藤堂高次の母は徳川一門か?
寛永9年7月29日の記事
「御鷹之雲雀被下之衆」として
「松平筑前守」⇒『寛政譜』を引くと(以下同じ、ところどころ『徳川諸家系譜』も参照している)、これは前田光高のこと。徳川秀忠の娘珠姫(天徳院)を母に持つため、秀忠の息子である徳川家光にとっては甥にあたる。
「松平淡路守」⇒これは前田利次のこと。光高の弟で、母も同じ。
「宮松丸」⇒これは前田利治のこと。利次の弟で、母も同じ。
「松平肥前守息女両人」⇒「松平肥前守」とは前田利常のことで、つまり上の前田光高・利次・利治兄弟の妹たちのことを指している。光高には同母の姉が二人いるようだが、長女は寛永3年に森右近大夫忠広に嫁いでおり、次女は早世したかと思われるので、同母の三女と四女がこれにあたるのだろう。三女はのちに松平安芸守浅野光晟に嫁ぎ、四女はのちに八条宮智忠親王に嫁ぐことになる。
「越前屋敷」⇒ここも謎があるところではあるのだが、このころ越前宰相と呼ばれた越前松平家の松平忠昌の母か妻かと思われ、妻だとすると浅野紀伊守幸長の娘、もしくは継室である広橋大納言兼賢の娘かと思われるが、徳川家光との関係がよく分からない。母だとすれば、越前松平家臣中川出雲守の娘清涼院であり、徳川秀忠の兄秀康の側室で、その跡取りの生母という点で家光にとっては義理の伯母にあたるのだと考えられる。よって、この清涼院を指す可能性が高い。
「松平新太郎母儀」⇒松平新太郎池田光政の母は榊原式部大輔康政の娘だが、秀忠の養女となって池田家へ嫁いでいる。よって、家光にとっては義理の姉妹である。
「新太郎内儀」⇒同じく池田光政の妻。本多中務大輔忠刻と家光の姉である千姫(天樹院)との間の娘であり、家光にとっては姪にあたる。秀忠の養女となって池田光政に嫁いでいることから、家光の義理の妹でもあるということだろうか。
「松平阿波守母儀」⇒蜂須賀忠英の母。父親は小笠原兵部大輔秀政で、母親は家康の長男信康の長女である。家康の養女として蜂須賀阿波守至鎮に嫁いでいるので、家光にとっては義理の叔母にあたるのだろう。
「松平右衛門佐母儀」⇒黒田忠之の母。父親は保科弾正忠正直で、母親は久松佐渡守俊勝と家康の生母伝通院との間の娘多劫君。家康の養女として黒田筑前守長政に嫁いでいるので、家光にとっては義理の叔母にあたる。
「松平長門守内儀」⇒毛利秀就の妻。秀忠の兄秀康の次女で、秀忠の養女として秀就に嫁いだ。よって、家光にとっては実のいとこであり、義理の姉妹だ。
「細川越中守内儀」⇒細川忠利の妻。上の「松平阿波守母儀」の妹。秀忠の養女として忠利に嫁いだので、家光にとっては義理の姉妹だ。
「松平越前守内儀」⇒伊達忠宗の妻。父親は松平三左衛門池田輝政で、母親は家康の娘督姫といわれている。秀忠の養女として忠宗に嫁いでいるので、家光にとっては義理の姉妹である。
「堀尾山城内儀」⇒堀尾忠晴の妻。家康の外孫である奥平大膳大夫家昌の娘で、秀忠の養女として忠晴に嫁いだ。家光にとっては義理の姉妹。
