山城守忠国の次女

寛永12年8月6日 松平山城守娘松平伊賀守子嫁娶被仰付之 ●「日記」


―(松浦壱岐守子の誤りか)


松浦肥前守鎮信に嫁ぐ

正保3年 松浦壱岐守棟を産む


女子を産む。のちの石川美作守乗政の室


以下不詳
五井松平忠実 天正13年 生。弥三郎。土佐守。外記
まつだいらただざね
外記伊昌の長男
寛政譜1・147
母は酒井左衛門督忠次の女
ごい
妻は松平主殿助家忠の女

慶長3年9月13日 秀忠の御前にて元服。偏諱を賜る。

(慶長6年) (父伊昌の遺領を継ぐ。下総国印旛郡2000石)

慶長13年1月2日 従五位下・土佐守

(寛永8年1月2日) 外記 ●「日記」

寛永9年11月6日 大番頭 ●「日記」共

寛永9年11月12日 小笠原壱岐守忠知組を引き継ぐ ●「日記」

寛永9年11月15日 与力同心 ●「日記」

寛永12年12月14日 下総国海上郡6000石

寛永12年12月14日 四千石御加恩 ●「日記」

承応元年8月23日 死す
桜井松平忠重 慶長6年 生。大膳亮
まつだいらただしげ
左馬允忠頼の長男
寛政譜1・34
母は織田源五長益入道有楽の女
さくらい
室は木下右衛門大夫延俊の女

慶長15年7月 8000石

元和8年10月 上総国佐貫城1万5000石

寛永10年8月9日 駿河国田中城2万5000石 ●「日記」共

寛永11年 駿河国田中城3万石

寛永12年8月4日 遠江国掛川城4万石 ●「日記」共

寛永15年11月18日 奏者番

寛永15年11月18日 御奏者被仰付之 ●「日記」

寛永16年2月12日
桜井松平忠重娘
寛政譜1・34
桜井松平大膳亮忠重の女
寛政譜8・189
母は木下右衛門大夫延俊の女

寛永15年11月7日 縁辺組松平大膳亮娘織田辰之助 ●「日記」


織田上野介信勝に嫁ぐ

慶安3年 懐胎

慶安3年5月17日 夫信勝が卒


以下不詳
松平忠輝 文禄元年1月4日 生。辰千代。上総介。少将
まつだいらただてる
家康の六男
幕府祚胤伝2・38
母は花井氏茶阿方朝覚院


簾中は松平陸奥守伊達政宗の長女天麟院

文禄2年3月 皆川山城守広照の養子となる

慶長3年11月 兄松千代早世により長沢松平家を継ぐ。武蔵国深谷1万石

慶長7年11月28日 下総国佐倉城5万石

慶長7年12月25日 従五位下・上総介

慶長8年2月18日 信濃国川中島18万石

慶長10年4月16日 従四位下。左少将

慶長15年閏2月3日 越後国高田城55万石

元和元年5月 大坂役に遅参し上野国藤岡のち江戸にて蟄居

元和2年7月5日 改易

元和2年7月14日 相模国小田原にて落髪

元和2年7月20日 伊勢国朝熊岳金剛証寺に閑居


九鬼長門守守隆に召し預けられる。伊勢国妙高院に閑居

元和4年3月5日 金森長門守頼直に召し預けられる。飛騨国高山に閑居

寛永3年4月24日 諏訪因幡守頼水に召し預けられる。信濃国上諏訪に閑居

(寛永11年6月25日) (上総介義輝公) ●「日記」

天和3年7月3日 逝去
深溝松平忠利 天正10年 生。猿。又八郎。主殿頭
まつだいらただとし
主殿助家忠の長男
寛政譜1・159
母は水野藤次郎忠分の女
ふこうず
室は松平玄蕃頭家清の女

慶長元年 秀忠の御前にて元服。偏諱を賜る

(慶長5年) (父家忠の遺跡を継ぐ)

慶長6年2月 三河国深溝西郡1万石

慶長9年6月22日 従五位下・主殿頭

慶長17年11月12日 三河国吉田城3万石

寛永9年6月5日
深溝松平忠利娘
寛政譜1・161
松平主殿頭忠利の女

寛永10年7月2日 木下伊賀守俊治と縁組 ●「日記」






藤井松平忠俊
生。刑部少輔
まつだいらただとし
伊賀守忠晴の長男
寛政譜1・50
母は杉原伯耆守長房の女

寛永12年8月6日 松平山城守娘松平伊賀守子嫁娶被仰付之 ●「日記」


―(松浦壱岐守子の誤りの可能性もあるか)

寛永13年8月21日 はじめて家光に拝謁

寛永13年8月21日 松平伊賀守息御目見是駿州為御番替近日依被差遣之也 ●「日記」


従五位下・刑部少輔

正保2年12月13日
五井松平忠利 寛永6年 生。弥三郎。主水正
まつだいらただとし
外記伊燿の長男
寛政譜1・148
母は柴田筑後守康長の女
ごい
妻は酒井宮内大輔忠勝の女

寛永16年7月18日 はじめて家光に拝謁

寛永16年7月18日 松平備中守子初て御目見 ●「日記」

万治元年閏12月27日 従五位下・主水正

寛文5年2月14日 死す
三木松平忠利 天正10年 生。九郎右衛門
まつだいらただとし
九郎右衛門重忠の次男
寛政譜1・23
父重忠より分知。500石
みつぎ 慶長2年 はじめて家康に拝謁

慶長4年 秀忠に付属される

慶長12年 伏見城を守ること3年

慶長14年10月16日 改易

元和元年 大坂の役にて井伊掃部頭直孝に属す

寛永9年7月17日 ゆるされる ●「日記」共


大番

寛永11年2月26日 此以前御勘当御赦免日来大御番勤仕 ●「日記」

寛永11年2月26日 300俵 ●「日記」共

慶安2年1月15日 死す
桜井松平忠倶 寛永11年 生。万助。遠江守
まつだいらただとも
大膳亮忠重の男
寛政譜1・34
母は木下右衛門大夫延俊の女
さくらい
室は松平隠岐守定行の養女阿部対馬守重次の女

寛永16年3月3日 父忠重の遺領を継ぐ。信濃国飯山城4万石

寛永16年3月3日 松平大膳亮去比病死実子幼少ニ付懸川得替信州飯山え以先知―


―四万石之高被遣之家老共召寄被申聞云々 ●「日記」

寛永16年4月23日 信州飯山え被遣之上使より次飛脚到来是去廿日彼城―


―松平万助家来へ引渡之旨注進之 ●「日記」

寛永16年7月9日 はじめて家光に拝謁。帝鑑間に伺候

寛永16年7月9日 亡父大膳亮遺跡相続依被仰付御太刀馬代黄金十枚并以進物御礼 ●「日記」

正保3年12月30日 従五位下・遠江守


節供の式にて諸大夫の上首

元禄9年5月26日
桜井松平忠直 慶長7年 生。監物。淡路守
まつだいらただなお
松平左馬允忠頼の次男
寛政譜1・37
母は織田源五長益入道有楽の女
さくらい 慶長17年7月 はじめて秀忠に拝謁


近習。500石

元和6年12月 従五位下・淡路守

寛永16年7月12日 書院番組頭

寛永16年7月12日 稲垣若狭守組御書院番組頭 ●「日記」

寛永18年4月12日 逼塞 ●「日記」共

寛永18年9月5日 ゆるされる

寛永18年9月5日 御赦免仕来御役如前々可相勤 ●「日記」

寛永19年閏9月10日 小姓組番頭

寛永19年閏9月10日 御小姓組番頭ニ御直ニ被仰付之大久保左馬允元組 ●「日記」

寛永19年12月15日 2000石 ●「日記」共

正保3年9月12日 死す
松平忠憲 元和6年 生。五郎。因幡守
まつだいらただのり
甲斐守忠良の次男
寛政譜1・280
母は酒井左衛門尉家次の女


室は永井信濃守尚政の女

寛永元年6月 父忠良の遺領を継ぐ。美濃国大垣城5万石

寛永元年9月 信濃国小諸城4万5000石

寛永11年12月 従五位下・因幡守

(寛永12年1月2日) (因幡守の初出) ●「日記」

寛永12年10月1日 松平因幡守永井信濃守以進物御目見是祝言依被仰付 ●「日記」

正保4年8月13日
藤井松平忠晴 慶長3年 生。与吉郎。伊賀守。忠山
まつだいらただはる
伊豆守信吉の次男
寛政譜1・49
母は伊豆守信一の女
ふじい
室は杉原伯耆守長房の女

慶長12年 はじめて家康に拝謁

慶長14年12月22日 秀忠の御前にて元服。偏諱を賜る。伊賀守。小姓

元和元年1月27日 従五位下

元和5年 2000石。小姓組番頭

寛永9年4月7日 書院番頭

寛永9年11月15日 書院番頭・奏者番

寛永9年11月15日 奏者番 ●「日記」

寛永10年4月23日 5000石

寛永10年4月23日 3000石御加恩 ●「日記」

寛永12年11月10日 大番頭・奏者番

寛永12年11月10日 大御番頭被仰付 ●「日記」

寛永19年9月12日 大番頭をゆるされる。駿河国田中城2万5000石

寛永19年9月12日 弐万石御加恩都合弐万五千石ニて駿河田中之城主被仰付之 ●「日記」

正保元年3月18日 遠江国掛川城3万石 ●「日記」共

慶安元年閏1月19日 丹波国亀山3万8000石

明暦3年9月5日 奏者番を辞す。雁間に伺候

寛文7年閏2月9日 致仕。忠山と号す

寛文9年3月23日
深溝松平忠久 元和7年 生。新十郎。右衛門作。弥五兵衛。庄九郎
まつだいらただひさ
兵庫頭忠隆の長男
寛政譜1・168
母は山岡主計頭景以の女
ふこうず
妻は朝倉石見守在重の女

寛永3年12月21日 はじめて秀忠に拝謁

寛永4年12月22日 父忠隆の遺跡を継ぐ。1000石。小普請

寛永16年6月22日 小姓組 ●「日記」共

元禄6年6月1日 死す
松平忠弘 寛永8年 生。鶴松丸。下総守。侍従。刑部大輔
まつだいらただひろ
下総守忠明の長男
寛政譜1・271
母は三好氏。嫡母(小出播磨守吉政の女)の養いとなる


室は細川越中守忠利の女

寛永12年 大奥にてはじめて家光に拝謁

正保元年5月18日 父忠明の遺領を継ぐ。播磨国姫路城15万石 ●「日記」共

正保2年12月30日 従五位下・下総守

慶安元年6月14日 出羽国山形城15万石。出羽国延沢城を預かる

承応2年12月29日 従四位下

明暦元年10月 命により出羽国延沢城を廃す

寛文3年12月29日 侍従

寛文4年7月16日 陸奥国福嶋城を預かる

寛文8年8月3日 下野国宇都宮城15万石

天和元年1月 元日2日井伊掃部頭直該とともに着座

天和元年7月27日 陸奥国白川城15万石

天和3年2月28日 以後朔望等のとき井伊掃部頭直該・保科肥後守正容とともに着座

元禄5年7月21日 閉門

元禄5年8月16日 出羽国山形城10万石。逼塞

元禄5年12月20日 ゆるされる。命により致仕

元禄9年12月18日 刑部大輔に改める

元禄13年5月16日
深溝松平忠房 元和5年 生。五郎八。主殿頭。大炊頭
まつだいらただふさ
主殿頭忠利の長男
寛政譜1・161
室は鍋嶋信濃守勝茂の女
ふこうず 元和9年6月 はじめて秀忠に拝謁

元和9年7月 家光に拝謁

寛永9年8月11日 父忠利の遺領を継ぐ。三河国吉田城3万石

寛永9年8月11日 父忠利の跡職。三河国苅屋にて本知高 ●「日記」

寛永9年8月12日 三河国刈屋城3万石

寛永9年12月30日 従五位下・主殿頭

(寛永10年1月1日) (五郎八・諸大夫) ●「日記」

(寛永10年1月2日) (主殿頭の初出) ●「日記」

寛永10年7月1日 縁辺 ●「日記」

寛永12年8月15日 鍋嶋信濃守松平主殿頭御礼依縁辺之儀也 ●「日記」

慶安2年2月28日 丹波国福知山城4万5900石

寛文9年6月8日 肥前国嶋原城6万5900石

寛文12年7月16日 長崎の事をうけたまわる。公料1300石を預かる

延宝3年4月24日 公料2600石を預かる

天和3年12月4日 従四位下

貞享2年9月30日 雁間に伺候

元禄11年4月18日 致仕。大炊頭

元禄13年10月1日
松平忠昌 慶長2年12月14日 生。虎松。伊予守。参議
まつだいらただまさ
越前中納言松平秀康の次男
幕府祚胤伝
母は中川出雲守の女清涼院
(徳川諸家系譜2・32)
室は浅野紀伊守幸長の次女黄梅院
宮廷公家系図集覧389
継室は広橋大納言兼賢の長女慶寿院
越前人物志上・151 慶長12年 上総国姉ヶ崎1万石

元和元年1月11日 従五位下・侍従・伊予守。偏諱を賜る

元和元年1月27日 従四位下

元和元年11月 常陸国下妻城3万石

元和2年1月25日 信濃国松代城12万石

元和4年1月11日 越後国高田城24万石

元和6年 室浅野氏が入輿

元和9年5月29日 室浅野氏が逝去

寛永元年7月 越前国福井城50万石

寛永3年8月19日 参議・正四位下

寛永14年 越前国福井城52万5000石

寛永17年7月21日 母が逝去 ●「西巌公年譜」

正保2年8月1日 逝去
松平忠良四女
寛政譜1・280
松平甲斐守忠良の四女
寛政譜9・118
母は酒井左衛門尉家次の女

寛永10年7月3日 佐久間蔵人勝友と縁組 ●「日記」

寛永12年 佐久間安房守勝豊を産む

寛永13年 佐久間長助勝興を産む



長沢松平親茂 元和元年 生。清兵衛
まつだいらちかしげ
清左衛門親正の次男
寛政譜1・217
妻は井上氏
ながさわ 寛永10年7月26日 はじめて家光に拝謁

寛永10年7月26日 御礼申上 ●「日記」


代官

(正保元年2月5日) (御代官) ●「日記」

正保4年12月20日 300俵

寛文6年4月28日 父親正の家を継ぐ。500俵

延宝3年11月28日 死す
長沢松平親正 文禄4年 生。清左衛門。市右衛門。清左衛門。浄入
まつだいらちかまさ
清蔵親宅の次男
寛政譜1・217
妻は松平清四郎重忠の女
ながさわ 寛永6年 秀忠に仕える。代官。500俵

(寛永12年1月21日) (参州御代官) ●「日記」

(寛永17年6月11日) (市左衛門) ●「日記」

(寛永19年閏9月10日) (清左衛門) ●「日記」

寛永19年閏9月10日 奥州延沢銀山御奉行被遣之付て黄金呉服羽織等被下之―


―於彼地御扶持方五拾人扶持被下之 ●「日記」

寛文6年4月28日 致仕。浄入

寛文9年7月13日 死す
松平近栄 寛永9年9月28日 生。大助。上野介
まつだいらちかよし
出羽守直政の次男
華族系譜
母は松平甲斐守忠良の女月照院
(徳川諸家系譜4・130)
室は松平但馬守直良の次女
(徳川諸家系譜4・161) 寛永18年8月1日 松平出羽守息両人久松大助初て御目見 ●「日記」
(徳川諸家系譜4・35) 承応元年12月28日 従五位下・上野介
島根県史9・610
松平但馬守直良の養子となる


養父直良に実子誕生のため離縁

寛文6年4月29日 兄綱隆より新田分知。出雲国広瀬3万石

元禄15年3月23日 致仕

享保2年9月19日
宮石松平次倫 慶長16年 生。七之助。七左衛門。所左衛門
まつだいらつぐとも
加賀右衛門康次の五男
寛政譜1・107
妻は小林権十郎正勝の養女津戸左次兵衛為元の女
みやいし 寛永9年8月22日 はじめて家光に拝謁

寛永9年9月 小十人。月俸3口

寛永11年2月21日 100俵。月俸3口

寛永16年10月23日 腰物持役 ●「日記」共

正保元年12月25日 200俵

正保元年12月25日 百俵御加増 ●「日記」

慶安3年8月27日 閉門

慶安3年10月19日 ゆるされる

承応元年9月29日 新番

万治2年12月26日 250俵

寛文元年11月28日 広敷番頭

寛文元年12月12日 450俵

天和2年4月22日 650俵

貞享2年8月19日 広敷番頭を辞す。小普請

元禄8年4月29日 死す
松平綱賢 寛永10年3月11日 生。徳千代。侍従。下野守。少将
まつだいらつなかた
越後守光長の長男
華族系譜
母は松平長門守毛利秀就の女広国院
(徳川諸家系譜4・50)
室は九条摂政左大臣道房の女豊光院
(徳川諸家系譜4・103) 承応2年12月21日 従四位下。侍従。下野守
高田市史60 寛文6年12月28日 左近衛権少将

延宝2年1月29日
松平綱隆 寛永8年2月23日 生。久松丸。信濃守。出羽守。侍従
まつだいらつなたか
出羽守直政の長男
華族系譜
母は松平甲斐守忠良の女月照院
(徳川諸家系譜4・129)
妻は松平伊予守忠昌の女天照院
島根県史9・229 寛永12年11月 袴着

寛永18年8月1日 松平出羽守息両人久松大助初て御目見 ●「日記」

慶安4年12月26日 元服。偏諱を賜る。従五位下。従四位下。信濃守

慶安3年7月 婚姻あり

寛文6年4月11日 父直政の遺領を継ぐ。出雲国松江城18万6000石

寛文6年12月28日 侍従。出羽守

延宝3年閏4月1日
松平輝綱 元和6年 生。主殿。甲斐守
まつだいらてるつな
伊豆守信綱の長男
寛政譜4・406
母は井上主計頭正就の女


室は板倉周防守重宗の八女


継室は板倉周防守重宗の十一女

(寛永3年2月26日) 幼少のときはじめて家光に拝謁

(寛永10年7月2日) (伊豆子松平主殿頭) ●「日記」

寛永10年7月2日 室と縁組 ●「日記」

寛永12年12月28日 従五位下・甲斐守

寛永12年12月30日 諸大夫 ●「日記」

(寛永13年1月15日) (甲斐守の初出) ●「日記」

寛文2年4月18日 父信綱の遺領を継ぐ。武蔵国川越城7万4000石

寛文11年12月12日
能見松平照昌 寛永11年 生。上之助。庄三郎。次郎兵衛。次郎右衛門。惣左衛門。―
まつだいらてるまさ
善左衛門。勝左衛門
寛政譜1・183
庄左衛門昌吉の四男
のみ
母は山田清大夫重次の女


妻は松平伝六郎昌信の女

寛永16年5月5日 はじめて家光に拝謁

(寛永16年5月5日) (松平庄三郎御帷子単物十銀百枚并以太刀目録初て御礼) ●「日記」


―上記の松平庄三郎は池田仲政と思われる。池田仲政の初御目見―


―とされる寛永17年1月28日が松平照昌のことか?

慶安2年12月26日 書院番

慶安3年9月3日 家綱に付属される。西丸小姓組

(慶安4年) 本丸に勤仕

承応元年12月18日 300俵

元禄4年1月 小姓組を辞す。小普請

元禄16年5月27日 死す
松平徳松 (寛永15年?) 生。徳松
まつだいらとくまつ
伊予守忠昌の三男
越藩史略1-3・5
母は慶光院
華族系譜 寛永16年1月9日
(徳川諸家系譜4・4) 寛永16年1月19日 松平伊予守為上使池田帯刀被遣之是息去比依死去也云々 ●「日記」



能見松平利正 寛永5年 生。市之丞。市左衛門。伝左衛門。右近将監。下野守。右近大夫
まつだいらとしまさ
伝六郎昌信の長男
寛政譜1・186
母は松平下総守家臣小原次郎兵衛の女
のみ
妻は小林氏

寛永13年12月6日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共


大番

寛永20年12月18日 200俵 ●「日記」共

万治元年7月19日 新番

万治2年12月26日 250俵

万治3年12月10日 小納戸

万治3年12月28日 布衣

寛文元年12月4日 450俵

寛文5年12月11日 父昌信の遺跡を継ぐ。200石400俵

寛文7年12月26日 200石600俵

延宝8年7月29日 700石600俵


小納戸をゆるされる。寄合

天和元年4月16日 従五位下・右近将監

天和元年8月21日 先弓頭

天和2年5月21日 1200石600俵

天和2年8月9日 新番頭

元禄10年7月26日 1650石

元禄11年3月20日 死す
大給松平知乗 慶長7年 生。内匠助。内匠頭。日向守。但馬守
まつだいらとものり
和泉守家乗の次男
寛政譜1・70
母は石川長門守康通の女
おぎゅう
妻は松平忠吉家臣山上五郎左衛門信安の女

元和2年11月 はじめて秀忠に拝謁

元和2年12月 中奥に伺候。小姓

元和3年12月 500俵

元和6年 従五位下・内匠頭

元和7年 1000石

元和9年 書院番

寛永2年 西丸書院番

(寛永9年) 書院番

寛永10年2月7日 1200石

(寛永11年7月18日) (但馬守の初出) ●「日記」


書院番を辞す。小普請

万治2年8月7日 死す
松平内記

まつだいらないき
徳川頼宣に仕える

(寛永17年11月15日) (紀伊亜相使者) ●「日記」



宮石松平直重
生。七郎兵衛
まつだいらなおしげ
新五左衛門直次の三男
寛政譜1・106
母は成瀬吉平久次の女

寛永15年11月21日 松平新五左衛門二番目子可被召出 ●「日記」

寛永16年2月5日 はじめて家光に拝謁

寛永16年2月5日 松平新五左衛門二番子樽代を以初て御目見 ●「日記」

寛永19年6月 書院番

正保元年7月18日 死す
宮石松平直次 天正14年 生。友之助。新五左衛門
まつだいらなおつぐ
加賀右衛門康次の四男
寛政譜1・105
母は奥平監物貞勝の女
みやいし
妻は成瀬吉平久次の女


伏見にて家康に拝謁


秀忠に近侍

元和2年9月15日 家光に付属される。番士筆頭役4人の一人


書院番組頭


徒頭

寛永9年6月25日 持弓頭

寛永9年6月25日 馬上同心10騎(すでに持弓頭か) ●「日記」

寛永10年12月27日 1400石

寛永10年12月27日 七百石御加恩 ●「日記」

慶安2年10月16日 死す
宮石松平直正
生。弥次兵衛
まつだいらなおまさ
新五左衛門直次の次男
寛政譜1・106
母は成瀬吉平久次の女
みやいし 寛永11年 はじめて家光に拝謁

寛永15年 書院番

寛永18年 小姓組

慶安2年12月7日 死す
松平直政 慶長6年8月5日 生。河内丸。国松丸。出羽守。侍従。少将
まつだいらなおまさ
越前中納言松平秀康の三男
幕府祚胤伝
母は三谷長基の女月照院
(徳川諸家系譜2・33)
室は松平甲斐守忠良の女慶泰院
華族系譜 慶長18年 兄忠直の偏諱を受ける。出羽介
(徳川諸家系譜4・129) 元和2年 越前国木本1万石
(徳川諸家系譜4・141) 元和5年6月 従五位下・出羽守
島根県史9・157 元和5年12月 上総国姉崎1万石

元和9年8月6日 従四位下

寛永元年6月 越前国大野城5万石

寛永3年8月19日 侍従

寛永10年4月22日 信濃国松本城7万石 ●「日記」共

寛永15年2月11日 出雲国松江城18万6000石。隠岐国を預かる

寛永15年2月11日 出雲国一国拝領之隠岐国は出羽守御代官被仰付 ●「日記」

寛文3年6月3日 従四位上・左近衛権少将

寛文6年2月3日
能見松平直政 寛永8年 生。岩松。宮内。織部。兵庫頭
まつだいらなおまさ
丹後守重直の三男
寛政譜1・197
母は松平丹後守重忠の女
のみ 寛永18年11月14日 家綱に付属される。小姓 ●「日記」共

寛永20年3月26日 父重直の遺領分知。2000石

寛永20年3月26日 松平丹後守遺跡三万七千石之内三万弐千石嫡子市正三千石二男修理―


―弐千石三男宮内 ●「日記」

寛永20年4月1日 亡父遺跡相続被仰付御礼申上之 ●「日記」

慶安3年9月9日 西丸表に伺候。給仕役

慶安4年6月13日 奥小姓

慶安4年8月16日 従五位下・兵庫頭


奥小姓を辞す。寄合

元禄11年4月8日 死す
松平直基 慶長9年3月25日 生。五郎八。七郎。五郎八。大和守。侍従。一時結城を称す
まつだいらなおもと
越前中納言松平秀康の五男
幕府祚胤伝
母は三好越後守長虎の女品量院
(徳川諸家系譜2・34)
妻は本多丹波守富正の女霊台院
華族系譜 慶長12年11月28日 外祖父結城左衛門督晴朝の養子。結城七郎と称す
(徳川諸家系譜4・179)
五郎八に改める
(徳川諸家系譜4・195) 慶長16年4月 はじめて家康・秀忠に拝謁

慶長19年7月20日 養父晴朝の遺領を継ぐ。5000石。越前国北庄城に住す

元和5年 元服。大和守

寛永元年6月6日 越前国勝山城3万5000石


松平に復す

寛永3年8月19日 従四位下

寛永12年8月1日 越前国大野城5万5000石

寛永12年8月1日 於大野五万石之所大和守土佐守両人御加恩 ●「日記」

正保元年3月8日 出羽国山形城15万石 ●「日記」共

正保2年12月30日 侍従

慶安元年6月14日 播磨国姫路城15万石

慶安元年8月15日
松平直良 慶長9年11月24日 生。長光丸。土佐守。但馬守。侍従
まつだいらなおよし
越前中納言松平秀康の六男
幕府祚胤伝
母は津田左衛門信益の女長寿院
(徳川諸家系譜2・34)
妻は本多飛騨守成重の女清光院
華族系譜 寛永元年6月8日 越前国木本2万5000石
(徳川諸家系譜4・27) 寛永3年8月19日 従四位下・土佐守

寛永5年12月7日 輿入れあり

寛永12年8月1日 越前国勝山城3万5000石

寛永12年8月1日 於大野五万石之所大和守土佐守両人御加恩 ●「日記」

正保元年3月8日 大野領壱万五千石御加増都合五万石拝領之大和守上地也―


―土佐守旧領は被召上之 ●「日記」

正保元年3月15日 越前国大野城5万石

正保3年12月30日 侍従。但馬守

延宝6年6月26日
松平長正
生。十左衛門
まつだいらながまさ
右京長次の養子。田中五郎右衛門義忠の三男
寛政譜1・226
母は右京長次の女

元和3年11月19日 家光に仕える。小十人。100俵

寛永9年8月25日 200俵

寛永19年12月6日 納戸番 ●「日記」共


納戸番を辞す。小普請

延宝6年 死す
松平長吉
生。七蔵
まつだいらながよし
右京長次の男
寛政譜1・222
妻は松平主殿助伊忠の三男新次郎伊長の女

慶長5年 家康に仕える。大番。三河国桑谷村250石

寛永10年2月7日 三河国桑谷村470石

寛永11年~ 大番を辞す。小普請

寛永18年9月17日 死す

(寛永18年12月4日) (酒井和泉守与) ●「日記」
大給松平成重 文禄3年 生。松千代。五左衛門。右近将監
まつだいらなりしげ
五左衛門一生の男
寛政譜1・82
母は松平宮内左衛門忠成の女
おぎゅう
室は安藤対馬守重信の女


継室は松平因幡守康元の女

(慶長9年) 父一生の遺領を継ぐ。下野国板橋1万石

慶長13年3月5日 はじめて家康に拝謁

慶長13年12月6日 従五位下・右近将監

元和3年10月5日 三河国西尾城2万石

元和7年 丹波国亀山城2万2200石

寛永10年9月16日
大給松平成重長女
寛政譜1・83
松平右近将監成重の長女


母は安藤対馬守重信の女

寛永10年7月1日 本多縫殿頭康長と縁組 ●「日記」


離婚


大給松平家臣竹山庄兵衛に嫁ぐ



松平信興 寛永7年 生。采女。美濃守。因幡守。侍従
まつだいらのぶおき
伊豆守信綱の五男
寛政譜5・3
母は井上主計頭正就の女


室は青山大膳亮幸利の女

寛永12年4月20日 はじめて家光に拝謁

寛永18年8月9日 家綱に付属される。小姓

寛永18年8月9日 若君様為御奉公人今日御目見 ●「日記」

(寛永18年9月2日) (若君様御小姓衆) ●「日記」


中奥に伺候

慶安4年6月13日 小姓

慶安4年8月16日 従五位下・美濃守

承応元年11月7日 1000俵

明暦3年9月28日 因幡守

万治3年11月25日 小姓組番頭。小姓。2000俵

寛文2年4月18日 父信綱の遺領分知。5000石2000俵

寛文7年1月25日 御側

寛文7年2月10日 舞々猿楽の者を支配

延宝7年7月10日 若年寄。1万2000石

延宝8年12月26日 鷹と馬の事をうけたまわる

天和元年4月2日 腰物方と数寄屋方を支配

天和元年7月22日 1万7000石

天和2年2月19日 奏者番。常陸国土浦城2万2000石

貞享4年10月13日 大坂城代。3万2000石

元禄3年12月26日 所司代。従四位下。侍従

元禄4年3月7日 参内

元禄4年閏8月12日
松平信定 寛永4年 生。内記。伊勢守。栄翁
まつだいらのぶさだ
伊豆守信綱の四男
寛政譜5・1
母は井上主計頭正就の女


妻は土屋民部少輔利直の女

寛永12年12月28日 はじめて家光に拝謁

寛永12年12月28日 松平伊豆守三男初て御目見 ●「日記」

寛永18年8月9日 家綱に付属される。小姓。二丸に伺候

寛永18年8月9日 若君様為御奉公人今日御目見 ●「日記」

(寛永18年9月2日) (若君様御小姓衆) ●「日記」

正保2年4月21日 従五位下・伊勢守

慶安2年~慶安3年 中奥に伺候

寛文2年4月18日 父信綱の遺領分知。5000石

貞享2年2月9日 小普請

元禄10年12月5日 致仕。栄翁と号す

享保元年12月8日 死す
松平信貞
生。佐内。次郎左衛門
まつだいらのぶさだ
次大夫正成の男
寛政譜1・208
妻は馬場喜八郎の女

慶長18年 家康に仕える。近侍


秀忠に仕える。西丸小姓組。200俵

寛永10年2月7日 400石


大番

(寛永18年3月1日) (大久保右京亮教隆組もしくは皆川山城守隆庸組) ●「日記」

万治元年12月25日 死す
藤井松平信重 寛永9年 生。三之助。志摩守
まつだいらのぶしげ
山城守忠国の三男
寛政譜1・48
母は戸田左門氏鉄の女


妻は板倉周防守家臣渡辺十右衛門の女

寛永18年11月14日 家綱に付属される。小姓 ●「日記」共


中奥小姓

慶安3年9月9日 西丸表に伺候。給仕役

慶安4年8月16日 従五位下・志摩守

万治元年閏12月22日 500俵

万治2年4月18日 父忠国の遺領分知。5000石

延宝7年~ 務めを辞す。寄合

天和3年12月21日 致仕

正徳4年11月11日 死す
形原松平信忠
生。新九郎
まつだいらのぶただ
紀伊守家信の五男
寛政譜1・129 寛永15年5月16日 父家信の遺領分知。2000石
かたのはら 寛永15年5月16日 松平紀伊守遺跡息若狭守被仰付之然て彼領知四万石之内ニて―


―弐千石宛弟修理亮新九郎ニ被頒下之 ●「日記」

寛永15年6月1日 (継目之御礼)御目見 ●「日記」

寛永15年6月18日 はじめて家光に拝謁

寛永17年6月19日 死す
松平信綱 慶長元年 生。長四郎。伊豆守。侍従
まつだいらのぶつな
松平右衛門大夫大河内正綱の養子。大河内金兵衛久綱の長男
寛政譜4・401
母は深井藤右衛門好秀の女


室は井上主計頭正就の女

慶長6年 叔父正綱に養われる

慶長9年7月25日 家光に付属される。月俸3口

慶長10年2月3日 月俸5口

元和6年1月20日 500石

元和9年6月15日 小姓組番頭。800石

元和9年7月 従五位下・伊豆守

寛永元年5月16日 2000石

寛永4年1月5日 1万石

寛永7年5月17日 1万5000石

寛永9年11月18日 宿老に准ず。小姓組番頭

寛永9年11月18日 宿老衆並ニ御奉書可仕 ●「日記」

寛永10年3月23日 六人衆。小姓組番頭

寛永10年3月23日 六人衆 ●「日記」

寛永10年4月19日 数寄屋方を支配

寛永10年4月19日 御数寄屋方職人肝煎 ●「日記」

寛永10年5月5日 奉書に加判。小姓組番頭

寛永10年5月5日 武蔵国忍城3万石。与力20騎同心50人を預かる

寛永10年5月5日 武蔵国忍城3万石 ●「日記」

寛永11年閏7月29日 従四位下

寛永11年閏7月29日 四品 ●「日記」

寛永12年10月29日 小姓組番頭をゆるされる

寛永12年10月29日 御番頭御赦免 ●「日記」

寛永12年11月15日 諸大名訴訟并御用之儀大炊頭讃岐守伊豆守豊後守加賀守―


―右五人壱人宛一月番ニ承言上 ●「日記」

寛永15年11月7日 大番・寄合等を指揮

寛永15年11月7日 大御番并寄合は伊豆守豊後守対馬守御用可奉 ●「日記」

寛永16年1月5日 武蔵国川越城6万石 ●「日記」共

寛永16年8月23日 大奥御厨のことをうけたまわる

寛永16年8月23日 奥方之御台所迠令参上御用等可相叶 ●「日記」

(寛永20年9月15日) (牧野佐渡守右松平伊豆守在京中御鷹方支配可致進退) ●「日記」

寛永20年11月4日 侍従

寛永20年11月13日 使者を以御樽肴進上之是今度官位被仰付忝之旨也 ●「日記」

寛永20年12月16日 今度於京都侍従任官之御礼 ●「日記」

正保4年7月5日 武蔵国川越城7万5000石

寛文2年3月16日
松平信綱次女
寛政譜4・407
伊豆守信綱の次女
寛政譜5・251
母は井上主計頭正就の女

寛永12年7月8日 土井遠江守利隆と縁組 ●「日記」


土井遠江守利隆と離婚


以下不詳
松平信久 寛永11年 生。兵助。次郎左衛門
まつだいらのぶひさ
次郎左衛門信貞の男
寛政譜1・209
母は馬場喜八郎の女


妻は松平太郎左衛門重和の女

寛永18年3月1日 はじめて家光に拝謁

寛永18年3月1日 樽代前ニ置一同ニ御目見 ●「日記」

慶安2年12月26日 大番

万治2年12月25日 父信貞の遺跡を継ぐ。400石

寛文2年10月19日 小普請奉行

寛文12年12月23日 小普請奉行をゆるされる。小普請

元禄14年12月12日 致仕

元禄16年1月11日 死す
藤井松平信久 寛永6年 生。千熊。勘四郎。伯耆守
まつだいらのぶひさ
山城守忠国の長男
寛政譜1・45
母は戸田左門氏鉄の女
ふじい
室は青山大蔵少輔幸成の女

寛永12年12月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

(寛永20年2月28日) (勘四郎の初出) ●「日記」

寛永20年12月29日 従五位下・伯耆守

寛永20年12月29日 諸大夫 ●「日記」

(正保元年2月15日) (伯耆守の初出) ●「日記」

承応元年4月8日
形原松平信平
生。八左衛門。はじめ石川を称すか
まつだいらのぶひら
石川勘助正重の次男
寛政譜1・138
母は松平紀伊守家信の女
かたのはら
家光に仕える。小姓。500石


小姓を辞す


小姓組

寛永19年9月29日 死す
松平信吉
生。半之丞
まつだいらのぶよし
丹後守重信の長男
寛政譜1・115
母は松平助十郎正勝の女

寛永13年3月15日 はじめて家光に拝謁

寛永13年3月15日 松平助十郎子樽代を以御礼 ●「日記」


小姓組

明暦3年5月29日 死す
滝脇松平乗勝
生。五郎兵衛
まつだいらのりかつ
出雲守乗高の三男
寛政譜1・109
徳川頼宣に仕える
たきわき (正保元年12月12日) (紀伊亜相使者) ●「日記」



大給松平乗真 慶長15年 生。友之助。左近。左近大夫。肥前守
まつだいらのりざね
縫殿助真次の養子。内藤石見守信広の次男
寛政譜1・79
妻は養父真次の女

寛永9年7月 はじめて家光に拝謁

寛永9年12月6日 従五位下・左近大夫

寛永9年12月6日 諸大夫 ●「日記」

(寛永9年12月6日) (左近) ●「日記」

(寛永11年7月18日) (左近大夫の初出) ●「日記」

正保3年11月12日 養父真次の遺跡分知。3000石

慶安元年10月27日 小姓組番頭

明暦元年9月15日 書院番頭

万治元年1月11日 大番頭

寛文9年7月27日 駿府城代。5000石

延宝4年5月28日 駿府城代を辞す

延宝5年3月7日 致仕

延宝5年11月2日 死す
大給松平乗次 寛永9年 生。左七郎。縫殿助。縫殿頭
まつだいらのりつぐ
縫殿助真次の長男
寛政譜1・77
室は本多伯耆守正直の女
おぎゅう 寛永15年8月1日 はじめて家光に拝謁

寛永15年8月1日 松平縫殿助子并孫以太刀目録初て御目見 ●「日記」

正保3年11月12日 父真次の遺跡を継ぐ。4000石

寛文2年3月7日 小姓組番頭

寛文2年12月27日 従五位下・縫殿頭

寛文9年7月8日 書院番頭

寛文12年12月3日 大番頭

天和元年9月14日 留守居

天和2年4月21日 6000石

貞享元年2月16日 大坂定番。1万6000石

貞享4年8月1日
滝脇松平乗次 (天正10年) 生。右馬助。金次郎。監物
まつだいらのりつぐ
出雲守乗高の長男
寛政譜1・109
母は鈴木三郎大夫の女
たきわき ~慶長3年 家康に仕える

慶長6年11月20日 600石。徒の者を預かる

元和9年7月3日 家光に付属される。書院番組頭

元和9年8月6日 従五位下・監物

(承応2年) 死す
滝脇松平乗次息
監物乗次の実子長男か?
まつだいらのりつぐそく 寛永9年12月26日 御目見 ●「日記」



大給松平乗寿 慶長5年 生。源次郎。和泉守。侍従
まつだいらのりなが
和泉守家乗の長男
寛政譜1・57
母は石川長門守康通の女
おぎゅう
室は松平丹波守戸田康長の女

慶長19年2月 父家乗の遺領を継ぐ。美濃国岩村城2万石


はじめて家康・秀忠に拝謁

慶長19年10月 大坂の役にて美濃衆の組頭

元和元年1月27日 従五位下・和泉守

元和元年 大坂の役にて美濃衆・信濃衆の組頭

寛永11年2月22日 出雲国にて大小の事を沙汰

寛永15年4月25日 奏者番。遠江国浜松城3万6000石

寛永15年4月25日 遠州浜松之城被下之其上壱万六千石余之御加増―


―都合三万六千石余御奏者番被仰付之 ●「日記」

正保元年2月28日 上野国館林城6万石

正保元年2月28日 弐万五千石御加増都合六万石ニて舘林へ得替 ●「日記」

正保元年4月21日 家綱に付属される ●「日記」共

正保2年1月2日 従四位下

慶安3年9月19日 宿直をゆるされて西丸に勤仕

慶安4年 本丸にて加判の列に入る

慶安4年8月16日 侍従

承応3年1月26日
大給松平乗延 寛永4年 生。内膳。伝兵衛。道池
まつだいらのりのぶ
但馬守知乗の長男
寛政譜1・70
母は松平薩摩守忠吉家臣山上五郎左衛門信安の女
おぎゅう
妻は大沢右京亮基重の女


後妻は加藤太郎左衛門良勝の女

寛永12年4月11日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永19年6月20日 書院番

寛永19年6月20日 松平内匠御書院番被仰付 ●「日記」

正保元年12月25日 三百俵 ●「日記」

慶安元年5月21日 書院番。進物役

万治2年12月25日 父知乗の遺跡を継ぐ。900石

延宝5年 書院番を辞す

元禄4年12月2日 致仕。道池と号す

元禄7年閏5月7日 死す
大給松平乗久 寛永10年 生。源次郎。宮内少輔。和泉守
まつだいらのりひさ
和泉守乗寿の長男
寛政譜1・58
母は赤城氏
おぎゅう
室は水野監物忠善の女

寛永17年6月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保3年12月30日 従五位下・宮内少輔

正保4年1月1日 歳首等の御礼に隔年で諸大夫の上首に列す

承応元年1月2日 謡初に父乗寿の代わりに着座

承応3年3月7日 父乗寿の遺領を継ぐ。上野国館林城5万5000石。帝鑑間に伺候

承応3年12月14日 命により和泉守に改める

寛文元年閏8月3日 下総国佐倉城6万石

延宝6年1月23日 肥前国唐津城7万石

貞享3年7月17日
松平彦左衛門

まつだいらひこざえもん
深溝松平主殿頭忠房の家臣






能見松平英親 寛永2年 生。長門。市正。宗閑
まつだいらひでちか
丹後守重直の長男
寛政譜1・194
母は能見松平丹後守重忠の次女
のみ
室は松平若狭守康信の女

寛永12年8月25日 帷子五進上之 ●「日記」

寛永20年3月26日 父重直の遺領を継ぐ。豊前国高田城3万2000石。帝鑑間に伺候

寛永20年3月26日 松平丹後守遺跡三万七千石之内三万弐千石嫡子市正三千石二男修理―


―弐千石三男宮内 ●「日記」

寛永20年4月1日 はじめて家光に拝謁

寛永20年4月1日 亡父遺跡相続被仰付御礼申上之 ●「日記」

寛永20年9月27日 火消 ●「日記」

寛永20年12月29日 従五位下・市正

寛永20年12月29日 諸大夫 ●「日記」

正保元年5月4日 火消之役人之内就交替御暇被下面々依有之今日改被仰付之一番 ●「日記」

正保2年7月14日 豊後国木付城3万2000石

元禄5年12月4日 致仕。宗閑と号す

宝永3年3月10日
松平兵庫頭
松前志摩守の誤りか不明
まつだいらひょうごのかみ




能見松平昌舎 文禄3年 生。長右衛門
まつだいらまさいえ
庄右衛門昌利の次男
寛政譜1・185
母は渥美太郎兵衛友勝の女
のみ
秀忠に仕える。200石


徳川忠長に付属される

(寛永9年)~ 家光に仕える。大番。200石

寛永16年閏11月7日 大坂蔵奉行 ●「日記」共

寛永20年12月18日 200俵

寛永20年12月18日 知行悪所ニ付御切米ニ替被下之 ●「日記」

明暦元年11月8日 死す
宮石松平正勝 寛永14年 生。宇右衛門。内蔵助。東市正
まつだいらまさかつ
備中守正成の男
寛政譜1・97
母は肥田与左衛門正勝の女


妻は岡部外記元直の女

寛永20年8月30日 家綱に付属される。三丸に伺候


(上記、福釜松平宇右衛門康勝のことか?)


小姓

慶安3年9月9日 小姓伺候の席にて拝謁

承応3年2月27日 小姓組

寛文3年10月9日 父正成の遺跡を継ぐ。2000石

延宝5年4月27日 徒頭

延宝5年閏12月26日 布衣

延宝8年1月11日 先鉄炮頭

天和元年10月22日 持弓頭

天和2年4月21日 2500石

貞享3年9月18日 百人組頭

元禄8年1月11日 旗奉行

元禄8年6月10日 御側

元禄8年12月11日 従五位下。東市正

元禄10年2月14日 務をゆるされる。菊間広縁に伺候

元禄12年7月15日 死す
松平昌勝 寛永13年3月11日 生。仙菊。中務大輔
まつだいらまさかつ
伊予守忠昌の長男
越藩史略1-3・4
母は白石氏寿証君


室は松平隠岐守定行の三女専光院

寛永18年4月5日 松平伊予守登城是息両人於御奥初て御目見之御礼云々 ●「日記」

正保2年11月19日 越前国松岡5万石

慶安元年12月30日 従五位下

寛文3年12月 従四位下

元禄6年7月27日
松平政勝 慶長12年 生。次郎右衛門。彦大夫。鉄心
まつだいらまさかつ
七蔵長吉の男
寛政譜1・223
母は松平主殿助伊忠の三男新次郎伊長の女


妻は石坂忠兵衛の女

慶長19年 はじめて家康に拝謁

元和8年7月3日 大番

寛永15年5月8日 土圭間番 ●「日記」共

寛永18年12月4日 父長吉の遺跡を継ぐ。470石

寛永18年12月4日 四百石酒井和泉守与松平七蔵跡内弐百石惣領次郎右衛門ニ御切米ニ替―


―被下之次郎右衛門取来ル御切米弐百俵ハ上ル ●「日記」


小姓組

正保2年9月9日 亀松に付属される

慶安元年9月8日 亀丸逝去により大番

承応2年6月30日 大番組頭

万治元年閏12月25日 470石200俵

万治3年2月23日 納戸頭

万治3年12月28日 布衣

延宝元年3月21日 納戸頭を辞す

延宝2年12月3日 致仕。200俵。鉄心と号す

元禄7年閏5月15日 死す
滝脇松平正貞 元和8年 生。右衛門八。三郎大夫。次郎大夫
まつだいらまささだ
監物乗次の養子。青沼勘六郎昌次の次男
寛政譜1・109
母は滝脇松平出雲守乗高の長女
たきわき
妻は監物乗次の長女

寛永16年11月10日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永17年3月19日 書院番 ●「日記」共

寛永19年12月10日 三百俵従当年新規被下之 ●「日記」

承応2年3月25日 養父乗次の遺跡を継ぐ。600石

延宝8年7月14日 死す
宮石松平正茂 慶長19年 生。市郎左衛門
まつだいらまさしげ
加賀右衛門正次の次男
寛政譜1・99
母は水野伝兵衛近信の女
みやいし
妻は大久保加平次昌之の女

寛永15年12月6日 父正次の遺跡を賜る。300石。大番

寛永15年12月6日 松平加々右衛門跡五百石之内三百石二男一郎左衛門ニ被下之―


―惣領は各々ニ知行令拝領付二男ニ被下依て如此也云々 ●「日記」

寛永16年1月28日 松平加々右衛門死去ニ付て跡目被仰付面々御礼 ●「日記」

寛永20年8月 新番

寛永20年8月8日 於土圭之間御番相詰其上方々御成之刻御先え参御殿御番等可相勤之旨―


―被仰付之由伊豆豊後列座有之民部少輔伝之安西甚兵衛組 ●「日記」

正保4年2月26日 膳奉行

慶安元年3月25日 綱吉に付属される。抱守

明暦2年3月10日 膳奉行(家綱に仕えるか)

万治3年4月15日 二丸留守居

寛文9年5月18日 死す
宮石松平正次 天正12年 生。三右衛門。加賀右衛門
まつだいらまさつぐ
加賀右衛門康次の次男
寛政譜1・97
母は奥平監物貞勝の女
みやいし
妻は水野伝兵衛近信の女

~慶長5年 家康に仕える。大番

~慶長19年 秀忠に仕える

元和元年 父康次の遺跡を継ぐ。460石


大番組頭

寛永10年2月3日 御番御赦免 ●「日記」

(寛永10年8月21日) (賀右衛門) ●「日記」

寛永14年9月19日 死す
深溝松平政次 元和元年 生。助之丞
まつだいらまさつぐ
瀬兵衛政勝の養子。松平市大夫忠次の次男
寛政譜1・176
母は安藤次右衛門正次の養女巨海彦八郎忠正の女
ふこうず
妻は安藤市郎兵衛忠次の女

寛永11年 養父政勝の遺跡を継ぐ。160石30俵。大番

寛永20年8月8日 新番

寛永20年8月8日 於土圭之間御番相詰其上方々御成之刻御先え参御殿御番等可相勤之旨―


―被仰付之由伊豆豊後列座有之民部少輔伝之遠山十右衛門組 ●「日記」

慶安元年10月27日 新番組頭

慶安4年11月21日 160石230俵

承応元年12月18日 死す
松平正朝 寛永6年 生。喜内。主水。紀伊守。はじめ秋元を称す
まつだいらまさとも
松平右衛門大夫大河内正綱の四男
寛政譜5・11
母は饗庭氏


妻は大久保主膳正幸信の女


秋元但馬守泰朝の養子となる

寛永18年8月9日 はじめて家光に拝謁。家綱に付属される。小姓

寛永18年8月9日 若君様為御奉公人今日御目見 ●「日記」

(寛永18年9月2日) (若君様御小姓衆) ●「日記」


実父正綱のもとに戻る

慶安元年7月11日 父正綱の遺跡分知。3000石


中奥に伺候

慶安4年8月16日 従五位下・紀伊守

寛文4年12月28日 3500石

寛文10年9月4日 務を辞す。寄合

天和2年6月3日 死す
大草松平正朝
生。善四郎。壱岐守
まつだいらまさとも
石見守康安の長男
寛政譜1・144
妻は松平五左衛門近正の女
おおくさ ~天正18年 家康に仕える

慶長5年 秀忠に仕える

慶長10年4月16日 従五位下・壱岐守

元和元年 大坂の役にて書院番の小頭

元和8年 大番頭。1000石

元和9年5月 父康安の遺跡を継ぐ。(7000石?)。駿府定番

寛永2年 駿河大納言徳川忠長に付属される。(大番頭。7000石?)

寛永9年 水谷伊勢守勝隆に召し預けられる

寛永12年1月 恩免あり。徳川頼房に付属される。家老。(7000石?)

(寛永17年) (死す? 致仕?)


以下不詳
大草松平正永
生。善四郎。壱岐守。因幡守
まつだいらまさなが
壱岐守正朝の長男
寛政譜1・145
秀忠に仕える
おおくさ (寛永2年) 父正朝とともに徳川忠長に付属される

(寛永9年) 流浪

寛永17年12月15日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共


父正朝に継いで徳川頼房に仕える。家老。従五位下・壱岐守


死す。断絶
宮石松平正成 慶長14年 生。内蔵助。大隅守。左京亮。備中守
まつだいらまさなり
加賀右衛門正次の長男
寛政譜1・97
母は水野伝兵衛近信の女
みやいし
妻は肥田与左衛門正勝の女


秀忠に拝謁

寛永2年6月7日 小姓組。300俵

寛永10年2月7日 500石

(寛永10年8月1日) (内蔵丞) ●「日記」

寛永19年11月1日 家綱に付属される

寛永19年11月1日 松平内蔵助義若君様え御奉公可仕之由上意之旨牧野内匠頭へ引合之―


―伊豆守対馬守伝之則内蔵助義御奥へ内匠頭令同道云々 ●「日記」

寛永20年1月10日 布衣 ●「日記」共

正保4年12月5日 800石

慶安3年9月8日 傅役

慶安3年9月9日 馬方支配

慶安4年8月16日 従五位下・大隅守

慶安4年11月21日 1300石

万治3年12月1日 2000石

寛文3年8月16日 死す
長沢松平正信
生。戸一郎。弥右衛門
まつだいらまさのぶ
清左衛門親正の長男
寛政譜1・217
母は松平清四郎重忠の女
ながさわ 寛永10年7月26日 はじめて家光に拝謁

寛永10年7月26日 御礼申上 ●「日記」

寛永12年 大番

承応2年閏6月5日 死す
能見松平昌信 慶長4年 生。伝六郎
まつだいらまさのぶ
庄右衛門昌利の三男
寛政譜1・186
母は渥美太郎兵衛友勝の女
のみ
妻は松平下総守家臣小原次郎兵衛の女


秀忠に仕える。200石


徳川忠長に付属される

(寛永9年) 処士か


召し返される。家光に仕える。大番。200石

寛文元年5月14日 裏門切手番頭

寛文元年12月12日 200石200俵

寛文5年10月14日 死す
大草松平正村
生。源太郎
まつだいらまさむら
壱岐守正朝の次男
寛政譜1・145 元和5年4月16日 はじめて秀忠に拝謁
おおくさ 元和8年 家光に仕える

元和9年 小姓組

寛永元年 小姓

寛永2年 書院番


300石

寛永10年2月7日 500石


以下不詳
大給松平正吉 文禄4年 生。采女。五左衛門
まつだいらまさよし
五左衛門近正の三男
寛政譜1・92
母は大久保六左衛門の女
おぎゅう
妻は大久保六右衛門忠尚の女

慶長15年 はじめて秀忠に拝謁

慶長17年 番をつとめる

慶長19年 大坂の役にて小姓組

元和元年 大坂の役にて小姓組

元和元年 500石

寛永9年11月5日 小姓組・進物役

寛永9年11月5日 本番御免。進物番 ●「日記」

寛永10年2月7日 700石

寛永13年9月20日 進物役を免除

寛永13年9月20日 年寄候付て御進物番御赦免 ●「日記」

正保3年9月24日 死す
松平政良
生。備前守。普伯
まつだいらまさよし
因幡守康元の次男
寛政譜1・280
忠長に仕える

寛永9年 処士。京都に蟄居。(普伯と号す)

寛永13年3月28日 松平備前病後之御目見 ●「日記」


以下不詳
能見松平昌吉 文禄元年 生。伝市郎。勝左衛門。庄左衛門
まつだいらまさよし
庄右衛門昌利の長男
寛政譜1・180
母は渥美太郎兵衛友勝の女
のみ
妻は山田清大夫重次の女

慶長9年3月 はじめて秀忠に拝謁。小姓

~慶長19年 大番組頭

元和9年4月 家光に仕える

寛永2年12月11日 630石の朱印

寛永10年2月13日 1130石

寛永19年2月5日 留守居番。与力7騎同心23人。1630石

寛永20年12月29日 布衣 ●「日記」共

万治2年7月13日 致仕。400石

万治2年10月19日 死す
松平万五郎

まつだいらまんごろう (寛永10年7月4日) (生見玉為御祝黄金十両宛献之) ●「日記」


家門か?



