寛永11年分の不明点

給仕役の民部

 

寛永11年1月2日の記事

同日夜、謡初の役人が記されている中で、

「御本酌 豊後守

御加  民部少輔」

とある。

 

「豊後守」は阿部忠秋でまず間違いないとして、民部少輔はどの民部少輔なのか。可能性としては、

・朽木民部少輔稙綱(書院番頭)

・土屋民部少輔利直(上総国久留里城主・近習)

・加々爪民部少輔忠澄(町奉行)

この三人が該当しそうである。

 

謡初の記事を読み進めていくと、二献目のところで、

「御銚子替土屋民部少輔岡田左近取之其盃中座ニ置御通成」

という記事が出てくる。

ということは、前の「民部少輔」も土屋利直のことだったのだろうか。

 

もう少し読み進めて、三献目の記事、少し長くなるが、

「御銚子出 御酌御加豊後守民部少輔 尾張亜相進上之台ニて御前え上其御盃尾張亜相於中座頂戴其(御)盃取上於中座御酌替土屋民部少水野出雲守仰走二銚子成御通被下」(カッコ内の「御」は見せ消ちになっている。また、最後のほうの「仰走」は意味がとれないので誤読かもしれない)

というように、「豊後守」と対になっている「民部少輔」と、「水野出雲守」と対になっている「土屋民部少」が見てとれる。果たして、これはどちらも土屋利直なのだろうか。

 

しかし、これ以前の盃の記事では、「朽木民部少輔」が登場する回数のほうが圧倒的に多い。

直前の12月27日の勅使、院使との盃でも、給仕役で名前が出てくるのは「朽木民部少輔」で、前年寛永10年の謡初の給仕役は名前が記されていないが、寛永10年元日の給仕役にも「朽木民部少輔」の名前が見える。(ちなみに、寛永11年元日には「民部」と記されるのみ)

 

つまり、単に「民部」とか「民部少輔」となっているときは朽木稙綱を指している可能性が高い。

給仕を務め得る民部少輔が二人もいるのは紛らわしいが、前後の記事から類推するしかない。

(2021年7月28日記)

 

 

藤宰相

 

寛永11年1月24日の記事

「台徳院様就御三廻忌増上寺へ卯刻 御成於奥方丈御束帯藤宰相并今川主膳正役之」

とある。

「藤宰相」とはなかなかこの日記で目にしない表現である。藤原氏の参議である人物ということなのだろうが、「公卿補任」を見る限りでも、該当者は6名。高位なほうから、

・高倉永慶

・水無瀬兼俊

・園基音

・勧修寺経広

・姉小路公景

・坊城俊完

となっている。

 

「日記」を見る限りでは、この時点では、高倉、園、勧修寺の三名が江戸にいるようだが、『徳川実紀』ではこの「藤宰相」を高倉永慶と読んでいる。

藤原氏のなかで一番高位の参議を藤宰相と呼ぶものなのだろうか。

(2021年7月28日記)

 

追記。寛永13年5月6日の記事にも、「藤中納言」が登場する。加えて「藤右衛門佐」も。

「藤中納言」は寛永11年6月26日に宰相(参議)から権中納言になった高倉永慶で、「藤右衛門佐」はその息子高倉永敦であるようだ。

「藤」は高倉家の別号なのだろうか。

ちなみに、寛永13年5月8日の記事には、「平少納言」というのも見える。

これは西洞院時良のことだと思われる。

(2022年5月12日記)

 

 

渡辺一学

 

寛永11年4月28日の記事。

紀伊亜相徳川頼宣に帰国の暇が出され、振舞の宴が催された。頼宣とは別の間で、その家老たちにも振舞があったのだが、その中に「渡辺一学」の名前がある。

この「渡辺一学」は、尾張藩士の系譜集である「士林泝洄」によると、渡辺直綱のことだと思われるが、尾張亜相徳川義直の家臣のはずである。

渡辺直綱は紀伊家にも尾張家にも仕えたのか、時期が異なるのか、それとも両属なのか。

ただ、紀伊藩士の系譜を見ることができていないので、尾張藩の渡辺一学と紀伊藩の渡辺一学が別人である可能性もないとは言えない。

(2021年7月28日記)

 

 

祢蔵人

 

寛永11年7月21日の記事。

上洛中の徳川家光。3日前の18日に参内をして、この日は二条城において「摂家門跡衆公卿殿上人并国持之面々」への振舞の宴が催された。

その中の「殿上人七十三人」(「内廿五人不参」とのこと)の名前が列挙されている末尾の部分、

「土御門極﨟竹内差次蔵人祢蔵人新蔵人」

とある。

 

和田英松氏の『官職要解』蔵人所の項に六位の蔵人についての解説があるが、これは日下﨟とも称され、定員は4人あるいは5人で、年齢ではなく就職順に席次が定められたそうで、第一﨟を「極﨟」、第二﨟を「差次」、第三﨟を「氏蔵人」(藤原氏なら藤蔵人とか)、第四﨟を「新蔵人」と呼んだらしい。そこで『諸家伝』等を紐解くと、

「土御門極﨟」は土御門泰広

「竹内差次蔵人」は竹内俊治

に特定できる。

 

