寛永12年分の不明点

小笠原孫右衛門

 

寛永12年12月28日の記事。

黒書院や白書院にて月次や年末の御礼(御目見)がされた直後の記事で、この一条は長いので割愛するが、その内容を要約すると、再度黒書院に家光が出御し、大名たちの病後の御目見と参勤の御礼があって、譜代大名や旗本の子どもたちの初ての御目見がされた。それに続いて、

「其後岡田将監知久伊左衛門尉小笠原孫右衛門座光寺喜兵衛参府御目見也」

とあって、この一条が終わっている。

 

「寛政譜」からこの4人を探ると以下の通り。

まず、「岡田将監」は岡田義政のことで、美濃国大野郡のうち5080石の領主で、美濃国の奉行、近江・伊勢・筑後国の郡代、伊勢国山田奉行を兼ねる人物だ。

次に、「知久伊左衛門尉」は知久則直のことで、信濃国伊奈郡知久3000石の領主で、信濃国の浪合・小野川・帯川・心川4ヶ所の関所を守る役目を負っていた人物。

「座光寺喜兵衛」は座光寺為真のことで、このころは信濃国伊奈郡山吹村1410石の領主座光寺勘左衛門為重の長男という立場であった。

 

さて、「小笠原孫右衛門」だが、「寛政譜」ではこの時代にこの通称を用いている人物はいないことになっている。

ただ、「孫右衛門」と名乗ることになる人物に小笠原長朝がいる。小笠原長朝は寛永19年(1642)に生まれた知久伊左衛門直政の次男で、前出の知久則直の孫。のちに叔母(則直の娘)が嫁いだ小笠原靫負長泰の養子となる。

そこで、この小笠原長泰だが、もしかすると寛永12年当時の「小笠原孫右衛門」は長泰のことかもしれない。

小笠原長泰は、信濃国伊奈郡松尾庄伊豆木1000石の領主で、久松丸、靫負という二つの通称しか「寛政譜」には記載されていない。

 

ところで、長泰の父長臣の通称は、孫六、靫負で、致仕後に以鉄入道と号したというが、致仕する前、すなわち靫負と名乗っていた時代の慶長19年(1614)と元和元年(1615)両度の大坂の陣のときには、子の長泰とともに箱根の関所や河内国枚方の関所を守ったという。

長泰は文禄4年(1595)の生まれ。慶長19年当時で20歳である。幼名のような久松丸を名乗っていた可能性もゼロではないが、父と同じ靫負とは別の通称を用いていた可能性のほうが高いように思える。

 

とりあえず、寛永12年の「小笠原孫右衛門」は小笠原長泰のこととしておきたい。

(以上、2022年5月12日記)