松平光長 元和元年11月29日 生。仙千代。越後守。少将。中将
まつだいらみつなが
三河守忠直の長男
華族系譜
母は秀忠の四女高田殿勝姫天崇院
(徳川諸家系譜4・100)
室は松平長門守毛利秀就の女広国院

元和7年10月 はじめて秀忠に拝謁。殿中にて養育される

元和9年2月10日 父忠直の家督を継ぐ。越前国北之荘城75万石

寛永元年3月15日 越後国高田城25万石

寛永3年 城中より麹町の旧邸に移る

寛永6年11月11日 殿上にて元服。従四位下・左近衛権少将・越後守。家光より偏諱

寛永8年7月9日 輿入れあり

慶安4年12月25日 従三位・右近衛権中将

天和元年6月26日 松平隠岐守定直に召し預けられる。伊予国松山に蟄居。1万俵

貞享4年10月24日 赦免。3万俵

元禄10年5月6日 致仕

宝永4年11月17日
松平光通 寛永13年7月23日 生。万千代。侍従。少将。越前守
まつだいらみつみち
伊予守忠昌の次男
越藩史略1-3・5
母は広橋大納言兼賢の長女慶寿院
越藩史略4-8・169
室は松平越後守光長の長女国姫清池院
華族系譜 寛永17年9月9日 江戸に至る
(徳川諸家系譜4・4) 寛永18年4月5日 松平伊予守登城是息両人於御奥初て御目見之御礼云々 ●「日記」
(徳川諸家系譜4・10) 正保2年11月19日 父忠昌の遺領を継ぐ。越前国福井城45万石
越前人物志上・172 正保2年12月30日 従四位下。侍従

慶安元年8月21日 従四位上。左近衛権少将。越前守。偏諱を賜る

慶安2年12月25日 元服

明暦元年4月13日 室が入輿

寛文11年3月28日 室が逝去

延宝2年3月24日
五井松平元成
生。(三十郎)。六郎右衛門
まつだいらもとなり
外記忠実の三男
寛政譜1・148 寛永12年12月15日 はじめて家光に拝謁
ごい 寛永12年12月15日 松平外記二番目子太刀目録を以御目見 ●「日記」

寛永18年4月16日 松平三十郎御書院番 ●「日記」

寛永20年12月18日 松平六郎左衛門三百俵 ●「日記」


以下不詳
福釜松平康勝 慶長13年 生。宇右衛門。三郎右衛門。宇右衛門
まつだいらやすかつ
筑後守康親の三男
寛政譜1・30
母は石川豊前守春重の女

寛永7年7月18日 はじめて家光に拝謁。小姓組


300俵

寛永10年2月7日 500石

寛永20年 家綱に付属される。三丸に伺候

寛永20年8月30日 若公様え被為附之三丸御殿御番被仰付之 ●「日記」

慶安3年3月27日 三丸膳奉行

慶安3年9月9日 奥小姓伺候の席にて拝謁


西丸に伺候

慶安4年6月13日 務を辞す

明暦2年3月10日 死す
福釜松平康次 元和7年 生。右京
まつだいらやすつぐ
筑後守康盛の長男
寛政譜1・26
母は松平外記忠実の女
ふくがま 寛永6年 はじめて秀忠に拝謁

寛永13年8月9日 小姓組 ●「日記」共

寛永17年 死す
福釜松平康俊
生。三郎次郎
まつだいらやすとし
筑後守康盛の次男
寛政譜1・26
母は松平外記忠実の女
ふくがま 寛永18年6月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永19年6月20日 小姓組 ●「日記」共

正保元年12月25日 三百俵 ●「日記」

寛文11年12月12日 父康盛の遺跡を継ぐ。800石

延宝4年10月23日 先鉄炮頭

延宝4年12月26日 布衣

天和2年1月5日 死す
形原松平康信 慶長5年 生。又七郎。若狭守。別峯
まつだいらやすのぶ
紀伊守家信の次男
寛政譜1・129
母は太田備中守輝資の女
かたのはら
室は紀伊家老水野出雲守重仲の女


継室は酒井讃岐守忠勝の女

慶長14年 はじめて秀忠に拝謁

慶長17年 従五位下・若狭守。御茶の番

慶長19年 大坂の役にて井上主計頭正就に属す

元和元年 大坂の役にて徳川頼宣に属す

元和5年9月 父家信より分知。5000石

寛永15年5月16日 父家信の遺領を継ぐ。下総国佐倉城3万6000石

寛永15年5月16日 松平紀伊守遺跡息若狭守被仰付之然て彼領知四万石之内ニて―


―弐千石宛弟修理亮新九郎ニ被頒下之 ●「日記」

寛永15年6月1日 継目之御礼 ●「日記」

寛永17年9月28日 摂津国高槻城3万6000石 ●「日記」共

慶安2年7月4日 丹波国笹山城5万石

寛文7年12月28日 従四位下

寛文9年9月29日 致仕。別峯と号す

天和2年6月13日
松平康久 慶長6年 生。乱。渋右衛門。頼母。図書。無三
まつだいらやすひさ
因幡守康元の三男
士林泝洄4・598
徳川義直に仕える。大寄合。2500石


城代


致仕。無三と号す

延宝3年~ 月俸300口

天和元年11月14日 死す
福釜松平康盛 慶長6年 生。三郎次郎。右京亮。讃岐守。筑後守
まつだいらやすもり
筑後守康親の長男
寛政譜1・26
母は石川豊前守春重の女
ふくがま
妻は松平外記忠実の女


幼少より家康に近侍

元和2年1月1日 従五位下。(右京亮)

元和3年5月26日 父康親の遺跡を継ぐ。1100石

~寛永3年 小姓組

寛文11年7月5日 死す
松平行隆 天正18年 生。甚三郎
まつだいらゆきたか
(兵庫頭親良の男)
寛政譜1・232
(母は内藤修理亮清成の女)


妻は北条家臣小畠良春の女

慶長5年8月 家康に拝謁

慶長11年9月 小姓

慶長16年1月15日 采地を賜る

元和3年~寛永3年 秀忠に仕える。西丸書院番


本丸に勤仕

寛永9年8月18日 使番 ●「日記」共

寛永9年11月27日 布衣 ●「日記」共

寛永10年12月26日 1000石

寛永10年12月26日 御加恩千石 ●「日記」

寛永15年7月2日 追放

寛永15年7月2日 追却 ●「日記」

慶安元年6月3日 ゆるされる

慶安3年12月27日 1000俵

慶安4年6月18日 先弓頭。300石1000俵

慶安4年11月4日 1300石

承応2年閏6月11日 死す
松平吉品 寛永17年4月17日 生。辰之助。兵部大輔。侍従。少将
まつだいらよしのり
兄越前守光通の養子。伊予守忠昌の四男
華族系譜
母は浦上氏高照院
(徳川諸家系譜4・4)
室は森内記長継の長女松桂院
越藩史略1―3・6 正保元年4月15日 松平伊予守息疹相煩付て為上使多賀左近被遣之 ●「日記」

正保2年11月19日 父忠昌の遺領分知。越前国吉江2万5000石

慶安4年12月28日 従五位下・兵部大輔

寛文4年12月28日 従四位下

延宝2年5月6日 養父光通の遺領を継ぐ。越前国福井城47万5000石

延宝2年12月29日 侍従

延宝4年7月21日 致仕

貞享3年閏3月6日 養子綱昌逼塞により再勤。越前国福井城25万石

元禄9年12月5日 左近衛少将

宝永7年7月5日 致仕

正徳元年9月12日
松平与八郎

まつだいらよはちろう
徳川頼宣に仕える

(寛永13年12月21日) (紀伊亜相使者) ●「日記」



松平頼重 元和8年7月1日 生。竹丸。八十郎。兵部。右京。右京大夫。讃岐守。少将。源英。竜雲軒
まつだいらよりしげ
水戸中納言徳川頼房の長男
華族系譜
母は谷氏久昌院
(徳川諸家系譜3・97)
室は土井大炊頭利勝の五女
(徳川諸家系譜3・104)
水戸家臣三木仁兵衛之次に養育される
幕府祚胤伝 寛永7年6月 滋野井大納言季吉のもと京都西嵯峨に閑居
(徳川諸家系譜2・45)
(出家のち還俗。兵部と称す) ●「幕府祚胤伝」

寛永9年12月 江戸水戸徳川邸に帰る

寛永15年11月2日 従五位下・右京大夫

寛永15年12月27日 水戸黄門御息右京殿可被召出之 ●「日記」

寛永15年12月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永16年7月13日 常陸国下館城5万石

寛永16年7月13日 新恩五万石於常州下館領被下之 ●「日記」

寛永17年4月1日 従四位下。侍従

寛永17年4月1日 侍従 ●「日記」

寛永19年2月28日 讃岐国高松城12万石

寛永20年12月28日 縁辺 ●「日記」

正保元年5月11日 御礼今度祝言依相済也 ●「日記」

明暦2年1月23日 はじめて参内

明暦2年1月29日 従四位上。左近衛権少将

寛文2年1月27日 讃岐守

寛文9年3月21日 病により嗣子頼常が名代となる

延宝元年2月19日 隠居

延宝元年2月28日 源英と称す

元禄8年4月12日
松平頼隆 寛永6年 生。右近。播磨守。侍従
まつだいらよりたか
水戸中納言徳川頼房の五男
華族系譜 寛永20年5月18日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共
(徳川諸家系譜3・137) 正保3年12月29日 従四位下。侍従。播磨守
(徳川諸家系譜3・142) 寛文元年9月26日 父頼房の遺領分知。常陸国保内2万石

元禄13年9月25日 常陸国府中2万石

宝永2年9月28日 致仕

宝永4年11月30日
松平頼元 寛永6年7月14日 生。児麻呂。中務。丹波。刑部大輔。侍従
まつだいらよりもと
水戸中納言徳川頼房の四男
華族系譜
母は佐々木五郎左衛門政勝の女勝円理院
(徳川諸家系譜3・159)
室は小笠原右近将監忠真の次女嘉禰順敬夫人

寛永17年6月1日 元服。丹波と称す

寛永20年5月18日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保3年12月30日 従四位下。侍従

万治元年6月15日 婚礼

寛文元年9月26日 父頼房の遺領分知。常陸国額田2万石

元禄6年4月28日
松平六之助

まつだいらろくのすけ 寛永11年2月8日 初て御目見 ●「日記」

寛永19年6月20日 御小姓与 ●「日記」

正保元年12月25日 三百俵 ●「日記」



松田牛之助

まつだうしのすけ
伝助の養子

寛永19年12月10日 松田伝助跡養子牛之助 ●「日記」



松田勝居 慶長16年 生。平右衛門
まつだかつすえ
善右衛門勝政の長男
寛政譜13・361
母は松平周防守松井康重の養女井上源吾の女

寛永3年 はじめて秀忠に拝謁

寛永6年 西丸書院番

寛永9年12月3日 300俵

寛永16年~ 400石

寛永18年10月8日 如前々江戸中昼夜見舞之役被仰付 ●「日記」

寛永20年6月26日 死す
松田勝政 天正18年 生。三郎兵衛。善右衛門
まつだかつまさ
勝右衛門政行の養子
寛政譜13・360
山内土佐守家臣野中主計益継の男


母は山内但馬守盛豊の女


妻は松平周防守松井康重の養女井上源吾の女

慶長8年 家康に仕える

慶長11年 養父政行の遺跡を継ぐ。1000石

~慶長19年 書院番

寛永10年12月19日 1200石

寛永10年12月19日 御加増被下之弐百石 ●「日記」


1230石

寛永20年4月13日 使番

寛永20年6月17日 出仕をとどめられる ●「日記」共

正保元年1月27日 赦免 ●「日記」共

正保元年12月29日 布衣 ●「日記」共

承応2年閏6月25日 死す
松田定勝 永禄2年 生。孫太郎。六郎左衛門
まつださだかつ
肥後康江の男
寛政譜13・355
母は山角紀伊守の女


妻は蔭山刑部左衛門の女


北条家臣

天正18年 家康に拝謁

慶長5年 関ケ原の役にて秀忠に従う

慶長19年 大坂の役にて鎗奉行

寛永2年12月11日 500石

寛永9年6月15日 鎗大将

寛永9年6月25日 鑓奉行 ●「日記」

寛永9年7月1日 同心10人を預かる ●「日記」共

寛永9年11月20日 布衣 ●「日記」共

寛永10年12月28日 1000石

寛永10年12月28日 五百石御加恩 ●「日記」

寛永16年11月17日 旗奉行 ●「日記」共

正保2年8月11日 死す
松田貞次
生。(孫四郎)。孫次郎
まつださだつぐ
六郎左衛門定平の長男
寛政譜13・356
母は大久保甚左衛門忠直の女

寛永13年3月25日 はじめて家光に拝謁

寛永13年3月25日 松田孫太郎子被召出之 ●「日記」

寛永13年3月25日 皆川山城守組(大番) ●「日記」


大番

寛永20年12月18日 松田孫四郎大御番無足当年より御切米弐百俵被下之 ●「日記」

延宝元年10月29日 死す
松田定綱
生。六之助。太左衛門
まつださだつな
六郎左衛門定勝の四男
寛政譜13・359 寛永17年2月10日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永18年4月16日 書院番 ●「日記」共

寛永20年12月18日 300俵 ●「日記」共

明暦元年~ 書院番を辞す。小普請

天和2年6月3日 書院番

某年 死す
松田定秀
生。七郎右衛門
まつださだひで
六郎左衛門定勝の三男
寛政譜13・358
母は蔭山刑部左衛門の女


妻は青木又右衛門正頼の女

寛永13年3月15日 はじめて家光に拝謁。小姓組。300俵

寛永13年3月15日 松田六郎左衛門尉子樽代を以御礼 ●「日記」

寛永13年8月9日 松田勝之助御小姓組御番被仰付之 ●「日記」

明暦元年~ 小姓組を辞す。小普請


大番


大番を辞す

宝永3年1月28日 死す
松田定平 慶長4年 生。孫太郎。六郎左衛門。松安
まつださだひら
六郎左衛門定勝の長男
寛政譜13・356
母は蔭山刑部左衛門の女


妻は大久保甚左衛門忠直の女


秀忠に仕える。大番

(寛永13年3月25日) (皆川山城守組) ●「日記」

正保2年12月19日 父定勝の遺跡を継ぐ。1000石

慶安元年 目付

慶安元年3月27日 日光社参のとき仮の鎗奉行

慶安3年9月3日 鎗奉行。家綱に付属される

慶安4年8月16日 布衣

延宝4年1月23日 鎗奉行を辞す

延宝6年7月10日 致仕。松安と号す

貞享4年9月6日 死す
松田貞正
生。又兵衛
まつださだまさ
源太郎貞行の男
寛政譜21・189
家光に仕える。御家人


徒目付


貝吹役

寛永18年6月25日 御歩行目付松田又兵衛貝吹役被仰付之 ●「日記」

(明暦2年) 死す
松田伝助

まつだでんすけ



御留守居方 ●「日記」寛永19年12月10日条

(寛永19年) 死す
松田直長 永禄5年 生。助六郎。市兵衛
まつだなおなが
兵衛大夫康長の男
寛政譜13・353
妻は山角左近大夫の女


北条氏直に仕える。偏諱を賜る

天正18年 父康長の遺跡を継ぐ。337貫600文

天正18年 処士

文禄4年 家康に仕える。230石。大番


430石

慶長19年 大坂の役に従う

元和元年 大坂の役に従う

慶安元年3月13日 家綱に付属される。二丸に勤仕

(慶安3年) 西丸に勤仕

(慶安4年) 本丸に勤仕

明暦3年8月30日 死す
松田長重
生。源三郎。市兵衛
まつだながしげ
市兵衛直長の長男
寛政譜13・353 寛永13年3月25日 はじめて家光に拝謁

寛永13年3月25日 松田市兵衛子初て御目見 ●「日記」

寛永13年12月27日 書院番 ●「日記」共

寛永16年12月13日 御切米三百俵 ●「日記」

慶安3年9月3日 家綱に付属される。西丸に勤仕

(慶安4年) 本丸に勤仕

明暦3年12月25日 父直長の遺跡を継ぐ。430石

寛文11年12月12日 致仕

宝永2年11月5日 死す
松殿道昭 元和元年2月17日 生。少将。中将。中納言。大納言。大将
まつどのみちあき
少将家豊の中絶家を再興。九条関白幸家の三男
諸家伝下・935
母は羽柴少将秀勝と崇源院の女従二位完子天真院
宮廷公家系図集覧249
室は水戸中納言徳川頼房の長女
宮廷公家系図集覧253 寛永11年閏7月8日 正五位下。元服。禁色。昇殿

寛永11年閏7月13日 松殿御上檀御礼 ●「日記」

(寛永11年閏7月13日) (松殿家今度御取立相続) ●「日記」

寛永13年10月20日 松殿へ知行千石被遣之 ●「日記」

寛永18年5月9日 左少将

寛永18年6月1日 松殿ヨリ太刀目録并薫袋被献之使者御目見是松殿事一代摂家之列―


―被仰付之并瑞龍院へ今度寺領五百石御寄附之御礼也 ●「日記」

寛永18年6月2日 従四位下

寛永18年11月16日 正四位下

寛永18年12月2日 左中将

寛永19年1月5日 従三位

寛永19年3月2日 権中納言。左中将

寛永20年1月11日 権大納言

寛永20年9月7日 権大納言。右大将

寛永20年9月16日 正三位

寛永20年12月28日 水戸殿息女松殿え可嫁 ●「日記」

正保元年1月10日 従二位

正保2年10月18日 正二位

正保3年6月12日 薨去
松永太郎助
生。太郎助
まつながたろすけ
太郎右衛門正重の長男
寛政譜18・299 寛永13年12月15日 はじめて家光に拝謁

寛永13年12月15日 太郎右衛門子松永太郎八初て御目見 ●「日記」

寛永20年6月16日 小姓組


以下不詳
松永正重 天正18年 生。源蔵。太郎右衛門
まつながまさしげ
源蔵勝正の男
寛政譜18・299
家康に仕える。納戸番


現米50石

寛永12年9月12日 納戸組頭

寛永12年9月12日 累年雖為御納戸衆今日組頭ニ被仰付之 ●「日記」

慶安4年11月21日 現米150石

万治3年3月18日 納戸組頭を辞す

寛文10年10月14日 致仕

寛文10年12月2日 死す
松波勝令 寛永2年 生。重蔵。十右衛門。五郎右衛門。十右衛門
まつなみかつよし
五郎右衛門勝安の養子。駒井清左衛門長成の次男
寛政譜14・403
母は五郎右衛門勝安の長女


妻は松平美濃守勝広の女

(正保元年2月5日) (御代官) ●「日記」

正保3年2月28日 養父勝安の遺跡を継ぐ。600石。摂津河内の代官

寛文8年4月21日 但馬国銀山の代官

延宝7年1月24日 代官を辞す。小普請

元禄16年12月18日 致仕

宝永3年7月3日 死す
松波重種 慶長4年 生。五郎兵衛
まつなみしげたね
梶平重次の長男
寛政譜14・409
母は萩原氏


家光に仕える。納戸番

寛永12年9月12日 納戸組頭

寛永12年9月12日 累年雖為御納戸衆今日組頭ニ被仰付之 ●「日記」

寛永17年12月10日 父重次の遺跡を継ぐ。620石

寛永17年12月10日 松波梶平跡目惣領五郎兵衛ニ被仰付之先年御加増之分は何も雖被召上之―


―五郎兵衛儀於御納戸方万事御奉公之事依入精御加恩共ニ被下置之旨―


―老中被申渡之自分之御切米は上ル ●「日記」

承応元年8月7日 死す
松波重次 永禄9年 生。六蔵。梶平
まつなみしげつぐ
兄梶平重正の嗣。但馬守重隆の三男
寛政譜14・409
妻は萩原氏

文禄 家康に拝謁。兄重正の遺跡を賜る

~慶長5年 秀忠に仕える

元和元年~ 大番

~寛永3年 腰物奉行

寛永17年3月5日 死す
松波重信
生。源左衛門。六右衛門
まつなみしげのぶ
梶平重次の次男
寛政譜14・410
母は萩原氏

寛永16年7月18日 はじめて家光に拝謁

寛永16年7月18日 松波梶平子初て御目見 ●「日記」

寛永17年5月5日 大番

(寛永19年12月10日) (大御番) ●「日記」

寛永19年12月10日 200俵 ●「日記」共

慶安元年6月14日 新番


新番を辞す。小普請

寛文4年5月3日 死す
松波重宗 慶長14年 生。九兵衛
まつなみしげむね
梶平重次の三男
寛政譜14・411
母は萩原氏


妻は田沢久左衛門正勝の女


後妻は尾崎助大夫信重の女


家光に仕える。大番


200俵

寛永10年2月7日 400石

寛永20年11月7日 新番 ●「日記」共

万治2年11月28日 死す
松波政俊 天正18年 生。市右衛門
まつなみまさとし
平右衛門勝直の三男
寛政譜14・406
妻は幸田五左衛門継治の女

慶長14年12月16日 はじめて秀忠に拝謁。大番。300石

寛永20年10月21日 家綱に付属される。三丸番

寛永20年10月21日 従大御番被召出三丸御番被仰付之 ●「日記」

慶安3年6月26日 死す
松波政治 元和3年 生。市平。甚左衛門
まつなみまさはる
市右衛門政俊の次男
寛政譜14・406
妻は建部伝右衛門直昌の女

寛永13年8月21日 はじめて家光に拝謁

寛永13年12月6日 杉浦市兵衛初て御目見 ●「日記」松波市平の誤りか

寛永18年2月16日 大番

(寛永20年12月18日) (甚左衛門の初出か) ●「日記」

寛永20年12月18日 弐百俵 ●「日記」

慶安3年12月11日 父政俊の遺跡を継ぐ。300石

寛文3年2月23日 大番組頭

寛文3年12月26日 300石200俵

延宝7年12月26日 死す
松波光友 元和3年6月26日 生。丹後守。左衛門大尉
まつなみみつとも
兄左衛門大尉資光の嗣。左衛門大尉資久の三男
地下家伝中・933 寛永3年2月22日 従五位下
宮廷公家系図集覧669 寛永11年6月6日 丹後守

寛永20年9月15日 左衛門大尉

寛文8年6月10日 従五位上

延宝6年8月21日 正五位下

天和元年11月10日
松野主馬

まつのしゅめ
小早川秀秋に仕える。家老


小早川家を立ち退く


田中吉政・忠政に仕えるか


処士

正保元年8月18日 牢人松野主馬は本多能登守領中可置之 ●「日記」


以下不詳
松野助勝
生。惣右衛門
まつのすけかつ
摂津守助正の次男
寛政譜18・274
母は北条十郎氏房家臣広沢尾張守信秀の女


家康に仕える


大番。200俵

(寛永17年3月9日) (大御番) ●「日記」

慶安元年9月25日 綱吉に付属される

慶安3年5月4日 同僚勝屋長七郎利元に傷を受け死す
松野助次
生。九十郎。源太郎。孫左衛門
まつのすけつぐ
惣右衛門助勝の養子。朝比奈久兵衛吉続の次男
寛政譜18・274
妻は惣右衛門助勝の長女

(寛永17年3月9日) (松野惣右衛門子源太郎) ●「日記」

寛永17年3月9日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共


大番

寛永20年12月18日 200俵 ●「日記」共

慶安元年3月25日 綱重に付属される。傅役


小姓組の頭


用人

天和3年12月10日 死す
松橋尭円 元亀元年 生。一雅。大僧正
まつはしぎょうえん
阿野大納言実顕の兄
宮廷公家系図集覧294
今出川右大臣晴季の猶子

(今出川右大臣晴季の三男とも)


大僧正


松世20世門跡(松橋流無量寿院のことか?)


醍醐寺無量寿院の院主


東寺89世長者

(寛永11年7月21日) (院家之僧正)(松橋前大僧正) ●「日記」

寛永13年 遷化
松前氏広 寛永元年 生。(弁之助)。主殿。弁之助
まつまえうじひろ
志摩守公広の次男
寛政譜3・200
母は大炊御門大納言資賢の女


妻は家臣蠣崎主殿友広の女

寛永15年3月1日 はじめて家光に拝謁

(寛永18年12月4日) (主殿の初出) ●「日記」

寛永18年12月4日 父公広の遺跡を継ぐ。蝦夷国松前

寛永18年12月4日 松前志摩守遺跡惣領主殿ニ被下之 ●「日記」

(寛永18年12月15日) (弁之助) ●「日記」

慶安元年8月25日 死す
松前公広 慶長3年 生。竹松丸。甚五郎。志摩守
まつまえきんひろ
若狭守盛広の男
寛政譜3・199
母は下国氏


妻は大炊御門大納言資賢の女

慶長18年11月9日 はじめて秀忠に拝謁

慶長19年2月26日 従五位下・志摩守

元和3年 祖父伊豆守慶広の遺跡を継ぐ。蝦夷国松前

寛永18年7月8日 死す
松前竹松

まつまえたけまつ
右兵衛兼広か? 寛政譜3・200



松前泰広 寛永2年 生。竹松丸。甚十郎。八左衛門
まつまえやすひろ
志摩守公広の三男
寛政譜3・202
母は蠣崎氏


妻は北条安房守正房の女


後妻は牧野越中守成儀の女

(寛永12年3月6日) (松平兵庫頭子竹松)泰広のことか不明 ●「日記」

寛永16年11月13日 はじめて家光に拝謁

(寛永18年12月15日) (甚十郎の初出) ●「日記」

正保3年12月4日 小姓組。1000俵

寛文9年10月 宗家の陣代としてシャクシャインを討つ

寛文10年12月22日 500石1000俵

寛文12年2月8日 蝦夷地にて再陣

延宝3年1月26日 使番

延宝3年12月26日 布衣

延宝6年9月14日 使番を辞す。小普請

延宝8年9月24日 死す
松村監物

まつむらけんもつ
堀尾山城守忠晴の家老



松村時直
生。吉左衛門
まつむらときなお
兄吉左衛門時安の嗣。弥助の次男
寛政譜15・3 慶長19年4月 兄時安に継いで代官となる。(300俵か)

正保3年6月11日 死す
松村弥三郎
細工人か
まつむらやさぶろう







松村与三左衛門
細工人か
まつむらよそうざえもん







松本作兵衛

まつもとさくびょうえ


寛永19年7月14日 今度御蔵衆私曲之与同人也雖然或軽罪或忠信之儀申出ニ付て―


―身命御助家財欠所之上佐渡え配流 ●「日記」



松本惣右衛門

まつもとそうえもん (寛永10年7月1日) (医師) ●「日記」






松山

まつやま


正保元年5月10日 女中荒木義森川長左衛門尉ト申町人母松山并長左衛門被相頼掠公義―


―御内々ノ上意之様申成長左衛門ヲ銀座成年寄依之荒木事土岐山城守ニ―


―御預息荒木左馬助細川肥後守御預長左衛門并松山男子之分昨夕断罪―


―被仰付也次銀座年寄平野平左衛門尉事荒木被頼取持之故思召不届―


―彼座中除之 ●「日記」
松山男子



母は松山

正保元年5月10日 女中荒木義森川長左衛門尉ト申町人母松山并長左衛門被相頼掠公義―


―御内々ノ上意之様申成長左衛門ヲ銀座成年寄依之荒木事土岐山城守ニ―


―御預息荒木左馬助細川肥後守御預長左衛門并松山男子之分昨夕断罪―


―被仰付也次銀座年寄平野平左衛門尉事荒木被頼取持之故思召不届―


―彼座中除之 ●「日記」
万里小路綱房 慶長17年9月9日 生。右兵衛佐。少弁。蔵人。中弁。蔵人頭。大弁
までのこうじつなふさ
参議孝房の長男
諸家伝上・586
室は橋本中納言実村の女
宮廷公家系図集覧432 慶長19年1月5日 従五位下

元和3年7月9日 元服。昇殿。右兵衛佐

元和5年1月5日 従五位上

寛永4年1月5日 正五位下

寛永7年1月11日 権右少弁

(寛永8年5月26日) (侍従) ●「日記」

寛永8年12月18日 左少弁

寛永8年12月24日 蔵人。正五位上

寛永12年1月11日 右中弁

(寛永12年5月20日) (左少弁) ●「日記」

寛永14年12月20日 左中弁

寛永16年2月26日 従四位下。蔵人を辞す

寛永16年6月1日 従四位上

寛永16年閏11月18日 正四位下。蔵人頭

寛永17年1月5日 正四位上

寛永18年8月23日 右大弁

寛永18年12月24日 薨去
曲直瀬玄益
生。玄益。法眼
まなせげんえき
曲直瀬法印正紹の次男
寛政譜10・90
尾張家臣

(寛永8年6月6日) (法眼) ●「日記」



曲直瀬玄理 慶長9年 生。一有。養安院。法眼。法印
まなせげんり
養安院法眼正円の嗣。沼津氏の男
寛政譜10・93
母は曲直瀬養安院法印正琳の女


妻は間宮忠左衛門重信の女


曲直瀬養安院法印正琳に養育される

(元和2年) 養安院法眼正円の遺跡を継ぐ

元和4年 はじめて秀忠に拝謁

寛永6年1月26日 法眼

寛永18年12月29日 法印 ●「日記」共

寛永20年12月18日 300俵 ●「日記」共


寄合医師

慶安4年9月15日 番医

寛文元年5月1日 奥医

寛文7年3月24日 死す
曲直瀬正紹 天文18年 生。大力之助。玄朔。道三。東井。延命院。延寿院。法眼。法印
まなせまさつぐ
啓迪庵正盛の養子。河崎乗三の男
寛政譜10・89
母は堀部左門親真の女


妻は啓迪庵正盛の養女曲直瀬守真の女

天正9年 天顔を拝す

天正9年11月 道三(のち東井。延命院)

天正10年3月 法眼


織田信長に拝謁

天正14年12月 法印

天正16年 秀吉に仕える。500石


豊臣秀次に仕える

文禄4年7月 召し預け


家康に仕える

(元和3年8月28日) (500石)

~寛永5年 延寿院


家光に近侍

寛永8年12月10日 死す
間野市右衛門

まのいちえもん


(寛永19年12月10日) (御小姓組) ●「日記」

寛永19年12月10日 三百俵 ●「日記」



真野重勝(九兵衛)
生。九兵衛
まのしげかつ
惣右衛門重則の男
寛政譜10・18
家康に仕える。手鷹師

(寛永15年12月2日) (御鷹師) ●「日記」

(寛永16年) 父重則の遺跡を継ぐ。240石

寛文5年10月23日 死す
真野重勝(庄九郎)
生。庄九郎
まのしげかつ
野尻六蔵重次の男
寛政譜15・361
外家の号を継いで真野を称す


秀吉に仕える


家康に仕える。手鷹匠

(寛永10年2月21日) (御鷹師) ●「日記」

承応元年10月26日 水戸家臣吉田平三郎と争論し討たれて死す
真野重成
生。新太郎。孫三郎。九兵衛
まのしげなり
九兵衛重勝の男
寛政譜10・18 寛永15年12月2日 はじめて家光に拝謁

寛永15年12月2日 真野九兵衛子初て御目見 ●「日記」

寛永16年 手鷹師

寛永19年12月10日 五十俵三人扶持 ●「日記」

寛文5年12月11日 父重勝の遺跡を継ぐ。240石

貞享3年10月5日 小普請

元禄12年7月29日 死す
真野正治 寛永3年 生。八十郎。八郎左衛門
まのまさはる
勘兵衛正重の長男
寛政譜15・355
母は高山主水正盛聡の女


妻は建部伝右衛門昌興の女

寛永11年3月26日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永17年3月19日 書院番 ●「日記」共

寛永19年11月10日 300俵

寛永19年12月10日 三百俵 ●「日記」

慶安3年9月3日 西丸小姓組


本丸に勤仕

寛文2年12月9日 父正重の遺跡を継ぐ。280石20俵

延宝3年閏4月3日 小姓組を辞す

元禄14年1月5日 死す
間宮景盛
生。彦九郎。彦兵衛
まみやかげもり
彦市郎元晴の男
寛政譜7・257 寛永15年12月2日 はじめて家光に拝謁

寛永15年12月2日 間宮彦一子初て御目見 ●「日記」

承応3年12月27日 父元晴の遺跡を継ぐ。100俵月俸5口


手鷹匠

天和2年3月21日 小普請

貞享2年11月18日 死す
間宮権大夫

まみやごんだゆう
徳川義直に仕える

(寛永16年4月2日) (尾張亜相家来) ●「日記」



間宮権兵衛
生。彦太郎。権兵衛
まみやごんびょうえ
諸左衛門正次の長男
寛政譜7・280 寛永16年7月18日 はじめて家光に拝謁

寛永16年7月18日 間宮所左衛門子初て御目見 ●「日記」

寛永19年6月26日 大番 ●「日記」共

(正保元年12月25日) (権兵衛の初出) ●「日記」

正保元年12月25日 弐百俵 ●「日記」

(~寛文6年) 死す
間宮重綱 慶長19年 生。市兵衛
まみやしげつな
十左衛門頼次の三男
寛政譜7・265
母は北条家臣玉井帯刀の女

寛永 家光に仕える。小十人


100俵。月俸10口

寛永19年12月6日 納戸番 ●「日記」共


200俵

延宝2年9月8日 死す
間宮重信 天正19年 生。長吉。忠左衛門。雪江
まみやしげのぶ
若狭守綱信の四男
寛政譜7・270
母は宅間左衛門佐富朝の女


妻は間宮左衛門信之の女

慶長9年 家康に近侍


大番

慶長14年 父綱信の遺領分知。500石

寛永12年12月26日 納戸頭

寛永12年12月26日 御納戸払方大頭 ●「日記」


閉門

正保2年12月30日 ゆるされる

正保3年12月30日 布衣

慶安4年11月21日 500石300俵

万治2年4月13日 納戸頭を辞す

万治2年12月23日 致仕。300俵。雪江と号す

寛文3年3月11日 死す
間宮重三 元和5年 生。長兵衛。忠左衛門。玄江
まみやしげみつ
忠左衛門重信の男
寛政譜7・270
母は間宮左衛門信之の女

寛永9年6月19日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共


書院番

万治元年閏12月13日 中奥の番士

万治2年5月18日 小納戸

万治2年12月23日 父重信の家を継ぐ。500石300俵

万治3年12月28日 布衣


中奥の番士

寛文11年12月23日 西丸裏門番頭

天和2年4月22日 500石700俵

貞享3年6月14日 西丸裏門番頭を辞す。寄合

元禄7年12月7日 致仕。300俵。玄江と号す

元禄13年7月10日 死す
間宮忠次
生。彦次郎
まみやただつぐ
新左衛門直元の長男
寛政譜7・254
妻は戸田三左衛門政重の女


家康に仕える

(慶長19年) 父直元の遺跡を継ぐか。1000石。(武蔵国本牧領代官か)

寛永13年8月15日 駿河国蒲原代官。武蔵国本牧領を預かる

寛永13年8月15日 蒲原之御代官被仰付 ●「日記」

寛永19年10月7日 死す
間宮藤次郎

まみやとうじろう
左衛門信之の惣領


早世か

寛永20年12月7日 千七百石間宮左衛門跡惣領藤次郎子弐人ニ兄千石弟七百石被下之 ●「日記」
間宮俊信 寛永4年 生。孫太郎
まみやとしのぶ
左衛門信之の三男(もしくは左衛門信之惣領藤次郎の男)
寛政譜7・277
母は近藤石見守の女(もしくは養母か)


妻は鈴木氏

寛永20年12月7日 父信之の遺跡分知。700石

寛永20年12月7日 千七百石間宮左衛門跡惣領藤次郎子弐人ニ兄千石弟七百石被下之 ●「日記」


(年齢的には弟俊信のほうが兄信勝より上の模様)

正保元年11月13日 はじめて家光に拝謁

正保元年11月13日 継目之御礼 ●「日記」


鷹匠頭

慶安3年9月3日 家綱に付属される

寛文4年2月8日 大番

天和3年10月10日 広敷番頭

元禄11年10月25日 広敷番頭を辞す。小普請

元禄16年11月25日 死す
間宮長澄
生。虎之助。造酒丞
まみやながずみ
虎助真澄の男
寛政譜7・260
妻は山崎権八郎正信の女


家康に拝謁


小姓組

(元和元年) (父真澄の遺跡を継ぐ? 1200石)

寛永9年6月25日 船手

寛永9年6月25日 御船之義可申付 ●「日記」

寛永9年8月14日 水主同心30人 ●「日記」

寛永13年12月29日 布衣 ●「日記」共

寛永17年6月22日 九州四国中国之浦々為見分船手之面々毎年二人宛可被遣之旨被仰出之―


―所謂辰年小浜久太郎間宮虎之助巳年石川八左衛門向井右衛門―


―午年小浜弥十郎小笠原安芸守右之通代々可相越 ●「日記」

寛永19年5月6日 出仕をとどめられる ●「日記」共


ゆるされる


船手を辞す。小普請

元禄7年1月17日 死す
間宮信勝 寛永8年 生。藤太郎
まみやのぶかつ
左衛門信之の次男(もしくは左衛門信之惣領藤次郎の男)
寛政譜7・276
母は近藤石見守の女(もしくは養母か)

寛永20年12月7日 父信之の遺跡を継ぐ。1000石

寛永20年12月7日 千七百石間宮左衛門跡惣領藤次郎子弐人ニ兄千石弟七百石被下之 ●「日記」


(年齢的には兄信勝のほうが弟俊信より下の模様)

正保元年11月13日 はじめて家光に拝謁

正保元年11月13日 継目之御礼 ●「日記」

~万治元年 鷹匠頭

寛文4年2月12日 死す
間宮信重
生。次郎兵衛
まみやのぶしげ
助左衛門信正の次男
寛政譜7・283 寛永16年 はじめて家光に拝謁

寛永17年3月20日 大番 ●「日記」共

(寛永18年12月4日) (大久保主膳組) ●「日記」

寛永18年12月4日 父信正の遺跡分知。200石

寛永18年12月4日 三百石内百俵御切米酒井和泉守組間宮助左衛門跡右地方弐百石ハ―


―大久保主膳組二男次郎兵衛被下之百俵之御切米ハ上ル是惣領―


―所左衛門儀別各ニ御知行被下之付て也 ●「日記」

延宝元年12月25日 大番組頭

延宝3年11月21日 200石200俵

天和2年4月22日 200石400俵

貞享2年8月19日 大番組頭を辞す

元禄3年 死す
間宮信縄 慶長13年 生。七郎兵衛
まみやのぶつな
兄新四郎盛定の養子。十左衛門頼次の次男
寛政譜7・262
妻は多賀角左衛門常次の女

元和元年 兄盛定の遺跡を継ぐ。200石


大番

寛永10年2月7日 400石

寛永20年8月8日 新番

寛永20年8月8日 於土圭之間御番相詰其上方々御成之刻御先え参御殿御番等可相勤之旨―


―被仰付之由伊豆豊後列座有之民部少輔伝之安西甚兵衛組 ●「日記」

慶安元年3月22日 新番組頭

慶安4年11月21日 400石200俵

延宝3年8月22日 西丸裏門番頭

延宝3年12月26日 布衣


500石200俵

延宝8年1月21日 西丸裏門番頭を辞す

延宝8年1月28日 死す
間宮信正 天正3年 生。善九郎。助左衛門。はじめ真里谷を称すか
まみやのぶまさ
真里谷兵衛尉直信の男
寛政譜7・279
母は間宮主水佐繁辰の女

天正15年 秀忠に仕える。小姓

天正18年~ 200石

~慶長19年 大番。200石100俵


大番を辞す。小普請

寛永18年3月27日 死す

(寛永18年12月4日) (酒井和泉守組) ●「日記」
間宮信政 元和9年 生。(八蔵)。八之丞。八左衛門。八大夫。庄五郎
まみやのぶまさ
庄五郎正勝の長男
寛政譜7・268
妻は井出重左衛門正員の女


家光に仕える。大番

万治元年7月19日 新番

寛文11年7月8日 父正勝の遺跡を継ぐ。500石

天和2年8月9日 先鉄炮頭。800石

天和2年12月27日 布衣

貞享4年3月27日 先鉄炮頭を辞す。寄合

元禄6年6月9日 死す
間宮信之 天正14年 生。藤太郎。左衛門
まみやのぶゆき
左衛門信繁の男
寛政譜7・276
母は朝倉因幡守政景の女


妻は近藤石見守の女

文禄元年 はじめて家康に拝謁

慶長3年 仕える

元和3年 父信繁の遺跡を継ぐ。1700石

元和3年 手鷹匠支配。同心40人

寛永20年10月11日 死す
間宮八蔵
庄五郎信政か
まみやはちぞう


寛永13年12月27日 大御番被仰付之 ●「日記」



間宮正次 慶長13年 生。権之助。諸左衛門
まみやまさつぐ
助左衛門信正の長男
寛政譜7・279
家光に仕える。大番


250石

寛永10年2月7日 450石

寛永14年9月18日 小普請奉行 ●「日記」共

(寛永16年7月18日) (所左衛門の初出) ●「日記」

寛永18年12月4日 父信正の遺跡を継ぐ。450石

寛永18年12月4日 三百石内百俵御切米酒井和泉守組間宮助左衛門跡右地方弐百石ハ―


―大久保主膳組二男次郎兵衛被下之百俵之御切米ハ上ル是惣領―


―所左衛門儀別各ニ御知行被下之付て也 ●「日記」

寛永19年4月11日 御歩行頭 ●「日記」

寛永19年4月17日 徒頭

寛永19年12月30日 布衣 ●「日記」共

慶安4年11月21日 450石300俵

明暦3年10月22日 徒頭を辞す

寛文6年6月12日 死す
間宮正信(権三郎)
生。権三郎
まみやまさのぶ
彦次郎忠次の長男
寛政譜7・254
母は戸田三左衛門政重の女

正保元年12月25日 父忠次の遺跡を継ぐ。1000石。武蔵国本牧領代官

正保元年12月25日 跡目被仰付千石間宮彦二郎惣領権三郎 ●「日記」

慶安4年5月17日 死す
間宮正信(三郎九郎)
生。三郎九郎
まみやまさのぶ
三郎右衛門光信の養子。間宮新左衛門直元の次男
寛政譜7・275
妻は水戸家臣太田源七郎正重の女


家光に仕える。書院番。300俵

寛永10年2月7日 500石

寛文9年~ 書院番を辞す。小普請

元禄元年11月27日 死す
間宮光信
生。三郎右衛門
まみやみつのぶ
監物の次男
寛政譜7・274
妻は北条家臣江戸摂津守忠朝の女


後妻は長谷川四郎兵衛重次の女

天正18年8月 家康に仕える。代官。300石


秀忠に仕える


代官をゆるされる

寛永11年~ 死す
間宮元澄
生。権平。虎之助
まみやもとずみ
造酒丞長澄の男
寛政譜7・260
母は山崎権八郎正信の女

寛永17年7月22日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛文3年11月19日 書院番


書院番を辞す。故あって嗣を除かれる

元禄13年12月15日 死す
間宮元晴
生。猪之助。彦市郎
まみやもとはる
彦市元成の男
寛政譜7・257 寛永13年 父元成の遺跡を継ぐ。手鷹匠。100俵月俸5口

承応2年3月2日 死す
間宮之等 天正14年 生。牛之助。権左衛門
まみやゆきとし
牛之助広綱の長男
士林泝洄3・378 (慶長5年) 父広綱の遺跡を継ぐ。1000石。家康に仕える。小姓

慶長19年 大坂の役にて使番

元和元年 1500石

元和5年 1500石を婿戸田右近大夫氏経に譲る。三河国渥美郡畠村に潜居。―


―権入と号す

(寛永16年4月2日) (尾張亜相家来間宮権大夫) ●「日記」

寛文7年8月4日 死す
丸田喜左衛門

まるたきざえもん
弓がけ師(鞢師)か

正保元年12月29日 御切米被下之 ●「日記」



丸毛利明 慶長17年 生。五郎兵衛
まるもとしあきら
内匠利久の次男
寛政譜4・33
妻は稲葉美濃守家臣井神左次右衛門の女

寛永8年11月 はじめて秀忠に拝謁

寛永9年 大番


200石

寛永16年10月23日 腰物持役

寛永16年10月24日 御腰物持 ●「日記」

寛永18年4月12日 逼塞 ●「日記」共

寛永18年9月5日 ゆるされる

寛永18年9月5日 御赦免仕来御役如前々可相勤 ●「日記」

慶安3年8月27日 閉門

慶安3年10月19日 恩免あり

承応元年9月29日 新番

万治2年12月26日 200石50俵

天和3年5月10日 死す
丸毛利忠 寛永5年 生。辰之助。兵左衛門
まるもとしただ
兵左衛門利政の養子。伊丹播磨守勝長の次男
寛政譜4・32
母は坂崎出羽守正勝の養女


妻は兵左衛門利政の女

寛永19年12月10日 養父利政の遺跡を継ぐ。600石

寛永19年12月10日 丸茂兵左衛門跡養子辰之助 ●「日記」

寛永20年11月21日 大番

延宝元年2月25日 大番組頭

天和2年4月22日 600石200俵

天和2年10月3日 腰物奉行

貞享3年3月13日 死す
丸毛利政 慶長7年 生。兵三郎。兵左衛門
まるもとしまさ
内匠利久の長男
寛政譜4・32
母は彦坂刑部左衛門光景の女


妻は内田全阿弥正次の女

元和3年 父利久の旧知400石を賜る

元和4年5月16日 はじめて秀忠に拝謁

元和9年 大番

寛永10年2月7日 600石

寛永18年5月23日 死す
丸山忠兵衛

まるやまちゅうびょうえ
松平石見守池田輝澄に仕える

(寛永17年7月26日) (松平石見守家中) ●「日記」

寛永17年7月26日 父子共死罪 ●「日記」



丸山友貞 寛永8年 生。権十郎。兵左衛門。市左衛門
まるやまともさだ
文右衛門友次の男
寛政譜16・7
妻は広戸半左衛門行隆の女

寛永19年閏7月1日 はじめて家光に拝謁

寛永19年閏9月1日 丸山一大夫惣領初て御目見 ●「日記」

慶安元年8月3日 小姓組


200俵

寛文4年12月10日 父友次の遺跡を継ぐ。200石100俵

元禄12年8月 小姓組を辞す。小普請

宝永7年2月17日 死す
丸山友次
生。市大夫。文右衛門
まるやまともつぐ
市左衛門友勝の次男
寛政譜16・7
徳川忠長に付属される。小姓組。200石

(寛永9年) 処士。八王子に住す

寛永17年12月 家光に仕える

寛永18年4月16日 書院番 ●「日記」共

寛永18年12月13日 200石

寛永18年12月13日 弐百石駿河衆之依為無足人本高を以被下之 ●「日記」

(寛永19年閏9月1日) (池田帯刀組か) ●「日記」

寛文4年12月1日 死す
まん





(寛永18年6月13日) (天樹院の侍女か) ●「日記」



万寿寺
京都。臨済宗。五山
まんじゅじ




満徳寺
上野国徳川。時宗。尼寺。縁切寺
まんとくじ







万年高頼
生。三左衛門。七郎右衛門
まんねんたかより
七郎右衛門久頼の男
寛政譜16・54
妻は中村氏


徳川忠長に付属される。代官

寛永10年 家光に仕える。遠江国の代官。40石

寛永19年12月10日 40石100俵

寛永19年12月10日 百俵従当年新規被下之 ●「日記」

正保3年7月3日 死す
万年正頼 天正16年 生。弥三郎。万斎
まんねんまさより
七郎右衛門正勝の次男
寛政譜16・57
母は石谷氏


妻は山岡伝右衛門景重の女


秀忠に仕える。小姓


大番。300俵

寛永4年10月29日 大坂蔵奉行

寛文3年 大坂蔵奉行を辞す。小普請

寛文4年4月14日 死す
満霊(光誉)
生。照蓮社光誉自心
まんれい
近江国滋賀出身
百万遍知恩寺誌要
乗念寺鏡誉について得度
(浄土宗全書20・318)
霊巌に従う。満霊と称す


飯沼弘経寺の学頭


岩槻浄国寺5世

寛永17年2月18日 増上寺御目見是岩付之浄国寺弘経寺之番頭万霊後住被仰付依也 ●「日記」

慶安2年1月10日 百万遍知恩寺39世

延宝8年2月23日 遷化
満霊(大誉)
生。大誉満霊
まんれい



川越蓮馨寺6世


駿河国宝台院の住持

寛永16年12月4日 駿河宝台院為後住川越之蓮馨寺被仰付之 ●「日記」

寛永17年1月28日 駿河宝台院一束一本捧之御礼是今度彼寺住持依被仰付也 ●「日記」

寛永18年3月17日 駿州宝台院満霊為続目之参内上洛 ●「日記」






満嶺 天正7年 生。仏性院。但唱
まんれい 寛永13年 江戸芝如来寺の住持

寛永18年
三井寺
近江国大津。園城寺
みいでら




三浦氏忠
生。権六郎
みうらうじただ
次郎左衛門氏俊入道三休の六男
寛政譜9・46
死すか

寛永12年8月5日 三浦権六郎屋敷小畑勘兵衛被下之 ●「日記」
三浦勘助
紀伊家臣。定利か。寛政譜9・100
みうらかんすけ




三浦源助
生。源助
みうらげんすけ
長門守為春の男

寛永18年7月18日 紀伊亜相家来三浦長門弟源助太刀目録を以初て御礼源助儀御前御奉公―


―亜相連々依御望之旨達上聞也 ●「日記」



三浦左近

みうらさこん
阿部対馬守重次に仕える

(寛永19年4月14日) (阿部対馬守家来) ●「日記」



三浦重勝 慶長10年 生。監物
みうらしげかつ
監物重成の男


遺領を継ぐ。近江国1万3000石

寛永元年12月 従五位下

寛永8年
三浦重良 元和6年 生。千菊。平次郎。八兵衛
みうらしげよし
八兵衛正之の養子。三浦喜平次直信の次男
寛政譜9・49
母は三浦雅楽助正勝の長女


妻は天野孫左衛門重房の女

(寛永9年) 養父正之の遺跡を継ぐ。500石

寛永13年12月27日 大番 ●「日記」共

寛永20年8月8日 新番

寛永20年8月8日 於土圭之間御番相詰其上方々御成之刻御先え参御殿御番等可相勤之旨―


―被仰付之由伊豆豊後列座有之民部少輔伝之中根次郎左衛門組 ●「日記」

承応元年8月9日 新番組頭

万治元年閏12月25日 500石200俵

延宝7年3月4日 留守居番

延宝7年12月28日 布衣

天和2年4月21日 1000石200俵

元禄3年3月25日 留守居番を辞す。寄合

元禄4年6月23日 死す
三浦甚太郎

みうらじんたろう


(寛永17年5月8日) (公家倉橋泰吉の給仕役) ●「日記」



三浦為時
生。将監。長門守
みうらためとき
長門守為春の三男
寛政譜9・101
室は瑤林院養女紀伊家臣小笠原与左衛門清政の三女
仮名別諸士系譜2・75 寛永元年 父為春の家を継ぐか。徳川頼宣に仕える

寛永13年12月29日 諸大夫ニ被仰付之 ●「日記」

(寛永17年6月21日) (長門守の初出) ●「日記」


以下不詳
三浦綱儀
生。清左衛門
みうらつなよし
清左衛門忠綱の男
寛政譜9・46 寛永4年 父忠綱の遺跡を継ぐ

寛永7年 仕える


大番

寛永19年8月7日 死す
三浦共次 寛永12年 生。六之助。長五郎。但馬守。越中守
みうらともつぐ
志摩守正次の次男
寛政譜9・43
母は堀式部少輔直之の女

寛永18年7月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

(寛永18年8月9日) (長五郎の初出) ●「日記」

寛永18年8月9日 家綱に付属される。小姓

寛永18年8月9日 若君様為御奉公人今日御目見 ●「日記」

寛永18年11月22日 父正次の遺領分知。5000石

寛永18年11月22日 三浦志摩守跡職弐万五千石之内弐万石惣領亀千代―


―五千石次男長五郎被下之 ●「日記」

慶安3年9月9日 中奥に伺候。給仕役

慶安4年8月16日 従五位下・但馬守

貞享2年2月9日 務をゆるされる。小普請

元禄3年6月9日 死す
三浦直忠 元和8年 生。二郎三郎。庄右衛門
みうらなおただ
五兵衛直吉の男
寛政譜9・57
妻は小宮山清四郎殷昌の女

寛永19年11月12日 父直吉の遺跡を継ぐ。200石200俵

寛永19年11月12日 御旗本衆令死去跡被下之但自分之知行御切米何も上 ●「日記」

寛永20年10月21日 大番

寛文元年10月12日 新番

寛文6年8月15日 死す
三浦直次 永禄12年 生。庄右衛門
みうらなおつぐ
藤左衛門直升の四男
寛政譜9・57
妻は有馬玄蕃頭家臣桑原惣兵衛宗祐の女

慶長7年 家康に仕える。大番

慶長8年10月18日 200石

元和元年~ 広敷番頭。200石200俵

(寛永17年6月10日) (杉浦長左衛門奥方御番頭被仰付之旨伊豆守豊後守対馬守伝之―


―是三浦勝右衛門長煩付て其代也云々) ●「日記」


(小普請か)

寛永18年9月27日 死す

(寛永18年12月4日) (杉浦内蔵組) ●「日記」
三浦直吉 慶長8年 生。五兵衛
みうらなおよし
庄右衛門直次の長男
寛政譜9・57
母は有馬玄蕃頭家臣桑原惣兵衛宗祐の女

元和6年 大番


(200俵)


大番を辞す。小普請

寛永18年12月4日 父直次の遺跡を継ぐ。200石200俵

寛永18年12月4日 四百石内弐百俵御切米同組三浦庄右衛門跡右惣領五兵衛ニ被下之―


―五兵衛取来之御切米弐百俵ハ上ル ●「日記」

寛永19年5月9日 死す
三浦正次 慶長4年 生。亀千代。甚太郎。左兵衛。志摩守
みうらまさつぐ
五左衛門正重の長男
寛政譜9・39
母は土井小左衛門利昌の女


室は堀式部少輔直之の女

慶長12年5月1日 はじめて家康・秀忠に拝謁。家光に付属される

慶長17年2月28日 土井を称す。甚太郎

元和3年3月 左兵衛

元和4年12月13日 780石

元和8年1月 小姓組組頭

元和8年11月 1000石

元和9年2月 三浦に復す

元和9年7月27日 従五位下・志摩守

寛永元年1月 書院番組頭

寛永元年11月 2000石

寛永5年10月 小姓組番頭。近侍

寛永5年11月2日 5000石

寛永7年1月 1万石

寛永10年3月23日 小事を議しはからう(六人衆)

寛永10年3月23日 六人衆 ●「日記」

寛永10年4月19日 腰物方をうけたまわる

寛永10年4月19日 御腰物方職人肝煎 ●「日記」

寛永13年11月22日 1万5000石

寛永13年11月22日 五千石御加恩并本知悪所付て替可被下之旨被仰出 ●「日記」

寛永15年11月7日 当番諸士支配

寛永15年11月7日 御旗本於殿中御番仕面々は三浦志摩守朽木民部少輔―


―万事御用可奉之 ●「日記」

寛永15年12月5日 小姓組番頭をゆるされる ●「日記」共

寛永16年1月14日 下野国壬生城2万5000石 ●「日記」共

寛永18年10月21日
三浦正次長女
寛政譜9・41
三浦志摩守正次の長女
寛政譜9・295
母は堀式部少輔直之の女

寛永20年12月2日 縁組被仰付之三浦亀之助姉鳥居主膳正 ●「日記」


鳥居主膳正忠春に嫁ぐ

正保3年 鳥居左京亮忠則を産む

慶安2年 鳥居長門守忠辰を産む


女子を産む。のちの山内次郎大夫一俊の妻


女子を産む。のちの新庄土佐守直賢の妻


鳥居彦五郎忠虎を産む


女子を産む。のちの松下左大夫直昌の妻


女子を産む。のちの鳥居久大夫成勝の妻


揖斐五左衛門政寿を産む


女子を産む。のちの知久伊左衛門昌直の妻。のち春日左衛門義陣の妻


以下不詳
三浦正頼 元和6年 生。勘兵衛。二郎左衛門。十右衛門
みうらまさより
十右衛門正定の男
寛政譜9・52
母は飯田四郎左衛門重次の女


妻は紀伊家臣中根太郎左衛門の女

寛永7年 父正定の遺跡を継ぐ。300俵。はじめて家光に拝謁

寛永13年12月27日 大番 ●「日記」共

寛文4年9月30日 金奉行

寛文6年6月20日 金奉行を辞す。小普請

寛文7年5月6日 死す
三浦万吉

みうらまんきち


寛永15年1月15日 大御番 ●「日記」



三浦安次 寛永10年 生。亀千代。甚太郎。志摩守
みうらやすつぐ
志摩守正次の長男
寛政譜9・41
母は堀式部少輔直之の女


室は朽木民部少輔稙綱の女

寛永18年7月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永18年11月22日 父正次の遺領を継ぐ。下野国壬生城2万石

寛永18年11月22日 三浦志摩守跡職弐万五千石之内弐万石惣領亀千代―


―五千石次男長五郎被下之 ●「日記」

寛永19年9月1日 毎歳於江戸越年午年在江戸半年替 ●「日記」

慶安元年12月30日 従五位下・志摩守

天和2年9月6日
三浦弥八郎

みうらやはちろう
将監の弟

(寛永13年9月28日) (紀伊殿家中証人三浦将監弟弥八郎御礼申上) ●「日記」



三浦屋又左衛門

みうらやまたざえもん


寛永19年7月14日 今度御蔵衆私曲之与同人也雖然或軽罪或忠信之儀申出ニ付て―


―身命御助家財欠所之上佐渡え配流 ●「日記」



三浦与三右衛門

みうらよさえもん
松平大和守直基の家臣



三浦吉明 慶長18年 生。忠太郎。八郎左衛門
みうらよしあき
大岡美濃守忠吉の次男
寛政譜16・316
母は紀伊家臣加納平右衛門久利の女


妻は松平勝右衛門清直の女

元和7年 はじめて秀忠に拝謁

寛永4年 小姓組

寛永6年 200俵

寛永10年2月7日 400石


小姓組を辞す。小普請

万治3年8月21日 死す
三浦義景
生。小左衛門
みうらよしかげ
八郎左衛門義勝の男(八郎左衛門義勝の養子)
寛政譜9・54 寛永16年11月10日 はじめて家光に拝謁

寛永16年11月10日 三浦小左衛門養子始て御目見 ●「日記」

寛永19年6月26日 大番 ●「日記」共

慶安元年6月14日 新番

延宝元年7月24日 死す
三浦義方
生。半之助
みうらよしかた
清左衛門綱儀の長男
寛政譜9・46
妻は岡部庄九郎一綱の女

寛永20年12月7日 父綱儀の遺跡を継ぐ。100石250俵

寛永20年12月7日 三百石清左衛門跡 ●「日記」


大番

延宝4年7月10日 死す
三浦義勝 (元亀3年) 生。小次郎。小左衛門。八郎左衛門
みうらよしかつ
八郎左衛門元秋の男
寛政譜9・53 元和3年 秀忠に仕える


二丸宮付

寛永17年7月21日 死す
三浦義武 慶長15年 生。八蔵。助蔵。五郎左衛門
みうらよしたけ
助蔵儀俊の四男
寛政譜9・47
母は朝鮮人某の女


妻は志村与兵衛政高の女

元和5年 父儀俊の遺跡を継ぐ。150石

寛永2年2月9日 はじめて秀忠に拝謁。秀忠に仕える

寛永2年12月11日 160石

寛永5年12月6日 小十人

寛永9年8月25日 160石100俵

寛永10年6月7日 小十人組組頭 ●「日記」共

(正保元年11月10日) (五郎左衛門の初出) ●「日記」

正保3年12月4日 160石130俵

慶安元年11月11日 小十人組組頭を辞す。小普請

慶安3年6月12日 閉門

承応2年6月25日 ゆるされる

寛文2年2月9日 大番

寛文11年5月7日 死す
三浦義休
生。市右衛門
みうらよしとし
五郎左衛門義武の長男
寛政譜9・47
母は志村与兵衛政高の女

正保元年11月10日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保4年12月25日 新番


父義武に召し預けられる

慶安3年6月12日 切腹
味方

みかた
座頭



味方但馬

みかたたじま
佐渡の鉱山技師か



三上刑部

みかみぎょうぶ (寛永11年2月4日) (知恩院家来) ●「日記」



三上季正 文禄元年 生。右衛門。外記。半兵衛
みかみすえまさ
与三郎季直の男
寛政譜7・195
母は春日局麟祥院の妹崇源院侍女神戸


妻は松平肥前守家臣三浦勘解由の女


後妻は柴田源左衛門の女

慶長2年 母崇源院侍女神戸の請により秀忠に近侍

慶長8年7月28日 母神戸とともに千姫天樹院に付属され大坂に赴く

元和元年 松平肥前守前田利常に召し預けられる。加賀国金沢にあり

寛永元年 家光に仕える。小姓組。400俵

寛永10年2月7日 600石

正保4年~ 小姓組を辞す。小普請

寛文2年6月7日 死す
三上建益
生。左近衛将曹
みかみたけます
兄左近衛将監武俊の嗣。式部少輔一氏の次男
地下家伝上・776
母は調子伯耆守武直の女
宮廷公家系図集覧650
妻は中村出雲守亀助の女


正六位上


左近衛将曹

寛永3年7月5日 従五位下

寛永10年2月16日

(寛永11年7月21日) (三上将曹) ●「日記」 存命か
三上兵部

みかみひょうぶ (寛永11年2月4日) (知恩院家来) ●「日記」






三木久太郎

みききゅうたろう


(正保元年11月3日) (水戸中納言殿より鷹之雁二羽以三木久太郎被差上之) ●「日記」



三木春綱 慶長14年 生。八左衛門
みきはるつな
十兵衛近綱の次男
寛政譜12・187
母は石崎左平太の女


妻は斎藤左源太利政の女

寛永4年 家光に仕える。書院番

寛永6年11月 父近綱の遺跡を継ぐ。500石

寛永10年2月7日 700石

寛永20年8月30日 家綱に付属される。三丸番 ●「日記」共

慶安3年4月6日 死す
三木大和
大和守善仲か?宮廷公家系図集覧481
みきやまと
伏見宮貞清親王の家老



三雲成賢 慶長12年 生。内記。平左衛門
みくもなりかた
新左衛門成長の次男
寛政譜11・326
妻は神長左衛門忠次の女

寛永元年12月 家光に仕える。大番

寛永2年12月 200俵


250俵

寛永10年2月7日 450石

寛永10年12月20日 書物奉行 ●「日記」共

延宝2年9月26日 裏門切手番頭

天和2年4月22日 450石200俵

貞享2年11月16日 裏門切手番頭を辞す。小普請

元禄2年6月15日 死す
三崎大膳亮

みさきだいぜんのすけ


寛永18年12月14日 御暇銀弐拾枚御小袖被下之次従若君様黄金拾枚従御袋様銀五十枚―


―被下之是若君様御誕生之御祝儀ニ付て也 ●「日記」



三崎内匠

みさきたくみ (寛永11年2月4日) (知恩院家来) ●「日記」



三嶋勘右衛門

みしまかんえもん


寛永19年7月14日 今度御蔵衆私曲之与同人也雖然或軽罪或忠信之儀申出ニ付て―


―身命御助家財欠所之上江戸并在所追放 ●「日記」



三嶋小左衛門

みしまこざえもん


寛永19年7月14日 今度御蔵衆私曲之与同人也雖然或軽罪或忠信之儀申出ニ付て―


―身命御助家財欠所之上江戸并在所追放 ●「日記」



三嶋神社
伊豆国
みしまじんじゃ







三嶋陰陽師左近
伊豆国三嶋神社陰陽師
―おんみょうじさこん
河合家か

(正保元年12月19日) (来年之暦両上様え献之) ●「日記」



三嶋宗左衛門

みしまそうざえもん


寛永19年7月14日 今度御蔵衆私曲之与同人也雖然或軽罪或忠信之儀申出ニ付て―


―身命御助家財欠所之上江戸并在所追放 ●「日記」



三嶋徳庵

みしまとくあん


寛永19年7月14日 今度御蔵衆私曲之与同人也雖然或軽罪或忠信之儀申出ニ付て―


―身命御助家財欠所之上江戸并在所追放 ●「日記」



三嶋政識 寛永2年 生。弥八郎。清左衛門。幽山
みしままさはた
清左衛門政吉の長男
寛政譜9・332
母は近藤彦右衛門甫長の女


妻は大久保平四郎忠興の女

寛永11年3月18日 はじめて家光に拝謁

寛永17年3月19日 書院番 ●「日記」共

寛永19年12月10日 三百俵 ●「日記」

承応元年12月27日 父政吉の遺跡を継ぐ。500石

万治3年4月28日 膳奉行

延宝元年2月12日 小十人頭。500石300俵

延宝元年12月28日 布衣

天和2年4月21日 1000石300俵

貞享4年6月2日 小十人頭を辞す。寄合

元禄4年12月2日 致仕。幽山と号す

宝永4年7月7日 死す
三嶋政吉 天正13年 生。弥八郎。清左衛門
みしままさよし
弥八郎政次の長男
寛政譜9・332
母は三嶋清左衛門政友の女


妻は近藤彦右衛門甫長の女

慶長6年 はじめて家康に拝謁

慶長12年 秀忠に仕える

元和3年 家光に付属される。腰物持。200俵

寛永9年10月8日 奥方番。300石 ●「日記」共

(寛永18年12月21日) (清左衛門の初出) ●「日記」

寛永19年2月5日 500石

正保2年1月 家綱筆の人物及び波に千鳥の画を賜る

承応元年5月14日 死す
三嶋屋吉兵衛

みしまやきちびょうえ


(正保元年5月19日) (呉服所之者) ●「日記」



三嶋屋秋徳

みしまやしゅうとく


(寛永13年12月21日) (御服所) ●「日記」



三嶋屋祐徳

みしまやゆうとく
呉服師か



水上小兵衛

みずかみこひょうえ
代官か

(寛永17年6月11日) (日光又ハ道中御賄仕候公家衆御馳走申) ●「日記」



水上重光
生。六左衛門
みずかみしげみつ
五兵衛政光の男
寛政譜4・168
母は大岡忠右衛門忠政の女


妻は中根茂助正成の女


秀忠に仕える。大番。200俵

寛永8年10月21日 死す
水上正勝
生。兵右衛門。五兵衛
みずかみまさかつ
祖父五兵衛政光の養子。六左衛門重光の長男
寛政譜4・168
母は中根茂助正成の女


妻は中根仁左衛門正次の女

寛永13年 はじめて家光に拝謁

寛永13年12月27日 大番 ●「日記」共

寛永14年1月 西丸に勤仕

正保3年2月28日 養父政光の遺跡を継ぐ。600石

承応2年12月9日 大番組頭

万治2年12月23日 600石200俵

寛文6年8月23日 納戸頭

寛文6年12月28日 布衣

寛文12年閏6月18日 納戸頭を辞す。寄合

延宝5年5月9日 死す
水上政重
生。六左衛門
みずかみまさしげ
六左衛門重光の次男
寛政譜4・170
母は中根茂助正成の女

寛永8年12月8日 父重光の遺跡を継ぐ。200俵

寛永13年12月21日 はじめて家光に拝謁

寛永13年12月21日 跡目之面々(御目見) ●「日記」

寛永16年4月3日 大番

万治2年5月18日 大坂弓奉行

寛文5年10月19日 300俵

貞享3年12月29日 400俵

元禄8年3月8日 死す
水野勝貞 寛永2年 生。藤十郎。伊織。備前守。日向守
みずのかつさだ
美作守勝俊の次男
寛政譜6・45
室は酒井讃岐守忠勝の養女松平左近大夫松井康政の女

寛永15年 祖父や父とともに肥前国に出陣

寛永16年12月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永17年12月29日 従五位下・備前守

寛永17年12月29日 諸大夫 ●「日記」

(寛永18年1月11日) (備前守の初出) ●「日記」

明暦元年5月29日 父勝俊の遺領を継ぐ。備後国福山城10万1000石

明暦元年12月28日 日向守

寛文2年10月29日
水野勝忠 慶長16年 生。左衛門。右京亮。若狭守
みずのかつただ
日向守勝成の六男
寛政譜6・50
母は瀬川氏


妻は仙石兵部大輔忠政の女


後妻は池田帯刀長賢の女

寛永3年 はじめて家光に拝謁

寛永6年 中奥に伺候

寛永7年 2000俵


小姓

寛永8年 膳番

寛永8年 従五位下・右京亮

(寛永9年7月24日) (右京進) ●「日記」

寛永11年 2000石

(寛永13年12月20日) (御膳番) ●「日記」

寛永16年12月26日 書院番

寛永16年12月26日 御表之御番 ●「日記」


寄合

寛文6年5月20日 死す
水野勝次
生。藤太郎。善兵衛
みずのかつつぐ
善兵衛宗勝の長男
寛政譜6・112
母は水野大膳亮吉守の女


妻は小河新九郎長保の女

寛永2年 膳奉行

寛永14年9月6日 勘気を蒙る。阿部対馬守重次に召し預けられる

寛永14年9月6日 水野善兵衛義阿部対馬守被預之是今日於二之丸御膳被召上刻誤テ―


―御膳ノ御湯胡桝粉ヲフリ上之故無念之至依被思召也 ●「日記」

寛永15年10月17日 ゆるされる ●「日記」共

寛永20年12月2日 川船奉行 ●「日記」共

正保2年8月29日 死す
水野勝俊 慶長3年 生。長吉。美作守
みずのかつとし
日向守勝成の長男
寛政譜6・44
室は九鬼長門守守隆の女

慶長13年 秀忠に仕える

慶長14年 従五位下・美作守

寛永16年閏11月16日 父勝成の封を継ぐ。備後国福山城10万1000石

寛永16年12月1日 水野日向守隠居之儀先日申上候処望之通被仰付依之御礼―


―惣領美作守家督与奪之分就被仰付御礼 ●「日記」

寛永19年12月30日 従四位下

寛永19年12月30日 四品 ●「日記」

明暦元年2月21日
水野勝成 永禄7年 生。国松。藤十郎。六左衛門。日向守。宗休
みずのかつなり
和泉守忠重の長男
寛政譜6・37
母は都筑右京進吉豊の女


室は三村紀伊守家親の女


家康に仕える

天正12年 他国に遊歴

天正13年 秀吉に仕える。700石

天正15年 佐々成政に仕える


小西行長に属す


備中国の三村家親の許に寓す

慶長3年 父忠重と和解。家康に仕える

慶長5年 父忠重の遺領を継ぐ。三河国刈谷城3万石

慶長15年5月11日 従五位下・日向守

元和元年7月21日 大和国郡山城6万石

元和5年8月4日 備後国福山城10万石

寛永3年8月19日 従四位下

寛永3年 備後国福山城10万1000石

寛永16年閏11月16日 致仕。宗休と号す

寛永16年閏11月16日 水野日向守隠居仕度之旨内々申上之其趣達上聴之処老年之儀之条―


―可任心旨被仰出之云々 ●「日記」

慶安4年3月15日
水野勝信
生。内記
みずのかつのぶ
伯父日向守勝成の養子。市正忠胤の長男
寛政譜6・45
母は織田右大臣信長の女


徳川忠長に仕える

(寛永9年) 処士

寛永13年12月10日 赦免 ●「日記」共

寛永19年12月23日 御番被仰付之 ●「日記」

寛永20年6月16日 書院番

寛永20年12月18日 2000俵

寛永20年12月18日 弐千石 ●「日記」


狂気し改易


以下不詳
水野清氏
生。太郎作
みずのきようじ
太郎作清定の養子。服部中保俊の三男
寛政譜6・104 寛永9年8月19日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永12年 家光に仕える