「鍋嶋信濃守内儀」⇒鍋嶋勝茂の妻。血縁はよく分からないが、家康の養女として勝茂に嫁いでいるため、家光にとっては義理の叔母にあたる。
「松平土佐守内儀」⇒松平土佐守はこの時期二人いるが、この並びからして山内忠義の妻のことだろう。家康の異父弟である松平隠岐守定勝の次女であり、家康の養女として忠義に嫁いでいる。家光にとっては義理の叔母。ただ、寛永9年2月23日に亡くなっているらしい。こうなると、同じ松平土佐守である越前松平家の松平直良の妻という可能性も残るが、その本多飛騨守成重の娘は特に誰かの養女ということでもなく、また松平直良は秀忠の兄秀康の六男だが、三男直政、五男直基と並列して登場することが多いので(四男は早世)、やはりこちらの可能性は低い。
長くなったが、最後に記されているのが、「藤堂大学頭母儀」である。
藤堂大学頭は藤堂高次のことであり、父親は藤堂和泉守高虎、母親は長越前守連久の娘だという。
つまり、「藤堂大学頭母儀」はその長連久の娘ということになるのだが、徳川の血縁という線も、誰ぞの養女という線もないように見える。
この徳川一門というべき並びで、なぜ藤堂高次の母親が登場するのだろうか。謎である。
(以上、2020年6月7日記)
松平信綱屋敷の前住人、周斎
寛永9年8月12日の記事
まず全文を引用すると、
「周斎黄金五枚被下之是本屋敷松平伊豆守被遣為替町屋敷 仰付為引料被下之」
つまり、周斎の屋敷が松平信綱に与えられ、周斎は町屋敷へ移るように命じられたので、そのかわりとして黄金5枚が周斎に下されたということになるのだが、この「周斎」がどういった人物なのか分からない。
この屋敷地が松平信綱の上屋敷のことだと仮定すると、『古板江戸図集成』(中央公論美術出版、1958)に収録されている「武州豊嶋郡江戸庄図」(寛永9年ごろの江戸図として後年に出版されたもの)を見る限り、そこは当図上で「あら川口」と「きぢ橋」と記された二つの橋の間、おそらく現在の平川門と一ツ橋との間あたりの土地である。
この場所を、同書収録の「慶長十三年江戸図」(これも後年の作図とされる)で見てみると、
「松風助右エ門」(不明。幕府金庫の出納役である金奉行をつとめた松風家の人間か?)
一区画に「リウ菴」「御スキヤ房主衆」(リウ菴は不明だが、立安と呼ばれた医師の秦宗巴か? 数寄屋坊主は将軍の茶道具の管理などを行なった)
「中村杢右エ門」(中村之成か。詳細は不明だが子の之重がのちに摂津国多田銀山の代官を務めたというから、之成も代官だったか? ちなみに、之成の妻は佐治与九郎一成の娘であり、佐治一成といえば徳川家光の母お江(崇源院)のかつての婚約者とされている)
「坂倉伊賀御蔵」「青山播磨御蔵」(板倉伊賀守勝重と青山播磨守忠成がそれぞれ預かっていた蔵か?)
「中根七蔵」(中野七蔵重吉か? 詳細は不明だが代官か?)
「八十石菴」もしくは「松雪」(どちらも不明)
「八木」(不明)
「中山源三郎」(不明)
「吉野市之丞」(不明)
「大久保彦兵エ」(不明)
「包坂桔梗」(不明。桔梗は検校の誤りか?)