問題は「祢蔵人」と「新蔵人」である。

一人は『地下家伝』等を紐解くと、壬生紀学だということが分かる。

壬生紀学は寛永8年11月6日に正六位上に叙され、寛永10年12月8日に左近衛将監と蔵人に任じられた、いわゆる六位の蔵人である。

寛永11年7月から見ると、新任の六位の蔵人のように思えるので「新蔵人」のほうが壬生紀学かとも思えるが、『官職要解』太政官の項の左右大史についての解説を見ると、壬生家はその姓(宿祢)から「祢家」(でいけ)とも呼ばれたようであり、「祢蔵人」のほうこそが壬生紀学ではないかと考えられるのだ。

 

ただ、そうなると「新蔵人」が特定できない。「祢蔵人」が「源蔵人」の読み間違えかとも考えたが、そうすると源氏で六位の蔵人という人物が特定できない。

だから、やはりここは「祢蔵人」壬生紀学と、寛永11年に蔵人に任じられた「新蔵人」が存在したものと考えたい。

(2021年7月29日記)

 

 

王城、佐鋪、金武

 

寛永11年閏7月9日の記事

琉球王国の使節の拝謁記事で、

「琉球中山王并佐鋪王城金武御礼」「中山王所労付為名代息佐鋪参候」

とある。

このころの中山王は尚豊王であり、「中山世譜」によると、琉球王への即位自体は天啓元年(元和7年)ということだが、崇禎6年(寛永10年)に明国皇帝から中山王に封じられたという。

「佐鋪」はその息子ということなので、「中山世譜」から尚文と特定できる。尚文は尚豊王の第二王子で天啓元年(元和7年)に佐敷と中城を兼領して以降、佐敷王子朝益と称したようである。

「金武」は「中山世譜」でのこの日の使節派遣記事から分かるように「尚氏金武王子朝貞」と呼ばれる人物の事で、眞境名安興氏の『沖縄一千年史』付録「歴代摂政一覧」(典拠は「中山王府相卿伝職年譜」)を見ると、これは尚久王の第五王子である尚盛のことであり、尚久王の第四王子である尚豊王の弟であることが分かる。

 

さて、問題は「王城」である。

私の読み間違いか幕府の書き間違いか判然としないが、これはおそらく玉城のことだと思われる。

「中山世譜」のこの日の使節派遣記事には、前述の佐敷王子と金武王子しか記されていない。

横山學氏の『琉球国使節渡来の研究』に資料編として「琉球国使節使者名簿」があるが、そこには従者として「玉城按司、尚氏・朝秀(1619-53)と記されており、尚氏の王族で朝秀という和名を持つ人物がこの「王城」つまり玉城であるという可能性が出てくる。

尚氏の朝秀は「中山世譜」にも登場するが、そこでは「尚氏北谷王子朝秀」という表記のみである。しかし、順治10年(承応2年・1653年)に薩摩国へ使者として派遣されたおりに「病故」したと記されているので、その没年を見れば、横山氏の名簿にいう尚氏朝秀と同一人物である可能性は高い。

 

ただ、「中山世譜」にはこんな記事も見られる。

崇禎元年(寛永5年)に薩摩へ派遣された使者として「向氏玉城親方朝智」という人物が見えるのだ。

琉球大学附属図書館のサイトで公開されている「玉城朝薫家譜・抜粋」という史料を見ると、玉城朝智という人物は王族の傍流に生まれ、元和8年10月15日に玉城間切の惣地頭職になり、年代表記に混乱があるので特定はできないが、その後玉城親方となったという。(没後4年後の崇禎17年(正保元年)に玉城親方になったと表記)

「中山世譜」の記事からすると、寛永5年までには玉城親方と呼ばれていたようなので、玉城朝智もこの「王城」つまり玉城である可能性が出てくる。

 

横山氏の名簿の典拠は家譜資料だということで、その家譜資料を見ることができていないので何とも分からないが、玉城按司と玉城親方は並立するものなのだろうか。

木土博成氏の「琉球使節の成立-幕・薩・琉関係史の視座から-」(『史林』99巻4号、2016年7月)で使用されている『鹿児島県史料 旧記雑録』に収められた老中奉書によると、この使節は「国主」の「子息」と「舎弟」ということなので、この「舎弟」が金武王子朝貞一人を指すものではないとすれば、北谷王子朝秀ももしかすると尚豊王の弟で、玉城王子もしくは按司を名乗っていた頃があったということだろうか。

それ以前に玉城王子を名乗っていた可能性があるのは、「中山世譜」によると、尚豊王の第一王子である尚恭である。万暦46年(元和4年)1月15日に玉城を領してから万暦48年(元和6年)12月10日に浦添に転領するまで、尚恭が玉城王子と称した可能性がある。

その2年後の元和8年に玉城間切の惣地頭職になったという玉城朝智だが、その親は中城親方朝芳ということなので、親の跡を継いだという訳ではなく、尚恭の転領後に玉城の惣地頭職になったようにも思える。

一方の「尚氏北谷王子朝秀」の名前の初出は「中山世譜」の中では寛永15年のことなので、それ以前は玉城王子と名乗っていた可能性も残る。

 

北谷朝秀か玉城朝智か、まだ特定はできない。

(2021年7月29日記)