年月日不詳 死す。断絶
水野定勝 慶長18年 生。藤次郎。下総守
みずのさだかつ
出雲守重央の次男
寛政譜6・96
母は安部摂津守信盛の養妹


妻は戸田因幡守忠能の養女戸田三郎左衛門忠次の女

寛永元年 はじめて秀忠・家光に拝謁

寛永6年 書院番

寛永7年 従五位下・下総守


200石

寛永10年2月7日 400石

寛永18年7月5日 小姓組組頭

寛永18年7月5日 岡部丹波守組頭 ●「日記」

正保元年5月23日 書院番頭

正保元年5月23日 御書院御番頭青山因幡守元組 ●「日記」

慶安3年9月3日 家綱に付属される。西丸に勤仕

慶安4年5月1日 死す
水野重勝
生。彦九郎。新兵衛
みずのしげかつ
将監信村の次男
寛政譜6・65 慶長9年 大番


200俵


勘気を蒙る

寛永9年7月17日 ゆるされる ●「日記」共

寛永11年10月13日 改易

慶安4年10月17日 赦免

承応元年12月18日 200俵。大番

寛文2年10月19日 富士見番頭

寛文10年3月23日 死す
水野重央五女
寛政譜6・93
水野出雲守重央の五女
寛政譜8・60 寛永10年7月2日 有馬出雲守豊長と縁組 ●「日記」

寛永12年 有馬宮内則故を産む



水野重良 慶長元年 生。藤次郎。左近。淡路守。真休
みずのしげよし
出雲守重央の長男
寛政譜6・92
母は安部摂津守信盛の養妹


妻は水野監物忠元の女

慶長12年 はじめて家康に拝謁。秀忠に近侍

元和元年1月27日 従五位下・淡路守

元和元年5月 大坂の役に小姓組に列して供奉


2000石

元和9年4月 家光に付属される

元和9年6月 父重央の遺跡を継ぐ。徳川頼宣に付属される。家老

万治元年 致仕。真休と号す

寛文8年10月28日 死す
水野大学

みずのだいがく


寛永14年12月26日 去比亡父之遺跡雖被仰付御不例ニ付継目之御礼未申上依之―


―今日太刀目録并亡父之遺物献之各対謁老中て退去 ●「日記」



水野大学父










水野忠清 天正10年 生。惣兵衛。権十郎。隼人正
みずのただきよ
和泉守忠重の四男
寛政譜6・55
母は宇川氏


室は加賀大納言前田利家の女

慶長5年 関ケ原の役にて家康に従う

慶長7年4月10日 従五位下・隼人正

~慶長19年 秀忠に仕える。書院番頭・奏者番。1万石

元和元年 閉門


ゆるされる

元和2年4月3日 三河国刈屋城2万石

寛永9年8月11日 三河国吉田城4万石 ●「日記」共

寛永11年10月17日 三河国吉田城4万5000石

寛永19年7月28日 信濃国松本城7万石 ●「日記」共

正保4年5月28日
水野忠貞 慶長3年 生。犬千代。左門。石見守
みずのたださだ
石見守長勝の養子。黒川左京亮正秀の長男
寛政譜6・116
母は長勝の女


妻は小笠原左衛門佐信之の女

慶長6年2月4日 はじめて家康に拝謁。命により長勝の養子となる


養父長勝の遺跡を継ぐ。2800石

元和9年2月3日 家光に付属される

寛永8年 使番

寛永9年9月8日 書院番組頭

寛永9年12月15日 従五位下・石見守

寛永9年12月15日 諸大夫 ●「日記」

(寛永10年4月18日) (石見守の初出) ●「日記」

寛永10年4月23日 3500石

寛永10年4月23日 700石御加恩 ●「日記」

寛永15年11月11日 小姓組番頭

寛永15年11月11日 水野石見守久世大和守御小姓組番頭被仰付之―


―遠江守元組大和守対馬守元組石見守 ●「日記」

寛永19年閏9月5日 書院番頭

寛永19年閏9月5日 御書院番田中主殿頭組水野石見守被仰付 ●「日記」

正保4年3月3日 伏見町奉行。五畿内・丹波・播磨・近江8国の奉行を兼ねる

正保4年3月3日 5000石

寛文6年3月 老年により8国の奉行をゆるされる

寛文9年4月30日 伏見町奉行を辞す

寛文10年2月21日 死す
水野忠次 寛永17年 生。十三郎。兵部。はじめ戸田を称す
みずのただつぐ
甲斐守忠保の養子。戸田八郎左衛門生勝の次男
寛政譜6・88
妻は土方河内守雄次の女
寛政譜14・345 寛永20年12月7日 実父生勝の遺跡分知。300石。小普請

寛永20年12月7日 九百石八郎右衛門跡戸田次郎九郎八郎右衛門千弐百石之内―


―惣領次郎九郎ニ九百石残三百石十三郎ニ被下之 ●「日記」


忠保の養子となる

明暦3年7月16日 はじめて家綱に拝謁

寛文8年11月10日 養父忠保の遺跡を継ぐ。3000石

延宝8年6月2日 死す
水野忠直 天正11年 生。八十郎。遠江守。佐渡守
みずのただなお
和泉守忠重の五男
寛政譜6・43
妻は加納孫大夫久直の女


また妻は米津小大夫政信の女


また妻は細井金兵衛勝久の女

~慶長19年 家康に近侍。膳番。4000石


秀忠に仕える。寄合


家光に仕える

(寛永10年12月27日) (遠江守。これ以前は佐渡守) ●「日記」

(寛永11年3月27日) (佐渡守) ●「日記」

寛永12年3月23日 死す
水野忠久 元和5年 生。主膳。越中守
みずのただひさ
監物忠元の次男
寛政譜6・75
母は紀伊家臣三浦長門守為春の女


妻は水谷伊勢守勝隆の三女

寛永9年8月3日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永20年12月2日 縁組被仰付之水谷伊勢守娘水野主膳 ●「日記」

万治2年7月14日 小姓組

寛文元年12月12日 300俵

寛文3年2月23日 書院番組頭

寛文3年12月26日 600俵

寛文3年12月28日 布衣

寛文4年2月28日 兄忠善より分知。5000石

寛文9年7月8日 小姓組番頭

寛文9年12月25日 従五位下・越中守

寛文11年1月26日 書院番頭

延宝元年3月20日 死す
水野忠弘
生。内蔵丞。甚五兵衛
みずのただひろ
大蔵少輔吉勝の三男
寛政譜6・100
妻は酒井作兵衛重行の女


書院番。500石


書院番を辞す。小普請

貞享元年10月25日 死す
水野忠職 慶長18年 生。采女。出羽守
みずのただもと
隼人正忠清の次男
寛政譜6・56
母は加賀大納言前田利家の女


室は中川内膳正久盛の女

寛永10年7月1日 縁辺 ●「日記」

寛永11年12月30日 従五位下・出羽守

(寛永12年9月28日) (出羽守の初出) ●「日記」

寛永12年9月28日 中川内膳水野出羽守祝言被仰付御礼 ●「日記」

正保4年8月21日 父忠清の遺領を継ぐ。信濃国松本城7万石

承応元年5月16日 大坂城代

寛文2年 大坂城代をゆるされる

寛文8年6月26日
水野忠保 文禄4年 生。清六郎。甲斐守
みずのただやす
市正義忠の長男
寛政譜6・88
妻は戸田土佐守尊次の女

慶長7年12月 父義忠の遺跡を継ぐ。2000石

元和4年 書院番組頭

寛永2年7月27日 2160石

寛永5年7月28日 従五位下・甲斐守

寛永10年4月23日 2860石

寛永10年4月23日 700石御加恩 ●「日記」


3000石

(寛永19年閏9月1日) (池田帯刀組か) ●「日記」

正保元年5月27日 書院番組頭を辞す。寄合

正保元年5月27日 御書院番之組頭御赦免是累年依為病者連々令訴訟云々 ●「日記」

正保4年9月26日 深川船改番

寛文8年7月20日 死す
水野忠善 慶長17年 生。左近。監物
みずのただよし
監物忠元の長男
寛政譜6・71
室は井上主計頭正就の女

慶長19年 はじめて家康に拝謁

元和6年12月 父忠元の遺領を継ぐ。下総国山川3万5000石

寛永7年12月26日 従五位下・監物

寛永11年1月29日 火事之砌至火本罷越万事可申付 ●「日記」

寛永12年8月4日 駿河国田中城4万5000石 ●「日記」共

寛永19年7月28日 三河国吉田城4万5000石 ●「日記」共

正保2年7月14日 三河国岡崎城5万石

明暦3年1月22日 交代で府内巡視

延宝4年8月29日
水野近広
生。次郎右衛門。伝兵衛。伝蔵
みずのちかひろ
伝蔵近之の長男
寛政譜6・83
妻は矢部氏

寛永20年12月7日 父近之の遺跡を継ぐ。500石

寛永20年12月7日 五百石此外是百廿石大坂ニて亡父伝蔵被下之は上ル伝蔵跡 ●「日記」

正保元年2月20日 はじめて家光に拝謁

正保元年2月20日 父遺跡被仰付御礼 ●「日記」

正保4年12月25日 書院番

寛文9年1月19日 死す
水野近之
生。伝右衛門。伝蔵
みずのちかゆき
伝兵衛近信の男
寛政譜6・82
幼少より家康に近侍

(慶長7年) 父近信の遺跡を継ぐ。500石


書院番

寛永8年1月 大坂鉄炮玉薬奉行

寛永8年1月26日 大坂鉄炮玉薬奉行 ●「日記」

寛永20年7月24日 死す
水野成貞
生。百助。出雲守
みずのなりさだ
日向守勝成の三男
寛政譜6・49
母は桜庭氏


妻は松平阿波守蜂須賀至鎮の女

元和5年6月 家光に仕える。小姓

寛永元年8月 従五位下・出雲守

寛永元年12月 1000石

寛永2年9月 3000石

寛永10年7月1日 縁辺 ●「日記」


小姓を辞す。寄合

慶安3年10月20日 死す
水野成言
生。主馬。紀伊守
みずのなりのぶ
日向守勝成の次男
寛政譜6・44
母は青木氏


妻は池田備中守長幸の女


5000石


家光に近侍

元和6年閏12月28日 従五位下・紀伊守


小姓組番頭


御側衆

寛永9年4月 京都深草に蟄居


以下不詳
水野信利 慶長18年 生。尾松。勘兵衛。金兵衛。(勘兵衛)
みずののぶとし
将監信村の三男
寛政譜6・66
母は川口太郎左衛門利院の女


妻は高木茂右衛門元吉の女

寛永9年9月 はじめて家光に拝謁

~寛永11年 小十人。廩米を賜る(100俵か)

寛永16年10月23日 鉄炮薬込役 ●「日記」共

(寛永18年12月29日) (勘兵衛の初出) ●「日記」

正保元年12月25日 100俵加増 ●「日記」共

慶安3年8月27日 閉門

慶安3年10月19日 ゆるされる

慶安4年 日光山へ家光の霊柩に従う

承応元年9月29日 新番

万治2年12月26日 250俵

寛文9年6月1日 広敷番頭

延宝2年4月11日 死す
水野春守
生。内蔵丞。因幡守
みずのはるもり
織部守重の次男
寛政譜6・77
母は彦坂平六郎重定の女


秀忠に仕える。900石。小姓


従五位下・因幡守


書院番

寛永8年12月29日 死す
水野正盛 寛永2年 生。久之助。久太郎。甚五左衛門。来心
みずのまさもり
長左衛門正直の長男
寛政譜6・113
母は青山伯耆守家臣片岡忠左衛門の女


妻は本間五郎左衛門季重の女

寛永11年3月11日 はじめて家光に拝謁

寛永18年6月30日 大番

寛永20年12月18日 弐百俵 ●「日記」

寛文3年12月11日 父正直の遺跡を継ぐ。500石

寛文6年2月18日 二条城門番

延宝6年1月26日 大坂船手。900石

延宝8年12月28日 布衣

天和3年閏5月9日 先鉄炮頭

元禄10年11月30日 先鉄炮頭を辞す。寄合

元禄11年12月5日 致仕。300俵。来心と号す

元禄14年7月7日 死す
水野正行
生。九右衛門。左大夫
みずのまさゆき
九右衛門正行の長男
寛政譜6・110
母は徳川忠長家臣三宅帯刀の女

(寛永7年) 父正行の遺跡を継ぐ。800俵

寛永9年8月19日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永15年1月15日 大番 ●「日記」共

承応2年5月11日 死す
水野光康
生。万千代。伊豆守。惣右衛門。はじめ戸田を称す
みずのみつやす
戸田孫八郎守光の男
士林泝洄3・387
母は水野下野守信元の女妙源尼


幼少のとき尾張国河勾城を出て江戸に出仕

慶長2年9月 家康の命により外祖父水野信元の名跡を継ぐ。700石


水野を称す


徳川義直に仕える。1450石


尾張国河和に住す

寛文6年4月9日
水野元重
生。庄左衛門。伊予守
みずのもとしげ
勘八郎重家の男
寛政譜6・80 (元和9年) 父重家の遺跡を継ぐ。1200俵

~正保元年 書院番

明暦2年7月28日 使役

明暦2年12月26日 布衣

寛文4年11月1日 堺政所。1700石

寛文4年12月28日 従五位下・伊予守

天和元年3月29日 堺政所をゆるされる。小普請

元禄4年11月9日 死す
水野元綱 文禄3年 生。勘四郎。大和守。備後守。道要
みずのもとつな
弾正忠分長の男
寛政譜6・86
母は山口半左衛門重勝の女


室は中川修理大夫秀成の女

慶長12年10月 秀忠に仕える

慶長17年9月29日 従五位下・大和守

元和元年 書院番組頭

元和2年 1000石

元和6年 父分長の旧領を賜る。三河国新城1万石。備後守

寛永3年3月11日 大番頭

寛永3年10月7日 与力10騎を預かる

寛永9年10月7日 与力10騎 ●「日記」

寛永9年11月15日 奏者番・大番頭

寛永9年11月15日 奏者番 ●「日記」

寛永10年4月23日 三河国新城1万4000石

寛永10年4月23日 4000石御加恩 ●「日記」

寛永15年11月7日 酒井与四郎儀当暮ヨリ如父阿波守可被召仕之―


―幼少之内ハ備後守差加可申 ●「日記」

寛永19年閏9月29日 安藤右京進太田備中守松平出雲守水野備後守御座之間へ被召出―


―何ニても存寄之義於有之は老中相談之上可致言上下ニて―


―不可相斗之旨被仰付之云々 ●「日記」

正保2年6月28日 上野国安中2万石。碓氷の関所を預かる。大番頭をゆるされる

慶安3年9月3日 家綱に付属される。西丸に勤仕

万治2年3月21日 務をゆるされる

寛文4年10月26日 致仕。道要と号す

寛文5年5月16日
水野元正
生。小十郎。与左衛門。藤右衛門
みずのもとまさ
藤右衛門元吉の男
寛政譜6・81
母は永田勝左衛門重真の女

寛永12年8月25日 はじめて家光に拝謁

寛永12年8月25日 水野小十郎子御目見 ●「日記」

寛永20年6月16日 小姓組

寛文4年12月27日 父元吉の家を継ぐ。915石

寛文12年3月8日 小姓組組頭

寛文12年12月28日 布衣

延宝8年12月9日 先鉄炮頭

天和2年4月21日 1450石

貞享4年3月25日 持筒頭

元禄7年12月11日 持筒頭を辞す。寄合

元禄8年2月1日 死す
水野元吉
生。小十郎。藤右衛門。是休
みずのもとよし
織部忠守の六男
寛政譜6・81
妻は永田勝左衛門重真の女

(元和元年) 秀忠に仕える。715石

(寛永2年) 西丸小姓組

寛永8年4月10日 小納戸

寛永8年4月10日 奥にて召し使われる ●「日記」

寛永9年 小姓組

寛永10年2月7日 915石

寛永14年11月26日 弥無油断江戸中可致夜廻 ●「日記」

(寛永14年11月26日) (藤右衛門の初出) ●「日記」

寛文元年~ 小姓組を辞す。寄合

寛文4年12月27日 致仕。是休と号す

寛文9年6月29日 死す
水野守次
生。金十郎。弥兵衛
みずのもりつぐ
織部守重の四男
寛政譜6・79
妻は彦坂平六郎重定の女

元和4年 はじめて秀忠に拝謁

~寛永3年 西丸小姓組。200石


小納戸


書院番


小納戸

寛永16年4月15日 中奥之御番 ●「日記」


書院番


勘気を蒙る

慶安4年10月17日 ゆるされる

万治3年4月15日 二丸留守居。400石

延宝5年閏12月14日 二丸留守居を辞す。寄合

延宝7年6月4日 死す
水野守信 天正5年 生。半左衛門。河内守
みずのもりのぶ
監物守次の次男
寛政譜6・108
母は水野下野守信元の女


妻は有馬玄蕃頭豊氏の女


家康に仕える


3500石

元和3年 使番


長崎奉行

元和5年2月2日 大坂町奉行

寛永6年2月6日 大坂町奉行・堺奉行

寛永9年12月17日 大目付

寛永9年12月17日 惣御目付 ●「日記」

寛永10年6月6日 諸中御用被下無由断可令言上 ●「日記」

寛永11年2月25日 5000石

寛永11年2月25日 御加増千五百石被下之都合五千石 ●「日記」

寛永13年12月22日 死す
水野守正
生。左衛門。小左衛門。多宮
みずのもりまさ
織部守重の三男
寛政譜6・77
母は彦坂平六郎重定の女


妻は河村吉左衛門の女

元和4年 はじめて秀忠に拝謁


小姓組。300俵


書院番

寛永10年2月7日 500石

万治2年2月11日 西丸留守居

万治2年12月28日 布衣

寛文(万治)3年9月3日 先弓頭

寛文(万治)3年12月26日 500石300俵

寛文11年12月25日 先弓頭をゆるされる。小普請

延宝2年12月3日 致仕。300俵

延宝8年8月24日 死す
水野守政 元和9年 生。左京。半左衛門。伊豆守。備中守
みずのもりまさ
河内守守信の養子。池田相模守家臣荒尾将監重就の男
寛政譜6・108
母は河内守守信の女


妻は内藤百介正勝の女

寛永8年2月15日 はじめて秀忠に拝謁 ●「日記」共

寛永14年12月8日 父守信の遺跡を継ぐ。5000石

寛永14年12月8日 五千石河内守跡水野左京 ●「日記」

寛永14年12月26日 去比亡父之遺跡雖被仰付御不例ニ付継目之御礼未申上依之―


―今日太刀目録并亡父之遺物献之各対謁老中て退去 ●「日記」

万治2年8月21日 定火消

万治2年12月28日 布衣

延宝元年4月14日 持筒頭

延宝4年3月4日 百人組頭

天和2年4月21日 5700石

貞享2年12月29日 大目付。従五位下・伊豆守

貞享4年8月11日 留守居

元禄元年3月10日 出仕をとどめられる。小普請

元禄元年12月18日 赦免。なお拝謁をはばかる

元禄2年6月4日 ゆるされる

正徳5年12月16日 死す
水谷勝隆 慶長2年 生。弥太郎。伊勢守
みずのやかつたか
右京大夫勝俊の男
寛政譜14・121
母は堀田勘左衛門正吉の女


室は酒井左衛門尉家次の女


継室は寺沢志摩守広高の女

慶長11年 父勝俊の遺領を継ぐ。常陸国下館城3万2000石

慶長11年 はじめて秀忠に拝謁

慶長13年1月1日 従五位下・伊勢守

寛永7年 常陸国下館城4万7000石

寛永16年6月5日 備中国成羽5万石 ●「日記」共

寛永19年7月28日 備中国松山城5万石 ●「日記」共

寛永20年9月27日 火消 ●「日記」

正保元年5月4日 火消之役人之内就交替御暇被下面々依有之今日改被仰付之三番 ●「日記」

寛文4年閏5月3日
水谷勝隆長女
寛政譜14・122
水谷伊勢守勝隆の長女
寛政譜5・316
母は寺沢志摩守広高の女

寛永10年7月2日 仙石越前守政俊と縁組 ●「日記」

寛永17年~ 夫政俊の長男兵部少輔忠俊の養母となる



水谷勝隆三女
寛政譜14・122
水谷伊勢守勝隆の三女
寛政譜6・75
母は寺沢志摩守広高の女

寛永20年12月2日 縁組被仰付之水谷伊勢守娘水野主膳 ●「日記」


水野越中守忠久に嫁ぐ

明暦3年 水野主膳忠国を産む


水野勘八郎豊昌を産む


他女子4人を産むか


以下不詳
水谷勝宗 元和9年 生。弥太郎。左京亮
みずのやかつむね
伊勢守勝隆の長男
寛政譜14・122
母は寺沢志摩守広高の女


室は青山大蔵少輔幸成の女

寛永18年12月30日 従五位下・左京亮

寛永18年12月30日 諸大夫 ●「日記」

(正保元年5月11日) (左京亮の初出) ●「日記」

正保元年5月11日 御礼今度祝言依相済也 ●「日記」

寛文4年7月18日 父勝隆の遺領を継ぐ。備中国松山城4万8000石

延宝5年閏12月27日 備中国松山城5万石

貞享元年 譜代の列に加わる。帝鑑間に伺候

元禄2年閏1月14日 致仕

元禄2年2月19日
水野義重 天正17年 生。三郎九郎。平右衛門
みずのよししげ
左近大夫正重の次男
仮名別諸士系譜8・102
母は都築右京進の女


妻は水野出雲守重仲の女


家康に仕える

元和元年~ 徳川頼宣に付属される

元和6年 父正重の家を継ぐ。6000石

承応3年6月7日 死す
御簾屋徳介
御簾屋
みすやとくすけ


正保元年12月29日 御切米被下之 ●「日記」



溝口五郎右衛門

みぞくちごろうえもん


(寛永17年5月6日) (御歩行目付) ●「日記」

(寛永19年) 死す
溝口五郎右衛門子





寛永19年11月12日 御旗本衆令死去跡被下之但自分之知行御切米何も上 ●「日記」



溝口重雄 寛永10年 生。久三郎。信濃守。悠山
みぞくちしげかつ
出雲守宣直の長男
寛政譜3・126
母は森川出羽守重俊の女


室は松平右衛門大夫大河内正綱の女


継室は酒井宮内大輔忠勝の女

寛永17年10月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

慶安4年12月28日 従五位下・信濃守

寛文12年9月7日 父宣直の家を継ぐ。越後国新発田城5万石

宝永3年7月19日 致仕。悠山と号す

宝永5年9月4日
溝口重恒
生。三左衛門。半左衛門
みぞくちしげつね
半左衛門重長の長男
寛政譜4・160 寛永19年10月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永20年6月16日 小姓組

正保元年12月25日 父重長の遺跡を継ぐ。600石 ●「日記」共

承応元年11月3日 船手

承応元年12月28日 布衣

万治3年8月9日 死す
溝口重長 天正7年 生。半左衛門
みぞくちしげなが
外記常吉の長男
寛政譜4・160 文禄2年 秀忠に仕える

慶長5年~ 書院番

元和元年 大坂の役にて青山伯耆守忠俊に属す

元和元年 父常吉に連座。改易

寛永18年12月13日 家光に仕える。600石

寛永18年12月13日 六百石御勘気御赦免之依為無足人本高を以被下之 ●「日記」

寛永19年 船奉行

(寛永19年5月6日) (船手) ●「日記」

寛永20年12月29日 布衣 ●「日記」共

正保元年 死す
溝口常勝
生。新左衛門
みぞくちつねかつ
外記常吉の次男
寛政譜4・160 慶長14年 はじめて秀忠に拝謁。大番

元和元年 300俵

元和元年 父常吉に連座。改易

寛永18年4月16日 御小姓組 ●「日記」

寛永18年4月18日 小姓組

寛永18年12月13日 300俵

寛永18年12月13日 三百俵御勘気御赦免之依為無足人本高を以被下之 ●「日記」


以下不詳
溝口宣秋 慶長14年 生。又十郎
みぞくちのぶあき
伯耆守宣勝の次男
寛政譜3・130
母は堀左衛門督秀政の女


妻は大久保右京亮教隆の女

元和8年 はじめて秀忠に拝謁

寛永5年 父宣勝の遺領分知。越後国桐梅6000石。寄合

寛永10年7月2日 縁辺組 ●「日記」

延宝元年4月20日 死す
溝口宣勝 天正10年 生。主膳正。伯耆守
みぞくちのぶかつ
伯耆守秀勝の長男
寛政譜3・125
母は長井源七郎の女


室は堀左衛門督秀政の女

慶長2年 従五位下。秀吉の偏諱を賜る

慶長5年~ 父秀勝より分知。7000石

慶長15年 父秀勝の遺領を継ぐ。越後国新発田城5万石

寛永5年10月29日
溝口信勝 元和8年 生。熊之助。八十郎。源右衛門。豊前守
みぞくちのぶかつ
伊豆守善勝の四男
寛政譜3・137
母は松平加賀守家臣前田対馬守長種の女


妻は板倉内膳正重昌の女

寛永16年6月1日 はじめて家光に拝謁

寛永16年6月1日 以太刀目録御目見 ●「日記」

寛永20年6月16日 書院番

寛永20年12月18日 2000石 ●「日記」共

寛文2年9月15日 使役

寛文2年12月27日 布衣

寛文10年2月28日 奈良奉行。2500石

寛文10年10月28日 従五位下・豊前守

天和元年10月22日 奈良奉行を辞す。小普請


寄合

元禄4年6月22日 死す
溝口宣俊 慶長17年 生。内記
みぞくちのぶとし
伯耆守宣勝の三男
寛政譜3・132
(伊豆守善勝の男) ●「日記」


母は堀左衛門督秀政の女


妻は井上淡路守庸名の女

元和8年 はじめて秀忠に拝謁

寛永5年 父宣勝の遺領分知。越後国池端村5000石。寄合

寛永10年7月2日 縁辺組 ●「日記」

寛文9年2月12日 死す
溝口宣知 元和4年 生。左京
みぞくちのぶとも
伯耆守宣勝の四男
寛政譜3・126
母は堀左衛門督秀政の女


妻は京極主膳正高通の女

寛永5年 はじめて秀忠に拝謁

寛永5年 父宣勝の遺領分知。越後国蒲原郡4500石

万治2年7月7日 死す
溝口宣直 慶長10年 生。久三郎。出雲守
みぞくちのぶなお
伯耆守宣勝の長男
寛政譜3・126
母は堀左衛門督秀政の女


室は稲葉民部少輔一通の女


継室は森川出羽守重俊の女


また継室は平松中納言時庸の女

慶長16年 はじめて秀忠に拝謁

寛永元年12月28日 従五位下・出雲守

寛永5年 父宣勝の遺領を継ぐ。越後国新発田城5万石

(寛永18年5月12日) (火消之役人) ●「日記」

正保元年5月4日 火消之役人之内就交替御暇被下面々依有之今日改被仰付之二番 ●「日記」

正保元年7月1日 火之番三番 ●「日記」

寛文12年9月7日 致仕

延宝4年11月22日
溝口政勝 慶長13年 生。金十郎。土佐守
みぞくちまさかつ
伊豆守善勝の長男
寛政譜3・134
母は松平加賀守家臣前田対馬守長種の女


室は溝口伯耆守宣勝の女

元和8年 はじめて秀忠に拝謁

元和9年 家光に仕える

寛永11年 父善勝の遺領を継ぐ。越後国沢海1万石

寛永13年5月24日 弟助勝死去によりその采地3000石を預かる

寛永20年8月5日 預かり3000石のうち2000石を弟信勝に賜り1000石は収公

万治3年12月28日 従五位下・土佐守

寛文10年1月28日
溝口安勝 元和5年 生。九十郎。孫左衛門。安勝
みぞくちやすかつ
伊豆守善勝の三男
寛政譜3・135
母は松平加賀守家臣前田対馬守長種の女


妻は高林市郎左衛門吉次の次女

寛永11年 はじめて家光に拝謁

寛永11年 父善勝の遺領分知。1000石

寛永20年12月2日 縁組被仰付之馬場三郎左衛門娘溝口九十郎 ●「日記」

慶安3年12月26日 書院番

寛文12年6月11日 使番

寛文12年12月28日 布衣

天和2年4月21日 1500石

貞享2年5月19日 使番を辞す。寄合

元禄元年7月10日 致仕。安勝と号す

元禄7年3月17日 死す
溝口善勝 天正12年 生。孫左衛門。伊豆守
みぞくちよしかつ
伯耆守秀勝の次男
寛政譜3・133
母は長井源七郎の女


室は前田家臣前田対馬守長種の女

慶長6年 はじめて家康に拝謁


秀忠に仕える


5000石

慶長10年 従五位下・伊豆守

慶長14年 7000石

慶長15年 越後国沢海1万4000石

寛永11年5月2日
三谷主膳

みたにしゅぜん


(正保元年4月29日) (松平出羽守証人) ●「日記」



三田守次 慶長11年 生。市郎右衛門
みたもりつぐ
左兵衛守綱の次男
寛政譜9・15
母は遠山民部少輔利景の女


妻は徳川忠長家臣馬場外記の女

寛永7年 家光に仕える。大番

寛永10年2月7日 200石

寛永20年10月21日 従大御番被召出三丸御番被仰付之 ●「日記」

寛永20年10月22日 家綱に付属される。守衆。三丸に勤仕

慶安3年9月4日 大番

延宝4年2月3日 大番を辞す。小普請

貞享4年12月10日 死す
三田守綱 元亀元年 生。喜三。左兵衛
みたもりつな
駿河守綱勝の男
寛政譜9・12
妻は遠山民部少輔利景の女


北条家に仕える

天正18年 家康に仕える。御傍に勤仕

慶長5年 秀忠に仕える

元和元年 大坂の役にて牧野内匠頭信成に属す


300石

寛永18年11月1日 死す
三田守長 慶長5年 生。長右衛門。左兵衛
みたもりなが
左兵衛守綱の長男
寛政譜9・12
母は遠山民部少輔利景の女


妻は疋田喜右衛門正則の女

元和6年 大番


200俵

寛永10年2月7日 400石

寛文2年10月5日 天守番頭


天守番頭を辞す

寛文10年12月7日 死す
三田守秀
生。喜蔵
みたもりひで
左兵衛守綱の三男
寛政譜9・17
母は遠山民部少輔利景の女


家光に仕える。小十人。100俵

寛永19年12月6日 納戸番 ●「日記」共

寛永20年12月7日 父守綱の遺跡分知。100石

寛永20年12月7日 百石左兵衛跡三番子三田喜蔵亡父左兵衛三百石之知行之内―


―喜蔵百俵之御切米ニ替被下之 ●「日記」

明暦3年12月25日 100石。月俸10口

寛文元年5月28日 死す
三田守良 寛永9年 生。八十郎。新三郎。次郎右衛門
みたもりよし
左兵衛守長の長男
寛政譜9・13
母は疋田喜右衛門正則の女


妻は佐脇伝右衛門安雅の女

寛永20年3月3日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保4年12月25日 大番

寛文5年2月13日 蔵奉行

寛文10年12月18日 父守長の遺跡を継ぐ。400石

延宝3年7月5日 蔵奉行をゆるされる

延宝5年6月28日 代官。400石100俵

元禄5年5月14日 職を奪われる。逼塞

元禄6年4月20日 ゆるされる

元禄6年5月1日 小普請。拝謁をとどめられる

元禄7年5月8日 赦免

元禄10年7月26日 500石

元禄14年5月5日 死す
御手洗定重 慶長9年 生。四兵衛
みたらいさだしげ
彦右衛門正久の養子。榎下六左衛門憲清の次男
寛政譜16・273
母は武田家臣早川半兵衛の女


妻は杉浦八郎五郎勝次の女

元和7年7月 はじめて秀忠に拝謁


大番


大番組頭

寛永16年6月23日 (植村)出羽守組之組頭 ●「日記」


400俵

慶安元年1月2日 目付

慶安4年8月16日 布衣

慶安4年11月21日 700俵

明暦2年11月5日 佐渡奉行。500石700俵

寛文2年8月1日 死す
御手洗昌重 慶長11年 生。吉左衛門
みたらいまさしげ
左平次昌広の男
寛政譜16・272
妻は牛奥太郎右衛門昌成の女

慶長16年11月 はじめて秀忠に拝謁

元和7年11月 大番。200俵

寛永8年6月 腰物持役

寛永11年5月14日 200石200俵

寛永20年10月6日 死す
御手洗昌義 寛永4年 生。左門。半左衛門。伝左衛門
みたらいまさよし
吉左衛門昌重の長男
寛政譜16・272
母は牛奥太郎右衛門昌成の女


妻は内藤権九郎景守の女

寛永20年12月7日 父昌重の遺跡を継ぐ。200石200俵 ●「日記」共

(正保元年6月30日) (半左衛門の初出) ●「日記」

正保元年6月30日 大番 ●「日記」共

万治元年7月19日 新番

元禄元年9月27日 死す
満井加右衛門
酒井か不明
みついかえもん 寛永13年12月23日 去比子細有之て御役不相勤之処ニ被召出―


―如前々御切米被下最前之御役被仰付之 ●「日記」



三井庄右衛門

みついしょうえもん
徳川忠長の家臣か






三井吉次 慶長10年 生。市蔵
みついよしつぐ
左衛門佐吉正の長男
寛政譜9・375
母は大久保石見守長安の女


妻は加々爪民部少輔忠澄の女

(寛永2年) 父吉正の遺跡を継ぐ。1500石。秀忠に仕える。小姓


小姓組


書院番

明暦元年7月21日 死す
三橋信宗
生。弥右衛門。平十郎
みつはしのぶむね
但馬信次の三男
寛政譜16・37 ~慶長19年 家康に仕える。手鷹師。100俵月俸3口

元和元年~ 伊豆国田方郡大平邑に居住

(寛永15年10月14日) (御鷹師) ●「日記」

寛文8年6月14日 死す
三淵藤利 慶長9年 生。縫殿助
みつぶちふじとし
伯耆守光行の長男
寛政譜2・324
母は豊臣秀頼家臣郡主馬首宗保の女


妻は蒔田左兵衛頼久の女

慶長17年11月12日 はじめて家康に拝謁


書院番

寛永2年10月23日 1000石の朱印

寛永3年~ 西丸に勤仕


小姓組

寛永10年2月7日 1200石

明暦3年10月6日 死す
皆川隆庸 天正9年 生。又四郎。志摩守。山城守
みながわたかつね
山城守広照の長男
寛政譜14・84
母は北条左京大夫氏政の養女中御門大納言宣綱の女


室は石川長門守康通の女

慶長5年 秀忠の上田城攻めに従う

慶長8年 従五位下・志摩守

慶長14年10月27日 父広照に連座して改易

慶長19年 大坂の役にて井伊掃部頭直孝に属す

元和元年 大坂の役にて井伊掃部頭直孝に属す

元和9年5月 父広照と同じくゆるされる。家光に仕える

元和9年12月28日 5000石

寛永2年4月 父広照の家を継ぐ。1万3930石

寛永8年2月13日 大番頭

寛永10年5月8日 1万8000石。山城守

寛永10年5月8日 4000石御加増 ●「日記」

(寛永11年閏7月25日) (志摩守) ●「日記」

(寛永13年3月25日) (山城守の初出) ●「日記」

正保2年2月5日
皆川成之 寛永15年 生。三太郎。半助
みながわなりゆき
山城守隆庸の三男
寛政譜14・86
妻は小林氏

正保元年6月4日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

承応3年2月23日 家綱に仕える。書院番

~明暦3年 300俵

元禄3年4月5日 死す
皆川宗富 慶長8年 生。市正
みながわむねとみ
山城守広照の次男
寛政譜14・87
母は北条左京大夫氏政の養女中御門大納言宣綱の女


妻は水野市正義忠の女

寛永2年4月 父広照より分知。1070石。家光に仕える

~寛永3年 書院番

寛永10年2月7日 1270石

正保4年4月14日 死す
水口清長
生。右近将監。身人部を称す
みなぐちきよなが
備前守清友の長男か
地下家伝上・784 寛永3年5月12日 従五位下
宮廷公家系図集覧653 (寛永11年7月21日) (身人部清長) ●「日記」

某年 死す
水口若宮八幡
近江国水口






水無瀬氏成 元亀2年10月27日 生。侍従。少将。中将。河内権介。左兵衛督。参議。中納言。是空
みなせうじなり
中納言兼成の男
諸家伝下・659
室は高倉大納言永相の女
宮廷公家系図集覧456 天正4年6月26日 従五位下

天正7年4月19日 侍従

天正7年4月27日 従五位上

天正10年1月19日 左少将

天正11年5月27日 正五位下

天正14年9月21日 従四位下

天正19年1月25日 左中将

文禄4年12月30日 従四位上

慶長6年3月19日 河内権介

慶長7年1月6日 正四位下

慶長12年1月15日 従三位

慶長16年3月21日 左兵衛督

慶長17年12月7日 正三位。左兵衛督をとどめられる

慶長18年1月12日 参議

慶長19年12月30日 参議を辞す

寛永3年1月5日 従二位

寛永4年3月26日 権中納言

寛永4年6月10日 権中納言を辞す

(寛永13年5月7日) (水無瀬中納言) ●「日記」

寛永15年1月5日 正二位

寛永19年11月22日 出家。是空と号す

正保元年9月17日 薨去
水無瀬氏信 元和5年8月6日 生。侍従。少将。中将。参議。中納言
みなせうじのぶ
中納言兼俊の長男
諸家伝下・660 元和7年1月5日 従五位下
宮廷公家系図集覧456 寛永3年5月19日 元服。侍従

寛永9年1月5日 従五位上

寛永13年1月5日 正五位下

寛永15年1月11日 左少将

寛永17年1月5日 従四位下

正保元年1月5日 従四位上

正保2年1月12日 左中将

慶安元年1月5日 正四位下

承応3年12月21日 従三位

万治元年1月6日 正三位

寛文元年12月24日 参議

寛文2年12月14日 参議を辞す

寛文9年1月5日 従二位

延宝元年12月26日 中納言

延宝2年2月5日 権中納言を辞す

貞享元年2月28日 正二位

元禄3年7月15日 薨去
水無瀬兼俊 文禄2年9月1日 生。侍従。右兵衛佐。少将。中将。左兵衛督。参議。中納言
みなせかねとし
中納言氏成の長男
諸家伝下・660
母は高倉大納言永相の女
宮廷公家系図集覧456 慶長2年1月5日 従五位下

慶長8年11月24日 元服。侍従

慶長13年1月7日 従五位上

慶長16年3月21日 右兵衛佐

慶長17年1月5日 正五位下

慶長19年1月11日 左少将

元和元年8月25日 従四位下

元和2年1月11日 左中将

元和5年1月6日 従四位上

元和8年1月5日 正四位下

寛永5年1月6日 従三位

寛永5年1月28日 左兵衛督

寛永8年1月12日 参議。左兵衛督

寛永11年1月6日 正三位

寛永16年1月5日 従二位

寛永16年閏11月17日 (参議を)辞す

寛永17年1月5日 参議。左兵衛督

正保元年8月19日 参議・左兵衛督を辞す

慶安元年12月22日 権中納言

慶安2年1月12日 権中納言を辞す

明暦2年1月1日 薨去
三野四郎左衛門

みのしろうざえもん
生駒壱岐守高俊に仕える

(寛永17年7月26日) (生駒壱岐守家中) ●「日記」

寛永17年7月26日 初脇坂淡路守後京極丹後守御預弐十人扶持丹後守渡之 ●「日記」



美濃部九十郎
生。九十郎
みのべくじゅうろう
文左衛門茂時の長男
寛政譜17・257 寛永18年3月1日 はじめて家光に拝謁

寛永18年3月1日 樽代前ニ置一同ニ御目見 ●「日記」


以下不詳。早世か
美濃部権兵衛
生。権兵衛
みのべごんびょうえ
市郎左衛門茂正の長男
寛政譜17・250 (寛永13年5月20日) (去比有子細令逐電) ●「日記」

(寛永13年5月29日) (大番藤井松平伊賀守忠晴組) ●「日記」

寛永13年5月29日 就逐電累日一類中え御穿鑿因玆前宵権兵衛罷出云々―


―則番頭松平伊賀守被預置 ●「日記」

寛永13年6月5日 戸張半兵衛と口論し斬罪

寛永13年6月5日 不形儀并喧嘩之為体各々遂糺明之処依為重畳不届―


―於鳥越討捨可仕之旨被仰出 ●「日記」
美濃部茂勝(三郎左衛門) 慶長8年 生。十三郎。三郎左衛門
みのべしげかつ
三郎左衛門茂盛の次男
寛政譜17・247
母は山中治部の女


妻は筒井主殿助正次の女

元和9年 家光に仕える


小十人。100俵

寛永9年8月25日 200俵

寛永19年8月18日 浅草蔵奉行

寛永19年8月18日 浅草方御蔵奉行 ●「日記」

正保3年11月24日 縄竹奉行

延宝7年7月18日 死す
美濃部茂勝(与藤次)
生。与藤次
みのべしげかつ
次兵衛茂持の男
寛政譜17・252 慶長12年 家康に仕える。材木奉行

寛永2年7月27日 300石の朱印

承応元年5月8日 死す
美濃部茂高
生。儀左衛門
みのべしげたか
市郎左衛門茂正の次男
寛政譜17・250 寛永7年 家光に仕える


小十人

寛永13年2月23日 納戸番

寛永13年2月23日 御納戸衆 ●「日記」

慶安4年9月11日 死す
美濃部茂時
生。文左衛門
みのべしげとき
右馬允茂重の養子。伊丹弥五右衛門虎重の次男
寛政譜17・257
養父茂重の遺跡を継ぐか。530石


大番

(寛永18年3月1日) (大久保右京亮教隆組もしくは皆川山城守隆庸組) ●「日記」

寛永20年9月20日 天守番頭 ●「日記」共

寛文12年 死す
美濃部茂俊
生。八蔵。八郎右衛門
みのべしげとし
地蔵大夫茂数の長男
寛政譜17・259 慶長17年 家康に仕える


箪笥奉行

元和3年 父茂数の遺跡を継ぐか。310石

元和3年 510石

寛永20年5月21日 死す
美濃部茂直 寛永5年 生。八蔵。八郎右衛門
みのべしげなお
八郎右衛門茂俊の長男
寛政譜17・259
妻は石尾志摩守治昌の女

寛永20年12月7日 父茂俊の遺跡を継ぐ。510石 ●「日記」共

正保元年11月13日 はじめて家光に拝謁

正保元年11月13日 継目之御礼 ●「日記」

正保2年6月25日 書院番

貞享3年5月21日 死す
美濃部茂正(市郎左衛門) 天正15年 生。鹿子助。市郎左衛門
みのべしげまさ
鹿子助茂広の男
寛政譜17・250
妻は美濃部地蔵大夫茂数の女

慶長6年 家康に仕える

(慶長10年) 父茂広の遺跡を継ぐか。310石

元和元年~ 大番

寛永10年2月7日 510石

(寛永13年5月20日) (大坂在番) ●「日記」


大番を辞す。小普請

寛文2年7月24日 死す
美濃部茂正(権之助) 慶長7年 生。権之助
みのべしげまさ
助三郎茂次の男
寛政譜17・256 (慶長16年) 父茂次の遺跡を継ぐ。300石

慶長17年 はじめて家康に拝謁

元和元年~ 家光に付属される。大番

寛永10年2月7日 500石

寛文元年8月18日 死す
美濃部重安
生。七兵衛。七右衛門
みのべしげやす
地蔵大夫茂数の次男
寛政譜17・261
秀忠に仕える。小十人。100俵。月俸10口

寛永13年2月23日 御納戸の番士

寛永13年2月23日 御納戸衆 ●「日記」

(正保元年12月16日) (七右衛門の初出) ●「日記」

正保元年12月16日 納戸組頭。300俵

正保元年12月16日 御納戸組頭 ●「日記」

慶安4年9月29日 綱吉に付属される。納戸頭。神田館に伺候。500俵

寛文3年7月23日 死す
壬生忠利 慶長5年 生。左近衛将監。蔵人。中務大丞。左大史。主殿頭。算博士
みぶただとし
左大史孝亮の男
地下家伝上・202 慶長17年12月3日 正六位上。元服。左近衛将監。蔵人。禁色。昇殿
宮廷公家系図集覧590 元和6年1月11日 左近衛将監。蔵人。中務大丞

寛永4年6月29日 従五位下

寛永5年2月10日 従五位上

寛永8年11月6日 正五位下

寛永10年12月21日 正五位上

寛永12年12月28日 左大史(官務)

寛永13年1月11日 左大史。主殿頭

寛永14年1月5日 従四位下

寛永19年1月5日 従四位上

慶安3年8月15日 左大史。主殿頭。算博士

承応2年1月5日 正四位下

寛文3年7月21日
壬生紀学 元和7年 生。左近衛将監。蔵人
みぶのりさと
左大史忠利の長男
地下家伝上・203 寛永8年11月6日 正六位上
宮廷公家系図集覧590 寛永10年12月8日 元服。左近衛将監。蔵人。禁色。昇殿

(寛永11年7月21日) (祢蔵人) ●「日記」

寛永18年6月28日 死す
三保神主
駿河国三保。御穂神社
みほかんぬし




宮城貞正
生。半助
みやぎさだまさ
越前守和甫の次男
寛政譜10・322
母は豊臣家臣三上庄左衛門士秀の女


徳川忠長に仕える

寛永9年 召し預けられる

寛永13年9月18日 赦免

寛永13年9月18日 被召出 ●「日記」

寛永15年12月23日 家光に仕える。小姓組。300石

寛永15年12月23日 駿河衆宮木半介御小姓組御番可仕之 ●「日記」

正保3年~ 小姓組を辞す。小普請

寛文3年2月17日 死す
宮城重勝
生。八郎兵衛
みやぎしげかつ
越前守和甫の四男
寛政譜10・320
母は三上庄左衛門士秀の女

寛永18年6月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永19年6月20日 小姓組 ●「日記」共


以下不詳
宮城豊嗣 慶長10年 生。十二郎。主膳
みやぎとよつぐ
右京進頼久の男
寛政譜10・325
母は宮城丹波守豊盛の女


妻は松平豊前守勝政の女

慶長14年 父頼久の遺跡を賜る

慶長18年6月1日 はじめて家康に拝謁

慶長19年 相応院の内意を受け家康の御前に伺候

元和6年 祖父丹波守豊盛の遺跡を継ぐ。(5000石?)


(駿府に住すか?)

承応2年11月8日 死す
宮城正次 慶長13年 生。五郎右衛門。平右衛門
みやぎまさつぐ
平右衛門正重の男
寛政譜9・181
徳川忠長に仕えるか

(寛永9年) 父正重に連座し勘気を蒙る

寛永11年1月5日 父正重死す

寛永13年12月10日 赦免 ●「日記」共


400石

寛永16年6月22日 小姓組 ●「日記」共

寛永20年4月5日 死す
宮城和治
生。三左衛門
みやぎまさはる
越前守和甫の長男
寛政譜10・319
母は豊臣家臣三上庄左衛門士秀の女


妻は興津内記忠行の女


家光に仕える。書院番

寛永13年10月28日 書院番。進物役

寛永13年10月28日 御進物番 ●「日記」

寛永16年7月12日 徒頭

寛永16年7月12日 都筑弥左衛門元組御歩行頭 ●「日記」

寛永18年1月6日 布衣 ●「日記」共


700石

慶安4年11月21日 700石300俵

明暦元年 父和甫の遺跡を継ぐ。4000石

寛文4年3月7日 留守居番

寛文5年5月28日 死す
宮城和充 寛永11年 生。犬勝。監物
みやぎまさみつ
越前守和甫の五男
寛政譜10・323
母は豊臣秀吉家臣三上庄左衛門士秀の女


妻は大田原備前守政清の女

寛永18年10月3日 家綱に付属される。小姓

寛永18年10月3日 (名前のみの記載) ●「日記」

慶安3年9月4日 書院番。300俵

寛文12年7月23日 徒頭

寛文12年12月26日 600俵

寛文12年12月28日 布衣

延宝7年9月25日 目付

天和元年5月12日 長崎奉行。500石600俵

貞享3年11月4日 出仕をとどめられる

元禄元年12月18日 ゆるされる。小普請。なお拝謁をはばかる

元禄2年6月4日 ゆるされる

元禄4年8月10日 死す
宮城和甫
生。甚右衛門。越前守。はじめ鯰江を称す
みやぎまさよし
対馬守正重の名跡を継ぐ
寛政譜10・318
浅野弾正少弼家臣鯰江権右衛門貞勝の男


母は豊臣家臣宮城右兵衛尉堅甫の女


妻は豊臣家臣三上庄左衛門士秀の女


(池田三左衛門輝政に仕える)


良正院に供奉してはじめて家康に拝謁

慶長16年 はじめて秀忠に拝謁。400俵


400石

元和2年6月 家光に付属される

元和5年6月 鯰江を改めて宮城を称す

元和8年7月 目付

元和8年 1000石

寛永元年 茜の母衣をゆるされる

寛永9年9月2日 五の字の指物 ●「日記」

寛永10年12月26日 2000石

寛永10年12月26日 御加恩御知行千石 ●「日記」

寛永10年 五の字の指物をゆるされる

寛永11年9月16日 従五位下・越前守

(寛永13年2月16日) (越前守の初出) ●「日記」

寛永19年11月8日 大目付。4000石

寛永19年11月8日 弐千石御加増井上筑後守ニ相加御役可相勤 ●「日記」

明暦元年2月15日 死す
宮城政興 寛永8年 生。孫三郎。五郎右衛門
みやぎまさよし
平右衛門正次の長男
寛政譜9・182 寛永20年12月7日 父正次の遺跡を継ぐ。400石。小普請

寛永20年12月7日 四百石平右衛門跡宮木孫三郎 ●「日記」


小姓組

万治2年8月9日 死す
宮城宗勝
生。九兵衛
みやぎむねかつ
越前守和甫の三男
寛政譜10・320 寛永18年6月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

某年 死す
三宅市右衛門
生。市右衛門
みやけいちえもん
父逸平治の家を継ぐ。徳川義直に仕える。馬廻
士林泝洄2・342 慶安元年 死す



三宅久兵衛

みやけきゅうびょうえ 寛永13年12月6日 初て御目見 ●「日記」






三宅重貞 寛永8年 生。権之助。半左衛門。半七郎。無皆
みやけしげさだ
半七郎重吉の男
寛政譜16・30
母は植村出羽守家政の女


妻は荒川山城守定安の女

寛永15年12月1日 はじめて家光に拝謁

寛永15年12月1日 三宅半七郎子共始て御目見 ●「日記」

慶安3年2月18日 小姓組

延宝5年3月7日 父重吉の家を継ぐ。1520石

天和元年4月23日 小姓組を辞す。小普請

天和2年12月18日 致仕。無皆と号す

貞享2年8月6日 死す
三宅重正 慶長8年 生。伝左衛門
みやけしげまさ
半七郎重勝の次男
寛政譜16・31
母は山田半右衛門の女


妻は松田六郎左衛門定平の女

寛永9年8月19日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

(寛永9年8月19日) (半左衛門) ●「日記」


小十人。100俵

寛永19年12月16日 200俵 ●「日記」共

正保2年6月28日 小十人組頭

正保3年12月4日 300俵

正保4年9月26日 小十人頭

正保4年12月30日 布衣

慶安4年11月21日 600俵

寛文6年8月18日 小十人頭を辞す

寛文7年5月29日 閉門

寛文7年12月17日 ゆるされる

寛文8年3月17日 小十人頭

寛文8年8月10日 小十人頭を辞す。小普請

貞享元年5月4日 死す
三宅重吉 慶長12年 生。隼人。半七郎。三休
みやけしげよし
半七郎重勝の長男
寛政譜16・29
母は山田半右衛門の女


妻は植村出羽守家政の女

元和4年 父重勝の遺跡を継ぐ。1000石

元和4年7月15日 はじめて秀忠に拝謁


小姓組

寛永2年10月23日 1020石の朱印

寛永10年2月7日 1220石

寛永16年10月18日 小十人組の頭

寛永16年10月18日 小十人組之頭被仰付之山下弥蔵元組也 ●「日記」

寛永18年1月6日 布衣 ●「日記」共

寛永18年4月12日 逼塞 ●「日記」共

寛永18年9月5日 ゆるされる

寛永18年9月5日 御赦免仕来御役如前々可相勤 ●「日記」

慶安4年 日光山へ家光の霊柩に従う

(承応元年1月28日) 遠江国荒井関所番頭。1520石

寛文3年11月6日 遠江国荒井関所番頭を辞す。寄合

寛文6年5月10日 先弓頭

延宝4年10月13日 先弓頭を辞す

延宝5年3月7日 致仕。300俵。三休と号す

貞享4年10月12日 死す
三宅長利
生。太兵衛
みやけながとし
惣九郎正次の男
寛政譜16・28
妻は曾我又左衛門尚祐の女

慶長19年 父正次の遺跡を継ぐ。大番

寛永10年2月7日 200石加増

寛永19年5月21日 大番組頭

寛永19年5月21日 保科弾正組西山十右衛門松平縫殿助組三宅多兵衛右両人―


―大番組頭被仰付 ●「日記」

慶安元年1月2日 目付

慶安4年8月16日 布衣


300俵加増

承応元年8月19日 駿府町奉行。300俵加増

明暦3年6月17日 死す
三宅長房
生。左近
みやけながふさ
玄蕃頭正勝の次男
寛政譜20・68
東福門院に仕える。膳奉行


賄頭

(寛文6年) 死す
三宅陳忠
生。玄蕃。新左衛門
みやけのぶただ
玄蕃頭正勝の長男
寛政譜20・67 (寛永8年) 父正勝に継いで東福門院に仕える


賄頭。納戸頭。現米100石月俸10口

延宝7年2月 前年に東福門院崩御により江戸に召される。小普請

元禄6年10月2日 死す
三宅正勝 文禄元年 生。惣十郎。惣兵衛。弥次兵衛。はじめ鳥居を称す
みやけまさかつ
弥次兵衛正次の男
寛政譜16・23
母は武田家臣一条右衛門大夫信竜の女


妻は駒井右京親直の女


幼少のとき父正次死去により鳥居左京亮忠政に養育される


鳥居を称す

慶長11年 秀忠に仕える。御側に勤仕。300俵。三宅を称す

~寛永3年 小姓組

寛永10年2月7日 500石


膳奉行


700石

寛永14年11月25日 二丸に伺候

寛永14年11月25日 御本丸御膳奉行之内三宅宗兵衛被相加之―


―二之丸御膳奉行被仰付之 ●「日記」

(寛永18年12月29日) (弥二兵衛の初出) ●「日記」

正保4年2月15日 二丸膳奉行をゆるされる

慶安4年11月26日 西丸裏門番頭

承応元年12月28日 布衣

明暦3年7月19日 先鉄炮頭・西丸裏門番頭

万治元年閏12月25日 700石300俵

寛文3年11月6日 先鉄炮頭・西丸裏門番頭を辞す

寛文4年9月7日 死す
三宅正忠 元和9年 生。弥十郎。弥次兵衛
みやけまさただ
弥次兵衛正勝の長男
寛政譜16・23
母は駒井右京親直の女


妻は天野孫左衛門重房の女

寛永15年1月15日 書院番 ●「日記」共

寛文4年12月10日 父正勝の遺跡を継ぐ。700石

寛文11年12月28日 先鉄炮頭。布衣

寛文12年10月3日 死す
三宅康勝 寛永5年 生。隼人。能登守。土佐守
みやけやすかつ
大膳亮康盛の男
寛政譜16・13
母は内藤左馬助政長の女


室は松平右衛門大夫大河内正綱の女

寛永13年11月6日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

万治元年2月27日 父康盛の遺領を継ぐ。三河国挙母1万2000石。帝鑑間に伺候

寛文2年12月27日 従五位下・能登守

寛文4年5月9日 三河国田原城1万2000石

延宝7年8月23日 土佐守

貞享4年8月9日
三宅康重
生。大学
みやけやすしげ
越後守康信の次男
寛政譜16・16
母は戸田左門一西の女

寛永12年9月 はじめて家光に拝謁

寛永13年8月9日 小姓組 ●「日記」共

寛永19年12月10日 300俵 ●「日記」共

延宝4年10月25日 西丸留守居

延宝4年12月26日 布衣

天和2年4月22日 400石300俵

天和3年12月11日 西丸留守居を辞す。寄合

天和3年12月15日 死す
三宅康信 永禄6年 生。惣兵衛。越後守
みやけやすのぶ
惣右衛門康貞の長男
寛政譜16・13
母は小笠原佐渡守の女


室は戸田左門一西の女

天正18年 家康に仕える

慶長5年 関ケ原の役にて遠江国横須賀城番

慶長19年 大坂の役にて駿府城を守衛

元和元年 大坂の役にて淀城を警衛

(元和元年) 父康貞の遺領を継ぐ。三河国挙母1万石

元和3年12月25日 従五位下・越後守

元和5年秋 伊勢国亀山城1万石

元和6年8月 伊勢国亀山城1万2000石

寛永9年9月27日
三宅康広 寛永3年 生。藤三郎。市右衛門
みやけやすひろ
惣右衛門康政の三男
寛政譜16・20
妻は三宅大学康重の女

寛永16年10月7日 家光に仕える。小姓。二丸に伺候

寛永19年6月20日 書院番 ●「日記」共

正保元年12月25日 300俵 ●「日記」共

万治3年4月28日 膳奉行

万治3年12月25日 小納戸

万治3年12月28日 布衣

寛文元年12月4日 500俵


700俵

寛文11年3月18日 小普請。逼塞

寛文12年4月1日 ゆるされる

元禄10年7月26日 700石

元禄11年12月5日 致仕

元禄14年7月12日 死す
三宅康政 天正17年 生。木工助。惣右衛門
みやけやすまさ
惣右衛門康貞の次男
寛政譜16・17
母は小笠原佐渡守の女

慶長7年 家康に拝謁

慶長14年 勘気を蒙る。鳥居左京亮忠政の所領陸奥国岩城に屏居

元和4年 秀忠に仕える

元和6年 書院番。500石

寛永10年2月7日 700石

寛永14年11月25日 膳奉行

寛永14年11月25日 御本丸御膳奉行 ●「日記」

(寛永17年9月18日) (惣右衛門の初出) ●「日記」

寛永17年9月18日 改易 ●「日記」共

寛永18年9月5日 赦免。膳奉行。700石

寛永18年9月5日 御赦免仕来御役如前々可相勤 ●「日記」

慶安4年11月26日 西丸裏門番頭

承応元年12月28日 布衣

明暦2年7月9日 留守居番

万治2年12月24日 700石300俵

寛文元年8月10日 死す
三宅康盛 慶長5年 生。大膳。大膳亮
みやけやすもり
越後守康信の長男
寛政譜16・13
母は戸田左門一西の女


室は内藤左馬助政長の女


家康に仕える

寛永3年8月19日 従五位下・大膳亮

寛永9年 父康信の遺領を継ぐ。伊勢国亀山城1万2000石

寛永9年12月23日 継目御礼 ●「日記」

寛永13年5月18日 三河国挙母1万2000石

寛永13年5月18日 内々亀山差上替地拝領仕度之旨御訴訟之儀被聞召届之間―


―関東ニて替可被下之旨上意其上御旗本ニて御奉公可仕 ●「日記」

明暦3年12月29日
宮崎景次 永禄3年 生。藤助。藤右衛門。浄安
みやざきかげつぐ
筑後泰景の四男
寛政譜16・265
母は原肥後の女


妻は下条九郎兵衛の女


後妻は百足采女の女

天正16年 家康に拝謁。家康に仕える


110石

慶長5年 上杉征伐にて秀忠に従う


信濃国下伊那の代官

慶長6年 信濃国馬場村410石

寛永9年 剃髪。浄安と号す

(寛永11年3月26日) (藤右衛門) ●「日記」

寛永14年6月3日 死す
宮崎重次 天正9年 生。庄次郎。半兵衛
みやざきしげつぐ
半兵衛泰重の次男
寛政譜16・256
母は佐々木河内守重正の女


妻は太田善大夫吉勝の女

慶長4年11月 はじめて家康に拝謁。父泰重の遺跡を継ぐ。280石

~慶長5年 秀忠に仕える。大番

慶長6年 信濃国伊奈郡320石。伊奈材木奉行

元和元年~寛永4年 三河・遠江両国の郡事を沙汰

正保元年2月14日 死す
宮崎重綱
生。太郎左衛門
みやざきしげつな
太郎左衛門安重の男
寛政譜16・264 (元和7年) 父安重の遺跡を継ぐか。信濃国伊那郡200石

元和9年 秀忠に拝謁


家光に仕える。代官

天和2年 死す
宮崎重久
生。九郎次郎
みやざきしげひさ
九郎次郎景重の男
寛政譜16・266 寛永11年2月8日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保2年6月25日 書院番

正保4年11月 死す。断絶
宮崎重広
生。大吉。主水。甚右衛門
みやざきしげひろ
備前守時重の三男
寛政譜16・268
母は本多藤四郎の女


妻は深津越中守正貞の女

寛永18年6月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保3年7月6日 小姓組

慶安元年12月11日 300俵

延宝5年閏12月22日 二丸留守居

天和2年4月22日 300石300俵

元禄元年7月18日 二丸張番を支配

元禄8年6月1日 先鉄炮頭。600俵

元禄8年12月18日 布衣

元禄10年7月26日 600石

宝永元年8月2日 小普請

宝永2年7月10日 死す
宮崎重政 元和6年 生。隼人。織部
みやざきしげまさ
備前守時重の長男
寛政譜16・266
母は本多藤四郎の女


妻は甲斐庄喜右衛門正述の長女

寛永15年12月15日 書院番 ●「日記」共

寛永20年12月26日 縁辺 ●「日記」

慶安3年9月3日 西丸に勤仕

(慶安4年) 本丸に勤仕

明暦2年11月5日 父時重の遺跡を継ぐ。3000石

明暦3年10月23日 小姓組組頭

明暦3年12月28日 布衣

延宝6年1月11日 先鉄炮頭

天和2年4月21日 3500石

貞享4年3月27日 先鉄炮頭を辞す。小普請

貞享4年4月7日 死す
宮崎主馬助

みやざきしゅめのすけ
北面

(寛永13年4月2日) (地下) ●「日記」



宮崎土佐守

みやざきとさのかみ
日野資勝に仕える

(寛永16年4月1日) (日野大納言内) ●「日記」



宮崎時重 天正18年 生。左馬助。金右衛門。備前守
みやざきときしげ
藤右衛門景次の次男
寛政譜16・266
母は下条九郎兵衛の女


妻は本多藤四郎の女

慶長13年 はじめて家康に拝謁。秀忠に仕える。200俵。書院番

元和元年 500石200俵

元和2年9月15日 家光に付属される


1500石


小納戸

寛永10年6月2日 2500石

寛永10年6月2日 千石御加恩 ●「日記」

寛永11年閏7月29日 従五位下・備前守

寛永11年閏7月29日 諸大夫 ●「日記」

(寛永12年11月14日) (備前守の初出) ●「日記」

寛永19年2月5日 留守居番


3500石

慶安3年9月3日 家綱に付属される

明暦2年5月13日 死す
宮崎政泰 元和6年 生。半十郎。七郎右衛門。若狭守
みやざきまさやす
七郎右衛門泰次の長男
寛政譜16・259
母は宮崎半兵衛重次の女


妻は安部平三郎信孝の養女

寛永10年12月 父泰次の遺跡を継ぐ。200石100俵

寛永11年3月26日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永13年12月27日 大番 ●「日記」共