不明が多いが、慶長のころと寛永9年で居住者が変わっていないとも限らないし、絵図というもの自体なかなか解読が難しいし、信の置けないことも多い。
町屋敷へ移ることから、職人に分類できる人物かとも思われるが、結局のところ、周斎という人物は全く何者か分からない。
(以上、2020年6月29日記)
本多右馬助
寛永9年9月6日の記事
「本多右馬助御菓子 御目見畢」
とあるのだが、誰のことか分からない。
寛政譜によれば、徳川四天王として知られる本多中務大輔忠勝の5代以上前の祖先で、右馬允を名乗っている人物が数名いたようだが、寛永のころにおいて右馬助を名乗っていそうな人物は見当たらない。
「日記」でこの記事の前後には何が記されているかというと、この記事は黒書院での御目見に関する一連の記事の中の一つであることが明白だ。
まず、来る9月9日重陽の節句のために、徳川義直をはじめとする一門の面々が、使者をもって呉服を進上し、その使者たちが御前に召し出されている。
続いて、隼などの進上が2名。松平外記忠実と小林彦五郎重定。松平忠実は寛政譜によるとこの当時は2000石の寄合であり、小林重定は同じく寛政譜によるとこの当時の職が不明だが、4年後の寛永13年に代官になったようであり、また寛永9年当時はその父十郎左衛門時喬が代官を務めていたようなので、その見習いであったのではないかと思われる。ちなみに、この2名に関しては「進上」のみであり、「御目見」の文言がないので、進上物だけ披露されたと考えられる。
そして次が、本多右馬助の記事。普通に読めば、御菓子を進上して御目見があったということになる。
その次が「御譜代衆数多 御目見畢」である。
本多右馬助はその「御譜代衆」の中でも特筆すべき人物であったから個人名が記されているのか、それとも「御譜代衆」ではなかったから個人名が記されているのだろうか。いや、おそらく黒書院という拝謁場所からして譜代の者ではあると思われるので、前者である可能性が高いが、そんな人物にもかかわらず、寛政譜には該当する人物が見当たらない。
ちなみに、右馬助ではなく左馬助の間違いの可能性もあるので、また寛政譜を引くと、該当しそうな人物は徳川家康晩年の謀臣ともいわれる本多佐渡守正信の孫である左馬助政長という人物がいる。加賀前田家に仕えたという。しかし、その父安房守政重は様々に主君を変えて正木と称したり直江と称したりしたようで、その四男である政長が本多を名乗っていたかどうかはよく分からない。
あとは、進上物である「御菓子」から辿る方法が考えられるが、今はその手段をもたない。
(以上、2020年8月8日記)
追記になるが、この人物は本多左馬助政長の可能性が高いのではないかと思われる。
何故かというと、この記事の約一月後、寛永9年10月5日の記事に、同じく黒書院での拝謁記事の中で、
「綿百把本多安房守進上之 御目見」
とあり、この本多安房守が先にも述べたように本多佐渡守正信の次男である本多政重のことだと思われるので、その四男でのちに政重の跡を継いで加賀前田家に仕えたという左馬助政長が御目見をしていてもおかしくはない。
以下も寛政譜によるが、安房守政重の長男は早くに亡くなり、次男政遂は慶長18年生まれで政重の弟大隅守忠純の養子となって寛永7年にはじめて家光に拝謁し、寛永9年に家を継いでいる(つまり譜代大名)。三男政朝は元和6年の生まれでのちに兄政遂の家が絶えたことにより5000石の寄合となって名跡を継いだ。初御目見は寛永19年とのこと。
そして、四男とされているのが問題の左馬助政長だ。本当に三男政朝の弟だとすれば、寛永9年当時はかなり若く、大きく見積もっても12歳ほど。これが初御目見だったということだろうか。そうすると、三男政朝より10年も早く初御目見したことになる。この三男と四男の順序は正確なのか疑問だ。
それと、陪臣の場合、普通は「〇〇家臣本多安房守」(他に〇〇家老、〇〇陪臣、〇〇内)などと記されるはずなのだが、ここでは単に「本多右馬助」や「本多安房守」であり、さも直参のようである。元々が直参の家柄だったからなのか。ここも疑問が残る点である。
(以上、2020年8月21日追記)
道入、宗悦と掃除坊主
寛永9年10月3日の記事
作事奉行の任命や加増の記事に続いて、
