寛永13年分の不明点

永井亭保、来本半四郎

 

寛永13年11月1日の記事。

 

黒書院での御三家はじめ一門の面々の御目見の記事の後、次の一条がある。

 

「御白書院出御諸大名御礼如例月次南之御板縁ニておらんた人捧進物御目見於同席永井亭保来本半四郎御礼申上是宇治中毎年定納之年貢今度半分依御赦免也云々」

 

この永井亭保と来本半四郎という人物だが、宇治の茶師のようだが、よく分からない。

来本のほうは「来」と崩し字が似ている「成」で成本かもしれない。

 

今後も調査が必要だ。

(2022年5月14日記)

 

 

嶋屋

 

寛永13年11月12日の記事。

将軍徳川家光の水戸徳川頼房屋敷への御成があり、茶の湯や三献があったのちに能が催されたが、以下はその演目とシテ(主演)が記された部分。

 

「難波 観世大夫

経政 金春大夫

千寿 七大夫

熊坂 七大夫

祝言 嶋屋」

 

 

観世大夫は観世重成、金春大夫は金春元信(寛永3年生まれということで少々幼いか?)、七大夫は喜多長能で、それぞれ能役者である。

ところが、「嶋屋」は分からない。

 

ちなみに、祝言は演目の名称ではなく、脇能と呼ばれる五番立ての能の一番目に上演される演目群の後半部分だけを上演することを意味しているので、おそらくこのときは難波の後半部分が上演されたのではないかと思われる。

「嶋屋」は能役者なのか、屋号のある商人なのか、水戸徳川家の関係者なのか、人ではなく演目なのか、はたまた「嶋屋」と崩し字が似ている何かとの読み間違いなのか?

(2022年5月14日記)