慶安3年8月30日 家綱に付属される。西丸小納戸


本丸に勤仕

承応元年11月13日 200石300俵

万治3年12月1日 200石500俵

万治3年12月28日 布衣

寛文2年9月15日 200石800俵

寛文5年8月6日 伏見町奉行。700石800俵

寛文5年9月6日 1500石

寛文6年12月28日 従五位下・若狭守

寛文8年7月13日 伏見町奉行・京都町奉行。与力20騎同心50人

延宝元年1月23日 町奉行。1500石1000俵

延宝8年2月23日 町奉行を辞す。寄合

延宝8年4月1日 死す
宮崎道次 慶長10年 生。三左衛門
みやざきみちつぐ
藤右衛門景次の四男
寛政譜16・269
母は下条九郎兵衛の女


妻は宮崎半兵衛重次の女


また千村平右衛門の女を娶る


秀忠・家光に仕える。代官。信濃国下伊那の馬場村に住す

寛文8年5月2日 死す
宮重信次 慶長8年 生。金左衛門。十左衛門
みやしげのぶつぐ
作兵衛信秀の長男
寛政譜16・299
母は秋鹿平左衛門政朝の女


妻は奥村氏


後妻は松倉豊後守家臣津田清大夫算長の女

寛永3年閏4月19日 はじめて家光に拝謁

寛永3年5月7日 小十人。60俵

寛永4年 100俵

寛永9年8月25日 200俵

寛永15年5月8日 土圭間番 ●「日記」共

慶安元年6月14日 新番

万治2年12月26日 250俵

寛文6年8月23日 具足奉行

延宝2年10月27日 死す
宮田吉利
生。治左衛門
みやたよしとし
茂右衛門吉次の男
寛政譜16・297 慶長9年 秀忠に拝謁

慶長9年12月 父吉次の遺跡を継ぐ。手鷹師

(寛永15年10月14日) (御鷹師) ●「日記」

寛文5年5月13日 死す
宮原晴克 慶長12年 生。右京
みやはらはるかつ
勘五郎義久の男
寛政譜2・123
母は武田四郎勝頼の女

元和6年9月 はじめて秀忠に拝謁

寛永8年 父義久の遺跡を継ぐ。下野国足利1140石。

寛永8年4月1日 父義久の遺跡を継ぐ ●「日記」

寛永19年10月28日 死す
宮原義辰 寛永3年 生。主膳
みやはらよしとき
右京晴克の男
寛政譜2・123
妻は織田弥十郎信当の女

寛永19年12月23日 父晴克の遺跡を継ぐ。下野国足利1140石

寛永19年12月23日 宮原右京跡式実子主膳ニ被下之 ●「日記」

正保元年2月15日 はじめて家光に拝謁

寛文9年12月2日 死す
宮原義久 天正5年 生。勘五郎
みやはらよしひさ
兄勘五郎義照の嗣。足利弾正義勝の次男
寛政譜2・123
母は真里谷信濃入道信政の女


妻は武田四郎勝頼の女

慶長7年 兄義照の遺跡を賜る。下野国足利1140石。無官の高家

慶長7年 武田勝頼の女を妻とする

寛永7年12月5日 死す
宮本助之丞

みやもとすけのじょう
讃岐国塩飽水軍御用船の年寄
塩飽嶋諸事覚

(香川叢書2・349)




宮脇頼母

みやわきたのも
松平相模守池田光仲に仕える

(寛永19年5月22日) (松平相模守家来) ●「日記」



妙観院
天台宗か
みょうかんいん




妙光寺
上総国茂原。日蓮宗
みょうこうじ




妙国寺
江戸品川。日蓮宗。のち天妙国寺
みょうこくじ




妙心寺
京都。臨済宗
みょうしんじ




妙心寺(三河)
三河国岡崎岩津。浄土宗
みょうしんじ




妙心寺麟祥院
京都妙心寺
―りんしょういん




明丁寺
京都。日蓮宗。明了寺? 妙丁寺? 妙了寺?
みょうちょうじ


寛永15年12月1日 品川妙国寺御目見是京之明丁寺後住被仰付付て也 ●「日記」






明珍宗信
生。大隅守
みょうちんむねのぶ
久太郎宗家の嗣
工芸鏡1・34
甲冑師

元和 大坂・江戸等に住す



妙法華寺
伊豆国玉沢。日蓮宗
みょうほっけじ 寛永13年2月1日 後住之御礼 ●「日記」



妙立寺
遠江国。日蓮宗
みょうりゅうじ


寛永19年7月6日 御朱印被下之 ●「日記」



妙蓮寺
駿河国富士。日蓮宗
みょうれんじ




三好采女

みよしうねめ (寛永12年10月6日) 松平大和守直基の家臣 ●「日記」






三好勝正 慶長12年 生。猪之助
みよしかつまさ
越後守可正の次男
寛政譜4・44
妻は岡部小右衛門忠豊の女


後妻は織田弥十郎信当の女

寛永11年 父可正の遺跡を継ぐ。1000石。小普請


小姓組

万治元年4月24日 死す
三好式部

みよししきぶ
知恩院門跡良純法親王に仕える

(寛永11年2月4日) (知恩院家来) ●「日記」

(寛永13年5月6日) (三吉式部卿) ●「日記」



三好直滋
生。虎之助。助九郎
みよしなおしげ
助九郎直次の男
寛政譜4・46 正保元年 父直次の遺跡を継ぐ。1000石

正保元年11月13日 はじめて家光に拝謁

正保元年11月13日 継目之御礼 ●「日記」

慶安2年12月26日 小姓組

明暦2年 死す
三好直次
生。助九郎
みよしなおつぐ
備中守長直の次男
寛政譜4・46
秀忠に仕える。書院番

慶長19年~ 兄庄左衛門直重の采地を賜る。1000石

(正保元年) 死す
三好長富 慶長16年 生。右兵衛。備前守
みよしながとみ
祖父因幡守一任の養子。越後守可正の長男
寛政譜4・43
妻は三上半兵衛季正の女

寛永3年12月 はじめて家光に拝謁


祖父一任の養子となる

寛永7年12月28日 従五位下・備前守

寛永9年 祖父一任の遺跡を継ぐ。2020石


書院番

慶安3年9月3日 西丸小姓組


本丸に勤仕

寛文12年6月11日 使役

天和2年2月27日 使役を辞す。寄合

元禄4年12月2日 致仕

元禄9年7月23日 死す
弥勒寺
江戸。真言宗
みろくじ




三輪先達
大和国三輪。三輪明神(大神神社)別当。大峯勤行の先達役。真言宗
みわせんだつ
現在の平等寺



三輪久重 慶長5年 生。彦左衛門
みわひさしげ
七蔵久吉の次男
寛政譜19・248
母は織田家臣松平彦四郎の女


妻は小林清兵衛重堅の女

寛永18年7月18日 はじめて家光に拝謁

寛永18年7月18日 御目見 ●「日記」

寛永19年6月26日 大番 ●「日記」共

正保元年12月25日 200俵 ●「日記」共

延宝元年4月24日 死す
三輪久吉 天正6年 生。七蔵
みわひさよし
七右衛門久勝の男
寛政譜19・247
妻は織田家臣松平彦四郎の女

慶長10年4月17日 父久勝の遺跡を継ぐ。300石。二条城御殿番

(寛永18年7月18日) (二条定番) ●「日記」

明暦元年4月7日 死す
民部卿

みんぶきょう
勧修寺門跡寛海の家臣



向井右衛門太郎
生。(右衛門二郎)。右衛門太郎
むかいうえもんたろう
右衛門忠宗の男
寛政譜2・286 正保元年12月25日 父忠宗の遺跡を継ぐ。6000石

正保元年12月25日 跡目被仰付五千石向井右衛門惣領右衛門二郎 ●「日記」

正保4年10月11日 死す
向井忠勝 天正10年 生。将監
むかいただかつ
兵庫頭正綱の長男
寛政譜2・283
母は長谷川三郎兵衛長久の女


妻は中田氏

慶長2年 秀忠に仕える

慶長6年 500石。国一丸の船と水主50人を預かる

元和元年2月 1000石

元和3年2月11日 3000石

(寛永2年) 父正綱の遺跡を継ぐ。5000石。水主100人を預かる

寛永2年7月27日 6000石

寛永7年6月26日 水主同心130人を預かる

寛永9年6月25日 御船之義可申付 ●「日記」

寛永11年10月 安宅船天下丸を預かる

寛永18年10月14日 死す
向井忠宗 慶長12年 生。右衛門
むかいただむね
将監忠勝の次男
寛政譜2・285
妻は伊奈備前守忠次の女


また妻は安部摂津守信盛の女

慶長19年 はじめて秀忠に拝謁


小姓

~寛永7年 小姓組。500俵

寛永9年6月25日 御船之義可申付 ●「日記」

寛永9年8月14日 船手。水主同心30人を預かる

寛永9年8月14日 水主同心30人 ●「日記」

寛永13年12月29日 布衣 ●「日記」共

(寛永17年1月1日) (忠右衛門) ●「日記」

寛永17年6月22日 九州四国中国之浦々為見分船手之面々毎年二人宛可被遣之旨被仰出之―


―所謂辰年小浜久太郎間宮虎之助巳年石川八左衛門向井右衛門―


―午年小浜弥十郎小笠原安芸守右之通代々可相越 ●「日記」

寛永18年12月4日 父忠勝の遺跡を継ぐ。5000石

寛永18年12月4日 安宅船天下丸と水主同心160人を預かる

寛永18年12月4日 六千石向井将監跡内五千石惣領右衛門ニ被下之但父将監ニ御預之水主―


―百卅人右衛門ニ御預千石二男兵部ニ被下之但兄右衛門ニ只今迠―


―御預之水主卅人ニ御預五百俵三男八郎ニ被下之是ハ兄右衛門唯今迠―


―取来之御切米也三百俵四男弁之助ニ被下之是ハ兄兵部唯今迠取来之―


―御切米也 ●「日記」

正保元年6月17日 死す

(正保元年7月6日) (向井右衛門去比死去因之伊豆三崎御番所其外御船之御用等役人被仰付―


―之内は彼弟兵部如前々可致支配之旨御舟手之頭中へ老中―


―伝上意之旨云々) ●「日記」
向井半十郎
生。半十郎
むかいはんじゅうろう
権十郎政直の男
寛政譜2・290 正保元年12月25日 父政直の遺跡を継ぐ。400石 ●「日記」共

万治3年 死す
向井正興 寛永4年 生。八郎。八十郎。(八郎)。八郎兵衛。兵庫助。空参
むかいまさおき
将監忠勝の六男
寛政譜2・288
母は中田氏


妻は春日左衛門家次の女

寛永16年2月5日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

(寛永18年12月4日) (八郎の初出) ●「日記」 はじめ八十郎のち八郎か

寛永18年12月4日 兄忠宗の廩米を賜る。500俵

寛永18年12月4日 六千石向井将監跡内五千石惣領右衛門ニ被下之但父将監ニ御預之水主―


―百卅人右衛門ニ御預千石二男兵部ニ被下之但兄右衛門ニ只今迠―


―御預之水主卅人ニ御預五百俵三男八郎ニ被下之是ハ兄右衛門唯今迠―


―取来之御切米也三百俵四男弁之助ニ被下之是ハ兄兵部唯今迠取来之―


―御切米也 ●「日記」

正保2年6月25日 書院番

慶安3年9月3日 西丸に勤仕

(慶安4年) 本丸に勤仕

延宝2年7月9日 船手。水主同心46人

延宝2年8月23日 命により兵庫助に改める

延宝2年12月27日 布衣

天和2年4月21日 400石500俵

元禄6年5月13日 船手を辞す

元禄7年12月7日 致仕。300俵。空参と号す

宝永5年7月6日 死す
向井正方 元和6年 生。兵部。将監
むかいまさかた
将監忠勝の五男
寛政譜2・286
母は中田氏


妻は服部玄蕃頭政久の女

寛永4年 はじめて秀忠に拝謁

寛永15年 300俵

寛永18年12月4日 父忠勝の遺跡分知。1000石。水主30人。船奉行

寛永18年12月4日 六千石向井将監跡内五千石惣領右衛門ニ被下之但父将監ニ御預之水主―


―百卅人右衛門ニ御預千石二男兵部ニ被下之但兄右衛門ニ只今迠―


―御預之水主卅人ニ御預五百俵三男八郎ニ被下之是ハ兄右衛門唯今迠―


―取来之御切米也三百俵四男弁之助ニ被下之是ハ兄兵部唯今迠取来之―


―御切米也 ●「日記」

寛永19年5月6日 出仕をとどめられる ●「日記」共

正保元年7月6日 水主50人。召船奉行。伊豆・三崎守衛

正保元年7月6日 向井右衛門去比死去因之伊豆三崎御番所其外御船之御用等役人被仰付―


―之内は彼弟兵部如前々可致支配之旨御舟手之頭中へ老中―


―伝上意之旨云々 ●「日記」

正保2年12月30日 布衣

寛文2年6月11日 2000石。水主100人

延宝2年7月10日 死す
向井正次 寛永5年 生。弁之助。六左衛門
むかいまさつぐ
将監忠勝の七男
寛政譜2・289
母は中田氏


妻は井出甚之介正成の女

寛永16年2月5日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永18年12月4日 兄正方の廩米を賜る。300俵

寛永18年12月4日 六千石向井将監跡内五千石惣領右衛門ニ被下之但父将監ニ御預之水主―


―百卅人右衛門ニ御預千石二男兵部ニ被下之但兄右衛門ニ只今迠―


―御預之水主卅人ニ御預五百俵三男八郎ニ被下之是ハ兄右衛門唯今迠―


―取来之御切米也三百俵四男弁之助ニ被下之是ハ兄兵部唯今迠取来之―


―御切米也 ●「日記」

正保2年6月25日 小姓組

寛文9年11月14日 死す
向井政直
生。権十郎
むかいまさなお
五左衛門政良の男
寛政譜2・290 元和4年 秀忠・家光に仕える。大番

(寛永9年) 父政良の遺跡を継ぐか。200石

寛永10年2月7日 400石

正保元年 死す
向山伝之助
生。伝之助
むこうやまでんのすけ
藤右衛門盛広の長男
寛政譜8・131 正保元年6月4日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共


早世か
向山直道
生。九郎左衛門。もとは渡辺を称すか
むこうやまなおみち 慶長4年
寛政譜20・56
表火番

寛永18年4月14日 火之番御役被仰付之是ハ此以前不念之儀有之て御役改之雖召上之―


―久々御奉公仕候者之儀ニ故元之ことく火之番ニ被召加之 ●「日記」

(正保3年) 死す
向山盛広 慶長6年 生。伝右衛門。藤右衛門
むこうやまもりひろ
三右衛門正盛の男
寛政譜8・131 寛永7年 大番


勘気を蒙る

寛永15年10月17日 赦免 ●「日記」共

(正保元年6月4日) (皆川山城守組) ●「日記」

(寛文2年) 父正盛の遺跡を継ぐ。400石


大番を辞す。小普請

延宝元年8月16日 死す
武蔵秀貞
生。孫之丞。孫兵衛
むさしひでさだ
出喜蔵秀治の男
寛政譜16・66
妻は赤井太郎左衛門時長の女


7歳より家光に仕える。小姓


上洛に供奉


大番


270石

寛永10年2月7日 470石

慶安3年8月3日 死す
武藤安信
生。理兵衛。清助。拙斎
むとうやすのぶ
理兵衛安成の長男
寛政譜14・6
母は織田家臣鈴木重五左衛門の女


妻は柳生但馬守宗矩の女

慶長15年 はじめて家康に拝謁

(慶長19年) 大坂の役に従う


小姓組

(寛永元年) (父安成の遺跡を継ぐ? 510石?)

寛永2年12月11日 510石?

寛永15年12月5日 勘定方

寛永15年12月5日 上方御勘定 ●「日記」


勘定方を辞す。小普請

万治3年12月18日 致仕。拙斎と号す

寛文6年12月15日 死す
武藤安之 慶長17年 生。庄五郎
むとうやすゆき
理兵衛安成の次男
寛政譜14・8
母は織田家臣鈴木重五左衛門の女


妻は徳川忠長家臣田付平左衛門景村の女

寛永13年5月1日 はじめて家光に拝謁

寛永13年5月1日 武藤理兵衛弟庄五郎 ●「日記」後部欠落。初見の礼か

寛永17年3月20日 大番 ●「日記」共

寛永19年12月10日 200俵 ●「日記」共

正保4年10月14日 材木奉行

寛文元年12月12日 300俵

寛文5年7月29日 死す
身人部右京
水口清長の男左近衛将監清定か?
むとりべうきょう (寛永11年7月21日) (地下) ●「日記」

寛永11年7月21日 初て御礼 ●「日記」



村上清政
生。左衛門
むらかみきよまさ
左衛門信清の長男
寛政譜4・261
妻は中川左平太重良の女

元和2年 秀忠に拝謁。大番

寛永3年 父信清の遺跡を継ぐ。500石

寛永10年2月7日 700石

(寛永13年3月25日) (大久保右京亮組) ●「日記」

正保4年12月23日 小普請奉行

寛文6年5月1日 死す
村上清義
生。権七郎。左衛門
むらかみきよよし
左衛門清政の長男
寛政譜4・261
母は中川左平太重良の女


妻は長田十大夫重政の女

寛永13年3月25日 はじめて家光に拝謁

寛永13年3月25日 村上左衛門子被召出之 ●「日記」

寛永13年3月25日 大久保右京亮組(大番) ●「日記」

寛永19年6月26日 大番 ●「日記」共

正保元年12月25日 弐百俵 ●「日記」

寛文元年10月12日 新番

寛文6年7月11日 父清政の遺跡を継ぐ。700石


新番を辞す。小普請

天和3年閏5月19日 死す
村上主殿

むらかみとのも
松平式部大輔榊原忠次の家臣



村上正尚 寛永5年 生。彦四郎。孫八郎。三右衛門
むらかみまさなお
次郎左衛門三正の長男
寛政譜4・264
母は戸川肥後守達安の女


妻は大関土佐守高増の女

寛永13年8月25日 はじめて家光に拝謁

寛永13年8月25日 村上次郎右衛門子共初て御礼 ●「日記」

正保元年6月16日 書院番 ●「日記」共

万治元年閏12月19日 書院番。進物役

寛文4年12月27日 父三正の家を継ぐ。1500石

延宝2年2月7日 屋敷改

延宝4年2月3日 屋敷改をゆるされる

天和2年3月29日 使番。2000石

天和2年12月27日 布衣

貞享3年9月18日 留守居番

元禄元年10月23日 死す
村上三正 慶長10年 生。三十郎。次郎左衛門。宗古
むらかみみつまさ
三右衛門吉正の長男
寛政譜4・264
妻は戸川肥後守達安の女

元和3年5月 はじめて秀忠に拝謁

元和7年 西丸小姓組

寛永2年9月2日 父吉正の本領を賜る。丹波国桑田郡1500石

寛永13年10月28日 小姓組。進物役

寛永13年10月28日 御進物番 ●「日記」

寛永19年~ 小姓組を辞す。小普請

寛文4年12月27日 致仕。宗古と号す。丹波国桑田郡保津村に住す

寛文9年6月29日 死す
村上弥右衛門

むらかみやえもん
松平式部大輔榊原忠次に仕える

(寛永16年5月5日) (松平式部大輔家来) ●「日記」

寛永16年5月5日 御目見是亡父跡目依被仰付也 ●「日記」






村上弥右衛門父



松平式部大輔榊原忠次に仕える

(寛永16年) 死す
村上吉勝 天正3年 生。彦太郎
むらかみよしかつ
弥右衛門勝重の三男
寛政譜4・257 天正17年 家康に仕える

(天正19年) 父勝重の遺跡を継ぐか


500石

寛永2年12月11日 1160石余


大番


大番を辞す。小普請

寛永14年 死す
村上吉久 慶長16年 生。彦六郎
むらかみよしひさ
彦太郎吉勝の養子。酒井左衛門尉家臣竹内五兵衛の男
寛政譜4・258
母は彦太郎吉勝の女


妻は山本四兵衛正吉の女

寛永元年 はじめて秀忠に拝謁

寛永元年 大番。200俵

寛永10年2月7日 400石

寛永14年12月8日 養父吉勝の遺跡を継ぐ。1160石余

寛永14年12月8日 千百六十石彦太郎跡村上彦六郎自分之四百石ハ被召上 ●「日記」

慶安4年3月28日 死す
村川市兵衛

むらかわいちびょうえ
伯耆国米子の商人。竹嶋(鬱陵島)渡海を支配






村雲信定 天正15年 生。左近衛将監。采女正。備前守
むらくものぶさだ
備前守信一の男
地下家伝上・803 慶長4年4月18日 正六位下

慶長15年12月26日 正六位上。左近衛将監

元和6年3月 采女正。左近衛将監

寛永3年5月1日 従五位下。備前守

寛文元年1月17日
村越正重 天正17年 生。三十郎。七郎左衛門
むらこしまさしげ
兵庫允光の養子。天野源内の次男
寛政譜16・98
妻は養父光の女

慶長5年 養父光の遺跡を継ぐ。1000石

慶長5年 家康に仕える。小姓

元和元年 大坂の役にて松倉豊後守重正に属す

~寛永2年 西丸書院番

寛永3年~寛永10年 小姓組

寛永10年12月21日 1200石

寛永12年12月26日 目付 ●「日記」共

寛永13年12月29日 布衣 ●「日記」共

承応3年7月2日 死す
村越正直
生。権左衛門。左兵衛
むらこしまさなお
七郎左衛門正重の次男
寛政譜16・100
妻は大久保彦左衛門忠名の女

寛永15年11月21日 村越七郎左衛門二番目子可被召出 ●「日記」

寛永16年2月5日 はじめて家光に拝謁

寛永16年2月5日 村越七郎左衛門二番子樽代を以初て御目見 ●「日記」

寛永17年3月19日 小姓組 ●「日記」共

寛永19年12月10日 300俵 ●「日記」共

貞享4年 死す
村越吉勝 慶長6年 生。清次郎。次左衛門。長門守。道半
むらこしよしかつ
茂助直吉の次男
寛政譜16・101
母は生駒雅楽頭親正の女


妻は清水権之助政吉の女

(慶長19年) 父直吉の遺跡を継ぐ。1000石


秀忠に仕える。小姓組

寛永3年~ 膳奉行

寛永11年5月14日 1200石

寛永13年6月4日 二丸に勤仕

寛永13年6月4日 二丸御膳奉行 ●「日記」

正保4年2月26日 務をゆるされる。なお二丸に伺候


二丸留守居

慶安4年6月18日 勘定頭

慶安4年8月16日 布衣

明暦2年12月23日 1200石500俵

万治2年2月9日 町奉行

万治2年12月27日 従五位下・長門守

寛文元年12月12日 1200石1500俵

寛文2年11月9日 同心50人増加

寛文7年閏2月16日 町奉行を辞す。寄合

寛文7年11月16日 致仕。道半と号す。500俵

天和元年6月13日 死す
村田氏久 慶長17年 生。伊平太
むらたうじひさ
(龍造寺)八助安良の長男
久保田町史上・392 寛永3年 はじめて秀忠・家光に拝謁

寛永9年 父安良の遺跡を継ぐ。鍋嶋勝茂に属す。幕府より1000俵

(寛永20年) 病により養子修理亮影利を名代とする

正保2年 養子影利病死により1000俵を収公される

万治元年12月20日 死す
村田武速 元和7年4月11日 生。左近衛将監。因幡守
むらたたけはや
因幡守武次の嗣。小野治部大輔筑前守友忠の男
地下家伝中・821 寛永6年4月6日 左近衛将監

寛永11年7月21日 初て御礼 ●「日記」

寛永17年1月5日 従六位下

明暦元年10月26日 因幡守。左近衛将監

寛文2年12月14日 従六位上

寛文10年12月27日 正六位下

延宝7年5月21日 正六位上

天和3年2月6日 死す
牟礼勝成 永禄12年 生。愛千代。郷右衛門
むれいかつなり
郷右衛門勝利の男
寛政譜20・417
母は関口刑部少輔親永の女


妻は鵜殿兵庫助長秀の女

天正2年 家康に仕える


松平信康に付属される

(天正7年) 牧野右馬允康成に預けられる

天正12年 秀忠に付属される

天正19年5月3日 300石

慶長5年 関ケ原の役にて使番


1530石

寛永12年11月29日 死す
牟礼勝政
生。万五郎
むれいかつまさ
郷右衛門勝成の養子。岩瀬河内の長男
寛政譜20・418
妻は郷右衛門勝成の女


後妻は浅野内匠氏重の女


秀忠に仕える。小姓組


300俵

寛永8年4月10日 小納戸

寛永8年4月10日 奥にて召し使われる ●「日記」

寛永9年8月18日 使番 ●「日記」共

寛永9年11月27日 布衣 ●「日記」共

寛永11年4月26日 改易

~寛文5年 死す
牟礼彦三郎
生。彦三郎
むれいひこさぶろう
郷右衛門勝成の養子。岩瀬河内の次男
寛政譜20・417 寛永15年12月21日 養父勝成の遺跡を継ぐ。1000石

寛永15年12月21日 千五百石郷右衛門跡目内五百石上ル ●「日記」

寛永17年1月22日 死す
室賀正俊 慶長15年 生。源七郎。下総守
むろがまさとし
源七郎満俊の養子。屋代越中守秀正の次男
寛政譜4・272
妻は上田主殿介重秀の女

元和7年 家光に仕える

寛永3年6月 養父満俊の遺跡を継ぐ。1000石

寛永3年6・7月 小姓組

寛永10年2月7日 1200石

寛永16年7月12日 小十人頭

寛永16年7月12日 小林新平元組小十人組之頭 ●「日記」

寛永18年1月6日 布衣 ●「日記」共

慶安元年3月14日 綱吉に付属される。家老。3000石

承応2年8月13日 従五位下・下総守

寛文元年閏8月11日 6000石

寛文元年11月21日 7200石

寛文3年12月12日 養子源七郎正信に分知。6000石


致仕

天和元年4月22日 死す
明正天皇 元和9年12月19日 生。女一宮。興子。新院。本院
めいしょうてんのう
後水尾天皇の第二皇女
本朝皇胤紹運録
母は秀忠の五女和子東福門院
(群書系図部集1・102) 寛永6年10月29日 内親王
詰所系図 寛永6年11月8日 受禅
(系図綜覧上・35) 寛永7年9月12日 即位

寛永20年10月3日 譲位

寛永20年10月4日 昨日は禁裏御譲位 ●「日記」

寛永20年10月7日 去三日菅宮え就御譲位禁裏新院え行幸之儀式等首尾好相調 ●「日記」

寛永20年10月12日 太上天皇。新院と号す

寛文3年 本院と改号

元禄9年11月10日 崩御
明徹祖徳
生。睦子
めいてつそとく
足利学校10世庠主竜派禅珠に師事
足利学校201 寛永5年 足利学校看坊分
足利学校14 (寛永12年1月15日) (足利学校弟子) ●「日記」

(寛永20年1月18日) (豆州睦子) ●「日記」

明暦元年 足利学校11世

寛文2年 退隠

寛文12年
米良弥太郎

めらやたろう
相良家臣



毛利重次 文禄3年 生。虎丸。兵橘
もうりしげつぐ
豊後守重政の男
寛政譜10・325
母は大友左衛門督義鎮の女


妻は赤井弥平兵衛時直の女

慶長2年 父重政死去により流浪


豊臣秀頼に仕える

~慶長17年 300石

慶長19年 片桐且元に属す

寛永17年3月20日 家光に仕える。大番

寛永17年3月20日 毛利兵吉大御番ニ被仰付 ●「日記」

寛永17年10月21日 死す
毛利高直 寛永8年 生。市三郎。伊勢守
もうりたかなお
摂津守高成の男
寛政譜17・209
母は佐久間備前守安政の女


室は牧野内匠頭信成の女

寛永10年2月3日 父高成の遺領を継ぐ。豊後国佐伯城2万石

寛永17年8月 2000石を預かる

慶安元年12月30日 従五位下・伊勢守

寛文4年8月3日
毛利就隆 慶長7年 生。百助。三次郎。日向守
もうりなりたか
中納言輝元の次男
寛政譜10・260
母は児玉氏


室は毛利甲斐守秀元の女

慶長16年9月29日 はじめて家康に拝謁

慶長16年10月 秀忠に拝謁

元和8年12月28日 従五位下・日向守

寛永11年3月19日 周防国下松4万5000石

慶安元年6月15日 周防国徳山4万5000石

延宝7年8月8日
毛利秀就 文禄4年 生。松寿丸。藤七郎。長門守。侍従。少将。松平を称す
もうりひでなり
中納言輝元の長男
寛政譜10・245
母は児玉氏


室は秀忠の養女越前中納言松平秀康の息女竜昌院

慶長4年10月11日 豊臣秀頼より偏諱を賜る。従五位下・侍従

慶長4年12月8日 従四位下

慶長5年10月10日 周防国・長門国を安堵される(長門国萩城40万石)

慶長13年7月17日 松平秀康の女が輿入れ

慶長13年9月13日 松平の称号を賜る。長門守

寛永3年8月19日 少将

寛永11年3月19日 (長門国萩城35万5000石)

慶安4年1月5日
毛利秀就三女
寛政譜10・246
松平長門守毛利秀就の三女


母は秀忠の養女越前中納言松平秀康の息女竜昌院

(寛永13年)

(寛永13年2月20日) (松平長門守息女忌ニ付て使者参上也) ●「日記」
毛利秀元 天正7年 生。宮松丸。右京大夫。甲斐守。侍従。参議
もうりひでもと
中納言輝元の養子。毛利伊予守元清の男
寛政譜10・251
母は村上右衛門大夫(河野出雲守)通康の女


室は秀吉の養女羽柴大納言秀長の女大善院


継室は家康の養女松平因幡守康元の女浄明院

天正13年 毛利輝元の養子となる


秀吉に仕える。羽柴の称号を賜る

天正18年 禁中にて元服。右京大夫

文禄元年10月11日 正四位上・侍従

文禄3年5月 秀吉の養女が輿入れ

文禄4年7月27日 正三位・参議。甲斐守。清華に准ぜられる

慶長4年 長門国山口城20万石

慶長5年10月10日 長門国府中城(6万石?)

慶長12年 諸役を免除される

慶長18年 家康の養女が輿入れ

寛永2年 噺衆

(寛永12年12月21日) (御咄之衆) ●「日記」

慶安3年閏10月3日
毛利光広 元和2年 生。又四郎。和泉守
もうりみつひろ
甲斐守秀元の次男
寛政譜10・255
養母は家康の養女松平因幡守康元の女浄明院


母は織田氏


室は本多能登守忠義の女

寛永12年10月15日 毛利甲斐守御前ヘ出ル是子息御字之儀申上可被下之旨―


―被仰出付て先御礼申上 ●「日記」

寛永12年11月5日 御前にて元服。偏諱を賜る。従四位下・和泉守

寛永12年11月5日 毛利甲斐守息又四郎元服任和泉守御字光被下之 ●「日記」

寛永12年11月5日 和泉守被為召四品ニ被仰付 ●「日記」

慶安3年11月11日 父秀元の遺領を継ぐ。長門国府中城(6万石?)

承応2年7月2日
最上義俊 慶長11年 生。源五郎
もがみよしとし
駿河守家親の男
寛政譜2・134
室は南部信濃守利直の女

元和3年5月9日 父家親の遺領を継ぐ。出羽国山形城(60万石?)

元和8年8月18日 改易。1万石

寛永8年11月22日
最上義智 寛永8年 生。仙徳。源五郎。刑部。駿河守。侍従
もがみよしとも
源五郎義俊の長男
寛政譜2・134
妻は松平和泉守の養女


後妻は奥平美作守忠昌の女


また後妻は三条西右大臣実条の次女

寛永9年8月26日 父義俊の遺跡を継ぐ。近江国大森5000石

寛永9年8月26日 跡目 ●「日記」

寛永13年8月15日 はじめて家光に拝謁

寛永13年8月15日 (献上品は万石以上に准じて乗輿をゆるされる)

元禄8年12月15日 高家

元禄8年12月18日 従五位下・侍従。駿河守

元禄10年3月9日
木母寺
江戸隅田川。梅若寺
もくぼじ 慶長12年 木母寺と称す



茂源紹柏
建仁寺清住院東堂
もげんじょうはく
建仁寺303世
通航一覧367 寛永19年8月27日 東福寺丹長老建仁寺仁長老同寺白西堂右三人為書簡役従当年―
読史備要1007
―対馬国え可被差遣 ●「日記」

寛文7年12月20日 遷化



茂左衛門(1)
生。茂左衛門
もざえもん
縫いさし

(寛永13年) 死す
茂左衛門(2)
生。茂左衛門
もざえもん
茂左衛門の男か

寛永13年12月28日 ぬひさし茂左衛門跡目被仰付之 ●「日記」



望月元珍 慶長5年 生。甫庵。法橋。桂華
もちづきげんちん
忠庵宗慶の長男
寛政譜11・70
妻は清水亀庵の女

慶長17年 はじめて家光に拝謁。近侍。150俵

寛永10年12月3日 父宗慶の遺跡を継ぐ。200俵

寛永10年12月3日 忠庵跡甫庵日来甫庵ニ被下御切米弟永庵被下之 ●「日記」

寛永15年12月26日 法橋 ●「日記」共

寛永17年 番医

明暦元年8月13日 致仕。桂華と号す

寛文4年12月12日 死す
望月宗慶 永禄11年 生。忠庵
もちづきそうけい
道庵宗元の男
寛政譜11・70
外科医を業とする

慶長13年 秀忠に仕える。150俵


崇源院に付属される。200俵

寛永10年3月19日 死す
望月道慶
生。永庵
もちづきどうけい
忠庵宗慶の次男
寛政譜11・70
外科医を業とする

寛永3年 はじめて家光に拝謁

寛永10年12月3日 150俵。番医

寛永10年12月3日 忠庵跡甫庵日来甫庵ニ被下御切米弟永庵被下之 ●「日記」

慶安4年5月22日 交代で宿直して勤仕

万治2年12月28日 200俵

寛文5年 死す
牧谿
南宋末元初の僧。水墨画家
もっけい







元部
本部か




(正保元年6月25日) (琉球中山王使者馬上之従者赤はちまき) ●「日記」



茂庭周防

もにわすおう (寛永12年8月15日) 松平陸奥守伊達政宗の家臣

(寛永13年12月1日) (松平越前守家老) ●「日記」



茂兵衛

もひょうえ
江戸四日市一丁目に住む

(寛永15年11月26日) (今暁火事出来四日市壱町目茂兵衛と申者火本) ●「日記」



森出雲

もりいずも
生駒壱岐守高俊に仕える

(寛永17年7月26日) (生駒壱岐守家中) ●「日記」

寛永17年7月26日 子共迠死刑 ●「日記」

寛永17年7月29日 今日切腹 ●「日記」
森出雲子



出雲の男

(寛永17年7月26日) (生駒壱岐守家来) ●「日記」

寛永17年7月26日 切腹 ●「日記」



守岡三之介

もりおかさんのすけ
加藤式部少輔明成に仕える

(寛永17年3月15日) (加藤式部少輔僕従) ●「日記」



森川氏時 慶長12年 生。三左衛門
もりかわうじとき
金右衛門氏信の次男
寛政譜7・90
母は酒井作右衛門重勝の女

元和5年 はじめて秀忠に拝謁。御傍に勤仕

寛永3年 300俵

寛永7年 小姓組


書院番

寛永10年2月7日 500石

寛永10年6月14日 書院番・進物役

寛永10年6月14日 進物番 ●「日記」


書院番を辞す。小普請

寛文4年5月18日 死す
森川氏信 天正7年 生。庄九郎。金右衛門
もりかわうじのぶ
金右衛門氏俊の長男
寛政譜7・86
母は大村越前守の女


妻は酒井作右衛門重勝の女

文禄元年 はじめて秀忠に拝謁。御傍に勤仕。

慶長元年 父氏俊に代わり与力6騎歩卒50人を支配。家康に仕える

慶長3年 父氏俊の遺跡を継ぐ。2000石

慶長5年 上杉征伐等にて秀忠に供奉

慶長7年1月25日 3000石

元和9年 家光に仕える

寛永9年9月4日 与力6騎が家光に仕える ●「日記」

寛永10年 与力6騎が家光に仕える

寛永13年9月10日 与力10騎根来同心100人

寛永13年9月10日 丹羽式部少元組与力廿騎同心百人御預ケ ●「日記」

(正保元年5月23日) (坂部三十郎被召出山岡主計頭元与力十騎歩行同心百人被為預之於大手―


―御門番所渡辺図書森川金右衛門久世三四郎並ニ可致勤仕) ●「日記」

正保2年10月28日 死す
森川氏之
生。庄九郎
もりかわうじゆき
金右衛門氏信の長男
寛政譜7・86
母は酒井作右衛門重勝の女


妻は高木甚左衛門正綱の女

慶長15年 はじめて秀忠に拝謁

寛永3年 家光に仕える

(寛永20年12月2日) (孫九郎) ●「日記」

正保2年12月19日 父氏信の遺跡を継ぐ。3000石

正保4年1月12日 先鉄炮頭

正保4年12月30日 布衣

明暦3年8月18日 死す
森川氏之長女
寛政譜7・87
森川庄九郎氏之の長女
寛政譜16・109 寛永20年12月2日 縁組被仰付之森川孫九郎娘小堀大膳 ●「日記」


小堀備中守正之に嫁ぐ


女子を産む。のちの松平甚九郎康寛の妻

慶安2年 小堀和泉守政恒を産む


女子を産む。のちの水野庄左衛門重職の妻


以下不詳
森川重定
生。三十郎
もりかわしげさだ
久右衛門重次の長男
寛政譜7・104
母は高力摂津守忠房家臣市川善四郎の女

寛永13年12月21日 初て御目見 ●「日記」

寛永13年12月22日 はじめて家光に拝謁

寛永13年12月27日 大番 ●「日記」共

正保2年2月11日 死す
森川重次(久右衛門)
生。久右衛門
もりかわしげつぐ
久右衛門重成の養子。森川助左衛門長次の五男
寛政譜7・104
母は豊臣家臣佐々九郎右衛門の女


妻は高力摂津守忠房家臣市川善四郎の女

元和8年 森川金右衛門氏信の与力


養父重成の家を継ぐ。300石

寛永9年9月4日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永10年 大番

寛永10年2月7日 500石

(寛永13年12月21日) (大番) ●「日記」

正保元年12月25日 500俵 ●「日記」共

慶安2年6月4日 死す
森川重次(勝右衛門)
生。猪之助。勝右衛門。はじめ堀場を称す
もりかわしげつぐ
堀場助之丞正次の男
寛政譜7・112
妻は渡辺道喜の女

天正18年 家康に仕える。200石

文禄元年2月1日 森川金右衛門氏俊の与力。森川と称す


(200石)

寛永9年9月4日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永9年9月4日 (森川勝右衛門) ●「日記」

寛永10年 大番

寛永10年2月7日 400石

慶安元年8月11日 死す
森川重俊 天正12年 生。長十郎。内膳正。出羽守
もりかわしげとし
金右衛門氏俊の三男
寛政譜7・94
母は大村越前守の女


室は大久保相模守忠隣の養女石川長門守康通の女

慶長2年 はじめて秀忠に拝謁。御傍に勤仕。

慶長10年4月16日 従五位下・内膳正

慶長14年 3000石

慶長19年 召し預け

寛永4年 赦免。秀忠に仕える。


下総国生実1万石

寛永8年 奉行職。奉書に加判。


出羽守

寛永9年1月24日 秀忠に殉死。

寛永9年1月25日 自殺 ●「日記」
森川重名 慶長19年 生。七兵衛。下総守
もりかわしげな
出羽守重俊の次男
寛政譜7・97
母は大久保相模守忠隣の養女石川長門守康通の女


妻は松平加賀守(前田)家臣神保四郎右衛門直継の女

寛永5年 家光に拝謁。御傍に勤仕

寛永9年 小姓組


書院番

寛永11年 500石

明暦2年2月5日 書院番組頭

明暦2年12月23日 500石300俵

明暦2年12月26日 布衣

万治2年8月21日 小姓組番頭

万治2年12月23日 500石1300俵

万治2年12月27日 従五位下・下総守

寛文2年2月22日 御側。3000石

寛文2年7月26日 絵師猿楽者等を支配

寛文4年6月19日 6000石

寛文6年12月8日 死す
森川重則
生。伝右衛門
もりかわしげのり
勝右衛門重次の長男
寛政譜7・112
母は渡辺道喜の女


妻は長井清大夫盛実の女

寛永15年10月24日 大番 ●「日記」共

(寛永18年3月1日) (大久保右京亮教隆組もしくは皆川山城守隆庸組) ●「日記」

慶安元年12月11日 父重次の遺跡を継ぐ。400石

万治元年6月1日 裏門切手番頭


閉門

延宝4年8月3日 ゆるされる

延宝5年3月25日 務を辞す。小普請

天和2年12月18日 致仕

貞享3年9月21日 大嶋に配流


以下不詳
森川重政(伊賀) 慶長13年 生。半弥。伊賀守
もりかわしげまさ
出羽守重俊の長男
寛政譜7・94
母は大久保相模守忠隣の養女石川長門守康通の女


室は板倉周防守重宗の女

寛永5年 はじめて秀忠に拝謁

寛永9年 父重俊の遺領を継ぐ。下総国生実1万石

寛永9年6月19日 継目の御礼 ●「日記」

寛永10年7月2日 縁辺組 ●「日記」

寛永19年9月1日 毎歳於江戸越年午年在江戸半年替 ●「日記」

明暦3年12月27日 従五位下・伊賀守

寛文3年1月23日
森川重政(小兵衛) 慶長13年 生。小兵衛
もりかわしげまさ
八左衛門重氏の養子。森川勝右衛門重次の次男
寛政譜7・106
母は渡辺道喜の女


妻は近藤勘右衛門用清の女


森川金右衛門氏信の与力


(200俵)

寛永9年9月4日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永10年 大番

寛永10年2月7日 400石

正保3年7月25日 死す
森川重頼 元和6年 生。金三郎。八郎右衛門
もりかわしげより
出羽守重俊の三男
寛政譜7・100
母は大久保相模守忠隣の養女石川長門守康通の女

寛永13年11月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永15年1月15日 書院番 ●「日記」共

(寛永18年12月13日) (八郎右衛門の初出) ●「日記」

寛永18年12月13日 300俵 ●「日記」共

寛文3年9月3日 書院番組頭

寛文3年12月26日 600俵

寛文3年12月28日 布衣

寛文10年5月29日 書院番組頭を辞す。小普請

延宝4年6月4日 死す
森川十左衛門

もりかわじゅうざえもん
森川助兵衛の男か

寛永13年11月24日 森川助兵衛弐百五十石子跡目被仰付之 ●「日記」

寛永13年12月21日 跡目之面々(御目見)助兵衛子森川十左衛門 ●「日記」






森川助四郎

もりかわすけしろう


寛永15年1月15日 大御番 ●「日記」



森川助兵衛

もりかわすけびょうえ
森川金右衛門の馬上与力

寛永9年9月4日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」


250石 ●「日記」寛永13年11月24日条


死す

寛永13年11月24日 森川助兵衛弐百五十石子跡目被仰付之 ●「日記」
森川長左衛門尉

もりかわちょうざえもん
母は松山

正保元年5月10日 女中荒木義森川長左衛門尉ト申町人母松山并長左衛門被相頼掠公義―


―御内々ノ上意之様申成長左衛門ヲ銀座成年寄依之荒木事土岐山城守ニ―


―御預息荒木左馬助細川肥後守御預長左衛門并松山男子之分昨夕断罪―


―被仰付也次銀座年寄平野平左衛門尉事荒木被頼取持之故思召不届―


―彼座中除之 ●「日記」
森川次政
生。半兵衛。庄左衛門
もりかわつぐまさ
庄兵衛次吉の長男
寛政譜7・110 寛永16年 家光に仕える。大番

寛永20年12月18日 200俵 ●「日記」共

慶安4年9月29日 徳川綱重に付属される


桜田館にて小十人頭


弓頭


500俵

寛文12年6月5日 死す
森川次吉 慶長4年 生。庄兵衛
もりかわつぐよし
庄兵衛近次の男
寛政譜7・109
妻は三橋善兵衛成次の女

寛永9年 父近次の遺跡を継ぐ。森川金右衛門氏信の与力。200石

寛永9年9月4日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永10年 大番

寛永16年3月7日 大坂金奉行 ●「日記」共

寛永16年7月19日 200石。現米80石

寛永16年7月19日 大坂御金奉行被仰付為御加増至彼地御米八拾石被下之 ●「日記」


450石

慶安3年6月20日 死す
森川照方
生。助右衛門
もりかわてるかた
助右衛門照憲の男
寛政譜7・114
天樹院に仕える


徳川綱重に付属される。台所頭


以下不詳
森川長貞 天正10年 生。才兵衛
もりかわながさだ
助左衛門長次の次男
寛政譜7・101
母は豊臣家臣佐々九郎右衛門の女


妻は森川勝右衛門重次の女

~慶長19年 森川金右衛門氏信の与力

寛永9年9月4日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永10年 大番

寛永10年2月7日 200石

寛永16年9月17日 死す
森川長重
生。六之助。六左衛門
もりかわながしげ
六左衛門長次の男
寛政譜7・118
妻は松平新五左衛門直次の女

寛永10年 父長次の遺跡を継ぐ。300石

寛永13年12月27日 大番 ●「日記」共

万治3年7月29日 大番組頭

万治3年12月26日 300石200俵

寛文6年8月25日 大坂船手。700石200俵

寛文11年12月28日 布衣

延宝5年5月28日 死す
森川長次 元和3年 生。五郎作。孫右衛門
もりかわながつぐ
助右衛門長俊の養子。尾張家臣森川金兵衛政俊の男
寛政譜7・103
妻は森川久右衛門重次の女

寛永19年12月10日 養父長俊の遺跡を継ぐ。400石

寛永19年12月10日 森川助右衛門跡養子五郎作 ●「日記」

正保元年6月16日 小姓組 ●「日記」共

(正保元年11月13日) (孫右衛門の初出) ●「日記」

正保元年11月13日 継目之御礼森川孫右衛門子孫右衛門 ●「日記」

延宝8年1月28日 死す
森川長俊 天正12年 生。助右衛門
もりかわながとし
助左衛門長次の三男
寛政譜7・103
母は豊臣家臣佐々九郎右衛門の女

慶長14年 はじめて秀忠に拝謁

~慶長19年 大番

元和2年9月15日 徳川忠長に付属される

(寛永9年) 片桐石見守貞昌に召し預けられる

寛永13年12月10日 赦免 ●「日記」共

寛永14年 400石

寛永15年12月23日 小姓組 ●「日記」共

寛永19年11月9日 死す
森川正則
生。孫四郎。甚右衛門
もりかわまさのり
伝右衛門重則の長男
寛政譜7・113 寛永18年3月1日 はじめて家光に拝謁

寛永18年3月1日 樽代前ニ置一同ニ御目見 ●「日記」


大番

寛永20年12月18日 200俵 ●「日記」共

寛文11年4月6日 死す
森川又兵衛

もりかわまたびょうえ


寛永13年12月27日 大御番被仰付之 ●「日記」



森川之俊 慶長15年 生。金十郎。小左衛門
もりかわゆきとし
金右衛門氏信の三男
寛政譜7・91
母は酒井作右衛門重勝の女

元和8年 はじめて家光に拝謁

寛永2年 小姓組


300俵

寛永8年 中奥に伺候

寛永13年10月8日 書院番 ●「日記」共

寛永13年10月28日 書院番・進物役

寛永13年10月28日 御進物番 ●「日記」

(寛永15年3月14日) (小左衛門の初出) ●「日記」

万治元年9月1日 目付

万治元年閏12月25日 600俵

万治元年閏12月28日 布衣

寛文12年11月11日 先鉄炮頭

延宝7年12月25日 先鉄炮頭を辞す。寄合

延宝8年12月25日 致仕。300俵

天和2年9月4日 死す
森小三郎
勘兵衛吉房か?寛政譜17・213
もりこさぶろう 寛永12年9月28日 始て御目見 ●「日記」



森権大夫

もりごんだゆう
松平肥前守前田利常に仕える

(寛永13年8月1日) (加賀中納言名代) ●「日記」



森権之助

もりごんのすけ 寛永10年4月28日 以御菓子御目見 ●「日記」



森重継 慶長5年 生。治郎兵衛
もりしげつぐ
対馬守重政の男
寛政譜3・52
妻は日下部河内守正冬の女

慶長16年 はじめて秀忠に拝謁

元和3年 西丸書院番

寛永10年5月 父重政の遺跡を継ぐ。1860石。小姓組

明暦3年1月4日 死す
森重政 天正9年 生。次郎兵衛。伊豆守。対馬守
もりしげまさ
対馬守可政の長男
寛政譜3・51
母は蒲生飛騨守家臣高木左吉の女

天正18年 はじめて家康に拝謁。家康に仕える

慶長14年 従五位下・伊豆守


父可政の采地を賜る。1860石


西丸書院番

寛永8年 使番

寛永10年5月7日 死す
森嶋新右衛門

もりしましんえもん (寛永12年6月14日) (松平安芸守家来下奉行) ●「日記」



森忠広 慶長9年 生。右近大夫。侍従
もりただひろ
美作守忠政の三男
寛政譜3・46
母は羽柴大納言秀長の養女名古屋山三郎の妹


室は秀忠の養女亀鶴姫松平肥前守前田利常の女浩妙院

元和元年 はじめて秀忠に拝謁


従五位下・侍従・右近大夫

寛永3年1月24日 縁組

寛永3年8月19日 従四位下

寛永3年11月 入輿あり

寛永10年8月22日

寛永10年8月24日 森右近死去付森美作所へ為御使阿部豊後守被差遣之 ●「日記」
森忠政 元亀元年 生。千丸。右近大夫。美作守。侍従。中将
もりただまさ
兄武蔵守長一の嗣。三左衛門可成の六男
寛政譜3・45
母は林新右衛門通安の女


室は中川瀬兵衛清秀の女


継室は羽柴大納言秀長の養女名古屋山三郎の妹

天正12年 兄長一の遺領を継ぐ。美濃国金山7万石。秀吉に仕える

天正13年10月6日 従五位下・右近大夫

天正15年2月6日 従四位下・侍従。羽柴の称号を賜る

慶長5年2月 信濃国川中島城13万7500石

慶長8年2月6日 美作国津山城18万6500石


美作守

寛永3年8月19日 従四位上・中将

寛永11年7月7日
森田光時 元和2年 生。長吉。長蔵。庄兵衛。休音
もりたみつとき
庄兵衛光吉の男
能楽史話322 寛永9年 父光吉の家を継ぐ。60石10人扶持。徳川頼宣より切米70石10人扶持


笛方

(正保元年1月28日) (庄兵衛) ●「日記」

正保3年 庄兵衛と称す

寛文3年 病により隠居。徳川頼宣より休音の名を賜る


剃髪して京都に住す


紀伊国和歌山に屋敷を拝領し移住

貞享3年4月17日 死す
森長継 慶長15年 生。兵助。内記。侍従。無異
もりながつぐ
美作守忠政の養子。森家臣関民部少輔成次の長男
寛政譜3・46
母は美作守忠政の女
寛政譜21・240
室は池田備中守長幸の女

寛永10年 外祖父忠政の養子となる

寛永10年3月15日 はじめて家光に拝謁

寛永10年8月15日 帷子単物太刀目録以御礼 ●「日記」

(寛永10年8月15日) (森美作孫関内記) ●「日記」

寛永10年12月28日 従五位下・内記

(寛永11年3月7日) (森美作守息内記助) ●「日記」

寛永11年8月 養父忠政の遺領を継ぐ。美作国津山城18万6500石

寛永11年8月2日 亡父相続之御礼 ●「日記」

寛永12年12月29日 従四位下

(寛永13年1月2日) (四品) ●「日記」

寛永17年2月29日 侍従 (12月29日か)

寛永18年1月11日 今度任官之御礼 ●「日記」

万治2年~寛文5年 実弟関式部長政に分知。美作国津山城16万7800石

延宝2年4月26日 致仕。無異と号す

元禄10年8月2日 嫡孫長成卒により再勤。備中国西江原2万石

元禄11年6月19日 再び致仕

元禄11年7月11日
森之坊

もりのぼう


(寛永17年5月9日) (聖護院殿内) ●「日記」



森本飛騨守娘

伊勢国司記略46
伊勢北畠家臣森本飛騨守具俊の女か
寛政譜8・240
関主馬首盛吉に嫁ぐ


関兵部少輔氏盛を産む

寛永17年 死すか

(寛永17年10月16日) (竹中左京駿州久野東照大権現御宮修復之御奉行被仰付之由―


―老中被申渡之是先御奉行関兵部少母之服ニ付て也) ●「日記」


(上記、蒲生賢秀長女か不明)
森本正久 慶長9年 生。助右衛門
もりもとまさひさ
助左衛門吉久の男
寛政譜4・251 寛永16年7月23日 はじめて家光に拝謁

寛永16年7月23日 森本助左衛門惣領子樽代を以初て御目見 ●「日記」

寛永17年 番をつとめる

(寛永18年) 父吉久の遺跡を継ぐ。300石

正保2年2月3日 死す
森本吉久 天文18年 生。助左衛門
もりもとよしひさ
助左衛門吉則の男
寛政譜4・250 慶長16年 父吉則の遺跡を継ぐ。秀忠に仕える

寛永2年12月15日 300石の朱印


致仕

寛永18年11月6日 死す
森山盛治
生。市兵衛
もりやまもりはる
兵部丞盛房の男
寛政譜9・350
妻は大井民部少輔政吉の女


秀忠に仕える

慶長19年 大坂の役にて本多佐渡守正信に属す

元和元年 大坂の役にて本多佐渡守正信に属す

元和8年9月18日 徳川忠長に付属される

(寛永9年) 処士


家光に仕える

(寛永19年12月10日) (芦田衆) ●「日記」

寛永19年12月10日 300石。大番

寛永19年12月10日 如前々御知行被下之 ●「日記」

寛文4年6月1日 死す
森可澄 天正13年 生。松丸。左兵衛。筑後守。左兵衛佐
もりよしずみ
対馬守可政の次男
寛政譜3・54
母は蒲生飛騨守家臣高木左吉の女


妻は名古屋九右衛門の女

文禄4年 家康に仕える。小姓

(慶長5年) 500石

慶長8年3月25日 従五位下・筑後守。1500石

元和3年~寛永3年 西丸書院番

寛永15年5月14日 死す
森吉隆
生。勘右衛門
もりよしたか
九郎左衛門吉安の次男
寛政譜17・213
母は松平上総介忠輝家臣山田出雲の女


妻は松平越前守家臣矢島七右衛門宗重の女

寛永18年2月15日 森九郎左衛門遺跡弐千俵惣領勘右衛門被仰付之 ●「日記」

寛永18年2月18日 父吉安の遺跡を継ぐ。200石1800俵

寛永19年10月11日 はじめて家光に拝謁

寛永19年10月11日 太刀目録ニて御目見是亡父九郎左衛門跡式被仰付御礼 ●「日記」


書院番

寛文3年~ 書院番を辞す。小普請

寛文12年2月27日 死す
森可久 元和2年 生。九一郎。左兵衛
もりよしひさ
左兵衛佐可澄の男
寛政譜3・54
母は名古屋九右衛門の女


妻は上田主殿助重秀の女

寛永4年 はじめて秀忠に拝謁


中奥番

寛永13年10月8日 書院番 ●「日記」共

寛永15年7月2日 父可澄の遺跡を継ぐ。1500石

寛永15年7月2日 森左兵衛佐千五百石九市跡職被仰付之 ●「日記」

寛永15年9月9日 父遺跡被下之付て御礼申上候 ●「日記」

(寛永17年1月2日) (左兵衛の初出) ●「日記」

慶安2年~ 書院番を辞す。小普請

万治2年7月5日 死す
森吉房
生。勘兵衛。無音
もりよしふさ
九郎左衛門吉安の長男
寛政譜17・213
妻は真田伊豆守家臣高橋五郎左衛門の妹

寛永12年7月 家光に仕える。小姓組。300俵


小姓組を辞す。小普請

天和3年7月9日 致仕。無音と号す

元禄12年12月16日 死す
森吉安 天正元年 生。権八。九郎左衛門。はじめ毛利を称す
もりよしやす
毛利九郎左衛門高次の次男
寛政譜17・213
妻は松平上総介忠輝家臣山田出雲の女


幼年より秀吉に仕える

天正15年3月15日 兄伊勢守高政より分知。豊後国2000石

慶長6年4月5日 豊後国2000石。家康に仕える

寛永 200石1800俵

寛永17年4月1日 死す
諸星政長
生。庄兵衛
もろぼしまさなが
藤兵衛盛次の次男
寛政譜18・245
父盛次に継いで秀忠に仕える。関東の代官

寛文10年8月27日 死す
諸星政長子
伊兵衛盛長か


伊兵衛盛長の弟がいたか


養子庄兵衛政照か

正保元年6月30日 西尾小左衛門子坪井金大夫子諸星勝兵衛子右三人御書院番―


―御小姓組被仰付之 ●「日記」






諸星盛重 寛永5年 生。長七郎。角助。清左衛門
もろぼしもりしげ
清左衛門盛政の養子。曾根与五左衛門吉重の次男
寛政譜18・247
母は曾根源左衛門家次の女


妻は清左衛門盛政の長女

寛永19年12月10日 養父盛政の遺跡を継ぐ。200俵

寛永19年12月10日 諸星清左衛門跡養子長七郎 ●「日記」


勘定

万治元年閏12月27日 300俵

万治3年~ 勘定組頭


勘定組頭を辞す。小普請

延宝4年 死す
諸星盛綱
生。藤兵衛
もろぼしもりつな
藤兵衛忠次の男
寛政譜18・245 (寛永6年) 父忠次に継いで徳川忠長に仕える

(寛永9年) 処士

(寛永19年12月10日) (駿河大納言殿御部屋住衆) ●「日記」

寛永19年12月10日 家光に仕える。書院番。もとのごとく采地をたまわる

寛永19年12月10日 如前々御知行被下之 ●「日記」

某年 駿府城の守衛にありて死す
諸星盛長
生。猪之助。伊兵衛
もろぼしもりなが
庄兵衛政長の長男
寛政譜18・246 寛永13年12月6日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

(寛永15年10月24日) (伊兵衛の初出) ●「日記」

寛永15年10月24日 大番 ●「日記」共


200俵

承応2年 死す
諸星盛政
生。清左衛門
もろぼしもりまさ
藤兵衛盛次の三男
寛政譜18・247
秀忠に仕える。勘定。150俵

寛永10年~ 代官

寛永10年10月26日 佐州へ被遣 ●「日記」


200俵

寛永15年12月5日 上方御勘定 ●「日記」

寛永16年11月9日 死す
聞悦

もんえつ 寛永13年3月3日 小石川伝通院之住職被仰付御礼 ●「日記」






門奈勝重
生。伝八郎。助左衛門
もんなかつしげ
助左衛門宗勝の三男
寛政譜15・34 慶長15年11月15日 秀忠に仕える


徳川忠長に付属される

寛永9年 召し預けられる

寛永13年9月18日 赦免

寛永13年9月18日 被召出 ●「日記」

寛永15年12月1日 采地を賜る

寛永15年12月23日 書院番 ●「日記」共

正保4年~ 死す
門奈忠久
生。百介
もんなただひさ
惣兵衛政勝の男
寛政譜15・37 寛永10年6月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永18年6月 大番

寛永20年12月18日 弐百俵 ●「日記」


以下不詳

万治3年頃 死すか
門奈直次
生。半右衛門
もんななおつぐ
善左衛門直勝の次男
寛政譜15・33 寛永9年 はじめて家光に拝謁


小十人。100俵

寛永19年12月16日 200俵 ●「日記」共

寛文6年8月30日 小十人組頭

寛文6年12月23日 300俵

寛文7年7月13日 死す
門奈政勝
生。惣兵衛
もんなまさかつ
助左衛門宗勝の四男
寛政譜15・37 慶長18年 秀忠に仕える。小姓組

元和元年~ 大番

寛永10年2月7日 200石加増。400石

(寛永10年6月1日) (皆川志摩守与) ●「日記」


大番を辞す。小普請

延宝6年1月5日 死す
門誉
駿河三河遠江。浄土宗か
もんよ


Sheet 8: や行

弥右衛門

やえもん


(寛永17年9月18日) (御細使) ●「日記」

寛永17年9月18日 御改易 ●「日記」



八尾右京進

やおうきょうのじょう
東本願寺門跡宣如光従の家老


八尾御坊大信寺の関係か?



八木蔵人

やぎくろうど
西本願寺門跡良如光円に仕える

(寛永15年12月4日) (両本願寺家来) ●「日記」



八木重糸
生。源七郎。二郎右衛門
やぎしげいと
次郎右衛門重朋の男
寛政譜11・144
秀忠に仕える


武蔵国金沢代官

(寛永11年6月21日) (二郎五郎) ●「日記」

(寛永17年6月11日) (源七郎) ●「日記」

寛永20年12月7日 父重朋の遺跡を継ぐ。300俵

寛永20年12月7日 三百俵二郎右衛門跡八木源七郎源七郎弐百俵差上之 ●「日記」

寛文9年 死す
八木重朋
生。次郎右衛門
やぎしげとも
九兵衛正重の男
寛政譜11・144
はじめて秀忠に拝謁。小田原代官


勘気を蒙る

寛永15年10月17日 赦免 ●「日記」共

寛永16年12月26日 代官。300俵

寛永16年12月26日 如前々御切米被下之 ●「日記」

寛永20年 死す
八木庄兵衛
生。五郎八。五郎左衛門。庄兵衛
やぎしょうびょうえ
庄兵衛正信の長男
寛政譜11・142 寛永13年12月15日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永19年6月26日 大番 ●「日記」共

正保元年12月25日 200俵 ●「日記」共

寛文11年9月18日 大坂金奉行。300俵


大坂金奉行を辞す。小普請

元禄15年 死す
八木豊次
生。兵助
やぎとよつぐ
庄左衛門光政の四男
寛政譜11・141
母は木村兵部の女


妻は鳥居土佐守成次の女

寛永6年 家光に仕える。大番


200俵

寛永20年8月8日 新番

寛永20年8月8日 於土圭之間御番相詰其上方々御成之刻御先え参御殿御番等可相勤之旨―


―被仰付之由伊豆豊後列座有之民部少輔伝之中根次郎左衛門組 ●「日記」


300俵

慶安元年10月27日 新番組頭

慶安4年11月21日 500俵

寛文2年2月29日 横田甚五郎景松を殺害し傷を受けて死す
八木豊政 文禄4年 生。忠三郎。忠左衛門
やぎとよまさ
庄左衛門光政の次男
寛政譜11・139
母は木村兵部の女

元和6年 秀忠に仕える。大番


300俵

寛永10年2月7日 500石

(寛永18年3月1日) (大久保右京亮教隆組もしくは皆川山城守隆庸組) ●「日記」

寛永19年10月8日 大番組頭

寛永19年10月8日 大久保右京亮組大御番組頭 ●「日記」

(寛永20年3月3日) (忠左衛門の初出) ●「日記」

慶安4年11月21日 500石200俵

明暦3年2月17日 死す
八木直利
生。(権右衛門)。五郎大夫
やぎなおとし
忠左衛門豊政の次男
寛政譜11・140
妻は小嶋孫七郎正勝の女

寛永20年3月3日 樽代を以御目見八木忠左衛門二番子権右衛門 ●「日記」

承応3年2月23日 家綱に仕える。小姓組

寛文6年2月11日 300俵

元禄4年8月21日 小姓組を辞す。小普請

元禄12年11月3日 死す
八木長門

やぎながと
西本願寺門跡良如光円の家臣



八木正信
生。庄兵衛
やぎまさのぶ
藤太郎定勝の養子。武田家臣田草川平助正成の男
寛政譜11・142
幼少のとき父が死去し定勝の養子となる


定勝死去により外祖父川野庄左衛門に養育される


家光に拝謁


大番

承応元年1月17日 死す
八木政信
生。熊之助。三郎兵衛
やぎまさのぶ
忠左衛門豊政の長男
寛政譜11・139
妻は八木但馬守守直の女

寛永18年3月1日 はじめて家光に拝謁

寛永18年3月1日 樽代前ニ置一同ニ御目見 ●「日記」


大番

(寛永20年12月18日) (三郎兵衛の初出) ●「日記」

寛永20年12月18日 大御番無足当年より御切米弐百俵被下之 ●「日記」

明暦3年5月19日 父豊政の遺跡を継ぐ。500石200俵

明暦3年10月18日 死す
八木守直 慶長8年 生。勘十郎。但馬守
やぎもりなお
庄左衛門光政の長男
寛政譜11・136
母は木村兵部の女


妻は堀田兵部少輔一通の女

慶長18年 秀忠に仕える。傍に勤仕。

元和7年 父光政の遺跡を継ぐ。1000石。

寛永8年6月11日 2000石

寛永8年6月11日 1000石加増 ●「日記」

寛永15年11月11日 作事奉行 ●「日記」共

承応3年9月9日 従五位下・但馬守

万治2年5月15日 山田奉行

~寛文3年 4000石

寛文5年7月8日 死す
柳生友矩 慶長7年 生。左門。刑部少輔
やぎゅうとものり
但馬守宗矩の次男
寛政譜17・297 寛永4年 はじめて家光に拝謁。小姓

寛永11年7月 徒頭

寛永11年8月 従五位下・刑部少輔

寛永11年11月 2000石


常に家光の剣術の相手をつとめる


病により父宗矩の封地大和国柳生に赴く

寛永16年6月6日 死す
柳生三厳 慶長12年 生。七郎。十兵衛
やぎゅうみつよし
但馬守宗矩の長男
寛政譜17・297
母は松下石見守之綱の女


妻は秋篠和泉守の女

元和2年 秀忠に仕える


勘気を蒙る

寛永15年9月17日 ゆるされる ●「日記」共


書院番

正保元年12月25日 御書院番柳生十兵衛三百俵新規ニ被下之 ●「日記」

正保3年 父宗矩の遺領を継ぐ。大和国柳生8300石

慶安3年3月21日 死す
柳生宗矩 元亀2年 生。新左衛門。又右衛門。但馬守
やぎゅうむねのり
石舟斎但馬守宗厳の次男
寛政譜17・296
母は興原遠江守助豊の女


室は松下石見守之綱の女

文禄3年 家康に拝謁。家康に仕える

慶長5年 大和国柳生2000石


刀剣の術を伝える

慶長6年9月11日 秀忠より誓約書を下される。大和国柳生3000石

(元和)7年3月21日 家光より誓詞を賜る

寛永6年3月 従五位下・但馬守

寛永9年9月2日 五の字の指物 ●「日記」

寛永9年10月3日 大和国柳生6000石

寛永9年10月3日 3000石加増 ●「日記」

寛永9年12月17日 大目付

寛永9年12月17日 惣御目付 ●「日記」

寛永13年8月14日 大和国柳生1万石。大目付をゆるされる

寛永13年8月14日 四千石之御加恩都合壱万石也只今迠之御役御赦免 ●「日記」

寛永16年9月8日 印可の書を献ずる

寛永17年9月13日 大和国柳生1万500石

寛永17年9月13日 御加恩五百石 ●「日記」


大和国柳生1万2500石

正保3年3月26日

正保3年4月6日 贈従四位下
柳生宗冬 慶長18年 生。主膳。内膳。飛騨守
やぎゅうむねふゆ
兄十兵衛三厳の嗣。柳生但馬守宗矩の三男
寛政譜17・297
母は松下石見守之綱の女


室は京極主膳正高通の女

寛永10年2月19日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

(寛永10年2月19日) (但馬二番子柳生主膳) ●「日記」


書院番

寛永14年12月 300石

正保3年 父宗矩の遺領分知。4000石

慶安3年4月3日 兄三厳の遺跡を賜る。大和国柳生8300石

明暦2年10月19日 家綱に剣術を伝える

明暦3年12月27日 従五位下・飛騨守

寛文元年6月12日 綱吉より誓詞を賜る

寛文2年12月15日 菊間広縁に伺候

寛文4年12月28日 家綱より誓詞を賜る

寛文5年9月15日 剣術の伝書を献上

寛文8年12月25日 大和国柳生1万石

延宝3年9月29日
薬王寺
遠江国
やくおうじ




弥七郎

やしちろう
連歌師か? 職人か? 商人か?