「道入宗悦五人扶持ツゝ被下之并掃除之坊主十人ツゝ被 仰付右於萩之間御年寄中被申渡畢」
とある。
「ツゝ」という表現から、道入と宗悦それぞれに5人扶持ずつの俸禄を与え、掃除坊主を10人ずつを預けたということになるが、この道入と宗悦が特定できない。
坊主衆を指揮し、おそらく江戸城内の掃除を担当したことから、同朋の類いかと思われるものの、「寛政譜」には記載がない。
何か他に史料があるだろうか。
(以上、2020年12月19日記)
不動院、大学院
寛永9年10月28日の記事
月次の諸大名拝謁に続く、白書院での拝謁記事、
「御白書院 出御諸大名御礼如毎月不動院大覚寺御門跡使僧 御目見御菓子進上之大学院江州佐々木神主杉原壱束ツゝにて御目見住吉神主杉原一束太刀目録」
とある。
まず、不動院。これまでの「〇〇院」などの院家同様、特定できずにいたが、たまたま近江国(滋賀県)の多賀大社の別当が不動院であることを知った。
彦根城博物館の展覧会図録『お多賀さまへは月まいり』の中にある多賀大社藤村滋氏による「多賀信仰」という記事からは、寛永9年当時の不動院が慈性という人物であることが分かる。
慈性は、日野大納言資勝の次男で、慶長12年(1607)頃から京都尊勝院と多賀大社別当不動院を兼ねたという。
大覚寺御門跡は、尊性法親王のこと。寛永9年7月末、他の門跡、公家衆とともに江戸に下向し、所労のため他の門跡、公家衆に遅れて8月末に将軍に拝謁して暇をもらっている。
その使僧が慈性と同時かその次に御目見している理由はよく分からないが、尊性法親王の母が日野資勝とは兄弟姉妹であり、慈性とはいとこの関係にあたることが関係しているだろうか。
次の大学院。これが特定できない。
江州佐々木神主が安土にある沙沙貴神社の神主で、住吉神主が摂津国(大阪府)の住吉大社の神主だとすると、大学院も関西あたりの神社の別当ではないかと思われるが、どうだろうか。
(以上、2020年12月19日記)
追記。「不動院」は慈性ではなかった。
慈性による日記の抜き書きである『慈性日記』を見ると、慈性は寛永9年5月までは江戸にいたようだが、5月中には京都に帰り、10月28日の記事はないが、10月は上方にいる模様。
結局、ここの「不動院」はどこの不動院なのか不明だ。江戸崎(天海かその後継)なのか高野山なのか。
(以上、2021年1月20日追記)
五嶋弥三郎
寛永9年10月28日の記事
黒書院での参勤拝謁の記事と思われるもので、
「一柳監物太刀目録小袖五同丹後守太刀目録小袖三同蔵人太刀目録小袖二献之五嶋淡路守繻子十巻太刀目録同弥三郎繻珎二巻太刀目録進上之」
とある。
一柳監物直盛は伊勢国神戸城5万石の大名で、丹後守直重、蔵人直頼はその長男と三男である。
五嶋淡路守盛利は肥前国五嶋福江1万5500石の大名。そして弥三郎なのだが、この人物、「寛政譜」に記載がない。
「寛政譜」で盛利の長男とされているのは孫平太、孫次郎を称した盛次で、元和4年(1618)福江に生まれ、寛永19年(1642)閏9月1日に父盛利の遺領を相続し、10月1日にはじめて家光に拝謁、この日はじめて領地に行く暇をもらったという。
先の一柳家と同じだとすると、五嶋家も当主とその子息が拝謁しているものだと考えられるのだが、考えられる可能性は今のところ三つ。
一つは、子息ではなく同族の家臣というもの。
二つめは、盛利には盛次の前に男子がいたというもの。盛利は天正19年(1591)生まれとされていて、盛次が生まれた元和4年(1618)時点で28歳なので、それ以前に子供があってもおかしくはない。そして、寛永9年10月28日以後に早世したため、系図から漏れてしまったとも考えられる。
三つめは、盛次の通称が孫平太、孫次郎のほかに弥三郎もあったというもの。すると、盛次の初見日とされる寛永19年10月1日以前の寛永9年10月28日には初見ですらなく拝謁していることになる。ということは、寛永19年の初見は遺領相続後はじめての拝謁と読むべきか。はじめて領地に行くという表現も、盛次が福江で生まれているとなると、相続後はじめてという意味になる。
この場合、「弥三郎」が「孫三郎」もしくは「孫二郎」の読み間違いではないかという疑惑も生じてくる。たしかにくずし字だと似ていそうな・・・
(以上、2020年12月19日記)