松平右近大夫が二人?
寛永8年1月2日の記事
徳川御三家はじめとする大名たちが、大御所徳川秀忠に年始の御礼をするため登城している。
秀忠と御三家が対面して盃をかわし、その次のグループに「四品 松平右近大夫」が出てくる。
『寛政譜』によると、これは池田輝興のこと。ただ、「四品」つまり従四位下に叙せられるのは、寛永11年7月16日のこととしている。
『寛政譜』も全てが正しい訳ではないので、実はこの時点で、池田輝興は従四位下だったのかもしれない。
が、このあと他の大名や旗本の拝謁が終わってから、「在国御家門名代御礼」として数名の名前が記されている。
つまり、この日は自分の領地にいて登城できないから、代理の者に秀忠への年始の挨拶をさせている人々ということになるのだが、ここにも「松平右近大夫」の名前がある。
ここで仮説を立てると、
仮説1、松平右近大夫が二人いる
ややこしい話だが、同じ通称(呼び名)の人間が同時代に存在することは確かにある。
例えば、この時期には松平肥前守は前田利常かもしれないし鍋嶋忠直かもしれない。松平土佐守は山内忠義かもしれないし越前松平家の松平直良かもしれない。というように、「松平右近大夫」が二人いる可能性も考えられなくはない。
しかし、『寛政譜』を見た限りでは、この時期に「松平右近大夫」と呼ばれている人物は、池田輝興以外に見当たらない。
仮説2、「江戸幕府日記」の書き間違い
この二人の「松平右近大夫」、どちらかは本当に池田輝興で、どちらかは似た通称をもつ別の人物ではないか。
またまた『寛政譜』を引くと、この時期には松平右京大夫と呼ばれる人物が存在していたようだ。
松平右京大夫は池田政綱のことで、池田輝興の兄である。しかも、寛永3年8月19日に従四位下に叙せられている。つまり「四品」だ。
すると、先に記されたほうの、実際に秀忠に拝謁したほうの「松平右近大夫」は松平右京大夫の間違いで、本当は池田政綱のことだったのではないか。
これだけなら、仮設2が正しいように思える。
ただ、半月後の1月17日の記事の中で、秀忠の東照社(紅葉山?)への参詣に従っている人物たちの名前の中に、仮設2が正しいなら在国しているはずの「松平右近大夫」の名前がある。
これも松平右京大夫の間違いなのか? だとすると、間違えすぎではないのか?
謎は深まるばかりである。
ちなみに、池田政綱と輝興はともに徳川家康の娘である督姫(良正院)を母に持ち、家康の息子である秀忠にとっては両名とも甥にあたるため、「御家門」という扱いになっているのだろう。
(以上、2020年6月6日記)
松平左近将監、将監、右近将監
まず、寛永8年1月2日の記事
大御所徳川秀忠への年始の拝謁をしている人物の中に、「松平左近将監」の名前がある。
『寛政譜』を引くと、この時期に「松平左近将監」と呼ばれている人物は見当たらず、松平右近将監の間違いではないかと思われる。松平右近将監ならば、これは大給松平の松平成重である。
しかし、約20日後の1月25日の記事
「松平将監就参勤 御目見」
この「松平将監」も松平右近将監つまり松平成重のことだとすると、果たして1月2日に江戸にいたのかどうか。
松平成重の領地は丹波国亀山城だという。行って帰ってくることは不可能ではないのかもしれないが、それを「参勤」と呼ぶだろうか。
もしかすると、「松平左近将監」と「松平将監」は別人なのか。
不可解ではあるのだが、とりあえずのところ、「松平左近将監」も「松平将監」も、松平右近将監つまり松平成重と考えておくしかない。
(以上、2020年6月6日記)