浪越三昌か?



屋代忠興 元和5年 生。甚三郎
やしろただおき
越中守忠正の養子。朝倉筑後守宣正の四男
寛政譜4・269
室は葉室大納言頼孝の女

寛永4年 忠正の養子となる

寛永16年10月18日 屋代越中守養子之儀相済 ●「日記」

寛永16年11月6日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛文2年6月21日 養父忠正の遺領を継ぐ。安房国北条1万石

寛文3年1月6日
屋代忠正 文禄3年 生。甚三郎。志摩。越中。越中守
やしろただまさ
越中守秀正の長男
寛政譜4・269
母は屋代越中守正国の女


室は大関土佐守高増の女


継室は松平丹後守重忠の女

慶長19年 大坂の役にて父秀正に従う

元和元年3月 4000石

元和元年 大坂の役にて父秀正に従う

元和8年 父秀正とともに徳川忠長に付属される

元和9年 父秀正の遺跡を継ぐ。甲斐国巨摩郡1万石


家老

寛永9年 松平越後守光長に召し預けられる。蟄居

寛永13年9月18日 赦免

寛永13年9月18日 被召出 ●「日記」

寛永15年2月8日 先鉄炮頭。与力10騎同心50人。安房国北条1万石

寛永15年2月8日 本領壱万石被下之并馬上拾騎徒同心五十人被為付之 ●「日記」

寛永19年7月27日 交代で水口城を守衛

寛永19年7月27日 坂部三十郎屋代越中守近藤登之助右之面々従当年壱人宛相替―


―水口御番可相勤之旨上意趣朽木民部少輔被伝之所謂―


―一番坂部三十郎二番屋代越中三番近藤登之助 ●「日記」

正保2年7月20日 江戸を往来するかぶきものを追捕

慶安4年6月18日 百人組頭

万治3年12月29日 従五位下・越中守

寛文元年2月26日 百人組頭を辞す。菊間広縁に伺候

寛文2年4月24日
安井算知 元和3年 生。算知
やすいさんち
安井算哲の弟子で養子。山城国の人
坐隠談叢2・17
安井算哲の弟子となる。碁打

寛永13年9月9日 算徹子御目見 ●「日記」


切米20石6人扶持


松平肥後守邸内に長屋を賜る


南光坊天海の知遇を得る

(慶安4年) 師算哲の家を継ぐ。(30石12人扶持)

延宝4年 退隠

元禄16年3月12日 死す
安井算哲 天正18年 生。六蔵。算哲。次吉
やすいさんてつ
忠右衛門宗順の第二子
坐隠談叢2・13
家康に拝謁。30石12人扶持


剃髪。算哲と号す

(元和2年) 京都に住す

(慶安4年) 退隠

承応元年1月9日 死す
安田刑部卿

やすだぎょうぶきょう
梶井門跡最胤法親王の坊官

(寛永13年5月6日) (梶井御門跡内) ●「日記」



安田宮内

やすだくない


(寛永18年4月27日) (北面) ●「日記」

(寛永20年4月4日) (地下安田宮内少輔) ●「日記」

(寛永20年4月13日) (飛鳥井内) ●「日記」



安田検校

やすだけんぎょう 寛永11年2月4日 不座 ●「日記」



保田孝忠 慶長16年12月27日 生。主膳正
やすだたかただ
主膳正清忠の中絶家を継ぐ。入江民部大輔則量の嫡子
地下家伝中・1226 元和6年6月4日 従五位下。主膳正。一条家諸大夫

寛永4年1月5日 従五位上

寛永12年7月6日 正五位下

(寛永20年4月13日) (一条殿使者) ●「日記」

寛永20年9月25日 従四位下

慶安4年2月19日 従四位上

明暦2年1月5日 正四位下

延宝2年12月20日
保田宗雪 慶長17年 生。甚兵衛。美濃守。若狭守
やすだむねゆき
甚兵衛則宗の男
寛政譜4・202
母は桜井和泉守家一の女


妻は佐藤勘右衛門継成の女

元和2年3月18日 はじめて家康に拝謁。父則宗の遺跡を継ぐ。3500石

承応3年9月9日 従五位下・美濃守

寛文2年2月8日 作事奉行

寛文12年4月29日 作事奉行を辞す

寛文12年12月9日 致仕

延宝元年4月1日 死す
保田元則
生。采女。休翁。藤堂を称す
やすだもとのり
豊臣秀長に仕えるか
宗国史下・482 慶長6年 藤堂高虎に仕える

慶長7年 1500石


騎将。5000石

元和元年 6500石


1万3000石

(寛永12年6月1日) (藤堂大学頭家老) ●「日記」

寛永17年 伊賀国上野城主城(城代か)

慶安4年 致仕。休翁と号す。(1000石)

万治3年
安原弥五右衛門

やすはらやごえもん
山崎甲斐守家治に仕える

(寛永16年8月10日) (山崎甲斐守家老) ●「日記」



弥太郎

やたろう
大工






柳川主計
主計か主殿か不明
やながわかずえ
鷹司教平に仕える

(寛永17年5月9日) (主計頭) ●「日記」



柳川調興
生。豊前守
やながわしげおき
豊前守智永の男
寛政譜8・256 慶長18年 父智永の遺跡を継ぐ。宗家臣
(宗義成譜中) 元和2年 従五位下・豊前守

寛永12年3月12日 津軽平蔵信義に召し預けられる

寛永12年3月12日 津軽へ御預 ●「日記」


以下不詳
柳沢安吉 文禄4年 生。孫左衛門。孫柳
やなぎさわやすよし
兵部丞信俊の長男
寛政譜3・247
母は武田家臣石原四郎右衛門昌明の女


妻は窪嶋孫兵衛の女

慶長18年 はじめて秀忠に拝謁。160石

慶長19年 大坂の役にて本多正信に属す

慶長19年 父信俊の遺跡を継ぐ。武蔵国鉢形領230石

元和8年 徳川忠長に付属される

(寛永9年) 処士

寛永17年8月 家光に仕える。宝蔵番

寛永18年11月15日 230石

寛永18年11月15日 芦田武川衆十八人駿州ニて之本知并御切米如前々被下之 ●「日記」

寛永20年8月30日 家綱に付属される。三丸番 ●「日記」共

寛永20年12月18日 230俵

寛永20年12月18日 知行悪所ニ付御切米ニ替被下之 ●「日記」

慶安3年8月23日 西丸広敷番頭

(慶安4年) 本丸に勤仕

万治2年12月24日 430俵

寛文6年3月24日 広敷番頭を辞す。寄合

貞享2年7月11日 致仕。孫柳と号す

貞享3年閏3月6日 死す
柳屋
江戸の紅屋?
やなぎや




柳原茂光 文禄4年 生。春宮権大進。左兵衛権佐。少弁。蔵人。蔵人頭。中弁。大弁。
やなぎわらしげみつ
参議。中納言。按察使。大納言
諸家伝上471
右少弁蔵人資俊の男
宮廷公家系図集覧383
妻は園参議基任の息女

慶長8年1月6日 従五位下

慶長10年11月1日 元服。昇殿。春宮権大進

慶長11年1月6日 従五位上

慶長13年1月12日 左兵衛権佐

慶長14年1月11日 右少弁

慶長15年7月19日 正五位下

慶長16年4月21日 蔵人

慶長17年1月5日 正五位上

慶長17年1月19日 左少弁

慶長18年12月26日 従四位下

慶長18年12月30日 従四位上

慶長19年1月5日 正四位下

慶長19年7月24日 蔵人頭

慶長19年7月27日 右中弁

慶長19年10月8日 正四位上

元和元年12月28日 左中弁

元和5年7月10日 右大弁

元和5年7月13日 参議・右大弁

元和6年1月5日 従三位

寛永元年1月5日 正三位

寛永3年8月13日 権中納言

寛永5年1月28日 按察使

寛永5年2月10日 従二位

寛永11年1月6日 正二位

(寛永15年3月6日) (昵近之衆) ●「日記」

寛永15年7月 賀茂伝奏

寛永16年2月23日 権大納言

寛永16年2月29日 按察使

(寛永18年10月3日) (大納言の初出) ●「日記」

寛永20年10月14日 按察使を辞す

慶安元年12月26日 賀茂伝奏を辞す

承応3年10月6日 薨去
柳原資行 元和6年12月16日 生。侍従。左兵衛佐。弁。蔵人。蔵人頭。参議。中納言。大納言
やなぎわらすけゆき
大納言茂光の男
諸家伝上・471
母は園参議基任の女
宮廷公家系図集覧383
室は園大納言基音の女

元和9年1月5日 従五位下

寛永3年3月14日 元服。侍従。左兵衛佐。従五位上

寛永9年1月5日 正五位下

(寛永11年7月21日) (左兵衛督) ●「日記」

寛永14年12月20日 権右少弁

(寛永15年3月6日) (昵近之衆) ●「日記」

(寛永15年3月6日) (弁の初出) ●「日記」

寛永16年閏11月22日 蔵人。禁色

寛永16年閏11月29日 正五位上

寛永18年8月23日 右少弁

寛永19年1月21日 左少弁

寛永20年10月16日 右中弁

寛永20年10月26日 従四位下。蔵人を辞す

寛永20年11月17日 従四位上

正保元年1月5日 正四位下

正保元年12月19日 蔵人頭

正保元年12月26日 左中弁

正保2年2月19日 正四位上

正保4年12月19日 参議。左中弁

正保4年12月28日 右大弁

正保4年12月30日 左大弁

慶安元年12月22日 従三位

慶安2年1月12日 左大弁を辞す

承応元年12月7日 正三位

承応3年12月21日 権中納言

承応3年12月24日 帯剣

明暦元年7月25日 直衣

明暦2年12月14日 従二位

明暦3年12月6日 権大納言

万治2年12月3日 神宮伝奏

寛文元年1月5日 正二位

寛文元年2月4日 神宮伝奏を辞す

寛文元年4月1日 権大納言を辞す

延宝2年10月2日 賀茂伝奏。賀茂伝奏を辞す

延宝7年8月11日 従一位

延宝7年8月12日 薨去
柳世友清
生。七平
やなせともきよ
甚八郎友信の長男
寛政譜18・298 (寛永9年) 父友信の遺跡を継ぐ。150俵

寛永18年8月9日 家綱に付属される。納戸番

寛永18年8月9日 若君様為御奉公人御納戸方ニ被付 ●「日記」

寛永20年6月20日 死す
矢野大助

やのだいすけ


(寛永16年3月15日) (松平相模守家中証人兵庫子矢野大助) ●「日記」



矢野兵庫

やのひょうご
松平相模守池田光仲に仕える

(寛永16年3月15日) (松平相模守家中証人兵庫子矢野大助) ●「日記」



矢橋重好 慶長19年 生。頼母助。頼母
やはせしげよし
五郎左衛門重頼の長男
寛政譜9・275
母は本多五左衛門親光の女

寛永11年8月 家光に仕える

寛永18年4月16日 書院番 ●「日記」共

寛永20年12月18日 300俵 ●「日記」共

寛文9年8月19日 死す
矢橋重頼 慶長5年 生。与吉。五郎左衛門
やはせしげより
伝左衛門重次の男
寛政譜9・275
母は早川主馬の女


妻は本多五左衛門親光の女

慶長14年 秀忠に仕える

(元和8年) 祖父喜兵衛忠重の遺跡を継ぐか。500石

寛永2年~ 書院番

寛永10年2月7日 700石

寛永20年8月30日 家綱に付属される。三丸に伺候 ●「日記」共

慶安3年9月4日 西丸小姓組

(慶安4年) 本丸に勤仕


小姓組を辞す。小普請

延宝5年7月15日 死す
弥彦神主
越後国一宮弥彦神社
やひこかんぬし




薮内道安

やぶうちどうあん
医師か

正保元年8月1日 薮内道安御暇白銀五十枚被下之是紀伊亜相御暇近日発足也亜相―


―為病後之間彼国まて差添罷越儀養生ニヨリ京都へ可相共 ●「日記」



藪嗣孝 元和元年9月6日 生。侍従。少将。中将。参議。中納言。大納言。はじめ高倉を称す
やぶつぐたか
大納言嗣良の長男
諸家伝下・753
室は山崎甲斐守家治の長女
宮廷公家系図集覧317 元和8年1月5日 従五位下

寛永3年3月17日 元服。侍従

寛永5年2月2日 従五位上

寛永10年1月11日 左少将

寛永11年1月6日 正五位下

寛永14年12月27日 藪を称す

寛永15年1月5日 従四位下

寛永17年1月11日 左中将

寛永19年1月5日 従四位上

(正保元年4月11日) (藪中将) ●「日記」

正保元年4月11日 去頃御方領依拝領太刀目録持参御礼 ●「日記」

正保2年1月5日 正四位下

慶安元年6月28日 参議。左中将

慶安2年1月13日 従三位

明暦元年1月5日 正三位

明暦元年1月14日 参議・左中将を辞す

明暦元年1月18日 権中納言

明暦元年3月18日 帯剣

明暦元年8月25日 直衣

万治3年1月27日 権中納言を辞す

寛文2年2月11日 従二位

寛文10年9月29日 権大納言

寛文12年12月22日 権大納言を辞す

延宝元年12月26日 正二位

天和2年5月27日 薨去
藪嗣良 文禄2年1月16日 生。侍従。少将。中将。参議。右兵衛督。中納言。
やぶつぐよし
大納言。宗音。はじめ高倉を称す
諸家伝下・752
侍従範遠(四辻季継)の嗣。四辻大納言公遠の五男
宮廷公家系図集覧317 慶長5年7月6日 従五位下。侍従

慶長9年8月1日 従五位上

慶長13年7月17日 勅勘

慶長17年6月16日 赦免

慶長18年1月6日 正五位下

慶長18年7月19日 左少将

元和元年8月25日 従四位下

元和3年1月11日 中将

元和5年1月6日 従四位上

元和9年1月5日 正四位下

寛永5年2月10日 従三位

寛永14年12月 藪を称す

寛永14年12月27日 参議

寛永16年1月5日 正三位

寛永16年1月11日 右兵衛督

寛永16年9月15日 中納言

(寛永17年4月29日) (藪中納言の初出) ●「日記」

寛永19年2月6日 権大納言

正保2年10月18日 正二位

正保3年10月14日 神宮伝奏

正保4年6月5日 権大納言・神宮伝奏を辞す

正保4年6月6日 出家。宗音と号す

承応2年4月17日 薨去
矢部定勝
生。掃部。七左衛門
やべさだかつ
掃部定清の次男
寛政譜12・278
妻は倉橋長右衛門政厚の女

慶長17年 秀忠に仕える。納戸番

元和8年 父定清の遺跡を継ぐ。440石。細工頭。同心12人

(寛永14年7月21日) (七左衛門の初出) ●「日記」

承応元年3月8日 死す
矢部定知
生。八左衛門
やべさだとも
掃部定清の長男
寛政譜12・278
駿河大納言徳川忠長に仕える

寛永9年 伊豆大嶋に配流


以下不詳
矢部定成 慶長10年 生。六之助。助之進
やべさだなり
掃部定清の三男
寛政譜12・280
妻は大河内善兵衛正勝の女

慶長19年 家光に近侍

元和元年 廩米を賜る

元和3年 加増あり

元和4年12月 細工頭。同心5人

寛永5年 加増あり。300俵

寛文8年5月22日 死す
矢部定房 慶長17年 生。四郎兵衛。定閑
やべさだふさ
七左衛門定勝の養子。仁科清三郎宗安の男
寛政譜12・279
母は矢部掃部定清の次女


妻は松平飛騨守家臣好井玄蕃の女

寛永17年 家光に仕える

寛永19年 細工頭

寛永20年12月18日 百五十俵 ●「日記」

慶安3年8月23日 西丸に勤仕

(慶安4年) 本丸に勤仕

承応2年3月25日 養父定勝の遺跡を継ぐ。440石

天和2年2月27日 細工頭を辞す。小普請

貞享元年7月19日 致仕。定閑と号す

貞享3年4月25日 死す
矢部甚之丞

やべじんのじょう


正保元年12月25日 御小姓組矢部甚之丞新規ニ三百俵被下之 ●「日記」



矢部直定
生。主殿。次郎左衛門
やべなおさだ
助之進定成の養子。大岡二郎兵衛直政の次男
寛政譜12・281
母は矢部掃部定清の長女

寛永17年 家光に仕える。小姓組


300俵

(寛永19年4月4日) (御小姓衆) ●「日記」

慶安3年9月3日 西丸書院番

(慶安4年) 本丸に勤仕

承応元年3月25日 死す
矢部正栄
生。佐右衛門。主膳
やべまさしげ
秀忠に仕える。台所人
寛政譜20・222
禁裏板元頭

寛永20年9月3日 御台所衆矢部佐右衛門為御加恩百俵ニ八人扶持被下之都合弐百俵ニ―


―十人扶持ニて禁中え被為附 ●「日記」

(寛文11年) 死す
山内

やまうち


(正保元年6月25日) (琉球中山王使者馬上之従者黄はちまき) ●「日記」



山内一唯 慶長5年 生。吉助。伊豆守。豊前守
やまうちかずただ
修理亮康豊の四男
寛政譜13・312
母は水野氏


妻は小出大和守吉英の長女

慶長19年11月 家康に拝謁

元和元年1月27日 従五位下・伊豆守

元和2年 秀忠に仕える

元和9年1月 書院番

元和9年 3000石

寛永3年 書院番をゆるされる。酒井忠行の大組に加わる

(寛永11年1月2日) (壱岐守) ●「日記」

(寛永11年7月18日) (豊前守の初出) ●「日記」

寛永12年8月6日 嫁娶被仰付之 ●「日記」

万治3年12月19日 致仕

寛文3年6月27日 死す
山内忠豊 慶長14年 生。国松。伊右衛門。対馬守。侍従。松平を称す
やまうちただとよ
土佐守忠義の長男
寛政譜13・305
母は家康の養女名阿姫松平隠岐守定勝の女光照院


室は松平武蔵守池田利隆の女

慶長15年閏2月18日 父忠義が松平の称号を賜る

元和5年6月10日 はじめて秀忠に拝謁

寛永元年12月28日 従五位下・対馬守

寛永9年2月13日 母が逝去

承応元年12月28日 従四位下

明暦2年7月3日 父忠義の家を継ぐ。土佐国高知山城17万2600石

明暦2年12月26日 侍従

寛文9年6月15日 致仕

寛文9年8月5日
山内忠直 慶長18年 生。虎之助。修理大夫
やまうちただなお
土佐守忠義の次男
寛政譜13・309
母は家康の養女名阿姫松平隠岐守定勝の女光照院


室は水野隼人正忠清の女

元和9年7月3日 はじめて秀忠に拝謁

寛永7年12月29日 従五位下・修理大夫

(寛永10年7月14日) (松平土佐守息縁辺之被仰付御礼) ●「日記」 忠直のことか?

寛永13年2月1日 山内修理大夫水野隼人正祝言付て御礼申上 ●「日記」

明暦2年7月3日 父忠義より分知。土佐国中村土居3万石

寛文7年6月9日
山内忠義 文禄元年 生。国松。対馬守。土佐守。侍従。松平を称す
やまうちただよし
土佐守一豊の養子。山内修理亮康豊の長男
寛政譜13・304
母は水野氏


室は家康の養女名阿姫松平隠岐守定勝の女光照院


継室は園池中納言宗朝の女


伯父一豊の養子となる

慶長8年 はじめて家康・秀忠に拝謁

慶長10年4月17日 家康の養女が入輿

慶長10年7月1日 従五位下・対馬守

慶長10年11月13日 養父一豊の遺領を継ぐ。土佐国高知山城20万2600石

慶長15年閏2月18日 松平の称号を賜る。土佐守・従四位下

慶長15年3月1日 偏諱を賜る

寛永3年8月19日 侍従

寛永9年2月13日 室が逝去

明暦2年7月3日 致仕

寛文4年11月24日
山内忠義長女
寛政譜13・305
松平土佐守山内忠義の長女
寛政譜7・123
母は家康の養女名阿姫松平隠岐守定勝の女光照院


松下石見守長綱に嫁ぐ

寛永17年 松下左助豊綱を産む

正保元年 松下加兵衛長光を産む

正保元年5月9日 昨朝阿部豊後守宅え松平土佐守招之松下石見守并妻子共被召預之間―


―土州え引越可差置石見守嫡男成人仕候上御前え可被召出之―


―仍御扶持米毎年三千俵宛被下之 ●「日記」


以下不詳
山内藤太郎

やまうちとうたろう
松平土佐守山内忠義に仕える

(寛永16年12月25日) (松平土左守家中) ●「日記」



山内隼人

やまうちはやと


(寛永16年12月25日) (松平土左守家中山内藤太郎証人) ●「日記」



山岡景助 寛永元年 生。愛蔵。弥五兵衛。十兵衛。対馬守。隠市
やまおかかげすけ
十兵衛景次の長男
寛政譜17・353
母は内藤修理亮家臣内藤庄兵衛吉勝の女


妻は永見周防守重貞の女

寛永13年2月6日 はじめて家光に拝謁

寛永13年2月6日 山岡十兵衛惣領初て御礼 ●「日記」

寛永20年 小姓組

(慶安元年) 松平右京大夫家臣稲田民部の従者を殺害し蟄居

慶安元年6月9日 赦免。小姓組

慶安3年9月3日 西丸書院番

(慶安4年) 本丸に伺候

寛文9年3月11日 小十人頭

寛文9年7月19日 父景次の家を継ぐ。1000石

寛文9年12月25日 布衣

天和元年7月13日 先鉄炮頭

天和2年4月21日 1500石

貞享元年12月26日 盗賊追捕役

貞享4年2月18日 長崎奉行。2000石

元禄4年12月26日 従五位下・対馬守

元禄7年12月14日 長崎奉行を辞す。寄合

元禄8年12月6日 致仕。300俵。隠市と号す

宝永2年4月8日 死す
山岡景次(十兵衛) 慶長7年 生。十兵衛
やまおかかげつぐ
五郎作景長の長男
寛政譜17・352
母は朝比奈駿河守信置の女


妻は内藤修理亮家臣内藤庄兵衛吉勝の女

慶長15年 はじめて秀忠に拝謁

慶長19年 家光に近侍。300石

元和5年 小姓組

寛永10年2月7日 500石

寛永20年8月30日 家綱に付属される。三丸に勤仕 ●「日記」共

慶安3年8月30日 西丸小納戸

万治3年12月1日 500石300俵

万治3年12月28日 布衣

寛文4年7月1日 1000石


小納戸をゆるされる

寛文9年7月19日 致仕。300俵

寛文10年5月9日 死す
山岡景次(半兵衛)
生。半兵衛
やまおかかげつぐ
半兵衛景俊の男
寛政譜17・351 元和9年1月 はじめて秀忠に拝謁

寛永元年 父景俊の遺跡を継ぐ。1450石。小普請

寛永8年1月 小姓組


西丸書院番


本丸に勤仕

寛永19年4月3日 死す
山岡景成 慶長6年 生。弥右衛門
やまおかかげなり
伝右衛門景重の次男
寛政譜17・368
母は織田家臣垂井駿河守の女


妻は青山虎之助の女

寛永9年8月22日 はじめて家光に拝謁

~寛永11年 小十人。100俵

寛永19年12月6日 納戸番 ●「日記」共

明暦3年12月25日 100俵。月俸10口

寛文5年12月21日 死す
山岡景信 慶長4年 生。伝右衛門
やまおかかげのぶ
伝右衛門景重の長男
寛政譜17・365
母は織田家臣垂井駿河守の女


妻は山上氏

元和元年5月9日 家康に拝謁

寛永元年 父景重の遺跡を継ぐ。400石


大番


500石

寛永10年2月7日 700石

承応2年12月9日 大番組頭

寛文元年4月6日 死す
山岡景晴 元和元年 生。左兵衛
やまおかかげはる
主計頭景以の養子。山岡新太郎景本の男
寛政譜17・361
母は山岡道阿弥景友の女
寛政譜17・362
妻は堀美作守親良の女

寛永9年11月28日 はじめて家光に拝謁

寛永9年12月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」

寛永12年 小姓組

寛永15年 廩米を賜る

寛永19年閏9月4日 宗家景以の遺跡を継ぐ。9000石

寛永19年閏9月4日 山岡主計遺跡同名新太郎子被仰付之是主計依為孫子也 ●「日記」

寛永20年9月29日 死す
山岡景広 慶長7年 生。四郎右衛門
やまおかかげひろ
主計頭景以の三男
寛政譜17・363
母は佐々陸奥守成政の女

元和7年12月 はじめて秀忠に拝謁

元和7年 徳川忠長に付属される

(寛永9年) 処士

寛永13年12月10日 赦免 ●「日記」共

寛永14年 200石100俵

寛永15年12月23日 書院番 ●「日記」共

慶安元年9月25日 綱吉に付属される。先弓頭


持弓頭

承応3年5月26日 死す
山岡景以 天正2年 生。長太郎。主計頭。図書頭。主計頭
やまおかかげもち
道阿弥景友の養子。山岡美作守景隆の七男
寛政譜17・361
母は水原河内守重久の女


妻は佐々陸奥守成政の女

天正16年 豊臣秀次に仕える。小姓。3000石

天正19年11月 従五位下・主計頭


(図書頭。主計頭)

文禄4年 秀吉に仕える

慶長5年10月 家康に拝謁。家康に仕える

慶長8年 叔父景友の家跡を相続。甲賀組騎兵10人歩卒100人を預かる。9000石

寛永8年3月10日 勘気をゆるされる ●「日記」

(寛永8年3月10日) (図書頭) ●「日記」

(寛永11年7月18日) (主計頭の初出) ●「日記」

寛永19年6月4日 死す
山岡景本
生。新太郎
やまおかかげもと
道阿弥景友の養子。主計頭景以の長男
寛政譜17・361
母は佐々陸奥守成政の女


妻は道阿弥景友の長女

慶長8年10月3日 はじめて家康に拝謁。命により道阿弥景友の家を継ぐ

慶長8年 養父景友死去ののち実父景以が景友の家跡を継ぐ

慶長17年 小姓組。500俵

寛永10年2月7日 700石


小姓組を辞す。小普請

寛永20年10月7日 左兵衛景晴死去により采地を移される。近江国700石

寛永20年12月7日 七百石山岡新太郎親主計五千石之跡新太郎子左兵衛ニ被下之―


―左兵衛相果候付新太郎自分七百石ニ本知候ニ付て七百石―


―替被下之 ●「日記」

正保2年1月10日 死す
山岡三郎右衛門

やまおかさぶろうえもん
松平相模守池田光仲に仕える

(寛永19年5月22日) (松平相模守家来) ●「日記」



山岡志摩

やまおかしま
伊達家臣

(寛永18年6月1日) (松平陸奥守使者) ●「日記」



山岡半兵衛 寛永8年 生。三十郎。三四郎。次郎兵衛。孫右衛門。半兵衛
やまおかはんびょうえ
半兵衛景次の養子。山崎権八郎正信の六男
寛政譜17・351
妻は半兵衛景次の女

寛永19年12月10日 養父景次の遺跡を継ぐ。1450石

寛永19年12月10日 山岡半兵衛跡養子三十郎 ●「日記」

(正保元年11月10日) (三四郎の初出) ●「日記」

正保元年11月10日 はじめて家光に拝謁

正保元年11月10日 山岡半兵衛跡目三四郎遺跡相続被仰付ニヨリテ以太刀目録御礼 ●「日記」


小姓組

慶安3年9月3日 家綱に付属される。西丸書院番

(慶安4年) 本丸に勤仕

寛文元年6月28日 死す
山形宗頼 天正15年 生。右衛門大尉。隼人正。加賀守。加賀介。加賀守。宗縁了菴
やまがたむねより
加賀守資宗の男
地下家伝中・910
妻は井家摂津守豊家の女

文禄5年2月26日 従五位下

慶長11年4月22日 従五位上

慶長13年12月27日 右衛門大尉

寛永4年11月3日 正五位下

(寛永8年5月14日) (北面) ●「日記」

寛永12年8月27日 後水尾院に仕える。隼人正

(寛永13年4月2日) (右衛門大夫) ●「日記」

(寛永16年4月1日) (隼人の初出) ●「日記」

(寛永16年4月1日) (三条内府内) ●「日記」

慶安 隼人正・加賀守

承応元年1月15日 上北面。正六位上・加賀介

承応2年4月26日 従五位下・加賀守

承応3年6月24日 落飾。宗縁了菴と号す

寛文5年3月1日
山角勝長 寛永3年 生。甚三郎。次郎右衛門
やまかどかつなが
次郎右衛門直昌の養子。松田市兵衛直長の三男
寛政譜15・386
母は山角左近大夫の女


妻は鹿倉氏

寛永15年12月21日 養父直昌の遺跡を継ぐ。250石

寛永15年12月21日 四百五十石二郎右衛門跡目内弐百石上ル ●「日記」

寛永20年4月14日 大番

寛文10年10月6日 宝蔵番頭

延宝7年5月26日 死す
山角勝成 天正16年 生。市蔵。藤兵衛
やまかどかつなり
牛太郎定吉の養子。鈴木又右衛門吉勝の次男
寛政譜15・380
妻は牛太郎定吉の長女

慶長6年 はじめて秀忠に拝謁

慶長6年 小姓


小納戸

慶長19年 大坂の役にて書院番。松平越中守定綱に属す

元和元年 大坂の役にて内藤若狭守清次に属す


養父定吉の家を継ぐ。500石

元和2年9月15日 家光に付属される

寛永4年 600石

寛永9年10月12日 死す
山角定勝 慶長16年 生。清三郎。藤兵衛
やまかどさだかつ
藤兵衛勝成の男
寛政譜15・381
母は山角牛太郎定吉の長女


妻は蒔田玄蕃頭定正の女

元和7年11月1日 はじめて家光に拝謁

寛永9年 父勝成の遺跡を継ぐ。600石


小姓組

寛永10年2月7日 800石

寛永11年 書院番

寛永13年10月28日 書院番。進物役

寛永13年10月28日 御進物番 ●「日記」

(寛永17年1月2日) (藤兵衛の初出) ●「日記」

寛文11年12月23日 三崎奉行

寛文11年12月28日 布衣

延宝3年9月3日 三崎奉行を辞す。小普請

延宝4年5月23日 死す
山角太郎兵衛

やまかどたろうびょうえ


(寛永19年12月16日) (小十人組) ●「日記」

寛永19年12月16日 御加恩百俵被下之日来御切米共ニ弐百俵被仰付 ●「日記」



山角直昌 慶長12年 生。次郎兵衛。内記。孫次郎。次郎右衛門
やまかどなおまさ
次郎右衛門盛繁の男
寛政譜15・386
母は北条家臣松田兵衛大夫康長の女


妻は武嶋七大夫茂成の女

慶長12年 父盛繁の遺跡を継ぐ。250石


大番

寛永10年2月7日 450石

寛永14年1月19日 死す
山角正勝 天正元年 生。又兵衛。刑部左衛門
やまかどまさかつ
兄刑部左衛門政定の養子。山角紀伊定勝の四男
寛政譜15・383
妻は坂本豊前貞次の女

天正19年7月15日 家康に拝謁


父定勝より分知。300石


大番

慶長19年 大坂の役にて諸道具奉行

元和元年 大坂の役にて諸道具奉行。旗本・寄合の鉄炮を支配

元和2年9月 閉門

寛永9年7月17日 赦免 ●「日記」共

寛永10年2月2日 大番組頭 ●「日記」共

寛永10年2月23日 600石

正保3年11月28日 大番組頭を辞す

慶安2年9月22日 死す
山上吉勝
生。権三郎。源左衛門。五郎左衛門
やまがみよしかつ
長兵衛忠勝の男
寛政譜14・44
母は林宗五郎英綱の女


妻は青木遠江守義継の女

寛永13年 はじめて家光に拝謁

寛永13年12月27日 大番 ●「日記」共

正保4年12月20日 父忠勝の遺跡を継ぐ。200石

寛文12年6月4日 200俵


大番を辞す

元禄8年8月17日 死す
山川貞則 寛永11年 生。市十郎。三左衛門
やまかわさだのり
城管検校貞久の養子。佐竹右京大夫家臣中野兵左衛門貞綱の男
寛政譜21・327
母は城管検校貞久の女


妻は佐野福阿弥正長の女

寛永20年 養父貞久の遺跡を継ぐ。250石

寛永20年 はじめて家綱に拝謁

正保元年12月25日 跡目被仰付弐百俵御地方五十石惣領三左衛門 ●「日記」名字記載なし

承応3年7月18日 大番

天和3年12月28日 蔵役

貞享3年7月6日 代官

元禄4年6月13日 死す
山川貞久
生。藤十郎。城管検校。はじめ石亀を称す
やまかわさだひさ
妻は関屋甚兵衛の女
寛政譜21・327 慶長16年 家光に近侍


病により失明。なお御前に伺候。検校城管と呼ばれる

(寛永9年6月11日) (咄衆) ●「日記」

寛永17年11月 250石。うち50石を武蔵国豊嶋郡平塚明神城管寺に寄附

寛永20年11月14日 死す
山木勝次
生。権十郎
やまきかつつぐ
才兵衛勝重の男
寛政譜9・344
妻は柘植喜八郎の女

寛永3年8月14日 父勝重の遺跡を継ぐ。200石


大番

寛永17年10月12日 死す
山木勝寛
生。平八郎。安兵衛
やまきかつひろ
安兵衛勝義の長男
寛政譜9・341
妻は関兵左衛門正成の女

寛永13年12月27日 大番 ●「日記」共

寛永15年12月6日 父勝義の遺跡を継ぐ。400石

寛永15年12月6日 山木安兵衛跡四百石惣領平八郎ニ被下之 ●「日記」

正保4年12月23日 小普請奉行


400俵

延宝2年5月4日 二丸留守居

延宝4年4月6日 死す
山木勝義
生。安兵衛
やまきかつよし
千右衛門勝道の長男
寛政譜9・341 ~慶長19年 秀忠に仕える


材木奉行

寛永15年5月8日 死す
山木晴景
生。長次郎。与兵衛
やまきはるかげ
権十郎勝次の養子。館林家臣野呂角兵衛正富の次男
寛政譜9・344
妻は筧又七郎の女

寛永19年12月10日 養父勝次の遺跡を継ぐ。200石。大番

寛永19年12月10日 山木権十郎跡養子長二郎 ●「日記」

寛文4年5月16日 大坂蔵奉行


大坂蔵奉行を辞す。小普請

元禄2年3月6日 死す
山口重恒 慶長13年 生。仙菊丸。左内。左兵衛。半左衛門。備前守
やまぐちしげつね
修理亮重政の五男
寛政譜18・194
母は小坂孫九郎雄吉の女


妻は佐久間大膳亮勝之の女

元和8年 父重政・兄弘隆とともに本多忠政に召し預けられる

寛永5年10月14日 はじめて秀忠に拝謁

寛永7年 1000石

寛永9年 家光に仕える

寛永9年4月 書院番組頭

寛永9年12月14日 従五位下・備前守

寛永9年12月14日 諸大夫 ●「日記」

寛永10年4月23日 1700石

寛永10年4月23日 700石御加恩 ●「日記」

寛永10年4月23日 (備前守の初見) ●「日記」

寛永12年12月2日 父重政の遺領分知。5000石

寛永12年12月6日 山口但馬守継目之御礼黄金丗両太刀目録進上之―


―同備前守黄金二枚進上之 ●「日記」

正保4年1月12日 小姓組番頭

慶安元年10月27日 書院番頭

万治2年7月24日 書院番頭を辞す

万治2年8月20日 死す
山口重直 寛永11年 生。半左衛門。平兵衛
やまぐちしげなお
備前守重恒の長男
寛政譜18・194
母は佐久間大膳亮勝之の女


妻は青山大蔵幸成の女


また森川伊賀守重政の女を娶る

寛永20年3月3日 はじめて家光に拝謁

寛永20年3月3日 山口備前惣領太刀目録を以初て御礼 ●「日記」

万治2年12月25日 父重恒の遺跡を継ぐ。5000石

万治3年11月18日 定火消

寛文元年12月28日 布衣

延宝3年10月7日 定火消を辞す

延宝3年10月11日 死す
山口重政 永禄7年 生。竹丸。長次郎。半兵衛。但馬守。宗愚。修理亮。はじめ佐久間を称す
やまぐちしげまさ
半左衛門重勝の養子。山口平兵衛盛政の長男
寛政譜18・188
母は岡部彦九郎正房の女


室は小坂孫九郎雄吉の女


織田信長の臣佐久間正勝に仕える


佐久間の称号を受ける

天正14年 重勝の養子となる。尾張国星崎城1万石。織田信雄に仕える


伊勢国茂福1万3000石

天正18年 織田信雄の配流に従う


暇を出され閑居

天正19年5月11日 家康に仕える。5000石

天正19年7月 秀忠に付属される

慶長6年11月17日 従五位下・但馬守

慶長6年 1万石


夜話の席に伺候

慶長11年 大番頭

慶長16年8月 1万5000石

慶長18年1月6日 勘気を蒙る。蟄居。剃髪して宗愚と号す

元和元年 大坂の役にて井伊掃部頭直孝に属す

元和元年 高野山に閑居

元和8年8月 本多美濃守忠政に召し預けられる

寛永5年9月12日 召し返される。修理亮。伽に伺候

寛永6年6月9日 1万5000石。奏者番

(寛永9年6月11日) (咄衆) ●「日記」

寛永12年9月19日
山口忠兵衛

やまぐちちゅうびょうえ
南光坊天海に仕える

(寛永15年2月1日) (大僧正家来) ●「日記」

(寛永19年4月17日) (僧正家老) ●「日記」

正保元年5月17日 如大僧正時日光目代弥入念可申付之旨被仰達之 ●「日記」



山口直堅 慶長10年 生。九郎三郎。新五郎。勘兵衛
やまぐちなおかた
駿河守直友の長男
寛政譜4・327
妻は嶋田幽也利正の養女嶋田十右衛門春世の女

慶長16年 はじめて家康に拝謁

元和8年9月 父直友の遺跡を継ぐ。大和国山辺郡3000石。伏見城定番。伏見町奉行

寛永2年 伏見廃城により江戸に移住。寄合

正保4年9月26日 深川舟改番

寛文2年2月19日 死す
山口直治 元和元年 生。忠三郎。出雲守
やまぐちなおはる
駿河守直友の次男
寛政譜4・329
母は戸田左門一西の女


妻は嶋弥左衛門正利の女


後妻は浅野内膳正氏重の女

寛永4年7月16日 はじめて家光に拝謁

寛永5年9月 小姓組。廩米を賜る。(200俵?)

寛永7年 小姓

寛永11年1月13日 300俵加増。(500俵?)

寛永11年1月13日 三百表御加恩 ●「日記」

寛永12年12月30日 700石。従五位下・出雲守

寛永12年12月30日 弐百石御加恩御切米知行直シ都合七百石被下之 ●「日記」

寛永12年12月30日 諸大夫 ●「日記」

寛永15年4月24日 書院番

(寛永17年1月1日) (出雲守の初出) ●「日記」

寛永20年6月9日 書院番・進物役

寛永20年6月9日 進物御番 ●「日記」

承応2年9月27日 小姓組組頭

明暦2年12月23日 700石300俵

寛文元年閏8月11日 徳川綱重に付属される。家老。3000石

寛文11年12月23日 辞職

寛文12年2月12日 死す
山口弘隆 慶長8年 生。国丸。清十郎。半兵衛。但馬守。修理亮
やまぐちひろたか
修理亮重政の四男
寛政譜18・191
母は小坂孫九郎雄吉の女


室は諏訪出雲守忠恒の女

元和8年 父重政・弟重恒とともに本多忠政に召し預けられる

寛永5年 赦免

寛永5年9月12日 はじめて秀忠に拝謁

寛永7年 家光に仕える

寛永9年12月15日 従五位下・但馬守

寛永9年12月15日 諸大夫 ●「日記」

(寛永10年7月1日) (但馬の初出) ●「日記」

寛永10年7月1日 縁辺 ●「日記」

寛永12年12月2日 父重政の遺領を継ぐ。1万石

寛永12年12月6日 継目之御礼 ●「日記」

寛永19年9月1日 毎歳八月交替未年在江戸 ●「日記」

正保4年3月6日 近江国水口城番。水口の御料所を預かる。1万石

万治元年3月10日 御料所をおさめられる

寛文2年9月6日 近江国水口城番を辞す

寛文5年12月 修理亮

寛文9年 常陸国牛久1万石

延宝5年9月5日
山口茂左衛門

やまぐちもざえもん


(寛永19年12月10日) (御台所衆) ●「日記」

寛永19年12月10日 三十俵弐人扶持 ●「日記」



山口盛勝 永禄10年 生。右少史。少外記。少内記。左少史。右大史。院主典代。東市正
やまぐちもりかつ
右大史東市正盛厚の長男
地下家伝上・221 天正3年3月21日 正六位上
宮廷公家系図集覧592 天正3年10月28日 右少史。権少外記

慶長6年3月22日 少外記

慶長7年12月26日 少外記。少内記

慶長18年11月19日 左少史

慶長19年10月2日 右大史

元和6年6月2日 院主典代

寛永9年1月10日 従五位下。東市正。院主典代。右大史

(寛永11年7月21日) (右大史咸務) ●「日記」

寛永18年5月18日
山崎家治 文禄3年 生。左近。甲斐守
やまざきいえはる
左馬允家盛の長男
寛政譜7・250
室は池田備中守長吉の養女池田河内守長政の女


継室は若狭少将木下大蔵勝俊の女

慶長17年7月 従五位下・甲斐守

慶長19年 父家盛の遺領を継ぐ。因幡国若桜城3万石

元和3年7月 備中国成羽城3万石

寛永15年4月14日 肥後国天草え所替被仰付之剰御加増云々 ●「日記」

寛永15年4月15日 肥後国天草4万石

寛永15年5月28日 肥後国富岡城4万石

寛永15年5月28日 山崎甲斐守居城肥前国冨岡ニ可有之旨被仰出是今度―


―領知得替天草え依被遣之也 ●「日記」

寛永18年9月10日 讃岐国円亀城5万石

寛永18年9月10日 於讃岐国之内五万石被下之得替被仰付之 ●「日記」

寛永19年7月28日 山崎甲斐守連々相望讃州円亀之古城之地被仰付之城普請之儀は―


―来年従公儀可被仰付 ●「日記」

慶安元年3月17日
山崎家治娘


山崎甲斐守家治の女

寛永10年7月2日 高力左京政房と縁組 ●「日記」






山崎重政 慶長18年 生。四郎左衛門
やまざきしげまさ
権八郎正信の長男
寛政譜16・1
母は酒井佐大夫吉勝の女


妻は久貝忠左衛門正世の女

寛永4年 秀忠に仕える

(寛永7年) (父正信の改易に連座か)

寛永13年8月25日 山崎権八郎子共初て御礼 ●「日記」


書院番

寛永16年12月13日 御書院番衆山崎四郎左衛門御切米三百俵被下之 ●「日記」

慶安3年12月11日 父正信の遺跡を継ぐ。1000石

寛文元年~ 閉門

寛文5年7月17日 ゆるされる

寛文12年6月11日 使役

寛文12年12月28日 布衣

延宝5年4月27日 先鉄炮頭

天和2年5月21日 1500石

天和3年5月19日 持筒頭

貞享2年7月21日 持筒頭を辞す

貞享2年8月27日 死す
山崎太郎兵衛

やまざきたろうびょうえ
有馬玄蕃頭豊氏に仕える

(寛永12年12月8日) (有馬玄蕃頭家来) ●「日記」



山崎俊家 元和3年 生。左近。志摩守
やまざきとしいえ
甲斐守家治の長男
寛政譜7・250
母は池田備中守長吉の養女池田河内守長政の女


室は稲葉民部少輔一通の女

寛永18年12月30日 従五位下・志摩守

寛永18年12月30日 諸大夫 ●「日記」

慶安元年6月14日 父家治の遺領を継ぐ。讃岐国円亀城4万9000石

慶安4年10月26日
山崎直助
生。惣左衛門
やまざきなおすけ
惣左衛門の養子。岩瀬吉左衛門の男
士林泝洄2・164
養父惣左衛門の家を継ぐ。徳川義直に仕える。馬廻。小頭。500石

(寛永15年8月1日) (尾張大納言殿使者) ●「日記」

慶安2年3月14日
山崎八幡
山城国山崎。離宮八幡宮
やまざきはちまん
播磨国宍粟郡山崎



山崎半兵衛

やまざきはんびょうえ
奥平美作守忠昌に仕える

(寛永19年4月19日) (美作守家来) ●「日記」



山崎政家
生。三十郎。十兵衛。覚入
やまざきまさいえ
権八郎正信の四男
寛政譜16・5
母は酒井佐大夫吉勝の女

寛永18年6月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永20年6月16日 小姓組

正保2年12月28日 300俵

延宝8年3月 小姓組を辞す。小普請

貞享4年7月10日 致仕。覚入と号す

元禄7年10月5日 死す
山崎政豊 寛永6年 生。主米。求之助。左兵衛。勘右衛門。猪兵衛
やまざきまさとよ
権八郎正信の五男
寛政譜16・5
母は酒井佐大夫吉勝の女

寛永18年10月3日 家綱に付属される。小姓

寛永18年10月3日 (名前のみの記載) ●「日記」

慶安3年9月4日 西丸小姓組。300俵

(慶安4年) 本丸に伺候

寛文4年5月15日 小納戸

寛文4年12月28日 500俵

延宝8年 家綱薨去により小納戸をゆるされる。寄合

天和2年4月3日 船手

天和2年4月21日 400石500俵

天和3年9月24日 死す
山崎正信 文禄2年 生。権八郎
やまざきまさのぶ
庄右衛門正勝の男
寛政譜16・1
母は北畠家臣小須賀右衛門の女


妻は酒井佐大夫吉勝の女


幼少より秀忠に仕える。200石

~慶長19年 小姓組

元和元年 500石


小納戸


2000石

寛永7年12月23日 勘気を蒙る。改易

寛永12年1月 召し返される。1000石

寛永13年12月27日 書院番 ●「日記」共

寛永14年11月26日 弥無油断江戸中可致夜廻 ●「日記」

寛永15年5月8日 目付 ●「日記」共

寛永19年10月26日 長崎奉行 ●「日記」共

慶安3年10月17日 死す
山崎政則 元和元年 生。三左衛門
やまざきまさのり
権八郎正信の次男
寛政譜16・3
母は酒井佐大夫吉勝の女


妻は弓気多忠右衛門昌勝の女

寛永15年11月21日 山崎権八郎二番目子可被召出 ●「日記」

寛永16年7月23日 はじめて家光に拝謁

寛永16年7月23日 山崎権八郎二番子以樽代初て御目見 ●「日記」

寛永17年3月19日 小姓組 ●「日記」共

寛永19年12月10日 300俵 ●「日記」共

慶安3年9月3日 西丸に勤仕

(慶安4年) 本丸に勤仕

天和2年6月6日 死す
山崎政房
生。勘兵衛
やまざきまさふさ
権八郎正信の三男
寛政譜16・4
母は酒井佐大夫吉勝の女

寛永18年6月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永19年6月20日 小姓組 ●「日記」共

正保元年12月25日 300俵 ●「日記」共

慶安元年5月21日 小姓組。進物役

元禄9年 死す
山下氏忠
生。権之助
やましたうじただ
伯父平左衛門氏時の嗣。山下大和氏勝の次男
士林泝洄3・338 (寛永10年) 伯父氏時の遺跡を継ぐ。徳川義直に仕える。400石。寄合


歩行頭


歩行頭を辞す。寄合

寛文3年6月 兄市正氏政改易により尾張を去る


以下不詳
山下氏政 慶長8年 生。市正
やましたうじまさ
大和氏勝の長男
士林泝洄3・338
母は志水加賀守宗清の女か


幼年より徳川義直の左右に仕える


父の家を継ぐ。寄合

寛永11年 大番頭

正保4年 城代

明暦元年 病により城代を辞す。寄合

寛文3年6月21日 改易
山下勝長
生。又助
やましたかつなが
又助勝忠の男
寛政譜21・347 慶長19年4月25日 父勝忠の遺跡を継ぐ。150石

元和4年12月10日 大番

寛永2年12月11日 300石の朱印

寛永11年10月13日 改易

慶安4年10月17日 赦免

承応元年12月18日 300石。大番

寛文2年10月5日 天守番頭


300俵

寛文10年3月7日 天守番頭を辞す。小普請

貞享2年9月29日 死す
山下甚三郎 寛永12年
やましたじんざぶろう
弥五左衛門の男

寛永19年7月8日 死罪か ●「日記」



山下清蔵

やましたせいぞう


寛永13年12月27日 大御番被仰付之 ●「日記」



山下宗琢
生。芳寿軒
やましたそうたく
大友吉統家臣勘解由親之の男
寛政譜17・235 (慶長5年) 父親之戦死ののち京都にて半井驢庵の門弟となり医術を学ぶ

寛永6年10月28日 はじめて家光に拝謁

寛永10年12月 家光に仕える。医師

寛永15年10月29日 沢司萱村の薬園を預かる。俸禄を賜る。同心を預かる

寛永15年10月29日 品川牛込両所ニ薬種作り可申旨道陸宗琢ニ被仰付之趣―


―讃岐守被申渡之然は同心弐人小者拾人宛御預ケ―


―其上両人御切米弐百俵宛被下之 ●「日記」


以下不詳
山下周勝
生。弥蔵
やましたちかかつ
庄大夫義勝の男
寛政譜6・413 慶長9年 家康に仕える

慶長10年 月俸を賜る

慶長12年 月俸を改め采地を賜る(350石?)

元和2年 秀忠に仕える

元和6年 550石


小十人

寛永4年 小十人組頭


膳奉行

寛永9年4月 小十人頭

寛永10年12月27日 1050石

寛永10年12月27日 五百石御加増 ●「日記」

(寛永13年12月13日) (布衣) ●「日記」

寛永16年6月18日 駿河国清水船手。水主同心50人を預かる

寛永16年6月18日 駿州清水船手 ●「日記」

寛永16年7月12日 1700石

寛永16年7月12日 六百五十石之御加恩都合千七百石ニ被仰付駿州清水―


―細井金兵衛知行ニ替被下之 ●「日記」

承応2年4月16日 死す
山下次正
生。十大夫
やましたつぐまさ
与三兵衛綱次の次男
寛政譜6・417
秀忠に仕える。小十人


100俵

寛永9年8月25日 200俵

慶安2年2月25日 納戸番

明暦元年8月23日 死す
山下豊後

やましたぶんご
尾張家臣






山下昌勝 慶長14年 生。市丞。五郎右衛門。信濃守
やましたまさかつ
弥蔵周勝の長男
寛政譜6・414
妻は松平甚三郎行隆の女


後妻は小堀遠江守政一の養女平岡石見守頼資の女

寛永11年5月1日 はじめて家光に拝謁

寛永15年10月24日 書院番 ●「日記」共

承応2年12月22日 父周勝の遺跡を継ぐ。1200石

延宝7年10月18日 使番

延宝7年12月28日 布衣

天和2年4月21日 1700石

天和3年10月19日 従五位下・信濃守


1700俵

貞享元年7月2日 死す
山下元清 天正5年 生。弥太郎。長右衛門
やましたもときよ
与三兵衛綱次の長男
寛政譜6・415
家康・秀忠に仕える。小十人。100俵

寛永9年8月25日 200俵


紅葉山宮番

寛文元年2月19日 死す
山下元繁 寛永9年 生。弥太郎。吉左衛門。清左衛門。長右衛門。久助
やましたもとしげ
長右衛門元清の長男
寛政譜6・415 寛永19年10月11日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保元年6月30日 長右衛門子山本吉左衛門大御番被仰付之 ●「日記」山下の誤りか

寛文元年12月10日 父元清の遺跡を継ぐ。200俵。小普請

寛文2年5月19日 大番

寛文10年10月6日 腰物奉行

元禄2年4月9日 富士見番頭

元禄5年8月5日 死す
山下弥五左衛門

やましたやござえもん


(寛永19年5月22日) (江戸御蔵衆) ●「日記」

寛永19年5月22日 松平万助え御預 ●「日記」

(寛永19年7月8日) (浅草御蔵奉行) ●「日記」

寛永19年7月8日 斬罪 ●「日記」
山科言総 慶長8年 生。少将。内蔵頭。中将。参議。中納言。大納言
やましなときふさ
参議言緒の男
諸家伝上・397 慶長19年6月9日 従五位下。元服。昇殿。右少将
宮廷公家系図集覧450 元和3年1月5日 従五位上

元和5年1月12日 内蔵頭

元和6年1月5日 正五位下

寛永2年1月5日 従四位下。右中将

寛永5年2月10日 従四位上

寛永9年1月5日 正四位下

寛永13年1月5日 従三位

(寛永15年3月6日) (昵近之衆) ●「日記」

寛永18年1月5日 正三位

寛永20年9月15日 参議

寛永20年10月10日 参議を辞す

正保元年12月20日 権中納言

正保元年12月28日 帯剣

慶安2年4月1日 従二位

承応元年11月27日 権大納言

承応3年1月5日 正二位

明暦2年11月6日 権大納言を辞す

寛文元年11月27日 薨去
山菅正登
生。七兵衛
やますげまさなり
小右衛門正武の男
寛政譜21・253
父正武に継いで黒鍬頭

寛永20年12月18日 五十俵新規御切米被下之 ●「日記」

(寛文10年) 死す
山田一学

やまだいちがく
松平阿波守蜂須賀忠英の家臣



山高親重 天正2年 生。孫兵衛
やまたかちかしげ
宮内少輔信直の長男
寛政譜3・233
母は武田家臣逸見兵庫頭の女


妻は武田家臣跡部紀伊守景孝の女

天正19年 はじめて家康に拝謁。父信直とともに岩手沢まで供奉

慶長5年 秀忠に従う。上田城攻めにて大久保相模守忠隣に属す

慶長9年 270石

慶長13年 武川津金の諸士とおなじく甲府城番

元和2年 徳川忠長に付属される

(寛永9年) 処士

(寛永19年12月10日) (武川衆) ●「日記」

寛永19年12月10日 家光に仕える。270石。大番

寛永19年12月10日 如前々御知行被下之 ●「日記」

慶安元年8月9日 死す
山田勝房 元和2年 生。六兵衛
やまだかつふさ
兵右衛門重勝の長男
寛政譜6・14
母は岡野平兵衛房恒の女


妻は平賀三五郎忠勝の女


後妻は山田七右衛門直利の女

寛永6年11月 はじめて家光に拝謁


書院番

寛永9年12月27日 200俵 ●「日記」共

寛永10年2月7日 400石

寛永19年8月17日 死す
山高信俊 慶長元年 生。(伝助)。三左衛門。杢右衛門
やまたかのぶとし
祖父宮内信直の養子。孫兵衛親重の長男
寛政譜3・231
母は武田家臣跡部紀伊守景孝の女

慶長13年 はじめて秀忠に拝謁

慶長19年 養父信直の家を継ぐ。200石

慶長19年 大坂の役にて本多佐渡守正信に属す

元和元年 大坂の役にて本多佐渡守正信に属す

元和2年 徳川忠長に付属される。300石

(寛永9年) 処士

(寛永19年12月10日) (武川衆) ●「日記」

寛永19年12月10日 家光に仕える。300石

寛永19年12月10日 武川衆山高伝助如前々御知行被下之 ●「日記」

寛永20年6月22日 大番

(正保元年6月4日) (松平外記組高山三左衛門) ●「日記」

承応3年8月27日 広敷番頭

万治2年12月24日 300石200俵

寛文9年4月24日 広敷番頭を辞す。寄合

延宝4年11月14日 死す
山高信吉 元和3年 生。清九郎。新右衛門
やまたかのぶよし
杢右衛門信俊の長男
寛政譜3・231
妻は柳沢刑部左衛門安忠の女

正保元年6月4日 はじめて家光に拝謁

正保元年6月4日 高山三左衛門惣領新右衛門御目見 ●「日記」

正保元年6月16日 大番

正保3年12月22日 200俵

寛文7年6月14日 大番組頭

寛文7年12月26日 400俵

延宝4年12月12日 父信俊の遺跡を継ぐ。300石200俵

延宝5年8月5日 死す
山田久弥

やまだきゅうや
松平下総守忠明に仕える


松平刑部大輔忠弘に仕える

(正保元年6月1日) (松平鶴松家老) ●「日記」



山田元三郎
庄五郎か?
やまだげんざぶろう
小姓組か

(寛永18年10月19日) (柳之間御給仕) ●「日記」



山田監物

やまだけんもつ (寛永12年6月14日) (浅野因幡守家来) ●「日記」



山田小右衛門
生。小右衛門
やまだこえもん
五郎兵衛直時の四男
寛政譜15・395 寛永11年閏7月1日 (山田五郎兵衛子)初て御礼 ●「日記」

正保元年 父直時の遺跡を継ぐ。代官。(300石)

(正保元年2月5日) (御代官山田小左衛門) ●「日記」


以下不詳
山田定純
生。五郎左衛門
やまださだずみ 元和元年
寛政譜21・187
(徒組頭)


鳥見役

寛永20年9月6日 御徒組山田五郎左衛門御鳥見被仰付候間在々所々可有之依為―


―作事料金子被下之 ●「日記」

(延宝6年) 致仕か


以下不詳
山田三郎右衛門

やまださぶろうえもん
木下右衛門大夫延俊に仕える

(寛永16年8月10日) (木下右衛門大夫家老) ●「日記」



山田三方
伊勢国山田の自治機関
やまださんぽう




山田重恒 元和3年 生。内蔵助。十大夫
やまだしげつね
十大夫重利の長男
寛政譜6・1
母は高木主水助清秀の女


妻は中山勘解由直定の女

元和8年 はじめて秀忠に拝謁

寛永13年 父重利の遺跡を継ぐ。2500石

寛永13年8月9日 小姓組 ●「日記」共

慶安元年10月27日 書院番組頭

慶安元年12月30日 布衣

明暦3年10月23日 先鉄炮頭

寛文7年2月6日 死す
山田重利(十大夫) 永禄9年 生。十大夫
やまだしげとし
十大夫重則の長男
寛政譜6・1
母は織田家臣神戸弥七郎の女


妻は高木主水助清秀の女

天正5年 はじめて家康に拝謁。小姓

天正11年 同僚坂作主膳を討ち退去

~天正18年 井伊兵部少輔直政に属す


蒲生飛騨守氏郷に仕える

慶長6年 家康の命により秀忠に仕える。1000石。使番

元和2年12月27日 1500石

元和9年 与力10騎鉄炮足軽30人

寛永10年5月3日 時々可罷出 ●「日記」

寛永10年8月12日 2500石

寛永10年8月12日 御知行千石御加増 ●「日記」

寛永13年2月2日 死す
山田重利(平右衛門) 寛永19年 生。平右衛門
やまだしげとし
六兵衛勝房の男
寛政譜6・14
母は山田七右衛門直利の女


妻は杉浦大隅守政清の女

寛永19年12月10日 父勝房の遺跡を継ぐ。400石

寛永19年12月10日 山田六兵衛跡実子当歳ニ被下之 ●「日記」

寛文3年11月19日 書院番

元禄13年10月16日 書院番を辞す。小普請

宝永3年7月2日 死す
山田重棟
生。市郎兵衛。三十郎。清大夫
やまだしげむね
清大夫重次の男
寛政譜6・6
母は戸田又久直次の女


妻は永井監物白元の女

慶長19年 はじめて秀忠に拝謁

元和7年1月 小姓組

寛永3年 徳川忠長に付属される

(寛永9年) 永井信濃守尚政に召し預けられる

寛永13年12月10日 赦免。家光に仕える。1000俵

寛永13年12月10日 御赦免 ●「日記」

寛永15年12月23日 小姓組 ●「日記」共

(寛永16年10月8日) (清大夫の初出) ●「日記」

承応3年9月5日 死す
山田重持
生。求馬之助。清大夫
やまだしげもち
清大夫重棟の男
寛政譜6・7
母は永井監物白元の女

正保元年11月10日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」

正保2年6月25日 書院番

慶安3年9月3日 西丸に勤仕

(慶安4年) 本丸に伺候

承応3年12月26日 父重棟の遺跡を継ぐ。1000俵

明暦3年~ 書院番を辞す。小普請

天和2年12月18日 致仕

貞享元年1月4日 死す
山田重安 元和6年 生。権六郎。左兵衛
やまだしげやす
十大夫重利の次男
寛政譜6・5
母は高木主水助清秀の女

寛永9年 はじめて家光に拝謁

寛永10年 書院番

寛永11年12月29日 200俵

(寛永18年10月19日) (左兵衛の初出) ●「日記」

(寛永20年1月2日) (権六郎) ●「日記」

正保元年5月27日 小姓組組頭

正保元年5月27日 岡部丹波守組御小姓組之組頭 ●「日記」

正保元年12月29日 布衣 ●「日記」共

正保3年12月4日 400石

慶安4年11月21日 400石300俵

寛文5年2月9日 小姓組組頭を辞す。小普請

元禄6年7月4日 死す
山田庄五郎
元三郎か?
やまだしょうごろう
小姓組か

(寛永18年10月19日) (柳之間御給仕) ●「日記」



山田少弐

やまだしょうに
梶井門跡最胤法親王に仕える

(寛永13年5月6日) (梶井御門跡内) ●「日記」



山田清左衛門
生。清大夫。清左衛門
やまだせいざえもん
八左衛門利正の次男
寛政譜10・67 (正保元年6月4日) (山田八左衛門尉惣領) ●「日記」

正保元年6月4日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共


大番

寛文5年12月11日 父利正の遺跡を継ぐ。370石

寛文6年4月7日 代官

某年 死す
山田主税

やまだちから
松平阿波守蜂須賀忠英に仕える

(寛永14年7月15日) (松平阿波守内証人) ●「日記」



山田長右衛門 慶長12年 生。右馬助。長右衛門
やまだちょうえもん
長右衛門直弘の男
寛政譜15・399
妻は松平大隅守家臣細川久右衛門の女

寛永18年12月4日 父直弘の遺跡を継ぐ。350石

寛永18年12月4日 三百五十石内御切米百五十俵山田長右衛門跡―


―右惣領右馬助ニ被下之 ●「日記」


大番

承応3年4月24日 死す
山田長四郎

やまだちょうしろう
刀工関係か?



山田藤右衛門

やまだとうえもん
幸流の小鼓打。家綱の時代に観世方の触頭となる
能楽史話403




山田利正
生。八左衛門
やまだとしまさ
大炊之助の男
寛政譜10・67 慶長18年10月 家康の命により祖父越中守良政の遺跡を継ぐ。370石。―


―秀吉の妾京極高吉の女松丸に仕える

寛永11年 松丸死去ののち家光に仕える。370石。大番

(寛永18年3月1日) (大久保右京亮教隆組もしくは皆川山城守隆庸組) ●「日記」

(正保元年6月4日) (松平外記組) ●「日記」

寛文5年 死す
山田直国
生。虎之助。七兵衛
やまだなおくに
七兵衛直良の男
寛政譜15・400 寛永19年11月12日 父直良の遺跡を継ぐ

寛永19年11月12日 御旗本衆令死去跡被下之但自分之知行御切米何も上 ●「日記」


支配勘定

寛文8年12月20日 勘定


150俵

寛文12年6月29日 畳奉行

延宝6年12月27日 200俵

貞享4年9月23日 小普請。拝謁をはばかる

元禄3年4月17日 ゆるされる

宝永2年7月28日 死す
山田直時 永禄12年 生。弥六郎。五郎兵衛
やまだなおとき
叔父伊賀直安の養子。山田伊賀直定の男
寛政譜15・394
妻は若林和泉直則の女

文禄元年 はじめて家康に拝謁。大番

(慶長6年) (叔父直安の遺跡を継ぐか。300石)

元和元年~ 代官

(寛永10年2月15日) (代官) ●「日記」

正保元年3月20日 死す
山田直利 天正9年 生。三太郎。七右衛門
やまだなおとし
伊賀直安の次男
寛政譜15・402 慶長元年 家康に仕える。納戸番

~慶長19年 150石

元和3年~寛永3年 350石

(寛永9・10年) 大番

寛永10年2月7日 550石

寛永16年8月9日 死す
山田直久 元和6年 生。千太郎。太郎右衛門。元帰
やまだなおひさ
七右衛門直利の男
寛政譜15・402 寛永9年8月19日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

(寛永9年8月19日) (千右衛門) ●「日記」

寛永12年 大番

寛永16年12月26日 父直利の遺跡を継ぐ。350石

寛文8年4月3日 大番組頭

寛文9年12月23日 350石200俵

延宝元年2月12日 千代姫君の用人。1350石200俵

延宝5年12月7日 千代姫君の用人を辞す。小普請。350石200俵

貞享元年7月19日 致仕。元帰と号す

元禄9年6月18日 死す
山田直秀
生。十三郎。十郎右衛門
やまだなおひで
甚平勝時の次男
寛政譜15・396
母は遠山半左衛門景則の女


妻は松風権右衛門正忠の女

寛永13年12月6日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永13年12月27日 大番 ●「日記」共

寛永16年12月26日 200俵

明暦2年7月12日 死す
山田直弘
生。長右衛門
やまだなおひろ
五郎兵衛直時の三男
寛政譜15・399
母は若林和泉直則の女

寛永6年 はじめて家光に拝謁

寛永7年12月29日 大番

寛永9年 150俵

寛永10年5月19日 350石

寛永18年 死す

(寛永18年12月4日) (三百五十石内御切米百五十俵山田長右衛門跡―


―右惣領右馬助ニ被下之) ●「日記」
山田直良
生。十蔵。七兵衛
やまだなおよし
五郎兵衛直時の六男
寛政譜15・400 元和7年 秀忠に仕える


徒組頭

(寛永19年) 死す
山田信治 慶長19年 生。小兵衛
やまだのぶはる
左吉信勝の四男
寛政譜6・11 寛永12年12月 家光に仕える

寛永12年12月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

(寛永14年7月3日) (右筆か) ●「日記」

寛永14年11月26日 200俵 ●「日記」共

慶安元年9月26日 綱吉に付属される


神田館に勤仕。右筆


370俵

寛文11年8月26日 死す
山田八左衛門

やまだはちざえもん


(正保元年8月9日) (初鹿野伝右衛門組之御徒) ●「日記」

正保元年8月9日 (同組荒木権左衛門に斬殺される) ●「日記」
山田彦八郎

やまだひこはちろう (寛永9年7月6日) (書院番?)宿割被仰付 ●「日記」






山田豊前

やまだぶぜん
松平阿波守蜂須賀忠英に仕える

(正保元年9月20日) (松平阿波守家中) ●「日記」



山田豊前娘


正保元年9月20日 松平阿波守家中山田豊前娘為証人差越 ●「日記」






山田平左衛門
生。平左衛門
やまだへいざえもん
八左衛門利正の長男
寛政譜10・67 寛永18年3月1日 はじめて家光に拝謁

寛永18年3月1日 樽代前ニ置一同ニ御目見 ●「日記」


以下不詳。正保元年までに早世か
山田正清
生。彦左衛門
やまだまさきよ
次郎大夫正久の男
寛政譜6・9 慶長9年6月16日 はじめて秀忠に拝謁。小姓


大番。300俵

寛永10年2月7日 500石

(寛永18年3月1日) (大久保右京亮教隆組もしくは皆川山城守隆庸組) ●「日記」

寛永19年5月22日 浅草蔵当座奉行

寛永19年5月22日 御城米浅草御蔵当座之奉行 ●「日記」


番頭岡部丹波守与賢に召し預けられる

慶安2年3月11日 恩免


大番を辞す。小普請

寛文2年12月24日 死す
山田正貞 寛永13年 生。権九郎。源右衛門
やまだまささだ
彦左衛門正清の次男
寛政譜6・9
妻は伊丹惣兵衛永教の女


家光に仕える。小姓

正保元年5月15日 月俸を賜る

正保元年5月15日 御扶持方被下之 ●「日記」

正保4年12月20日 300俵

慶安2年3月11日 牧野佐渡守親成に召し預けられる

慶安4年10月17日 赦免。父正清に預けられる

万治元年3月29日 ゆるされる

寛文3年12月25日 300俵

寛文4年8月11日 書院番


書院番を辞す。小普請

正徳3年11月29日 致仕

享保2年8月27日 死す
山田正高 元和元年 生。権之助。権右衛門
やまだまさたか
権右衛門正次の養子。本間十右衛門説直の次男
寛政譜6・13
妻は権右衛門正次の四女

寛永9年10月28日 はじめて家光に拝謁

寛永12年12月6日 大番

寛永15年12月9日 養父正次の遺跡を継ぐ。330石

寛永15年12月9日 山田権右衛門跡三百五拾石惣領権之助ニ被下之 ●「日記」


大番を辞す。小普請

寛文7年6月8日 死す
山田正次 天正3年 生。甚五郎。権右衛門
やまだまさつぐ
甚五郎重純の長男
寛政譜6・13 ~天正18年 家康に仕える。大番

慶長19年 大坂の役にて秀忠に従う

元和元年 大坂の役にて秀忠に従う


伊豆国代官


大番


大番組頭

寛永15年5月10日 死す
山田正信(如成)
生。平右衛門。如成。法橋
やまだまさのぶ
叔父出羽守正勝の養子。甚平の男
寛政譜6・17
豊臣秀次に仕える


豊臣秀次自害ののち父子分散して所々に遊仕


生駒雅楽頭親正に仕える


叔父正勝の招きにより加賀国に至る

慶長6年 叔父正勝の遺跡を継ぐ。前田利長に仕える。6000石


加賀国を去る。松平薩摩守忠吉に仕える

慶長12年 松平忠吉死去により処士

慶長19年 本多上野介正純に仕える


本多正純左遷ののち小児医師となる。江戸に住す

寛永18年 家綱誕生により家光に仕える

寛永18年12月13日 200俵 ●「日記」共

寛永19年2月 法橋

(寛永19年9月5日) (若君様御医師) ●「日記」

正保3年1月23日 300俵


以下不詳
山田正信(如成)子





(寛永19年4月4日) ((如成)右之小児医師并外科之輩妻子等引越ニ付て御暇被下之) ●「日記」



山田正信(如成)妻





(寛永19年4月4日) ((如成)右之小児医師并外科之輩妻子等引越ニ付て御暇被下之) ●「日記」



山田正信(八左衛門)
生。八左衛門
やまだまさのぶ
彦左衛門正清の長男
寛政譜6・9 寛永18年3月1日 はじめて家光に拝謁

寛永18年3月1日 樽代前ニ置一同ニ御目見 ●「日記」


大番

寛永20年12月18日 大御番無足当年より御切米弐百俵被下之 ●「日記」

正保2年6月28日 腰物奉行

(慶安2年) 弟正貞に連座し阿部豊後守忠秋に召し預けられる

慶安2年3月11日 赦免

寛文3年3月26日 父正清の遺跡を継ぐ。500石


腰物奉行を辞す

寛文9年11月14日 追放


以下不詳
山手天神
江戸山手
やまててんじん




山寺信光 天正4年 生。甚左衛門
やまでらのぶみつ
甚左衛門信昌の長男
寛政譜3・241
家康に仕える

天正19年 大久保忠世に属す。岩手沢まで供奉

天正19年 父信昌の遺跡を継ぐ

慶長5年 上田城攻めにて秀忠に従う

慶長8年 甲斐国武川の本領に復す


徳川義直に付属される。部屋番

(慶長12年) 甲府城守衛

元和元年~ 徳川忠長に付属される

(寛永9年) 処士

(寛永19年12月10日) (武川衆) ●「日記」

寛永19年12月10日 家光に仕える。甲斐国武川390石。大番

寛永19年12月10日 如前々御知行被下之 ●「日記」

慶安3年5月19日 死す
大和

やまと
浅草延命院家老

正保元年8月6日 浅草延命院家老大和内記私曲有之由延命院依訴之彼弐人召寄評定所―


―子細被相尋之上大和ハ一柳丹後守内記ハ堀左門被召預之 ●「日記」

正保元年8月9日 浅草延命院家老大和内記不届之子細有之由今度延命院訴之趣重畳―


―被遂御穿鑿之訖両人事先師知楽院為蒙重恩族之間延命院可守立之処―


―不応彼進退就万端軽延命院儀曲事也且延命院私曲有之儀両人亦―


―可言上之段被仰付再三雖為御僉議無其儀也依之佐州へ被処流罪―


― ●「日記」



山中市兵衛
生。市弥。市兵衛
やまなかいちびょうえ
与五兵衛常義の長男
寛政譜4・200 正保元年2月20日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

慶安2年12月14日 父常義の遺跡を継ぐ。480石200俵。小普請

~寛文9年 大番

元禄4年4月6日 失心。月俸15口

元禄6年 死す
山中清忠
生。随身。玄蕃頭。下北面
やまなかきよただ
後水尾天皇大乳人の甥
地下家伝中・982 元和9年 随身

元和9年6月14日 玄蕃頭

正保元年8月19日 後水尾院下北面


以下不詳
山中三右衛門

やまなかさんえもん 寛永10年3月22日 営中にて服部半三郎に殺害される ●「日記」23日付



山中介重 天正6年 生。与九郎。左大夫
やまなかすけしげ
左大夫介行の男
寛政譜4・200 天正19年 はじめて家康に拝謁。家康に仕える


630石

寛永12年11月5日 死す
山中常義
生。与五兵衛
やまなかつねよし
左大夫介重の次男
寛政譜4・200 寛永7年6月 はじめて家光に拝謁

寛永12年 父介重の遺跡を継ぐ。400石

寛永15年12月6日 400石。現米80石

寛永15年12月6日 山中左大夫跡六百三十七石之内四百石余去々年惣領与五兵衛―


―被仰付之雖然其砌残御切米八十石之分は不立御耳故―


―不被下之付て今度令訴訟則被下之 ●「日記」


大番

(正保元年2月20日) (大御番) ●「日記」

(慶安2年) 死す
山中信時
生。千之助。喜兵衛
やまなかのぶとき
覚兵衛時員の男
寛政譜21・14
妻は鈴木氏

~寛永14年 父時員の遺跡を継ぐ。150俵。勘定

正保元年~ 勘定組頭。400俵

寛文4年6月13日 死す
山中信三
生。喜兵衛
やまなかのぶみつ
金七郎吉実の長男
寛政譜10・24 寛永9年 家光に仕える


以下不詳



山中元茂 元和8年 生。吉右衛門
やまなかもとしげ
市郎右衛門元吉の長男
寛政譜10・20
妻は小林平三郎正玄の女

寛永17年3月9日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永18年 大番

(寛永19年12月10日) (御書院番) ●「日記」

寛永19年12月10日 三百俵 ●「日記」

寛永20年12月18日 大御番無足当年より御切米弐百俵被下之 ●「日記」

正保2年12月19日 父元吉の遺跡を継ぐ。200石100俵

寛文2年10月26日 腰物奉行


腰物奉行を辞す。小普請

天和3年1月4日 死す
山中元次
生。彦四郎。藤兵衛
やまなかもとつぐ
新右衛門直元の次男
寛政譜10・24 寛永9年9月23日 家光に仕える。小十人


100俵

寛永19年12月16日 200俵 ●「日記」共


小十人を辞す。小普請

貞享元年 死す
山中本俊 元和6年 生。平吉。橘左衛門。八蔵。渭水
やまなかもととし
八蔵宗俊の長男
寛政譜10・86
母は別所孫次郎の女


妻は大岡二郎兵衛直政の養女大久保将監忠尚の女

寛永7年6月10日 はじめて家光に拝謁

寛永17年3月19日 書院番 ●「日記」共

正保3年2月28日 父宗俊の遺跡を継ぐ。1000石

寛文3年~ 書院番を辞す。小普請

元禄5年12月5日 致仕。渭水と号す

元禄15年閏8月21日 死す
山中元吉
生。市十郎。市郎右衛門
やまなかもとよし
修理元定の男
寛政譜10・19 慶長7年 父元定の遺跡を継ぐ。200石。はじめて秀忠に拝謁。大番

元和8年 徳川忠長に付属される。納戸頭

寛永9年 阿部豊後守忠秋に召し預けられる

寛永13年12月10日 赦免。家光に仕える。大番

寛永13年12月10日 御赦免 ●「日記」

寛永16年3月 200石


200石100俵

正保2年9月7日 死す
山中吉長
生。喜兵衛
やまなかよしなが
七左衛門吉正の長男
寛政譜16・8
妻は間宮惣十郎元次の女

元和6年 手鷹師

(正保4年) 父吉正の遺跡を継ぐか

寛文2年7月7日 死す
山梨胤次
生。十左衛門。弾右衛門
やまなしたねつぐ
左右衛門胤之の男
寛政譜20・250
秀忠に仕える。徒目付


広敷番頭

慶安2年10月19日 徳川綱重に付属される

寛文8年2月11日 死す
山名豊長
生。庄蔵。八左衛門。快休
やまなとよなが
祖父中務大輔豊国入道禅高の養子。太郎左衛門豊義(豊忠)の長男
仮名別諸士系譜6・60
徳川頼宣に仕える。御側にて御伽。1000石
寛政譜2・84 元和5年~ 年寄格

寛文7年7月 隠居。快休と号す

寛文8年10月22日 死す
山名豊玄 元和5年 生。杢助。次郎左衛門
やまなとよはる
太郎左衛門豊義の五男
寛政譜2・86
母は木曾三郎次郎義豊の女


妻は戸川主水正安平の女

寛永16年2月5日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永17年3月19日 書院番 ●「日記」共

(寛永18年4月12日) (次郎左衛門の初出) ●「日記」

寛永18年4月12日 逼塞 ●「日記」共

寛永18年9月5日 ゆるされる

寛永18年9月5日 御赦免仕来御役如前々可相勤 ●「日記」

寛永19年12月10日 300俵 ●「日記」共

天和2年12月19日 死す
山名豊政 元亀2年 生。平右衛門
やまなとよまさ
中務大輔豊国入道禅高の三男
寛政譜2・80
母は山名右衛門督祐豊入道宗詮の女


妻は大沢兵部大輔基宿の女

天正18年 はじめて家康に拝謁。秀忠に近侍

寛永2年12月11日 1000石

寛永3年4月 父豊国の家を継ぐ。6700石


但馬国福岡6700石

寛永7年6月28日 死す
山名豊満 慶長13年 生。図書
やまなとよみつ
太郎左衛門豊義の次男
寛政譜2・84
母は木曾三郎次郎義豊の女

寛永7年 はじめて家光に拝謁

寛永19年11月12日 父豊義の遺跡を継ぐ。1000石

寛永19年11月12日 御旗本衆令死去跡被下之但自分之知行御切米何も上 ●「日記」

寛文5年6月13日 死す
山名豊義 天正2年 生。太郎左衛門
やまなとよよし
中務大輔豊国入道禅高の四男
寛政譜2・84
母は山名右衛門督祐豊入道宗詮の女


妻は木曾三郎次郎義豊の女

寛永3年4月 兄平右衛門豊政の知行を賜る。1000石。寄合

寛永19年8月17日 死す
山名矩豊 元和6年 生。主殿。伊豆守
やまなのりとよ
平右衛門豊政の長男
寛政譜2・81
母は大沢兵部大輔基宿の女


妻は久留嶋丹波守通春の養妹福嶋市之丞正利の女

寛永5年 はじめて家光に拝謁

(寛永7年) 父豊政の遺跡を継ぐ。但馬国福岡6700石


但馬国村岡6700石

寛永19年 帰国の途次参内し琴を演奏

元禄3年12月26日 従五位下・伊豆守

元禄4年9月1日 奥詰

元禄5年4月26日 紅裏の着用をゆるされる

元禄7年2月4日 養子泰豊の罪により出仕をはばかる

元禄7年3月28日 赦免。なお拝謁をはばかる


ゆるされる

元禄11年8月27日 死す
山名義豊 元和9年 生。左京。隼人。玉山
やまなよしとよ
平右衛門豊政の三男
寛政譜2・84
母は大沢兵部大輔基宿の女

寛永17年11月5日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永18年4月16日 書院番 ●「日記」共

寛永20年12月18日 300俵 ●「日記」共

寛文11年3月 書院番を辞す。小普請

元禄4年7月21日 致仕。玉山と号す

元禄7年11月25日 死す
山井景明 元和3年 生。(主膳)。雅楽允。安芸守
やまのいかげあき
安芸守景治の養子。多備前守忠之の男
地下家伝上・506 寛永19年8月27日 御切米八十石十五人扶持山井主膳従当年被下之 ●「日記」
宮廷公家系図集覧623 寛永20年 紅葉山楽人

慶安元年1月11日 正六位下。雅楽允

慶安4年1月5日 従五位下。安芸守

明暦2年12月26日 従五位上

寛文2年3月11日 正五位下

寛文11年12月21日 従四位下

貞享元年11月5日
山井景福
生。左近将監。近江守
やまのいかげとみ
筑前守景長の養子。岡昌俊の男
地下家伝上・511
京都方楽人
宮廷公家系図集覧624
左近将監


従五位下

慶長2年11月12日 近江守


正五位下

正保4年12月7日 従四位下

慶安4年1月5日 従四位上

承応元年6月15日
山井時成 慶長18年9月3日 生。雅楽頭
やまのいときなり
水無瀬中納言兼俊の長男か
諸家伝下・1103 寛永7年10月11日 従五位下

寛永7年11月15日 雅楽頭

(寛永11年7月21日) (院中) ●「日記」

寛永12年1月5日 従五位上

寛永16年1月5日 正五位下

寛永19年1月5日 従四位下


以下不詳
山野辺内蔵助

やまのべくらのすけ (寛永12年9月28日) 水戸家臣






山野辺義忠
生。比治利丸。右衛門。はじめ最上を称すか
やまのべよしただ
最上出羽守義光の四男
寛政譜2・133
最上家臣となる。山野辺を称す

元和8年10月28日 松平宮内少輔池田忠雄に召し預けられる


ゆるされる


徳川頼房に仕える


以下不詳
山村源大夫

やまむらげんだゆう
有馬玄蕃頭豊氏に仕える

(寛永12年12月8日) (有馬玄蕃頭家来) ●「日記」



山村良忠 寛永10年 生。(甚之丞)。三郎九郎。七郎右衛門。外記。甚兵衛
やまむらたかただ
久兵衛良豊の長男
士林泝洄1・92
母は千村平右衛門良重の女

(正保元年10月29日) (尾張亜相家中証人) ●「日記」

延宝8年 父良豊の家を継ぐ。1万6200石

延宝8年 尾張家に仕える。木曽福島の関を守る

宝永2年12月17日
山村良豊 慶長11年 生。三郎九郎。甚兵衛。(甚右衛門)。久兵衛
やまむらたかとよ
甚兵衛良勝の次男
寛政譜10・314
母は遠山豊前守の女
士林泝洄1・91
妻は千村平右衛門良重の女


後妻は尾張家臣阿部河内守正与の女

慶長19年 はじめて家康に拝謁

寛永6年 父良勝の家領を継ぐ。1万6200石

寛永6年 徳川義直に仕える。木曽福島の関を守る

(寛永10年2月15日) (甚右衛門の初出) ●「日記」

正保3年 同心4騎軽卒40人を賜る

寛文7年 錦織役免許の辞を賜る

延宝8年 致仕。久兵衛に改める

天和元年1月15日
山村良弘 元和8年 生。庄次郎。三郎兵衛
やまむらたかひろ
甚兵衛良勝の三男
寛政譜10・316
母は遠山久兵衛友忠の女


妻は佐々又兵衛隆直の女

寛永7年3月 はじめて秀忠に拝謁

寛永11年3月28日 山村勘兵衛弟太刀目録ニて御礼 ●「日記」

寛永12年4月 小姓組

寛永14年 300俵

寛文7年4月17日 死す
山室

やまむろ
座頭。山室検校か 寛政譜10・314



山本家久 永禄9年 生。左衛門大尉。志摩守。町口とも称す
やまもといえひさ
右衛門大尉家正の男
地下家伝中・1375 天正18年3月22日 従五位下。今出川家諸大夫
宮廷公家系図集覧675
左衛門大尉。志摩守

(寛永19年4月30日) (北面山本右衛門尉) ●「日記」

(寛永20年4月13日) (菊亭内) ●「日記」

慶安4年11月27日
山本家正 天文15年 生。右衛門大尉。検非違使。石見守。町口とも称す
やまもといえまさ
尚利の男
地下家伝中・1375 天正16年3月1日 従五位下。右衛門大尉。今出川家諸大夫
宮廷公家系図集覧675
検非違使。石見守

(寛永16年10月13日) (北面) ●「日記」

(寛永17年5月9日) (三条内) ●「日記」

寛永18年9月20日
山本右京進

やまもとうきょうのじょう
梶井門跡慈胤法親王に仕える

(寛永13年5月6日) (梶井新宮(内)) ●「日記」



山本勝忠 慶長13年11月1日 生。左京大夫。少将。中将。参議
やまもとかつただ
阿野大納言実顕の四男
諸家伝下・943
母は吉田左兵衛佐兼治の長女
宮廷公家系図集覧284 元和4年 従五位下

元和8年3月20日 元服。従五位上。左京大夫

寛永3年1月5日 正五位下

寛永8年1月5日 従四位下

(寛永11年7月21日) (院中) ●「日記」

寛永12年1月5日 従四位上

寛永17年1月5日 正四位下

寛永20年11月4日 左少将

正保元年12月24日 左中将

正保3年12月18日 従三位

慶安元年12月22日 参議

承応元年10月12日 正三位

承応3年9月14日 参議を辞す

承応3年9月16日 薨去
山本喜右衛門

やまもときえもん
松平石見守池田輝澄に仕える

(寛永17年7月26日) (松平石見守家中) ●「日記」

寛永17年7月26日 父子共死罪 ●「日記」



山本内蔵助
山本杢か
やまもとくらのすけ


(寛永20年4月4日) (地下) ●「日記」



山本九郎右衛門

やまもとくろうえもん


寛永18年6月25日 御歩行目付山本九郎右衛門貝吹役被仰付之 ●「日記」



山本重利 寛永6年 生。助八郎。伊右衛門。正隠
やまもとしげとし
新五左衛門重吉の長男
寛政譜3・102
母は蒲生飛騨守家臣服部長右衛門重宗の女


妻は松平宇右衛門康勝の女


後妻は加藤庄兵衛正方の女

正保元年11月10日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保2年6月25日 小姓組

寛文7年7月5日 父重吉の遺跡を継ぐ。500石

元禄8年3月22日 小姓組を辞す

宝永2年7月30日 致仕。正隠と号す

享保2年5月7日 死す
山本重吉 慶長10年 生。助八郎。新五左衛門
やまもとしげよし
新五右衛門吉正の長男
寛政譜3・102
母は松下次郎右衛門高貞の女


妻は蒲生飛騨守家臣服部長右衛門重宗の女

寛永7年 はじめて秀忠に拝謁


書院番

(寛永16年) 父吉正の采地を賜る。500石

寛永18年3月3日 去年跡職被仰付面々或太刀目録或樽代ニて継目之御礼申上之 ●「日記」

(正保元年11月10日) (新五左衛門の初出) ●「日記」


時計間番

慶安元年6月14日 新番

寛文6年8月23日 箪笥奉行

寛文7年5月16日 死す
山本新九郎

やまもとしんくろう
新九郎の男か

寛永15年12月1日 小十人組山本新九郎跡目無相違被仰付之 ●「日記」



山本図書助

やまもとずしょのすけ
紀伊家臣



山本大膳

やまもとだいぜん
八条宮智忠親王の家臣



山本道具

やまもとどうぐ
道勺の縁者か






山本道勺

やまもとどうしゃく
茶人。庭師

寛永15年12月1日 銀子呉服等被下之是今度二丸御作事被仰付出来付て也 ●「日記」



山本主殿

やまもととのも
西本願寺門跡に仕える

(寛永16年4月12日) (本願寺家来) ●「日記」



山本縫殿

やまもとぬいどの
九条道房の家臣



山本坊

やまもとぼう


(正保元年11月15日) (関東山伏先達山本坊大覚院峰入仕) ●「日記」



山本正勝
生。与九郎
やまもとまさかつ
忠兵衛正義の長男
寛政譜3・113
13歳にて秀忠に拝謁

慶長19年 大坂の役にて阿部備中守正次に属す

元和元年 大坂の役にて阿部備中守正次に属す

寛永12年12月25日 父正義の遺跡を継ぐ。100石

寛永12年12月25日 山本忠兵衛跡知行弐百石世忰与九郎同平九郎百石宛被下之 ●「日記」

寛永13年2月6日 跡目之御礼 ●「日記」


以下不詳
山本正茂 慶長9年 生。辰之助。又右衛門。四兵衛
やまもとまさしげ
四兵衛正吉の長男
寛政譜3・86
母は鵜飼氏


妻は神尾五助の女

元和7年 はじめて秀忠に拝謁

元和8年 小十人

寛永10年6月7日 小十人組組頭 ●「日記」共

寛永18年10月26日 小十人組組頭をゆるされる

寛永18年10月26日 小十人組之組頭之内年寄之者御番御免被成連々別之御役可被仰付―


―之旨ニ依テ佐々木庄兵衛小佐手左介西山忠左衛門山本又右衛門―


―竹内平右衛門右五人御番御免鳥居三郎右衛門小野忠三郎―


―阿部甚五左衛門服部三郎右衛門坂部孫四郎此五人右之替ニ―


―組頭被仰付之 ●「日記」

正保4年12月25日 大番

明暦元年10月 父正吉の家を継ぐ。400石

寛文4年2月10日 大番組頭

寛文4年12月25日 400石200俵


大番組頭を辞す

寛文11年3月18日 死す
山本正重
生。九兵衛。九郎兵衛
やまもとまさしげ
武田家臣山本勘助晴幸入道道鬼の子孫
寛政譜20・94
妻は大久保次郎八忠重の女

寛永12年 持筒与力

(寛永19年4月19日) (御切米八拾石) ●「日記」

(寛永19年4月19日) (大森半七郎組) ●「日記」

寛永20年4月19日 只今迠之御番被成御免向後御役可被仰付之間可存其旨之由―


―小十人組御番所之次ニて老中被伝之 ●「日記」


国廻役

天和2年4月10日 小十人。250石

貞享2年12月2日 死す
山本政重 慶長11年 生。伝次郎
やまもとまさしげ
与次左衛門政法の長男
寛政譜3・98
妻は松平越前守家臣岡金兵衛の女

慶長18年1月15日 はじめて秀忠に拝謁

(慶長18年) 父政法の遺跡を継ぐ。150石

元和9年11月10日 納戸番

寛永9年12月25日 150石50俵

慶安2年8月26日 納戸番組頭

慶安4年11月21日 150石150俵

天和元年2月21日 納戸番組頭を辞す

天和元年4月7日 死す
山本正次 慶長19年 生。寅之助。九兵衛
やまもとまさつぐ
四兵衛正吉の三男
寛政譜3・90
母は飯田氏


妻は山本藤右衛門盛近の女


また井戸忠兵衛重弘の女を娶る

寛永7年 はじめて家光に拝謁

寛永8年 大番

寛永10年 200石

寛永20年8月8日 新番

寛永20年8月8日 於土圭之間御番相詰其上方々御成之刻御先え参御殿御番等可相勤之旨―


―被仰付之由伊豆豊後列座有之民部少輔伝之中根次郎左衛門組 ●「日記」

慶安4年9月29日 綱吉に付属される。小十人頭


神田館にて先鉄炮頭

寛文9年1月21日 死す
山本正直
生。平九郎
やまもとまさなお
忠兵衛正義の次男
寛政譜3・113
妻は飯河新右衛門盛信の女

元和4年 家光に仕える

寛永9年6月27日 小納戸。150俵

寛永9年6月27日 小納戸 ●「日記」

寛永11年1月13日 250俵

寛永11年1月13日 弐百俵御加恩 ●「日記」

(寛永11年1月13日) (兵九郎) ●「日記」

寛永12年12月25日 父正義の遺領分知。100石250俵

寛永12年12月25日 山本忠兵衛跡知行弐百石世忰与九郎同平九郎百石宛被下之 ●「日記」

寛永13年2月6日 跡目之御礼 ●「日記」

寛永19年10月25日 650石

寛永19年10月25日 三百石為御加増被下之元御切米三百五十俵地方ニ直―


―都合六百五十石ト云々 ●「日記」

寛永20年8月7日 小納戸頭 ●「日記」共

寛永20年12月29日 布衣 ●「日記」共

正保3年12月4日 950石

承応3年5月23日 留守居番。1350石

寛文2年9月25日 留守居番を辞す

寛文5年10月16日 致仕


以下不詳
山本正治
生。百助。忠兵衛
やまもとまさはる
九兵衛正継の養子。山本助兵衛正重の男
寛政譜3・93 寛永4年11月28日 はじめて秀忠に拝謁

寛永5年 小十人。100俵

寛永9年8月25日 200俵

寛永19年8月18日 蔵奉行

寛永19年8月18日 御城米方御蔵奉行 ●「日記」


瓦奉行

寛文7年2月27日 死す
山本政久 寛永10年 生。十助。与次左衛門
やまもとまさひさ
伝次郎政重の長男
寛政譜3・98
母は松平越前守家臣岡金兵衛の女


妻は青柳勘兵衛方孝の女

正保元年11月10日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

承応3年2月23日 書院番

天和元年7月12日 父政重の遺跡を継ぐ。150石150俵

元禄3年10月30日 死す
山本正義 天文23年 生。忠兵衛
やまもとまさよし
左衛門佐義晴の男
寛政譜3・113 永禄12年 はじめて家康に拝謁。家康に仕える

天正12年~ 200石


秀忠に仕える


家光に仕える

寛永11年1月24日 死す
山本邑綱
生。権之助。六右衛門
やまもとむらつな
平六郎邑政の男
寛政譜3・95
母は山本六右衛門邑次の女


妻は兼松又四郎正尾の女


小姓組

寛永20年12月7日 父邑政の遺跡を継ぐ。1050石

寛永20年12月7日 千五拾八石余権之助弐百石上ル平六郎跡 ●「日記」

寛文3年12月18日 三崎奉行

寛文4年12月28日 布衣

寛文11年10月25日 三崎奉行を辞す。寄合

延宝3年1月27日 死す
山本邑政
生。平六郎
やまもとむらまさ
六右衛門邑次の養子。高木藤兵衛貞友の次男
寛政譜3・95
妻は六右衛門邑次の女

~慶長19年 秀忠に拝謁。小姓組

(元和元年) 養父邑次の遺跡を継ぐ。1050石

寛永20年10月8日 死す
山本杢

やまもともく
菊亭右大臣今出川経季に仕える

(寛永16年10月12日) (山本右衛門大尉家正の縁者か。今出川経季の家臣か) ●「日記」

(寛永16年10月13日) (菊亭大納言家来) ●「日記」

(寛永19年4月30日) (北面) ●「日記」

(寛永20年4月13日) (菊亭内山本杢助) ●「日記」



山脇久左衛門

やまわききゅうざえもん
松平石見守池田輝澄に仕える

(寛永17年7月26日) (松平石見守家中) ●「日記」

寛永17年7月26日 父子共死罪 ●「日記」



山脇玄心 文禄3年 生。道作。養寿院。法橋。法眼。法印
やまわきはるなか
妻は新庄氏
寛政譜20・339
後妻は尾張家臣山村甚兵衛の女


京都にて今大路延寿院正紹に医術を学ぶ

元和6年 禁裏侍医。月俸70口。院よりも月俸30口

元和9年 法橋

寛永14年 法眼

寛永20年 法印。養寿院の号を賜る


参内院参のときに頭巾と杖の使用をゆるされる

寛文6年 幕府より月俸30口。院よりの月俸は収公

延宝6年10月8日 死す
屋々
やや
岡部藤左衛門の女(川村善次郎重久の次女?)
柳営婦女伝系
家光の乳人
(徳川諸家系譜1・154)

寛政譜13・376




鑓屋善太郎

やりやぜんたろう
鑓屋

正保元年12月29日 御切米被下之 ●「日記」



弥六郎
幸若か
やろくろう







ヤン・ファン・エルセラック



オランダ商館長

(寛永20年10月25日) (かびたん) ●「日記」



由比光運
生。平兵衛
ゆいみつかず
彦次郎光勝の男
寛政譜9・93 寛永6年11月24日 父光勝の遺跡を継ぐ。50石

~寛永10年 勘定


50石200俵

寛永19年8月18日 切米手形改

寛永19年8月18日 御切米手形之役人 ●「日記」

万治3年10月5日 死す
有斎
宇治茶師宮林か?
ゆうさい




友竹

ゆうちく
医師



雄峯永俊
生。清光院
ゆうほうえいしゅん
東福寺236世
読史備要1010 (寛永8年4月17日) (東福寺俊長老) ●「日記」

寛永15年7月13日 遷化
弓削壱岐

ゆげいき (寛永12年6月14日) (松平安芸守家来) ●「日記」



弓気多昌勝 慶長4年 生。主水。源七郎。忠右衛門
ゆけたまさかつ
摂津守昌吉の三男
寛政譜17・120
母は伊澤吉兵衛政重の女


妻は柴田筑後守康長の女

元和2年 秀忠に仕える。小姓


勘気を蒙る

寛永8年4月10日 赦免。小姓。1010石

寛永8年4月10日 赦免 ●「日記」

寛永9年 書院番

寛永10年2月7日 1210石

万治2年8月21日 使役

万治2年12月28日 布衣

寛文元年3月7日 先鉄炮頭

延宝4年4月12日 死す
湯島天神
江戸湯島
ゆしまてんじん




由田伝右衛門

ゆたでんえもん
日根野織部正吉明に仕える

(寛永16年8月10日) (日根野織部正家老) ●「日記」



弓打茂兵衛
弓打
ゆみうちもひょうえ


正保元年12月29日 御切米被下之 ●「日記」



由良貞長 慶長14年 生。五郎八。新六郎。市兵衛
ゆらさだなが
兄信濃守貞繁の嗣。信濃守国繁の次男
寛政譜2・114
妻は近藤縫殿助用可の女

元和9年 兄貞繁の家跡を継ぐ。常陸国牛久1000石


大沢右京亮基重の務に准じて近侍


務を辞す。常陸国牛久に住す

寛永11年 書院番


書院番を辞す

寛永16年2月15日 死す
由良貞房 寛永3年 生。天麻呂。新六郎。信濃守。侍従
ゆらさだふさ
市兵衛貞長の長男
寛政譜2・114
母は近藤縫殿助用可の女


妻は朽木与五郎友綱の女

寛永11年 はじめて家光に拝謁

寛永16年7月23日 父貞長の遺跡を継ぐ。常陸国牛久1000石

寛永16年7月23日 由良市兵衛跡惣領新六郎ニ被下之 ●「日記」

寛永16年10月18日 由良市兵衛遺跡実子新六郎依被仰付今日御礼 ●「日記」

寛永20年6月16日 書院番

寛文5年9月8日 奥高家

寛文5年11月6日 従五位下。侍従。信濃守

延宝2年1月4日
養源院
京都。天台宗のち浄土真宗。大仏のあった方広寺と一体とみなされたか?
ようげんいん
浅井長政の供養寺






永源寺
遠江国。曹洞宗
ようげんじ







養珠院 天正8年 生。於万。蔭山之方。養珠院
ようじゅいん
蔭山長門守氏広の養女。正木左近大夫頼忠の長女
幕府祚胤伝 天正18年 家康に仕える
(徳川諸家系譜2・23) 慶長7年3月7日 徳川頼宣を産む
寛政譜2・124 慶長8年8月10日 徳川頼房を産む
寛政譜9・100 (元和2年) 落飾。養珠院と号す

承応2年8月21日 逝去
養性院 元和7年 生。良
ようしょういん
藤堂大学頭高次の長女
寛政譜14・295
母は酒井雅楽頭忠世の女
宗国史上・312
松平丹波守戸田康直と婚約
宗国史下・457
戸田康直卒
寛政譜7・172 寛永16年10月25日 藤堂大学頭娘京極刑部少輔え縁辺 ●「日記」


京極刑部少輔高和に嫁ぐ


女子を産む。のちの宗対馬守義真の室


京極小法師を産む。早世


女子を産む。早世か

元禄2年2月3日
陽徳院 永禄11年 生。愛姫
ようとくいん
田村大膳大夫清顕の女
寛政譜22・333
母は相馬讃岐守顕胤の女
寛政譜12・330 天正7年冬 松平陸奥守伊達政宗に嫁ぐ
伊達略系10
天麟院を産む。のちの松平上総介忠輝の室

慶長4年12月8日 松平陸奥守伊達忠宗を産む

慶長8年 伊達摂津宗綱を産む


伊達竹松丸を産む

承応2年1月24日
養徳院 元和9年 生。長(張)
ようとくいん
藤堂大学頭高次の次女
寛政譜14・295 寛永12年8月6日 藤堂大学頭娘安藤伊勢千代嫁娶被仰付之 ●「日記」
宗国史上・312
安藤式部少輔重之に嫁ぐ
宗国史下・457 寛永16年4月26日 婚礼
寛政譜17・177 寛永17年 安藤対馬守重博を産む

寛永18年11月12日 夫重之が卒

延宝7年5月4日
瑤林院
ようりんいん
加藤肥後守清正の三女
幕府祚胤伝 元和3年1月22日 徳川頼宣に嫁ぐ
(徳川諸家系譜2・43) 寛永3年~ 徳川光貞の養母となるか
紀州水戸御系譜写 寛永10年8月5日 昨日当地御着 ●「日記」
(徳川諸家系譜2・237) 寛文6年1月24日 逝去
南葵徳川家略譜3

断家譜1・240




横井時信
生。半十郎。将監。木工之助。十郎左衛門
よこいときのぶ
猪右衛門時有の長男
士林泝洄3・155
徳川義直に仕える。小姓。300石

(寛永13年) 父時有の家を継ぐ。1000石? 五十人頭


長囲炉裏番頭


小姓頭

万治2年 用人


1300石


病により用人を辞す。寄合

元禄8年2月29日 死す
横田景松
生。甚五郎
よこたかげまつ
甚右衛門尹松の五男
寛政譜7・351
母は武田家臣山県三郎兵衛昌景の女


妻は鈴木三郎九郎重成の女

寛永9年6月28日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共


家光に仕える

正保4年2月26日 膳奉行

慶安元年3月30日 小十人頭

慶安元年12月30日 布衣

慶安4年11月21日 加増。1000石

万治元年9月1日 目付

寛文2年2月28日 八木兵助豊次と争論し殺害される

寛文2年2月29日 食禄を収められる
横田内蔵助

よこたくらのすけ


(寛永17年10月22日) (西本願寺家来) ●「日記」



横田玄蕃

よこたげんば
西本願寺門跡に仕える

(寛永16年4月12日) (本願寺家来) ●「日記」



横田左門

よこたさもん
西本願寺門跡良如光円の家臣



横田重玄
生。三郎兵衛
よこたしげはる
三郎兵衛倫松の男
寛政譜7・355
家光に仕える

某年 父倫松の家を継ぐ。300石

寛永19年4月5日 死す
横田重玄子 寛永17年
寛政譜7・355
三郎兵衛重玄の男

寛永19年11月12日 父重玄の遺跡を継ぐ。300石

寛永19年11月12日 御旗本衆令死去跡被下之横田三郎兵衛子三歳 ●「日記」

某年 死す
横田尹松 天文23年 生。玄。甚五郎。甚右衛門
よこたただまつ
十郎兵衛綱松の五男
寛政譜7・350
母は武田家臣向山氏


妻は武田家臣山県三郎兵衛昌景の女


武田信玄・勝頼に仕える。足軽大将

天正10年7月 はじめて家康に拝謁。3000石

慶長5年 関ケ原の役にて使番

元和元年 5000石

元和4年 持筒頭・使番

寛永元年 旗奉行

寛永9年7月1日 馬上1騎足軽15人被仰付 ●「日記」

寛永10年4月7日 旗奉行を辞す。寄合

寛永10年4月7日 御旗奉行御免許 ●「日記」

寛永12年7月5日 死す
横田胤松 元和元年 生。梅松。大和。甚右衛門
よこたたねとし
甚右衛門尹松の四男
寛政譜7・356
母は武田家臣山県三郎兵衛昌景の女


妻は井上志摩守正貞の女

元和7年2月12日 家光に近侍

寛永5年12月5日 小姓。400俵

寛永7年2月2日 命により大和と称す

寛永12年11月29日 父尹松の遺跡分知。1000石


小姓を辞す

寛永16年閏11月6日 小姓組

正保4年1月12日 小姓組組頭

正保4年12月30日 布衣

寛文3年7月19日 新番頭

寛文7年8月22日 死す
横田豊松
生。彦十郎
よこたとよとし
次郎兵衛述松の長男
寛政譜7・351 寛永20年3月3日 はじめて家光に拝謁

寛永20年3月3日 横田次郎兵衛子惣領太刀目録を以初て御礼 ●「日記」

承応2年5月21日 死す
横田直松 寛永元年 生。子之助。又十郎。甚左衛門
よこたなおまつ
甚右衛門尹松の七男
寛政譜7・357
母は武田家臣山県三郎兵衛昌景の女

寛永17年2月10日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永18年4月16日 書院番 ●「日記」共

寛永20年12月18日 300俵 ●「日記」共


書院番を辞す。小普請

元禄3年4月26日 死す
横田述松 慶長9年 生。猪之子。内匠。次郎兵衛
よこたのぶとし
甚右衛門尹松の三男
寛政譜7・351
母は武田家臣山県三郎兵衛昌景の女


妻は今村伝四郎正長の女

寛永元年 先手

寛永9年12月19日 布衣 ●「日記」共

寛永10年12月27日 500石

寛永10年12月27日 五百石御加増 ●「日記」

寛永12年11月9日 父尹松の遺跡を継ぐ。4500石

寛永12年11月9日 横田甚右衛門跡式息次郎兵衛五千石之内四千石并―


―二郎兵衛元五百石共可被下之 ●「日記」

寛永12年11月11日 継目之御礼 ●「日記」

寛永19年3月12日 持筒頭

万治3年1月29日 百人組頭

延宝元年3月30日 百人組頭を辞す

延宝7年1月22日 死す
横地左太郎

よこちさたろう
小十人

(寛永18年4月12日) (本目権兵衛組) ●「日記」

寛永18年4月12日 被放御扶持 ●「日記」

寛永18年9月5日 御赦免仕来御役如前々可相勤 ●「日記」



横地忠重
生。一郎右衛門
よこちただしげ
多左衛門元貞の次男
寛政譜17・155
妻は大岡忠四郎忠行の女


秀忠に仕える

寛永16年3月7日 大坂金奉行 ●「日記」共

寛永16年7月19日 加増あり。200石

寛永16年7月19日 大坂御金奉行被仰付為御加増至彼地御米八拾石被下之 ●「日記」

承応2年2月24日 死す
横地政次 慶長13年 生。所左衛門。民部左衛門
よこちまさつぐ
所左衛門政吉の長男
寛政譜17・157 寛永3年 父政吉の遺跡を継ぐ。220石

寛永11年3月6日 大番

寛永11年3月26日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永19年12月10日 220俵

寛永19年12月10日 知行悪故訴訟申上之仍御切米ニ替被下之 ●「日記」

慶安4年9月29日 徳川綱重に付属される


弓頭

延宝3年8月5日 死す
横地正義
生。一郎兵衛
よこちまさよし
一郎右衛門忠重の養子。坂部左五右衛門正重の六男
寛政譜17・156
母は北条家臣師岡山城守秀門の女


妻は一郎右衛門忠重の女

寛永16年7月23日 はじめて家光に拝謁

寛永16年7月23日 横地一郎右衛門惣領子樽代を以初て御目見 ●「日記」


大番

寛永20年12月18日 200俵 ●「日記」共

寛文8年9月10日 死す
横地政吉 弘治3年 生。喜三郎。所左衛門
よこちまさよし
渋谷助元次の次男
寛政譜17・157
武田信玄・勝頼に仕える

天正10年 家康に仕える

天正18年 220石

慶長19年 勘気を蒙る


ゆるされる

寛永3年6月18日 死す
横地安次 寛永2年 生。左門。市左衛門。太左衛門
よこちやすつぐ
杢右衛門安信の長男
寛政譜17・153
母は芝山小兵衛正親の女


妻は田辺清右衛門安直の女

寛永13年12月15日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永19年6月20日 書院番 ●「日記」共

正保元年12月25日 三百俵 ●「日記」

承応3年12月27日 父安信の遺跡を継ぐ。300石200俵


書院番を辞す。小普請

元禄10年7月26日 500石

元禄14年12月12日 致仕

元禄15年2月9日 死す
横地安信 天正11年 生。杢右衛門
よこちやすのぶ
多左衛門元貞の長男
寛政譜17・152
妻は芝山小兵衛正親の女

慶長7年 はじめて秀忠に拝謁。大番

(慶長13年) 父元貞の遺跡を継ぐか。300石

寛永元年 納戸番組頭

寛永5年 300石200俵

寛永14年9月18日 奥方番頭

寛永14年9月18日 奥方御番 ●「日記」


勘気を蒙る

寛永18年9月5日 赦免。奥方番頭

寛永18年9月5日 御赦免仕来御役如前々可相勤 ●「日記」

承応3年3月22日 死す
余語正成 慶長15年 生。仁左衛門
よごまさなり
久兵衛正重の三男
寛政譜17・325
母は石川主殿頭家臣石川修理の女


妻は鈴木半右衛門の女


家光に仕える。小十人


100俵。月俸10口

寛永19年12月16日 200俵

寛永19年12月16日 御加恩百俵被下之日来御切米共ニ弐百俵被仰付 ●「日記」

慶安2年2月25日 納戸番


納戸番を辞す。小普請

延宝6年12月10日 致仕

元禄2年6月4日 死す
横山興知 文禄2年 生。右近。土佐守
よこやまおきとも
山城守長知の次男
寛政譜10・101
母は羽柴筑前守(前田)家臣前田対馬守長種の女


妻は内藤左馬助政長の女

慶長5年5月20日 前田利長の質として江戸におもむく

慶長9年 秀忠に仕える

元和2年8月 5000石

元和9年8月6日 従五位下・土佐守

寛永12年12月21日 死す
横山一重 天正12年 生。藤左衛門
よこやまかずしげ
弥七郎一吉の長男
寛政譜10・109
家康に仕える

寛永3年~ 納戸番

寛永12年12月26日 納戸頭。400石

寛永12年12月26日 御納戸払方大頭 ●「日記」

寛永16年1月13日 死す
横山一常 寛永3年 生。市平。市左衛門。勘右衛門。半左衛門。浄香
よこやまかずつね
半左衛門一政の長男
寛政譜10・105 寛永13年12月15日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永18年4月16日 小姓組 ●「日記」共

寛永20年12月18日 三百俵 ●「日記」

(正保4年) 父一政の遺跡を継ぐ。220石200俵


小姓組を辞す。小普請

万治2年7月4日 大番

寛文7年3月2日 道奉行

貞享元年11月25日 道奉行をゆるされる

貞享4年7月10日 致仕。浄香と号す

元禄5年4月26日 死す
横山一政 慶長2年 生。勘右衛門。半左衛門
よこやまかずまさ
弥七郎一吉の次男
寛政譜10・104
妻は原田藤左衛門種友の女


後妻は河野源右衛門通頼の女


また山田七右衛門直利の女を娶る

(慶長9年) 父一吉の遺跡を継ぐ。220石。秀忠に仕える。大番

~寛永2年 納戸番


納戸番組頭。220石200俵

寛永19年10月16日 納戸頭

寛永19年10月16日 本方御納戸頭 ●「日記」

正保2年12月30日 布衣

正保4年5月6日 死す
横山一通
生。甚右衛門
よこやまかずみち
藤左衛門一重の次男
寛政譜10・109
妻は松下清九郎重氏の女

寛永15年11月21日 横山藤左衛門二番目子可被召出 ●「日記」

寛永16年7月23日 はじめて家光に拝謁

寛永16年7月23日 横山藤左衛門二番子以樽代初て御目見 ●「日記」

寛永17年3月19日 書院番 ●「日記」共

寛永19年12月10日 300俵 ●「日記」共

慶安3年9月3日 家綱に付属される。西丸に勤仕

(慶安4年) 本丸に勤仕

寛文4年5月16日 膳奉行

貞享元年5月19日 膳奉行を辞す。小普請

貞享2年8月28日 死す
横山五左衛門

よこやまござえもん
南部山城守重直の家老



横山知清 元和7年 生。内記
よこやまともきよ
兄土佐守興知の嗣。山城守長知の四男
寛政譜10・101
妻は伊丹播磨守康勝の女

寛永13年3月24日 横山土左守去時分死去実子依無之彼跡職―


―土左守弟ニ可被仰付 ●「日記」

寛永13年5月1日 兄興知の遺跡を継ぐ。5000石

寛永13年5月1日 土佐守跡職弟内記被下之付て父御礼 ●「日記」

寛永13年5月5日 はじめて家光に拝謁

元禄2年12月29日 死す
横山長知 永禄11年 生。三郎。大膳。武蔵。山城。山城守
よこやまながとも
清三郎長隆の次男
横山家譜 天正10年 前田利長に近侍
(加賀藩史料3・193) 天正11年 200石
寛政譜10・100 天正15年 家老

慶長4年 家康に拝謁。主君利長への疑いを解く

慶長7年 1万5000石

慶長14年 讒訴により勘気を蒙る。剃髪。道哲と号す。蟄居

慶長19年 山城国山科に屏居。夕庵と号す

慶長19年 比叡山に独居

慶長19年 大坂の役のとき前田利常に帰参。加賀国の留守をあずかる

元和元年 大坂の役にて前田利常に従う

元和元年閏6月19日 従五位下・山城守


3万石

正保2年 隠居。2000石

正保3年1月21日
横山政信
生。九郎兵衛。仁左衛門
よこやままさのぶ
源助正勝の次男
寛政譜15・409 元和5年11月27日 家光に付属される

元和9年12月27日 小十人。100俵

寛永9年8月25日 200俵

寛永19年12月6日 納戸番 ●「日記」共

正保3年1月16日 死す
横山正吉
生。巳之助。源助。甚兵衛。金兵衛
よこやままさよし
甚左衛門正次の男
寛政譜15・408
妻は小林太郎助宗重の女

寛永9年8月19日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永13年12月27日 大番 ●「日記」共

明暦2年10月 仮の石奉行

寛文2年9月5日 石奉行

寛文12年4月11日 石奉行を辞す。小普請

延宝5年1月25日 大番

延宝8年 死す
横山康玄 天正18年 生。三郎。大膳
よこやまやすはる
山城守長知の長男
横山家譜 慶長2年 はじめて前田利長に拝謁
(加賀藩史料3・172) 慶長9年 前田利長に仕える。1000石。近習
寛政譜10・100 慶長19年 父長知と同じく前田家を去る。山城国山科に屏居

慶長19年 大坂の役にて父長知と同じく前田利常に従う

元和元年 家老


9000石

(寛永12年9月16日) (松平筑前守家老) ●「日記」

(寛永13年3月24日) (加賀中納言家老) ●「日記」

正保2年9月 死す
吉岡重継 元亀3年 生。(長三郎)。豊前介
よしおかしげつぐ
豊前守宗寿重次の弟か
装剣金工史292 (寛永15年12月28日) (御ほり物や吉岡長三郎) ●「日記」

(寛永19年7月24日) (彫物師吉岡豊前) ●「日記」

某年 死す
吉岡長三郎
豊前介重継か?
よしおかちょうざぶろう


(寛永15年12月28日) (御ほり物や) ●「日記」



吉川半兵衛

よしかわはんびょうえ
近江国石部の元代官かその男か


200石

(寛永14年) 死す
吉川兵作

よしかわひょうさく
半兵衛の嗣

寛永14年12月8日 弐百石半兵衛跡吉川兵作 ●「日記」



賀子内親王 寛永9年6月5日 誕生。女五宮。兼宮。深信解脱院宮
よしこないしんのう
後水尾天皇の第六皇女
本朝皇胤紹運録 (寛永17年5月26日) (女五宮の初出) ●「日記」
(群書系図部集1・103) 正保元年10月2日 内親王
幕府祚胤伝 正保2年1月28日 二条摂政光平に嫁ぐ
(徳川諸家系譜2・83) 慶安元年 隆崇院を産むか?のち徳川綱重の室

元禄9年8月2日 薨去
吉田兼則 慶長8年8月8日 生。非蔵人。美作守。上北面
よしだかねのり
豊国社職宮内少輔兼氏の男
地下家伝中・863 慶長14年 元服
宮廷公家系図集覧537 元和4年2月26日 非蔵人

(寛永11年7月21日) (美作守) ●「日記」

慶安2年7月30日 従五位下。美作守。上北面

延宝5年7月26日
吉田勘右衛門

よしだかんえもん


(寛永20年) 死す

寛永20年12月7日 火之番衆五十俵弐人扶持勘右衛門跡吉田小兵衛 ●「日記」
吉田小兵衛

よしだこひょうえ
勘右衛門の男

寛永20年12月7日 火之番衆五十俵弐人扶持勘右衛門跡吉田小兵衛 ●「日記」






吉田重信
生。久馬助
よしだしげのぶ
松平伊予守忠昌家臣源八郎重氏一水の男
寛政譜7・244
母は吉田助左衛門道春の女

寛永4年12月16日 酒井忠世と酒井忠勝を先容として秀忠に拝謁。秀忠に仕える

寛文2年5月15日 死す
吉田重宗
生。十郎左衛門。久馬助
よしだしげむね
久馬助重信の長男
寛政譜7・244 寛永16年7月18日 はじめて家光に拝謁

寛永16年7月18日 吉田久米助子初て御目見 ●「日記」

正保4年12月27日 大番。200俵

寛文7年1月11日 死す
吉田浄元 慶長16年 生。宮内卿。盛方院。法眼。法印
よしだじょうげん
盛方院法印浄珍の長男
寛政譜5・271
母は細川越中守家臣松井佐渡康之の女


妻は稲葉彦太郎典通の女


後妻は中山大納言元親の女

元和7年12月 父浄珍の遺跡を継ぐ。500石。はじめて秀忠に拝謁

寛永元年 法眼


法印

寛文9年3月17日 死す
吉田宗以 元和2年 生。策庵。法眼
よしだそうい
機庵宗活の三男
寛政譜7・235
母は禁裏医師深見琢庵の女


妻は永田四郎三郎直時の女

寛永18年 父宗活の遺跡を継ぐ。500石

寛永19年 家綱に仕える。侍医

(寛永19年9月5日) (若君様御医師) ●「日記」

正保4年 綱吉に付属される

寛文元年12月26日 神田館に勤仕。月俸70石

寛文6年12月28日 法眼

延宝8年 徳松の西丸移徙に従う

天和3年12月21日 致仕

元禄7年9月12日 死す
吉田宗恪 慶長18年 生。岩麻呂。宮内卿。意安。法橋。法印。仙徳院
よしだそうかく
意安法印吉皓の長男
寛政譜7・229
母は織田家臣芝山監物の女


妻は吉川氏

元和8年 父吉皓の遺跡を継ぐ。500石

元和9年 はじめて秀忠に拝謁

寛永10年 奥医。江戸に移住

寛永17年6月 交代番医

寛永17年6月1日 玄竹意安替々殿中ニ可相詰 ●「日記」

正保元年12月29日 法印 ●「日記」共

慶安4年9月11日 寄合

万治3年1月29日 奥医

寛文10年12月25日 500石200俵

天和2年12月18日 致仕。仙徳院と号す

貞享元年9月29日 死す
吉田宗活 天正19年 生。機庵。法橋
よしだそうかつ
真珠院周三の男
寛政譜7・234
母は豊臣家臣伊勢大和守の女


妻は禁裏医師深見琢庵の女


弱年より施薬院宗伯、秦寿命院宗巴に医術を学ぶ


京都妙心寺庸山禅師に小児医術を学ぶ


幼少の松平越後守光長を治療。光長に仕える


幼少の土井遠江守利隆を治療

寛永2年 はじめて秀忠に拝謁

寛永3年 幼少の高松宮好仁親王に薬を奉る。法橋

寛永14年3月 千代姫に薬を調進

寛永18年8月 家綱に薬を調進

(寛永18年9月5日) (松平越後守登城是彼扶助之医師機庵被召出御礼也) ●「日記」

寛永18年9月6日 家綱に付属される。500石

寛永18年9月6日 五百石 ●「日記」

寛永18年12月28日 死す
吉田直正
生。十兵衛。はじめ斎藤を称す
よしだなおまさ
母は吉田氏
寛政譜21・153
秀忠に仕える。徒


太鼓役

寛永18年6月25日 御歩行目付吉田十兵衛太鼓役被仰付之 ●「日記」

(明暦2年) 死す
吉田隼人

よしだはやと
有馬玄蕃頭豊氏に仕える

(寛永12年12月8日) (有馬玄蕃頭家来) ●「日記」



吉田政勝
生。権八郎
よしだまさかつ
太郎兵衛吉重の男
寛政譜7・248
秀忠に仕える


家光に仕える

(寛永10年2月21日) (御鷹師) ●「日記」 (子政俊か不明)


以下不詳
吉田政重
生。甚太郎。弥右衛門
よしだまさしげ
弥右衛門正直の男
寛政譜7・246
妻は堀越内匠貞吉の女


秀忠に仕える。鷹匠

寛永14年12月8日 父正直の遺跡を継ぐ。190石余

寛永14年12月8日 弐百石弥右衛門跡御鷹師吉田甚太郎 ●「日記」

寛永15年 武蔵国忍の鳥屋飼

寛文元年8月28日 死す
吉田政俊
生。権八郎
よしだまさとし
権八郎政勝の男
寛政譜7・238
家光に仕える

(寛永10年2月21日) (御鷹師) ●「日記」 (父政勝か不明)


以下不詳
吉田正直
生。弥右衛門
よしだまさなお
与右衛門正次の長男
寛政譜7・246 天正10年 家康に仕える。鷹師

(慶長7年) 父正次の遺跡を継ぐか

慶長9年11月7日 160石余

寛永2年12月11日 190石余の朱印

寛永14年11月19日 死す
吉田政広
生。清六郎
よしだまさひろ
清左衛門政勝の男
寛政譜7・242
母は曾武右衛門の女


妻は斎藤小兵衛の女


秀忠に仕える

(寛永5年) 父政勝の遺跡を継ぐ。160石現米40石。手鷹師

寛文8年12月 致仕

寛文9年4月27日 死す
吉野信安
生。作右衛門
よしののぶやす
作右衛門信次の男
寛政譜17・232 寛永9年 父信次の遺跡を継ぐ。縄竹残物奉行

慶安元年10月25日 死す
吉村源助

よしむらげんすけ
商工人か






吉村平左衛門

よしむらへいざえもん
奥平美作守忠昌に仕える

(寛永19年4月20日) (奥平美作守家来下奉行) ●「日記」



吉村又左衛門

よしむらまたざえもん


(寛永17年9月18日) (御台所組頭) ●「日記」

寛永17年9月18日 御改易 ●「日記」

寛永18年9月5日 御赦免仕来御役如前々可相勤 ●「日記」



与二郎
浪越? 辻?
よじろう
大工か。鋳物師か






依田源蔵
生。(伊織)。左近。源蔵。はじめ平尾を称す
よだげんぞう
平尾伊織の男
寛政譜22・363 寛永20年8月30日 父伊織の遺跡を継ぐ。700石

寛永20年8月30日 平尾伊織亡父跡式被下之 ●「日記」

慶安元年8月3日 書院番

慶安3年9月3日 家綱に付属される。西丸に伺候

(慶安4年) 本丸に勤仕

寛文5年11月4日 改易


以下不詳
依田貞清 慶長17年 生。伊之助。数馬。小隼人
よださだきよ
小隼人守直の養子。松井与兵衛宗利の長男
寛政譜6・229
妻は小隼人守直の次女


後妻は加賀美才兵衛正光の女

元和4年1月 はじめて秀忠に拝謁


養父守直とともに徳川忠長に仕える。小姓

寛永9年 処士

(寛永19年12月10日) (芦田衆) ●「日記」

寛永19年12月10日 家光に仕える。400石。大番

寛永19年12月10日 如前々御知行被下之 ●「日記」

寛文2年10月19日 材木奉行

天和2年10月4日 材木奉行を辞す。小普請

天和2年12月18日 致仕

元禄2年5月30日 死す
依田信重(内蔵)
生。内蔵助
よだのぶしげ
叔父肥前守信政の養子。肥前守信守の男
寛政譜6・217
母は室賀山城守入道信俊の女


妻は蒔田玄蕃頭定正の女

元和2年 小姓組。200俵

寛永10年2月7日 400石

~寛永14年 書院番

寛永16年7月12日 徒頭

寛永16年7月12日 近藤五左衛門元組御歩行頭 ●「日記」

寛永18年1月6日 布衣 ●「日記」共

正保4年9月26日 先鉄炮頭

慶安4年11月21日 400石300俵

万治元年6月14日 養父信政の家を継ぐ。2500石

延宝3年2月3日 先鉄炮頭を辞す

延宝3年5月16日 致仕。300俵

延宝6年5月2日 死す
依田信重(源六郎) 寛永5年 生。源六郎
よだのぶしげ
内蔵助信重の長男
寛政譜6・218
母は蒔田玄蕃頭定正の女


妻は間宮造酒丞長澄の女

正保元年6月16日 小姓組 ●「日記」共

延宝3年5月16日 父信重の家を継ぐ。2200石

元禄2年5月14日 先鉄炮頭

元禄2年12月27日 布衣

元禄3年6月24日 死す
依田信弘 慶長8年 生。友之助
よだのぶひろ
肥前守信政の男
寛政譜6・220
母は松平伊豆守信一の女

元和9年 徳川忠長に付属される

(寛永9年) 勘気を蒙る。処士

寛永13年12月10日 赦免 ●「日記」共

寛永15年12月23日 小姓組 ●「日記」共


小姓組を辞す。小普請

寛文10年 死す
依田信政 元亀元年 生。源太郎。肥前守
よだのぶまさ
兄肥前守信守の養子。伊賀守信幸の次男
寛政譜6・217
妻は松平伊豆守信一の女

天正13年 上田城攻めにて大久保七郎右衛門忠世に従う

天正14年 松平修理大夫依田康国と兄信守に従う

天正18年3月 前田利家に従う


松平右衛門大夫依田康真に属すか

慶長5年 家康に仕える。2000石

慶長5年7月 兄信守とともに秀忠の上田城攻めに従う


大坂の役にて本多佐渡守正信に属す

寛永8年 与力5騎同心30人

寛永10年12月27日 2500石

寛永10年12月27日 五百石御加増 ●「日記」

万治元年6月14日 致仕。400石

寛文2年1月11日 死す
依田平三郎

よだへいざぶろう 寛永9年8月19日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」






世続重尚 天正14年 生。左衛門大尉。甲斐守
よつぎしげひさ
光好の養子。松波左衛門大尉資久の次男
地下家伝中・938
院北面
宮廷公家系図集覧669 天正18年3月20日 従五位下

慶長18年11月22日 左衛門大尉

慶長20年1月5日 従五位上

元和元年1月14日 甲斐守

寛永4年11月3日 正五位下

正保2年1月15日
世続重持 元和3年 生。雅楽頭
よつぎしげもち
甲斐守重尚の長男
地下家伝中・938 元和8年1月5日 従五位下。雅楽頭
宮廷公家系図集覧669 某年



四辻公理 慶長15年1月25日 生。侍従。少将。中将。参議。中納言。大納言
よつつじきみまさ
大納言季継の長男
諸家伝上・265
室は羽柴能登守前田利政入道宗悦の次女
宮廷公家系図集覧308 慶長17年12月16日 従五位下

元和3年12月29日 元服。侍従。昇殿

元和4年1月8日 従五位上

元和6年8月15日 正五位下

寛永3年1月5日 従四位下

寛永3年11月11日 左少将

寛永7年1月5日 従四位上

寛永8年12月24日 左中将

寛永9年1月5日 正四位下

寛永15年3月19日 四辻中将儀禁裏仙洞仰次第可被召出之 ●「日記」

寛永15年 参議。左中将

(寛永16年閏11月28日) (宰相の初出) ●「日記」

寛永16年閏11月28日 続目之御礼ニ雖令参府就二丸御座依為軽服無御対顔 ●「日記」

寛永16年12月29日 従三位

寛永18年1月5日 正三位

寛永18年1月11日 権中納言

寛永19年9月19日 直衣

寛永19年12月22日 帯剣

正保4年12月7日 権大納言

慶安2年4月3日 従二位

承応元年10月12日 正二位

明暦2年10月2日 神宮伝奏

明暦3年6月26日 神宮伝奏を辞す

万治2年7月29日 権大納言を辞す

延宝5年6月27日 薨去
四辻季継 天正9年 生。侍従。少将。美作権介。中将。参議。中納言。大納言
よつつじすえつぐ
はじめ高倉南家を相続
諸家伝上・264
兄参議季満の嗣。大納言公遠の三男
宮廷公家系図集覧308 天正13年11月20日 従五位下

天正16年12月16日 元服。侍従。昇殿

天正17年1月6日 従五位上

文禄3年6月28日 正五位下。左少将

慶長5年2月10日 従四位下

慶長6年3月19日 美作権介

慶長9年8月1日 従四位上

慶長11年1月11日 左中将

慶長14年1月6日 正四位下

慶長17年1月11日 参議。左中将

慶長18年1月6日 従三位

元和2年1月11日 権中納言

元和3年1月5日 正三位

元和6年8月15日 従二位

寛永元年1月5日 正二位

寛永3年11月11日 権大納言

寛永16年5月20日 薨去
米津重勝
生。才兵衛。はじめ井上を称す
よねきつしげかつ
井上甚右衛門貞重の男
寛政譜18・224
母は米津氏

慶長17年 秀忠に拝謁


家光に仕える

寛永18年12月30日 腰物奉行。300石

寛永18年12月30日 御腰物奉行 ●「日記」

寛文6年 死す
米津所左衛門

よねきつしょざえもん


寛永15年10月17日 御国御免 ●「日記」



米津清三郎

よねきつせいざぶろう


寛永15年10月17日 御国御免 ●「日記」



米津田盛 元和2年 生。内蔵助。出羽守
よねきつたもり
勘兵衛田政の男
寛政譜18・219
室は永井信濃守尚政の女

元和9年 はじめて秀忠に拝謁

寛永2年 父田政の遺跡を継ぐ。5000石

(寛永12年6月16日) (寄合) ●「日記」

承応3年7月3日 小姓組番頭

承応3年12月28日 従五位下・出羽守

万治元年3月21日 書院番頭

寛文3年6月7日 大番頭

寛文6年2月16日 大坂定番。1万5000石

貞享元年1月25日
米津正守 天正8年 生。彦七郎。梅干助
よねきつまさもり
保屋助康勝の男
寛政譜18・218 慶長5年6月5日 秀忠に仕える。次間番

~寛永3年 納戸番


父康勝の遺跡を継ぐ

寛永4年11月3日 570石


大番

寛永10年2月7日 770石

寛永19年10月8日 大番組頭

寛永19年10月8日 中根大隅守組大御番組頭 ●「日記」

慶安2年8月26日 先鉄炮頭

慶安4年8月16日 布衣

慶安4年11月21日 770石300俵

明暦元年5月16日 死す
米津正義 寛永元年 生。粘之丞
よねきつまさよし
梅干助正守の男
寛政譜18・218 寛永11年3月11日 はじめて家光に拝謁

寛永18年6月30日 大番

寛永20年12月18日 弐百俵 ●「日記」

明暦元年9月8日 父正守の遺跡を継ぐ。770石300俵

明暦3年6月23日 死す
米倉重種
生。平大夫
よねくらしげたね
丹後守信継の次男
寛政譜3・286
家康に仕える。大番

慶長3年11月3日 父信継より分知。500石

元和元年~ 代官

寛永4年11月3日 680石の朱印

寛永13年11月24日 父信継の遺跡を継ぐ。1250石(甲斐国円井郷)

寛永13年11月24日 米倉丹後千弐百五十石子平大夫跡目被仰付之 ●「日記」

正保3年~ 死す
米倉庄蔵
生。庄蔵
よねくらしょうぞう

寛政譜22・364 正保元年5月27日 米倉庄蔵惣領庄太郎以樽代始て御目見 ●「日記」



米倉信継(加左衛門) 文禄3年 生。八右衛門。加左衛門
よねくらのぶつぐ
加左衛門満継の長男
寛政譜3・293
母は武田家臣下城民部左衛門の女


妻は武田家臣萩原主水の女

元和元年 家康に拝謁。月俸を賜る

元和3年 徳川忠長に付属される

(寛永9年) 処士

寛永17年 蔵番

寛永18年11月15日 本領を賜る。(220石)大番

寛永18年11月15日 芦田武川衆十八人駿州ニて之本知并御切米如前々被下之 ●「日記」

寛永20年8月30日 家綱に付属される。三丸に勤仕 ●「日記」共

寛永20年12月18日 220俵

寛永20年12月18日 知行悪所ニ付御切米ニ替被下之 ●「日記」

慶安3年9月4日 大番

明暦3年2月14日 死す
米倉信継(丹後) 天文17年 生。六郎右衛門。丹後守
よねくらのぶつぐ
兄主計助忠継の養子。丹後守宗継の三男
寛政譜3・286
妻は牧野原氏

天正10年 家康に仕える

天正10年12月7日 125貫文の朱印

天正17年 加増あり

慶長3年11月3日 次男重種に分知

慶長4年 兄忠継の遺跡を継ぐ。使番。命により丹後守と称す

元和元年~ 1250石


伏見大坂金奉行

寛永13年4月8日 死す
米倉半左衛門
生。庄太郎。半左衛門
よねくらはんざえもん
庄蔵の男
寛政譜22・364 正保元年5月27日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保4年12月25日 大番

寛文9年~ 大番を辞す。小普請

元禄7年9月25日 養子六左衛門に連座して斬罪
米倉正継
生。左京。左大夫
よねくらまさつぐ
左大夫豊継の長男
寛政譜3・292
妻は入戸野九左衛門門昌の女

元和元年 はじめて家康に拝謁。月俸を賜る

元和3年 徳川忠長に付属される

(寛永9年) 処士

寛永17年8月 蔵番

寛永18年11月15日 210石

寛永18年11月15日 芦田武川衆十八人駿州ニて之本知并御切米如前々被下之 ●「日記」

寛永20年8月30日 家綱に付属される。三丸に勤仕 ●「日記」共

寛永20年12月18日 210俵

寛永20年12月18日 知行悪所ニ付御切米ニ替被下之 ●「日記」

慶安元年9月4日 死す

Sheet 9: らわ行

頼心坊

らいしんぼう


寛永19年8月17日 和州長谷寺小池坊後住頼心坊被仰付之旨老中列座有て―


―知積院并頼心坊へ伝上意趣 ●「日記」



藍渓宗瑛 元亀元年 生。藍渓宗瑛。大規綱宗禅師
らんけいそうえい
近江国出身
大徳寺世譜22 慶長13年12月20日 大徳寺152世。大規綱宗禅師

万治元年10月20日 遷化
利斎

りさい
囲碁将棋

寛永12年12月1日 碁打将棋さし依為無足於大津御切米被下之所謂―


―理斎弐拾石 ●「日記」



利山
生。南蓮社弁誉無極利山上人
りざん

鎌倉光明寺志

(浄土宗全書19・627)
飯沼弘経寺14世
飯沼弘経寺志 万治2年12月24日 鎌倉光明寺39世
(浄土宗全書19・817)







理真院
りしんいん
中川氏の女
南葵徳川家略譜4 寛永3年12月11日 徳川光貞を産む
紀州水戸御系譜写 寛永8年9月22日 因幡姫芳心院を産む。のち松平相模守池田光仲の室
(徳川諸家系譜2・238) 万治元年12月11日 逝去



李倧 文禄4年11月7日 生。字和伯。号松窓。綾陽君。仁祖
りそう
宣祖李昖の五男元宗李ふの男
朝鮮史大系年表・37
母は具氏思孟の女仁献王后
朝鮮史大系年表・309
后は韓氏浚謙の女仁烈王后


また后は趙氏昌遠の女荘烈王后

元和9年 光海君を廃し即位。朝鮮国王

寛永14年 清に服属

慶安2年5月8日 薨去
立石寺
出羽国最上。天台宗
りっしゃくじ




利峰東鋭 永禄4年 生。利峰東鋭
りほうとうえい
建仁寺297世
読史備要1007 (寛永10年4月1日) (鋭長老) ●「日記」

寛永20年7月24日 遷化
龍淵寺
武蔵国忍成田。曹洞宗
りゅうえんじ




龍穏寺
武蔵国越生。曹洞宗
りゅうおんじ




竜昌院 慶長2・3年 生。喜佐子。土佐姫。竜照院
りゅうしょういん
秀忠の養女。越前中納言松平秀康の次女
華族系譜
母は越前松平家臣三谷出雲守長基の女月照院
(徳川諸家系譜4・99) 慶長13年6月16日 秀忠の養女として松平長門守毛利秀就と縁組
幕府祚胤伝 慶長15年 入輿
(徳川諸家系譜2・66)
女子を産む。のちの松平越後守光長の室
寛政譜10・246
松寿丸を産む。早世


和泉を産む。早世


女子を産む。のちの鷹司関白房輔の室


大吉丸を産む。早世


女子を産む。早世?

寛永16年 松平大膳大夫毛利綱広を産む

慶安4年2月 落飾

明暦元年6月25日 逝去
柳上坊
天台宗。柳上坊。龍性坊
りゅうじょうぼう




立詮

りゅうせん

高野山千百年史258
高野山文珠院勢誉・応昌に従う


高野山見寿院

(正保元年1月10日) (文珠院弟子見樹院) ●「日記」

正保2年 高野山文珠院。興山寺4世

正保2年10月22日 逼塞

慶安2年9月17日 赦免

万治2年8月22日 追放

寛文4年8月12日 示寂
滝泉寺
江戸目黒。天台宗
りゅうせんじ




龍門寺
出羽国山形。曹洞宗
りゅうもんじ (寛永13年2月1日) (最上龍門寺) ●「日記」



龍安寺
京都。臨済宗
りょうあんじ




良雲院
生。於竹
りょううんいん
武田家臣市川氏の女
幕府祚胤伝
家康に仕える
(徳川諸家系譜2・24) 天正8年10月 正清院を産む。のちの蒲生飛騨守秀行、浅野但馬守長晟の室。
(徳川諸家系譜2・36) 寛永14年3月12日 逝去



良覚
生。了蓮社性誉または大蓮社晧誉。宗吟
りょうかく
良随に師事
清浄華院誌要
京都専福寺を開く
(浄土宗全書20・357)
京都生蓮寺を中興

元和4年11月9日 清浄花院38世

元和9年9月 退隠

正保3年2月21日
了学 天文18年 生。団蓮社照誉遊嶽
りょうがく
下総国小金城主高木修理亮の三男
三縁山志
母は大八木氏
(浄土宗全書19・476)
三上右馬介入道安西の猶子となる

永禄2年 東漸寺団誉のもとで剃髪


生実大巌寺源誉存応に学ぶ


仏法山東漸寺の学頭

天正17年 仏法山東漸寺の住持


上総国大多喜に良信寺を開創。住持


飯沼弘経寺を中興。住持


家康・秀忠の戒師をつとめる


下総国大鹿村の弘経寺を再建

寛永4年 下総国佐倉清光寺に閑居


下総国佐倉松林寺をひらく


伊勢国桑名西岸寺をひらく

寛永9年1月15日 増上寺住持 ●「日記」

寛永9年1月17日 増上寺17世


北谷雲晴院をひらく

寛永11年2月13日 遷化

寛永11年2月14日 昨夜遷化 ●「日記」
了間

りょうかん
増上寺了学の伴僧


了門のことか?
凉源寺
江戸? 浄土宗?
りょうげんじ




良純法親王 慶長9年3月29日 誕生。八宮。親王。知恩院門跡。以心庵
りょうじゅんほっしんのう
後陽成天皇の第八皇子
本朝皇胤紹運録
母は庭田大納言重通の女大典侍具子
(群書系図部集1・100) 慶長19年12月16日 親王

元和元年6月 家康の猶子となる

元和5年9月17日 入寺得度。知恩院門跡

寛永20年11月11日 甲斐国天目山に配流される

万治2年6月22日 帰洛。泉涌寺中新善光寺に住す

寛文4年4月13日 北野に移住。還俗して以心庵と号す

寛文9年8月1日 薨去
良恕法親王 天正2年 誕生。竹内曼殊院門跡。天台座主。二品
りょうじょほっしんのう
陽光院の第三皇子
詰所系図
母は勧修寺大納言晴右の長女新上東門院准三后
(系図綜覧上・32)
曼殊院門跡

(寛永11年7月14日) (竹内御門跡) ●「日記」

寛永16年3月18日 天台座主

寛永16年4月24日 竹内御門跡ヨリ献使僧是天台座主依勅許之御礼也云々 ●「日記」

寛永20年5月15日 薨去
良尚法親王 元和8年12月16日 生。竹内曼殊院門跡。天台座主
りょうしょうほっしんのう
八条宮智仁親王の第二王子
詰所系図
母は京極丹後守高知の長女常照院
(系図綜覧上・78) 寛永4年 入寺
皇族明鑑増補71 寛永9年1月25日 後水尾天皇の猶子となる

寛永9年9月11日 入室得度


竹内曼殊院門跡良恕法親王の嗣となる

(寛永11年7月14日) (竹内御門跡御弟子八条殿御弟) ●「日記」

(寛永11年7月21日) (竹内殿宮) ●「日記」

(寛永20年) 曼殊院門跡

正保3年3月22日 天台座主

正保4年9月10日 二品

明暦2年 曼殊院を一乗寺に移転

元禄6年7月5日 薨去
了随

りょうずい




良如光円 慶長17年12月7日 生。教興院。法眼。大僧正
りょうにょこうえん
大僧正准如光昭の次男
宮廷公家系図集覧561
妻は九条関白幸家の女
群書系図部集5・374
法眼

(寛永7年11月30日) 西本願寺門跡(本門)(六条)


大僧正

寛永16年1月28日 西本願寺門跡大僧正補任之儀被仰出ニ付て為御礼太刀目録并―


―御樽肴進上之刻使者御目見 ●「日記」

寛永18年1月28日 西本願寺ヨリ以使者太刀馬代黄金十両并綿百把御樽肴進上之―


―使者御目見太刀目録上野介披露之進物は進物番役之是ハ―


―縁辺相調付御礼也 ●「日記」

寛文2年9月7日 遷化
良甫
川島了後茂継か。江藤良菴瑞哲か
りょうほ


寛永19年4月4日 右之小児医師并外科之輩妻子等引越ニ付て御暇被下之 ●「日記」









了門
生。白誉。了聞
りょうもん
了学の甥


了学について出家

寛永11年~ 幡随院新知恩寺の住持

寛永16年3月 隠居

寛永17年4月8日
臨済寺
駿河国府中。臨済宗
りんざいじ




麟祥院
江戸。臨済宗。はじめ天沢寺と号す
りんしょういん (寛永13年1月6日) (林松院の初出) ●「日記」

寛永20年9月20日 春日局寺天沢寺弐百石御加増有之元寺領百石都合三百石 ●「日記」



麟祥院(春日局) 天正7年 生。春日局。麟祥院
りんしょういん
稲葉兵庫頭重通の養女。斎藤内蔵助利三の女
寛政譜10・184
母は稲葉右京進の女


稲葉正成の室となる

慶長2年 稲葉丹後守正勝を産む


稲葉七之丞正定を産む


稲葉岩松を産む


稲葉内記正利を産む


稲葉正成と離婚

慶長9年 家光のめのと

寛永6年10月10日 参内。春日局と称す

寛永11年1月 子稲葉正勝死去により麟祥院と号す

寛永12年 堀田加賀守正盛三男久太郎正俊を養子とする

寛永14年~寛永17年 3000石

寛永20年9月14日

寛永20年9月16日 春日局一昨十四日死去之儀今日達上聴依之銀弐千枚米千俵―


―為吊料被下之 ●「日記」
瑠璃寺
播磨国。真言宗
るりじ


寛永19年7月6日 御朱印被下之 ●「日記」



霊巌 天文23年4月8日 生。雄誉。松風
れいがん
今川一族沼津土佐守氏勝の三男
霊巌上人略伝
母は庵原氏
(浄土宗全書17・741) 永禄7年春 駿河国沼津浄運寺増誉につき出家。肇叡と号す

永禄11年 下総国生実大巌寺道誉に師事。霊巌と号す

天正7年 同寺安誉虎角に師事

天正15年 下総国生実大巌寺3世

天正18年 南都に赴き霊巌寺を開創


山城国に称故寺、西光寺を建立


家康の命により大巌寺再住

慶長8年 安房国大網大巌院を開創

慶長13年 上総国にて七ヶ寺あまりを開創

元和元年8月 遊歴

元和9年~寛永6年 江戸霊岸島を築き霊巌寺を創建

寛永6年秋 京都知恩院住持

寛永18年9月1日 遷化
霊巌寺
江戸。浄土宗
れいがんじ (寛永元年) 1世雄誉松風霊巌
深川霊巌寺志 (寛永6年?) 2世正誉意天
(浄土宗全書20・255)
3世大誉珂山 明暦大火のとき住職

寛永10年8月24日 一束一巻ニて御礼依入院 ●「日記」


下略






霊山寺
江戸湯嶋。浄土宗
れいざんじ 慶長6年~ 江戸駿河台。開山念蓮社専誉禿頑大超
りょうぜんじ
2世団蓮社照誉了学
本所霊山寺志
3世桑誉天嶺
(浄土宗全書20・281) 寛永11年

正保元年6月24日 無主ニ付て後住被仰付之 ●「日記」


4世然蓮社法誉潮也


5世超誉存守


浅草に移転


(後略)
齢昭院 慶長15年 生。繁
れいしょういん
小笠原右近将監忠真の養女。小笠原信濃守忠脩の女
蜂須賀家記204
母は本多美濃守忠政の次女
寛政譜3・400
松平阿波守蜂須賀忠英に嫁ぐ
寛政譜6・244 寛永7年 松平阿波守蜂須賀光隆を産む

寛永11年 蜂須賀飛騨守隆重を産む

承応元年4月4日 夫忠英が卒

明暦元年1月17日
冷泉為景 慶長17年4月26日 生。図書頭。少将。中将。はじめ細野を称す
れいぜいためかげ
叔父少将為将の中絶家を相続。藤原惺窩の男
諸家伝下・731 寛永7年12月10日 従五位下。図書頭
諸家伝下・1038 (寛永11年7月21日) (院中) ●「日記」
宮廷公家系図集覧358 寛永12年1月5日 従五位上

寛永16年1月5日 正五位下

寛永19年1月5日 従四位下

正保4年1月5日 従四位上

正保4年5月26日 冷泉家を相続

正保4年5月29日 左少将

慶安元年1月11日 左中将

慶安3年1月5日 正四位下

承応元年3月15日
霊仙院 寛永14年閏3月5日 生。千代姫
れいせんいん
家光の長女
幕府祚胤伝
母は自証院
(徳川諸家系譜2・79) 寛永15年2月20日 徳川光友と縁組

寛永15年2月20日 姫君御方尾張殿御息右兵衛督殿え御縁辺 ●「日記」

(寛永15年7月2日) (千世姫の初出) ●「日記」

寛永16年9月21日 入輿

寛永16年9月21日 千代姫君御方尾張右兵衛督殿え御入輿 ●「日記」

寛永20年2月14日 紐解き

正保元年12月9日 賄料5000両

正保元年12月9日 自当年御賄料金五千両宛被遣之 ●「日記」

元禄11年12月10日 逝去
嶺南崇六 天正11年
れいなんすうろく
日向国飫肥の人
近古禅林談叢36 慶長2年 角隠西堂のもとで剃髪


駿河国清見寺にて修行


京都大心院にて修行


妙心寺に分座


江戸に東禅寺をひらく

寛永17年12月3日 昨夜丑下刻嶺南之寺火事 ●「日記」

寛永20年7月27日
蓮意
生。随蓮社万誉蓮意上人
れんい
九誉万海に師事
滝山大善寺志 (寛永17年) 滝山大善寺9世
(浄土宗全書20・147) 慶安元年12月 大樹寺22世
大樹寺記録 慶安3年5月25日 遷化
(大樹寺の歴史149)




蓮馨寺
武蔵国川越。浄土宗
れんけいじ
(前略)
川越蓮馨寺志
4世尊誉源的
(浄土宗全書20・113)
5世円誉廓源


6世大誉満霊

寛永16年12月4日 駿河宝台院為後住川越之蓮馨寺被仰付之 ●「日記」


7世暁誉位産

寛永17年2月18日 増上寺御目見是河越之蓮馨寺増上寺之番頭位産後住被仰付依也 ●「日記」


8世還誉存龍


9世玄誉智鑑


(後略)



蓮華寺
遠江国。天台宗
れんげじ




廉貞院 元和4年6月6日 生。鶴子
れんていいん
松平三河守忠直の次女
幕府祚胤伝
母は秀忠の四女高田殿勝姫天崇院
(徳川諸家系譜2・87) 寛永8年9月 家光の養女となり九条右大将道房と縁組
華族系譜 寛永9年11月5日 江戸城発
(徳川諸家系譜4・110)
京都九条家に入輿


女子を産む。のち松平弾正大弼浅野綱晟の室

(寛永10年2月21日) (平産) ●「日記」 (のちの松平弾正大弼浅野綱晟室か)


女子を産む。のち松平弾正大弼浅野綱晟の継室


女子を産む。のち東本願寺常如光晴の室

正保4年6月10日 夫道房が薨去

寛文11年9月19日 逝去
六郷政勝 慶長14年 生。長五郎。伊賀守
ろくごうまさかつ
兵庫頭政乗の長男
寛政譜14・225
室は京極修理大夫高三の養女京極丹後守高知の女

元和元年4月8日 はじめて秀忠に拝謁

寛永11年6月6日 父政乗の遺領を継ぐ。出羽国本庄城2万石

寛永11年6月10日 御礼兵庫頭跡職被仰付仍也 ●「日記」

(寛永12年6月30日) (伊賀守) ●「日記」

(寛永12年8月25日) (長五郎) ●「日記」

寛永17年12月29日 従五位下・伊賀守

寛永17年12月29日 諸大夫 ●「日記」

(寛永18年1月11日) (伊賀守の初出か) ●「日記」

延宝4年6月30日 致仕

延宝5年1月12日
六郷政直
生。藤十郎。藤右衛門。友迪
ろくごうまさなお
兵庫頭政乗の三男
寛政譜14・228 寛永8年5月20日 はじめて家光に拝謁

寛永8年5月20日 秀忠に拝謁 ●「日記」

寛永12年 小姓組。300俵


小普請

天和2年12月18日 致仕。友迪と号す

元禄3年1月4日 死す
六郷政乗 永禄10年 生。兵庫頭。従五位下
ろくごうまさのり
弾正道行の男
寛政譜14・224 慶長5年11月 家康に拝謁


常陸国府中1万石

元和9年10月18日 出羽国本庄城2万石

寛永11年4月28日
六条有純 慶長9年9月 生。侍従。少将。中将。参議
ろくじょうありずみ
中納言有親の男
諸家伝下・851
母は六条家女房
宮廷公家系図集覧497
妻は戸田帯刀為春の女

元和元年7月23日 従五位下

元和元年7月25日 元服。昇殿。侍従

元和3年1月5日 従五位上

元和5年1月11日 右少将

元和7年1月6日 正五位下

寛永3年11月18日 従四位下

寛永5年1月30日 右権中将

寛永6年1月5日 従四位上

寛永9年1月5日 正四位下

寛永13年1月5日 従三位

(寛永15年3月6日) (昵近之衆) ●「日記」

寛永16年閏11月24日 参議

寛永16年閏11月29日 右中将

寛永16年12月4日 参議・右中将を辞す

寛永18年1月5日 正三位

正保元年7月13日 薨去
六所神社
三河国岡崎
ろくしょじんじゃ




六波羅蜜寺
京都六波羅。普門院。天台宗
ろくはらみつじ







六兵衛

ろくびょうえ
江戸材木町に住む

(寛永15年11月26日) (材木町一町目同二町目同三町目同四町目―


―会所と六兵衛所ニて焼留) ●「日記」



芦江
暮江? 芦江?
ろこう


(寛永16年3月15日) (増上寺伴僧) ●「日記」



蘆山

ろざん
臨済僧か



露白 天正16年10月 生。誓蓮社本誉上人重阿露白大和尚
ろはく
相模国小田原の人。蔭山氏
三縁山志
剃髪。小金東漸寺に入る
(浄土宗全書19・483)
滝山大善寺に移る
鎌倉光明寺志 (正保元年) 小金東漸寺10世
(浄土宗全書19・627)
宝台院


新田大光院7世


鎌倉光明寺38世

万治2年11月26日 増上寺24世

寛文2年9月17日 麻生に隠退

寛文4年9月28日 遷化
若林包盛
生。兵九郎。与右衛門。与惣右衛門
わかばやしかねもり
五兵衛直勝の長男
寛政譜15・241
母は若林和泉直則の長女


小姓。200俵


小姓組

寛永3年 秀忠の上洛に従う


大番

寛永10年2月7日 400石

寛永16年3月7日 大坂金奉行 ●「日記」共

寛永16年7月19日 大坂御金奉行被仰付為御加増至彼地御米八拾石被下之 ●「日記」

正保2年9月7日 死す
若林三平
生。三平
わかばやしさんぺい
和泉直則の男
寛政譜15・243
妻は押田藤右衛門吉正の女

寛永3年8月 父直則の遺跡分知。550石。大番


大番組頭

寛永10年12月19日 1050石

寛永10年12月19日 大番組頭御加増被下之五百石 ●「日記」


改易。召し預けられる

万治元年3月29日 ゆるされる


以下不詳
若林豊忠
生。平右衛門
わかばやしとよただ
作平忠吉の男
寛政譜18・330
鳥見役

(寛永13年8月23日) (平左衛門) ●「日記」

(寛永13年8月23日) (昨日初て御鷹野ニ当年初て被為成付て(銀子)被下之 ●「日記」

(正保3年) 死す
若林三由 慶長15年 生。長十郎。六郎左衛門
わかばやしみつよし
和泉直則の養子。水戸家臣長市右衛門繁由の男
寛政譜15・238
妻は和泉直則の長女

寛永3年8月 養父直則の遺跡を継ぐ。550石


小姓組


大番

寛永10年2月7日 750石

寛永16年~ 大番組頭

寛文2年8月19日 佐渡奉行。1050石

寛文2年12月27日 布衣

寛文10年2月16日 佐渡奉行を辞す。小普請

天和3年10月20日 死す
若林義次
生。平大夫。半右衛門。平右衛門
わかばやしよしつぐ
平右衛門豊忠の養子。某氏の男
寛政譜18・330
鳥見役

寛永20年9月6日 御鳥見 ●「日記」

正保3年2月28日 養父豊忠の遺跡を継ぐ

(寛文6年) 死す
若宮八幡宮
京都東山
わかみやはちまんぐう







若宮八幡宮花宝院

―けほういん







脇坂左京進

わきざかさきょうのじょう 寛永12年8月25日 銀五十枚帷子十献之則御目見 ●「日記」


―(脇坂淡路守の直後に御目見の記事あり)



脇坂安経
生。虎松。佐渡守
わきざかやすつね
兄淡路守安元の嗣。中務少輔安治の五男
寛政譜15・73
兄淡路守安元の嗣となる


従五位下・佐渡守

寛永9年4月4日 池田豊後守長頼に殺害される
脇坂安利 元和4年 生。左兵衛。はじめ堀田を称す
わきざかやすとし
淡路守安元の養子。堀田勘左衛門正吉の次男
寛政譜15・73
母は稲葉佐渡守正成の女


(小姓か)

寛永12年8月4日 脇坂淡路守養子堀田左兵衛被仰付 ●「日記」

寛永13年2月4日
脇坂安信
生。甚九郎。主水正
わきざかやすのぶ
中務少輔安治の三男
寛政譜15・72
家康に仕える


美濃国のうち1万石


従五位下・主水正

寛永9年4月7日 所領を没収される

寛永14年4月1日 死す
脇坂安政 寛永10年 生。(三四郎)。甚太郎。中務少輔。如水。はじめ堀田を称すか
わきざかやすまさ
淡路守安元の養子。堀田加賀守正盛の次男
寛政譜15・73
母は酒井讃岐守忠勝の五女


室は松平周防守松井康映の女

寛永15年11月6日 堀田加賀守息三四郎太刀目録ニて御目見 ●「日記」

寛永17年8月15日 命により安元の養子となる

寛永17年8月15日 堀田加賀守末子脇坂淡路守養子ニ仕度之由日来依訴之―


―其通ニ可仕之旨被仰出之 ●「日記」

寛永17年11月5日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

慶安4年12月28日 従五位下・中務少輔

承応3年3月3日 養父安元の遺領を継ぐ。信濃国飯田城5万3000石

明暦3年~ 帝鑑間に伺候

寛文12年5月14日 播磨国龍野城5万3000石

天和3年4月25日 雁間に伺候

貞享元年11月25日 致仕。如水と号す

元禄7年4月20日
脇坂安元 天正12年 生。甚太郎。淡路守
わきざかやすもと
中務少輔安治の次男
寛政譜15・71
母は西洞院宰相の女


室は石河紀伊守光元の女

慶長3年 はじめて家康に拝謁

慶長5年1月 従五位下・淡路守

慶長6年 秀忠に仕える

元和元年 父安治の封を継ぐ。伊予国大洲城5万3500石

元和3年 信濃国飯田城5万5000石

(寛永18年5月12日) (火消之役人) ●「日記」

承応2年12月3日
分部光信 天正19年 生。竜之助。左京亮
わけべみつのぶ
左京亮光嘉の養子。長野次右衛門正勝の長男
寛政譜7・6
母は左京亮光嘉の女


室は渡辺孫左衛門久勝の女


継室は酒井河内守重忠の女


光嘉の養子となる

慶長6年 はじめて家康に拝謁

慶長6年 養父光嘉の遺領を継ぐ。伊勢国上野2万石

慶長9年6月22日 従五位下・左京亮

元和5年8月 近江国大溝2万石

寛永20年2月22日
分部嘉治 寛永4年 生。徳千代。(与兵衛)。与三兵衛。伊賀守
わけべよしはる
左京亮光信の三男
寛政譜7・6
母は酒井河内守重忠の女


室は池田出雲守長常の女


嫡子となる

寛永19年8月10日 自在所参上ニ付て進物を以御礼 ●「日記」

寛永20年3月26日 父光信の遺領を継ぐ。近江国大溝2万石

寛永20年3月26日 分部左京亮遺跡相続之儀惣領与兵衛ニ被仰付之云々 ●「日記」

(寛永20年4月18日) (与三兵衛の初出) ●「日記」

寛永20年4月18日 はじめて家光に拝謁

寛永20年4月18日 継目之御礼 ●「日記」

寛永20年12月29日 従五位下・伊賀守

寛永20年12月29日 諸大夫 ●「日記」

(正保元年3月15日) (伊賀守の初出) ●「日記」

万治元年7月10日 前日に池田織部長重から受けた創により卒
鷲尾隆量 慶長11年 生。侍従。少将。中将。蔵人頭。参議。右兵衛督。中納言。大納言
わしおたかかず
参議隆尚の養子。広橋大納言兼勝の三男
諸家伝上・410 慶長17年12月7日 従五位下
宮廷公家系図集覧447 慶長18年11月21日 元服。昇殿。侍従

元和元年12月16日 従五位上

元和6年1月5日 正五位下

元和7年1月11日 左少将

寛永2年1月5日 従四位下

寛永5年2月10日 従四位上

寛永5年2月11日 左中将

寛永9年1月5日 正四位下

寛永9年4月23日 蔵人頭

寛永10年1月6日 正四位上

(寛永11年7月21日) (頭中将) ●「日記」

寛永16年9月15日 参議

寛永16年閏11月28日 従三位

寛永16年12月29日 右兵衛督

寛永19年1月5日 正三位

寛永20年9月12日 権中納言

寛永20年9月15日 帯剣

寛永21年1月28日 直衣

正保4年6月9日 神宮伝奏

慶安元年12月22日 権大納言

慶安2年3月6日 神宮伝奏を辞す

慶安2年4月1日 従二位

慶安4年2月24日 神宮伝奏

承応3年1月5日 正二位

承応3年5月29日 神宮伝奏を辞す

承応3年12月1日 神宮伝奏

明暦元年12月2日 神宮伝奏を辞す

明暦2年9月5日 権大納言を辞す

寛文2年8月20日 薨去
鷲尾隆光 寛永5年11月12日 生。侍従。少将。中将
わしおたかみつ
大納言隆量の長男
諸家伝上・411 寛永8年11月6日 従五位下
宮廷公家系図集覧447 寛永11年4月6日 元服。昇殿。侍従

寛永12年1月5日 従五位上

寛永17年3月5日 正五位下

寛永19年1月5日 左少将

寛永20年1月5日 従四位下

(正保元年4月11日) (少将の初出) ●「日記」

正保元年4月11日 去頃御方領依拝領太刀目録持参御礼 ●「日記」

正保4年1月5日 従四位上

正保4年12月7日 左中将

慶安3年1月5日 正四位下

承応3年9月28日
和田維貞 元和6年 生。甚右衛門。助兵衛
わだこれさだ
伝右衛門維重の次男
寛政譜7・332
妻は細川越中守家臣荒川十兵衛重経の女

寛永9年6月13日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永17年3月20日 大番 ●「日記」共

寛永19年12月10日 200俵 ●「日記」共


大番を辞す。小普請

元禄16年8月19日 死す
和田維重 天正14年 生。五助。伝右衛門
わだこれしげ
伝右衛門維長の養子。荒川縫殿助の男
寛政譜7・329
妻は伝右衛門維長の女


家康に仕える


寄合

寛永5年 養父維長の遺跡を継ぐ。590石

寛永8年1月 大坂鉄炮玉薬奉行

寛永8年1月26日 大坂鉄炮玉薬奉行 ●「日記」


大坂鉄炮玉薬奉行を辞す

承応2年1月4日 死す
和田維久 元和3年 生。伝左衛門
わだこれひさ
伝右衛門維重の長男
寛政譜7・329
妻は三淵縫殿助藤利の女

寛永9年6月13日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永12年7月 小姓組

承応2年12月23日 父維重の遺跡を継ぐ。590石


小姓組を辞す。小普請

元禄2年11月28日 死す
和田定安 寛永3年 生。庄兵衛。庄之介。新五兵衛。龕理
わださだやす
庄之助定継の男
寛政譜7・333
妻は荒尾平八郎久成の女

寛永5年 父定継の遺跡を継ぐ。1000石

寛永11年2月8日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永20年 小姓組

万治元年~ 小姓組を辞す。小普請

貞享4年7月10日 致仕。龕理と号す

元禄元年4月13日 死す
渡瀬将監

わたせしょうげん
有馬玄蕃頭豊氏に仕える

(寛永12年12月8日) (有馬玄蕃頭家来) ●「日記」



和田内匠

わだたくみ (寛永12年3月13日) (智恩院之内) ●「日記」






渡辺多
生。兵九郎。吉左衛門
わたなべおおし
李斎左馬助重の男
寛政譜8・149 (慶長4年) 父重の遺跡を継ぐか

~慶長19年 9歳にてはじめて秀忠に拝謁

(寛永9年7月26日) (未だ兵九郎か?)

寛永16年 祖父出雲守の旧領山城国一乗寺及び田中へ采地を転ず


以下不詳
渡辺長 天正14年 生。源五郎。囚獄
わたなべおさ
兄源蔵安の嗣。囚獄佑守の次男
寛政譜8・128
母は武田家臣秋山越前守虎康の女

~慶長19年 兄安の遺跡を継ぐ。甲斐国本栖(170貫文)

元和元年 御鷹の事をうけたまわる

(元和2年) 徳川忠長に付属される

(寛永9年) 召し返される。甲斐国本栖630石

寛永11年 本栖の関所を守衛

慶安2年8月11日 死す
渡辺勝(藤三郎) 慶長11年 生。仁兵衛。主殿。藤三郎
わたなべかつ
仁兵衛定の男
寛政譜8・146
母は東福門院の乳母東本願寺家臣山名左衛門の女瑞閑院


妻は京都松尾社人松室甲斐の女

慶長19年 徳川忠長に付属される

元和2年 秀忠に仕える


徳川忠長に仕える

(寛永9年) 処士

(寛永19年12月10日) (駿河大納言殿御部屋住衆) ●「日記」

寛永19年12月10日 家光に仕える。300石。大番

寛永19年12月10日 如前々御知行被下之 ●「日記」

正保3年2月17日 死す
渡辺勝(弥之助)
生。弥之助
わたなべかつ
弥之助光の男
寛政譜8・120
家康に仕える。足軽頭


1800石

寛永9年6月25日 与力10騎を預かる ●「日記」共

(寛永9年6月25日) (すでに持弓持筒頭) ●「日記」

寛永10年12月27日 2500石

寛永10年12月27日 七百石御加恩 ●「日記」

寛永18年4月18日 追放

寛永18年4月19日 渡部弥之助歩行同心屋敷之前ニ竹材木等立置商買仕体昨日―


―酒井讃岐守下屋敷之辺御成之節上覧様子被遂御穿鑿之処―


―弥之助歩行同心也不寄何事商買仕之儀前廉御法度被仰出之処―


―如此之体曲事被思召之間雖可被行死罪為歩行之者之儀之間御追払也―


―渡部弥之助歩行同心右之通被仰付之旨弥之助義所労本復之節―


―罷出之儀ハ志摩守民部少え断之可任其意并子権六郎義御目見仕事―


―先可為無用之由昨日志摩守民部少被申渡之 ●「日記」


ゆるされる

承応元年 死す
渡辺勝綱 天正14年 生。六蔵。八郎右衛門。半兵衛
わたなべかつつな
半兵衛真綱の三男
寛政譜8・142
母は内藤甚左衛門正重の女


妻は紀伊家臣進藤三郎左衛門の女

慶長19年 大坂の役にて松平武蔵守池田利隆に属す

元和2年 秀忠に拝謁

元和3年5月26日 300石

元和6年 父真綱の遺跡を継ぐ。500石

寛永7年 先弓頭

寛永8年 布衣

寛永9年6月25日 馬上同心5騎 ●「日記」

寛永10年12月27日 1000石

寛永10年12月27日 五百石御加増 ●「日記」

寛永20年11月22日 死す
渡辺清綱 寛永8年 生。半三郎。図書
わたなべきよつな
図書助宗綱の長男
寛政譜8・113
母は小栗忠左衛門久次の女


妻は三枝土佐守守恵の女

寛永18年6月1日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

万治元年6月14日 父宗綱の家を継ぐ。3700石

寛文7年4月10日 先弓頭

寛文7年12月28日 布衣

寛文11年4月9日 持弓頭

延宝3年3月10日 百人組頭

天和元年9月26日 百人組頭をゆるされる。小普請

元禄10年12月5日 致仕

宝永3年9月15日 死す
渡辺五郎八

わたなべごろはち
忠右衛門の男
寛政譜22・362
妻は長田次郎大夫宗安の女

寛永19年11月12日 父忠右衛門の遺跡を継ぐ

寛永19年11月12日 御旗本衆令死去跡被下之但自分之知行御切米何も上 ●「日記」


手鷹匠

延宝4年 死す
渡辺定
生。吉兵衛。はじめ村瀬を称す
わたなべさだ
村瀬市兵衛吉成の男
寛政譜8・126 慶長9年 秀忠に仕える


大番。200石

(寛永20年3月3日) (樽代を以御目見渡部吉兵衛惣領市三郎) ●「日記」


―上記渡辺吉左衛門仲か不明

慶安2年 死す
渡辺定勝
生。弥兵衛
わたなべさだかつ
武右衛門定正の男
寛政譜20・50 ~慶長19年 秀忠に仕える


父定正とともに徳川忠長に付属される

(寛永9年) 処士

(寛永19年12月10日) (駿河大納言殿御部屋住衆) ●「日記」

寛永19年12月10日 如前々御知行被下之 ●「日記」

寛永19年12月15日 家光に仕える。200俵。甲府町奉行。同心7人

寛永19年12月15日 滝川監物渡部弥兵衛知行御切米被下之并同心七人宛如前々被仰付之―


―甲州町々仕置等可仕 ●「日記」

寛永20年8月7日 死す
渡辺定綱 元和8年 生。左兵衛
わたなべさだつな
孫三郎富次の長男
寛政譜8・136
母は渡辺孫三郎勝の女


妻は宅間伊織憲之の女

寛永13年3月25日 渡辺孫三郎子被召出之 ●「日記」

寛永13年3月25日 皆川山城守組(大番) ●「日記」

寛永15年10月24日 大番 ●「日記」共

寛永18年4月16日 御書院番 ●「日記」

正保3年2月28日 200俵

寛文12年12月6日 死す
渡辺定俊 元和2年 生。兵五郎。弥兵衛
わたなべさだとし
弥兵衛定勝の男
寛政譜20・50
妻は平岡次郎右衛門和由の女

寛永20年12月7日 父定勝の遺跡を継ぐ。200俵。甲府町奉行

寛永20年12月7日 弐百俵弥兵衛跡渡辺兵五郎弥兵衛同心七人共兵五郎ニ御預ケ ●「日記」

寛文元年10月 徳川綱重に付属される。200石。甲府町奉行


致仕

元禄2年2月17日 死す
渡辺茂 天文20年 生。新蔵。久左衛門。山城守
わたなべしげ
久左衛門信の三男
寛政譜8・121 ~元亀元年 家康に仕える


秀忠に仕える

慶長10年4月24日 大番頭

慶長10年4月26日 従五位下・山城守

元和5年10月 駿府城を守衛

~寛永2年 二条城番。7000石

寛永13年 致仕

寛永13年3月28日 知行孫久左衛門ニ致与奪度之由日来依望申ニ―


―今日被下置旨被仰出則御礼申上 ●「日記」

寛永15年1月4日 死す
渡辺重綱 天正2年 生。半蔵。忠右衛門
わたなべしげつな
忠右衛門守綱の長男
士林泝洄1・70
母は平岩新左衛門親重の女
寛政譜8・106
妻は水野左近大夫清久の女


また杉浦右衛門盛嗣の女


家康に仕える

慶長15年 徳川義直に属す

元和6年 父守綱の遺領を継ぐ。1万石


同心騎士7800石を預かる

~寛永元年 三男忠綱に分知。1万4800石

寛永12年 六男綱貞に分知。1万3800石

(寛永12年9月28日) (忠右衛門の初出) ●「日記」

寛永12年10月6日 渡辺忠右衛門并息内匠太刀目録以御礼是忠右衛門知行―


―千石内匠ニ相譲度之旨日来御訴訟申上之処則被仰付依て也 ●「日記」

寛永20年 致仕。2000石

慶安元年10月1日
渡辺四郎三郎

わたなべしろうざぶろう
尾張家臣



渡辺澄
生。武兵衛。源兵衛
わたなべすむ
半兵衛勝綱の三男
寛政譜8・143 寛永15年11月21日 渡辺半兵衛二番目子可被召出 ●「日記」


以下不詳
渡辺清兵衛

わたなべせいびょうえ


寛永15年10月17日 御国御免 ●「日記」



渡辺隆 元和7年 生。源蔵
わたなべたかし
半兵衛勝綱の次男
寛政譜8・142
母は紀伊家臣進藤三郎左衛門の女


妻は佐野左京亮正直の女

寛永10年 はじめて家光に拝謁

寛永15年 書院番

寛永20年12月28日 父勝綱の遺跡を継ぐ。1000石

寛永20年12月28日 渡部半兵衛去頃死去ニ付て跡式源蔵え被下之 ●「日記」

寛文8年3月11日 書院番を辞す。小普請

延宝6年3月23日 書院番

貞享4年8月5日 死す
渡辺忠
生。新蔵。監物
わたなべただ
山城守茂の養子。戸田与五右衛門忠勝の次男
寛政譜8・122
妻は養父茂の養女大沢兵部大輔基宿の女

~慶長5年 300石

元和元年 500石

元和5年10月 駿府定番。1500石

寛永2年11月 駿河大納言徳川忠長に付属される。大番頭。6000石

寛永9年 大関土佐守高増に召し預けられる。下野国那須に蟄居


以下不詳
渡辺忠綱
生。八郎右衛門
わたなべただつな
半兵衛勝綱の長男
寛政譜8・145
妻は遠山平大夫安重の女

元和7年 はじめて秀忠に拝謁

寛永4年 秀忠に仕える

寛永5年 大番。200俵

寛永10年2月7日 400石

寛永20年8月8日 新番

寛永20年8月8日 於土圭之間御番相詰其上方々御成之刻御先え参御殿御番等可相勤之旨―


―被仰付之由伊豆豊後列座有之民部少輔伝之遠山十右衛門組 ●「日記」

正保4年9月26日 徒頭

正保4年12月30日 布衣

慶安4年11月21日 400石300俵

承応元年9月26日 死す
渡辺近綱
生。仁左衛門。源左衛門
わたなべちかつな
源左衛門友綱の男
寛政譜8・118 寛永18年12月4日 父友綱の遺跡を継ぐ

寛永18年12月4日 御切米四拾石ニ五人扶持渡部源右衛門跡右御切米ハ惣領仁左衛門ニ―


―被下之御扶持方は国母様へ被為付候時被下之ニ付上ル ●「日記」


紅葉山宮火番

(延宝8年) 死す
渡辺忠右衛門

わたなべちゅうえもん
家光に仕える
寛政譜22・362 寛永19年 死す



渡辺綱貞 慶長17年 生。内匠。半右衛門。大隅守
わたなべつなさだ
忠右衛門重綱の六男
寛政譜8・110
母は杉浦右衛門七盛嗣の女


妻は丹羽式部少輔氏信の女


後妻は三枝彦兵衛守吉の女

寛永4年 家光に仕える。小姓組


500石

寛永10年2月7日 700石

寛永12年 父重綱より分知。1000石

寛永12年10月6日 渡辺忠右衛門并息内匠太刀目録以御礼是忠右衛門知行―


―千石内匠ニ相譲度之旨日来御訴訟申上之処則被仰付依て也 ●「日記」

正保4年1月12日 小姓組組頭

正保4年12月30日 布衣

明暦元年9月10日 新番頭

寛文元年4月12日 町奉行

寛文元年12月12日 1000石1000俵

寛文元年12月28日 従五位下・大隅守

延宝元年1月23日 大目付

天和元年6月27日 松平越後守光長家老の件で八丈嶋に流罪


以下不詳
渡辺綱治 慶長2年 生。平六。六左衛門。豊前守。浄印
わたなべつなはる
六郎左衛門生綱の長男
寛政譜8・116
妻は筧助兵衛為春の女

慶長15年 秀忠に仕える

~慶長19年 大番

元和元年12月27日 550石

寛永10年2月7日 750石

寛永15年10月17日 御国御免 ●「日記」


大番組頭

正保2年6月28日 先鉄炮頭

正保2年12月30日 布衣

慶安4年11月21日 750石300俵

寛文元年閏8月11日 徳川綱重に付属される。甲斐国府中城代。3000石

寛文3年12月28日 従五位下・豊前守


甲斐国府中城代を辞す


致仕。浄印と号す

寛文9年12月9日 死す
渡辺恒
生。市三郎。兵九郎。吉左衛門
わたなべつね
吉左衛門仲の長男
寛政譜20・49
母は曽我又左衛門尚祐の女

寛永20年3月3日 はじめて家光に拝謁

寛永20年3月3日 樽代を以御目見渡部吉兵衛惣領市三郎 ●「日記」


―上記渡辺市十郎正友か不明

承応元年12月27日 父仲の遺跡を継ぐ。900石

~寛文3年 小姓組

寛文8年9月5日 使番

寛文8年12月28日 布衣

延宝元年9月18日 先弓頭

延宝6年8月16日 先弓頭を辞す。寄合

天和2年2月30日 300俵。小普請。出仕をとどめられる


ゆるされる

元禄2年5月9日 死す
渡辺年綱 慶長11年 生。伝十郎。七郎兵衛
わたなべとしつな
半兵衛則綱の養子。本多中務大輔家臣石川半左衛門忠義の男
寛政譜8・144
母は渡辺半兵衛真綱の長女

(慶長15年) 養父則綱死去ののち叔父渡辺半兵衛勝綱に養育される

寛永16年11月10日 右筆。はじめて家光に拝謁

寛永16年11月10日 御右筆ニ依被召出以樽代御礼 ●「日記」

寛永17年12月13日 200俵

寛文5年~ 右筆を辞す。小普請

元禄2年10月8日 死す
渡辺富次 慶長5年 生。孫三郎。道円
わたなべとみつぐ
叔父孫三郎勝の養子。太郎右衛門秀の男
寛政譜8・135
母は織田家臣鈴木喜助の女


妻は孫三郎勝の女

(元和5年) 養父勝の遺跡を継ぐ。690石

元和6年 大番

寛永10年2月7日 1060石

(寛永13年3月25日) (皆川山城守組) ●「日記」

寛永20年12月4日 大番組頭 ●「日記」共

(正保元年6月4日) (皆川山城守組之組頭) ●「日記」

寛文2年9月15日 使番

寛文2年12月28日 布衣

寛文12年3月8日 使番を辞す。寄合

延宝3年5月16日 致仕。300俵。道円と号す

延宝5年10月16日 死す
渡辺友綱
生。源左衛門
わたなべともつな
加平雅綱の男
寛政譜8・118 (慶長5年) 父雅綱の遺跡を継ぐか


鳥見役


東福門院に付属される

(寛永18年) 死す

(寛永18年12月4日) (御切米四拾石ニ五人扶持) ●「日記」
渡辺直綱 慶長6年 生。半十郎。一学。若狭守
わたなべなおつな
新左衛門秀綱の長男
士林泝洄1・67
母は渡辺忠右衛門守綱の女


徳川義直に仕える

(寛永11年4月28日) (紀伊亜相公家老) ●「日記」

正保2年12月29日 従五位下・若狭守

寛文8年8月27日
渡辺仲
生。吉太郎。吉左衛門
わたなべなか
吉左衛門重の長男
寛政譜20・49
妻は曽我又左衛門尚祐の女

寛永7年12月 父重の遺跡を継ぐ。500石

寛永8年 書院番

寛永9年11月5日 書院番・進物役

寛永9年11月5日 本番御免。進物番 ●「日記」

寛永10年2月2日 大番組頭 ●「日記」共

寛永10年2月23日 900石

(寛永20年3月3日) (樽代を以御目見渡部吉兵衛惣領市三郎) ●「日記」


―上記渡辺吉兵衛定か不明

承応元年1月27日 死す
渡辺治綱 慶長12年 生。半蔵。右馬允。飛騨守
わたなべはるつな
忠右衛門重綱の四男
士林泝洄1・72
母は杉浦右衛門七盛嗣の女
寛政譜8・107
徳川義直に仕える

寛永18年 老中

寛永20年 父重綱の遺跡を継ぐ。1万3800石

正保2年12月 従五位下・飛騨守

承応2年 1万6800石

明暦3年10月20日
渡辺久次 慶長16年 生。千菊。孫助
わたなべひさつぐ
孫左衛門久勝の男
寛政譜8・133
母は分部左京亮光嘉の女


妻は向井兵庫頭正綱の女

元和6年 はじめて秀忠に拝謁

元和6年閏12月30日 父久勝の遺跡を継ぐ。1000石

寛永4年 書院番

寛永10年2月7日 1200石

正保2年6月28日 小十人頭

正保2年12月30日 布衣

慶安4年4月 日光山へ家光の霊柩に従う

明暦3年10月23日 駿府町奉行。1200石300俵

寛文6年9月25日 死す
渡辺弘綱 寛永4年 生。三之丞。甚右衛門
わたなべひろつな
孫三郎富次の次男
寛政譜8・136
母は渡辺孫三郎勝の女

正保元年6月4日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

正保元年6月16日 小姓組 ●「日記」共

延宝3年5月16日 父富次の家を継ぐ。1060石

延宝5年6月20日 死す
渡辺正(筑後)
生。与吉。主膳。与右衛門。筑後守。築巌
わたなべまさ
筑後守勝の養子。藤懸土佐守永元の長男
寛政譜8・137
母は筑後守勝の女


妻は中川伊勢守忠勝の女

元和5年 はじめて秀忠に拝謁

寛永3年 養父勝の遺跡を継ぐ。3000石


西丸書院番

~寛永16年 小姓組

承応2年3月29日 従五位下・筑後守

明暦2年7月28日 使役


蟄居

万治元年4月17日 ゆるされる

延宝3年2月3日 使役を辞す

延宝4年12月6日 致仕。300俵。築巌と号す

天和3年12月21日 死す
渡辺正(弥之助)
生。権六郎。弥之助
わたなべまさ
弥之助勝の長男
寛政譜8・121 寛永18年4月19日 渡部弥之助歩行同心屋敷之前ニ竹材木等立置商買仕体昨日―


―酒井讃岐守下屋敷之辺御成之節上覧様子被遂御穿鑿之処―


―弥之助歩行同心也不寄何事商買仕之儀前廉御法度被仰出之処―


―如此之体曲事被思召之間雖可被行死罪為歩行之者之儀之間御追払也―


―渡部弥之助歩行同心右之通被仰付之旨弥之助義所労本復之節―


―罷出之儀ハ志摩守民部少え断之可任其意并子権六郎義御目見仕事―


―先可為無用之由昨日志摩守民部少被申渡之 ●「日記」

寛永20年6月16日 小姓組

承応元年12月27日 父勝の遺跡を継ぐ。2500石

寛文元年3月7日 先鉄炮頭

寛文元年12月28日 布衣

寛文6年 死す
渡辺正重
生。仁右衛門
わたなべまさしげ
仁左衛門正元の男
寛政譜20・54 寛永18年12月4日 父正元の遺跡を継ぐ

寛永18年12月4日 七拾俵ニ五人扶持火之番渡部仁右衛門跡右惣領ニ被下之 ●「日記」


二丸火番


二丸門番

元禄6年12月6日 致仕

某年 死す
渡辺正友
生。(市三郎)。市十郎。七郎右衛門
わたなべまさとも
吉兵衛定の男
寛政譜8・126 寛永20年3月3日 樽代を以御目見渡部吉兵衛惣領市三郎 ●「日記」


―上記渡辺市三郎恒か不明

慶安2年12月14日 父定の遺跡を継ぐ。200石


大番

承応3年2月20日 死す
渡辺正元
生。仁左衛門
わたなべまさもと 寛永元年
寛政譜20・54
火番

(寛永18年) 死す

(寛永18年12月4日) (七拾俵ニ五人扶持火之番渡部仁右衛門跡右惣領ニ被下之) ●「日記」
渡部又右衛門

わたなべまたえもん


(寛永17年5月14日) (紀伊亜相家老) ●「日記」



渡辺宗(掃部)
生。内膳。掃部。藤堂を称す
わたなべむね
兄金六宗吉の嗣
宗国史下・487 天正16年 藤堂高虎に仕える

慶長2年 兄宗吉の遺跡を継ぐ。500石

慶長5年 2000石。銃将。掃部と改称

慶長19年 大坂役にて騎将を兼ねる

(寛永12年6月1日) (藤堂大学頭家老) ●「日記」

寛永16年~ 藤堂の称号を賜る


定閑と号す

正保3年春 死す
渡辺宗(内膳)
生。内膳。真休。藤堂を称す
わたなべむね
掃部宗の男
宗国史下・487
藤堂家臣

(正保3年) 父宗の遺跡を継ぐ。2000石

寛文6年 致仕。真休と号す


以下不詳
渡辺宗綱 天正7年 生。半四郎。図書助
わたなべむねつな
忠右衛門守綱の次男
寛政譜8・112
母は平岩新左衛門親重の女


妻は小栗忠左衛門久次の女

天正19年 家康に仕える

文禄元年 秀忠に仕える

慶長18年 使番

元和3年 目付


3700石

寛永3年 従五位下・図書助

寛永9年6月25日 弓頭 (先弓頭か)

寛永11年 百人組頭

(寛永12年12月26日) (大道寺内蔵助御弓被為預―


―所謂渡辺図書助元与力歩行同心被仰付之) ●「日記」

(正保元年5月23日) (坂部三十郎被召出山岡主計頭元与力十騎歩行同心百人被為預之於大手―


―御門番所渡辺図書森川金右衛門久世三四郎並ニ可致勤仕) ●「日記」

承応3年12月19日 百人組頭を辞す

万治元年6月14日 致仕

寛文5年4月16日 死す
渡辺盛
生。源丞。宇右衛門。囚獄
わたなべもり
囚獄長の長男
寛政譜8・128 寛永12年1月21日 はじめて家光に拝謁

慶安2年12月14日 父長の遺跡を継ぐ。甲斐国本栖630石。本栖の関を守る

延宝5年10月10日 致仕

延宝6年8月29日 死す
渡辺盛綱
生。平六。平助。六左衛門
わたなべもりつな
豊前守綱治の次男
寛政譜8・116
母は筧助兵衛為春の女

寛永20年3月3日 樽代を以御目見渡辺六左衛門二番子平助 ●「日記」

寛永20年3月9日 はじめて家光に拝謁

正保元年6月16日 書院番 ●「日記」共

寛文元年閏8月11日 父綱治の本知を賜る。750石300俵

寛文4年12月23日 先鉄炮頭

寛文4年12月28日 布衣

某年 死す
渡辺吉
生。弥七郎
わたなべよし
弥之助勝の次男
寛政譜8・121 寛永13年3月15日 はじめて家光に拝謁

寛永13年3月15日 渡辺弥之助樽代を以御礼 ●「日記」渡辺弥之助子の誤りか

寛永18年4月16日 書院番 ●「日記」共


以下不詳
渡辺善 慶長9年 生。久左衛門
わたなべよし
祖父山城守茂の養子。渡辺監物忠の長男
寛政譜8・122
母は茂の養女大沢兵部大輔基宿の女


妻は興津彦八郎直重の女


はじめて秀忠に拝謁


500石

~寛永3年 小姓組

~寛永11年 祖父茂の養子となる

寛永13年 養父茂の家を継ぐ。7000石。寄合

寛永13年3月28日 渡辺山城守知行孫久左衛門ニ致与奪度之由日来依望申ニ―


―今日被下置旨被仰出則御礼申上 ●「日記」

慶安3年6月23日 死す
渡部吉綱 慶長16年 生。大学。半丞。丹後守
わたなべよしつな
忠右衛門重綱の五男
寛政譜8・108
母は杉浦右衛門七盛嗣の女


室は高木主水正正成の女

元和9年 秀忠に仕える

寛永元年 3000石

寛永2年12月11日 3520石

寛永9年6月4日 中奥に伺候 ●「日記」共

(寛永11年7月21日) (半之丞の初出) ●「日記」

寛永13年10月8日 書院番 ●「日記」共

寛永19年10月26日 書院番組頭

寛永19年10月26日 御書院番稲垣若狭守組頭 ●「日記」

寛永19年12月30日 布衣 ●「日記」共

慶安3年9月3日 家綱に付属される。西丸小姓組番頭

慶安4年 本丸に勤仕

慶安4年8月16日 従五位下・丹後守

承応3年7月3日 書院番頭

万治2年8月21日 留守居

寛文元年7月21日 御側

寛文元年11月8日 大坂定番。1万3500石


武蔵国野本1万3500石

寛文8年6月19日
和田三信 元和7年 生。平作。外記。飛騨。摂津。式部。八郎
わだみつのぶ
飛騨三政の養子。荒尾志摩嵩就の次男
因府年表1・41 寛永19年 飛騨三政死去によりその養子となり跡を継ぐ。飛騨を称す
因府年表6・6 元禄7年9月27日 死す



和田三政 元和元年 生。飛騨
わだみつまさ
壱岐守正信の養子。荒尾内匠成房の三男
因府年表1・41
松平相模守池田光仲に仕える

元和2年 養父正信の遺跡を継ぐ

寛永19年3月24日 死す
和田三政娘





(寛永16年3月15日) (松平相模守家中之証人和田飛騨守娘) ●「日記」



亘理右近

わたりうこん
松平陸奥守伊達忠宗に仕える

(寛永13年12月1日) (松平越前守家老)(渡右近) ●「日記」



亘理伯耆

わたりほうき
松平陸奥守伊達忠宗に仕える

(寛永18年11月19日) (仙台少将使者亘伯耆) ●「日記」



藁科為虎 元和8年 生。角之助。孫九郎。了源
わらしなためとら
孫九郎の男
寛政譜15・251
妻は遠山六左衛門直定の女


(父孫九郎の遺跡を継ぐ。300石)

寛永9年8月19日 はじめて家光に拝謁 ●「日記」共

寛永16年 大番


大番を辞す。小普請

天和3年12月21日 致仕。了源と号す

元禄13年6月1日 死す

Sheet 10: 凡例・参考資料

・記号「~」は期間ではなく、その期間内のある時点という意味。




例えば「~寛永3年、小姓組」は、寛永3年まで小姓組番士だったという意味でなく、寛永3年までの間に小姓組に配属されたという意味。




これは「のち御小姓組の番士となり、寛永3年上洛に供奉」等と寛政譜に記されている場合、上洛供奉を略歴から除外したためである。










・基本的には、石高等は加増値ではなく合計値を表示している










・参考文献を示していないものは、未確認情報である。




・参考文献名のあとの数字はページ数。中黒記号「・」で句切ったものは巻数・ページ数。版によって相違があるかもしれない。




・参考文献の多くは国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧できる。










・●「日記」→寛政譜に記載なく日記にのみ記事があるもの




・●「日記」共→寛政譜と日記の両方に記載があるもの
















会津資料叢書 会津資料叢書 菊池研介編 会津資料保存会 1917―20年


福島県会津に関する資料集。


青森県史 青森県史 青森県編 青森県 1926年


青森県域の編年史。


秋田叢書 秋田叢書 秋田叢書刊行会編 秋田叢書刊行会 1928―33年


秋田県内に散在する史書、古文献を集めたもの。


足利学校 足利学校 史跡足利学校事務所編 足利市立教育委員会 2004年


「日本最古の学校 学びの心とその流れ」という副題が付く足利市立美術館開館10周年記念展の図録。足利学校の歴史や所蔵品に関する解説や年表、論考等も収録する。 足利市立美術館編 足利市みどりと文化・スポーツ財団
蘆名家由緒考証 蘆名家由緒考証




蘆名氏の系譜。序文によると、会津若松の蘆名極楽寺に伝来した「蘆名家由緒」という史料に関場忠武氏が大正2年(1913)に考証を加えたもので、大正7年(1918)『会津資料叢書』第6巻に収録された。「蘆名家由緒」は寛永5年(1628)に蘆名家臣もしくはその旧臣が著したようだが、第20代盛重が会津を失った後の記事は、「小野崎通定ガ撰ム所ト蓮沼景彜ガ家伝書トヲ并セ考テ盛秀記ス」とあるように、盛秀という人物が記したようで、寛文12年(1672)までの記述がある。


飯沼弘経寺志 檀林飯沼弘経寺志




飯沼弘経寺の寺誌。『浄土宗全書』21巻の解題によると、これは「浄土宗関東十八檀林志」の一部で、摂門察龍によって編纂され文政4年(1821)に刊行されたという。


池田光政公伝 池田光政公伝 石坂善次郎編 石坂善次郎 1932年


池田光政の伝記。家老の略伝や侍帳も載せる。凡例によると、使用史料は数多あるが、池田家所蔵文書が主なもので、また序文によれば、旧藩領内の神社仏閣、士族・庶民の名門旧家等所蔵の史料も含まれるようだ。これらについては、下巻末において「関係図書目録」として列挙されている。本書は、序文によると、池田光政没後250年の事業として池田侯爵家により編集されたもので、主な執筆者は研究者の永山卯三郎氏で、石坂氏は奥書に池田家の家令とあるので、発行元は侯爵池田家ということになるのだろう。


伊勢国司記略 伊勢国司記略 齋藤拙堂 拙堂会 1933年


伊勢国司北畠家とその家臣の歴史。著者は伊勢国津藩の藩校有造館の上席講官だった齋藤拙堂で、天保12年(1841)の成立。本刊本の凡例によると、原書は刊行されずに稿本のまま散逸し、拙堂の孫が出版を企画し作成した写本は有造館所蔵本と山名氏所蔵本を写しとったもので、有造館本はその後散逸したという。山名本というのは、国学者御巫清直が嘉永元年(1848)に原書を借りて写したものの写本であり、その御巫本が本刊本の底本として使用されたという。


岩付浄国寺志 檀林岩付浄国寺志




岩槻浄国寺の寺誌。『浄土宗全書』21巻の解題によると、これは「浄土宗関東十八檀林志」の一部で、摂門察龍によって編纂された。他の檀林志と同じくおそらく文政4年(1821)の成立と思われる。


因府年表 因府年表 佐伯元吉編 因伯叢書発行所 1915―18年


因幡国鳥取藩の編年史。記載範囲は寛永7年(1630)から延享4年(1747)までで、続編等を含めると天保12年(1841)まで。因伯叢書版の巻1に付された「著者小伝」によると、編者は岡嶋正義という人物で、天明4年(1784)に生まれ、文政7年(1824)から鳥取藩の大目付を務め、41歳で隠居したのち史学に打ち込み安政5年(1858)に没したという。編者による序文によれば、基本史料は岡嶋家に伝来した天和3年(1683)から享保17年(1732)までの旧録であり、岡嶋家の日誌なのか藩主池田家の記録の写本なのか判然としないが、「この記は官仕中に筆載せる故、頗る官庫の記に相似たり」というもの。その他に藩主や藩士の系図、「因幡民談記」、「因幡年代記」、諸家の記録や文書類を使用したらしい。大正4年(1915)から刊行された因伯叢書版は、その扉に「研志塾蔵版」と記載され、幕末に鳥取で開かれたという私塾の研志塾に所蔵されていたものを翻刻したものということだろうか。


羽陰史略 羽陰史略 中村光得編



秋田藩主佐竹家の歴史を編年体で記したもの。記載年代の範囲は慶長7年(1602)の佐竹義宣秋田入部から義隆を経て元禄16年(1703)の義処死去まで。『秋田叢書』の解題によると、本書は秋田藩の史官であった中村与助光得によって編纂されたと伝わり、元禄9年(1696)から始められた秋田藩による古文書調査・蒐集で集められた史料をもとに編纂されたらしい。その後、その写本が世に広まり異本も多く現れたようだが、『秋田叢書』に収録されたものは、昭和3年(1928)に深澤多市氏によって6種の異本を対比して校訂されたものだという。


宇治山田市史 宇治山田市史 宇治山田市役所編 宇治山田市役所 1929年


宇治山田市(現三重県伊勢市)の歴史書


瓜連常福寺志 檀林瓜連常福寺志




瓜連常福寺の寺誌。『浄土宗全書』21巻の解題によると、これは「浄土宗関東十八檀林志」の一部で、摂門察龍によって編纂された。他の檀林志と同じくおそらく文政4年(1821)の成立と思われる。


越前人物志 越前人物志 福田源三郎編 玉雪堂 1910年


越前国に関係のある人物の伝記を集めたもの。凡例によると、典拠史料として写本、刊本、断片問わず、関係のあるものはことごとく採集し、その中で記述の正確なものを選んで伝記の材料としたというが、その史料名は挙げられていない。ただ、同じく凡例によれば、遺族や故老への聞き取りや文書の閲覧、墓誌や墓碑銘の実地での謄写が行なわれたようであり、また旧領主所蔵文書の閲覧等があったことも窺われる。


越藩史略 越藩史略 日置謙・青山正編 中村興文堂・品川書店 1901年


越前国福井藩主歴代の系譜と伝記。原本の編著者は福井藩士の井上素良(梯翼章)で、天明元年(1781)の成立。自序によると、藩祖秀康から第12代重富までの13巻本として成立したようだが、本刊本は第8巻の第7代吉品までの刊行だったようだ。ただ巻頭の系譜には重富までを載せる。凡例によると、本刊本は越藩文庫(現在の福井県文書館松平文庫か)に所蔵されていた漢文の図書寮本と仮名交じり文の明道館本との2書を底本にして仮名交じり文に訳したものとのこと。


江戸崎大念寺志 檀林江戸崎大念寺志




江戸崎大念寺の寺誌。『浄土宗全書』21巻の解題によると、これは「浄土宗関東十八檀林志」の一部で、摂門察龍によって編纂された。他の檀林志と同じくおそらく文政4年(1821)の成立と思われる。


近江国坂田郡志 改訂近江国坂田郡志 滋賀県坂田郡教育会編 西濃印刷出版部 1941―42年


近江国坂田郡の歴史をまとめたもの。その序文によると、古代から編纂当時までの通史と社寺史、古文書編からなるという。大正2年(1913)刊行のものの改訂版。


大垣市史 大垣市史 大垣市 大垣市役所 1930年


岐阜県大垣市域の歴史。記載範囲は古代より昭和初期まで。序文によると、使用史料は市内にて蒐集された史料や旧藩主戸田家所蔵史料等。


大阪市史 大阪市史 大阪市役所編 大阪市役所 1927年


大阪市域の歴史。本文、史料集、索引で構成される。初版は明治42年(1909)。


沖縄一千年史 沖縄一千年史 眞境名安興著 栄光出版社 1974年


沖縄の歴史研究書。古代先史時代から明治初年までを記す。巻末付録の「歴代摂政一覧」等は本文中(449頁)にある「中山王府相卿伝職年譜」の内容を表の形にしたものだと思われる。この年譜史料は、琉球大学学術リポジトリの解説によると、康熙54年(1715)に編纂された後に書き継がれていったもので、琉球王国の重臣である摂政、三司官を歴代順に記したものである。 琉球新報社編

奥村家譜 奥村家譜




加賀藩家老奥村家の由緒書。『加賀藩史料』に引用されている。


お多賀さま お多賀さまへは月まいり 彦根城博物館編 彦根市教育委員会 1994年


彦根城博物館にて平成6年(1994)10月22日から11月23日まで開催されたという企画展の展示図録。その中の多賀大社藤村滋氏による「多賀信仰」という記事で多賀大社の発祥、発展が述べられ、不動院慈性についても紹介されている。


生実大巌寺志 檀林生実大巌寺志




生実大巌寺の寺誌。『浄土宗全書』21巻の解題によると、これは「浄土宗関東十八檀林志」の一部で、摂門察龍によって編纂された。他の檀林志と同じくおそらく文政4年(1821)の成立と思われる。


加賀藩史稿 加賀藩史稿 永山近彰編
1899年


加賀藩祖前田利家とその兄弟、家臣の事績を編年体で記したもの。『加賀藩史料』の序文によれば、本書は『加賀藩史料』の前身といえるものであり、明治32年(1899)に編輯方の永山近彰等によって編纂された。使用している史料は、その時までに収集され尊経閣文庫に収められたものであるようだ。


加賀藩史料 加賀藩史料 日置謙編 侯爵前田家編輯部 1929―43年


加賀藩と前田家の歴史を編年体で記したもので、本文の後にその典拠史料を引用するかたちをとる。本書の序文によれば、その典拠史料となったものは、明治2年(1869)12月、加賀藩旧藩主前田慶寧が邸内に家録方を設置し、前田家代々とその家臣等の事績を調べるために旧藩士や旧領内の寺社、町方等から募り提供されたものや、家録方改め編輯方が調査収集したものであるようで、それらは前田家の尊経閣文庫に収められたという。


香川叢書 香川叢書 香川県 香川県 1939―43年


香川県(讃岐国)の史料を集めたもの。第1巻の序文によると、紀元二千六百年(昭和15、1940)記念事業として香川県史が編纂されることになり、昭和12年(1937)12月に委員会が組織された。そこで蒐集された史料の一部を刊行したものが本書であるという。


鹿児島県史 鹿児島県史 鹿児島県 鹿児島県 1939―44年


鹿児島県域の古代から本書編纂当時頃までの歴史をまとめたもの。本編4冊と諸表・諸系図を収録した別巻1冊、年表1冊の計6冊で構成される。諸系図の典拠は明示されていないが、第1巻の凡例によれば、諸家所蔵文書ということになるだろう。


華族系譜 華族系譜




旧華族の系譜。徳川家門とされる越前松平家等の系譜を含む。『徳川諸家系譜』に収録されたものは宮内庁書陵部所蔵本を底本にしているという。それはおそらく明治のころに華族各家から提出されたという華族呈譜のことかと思われる。


華頂誌要 華頂誌要




華頂山知恩院の歴史をまとめる。『浄土宗全書』21巻の解題によると、これは明治44年(1911)に知恩院によって編纂、出版されたものだというが、『浄土宗全書』に収録されたものは、それを原書編者の浅井法順氏が大正2年(1913)補訂したものらしい。


刈田郡誌 刈田郡誌 宮城県刈田郡教育会編 宮城県刈田郡教育会 1928年


宮城県刈田郡の歴史をまとめたもの。白石城主片倉氏について記載がある。序文によると、当時の片倉男爵家より提供ないし援助された資料や編纂者が蒐集した資料等を典拠としているようだ。


仮名別諸士系譜 仮名別処士系譜




紀伊和歌山藩士の系譜。明治10年(1877)頃に諸家から提出された系譜を集めたものだと思われる。国立公文書館デジタルアーカイブで公開されているのは、和歌山県史料第52巻から第59巻としての8巻本。


鎌倉光明寺志 檀林鎌倉光明寺志




鎌倉光明寺の寺誌。『浄土宗全書』21巻の解題によると、これは「浄土宗関東十八檀林志」の一部で、摂門察龍によって編纂された。他の檀林志と同じくおそらく文政4年(1821)の成立と思われる。


仮面譜 仮面譜




能面打ち各家の系譜。異本が多々あるようだが、『能楽盛衰記』に収録されたものは、喜多宗家所蔵本の写本で、年代の記述から察するに寛政末年(1800年頃)に作成されたもので、そのころまでの記述がある。作成者は当時の喜多家当主か。本史料の序文によると、これは宝永元年(1704)に没した能面打ちの児玉近江満昌から伝えられた本を基礎として、諸家の伝本と校合したらしい。『能楽盛衰記』には「面目利書」の末尾にこの「仮面譜」が付されており、能面の目利書の一部として伝来したようだ。喜多宗家本は大正12年(1923)の関東大震災で焼失したようで、『能楽盛衰記』にはその写本が収録されているという。


川越蓮馨寺志 檀林川越蓮馨寺志




川越蓮馨寺の寺誌。『浄土宗全書』21巻の解題によると、これは「浄土宗関東十八檀林志」の一部で、摂門察龍によって編纂された。他の檀林志と同じくおそらく文政4年(1821)の成立と思われる。


寛永寺冊子 寛永寺 寛永寺教化部編 東叡山寛永寺 1993年


寛永寺を紹介する冊子。寺宝や境内の写真と「寛永寺の成り立ちと歩み」、「慈眼大師天海大僧正」、「寛永寺の諸堂とその変遷」、「天台宗の歴史と思想」と題された文章を載せる。天海の350回忌にあたって発行された。


寛永寺の成り立ちと歩み 寛永寺の成り立ちと歩み




寛永寺の歴史や組織、寺域や寺領について概略を記したもの。冊子『寛永寺』所載。


寛政譜 新訂寛政重修諸家譜
続群書類従完成会 1964―67年


江戸幕府直臣の系譜。「寛政重修諸家譜」は寛政11年(1799)から文化9年(1812)にかけて幕府により編纂された大名・旗本等の系譜である。各家に伝わる家譜を提出させて寛永18年(1641)から20年にかけて幕府によって編纂された「寛永諸家系図伝」を基に、それ以降に提出させた資料や新たに各家に提出させた家譜等を用いて追加・改訂を行なっている。新訂刊本は静嘉堂文庫蔵の新写本を底本として大正6年(1917)から9年にかけて刊行された旧刊本をもとに、内閣文庫蔵の幕府への進呈本により校訂されたものだという。


上林味卜家文書 収蔵資料調査報告書21上林味卜家文書 宇治市歴史資料館編 宇治市歴史資料館 2019年


宇治茶師上林味卜家に伝来した文書の目録とその内容の一部紹介と解説。


紀伊徳川家譜 紀伊徳川家譜




紀伊徳川家の系譜と思われるが、『徳川諸家系譜』では底本とされた徳川林政史研究所蔵の「紀州水戸御系譜写」に欠く徳川頼宣の記事を補う参考資料という扱いのためか、詳細は不明。


紀州水戸御系譜写 紀州水戸御系譜写




紀伊徳川家と水戸徳川家の系譜。寛政4年(1792)に幕府へ提出されたものの写であるようだ。それがおそらく徳川林政史研究所の所蔵となり、『徳川諸家系譜』のものはそれを底本としている。


吉川広家講演集 吉川廣家公三百年祭記念講演集 井原豊編 子爵吉川家編輯所 1926年


巻末に周防国岩国藩主吉川家の略系図を載せる。その序文によると、本書は大正14年(1925)10月24日に山口県玖珂郡教育会の主催で岩国尋常高等小学校講堂にて開催された「吉川広家公三百年祭記念講演会」での瀬川秀雄、黒板勝美両氏の講演を文字に起こしたもの。巻末掲載の略系図は、瀬川氏がこの講演の際に用意したものらしいが、典拠は明らかにされていない。吉川家の所蔵史料だろうか。


宮廷公家系図集覧 宮廷公家系図集覧 近藤敏喬編 東京堂出版 1994年


公家の系図。解題を見るに、これは「尊卑分脈」、「公卿補任」、「諸家伝」、「地下家伝」、「現代華族譜要」、「昭和新修華族家系大成」、「群書類従系譜部」、「続群書類従系図部」、「系図纂要」を主に使用して作成されたという。


近古禅林叢談 近古禅林叢談 森大狂 蔵経書院 1919年


禅僧の言行録。収録範囲は元和(1615~)から大正8年(1919)までに没した臨済・曹洞・黄檗僧。一部、禅に親しんだ公家や武士等も載せる。それぞれに略歴も付されている。引用書目、参考文献については巻頭に列挙されているのみ。


錦里文集 錦里文集




木下順庵貞幹の著作。詩文集。「寛政譜」によると、木下順庵は元和7年(1621)の生まれで、松平加賀守前田綱紀に儒者として仕え、天和2年(1682)から徳川綱吉に仕え、「武徳大成記」の編纂に連なったり「錦里文集」10巻を著したりして、元禄11年(1698)に死去したという。『加賀藩史料』に引用された部分は「朝散太夫内史今枝君墓碑銘」と題されたもので、著者が今枝家の墓碑銘を写しとったものだと思われる。


久保田町史 久保田町史 久保田町史編さん委員会編 久保田町 2002年


佐賀県佐賀郡久保田町の歴史をまとめたもの。本書上巻に収録されている村田家系図は、「佐賀藩御親類系図」をもとに佐賀県立図書館が編集したもので、『佐賀県近世史料』第1編第9巻所載のものだという。この村田家系図は初代安良の天正年間から嘉永3年(1850)まで記載がある。


熊野若王子神社概誌 熊野若王子神社概誌 伊藤快彦編 村社熊野若王子神社社務所 1923年


京都熊野若王子神社の歴史。編者は熊野若王子神社社掌。別当歴代や社人歴代を載せる。


黒谷誌要 黒谷誌要




黒谷金戒光明寺の寺誌。『浄土宗全書』21巻の解題によると、これは金戒光明寺が発行したもので、知恩院の「華頂誌要」と同じく浅井法順氏が編纂したもの。記載内容からすると、大正前期の成立か。


群書系図部集 群書系図部集 塙保己一編 続群書類従完成会 1973年


『群書類従』の系譜部と『続群書類従』の系図部がまとめて刊行されたもの。『群書類従』は安永8年(1779)から刊行が開始され、文政2年(1819)に完了。『続群書類従』は文政5年に完了した。


系図綜覧 系図綜覧 国書刊行会 名著刊行会 1964年


「諸家系図纂」と東京帝国大学史料編纂掛が収集した系図等によって編纂された系図集。原書は国書刊行会によって大正14年(1925)に刊行された。名著刊行会版の序文によると、その中の「帝系図」、「執次詰所御系譜」、「武蔵七党系図」が史料編纂掛収集本、「皇室系譜」が国書刊行会の編集によるもの、その他が「諸家系図纂」からの収録だという。「諸家系図纂」は水戸藩の徳川光圀が家臣丸山可澄に収集編纂させたもので元禄5年(1692)5月に成立したものらしい。原書の序文にあたる「例言」は名著刊行会版には収録されず、代わりに「諸家系図纂」の凡例を載せた竹内理三氏による「系図綜覧の価値」が付されている。


小石川伝通院志 檀林小石川伝通院志




小石川伝通院の寺誌。『浄土宗全書』21巻の解題によると、これは「浄土宗関東十八檀林志」の一部で、摂門察龍によって編纂された。他の檀林志と同じくおそらく文政4年(1821)の成立と思われる。


工芸鏡 工芸鏡 横井時冬 六合舘書店 1894年


職人、人物に主眼を置いた日本工芸史の研究書。刀剣工、仏像彫刻工、仮面彫刻工、装剣具彫刻工、根付置物類彫刻工、家具彫刻工、人形彫刻工、甲冑工、鋳物工、七宝工、陶器工、漆器工蒔絵工、織物工染物工、その他の項目がある。主に系譜史料が典拠となっているようだ。


皇族明鑑 皇族明鑑 鈴木眞年編 博公書院 1890年


皇族の系譜集。明治18年(1885)刊行のものを増補したもの。


江の生涯 江の生涯 福田千鶴 中央公論新社 2010年


日本近世史の研究を専門とする福田氏による江(崇源院)の研究・評伝。崇源院の娘や孫娘たちについても記述がある。その典拠は明示されていないが、加賀前田家の史料かと思われる。


鴻巣勝願寺志 檀林鴻巣勝願寺志




鴻巣勝願寺の寺誌。『浄土宗全書』21巻の解題によると、これは「浄土宗関東十八檀林志」の一部で、摂門察龍によって編纂された。他の檀林志と同じくおそらく文政4年(1821)の成立と思われる。


高野山千百年史 高野山千百年史 関栄覚 金剛峯寺 1942年


高野山の歴史。大正4年(1915)に記念大法会事務局により編纂、刊行されたものに、その後本書刊行までの30年分の記事を追加したもの。


幸若八郎九郎家系図 幸若八郎九郎家系図




幸若諸家の系譜。『幸若舞曲集序説』において「その二」とされているもの。これは元禄9年(1696)に幸若八郎九郎直良が作成したもので、八郎九郎家に関しては明治までの書き継ぎがある。巻頭には作成の経緯が記されており、それによると、延宝5年(1677)に幕府から系図由緒書の提出を命じられ、はじめて幸若家の系図が作成された。再度の命により、徳川家代々に仕えた記事などを追加したものが元禄作成のものであるという。『幸若舞曲集序説』に載せるのは、おそらくその子孫縁戚の桃井直英氏所蔵のもの。


幸若舞曲集序説 幸若舞曲集序説 笹野堅編 第一書房 1943年


幸若舞の研究書。史料も多く載せる。


幸若弥次郎家系譜 幸若弥次郎家系譜




幸若弥次郎家の由緒書。『幸若舞曲集序説』の解説によると、これは伯叟大宣が寛文12年(1672)に記したものらしい。幸若小八郎家の末裔桃井氏が原本らしきものを所蔵していたらしいが、この解説が書かれた時点では原本の所在は不明になっていたという。その写しが『古事類苑』に収録されたと考えられるのか、『幸若舞曲集序説』では『古事類苑』収録のものを使用しているという。


小金東漸寺志 檀林小金東漸寺志




小金東漸寺の寺誌。『浄土宗全書』21巻の解題によると、これは「浄土宗関東十八檀林志」の一部で、摂門察龍によって編纂された。他の檀林志と同じくおそらく文政4年(1821)の成立と思われる。


御系譜 御系譜




尾張徳川家の系譜。『徳川諸家系譜』のものは徳川林政史研究所蔵のものを底本としている。それは幕府の記録所にあったものを享和2年(1802)に尾張藩が写したものらしい。


五山伝 五山伝




五山と題するが、特に相国寺、東福寺の歴代住職を列挙する。寛文末年ごろ(1673)までの記述がある。原書が2種類あるようで、一つは「五岳前住籍」という建仁寺塔頭両足院の蔵書を梅軒という人物が木順という人物に従って延宝7年(1679)から翌年にかけて書写したもの。もう一つは「五山十刹住持籍」という相国寺寮舎林光禅院の蔵書を元禄15年(1702)に何者かが書写したもの。『史籍集覧』に収録されたものは、近藤圭造氏が明治35年(1902)にその両系統の写本を用いて校訂したものと思われる。


古代豪族系図集覧 古代豪族系図集覧 近藤敏喬編 東京堂出版 1993年


天皇家と宮家、古代豪族、主要社家の系図。解題によると、天皇家と宮家の系図は「本朝皇胤紹運録」を基本として『系図綜覧』所収の「帝系図」、「詰所系図」、『姓氏家系大辞典』の皇室系図、『雲上御系譜』、『昭和新修華族家系大成』等を使用して作成されたという。その他は、『百家系図』『百家系図稿』『諸家系図』『諸系譜』等を基礎として作成された『古代氏族系譜集成』や『正続群書類従』の系図類、『系図纂要』等によって作成された。


金地院公文帳 京都金地院公文帳 上田純一校訂 八木書店 2007年


「出世大望之衆目子留書」と金地院の由緒書「御由緒之儀申上覚」を収録する史料集。


金地院由緒書 御由緒之儀申上覚




京都金地院歴代の由緒書。『京都金地院公文帳』巻末の解説によると、これは幕府の命により明和4年(1767)に金地院から寺社奉行久世広明へ提出された書上の写しで、記載範囲は慶長15年(1610)から明和4年まで。金地院所蔵。


坐隠談叢 坐隠談叢 安藤豊次 関西囲碁会 1910年


囲碁史。史料を交えつつ碁打の伝記を載せる。序文によると、本書は明治37年(1904)に刊行されたものの第2版だという。


堺市史 堺市史 堺市役所編 堺市役所 1929―31年


大阪府堺市域の歴史とその史料集。序文によると、大正13年(1924)に市史編纂部が組織されたという。


三縁山志 三縁山志




三縁山増上寺の寺誌。『浄土宗全書』21巻の解題によると、これは摂門察龍により文政2年(1819)に編纂、刊行されたという。


三町人由緒書 三町人由緒書




大坂町人の由緒書。尼崎、寺嶋、山村の三家。それぞれ末尾に文化5年(1808)10月もしくは11月と記され、その頃に作成され大坂町奉行所に提出されたものと考えられる。大阪市史第5巻の本史料掲出箇所の末尾には「右自大阪府下東成郡天王寺村大字阿部野永田好三郎氏蔵本町奉行所舊記抄出」とある。


地下家伝 地下家伝 正宗敦夫編 自治日報社 1968年


公家の系譜。四位以下の家が対象。諸家伝の地下家版である。解題を見るに、「地下家伝」は地下家の三上景文が天保13年(1842)から15年にかけて編纂したもののようで、正宗氏はその写本かと思われる森繁夫氏所蔵本を底本にして、帝室博物館蔵本や帝国図書館本等と校合したものだという。これは昭和13年(1938)に刊行された。本刊本はそれを影印したもの。


慈性日記 慈性日記 林観照校訂 続群書類従完成会 2000―01年


慈性の日記の抄出本。記載の範囲は慶長19年(1614)から寛永20年(1643)。本刊本巻末の解題によると、本史料は「原本慈性日記」を慈性自身が慶安2年(1649)以降に抄出したものであり、近江国彦根の荒神山神社に大正期まで所蔵されていたようだが、昭和8年(1933)時点では近江国多賀の安養寺の所蔵になっていたようである。本刊本はその安養寺所蔵本の翻刻。東京大学史料編纂所の謄写本もその写本らしい。ちなみに「原本慈性日記」の現存は確認されていない。また本刊本にはより多賀大社造営関連の記事に特化した「慈性日記抜書」も収録されている。こちらも慈性自身による抄出のようで、記載範囲は寛永元年(1624)から寛永18年(1641)まで。荒神山神社の所蔵で、本刊本はその翻刻。本刊本巻末の「慈性略年譜」は『慈性日記』と『華頂要略』から校訂者が作成したもの。


史籍集覧 史籍集覧 近藤瓶城編 近藤出版部 1902年


諸史籍を集めたもの。 近藤圭造編

史蹟名勝山形県 史蹟名勝天然紀年物調査報告 山形県編 山形県 1925年~


山形県内の史蹟・名勝・天然記念物についての調査報告論文集。その第1輯の序文によると、内務省より史蹟名勝天然紀年物保存法が発布されたことを受けて、山形県に調査機関が設置され、調査委員がそれぞれ報告論文を提出したという。第何輯まであるのか、その全容は不明。


下谷幡随院志 檀林下谷幡随院志




新知恩寺、のちの幡随院の寺誌。『浄土宗全書』21巻の解題によると、これは「浄土宗関東十八檀林志」の一部で、摂門察龍によって編纂された。他の檀林志と同じくおそらく文政4年(1821)の成立と思われる。


七戸郷土史稿 七戸郷土史稿




『青森県史』に引用されているが、書誌は不明。


芝辻文書 芝辻文書




堺鉄砲鍛冶の芝辻家伝来の文書。『堺市史』第6巻には寛永初年のものと思われる文書18通と「御番所え差出し候願書之覚」と題された文政3年(1820)作成の願書が収録されている。この願書には堺鉄砲鍛冶の由緒書が含まれる。


島根県史 島根県史 島根県学務部島根県史編纂掛 島根県 1921―30年


島根県域の神代から明治維新期までの歴史。


朱印船貿易史 朱印船貿易史 川島元治郎 内外出版 1921年


朱印船貿易史の研究書。貿易家の伝記も載せる。序文によると、本書は大正5年(1916)に大阪朝日新聞社より刊行された『徳川初期の海外貿易家』を増補したものだという。貿易家の伝記や略系図は各家の由緒書や過去帳等が主な典拠になっていると思われる。


宗派目子 出世大望之衆目子留書




五山十刹諸山禅寺の住持になる禅僧に幕府から与えられた公帖とその禅僧の履歴、推薦状等の控え。『京都金地院公文帳』巻末の解説によると、これは作成元である京都金地院に所蔵され、その収録範囲は元和5年(1619)9月から寛永7年(1630)1月までである。


相国寺小史 相国寺小史万年の翠 小畠文鼎 大本山相国寺事務所 1923年


相国寺の歴史。


清浄華院誌要 清浄華院誌要




清浄華院の寺誌。『浄土宗全書』21巻の解題によると、これは清浄華院によって宗祖大師700年遠忌記念に合わせて編纂、出版されたというから、法然の死後700年目の大正元年(1912)前後の成立と思われる。『浄土宗全書』に収録されたものは、それを大正2、3年に補訂したものだという。


浄土宗全書 浄土宗全書 浄土宗典刊行会編 浄土宗典刊行会 1928―34年


浄土宗の経典、寺誌、僧侶の伝記などを収録する。


浄土伝燈総系譜 浄土伝燈総系譜




浄土宗僧侶の師弟関係を図示した系図。各人の略伝も付す。『浄土宗全書』21巻の解題によると、本書の編著者はのちの知恩院50世霊誉鸞宿で、巻頭には享保12年(1727)の自序があるという。また、本書は元禄年中に京都綾小路大宮帰命院の懐山により編述された「浄統略讃」を基礎として増補し、さらに略伝を加えたものだと思われるという。


諸家伝 諸家伝 正宗敦夫編 自治日報社 1968年


公家の系譜。公卿(三位以上)の家が対象。後記を見るに、「諸家伝」は「公卿補任」を家別、人別にしたものであり、公卿の家等に写されて伝来したらしい。正宗氏は九条家本を底本として正親町家本等を用いて校合増補したといい、それは昭和14年(1939)から15年にかけて刊行された。本刊本はそれを影印したもの。


諸士系譜 諸士系譜




加賀藩士の系譜。『加越能文庫解説目録』上巻(金沢市立図書館編集発行、1975年)によると、天保3年(1832)の成立で、津田信成(幹斉)によって編纂されたという。それが『加賀藩史料』に引用されたものだと思われる。ちなみに、石川県金沢市の加越能文庫には、昭和23年(1948)に尊経閣文庫の一部が寄贈されたという。令和5年(2023)時点では、石川県立図書館のサイト「SHOSHO」にて公開されている。


諸門跡譜 諸門跡譜




諸門跡歴代の系統と略歴を示す。伝わっている写本は勧学院慶元による延宝7年(1679)のもののようだが、その奥書には永正11年(1514)のものもあるようで、元はそのころに成立し、その後延宝のころまで書き継がれたものかと思われる。


士林泝洄 名古屋叢書続編 士林泝洄 名古屋市教育委員会 名古屋市教育委員会 1966―68年


尾張藩士の系譜。序文を見るに、「士林泝洄」は幕府の「寛永諸家系図伝」編纂のころ、藩主徳川義直の命により編纂されたものが元々「士林泝洄」と名づけられた。それが増補され延享4年(1747)に成立したのが、現在に伝わる「士林泝洄」であるようだ。名古屋叢書続編として刊行されたものは、明治末に名古屋市史編纂室で作られた校合本を底本にして、尾張藩の書物倉であった蓬左文庫蔵の浄書本を参考に校訂されたものという。


塩飽嶋諸事覚 塩飽嶋諸事覚




讃岐国塩飽諸島の記録を集めたもの。『香川叢書』巻頭の解題によると、収録範囲は天正から文化頃まで。塩飽諸島牛島の極楽寺の所蔵で、無題のため『香川叢書』のほうで仮題が付けられた。


真義真言宗大観 真義真言宗大観 伊豆宥法編 真義真言宗大観刊行会 1921年


真義真言宗智山派・豊山派の宗旨や歴史、全国寺院の概略、特に智積院と長谷寺について詳しく載せる。凡例によると、各寺院の由緒沿革については、各寺院の記録や宗務所の台帳をもとにしてきじゅつしてあるという。


神宮典略 神宮典略 神宮司庁編 内外書籍 1932―34年


伊勢神宮の社や施設、神職、儀式、歴史等を記した総説的な著作。前編の序文や別冊の付録「薗田守良神主伝」によると、その原書は伊勢神主の薗田守良によって天保初年(1830)頃に編纂され、原本がどれなのかは不明だが、神宮文庫本や神宮司庁本等の写本が作られ、おおむね伊勢神宮の所蔵するところになったようだ。それらを底本に「大神宮叢書」第1編として刊行されたものが本書である。別冊の「二宮禰宜年表」は、その序文によると、底本に干支、祭主、宮司欄を設けた新編集版だという。そこに典拠も列挙しているが、それらは系譜類や補任記類によって追加したものなのだろうか。


政隣記 政隣記




加賀藩の編年体史書。『加越能文庫解説目録』上巻(金沢市立図書館編集発行、1975年)によると、その記述範囲は天文7年(1538)から文化11年(1814)まで。編者は加賀藩士津田政隣で宝暦6年(1756)に生まれ、大小将番頭歩頭、町奉行、大小将組、馬廻組、宗門奉行を歴任し、700石を知行、文化11年に死去したという。本書の成立も文化11年だろうか。同目録によると、前田家の尊経閣文庫には自筆の31冊本があったようで、それが『加賀藩史料』に引用されたものだと思われる。ちなみに、石川県金沢市の加越能文庫には、昭和23年(1948)に尊経閣文庫の一部が寄贈されたという。


禅宗辞典 禅宗辞典 山田孝道 光融館 1915年


禅宗の辞典。名前と何代目かのみだが、「禅宗各派本山住持歴代」を載せる。


浅草寺志 浅草寺志 松平(池田)定常編
1813―20年


浅草寺の寺誌。鳥取新田藩の隠居池田定常の編纂。


装剣金工史 日本装剣金工史 桑原羊次郎 荻原星文館 1941年


金工の系譜等を収録する研究書。使用史料は明示されていない。


宗国史 宗国史 上野市古文献刊行会 同朋舎出版 1979―81年


伊勢国津藩藤堂家の史書。藩主の実録や系譜、一族の系譜や家臣の分限帳、その他藩政や領国の史料を収録する。序文によると、一族の藤堂出雲高文が編集、藤堂高芬が校訂し、宝暦元年(1751)に成立した。上野市古文献刊行会本は、旧藩校崇広堂所蔵本32冊と藤堂出雲家所蔵の稿本(戦災で損失)をもとにして昭和16年(1941)に上野町教育委員会から刊行されたものと崇広堂本を底本に、旧刊本編者の村治円次郎氏の原稿、藤堂本家本(戦災で損失)を明治20年(1887)に一部筆写した東京大学史料編纂所本、散逸した藩学校本校有造館本を1巻所蔵する沖森直三郎氏蔵本等と照合したものだという。


大樹寺記録 大樹寺記録(宝永五年書上)




三河国大樹寺の立地や境内諸堂、宝物についてや歴代住職の伝記等を記す。幕府への書上として作成されたもののようで、宝永5年(1708)29世学誉通尖の記名がある。


大樹寺の歴史 大樹寺の歴史 新行紀一編著 浄土宗成道山松安院大樹寺 2010年


三河国大樹寺の歴史をまとめたもの。「大樹寺略史」と「史料篇」で構成される。あとがきによると、昭和58年(1983)に初版が発行され、平成9年(1997)に部分的補訂がなされ、平成18年(2006)に再び補訂が行なわれたという。


大徳寺世譜 大徳寺世譜 木全宗儀編 茶舗升屋 1919年


大徳寺歴代住職の系譜。編者のあとがきによれば、大徳寺の歴代住職のことを記した書物は「正燈世譜」、「龍寳山大徳寺世譜」、「紫巌譜略」等があり、編者は大徳寺に取材し「正燈世譜」等も閲覧したという。それらを踏まえて世に流布していた「紫巌譜略」を増補訂正したものが本書であるという。「紫巌譜略」は文政元年(1818)の序文がある書物で、長木恭重と村尾泰軌という人物により旧伝諸書をもと編纂されたというが、編者典拠ともに詳細は不明。なお、その序文には黒澤将順という人物の署名がある。


大日本地誌大系 大日本地誌大系




日本各地の地誌を収録したもので、大正3年(1914)から大正6年(1917)までは大日本地誌大系刊行会より14冊が刊行され、昭和4年(1929)からは雄山閣より刊行が続けられたらしい。


高田市史 高田市史 新潟県高田市教育会編 新潟県高田市教育会 1914年


新潟県旧高田市域の歴史。


滝山大善寺志 檀林滝山大善寺志




滝山大善寺の寺誌。『浄土宗全書』21巻の解題によると、これは「浄土宗関東十八檀林志」の一部で、摂門察龍によって編纂された。他の檀林志と同じくおそらく文政4年(1821)の成立と思われる。


澤庵宗彭 特別展江戸の名僧澤庵宗彭 品川区品川歴史館 品川区品川歴史館 1986年


沢庵和尚の生涯が紹介されている展示図録。凡例によると、これは品川歴史館にて1986年11月1日から30日まで開催された特別展「江戸の名僧 澤庵宗彭」の解説図録である。解説執筆は柘植信行、坂本道夫、和気正典の三氏。ここで主に参照した巻末の沢庵宗彭略年譜は、大仙院史編纂員伊藤克己氏の協力を得て作成されたという。


舘林善導寺志 檀林舘林善導寺志




館林善導寺の寺誌。『浄土宗全書』21巻の解題によると、これは「浄土宗関東十八檀林志」の一部で、摂門察龍によって編纂された。他の檀林志と同じくおそらく文政4年(1821)の成立と思われる。


伊達略系 伊達略系 作並清亮編 作並清亮 1894年


仙台藩主伊達家の系譜。編者が伊達家に伝来した文書等をもとに作成したものと思われる。「仙台文庫叢書」の第1輯とされている。


玉城朝薫家譜 玉城朝薫家譜・抜粋 島袋源一郎写
1927年


向姓家譜(辺土家)の抜粋。六世朝智から十世朝薫までの記録がある。琉球・沖縄関係貴重資料デジタルアーカイブの解説によると、本史料は昭和2年(1927)2月10日に島袋源一郎氏が那覇市在住の辺土名氏所蔵の家譜を筆写したもので、表紙にその旨が記録されている。その後、沖縄研究者の伊波普猷氏の所蔵するところとなり、伊波普猷文庫106点161冊(資料88点、刊本18点)の一つ(伊波普猷文庫IH025)として琉球大学附属図書館に昭和47年(1972)頃に寄贈され、令和2年(2020)8月3日から琉球・沖縄関係貴重資料デジタルアーカイブでインターネット公開されている。


断家譜 断家譜
続群書類従完成会 1968―69年


慶長から文化までに改易されたり断絶した大名・旗本等の系譜。序文によると編者は田畑吉正という人物であり、文化6年(1809)の成立。かねてより絶家の系譜を収集していた編者が近江国堅田藩主で若年寄の堀田正敦に伺いを立てて編纂の許可を得て林述斎に付き添うかたちで幕府に献上したものだという。詳細は不明だが、その史料としては先の絶家系譜のほかに「旧史」や寺院所蔵の「檀越之紀伝」を使用したという。編者自身も断っているように慶長以後の絶家を全て網羅している訳ではない。本刊本は内閣文庫所蔵の昌平坂学問所本を底本としている。


筑後善導寺志 筑後善導寺志




筑後国善導寺の寺誌。筑後善導寺の編纂によるもので、本寺誌中に今明治45年(1912)3月という表現があるので、その頃の成立だろう。『浄土宗全書』刊行より10年ほど先行しているので、独立して編纂されたものが、そのまま『浄土宗全書』に収録されたのだろうか。


知多郡史 知多郡史 愛知県知多郡役所編 愛知県知多郡役所 1923年


愛知県知多郡域の歴史。


千葉県誌 千葉県誌 千葉県編 多田屋書店 1919年


千葉県域の歴史。


中山世譜 蔡鐸本中山世譜 嘉手納宗徳訳注 沖縄史料館松涛書屋 1983年


琉球王国の王家尚氏歴代の系譜。天地開闢神話から始まり、六条判官源為義の八男鎮西八郎為朝の男子とされる初代舜天王(1187年即位)から尚益王の薨去した康熙51年(1712)までを記載。ただ、序文には康熙40年(1701)、附巻の序文には康熙46年(1707)とあるので、それ以降は書き継がれたものか。附巻は王位を継がなかった尚豊王の王子二人について記述する。本刊本上巻のあとがきによると、本史料は唐栄総理官(久米村の長)であった蔡鐸が、琉球王家最初の史書である「中山世鑑」を漢訳し、同時期にこれも蔡鐸が編纂した外交文書集「歴代宝案」や口伝等をもとに補訂したものだという。蔡鐸の子である蔡温等によって書き継がれたらしいものが伝来していたが、昭和47年(1972)に沖縄県立博物館所蔵の19冊本のうちの7冊が蔡鐸本だと確認されたという。本刊本はその7冊の原文と訳文を並記したもので、訳注松涛書屋沖縄史料叢書全30巻の第2巻上中下3冊として刊行された。


朝鮮史大系 朝鮮史大系 朝鮮史学会編 朝鮮史学会 1927年


朝鮮の通史。上世史・中世史・近世史・最近世史・年表の5冊で構成されるという。その序文によると、本書は朝鮮史学会が発行した朝鮮史講座の朝鮮一般史を改修して再販したものだという。


通航一覧 通航一覧
国書刊行会 1912―13年


江戸幕府の対外関係史。琉球・朝鮮等の国ごとに分けて、日本との通交の事例等について記述している。凡例によると、記載年代の範囲は、永禄9年(1566)の三河国片浜浦への安南船漂着から文政8年(1825)の異国船打払令まで。成立年は林大学頭韑の序文に記された嘉永6年(1853)か。引用箇所については、その引用文末に典拠(書名)を示す。国書刊行会本は原本を写本と校訂したものかと思われるが特に記述がない。こちらは大正元年(1912)から大正2年にかけて刊行された。


詰所系図 執次詰所御系譜




第88代後深草天皇から第122代孝明天皇までの天皇と皇子女の系譜と四親王家すなわち伏見宮、八条宮(京極宮・桂宮)、高松宮(有栖川宮)、閑院宮とその子女の系譜。『系図綜覧』の例言によると、原題には単に「御系譜」とあるだけのようだが、御所内執次詰所にて書き継がれたことからこう呼ばれるらしい。『系図綜覧』に収録されたものは、東京帝国大学史料編纂掛の前身修史館が明治12年(1879)6月に唐橋胤保蔵本を書写したものを底本にして、底本に足らない天保以後の記事を図書寮蔵本によって校合増補し、その部分を角括弧〔〕にて示したというもの。


出羽三山史 出羽三山史 阿部正己 山形県 1941年


出羽三山の歴史をまとめたもの。三山の記録等を主な史料として使用している。山形県の『史蹟名勝天然紀年物調査報告』に収録。


東京市史外編 東京市史外編 東京市役所編 東京市役所 1931年


東京市史の補助編として編纂され、第5巻には「徳川時代の金座」という題が付けられている。金座後藤家の系譜を載せており、それは後藤家の家譜や由緒書、後藤家の本氏である長井家の家譜などの史料によっているようだ。


徳川実紀 徳川実紀 黒板勝美編
1929―35年


徳川将軍家の編年史書。各将軍一代毎の初代家康「東照宮御実紀」から10代家治「浚明院殿御実紀」と、各将軍毎の言行等を収録した「附録」で構成される。新訂増補国史大系本の第一編に付された凡例によると、大学頭林述斎衡総裁の下に成島司直が撰述したもので、文化6年(1809)に起稿し嘉永2年(1849)に完成したという。また同凡例によると、本刊本は紅葉山文庫本(貴族院図書室所蔵本―将軍に献上された副本)を収録した旧輯続国史大系本を、内閣文庫本(浅草文庫本―将軍に献上された正本)と徳川公爵家本(修正を経た最後の稿本)によって校訂増補したものだという。3代家光の「大猷院殿御実紀」に限っていうと、その主な典拠史料は「日記」すなわち「江戸幕府日記」である。
国史大系刊行会・吉川弘文館・日用書房
徳川諸家系譜 徳川諸家系譜
続群書類従完成会 1970―84年


徳川宗家と庶家等の各系譜を収録する。


徳川幕府家譜 徳川幕府家譜




徳川宗家の系譜。『徳川諸家系譜』のものは内閣文庫蔵のものを底本としている。


読史備要 読史備要 東京帝国大学史料編纂所 内外書籍 1938年


日本史上の諸事、諸人物の系図、索引集。序文によると、史料編纂所で「大日本史料」、「大日本古文書」を編纂する過程において、従事者各々が作業を円滑に進めるために作成していたものをまとめて出版したものらしい。よって、典拠史料は膨大だが、五山住持歴代表に限っていえば、凡例によると、「扶桑五山記」「建仁寺住持籍」「南禅寺住持籍」「正燈世譜」「鎌倉五山記」「五山伝」「鹿苑僧録歴代記」等によるようだ。初版の発行は昭和8年(1933)で、昭和13年(1938)のものは新訂6版となっている。


中井配下の棟梁層 寛永~承応期における中井配下の棟梁層の形成 吉田純一
1984年1月


大工頭中井家の当主とその配下についての研究論文。『日本建築学会論文報告集』第335号(日本建築学会、1984年1月)に収録。中井家当主の経歴については、城戸久解題『中井家系譜』(私家版、1951年)という史料を用いているらしい。


長崎畧史 増補長崎畧史 金井俊行編 長崎市役所 1926年


長崎の歴史をまとめたもの。年表と町や制度等の沿革をそれぞれ記す。序文によると、明治19年(1886)から長崎区長を務めた金井氏が史料を収集し、明治20年(1887)に自身が刊行した『長崎年表』を増補するかたちで、明治30年(1897)に本書を完成させたという。その後未刊だったものが昭和元年(1926年)に長崎叢書の第3、4巻に上下巻として収録されるかたちで刊行された。


奈良県産業案内 奈良県産業案内 奈良県 奈良県 1914年


奈良県(大和国)の産業の沿革等を記載する。


南葵徳川家略譜 南葵徳川家略譜 三浦英太郎編 三浦英太郎 1920年


紀伊徳川家の系譜。端書によると、本書は徳川侯爵家の記録によって編纂されたという。三浦氏も旧紀州藩士であったとすれば、おそらく同じ旧紀州藩士に配られたもののようだ。


南光坊天海の研究 南光坊天海の研究 宇高良哲 青史出版 2012年


江戸幕府初期の宗教政策等の研究を専門とする宇高氏が発表した天海関係の論文を再構成してまとめたもの。その序文には、『仏教史学研究』第30巻第1号(1987年6月)、『天台学報』第3号(1992年10月)、『仏教文化の展開』(1994年)、『三浦古文化』55号(1994年12月)、『三康文化研究所所報』第37号(2002年3月)、『インド学諸思想とその周延』(2004年)、『天海・崇伝』(吉川弘文館、2004年)、『大乗仏教思想の研究』(山喜房仏書林、2005年)、『密教理趣の宇宙』(2007年)、『大正大学研究紀要』第93号(2008年3月)、同第94号(2009年3月)、『鴨台史学』第9号(2009年3月)に収録されたものが初出として列挙されている。天海の略歴は主に第1章に記載されているが、主な使用史料は「東叡開山慈眼大師伝記」(東源慧等、1650年)、「武州東叡開山慈眼大師伝」(諶泰、1659)、「東叡開山慈眼大師縁起」(胤海、1679)等で、『慈眼大師全集』上巻に収録されている。


日蓮宗高僧伝 日蓮宗高僧伝 菱沼哲之介編 江戸新報社 1912年


日蓮宗高僧の伝記と日蓮宗主要寺院歴代住職の伝記。その序文に見えるが、諸寺院の所蔵史料が主な典拠となっているらしい。


日記 江戸幕府日記 姫路酒井家本 藤井譲治監修 ゆまに書房 2003―04年


「江戸幕府日記」は江戸幕府の日誌。「御日記」や「右筆所日記」とも呼ばれる。小宮木代良氏の『江戸幕府の日記と儀礼史料』(吉川弘文館、2006年)第1章「『徳川実紀』引用「日記」の検討」(初出『日本歴史』486、1988年)、第2章「「江戸幕府右筆所日記」作成過程の検討」(初出は山本博文編『新しい近世史1 国家と秩序』所収「幕府記録と政治史像 右筆所日記を中心に」の一部、新人物往来社、1996年)によると、江戸城内各部局ごとあった情報の中から主に殿中儀礼に関するものが目付等の管理の下で集約され記録されたものが、この「江戸幕府日記」であるらしい。これは江戸城に保管され内閣文庫蔵となった。姫路酒井家本は江戸城に保管されていたころに写されたと推定され、姫路市立城郭研究室の所蔵となった。ゆまに書房刊のものはそれを影印したものである。正確に言えば、さらにそれを楷書に近いかたちで私自身が筆写したものを、ここでは使用している。


新田大光院志 檀林新田大光院志




新田大光院の寺誌。『浄土宗全書』21巻の解題によると、これは「浄土宗関東十八檀林志」の一部で、摂門察龍によって編纂された。他の檀林志と同じくおそらく文政4年(1821)の成立と思われる。


日本絵画名家詳伝 日本絵画名家詳伝 竹内義憲編著 春潮書院 1917年


諸絵師の伝記。古いものは寛平年間(889~898)に没したという巨勢派の開祖巨勢金岡から本書執筆当時の大正5年(1916)までの絵師、画家の伝記を流派別に記載している。その凡例によると、諸書の異同ある中から最も正確と思われるものによった旨が記されているが、具体的な書名は挙げられていない。詩人の大町桂月が寄せた序文では、著者の事が「楓橋画兄」と称されていることから、著者は楓橋と号した画家のようである。


能楽史話 能楽史話 野々村戒三 春秋社松柏館 1944年


能楽史の研究書で能楽諸家の系譜を収める。序文によると、この系譜は諸家に伝わる系譜、由緒書、過去帳、書上、「猿楽伝記」やその他の古文献をもとに、著者が諸家に不明点を照会しつつ作成したものだという。


能楽盛衰記 能楽盛衰記 池内信嘉 能楽会 1925年


能楽史の研究書。著者序文によると、雑誌「能楽」の編集過程で集められた諸資料をもとに著述されたという。


幕府祚胤伝 幕府祚胤伝




徳川将軍家とその妻妾や子女の系譜。増上寺の僧でもあった竹尾次春(覚斎・善筑)により文政11年(1828)に成立したらしい。それが国書刊行会により大正6年(1917)に刊行された『柳営婦女伝叢』に収録され、『徳川諸家系譜』のものはそれを底本として、神宮文庫所蔵本等により校註されたものだという。


橋本家系図 橋本家系図




橋本左内の系図。『幸若舞曲集』序説には、『橋本左内全集』所載のものを橋本左内の祖先である幸若家の宝永(1704―11)頃までの部分まで引用している。


蓮池伝記 蓮池伝記 中野紹太郎編 蓮池伝記編纂部 1922年


肥前国蓮池藩主歴代と藩内人物の伝記集。序文によると、本書は「蓮池日誌略」を中心史料として用いているらしい。


蜂須賀家記 蜂須賀家記 岡田鴨里編 東洋社 1876年


阿波国徳島藩主蜂須賀家歴代の年譜。初代正勝から明治初年の茂韶までで、後半部の「蜂須賀氏系表」には藩主の夫人、子女についても詳しく記す。凡例によると、徳島藩の儒者であった合田厚元が編纂した蜂須賀家の年譜類をもとに「寛永諸家系図伝」や「藩翰譜」、藩士の系譜や諸家の記録をもって補ったものが本書である。編纂者は淡路国洲本在住の士族ということなので、元徳島藩士だろうか。


久松系図 龍渓山久松寺洞雲禅院開基家系図




久松松平家の系図。『知多郡史』に収録されている。洞雲院文書か。


百万遍知恩寺誌要 百万遍知恩寺誌要




百万遍知恩寺の寺誌。『浄土宗全書』21巻の解題によると、同寺による編纂ということだが、成立年などは不明。明治末年までの記述があるので、大正初年あたりにかけての成立か。


広島市史 広島市史 広島市役所 広島市役所 1920―25年


広島市域の歴史。第4巻末の「編纂記事」によると、本編4巻と「社寺誌」「市史附図」の計6冊が大正9年(1920)~14年(1925)にかけて刊行されたという。


深川霊巌寺志 深川霊巌寺志




深川霊巌寺の寺誌。『浄土宗全書』21巻の解題によると、これは「浄土宗関東十八檀林志」の一部で、摂門察龍によって編纂された。他の檀林志と同じくおそらく文政4年(1821)の成立と思われる。


蕗原拾葉 蕗原拾葉 上伊那郡教育会編 鮎澤印刷所 1935―40年


信濃国の地誌。『箕輪町史』によると、これは中村元恒、元起父子により編纂されたもので、元恒の蒐集したものは弘化元年(1844)の成立、続編で元起の追加したものは不明だが、明治初年頃かと思われる。原本は高遠進徳館図書館の所蔵だという。本刊本はその一部を収録したもの。


触頭制度の研究 触頭制度の研究 宇高良哲 青史出版 2017年


江戸幕府初期の宗教政策等の研究を専門とする宇高氏による各宗派の触頭についての研究。触頭は寺社奉行と各寺院との間の命令下達、上申等の役目を担い、大名領国等の地域には限定されない本末制度とは別に領国内に限って各宗派を統制するために成立したという。天海の弟子たちについても記述がある。初出一覧によると、『大正大学研究紀要』第68輯(1983年3月)、同第78輯(1993年3月)、『埼玉地方史』第4号(1977年11月)、『歴史と文化』(青史出版、2016年)、『法然浄土教の総合的研究』(1984年)、『天台学報』第34号(1992年10月)収録の論文に新論文を追加したものが本書だという。


保科略系 保科略系




保科家の系譜。詳しい記述は天正あたりからで、明治初年までの記述がある。「蕗原拾葉」の続巻325に収録されているというので、編者中村元起の作成だろうか。


本所霊山寺志 檀林本所霊山寺志




霊山寺の寺誌。『浄土宗全書』21巻の解題によると、これは「浄土宗関東十八檀林志」の一部で、摂門察龍によって編纂された。他の檀林志と同じくおそらく文政4年(1821)の成立と思われる。


本多家譜 本多家譜




『加賀藩史稿』の本多政重、政長の項において「家譜」「系譜」と称されるもので、加賀藩家老本多氏の家譜と思われる。「本多氏由緒帳」等の本多氏系譜類の総称かもしれない。


本多氏由緒帳 本多氏由緒帳




加賀藩家老本多氏の由緒書。『加越能文庫解説目録』上巻(金沢市立図書館編集発行、1975年)によると、「本多家由緒帳七種」が前田家編輯方によって明治年間に手写しされたようだ。7種とは延宝3年(1675)、寛延2年(1749)、天明5年(1785)、寛政7年(1795)、寛政10年(1798)、文化9年(1812)、文政3年(1820)にそれぞれ本多家によって作成されたもののことで、それらが『加賀藩史料』に引用されたものだと思われる。ちなみに、石川県金沢市の加越能文庫には、昭和23年(1948)に尊経閣文庫の一部が寄贈されたという。


本朝皇胤紹運録 本朝皇胤紹運録




天皇家の系譜。後小松天皇の命により洞院満季が編纂し応永33年(1426)に成立したとされているものが基になっているようで、その後書き継がれたのか『群書系図部集』に収録されているものは昭和4年(1929)ころまでの記述がある。


前田家譜 前田家譜




加賀藩前田家の系譜と思われるが、詳細は不明。『加越能文庫解説目録』上巻(金沢市立図書館編集発行、1975年)によると、前田家の系譜・系図に分類されているものが40種類ほどあるようだ。また、続書に分類されているものも20種類ほどあり、これらを総称して「前田家譜」としているのかもしれない。


前田氏家譜 前田氏家譜




加賀藩前田家の家臣前田氏の系譜と思われる。『加越能文庫解説目録』上巻(金沢市立図書館編集発行、1975年)によると、40種類ほどの家臣前田家の系譜があり、これらを総称して「前田氏家譜」としているのかもしれない。ちなみに前田内蔵允知辰について『加賀藩史料』が引用する「前田氏家譜」とは、その父修理知好から始まる「前田修理家譜」のことだろうか。


松本城の歴史 松本城の歴史 松本市立博物館編 松本市立博物館 2013年


信濃国松本城の歴史を概説したもの。はじめ平成元年(1989)に刊行され、以降たびたび増補されているようだ。


三壷聞書 三壷聞書 山田四郎右衛門 石川県図書館協会 1931年


主に加賀藩初期の歴史を書き留めたもの。前田利常が死去した万治元年(1658)までが対象。本刊本の校訂者日置謙氏による解説によると、加賀藩の宰領足軽(藩の荷物を保護監督する役)であったという山田四郎右衛門により編纂されたと伝わる。編者は慶長17年(1612)頃に生まれ、元禄10年(1697)頃に死去したと考えられるようだ。その死去直後にはすでに本書は流布しはじめ、宝永7年(1710)には編者の自筆本と考えられるものがその親族、上司を経て藩主前田綱紀に召し上げられたらしい。原書は14巻で、前田家の尊経閣文庫に伝わったものは、その第6巻を分冊して15冊にしたものに追加1冊と「信連記」という1冊を加えた17冊であるという。14巻本も数種類流布しているようだが、それよりも多く流布したのが後年になって整理された22巻本であり、これにも異本があるらしい。本刊本は校訂者日置氏の所蔵本である22巻本を底本として、石川県庁所蔵本等と校合したものだという。


水戸学徒列伝 水戸学徒列伝水戸学入門 高須芳次郎 誠文堂新光社 1941年


水戸学の概説書。


水戸様御続帳 水戸様御続帳




水戸徳川家の系譜と思われるが、『徳川諸家系譜』では底本とされた徳川林政史研究所蔵の「紀州水戸御系譜写」に欠く徳川頼房、光圀の記事を補う参考資料という扱いのためか、詳細は不明。ただこれも徳川林政史研究所蔵本だという。


妙心寺図録 妙心寺 東京国立博物館編 読売新聞社 2009年


展覧会図録。単伝や東源に関しては特に竹貫元勝氏の概論「妙心寺」(16~25頁)を参照。 京都国立博物館編




読売新聞社編

結城弘経寺志 檀林結城弘経寺志




結城弘経寺の寺誌。『浄土宗全書』21巻の解題によると、これは「浄土宗関東十八檀林志」の一部で、摂門察龍によって編纂された。他の檀林志と同じくおそらく文政4年(1821)の成立と思われる。


横山家譜 横山家譜




加賀藩家老横山氏の由緒書。『加越能文庫解説目録』上巻(金沢市立図書館編集発行、1975年)によると、古くは享保年中(1716―36)に高沢篤信によって編纂された「横山家譜并補註」があり、次いで天明5年(1785)に横山大膳隆従によって編纂された「横山家譜」、文政6年(1823)に横山求馬隆章によって編纂された「横山家譜」があるという。これらが『加賀藩史料』に引用されたものだと思われる。ちなみに、石川県金沢市の加越能文庫には、昭和23年(1948)に尊経閣文庫の一部が寄贈されたという。


柳営婦女伝系 柳営婦女伝系




妻妾や乳母等、徳川将軍家と所縁のある女性の系譜・伝記。著者は不明だが、享保18年(1733)ころまでの記述がある。『徳川諸家系譜』のものは内閣文庫蔵のものを底本としている。


琉球国使節渡来 琉球国使節渡来の研究 横山學 吉川弘文館 1987年


江戸幕府へ送られた琉球王国使節の歴史についての研究書。巻末に資料篇第三「琉球国使節使者名簿」を載せる。この名簿には使者、随員等の種別、官職名、姓名(唐名、和名)が記されており、「通航一覧」や「各年度毎のいわゆる「来朝記」類」というものを基に作成され、姓名については諸家譜類を参考としたという。


陵墓要覧 陵墓要覧 諸陵寮編 諸陵寮 1934年


皇族陵墓の所在や崩御薨去の年月日等をまとめたもの。序文によると、諸陵墓を管理する諸陵寮がその執務の便宜のため大正4年(1915)に刊行したものを増補改訂したという。


霊巌上人略伝 霊巌上人略伝




霊巌の伝記。著者、成立年ともに不明。


鹿苑院公文帳 鹿苑院公文帳 今泉淑夫校訂 続群書類従完成会 1996年


五山十刹諸山の歴代住持の名前や就任日等を記した「五山位次簿」「十刹位次簿」「諸山位次簿」を収録した史料集。これらは僧録をつとめた相国寺鹿苑院で作成されたと思われ、本書解説によると、相国寺慈照院の所蔵。慶長末年頃までの記載がある。史料自体の記載がかなり淡白なためか、解説において入寺や示寂の年月日を関係諸史料から補っている。


驢山住籍 驢山住籍




瞎驢山以酊庵に輪番した歴代住職を列挙する。寛文11年(1671)の18世江岳元策による序文があるので、その頃の成立かと思われるが、その後書き継がれたようで、年代は不明だがおそらく延享(1744―48)前後かと推測される48世までの記載がある。「通航一覧」は本書そのものを引用した訳ではなく、「日韓提要」という書籍を引用した箇所に本書の引用が見られる。「日韓提要」については不明。


若狭郡県志 若狭郡県志




『大日本地誌大系』第13冊の序文によると、本書は正徳4年(1714)小浜の人吉田言倫の著という。